21.「死後体験」も可能である

 6度にわたるモンロー研(ロバート・モンロー研究所)の訪問で、得たことは多い。そのなかで一番の収穫は、自分は独りではなかつたということ、ガイドたちが見守ってくれていた、ということを知ったことである。その存在を直接感ずることがなくても、常日ごろ、わたしのすぐそばで、じっと見守ってくれていた。こう知ることでなにかすごくほっとした。肩の荷が下りたような気がする。また自分が死んだら、ガイドたちが面倒見てくれると思うと、死に対して持っていた漠然とした恐怖が、かなり軽減した。
 わたしは人間死んだらどうなるのかということに、子どものころから興味を抱いていた。それは死の恐怖に時々さいなまれたからである。死を思うと心が真っ暗になり、暗黒の闇のなかに突き落とされることがあった。そこは希望の2文字が、絶え果てる世界だった。
 死というのは残酷なものである。死に直面した場合、たった独りで対峙しなければならない。誰も助けてくれないのだ。そして、たった独りで死んでいかなければならない。死以外の世間事は時間の経過が解決することもあるが、死はそうはいかない。時間はことを悪化させるだけである。死に直面した場合、問題の先送りはできない。
 わたしは成長するにつれ、恐怖にさいなまれることはなくなったが、それでもいずれ死ぬときが来る。その際にまた死と対峠しなければならない。その前に何とか死の恐怖を解決できないものかと思ってはいた。
 それがモンロー研を訪問することで、新たな展開をみることになった。
 モンロー研で死後の世界を自分で体験し、そのさまざまな世界を直接把握することができた。死後は未知ではなくなったのだ。これだけでも死の恐怖はかなり減った。ここで、重要な点は、わたしは死後の世界について、誰かの話を聞いてそんなものかと理解したのではない。自分の直接体験で知ったという点だ。この違いは大きい。言ってみれば、幽霊を見た人の話をテレビで見て、「ふ−んそんなもんかね」と茶の間で言ってるのと、その茶の間に幽霊が出てきて、ぞつとしたぐらいの差がある。
 そしてガイドたち、トータル・セルフとの出会いである。ガイドたちが、常に見守ってくれていたことを知ったことは大きい。上述したように、それを知ることで得た安心感は大きい。
 モンロー研ではさらに、いくつもの過去世の自分を知ることができた。自分は悠久の過去からずっと存続してきたことがわかった。肉体は滅んでも魂は永遠なのだ。魂という表現が正しいかどうかはわからない。自分の本質とか実体とか言ったほうが、正しいかもしれない。それが肉体とは独立して存在すること自体は、体外離脱体験を通して知っていた。が、自分が悠久の過去から輪廻を繰り返していたことを、直接体験を通して知ることはなかった。モンロー研はそれを可能にした。
 それだけではない。わたしは家内といくつもの過去生で兄妹だったり、いいなづけだったり、夫婦だったりしたこともわかった。いわゆるソウル・メイト(魂の伴侶)である。死に別れたり、結婚できなかったりしたことが多かったので、いまの関係の持つ重さ、大切さが身にしみてわかる。家族に対しても同じ思いだ。袖すりあうも多生の縁。すべての出会いは偶然ではない。そこに過去からの強いつながりを感じるのである。

  坂本政道『死後体験』ハート出版、2003、pp.244-246

 私注:副題は「臨死体験」を超える ーー米国モンロー研究所の
    ヘミシング技術が、死後の世界探訪を可能にした、とある。
     著者は、東京大学、カナダのトロント大学大学院で学んだ
    ハイテク・エンジニア。



 22. 宇宙・地球


 22-a [9-r] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)

 ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
 光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
 生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
 これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
 もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131

     *****


 22-b [9-s] (魂の内に宇宙を感じて宇宙を創造したのはあなたである)

