学びの栞 (B) 



 1.  心配や不安 (明日のことを思い煩うな)

 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。
 空の鳥を見るがよい。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていてくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上によくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
 だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

   (マタイ伝6章25-34)

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  1-b (心配や不安を抱いてはならない)

 心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にも立たないエネルギーの浪費である。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。心配するのをやめれば、すぐにでも健康状態はよくなる。心配するのは、神とのつながりを理解していないからである。
 そして、不安は、精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安とは増幅された心配である。心配、憎悪、不安はすべて、これらから生まれる気がかり、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などともに、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことはできない。病気はすべて、まず精神のなかで創られるものなのである。そしてまた、不安や恐怖は、似たエネルギーを引き寄せる。感情というのは、動いているエネルギーである。だから、不安に思っていると、その不安のエネルギーが別の不安のエネルギーを引きつけ、不安が増大するのである。

  ウォルシュ『神との対話』(吉田利子訳)
     サンマーク出版、1997、13章から。






 2. 死 (あなたは死後も生き続ける)


 2-a (死後のいのち)

 昔のほうが、もっと人々は死の問題に事情が通じていて、天国や死後のいのちを信じていました。肉体が死んでしまった後にもいのちが存在することを本当に知る人がどんどん少なくなったのは、おそらくここ百年はど前からでしょう。でもいま、私たちは「新しい時代」にいます。おそらく私たちは、科学と技術と物質至上主義から、純粋で本物の霊的な時代へと移行したようです。これは、信仰という意味ではありません。霊性という意味です。霊性とは、私たち個人を越えたずっと大きな存在、この宇宙を創造し、いのちを創造した存在があるという気づきであり、自分がその存在のかけがえもなく大切で意義のある一部であって、そうした存在の発展に大きく貢献できる、という気づきです。
 私たちはみな、いのちの源泉から、いや神から生まれたときに、神性という面を授かりました。それは、私たちが文字通りその源泉の一部を内に持っているという意味です。つまり、それが私たちに永遠なる英知を与えてくれるのです。多くの人が感じ始めているとは思いますが、自分の肉体は単に住居や神殿、あるいは私たちの言うマユに過ぎず、死という移行を迎えるまでの何カ月か何年かの間、住むところなのです。そこで、死にゆく子供たちやその兄弟たちに説明するときに使う象徴的な言葉を使って言うと、死が訪れるとき、私たちはマユから出て、チョウのようにもう一度自由になるのです。

  エリザベス・キュブラー・ロス『死後の真実』
    (伊藤ちぐさ訳)」日本教文社、 1996.pp.79-80

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 2-b [23-f] (死んでも真のあなたは朽ち果てて灰と化すわけではない)

 自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、いったい何が起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中に思考をしている存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もしあなたが死ぬと決めたのなら、真のあなたは、地中に埋められ、朽ち果てて灰と化すわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界であなたがいたところだ。そこであなたは、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、すべては冒険でしかないのだ。そしてあなたは、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけここ地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 82

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 2-c (生命は決して終わることがないという偉大な真実を忘れるな)

 ・・・ひとつ偉大な真実を話しますから、これだけは絶対に忘れないようにしてください。生命はけっして終わることがありません。確かに身体に危害をおよぼすことはできます。首を斬ることだろうが、内臓をえぐり出すことだろうが、どんなひどいことでも可能です。でも、その化身の内に生きる人格=自己は、絶対に滅ぼすことはできません。思考や感情をいったいどうやったら破壊できるか、ちょっと考えてみてください。思考を爆破できるのか、刃物で刺すのか、それともそれに戦いをしかけるとでもいうのでしょうか? それは不可能です。人間でも動物でも、ここに生息するすべての生き物の生命力は、身体という仮面の影に生きている人格=自己、つまり目に見えない思考と感情の集合体なのです。
 死は大いなる幻影です。なぜなら、いちど創造されたものはけっして消滅させられないからです。死とは、肉体だけの死なのです。肉体の内に宿り、それを操る本質の部分は(もしそれが望むのなら)、すぐにこの場所に戻り、もうひとつ別の化身と統合されるのです。肉体の壁の内に生きる生命力は、生き続けていくからです。それを覚えておきなさい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 86

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 2-d (この地上界から去ると人は身体の本能や感覚から解放される)

 さて、この地上を去った存在がどうなるかについてお話しましょう。身体がその機能を失うと、エネルギー、つまり魂は、この存在の精霊によって引き抜かれます。すべてのものには魂があります。動物もやはり魂と精神を持っているのです。もしそれがなければ、生命を維持していくのに必要なエネルギーと創造性を持つことがなくなってしまいます。
 精霊が魂を呼び出し、それまで宿っていた空洞からそれをはずしてやると、すべては落ちつき、平穏が訪れます。皆の宗教に関係のある言葉がありますね。「見よ、神のゆりかごにおいては痛みすでになく、涙も悲しみもなし」それは真実です。というのは、この地上界から去ると、人は身体の本能や感覚から解放されるからです。つまり、もはや恐怖や身体の痛みなどは感じなくなるということです。飢えも、そして不安をつくり出す「時間」という幻もなくなります。肉体と関係のあるものはすべて消滅し、あなたはユートピアと呼ばれる場所に行きます。「神のゆりかご」にいるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 86-87

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 2-e (死の瞬間にあなたは物質の固体性から脱出し光の存在に戻る)

 身体の死は、ちょうど眠りに入るのに似ています。精霊が魂を呼びよせると、魂はシールとかチャクラとか呼ばれる身体のエネルギーの中心点を通りながら、上昇していきます。魂とは、ひとことで言うと記憶ですが、頭の中心に位置する最後のチャクラである第七チャクラ、つまり脳下垂体と呼ばれる部分を通って身体の細胞組織を離れます。ここを通過するときが、よく風の音を聞きながらトンネルを通っていくような感じとして体験されるのです。トンネルの向こう側に見える光が、あなたという存在の光、あなたという存在の精霊なのです。魂が身体を離れると、身体はその生命を終え、存在は自由な魂=自己となります。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みもありません。
 死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいくらい明るくなってきます。この地上界を去る瞬間に、あなたは物質の固体性から脱出し、光の存在に戻るのです。そこでのあなたは強力な心と感情だけの存在で、身体も光のかたまりとなり、自分の光体を通して受け容れた思考によって、その電気的な形態が変わる状態となります。そこからは、七つの天界のうちのひとつに行くことになります。どれに行くかは、この地上界にいたときに感情面で表現されていた態度、つまり意識のレベルによって決まります。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 87-88

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 2-f [9-k] (あなたは自分の死を早めるために努力をしているようなもの)

 死というのは肉体の終わりに過ぎず、人格=自己の終わりではありません。しかし、身体の生命力が衰退し、死と呼ばれるものへと身体が誘われていくのもまた、人格=自己が持つ価値観を通してのことなのです。
 あなたの身体は、指示されたとおりにしか反応しません。心臓のそばに宿っている魂が、感情というシステムを通して、身体をすべて管理しているのです。この魂が、化身の生命を維持するために、全身にホルモンを分泌させています。魂はこれを独自にではなく、あなたの価値観や思考過程の指示のもとに行なっています。いまこの次元で生きる皆が持っている価値観のおかげで、思春期を過ぎると体内での各種ホルモンの生成は止まってしまいます。これらホルモンの生成がやむと、ある種の死のホルモンが体内で起動し、全身が衰退して、老いて死んでいく過程が始まるのです。体内で死のホルモンがつくられるのは、あなたが罪悪感と、自分に対する審判と、そして死の恐怖の中で生きているからにほかなりません。皆にとっての美とは、人の内面の性格ではなく、すべて外見的な若さにもとづいたものです。自分を埋葬するための保険をかけることで、あなたは死を予期します。自分が病に倒れたりしたときに自分の財産を守るべく保険をかけます。自分の化身の老化と死を早めるために、あらゆる努力をしているようなものなのです。なぜなら、あなたはそれをまったく当然のこととして予測しているのですから!
 身体はただの僕(しもべ)に過ぎず、思考全体のための道具なのです。確かに驚異的な創造物で、この世で最も高度な道具です。しかし、それ自体の心を持つようにはつくられていません。それは、僕になるという特定の目的のためにつくられたのであり、あなたが生かしておきたいと思う間だけ生きているのです。あなたがもし「老年」という想念を受け容れ、身体が衰えて死ぬことを当然のことと考えるなら、あるいは自分が愛と幸福とよろこびを得ることを拒むならば、あなたの身体はゆっくりと死の崩壊へと落ち込んでいくことでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 116-117

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 2-g [57-b] (不死は死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になる)

 いつもいまを生きることです。このいまの瞬間のほかには、どんなものであろうと未来の存在を認めてはいけません。あなたの現在は、自分さえそれを許せば、永遠になるのです。自分があとどのくらい生きるかなどと考えをめぐらせてはなりません。あなたはずっと生き続けます。自分の身体の永続性のことを思うのです。そうすれば、そうなります。真実とはまさにそういうものなのです。
 主よ、自分を愛しなさい。身体を祝福してあげなさい。あなたの存在の盟主である魂に語りかけ、若さの酵素をもたらすよう命ずるのです。それだけでよいのです。身体は永久に生きられることを知りなさい。
 不死は、死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になります。人類全体がもし未来や過去に生きるのをやめ、この現在という、いま起きている瞬間の繰り返しの中に生きるようになり、生きるという考えが死よりも強いものになれば、死と呼ばれる茶番は消滅させられるでしょう。将来、それは必ず消滅します。なぜなら、時間はもはや存在しなくなり、ここで語ってきた叡智は、この地上に生きるすべての人にとって生きた現実となっているからです。そうなれば、死はまったく意味のない無の存在と化すのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 118-119

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 2-h [51-i] (人が死ぬのは老いることを真実として認めているからである)

 この生で昇華する人は、ほとんどいないでしょう。それは、ここで教えられていることの真の意味を悟り、それを理解する人があまりいないからです。ほとんどの人は死ぬことでしょう。それは、老いること、衰えていくことを真実として認めているからであり、自分を運んでくれているこのすばらしい機械も、見栄えのいい間しかきちんとした世話をしないからなのです。だから彼らは年老い、身体はだんだんと衰弱していき、死を迎えるのです。すると精神と魂は身体との連結から解放されます。でも、この物質密度の次元にまた戻ってこようとすると、自分を表現するための媒体がまた必要になります。こうして、再び主がたくさん生まれてくるというわけです。
 ほとんどの人は死にます。しかし、だからといって、それですべてが終わりというわけではありません。それは単に、ひとつの化身という仮面が取り去られ、また別の仮面を見つけなければいけないだけのことです。しかし、もしここに戻ることを選ぶならば、昇華を促すような意識に戻ってくるでしょう。もうすぐそれは、よく理解された当たり前の現実となるからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 119

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 2-i (現代人の大半は死んでしまえば終わりと思いこんでいる)

