学びの栞 (B)

1. 心配・不安 ・恐怖・怒り
1-a (明日のことは思い煩うな)
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。
空の鳥を見るがよい。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていてくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上によくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイ伝6章25-34)
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1-b (心配や不安を抱いてはならない)
心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にも立たないエネルギーの浪費である。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。心配するのをやめれば、すぐにでも健康状態はよくなる。心配するのは、神とのつながりを理解していないからである。
そして、不安は、精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安とは増幅された心配である。心配、憎悪、不安はすべて、これらから生まれる気がかり、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などともに、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことはできない。病気はすべて、まず精神のなかで創られるものなのである。そしてまた、不安や恐怖は、似たエネルギーを引き寄せる。感情というのは、動いているエネルギーである。だから、不安に思っていると、その不安のエネルギーが別の不安のエネルギーを引きつけ、不安が増大するのである。
ウォルシュ『神との対話』(吉田利子訳)
サンマーク出版、1997、13章から。
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1-c[17-h] (怒り・貪欲・羨望などの破壊的感情は病気を作り出す)
怒り、貪欲、羨望といった外面的かつ破壊的な感情は、魂の深いところに根ざした病気とははっきりと異なった、もっと単純な病気を作り出すというのは、興味深い事実です。例えば、自己憐憫はよく腰の痛みや腎臓病の原因になります。自己憐憫はまた肝臓病の原因にもなります。ただし、肝臓病は激しい感情の暴発によっていつでも誘発されるものであり、その結果、血液に毒が送り込まれることになります。
恐れや心配といった感情は、長いあいだ続くと、同じような病気の原因となり、癌をもたらすことすらあります。一定数の癌の症例の原因を調べてみれば、深く根ざした恐怖感が緊張状態を誘発し、そのために、霊体がとざされ、その結果、霊のエネルギーの流れが停滞した結果であることがわかるでしょう。
外面的な感情(怒り、貪欲、羨望など)ははっきりと何かの病気を引き起こす可能性があると申しあげました。人間は、自分の内面的な心をコントロールできない限り、こうした有害な感情の手綱を操れはしないということを覚えておかなければなりません。ここで再び、健康に関するかぎり、心の内面的な調和が非常に大切であるという事実に話が戻ってきます。そして、人間の心の調和は霊的な自我が目覚めているかどうかにかかっているのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.263-264

2. 死 (あなたは死後も生き続ける)
2-a (死後のいのち)
昔のほうが、もっと人々は死の問題に事情が通じていて、天国や死後のいのちを信じていました。肉体が死んでしまった後にもいのちが存在することを本当に知る人がどんどん少なくなったのは、おそらくここ百年はど前からでしょう。でもいま、私たちは「新しい時代」にいます。おそらく私たちは、科学と技術と物質至上主義から、純粋で本物の霊的な時代へと移行したようです。これは、信仰という意味ではありません。霊性という意味です。霊性とは、私たち個人を越えたずっと大きな存在、この宇宙を創造し、いのちを創造した存在があるという気づきであり、自分がその存在のかけがえもなく大切で意義のある一部であって、そうした存在の発展に大きく貢献できる、という気づきです。
私たちはみな、いのちの源泉から、いや神から生まれたときに、神性という面を授かりました。それは、私たちが文字通りその源泉の一部を内に持っているという意味です。つまり、それが私たちに永遠なる英知を与えてくれるのです。多くの人が感じ始めているとは思いますが、自分の肉体は単に住居や神殿、あるいは私たちの言うマユに過ぎず、死という移行を迎えるまでの何カ月か何年かの間、住むところなのです。そこで、死にゆく子供たちやその兄弟たちに説明するときに使う象徴的な言葉を使って言うと、死が訪れるとき、私たちはマユから出て、チョウのようにもう一度自由になるのです。
エリザベス・キュブラー・ロス『死後の真実』
(伊藤ちぐさ訳)」日本教文社、 1996.pp.79-80
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2-b [23-f] (死んでも真のあなたは朽ち果てて灰と化すわけではない)
自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、いったい何が起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中に思考をしている存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もしあなたが死ぬと決めたのなら、真のあなたは、地中に埋められ、朽ち果てて灰と化すわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界であなたがいたところだ。そこであなたは、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、すべては冒険でしかないのだ。そしてあなたは、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけここ地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 82
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2-c (生命は決して終わることがないという偉大な真実を忘れるな)
・・・ひとつ偉大な真実を話しますから、これだけは絶対に忘れないようにしてください。生命はけっして終わることがありません。確かに身体に危害をおよぼすことはできます。首を斬ることだろうが、内臓をえぐり出すことだろうが、どんなひどいことでも可能です。でも、その化身の内に生きる人格=自己は、絶対に滅ぼすことはできません。思考や感情をいったいどうやったら破壊できるか、ちょっと考えてみてください。思考を爆破できるのか、刃物で刺すのか、それともそれに戦いをしかけるとでもいうのでしょうか? それは不可能です。人間でも動物でも、ここに生息するすべての生き物の生命力は、身体という仮面の影に生きている人格=自己、つまり目に見えない思考と感情の集合体なのです。
死は大いなる幻影です。なぜなら、いちど創造されたものはけっして消滅させられないからです。死とは、肉体だけの死なのです。肉体の内に宿り、それを操る本質の部分は(もしそれが望むのなら)、すぐにこの場所に戻り、もうひとつ別の化身と統合されるのです。肉体の壁の内に生きる生命力は、生き続けていくからです。それを覚えておきなさい。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 86
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2-d (この地上界から去ると人は身体の本能や感覚から解放される)
さて、この地上を去った存在がどうなるかについてお話しましょう。身体がその機能を失うと、エネルギー、つまり魂は、この存在の精霊によって引き抜かれます。すべてのものには魂があります。動物もやはり魂と精神を持っているのです。もしそれがなければ、生命を維持していくのに必要なエネルギーと創造性を持つことがなくなってしまいます。
精霊が魂を呼び出し、それまで宿っていた空洞からそれをはずしてやると、すべては落ちつき、平穏が訪れます。皆の宗教に関係のある言葉がありますね。「見よ、神のゆりかごにおいては痛みすでになく、涙も悲しみもなし」それは真実です。というのは、この地上界から去ると、人は身体の本能や感覚から解放されるからです。つまり、もはや恐怖や身体の痛みなどは感じなくなるということです。飢えも、そして不安をつくり出す「時間」という幻もなくなります。肉体と関係のあるものはすべて消滅し、あなたはユートピアと呼ばれる場所に行きます。「神のゆりかご」にいるのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 86-87
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2-e (死の瞬間にあなたは物質の固体性から脱出し光の存在に戻る)
身体の死は、ちょうど眠りに入るのに似ています。精霊が魂を呼びよせると、魂はシールとかチャクラとか呼ばれる身体のエネルギーの中心点を通りながら、上昇していきます。魂とは、ひとことで言うと記憶ですが、頭の中心に位置する最後のチャクラである第七チャクラ、つまり脳下垂体と呼ばれる部分を通って身体の細胞組織を離れます。ここを通過するときが、よく風の音を聞きながらトンネルを通っていくような感じとして体験されるのです。トンネルの向こう側に見える光が、あなたという存在の光、あなたという存在の精霊なのです。魂が身体を離れると、身体はその生命を終え、存在は自由な魂=自己となります。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みもありません。
死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいくらい明るくなってきます。この地上界を去る瞬間に、あなたは物質の固体性から脱出し、光の存在に戻るのです。そこでのあなたは強力な心と感情だけの存在で、身体も光のかたまりとなり、自分の光体を通して受け容れた思考によって、その電気的な形態が変わる状態となります。そこからは、七つの天界のうちのひとつに行くことになります。どれに行くかは、この地上界にいたときに感情面で表現されていた態度、つまり意識のレベルによって決まります。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 87-88
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2-f [9-k] (あなたは自分の死を早めるために努力をしているようなもの)
死というのは肉体の終わりに過ぎず、人格=自己の終わりではありません。しかし、身体の生命力が衰退し、死と呼ばれるものへと身体が誘われていくのもまた、人格=自己が持つ価値観を通してのことなのです。
あなたの身体は、指示されたとおりにしか反応しません。心臓のそばに宿っている魂が、感情というシステムを通して、身体をすべて管理しているのです。この魂が、化身の生命を維持するために、全身にホルモンを分泌させています。魂はこれを独自にではなく、あなたの価値観や思考過程の指示のもとに行なっています。いまこの次元で生きる皆が持っている価値観のおかげで、思春期を過ぎると体内での各種ホルモンの生成は止まってしまいます。これらホルモンの生成がやむと、ある種の死のホルモンが体内で起動し、全身が衰退して、老いて死んでいく過程が始まるのです。体内で死のホルモンがつくられるのは、あなたが罪悪感と、自分に対する審判と、そして死の恐怖の中で生きているからにほかなりません。皆にとっての美とは、人の内面の性格ではなく、すべて外見的な若さにもとづいたものです。自分を埋葬するための保険をかけることで、あなたは死を予期します。自分が病に倒れたりしたときに自分の財産を守るべく保険をかけます。自分の化身の老化と死を早めるために、あらゆる努力をしているようなものなのです。なぜなら、あなたはそれをまったく当然のこととして予測しているのですから!
身体はただの僕(しもべ)に過ぎず、思考全体のための道具なのです。確かに驚異的な創造物で、この世で最も高度な道具です。しかし、それ自体の心を持つようにはつくられていません。それは、僕になるという特定の目的のためにつくられたのであり、あなたが生かしておきたいと思う間だけ生きているのです。あなたがもし「老年」という想念を受け容れ、身体が衰えて死ぬことを当然のことと考えるなら、あるいは自分が愛と幸福とよろこびを得ることを拒むならば、あなたの身体はゆっくりと死の崩壊へと落ち込んでいくことでしょう。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 116-117
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2-g [57-b] (不死は死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になる)
いつもいまを生きることです。このいまの瞬間のほかには、どんなものであろうと未来の存在を認めてはいけません。あなたの現在は、自分さえそれを許せば、永遠になるのです。自分があとどのくらい生きるかなどと考えをめぐらせてはなりません。あなたはずっと生き続けます。自分の身体の永続性のことを思うのです。そうすれば、そうなります。真実とはまさにそういうものなのです。
主よ、自分を愛しなさい。身体を祝福してあげなさい。あなたの存在の盟主である魂に語りかけ、若さの酵素をもたらすよう命ずるのです。それだけでよいのです。身体は永久に生きられることを知りなさい。
不死は、死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になります。人類全体がもし未来や過去に生きるのをやめ、この現在という、いま起きている瞬間の繰り返しの中に生きるようになり、生きるという考えが死よりも強いものになれば、死と呼ばれる茶番は消滅させられるでしょう。将来、それは必ず消滅します。なぜなら、時間はもはや存在しなくなり、ここで語ってきた叡智は、この地上に生きるすべての人にとって生きた現実となっているからです。そうなれば、死はまったく意味のない無の存在と化すのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 118-119
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2-h [51-i] (人が死ぬのは老いることを真実として認めているからである)
この生で昇華する人は、ほとんどいないでしょう。それは、ここで教えられていることの真の意味を悟り、それを理解する人があまりいないからです。ほとんどの人は死ぬことでしょう。それは、老いること、衰えていくことを真実として認めているからであり、自分を運んでくれているこのすばらしい機械も、見栄えのいい間しかきちんとした世話をしないからなのです。だから彼らは年老い、身体はだんだんと衰弱していき、死を迎えるのです。すると精神と魂は身体との連結から解放されます。でも、この物質密度の次元にまた戻ってこようとすると、自分を表現するための媒体がまた必要になります。こうして、再び主がたくさん生まれてくるというわけです。
ほとんどの人は死にます。しかし、だからといって、それですべてが終わりというわけではありません。それは単に、ひとつの化身という仮面が取り去られ、また別の仮面を見つけなければいけないだけのことです。しかし、もしここに戻ることを選ぶならば、昇華を促すような意識に戻ってくるでしょう。もうすぐそれは、よく理解された当たり前の現実となるからです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 119
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2-i (現代人の大半は死んでしまえば終わりと思いこんでいる)
現代人の大半は、死んでしまえばそれまでである、と肉体消滅によって人間の生活は終了する、と思いこんでいる。この考えほど、人間の神性を隠蔽するものはないのである。
肉体が死ねば確かに肉体は人間の原形をとどめず、灰になってしまう。肉体という形は消滅し去る。肉体人間の眼の前から、その人の姿は永遠に消え去ってしまう。しかし、はたしてその人は再びこの肉体界に現われることはないのであろうか。
肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。肉体は何兆という細胞が種々の要素を仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の放射した光波(念)が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波(念)がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしまうのである。
もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくなった上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。
上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまった、という人はいない。ただ着手であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、ということなのである。
いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、のみである。私はこの肉体要素を魄(はく)とよんでいる。
肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。ここの生活は、肉体界の波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を営む。ただしこの世界は想うことがすぐ現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかなか現われぬ世界とは違う。想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようでなかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するのである。何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なかなかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。一生わからないこともある。しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人はすぐ憎みかえされ、だます人は、すぐにだましかえされる。憎み、悲しみ、恐れ、不正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。
こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。これらを浄めるべく努力することにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁となって、肉体界に再生する。今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。かくして何度か再生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を、魂魄(こんぱく)という。いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄であるといえるのである。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.25-27
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2-j[70-b] (人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない)
人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。
いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにはならない。
死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。
死は人間にとっての終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。
人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない。これは先章から私が説いていることなのである。
死とは幽界(以後は霊界をも含めて)への転出なのである。肉体の死とは幽界への誕生なのである。
死ぬことを往生といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。
肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.51
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2-k[24-a] (皆さんに証明しますが私は死んでもなお生き続けるのです)
新たに解放された精神の力すべてを行使して、新しい友達に、生まれ変わったドイルを見てもらいたいと思います。私は昔の地上での生活や出来事のこまごまとした問題には、もはや関心がありません。そうしたことが、関わりのある人の霊的な発達に影響を及ぼす場合は別ですが。とはいえ、その場合でも、霊的な生活の基礎となるべきものについて話をすることを除いては、その人を助けてあげることはできません。
たしかに、昔のドイルは死につつあります。しかし、皆さんに証明いたしますが、私は死んでもなお生き続けるのです。それは間違いありません。しかし、二度目の死を体験した人には、よけいな飾り物は何もありません。その崇高な体験の後では、純化された精神だけしか残らないのです。あの二度目の目覚めの素晴らしさ! そのとき、私はただひとつのことしか意識していませんでした。ただ一つ! それは、神の私に対する、そしてすべての人間に対する愛の奇跡、その愛の無限性、その愛の全体性でした。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.162-163
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2-l (何度も繰り返しますが私たちは死後の世界で今現在生きています)
何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。人間は死後も生き残るだけでなぐ、すべての生命の背後には普遍的かつ創造的な神の力が働いているということ、そして、人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛に生きる気持ちになるまでは、人間はけっして永続的な心の安らぎ・幸せ・調和を見いだせないということを証明したいのです。
すべての存在との同胞愛が、まず第一になければなりません。その次に大切なのが、地上での生活をいとなんでいる間に天国と接触することによって得られる新しい自由です。そうです。同胞愛、偉大な同胞愛が、天国と同様に地上でも実現すること、それが理想なのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、p.244
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2-m[7-a] (死んだのではなくどこか遠くに行ってしまったのでもなく)
私が長い年月にわたって心霊主義の福音を広げようとしていたとき、私の主な関心事は愛する人を亡くした人々に慰めをもたらしたいということでした。同胞に対する人間的な暖かい愛に満ち満ちている一人の人間として、また愛する家族をもつ一人の人間として、私は後に残された人々に心から同情しました。
そうして悲しんでいるかわいそうな人たちに、彼らが失った人々は死んだのでもなければ、どこか遠くに行ってしまったのでもなく、非常に近いところにいて、コミュニケーションをはかることすらできるのだということ、そして、彼らは安らぎと喜びの中で生活しているのだとわかってもらうこと、それが私の最大の関心事だったのです。当時の私にとっては、これは本当に大切な悟りともいうべきもので、これに比べれば、他のことはさほど重要ではなかったということがおわかりいただけるでしょうか。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、p.245
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2-n[75-b](生命は終わることのない周期であり死という現実はない)
これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼすことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死はけっして君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実はありえないと理解するでしょう。
新しき人間にとって、初めも終りも存在しないのです。なんとなれば、新しき人間は、生命は終わることのない“周期”であり、この周期は常に進化し、常に回転し、すべての人間の魂を周期の腕の中に永遠に抱擁してくれている、と理解するからです。もしひとりの人が一つの法則を破るならば、神の定めた一つの真実を犯すならば、すべての人間の幸福を脅かすことになるのです。
世界がこのような救済を体験する前に、艱難辛苦を通して同胞との魂の絆の結合をはからなければなりません。現在あなた方の地球には、物質主義によってもたらされた大きな破壊が進行しているのが見えます。これは死にほかなりません。物質主義による死にほかなりません。そして、ついでにいえば、物質主義そのものの死の始まりでもあります。
物質主義はそう簡単には死にません。かくて苦しみが訪れることになります。人間が物質の富の神をかくも長くかつ絶えず崇拝してきたのですから、これはしかたのないことです。人類が非常な苦痛を体験した後に訪れる新たなる始まり、霊的な悟りと理解が達成された、光に満ちた新しい時代の到来が、私たちには見えます。やがて人間の共同体における生活の霊的な基盤が確立されるでしょう。すべての芸術、文化、科学、国政、宗教の活動において、人間は天界の叡智によってインスピレーションを与えられ、導きを与えられることでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.281-282
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2-o[41-h](死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎない)
人間の肉体の死は確かにこの世の全ての終りだということは物質界、自然界的に見れば正しい。だが、死を霊の立場、霊界の側から見れば、単にその肉体の中に住んでいた霊、肉体の中に住んでその肉体をこの世における一つの道具として使用して来た霊が、肉体の使用を止め、肉体を支配する力を失ったということに過ぎないのである。そして、霊はその後は霊界へと旅立って行くのだ。
死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎないのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.31
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2-p (死後二、三日間は死者の霊はまだ死者の肉体の中に残る)
人間が死ぬと、その肉体に住んでいた霊は霊界へ旅立つことになるが、それまでには普通、この世の時間でいえば二、三日の間がある。死と同時に肉体の中の霊は眼ざめるが、このことを知って霊界からは他の霊(導きの霊)が死者の霊のところへやって来る。これは霊同士の感応が起きる結果である。そして、霊界からやって来た導き霊と死者の霊は、死者の死せる肉体の場所で、お互いの想念(考え)の交換を行なう。この交換のことは、また別の所で詳しく述べるが、これは死者の霊が、その後永遠の生を送るための大事な準備の一つなのだ。
さっきいった死後二、三日間は死者の霊がまだ死者の肉体の中に残るという理由は、この想念の交換のためなのだ。そして、この間は死者の霊は死せる肉体の中で静かに音のない霊の呼吸を続け、また霊としての考えをめぐらしているのだ。
「死者も考えている!」のである。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.32
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2-q[46-d] (人間が死んでまず最初に行く場所が精霊界である)
この世の人間が死んで、まず第一にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、一たん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのだ。
精霊界の広大さがどれほどのものであるかは私にも、あまりに広すぎて実はわからないくらいだが、日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて精霊界に入ってくることからだけでも、その広さは想像を絶する。
精霊界はその広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峯々からなる大きな山脈に囲まれた中にある。その広さにおいては、この世に比べることのできるものとてないが、形と様相だけからいえば、山間にある大きな窪地だといってもよい。
精霊界からは、その周囲を取りまく巨大な山脈の間のここかしこに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの眼にはふつうは見えない。彼らが精霊界において霊界へと移転する準備が終わったときだけ眼に見えるようになるのだ。だから、精霊界に住む精霊たちは霊界が存在することすら知らず、彼らは、ちょうど、この世の人々がこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけを全ての世界だと思って生活している。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.42-43
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2-r[46-e] (死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊)
精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。
「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」
このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きてあるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」
そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。
だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.45-46
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2-s[54-x](人間が死んで精霊界へ行くと次第に元々の霊になっていく)
一口でいえば人間の心の本性、心そのもののうちもっとも内面的なもの、本当の意味の知恵、理性、知性、内心の要求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらは全て霊の働きなのだ。これに対し、肉体はもちろん、眼や耳、鼻、舌、体の感覚といった肉体的、表面的感覚は全て物質界、自然界にそのもともとの住み家を持っている。
人間が肉体的に死に霊(精霊)となって霊界(精霊界)へ行くと、その霊はもともとの霊そのものに次第になっていく。精霊でも初めのうちはまだ外部的感覚の残りかすや外部的記憶を持っているが、次第にこれらを捨て、もともとの霊の姿になり、また霊的感覚がすぐれてくる。もともとの霊の姿とは人々にもわかりにくいかも知れないが、もし人が社会や人との関係を全て捨てて夜半自分の部屋で瞑想にふけり自分の心の真の姿をのぞいたとすればこれが、その人のもともとの心の姿、霊の姿に近いといえよう。
人は世間にあるうちは道徳、法律、礼儀、他人への顧慮、習慣、それに打算など網の目のような外面的なものにしばられ、あるいは知識のような表面的な記憶にわざわいされている。しかし、霊界ではこんなものは全て不要なばかりかじゃまものに過ぎない。これをだんだんに捨て霊のもとの姿に帰るために精霊界はあるのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.54

3. 許し
3-a (イエス・キリストの許し)
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
(マタイ6章14-15 )
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。
(マタイ18章21-22 )

4. 祈り
4-a (キリスト教における祈り)
イエス・キリストは、「あなた方の父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8)と言っている。そしてイエスは、だから、こう祈りなさい、と祈り方をも教えている。聖書のなかで、イエスが祈り方を具体的に述べているのは、つぎのマタイ(6:9−13)だけである。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
しかし、さまざまな人生において、われわれが切実にこころから祈っても、それがすべて叶うわけではないのも事実であろう。われわれは、あまりにも迷いの多い存在である。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」と、イザヤ書(55:8−9)にも記されているとおりである。この大きなギャップをどのように乗り越えていけばよいのであろうか。
例えば、内村鑑三もかつて、愛する家族の死に直面して、信仰にさえ迷いを来したことがあった。内村は必死に神に祈り、そしてその祈りは遂に聞き入れられずに、家族は苦しみながら死んでいったのである。彼は、愛する者を失って以来数か月間、祈ることさえもやめてしまった。内村は、神はなぜ自分の祈りを聴かれなかったのか、なぜ愛する者の命を奪ったのか、という深刻な疑問に悩み苦しむのである。彼はそれをつぎのように述べている。
しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとって最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無為なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故に聴かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余に降せしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。(内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983、p.19)
苦しみ悩み、理解し、そしてまた懐疑にぶつかる。例えば、キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例も決して少なくはない。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈りが熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは遂に聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。
ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり。余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり。父よ、余は信ず、我らの願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈棒を聴かれしならん。(内村鑑三、前掲書、p.22)
武本昌三「論文集」]-(3)
より。 [ H.P.目録に記載]
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4-b (念ずれば花ひらく)
わたしの詩に「念ずれば花ひらく」というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。
かつてない大きな戦争、かつてない敗戦、その間、三人の男の子は三人とも赤い召集令状をもらって、死を覚悟して出て行った。そうしたわたしたちが三人とも無事に帰ることができたのは、母の念力だったと思う。母は眠れない夜々を、愛用の手風琴を弾いて祈ったということであった。
如来の美しさは、大悲の故だと思う。
菩薩の若さは、大願の為だと思う。
苦難苦闘の連続だった母であったが、阿蘇の火柱を見ながら大きくなった故か、いつも燃えるような愛情と、尽きない夢とを持っていられた。老いても精神の衰弱を見せない母であった。
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
坂村真民『念ずれば花ひらく』柏樹社、1993、pp.10-11.

5. 霊・魂・肉体
5-a [54-d] (あなたの真の姿は風のごとく透明で目に見えないもの)
言ってみれば、あなたの身体はすはらしく高度な機械だが、それを使う存在がなければ、つまりあなたがいなければ、何の役にも立たない。あなたはあなたの化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが、ひとつの独立した人格=自己として己を表現しているものなのだ。自分の思考を見たことがはたしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかにすごい存在であるか、あなたはまったくわかっていない。というのも、あなたの真の姿は、風のごとく透明で目に見えないものだからだ。私があなたにとって謎であるように、あなた自身も同じなのだ。あらゆるものの中で最大の謎なのだ。
虚飾なしの自分がどういうものか、あなたは知っているだろうか。仮面なしの自分は? 強がりという鎧がなくなった自分はどうだろう? 存在の内面にある核の部分では、あなたはまさに神そのものなのだ。人類最大の神秘である神は、あなたの内面以外の場所にあったことはない。あなたの目の奥に、衣服の下に、顔という幻影を超えたところに、神という思考の見えない美徳が確かに存在しているのだ。あなたをあなたたらしめている人格=自己がそこにはある。あなたの内にある神こそが、あなたに信を与え、そして創造するというとてつもない力を与えてくれる崇高なる知性なのだ。それは、あなたの生命を無限の時間の彼方まで、永遠に維持してくれるすばらしき生命の流れなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.73
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5-b [9-q] (精神のうちに宿る魂があなたを創造性あふれる存在にしてくれた)
魂は精神の内に宿っているが、あなたを創造性あふれる存在にしてくれたのはこの魂だ。なぜなら、何かを創造するためには、ある思考の明確なイメージを記憶の中にしっかりと維持しておく能力が必要になるからだ。そうすることによって、その思考に思いをめぐらし、皆が現実と呼んでいる創造的な概念へと広げていくことができるのだ。
たとえば、これまでにないような新しい花を創造しようとすれば、その花についての想念を出現させなければならない。この花についての想念は、途切れることない思考の流れから取り出さねばならず、この流れとは、とりもなおさずあなたの存在の精神、あるいは光とまったくひとつのものなのである。この想念は、感情という形で、ひとつの像として魂の中にはっきりととらえられる。これであなたは、自分の欲求を通じて「花」という想念のイメージを思い出すことができ、それに思いをめぐらせて、どんな形、色、あるいは高さにでも自分の好きなように、それを広げていくことができるのである。いつでも、どんなユニークな花でも創造することができるのだ。想念を完璧に静止した状態で記憶にとどめることによって、その姿を完璧に描くことができるのである。
魂なしには、父なるものを創造物にまで広げられない。なぜなら、思いをめぐらせて、それを創造物へと広げるために想念を静止した状態にする、ということができないからだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 126-127