 形あるものの創造が始まった最初の頃、神々は自分に思いをめぐらせ(光という自己の存在についてだ)、太陽と呼ばれるものを創造することによって、光の観念を物質化した。それも何千兆個という無数の数をである! これらの太陽はすべて、電磁場の波動を下げた結果できた気体物質を集約、融合させることで創造された。生命の中心である火花、つまりこの偉大なる太陽から、惑星と呼ばれる回転する球体がつくられ、それぞれの軌道に乗せられた。そしてこの球体の上に、あなたたち神々がさまざまな形あるものをつくり上げたのである。それを皆が学ぶのには、気の遠くなるような長い時間がかかったのだ。
 この宇宙、そしてさらに偉大な太陽系の数々を取り囲む多くの宇宙を創造したのはいったい誰か? あなただ。そう、あなたなのだ! 単純明快に、あなたがつくり上げたのである。一つひとつのものを創造するにともない、あなたは自分の体験を広げ、それが魂の内に感情を発生させた。これこそ思考の中でも最高の宝だ。そして物質の次元の創造も、さまざまな感情を通して行なわれたのだ。
 あなたがまさに光の始まりの火花であったこと、そして、創造主であるあなたたちが、崇高なる意志を通じてすべて在るものを創造したことにこそ、あなたの神性があるのだ。あなたがすべてを創造した。神が宇宙を創造したのではない。神は宇宙そのものなのだ。魂の内に宇宙を感じることにより、自分の思考過程からそれを創造したのは、あなたである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 129-130

     *****


 22-c [9-t] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)

 ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
 光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
 生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
 これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
 もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131

     *****


 22-d [44-r] (銀河系だけでも百億の太陽があり地球だけに生命があるのではない)

 ここにはほんの小さな銀河があるにすぎない。そしてもし皆が、自分たちがそこに存在するただひとつの生命であると考えているなら、それは倣慢であると言わざるを得ない。皆の住む銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星があるのだ。
 いったいどのくらいの数の太陽系が存在しているかを伝えられる数の単位は存在しない。大小あらゆる惑星、そこに生息する生命をすべて数えあげられる数字も存在しない。数はないのである。もし無限というものを理解したいと願うなら、時間や距離や単位を超えて考えられるように、頭の中をプログラムし直す必要がある。さらに大きな現実では、そういうものは存在しないからだ。
 神はただ在る。始まりとはいつのことだったのか? そんなものはなかったのだ。神はつねに在ったのだ。思考、宇宙、空、テルスター(telstar)を維持し、それに生命を与える。テルスターが何か知っているだろうか。光を物質に変容させ、それを宇宙に噴き出して星団をつくるものだ。ではテルスターはどこからきたのだろうか。思考、空、宇宙空間、見わたせば星と永遠が見える偉大なる空(くう)からだ。神の最も完璧で限りない存在としての姿を思い描きたければ、宇宙空間という終わりなき永遠を思い描くとよい。宇宙空間こそが、あなたの目にするものすべてを取り囲み、在るものすべてを維持し、その存在を確立してくれるものだからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 150-151

     *****


 22-e [44-s] (終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのか)

 皆、宇宙空間のことを、まるで何もない場所であるかのように語る。しかし、すべてのものをしっかりとその公転軌道に固定しているのは何なのだろうか。虚無空間に皆の惑星である地球を浮かばせているのは何か?百億個の太陽を有する皆の銀河を支えているのは何か?何がすべての物質の通過を可能にしているのか?よく考えてみれば、光が移動するときはいったい何の上を通っていくのか? これがすべて、あなたが「何もない」と言う場所で起きているというのだろうか。百億個もの星と、その太陽系を維持できるその「何もないもの」をぜひ見せてはしい。
 神はあるレベルでは、すべてのものを構成する物質だ。別のレベルで言えば、異なる次元にある時間の流れであり、並行した宇宙を創造する時間の歪曲(タイムワープ)である。さらに別のレベルでは、物質を支える光という周波数帯だ。そして何よりも大きなレベルでは、あなたを現在の位置に保っている「何もないもの」、つまり思考であり、宇宙空間の永遠なのである。
 神とは生命すべてであり、脈打ち、広がり、進化し、永遠へと途切れなく続いていく。それは、過去にあったものの存在を可能にする「在るということ」であり、いま在るものの永続性であり、これからやってくるものの可能性である。生命を与える動きであり、定まった目標や理想に到達するのではなく、思考から光へ、そして物質へと、つねに生命を創造し続けている限りない思考プロセスなのである。神とはすべての物の本質部分であり、それがある意図を持った動きの中でつねに変化し、創造し、広がり、そして存在する姿なのである。
 すべてを包括し、何よりも力を持ち、つねに進化を続け、動き、存在し続けていくものの姿を、いったいどうすれば認識できるというのだろか。このいまの瞬間の神が、次の「いま」には同じものではないというのに、どうして「これが神である」と示すことができるのか。終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのであろうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 151-152
