 現代人の大半は、死んでしまえばそれまでである、と肉体消滅によって人間の生活は終了する、と思いこんでいる。この考えほど、人間の神性を隠蔽するものはないのである。
 肉体が死ねば確かに肉体は人間の原形をとどめず、灰になってしまう。肉体という形は消滅し去る。肉体人間の眼の前から、その人の姿は永遠に消え去ってしまう。しかし、はたしてその人は再びこの肉体界に現われることはないのであろうか。
 肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。肉体は何兆という細胞が種々の要素を仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の放射した光波(念)が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波(念)がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしまうのである。
 もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくなった上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。
 上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまった、という人はいない。ただ着手であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、ということなのである。
 いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、のみである。私はこの肉体要素を魄(はく)とよんでいる。
 肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。ここの生活は、肉体界の波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を営む。ただしこの世界は想うことがすぐ現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかなか現われぬ世界とは違う。想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようでなかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するのである。何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なかなかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。一生わからないこともある。しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人はすぐ憎みかえされ、だます人は、すぐにだましかえされる。憎み、悲しみ、恐れ、不正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。
 こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。これらを浄めるべく努力することにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁となって、肉体界に再生する。今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。かくして何度か再生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を、魂魄(こんぱく)という。いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄であるといえるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.25-27











 3. 許すということ

 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
     (マタイ6章14-15 )


 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。
    (マタイ18章21-22 )




 4. 
祈り


 4-a (キリスト教における祈り)

 イエス・キリストは、「あなた方の父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8)と言っている。そしてイエスは、だから、こう祈りなさい、と祈り方をも教えている。聖書のなかで、イエスが祈り方を具体的に述べているのは、つぎのマタイ(6:9−13)だけである。

 天にいますわれらの父よ、
 御名があがめられますように。
 御国がきますように。
 みこころが天に行われるとおり、
 地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの食物を、
 きょうもお与えください。
 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
 わたしたちの負債をもおゆるしください。
 わたしたちを試みに会わせないで、
 悪しき者からお救いください。

 しかし、さまざまな人生において、われわれが切実にこころから祈っても、それがすべて叶うわけではないのも事実であろう。われわれは、あまりにも迷いの多い存在である。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」と、イザヤ書(55:8−9)にも記されているとおりである。この大きなギャップをどのように乗り越えていけばよいのであろうか。
 例えば、内村鑑三もかつて、愛する家族の死に直面して、信仰にさえ迷いを来したことがあった。内村は必死に神に祈り、そしてその祈りは遂に聞き入れられずに、家族は苦しみながら死んでいったのである。彼は、愛する者を失って以来数か月間、祈ることさえもやめてしまった。内村は、神はなぜ自分の祈りを聴かれなかったのか、なぜ愛する者の命を奪ったのか、という深刻な疑問に悩み苦しむのである。彼はそれをつぎのように述べている。

  しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとって最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無為なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故に聴かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余に降せしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。(内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983、p.19)

 苦しみ悩み、理解し、そしてまた懐疑にぶつかる。例えば、キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例も決して少なくはない。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈りが熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは遂に聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

  ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり。余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり。父よ、余は信ず、我らの願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈棒を聴かれしならん。(内村鑑三、前掲書、p.22)

   武本昌三「論文集」]-(3) より。 [ H.P.目録に記載]


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 4-b (念ずれば花ひらく)

 わたしの詩に「念ずれば花ひらく」というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。
 かつてない大きな戦争、かつてない敗戦、その間、三人の男の子は三人とも赤い召集令状をもらって、死を覚悟して出て行った。そうしたわたしたちが三人とも無事に帰ることができたのは、母の念力だったと思う。母は眠れない夜々を、愛用の手風琴を弾いて祈ったということであった。
 如来の美しさは、大悲の故だと思う。
 菩薩の若さは、大願の為だと思う。
 苦難苦闘の連続だった母であったが、阿蘇の火柱を見ながら大きくなった故か、いつも燃えるような愛情と、尽きない夢とを持っていられた。老いても精神の衰弱を見せない母であった。 

  念ずれば
  花ひらく
 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった
 そうしてそのたび
 わたしの花がふしぎと
 ひとつひとつ
 ひらいていった

  坂村真民『念ずれば花ひらく』柏樹社、1993、pp.10-11.



 5. 霊・魂・肉体


 5-a [54-d] (あなたの真の姿は風のごとく透明で目に見えないもの)

 言ってみれば、あなたの身体はすはらしく高度な機械だが、それを使う存在がなければ、つまりあなたがいなければ、何の役にも立たない。あなたはあなたの化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが、ひとつの独立した人格=自己として己を表現しているものなのだ。自分の思考を見たことがはたしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかにすごい存在であるか、あなたはまったくわかっていない。というのも、あなたの真の姿は、風のごとく透明で目に見えないものだからだ。私があなたにとって謎であるように、あなた自身も同じなのだ。あらゆるものの中で最大の謎なのだ。
 虚飾なしの自分がどういうものか、あなたは知っているだろうか。仮面なしの自分は? 強がりという鎧がなくなった自分はどうだろう? 存在の内面にある核の部分では、あなたはまさに神そのものなのだ。人類最大の神秘である神は、あなたの内面以外の場所にあったことはない。あなたの目の奥に、衣服の下に、顔という幻影を超えたところに、神という思考の見えない美徳が確かに存在しているのだ。あなたをあなたたらしめている人格=自己がそこにはある。あなたの内にある神こそが、あなたに信を与え、そして創造するというとてつもない力を与えてくれる崇高なる知性なのだ。それは、あなたの生命を無限の時間の彼方まで、永遠に維持してくれるすばらしき生命の流れなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.73

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 5-b [9-q] (精神のうちに宿る魂があなたを創造性あふれる存在にしてくれた)

 魂は精神の内に宿っているが、あなたを創造性あふれる存在にしてくれたのはこの魂だ。なぜなら、何かを創造するためには、ある思考の明確なイメージを記憶の中にしっかりと維持しておく能力が必要になるからだ。そうすることによって、その思考に思いをめぐらし、皆が現実と呼んでいる創造的な概念へと広げていくことができるのだ。
 たとえば、これまでにないような新しい花を創造しようとすれば、その花についての想念を出現させなければならない。この花についての想念は、途切れることない思考の流れから取り出さねばならず、この流れとは、とりもなおさずあなたの存在の精神、あるいは光とまったくひとつのものなのである。この想念は、感情という形で、ひとつの像として魂の中にはっきりととらえられる。これであなたは、自分の欲求を通じて「花」という想念のイメージを思い出すことができ、それに思いをめぐらせて、どんな形、色、あるいは高さにでも自分の好きなように、それを広げていくことができるのである。いつでも、どんなユニークな花でも創造することができるのだ。想念を完璧に静止した状態で記憶にとどめることによって、その姿を完璧に描くことができるのである。
 魂なしには、父なるものを創造物にまで広げられない。なぜなら、思いをめぐらせて、それを創造物へと広げるために想念を静止した状態にする、ということができないからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 126-127








 6. 宗教


 6-a (人間は同胞たちを支配するために神のイメージを造り出した)

 あなたに偉大なる真実を教えましょう。人間は自分の同胞たちを支配するために、神のイメージをつくり出したのです。宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのためにつくられたのであり、それを使って人々を抑えつけるのに恐怖という手段が用いられたのです。どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのはわけないのです。
 神が地獄や悪魔をつくり出したのではありません。それは人間が自分の兄弟たちを苦しめるための恐ろしい創造なのです。大衆を恐れさせ、支配可能な集団とする目的で、宗教がそのドグマを通してつくり出したものなのです。それが偉大なる真理です。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所1996p.61

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 6-b [12-a] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)

 車椅子の年老いた女性に―

 ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
 そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63

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 6-c (供養のあり方について)

 この世の者が今ある肉体を使って、死者の思いを気が済むように果たしてあげれば、死者の心はどんなに安らかになれるでしょう。いつまでも真っ暗な不安定な苦しい所に、変則的な形で生きているつもりにさせておいたのでは可哀想ではありませんか。
 そのことを子孫たる者まずよく理解してあげて下さい。
 そして、死者自身にも自分の現状をよくわかってもらうことです。
 子孫の思いやりの心が下地となって死者を説得し、そして自らの死を間違えずに正しく納得してもらう、これが供養というものの神髄です。
 私の寺における供養とはまさにこのことの実践にあります。
 かりにも先祖の死者たちを悪霊などと思っているうちは、どんなに形を調えて供養をしようが、生者と死者との間に魂の通い合いは絶対に望めません。
 自分が今生きているから、生かされているから供養が出来るのだと、たったそれだけの素直さがあればいいのです。そのことで魂が少しずつ磨かれて行ってこそ、死者たちは納得し、喜び、安らかになつて成仏して行きます。この世での悪霊の仕業など、もうどこを探したって見当たらないのです。
 生まれてから今日までの間、何一つ苦しみ悲しみの無かった人は、こんな大事なことを全然学んでいません。これは不幸です。気の毒です。生きている問のこれから後の時間も、死んでしまってから後の長い魂としての時間も、どれほどつらいものになってしまうか考えただけでも身が震えます。
 苦労から逃げるための供養ではなく、するのが当たり前の供養を、これからも淡々と続けて行って下さい。

   萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、
     1994、pp.235-236.


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 6-d (お経は霊を慰め浄めることになるか)

  誦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。
 お経のもつ高い光は、勿論あるのだから、そのひびきは、業因縁を超えて、幽界にとどくわけなのだが、誦む人の心に、愛もなく、信もなく、ただ習慣的に誦んだり、周囲の関係で、しかたなく誦んだりしたのでは、その人の心の波と、お経のもつ高い波とが、合致せず、そのひびきは、幽界の霊魂にとどかぬので、効果がないということになるのである。
 お経を誦む時は、やはり、その経文に心を集中してあげることが第一で、そうすれば心が空に近くなるので、その空に、お経の光が充満し、その人と因縁のある霊魂にひびいてゆき、霊魂の因縁を浄めることになる。
 僧侶に誦経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違うのである。のりともこれと等しい。

   五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.85-86

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 6-e (信仰と宗教とは同じではない)

 そもそも信仰と宗教とは文字が異なるが如くその意味は全く違うものなのだ。信仰とは神仏を拝み尊ぶが如く、己れの心を清く美しく磨き、神仏の御心と同じが如く、自分自身を自分で信じ尊ぶ事が出来る程に己れを向上させる事を云うのである。神と自分の直接取引、つまり産地から消費者へ直売と云う形である。そしてその間に入って、こう云う拝み方もあります、ああ云う拝み方もグッズもありますとノウハウを教えて利ザヤを稼ぐ問屋、即ち流通機構が宗教である。悩み多い世間を、いかに発想の転換をはかり楽に生きて行くかと云う事を教えるのが経典であり、ハウツーものの本である。であるからして宗教とは企業に過ぎぬ。三井、住友、丸紅辺りの商事会社と全く同じなのである。教祖や法皇や教え主なぞと仰々しい呼び方を押しつけているがそれは会長とか社長とかと呼ぶべきなのだ。権大僧正だの大司教だのとずらずらと階位をつけているが、それは只の専務だの部長だの課長だのと同じものに過ぎない。教会の神父や牧師や寺の住職や神社の神主は単なる支店長なのであり、折伏や教化に廻る人々は営業部員なのである。故に神秘的なものでも不可思議なものでも犯すべからざるものでもないのである。
 最近はオカルトブームとやらで、何かと煩雑な社会機構の中で疲労困憊した人々が神秘のカによって救けて貰おうと様々な宗教団体に入って問題を起しているが、それも道理である。宗教とは企業であるからして、それは早い話が、三井や伊藤忠といった商事会社の玄関に入って行って、「どうか私の悩みをお救い下さい」と拝み込んでいるのと同じ事だからである。又、もっと非道い話が、その神父にしろ牧師にしろ僧侶にしろ、「そんな霊なんて迷信です」と云ってとんと信じていない不思議な者達がいる事である。では貴方達は何で商売をしているのかと云い度い。神や仏や先祖供養なぞと云う霊を拝む事で商いをしているのではないか。その霊を否定するとは何事ぞ。己れが信じても居ないもので商売をしているのは、詐欺師くらいなものである。その詐欺師に魂の救いを求めた所でそれはとても叶わぬ事は自明の理であろう。

  美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
    佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
       pp.155-157 に所収。







 7. 