6. 宗教
6-a (人間は同胞たちを支配するために神のイメージを造り出した)
あなたに偉大なる真実を教えましょう。人間は自分の同胞たちを支配するために、神のイメージをつくり出したのです。宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのためにつくられたのであり、それを使って人々を抑えつけるのに恐怖という手段が用いられたのです。どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのはわけないのです。
神が地獄や悪魔をつくり出したのではありません。それは人間が自分の兄弟たちを苦しめるための恐ろしい創造なのです。大衆を恐れさせ、支配可能な集団とする目的で、宗教がそのドグマを通してつくり出したものなのです。それが偉大なる真理です。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.61
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6-b [12-a] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)
車椅子の年老いた女性に―
ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63
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6-c (供養のあり方について)
この世の者が今ある肉体を使って、死者の思いを気が済むように果たしてあげれば、死者の心はどんなに安らかになれるでしょう。いつまでも真っ暗な不安定な苦しい所に、変則的な形で生きているつもりにさせておいたのでは可哀想ではありませんか。
そのことを子孫たる者まずよく理解してあげて下さい。
そして、死者自身にも自分の現状をよくわかってもらうことです。
子孫の思いやりの心が下地となって死者を説得し、そして自らの死を間違えずに正しく納得してもらう、これが供養というものの神髄です。
私の寺における供養とはまさにこのことの実践にあります。
かりにも先祖の死者たちを悪霊などと思っているうちは、どんなに形を調えて供養をしようが、生者と死者との間に魂の通い合いは絶対に望めません。
自分が今生きているから、生かされているから供養が出来るのだと、たったそれだけの素直さがあればいいのです。そのことで魂が少しずつ磨かれて行ってこそ、死者たちは納得し、喜び、安らかになつて成仏して行きます。この世での悪霊の仕業など、もうどこを探したって見当たらないのです。
生まれてから今日までの間、何一つ苦しみ悲しみの無かった人は、こんな大事なことを全然学んでいません。これは不幸です。気の毒です。生きている問のこれから後の時間も、死んでしまってから後の長い魂としての時間も、どれほどつらいものになってしまうか考えただけでも身が震えます。
苦労から逃げるための供養ではなく、するのが当たり前の供養を、これからも淡々と続けて行って下さい。
萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、
1994、pp.235-236.
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6-d (お経は霊を慰め浄めることになるか)
誦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。
お経のもつ高い光は、勿論あるのだから、そのひびきは、業因縁を超えて、幽界にとどくわけなのだが、誦む人の心に、愛もなく、信もなく、ただ習慣的に誦んだり、周囲の関係で、しかたなく誦んだりしたのでは、その人の心の波と、お経のもつ高い波とが、合致せず、そのひびきは、幽界の霊魂にとどかぬので、効果がないということになるのである。
お経を誦む時は、やはり、その経文に心を集中してあげることが第一で、そうすれば心が空に近くなるので、その空に、お経の光が充満し、その人と因縁のある霊魂にひびいてゆき、霊魂の因縁を浄めることになる。
僧侶に誦経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違うのである。のりともこれと等しい。
五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
1988、pp.85-86
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6-e (信仰と宗教とは同じではない)
そもそも信仰と宗教とは文字が異なるが如くその意味は全く違うものなのだ。信仰とは神仏を拝み尊ぶが如く、己れの心を清く美しく磨き、神仏の御心と同じが如く、自分自身を自分で信じ尊ぶ事が出来る程に己れを向上させる事を云うのである。神と自分の直接取引、つまり産地から消費者へ直売と云う形である。そしてその間に入って、こう云う拝み方もあります、ああ云う拝み方もグッズもありますとノウハウを教えて利ザヤを稼ぐ問屋、即ち流通機構が宗教である。悩み多い世間を、いかに発想の転換をはかり楽に生きて行くかと云う事を教えるのが経典であり、ハウツーものの本である。であるからして宗教とは企業に過ぎぬ。三井、住友、丸紅辺りの商事会社と全く同じなのである。教祖や法皇や教え主なぞと仰々しい呼び方を押しつけているがそれは会長とか社長とかと呼ぶべきなのだ。権大僧正だの大司教だのとずらずらと階位をつけているが、それは只の専務だの部長だの課長だのと同じものに過ぎない。教会の神父や牧師や寺の住職や神社の神主は単なる支店長なのであり、折伏や教化に廻る人々は営業部員なのである。故に神秘的なものでも不可思議なものでも犯すべからざるものでもないのである。
最近はオカルトブームとやらで、何かと煩雑な社会機構の中で疲労困憊した人々が神秘のカによって救けて貰おうと様々な宗教団体に入って問題を起しているが、それも道理である。宗教とは企業であるからして、それは早い話が、三井や伊藤忠といった商事会社の玄関に入って行って、「どうか私の悩みをお救い下さい」と拝み込んでいるのと同じ事だからである。又、もっと非道い話が、その神父にしろ牧師にしろ僧侶にしろ、「そんな霊なんて迷信です」と云ってとんと信じていない不思議な者達がいる事である。では貴方達は何で商売をしているのかと云い度い。神や仏や先祖供養なぞと云う霊を拝む事で商いをしているのではないか。その霊を否定するとは何事ぞ。己れが信じても居ないもので商売をしているのは、詐欺師くらいなものである。その詐欺師に魂の救いを求めた所でそれはとても叶わぬ事は自明の理であろう。
美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
pp.155-157 に所収。
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6-f[12-f] (どんな魂にでも必ず神の光にめざめるときは訪れる)
キリスト教は、純粋な真実の種を包含しているがゆえに、もっとも純粋な宗教であったと私は述べました。この言葉の意味を説明したいと思います。キリスト教の“身代わりの腰罪”そして、「私が道であり、真実であり、生命である。私によらず天の父のもとに至る者はいない」という言葉に関して、異議を唱える人がいることでしょう。悲しいことに、これはいまだに、多くの人々にとっての障害となっています。私自身も今にしてわかったことなのですが、これらの言葉の背後にある霊的な意味を理解していないからです。
身代わりの贖罪という福音を、私たちは教えません。人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならず、人の邪悪な考えや行動の責任を、その人から取ってやることのできる人はいないということを私たちははっきりと理解しています。
しかしながら、人間がどんなに深い奈落にまで沈んでいたとしても、その魂がキリストの力と愛とによって創造された真実の光で照らし出されたとき、その人は再び生まれ変わり、それまでの自我は死ぬことになります。このようにして、キリストだけが人間を無知と、罪と奈落から救い出すことができるのであり、人間を永遠の生命へと導くことができるのです。
心霊主義者であれ、伝統的なキリスト教信者であれ、仏教徒であれ、無心論者であれ、どんな魂にでも、神の光にめざめるときは訪れます。別な言葉でいえば、キリストの光に目覚めるときがやってきます。すべての魂は、どのような名前がついていようが、どんなにキリストを否定しようが、慈悲深いキリストのはかり知れない愛と完全な叡智とによって、いつの日か、天国の“狭き門”を通らなければなりません。
この前、仏教徒の考えについてお話しました。これについても、もう少し説明が必要だと思います。今日の仏教徒は、人間存在の究極にして最も崇高な目標は“ねはん”として知られている生命の局面に入ることであると信じています。従って、仏教徒は数多くの人生を急いで体験して、輪廻転生から自由になるために、できるだけ早く肉体をもって生まれ変わりたいという願望をもっています。ねはんに辿り着けば、永遠の輪廻から解放されると信じているわけです。
ねはんの境地に達したとき、欲望から解放され、無の境地の中で安らぎを見出すであろうことは確かです。仏教徒の間違いは、釈迦の教えを間違って解釈しているところにあります。これと同じように、キリストの教えも二〇〇〇年前に使徒に与えられたものとは非常に異なったかたちで伝えられています。
釈迦は、人間ひとりひとりの魂が最終的に身を任せなければならない道を指し示すためにやってきたのです。その道とは、崇高な存在に身をゆだねるという道です。自分自身の体験によって、幼子のような素朴さと、信頼の気持ちがあって初めて人間は天国に入れることを証明されたのです。釈迦はこれを教えられたのです。
もう一つ述べておきたいと思います。もしも、皆さんが霊の真実のヴィジョンに従うならば、洋の東西を問わず、すべての宗教の源である、古代の叡智の中に、この真実を見出だされることでしょう。そのなかに、心静まらない霊がいる場所、それよりも高いアストラル界、精神界、天界、宇宙界のことが説明されているはずです。
これまでの長い歴史を通して、さまざまなマスターがほぼ同じような教えをもって地上に戻ってきては、その教えを残していきました。人間と神のために自我を放棄し、欲望を放棄する覚悟のある人には、なんという光輝に満ちた運命が開かれることでしょうか。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.249-251
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6-g[15-j] (ただ一つ存在する真実の宗教とは愛である)
ただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な現実があります。
これは宇宙的な宗教で、国境や、慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つ。その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、花、生きとし生けるものすべてが理解できるものです。真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。
この愛は必ず実現するでしょう。愛は人間に、さまざまな形や儀式や信条や教条は、そこに生き生きとした魂がなければなんの役にも立たないことを教えてくれるでしょう。すべての生きとし生けるものは霊の力を証明するものであり、霊の力にこたえることができるのです。
人間にはさまざまな人種的な違いがあり、また多様な考えがあります。人種や考えがなんであれ、一人一人をそれぞれ公平に扱ってあげるべきです。しかし、すべての人間は最終的には、創造者の無限の愛を認め、それに敬意を払ってお辞儀しなければならないのです。そのとき、ついに人間は、すべての人間のために働く人は神のために働いているのだ、ということを理解するのです。
この素晴らしい日が訪れるまで、地球は死から完全に解放されることはないでしょう。すべての人が、仲よく調和に満ちて、自己の意思を曲げて、宇宙の崇高な法則を崇拝するとき、死は勝利のなかに飲み込まれて消滅するでしょう。
そのとき、人間の肉体はもはや死の横暴に屈することはなくなるでしょう。なぜなら、人間の肉体は死ぬのではなく、転換することになるのですから。罪は、その本質において死そのものです。死は罪の結果なのです。これは文字通りの意味です。罪は必ずなんらかの形による死をもたらします。しかし、叡智に満ちた、純粋で真実の愛は、永遠の生命を与えてくれるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.284-285

7. スピリチュアリズム
7-a[2-m] (死んだのではなくどこか遠くに行ってしまったのでもなく)
私が長い年月にわたって心霊主義の福音を広げようとしていたとき、私の主な関心事は愛する人を亡くした人々に慰めをもたらしたいということでした。同胞に対する人間的な暖かい愛に満ち満ちている一人の人間として、また愛する家族をもつ一人の人間として、私は後に残された人々に心から同情しました。
そうして悲しんでいるかわいそうな人たちに、彼らが失った人々は死んだのでもなければ、どこか遠くに行ってしまったのでもなく、非常に近いところにいて、コミュニケーションをはかることすらできるのだということ、そして、彼らは安らぎと喜びの中で生活しているのだとわかってもらうこと、それが私の最大の関心事だったのです。当時の私にとっては、これは本当に大切な悟りともいうべきもので、これに比べれば、他のことはさほど重要ではなかったということがおわかりいただけるでしょうか。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、p.245
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7-b[21-c] (霊界での愛する人との再会は素晴らしいことに本当なのです)
人はすべて、死後も生き続けるということを、真実の証拠に基づいて信じられるようになるまでは、私たち自身もかつてそうであったように、愛する者との避けることのできない別れを恐れていることでしょう。
そのようなわけで、心霊主義を探求する人は、ふつうの場合、ひとえにこの理由のために、今は霊の世界にいる愛する人との接触、個人的な接触をはかることを願っています。愛する者との再会ほど喜びに満ち、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。今は亡き、父親、母親、夫、妻、兄弟、姉妹、子供と、再びこの世とあの世の障壁を越えて心を通わせられるということを知るほど、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。それは本当のことなのです。素晴らしいことに本当なのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、p.246

8. 人間・自我・個性
8-a [44-k](凝縮した思考と集約された物質で人間は創造されてきた)
最初の人間は、神々のある一団がいろいろな試みを繰り返して初めて誕生した。最初は男だけが創造されたが、それも目に見える形での性器を持っていなかった。それは体内にあり、自己複製(クローニング)というプロセスを用いて、自分で繁殖ができるのだった。最初の男性ばかりの化身たちは、皆一様に似たような姿をしていた。彼らは今日の皆の目から見れば、グロテスクと映るような下等な生き物だった。だが、当時の神々にとっては、彼らは美しかった。しかし脚があまり早くなかったために、いつもまわりの動物の餌食となった。そこで神々はいろいろ試し、長い時間をかけて手を加えて、やっと自分が完全に乗り移るに値するものをつくり上げたのだった。化身が完成すると、数多くの神々が、人生の探求という新しい冒険のために、大よろこびで化身に入っていった。
神々が宿った化身は、きわめて危険な環境の中で生き、ほかの生き物と共存していくために、光の存在たちがいつも手を加えて改善してゆける力を持つようにつくられていた。神が感情という形で抱いた想念はすべて、一つひとつの細胞の中にパターンとして記憶され、自己複製のプロセスを経てもそのまま伝えられるように、この化身はつくられたのである。
ずっと後になり、男をさらに完成させた形として「人間の子宮」、つまり女が創造されると、遺伝子の共有を通してこの化身に独自性を与え、それをさらに複雑化、高度化させることが可能になった。男はそれまでに得てきた叡智を自分の精子に持ち、女は卵子に持った。性行為を通じて両者の遺伝子パターンがひとつになり、親の学びや気づきを基盤とした、さらに偉大な存在が創造されるのであった。だが、そこで創造されるのは、さらに良い身体であって、精神ではなかった。
神々が人間として生きることについての理解を深めるにつれて(生存がこのプロセスを必要とした)、原初の姿から身体をさらに完成させる働きは続き、それが「進化」と呼ばれるものとなり、皆の数え方で言うと、これが千五十万年以上続いたのだ。現在の皆の姿になるのに、それだけ長い時間がかかっているのである。
あなたの身体はまだ若い。移動性の高い、立った姿勢の人間は、まだ千五十万年の年齢でしかないのだ。しかし、光の存在であるあなたは、いつのときにも存在していたのである。なぜなら、時間という概念がなかったというのに、思索する思考の始まりがいつだったのかを、いったいどうやって決めることができるのか? つまり、あなたはときの彼方からある古い存在なのだ。あなたがときを数えるのに使う用語でいうと、何十億年という間、あなたは電磁場の中での創造を続けていた。それから今度は、電磁場の波動を下げて物質にすることが、これまでと違う新たな冒険となった。
こうして、何十億年という創造と探求を通じて、人間は、凝縮した思考と集約された物質でできた、生きて呼吸する生き物となったのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 133-135
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8-b (人間がこの地上に千五十万年の間存在してきたという根拠は)
― あなたは人間がここに千五十万年の間、存在してきたと言いましたが、私の知る限り、科学者たちには、人間が約百万年、長くてもせいぜい二百万年くらいしか存在していないという証拠があると思うのですが……
ひとつ理解しておいてください。皆の世界の考古学者たちには、発掘したものを放射線分析にかけ、それをもとに、年代を決める方法があります。発掘物に放射線活動を与えるのは太陽です。でも、太陽からの光は、科学者たちが考えているほど長い期間この地球上に直接当たってはいませんでした。この惑星は長い長い間水におおわれていたからです。水というのは現在の海のことですが、そのときはまだ大気中にあったのです。太陽からの光線が、成層圏にあった水に当たったとき、光線は分散されました。分散した光があらゆるところに注いでいたのです。ですから、今日のように放射線を浴びていたものはなかったのです。それなのに、直接の太陽光線が実際よりも長い間、地上に届いていたと信じて疑わない学者たちは、発掘物の放射線活動分析から、人間がいつ存在し始めていたかを推定しているのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 139
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8-c [54-k] (地球では思考と物質の融合である人類が進化の頂点にある)
種としての人類はすばらしい知性を持っている。自分自身の細胞構造に生命の息吹と生存のための本能的手段を与えただけでなく、神なる目的のために、自分の崇高なる知性をさらに高度化し、進化させるべく、それを化身という物質と融合させたのだ。進化の科学という創造物を通し、皆は自分を「ネアンデルタール人」と呼ばれるところから「ホモ・サピエンス」にまで進化させてきた。こうして人類は、この地上界で、気の遠くなるような時間と、数多くの試み、進化、そして辛苦を重ね、いま私の前に、直立歩行の存在となったのである。
人は皆、「見る次元」と呼ばれる、生命レベルの高いこの場において、自分の創造的知性の力を示し、その結果を目にするために存在している。ここには、あなたの愛すべき父である思考が、光から物質の密度まで、すべてのレベル、あらゆる形態で現実に表出し、存在しているからである。
知性はどこにでもあふれていることはおわかりだろうか。本当にそうなのだが、ここ地球と呼ばれる皆の次元では、思考と物質の融合である人類が、いまその進化の頂点にあるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 142
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8-d [44-m] (人間という形の神にならない限り神の絶対性は理解できない)
人類として、皆は自分たちが未開の存在だと思っているのだろうか。目に見えない世界にいる者に比べて、自分たちが劣ると考えているだろうか。そんなことはない。いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入れている。人間という形の神にならない限り、神の最終的な絶対性ともいうべきものを理解することは、けっしてできない。それは誰にも不可能なのである。なぜなら、神の王国は、光から電磁場へ、そして物質へ、形体へと拡張していく性質のものだからだ。つまり、神とは、思考の中の高い波動であるだけではなく、固体物質という、密度が最も高く、波動もいちばん低い思考の形でもあるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 142-143
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B8-e[44-n] (人類であることは一つの特権であり神なる生き方にほかならない)
まだこれから神なる人間になる必要がある存在は、神としての完全な体験を持っていないそれに思いを馳せ、すべての生命から叡智、智慧を得ることができない。この次元に旅した者たち、この次元の目を見張るような世界の一部となるとともに、それを進化させた者たち、山々を動かし、色をつくり出し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛やよろこびや創造の精妙さを理解できるのだ。この旅人たちだけが、あなたもその一員であるこの存在たちだけが、永遠を理解し、それを追い求める気持ちを理解したのである。彼らこそ、すべての生命のために永遠というものを創造した張本人だからだ。物質の次元がある限り、生命が無限の創造性へと途切れなく続いていくことを可能にしてくれるからなのだ。だからこそ、男であること、女であること、人類であることは、まさしくひとつの特権であり、誉れである。これはまさに神なる生き方にほかならない。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 143
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8-f[44-o](人類は天使よりもずっと進化した存在である)
皆が「天使」と呼ぶ言葉がある。このような神なる存在になりたいと願う者が皆の中にもたくさんいる。だが、天使でいることには大きな短所がある。彼らはまだ人間として生きていないために、理性のバランスというものがない。これから最終的には神の化身として人間になる存在ではあるが、いまだ単なるエネルギーの存在にすぎないのだ。それに、彼らには人類に対する情けや慈しみの念といったものがない。実際にあなたになってみるまでは、目に見えない世界に生きる存在に、どうしてあなたのことが完全にわかるであろうか。人類は天使よりもずっと進化した存在だ。天使たちには、人間という限界のある形で生きる神についての理解がない。このために、人間のよろこびや哀しみなど、人類についての理解に限りがあるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 143-144
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8-g [44-p] (人類の一員となることはそれだけで聖なる体験である)
人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになるのである。
したがって、人間になることで、あなたは自分をおとしめたわけではない。これは絶対に理解しておく必要がある。もし、これまで人間になったことがなければ、完璧な形や天界に入ることはけっしてできないからだ。生命のレベルに降りたことがないのに、いったいどうして天界に昇華することなどできるのだ?
あなたの内に燃える全能の神というこの火、それを理解するために人間になるのは、充分その価値があり、また賢い選択でもある。すべての生命はこの火でできているのだ。そして、人類と呼ばれるこの物質界での知性を通してそれを体験すれば、神とはいったい何なのかについて、完全な視野を与えてくれる。そして、神の何たるかをすべて完全に理解できたとき、内面、外面の宇宙や、物質、肉体、愛、よろこび、哀しみ、それらがすべて理解できたときに、あなたは父なる存在そのものになるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 144