 23. 生まれ変わり・輪廻転生

  23-a (聖書にもか書かれていた輪廻転生)

 旧約聖書にも新約聖書にも、実は輪廻転生のことが書かれていたのだそうだ。紀元三二五年、時のローマ皇帝、コンスタンチン大帝はその母ヘレナとともに、新約聖書の輪廻転生に関する記述を削除した。紀元五五三年にコンスタンチノーブルで開催された第二回宗教会議において、この削除が正式に認められ、輪廻転生の概念は異端であると宣言されたのであった。人類の救済は輪廻転生をくり返すことによって行なわれるという考え方は、巨大化しつつあった教会のカを弱めるものだと、彼らは考えたのである。しかし、初めから、ちゃんとこの概念は存在していて、初期のキリスト教の先達は、輪廻転生の概念を受け入れていた。グノーシス派の人々−−アレキサンドリアのクレメンス(一五〇〜二一五)やオリゲネス(一八五〜二五四)、聖ジエローム(三四〇〜四二〇)等は、自分達は昔も生き、再び生まれてくると信じていた。

  ブライアン・ワイス『前世療法』(山川紘矢・亜紀子訳)
    PHP研究所、1996、p.33. 


     *****

  23-b (キリスト教会が削除した輪廻転生)

 ディビッドは、キリストはイスラエルに帰ってからインドの聖人に学んだことや輪廻転生を人々に説き始めたのだと説明した。
 「でも、どうして聖書にそのことが書いてないのかしら?」
 「輪廻転生のことは聖書に書いてあったんだよ。ただ五五三年のコンスタンチノーブルで開かれた、一般にニカイア会議と言われている宗教会議で、教会の支配を強めるために輪廻転生の思想を削除してしまったんだ。だって、人の運命は教会の支配下にあるというのが教会の主張なのに、キリストは一人ひとりが自分の運命に責任があると言っているのだからね。キリストはただ神のみが人を裁けると主張していて、教会やいわゆる宗教を作ることには反対していたんだ。彼は教会や宗教が自由や真実を知りたいと願う人の心を抑圧するのを知っていたんだよ」
 これはケビンの説明と全く同じであった。
 太陽はいよいよ海のかなたに沈み始め、空をまっ赤に染めた。
 「ともかくキリストは輪廻転生を説いたけれど、教会がそれを否定して、それ以来人類を駄目にしてしまったというわけさ」
 もし、キリストの教えがそのまま教会で生かされていたらどんなによかったことだろう。人間は永久に生を繰り返し、自分の行動が次の人生の運命を決めると知っていれば、非常に深い安らぎを得られるに違いない。
 原因結果の法則は科学の世界の基本である。どうして同じ法則が人間の生活には適用されないのだろうか。私は科学のエキスパートではないが、科学がなぜそんなに重要視されているのか次第に疑問を感じ始めていた。特に私達がなぜ生きているのかを理解するには、科学は全く無力なのではないだろうか。それは一人ひとりの人間にとって、最も奥深い個人の問題なのである。偉くなろうとか、人に勝ちたいと思わない人の方がずっと神に近く、生の喜びを享受しているのではないだろうか。

  シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
    亜希子訳)地湧社、1994、pp.257-258.


     *****

  23-c (カソリック百科事典も現世以前の魂の存在を否定)

 ケオブのピラミッドは、さらに不思議である。ビラミッドの内部のホールや部屋には、地球の文明化が時間の長さに置き換えられて、正確に記されている。そこには大洪水、人類の霊的発展の進歩と退化、キリストの誕生と十字架刑、主要な戦争、宗教の発達等が正確に予言されているのである。今世妃の二つの世界大戦と、戦後の動きについてももちろん予言されていた。
 私は、キリストの輪廻転生の教えが紀元五五三年のコンスタンチノーブルでの第五回宗教会議で、聖書から削除された記録にもう一度出合ったのだ。カソリック百科事典ですら、この第五回宗教会議の項で「魂が現世以前にも存在したことを信じる者は、無神論者である」と述べている。
 
   シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
     亜希子訳)地湧社、1994、p.268

     *****


. 23-d (輪廻転生を信じる人たち)

 私は特に輪廻転生について読みあさった。驚いたことに、東洋思想のほとんどが輪廻転生の思想を持っているのである。ただ東洋思想における輪廻転生は宗教に基づくものが多いのに対し、西洋思想では主に哲学から発生しているという違いは見られる。ピタゴラス、プラトン、ソクラテス(もっとも彼は後に輪廻転生を否定し、プラトンと訣別している)、ブルターク、そして十七世紀のケンブリッジ・プラトン学派の人々、ミルトン、詩人のドライデン、政治家のジョセフ・アデイソン等々すべて輪廻転生の思想の持主であった。
 さらに十八紀の思想家達、ニュートン、フランクリン、ボルテール、カント、ショーペンハウエル、デイビッド・ヒユーム等この時代の知性の代表者の多くも魂の再生を信じていたのである。さらに多くの作家、詩人が、その作品に彼らの思想を表現している。ゲーテは友人への手紙に彼の考えを記していた。
 アメリカに目を向ければ、エマーソン、ソローに代表される一群のアメリカ超絶主義者がいる。彼らは従来の専制的な宗教に反旗を翻した。ウォルト・ホイットマンの『草の菓』は言うまでもなく、輪廻転生の思想の詩であった。マルコム・クローリーはホイットマンについて次のように書いている。

 「ホイットマンにとって、宇宙は永遠に生成してゆくもの、すなわち構造物ではなく、過程を歩んでいるもの、絶え間なく変化していくものであった。そして宇宙は永遠という観点から、観察すべきものであった」

 十八、十九世紀を通じて、文学者、哲学者、科学者、芸術家、詩人、歴史家、そして政治家等、何人もの偉人が輪廻転生について語っていた。彼らの多くは、地球上の生命の神秘の研究、あるいは東洋思想に親しむことによって、こうした考えに至っている。この中には、トーマス・ジェファーソソ、カミル・フラマリオソ (仏の天文学者)、グスタフ・ストムベルグ (スウェーデン系アメリカ人の天文学者)等も含まれている。
 ところで、二十世紀はどうだろうか。この時代にもここではとても全部に触れられないほど、たくさんの書物が書かれているのである、ヘソリー・ミラー、パール・バック、トーマス・ウルフ、ジャック・ロソドン、マーク・トウェイソ、ルイザ・メイ、オルコット等、それこそあげ出したら切りがないほどである。面白いことに、コナン・ドイル、ロイド・ジョージ、ヘンリー・フォードもこの列の中に入っている。さらに芸術の分野をみれば、モソドリアソ、クレー、カソディンスキー、ヘルマン・ヘッセ、リルケ、ロバート・フロスト等が輪廻転生の思想の持主なのであった。
 こうした人々の中で、ジョン・エリス・マクタガルトは特に優れた人物である。彼はすでに二五歳の時、ヘーゲル以来の最も注目すべき理論家、超自然主義者とみなされていた。『人間の不滅と前生』の中で、彼は次のように述べている。

 「最も高潔な人でも、死んですぐ天国へ行けるほど知識も道徳も完全ではあり得ない。つまり、死の瞬間に、普通の人では考えられないような、人格の向上が生じるか、または、死んでから徐々に魂が浄化されていくのか、そのどちらかであろう。また、何代にもわたって、次第に向上していくということも考えられる。その前の世で得た知識は、次の新しい人生では忘れてしまっても、いつも前の世で獲等した心の強さ、柔らかさは新しい人生に伝わるのではないだろうか。もし、そうであれば、新しい人生では人は前よりも少しは賢くなっているに違いない。それに、また、我々の性格は前生で起こったさまざまな事柄で決まっているというのも疑えない事実である。私は前世で起こったよいことも悪いことも全く憶えていないが、それでもその一つ一つが現在の私に影響をあたえているこに違いないのである。従って、人は現生での生活態度を来生に持ち越していくというのも確かである」


  シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
     亜希子訳)地湧社、1994、pp.237-238

     *****


 23-e (霊的な完成に近づくために必要な生まれ変わり)