 8. 人間・自我・個性


 8-a  [44-k](凝縮した思考と集約された物質で人間は創造されてきた)

 最初の人間は、神々のある一団がいろいろな試みを繰り返して初めて誕生した。最初は男だけが創造されたが、それも目に見える形での性器を持っていなかった。それは体内にあり、自己複製(クローニング)というプロセスを用いて、自分で繁殖ができるのだった。最初の男性ばかりの化身たちは、皆一様に似たような姿をしていた。彼らは今日の皆の目から見れば、グロテスクと映るような下等な生き物だった。だが、当時の神々にとっては、彼らは美しかった。しかし脚があまり早くなかったために、いつもまわりの動物の餌食となった。そこで神々はいろいろ試し、長い時間をかけて手を加えて、やっと自分が完全に乗り移るに値するものをつくり上げたのだった。化身が完成すると、数多くの神々が、人生の探求という新しい冒険のために、大よろこびで化身に入っていった。
 神々が宿った化身は、きわめて危険な環境の中で生き、ほかの生き物と共存していくために、光の存在たちがいつも手を加えて改善してゆける力を持つようにつくられていた。神が感情という形で抱いた想念はすべて、一つひとつの細胞の中にパターンとして記憶され、自己複製のプロセスを経てもそのまま伝えられるように、この化身はつくられたのである。
 ずっと後になり、男をさらに完成させた形として「人間の子宮」、つまり女が創造されると、遺伝子の共有を通してこの化身に独自性を与え、それをさらに複雑化、高度化させることが可能になった。男はそれまでに得てきた叡智を自分の精子に持ち、女は卵子に持った。性行為を通じて両者の遺伝子パターンがひとつになり、親の学びや気づきを基盤とした、さらに偉大な存在が創造されるのであった。だが、そこで創造されるのは、さらに良い身体であって、精神ではなかった。
 神々が人間として生きることについての理解を深めるにつれて(生存がこのプロセスを必要とした)、原初の姿から身体をさらに完成させる働きは続き、それが「進化」と呼ばれるものとなり、皆の数え方で言うと、これが千五十万年以上続いたのだ。現在の皆の姿になるのに、それだけ長い時間がかかっているのである。
 あなたの身体はまだ若い。移動性の高い、立った姿勢の人間は、まだ千五十万年の年齢でしかないのだ。しかし、光の存在であるあなたは、いつのときにも存在していたのである。なぜなら、時間という概念がなかったというのに、思索する思考の始まりがいつだったのかを、いったいどうやって決めることができるのか? つまり、あなたはときの彼方からある古い存在なのだ。あなたがときを数えるのに使う用語でいうと、何十億年という間、あなたは電磁場の中での創造を続けていた。それから今度は、電磁場の波動を下げて物質にすることが、これまでと違う新たな冒険となった。
 こうして、何十億年という創造と探求を通じて、人間は、凝縮した思考と集約された物質でできた、生きて呼吸する生き物となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 133-135

     *****


 8-b (人間がこの地上に千五十万年の間存在してきたという根拠は)

 ― あなたは人間がここに千五十万年の間、存在してきたと言いましたが、私の知る限り、科学者たちには、人間が約百万年、長くてもせいぜい二百万年くらいしか存在していないという証拠があると思うのですが……

 ひとつ理解しておいてください。皆の世界の考古学者たちには、発掘したものを放射線分析にかけ、それをもとに、年代を決める方法があります。発掘物に放射線活動を与えるのは太陽です。でも、太陽からの光は、科学者たちが考えているほど長い期間この地球上に直接当たってはいませんでした。この惑星は長い長い間水におおわれていたからです。水というのは現在の海のことですが、そのときはまだ大気中にあったのです。太陽からの光線が、成層圏にあった水に当たったとき、光線は分散されました。分散した光があらゆるところに注いでいたのです。ですから、今日のように放射線を浴びていたものはなかったのです。それなのに、直接の太陽光線が実際よりも長い間、地上に届いていたと信じて疑わない学者たちは、発掘物の放射線活動分析から、人間がいつ存在し始めていたかを推定しているのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 139

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 8-c [54-k] (地球では思考と物質の融合である人類が進化の頂点にある)

 種としての人類はすばらしい知性を持っている。自分自身の細胞構造に生命の息吹と生存のための本能的手段を与えただけでなく、神なる目的のために、自分の崇高なる知性をさらに高度化し、進化させるべく、それを化身という物質と融合させたのだ。進化の科学という創造物を通し、皆は自分を「ネアンデルタール人」と呼ばれるところから「ホモ・サピエンス」にまで進化させてきた。こうして人類は、この地上界で、気の遠くなるような時間と、数多くの試み、進化、そして辛苦を重ね、いま私の前に、直立歩行の存在となったのである。
 人は皆、「見る次元」と呼ばれる、生命レベルの高いこの場において、自分の創造的知性の力を示し、その結果を目にするために存在している。ここには、あなたの愛すべき父である思考が、光から物質の密度まで、すべてのレベル、あらゆる形態で現実に表出し、存在しているからである。
 知性はどこにでもあふれていることはおわかりだろうか。本当にそうなのだが、ここ地球と呼ばれる皆の次元では、思考と物質の融合である人類が、いまその進化の頂点にあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 142

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 8-d [44-m] (人間という形の神にならない限り神の絶対性は理解できない)

 人類として、皆は自分たちが未開の存在だと思っているのだろうか。目に見えない世界にいる者に比べて、自分たちが劣ると考えているだろうか。そんなことはない。いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入れている。人間という形の神にならない限り、神の最終的な絶対性ともいうべきものを理解することは、けっしてできない。それは誰にも不可能なのである。なぜなら、神の王国は、光から電磁場へ、そして物質へ、形体へと拡張していく性質のものだからだ。つまり、神とは、思考の中の高い波動であるだけではなく、固体物質という、密度が最も高く、波動もいちばん低い思考の形でもあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 142-143

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 B8-e[44-n] (人類であることは一つの特権であり神なる生き方にほかならない)

 まだこれから神なる人間になる必要がある存在は、神としての完全な体験を持っていないそれに思いを馳せ、すべての生命から叡智、智慧を得ることができない。この次元に旅した者たち、この次元の目を見張るような世界の一部となるとともに、それを進化させた者たち、山々を動かし、色をつくり出し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛やよろこびや創造の精妙さを理解できるのだ。この旅人たちだけが、あなたもその一員であるこの存在たちだけが、永遠を理解し、それを追い求める気持ちを理解したのである。彼らこそ、すべての生命のために永遠というものを創造した張本人だからだ。物質の次元がある限り、生命が無限の創造性へと途切れなく続いていくことを可能にしてくれるからなのだ。だからこそ、男であること、女であること、人類であることは、まさしくひとつの特権であり、誉れである。これはまさに神なる生き方にほかならない。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 143

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 8-f[44-o](人類は天使よりもずっと進化した存在である)

 皆が「天使」と呼ぶ言葉がある。このような神なる存在になりたいと願う者が皆の中にもたくさんいる。だが、天使でいることには大きな短所がある。彼らはまだ人間として生きていないために、理性のバランスというものがない。これから最終的には神の化身として人間になる存在ではあるが、いまだ単なるエネルギーの存在にすぎないのだ。それに、彼らには人類に対する情けや慈しみの念といったものがない。実際にあなたになってみるまでは、目に見えない世界に生きる存在に、どうしてあなたのことが完全にわかるであろうか。人類は天使よりもずっと進化した存在だ。天使たちには、人間という限界のある形で生きる神についての理解がない。このために、人間のよろこびや哀しみなど、人類についての理解に限りがあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 143-144

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 8-g [44-p] (人類の一員となることはそれだけで聖なる体験である)

 人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになるのである。
 したがって、人間になることで、あなたは自分をおとしめたわけではない。これは絶対に理解しておく必要がある。もし、これまで人間になったことがなければ、完璧な形や天界に入ることはけっしてできないからだ。生命のレベルに降りたことがないのに、いったいどうして天界に昇華することなどできるのだ?
 あなたの内に燃える全能の神というこの火、それを理解するために人間になるのは、充分その価値があり、また賢い選択でもある。すべての生命はこの火でできているのだ。そして、人類と呼ばれるこの物質界での知性を通してそれを体験すれば、神とはいったい何なのかについて、完全な視野を与えてくれる。そして、神の何たるかをすべて完全に理解できたとき、内面、外面の宇宙や、物質、肉体、愛、よろこび、哀しみ、それらがすべて理解できたときに、あなたは父なる存在そのものになるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 144











 9. 意識・想念・思考・ことば


 9-a (医学が証明するプラス思考の効果)