9. 意識・想念・思考・ことば
9-a (医学が証明するプラス思考の効果)
人間の脳からはモルヒネに似たものが分泌されますが、これには人の気分をよくさせるだけでなく、老化を防止し自然治癒力を高める、すぐれた薬理効果があるのです。
私は脳内モルヒネと呼んでいますが、これをどんどん出させると、その効果は脳だけでなく体全体におよんですべてを好転させる。つまり私たちは、どんな薬もかなわない優秀な製薬工場を体内にもっているわけで、私はそれを徹底的に利用しているのです。
脳内モルヒネの存在は以前から知られていましたが、鎮痛効果以外さしたる意味もないと考えられ、長い間注目されないでいました。ところが最近研究が進んで、すごい効力を秘めていることがわかったのです。
人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。この物質はホルモンの一種なのですが、どういうわけかものすごい毒性をもっている。自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性をもつともいわれています。
もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、この毒のせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまう。私の病院に来た患者さんもそうですが、どんな病気にもノルアドレナリンが関係しているといってよいほどなのです。
一方でβ(ベータ)エンドルフィンというホルモンがあります。このホルモンは脳内モルヒネとしていちばん効力のある物質ですが、この両者め間に奇妙な相関関係のあることが判明したのです。人かち何かいわれて「いやだな」と思うと、脳内に毒性のあるノルアドレナリンが分泌される。そのとき逆に「いいな」と思うとβ−エンドルフインが出るのです。
ノルアドレナリンが分泌されるほうがいいか、βーエンドルフインが分泌されたはうがいいかは、自明の理でしょう。
春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
1996、pp.18-19
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9-b (麻薬のモルヒネより5,6倍も強力な脳内モルヒネ)
自然界には麻薬のモルヒネがあります。このモルヒネは中毒の危険がありますが、脳内モルヒネにはその心配はまったくありません。
しかもその効力は麻薬のモルヒネの五、六倍もあるのです。一部の人たちが法を犯し、廃人になる危険を知りながらも麻薬のモルヒネに走るのは、それが気持ちがいいからです。でもそんな危ない橋を渡らなくても、神様は私たちに脳内モルヒネを与えてくださっている。これは神様からの次のようなメッセージだと思うのです。
「人生を愉快に生きなさい。愉快に生きればいつも若々しく健康で、病気にも無縁で長生きできますよ」----と。脳内モルヒネの存在は神様が正しく生きる人間にくれたごほうびともいえます。
春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
1996、p.22
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9-c (脳内で化学反応をおこす思考のあり方)
たとえば何か外から受けた刺激に対して「いやだな」と思うか、あるいは「いいな」と思うかは、たんに抽象的な思考レベルのことですから、なんの負担もともなわないことと思いがちです。人はよく「ただ思っただけだからいいじゃないか」といった言い方をしますが、これは思うことがなんの負担もなく、自由自在にいくらでもできることだという気持ちがあるからでしょう。
ところが脳内ではその思いがすべて物質化され、化学反応となって何かを引き起こしているのです。思うことにもエネルギーが必要です。ふだん私たちはそんなことを考えないで生きていますが、たとえば学習という行為のためには、脳内でたいへんな量のエネルギー消費があるのです。
「いやだな」と思うのも「いいな」と思うのも、基本的には学習と同じで、必ずエネルギー消費がともないます。エネルギーを使うときに脳内でどういう現象が起きているかというと、POMCというタンパク質が分解するのです。「いやだな」と思ったときと「いいな」と思ったときでは、このタンバタ質の分解の仕方が違うのですが、このことがたいへん重要な意味をもっているのです。
ストレスが加わっても前向きにとらえて「これも試練だ、いいじゃないか」と思ったときは、タンバク質が分解して副腎皮質ホルモンというものになります。このホルモンは身体的ストレスの緩和剤としてはたらきます。もう一つはβーエンドルフインになります。β−エンドルフインは精神的ストレスの解消にはたらきます。
不思議なことに、「いいな」と思ったときは、精神的なストレス緩和に役立つβーエンドルフィンが出てくることがわかっています。逆に「いやだな」と思ったときには、β−エンドルフインも副腎皮質ホルモンも出てきません。他の物質になってしまうのです。
それがノルアドレナリンやアドレナリンということですが、この物質じたいが毒性であるうえ、さらに強い毒である活性酸素を発生させます。つまり、どんな刺激に対してどう思うか、たったそれだけのことで、脳内における物質のでき方にこれだけの差が出てくることを知っていただきたいと思うのです。
プラス発想のいいとらえ方をしたときは、体内にできる物質はいい薬としてはたらくが、マイナス発想のわるいとらえ方だと、薬ではなく毒になるということです。人間の考えというものはつねに習慣に支配されています。プラス発想の人は物事をなんでもよいほうに、プラスにとらえるし、マイナス発想の人はなんでもマイナスにとらえがちです。
しかし現実には、物事はとらえ方の段階ではどちらでもいいわけです。たとえば財布の中のお金を数えて「もうこれだけしかない」とも「まだこれだけある」とも思える。どちらのとらえ方をしても、そこにあるお金の額、つまり事実は少しも変わりません。
ところが人間はとかくマイナス発想で物事を考えがちです。ほうっておくと7、8割はマイナス発想になるといいます。これは「安定を求める本能的な思考態度」(マズロー)ともいえるのですが、脳内モルヒネの存在がわかったいまでは、どんなことでもプラス発想で考えるほうがよいことは議論の余地がありません。
春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
1996、pp.56-60
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9-d (あなたの人生はあなたの思考によって創りあげられていく)
あなたはあなたが考えるとおり、まったくそのままの存在なのである。あなたが考えることはすべて、あなたの人生でそのままそうなるのだ。性交を空想すれば、あなたの存在は誘惑を体験するだろう。みじめな状態を思いめぐらせばそうなってしまう。不幸を想定すればそれがあなたの手もとにやってくる。よろこびを想定すればそれがやってくるだろう。ある才能を思えば、それはすでにそこにあるのだ。
では、未来はどのように創造されるのだろうか。思考を通してである。明日というものはすべて、今日というこの日あなたが抱く思考によって設計されている。それが感情面でのどんな目的のためであろうと、あなたが抱く思考、空想などは身体の内部に、ある気持ちを生じさせ、それは魂の内部に記録される。その気持ちが、今度はあなたの人生のさまざまな状況についての前例となる。つまりそれが、魂に記録されているのと同じ感情をつくり出す状況、それがマッチするような状況にあなたを引きつけていくのである。また、あなたが口にする言葉は、すべてあなたの将来を創造するということも知るべきだ。なぜなら、言葉とは、思考によって生命を与えられた、魂の内にある感情を表現した音であるからだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.76-77
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9-e (あなたが考えることやあなたの価値観はすべてその通りになる)
あなたが考えたこと、空想したこと、あるいは語ったことは、すべてすでに起こったか、これから起こるべく待機している。いったいどうやってすべては創造されると思うか。それは思考を通してつくり出されるのだ。思考こそが真に生命を与える者であり、けっして死ぬこともなく、破壊することもできないものなのだ。あなたはそれを使って、自分自身に生命をもたらした。思考こそが、神の精神とあなたとをつなぐ絆であるからだ。
時代を通じ、さまざまな存在がこの真実を皆に教えようとしてきた。謎かけを通して、歌を通して、そして書き物を通して。だが、ほとんどの人間はこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にかかってくるのを望む者など、ほとんどいなかったからだ。だが実際には、あなたが考えること、あるいは、自分について、父なる存在について、また人生そのものについてのあなたの価値観はすべてその通りになる、というのがもののあり方なのだ。最も卑しい醜悪なものから、かけがえのない美しさをたたえたものまでもそれは同じことである。なぜなら、その違いを知るのはあなただけだからだ。父なる存在は、生命しか知らない。だからあなたは自分の語るものを手にする。あなたはあなたの考える自分そのままなのだ。自分でこうと結論を下したものが、自分なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.77-78
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9-f [54-g](いまのあなたは自分が選んだそのままの姿である)
自分をレベルが低いと考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分に知性があることを認めてあげなければ、さらに愚かになっていくことだろう。自分を美しいと思わなければ、あなたは卑しくなっていく。なぜなら、あなたが自分でそう定めたからなのだ。
あなたはいったい何者なのか。その存在の静寂の中に、考え、創造し、そして自分がなりたいと望むものなら何にでもなっていける力を持つ神−それがあなただ。なぜなら、この瞬間、あなたは自分が選んだそのままの姿なのであり、それを阻むものなど何もないからだ。あなたはすべてに法則を与える者であり、自分の人生と、そこにある状況を創造する者である。あなたはまさに、すべてを超える智慧を持った知性でありながら、この生、そしてその他の数多くの生で、このことに気づかずに生きてきたのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.77-78
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9-g (本当の意味で生きることを許さなかったのはあなた自身の疑念である)
皆は自分自身の思考によって自分を絶望に追い込んだのだ。自分の思考によって自分を価値のない存在だと信じるようになったのだ。自分を失格だと思うようになったのだ。病にかかったのだ。それは死に至る病である。これらはすべてあなたが自分でつくり出したものである。あなたの内には炎のような創造主がいる。ひとつの想念からいくらでも宇宙を創造し、天空の星に永遠の輝きをもたらすことができる力を持っているはずなのに、その創造主は、特定の信念、教義、流行や伝統などの枠の中に自分を押し込めてしまった。限定された思考によって限定される思考、それによってさらに限定される思考。本当の意味で「生きる」ことを許さなかったのは、自分を信じようとしないあなた自身の疑念なのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.79-80
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9-h [51-c] (思考にはすべて波動があり、それが特定の感情として体験される)
ひとつ知っておいてほしいのです。頭の中で思いめぐらし、理解すべく心に抱く思考には、すべてある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験されるのです。ですから、苦痛に対する理解を会得しようとするならば、その人は苦痛に関連する限られた思考をめぐらしているので、その思考が低いレベルの振動数の波動を生じさせ、感情面ではその波動が痛みとして体験されるというわけです。愛について理解し、表現することを思い、学ぼうとしているならば、人と分かち合い、表現された愛に関する思考の高い波動がもたらす高揚感を味わうのです。それがどこであれ、自分の理解のために意識がおもに向いている方向が、あなたの行く天界です。それは、あなたの持つオーラと、あなたの存在の精霊が、その場所の波動へとあなたを引きつけていくからなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 88-89
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9-i (思考が無限に広がれば人生も無限に広がって行く)
―私たちの人生は、この地上界だろうと、ここを離れてから次に行く場所であろうと、私たちの思考そのものだということですね。
そのとおりです。だからこそ、思考過程を限りなく広げることを、私は皆に教えているのです。どのレベルにいようとも、思考が無限に広がれば広がるほど、必ずあなたの人生も無限に広がって行くからです。思考と感情をもって、この世界であなたが創造する天界が壮大なものであればあるほど、地上界を去ったとき、あるいはここに戻ることを選ぶのであれば戻ったときに体験する天界も、それだけ壮大な世界になるのです。罪悪感や、自己や他者に対する審判の念、あるいは兄弟同胞たちに対する怒りや憎しみの中に自分の思考が浸ってしまっている人たちは、この次元を離れてからも、その態度に変化はなく、自分のあり方にはもっと偉大なものあるはずであり、経験すべきさらに偉大な天界があることに気づきません。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 96
9-j [51-h] (人間は本来すべてが昇華を体得できる能力を備えている)
昇華を体得してしまえば、あなたは自分の身体を永遠に保ち、自分自身の化身のままで自由に往き来ができます。つまり、またこの次元に来たいと思ったら、ただ自分の波動をこの次元と同じ周波数で振動するところまで下げてやれば、もうその瞬間、あなたはここにいるのです!
ここにいる人たちは皆、昇華できる力を備えています。肉体という幻影の陰には、すべての宇宙の創造主が隠れているからです。あなたは自分の意志で、限界のない想念を通してこの現象を起こすことができるのです。自分自身の思考に対して審判を下したりせずに、すべての想念を受け容れることを許せば、自分が夢見る理想の姿になる力と能力を持つことができます。そうすれば、何にでもなれるし、何でもできるようになるのです。ある想念を取り上げ、それを身体の中に濃縮し、身体の振動を早めるよう指令を出すこともできます。すると、思考がそのためにしっかりと保持していた理想のほうに向かって、身体が上昇していきます。身体全体がさらに早い速度で振動し始めるのです。その間、体温は上がり、身体が光り始めます。さらに振動を早めて行くにつれて、身体の物質が純粋な光の領域に入り、そして純粋な想念へと入っていきます。そうすると、それまで見えていたものの姿が見えなくなってしまうのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 114
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9-k [2-f] (あなたは自分の死を早めるために努力をしているようなもの)
死というのは肉体の終わりに過ぎず、人格=自己の終わりではありません。しかし、身体の生命力が衰退し、死と呼ばれるものへと身体が誘われていくのもまた、人格=自己が持つ価値観を通してのことなのです。
あなたの身体は、指示されたとおりにしか反応しません。心臓のそばに宿っている魂が、感情というシステムを通して、身体をすべて管理しているのです。この魂が、化身の生命を維持するために、全身にホルモンを分泌させています。魂はこれを独自にではなく、あなたの価値観や思考過程の指示のもとに行なっています。いまこの次元で生きる皆が持っている価値観のおかげで、思春期を過ぎると体内での各種ホルモンの生成は止まってしまいます。これらホルモンの生成がやむと、ある種の死のホルモンが体内で起動し、全身が衰退して、老いて死んでいく過程が始まるのです。体内で死のホルモンがつくられるのは、あなたが罪悪感と、自分に対する審判と、そして死の恐怖の中で生きているからにほかなりません。皆にとっての美とは、人の内面の性格ではなく、すべて外見的な若さにもとづいたものです。自分を埋葬するための保険をかけることで、あなたは死を予期します。自分が病に倒れたりしたときに自分の財産を守るべく保険をかけます。自分の化身の老化と死を早めるために、あらゆる努力をしているようなものなのです。なぜなら、あなたはそれをまったく当然のこととして予測しているのですから!
身体はただの僕(しもべ)に過ぎず、思考全体のための道具なのです。確かに驚異的な創造物で、この世で最も高度な道具です。しかし、それ自体の心を持つようにはつくられていません。それは、僕になるという特定の目的のためにつくられたのであり、あなたが生かしておきたいと思う間だけ生きているのです。あなたがもし「老年」という想念を受け容れ、身体が衰えて死ぬことを当然のことと考えるなら、あるいは自分が愛と幸福とよろこびを得ることを拒むならば、あなたの身体はゆっくりと死の崩壊へと落ち込んでいくことでしょう。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 116-117
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9-l [57-a] (あなたはいつまでも生きられる力を自分の内面に持っている)
たったいまのこの瞬間にも、もし自分でそう選ぶなら、あなたは時間を完全に止めて、いまというこの瞬間の永遠の中に生きられるのです。だって、時間は幻なのではありませんか? いったい誰が時間を見たことがあるというのでしょうか? ここには大いなる欺瞞があります。皆は目に見えないものを信じるのは拒むというのに、時間だけは完全に崇拝し、その奴隷にまでなっているのですから。
あなたはまったくそのままの状態で、自分の化身の老化のプロセスを逆転して若いときに戻し、いつまでも生きられる力を自分の内面に持っているのです。どうやってでしょうか? ただ自分の考え方を通してです。自分の肉体が老いて死ぬことを望まないならば、あなたの考え方を変えることです。身体は永遠に生きるのだ、と態度で示すのです。そうすれば、そのとおりになります。自分の人生から、身体の終焉を認めるようなものをすべて取り除くのです。そうすれば、身体は永遠です。自分の語彙の理解の中に「年老いた」という言葉があってはいけません。かわりに「永遠」という言葉を入れるのです。誕生日を祝うのをやめなさい。それは老化の過程に正当性を与えることになります。誕生を祝うことがよろこびをもたらすのであればそうすべきですが、それなら年を数える過程を逆転して、ひとつずつ若くなりなさい。死を当然のことと受け容れなければ、死が来たこともわからないでしょう。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 117-118
9-m [44-g] (神なる本質を持ったあなたこそが崇高なる創造主である)
天界に光をもたらしたのは誰か。花の美しさ、木々の勇壮さをつくり上げたのは誰なのだろうか。人間という、不可思議な謎と言える存在を創造したのは、いったい誰なのだろうか。それは、すべての生命の総体である神ではない。在るものすべてを創造したのは、自分たちも神々であり、すべてを愛する父なる存在の息子である、あなただったのだ。すべてをである。父なる存在とは、すべてのものが、そこからできている物質、思考体だ。しかし、思考する能力、感じる能力、それに自由な意志という神なる本質を持ったあなたこそが、この世界での崇高なる創造主なのだ。
神は確かに思考の総体であり、在るものすべての源である。しかし、父なる存在そのものである思考から、すべての創造物の美と魔法を創造したのは、あなたたちだ。創造力と、崇高なる神性を通して、思考を受け容れ、保持し、その想念を思いめぐらす能力があなたにはある。そして、その知性を通して、あなたは在るものすべてをつくり出したのである。
ここで何かひとつ空想してみてほしい。わくわくするような、スリリングな、気持ちが思わず昂まるような空想だ。今度は、その空想がもたらす感情をすべて、余すところなく味わい尽してみよう。そう、あなたの宇宙はこうしてつくられたのだ。人間はこうしてつくられたのである。すべてはこうしてつくられたのだ。
わが愛する主たちよ、あなたはまさにすべての生命の創造主だ。皆は宇宙のみなし児などではないのだ。それどころか、宇宙を創造した側なのである!
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 121-122
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9-n [12-c] (思考こそがすべて在るものの基盤であり創造主である)
聖書にはこう書かれている。「はじめにまず言葉ありき。すべては言葉とともにありき」
これはまったく正しくない! 言葉は思考なしにはまったく無の存在だった。思考こそがすべて在るものの基盤であり、創造主だからだ。
はじめは(皆がはじめと呼ぶものではあるが)、すべては思考の無限であった。この無限性を私は父なる神と呼ぶ。あなたが神と呼ぶものは、限界のないもっと広い考え方で言うと、思考のことであり、それはすべての生命の起因、基盤となるものだ。いま在るもの、これまで存在してきたもの、これから存在するもの、それらはすべて思考、つまり神の精神である知性から派生してきたものなのだ。
つまり、はじめにはまず思考という限りない空間があった。そして、自分自身のことを思いめぐらさなければ、また内面に思考を向け、自分自身でもあるこの思考自体について思いめぐらすことがなければ、神は形のない思考のままでいたことだろう。父なる神が自分自身であったこの思考について思いをめぐらせると、ある独自の形に自分を拡大することになった。というのは、ある想念が思いめぐらされると、この純粋な理性的行為が思考を拡大するのである。そして思考はさらに大きいものとなる。こうして、これまで自分の存在を拡大したことのなかった父なる神は、自己に思いをめぐらすことによって、偉大なる存在となっていったのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 123
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9-o [44-h] (あなただけが父なる存在の完璧な複製である創造物である)
神である父の最初の創造物となったあなたは、それぞれが神から生まれた神であり、父の息子であり、そして神の精神と呼ばれる崇高な知性の一部となったのである。神々であるあなたたちだけが、神から直接創造された存在だ。あなただけが、父なる存在の完璧な複製である創造物なのだ。それは、父なる存在が拡大した姿があなただからである。父なる存在のすべては、その愛する息子たちをすべて合わせたものの内に、無限に息づいているのである。
父なる神とは、生命という強制的で思索的である思考のことだ。あなたの思考がじっとしてはいられないように、それはけっして立ち止まらない継続する過程である。思考、あるいは生命が永遠に向かって拡張を続けていくためには、それを続ける理由がなくてはならない。その理由が、あなたなのだ。あなたたちの一人ひとりが神の精神の一部となったのは、あなたを通して生命が永遠に拡張を続けるためだ。永遠とはけっして時間の単位ではない。なぜなら、永遠とは、この瞬間のことであり、現在という瞬間の継続性、永続性そのものであるからだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 124
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9-p [44-i] (思考はそれ自体について思索し広がっていって光になった)
はじめにまず、思考がそれ自体について思索し、広がっていったときにどうなったか。それは思考の本質のなかでも光と呼ばれるものになったのだ。光が最初に創造されたのは、思考が行なわれ広がっていくとき、その波動は必ずある周波数、光を発する周波数のレベルまで下げられるという理由からだ。つまり、思索され、拡張された思考が降りていく最初の形態が光なのである。あなたの血筋は、この光の誕生のときまでさかのぼる。なぜなら、最初に思索の対象となった想念から生まれた光の分子が、それぞれがひとりの人間となり、神となり、息子となったからだ。こうして、創造の誕生のとき、すべては光の存在と呼ばれるものになったのだった。
皆の誰もが、この同じ瞬間に創造され、存在するようになったのだ。過去に存在したもの、これから存在するもの、すべての存在は、神が自己について思索したこの瞬間に思考から光へと創造されたのである。思考から広がっていった光は、「思考の河」と呼ばれるすべての想念の流れ、つまり神の精神と隣り合わせに位置しており、その一部となったのだ。
皆の一人ひとりがなった光とは、そのときもいまも、あなたそのものである知性であり、光という形に広がった神だ。この神なる光、あなたの最初にして永遠の身体であるものこそが、あなたの存在の精神、あるいは私が「あなたの存在の内にある神」と呼ぶものだ。あなたの精神は、まさに神、神の心なのであり、それも単一の存在としての、という意味合いのものだ。今日でも、あなたはこの原初の精神、原初の神なる自己を持っている。そしてあなたは、思考という、あなたの愛する父が思索をめぐらし、光へと広がったその瞬間に光の存在となったのであり、いまでも、この輝かしき原初の光体をそのまま内に有しているのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 125-126
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9-q [5-b] (精神のうちに宿る魂があなたを創造性あふれる存在にしてくれた)
魂は精神の内に宿っているが、あなたを創造性あふれる存在にしてくれたのはこの魂だ。なぜなら、何かを創造するためには、ある思考の明確なイメージを記憶の中にしっかりと維持しておく能力が必要になるからだ。そうすることによって、その思考に思いをめぐらし、皆が現実と呼んでいる創造的な概念へと広げていくことができるのだ。
たとえば、これまでにないような新しい花を創造しようとすれば、その花についての想念を出現させなければならない。この花についての想念は、途切れることない思考の流れから取り出さねばならず、この流れとは、とりもなおさずあなたの存在の精神、あるいは光とまったくひとつのものなのである。この想念は、感情という形で、ひとつの像として魂の中にはっきりととらえられる。これであなたは、自分の欲求を通じて「花」という想念のイメージを思い出すことができ、それに思いをめぐらせて、どんな形、色、あるいは高さにでも自分の好きなように、それを広げていくことができるのである。いつでも、どんなユニークな花でも創造することができるのだ。想念を完璧に静止した状態で記憶にとどめることによって、その姿を完璧に描くことができるのである。
魂なしには、父なるものを創造物にまで広げられない。なぜなら、思いをめぐらせて、それを創造物へと広げるために想念を静止した状態にする、ということができないからだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 126-127
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9-r [22-a] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)
ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131
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9-s [22-b](魂の内に宇宙を感じることにより宇宙を創造したのはあなたである)
形あるものの創造が始まった最初の頃、神々は自分に思いをめぐらせ(光という自己の存在についてだ)、太陽と呼ばれるものを創造することによって、光の観念を物質化した。それも何千兆個という無数の数をである! これらの太陽はすべて、電磁場の波動を下げた結果できた気体物質を集約、融合させることで創造された。生命の中心である火花、つまりこの偉大なる太陽から、惑星と呼ばれる回転する球体がつくられ、それぞれの軌道に乗せられた。そしてこの球体の上に、あなたたち神々がさまざまな形あるものをつくり上げたのである。それを皆が学ぶのには、気の遠くなるような長い時間がかかったのだ。
この宇宙、そしてさらに偉大な太陽系の数々を取り囲む多くの宇宙を創造したのはいったい誰か? あなただ。そう、あなたなのだ! 単純明快に、あなたがつくり上げたのである。一つひとつのものを創造するにともない、あなたは自分の体験を広げ、それが魂の内に感情を発生させた。これこそ思考の中でも最高の宝だ。そして物質の次元の創造も、さまざまな感情を通して行なわれたのだ。
あなたがまさに光の始まりの火花であったこと、そして、創造主であるあなたたちが、崇高なる意志を通じてすべて在るものを創造したことにこそ、あなたの神性があるのだ。あなたがすべてを創造した。神が宇宙を創造したのではない。神は宇宙そのものなのだ。魂の内に宇宙を感じることにより、自分の思考過程からそれを創造したのは、あなたである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 129-130
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9-t [22-c] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)
ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131
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9-u [44-j] (思考観念を用いて神々が乗る車両として人間は創造された)
神々が自分の創造したものを直接体験し、しかも創造性の表現を続けるための手段として、物質界での存在をつくろうと決心したのは、食物連鎖がしっかりと確立されてからのことだった。それも、創造したものとしてではなく、自分自身として体験する媒体を、である。そのために、彼らは人間という化身をつくったのだ。
思考は浸透性の周波数を持っている。つまり物質を通過してしまうということだ。そのために、光という形の思考であった神々は、花になることはできたが、その香りを嗅ぐことも、その本質を知ることもけっしてできなかった。彼らはちょうど、木々の間をそよぐのに、木そのものを感じたり抱きしめたりすることができないそよ風のようなものだった。石を通ってしまうことはできても、それを感じることはできなかった。思考は石という物質に影響されることがなかったからだ。その低いレベルの波動を感じる能力を備えていなかったのである。
神々が花の香りを感じ、花を手に取り、身に飾るには、またその美を知り、そのあざやかさを体験するためには、物質界に存在して、花と同じ周波数で振動する媒体をつくらねばならなかった。このために、ほかのすべてが創造された後、人間という化身が創造された。神々が、物質体、あるいは「固体」、つまり思考が最も低次のレベルまで変換されたものを通じて、自分の創造物を体験し、また自分の創造性を表現していくという目的のためである。
人間は思考観念を用いて、神々が乗る車両として創造された。それは個々の神々にとって、完璧な化身だった。魂を宿らせることができて、しかも神の精神で包むことのできる化身だったからだ。これで神は、花に触れ、その香りを嗅ぐことができたのだ。その体験は、神々の行ないの中でも至上の宝と言える「感情」として、魂の内に永遠に記録される。これで神々は、木を見てはこれに思いを馳せ、その香りを楽しみ、その美に触れることが可能になった。これで神々は、互いの姿を見て、触れ合い、抱き合い、そして話すこともできるようになった。互いに育み合い、観察し合い、完璧に自由でいられるようになった。神々は、今度は人間としての遊びの対象となる、まったく新しい冒険を手にしたのである。それは、目には見えないながらも大切な本質、感情というものを体験するためであった。
こうして、固体の密度を持たない光の存在である神々は、自分の観念にあった密度をつくり出したのである。この化身という固体を通して、神々はいまひとつのレベルで自己を表現することが可能になったのだった。それは、想念が物質という形で投影され、出現するという次元だ。この過程で神々は、人類と呼ばれる細胞物体の知性という形で表れた単一の「神」、つまり神なる思考そのものとなったのである。こうして、彼らは神なる人間、人間なる神になった。人間というすばらしい形態で自己を表現する神、自分の内にあって、自分の父なるものの永遠への広がりを続けていく神を表現する人間となったのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 131-133
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9-v [54-q] (あなたこそ「荘厳なる思考」であり「姿ある神」なのである)
限りある思考では、時間、距離、空間、そして物質を超越したものを指し示すことはできない。限りある思考では、説明によってそこまで到達することができないからだ。ここでは「神」や「父」という言葉が使われてきたが、それは単にすべて在るもの、これまで在ったもの、そしてこれから在るもの、過去に、現在に在るものの「在るということ」、そして永遠へと向かう無限の「在るということ」に言及するための言葉にしかすぎない。
そうすると、結局、神になるための基準点をどこに見つければいいのか。それはあなた自身の内に、である。あなたはまさに神のイメージであり、父なる存在の写しなのだ。あなたの本質部分とは、まさしく途切れなく続くものであり、進化と創造を続け、存在し続けるものなのだ。あなたは思考であり、光であり、電磁場であり、形だ。純粋なエネルギーであり、恐るべき力であり、脈打つ感情であり、荘厳なる思考なのだ。最高のレベルの知性、力、尊厳、そして最も聖なるもの、神の恩寵とあなたが考えてきたもの、まさしくそれがあなた自身の姿なのだ。あなたはいったい誰なのだ? あなたこそが、「姿ある神」なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 152
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9-w[42-e] (善悪はなくあらゆるものは智慧を与えるひとつの体験である)
聴衆の皆さんに向かって、私はこう言います。あなたより偉大な師はいません。そして一人ひとりがそれぞれの人生に責任を持っているのです。私たちは思考の中で物事をする存在なのではないのですか。そして、私たちの思考がさらに進化するのは、それが実体をもったときではないのでしょうか。
人を牢獄に入れ、これ以上小さくて暗く、汚らしい穴ぐらはないという場所に押し込めることはできても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです。そしてその人間は、思索を通して自分を納得させ、自分に教え、そして、自分に審判を下すこともするのです。
私は善も悪も認めません。認めるのは生だけです。もしある存在が、いま、ひとりの存在を殺めんとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為をしようとするなら(それはどちらも変わらぬことです。なぜなら、考えたことはすでになされていることと同じなのです。思考の中で他の存在を真っ二つに斬ったことのない人などひとりとしていません)、どちらの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行なう必要があったのです。ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。彼もまた、もしかしたら、真っ二つに斬られるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところまで引き寄せてしまったのです。こうして、暴行をはたらく必要があった者と、(それを理解するために)暴行される必要のあった者が、その体験のために同じところに引き寄せられてきたのです。
神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです。これがあなたへの私の答えです。そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。
人間が、法律だの計画だの規則だのといったものにあふれた、この限定された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのもののよろこびと平穏を見いだし、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるでしょう。そしてすべてが、自分の意図を反映した流れを自由につくるようになるのです。そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになります。そして、神であるもの、つまり、すべての生命を育み、支えていく基盤となるのです。そうでありますように―
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 189-191
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9-x[37-g](在るがままでいる以外成し遂げなければならないことは何もない)
神と自分がひとつであることを知ると、思考過程から分離という価値観を取り除き、神である自分の頭と再び連結することができる。何よりも賢く、すべてを知る父なるものの知性とは、あらゆる存在の基盤であり、あなたがすべての思考そのものになるのを許している「思考の総体」であると気づくとき、あなたは神であるすべて、つまりはすべてのものになる。そうすれば、あなたは自分の自由へ、偉大さへ、そして栄光へと戻ることができる。もうこの天国に何度も何度も戻ってくる必要はなく、さらに偉大な天界へ、あなたを待ち受けるさらに壮大な冒険へと進んでいけるのだ。
とにかく、在るがままでいる以外、この次元であなたが成し遂げなければならないことは何もない。自分が神であると知るのは、ただ在る状態ではじめて可能になることだ。なぜなら、神とは存在そのものであり、すべての生命の「在るということ」だからだ。ただ在る状態、どういう形でそれを表現しようとも、自分にただ在るがままにさせる状態でいるというのは、父なる存在とまったく同じになるということだ。そしてそれは、ほんの一瞬にできることなのである。わずか一瞬の間に実現することなのだ。
神とは、たったいまのこの瞬間のことだ。無限とは、いまのこの瞬間なのである。永遠に神となるというのは、このいまの瞬間にある永遠に完全に生きることだ。神はそうして生きているのである。ただ在ることだ。そうすれば、すべての生命の「在ること」、その途切れなき継続性とひとつになることができて、身体もその継続性そのものへと進化していく。そうすればもう死ぬ必要もなくなる。すべての次元を超越して、第七の次元、つまりすべてのものの最終的な姿となっていく。それは思考だ。これは真理である。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 222-223
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9-y[23-v] (あなたの悲しみが他の存在の幸福であることがよくある)
―それから、もしできたら、この次元に押し込まれていないときにあなたは何をしているのか話してもらえないでしょうか。
皆さんがしているのと同じこと、つまり自分を表現しているのです。ただひとつの違いは、皆の表現には制限がありますが、私のにはないということです。私は永遠に手が届くのです。自分の終わりについてはけっして思いめぐらすことはありません。そんなものはないのですから。そして、本当に私は風とともに行きます。それが私の究極の望みでした。
私は幸せでいます。あなたの人生を見つめ、あの人のも、この人のも見つめています。そしてここでの皆の幻を見て、それは皆にとっては確かに深刻なことばかりで、いわば気持ち悪い色の水でいっぱいですが、私はおかしくて笑ってしまいます。なぜなら、ただもっと見ようとすればいいだけのことで、そうすればもっと豊かなものがあるからです。
私は自己を表現していて、自分の在るがままで幸せでいます。いま皆が見ている姿ではないとき、私は「在りて在るもの」なのです。すべてのものが生まれてくる場です。第七のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に近づくところまで存在しているすべてのものを内包しています。そして、第七のレベルの存在になると、もはやレベルというものさえありません。ただ存在するだけなのです。そういう意味で、すべてのもの、すべての「知っている状態」、そしてあらゆる思考を体現する感情すべてとなるのです。
思考そのものになるのがどんなことか思いめぐらしてみてください。思考はどれほど遠くまで移動することができるでしょうか。太陽の表面に思考を置いてみることはできますか。月の裏面はどうでしょうか。あるいはあなたから見える天界の大小の星には? どこかほかの次元にいる別の存在に想念を送ることはできるでしょうか。これはみな、ほんの一瞬もかからずにできることです。そうなれるものを、あなたは自分の内面に持っています。そういう表現をしたがらないのは、あなた自身なのです。いまある状態の表現をしたがっていますから、それはそのとおりになっているのです。
―自分がなぜ繰り返し戻ってくるのかわかる時点が、必ずあるはずだと思うのですが……
あります。それは、幸福と呼ばれるものです。そしてその時点とは、いまの自分よりもなりたい存在などない、いまいるこの場所よりもいたいところはないというときのことです。それがわかる時点です。
もうひとつ、あなたにとっての悲しみや苦痛が、他の存在の幸福であることがよくあります。ここにいる人は誰でも自分の人生は幸せなのです。皆そのことに気づいていないのですが、それは彼らの幸せの理想像というのが、ピーターパンのおとぎ話に出てくる妖精ティンカーベルよろしく、あちこち忙しく動きまわっては、すこしでも状況をよくしようと、あれを青に、これを紫にピンクにという具合に色を変えているピエロのような存在だからです。
ここにいる誰もが幸福です。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからです。もし病気になりたければ、病気になっています。もし不幸になりたければ不幸になっているのです。それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸せにしてくれるからなのです。無理に笑わせようとすると、突如として涙を流して泣き崩れてしまう人もいるくらいですから。
ここにいる誰もが自己を表現し、生を楽しんでいます。もしそうしていなかったら、一瞬のうちにその人は死んでしまうことでしょう。そして、ときが来れば、皆、確かに死にますが、それは自分はそうしなければならないと思っているからです。主よ、ある日あなたもまわりにいる皆を見ているだけで気づくことでしょう。どんな形で自己を表現しているにしても、皆、限りなく幸せだな、と。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 241-243
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9-z[35-b] (あなたが知ることはすべてあなたがなっていくこと)
知識は、あなたの精神がすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。在るものすべての「知っている状態」をさらに深く見させてくれるものであり、さらに偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれるのだ。知識は、あなたがさらに成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることをあなたに強く求めるのである。その意味で、それはあなたを限られた人生から、さらに限りない領域へと連れていくのである。知識、それに学びへの冒険を通じて、あなたはさらに単純明快な存在となっていく。そして、その単純明快な中に、在ることの平和と生のよろこびを見いだすのだ。
さて、ここで知ることの科学について説明したいと思う。つまり、どうしてあなたはすべてを知る力を持っているのかということだ。それはなぜ大事なのだろうか。それは、あなたが知ることは、すべてあなたがなっていくことだからだ。そして、どうしたら在るものすべてを知ることができるかを学んだとき、あなたは在るものすべてとなり、それはまさしく神になるということなのだ。限りない知識、限りない生、そして思考の総体なのである。そこでは、あなたは再び、ただ在ることの限りない自由であり、よろこびなのだ。
すべて在るものを知ることがどうしてできるのかを理解するためには、すべては神の精神である思考から存在してくるだけでなく、あらゆるものがその存在固有の想念を発しており、それを神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。
あらゆるものはまわりに光の場を持っている。光の輪によって囲まれていないものは存在しない。光が思考の像を保持し、観念を物質という形体へと創造していくからだ。その光の場を通して、個々のものはその存在の思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。これが神の精神なのだ。
カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の草を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものは何だろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは、「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰がすわっているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎ込んでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡張し、動いているからだ。
すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないとにかかわらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが、何かが「知られる」ということなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 247-25
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9-za (あなたは意識の流れからくる思考によって生かされている)
意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つひとつを含め、あなたの自己はすべてそこから途切れなく栄養を与えられている。思考はあなたの生を維持し、それに実体を与えてくれるものだからだ。意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。個々の細胞に食物の栄養物質を運ぶ血液の流れによって身体が生きているのとまったく同じように、あなたの自己全体は、意識の流れから発する思考の物質を通して維持されているのである。
意識の流れからくる想念によって、あなたは自分の存在の一つひとつの瞬間を創造している。思考の河からつねに想念を取り出しているのであり、それを魂で感じ、その感情を通じて存在の全体を育み、成長させ、今度はその成長した自己を想念の河へと戻し、それによって河がすべての生の意識を広げていくのである。
意識は、あらゆる生物、あらゆるものが発する思考すべてで成り立っている。意識をつくり上げている思考は、それぞれ異なった波動をもつ。中には、きわめて低い(あるいは遅い)波動のものがある。これは、「社会意識」としてこの世界を支配しているような思考だ。高い波動の思考もある。もっと限りない超意識の思考だ。意識とは、異なった思考の波動の周波数値すべての総計であり、その中で、それぞれの想念があらゆるところから似たような波動の想念を引き寄せているのである。
社会意識は電気的な思考の密度をもつが、それでも空気より軽い。社会意識の密度の濃さは、表現された想念がつくり上げている。あらゆる存在が感情を通してこれまで表現してきた想念のことだ。それは実体となった想念、言い換えれば、それぞれの存在がすでに自分の中に取り込み、魂で感じた後に、各々のオーラの場を通して思考の河に戻し、他の皆がそれを栄養としてまた取り込んだ想念なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 252-253
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9-zb[51-k] (波動の高い思考は自然の意識の中で体験しやすい)
皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は、制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身の死、あるいは自我の死のどちらであってもである。したがって、皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受け容れられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められているのである。こういった低い波動の想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。だからあなたは、きわめて制限され、よどんでいる意識からの限られた想念をつねに与えられているのである。こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくり出すフィーリングを内から外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。
皆の世界の中でも、大都市の意識はとくに限られている。そこに生きる者のほとんどは、きわめて競争的で、時間志向、ファッション志向が強く、互いを恐れていて、他を受容する態度がない。したがって、大都市はすべて密度の濃い意識で覆われている。他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろしたときに見るのは、複数の色の光でできた編み目のようなものだ。きわめて限定された意識がもつ、波動の低い想念が光の場として現れているのである。
もっと波動の高い超意識の想念とは、「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。それは愛の想念なのである。そしてよろこびの想念なのだ。天才の想念だ。それは、本当はいま私が語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。無限の思考からのフィーリングというものは言葉による記述を超えているからだ。
波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。そこでは、生というのは単純明快なものであり、時を超越して途切れなく続き、自己と完璧に調和がとれているからだ。そこでは、人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 253-254
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9-zc[20-a] (脳は思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバー)
意識の流れから想念を取り出す力をどうしてあなたはもっているのだろうか。あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、存在の感情面での状態にしたがって、想念を引き寄せてくる。想念があなたの養分となる、つまりそれがあなたの存在の内で感じられ、実感されるためには、波動を下げて光体となることがまず必要だ。想念が、身体を包んでいる光であるあなたの存在の精神と遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。つまり想念は、光に遭遇すると自ら発光するのである。光は思考物質の波動を下げる。こうして光が、それと似たようなものを引き寄せるのだ。想念は目に見えず、それが次に光の炸裂という形で見えるようになる。想念は光という形であなたの脳に入り、今度はその想念の波動値によって異なる特定の周波数をもつ電気的な光の推進体へと変容するのである。
何かひとつのものをあなたが意識するとき、あなたはその想念を受け取っている。想念を受け取っている瞬間に、あなたの脳がその想念の光を受け取っているのだ。通常は視界の横のほうでだが、ときとして光が炸裂するのを見る人がいる。そこで目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取っているところなのである。目の前に輝く光が現れるのを見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部でその姿を見せた瞬間なのである。目を閉じたとき、さまざまな色の動きや、形が広がるのが見えるなら、あなたは想念が脳に入るときにどんな姿になるかを目にしているのだ。
あなたの脳は、思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーであり、その各部がそれぞれ違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできているのだ。各部分は、その細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を秘めている。ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。
一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ。それは、あなたの存在の精神を通して入ってくる想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅すると、それを理解できるよう実感するために、身体のあらゆる部分に伝達するという特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 254-256
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9-zd[20-b] (波動の想念を受け取る脳の力は脳下垂体によって制御される)
皆の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれるものがあるが、それには音量を決めたり、どのメガヘルツの周波数の電波を受信するかを決める調節器があるはずだ。脳もまた、同じような調節器を持った受信機であり、ある特定の周波数を受信するためには、それを蓄積するようつくられた部分が起動されていなければならない。
異なった波動の想念を受け取る脳の力は、ちょうど右脳と左脳の間に位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。脳下垂体は第七のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。異なる想念の波動を受け取って蓄積するそれぞれの部分を起動させるはたらきをするのである。思考を用いて思索したり、論考したりして、その想念を身体全体にめぐらせ、体験として実感し、さらに大きな叡智を得るというあなたの力を開いてくれる扉なのである。
脳下垂体はたいへん小さな、しかしすばらしい分泌腺であり、これを「第三の眼」と呼ぶ人もたくさんいる。でも、三つめの眼はない。頭の中にはそれが入る余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口状の部分があり、それがちょうど花びらのように見える。あなたの脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れのシステムを通じ、支配され制御されている。内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れて、いまひとつの内分泌腺で、脳下垂体の近くの大脳の基底の部分、ちょうど脊髄の上に位置する松果体の口状部へと流れていく。松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取るさまざまな脳の部分を起動させるはたらきをするのである。
身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンによって調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体のホルモンが他の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。そのバランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、そのホルモンの量を増やして、今度はそれがさらに高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 256-257
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9-ze[20-c](意識の流れからの想念はあなたの存在の内でどう実現するか)
意識の流れからの想念は、あなたの存在の内でどういうふうに実現するのだろうか。想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままでそれを通すのだ。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。
さて、変性自我とは何だろうか。人間としての体験から得られた叡智が魂に蓄積され、脳の知性の部分を通して表現されているものだ。神なる人間が、ただ生き残る生き物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中に収まらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け容れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つためにすべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。
変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させたその波動を蓄積する役割を持つ脳の部分に送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。
松果体は、あなたの中枢神経を司っている。個々の思考の波動を集め、それをさらに増幅して、電気的な思考のハイウェイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込む。松果体から来た電流は中枢神経の内部にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つひとつの細胞へと伝えられていく。
さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行なわれた食物の摂取の際に、酵素のはたらきで得られた気体が供給されている。想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。これが、細胞分裂を通して細胞が自己複製することを可能にするのだ。もうひとつ細胞を創造し、自らを再生するのである。こうして、このたったひとつの想念を通じて、身体全体が潤ったのだ。これが化身の分子構造の内部で生が実感される過程である。それは、あなたが存在する一瞬一瞬に受け容れているすべての想念がもたらす結果を通じてのプロセスなのだ。
想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。全身がである!こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体中を走る感じ」というようなものをつくり出す。そして、そのフィーリングは魂に送られ、そこで記録される。
あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する、まったくバイアスのないコンピュータなのだ。何か感情を感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 257-259
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9-zf[20-d](何かを知りたいならば必要なのは感じることだけである)
記憶には大きさというものがない。それはひとつの実体であると言える。記憶は視覚的な記録ではない。それは感情の記録なのだ。視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。魂は、記憶の目的で画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。
魂は、全身で感じられた思考によってつくり出された感情を受けて、記憶の中からそれと似たものを探す。脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。
記述できることは、すべて体験にもとづいたある特定のフィーリングと結びついている。皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験があるおかげだ。皆は花という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験がある。だから花はある特定の感じをもたらしてくれるのだ。絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験をそれと結びつけているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。魂は、そういった感情の体験からの情報をすべて記録している。想念からのフィーリングが感じられると、魂はそれを記録し、そして記憶にあるこれまで体験した思考の中から、それと似たフィーリングを探す。そして、その情報を脳に送り返し、その想念は実感された、つまり化身全体を通して、そのすべてが理解されたことを伝えるのである。思考はただ脳だけで実感されるのではない。それは全身で実感されるのだ。脳の理性の部分が、その後でそのフィーリングを描写する言葉を作成させてくれるのである。
想念はどのように実感され、知られるようになるのだろう。それは感情を通してだ。「知っている状態」というのは、まさにひとつのフィーリングにほかならない。どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知られることはない。感じられて、はじめてそれはひとつのアイデンティティを持つのだ。ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。一度そのフィーリングを自分の内に持てば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。
わが愛する兄弟たちよ、あなたたちの内にこそ、すべての知識への扉があるのだ。あなたの内面で燃える炎は、あらゆる徴少な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞形態を持つ生き物、つまり在るものすべての内にちらちらと燃える炎と同じものなのだ。まったく同一の火なのである。すべての生命とひとつであるというあなたの状態は、光の原理を通じて実感される。魂にある感情に信を与える光とは、花々や、星や、その他在るものすべてに信を与えるのと同じ光だからだ。だからこそ、あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有しているのである。何であろうとも、それを知るということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。花を知っている状態というのは、内面の存在が、フィーリングを通して到達するものなのである。何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 259-261
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9-zg[20-e] (脳の松果体は知識を具現化させるチャクラである)
思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか。松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。受け容れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。まずそれは身体のレベルで起きる。松果体が、まず最初にその想念が感情として記録されるよう、電流として全身に送る役割を持つからだ。想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。つまり、体験する「ハイの状態」、あるいは体中を走る感覚がより強くなるわけである。そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。その期待感が、光の場の電磁部分を起動させ、ちょうど磁石のように、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。それは、あなたの想念すべてから得られ、体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、物であり、人であるのだ。なぜだろうか? あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。
では、望みというのはどう具現化するのだろうか。望みとは、それが満たされるという想念を、物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。あなたが自分に感じることを許した「満たされるという想念」は、すべて電磁場を通ってあなたの身体を離れ、意識の流れに入っていって、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。その欲求が身体の内で完全に、そして強く感じられたものであればあるほど、それが満たされる形も完全なものとなる。そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、それが現れるのも早くなる。絶対的な「知っている状態」というのは、オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 261-262
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9-zh[20-f] (あなたにはあるものすべてを知る力がある)
あなたにはあるものすべてを知る力がある。それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。物質次元で物質的な身体の中に生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、すべて三次元に形あるものを通してそれができるようにするためなのである。あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、すべて体験する現実となる。はじめは自分の化身の内に見えるものとして、次にはあなたの人生の状況として。そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにはあるのだ。そうやって、この地球上に天上の王国がつくられていくのである。
それは実に簡単な科学だ。忘れないでほしい。思考はただ存在する。そして、光は見える。光の波動が下げられ、電気信号となる。電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて固体となる。そして、固体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。同じ真実が身体にもはたらく。それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから電気を受けて、固体の全身に送り、その固体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。望みを現実のものとするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけでいいのだ。するとその感情が父なるものに送り返され、それが満たされるのである。ただそれだけのことなのだ。単純すぎるだろうか。それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか?
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 262-263
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9-zi[20-g] (あなたの脳のほとんどは休眠状態で何もしていない)
もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。脳のほとんどは休眠状態にある。何もしていないのだ! それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。それを除いてしまうのである。言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。
皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定されているからだ。つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。
誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 264-265
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9-zj[20-h] (あなたが自分に考えることを許したものは必ず体験する)
閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!
はっきりと言おう。何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。
閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。確かにそれは変化をもたらす。なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。
これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。
天才になるというのはとても単純なことなのだ。自分で考えるようになればいいだけなのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 265-267
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9-zk[20-i](脳の全体が使われれば自分の身体はどのようにもできる)
脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。水は電気の伝導体だ。水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。
もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか? もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか? 完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。
脳全体の能力は膨大なものだ。なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。
身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。
いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完璧に再生させるのである。完璧に、だ! 奇跡的なことだと思うだろうか。それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 267-269
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9-zl[20-j] (愛や喜びのすべては想念を変えるだけですぐそこにある)
身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。確かにそういうものは効く。それが効くと誰もが信じているからだ。また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。曰く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。だから実際にあなたにはそれができない。なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。そして、彼らは癒された。一瞬のうちにである。「知っている状態」は、そういうことができるのだ。そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。身体はそうできているのである。
存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか? それは、社会意識だ。どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。どこに愛があるのか。どこに永遠が? どこに神があるのだ? そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。
一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。それは、知りたがっていなかったからだ。あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。だからあなたは自分の力を手放してしまった。自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。脳のはたらきを止めてしまった。それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 269-270
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9-zm[20-k] (あなたは自分の内に完全に神になる力を持っている)
人間が、気の遠くなるほど長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。神というのはそれだけのことなのだ。思考の総体、生の貴さだ。そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。完全に、である。いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。知ることができることはすべて知るだろう。あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。
あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。変性自我である。なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも……。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 270-271
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9-zn[44-y](あなたは身体の中に永遠に生きていける力も持っている)
反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。
反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。その寺院とは、あなたのことだ。すべてはあなたの内面にある。あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。限界と無限の両方の存在を許すのである。
「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。それがハルマゲドンだ。自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。
神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。
あらためて言おう。あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。それに、望むものは何でも実現させる力を有している。もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 271-273
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9-zo[20-m] (限界のない想念を受け取っていけば光を発するようになる)
どんな望みでもそれをかなえるいちばんの方法は何だろうか。あなたの存在の主=神から直接それを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて身体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在の内の神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在の内に入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。
限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂の内で感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。
レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、何となく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経系を通って、あなたの身体の一つひとつの細胞へと送られる。これが、体中がしびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞一つひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 276-277
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9-zp[20-n] (波動の高い思考が理解されるとそれは智慧として魂に記録される)
限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく表す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、何の前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。
覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくるとき、あなたは感情あふれて言葉を失ってしまうことだろう。
思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するというのは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくれば、あなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。
高い波動の想念から体験できた高揚感は、その後どうなるのだろうか。
あなたの魂がそれをとらえ、記憶としてそこに永遠に置くのだ。魂は、感情、フィーリングを通して、この限りない思考の記憶がよみがえることを許すのである。こうして、あなたの「知っている状態」はいつのときもそこにあるように捕捉されているのであり、自分が受け容れることを許したものは、何度でも呼び覚ますことができるのだ。
その高揚感には、いまひとつすばらしいことが起きる。魂が、オーラの場を通じて意識の流れへとそれを放射するのだ。これは意識の密度を高めるだけでなく、同じフィーリングを生み出す状況を人生に引き寄せてくるのである。なぜだろうか。その想念が体験を通じて完璧に理解されるようにである。波動の高い思考が完全に理解されると、それは智慧として魂に記録される。智慧とは、その知っている状態があなたの内面で絶対的なものとして固まったことを意味している。智慧は魂の波動レベルを高め、次にそれが、魂の高次の感情の状態に人生全体を合わせていくはたらきをするが、同時に脳下垂体をあらためて刺激し、それよりもさらに偉大な、高い波動の思考を脳が受け取ることを可能にしていく。こうしてこのプロセスはさらに続いていくのだ。
脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が、創造的な形体へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それは、あなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに、似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。
やがて、輝き、創造性、そして「知っている状態」が、自分の内面でどんどん強まるにつれて、以前は感じたことも知っていたこともないようなことをあなたは感じ、知り始める。ほかの人間を見て、その人を自分の存在の内に感じるようになる。自分の思考から、これからやってくる日々のことを知ることができるようになる。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 277-280
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9-zq[20-o] (思考の波動をすべて検知できれば自分の好きな波動になれる)
心霊的な人間というのは稀有な存在だと思うだろうか。それはあなたが社会意識でものを考えているからにすぎない。社会意識というのは、そういう偉大な力が実は案外ふつうのことかもしれないとは考えないのである。誰もが心霊的な力を持っているのだ!自分に知ることを許すなら、あなたはすべてを知ることができる。なぜなら、社会意識の幻影に抑制されない「知っている状態」は、目の前からベールを取り去り、あなたは他の次元が見えるようになるからだ。耳から障害を取り除き、すべての生命が、自身との調和の中で振動する音楽を聴くことができるのだ。では、どうすればそうなれるのか? それを望むことによってである。
限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。
花はある思考の波動を出している。同時に、カーペットもまたある思考の波動を出しているのだ。すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。風にも、ほかの何でも、自分が望むものになる絶対の自由を手にするのだ。
やがて、脳下垂体全体が満開となり、脳のすべてが活動するようになる。すると、脳下垂体の内面にあった精神的なものは、すべて心の全体に与えられ、心はもう二度と以前の限られた状態に戻ることはなくなる。花が咲き始めると、それが閉じることはけっしてない。これからもずっと開いているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 280-281
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9-zr[20-p] (脳下垂体が満開となるとあなたはもはや死ぬことはない)
脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友のそばにいることもできるのだ。
脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上っていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じなのだ。純粋な神となるとき、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。あなたはすべてになるのだ。これこそ、最も壮大な天国なのである。
偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完壁な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面に入ってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきたすべての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終えるとき、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに百万倍も加速し、身体は見えない状態へと入って、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。
あなたは三つの側面、つまり精神、魂、自我でできた生き物であり、それが固体という次元で自己を表現している姿である。そして、その三つの側面すべてがないと永遠を実現することはできない。自分の存在の主=神に語りかけるのだ。それはあなたの言うことに耳を傾けることだろう。そのとき、語っているのは、主であり、神であり、師であるのだ。覚えておくように言えば、それは覚えていてくれる。さらに偉大になるように言えば、そうなる。そして、自分の主=神のレベルから、限りなき叡智を持ちたいと望むなら、それはあなたの心を開き、偉大なる波動の思考が身体で感じられ、知っている状態が訪れるようにしてくれる。必要なのはそれだけだ。ただそうするように命ずることであり、内分泌腺はそれに従うのである。そして、自分の存在に電流が走り、さらに偉大な叡智へと高めてくれるフィーリングがやってきたなら、内にある神に対し、それがこれほど簡単だったことに感謝してほしい。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 281-282
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9-zs (色情をもって女を見ただけで姦淫したことになるのか)
― キリストは、女を見て色情を起こす者は、すでに姦淫したる者なり、という意味のことをいっておりますが、そうしたことが真実としますと、青年以上で姦淫せぬ男性はほとんどないということになりますが、この点についてご意見を伺いたい。
私は青年時代、そのことで非常に悩んだものである。心で思うだけでもいけない、ということは、どんなに辛いことかわからない。しかも思春期の青年が清い心の持ち主であれはあるほど、苦しいのである。
私は色情の心について、キリストのように苛酷ではない。ああした言葉は、薬にもなるけれど、非常に善良な人間の心を痛める。あの言葉だけ、ぽつんと一つ聞かされると、イエスは、たいした人間ではない、と思わされる。しかし、あの頃の時代を考えると、あのくらいの極端な言葉を吐かなければ、とても効果がないほど、乱れた男女の交りが多かったからで、時代の開きを考慮に入れなければいけない。
私は、常に、心に起こる悪想念は、その想念が起こった時、過去の悪想念が、その起こった想念だけ消えんとしている時だ、と説明している。心に色情が起こった場合、いけない、と思えば、思うほど、よけいに起こってくるものであって、とめようとするより、他に心を転じるほうが、消しやすいのであるが、その、他に心を転じることが、またむずかしいのである。そこで私は、そうした場合は、色情の起こるにまかせておくほうがよい、というのである。その想いに迷うことは、かえって湧きあがってくる想いを、消し去るのに時間がかかるのである。底にひそんでいるものが出てくるのだから、出るだけ出れば、必ず消えるのである。止めれば、止まるような弱い湧きあがり方ではないことを男性は、みな経験しているのである。
湧きあがっている時が悪いのではないのである。男性としては不可抗力ともいえるこの力は、肉体人間の善悪を超えた力である。そうした想いの力が、女性を見て起こるだけで、悪である、と、とがめられたりしたら、たまらない。その想念を消し去る時の心構えや、方法によって、これが、未来の悪因になるか、ならぬかがきまるのである。とにかく、想念も、行為もすべて、過去の因縁の消えてゆく姿であることを識って、あまり自己の心を痛めるような思い方をしないほうが、神の心に適うのである。人間は、まして男性は、心をいじいじさせずに、堂々と生きるほうが好ましい。自己の行為をつつしむばかりで、善に対する積極性のない人は、大きな有益な仕事はできない。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.104-106