 将来、再び肉体を持って生まれ変わってくるという考えに対して、非常な嫌悪感を口にする人がいますが、これはその人の気持ちが閉ざされていることを示します。その人の霊的な心の部分にシャッターが降りているようなものです。それは一見したところ、自分が置かれた現実と思われるものと、現実についての内面的なより深い洞察力をもった直感との間に、黒いカーテンがかかっているようなものです。
 人間の生活をよく観察し、人間の魂が霊的な完成に近づくことができるには、どれほどの時間が必要かを子細に検討してみれば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の本当にささいな出来事ですら、きわめて重要な意味を持つことがわかるはずです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル』(大内博訳)
    講談社、1994、pp.225-226


 23-f [2-b] (死んでも真のあなたは朽ち果てて灰と化すわけではない)

 自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、いったい何が起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中に思考をしている存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もしあなたが死ぬと決めたのなら、真のあなたは、地中に埋められ、朽ち果てて灰と化すわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界であなたがいたところだ。そこであなたは、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、すべては冒険でしかないのだ。そしてあなたは、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけここ地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 82

     *****


 23-g [51-a] (あなたは何度も何度も生を繰り返す永遠不滅の存在である)

 皆は自分の想像をはるかに超えて愛されている。というのも、何をしようとあなたは生き続けていくからだ。だったら、なぜこれまで心配をしてきたのだ? なぜ戦ってきたのだ? なぜ自分を病気にしてきたのだ? なぜ哀しみに打ちひしがれてきたのだ? なにゆえに、自分に限界を課してきたのだ? なぜ昇る朝日の荘厳さを、風の自由を、そして子どもたちの笑い声を楽しまなかったのだ? なにゆえに、苦労ばかりせず、生きることをしてこなかったのだ?
 あなたは何度も何度も生きる。あなたの種は永遠不滅の存在なのだ。あなたがどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、あなたがけっして消せないものがある。それが、生命というものだ。どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれるものが表す価値観であるからだ。そしてそれは、あなたのことなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 82

     *****


 23-h [51-b] (偉大な存在であるあなたはこの生の後も繰り返し生き続ける)

 一輪の花に生命の途切れない営みを見ることができるならば、なぜあなたがその生命よりも劣っているなどと考えるのか。ただ春に花を咲かせ、夏には果実をならせて、秋になって葉を落とし、そして冬になると死ぬだけだと思うのだろうか。あなたはもっとも偉大な花よりも、さらに偉大な存在なのではないのか。あなたの生命はもっと重要なものではないのか。そう、まさにそのとおりだ。そして春のめぐり来るたびに花が咲き続けるように、あなたもまた生き続けるのだ。この生の後も、その後も、そしてその後も・・・・・・。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 85

     *****


 23-i [51-d] (亡くなった母親がもしこの次元に戻ることを選ぶなら)

  [前年に母を亡くしたある女性に対して]

 もしあなたのお母さんがこの次元に戻ることを選ぶなら、彼女にはあなたの子どもの子どもか、そのまた子どもになるという選択があります。もしあなたが生きている間にお母さんがこの地上に戻ると決めたなら、あなたの娘さんが子どもを持つ決心をしたときに、その子どもとして戻るでしょう。そして、もしお母さんがそうすればの話ですが、あなたにはその子が母親の生まれ変わりだとわかるはずです。その幼な子を見れば、表面上の表情や容姿を超越した感情をあなたは持つからです。そうやって彼女であることを知ることができます。
 あなたのお母さんは、その瞬間、あなたのことを知っているでしょうか。もちろんです。なぜなら、この地上界を離れると、人は化身で存在していたときよりも意識が鋭くなります。もはや物質の密度に埋没していないので、自分が意識できるすべてのレベルに、言わば波調を合わせることができるわけです。もっと密度の低い、高い波動の中にいるので、ほかの波動レベルにあるものを見られる能力を持っているのです。ほかの波動は、思考形体、光の形体として、そのとき自分がいるレベルと並行する形で存在しています。ですから、もし自分でそうしていればの話ですが、あなたのお母さんはあなたをいまもよくわかっています。ここを離れるとき、もし望むならば、あなたもここにいる人たちのことがよく見えるのと同じなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 90-91

     *****


 23-j (死後の世界から人はなぜまたこの地上界に戻ってくるのか)