 人間の脳からはモルヒネに似たものが分泌されますが、これには人の気分をよくさせるだけでなく、老化を防止し自然治癒力を高める、すぐれた薬理効果があるのです。
 私は脳内モルヒネと呼んでいますが、これをどんどん出させると、その効果は脳だけでなく体全体におよんですべてを好転させる。つまり私たちは、どんな薬もかなわない優秀な製薬工場を体内にもっているわけで、私はそれを徹底的に利用しているのです。
 脳内モルヒネの存在は以前から知られていましたが、鎮痛効果以外さしたる意味もないと考えられ、長い間注目されないでいました。ところが最近研究が進んで、すごい効力を秘めていることがわかったのです。
 人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。この物質はホルモンの一種なのですが、どういうわけかものすごい毒性をもっている。自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性をもつともいわれています。
 もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、この毒のせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまう。私の病院に来た患者さんもそうですが、どんな病気にもノルアドレナリンが関係しているといってよいほどなのです。
 一方でβ(ベータ)エンドルフィンというホルモンがあります。このホルモンは脳内モルヒネとしていちばん効力のある物質ですが、この両者め間に奇妙な相関関係のあることが判明したのです。人かち何かいわれて「いやだな」と思うと、脳内に毒性のあるノルアドレナリンが分泌される。そのとき逆に「いいな」と思うとβ−エンドルフインが出るのです。
 ノルアドレナリンが分泌されるほうがいいか、βーエンドルフインが分泌されたはうがいいかは、自明の理でしょう。

  春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
     1996、pp.18-19 

     *****


 9-b (麻薬のモルヒネより5,6倍も強力な脳内モルヒネ)

 自然界には麻薬のモルヒネがあります。このモルヒネは中毒の危険がありますが、脳内モルヒネにはその心配はまったくありません。
 しかもその効力は麻薬のモルヒネの五、六倍もあるのです。一部の人たちが法を犯し、廃人になる危険を知りながらも麻薬のモルヒネに走るのは、それが気持ちがいいからです。でもそんな危ない橋を渡らなくても、神様は私たちに脳内モルヒネを与えてくださっている。これは神様からの次のようなメッセージだと思うのです。
「人生を愉快に生きなさい。愉快に生きればいつも若々しく健康で、病気にも無縁で長生きできますよ」----と。脳内モルヒネの存在は神様が正しく生きる人間にくれたごほうびともいえます。

  春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
     1996、p.22  

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 9-c (脳内で化学反応をおこす思考のあり方)

 たとえば何か外から受けた刺激に対して「いやだな」と思うか、あるいは「いいな」と思うかは、たんに抽象的な思考レベルのことですから、なんの負担もともなわないことと思いがちです。人はよく「ただ思っただけだからいいじゃないか」といった言い方をしますが、これは思うことがなんの負担もなく、自由自在にいくらでもできることだという気持ちがあるからでしょう。
 ところが脳内ではその思いがすべて物質化され、化学反応となって何かを引き起こしているのです。思うことにもエネルギーが必要です。ふだん私たちはそんなことを考えないで生きていますが、たとえば学習という行為のためには、脳内でたいへんな量のエネルギー消費があるのです。
 「いやだな」と思うのも「いいな」と思うのも、基本的には学習と同じで、必ずエネルギー消費がともないます。エネルギーを使うときに脳内でどういう現象が起きているかというと、POMCというタンパク質が分解するのです。「いやだな」と思ったときと「いいな」と思ったときでは、このタンバタ質の分解の仕方が違うのですが、このことがたいへん重要な意味をもっているのです。
 ストレスが加わっても前向きにとらえて「これも試練だ、いいじゃないか」と思ったときは、タンバク質が分解して副腎皮質ホルモンというものになります。このホルモンは身体的ストレスの緩和剤としてはたらきます。もう一つはβーエンドルフインになります。β−エンドルフインは精神的ストレスの解消にはたらきます。
 不思議なことに、「いいな」と思ったときは、精神的なストレス緩和に役立つβーエンドルフィンが出てくることがわかっています。逆に「いやだな」と思ったときには、β−エンドルフインも副腎皮質ホルモンも出てきません。他の物質になってしまうのです。
 それがノルアドレナリンやアドレナリンということですが、この物質じたいが毒性であるうえ、さらに強い毒である活性酸素を発生させます。つまり、どんな刺激に対してどう思うか、たったそれだけのことで、脳内における物質のでき方にこれだけの差が出てくることを知っていただきたいと思うのです。
 プラス発想のいいとらえ方をしたときは、体内にできる物質はいい薬としてはたらくが、マイナス発想のわるいとらえ方だと、薬ではなく毒になるということです。人間の考えというものはつねに習慣に支配されています。プラス発想の人は物事をなんでもよいほうに、プラスにとらえるし、マイナス発想の人はなんでもマイナスにとらえがちです。
 しかし現実には、物事はとらえ方の段階ではどちらでもいいわけです。たとえば財布の中のお金を数えて「もうこれだけしかない」とも「まだこれだけある」とも思える。どちらのとらえ方をしても、そこにあるお金の額、つまり事実は少しも変わりません。
 ところが人間はとかくマイナス発想で物事を考えがちです。ほうっておくと7、8割はマイナス発想になるといいます。これは「安定を求める本能的な思考態度」(マズロー)ともいえるのですが、脳内モルヒネの存在がわかったいまでは、どんなことでもプラス発想で考えるほうがよいことは議論の余地がありません。

   春山茂雄『脳内革命』サンマーク出版、
      1996、pp.56-60 

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 9-d (あなたの人生はあなたの思考によって創りあげられていく)

 あなたはあなたが考えるとおり、まったくそのままの存在なのである。あなたが考えることはすべて、あなたの人生でそのままそうなるのだ。性交を空想すれば、あなたの存在は誘惑を体験するだろう。みじめな状態を思いめぐらせばそうなってしまう。不幸を想定すればそれがあなたの手もとにやってくる。よろこびを想定すればそれがやってくるだろう。ある才能を思えば、それはすでにそこにあるのだ。
 では、未来はどのように創造されるのだろうか。思考を通してである。明日というものはすべて、今日というこの日あなたが抱く思考によって設計されている。それが感情面でのどんな目的のためであろうと、あなたが抱く思考、空想などは身体の内部に、ある気持ちを生じさせ、それは魂の内部に記録される。その気持ちが、今度はあなたの人生のさまざまな状況についての前例となる。つまりそれが、魂に記録されているのと同じ感情をつくり出す状況、それがマッチするような状況にあなたを引きつけていくのである。また、あなたが口にする言葉は、すべてあなたの将来を創造するということも知るべきだ。なぜなら、言葉とは、思考によって生命を与えられた、魂の内にある感情を表現した音であるからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.76-77

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 9-e (あなたが考えることやあなたの価値観はすべてその通りになる)

 あなたが考えたこと、空想したこと、あるいは語ったことは、すべてすでに起こったか、これから起こるべく待機している。いったいどうやってすべては創造されると思うか。それは思考を通してつくり出されるのだ。思考こそが真に生命を与える者であり、けっして死ぬこともなく、破壊することもできないものなのだ。あなたはそれを使って、自分自身に生命をもたらした。思考こそが、神の精神とあなたとをつなぐ絆であるからだ。
 時代を通じ、さまざまな存在がこの真実を皆に教えようとしてきた。謎かけを通して、歌を通して、そして書き物を通して。だが、ほとんどの人間はこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にかかってくるのを望む者など、ほとんどいなかったからだ。だが実際には、あなたが考えること、あるいは、自分について、父なる存在について、また人生そのものについてのあなたの価値観はすべてその通りになる、というのがもののあり方なのだ。最も卑しい醜悪なものから、かけがえのない美しさをたたえたものまでもそれは同じことである。なぜなら、その違いを知るのはあなただけだからだ。父なる存在は、生命しか知らない。だからあなたは自分の語るものを手にする。あなたはあなたの考える自分そのままなのだ。自分でこうと結論を下したものが、自分なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.77-78

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 9-f [54-g](いまのあなたは自分が選んだそのままの姿である)

 自分をレベルが低いと考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分に知性があることを認めてあげなければ、さらに愚かになっていくことだろう。自分を美しいと思わなければ、あなたは卑しくなっていく。なぜなら、あなたが自分でそう定めたからなのだ。
 あなたはいったい何者なのか。その存在の静寂の中に、考え、創造し、そして自分がなりたいと望むものなら何にでもなっていける力を持つ神−それがあなただ。なぜなら、この瞬間、あなたは自分が選んだそのままの姿なのであり、それを阻むものなど何もないからだ。あなたはすべてに法則を与える者であり、自分の人生と、そこにある状況を創造する者である。あなたはまさに、すべてを超える智慧を持った知性でありながら、この生、そしてその他の数多くの生で、このことに気づかずに生きてきたのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.77-78

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 9-g (本当の意味で生きることを許さなかったのはあなた自身の疑念である)

 皆は自分自身の思考によって自分を絶望に追い込んだのだ。自分の思考によって自分を価値のない存在だと信じるようになったのだ。自分を失格だと思うようになったのだ。病にかかったのだ。それは死に至る病である。これらはすべてあなたが自分でつくり出したものである。あなたの内には炎のような創造主がいる。ひとつの想念からいくらでも宇宙を創造し、天空の星に永遠の輝きをもたらすことができる力を持っているはずなのに、その創造主は、特定の信念、教義、流行や伝統などの枠の中に自分を押し込めてしまった。限定された思考によって限定される思考、それによってさらに限定される思考。本当の意味で「生きる」ことを許さなかったのは、自分を信じようとしないあなた自身の疑念なのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.79-80

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 9-h [51-c] (思考にはすべて波動があり、それが特定の感情として体験される)

 ひとつ知っておいてほしいのです。頭の中で思いめぐらし、理解すべく心に抱く思考には、すべてある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験されるのです。ですから、苦痛に対する理解を会得しようとするならば、その人は苦痛に関連する限られた思考をめぐらしているので、その思考が低いレベルの振動数の波動を生じさせ、感情面ではその波動が痛みとして体験されるというわけです。愛について理解し、表現することを思い、学ぼうとしているならば、人と分かち合い、表現された愛に関する思考の高い波動がもたらす高揚感を味わうのです。それがどこであれ、自分の理解のために意識がおもに向いている方向が、あなたの行く天界です。それは、あなたの持つオーラと、あなたの存在の精霊が、その場所の波動へとあなたを引きつけていくからなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 88-89

     *****


 9-i (思考が無限に広がれば人生も無限に広がって行く)

 ―私たちの人生は、この地上界だろうと、ここを離れてから次に行く場所であろうと、私たちの思考そのものだということですね。

 そのとおりです。だからこそ、思考過程を限りなく広げることを、私は皆に教えているのです。どのレベルにいようとも、思考が無限に広がれば広がるほど、必ずあなたの人生も無限に広がって行くからです。思考と感情をもって、この世界であなたが創造する天界が壮大なものであればあるほど、地上界を去ったとき、あるいはここに戻ることを選ぶのであれば戻ったときに体験する天界も、それだけ壮大な世界になるのです。罪悪感や、自己や他者に対する審判の念、あるいは兄弟同胞たちに対する怒りや憎しみの中に自分の思考が浸ってしまっている人たちは、この次元を離れてからも、その態度に変化はなく、自分のあり方にはもっと偉大なものあるはずであり、経験すべきさらに偉大な天界があることに気づきません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 96


 9-j [51-h] (人間は本来すべてが昇華を体得できる能力を備えている)