10. 生き方・生き甲斐
10-a (獄中で死を前にして人生の真意義を悟る)
今月の15日は、私が家を離れて丁度3年になる。17日の我が家の紀念日は、一つ特に私のために祝ってほしいと思う。楊子にも指令を発してほしい。お前もさぞかし感慨の多いことであろう。僕が祝ってほしいと云うのは、この3年の流れ去った月日がこの僕にとってどんなに貴重な有難いものであったかを心から思うからである。この年月があったからこそ、今日僕は始めて人生の真意義を覚り、かくも静かにかつ楽しく日を送ることも出来るようなったのだ。もしもこの異常なる月日が無かったなら、僕は毎日ただ怱忙の裡にあくせくと日を送ってしまったことだろうと思う。僕の一生はもしも僕が別の道を行くならくば、恐らくは社会的には高名、栄位をかち得られたことであろう。しかし人間として今日僕の立っているごとき確乎たる足場に立つことは 遂に出来なかったことは明らかだ。
僕は人生の意義を知り、生命の正当なあるがままの姿に徹し、社会と、親しきものへの愛情を限りなく深めるとともにまた純化することも出来た。そこにこそ我々3人のものの永遠に生きる道をも発見し得たのだと、僕はひそかに感じている。だから僕のために祝ってくれることは、実は我々3人のものの共通なよろこびであると私は確信しているのだ。今日このことをお前たちにほんとに分らせることは無理だと思う。すぺて冷暖自知あるのみだから。しかしおぼろげには分ってくれたものと思う。僕が決して無理をしたり頑張って、一人こんなことを云っているのでないということを。
私注:尾崎秀実が1944年10月7日に獄中で書いた妻宛の手紙の一部。
尾崎はこの一か月後、11月7日に東京拘置所の首台で44年の生涯を閉じた。
尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』岩波現代文庫、
2003年、pp.371-372
より。
【資料】
尾崎秀実について(一部抜粋)
松本慎一
尾崎が金銭のために国家の機密を売ったものでないこと、彼をいわゆる「スパイ」に仕立てあげようとする一部の反動的デマゴーギーは根拠がないことは、かくて、明らかであろう。
だが彼が金銭のためにではなく、その信念のゆえに、国家機密を外国人に洩したということは事実であろうか。
ある人々はこのことをも否定する。彼等は尾崎・ゾルゲ事件をもって、もっぱら近衛内閣を打倒し対米戦争を開始するための軍閥の陰謀に外ならぬと主張する。尾崎が国家機密を洩したことがあるにせよ、それは過失のためであって、彼の故意にいでたのではない。尾崎は軍閥の陰謀の憐れむぺき犠牲者に過ぎない。彼は戦争を防止しようとはしていたが外国人と協力してそうしようとしていたわけではない。−−これらの善良な人々はこういう風に考え、それゆえに尾崎に尊敬と同情の念とを抱いている。
彼等の見解は正しいであろうか。
決して正しくない。尾崎・ゾルゲ事件は軍閥の陰謀ではない。なるほどそれは軍閥によって利用された。それは第三次近衛内閣打倒の陰謀に巧妙に使用された。この事件の裁判はたしかに、軍閥の干渉と圧迫下に行われた。このような大事件が、あのように短期間に終結せしめられたのはそのためである。だが事件は軍閥がでっちあげた虚構なのではない。尾崎が国内の政治・経済ないし軍事上の秘密をゾルゲに通報したことは事実なのである。それも過失によるのではない。明らかに彼はそうしようと思って、そうしたのである。思わずもゾルゲと深入して、ついずるずるにそういう結果になったのでは、決してない。
尾崎は上海時代にゾルゲと知り合った。当時ゾルゲはコミンテルンの人物であった。後にゾルゲは日本に来朝したが、その時彼はナチス・ドイツの日本大使館員であった。彼はヒットラーの信頼を受け、在日ドイツ大使オットーの信任があつかったといわれる。ゾルゲは上海から帰って大阪朝日に勤務していた尾崎に連絡した。その連絡には、米国から帰国した共産主義者宮城[与徳]が当ったらしい。二人は奈良で久しぶりに会見した。
ゾルゲは彼の特珠の任務に尾崎の協力を求めた。尾崎は承諾したが、その決意をするまでに彼は深刻に懊悩した。彼はゾルゲと協力することが正しい点については、毫も疑わなかった。それこそ真に国を愛するものの行くぺき途であることも、彼の少しも疑わぬところであった。だがその方向へ進んだ場合、死の危険があることは疑いがなかった。誰にしても命をかける決意が、そうたやすくできるはずはない。しかし彼を最も苦しめたのは、そのことではなかった。事実が発覚した場合、彼の愛する妻子がスパイの汚名を着せられるだろうことが、彼には何よりもの苦しみであった。多感で想像力の豊かな彼は、スパイの遺族という汚名の下に、肩身せまく世を送る我が児を想像して、身を切られるように苦悩したのである。しかしついに彼は一切を犠牲にすることを覚悟した。一切を犠牲にして、信念に殉ずることを決意した。それから数年間、彼は極めて精力的に、また極めて多面的に、政治活動を展開した。尾崎・ゾルゲ事件でその責任を問われたところの諸事実−−起訴状によれば彼は六十数ケ条の犯罪事実につき訴追されている−−は、彼のこのような政治活動の一部なのである。
もしそうだとすれば、尾崎は祖国を売ったのではないか? もしそうだとすれば、われわれは彼に対して抱いている敬意と同情とを訂正しなければならないのではないか?そう考える人もあろう。このような人たちに対して、私はいわねばならない。もしも祖国という語が帝国主義日本、軍国日本を指しているとすれば、たしかに尾崎は祖国を売ったに相違ない。そのような日本が滅ぶことを尾崎は願っていたし、そのためにこそ行動したのだから。だがもしも祖国の語が日本国民の圧倒的大部分である勤労大衆そのものを指しているとすれば、尾崎は断じて祖国を売りはしなかった。それどころか、彼は祖国を救うために、祖国の繁栄のために、彼の命を賭けて行動したのである。もしもわれわれが真の祖国を愛しているとすれば、われわれは彼がその祖国のために捧げた犠牲を深い感謝をもって受けとらねばならぬのである、と。
こんにちでも国民の中には、古い愛国主義の宣伝の悪影響から抜けきっていない人々がいる。だが過去の愛国主義の正体が何であったかは、すでに事実が明瞭に示している。日本が現在の窮境に陥ったのは、何故であるか。疑いもなく、好戦主義的軍閥官僚の愛国の宣伝に国民が欺かれ、彼等の指揮棒のままに踊らされたからである。
愛国主義は一にぎりの大資本家、大地主、軍閥、官僚の利益のために、国民大衆のためには無益かつ有害の、侵略戦争に国民を駆りたてるための、熱病的な宣伝に外ならなかったのであるが、国民の大部分はそれを看破し得なかった。
軍閥は帝国の国防は危機に陥ったがゆえに敢然蹴起する外ないと称して、満洲や支那大陸の侵略を開始した。実際は中国やソ連が外からの侵略に対し、徐々にまたは急速に、その国防を強化しつつあっただけの話で、日本が侵略を受ける心配は毛頭なかったのであるが、国民は軍閥に追随した。軍閥や官僚は日本経済は破滅の淵に瀕していると称して、大陸における強奪を開始した。日本の資本主義が窮状にあったことは事実であるが、それからの血路を戦争に求めることが、日本国民の利益に反することは、支那事変の経過を見ただけでも明らかである。この期間中に、なるほど、財閥や軍閥や、軍閥と結ぶ一部の官僚や浪人どもは、支那大陸で巨富を獲得した。アヘン成金という言葉が流行したほど、麻酔剤の密輸で儲けたものもあった。しかし国民生活は年と共に窮乏を加えたのみであった。それにもかかわらず、国民は軍閥に追随した。
軍閥はまた米英両国が東亜の禍乱を助長しているがゆえに、これを撃破しなければならぬと唱えた。実際は東亜の禍乱の元凶は日本帝国主義のほかの何ものでもなかった。だが国民は軍閥の宣伝に追随した。国民は彼等の愛する祖国をこんにちのさんたんたる苦境に陥れるための戦争に、愛国の名において、一切を捧げた。彼等は家を焼き財を失い無数の生命をも犠牲にし、それが祖国を愛する所以であると考えていた。
国民がいかに誤っていたかは、現在となっては、何人にも余りにも明瞭だが八・一五に至るまで国民の大部分は彼等の誤りに気づきさえしなかった。一部には、むろん、帝国主義戦争反対を唱え、軍閥官僚の専制打破を叫ぶものもあったが、国民が耳を傾けたのは彼等の説ではなくて、全く反対に、軍閥官僚と彼等の飼犬であるところのもろもろの日本主義者の戦争宣伝であったのである。
このような事態にあって、真に国民の福祉を念願する真の愛国者は、何を為すぺきであったか。軍閥の戦争宣伝を粉砕し、国民に彼等の真の利益を守る途を指示し、大衆行動をもって戦争を防止することが、愛国者の常道的な進路であったろう。だがその途を歩んだ一切の進歩主義者、平和主義者が投獄せられ、全日本が軍閥官僚の専制の掌中に帰した後では、かかる進路を歩むことはできなかった。専制する軍閥官僚の支配体制そのものの内部に侵入し、これを内から突きくずすか、それとも巷に隠れ、反戦主義の影響を少しでも拡大することに満足して、時機の到来を待つか−−途は二つしかなかった。積極的で勇敢で有能なものだけが、その前者を選ぶことができた。尾崎は実にその最大の一人だったのである。
尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』岩波現代文庫、
2003年、pp.410-414
より。
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10-b (正しい仕事をする心構え)
競争の激しい、弱肉強食のビジネス社会にあって、私たちはすぐ目の前にある利益や目標を必死になって追い続ける姿勢になりがちです。それは毎日食べていかなければならないのだから当たり前でしょう。しかし、精いっぱいやるというのはもちろん大切なことですが、この仕事は何のためにやっているのかといつも自問自答して欲しいと思うのです。
あなたの能力と時間を注ぎ込み、人生を華やしている仕事は人の役に立つのか。人を幸せにすることの一端を担っているのか。その仕事の原点に立ち返ることを忘れずに誠実な努力をして欲しい。私は今日まで多くの仕事人を見てきましたが、成功を収める企業人に必ず共通しているのは、「利他」の心をいつも内に秘めているということでした。私も、考え方、生き方の中心にこの「利他」の心を据えて働き続けてきたのです。
「利他」の心とは、人を思いやる心。自分だけの利益を考えるのではなく、自己犠牲を払ってでも相手に尽くそうという、人間として最も尊く美しい心です。わが社にとってどうすれば利益になるかとか、私個人にとって何が良いかということではありません。それは、一つの企業とか個人の利筈得失を超えて、もっと広く高く、人間にとって、世の中にとって何が良いことなのかを考える生き方です。利益はそのあとからついてきます。
そんな理想を言っても、と思うかもしれない。しかし私はこの考え方を京セラ創業以来、全社員に言い続けています。またDDI(現KDDI)を創業した際に強調したのもこの点です。ビジネスも人間の営みですから、人間の純粋な心の持ち方が共感をかちえ、仕事を成功へと導いていくのです。これは国や人種を超えていくことも、私は海外企業とのビジネスの成功で実感しました。「利他」の心は人を動かしていくものなのです。
人生も世の中も絶えず変化し、また情報もあふれ返っています。その揺れは大きく激しく、一体自分はどこにいて、どちらに進んでいけばいいのか途方に暮れることもあるでしょう。
私はどんな時も人を支えるのはその人なりの哲学、生きていく上での座標軸であると考えています。一度それについて真剣に考え作り上げ、あなたの生き方の中心にきちんと据えておく。自分の身に何が起きても、自信を持って判断できる生き方の基準、つまり哲学を持っていて欲しいと思います。
例えば仏教では、「六波羅蜜」という六つの修行を説いています。人を思いやる「布施」、戒律を守る「持戒」、一生懸命努力を続ける「精進」、耐え忍ぶ心の「忍辱」、心静かに自分を見つめる「禅定」、そしてそれらが身について至る「智慧」。迷い、挫折し、先行きが見えないと思った時、今の自分はどうすれば良いか。こういう教えが力を貸してくれます。
なぜ仕事に打ち込むのか。地位を上げ、お金を稼ぐことが本当にあなたの最終的な目標なのでしょうか。仕事に励んでいるすべての人に考えて欲しいのは、働くことにはそれ以上の目的があるということです。私は、「利他」の心を持ち仕事に打ち込んでいくなら、必ず素晴らしい人生を歩めると信じています。(談)
稲森和夫「朝日新聞」2003.12.14.掲載のことばより。
私注:稲森氏は、1932年生まれ。現在、京セラ(株)
名誉会長、KDDI(株)最高顧問。
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10-c (法律や教義や限定された信念などから自分を切り離せ)
主よ、自分を愛しなさい。自己が語ることに、そしてそれが何を感じる必要があるのかに、耳を傾けるのです。心をこめてそれを追い求めることです。つまらなくなるまでそれを続けなさい。つまらなくなるのは、その体験から学ぶべきことはすべて学んだという、魂からのサインであり、もう別の冒険に進む時期が来ているのです。自分の内面にあるフィーリングだけに耳を傾けることができれば、この瞬間、あなたには自分がなりたいものになれる自由があるのです。そして、どんな法律にも、どんな教えにも、どんな存在にも申し開きなどする必要がないことを知りなさい。いまという瞬間、そしてそこから得られるフィーリングだけが、それだけがいまもこれからもたったひとつの大切なものなのです。
主よ、無法になりなさい。それは、無軌道になるということではありません。あなたの首のまわりに縄を回していた人間がその縄を解き、あなたは呼吸できるようになるということなのです。法律や教義や、限定された信念などから自分を切り離せば、神そのものである自由と無限性になることも可能なのです。あなたは自分本来の姿である力そのものになり、自分自身をそして生命を創造し、再生します。そうすれば、あなたがここにいる理由は、誰かにした何かをとりつくろうためなどではなく、ただ生きたいから、になるのです。そして、新たな冒険が一瞬ごとに展開していくのです。
幸せに生きなさい。父なる存在があなたにたったひとつだけ求めているのはそのことです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 198-199
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10-d (心の持ち方が人生の一切を決める)
(中村天風のことば)
一番最初に考えたことは、今、いった原理を考えてみると、人間は、日頃、人生に活きる刹那刹那、いかに心を運用することが適当なのだろうか、ということである。いい換えるならば、心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は、良くもなり、悪くもなるのだ、ということだ。
長い間、病に苦しめられて、どんなことをしても、助かり得なかった私は、結局、最後に、苦しみ悩み本当に、生命がけで取っ組み、ようやく考えついたことが、いつか、あなた方の幸せにもなる、ということである。つまり、人間の日々の人生に活きる刹那刹那、ちょっと笑うこと、冗談言うこと、その刹那にも、その心の思い方、考え方が、やがて、我々の生命を、完全になしあたうか、なしあたわざるかという事実が、産み出されるのである。
もっと解りやすくいえば、我々の生命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い意味における人生の事柄を、心の運用いかんによって、決定することが出来る、という真理を、私は悟り得たのである。
それを悟り得たばかりに、医者という医者が、片っ端から匙を投げた私の病が、本当に驚くような経過で治り、しかも、いまあるがごとき長い寿命を、堅固に活きているという幸せを味わっているわけである。もしも私が、あなた方のように、少しのことでも気にかけて、心の運用を誤っていたら、六十までも生きられなかったことは当然である。
というような悟りは、こういうことから開けたのである。
「人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る」
これが数十年来かかって考えて、苦心の末、ようやく悟り出した、人間の生命に絡まる宇宙真理であった。これは簡単なことで、さっきいった真理を、逆に考えればすぐ解ることである。
人間の、思ったり考えたりする "心″の作用というものは、 "霊″の働きで動いているとすると、その霊という気は、宇宙を創っている創り主である宇宙本体が霊なのだから、やはりそれに通じている、ということである。
電灯に抵抗の強いものを当てると、ショックはたちまち変圧器にきて、すぐヒューズが飛ぶ。それは結局、つながっているからである。そうすると、この宇宙霊という気の元が、一切の万物を創る力があるということである。この当然である連結関係を繰っていくと、人間の心で思ったり考えたりするということが、あだや疎かに出来ないのだということに、すぐ気が付くはずである。
まことに、峻厳侵すべからざる宇宙真理である。だから、どんな場合があっても、消極的な方面から、物事を思ったり考えたりしてはいけないのである。
この法則を厳として自覚し、常に、この法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というものが、自然的に出てくる。これが、仏教でいう無碍自在である。
だから、どんな場合にも、心の思考作用と、宇宙を司る宇宙本体の創造作用ーー物を産み出すカーーとは、別々に分れているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れてはならない。
中村天風『運命を拓く』講談社、1994、pp.37-39.
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10-e (人生は自分がどのように世界を見ているかによって決まる)
(シャーリー・マクレーンのことば)
私たちの生きているこの世界はとても面白い時代にさしかかっています。特に天なる神と内なる神の光と愛に共鳴できる状態にいればなおのことです。
私たちの人生に起きてくる悲劇的な事件でさえ、確かな理由があって起こっているのです。その確かな理由というのは、私たち一人ひとりの成長のために必要だからこそ起こっているということなのです。もし自分の人生は自分の内なる神を経験するためのものだと常に忘れないでいるならば、私たちの人生は輝きに満ち、一見悲劇に思えることも、実は悲劇ではないのだとわかるのです。
今までに私が学んだ最も重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということです。私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどうとるかという認識の問題だとわかったのです。人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてなのです。いいかえれば、私たちの人生は私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです。だからこそ、前向きで実り多き人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっているのです。自分こそが自分の人生の実現者なのです。また自分こそが自分の先生なのです。あなた自身が神であることに気づいてください。あなた自身が愛です。あなた自身が光なのです。そして私たちの自由意思こそが、自分の内なる神のすべてを発見していく、″学びの道″なのです。
私たちは、内なる神の存在を生まれながらに知っているのです。その知識をどうぞくもらせないでください。自分を信じ、生まれながらに内に宿る愛と光を信じてください。そうすれば、あなたの人生そのものが愛と光になるでしょう。
神の国はあなた自身の内にあります。先生は他の誰でもない、あなた自身なのです。他人を先生とあおぐのはやめましょう。他の人を崇拝する必要もありません。すべてはあなた自身です。あなたは今のままで完璧です。あなたと神はひとつなのです。
私から皆さんに愛と光をお送りします。
シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』
(山川紘矢・亜希子訳)地湧社、1994、pp.2-3、
「日本の読者の皆様へ」より。
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10-f (正しいしい分別とはなにか)
それに、いいかね!心を静めて神を想うことによって、正しい智識も、離欲の心も、信仰も、わがものにすることができるんだよ。世間のことばかりにかまけていると、心がだんだん低くなっていく。世間ではただ女と金のことしか考えないからね。
世間は水。心は牛乳。水の中に入れてしまえば牛乳は水とまざってしまって、純粋の牛乳は探しようもなくなる。牛乳を固まらせてバターにすれば、たとえ水に落としても浮いている。だから静かなところで神を拝み、智恵と信仰という形のバターを手にいれることだ。そのバターほ世間の水に落ちても、まじってしまわずに浮いているからね。
それといっしょに、正しい分別が大切だ。女と金は、はかないもんだよ。神様だけがたった一つの実体だ。金でいったい何が手に入ると思う? 米、豆、着物、それから住む場所が手に入る。これくらいのものさ。だが、金で神様は手に入らないよ。だから金が人生の目的になんか、なれっこない。これが正しい分別というものだ、わかるかい?
大聖ラーマクルシュナ『不滅の言葉』(田中・奈良訳)
中公文庫、1992 p.38