 ―人はなぜこの地上界に戻るのかを知りたいのですが。

 その理由なら、この次元に生きる存在の数だけあることでしょう。でもほとんどの場合、この次元に戻ってくるのは、多くの生を体験しているここが自分のよく知っている場所だからです。これが故郷なのです。言わば「ルーツ」です。この次元を去るとき、そういう人たちは、愛情ばかりでなく、罪悪感や憎しみからもくる強い感情的な執着を感じる存在を後に残していきます。ですから、ここを去ると、この場所、それにほかの存在への執着が感情的な絆をつくり出し、幾度もの生を通じて、それが彼らをまたここに引き戻すのです。
 それとは別に、冒険者たち、つまりほかのたくさんの場所に行っていろいろ体験し、そこで得た叡智と体験をこの次元に持ち帰る人たちがいます。さらに、この次元での体験はすべて完了し、ここには二度と戻らずに、ほかの場所に進んでいく人たちもいます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 102

     *****


 23-k (自分の息子の子供になって生まれ変わった人)

 「自分の息子ですって? 自分の息子の子になるのですか? 父親である私が自分の息子の子で、彼が父親なのですか?」
 「もちろんです! 以前この地上界に生きたとき、彼はあなたの父親で、あなたは彼の息子でした。そう、ただそれをもう一度繰り返しているだけなのです」
 男は考えをめぐらし、賢き存在のほうを見てこう言います。「でも、私は妻を愛しているのです。いったいどうして自分の妻の孫になることなどできましょうか」
 「あなたは幼い頃から祖母が大好きな男の子になります。青年になるまでには彼女は地上界を去ります。つまり、あなたが自分の心にある愛を語るのを助けてくれた状況は、その役割を終えているのです。そうして今度は、神の美しい姿を見るという次なる課題に取り組むときが来るのです」
 男は考えをめぐらし、言います。「私を大いに助けてくれた賢き存在よ、準備ができたところで、私は息子の子どもになりたいと望みます」
 賢き存在は彼に言います。「種はすぐにやって来ます。それが見えたら、息子の光の一部になりなさい」
 「どうすればいいのですか?」と訊ねながらまわりを見渡すと、賢き存在の姿はもうありません。かわりに彼は自分の息子を見ています。息子の光の一部となったからです。息子は彼がそこにいることを知りませんが、最近、父のことがよく心に浮かんできています。「父が今の自分の姿を見ることができればなあ」と息子は考えます。でも、もちろん彼の父親はその姿を見ているのです!
 そして子どもが子宮の中に誕生するときが来ます。男は自分の思考を通じ、どういう人生を望むかによって、この子がどんな子どもになるかを決める過程に自分も関わっていくのです。受胎の瞬間にその身体を自分のものにすることを選ぶかもしれないし、あるいはその子どもになるのに、生まれてから一年も待つ場合もあります。
 男はまわりに自分がよく知っているものばかりあるので、とても不安になっています。だから、すぐに子どもになることを選びました。自分を前に進めると、一瞬のうちに自分が誰だったのかを忘れ去っているのでした。そして最初に意識したのは、咳をしている自分、そして眼をふいてくれ、小さな小さな布で彼を包んでくれる誰かのこと……。
 この話は本当にあったことです。高次の光の存在は、この主のために自己表現の場を選んであげることはしませんでした。神秘の池という場所に彼を連れていき、それが自分で見えるように助けてあげただけなのです。そこは、魂が存るがままの姿となり、自分の人生をふりかえってみて、自分がどんな体験を必要としているのかを決めることができる場所だったのです。
 その生では、小さな赤子のときからこの存在はすでに愛することを知っていました。自分自身の中に神を見ること、そして神そのものになることが、彼が体得しなければならないことだったのです。そして、この存在はそれを体得しました。彼の名は……「釈迦」といいます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.108-109

     *****


 23-l (私たちは生まれ変わる時どのように自分の親を選ぶのか)