 昇華を体得してしまえば、あなたは自分の身体を永遠に保ち、自分自身の化身のままで自由に往き来ができます。つまり、またこの次元に来たいと思ったら、ただ自分の波動をこの次元と同じ周波数で振動するところまで下げてやれば、もうその瞬間、あなたはここにいるのです!
 ここにいる人たちは皆、昇華できる力を備えています。肉体という幻影の陰には、すべての宇宙の創造主が隠れているからです。あなたは自分の意志で、限界のない想念を通してこの現象を起こすことができるのです。自分自身の思考に対して審判を下したりせずに、すべての想念を受け容れることを許せば、自分が夢見る理想の姿になる力と能力を持つことができます。そうすれば、何にでもなれるし、何でもできるようになるのです。ある想念を取り上げ、それを身体の中に濃縮し、身体の振動を早めるよう指令を出すこともできます。すると、思考がそのためにしっかりと保持していた理想のほうに向かって、身体が上昇していきます。身体全体がさらに早い速度で振動し始めるのです。その間、体温は上がり、身体が光り始めます。さらに振動を早めて行くにつれて、身体の物質が純粋な光の領域に入り、そして純粋な想念へと入っていきます。そうすると、それまで見えていたものの姿が見えなくなってしまうのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 114

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 9-k [2-f] (あなたは自分の死を早めるために努力をしているようなもの)

 死というのは肉体の終わりに過ぎず、人格=自己の終わりではありません。しかし、身体の生命力が衰退し、死と呼ばれるものへと身体が誘われていくのもまた、人格=自己が持つ価値観を通してのことなのです。
 あなたの身体は、指示されたとおりにしか反応しません。心臓のそばに宿っている魂が、感情というシステムを通して、身体をすべて管理しているのです。この魂が、化身の生命を維持するために、全身にホルモンを分泌させています。魂はこれを独自にではなく、あなたの価値観や思考過程の指示のもとに行なっています。いまこの次元で生きる皆が持っている価値観のおかげで、思春期を過ぎると体内での各種ホルモンの生成は止まってしまいます。これらホルモンの生成がやむと、ある種の死のホルモンが体内で起動し、全身が衰退して、老いて死んでいく過程が始まるのです。体内で死のホルモンがつくられるのは、あなたが罪悪感と、自分に対する審判と、そして死の恐怖の中で生きているからにほかなりません。皆にとっての美とは、人の内面の性格ではなく、すべて外見的な若さにもとづいたものです。自分を埋葬するための保険をかけることで、あなたは死を予期します。自分が病に倒れたりしたときに自分の財産を守るべく保険をかけます。自分の化身の老化と死を早めるために、あらゆる努力をしているようなものなのです。なぜなら、あなたはそれをまったく当然のこととして予測しているのですから!
 身体はただの僕(しもべ)に過ぎず、思考全体のための道具なのです。確かに驚異的な創造物で、この世で最も高度な道具です。しかし、それ自体の心を持つようにはつくられていません。それは、僕になるという特定の目的のためにつくられたのであり、あなたが生かしておきたいと思う間だけ生きているのです。あなたがもし「老年」という想念を受け容れ、身体が衰えて死ぬことを当然のことと考えるなら、あるいは自分が愛と幸福とよろこびを得ることを拒むならば、あなたの身体はゆっくりと死の崩壊へと落ち込んでいくことでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 116-117

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 9-l [57-a] (あなたはいつまでも生きられる力を自分の内面に持っている)

 たったいまのこの瞬間にも、もし自分でそう選ぶなら、あなたは時間を完全に止めて、いまというこの瞬間の永遠の中に生きられるのです。だって、時間は幻なのではありませんか? いったい誰が時間を見たことがあるというのでしょうか? ここには大いなる欺瞞があります。皆は目に見えないものを信じるのは拒むというのに、時間だけは完全に崇拝し、その奴隷にまでなっているのですから。
 あなたはまったくそのままの状態で、自分の化身の老化のプロセスを逆転して若いときに戻し、いつまでも生きられる力を自分の内面に持っているのです。どうやってでしょうか? ただ自分の考え方を通してです。自分の肉体が老いて死ぬことを望まないならば、あなたの考え方を変えることです。身体は永遠に生きるのだ、と態度で示すのです。そうすれば、そのとおりになります。自分の人生から、身体の終焉を認めるようなものをすべて取り除くのです。そうすれば、身体は永遠です。自分の語彙の理解の中に「年老いた」という言葉があってはいけません。かわりに「永遠」という言葉を入れるのです。誕生日を祝うのをやめなさい。それは老化の過程に正当性を与えることになります。誕生を祝うことがよろこびをもたらすのであればそうすべきですが、それなら年を数える過程を逆転して、ひとつずつ若くなりなさい。死を当然のことと受け容れなければ、死が来たこともわからないでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 117-118


 9-m [44-g] (神なる本質を持ったあなたこそが崇高なる創造主である)

 天界に光をもたらしたのは誰か。花の美しさ、木々の勇壮さをつくり上げたのは誰なのだろうか。人間という、不可思議な謎と言える存在を創造したのは、いったい誰なのだろうか。それは、すべての生命の総体である神ではない。在るものすべてを創造したのは、自分たちも神々であり、すべてを愛する父なる存在の息子である、あなただったのだ。すべてをである。父なる存在とは、すべてのものが、そこからできている物質、思考体だ。しかし、思考する能力、感じる能力、それに自由な意志という神なる本質を持ったあなたこそが、この世界での崇高なる創造主なのだ。
 神は確かに思考の総体であり、在るものすべての源である。しかし、父なる存在そのものである思考から、すべての創造物の美と魔法を創造したのは、あなたたちだ。創造力と、崇高なる神性を通して、思考を受け容れ、保持し、その想念を思いめぐらす能力があなたにはある。そして、その知性を通して、あなたは在るものすべてをつくり出したのである。
 ここで何かひとつ空想してみてほしい。わくわくするような、スリリングな、気持ちが思わず昂まるような空想だ。今度は、その空想がもたらす感情をすべて、余すところなく味わい尽してみよう。そう、あなたの宇宙はこうしてつくられたのだ。人間はこうしてつくられたのである。すべてはこうしてつくられたのだ。
 わが愛する主たちよ、あなたはまさにすべての生命の創造主だ。皆は宇宙のみなし児などではないのだ。それどころか、宇宙を創造した側なのである!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 121-122

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 9-n [12-c] (思考こそがすべて在るものの基盤であり創造主である)

 聖書にはこう書かれている。「はじめにまず言葉ありき。すべては言葉とともにありき」 これはまったく正しくない! 言葉は思考なしにはまったく無の存在だった。思考こそがすべて在るものの基盤であり、創造主だからだ。
 はじめは(皆がはじめと呼ぶものではあるが)、すべては思考の無限であった。この無限性を私は父なる神と呼ぶ。あなたが神と呼ぶものは、限界のないもっと広い考え方で言うと、思考のことであり、それはすべての生命の起因、基盤となるものだ。いま在るもの、これまで存在してきたもの、これから存在するもの、それらはすべて思考、つまり神の精神である知性から派生してきたものなのだ。
 つまり、はじめにはまず思考という限りない空間があった。そして、自分自身のことを思いめぐらさなければ、また内面に思考を向け、自分自身でもあるこの思考自体について思いめぐらすことがなければ、神は形のない思考のままでいたことだろう。父なる神が自分自身であったこの思考について思いをめぐらせると、ある独自の形に自分を拡大することになった。というのは、ある想念が思いめぐらされると、この純粋な理性的行為が思考を拡大するのである。そして思考はさらに大きいものとなる。こうして、これまで自分の存在を拡大したことのなかった父なる神は、自己に思いをめぐらすことによって、偉大なる存在となっていったのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 123

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 9-o [44-h] (あなただけが父なる存在の完璧な複製である創造物である)

 神である父の最初の創造物となったあなたは、それぞれが神から生まれた神であり、父の息子であり、そして神の精神と呼ばれる崇高な知性の一部となったのである。神々であるあなたたちだけが、神から直接創造された存在だ。あなただけが、父なる存在の完璧な複製である創造物なのだ。それは、父なる存在が拡大した姿があなただからである。父なる存在のすべては、その愛する息子たちをすべて合わせたものの内に、無限に息づいているのである。
 父なる神とは、生命という強制的で思索的である思考のことだ。あなたの思考がじっとしてはいられないように、それはけっして立ち止まらない継続する過程である。思考、あるいは生命が永遠に向かって拡張を続けていくためには、それを続ける理由がなくてはならない。その理由が、あなたなのだ。あなたたちの一人ひとりが神の精神の一部となったのは、あなたを通して生命が永遠に拡張を続けるためだ。永遠とはけっして時間の単位ではない。なぜなら、永遠とは、この瞬間のことであり、現在という瞬間の継続性、永続性そのものであるからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 124

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 9-p [44-i] (思考はそれ自体について思索し広がっていって光になった)

 はじめにまず、思考がそれ自体について思索し、広がっていったときにどうなったか。それは思考の本質のなかでも光と呼ばれるものになったのだ。光が最初に創造されたのは、思考が行なわれ広がっていくとき、その波動は必ずある周波数、光を発する周波数のレベルまで下げられるという理由からだ。つまり、思索され、拡張された思考が降りていく最初の形態が光なのである。あなたの血筋は、この光の誕生のときまでさかのぼる。なぜなら、最初に思索の対象となった想念から生まれた光の分子が、それぞれがひとりの人間となり、神となり、息子となったからだ。こうして、創造の誕生のとき、すべては光の存在と呼ばれるものになったのだった。
 皆の誰もが、この同じ瞬間に創造され、存在するようになったのだ。過去に存在したもの、これから存在するもの、すべての存在は、神が自己について思索したこの瞬間に思考から光へと創造されたのである。思考から広がっていった光は、「思考の河」と呼ばれるすべての想念の流れ、つまり神の精神と隣り合わせに位置しており、その一部となったのだ。
 皆の一人ひとりがなった光とは、そのときもいまも、あなたそのものである知性であり、光という形に広がった神だ。この神なる光、あなたの最初にして永遠の身体であるものこそが、あなたの存在の精神、あるいは私が「あなたの存在の内にある神」と呼ぶものだ。あなたの精神は、まさに神、神の心なのであり、それも単一の存在としての、という意味合いのものだ。今日でも、あなたはこの原初の精神、原初の神なる自己を持っている。そしてあなたは、思考という、あなたの愛する父が思索をめぐらし、光へと広がったその瞬間に光の存在となったのであり、いまでも、この輝かしき原初の光体をそのまま内に有しているのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 125-126

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 9-q [5-b] (精神のうちに宿る魂があなたを創造性あふれる存在にしてくれた)