11. ものの見方
11-a[19-c] (自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない)
自分自身と自分の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは、「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうすると、あなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を越えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。
自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。何かがプラスであるとも考えないことだ。マイナスも存在すると言わずに、それがどうしてプラスであり得ようか。もしあなたが「これはいいことだ」と言ったら、それは、悪いものもあるということを意味する。自分にやさしく、自分を愛するとき、自分は美しいとは言わず、自分は神である、と言うことだ。近所の人と一緒に何かをするとき、これはいいとは言わず、これは神だと言おう。それは、そのことがただ在ることを意味する。それは、単に生における純粋で貴重な体験であるということなのだ。
ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、という以外の見方をけっしてしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分の内に変質した見方をつくり出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。その想念は、自分の存在の内にフィーリングとして刻まれるからである。つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。そして、魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。
誰かを責めるとき、それはその人の内に見える自分のある側面を責めているにすぎない。そういう面があれほど簡単に自分に見えるのは、このためなのだ。あなたの意識がそういう側面に向いてしまうもこのためなのである。その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、あなたがほかの人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 289-290
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11-b[19-d] (自分の思考過程から価値判断を取り除く方法とは)
人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」という見方で見ることだ。もしある人間がほかに対して残虐であったり、憎しみをもっているなら、その人が残虐であり、憎しみをもっているということは真実だ。なぜなら、まさに彼らはそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、百パーセントあなたの体験となり、内に変質をもたらすのだ。
誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた必ず存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。
さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法は何だろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。
幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。やがてあなたは、自分や他の人間に判断を下したり、生というものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。
それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断を下してはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 290-292
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11-c[19-e] (何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと)
これまでつくり出されたすべての言葉の中で、この教えにいちばんぴったりするものがある。それは「在る」という言葉だ。どういう意味なのだろうか。それは、何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。
そういう生き方をすると、自分やほかの人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。すると、善−悪、可能−不可能、完全−不完全、ポジティブ−ネガティブといったものもなくなる。この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。
ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは、「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまくはたらくものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。
ただ在る状態でいるとき、あなたはすべてのものの「在るということ」と同じ線上にある。その関係を通して、何でも好きなものを手に入れられるのだ。そのためにすることといえば、ただ在ること以外、何もないのである。あなたの存在の神が、自分の考えていること、望んでいることを引き寄せてきてくれるのだ。それは必ずやってくる。あらゆる手立てを通じて外からこれを実現しようとする者は、この内面からの道をまねた取るに足らないまがいものをつくっているのだ。ただ在る状態では、あなたはすでにすべてを持っているのであり、すべてのものそのものなのである。
ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け容れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることかできるのだ。自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂の内に感情として表出することを許すとき、あなたはひとりの無限の神として生きている。単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることができて、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。
知ること、許容することによって生きるのを学ぶのだ。そうすれば、あなたは変性自我を制したことになる。第七のレベル、第七のチャクラ、第七の天界を制したことになるのだ。第七のレベルでは価値判断は存在しない。生の途切れなき継続性があるだけだ。価値判断を制してしまえば、この次元のすべてを学んだことになり、いつでも自分の望むときにここを去ることができるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 292-294
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11-d[20-r] (害を及ぼすものは決して体内に入れてはならない)
この瞬間に自分のクローンをつくる力を持っているのでもない限り、いまの身体をわざわざ傷つけるようなことはしないほうがよい(ちなみに、もし脳が完璧に機能していたら、あなたはそういう力を実際に持つことができる)。
自分の身体を愛することだ。身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること。だが同時に、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。
あなたが女性ならば、女性であれ。男性ならば男性であることだ。自分のそのままを愛するのだ。身体をけっして虐待してはいけない。わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。
自分という存在の壮麗さを見てみるがよい。自分が神なるものとして行動するのだ。皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。精油を塗り、香水で飾るのだ。身体が欲するものだけを食すること。身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものは何かを必ず教えてくれる。
害をおよばすもの、害をおよはすと自分が知っているものは、けっして体内に入れてはならない。とにかく何でも脳への酸素の流れを不足させるものは、脳細胞を多量に死滅させる。脳細胞はけっして戻らない。脳は細胞を再生する能力がないからだ。脳細胞が破壊されると、思考を身体で実感する感情に変換する能力が落ちてしまう。想念に思いをめぐらすことはできても、それはあなたにとっては存在しないのと同じになってしまうのだ。そうすると、よろこびが消える。フィーリングを通じて想念そのものになることなしに、いったいどうしてその想念によろこびを感じられるというのか。
感じることができないと、この次元での「知る状態」を刻み込むことができない。これが、幻想を引き起こすドラッグを摂取したときに自分の脳におよばしている害なのだ。こういうものを摂取するたびに、それは脳から酸素を取り去ってしまう。あなたが感じている「ハイ」と呼ぶ状態は、脳が死んでいくことによって引き起こされているものなのだ。ドラッグを使うたびに、あなたは自分の知る能力を制限していく。そして、いずれはあなたが泣くことも笑うこともできなくなるときが来る。自分の存在の内に、もはや感情をつくり出すほど強いものが何もなくなってしまうからだ。
すべてを知るという状態を体験すること、一輪の花が咲くのを見て涙し、陽が昇るのを待ち、その輝かしい美のすべてを知ることは、知る力を持つことであり、想念をフィーリングへと変換する力を持つことなのだ。それが「絶頂感」(エクスタシー)と呼ばれるものだ。これこそ、皆の言葉で言えば、いい「ハイ」なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296
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11-e[32-a] (自分を決して隷属させたり怯えさせたりしてはならない)
時間が生まれる前からずっとあなたを愛し続けてきたもの、あなたが生きてきたすべての生であなたとともにあったもの、そして身体の死、あるいはその昇華のときに傍らにいることになるただひとつの存在とは、あなただ。あなたのこれまでの体験を受け容れ、それでも変わることなくあなたを愛せるのはあなただけなのだ。自分自身を心から受け容れ、愛するとき、そしてその愛を自分の基準とするとき、あなたは人間の社会意識を超越し、神のレベルの全体意識へと入っていく。あなたの存在とは、美を超えたものであるからだ。完璧さえも超え、法律や教義や社会の基準も超えている。それは運命という領域、自己の実現、つまりは神の実現という領域へと入っていくものなのだ。生の「在るということ」の観点から見て、重要なのはこのことだけである。
あなたは自分が考えるそのまますべてであり、自分に知ることを許したものすべてなのだ。すべてのものである父なる存在が、あなた自身の姿であるのを知ることだ。それを知っている状態に入ることを通じて、あなたは、在りて在るものすべてとなれるのである。
どんなものにも終わりがないことを知り、しかも絶対なものはないことも知ること。すべてはこの瞬間にあり、これからも必ず続いていく。自分の思考の限界を取り払うのは、単にもっと偉大なる真実があると知ることだ。それよりもさらに偉大な真実もある! この点を知るのだ。そうすれば、どの程度受け容れる準備ができているかにしたがって、それがあなたの内にひらめいてくる。
自分をけっして隷属させたり、怯えさせたりしてはならない。必ず道はあり、それよりさらにいい道もある。このことを知るのだ。そして、よろこびへと通ずるあなたの道を照らしてくれる想念がやってくるのを許すのだ。
自分の限界を直視すること。それを自分の心に抱き、受け容れるのだ。それを制するのだ! あなたが神の全体を知ることを妨げるものは、すべてなくす。罪悪感や価値判断を捨て去り、「知っている状態」、答え、そしてよろこびが自分のもとにやってこられるようにするのだ。
自分の恐れに直面し、自分にその幻影をはぎとらせてあげるのだ。自分は永遠の存在であり、たとえ未知のものでも、あなたを幸福とよろこびから引き離すことができるものなど何ひとつないことを知るのだ。この地上界で体験しているよりずっとすばらしいものを知ることを躊躇させてしまう恐怖は、なくしてしまうのだ。とにかくあなたは、遠い彼方からやってくる存在たちさえ恐ろしいと思っているくらいなのだから。巨大な宇宙船に乗ってくる兄弟たちは信じられないほどの美を持っている。恐れをなくし、別の時間、別の空間、そして別の次元からやってきた別の存在と友人となれる力を持てるようにするのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296
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11-f [61-j] (あなたは天の王国への鍵を自分の内に持っている)
より偉大なものになることを求めるとき、もしそのお手本となるような偉大さをこの地上界に探そうとするなら、あなたがなれるものは、どんなにがんばってみてもこの次元にあるものでしかない。人間の限られた思考を超えるというのは、膨大なる叡智を持つ、目に見えない何かがあるのではないかと思いめぐらすことなのである。
それが誰の口から出たかに関係なく、真実にはつねに心を開いておくことだ。そして、自分のフィーリングをガイド役とするのである。賢者は、たとえ盲目であったとしても、何が正しいか自分の魂の内で知っている。真実とは、あなたが踏みつける一本の草にもあるのだ。それは子どもの笑い声の中にある。乞食の眼の中にある。それはあらゆる場所に、あらゆるものに、すべての人々に、すべての瞬間にあるものなのだ。これを知らぬ者は神をも知らない。なぜなら、神は在るものすべてそのものであり、たとえ一本の草であっても、ほんのわずかな瞬間のつぶやきであっても、在るものすべての源から自分を引き離すことはできないからだ。賢くなることを学ぶのだ。それがどんな形でやってこようとも、真実に耳を傾け、自分はそれを受け取るに値することを知るのだ。
天の王国は自分の内にあると知る者は賢き存在だ。どんな想念でも、それを思い、魂の内に感じる力があるあなたは、天の王国への鍵を自分の内に持っている。それは感情という宝だ。感じることを学ぶのだ。神を完全に知るというのは、一つひとつの想念を完全に感じとることなのである。神であるその想念が、自分の存在の核、つまりあなたの存在の魂の内で感じられるまでそれを感じるのだ。
自分の脳を直ちにすべて活動させたいという無理な望みをしてはいけない。想念をひとつずつ、体験をひとつずつ重ねながら脳を開いていき、それぞれの想念があなたの内で固まっていくようにするのだ。
何よりも大切なのは、自分を在るがままにさせてあげることだ。ただ在ることによって、あなたはすべてであるからだ。単に自分の「在るということ」そのもの、「我は在る」という本質であるとき、あなたは生命全体と同じ線上に並んでいる。そのときのあなたは、人間としての断絶した自分を、神とひとつである自分へと変容させたのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 297-298

12. イエス・キリストとキリスト教
12-a [6-b] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)
車椅子の年老いた女性に―
ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63
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12-b (イエスとあなたのたった一つの違いとは何か)
車椅子の年老いた女性に―
わが愛しき女性よ、あなたとイエシュア(イエス)とのたったひとつの違いとは、彼が人間の内にある神という真理を理解し、それを完壁に体現して生きたということだけなのです。だからこそ、イエシュアはまさに偉大なる存在なのです。でも、あなたもまた、イエシュアがなったのと同じものになれる愛と高貴さをそなえている偉大な存在です。
あなただろうが誰だろうが、イエシュアは他人を救うためにいるのではありません。自分がこの地上に生きる神であるのを悟ることにより、自分を救うことができたのであり、ほかの人間に対して、彼ら自身の内にある神を通じて、自分自身の救世主となる道を教えたのです。彼が教えたのはこういうことです。「私がしたことは、誰でもできる。父なるものとあなたとはひとつだからだ。天国はこの場所にあるのではない。天の王国とは、あなたの内にあるのだ」 彼は、地獄のことは一言たりとも語っていません。語っているのは、生きること、そしてその美しさについてです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.66
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12-c [9-n] (思考こそがすべて在るものの基盤であり創造主である)
聖書にはこう書かれている。「はじめにまず言葉ありき。すべては言葉とともにありき」これはまったく正しくない! 言葉は思考なしにはまったく無の存在だった。思考こそがすべて在るものの基盤であり、創造主だからだ。
はじめは(皆がはじめと呼ぶものではあるが)、すべては思考の無限であった。この無限性を私は父なる神と呼ぶ。あなたが神と呼ぶものは、限界のないもっと広い考え方で言うと、思考のことであり、それはすべての生命の起因、基盤となるものだ。いま在るもの、これまで存在してきたもの、これから存在するもの、それらはすべて思考、つまり神の精神である知性から派生してきたものなのだ。
つまり、はじめにはまず思考という限りない空間があった。そして、自分自身のことを思いめぐらさなければ、また内面に思考を向け、自分自身でもあるこの思考自体について思いめぐらすことがなければ、神は形のない思考のままでいたことだろう。父なる神が自分自身であったこの思考について思いをめぐらせると、ある独自の形に自分を拡大することになった。というのは、ある想念が思いめぐらされると、この純粋な理性的行為が思考を拡大するのである。そして思考はさらに大きいものとなる。こうして、これまで自分の存在を拡大したことのなかった父なる神は、自己に思いをめぐらすことによって、偉大なる存在となっていったのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 123
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12-d (イエスは神の王国に至る道は彼を通して可能であることを示した)
霊的に開けた人々であれ、知的に進んだ人々であれ、キリストを本当に理解している人は今日ほとんどいません。そして、ナザレのキリストの神性についての理解が、いまだに混乱しているという悲劇的な状況があります。
物質主義に陥っているという点では、正統派のキリスト教会は、心霊主義教会と同じくらい有罪です。というのは、イエス・キリストを通して提示された無限の神の存在の物質的な側面だけを利用し、キリストを神に祭り上げることによって、キリストを通して示された無限の愛と叡智を認識することができなかったからです。神の御子、無限にして普遍的な存在の御子として知られている、あの生命体の中に潜む、強い力についての自分たちの理解がいかにわずかなものであるか、彼らは理解できなかったのです。
長い歴史のあいだに数多くの予言者が出現しました。彼らは、キリストが肉体をもって現れたときに人類が喜んで彼を迎え入れることができるように、人類の進化の歩みを早め、その準備をしたのでした。しかしキリストは地上に現れ、人間の中で生活し、人々に蔑まれ、相手にされませんでした。
私自身も、キリストの魂救済の恩寵をしりぞけたときがありました。心霊主義に導かれ、それ以来、物質主義にとらわれる度合いが多少緩和されたと思います。それから、徐々に、キリストの生涯のなかに示された光、そして、美しさが見えるようになりました。最初、彼をすぐれた予言者、予見者、霊媒として受け入れました。旅を行く人間にとっての高貴なる兄弟、仲間として、キリストを受け入れたのでした。
たしかに、彼は人類全体にとっての偉大な兄弟です。しかしながら、彼が兄弟であるというときの兄弟の意味は、キリストも我々と同じ人間であるにすぎないという、現在ゆきわたっている考えと一緒にできるものではありません。すべては程度の問題です。キリストが私たちの中に住んでいるのと同じ程度に、私たちは彼の中に住むことになります。
キリストの肉体、魂、心を通してなされた表現は、限定されたものであり、部分的なものであることを忘れてはいけません。しかし、それでも、神とは愛の存在に他ならないということを見せるには十分でした。自らの生涯を模範として、イエス・キリストは、永遠の命、そして神の王国に至る道は彼を通して可能であることを示したのです。キリストの神聖な恩寵、壮大な思いと優しさ、哀れな人間にとっての救いの恩寵ともいうべき超越的な愛と慈悲、それと一体化することによって、人は永遠の生命に至ることができることを示されたのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.232-233
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12-e (キリスト教会の儀式も霊界の力を求めて工夫されている)
ローマカトリック教会、英国国教会派の儀式は、霊界の力を求めて工夫されているという事実を知る必要があります。厳密な儀式が行なわれている教会に入れば、この種の力がただちに感じられるはずです。すべてのもの、香、つり香炉の用い方から、祝福を施すそのやりかたに至るまで、この力を創りだし、その力を参会者に分け与えようという意図をもって行なわれているのです。
私は霊界に来て以来、数多くの教会を訪れ、この過程を自分の目で見てきました。音楽の調べが、礼拝者の心にどのように影響を及ぼすか、礼拝者自身が彼らの感情体によって、この霊力にどのように貢献するかといったことを見てきました。
一方、非国教会の教会でも、ここでは凝った儀式はごく簡単な礼拝に変わってしまったのですが、本当に純粋な心と目的がある場合には、霊の力がやってきます。もっとも、それはちょっと異なった種類の力です。しかし、この種の教会の一部では、霊的な冷淡さ、つまり、自己満足の結果、燃えるような情熱の欠如が忍び寄ってきて、礼拝に集う人たちは自分自身に満足し切るあまり、自らを神によって選ばれた人々であると考えてしまう傾向があるようです(厳しい批判は私自身も免れませんが、これは私の霊体での旅で気づいたことです)。
人々を引きつけ、支配するために、儀式や音楽その他を用いることの意義、およびそれが正しいかどうか、ということについては、どのようなものであれ、役に立つと同時に、濫用もありうると言っておきましょう。力を正当に獲得し、正しく利用するというのは創造計画の一部であることは疑いのないところです。そのような力は人間のなかにあって、使われるのを待っているのですから。知識と知性、純粋な理想と願望とによって、人間が高い天界と接続すれば、その人は自らの霊的な成長によって、このような力を自分自身に引きつけることになるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.248-249
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12-f[6-f] (どんな魂にでも必ず神の光にめざめるときは訪れる)
キリスト教は、純粋な真実の種を包含しているがゆえに、もっとも純粋な宗教であったと私は述べました。この言葉の意味を説明したいと思います。キリスト教の“身代わりの腰罪”そして、「私が道であり、真実であり、生命である。私によらず天の父のもとに至る者はいない」という言葉に関して、異議を唱える人がいることでしょう。悲しいことに、これはいまだに、多くの人々にとっての障害となっています。私自身も今にしてわかったことなのですが、これらの言葉の背後にある霊的な意味を理解していないからです。
身代わりの贖罪という福音を、私たちは教えません。人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならず、人の邪悪な考えや行動の責任を、その人から取ってやることのできる人はいないということを私たちははっきりと理解しています。
しかしながら、人間がどんなに深い奈落にまで沈んでいたとしても、その魂がキリストの力と愛とによって創造された真実の光で照らし出されたとき、その人は再び生まれ変わり、それまでの自我は死ぬことになります。このようにして、キリストだけが人間を無知と、罪と奈落から救い出すことができるのであり、人間を永遠の生命へと導くことができるのです。
心霊主義者であれ、伝統的なキリスト教信者であれ、仏教徒であれ、無心論者であれ、どんな魂にでも、神の光にめざめるときは訪れます。別な言葉でいえば、キリストの光に目覚めるときがやってきます。すべての魂は、どのような名前がついていようが、どんなにキリストを否定しようが、慈悲深いキリストのはかり知れない愛と完全な叡智とによって、いつの日か、天国の“狭き門”を通らなければなりません。
この前、仏教徒の考えについてお話しました。これについても、もう少し説明が必要だと思います。今日の仏教徒は、人間存在の究極にして最も崇高な目標は“ねはん”として知られている生命の局面に入ることであると信じています。従って、仏教徒は数多くの人生を急いで体験して、輪廻転生から自由になるために、できるだけ早く肉体をもって生まれ変わりたいという願望をもっています。ねはんに辿り着けば、永遠の輪廻から解放されると信じているわけです。
ねはんの境地に達したとき、欲望から解放され、無の境地の中で安らぎを見出すであろうことは確かです。仏教徒の間違いは、釈迦の教えを間違って解釈しているところにあります。これと同じように、キリストの教えも二〇〇〇年前に使徒に与えられたものとは非常に異なったかたちで伝えられています。
釈迦は、人間ひとりひとりの魂が最終的に身を任せなければならない道を指し示すためにやってきたのです。その道とは、崇高な存在に身をゆだねるという道です。自分自身の体験によって、幼子のような素朴さと、信頼の気持ちがあって初めて人間は天国に入れることを証明されたのです。釈迦はこれを教えられたのです。
もう一つ述べておきたいと思います。もしも、皆さんが霊の真実のヴィジョンに従うならば、洋の東西を問わず、すべての宗教の源である、古代の叡智の中に、この真実を見出だされることでしょう。そのなかに、心静まらない霊がいる場所、それよりも高いアストラル界、精神界、天界、宇宙界のことが説明されているはずです。
これまでの長い歴史を通して、さまざまなマスターがほぼ同じような教えをもって地上に戻ってきては、その教えを残していきました。人間と神のために自我を放棄し、欲望を放棄する覚悟のある人には、なんという光輝に満ちた運命が開かれることでしょうか。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.249-251

13. 魂の成長・霊性の開発
13-a (魂の波動を高めるには)
人間は肉体の波動、精神の波動、魂の波動の三つを持っている。肉体の波動は健康に関係があり、精神の波動は知性、理性、人格を作る。憎しみや不平不満や心配は魂の波動を低下させるというから、現代のように人が損得のみに一喜一憂する時代では全体の波動が下るのは自然のなりゆきといえよう。
死後の世界つまり四次元世界は幽現界、幽界、霊界、神界にあらかた分れていることは既に述べてきた。人が死ぬと魂はその人の波動と同じ波動の所へ自動的に移動する。波動が低いと幽現界の下層や地獄(暗黒界)へ落ちる。この世での成功、栄誉や富は波動とは別のものであるから、たとえ天下を取ったと満足していても、波動によっては地獄へ行かなければならないのである。
地獄というと針の山や血の池があって、赤鬼、青鬼が亡者を苦しめている絵図をたいていの年配者は思い出すだろう。昔の子供はそんな地獄相を聞かされて、悪いことはするまいと心に染み込ませたものだ(今は地獄もまたメディアによってエンターティンメント化されているから、今の子供は怖いものなしに育って行っている)。
地獄の実相は勿論そんなものではない。中川氏は与えられた使命上、死後の世界を一通り見学させられたのだそうで、それによると、地獄は実際に何もない暗いだけの世界で、波動によって何層もの横割構造になっている。そこへ行った魂は自分が人を苦しめた罪を逆の立場で、つまり自分が苦しめた人の立場になって体験する夢を永遠に見つづけて苦しんでいるということだ。地獄の最下層は真暗闇でジトジトした強い湿気の中、何ともいいようのない悪臭が充満していて、亡者はただじ−っとうずくまっているだけである。そこまで落ちるともはや苦しみを感じることもなく、いつまでもいつまでも永遠にそうしている。そこより少し上の階層ではそれぞれの罪の意識によって苦しまされているが、それに較べるといっそ、何も感じないで闇の中にうずくまっている方がらくだという考え方をする人もあるかもしれない。
だが苦しむことによって魂は、そこから逃れたくて修行をするのである。少しでも上へ上るために浄化を目ざす。そうして幽界の下層へ上り、更に修行をして少しずつ上へと上って行く。更なる修行を目ざして三次元世界に生れ替り、そこでこの世の苦しい現実に耐えて前世の償いをする魂もある。いわゆる輪廻転生というのはそういうことなのである。
では魂の波動を高めるためにはどうすればいいのでしょうという質問に対して、中川氏はこう答える。
「難かしいことは全くありません。学問も知識も必要ありません。人は一人では生きられないから私は生かされているー−。そのことを認識し、ありがとうという感謝の気持を表現すればいいのです。感謝することで魂の波動は上ります。実に簡単なことです」
それは昔々からいい古されてきた訓えである。あまりに素朴、当り前のことなので、質問した人は拍子ヌケしてしまう。だがそれは真理なのである。真理とは本来素朴なものなのだ。
佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002、pp.252-253
私注:中川氏は1914年生まれ、もとは大阪の家電販売会社
の創設者。60歳の時に会社を後継者に譲り、「大自然
の法則と心の波動を上げる」ための活動に入る。佐藤愛
子氏の霊的な師。
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13-b (真の人間を知るということは神を知るということと一つである)
人間は肉体のみにあらず、肉体のうちに、生命となって活動している何かがある、と認識して、そうした方向に生きている人。それは天国への階段を一歩踏み出した人である。
人間は霊が主であり、肉体が従である、という思いに入った人。これは同じ階段を二歩三歩昇った人びとである。
人間は神によって創られた者であって、あくまで神の下僕である、と、ことごとに神の審判を恐れつつ、しかし行いを謹しんで神にすがっている人びと。この人びとは、真の人間観からいまだ遠いが、他人を傷つけぬ場合は、天国の階段を昇り得る。
人間は神によって創られた被造者であるが、神は愛であるから、愛の行いを積極的にしていれば、決して自己に不幸はこないのである、と確信している人。この人も天国の階段を昇っている。
神のことも、霊のことも、特別に考えぬが、ただ、ひたすら、素直な明るい気持ちで、愛他行をしている人。この人も天国に昇り得る。
肉体界以外のことは知らないが、素直な明るい気持ちで、愛他行ができ、しかも、神仏の存在を信じ、あわせて、この地上世界が必ず善くなることを信じて生活している人。この人は天国の住者である。
人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって、人間そのものではない。人間とは神の生命の法則を、自由に操って、この現象の世界に、形の上の創造を成し遂げてゆくものである、と識って、それを実行している人。この人は覚者であって、自由自在心である。即ち、個の肉体を持ちながら、みずからが、霊そのものであることを自覚し、その霊とは神そのものの生命であることを識り、神我一体観を行動として表現してゆく人、例えば、仏陀、キリストの如き人びとである。
真の人間を知るということは、神を知るということと一つである。いかに神、神と神を追い廻しても、その人の行いが愛と真心に欠けていては、その人は真の人間をしらぬのであるから、救われるわけがない。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.13-14
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13-c[24-c] (この地上で人間はやがて自分が行く霊界の土台を築く)
精神界には三つの局面がありますが、魂はこのすべての局面を体験するのではなく、それぞれの波長が合った局面へと進んでいきます。その後、魂は引き続いて霊的な存在として、あらゆる局面、段階を一つ一つ上がっていきます。それは(人が唯一の人生と思っている)一つの人生によって決まるのではなく、その魂が経験した数多くの肉体をもった人生によって決定されます。なぜなら、一人一人の魂は数多くの肉体をもった人生を体験するからです。それぞれの人生において、魂はやがて自分が訪れ、しばらく住むことになる精神界の局面を選びます。このようにして、最終的には魂は霊的な生活のすべての段階、すべての状況を体験します。
はっきりわかったでしょうか。物質の世界に住んでいる間に、人間はやがて自分が行かなければならないアストラル界、精神界、天界の土台を築いているということがおわかりになりましたか。その結果、人間は地上にいる間に抱いた願望と、達成した霊的な成長に応じて、アストラル界、精神界、天界で、より限られた自由や幸せ、あるいはより大きな自由や幸せを体験するようになるのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳) 講談社、1994年、p.177
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13-d[23-zc](絶えず輪廻転生している魂もあれば二度と戻ってこない魂もある)
輪廻転生についても、すでにお話しました。これは真実であると主張する人もいれば、嘘であると主張する人もいます。それぞれの観点から見れば、彼らは共に正しいのです。じつにさまざまな生命の形態が人間を待ち受けています。その数はあまりにも多く、人間の理解を越えています。このため、輪廻転生してたえず地上に戻ってくる魂もあれば、二度と戻ってこない魂もたくさんいるのです。
これまで述べてきたことからすると、これは矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし申しあげておかなければなりませんが、私たちが置かれている状態では、いかなる魂もある特定の進化の道や存在の形式を強制されることはけっしてないのです。もちろん、いずれは、すべての魂は霊的な生命の法則に従わなければなりません。そもそも、すべての魂は霊的な存在なのですから。
わかりやすくするために、簡単な例を使って説明してみましょう。エーテルで囲まれた場所に、何百万という原子が動き回っている様を想像してみてください。さらに、それぞれの原子は固有の性質に応じて吸引力に反応しているのを観察してください。それぞれの原子は、まるで磁力に引かれるように、それぞれの進化の道に従わなければならないのです。このような理由で、自我(人間一人一人にある神性という意味ですが)は、人間が神と呼ぶ創造的な知性から発射され、物質の世界に住むようになってからでも進化する魂に常に開かれている、無数の進化に向かう螺旋の“引っ張り”を感じることになるのです。
すべての魂は、いずれは宇宙の法則に従わなければならず、その法則に従ってそれぞれの運命を切り開いていかなければならないとしても、それぞれの魂は個として完全に独立した存在であり続けます。イエス・キリストは「あなたの頭の髪の毛一本一本といえども、すべて数えられているのです」と言われました。その深い意味についての洞察が、これによって得られるのではないでしょうか。
なんの役にもたたないならず者から、最も叡智に満ちた人物に至るまで、すべての魂はそれぞれの程度において神の知性に波長が合っているのであり、したがって、究極的には神のもとに戻る道を歩むことになるのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.236-237
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13-e[56-o](人間の究極的な目標は神の意識の状態に到達すること)
私たちが理解しなければならないのは、すべての人間の究極的な目標は、神の意識の状態に到達することであるということです。この意識に到達したときには、個性は縮小し、吸収されます。人間の個性は普遍的な存在と真に一体となってしまうために、自らをゆだねるなかで、神という力強い存在の一つの脈そのものになってしまいます。そのとき、自我は消滅します。これはまさに究極的な状態であり、私たちが目指しうる最高の状態です。
しかしながら、これは、個としての人間が神にすっかり吸収されてしまって、自分の意思と知性を駆使して、全体から自分を遊離させ、独立した知性として自らを具現できないということではありません。
ふつうの人は、この吸収という考えにしりごみするということは私たちも承知しています。これまで人間は自らの個性、人格の発達に努めてきたのですから、無理もありません。しかし、すべての魂はやがて、自分自身を手放し、一つの普通的な生命体と一体になる覚悟をしなければなりません。
なぜなら、そうすることによってのみ、人間はより偉大な存在になることができるからです。これが、「父と私は一体である」とキリストがいった意味なのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.240-241