  ― 今度、子どもが生まれることになりました。まず、この子が、なぜ私のところに来ること選んだのか、それに、私たちはどうやって自分の親を選ぶのかが知りたいのです。

 自己表現の媒体を持つために、人はいったいどうやって自分の親を選ぶのでしょうか。それには多くの理由も答えもあります。しかし、この次元を離れてから再びこのレベルに戻りたいと望む者たちは、皆、子どもをつくろうとしている存在を待っているのです。前世で子孫をもたらした者には、あなたが「親」と呼んでいる生命の遺伝パターンがあり、それを通じて戻ってくることもできます。
 ほとんどの場合、人は自分の知っている者を親に選びます。前の生で子どもや親であった存在たちです。でも、この地上界での自己表現の媒体を提供してくれるというだけの理由で、自分の知らない人を親に選ぶ人もいます。自分が戻りたいときに、そのための媒体がないこともよくあって、場合によっては自分に合った化身を見つけるのに何百年もかかることもあるのです。
 本当の意味で人の母親、父親である者は誰ひとりとしていません。すべての人間は、神という、生命の父母原理の息子であり、娘です。ここにいる者はすべて、兄弟姉妹であり、互いに同じ親から生まれた子どもなのです。あなたの子どもも親も、本当は兄弟姉妹であり、皆、等しく神の精神の一部なのです。
 個々の存在は、自分がただ極めつけの美人になるとか、金持ちになるとか、あるいはみじめな貧民になるためだけに、この場所に戻ってくるわけでないことは、戻ってくる前からわかっています。ここに戻るのは、この場所で生きたいからであり、このレベルで感情を学ぶという礫題に積極的に取り組みたいからなのです。自分の存在の内面を満たすべき感情面での理解、それを得たいためなのです。そして、ここであろうとほかの世界や次元であろうと、感情の中での叡智こそが人生という体験での真の宝物です。なぜなら、それは時を超えて、永遠にあなたとともにあり続けるものだからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.110-111

     *****


 23-m [51-f] (生まれ変わりでは私たちは必ず産道を通らねばならないのか)

 ―もうひとつ質問があります。ここに戻ってくるには、私たちは必ず産道を通って生まれてこなければならないのですか?

 その質問に答えるのに、まずこの場所が三次元の知覚の次元であることをあなたにわかってほしいのです。ここは、思考を物質という三次元の形を通して目で見ることができる次元です。この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それがまず減速されて電磁場となり、さらにそれが物質の総体となり、この次元の固体となるに至ったのです。つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大密度の形態まで落としたものだということです。
 ここにあるものが同じ密度を持つためには、すべてが同じ周波数で振動もなくてはなりません。ですから、あなたの身体は、いますわっている椅子と同じ周波数で振動しているのです。あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからなのです。
 本質の部分でのあなたは、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーですから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質の中を通り過ぎてしまうことでしょう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしているのです。
 ですから、この波動の一部でいたいならば、実存する身体に宿り、その一部とならなくてはなりません。化身を持つためのひとつの方法が、産道を通って生まれてくることです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 112-113

     *****


 23-n[56-k] (あなたは何故この人生を選んで生まれ変わってきたか)

 ―肉体に戻ってくると決めたのは、自分だというのは本当ですか。

 ほかに誰がそれを決めてくれるというのでしょう。

 ―それでは、なぜ私はこの時代、この場所を選んで帰ってきたのか教えてもらえますか?