 魂は精神の内に宿っているが、あなたを創造性あふれる存在にしてくれたのはこの魂だ。なぜなら、何かを創造するためには、ある思考の明確なイメージを記憶の中にしっかりと維持しておく能力が必要になるからだ。そうすることによって、その思考に思いをめぐらし、皆が現実と呼んでいる創造的な概念へと広げていくことができるのだ。
 たとえば、これまでにないような新しい花を創造しようとすれば、その花についての想念を出現させなければならない。この花についての想念は、途切れることない思考の流れから取り出さねばならず、この流れとは、とりもなおさずあなたの存在の精神、あるいは光とまったくひとつのものなのである。この想念は、感情という形で、ひとつの像として魂の中にはっきりととらえられる。これであなたは、自分の欲求を通じて「花」という想念のイメージを思い出すことができ、それに思いをめぐらせて、どんな形、色、あるいは高さにでも自分の好きなように、それを広げていくことができるのである。いつでも、どんなユニークな花でも創造することができるのだ。想念を完璧に静止した状態で記憶にとどめることによって、その姿を完璧に描くことができるのである。
 魂なしには、父なるものを創造物にまで広げられない。なぜなら、思いをめぐらせて、それを創造物へと広げるために想念を静止した状態にする、ということができないからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 126-127

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 9-r [22-a] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)

 ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
 光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
 生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
 これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
 もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131

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 9-s [22-b](魂の内に宇宙を感じることにより宇宙を創造したのはあなたである)

 形あるものの創造が始まった最初の頃、神々は自分に思いをめぐらせ(光という自己の存在についてだ)、太陽と呼ばれるものを創造することによって、光の観念を物質化した。それも何千兆個という無数の数をである! これらの太陽はすべて、電磁場の波動を下げた結果できた気体物質を集約、融合させることで創造された。生命の中心である火花、つまりこの偉大なる太陽から、惑星と呼ばれる回転する球体がつくられ、それぞれの軌道に乗せられた。そしてこの球体の上に、あなたたち神々がさまざまな形あるものをつくり上げたのである。それを皆が学ぶのには、気の遠くなるような長い時間がかかったのだ。
 この宇宙、そしてさらに偉大な太陽系の数々を取り囲む多くの宇宙を創造したのはいったい誰か? あなただ。そう、あなたなのだ! 単純明快に、あなたがつくり上げたのである。一つひとつのものを創造するにともない、あなたは自分の体験を広げ、それが魂の内に感情を発生させた。これこそ思考の中でも最高の宝だ。そして物質の次元の創造も、さまざまな感情を通して行なわれたのだ。
 あなたがまさに光の始まりの火花であったこと、そして、創造主であるあなたたちが、崇高なる意志を通じてすべて在るものを創造したことにこそ、あなたの神性があるのだ。あなたがすべてを創造した。神が宇宙を創造したのではない。神は宇宙そのものなのだ。魂の内に宇宙を感じることにより、自分の思考過程からそれを創造したのは、あなたである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 129-130

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 9-t [22-c] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)

 ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
 光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
 生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
 これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
 もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131

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 9-u [44-j] (思考観念を用いて神々が乗る車両として人間は創造された)

 神々が自分の創造したものを直接体験し、しかも創造性の表現を続けるための手段として、物質界での存在をつくろうと決心したのは、食物連鎖がしっかりと確立されてからのことだった。それも、創造したものとしてではなく、自分自身として体験する媒体を、である。そのために、彼らは人間という化身をつくったのだ。
 思考は浸透性の周波数を持っている。つまり物質を通過してしまうということだ。そのために、光という形の思考であった神々は、花になることはできたが、その香りを嗅ぐことも、その本質を知ることもけっしてできなかった。彼らはちょうど、木々の間をそよぐのに、木そのものを感じたり抱きしめたりすることができないそよ風のようなものだった。石を通ってしまうことはできても、それを感じることはできなかった。思考は石という物質に影響されることがなかったからだ。その低いレベルの波動を感じる能力を備えていなかったのである。
 神々が花の香りを感じ、花を手に取り、身に飾るには、またその美を知り、そのあざやかさを体験するためには、物質界に存在して、花と同じ周波数で振動する媒体をつくらねばならなかった。このために、ほかのすべてが創造された後、人間という化身が創造された。神々が、物質体、あるいは「固体」、つまり思考が最も低次のレベルまで変換されたものを通じて、自分の創造物を体験し、また自分の創造性を表現していくという目的のためである。
 人間は思考観念を用いて、神々が乗る車両として創造された。それは個々の神々にとって、完璧な化身だった。魂を宿らせることができて、しかも神の精神で包むことのできる化身だったからだ。これで神は、花に触れ、その香りを嗅ぐことができたのだ。その体験は、神々の行ないの中でも至上の宝と言える「感情」として、魂の内に永遠に記録される。これで神々は、木を見てはこれに思いを馳せ、その香りを楽しみ、その美に触れることが可能になった。これで神々は、互いの姿を見て、触れ合い、抱き合い、そして話すこともできるようになった。互いに育み合い、観察し合い、完璧に自由でいられるようになった。神々は、今度は人間としての遊びの対象となる、まったく新しい冒険を手にしたのである。それは、目には見えないながらも大切な本質、感情というものを体験するためであった。
 こうして、固体の密度を持たない光の存在である神々は、自分の観念にあった密度をつくり出したのである。この化身という固体を通して、神々はいまひとつのレベルで自己を表現することが可能になったのだった。それは、想念が物質という形で投影され、出現するという次元だ。この過程で神々は、人類と呼ばれる細胞物体の知性という形で表れた単一の「神」、つまり神なる思考そのものとなったのである。こうして、彼らは神なる人間、人間なる神になった。人間というすばらしい形態で自己を表現する神、自分の内にあって、自分の父なるものの永遠への広がりを続けていく神を表現する人間となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 131-133

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 9-v [54-q] (あなたこそ「荘厳なる思考」であり「姿ある神」なのである)

 限りある思考では、時間、距離、空間、そして物質を超越したものを指し示すことはできない。限りある思考では、説明によってそこまで到達することができないからだ。ここでは「神」や「父」という言葉が使われてきたが、それは単にすべて在るもの、これまで在ったもの、そしてこれから在るもの、過去に、現在に在るものの「在るということ」、そして永遠へと向かう無限の「在るということ」に言及するための言葉にしかすぎない。
 そうすると、結局、神になるための基準点をどこに見つければいいのか。それはあなた自身の内に、である。あなたはまさに神のイメージであり、父なる存在の写しなのだ。あなたの本質部分とは、まさしく途切れなく続くものであり、進化と創造を続け、存在し続けるものなのだ。あなたは思考であり、光であり、電磁場であり、形だ。純粋なエネルギーであり、恐るべき力であり、脈打つ感情であり、荘厳なる思考なのだ。最高のレベルの知性、力、尊厳、そして最も聖なるもの、神の恩寵とあなたが考えてきたもの、まさしくそれがあなた自身の姿なのだ。あなたはいったい誰なのだ? あなたこそが、「姿ある神」なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 152

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 9-w[42-e] (善悪はなくあらゆるものは智慧を与えるひとつの体験である)

 聴衆の皆さんに向かって、私はこう言います。あなたより偉大な師はいません。そして一人ひとりがそれぞれの人生に責任を持っているのです。私たちは思考の中で物事をする存在なのではないのですか。そして、私たちの思考がさらに進化するのは、それが実体をもったときではないのでしょうか。
 人を牢獄に入れ、これ以上小さくて暗く、汚らしい穴ぐらはないという場所に押し込めることはできても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです。そしてその人間は、思索を通して自分を納得させ、自分に教え、そして、自分に審判を下すこともするのです。
 私は善も悪も認めません。認めるのは生だけです。もしある存在が、いま、ひとりの存在を殺めんとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為をしようとするなら(それはどちらも変わらぬことです。なぜなら、考えたことはすでになされていることと同じなのです。思考の中で他の存在を真っ二つに斬ったことのない人などひとりとしていません)、どちらの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行なう必要があったのです。ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。彼もまた、もしかしたら、真っ二つに斬られるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところまで引き寄せてしまったのです。こうして、暴行をはたらく必要があった者と、(それを理解するために)暴行される必要のあった者が、その体験のために同じところに引き寄せられてきたのです。
 神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです。これがあなたへの私の答えです。そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。
 人間が、法律だの計画だの規則だのといったものにあふれた、この限定された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのもののよろこびと平穏を見いだし、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるでしょう。そしてすべてが、自分の意図を反映した流れを自由につくるようになるのです。そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになります。そして、神であるもの、つまり、すべての生命を育み、支えていく基盤となるのです。そうでありますように―

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 189-191

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 9-x[37-g](在るがままでいる以外成し遂げなければならないことは何もない)

 神と自分がひとつであることを知ると、思考過程から分離という価値観を取り除き、神である自分の頭と再び連結することができる。何よりも賢く、すべてを知る父なるものの知性とは、あらゆる存在の基盤であり、あなたがすべての思考そのものになるのを許している「思考の総体」であると気づくとき、あなたは神であるすべて、つまりはすべてのものになる。そうすれば、あなたは自分の自由へ、偉大さへ、そして栄光へと戻ることができる。もうこの天国に何度も何度も戻ってくる必要はなく、さらに偉大な天界へ、あなたを待ち受けるさらに壮大な冒険へと進んでいけるのだ。
 とにかく、在るがままでいる以外、この次元であなたが成し遂げなければならないことは何もない。自分が神であると知るのは、ただ在る状態ではじめて可能になることだ。なぜなら、神とは存在そのものであり、すべての生命の「在るということ」だからだ。ただ在る状態、どういう形でそれを表現しようとも、自分にただ在るがままにさせる状態でいるというのは、父なる存在とまったく同じになるということだ。そしてそれは、ほんの一瞬にできることなのである。わずか一瞬の間に実現することなのだ。
 神とは、たったいまのこの瞬間のことだ。無限とは、いまのこの瞬間なのである。永遠に神となるというのは、このいまの瞬間にある永遠に完全に生きることだ。神はそうして生きているのである。ただ在ることだ。そうすれば、すべての生命の「在ること」、その途切れなき継続性とひとつになることができて、身体もその継続性そのものへと進化していく。そうすればもう死ぬ必要もなくなる。すべての次元を超越して、第七の次元、つまりすべてのものの最終的な姿となっていく。それは思考だ。これは真理である。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 222-223

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 9-y[23-v] (あなたの悲しみが他の存在の幸福であることがよくある)