14. 極楽は素晴らしいのになぜ死にたくないのか
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
『歎異抄』第9段
むかし私が見たある外国映画の一つのシーンにつぎのようなものがありました。ヨーロッパのどこかの監獄で、一人の囚人が、三〇年も四〇年も独房に閉じこめられてよぼよぼの老人になってしまいます。老人は、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていました。
第二次世界大戦の末期だったでしょうか、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、高い塀も頑丈な建物も崩れ落ちてしまいます。その独房の老人は生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきました。そして、よろよろと外へ向かって歩き始めます。しばらく歩いて振り返りますが、誰も追ってくる様子もありません。目の前には、広々とした野原が広がっています。それは、老人が長い年月あこがれてきた自由の世界のはずでした。老人は、また少しよろよろと歩き続けます。しかし、そこで立ち止まってしまうのです。やがて老人は、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行きました。
自由が束縛されても、孤独の苦しみがあっても、あまりにも長い年月それに慣らされてしまいますと、もうそこから抜け出すことさえ不安になってしまいます。浄土・極楽がいかに壮麗ですばらしいところであると聞かされても、唯円が疑問に思ったように、煩悩の世界に慣れきってしまうと、「急いで行きたい」と思われないのも、無理ではないのかもしれません。
講演集(第2集)「生と死の実相について」 pp.7-8

15. 愛・同胞愛
15-a (愛する喜びを分かちあう)
シスターたちは、みなさまと共に愛する喜びを分かちあうために来ました。みなさまや、みなさまのお子さまたち、ご家族の方々とごいっしょに、愛する喜びを分かちあうためです。
それはどこで? まず、あなたのご家庭で。それから、あなたの愛を必要としている日本の貧しい人びとがいます。あなたがちょっとほほえむだけでいいのです。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買物をしてあげると喜ぶ、重い病気の母親もいるでしょう。小さいことでいいのです。でも、そこで、愛は始まるのです。
あるとき、ひとりの紳士が私たちの家に来て、8人の子どもむ持つヒンズー教徒の家族がいて、何日も食べていませんから、なんとかしてくださいといいました。そこで私はいくらかの米をその家族に持っていきました。その子どもたちの目からひどく飢えているのがわかりました。
ところが、母親は私の手から米を受けとると、半分に分けて出て行きました。彼女が戻ったとき、私は、「どこへ行ったの、何をしてきたの?」と尋ねました。すると彼女はなにげなくこう答えました。
「あの人たちも飢えているのです。」
彼女は隣りの家族が、同じく飢えているのを知っていたのです。私は彼女が米む与えたことには驚きませんでした。しかし、彼女がそれを知っていたことに驚きました。人は、普通、自分で苦しんでいる最中に、けっして他人のことなど思いやらないからです。でもこの母親は知っていました。そして、彼女は愛と喜びと、そしてそれを分かちあう勇気を持っていました。すはらしいことです。
うちのお母さんは、苦しいのにもかかわらず分かちあうほビ偉く、美しい母親だと、喜ぶ子どもたちの顔を見るのは、とても美しいことでした。これは尊いこと、生きた愛、生きた愛の行いです。
私のシスターたちは、みなさまと共にここにいます。多くの人びとが来てシスターを助けてくださっています。しかし、それだけです。私はみなさまが豊富さからくださる物は、ほしくありません。私はみなさまに愛する喜びを分かちあってほしいのです。
マザー・テレサ『生命あるすべてのものに』
講談社現代文庫、1988、pp.14-16
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15-b[54-t](神の壮麗な光から皆の一人ひとりが神となった)
はじめに父がそのすばらしき自己について思いをめぐらせたとき、父は自分を壮麗な光へと広げた。そしてそのとき、思考が永遠へと向かって広がっていくプロセスを続けていけるように、その広がりと光から皆の一人ひとりが、それぞれ独自の動きという形をとって、神となったのである。
あなたに神なる本質を与えているのは、あなたには自分の望むとおりの思考を抱き、それを体験する自由があるという点だ。そして、その自由意志と呼ばれる神なる本質部分とは、愛のことだ。それは、神からあなたたちの一人ひとりへの贈り物なのだ。自分が思考を通して思い描く理想は何でも創造できる自由を持てるように、それぞれが意志という神なる本質を持っているのである。
究極の愛とは、生命を、皆の一人ひとりを通した途切れないプロセスにしたいという父なる存在の願いのことなのだ。愛の中でも最も純粋なものとは、あなたが思考のさまざまな次元を探索し、神の精神を広げられるようにと、神が一人ひとりに与えた自由意志だ。
自由意志は、あなたに独自性を与えながらも、父とひとつとなることも可能にし、それぞれの人間の思考過程が独自の創造性の流れを持ち得るようにしてくれる。そして、思索と自分の想念の拡大を通してあなたが創造するたびに、あなたを創造し存在させてくれたときに父が自己に対して感じていたのと同じ愛を、あなたはいわば「まねている」のである。なぜなら、創造とは、あなたの存在の内面にある愛を表し、独自性をもった、自由に動く創造的形体にしていくことだからだ。それは永遠へと向かって生き続けていくものなのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 1155-156
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15-c[44-w] (自分の思考をどう使おうと神の愛はけっして変わらない)
あなたへの神の愛の例として、ある神によって生命連鎖の中に長い生命を与えられた蛇という生き物を見てみよう。この生き物は、さまざまな筋肉と骨がある長く細い身体を持つ。動きは非常にすばやく、とても大きい頭部には、ただひとつの防御手段である、皮膚を破るほどの力を持つ牙がある。噛みつけばわずかのうちに大きな体格の人間でも倒すことができるが、逆にどんな人でも蛇を斬ったり、わけなくつぶしてしまうこともできる。
さて、二人の神を考えてみよう。最初の神は科学的な心を持っていて、蛇をすばらしい生き物として見ている。脚もないのに動きは大変すばやいし、皮膚には美しい色と模様を持ち、どこまでも続くとさえ思われるような華麗な骨格があるからだ。別の神がやってきて、蛇はぞっとする下等な生き物だと言う。噛まれれば危険だし、人間を殺すことができるのだから、ひどい生き物だというわけだ。
すべての生命の「在るということ」である父なる存在にとっては、すべてのものは在るがままの状態で純粋だ。すべては父そのものである生命の表現という意味においては、純粋無垢な存在なのである。何かを美しいとか、下等だ、醜いなどとするのは、その対象へのそれぞれの見方なのである。父なる存在である思考をもとにして、対象に思いをめぐらし、変えていくという創造的な力を持っている私たち神々だけが、本来は真に純粋で無垢なものを、ただ存在する以上の何かであると判断を下してしまうのだ。
神の最高の創造物であるあなたに、この蛇に対して自分の好き勝手な判断を下し、意志を行使する権利を与えるほどの神の愛(蛇という生命の実体もこれだが)とは、いったいどれほど偉大なものであろうか。生命の力が持つあなたへの愛は、あなたが思考を通して願うものなら何にでもなろうというほど深いのだ。父なる存在は、何でもあなたが望むものになる。あなたが変えたいと望むとおりの姿にさせてくれる。父そのものである生命は、下等で醜悪、卑しいものにも、最高峰の美にも、あなたが見たいと願うものそのままになるのだ。
さて、この父なる存在が、何でもあなたが知覚し願うものになるということ、それもあなたの思考過程のおもむくままにそうなるのは、驚くべきことではないだろうか。そう、これこそ愛というものだ。
自分の思考はどう使おうとかまわない。父なる存在のあなたへの愛はけっして変わらないからだ。神そのものである人生を、あなたがどれほど下等で卑しいものと見ようが、それは神にとっては神そのもの、自分そのものでしかかいのだ。それでも神であり、純粋であり、愛されているものなのだ。この約束はゆるぎないものである。父なる存在は、それ自身では価値判断を下すことがまったくないからだ。父はただ在るのみである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 157-159
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15-d[56-i] (人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない)
人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。それよりも偉大な愛はないのだ。自己を抱き、受け容れるという、その場所から自由が存在していくからである。そして、よろこびが生まれるのはその自由からなのだ。よろこびが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、心に抱くことができるようになる。最も偉大で深く、意味のある愛とは、肉体の中にあって、動き、思索し、創造し、許し、そしてただ在るこの偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するものだ。どんな自分でもその在るがままを愛するとき、すべての顔、すべてのものの内にあるもの、つまり私が愛する偉大なる本質を、あなたも知ることができる。あなたは神が愛するように愛するのだ。すると、愛することがとても簡単になる。許すことが簡単になる。そしてすべての生命に神を見ることが簡単になるのである。
自分の在るがままを愛するとき、不可能なこと、手の届かないことは何もなくなる。自分を本当に愛するとき、人は自分の笑いの光の中だけに生き、よろこびの道だけを歩むようになる。自分に恋するとき、その光、そのまとまった力、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が全人類へと広がっていくのだ。そしてあなたの驚くべき存在の内面に愛があふれるとき、いろいろ不快なことがあるこの世界が美しくなり、生きることは意味を持ち、よろこびにあふれた状態になり、そのよろこびは、あなたという存在のよろこびを通じて、すべての生命を高揚させ、その栄光をたたえ、あなたの存在が純粋であることを謳い上げるのである。
自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない。それを成し遂げるためには、人生に飛び込み、自分に幸せをもたらすことをすることだ。それによってのみ可能になる。たとえそれが何であってもである。それはまちがっているとか、あなたのために良くないなどと、いったい誰が言えるのか? 神はそんなことは絶対に言わない。神はあなたが向かっていくあらゆる方向そのものであり、あなたのすべての体験がもたらす結果でもあるからだ。ほかの人間にどう思うか訊ねたりもしてはならない。あなたの人生を悩ませてきたのと同じ制限を持っているというのに、他人がよろこびについていったい何を知っているというのだ。
父なる存在は、あなたがよろこびあふれる人間になるよう迫っているようなものだ。あなたが心を開いてそれを受け容れるのを、いつもすぐそばで待っている。「求めよ、さらば与えられん」というのは、そういう意味なのである。いつのときにもよろこびを持つというのは、実は単純なことなのだ。そして、あなたはそれに値することを知ってほしい。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 203-204
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15-e[56-j] (幸せで喜びにあふれた時あなたは神に近いところにいる)
よろこびは、よろこびを生む。「迫られている」よろこびを受け容れるとき、それはこれから訪れるあなたの将来の日々のよろこびをさらに高め、あなたの心を開いてもっと多くを受け容れられるようにしてくれる。だからこそ、いつのときも自分を愛するのが絶対に必要なことなのだ。それができれば、これから先の自分の「ペース」が決まるのである。何が自分を幸せにするかを自分に訊ね、それが何であっても、自分のフィーリングが告げるままに実行することだ。自己への愛、そしてそのよろこびのために生きるとき、その陶酔と高揚の瞬間はすべてあなたの存在の魂に記録される。そして今度は、それがこれから先、さらに多くの幸福とよろこびの瞬間をつくり出していくのである。
幸せでよろこびにあふれたとき、自分を愛し、在るがままの自分でいるときを多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生にある神の力に近いところにいる。求めるものが、すべて自分を幸せにするため、という状態で人生を生きるなら、あなたは最も偉大な運命に向かって生きていることになる。そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。自己と神に対する愛のすばらしい見本となるのである。偉大なる美、すばらしき神秘である自分自身を体験し、理解することができるだろう。最終的には、驚くなかれ、あなたは神の顔を見ていることになるだろう。それが自分自身であることに気づくことによって、である。するとあなたは、さらに偉大な新たなる叡智の中で、もうひとつ別の永遠の生という体験へと向かっていくのだ。
私の生きた時代、私たちはアトランティア人に「魂なき者」と呼ばれていた。そのとき、私たちが何を探し求めたか、おわかりだろうか。それは少なくとも「目的」ではなかった。自分たちにはないと言われた魂を探し求めたのだ。私はみじめな野蛮人で、人間を憎んでいた。しかし、よろこびというものを知ってから、そして自分がそれに値するのだと知ってからは、すべての生命を維持し、育み、すべての生命そのものである本質となったのである。
父なるものへと導いてくれるたったひとつの道とは、とにかく何であっても、それが自分のよろこびであると自分で決めたことなのだ。そこへ到達する道はそれだけなのである。それがあなたを神という故郷へと帰してくれるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 204-205
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15-f[65-i] (互いを愛するとは自分自身を完全に愛することである)
この世界にいるすべての人間は、飢えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。そこから学び、その体験を充分に得てはじめて、内奥の自己にまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。
あなたが本当の師(マスター)となるとき、限界ある意識の闇と泥沼の中へと脚を踏み入れながらも、あなたは自分を全き存在に保つことができる。なぜなら、あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、彼らがなぜそういう状態なのかがわかっているからである。それは、あなたもそうだったことがあるからだ。限界ある状態でいるという自由をあなたは彼らに許す。これこそが真の愛だ。なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。互いを愛するとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。そして、群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色、外見、清潔か否かなどに関係なくその存在を見て、その内にある神が見えるのである。本当にじっくりと見れば、誰の内にも神は見えるからだ。そうすれば、あなたは父なる存在が愛するように愛している。父が見るものを自分自身だけにではなく、ほかの誰にも見るようになる。皆を見て、その真の姿である美を見ることができたとき、あなたはこの次元から、たくさんの館がある壮大なる空間へと昇る旅を始めている。だが、自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべての生命に生きる神を受け容れることができない者には、その扉は閉じたままなのである。
人間を神なる知性という、本来あるべき場所に戻し、何をしていようとも、人は自分自身の内にある神のために生きていることを知るとき(あなたが自分の内にある神のために生きているのと同じように)、あなたはすべての人を愛することを学ぶ。これまでの存在ではじめて、人がどんな自己表現をしていようとも、あなたは真に彼らを愛することができる。あなたの愛は価値判断で制限されるものではないからだ。そして、それこそ、神として生きる人間であるキリストの内面の存在の姿なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 311-312
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15-g[52-c] (同胞愛以外の生き方は選択肢として開かれていない)
人々と国々のあいだの同胞愛の必要性をここで再び強調したいと思います。というのは、人類全体が進化のスピードをあげ、すべての生命を常に支えている宇宙的な霊の力の中で人類全体が息づき、活動し、存在しているのだということを理解して初めて、人類は滅亡から自分自身を救うことができるのですから。
希望を失わないでください。人生における価値観が一八〇度転換する日がくることは確かです。人生の状況も、それに応じて変わればよいのですが。人類は今、非常な苦しみと窮乏を経験しようとしています。それは、人間の命を真に生かしてくれる、より大きな真実を探求するためです。
この単純な真実を語ることは、なんとも簡単なことのように思われます。この真実は、至るところに、あらゆるものの中に存在しているのですから。しかし、世俗的な心にとって、この真実を見てとるのは、なんと複雑で難しいことでしょうか。にもかかわらず、霊界にいる私たちは皆、ついにこの真実を理解するに至り、宇宙の同胞愛を感謝の気持ちで信頼し、その愛を分かち合い、一緒に安らかに生活しているのです。
同胞愛以外の生き方などというものは、世界が歩むべき道の選択肢として開かれてはいないのです。現在、世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在しています。誰も譲ろうとせず、お互いを恐れています。ビジネスの世界では、一人一人が自分の分け前を確保しようとして、同胞と戦っています。このような生き方は、人間をどこに導いていくのでしょうか。安定でもなければ、永続的な繁栄でもないことは確かです。それどころか、文明がこれまで一生懸命築きあげてきたものすべての崩壊につながることでしょう。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.279-280
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15-h[52-d] (自らを傷つけることなく他人を傷つけることはできない)
気を取り直して勇気を出しましょう。いつの日か、人類の心が高貴なる気高さを達成するときがやってきます。人間の心を高みに引き上げてくれる、真の同胞愛のヴィジョンに目覚めるときがやってきます。そのとき、人間は悟るはずです。すべての命、分自身の命も他のすべての人々の命も、一つの巨大な愛の心のなかに存在するのだということを。そして、自分の肉体としての生命は、その巨大な愛の心で息づいているのだと悟ることでしょう。そのとき、自らを傷つけることなく他人を傷つけることは不可能であると知るでしょう。人を憎み、戦うべく戦争に行くというのは自分自身との戦いに赴くことにほかならないのですから。他人を殺すことは、殺人者にとって霊的な死にほかならないのです。“剣を抜くものは剣によって死す”とは、このような意味です。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.280-281
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15-i[56-p](真に偉大な人間は無限にして永遠の力に身を任せる)
人間は、人生の目的は自己の個人的な利益の追求にほかならないという、誤った信念をもち続けてきました。人生において成功をおさめ、兄弟に打ち勝ちたいと望むなら、どのような犠牲を払ってでも、他人よりも優れた人にならなければなりません。このような生き方は、あらゆる点で、同胞愛という宇宙の法則に対して罪を犯すことになります。自分自身のためだけの利益を追求する人は、すべての霊的な法則を破ることになります。人類全体が同じような生き方を選択し続ければ、結果は病める肉体、病める心、混沌と戦争しかありません。
真に偉大な人間とは、自分自身の欲望を追求する代わりに、無限にして永遠の力に身を任せる人です。それぞれの人間の魂は、本来の自己を見出すために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えをもっている間は、神を見出すことはできません。
人間の魂が上昇し、自己中心主義のもったいぶった衣を脱ぎ捨てるとき、最も難しい試験に合格しなければなりません。自己という概念をすべて脱ぎ捨てなければならないのです。そのとき、魂は真っ暗闇の、一見破滅そのものにしか見えない深淵に直面するのです。気がくじけそうになる魂を支えてくれるのは、ただ一つの希望です。それは身をまかせ、降伏し、すべてを捨て、自我のすべての残滓を犠牲にすれば、神という名で呼ばれる、無限にして永遠の愛と一体になれるという希望です。
このような降伏はけっして自己の消滅ではありません。自己の拡大です。というのは、人間の魂がその地点にまで到達すると、神への愛は圧倒的なものとなり、願うことはただ一つ、神と一体になりたいということになります。そして、その愛が神を自分にひきつけることになり、神性を自らのなかに包み込むことにさえなるのです。すると、すべての人間は神のように見えるようになります。なぜなら、すべての人の中に神が住んでいるのが見えるからです。
宇宙的な同胞愛を理解する人は、「すべてを捨て、私の後についてきなさい」(キリストの言葉)を文字通り実行することになるでしょう。神そのものである宇宙的な無私を発見するために、すべてを断念し、自分を無にし、自分を放棄しなければなりません。この崇高な瞬間に、人は神と一体になるだけでなく、自分自身と一体になり、すべての生きとし生けるものと一体になるのです。これこそが贖罪です。つまり、神と一体になることなのです。
人間の同胞愛とはこのことです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.282-284
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15-j[6-g] (ただ一つ存在する真実の宗教とは愛である)
ただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な現実があります。
これは宇宙的な宗教で、国境や、慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つ。その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、花、生きとし生けるものすべてが理解できるものです。真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。
この愛は必ず実現するでしょう。愛は人間に、さまざまな形や儀式や信条や教条は、そこに生き生きとした魂がなければなんの役にも立たないことを教えてくれるでしょう。すべての生きとし生けるものは霊の力を証明するものであり、霊の力にこたえることができるのです。
人間にはさまざまな人種的な違いがあり、また多様な考えがあります。人種や考えがなんであれ、一人一人をそれぞれ公平に扱ってあげるべきです。しかし、すべての人間は最終的には、創造者の無限の愛を認め、それに敬意を払ってお辞儀しなければならないのです。そのとき、ついに人間は、すべての人間のために働く人は神のために働いているのだ、ということを理解するのです。
この素晴らしい日が訪れるまで、地球は死から完全に解放されることはないでしょう。すべての人が、仲よく調和に満ちて、自己の意思を曲げて、宇宙の崇高な法則を崇拝するとき、死は勝利のなかに飲み込まれて消滅するでしょう。
そのとき、人間の肉体はもはや死の横暴に屈することはなくなるでしょう。なぜなら、人間の肉体は死ぬのではなく、転換することになるのですから。罪は、その本質において死そのものです。死は罪の結果なのです。これは文字通りの意味です。罪は必ずなんらかの形による死をもたらします。しかし、叡智に満ちた、純粋で真実の愛は、永遠の生命を与えてくれるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.284-285

16.

17. 病気・治療・癒し
17-a (人はなぜ病気になるか)
病気になるもっとも多い理由は、リラックスできないということです。あなた方のほとんどが、意識的にも無意識的にも、糸がピンと張りつめたような賢張した生活を送っています。これは目を覚ましているときだけでなく、眠っているときでも同じです。緊張した心のまま眠りにつくと、あなたの指、肘、膝、脊髄、その他の骨の部分が、心のあり方に応じた緊張を保ちつづけているのです。
なぜ、そうなるかといえば、だいたい同じような緊張した状態が、日中の生活をほとんど支配しているからです。肉体の緊張は、恐れ、心配、抑圧された感情、押さえられた欲望といった心の状態によるものです。したがって、眠っているときであれ、目を覚ましているときであれ、病気に苦しむ人の霊体のさまざまな中枢にエネルギーの停滞が生じるのです。
子供のときからリラックスすることの大切さを学び、それを習慣にして、毎日毎日の生活をゆったりとした気持ちで、自分日身ばかりでなく、ほかの人たち、そして神との心の調和を保ちながら生活すれば、霊体および肉体の中を、エネルギーがなんの滞りもなく、リズムをもって流れるようになるでしょう。この流れはその本釆の性質によって、すべての廃棄物を運び去ってくれ、除去してくれます。それはやがて、普遍的な宇宙によって吸収され、新しいエネルギーヘと転換されます。
息を吐くとき、人は毒を吐き出します。というのは、息を吐くことによって人は、使い古した肉体的な物質を絶えず吐き出しているのです。ですから、逆に、息を吸い込むことによって、人は純粋なプラナ、すなわち、宇宙の生命力を吸い込むべきなのです。この宇宙生命力であるプラナは、人間の肉体をリズムのある完全は健康状態に保ってくれるものです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル−−
人類へのスーパーメッセージ』(大内博訳)
講談社インターナショナル、1994、pp.259-260
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17-b (病気になっても感謝せよ)
極論すれば、病になっても、不運になっても、感謝しなさいということだ。
「冗談じゃない、何か貰うのならともかく、病を貰って感謝なんか出来るものか」という人があるなら、その人は罰当りだ。宗教的に言えば神仏が、哲学的に言えば宇宙霊が、いわゆる大自然が、もっと諸君を活かしてやりたいと思うからこそ、病をくだされるのだ。
「ええっ、もっと活かすために病をくだされる? そんな馬鹿なことがあるものか」と思うかもしれない。しかし、
天に口無し! 事実をもって教えたまう!
「お前の活き方は、健康を確保する活き方ではない。第一、お前の心の持ち方を考えてみなさい。消極的で、のべつ人生を、不安な心の持ち方で活きているではないか。そういう活き方をしていると、それ、そんな具合に、肉体に故障が起こる。お前の現在の肉体の活き方は、天理に悸っているじゃないか。そういう活き方をしているから、そんなぶうに成ったじゃないか。心を切り替えて、その人生に対する心の態度を改めろ」
という警戒警報を下されているのが、病だと思ったらどうか。
私がインドに行った時は、まだ、熱が八度五分くらいあって、ときどき、喀血していた時代だった。毎朝毎朝、起きるのが物憂い。ある朝、
「おはようございます」
とインドの先生に挨拶すると、
「おお!世界一の幸福者よ」と言う。
私は腹が立ったので、
「あなたは、私を冷やかしているのですか」といった。すると、
「そうじやない。俺は本当のことをいっているのだ。『頭が痛い、熱がある』といっても生きているじやないか。まず第一に、生きていることを、なぜ感謝しないのだ。そんな酷い病に罹っていても、生きているお恵みを考えてみなさい。そして生きていればこそ、こういうところへ来て、お前の心が、だんだん明るくなり、それにつれて、お前の活き方に対する、すべての欠点が解ってくるじやないか。そうしてみると、たとえどんな病があろうと生きているということは何とありがたいことじやないか」
といわれたとき、ああ本当にそうであったなあ、今までは、なんと罰当たりな自分だったなあ、とつくづく思った。
それまでは、ただ、他の人を見れば、皆丈夫で、
「何も悪いことをしないのに、俺ばっかり、こんな病に罹って、弱い人間になって、何という不運な人間だろう。この世に神も仏もあるものか」
というような気持ちで、あろうことか、あるまいことか、感謝どころか、毎日生きていることが、憂いと思った。生きてることが憂うつなら、死んでしまえばよさそうなものの、死ぬ気にはならない。
たとえば、事業に失敗したときでも考えなさい。
「俺は運が悪い」と思わないで、「事業をする場合の心構えなり、方法なりに、大きな間違いがあったことを、天が教えてくれているんだなあ」と。そして、
「どこかに筋道の違っているところがあるんだ。ありがたいことだ。このままつぶれてしまっても仕方がないのに、生かしておいて下されば、盛り返すこともある」と思うことだ。
諸君はもう凡人じゃないんだからーーおだてるわけではない。凡人は真理など聞きにこないから。もちろん優れた真人とはいわない。これから真人になるところだから。だから、心がけを取り替えて、すべてのことに感謝しよう。そして、こうして生きていることに対する歓喜の気持ちをもとう。
中村天風『運命を拓く』講談社、1994、150-152.
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17-c (善人でも病気や不幸を経験する理由)
善事をしつづけながらも、なかなか不幸な出来事が消えぬような人もたくさんある。しかし、これは憂うべき事態ではなく、その人自身や、一家一族の進歩してゆく姿なのである。それほ、過去世から蓄積されてある、その人または、祖先の悪因縁が、その人の時になって表面にはっきり現われ、次々と消え去ってゆく姿だからである。人間には、肉体の世界以外に、幽界、霊界の世界があるのだから、一番苦しみの軽い肉体界で、過去世の蓄積された因縁をでき得るかぎり消滅し去っておいたほうが、その人や、その人の祖先、または子孫のためにも幸福である。従って、善事をなせばなすほど、不幸な出来事が、より多く現われる場合もある。しかし、それは真の不幸ではなく、潜在していた不幸が、いち早く現われたに過ぎず、その不幸が、より長く潜在していて現われぬと、その人自体が現在味わっている不幸の何層倍かの不幸になって、やがて現われてくるのである。であるから、どんな不幸が現れようと、この現れによって、自分及び、祖先の業因縁が完全に消え去ってゆくのである、と堅く信じなければならない。神ほ善事をなしている者に、決して不幸を与えるわけがないのである。絶対にないことを私は明言する。従って、その人は、自己の想念や、行為を、よく内省して、どう考えても自己の想念、行為に間違いなし、と信じられたら、そのまま、業の消えてゆく姿である、これから必ず良くなる、と断乎として思うべきである。その勇気こそ、その人を救い、その人の周囲を救う祈りなのである。
といって、今生で、あまり不幸に会わぬ人は、幽界で必ず苦しむか、というと、そうではない。過去世に善行をたくさん積んであった人は、今の現世で、あまり不幸に会わぬことになる。たいして才能もなさそうな人が、意外な金力に恵まれ、名実ともに幸福な生涯を終る場合もある。これらは、過去世の善因縁の結果であるから、幽界に行って苦しむ、とほ限らない。現象の人間は、過去世の因縁、プラス、現在の想念、行為がその人の運命を定めるのであるが、これが、また未来の運命とも深い関係をもつことになるのである。ただ、人間の真の姿は霊であって、業因縁に捉われるような者でなく、自由自在であると観じ、いかなる業因縁の動きにも、超然としていられる心境になれば、現象の不幸は忽然と消え去って、再び現われなくなるものである。そして、その人は業因縁の輪廻を超えた神の世界に入り得るのである。
五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
1988 、pp.95-96
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17-d (精神病、小児麻痺、癲癇等々の病気の原因はどこにあるのか)
それらの病気はほとんど憑念の作用である。憑念即ち、普通いわれている憑依霊のための病気といえる。
人間の肉体が完全な形で活動(病気なく悪行為のない働き)しているのは、神界からの生命の光が、途中、さわりなく、肉体界に投影している状態なのであるが、普通いう病気や、不幸、悪行為の現れは、神からの光が、まず、幽界において、その人の悪想念(悪因縁)の集積に汚され、その汚れた波が、その悪想念の形に従って、肉体の病気の種類、不幸、悪行為の形に定まって現われるのである。しかし、問いのような病気の場合は、その人の悪想念というより、その人の祖先や、因縁のある霊魂のうち、いまだ迷界(迷っている霊魂のいるところ)にいる霊魂の、迷いの念の波が、神から来る光をさえぎって、その人間の肉体を、不自由な状態にしてしまうのである。生命の光が百燭光あれば完全に生きられるのを、十燭光もともらぬような、光波の流れになっては、肉体が不自由になるのは当然である。であるから、この病気を治すには、横からさえぎる、汚れの念波を、浄めるか、そらすかの二つの道よりないのである。科学で、この方法をとれば、それで癒えるわけだが、現代ではいまだ、そこまで医術が進歩していないように見える。そのため、宗教家が、迷える霊魂に、祈りによって強力な、光波を当てて、その霊魂の迷いを醒ます方法をとっているのである。
精神病の場合などは、医者は電気療法をやって、そのショックにより、脳神経の調節をはかっているようだが、これらは、私のいう精神波長の修正なのである。しかし、憑依している想念の波(迷える霊魂)には種々の種類があるのだから、誰にでも、同じような波長の電気療法をやっても、効果は少ないのである。それより先きに、精神病の原因というものは、その人の精神状態の不調和に牽引されて、外部(幽界)から迷える霊魂、いわゆる同じような不調和な想念が感応してくることによっての病状であることを識らねばならぬ。その原因を知って、その人の抑圧された想念をまず解きほぐしてやることから始めなければならぬ。病気というものが、なんでも肉体及び、肉体機能の一部としての精神作用からのみ起こると思っているようでは、病人の数は総体的に減ってゆくことはないであろう。
医学が、今までのような方法にのみ捉われず、病気とは、肉体外の世界の不調和によることもあるのだ、という面への研究もしてゆくことにより、肉体、精神、心霊の三医学の完成を見、巷間の、いかがわしい迷信治療を抑えてゆくことができるのではなかろうか。病気治療は医者の専門である、と国家がいう以上は、その位の研究を医学界に薦める義務があると思う。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.98-99
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17-e[29-d] (人間は肉体を癒すための光を手に入れることもできる)
私はかつて、医師として手術の場面に立ち会ったことがあります。今にして思うと、恐ろしさと嫌悪のあまり身震いがするほどです。しかしながら、数多くの人命が外科医の技術によって救われているという事実に対しては感謝しています。とはいえ、医学界が人間のアストラル体とその健康をも研究の対象とすれば、さらに多くの人々の生命が助かるだろう、とあえていっておきたいと思います。
人間が自らを神聖な知性に対して開けば、肉体を癒すために利用できる光を手に入れることができます。これは、ヒーラー(治療家)の知的な資質よりもむしろ、その霊的な知性ないしは洞察力によるものです。この霊的な知性により、ヒーラーは癒しの光を自分自身に引きつけ(磁石の引力と同じようなものと考えればよいでしょう)、その光を患者に当てることができるのです。医学が光とさまざまな色彩の光線に関する情報をいつの日か受け入れ始めると、種々の新しい治療法が可能になりますが、これはその一つの例にすぎません。
健康と癒しと生存に必要なものすべてが宇宙界にあって、人間に利用されるのを待っているというのは、まさしく真実なのです。しかし、不幸なことに、霊的に無知な人々は、神がこのように豊かに供給してくれるものを利用することができずにいます。
この知識をもっている人々が、それを他の人々に伝えるというのは、不可能とはいわないまでも、非常に難しいことです。これは、魂自身の理解によって達成されなければならないのです。しかし、宇宙のキリスト意識から送られてくる光によって、影がさして真っ暗な状態にある人間の理解力に光がさす日が必ずきます。そのとき人間は真っ暗闇の状態から目を覚ますことになるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.252-253
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17-f[29-e] (病気の原因だけでなくヒーラーの力の源泉を探る)
過去何世紀にもわたって、病を癒すためにさまざまな方法が実施されてきました。それぞれの治療法は効果があるように見えても、その対象は限られた数の病気にとどまり、すべての病気に通用する治療法というのはありませんでした。今私たちがなそうとしているのは、病気の原因を探るだけでなく、ヒーラーの力の源泉を見つけ出すことです。
このようなことをいうと、大議論を巻き起こすことになるかもしれません。病気は、患者の心の状態が原因であると考えられているようですが、ふつうはそれよりもずっと深いところに根ざしているのです。ときには、人の意識から始まり、またときには、潜在意識に由来することもありますが、前意識に始まっていることが一番多いのです。
前意識という意味は、現在生きている人生よりもずっと昔の意識の状態という意味です。人間の過去の人生に遡った意識ということです。つまり、数多くの輪廻転生にまで遡る意識のことです。しかし、これを、心理学者がいうところの“種としての本能”と混同してはいけません。
前意識は人間の自我、霊と関係があるのに対して、人間の本能的な心とでも呼ぶべきものは、人間に内在すると思われる動物的ないしは種の本能に関係しています。人間の本能的な心は、前意識と呼応することはないようです。前意識は人間がすべて普遍的かつ霊的な遺産として共有しているものです。この前意識の状態は、動物界では未知のもののように思われます。
今日の人々は、人間の意識、あるいは潜在意識のほうに関心を払うことが多く、意識ないしは潜在意識が、数多くの、さほど重大ではない肉体的問題の原因になっていて、場合によっては重大な病を引き起こすこともありうると認めています。また、意識にも潜在意識にも起因するとは思われない、数多くの病気もあります。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.254-255
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17-g (病気のもっとも多い理由はリラックスできないということ)
病気になるもっとも多い理由は、リラックスできないということです。あなた方のほとんどが、意識的にも無意識的にも、糸がピンと張りつめたような緊張した生活を送っています。これは目を覚ましているときだけでなく、眠っているときでも同じです。緊張した心のまま眠りにつくと、あなたの指、肘、膝、脊髄、その他の骨の部分が、心のあり方に応じた緊張を保ちつづけているのです。
なぜ、そうなるかといえば、だいたい同じような緊張した状態が、日中の生活をほとんど支配しているからです。肉体の緊張は、恐れ、心配、抑圧された感情、押さえられた欲望といった心の状態によるものです。したがって、眠っているときであれ、目を覚ましているときであれ、病気に苦しむ人の霊体のさまざまな中枢にエネルギーの停滞が生じるのです。
子供のときからリラックスすることの大切さを学び、それを習慣にして、毎日毎日の生活をゆったりとした気持ちで、自分自身ばかりでなく、ほかの人たち、そして神との心の調和を保ちながら生活すれば、霊体および肉体の中を、エネルギーがなんの滞りもなく、リズムをもって流れるようになるでしょう。この流れはその本来の性質によって、すべての廃棄物を運び去ってくれ、除去してくれます。それはやがて、普遍的な宇宙によって吸収され、新しいエネルギーへと転換されます。
息を吐くとき、人は毒を吐き出します。というのは、息を吐くことによって人は、使い古した肉体的な物質、霊的な物質を絶えず吐き出しているのです。ですから、逆に、息を吸い込むことによって人は純粋なプラナ、すなわち、宇宙の生命力を吸い込むべきなのです。この宇宙生命力であるプラナは、人間の肉体をリズムのある完全な健康状態に保ってくれるものです。
したがって、クリスチャンサイエンティストが主張するように、すべての病気は“人間の心”に起因するというのは誤解を招く恐れがあります。病気はそれよりも深いところに原因があるのです。しかし、人間が“心”をリラックスさせ、新鮮な宇宙の生命力に助力を求めるならば、流入するエネルギーがただちに修正され、やがて完全に健康な状態が生まれるのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.259-260
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17-h[1-c] (怒り・貪欲・羨望などの破壊的感情は病気を作り出す)
怒り、貪欲、羨望といった外面的かつ破壊的な感情は、魂の深いところに根ざした病気とははっきりと異なった、もっと単純な病気を作り出すというのは、興味深い事実です。例えば、自己憐憫はよく腰の痛みや腎臓病の原因になります。自己憐憫はまた肝臓病の原因にもなります。ただし、肝臓病は激しい感情の暴発によっていつでも誘発されるものであり、その結果、血液に毒が送り込まれることになります。
恐れや心配といった感情は、長いあいだ続くと、同じような病気の原因となり、癌をもたらすことすらあります。一定数の癌の症例の原因を調べてみれば、深く根ざした恐怖感が緊張状態を誘発し、そのために、霊体がとざされ、その結果、霊のエネルギーの流れが停滞した結果であることがわかるでしょう。
外面的な感情(怒り、貪欲、羨望など)ははっきりと何かの病気を引き起こす可能性があると申しあげました。人間は、自分の内面的な心をコントロールできない限り、こうした有害な感情の手綱を操れはしないということを覚えておかなければなりません。ここで再び、健康に関するかぎり、心の内面的な調和が非常に大切であるという事実に話が戻ってきます。そして、人間の心の調和は霊的な自我が目覚めているかどうかにかかっているのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.263-264
17-i[29-h] (四と三は強烈な数字で人間にあらゆる面で影響を及ぼす)
心霊のヒーラーは、霊体の滞りを癒すという点で、きわめて重要な働きをすることができます。心霊のヒーラーが役に立たない場合もありますが、それは、患者の本当の問題まで深く調べることができないからです。患者自身が自助できるとき、ヒーラーもその力を十分に発揮するのです。
この種の心霊治療においては、明らかに病気が直って、つまり、患者の“家”を大掃除して飾り立てもしたのに、患者自身がより高い存在の力との接触から遠ざかってしまうと、健康状態が前よりももっと酷い状態になるというようなことがあります。一匹の悪魔に取りつかれていた人が、“家”の大掃除をしてその悪魔を追い出し、飾り付けもしたけれども、空っぽのままにしてどこかに出かけて帰ってみると、家には最初の悪魔も含めて七匹の悪魔が住みついていたという寓話は、ここで私たちが言わんとしていることの意味をよく伝えています。
繰り返しになりますが、どんなヒーラーであれ、すべての病気を癒せるなどと言い張るのは無益なことです。一二の光線について先ほど申しあげましたが、それと結びつけながら、黄道帯の一二の星座、イスラエルの一二の“支族”について、そして一二という数字の神秘と重要性について考えてみましょう。
これらの数字が一二であるというのは、一二の光線のもとに人間の家族を分類できることを暗示しているのかもしれません。すべての薬草は、一二の光線のいずれかに属します。古代の賢者は、すべての病気には必ずそれに呼応する薬草があり、薬草にはそれぞれ波動の合う数と色があり、素晴らしい効力を発揮するということを知っていました。古代の慣習や魔術的な力を持つ飲み物の源は、この知識に遡ることができるでしょう。
人類に関して言えば、四と三という数字は強烈な数字であり、人間が関わっているあらゆる事柄で人間に影響を及ぼします。世界の計算の土台はずっと昔、四角と三角のシンボルの上に築かれました。エジプトのピラミッドの意味について考えて見てください。そうです。ビラミッドは生命の数字のシンボルとして立っているのです。
さて、一二の家、一二の支族、人類がそれに呼応して振動する一二の光線を四つに分ける必要があります。その四つとは、土、空気、火、水のことです。
いつの日か、それはずっと未来のことになるかもしれませんが、医師は患者の治療をするときには、まず患者のホロスコープを見ることになるでしょう。これは根拠のない話ではありません。私たちは真面目に話しているのです。もし人間が望むのであれば、すべての病気の原因をいつの日か発見することができるように、海図を与えようとしているのです。
患者のホロスコープを見ることによって、それがなされるでしょうが、そのホロスコープはふつうのホロスコープではなく、今の人生を越えて、自我のこれまでのすべての人生に及ぶものです。これまでの数多くの輪廻の人生の中で振動してきた光が何であるか、それを明らかにしてくれるホロスコープです。
この方法によって、すべての病気は四つのグループのいずれかに分類できることが発見されるに違いありません。患者が土のサイン、水のサイン、あるいは、火のサインに波動が合うと思われるときには、そのサインに見合った適切な治療を施すことができるでしょう。これまでのように、すべての人に対して同じ治療をすることはなくなるはずです。土、空気、火、水のどれに波動が合っているかを知ることによって、かかりやすい病気がわかり、その結果、予防策をとることも可能となるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.265-267
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17-j[29-i] (振動数による12の光線が接触する肉体の各部位)
振動数によって一二の光線があることを説明したので、今度は、これらの光線が接触する一二のポイントについて話しましょう。心臓を出発点として、次のように数えます。
1 心臓
2 喉
3 松果体
4 脳下垂体
5 脾臓
6 脊柱の基部
7 太陽神経叢
8 生殖器官
9・10 二本の手
11・12 二本の足
この一二の霊的な中枢は、ヒーリングの光線に対してきわめて敏感であることをなんらかの計測器によって証明するのは可能であり、いつの日か必ず証明されることになるでしょう。人間の体そのもの、および肉体の中にある生命体である魂は、外部の助けを借りずに自らを癒すことができるというのは事実です。それだけでなく、人間は他の人々を癒すことのできる光を引きつけ、それを他の人々に向けることもできます。
しかし、すでに説明したように、病気の中にはその原因がきわめて皮相的であるため、表面的な治療で簡単に直せるものもあります。ねぶとなどは、磁力による、または霊的な力による治療よりも、湿布で治療したほうがずっと簡単です。
また、それぞれの心霊中枢には、体の一器官が接続していることも発見されるでしょう。例えば、一定の色の光線、それは一つの波動にすぎないのですが、その光線で喉の中枢を治療すれば、反応が出てくるのは、喉ではなく胃なのです。強迫観念や精神錯乱を治療する場合には、脳下垂体の中枢を治療しなければなりません。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.267-268
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17-k[23-zd] (てんかんは患者の霊体の調整ができて初めて直る)
てんかんは長い間、医学関係者を悩ませてきました。この病気は、子供が母親の体内に宿ったとき、両親の霊的な不調和が原因となって、子供の霊体に不適応が生じたのが原因であると聞けば、なるほどと思う人は多いかもしれません。
親の責任がどれほどのものか、私たちははたしてわかっているのでしょうか。父親の罪は、子供の三代四代までもついてまわると、俗にいわれています。確かにそうであるとしても、この諺にはそれよりもさらに深い意味が込められています。もっと正確にこれを言うならば、“人の罪は三番目、四番目の輪廻転生にまでついてくる”ということになるかもしれません。まさに、私たちのこれまでの輪廻転生の人生は、今後に続く人生の“父親”となるのです。
それでは、てんかんはどうすれば治療できるのか、という疑問がここで湧いてくることでしょう。てんかんに苦しむ人は一生この病気に苦しまなければならず、この病気は曖昧なままに放置されるしかないのでしょうか。じつは脳下垂体と松果体を接続することによって可能となる、患者の霊体の調整ができて初めて、てんかんは直ります。この二つの器官の間に裂け目が生ずるとき、てんかんの症状が起きるのです。もっと簡単に言うと、ネジが緩んでいるのです。ネジが緩んだときに、てんかんの症状が現れるのです。ネジを閉めてください。つまり、霊体を完全な形に調整してください。そうすれば、てんかんは直ります。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.268-269
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17-l (病気を4つのグループにわけて適切な治療法を提案する)
ここで、病気を土、空気、火、水のそれぞれのサインにグループ分けして、さらにそれぞれのサインには、鉱物、動物、野菜の三つの部分があることを考慮に入れながら、適切な治療を提案したいと思います。
●空気のサイン このグループに所属する人たちは、霊の中枢を通して暴れる神経系の病気に悩まされるでしょう。頭と腰が最も頻繁に影響を受けるでしょう。治療に対して最も効果的な霊の中枢は脊柱の基底部です。
●火のサイン このグループに属する患者は感情的で、強迫観念、精神病、炎症、高熱を患う可能性が強いでしょう。治療は、脳下垂体、松果体を通して行なうとよいでしょう。
●土のサイン 粘液質の人、全体的に動作が緩慢で、エネルギーの流れに澱みがあるため毒素を蓄積しがちな人たちが、このグループに属します。粘膜に炎症が現れ、その結果、血液に毒素が生じたり、原因を同じくするその他の病気が出るでしょう。
●水のサイン 奇妙に思われるかもしれませんが、水のサインは体の下半身、脚・足に影響を及ぼします。これは流動性の強いサインであるため、このサインに属する人たちは、心霊的な、磁力による治療が最も効果的です。
火のサインの人は色彩光線による治療に最もよく反応します。空気のサインの人は、霊的・秘跡的な治療、土のサインの人はクリスチャンサイエンスが行なっているような、食事と精神的な治療が効果的です。
これらのヒントに従うならば、(注意してほしいのですが、これはあくまでもヒントにすぎません)、そしてまた、厳密さを欠いた、思惑的な現代の医学に惜しみなく投入されている実験や研究活動のほんのわずかでも、この研究に注ぐならば、普遍的な癒しの、厳密で科学的な方法がもたらされることでしょう。その方法は人間の肉体の性質、心霊的な性質、霊的な性質に基づいたものとなるに違いありません。もし人がそう望むなら、その癒しは確実で厳密な手法を確立できるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.269-271
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17-m[29-j] (子供の喘息は母親のはりつめた神経組織が一因)
薬草の治療について、さらに説明をしたいと思います。体の一二の部分のそれぞれに、波動と色彩が呼応する薬草を入手することが可能です。そして、火、水、土、空気のいずれに属するかを知れば、それに応じた、適切な薬草を選ぶことができます。適切な薬草を用いれば、いずれの場合もきわめて効果的ですが、間違った薬草を用いると害になる場合もあります。
薬草は一定の法則のもとに生長します。薬草の生長は、気候とか季節にだけ依存するのではなく、地上の鉱物界、野菜界、動物界の生命を支配する一定の光線に基づいて、その形および性質を形成します。したがって、ヒーラーは占星術からみた患者の性質を理解していなければなりません。なぜなら、すべての薬草は、黄道帯のそれぞれのサインをもっているからです。
薬草は病気の性質、病人の性質に一致するものを選ばなければなりません。例えば、獅子座の上昇するサインの人には、それにふさわしい数と光線の薬草をあげるべきで、べつな光線を与えてはいけません。薬草による治療を、かなりの厳密さと正確さをもって分類することは可能であるはずです。
薬草による治療は、すべての病気に対応することはできません。患者はそのサイン、気質によって治療する必要があります。喘息は神経組織を原因とする病気です。この種の神経の反応、つまり体のリズムの乱れは、青あるいは緑の光線によって、効果的な治療を行なうことができます。喘息は他の神経系統の病気と同じく、心霊的な原因に起因していると思われます。ときには、磁力を用いた方法が治癒力をもつでしょう。治療すべき中枢は太陽叢です。消化不良の問題もあるかもしれないので、食事にも注意を払うべきでしょう。
喘息の発作の多くは、この種の不注意によって引き起こされますが、そもそもの原因は心配事や心の悩みであることが多いようです。心の悩みを解決すれば、喘息は直るでしょう。このようなわけですから、喘息に関しては、ブルーの光線、つまり、心を穏やかにし、心の平和を回復してくれるこの光線が必要であることがおわかりいただけると思います。
ある種の薬を飲むということは、単に症状を治療しているにすぎないのです。その根本原因までつきとめなさい。喘息の場合それは心霊的な混乱であって、多くの場合、太陽叢を中心とした混乱です。この病気に苦しむ子供は大体の場合、母親のはりつめた神経組織が原因です。あなた方はこれを即座に否定することでしょうが、しかし、事実なのです。いずれにせよ、この霊の浄化という治療を受ければ、この病気が再発することはけっしてないというのは、元気づけられることではないでしょうか。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.271-272
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17-n[36-h] (人は前世の罪を払拭する手段として癌を選ぶこともある)
癌は場合によっては土のサインで現れることがありますが、常にそうであるとは限りません。というのは、癌はときとして、前世のある段階で、きわめて神聖な法則を破ったことに起因していて、患者がその罪を払拭する手段の一つとして癌を選ぶということもありうるからです。
医学界は、癌の治療法とはじつは患者のエーテル体の治療だということを発見するときが来るでしょう。この治療は、特定の薬または薬草によってエーテル体に根気強く働きかけるのです。薬草としては、“リンドウ”が最も効果的でしょう。光線による治療も効果を発揮するでしょう。真珠色の光線は、エーテル体の浄化の光線として最も効果的です。
霊体を構成するエーテルの物質が、薬草または光線の働きによってリラックスしてゆったりとすると、肉体に居すわっていた癌は分散して消えるでしょう。癌はふつう、体の特定の部分に現れますが、常に一定の場所に特定できるとは限りません。手術をすると、刺激物だけがあるというような例がよくあるのです。この刺激物は、血液の中を駆け回って、べつなところに居すわったりするのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.272-273
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17-o[29-k] (人間のすべての病気を癒すことが可能である)
ときには、霊のヒーラーが患者の治療をしているのを私たちが見守ることもあります。しかし、患者は治療に反応せず、治療は失敗に終わりそうに思われることもあります。場合によっては、わが子のごとく人類の面倒を見ている偉大なマスターたちですら、干渉しないこともあります。それは、自分自身の努力と苦労で、自我を克服することによってのみ、人間の魂は自らの暗黒の遺産を転換できるのだということを知っているからです。
そのような罪人に向かって、キリストはこう言われました。「あなたの罪は許されました。行きなさい。これからは罪を犯さないようにしなさい」。過ちを犯した魂であっても、自らを克服して神を獲得しようとさえすれば、キリストの力と存在によって、このような救済は可能なのです。
すべての病気を癒すことが可能です。そして、実際、人類が自らの自由意思と合意によって、生ける神の宮殿に足を運び、永遠の存在の心から流れ出る、そして生命の泉そのものである、あの純粋な白い光、あの真実、あの生ける愛を受けとるならば、すべての病気は癒されるでしょう。そのとき、人間の泣き叫ぶ声、嘆き悲しむ声は聞かれなくなり、完全な人間だけが存在することになるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.273-274
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17-p[29-l] (すべての病気はリズムや波動の乱れが原因である)
すべての人間は、火、空気、土、水の四つのグループに分けることができると述べました。ホロスコープによって患者がどのグループに属するか、正確に判断することが可能です。もちろん、ヒーラーは直感によって患者のグループ分けをすることもできますが、より科学的な方法を用いれば用いるほど、より厳密な出生の光線を見つけることができるでしょう。
数か月前、皆さんは私がどのような光線の下で生まれたか、という情報を受けとりました。このさまざまな色の組み合わせがふつうのものではなかったため、私の人生において、また死んだ直後に、困難が生ずる原因となりました。これは皆さんも覚えておられると思います。
すべての病気は、基本的には、リズムの狂い、または波動の乱れが原因である、といってもよいかと思います。一二の光線が、いうなれば鉄の輪のように、しっかりと人類を押さえているのです。一二の光線に人間の健康の秘訣が隠されています。これらの光線についての知識が得られるにつれて、人間の生活は簡略化されることになるでしょう。生活の緊張やストレスは消えてなくなり、医師を悩ませてきた原因不明の病気もなくなるでしょう。これらの病気は、人類を包んでいる磁力や宇宙の力と人間との関係の調和が乱れたことが原因なのです。
人によっては、今私が申しあげていることをあざわらって、こう言うかもしれません。「ばかばかしい。私たちは人間の体がどのようなものか理解しているし、治療の仕方もわきまえている」と。しかし、皆さんはわかっていないのです。人間の肉体がそもそもどのようなものか、初歩的なことすら理解していないのです。
現代の医学は今のあり方をずっと飛び越えて、門を広く開放しなければなりません。たしかに、外科手術は見事な技術を発達させ、それによって素晴らしい癒しがもたらされています。事故のため体に裂傷を負ったり、骨折をしたような場合には、外科手術が役にたちます。現在はたしかにその通りですが、将来は、外科手術すら別な手段に取って代わられるときがくるでしょう。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.275-276
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17-q[36-g] (病苦を体験する覚悟をしてこの世に誕生する幼児)
これまで、伝染病を除いて、すべての人間に共通した病気について述べてきました。多くの病気は前意識にその源を発しているということから考えてみると、なんの原因も理由もなく、伝染病がまるで野火のように、あっというまに広がっていくというのは理解しがたいかもしれません。しかし、この場合でも、相当多くの人々は伝染病に罹患しません。クリスチャンサイエンスを実行している人々はその一例です。つまり、人間の意識的な心は、このような問題に関しても、ある程度のコントロールができることを実証しているのです。
クリスチャンサイエンティストが守っているのは自分自身の精神の活動だけではありません。伝染病にかかるという特定の体験をする必要がないところまで彼らは進化しているのです。伝染病にかかる人々は、この体験をする機が熟した人々であり、それによって教訓を学ぶことになっている人々だとも考えられます。
これに同意する人は、ほとんどいないかもしれません。そしてこう聞くでしょう。「なぜ幼い子供が伝染病にかからなければならないのでしょうか。子供は純真無垢なのに、どうして守られないのでしょうか」
どんな肉体の病気であっても、その背後に横たわっている原因を明らかにしようとすれば、広い領域を扱わなければなりません。ここで再び繰り返しますが、子供たちは、病気や苦しみ、あるいは健康や幸せ、その他もろもろの、人間生活を構成し、かつ人格の形成に資する人生の浮き沈みを体験する覚悟をして、この世に生まれてくるのです。
しかし、伝染病は必要悪ではありません。そのうち、霊の法則がよく理解されるようになるにつれて、伝染病はなくなるでしょう。現在でも、どうすれば自分を守れるかということをわかっていれば、伝染病にかかる必要はないのです。意識的な心、および無意識の心によって支配されている肉体の細胞の生命が、伝染病の侵入を許しているとも言えるのです。もしも意識的かつ無意識的な思考の活動によって十分な抵抗をするならば、肉体の細胞は伝染病を退けることができるのです。
したがって、子供は初めから、正しいものの考え方の訓練を受ける必要があります。子供の教育は七歳から始めるのではなく、生まれたときから始める必要があります。親も看護婦も、幼児はまわりの環境から、両親や看護婦、親戚の人々、友達が漂わす雰囲気から、良い考えであれ、悪い考えであれ、吸収するのです。肯定的な思いを与えられた子供は健康の息吹を与えられたのであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、生き生きと元気よくなり、あらゆる原因による病気に対して抵抗力をもつことでしょう。
子供の健康と幸福についての真実は、徐々に理解されるでしょう。まもなく、人類は自分の任されている幼い魂への責任に目覚め、この目覚めを通して、地球全体への責任に目覚めることでしょう。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.276-278

18. 苦難と悲しみ (苦労の意味)
18-a (障害や困難は大きな成長の機会)
障害や困難の克服が、霊的な成長を促進するということは本当です。重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは進歩のしるしであって、退歩を意味してはいません。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主です。最も大きな成長の機会が与えられるからです。もし、普通の人生を学校での一年間だとしたら、このような大変な人生は大学院の一年に相当します。退行催眠で苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、このせいでしょう。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持っていないのです。
ブライアン・ワイス『前世療法(2)』(山川紘矢・亜紀子訳)
PHP研究所、1996、p.217
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18-b (障害の多い方が多くを学べる)
障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとってもっとも大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。
失業などの良くない出来事は、時にはより良いチャンスへのドアを開けてくれるものであったりします。早まって悲嘆にくれたりしてはなりません。運命がその複雑なタペストリーを織りあげるには、もう少し時間がかかるのです。苦痛と困難に加えて、この世界には愛と喜びとエクスタシーもあります。私達は他の人々の間にいることによって、愛を学ぶためにここにいるのです。そして他の人々もまた、私達と同じ道で、同じレッスンを学んでいます。愛は知的なものではありません。私達が気づかなくても、絶えず私達に流れ込み、通りすぎてゆくダイナミックなエネルギーです。私達は愛を与えることも、受け取ることも学ばなければなりません。人間社会の中で、人との関わり合いの中で、人々への奉仕の中でこそ、すべてを超えた愛のエネルギーを私達は本当に理解できるのです。
ブライアン・ワイス『魂の療法)』(山川紘矢・亜紀子訳)
PHP研究所、2001、p.93-94
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18-c (苦しみの果てに得たやすらぎ)
山茶花の美しい日でした。電話で解雇の知らせを受けた夜、私の心はキリキリ痛みました。眠るどころではなく、私は般若心経について書いた本を読みながら横になっていました。心を苦しむにまかせていましたのに、本を読み進むにつれて、その苦しみが少しずつ希望に変わっていくのを感じました。
やがて、長い冬の夜が明けて、障子が白々としてきたとき、突然、私は激しいめまいを感じ一瞬、意識がなくなったように思いました。次の瞬間、昇ってくる朝日に照らされながら、私は何か大きな暖かいものにすっぼりと包まれているのを感じました。
それは何だかわからないけれども、もう私は一人で悩む必要も苦しむ必要もないと確信できました。私のすべてを、現在も未来もその大きな力にまかせてよいのだと思いました。これまでも、いつも私はその大きなカに包まれていたのに、自分でそれに気づいていなかったのだと感じました。
そして、自分の進むべき道がはっきりと、本当にはっきりと目の前に見えてきました。解雇や病気は、私が仕事を辞める理由にはならない。この宇宙の中での私は小さい、けれどもそれが私である以上、私は最善の生を生きなければならない。私と同時代に生きた人々のために、まだ私には何かができるはずだと感じました。私の生きてきた人生経験が、私に動かしがたい何かを与えてくれたこと、そして、私が、十年、二十年前の不安定な私ではなくなっていることを、はっきりと感じました。私の得たものを成長させて、世の中に返す義務があると思いました。一睡もしませんでしたが、前の晩のみじめな私はもうそこにはいませんでした。
柳沢桂子『癒されて生きる−女性生命科学者のこころの旅路』
岩波書店、1998、pp.29-30
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18-d (苦難は神からの贈り物である)
わたしの死は、あたたかい抱擁のようにやってくるだろう。ずっと前からいってきたように、肉体にいのちを宿している期間は、その人の全存在のなかではごく短い期間でしかないのだ。
学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じこめている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり・・・・・美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく・・・・・・そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。
幸運に恵まれれば、わたしはもう地球にもどってきて学びなおす必要のないレベルに到達するかもしれないが、悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまはど衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた。神の庭園のめぐみをむさぼる人類が庭園を荒らしつくしてきた。兵器、貪欲、唯物論、破壊活動、それらがいのちを支配するルールになっている。恐ろしいことに、いのちの意味について瞑想する人たちによって世代をこえて受けつがれてきたマントラ(真言)はカを失ってしまった。
まもなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえる。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ以外に、人びとが目ざめる方法はないのか?自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説くためにとはいえ、ほかに道はないのか?
目には未来の光景が映っているが、わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられている。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもない。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってはしい。そして、いのちを、やりがいのある課題だとみなしてほしい。もっとも困難な選択が最高の選択であり、正義と共鳴し、カと神への洞察をもたらす選択なのだ。神が人間にあたえた最高の贈り物は自由選択だ。偶然はない。人生で起こるすべてのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。
・・・・・・・人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ。
エリザベス・キュブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳)角川書店、
1998、pp.372-374