 ―それから、もしできたら、この次元に押し込まれていないときにあなたは何をしているのか話してもらえないでしょうか。

 皆さんがしているのと同じこと、つまり自分を表現しているのです。ただひとつの違いは、皆の表現には制限がありますが、私のにはないということです。私は永遠に手が届くのです。自分の終わりについてはけっして思いめぐらすことはありません。そんなものはないのですから。そして、本当に私は風とともに行きます。それが私の究極の望みでした。
 私は幸せでいます。あなたの人生を見つめ、あの人のも、この人のも見つめています。そしてここでの皆の幻を見て、それは皆にとっては確かに深刻なことばかりで、いわば気持ち悪い色の水でいっぱいですが、私はおかしくて笑ってしまいます。なぜなら、ただもっと見ようとすればいいだけのことで、そうすればもっと豊かなものがあるからです。
 私は自己を表現していて、自分の在るがままで幸せでいます。いま皆が見ている姿ではないとき、私は「在りて在るもの」なのです。すべてのものが生まれてくる場です。第七のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に近づくところまで存在しているすべてのものを内包しています。そして、第七のレベルの存在になると、もはやレベルというものさえありません。ただ存在するだけなのです。そういう意味で、すべてのもの、すべての「知っている状態」、そしてあらゆる思考を体現する感情すべてとなるのです。
 思考そのものになるのがどんなことか思いめぐらしてみてください。思考はどれほど遠くまで移動することができるでしょうか。太陽の表面に思考を置いてみることはできますか。月の裏面はどうでしょうか。あるいはあなたから見える天界の大小の星には? どこかほかの次元にいる別の存在に想念を送ることはできるでしょうか。これはみな、ほんの一瞬もかからずにできることです。そうなれるものを、あなたは自分の内面に持っています。そういう表現をしたがらないのは、あなた自身なのです。いまある状態の表現をしたがっていますから、それはそのとおりになっているのです。

 ―自分がなぜ繰り返し戻ってくるのかわかる時点が、必ずあるはずだと思うのですが……

 あります。それは、幸福と呼ばれるものです。そしてその時点とは、いまの自分よりもなりたい存在などない、いまいるこの場所よりもいたいところはないというときのことです。それがわかる時点です。
 もうひとつ、あなたにとっての悲しみや苦痛が、他の存在の幸福であることがよくあります。ここにいる人は誰でも自分の人生は幸せなのです。皆そのことに気づいていないのですが、それは彼らの幸せの理想像というのが、ピーターパンのおとぎ話に出てくる妖精ティンカーベルよろしく、あちこち忙しく動きまわっては、すこしでも状況をよくしようと、あれを青に、これを紫にピンクにという具合に色を変えているピエロのような存在だからです。
 ここにいる誰もが幸福です。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからです。もし病気になりたければ、病気になっています。もし不幸になりたければ不幸になっているのです。それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸せにしてくれるからなのです。無理に笑わせようとすると、突如として涙を流して泣き崩れてしまう人もいるくらいですから。
 ここにいる誰もが自己を表現し、生を楽しんでいます。もしそうしていなかったら、一瞬のうちにその人は死んでしまうことでしょう。そして、ときが来れば、皆、確かに死にますが、それは自分はそうしなければならないと思っているからです。主よ、ある日あなたもまわりにいる皆を見ているだけで気づくことでしょう。どんな形で自己を表現しているにしても、皆、限りなく幸せだな、と。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 241-243

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 9-z[35-b] (あなたが知ることはすべてあなたがなっていくこと)

 知識は、あなたの精神がすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。在るものすべての「知っている状態」をさらに深く見させてくれるものであり、さらに偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれるのだ。知識は、あなたがさらに成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることをあなたに強く求めるのである。その意味で、それはあなたを限られた人生から、さらに限りない領域へと連れていくのである。知識、それに学びへの冒険を通じて、あなたはさらに単純明快な存在となっていく。そして、その単純明快な中に、在ることの平和と生のよろこびを見いだすのだ。
 さて、ここで知ることの科学について説明したいと思う。つまり、どうしてあなたはすべてを知る力を持っているのかということだ。それはなぜ大事なのだろうか。それは、あなたが知ることは、すべてあなたがなっていくことだからだ。そして、どうしたら在るものすべてを知ることができるかを学んだとき、あなたは在るものすべてとなり、それはまさしく神になるということなのだ。限りない知識、限りない生、そして思考の総体なのである。そこでは、あなたは再び、ただ在ることの限りない自由であり、よろこびなのだ。
 すべて在るものを知ることがどうしてできるのかを理解するためには、すべては神の精神である思考から存在してくるだけでなく、あらゆるものがその存在固有の想念を発しており、それを神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。
 あらゆるものはまわりに光の場を持っている。光の輪によって囲まれていないものは存在しない。光が思考の像を保持し、観念を物質という形体へと創造していくからだ。その光の場を通して、個々のものはその存在の思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。これが神の精神なのだ。
 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の草を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものは何だろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは、「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰がすわっているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎ込んでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡張し、動いているからだ。
 すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないとにかかわらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが、何かが「知られる」ということなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 247-25

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 9-za (あなたは意識の流れからくる思考によって生かされている)

 意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つひとつを含め、あなたの自己はすべてそこから途切れなく栄養を与えられている。思考はあなたの生を維持し、それに実体を与えてくれるものだからだ。意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。個々の細胞に食物の栄養物質を運ぶ血液の流れによって身体が生きているのとまったく同じように、あなたの自己全体は、意識の流れから発する思考の物質を通して維持されているのである。
 意識の流れからくる想念によって、あなたは自分の存在の一つひとつの瞬間を創造している。思考の河からつねに想念を取り出しているのであり、それを魂で感じ、その感情を通じて存在の全体を育み、成長させ、今度はその成長した自己を想念の河へと戻し、それによって河がすべての生の意識を広げていくのである。
 意識は、あらゆる生物、あらゆるものが発する思考すべてで成り立っている。意識をつくり上げている思考は、それぞれ異なった波動をもつ。中には、きわめて低い(あるいは遅い)波動のものがある。これは、「社会意識」としてこの世界を支配しているような思考だ。高い波動の思考もある。もっと限りない超意識の思考だ。意識とは、異なった思考の波動の周波数値すべての総計であり、その中で、それぞれの想念があらゆるところから似たような波動の想念を引き寄せているのである。
 社会意識は電気的な思考の密度をもつが、それでも空気より軽い。社会意識の密度の濃さは、表現された想念がつくり上げている。あらゆる存在が感情を通してこれまで表現してきた想念のことだ。それは実体となった想念、言い換えれば、それぞれの存在がすでに自分の中に取り込み、魂で感じた後に、各々のオーラの場を通して思考の河に戻し、他の皆がそれを栄養としてまた取り込んだ想念なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 252-253

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 9-zb[51-k] (波動の高い思考は自然の意識の中で体験しやすい)

 皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は、制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身の死、あるいは自我の死のどちらであってもである。したがって、皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受け容れられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められているのである。こういった低い波動の想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。だからあなたは、きわめて制限され、よどんでいる意識からの限られた想念をつねに与えられているのである。こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくり出すフィーリングを内から外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。
 皆の世界の中でも、大都市の意識はとくに限られている。そこに生きる者のほとんどは、きわめて競争的で、時間志向、ファッション志向が強く、互いを恐れていて、他を受容する態度がない。したがって、大都市はすべて密度の濃い意識で覆われている。他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろしたときに見るのは、複数の色の光でできた編み目のようなものだ。きわめて限定された意識がもつ、波動の低い想念が光の場として現れているのである。
 もっと波動の高い超意識の想念とは、「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。それは愛の想念なのである。そしてよろこびの想念なのだ。天才の想念だ。それは、本当はいま私が語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。無限の思考からのフィーリングというものは言葉による記述を超えているからだ。
 波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。そこでは、生というのは単純明快なものであり、時を超越して途切れなく続き、自己と完璧に調和がとれているからだ。そこでは、人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 253-254

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 9-zc[20-a] (脳は思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバー)

 意識の流れから想念を取り出す力をどうしてあなたはもっているのだろうか。あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、存在の感情面での状態にしたがって、想念を引き寄せてくる。想念があなたの養分となる、つまりそれがあなたの存在の内で感じられ、実感されるためには、波動を下げて光体となることがまず必要だ。想念が、身体を包んでいる光であるあなたの存在の精神と遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。つまり想念は、光に遭遇すると自ら発光するのである。光は思考物質の波動を下げる。こうして光が、それと似たようなものを引き寄せるのだ。想念は目に見えず、それが次に光の炸裂という形で見えるようになる。想念は光という形であなたの脳に入り、今度はその想念の波動値によって異なる特定の周波数をもつ電気的な光の推進体へと変容するのである。
 何かひとつのものをあなたが意識するとき、あなたはその想念を受け取っている。想念を受け取っている瞬間に、あなたの脳がその想念の光を受け取っているのだ。通常は視界の横のほうでだが、ときとして光が炸裂するのを見る人がいる。そこで目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取っているところなのである。目の前に輝く光が現れるのを見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部でその姿を見せた瞬間なのである。目を閉じたとき、さまざまな色の動きや、形が広がるのが見えるなら、あなたは想念が脳に入るときにどんな姿になるかを目にしているのだ。
 あなたの脳は、思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーであり、その各部がそれぞれ違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできているのだ。各部分は、その細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を秘めている。ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。
 一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ。それは、あなたの存在の精神を通して入ってくる想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅すると、それを理解できるよう実感するために、身体のあらゆる部分に伝達するという特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 254-256

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 9-zd[20-b] (波動の想念を受け取る脳の力は脳下垂体によって制御される)

 皆の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれるものがあるが、それには音量を決めたり、どのメガヘルツの周波数の電波を受信するかを決める調節器があるはずだ。脳もまた、同じような調節器を持った受信機であり、ある特定の周波数を受信するためには、それを蓄積するようつくられた部分が起動されていなければならない。
 異なった波動の想念を受け取る脳の力は、ちょうど右脳と左脳の間に位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。脳下垂体は第七のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。異なる想念の波動を受け取って蓄積するそれぞれの部分を起動させるはたらきをするのである。思考を用いて思索したり、論考したりして、その想念を身体全体にめぐらせ、体験として実感し、さらに大きな叡智を得るというあなたの力を開いてくれる扉なのである。
 脳下垂体はたいへん小さな、しかしすばらしい分泌腺であり、これを「第三の眼」と呼ぶ人もたくさんいる。でも、三つめの眼はない。頭の中にはそれが入る余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口状の部分があり、それがちょうど花びらのように見える。あなたの脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れのシステムを通じ、支配され制御されている。内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れて、いまひとつの内分泌腺で、脳下垂体の近くの大脳の基底の部分、ちょうど脊髄の上に位置する松果体の口状部へと流れていく。松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取るさまざまな脳の部分を起動させるはたらきをするのである。
 身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンによって調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体のホルモンが他の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。そのバランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、そのホルモンの量を増やして、今度はそれがさらに高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 256-257

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 9-ze[20-c](意識の流れからの想念はあなたの存在の内でどう実現するか)