19. 価値判断・視点の相違
19-a (あなた次第で相手も変わる)
まだ、飛行機も列車もなかった昔のこと。ヨーロッパを旅していた一人の男が、美しい山間のある村にひと月ほど逗留していた。その間、大勢というわけではなかったが、それでも何人かの旅人が男の泊っていた宿屋を訪れた。
そしてある日、そんな旅人の一人が、宿屋の軒先にやってきて主人に尋ねた。
「ご主人さん。この村は素晴らしい村だそうですね。村人は人情に厚く親切で、行き倒れの旅人でも手厚く面倒を見て下さるそうで・・・・・・・」
すると主人は答えた。
「旅のお方、あなたのおっしゃる通りだ。あなたは運のいい方だ。きっとみんな親切にしてくれますよ。たっぶっ旅を楽しまれるがいい」
それから何日かして、別の旅人がやはり宿屋の入り口に立って、主人に聞いた。
「主人。この村は相当物騒な村と聞いたが、大丈夫だろうか。村人の気性も荒いようだし、至って不親切だ。聞いた話では、何でもこの間も危うく命を落としかけた旅人がいるってことだね。用事が済み次第早く帰ろうと思ってる・・・・・・・」
すると主人は答えた。
「旅のお方。あなたのおっしゃる通りだ。あなたはしっかりしてなさる。くれぐれも用心して下さいよ。どんな目に遭うかわかりませんからね」
その様子の一部始終を見聞きしていた逗留の男が我慢ができなくなって言った。
「ご主人さん、あんたは随分ちゃらんぽらんだ。言ってることがまるで逆さまじゃないか。一体ビっちが本当のことなんですか」
すると主人はにこりと微笑んで、こう答えたという。
「いえ何ね。実はどっちも本当なんですよ。村に好感を持っている人は自然に笑顔になるでしょう。ならば村人だって親切にもなります。それで、この村はやっぱりいい村だってことになるんですよ。でも、最初から不信感を持っている人は無愛想だからね。村人だって心を閉ぎして、不親切にもなります。それでやっぱりこの村はひどいってことになるわけなんですよ。
高橋桂子『ディスカバリー・世界の実相への接近』
三宝出版、1996、pp.168-169
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19-b (信念は真理を受け入れるのに妨げになることがある)
ひとつ知っておくとよいことがあります。決して何も信じてはいけないことです。絶対に。信じるというのは、まだこれから知るべきこと、体験を通してこれから理解していくべきことについて、確信を持ってしまうことです。それに、信念は大変危険なものです。なぜなら、信念を持った状態では、まだ自分の存在の内面で真理として確立していないものに対して、自分の信頼、価値観、生命までも任せてしまうからです。そうすると、あなたはとても弱い立場に置かれます。そして、その脆弱な状態では、操られ、罵られ、呪われ、あげくは生命を失うこともあり得るからです。それも全部、ただの信念のためにです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 93
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19-c[11-a] (自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない)
自分自身と自分の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは、「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうすると、あなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を越えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。
自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。何かがプラスであるとも考えないことだ。マイナスも存在すると言わずに、それがどうしてプラスであり得ようか。もしあなたが「これはいいことだ」と言ったら、それは、悪いものもあるということを意味する。自分にやさしく、自分を愛するとき、自分は美しいとは言わず、自分は神である、と言うことだ。近所の人と一緒に何かをするとき、これはいいとは言わず、これは神だと言おう。それは、そのことがただ在ることを意味する。それは、単に生における純粋で貴重な体験であるということなのだ。
ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、という以外の見方をけっしてしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分の内に変質した見方をつくり出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。その想念は、自分の存在の内にフィーリングとして刻まれるからである。つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。そして、魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。
誰かを責めるとき、それはその人の内に見える自分のある側面を責めているにすぎない。そういう面があれほど簡単に自分に見えるのは、このためなのだ。あなたの意識がそういう側面に向いてしまうもこのためなのである。その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、あなたがほかの人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 289-290
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19-d[11-b] (自分の思考過程から価値判断を取り除く方法とは)
人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」という見方で見ることだ。もしある人間がほかに対して残虐であったり、憎しみをもっているなら、その人が残虐であり、憎しみをもっているということは真実だ。なぜなら、まさに彼らはそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、百パーセントあなたの体験となり、内に変質をもたらすのだ。
誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた必ず存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。
さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法は何だろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。
幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。やがてあなたは、自分や他の人間に判断を下したり、生というものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。
それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断を下してはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 290-292
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19-e[11-c] (何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと)
これまでつくり出されたすべての言葉の中で、この教えにいちばんぴったりするものがある。それは「在る」という言葉だ。どういう意味なのだろうか。それは、何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。
そういう生き方をすると、自分やほかの人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。すると、善−悪、可能−不可能、完全−不完全、ポジティブ−ネガティブといったものもなくなる。この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。
ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは、「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまくはたらくものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。
ただ在る状態でいるとき、あなたはすべてのものの「在るということ」と同じ線上にある。その関係を通して、何でも好きなものを手に入れられるのだ。そのためにすることといえば、ただ在ること以外、何もないのである。あなたの存在の神が、自分の考えていること、望んでいることを引き寄せてきてくれるのだ。それは必ずやってくる。あらゆる手立てを通じて外からこれを実現しようとする者は、この内面からの道をまねた取るに足らないまがいものをつくっているのだ。ただ在る状態では、あなたはすでにすべてを持っているのであり、すべてのものそのものなのである。
ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け容れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることかできるのだ。自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂の内に感情として表出することを許すとき、あなたはひとりの無限の神として生きている。単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることができて、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。
知ること、許容することによって生きるのを学ぶのだ。そうすれば、あなたは変性自我を制したことになる。第七のレベル、第七のチャクラ、第七の天界を制したことになるのだ。第七のレベルでは価値判断は存在しない。生の途切れなき継続性があるだけだ。価値判断を制してしまえば、この次元のすべてを学んだことになり、いつでも自分の望むときにここを去ることができるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 292-294
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19-f[55-a] (事故にはそれを体験することで学べる教訓がある)
事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。じつは事故ですら、前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において、十分に知っているのです。
子供についても、きっと質問があるに違いありません。父親が酔っ払って欲情をおこし、その結果生まれたかわいそうな子供たちはどうなのか、と質問したいに違いありません。あるいは、病気の親から、病気をもって生まれた子供はどうなのかと。このような罪のない子供たちもまた、運命によって苦しみに満ちた人生を生きていかなければならないのかと。
あるいは、狂気の肉体に閉じ込められた魂、生まれたときから病に犯された肉体に閉じ込められた魂はどうなのだろうか、という疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どうすれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
これらの場合にもまったく同じ答えが当てはまる、と私たちは答えたいと思います。人間の魂は自分に何が起きるか、ということについての予知能力を常にもっており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。
このような問題について、きわめて限られた洞察力しかもっていない人間にとっては、どのような動機によって、魂が苦難の人生を選択したのかを理解することは不可能であり、魂がどれほどの苦しみを体験しなければならないのかを垣間見ることすら不可能です。しかしながら、戦慄を覚えるほどの惨事が地上において行なわれているのを目撃した後ですら、人間が、善なるもの、神、宇宙の第一の源と呼んでいる、あの全能の存在の価値を判断してはなりません。たとえ、この存在が幼い子供たちが苦しむのに任せて、何もしないように見えるにしてもです。
私たちがいるところでは、誰であれ価値判断をするということはありません。より広い視野から見ると、神はいかなる意味においても、復讐をしたり残酷であったりするようにはけっして見えないのです。私たちがいつも感じているのは、限りない愛であり、神の思いやりに満ちた知性であり、人間に対する永遠の慈悲心です。私たちに見えるのは、全智全能の父が、自分の子供が歩む道を自由に選択する意思の力を与えている姿です。苦しみの道であれ、喜びの道であれ、エゴを克服していく道であれ、すべての道は上昇を続け、やがては、完璧な宇宙の崇高な意識のもとに帰っていくのです。
猫がネズミをもてあそんでいるのを見て、感傷主義者は身震いしてこう叫びます。「なんて恐ろしい、残酷なことをするんでしょう。自然は残酷さにみちみちている!」。一見そのように見えるかもしれません。しかし、そう見えるのは限られたヴィジョンしか持っていない人なのです。実際はそうではありません。さまざまな外観の背後には神の愛と理解があり、すべてのものに浸透しているのです。私たちのまわりに充満しているように見える苦しみは、神の崇高な調和と愛と美を、すべての神の被造物の意識に理解させるための手段を包み込んだものなのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.260-262
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19-g[48-b] (不公平な出来事に抗議してもなんの役にも立たない)
明らかに不公平と思われる出来事に抗議したり、問題にしたりしても、なんの役にも立たないように思われます。そのような病気の原因は、病気にかかっている人の親切でやさしい性質よりも、ずっと深いところに根ざしているのです。その原因は、病んでいる人の現在の人生を越えたところに起因しており、その根っこは現在の人生の外面的な部分に見出すことはできないのです。
熱と同じように、苦しみは洗浄の先駆けとなるものであり、一つの過程の終りを告げるものでもあります。懐疑論者は人が昼も夜も苦しむのを見て、感傷主義者が猫に掴まったネズミを見て示すときと同じ反応を示すかもしれません。彼らは、病気に苦しむ人がやがてもたらすことになる、がっしりとした根や美しい花などというものを考慮に入れようとはしません。
したがって、懐疑論者は、人間の内部にうごめくより豊かな生命力の根源については無知のままであり続けるでしょう。この内なる生命は、病気や苦しみを通して耕された土壌に、元気よく、美しく芽を出すことになるのです。懐疑論者は人間存在の表面だけを見て、表面のみを知るにとどまるでしょう。人間の魂の真の生命は、懐疑論者に見えることはありません。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.262-263

20. 脳
20-a[9-zc] (脳は思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーである)
意識の流れから想念を取り出す力をどうしてあなたはもっているのだろうか。あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、存在の感情面での状態にしたがって、想念を引き寄せてくる。想念があなたの養分となる、つまりそれがあなたの存在の内で感じられ、実感されるためには、波動を下げて光体となることがまず必要だ。想念が、身体を包んでいる光であるあなたの存在の精神と遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。つまり想念は、光に遭遇すると自ら発光するのである。光は思考物質の波動を下げる。こうして光が、それと似たようなものを引き寄せるのだ。想念は目に見えず、それが次に光の炸裂という形で見えるようになる。想念は光という形であなたの脳に入り、今度はその想念の波動値によって異なる特定の周波数をもつ電気的な光の推進体へと変容するのである。
何かひとつのものをあなたが意識するとき、あなたはその想念を受け取っている。想念を受け取っている瞬間に、あなたの脳がその想念の光を受け取っているのだ。通常は視界の横のほうでだが、ときとして光が炸裂するのを見る人がいる。そこで目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取っているところなのである。目の前に輝く光が現れるのを見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部でその姿を見せた瞬間なのである。目を閉じたとき、さまざまな色の動きや、形が広がるのが見えるなら、あなたは想念が脳に入るときにどんな姿になるかを目にしているのだ。
あなたの脳は、思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーであり、その各部がそれぞれ違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできているのだ。各部分は、その細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を秘めている。ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。
一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ。それは、あなたの存在の精神を通して入ってくる想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅すると、それを理解できるよう実感するために、身体のあらゆる部分に伝達するという特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 254-256
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20-b[9-zd] (波動の想念を受け取る脳の力は脳下垂体によって制御される)
皆の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれるものがあるが、それには音量を決めたり、どのメガヘルツの周波数の電波を受信するかを決める調節器があるはずだ。脳もまた、同じような調節器を持った受信機であり、ある特定の周波数を受信するためには、それを蓄積するようつくられた部分が起動されていなければならない。
異なった波動の想念を受け取る脳の力は、ちょうど右脳と左脳の間に位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。脳下垂体は第七のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。異なる想念の波動を受け取って蓄積するそれぞれの部分を起動させるはたらきをするのである。思考を用いて思索したり、論考したりして、その想念を身体全体にめぐらせ、体験として実感し、さらに大きな叡智を得るというあなたの力を開いてくれる扉なのである。
脳下垂体はたいへん小さな、しかしすばらしい分泌腺であり、これを「第三の眼」と呼ぶ人もたくさんいる。でも、三つめの眼はない。頭の中にはそれが入る余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口状の部分があり、それがちょうど花びらのように見える。あなたの脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れのシステムを通じ、支配され制御されている。内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れて、いまひとつの内分泌腺で、脳下垂体の近くの大脳の基底の部分、ちょうど脊髄の上に位置する松果体の口状部へと流れていく。松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取るさまざまな脳の部分を起動させるはたらきをするのである。
身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンによって調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体のホルモンが他の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。そのバランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、そのホルモンの量を増やして、今度はそれがさらに高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 256-257
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20-c[9-ze](意識の流れからの想念はあなたの存在の内でどう実現するか)
意識の流れからの想念は、あなたの存在の内でどういうふうに実現するのだろうか。想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままでそれを通すのだ。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。
さて、変性自我とは何だろうか。人間としての体験から得られた叡智が魂に蓄積され、脳の知性の部分を通して表現されているものだ。神なる人間が、ただ生き残る生き物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中に収まらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け容れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つためにすべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。
変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させたその波動を蓄積する役割を持つ脳の部分に送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。
松果体は、あなたの中枢神経を司っている。個々の思考の波動を集め、それをさらに増幅して、電気的な思考のハイウェイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込む。松果体から来た電流は中枢神経の内部にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つひとつの細胞へと伝えられていく。
さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行なわれた食物の摂取の際に、酵素のはたらきで得られた気体が供給されている。想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。これが、細胞分裂を通して細胞が自己複製することを可能にするのだ。もうひとつ細胞を創造し、自らを再生するのである。こうして、このたったひとつの想念を通じて、身体全体が潤ったのだ。これが化身の分子構造の内部で生が実感される過程である。それは、あなたが存在する一瞬一瞬に受け容れているすべての想念がもたらす結果を通じてのプロセスなのだ。
想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。全身がである!こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体中を走る感じ」というようなものをつくり出す。そして、そのフィーリングは魂に送られ、そこで記録される。
あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する、まったくバイアスのないコンピュータなのだ。何か感情を感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 257-259
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20-d[9-zf](何かを知りたいならば必要なのは感じることだけである)
記憶には大きさというものがない。それはひとつの実体であると言える。記憶は視覚的な記録ではない。それは感情の記録なのだ。視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。魂は、記憶の目的で画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。
魂は、全身で感じられた思考によってつくり出された感情を受けて、記憶の中からそれと似たものを探す。脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。
記述できることは、すべて体験にもとづいたある特定のフィーリングと結びついている。皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験があるおかげだ。皆は花という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験がある。だから花はある特定の感じをもたらしてくれるのだ。絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験をそれと結びつけているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。魂は、そういった感情の体験からの情報をすべて記録している。想念からのフィーリングが感じられると、魂はそれを記録し、そして記憶にあるこれまで体験した思考の中から、それと似たフィーリングを探す。そして、その情報を脳に送り返し、その想念は実感された、つまり化身全体を通して、そのすべてが理解されたことを伝えるのである。思考はただ脳だけで実感されるのではない。それは全身で実感されるのだ。脳の理性の部分が、その後でそのフィーリングを描写する言葉を作成させてくれるのである。
想念はどのように実感され、知られるようになるのだろう。それは感情を通してだ。「知っている状態」というのは、まさにひとつのフィーリングにほかならない。どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知られることはない。感じられて、はじめてそれはひとつのアイデンティティを持つのだ。ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。一度そのフィーリングを自分の内に持てば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。
わが愛する兄弟たちよ、あなたたちの内にこそ、すべての知識への扉があるのだ。あなたの内面で燃える炎は、あらゆる徴少な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞形態を持つ生き物、つまり在るものすべての内にちらちらと燃える炎と同じものなのだ。まったく同一の火なのである。すべての生命とひとつであるというあなたの状態は、光の原理を通じて実感される。魂にある感情に信を与える光とは、花々や、星や、その他在るものすべてに信を与えるのと同じ光だからだ。だからこそ、あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有しているのである。何であろうとも、それを知るということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。花を知っている状態というのは、内面の存在が、フィーリングを通して到達するものなのである。何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 259-261
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20-e[9-zg] (脳の松果体は知識を具現化させるチャクラである)
思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか。松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。受け容れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。まずそれは身体のレベルで起きる。松果体が、まず最初にその想念が感情として記録されるよう、電流として全身に送る役割を持つからだ。想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。つまり、体験する「ハイの状態」、あるいは体中を走る感覚がより強くなるわけである。そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。その期待感が、光の場の電磁部分を起動させ、ちょうど磁石のように、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。それは、あなたの想念すべてから得られ、体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、物であり、人であるのだ。なぜだろうか? あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。
では、望みというのはどう具現化するのだろうか。望みとは、それが満たされるという想念を、物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。あなたが自分に感じることを許した「満たされるという想念」は、すべて電磁場を通ってあなたの身体を離れ、意識の流れに入っていって、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。その欲求が身体の内で完全に、そして強く感じられたものであればあるほど、それが満たされる形も完全なものとなる。そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、それが現れるのも早くなる。絶対的な「知っている状態」というのは、オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 261-262
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20-f[9-zh] (あなたにはあるものすべてを知る力がある)
あなたにはあるものすべてを知る力がある。それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。物質次元で物質的な身体の中に生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、すべて三次元に形あるものを通してそれができるようにするためなのである。あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、すべて体験する現実となる。はじめは自分の化身の内に見えるものとして、次にはあなたの人生の状況として。そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにはあるのだ。そうやって、この地球上に天上の王国がつくられていくのである。
それは実に簡単な科学だ。忘れないでほしい。思考はただ存在する。そして、光は見える。光の波動が下げられ、電気信号となる。電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて固体となる。そして、固体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。同じ真実が身体にもはたらく。それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから電気を受けて、固体の全身に送り、その固体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。望みを現実のものとするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけでいいのだ。するとその感情が父なるものに送り返され、それが満たされるのである。ただそれだけのことなのだ。単純すぎるだろうか。それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか?
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 262-263
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20-g[9-zi] (あなたの脳のほとんどは休眠状態で何もしていない)
もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。脳のほとんどは休眠状態にある。何もしていないのだ! それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。それを除いてしまうのである。言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。
皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定されているからだ。つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。
誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 264-265
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20-h[9-zj] (あなたが自分に考えることを許したものは必ず体験する)
閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!
はっきりと言おう。何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。
閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。確かにそれは変化をもたらす。なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。
これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。
天才になるというのはとても単純なことなのだ。自分で考えるようになればいいだけなのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 265-267
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20-i[9-zk](脳の全体が使われれば自分の身体はどのようにもできる)
脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。水は電気の伝導体だ。水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。
もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか? もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか? 完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。
脳全体の能力は膨大なものだ。なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。
身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。
いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完璧に再生させるのである。完璧に、だ! 奇跡的なことだと思うだろうか。それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 267-269
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20-jl[9-z] (愛や喜びのすべては想念を変えるだけですぐそこにある)
身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。確かにそういうものは効く。それが効くと誰もが信じているからだ。また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。曰く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。だから実際にあなたにはそれができない。なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。そして、彼らは癒された。一瞬のうちにである。「知っている状態」は、そういうことができるのだ。そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。身体はそうできているのである。
存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか? それは、社会意識だ。どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。どこに愛があるのか。どこに永遠が? どこに神があるのだ? そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。
一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。それは、知りたがっていなかったからだ。あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。だからあなたは自分の力を手放してしまった。自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。脳のはたらきを止めてしまった。それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 269-270
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20-k[9-zm] (あなたは自分の内に完全に神になる力を持っている)
人間が、気の遠くなるほど長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。神というのはそれだけのことなのだ。思考の総体、生の貴さだ。そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。完全に、である。いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。知ることができることはすべて知るだろう。あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。
あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。変性自我である。なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも……。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 270-271
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20-l[44-z](自分を愛すれば愛するほどあなたの脳は開いていく)
ここにいる人たちは皆、物質という限られた形態で神について学ぶことでは、その能力いっぱいまで成長してきたと言える。地上界でのたくさんの生を通じて、自分の創造性の産物であるこの天国のあらゆる要素を体験してきている。その体験を通して、社会意識という、動物の群れのごとき現実に生きる神なる人間の限られた思考の価値観については、知るべきことはすべて学んだのである。恐れや不安、悲しみや怒り、強欲についてはもう学んだのだ。嫉妬、憎しみ、戦争についても学んだ。死についてもすでに学んでいる。自分自身と、自分の神なる「源」との断絶についても、もちろんもう学んでいる。そして、その源は、この地上界という、「在るということ」が目を見張るような形で見られる場において、あなたがその最終のレベルで神を体験できるように、すべての冒険を通じてあなたを愛し、支えてきてくれた。
無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、あなたは自分をひとつにしているものに再びならなくてはいけない。身体というやっかいな荷物があるので、それになるただひとつの道は、第七のチャクラである脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ越えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることである。それが、自分の「知っている状態」を限りない神の叡智へと広げる方法なのだ。神の叡智とは、その存在そのものであり、在るがままでその存在を許し、愛しているもののことであり、つまるところ、それは思考の総体なのである。
では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れを使って脳の眠っている部分を目覚めさせるには、いったいどうすればいいのだろうか。それは、単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてを愛しみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。
自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。審判を超え、時間という幻影を超えるのである。あなたは自己の命を満たすためだけに生きるようになる。自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。そして、よろこびの道だけをたどる。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。
さて、あなたは私にこう言うだろう。「でもラムサよ、それではまったく利己的なのではありませんか?」と。そう、まさにそのとおりだ! しかし、利己的というのは、利神的なのだ。あなたの内にあるこの神のために生きるすべての瞬間、そして心に抱いたあと、手放すことのできたすべての幻影、そして自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるのである。自己への愛(これはまさに神への愛ということだ)だけのために生きるようになったとき、あなたは社会意識の密度の中に神を浸透させていく。すると、あなたは愛する兄弟たちが自己へと戻る道に光を当てることができる。それは、彼らを愛する父のもとへと返してくれるただひとつの道なのだ。
自分を本当に愛し、自分は神をそのまますべて受け容れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 274-276
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20-m[9-zo] (限界のない想念を受け取っていけば光を発するようになる)
どんな望みでもそれをかなえるいちばんの方法は何だろうか。あなたの存在の主=神から直接それを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて身体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在の内の神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在の内に入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。
限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂の内で感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。
レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、何となく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経系を通って、あなたの身体の一つひとつの細胞へと送られる。これが、体中がしびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞一つひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 276-277
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20-n[9-zp] (波動の高い思考が理解されるとそれは智慧として魂に記録される)
限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく表す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、何の前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。
覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくるとき、あなたは感情あふれて言葉を失ってしまうことだろう。
思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するというのは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくれば、あなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。
高い波動の想念から体験できた高揚感は、その後どうなるのだろうか。
あなたの魂がそれをとらえ、記憶としてそこに永遠に置くのだ。魂は、感情、フィーリングを通して、この限りない思考の記憶がよみがえることを許すのである。こうして、あなたの「知っている状態」はいつのときもそこにあるように捕捉されているのであり、自分が受け容れることを許したものは、何度でも呼び覚ますことができるのだ。
その高揚感には、いまひとつすばらしいことが起きる。魂が、オーラの場を通じて意識の流れへとそれを放射するのだ。これは意識の密度を高めるだけでなく、同じフィーリングを生み出す状況を人生に引き寄せてくるのである。なぜだろうか。その想念が体験を通じて完璧に理解されるようにである。波動の高い思考が完全に理解されると、それは智慧として魂に記録される。智慧とは、その知っている状態があなたの内面で絶対的なものとして固まったことを意味している。智慧は魂の波動レベルを高め、次にそれが、魂の高次の感情の状態に人生全体を合わせていくはたらきをするが、同時に脳下垂体をあらためて刺激し、それよりもさらに偉大な、高い波動の思考を脳が受け取ることを可能にしていく。こうしてこのプロセスはさらに続いていくのだ。
脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が、創造的な形体へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それは、あなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに、似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。
やがて、輝き、創造性、そして「知っている状態」が、自分の内面でどんどん強まるにつれて、以前は感じたことも知っていたこともないようなことをあなたは感じ、知り始める。ほかの人間を見て、その人を自分の存在の内に感じるようになる。自分の思考から、これからやってくる日々のことを知ることができるようになる。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 277-280
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20-o[9-zq] (思考の波動をすべて検知できれば自分の好きな波動になれる)
心霊的な人間というのは稀有な存在だと思うだろうか。それはあなたが社会意識でものを考えているからにすぎない。社会意識というのは、そういう偉大な力が実は案外ふつうのことかもしれないとは考えないのである。誰もが心霊的な力を持っているのだ!自分に知ることを許すなら、あなたはすべてを知ることができる。なぜなら、社会意識の幻影に抑制されない「知っている状態」は、目の前からベールを取り去り、あなたは他の次元が見えるようになるからだ。耳から障害を取り除き、すべての生命が、自身との調和の中で振動する音楽を聴くことができるのだ。では、どうすればそうなれるのか? それを望むことによってである。
限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。
花はある思考の波動を出している。同時に、カーペットもまたある思考の波動を出しているのだ。すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。風にも、ほかの何でも、自分が望むものになる絶対の自由を手にするのだ。
やがて、脳下垂体全体が満開となり、脳のすべてが活動するようになる。すると、脳下垂体の内面にあった精神的なものは、すべて心の全体に与えられ、心はもう二度と以前の限られた状態に戻ることはなくなる。花が咲き始めると、それが閉じることはけっしてない。これからもずっと開いているのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 280-281
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20-p[9-zr] (脳下垂体が満開となるとあなたはもはや死ぬことはない)
脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友のそばにいることもできるのだ。
脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上っていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じなのだ。純粋な神となるとき、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。あなたはすべてになるのだ。これこそ、最も壮大な天国なのである。
偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完壁な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面に入ってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきたすべての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終えるとき、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに百万倍も加速し、身体は見えない状態へと入って、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。
あなたは三つの側面、つまり精神、魂、自我でできた生き物であり、それが固体という次元で自己を表現している姿である。そして、その三つの側面すべてがないと永遠を実現することはできない。自分の存在の主=神に語りかけるのだ。それはあなたの言うことに耳を傾けることだろう。そのとき、語っているのは、主であり、神であり、師であるのだ。覚えておくように言えば、それは覚えていてくれる。さらに偉大になるように言えば、そうなる。そして、自分の主=神のレベルから、限りなき叡智を持ちたいと望むなら、それはあなたの心を開き、偉大なる波動の思考が身体で感じられ、知っている状態が訪れるようにしてくれる。必要なのはそれだけだ。ただそうするように命ずることであり、内分泌腺はそれに従うのである。そして、自分の存在に電流が走り、さらに偉大な叡智へと高めてくれるフィーリングがやってきたなら、内にある神に対し、それがこれほど簡単だったことに感謝してほしい。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 281-282
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20-q[35-d] (あなたは知り得ることすべてを知る力を持っている)
在るものすべてについて、どうすればもっと理解することができるのだろうか。それを理解していると知ることだ。どう考え、何を語るかが、自分にどれほどの知識をもたらすかを決める。「もっと知りたいと思う」などと言ってはいけない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知るようにする」もだめだ。「何かをするようにする」ということが、何ひとつ達成したためしはない。「もっと知ることを求める」でもいけない。求めていたのではけっして見つからないからだ。こう言うことだ。「わが存在の主=神のレベルから、いま私はこの瞬間に知るべきことすべてを知っている。そうなるように!」そして、答えを待つのである。そのときに何を知りたいと望んでいるか気づいていてもいなくても、「私は知っている」と言うことがその気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。それだけを言えば、知識はむこうからやってくる。
自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は、「わからない」と口にすることだ。あるいは、自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないではしい。あなたは法をつくる者であり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。「わからない」と言えば、わかることはない。「できない」と言えば、けっしてできない。「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受けることはけっしてない。そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。
あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。「不足」を入力しているのだ。そして、知識の中に、「知らない」ということを入力していることになる。それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪い取っているからである。
あらためて言うが、いまも、これからも、知り得ることすべてを知る力をあなたは持っているのだ。その知識への扉を開くのは、ただ「私は知っている」というだけのことであり、するとすぐにそれが実現してくる。数秒間か、数日間かかるかはわからないが、それはやってくる。必ずやってくるのだ。なぜなら、「知る」という言葉は絶対であり、望みを絶対的なものへと変えるからである。知るという想念は、魂の内で感じられ、それがあなたの存在の内面に投影されて脳下垂体を開き、さらに多くの想念が受けいれられる様になる。知るということは、思考の河が限りない流れであなたの中にそそぎ込んでいくのを許す扉なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 282-284
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20-r[11-d] (害を及ぼすものは決して体内に入れてはならない)
この瞬間に自分のクローンをつくる力を持っているのでもない限り、いまの身体をわざわざ傷つけるようなことはしないほうがよい(ちなみに、もし脳が完璧に機能していたら、あなたはそういう力を実際に持つことができる)。
自分の身体を愛することだ。身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること。だが同時に、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。
あなたが女性ならば、女性であれ。男性ならば男性であることだ。自分のそのままを愛するのだ。身体をけっして虐待してはいけない。わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。
自分という存在の壮麗さを見てみるがよい。自分が神なるものとして行動するのだ。皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。精油を塗り、香水で飾るのだ。身体が欲するものだけを食すること。身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものは何かを必ず教えてくれる。
害をおよばすもの、害をおよはすと自分が知っているものは、けっして体内に入れてはならない。とにかく何でも脳への酸素の流れを不足させるものは、脳細胞を多量に死滅させる。脳細胞はけっして戻らない。脳は細胞を再生する能力がないからだ。脳細胞が破壊されると、思考を身体で実感する感情に変換する能力が落ちてしまう。想念に思いをめぐらすことはできても、それはあなたにとっては存在しないのと同じになってしまうのだ。そうすると、よろこびが消える。フィーリングを通じて想念そのものになることなしに、いったいどうしてその想念によろこびを感じられるというのか。
感じることができないと、この次元での「知る状態」を刻み込むことができない。これが、幻想を引き起こすドラッグを摂取したときに自分の脳におよばしている害なのだ。こういうものを摂取するたびに、それは脳から酸素を取り去ってしまう。あなたが感じている「ハイ」と呼ぶ状態は、脳が死んでいくことによって引き起こされているものなのだ。ドラッグを使うたびに、あなたは自分の知る能力を制限していく。そして、いずれはあなたが泣くことも笑うこともできなくなるときが来る。自分の存在の内に、もはや感情をつくり出すほど強いものが何もなくなってしまうからだ。
すべてを知るという状態を体験すること、一輪の花が咲くのを見て涙し、陽が昇るのを待ち、その輝かしい美のすべてを知ることは、知る力を持つことであり、想念をフィーリングへと変換する力を持つことなのだ。それが「絶頂感」(エクスタシー)と呼ばれるものだ。これこそ、皆の言葉で言えば、いい「ハイ」なのである。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296
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