 意識の流れからの想念は、あなたの存在の内でどういうふうに実現するのだろうか。想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままでそれを通すのだ。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。
 さて、変性自我とは何だろうか。人間としての体験から得られた叡智が魂に蓄積され、脳の知性の部分を通して表現されているものだ。神なる人間が、ただ生き残る生き物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中に収まらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け容れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つためにすべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。
 変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させたその波動を蓄積する役割を持つ脳の部分に送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。
 松果体は、あなたの中枢神経を司っている。個々の思考の波動を集め、それをさらに増幅して、電気的な思考のハイウェイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込む。松果体から来た電流は中枢神経の内部にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つひとつの細胞へと伝えられていく。
 さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行なわれた食物の摂取の際に、酵素のはたらきで得られた気体が供給されている。想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。これが、細胞分裂を通して細胞が自己複製することを可能にするのだ。もうひとつ細胞を創造し、自らを再生するのである。こうして、このたったひとつの想念を通じて、身体全体が潤ったのだ。これが化身の分子構造の内部で生が実感される過程である。それは、あなたが存在する一瞬一瞬に受け容れているすべての想念がもたらす結果を通じてのプロセスなのだ。
 想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。全身がである!こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体中を走る感じ」というようなものをつくり出す。そして、そのフィーリングは魂に送られ、そこで記録される。
 あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する、まったくバイアスのないコンピュータなのだ。何か感情を感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 257-259

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 9-zf[20-d](何かを知りたいならば必要なのは感じることだけである)

 記憶には大きさというものがない。それはひとつの実体であると言える。記憶は視覚的な記録ではない。それは感情の記録なのだ。視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。魂は、記憶の目的で画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。
 魂は、全身で感じられた思考によってつくり出された感情を受けて、記憶の中からそれと似たものを探す。脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。
 記述できることは、すべて体験にもとづいたある特定のフィーリングと結びついている。皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験があるおかげだ。皆は花という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験がある。だから花はある特定の感じをもたらしてくれるのだ。絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験をそれと結びつけているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。魂は、そういった感情の体験からの情報をすべて記録している。想念からのフィーリングが感じられると、魂はそれを記録し、そして記憶にあるこれまで体験した思考の中から、それと似たフィーリングを探す。そして、その情報を脳に送り返し、その想念は実感された、つまり化身全体を通して、そのすべてが理解されたことを伝えるのである。思考はただ脳だけで実感されるのではない。それは全身で実感されるのだ。脳の理性の部分が、その後でそのフィーリングを描写する言葉を作成させてくれるのである。
 想念はどのように実感され、知られるようになるのだろう。それは感情を通してだ。「知っている状態」というのは、まさにひとつのフィーリングにほかならない。どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知られることはない。感じられて、はじめてそれはひとつのアイデンティティを持つのだ。ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。一度そのフィーリングを自分の内に持てば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。
 わが愛する兄弟たちよ、あなたたちの内にこそ、すべての知識への扉があるのだ。あなたの内面で燃える炎は、あらゆる徴少な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞形態を持つ生き物、つまり在るものすべての内にちらちらと燃える炎と同じものなのだ。まったく同一の火なのである。すべての生命とひとつであるというあなたの状態は、光の原理を通じて実感される。魂にある感情に信を与える光とは、花々や、星や、その他在るものすべてに信を与えるのと同じ光だからだ。だからこそ、あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有しているのである。何であろうとも、それを知るということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。花を知っている状態というのは、内面の存在が、フィーリングを通して到達するものなのである。何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 259-261

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 9-zg[20-e] (脳の松果体は知識を具現化させるチャクラである)

 思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか。松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。受け容れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。まずそれは身体のレベルで起きる。松果体が、まず最初にその想念が感情として記録されるよう、電流として全身に送る役割を持つからだ。想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。つまり、体験する「ハイの状態」、あるいは体中を走る感覚がより強くなるわけである。そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。その期待感が、光の場の電磁部分を起動させ、ちょうど磁石のように、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。それは、あなたの想念すべてから得られ、体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、物であり、人であるのだ。なぜだろうか? あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。
 では、望みというのはどう具現化するのだろうか。望みとは、それが満たされるという想念を、物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。あなたが自分に感じることを許した「満たされるという想念」は、すべて電磁場を通ってあなたの身体を離れ、意識の流れに入っていって、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。その欲求が身体の内で完全に、そして強く感じられたものであればあるほど、それが満たされる形も完全なものとなる。そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、それが現れるのも早くなる。絶対的な「知っている状態」というのは、オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 261-262

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 9-zh[20-f] (あなたにはあるものすべてを知る力がある)

 あなたにはあるものすべてを知る力がある。それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。物質次元で物質的な身体の中に生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、すべて三次元に形あるものを通してそれができるようにするためなのである。あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、すべて体験する現実となる。はじめは自分の化身の内に見えるものとして、次にはあなたの人生の状況として。そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにはあるのだ。そうやって、この地球上に天上の王国がつくられていくのである。
 それは実に簡単な科学だ。忘れないでほしい。思考はただ存在する。そして、光は見える。光の波動が下げられ、電気信号となる。電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて固体となる。そして、固体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。同じ真実が身体にもはたらく。それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから電気を受けて、固体の全身に送り、その固体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。望みを現実のものとするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけでいいのだ。するとその感情が父なるものに送り返され、それが満たされるのである。ただそれだけのことなのだ。単純すぎるだろうか。それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか?

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 262-263

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 9-zi[20-g] (あなたの脳のほとんどは休眠状態で何もしていない)

 もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。脳のほとんどは休眠状態にある。何もしていないのだ! それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。それを除いてしまうのである。言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。
 皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定されているからだ。つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。
 誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 264-265

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 9-zj[20-h] (あなたが自分に考えることを許したものは必ず体験する)

 閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!
 はっきりと言おう。何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。
 閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。確かにそれは変化をもたらす。なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。
 これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。
 天才になるというのはとても単純なことなのだ。自分で考えるようになればいいだけなのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 265-267

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 9-zk[20-i](脳の全体が使われれば自分の身体はどのようにもできる)

 脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。水は電気の伝導体だ。水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。
 もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか? もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか? 完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。
 脳全体の能力は膨大なものだ。なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。
 身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。
 いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完璧に再生させるのである。完璧に、だ! 奇跡的なことだと思うだろうか。それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 267-269

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 9-zl[20-j] (愛や喜びのすべては想念を変えるだけですぐそこにある)

 身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。確かにそういうものは効く。それが効くと誰もが信じているからだ。また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。曰く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。だから実際にあなたにはそれができない。なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。そして、彼らは癒された。一瞬のうちにである。「知っている状態」は、そういうことができるのだ。そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。身体はそうできているのである。
 存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか? それは、社会意識だ。どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。どこに愛があるのか。どこに永遠が? どこに神があるのだ? そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。
 一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。それは、知りたがっていなかったからだ。あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。だからあなたは自分の力を手放してしまった。自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。脳のはたらきを止めてしまった。それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 269-270

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 9-zm[20-k] (あなたは自分の内に完全に神になる力を持っている)

 人間が、気の遠くなるほど長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。神というのはそれだけのことなのだ。思考の総体、生の貴さだ。そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。完全に、である。いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。知ることができることはすべて知るだろう。あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。
 あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。変性自我である。なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも……。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 270-271

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 9-zn[44-y](あなたは身体の中に永遠に生きていける力も持っている)

 反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。
 反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。その寺院とは、あなたのことだ。すべてはあなたの内面にある。あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。限界と無限の両方の存在を許すのである。
 「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。それがハルマゲドンだ。自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。
 神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。
 あらためて言おう。あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。それに、望むものは何でも実現させる力を有している。もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 271-273

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 9-zo[20-m] (限界のない想念を受け取っていけば光を発するようになる)

 どんな望みでもそれをかなえるいちばんの方法は何だろうか。あなたの存在の主=神から直接それを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて身体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在の内の神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在の内に入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。
 限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂の内で感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。
 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、何となく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経系を通って、あなたの身体の一つひとつの細胞へと送られる。これが、体中がしびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞一つひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 276-277

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 9-zp[20-n] (波動の高い思考が理解されるとそれは智慧として魂に記録される)

 限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく表す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、何の前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。
 覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくるとき、あなたは感情あふれて言葉を失ってしまうことだろう。
 思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するというのは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくれば、あなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。
 高い波動の想念から体験できた高揚感は、その後どうなるのだろうか。
 あなたの魂がそれをとらえ、記憶としてそこに永遠に置くのだ。魂は、感情、フィーリングを通して、この限りない思考の記憶がよみがえることを許すのである。こうして、あなたの「知っている状態」はいつのときもそこにあるように捕捉されているのであり、自分が受け容れることを許したものは、何度でも呼び覚ますことができるのだ。
 その高揚感には、いまひとつすばらしいことが起きる。魂が、オーラの場を通じて意識の流れへとそれを放射するのだ。これは意識の密度を高めるだけでなく、同じフィーリングを生み出す状況を人生に引き寄せてくるのである。なぜだろうか。その想念が体験を通じて完璧に理解されるようにである。波動の高い思考が完全に理解されると、それは智慧として魂に記録される。智慧とは、その知っている状態があなたの内面で絶対的なものとして固まったことを意味している。智慧は魂の波動レベルを高め、次にそれが、魂の高次の感情の状態に人生全体を合わせていくはたらきをするが、同時に脳下垂体をあらためて刺激し、それよりもさらに偉大な、高い波動の思考を脳が受け取ることを可能にしていく。こうしてこのプロセスはさらに続いていくのだ。
 脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が、創造的な形体へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それは、あなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに、似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。
 やがて、輝き、創造性、そして「知っている状態」が、自分の内面でどんどん強まるにつれて、以前は感じたことも知っていたこともないようなことをあなたは感じ、知り始める。ほかの人間を見て、その人を自分の存在の内に感じるようになる。自分の思考から、これからやってくる日々のことを知ることができるようになる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 277-280

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 9-zq[20-o] (思考の波動をすべて検知できれば自分の好きな波動になれる)

 心霊的な人間というのは稀有な存在だと思うだろうか。それはあなたが社会意識でものを考えているからにすぎない。社会意識というのは、そういう偉大な力が実は案外ふつうのことかもしれないとは考えないのである。誰もが心霊的な力を持っているのだ!自分に知ることを許すなら、あなたはすべてを知ることができる。なぜなら、社会意識の幻影に抑制されない「知っている状態」は、目の前からベールを取り去り、あなたは他の次元が見えるようになるからだ。耳から障害を取り除き、すべての生命が、自身との調和の中で振動する音楽を聴くことができるのだ。では、どうすればそうなれるのか? それを望むことによってである。
 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。
 花はある思考の波動を出している。同時に、カーペットもまたある思考の波動を出しているのだ。すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。風にも、ほかの何でも、自分が望むものになる絶対の自由を手にするのだ。
 やがて、脳下垂体全体が満開となり、脳のすべてが活動するようになる。すると、脳下垂体の内面にあった精神的なものは、すべて心の全体に与えられ、心はもう二度と以前の限られた状態に戻ることはなくなる。花が咲き始めると、それが閉じることはけっしてない。これからもずっと開いているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 280-281

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