 この時代、この場所での生を体験するためです。

 ―でも、ここに戻ってきて達成すべき何か特別な目的、ここに帰ってくる理由があったのでしょうか。

 主よ、「特別な目的」というのが、人生を体験するという特権のことなのです。

 ―ということは、それは何でもかまわないと言うのですか。

 何でもかまいません。でもそれは、特定の何かではありません。あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。あなたが「あなた」を選んだのです。あなたではいけませんか? そんなことはないでしょう。あなたはこの時期を選びました。いけませんか? いまはすはらしい時代です。生は花開き、あなたも花開いている時代です。
 生きるということがどうも見過ごされ、あまり感謝もされない体験となってしまっていて、皆、生きること以外の何かを探している状態になっているようです。でも、あなたがここにいるまず第一の大切な理由は、単に生きることなのです! この生で達成できる最も栄光に輝くことといえば、まずこの生を全うすることなのです。これは真実ではありませんか? どんな大王だろうと、まずはじめに王になるための人生がなかったらどうなるでしょうか。王になるのは彼の目的ではなかったのです。そうなったのは、これはなかなかおもしろそうじゃないかと彼が決めたからにすぎません。いちばん大事なことは、王になれる時点まで彼が生きたということでしょう!
 あなたがこの人生で達成できる最も偉大なことは、まずそれを全うするということです。おそらくこれはあなたが聞きたいと思っていることではないかもしれませんが、死期が近づいたとき、この答えがよくわかります。
 皆、存在するための理由が必要と思っています。「おお主よ」と彼らは私に言います。「私の運命は何でしょうか? この人生での目的とは何でしょうか?」。そこで私は答えます。「生きることです!」。すると皆、困ったような顔をして、あまりうれしそうには見えません。何かとても込み入った計画― 大いなる山の頂に立ち、まわりには鳥がさえずり、黄金の衣に包まれた自分が人類の救世主となるような、そんな答えを聞きたがっていたからです。
 主よ、あなたの目的とは、単に生きることです。それから先どうなるかは、この人生でのあなたの美と、生の広がり、成長への貢献の延長なのです。生きることそのものが最も重要なのだと気づき、生きることを通じて言わば「点数を稼ぐ」のだとわかったとき、自分がここにいるのはそれを望み、そうしたいからだと気づいたとき、そしてさらに、ここが自分という存在にとって戻ってくるのに居心地の良い場所だと思っていることに気づいたとき、すべては何も言わずとも理解できるはずなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 206-207

     *****


 23-o[56-l] (この地上に生まれてきたのはここで自己を表現したかったから)

 皆この次元にやってくるのは、ここで生き、ここで自己を表現したいからです。それがすべての人間にとっていちばん大切なことなのです。それがあなたの内に棲む父なるものにとってもいちばん大切なことです。存在が始まってから後に起きることは、何か特定のものにならなければいけないという性質のものではなく、人生のすべての瞬間に、自分がなれる最高のものになるということなのです。それが「創造」です。そして、あなたは必ず創造をしていきます。あなたの内にある神が、そうするようあなたをつき動かすからです。
 あなたがここにいるのは、何か特定の運命のためではなく、生きるためであり、生きている一瞬一瞬に、あなたの創造性あふれる自己が、そしてあなたの魂が強く求めることをしていくためなのです。それがわかれば、創造という領域ではあらゆることすべてが可能になります。言葉では言いつくせぬような世界や人生を創造することができます。自分の命を満たすことができるのです。この明白な自由を持つのを許したとき、あなたは何でも自分が好きなものになることができるのです。そして、自分がそれをすべて体験するのに値するのだとわかったとき、あなたは光り輝き、いつでも好きなときに、何でも好きな望みを満たすのにその光を使うことができるのです。
 皆の次元において最も覚醒した人々の中に、なぜ、ただ施しを受けて生きる放浪者として生きる人がいるのか知っていますか? それは彼らがその瞬間だけに生き、そのとき生きるのに必要なことだけをして、次の場所へと移っていくからです。彼らは数多くの場所に行き、多くのことを見たり、実際にやったり、さまざまな人々に会ったりしてきました。こうして彼らは多大な知識を得るとともに、人間の心についてさまざまな角度からの理解を得てきたのです。彼らはそのままの状態できわめて覚醒した状態にあり、そのままでとても幸せなのです。思うままに生きる自由を自分に許したからなのです。「主よ、でも彼らには何の目的もありません」とあなたは言うかもしれません。彼らの目的とはその瞬間に生きることであり、自分がしたいと思うときに何か新しいこと、冒険的なことに集中することなのです。
 主よ、人生は牢獄となるようにつくられているのではありません。色あざやかでチャレンジにあふれ、数多くのエピソードと冒険が体験できる創造性と自己表現の場となるようにつくられています。そういう体験は、必ずよろこびをもたらすのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 208-209

     *****


 23-p[56-m] (この人生での体験を決定するのは私たちの判断である)

 ―でもラムサ、私は小さいときから、いつもこの場所から離れたいという気持ちがあり、自分の故郷はここではなく、何かほかの場所にあるのではないかと思ってきたのですが。

 それはそのとおりで、確かに別の場所があるのです。生はさまざまなレベル、さまざまな場所で途切れなく続くものです。それはひとつの真実です。
 でも、いまひとつの真実を話します。もし本当にここにいたくないのなら、あなたはここには戻らなかったことでしょう。あなたの存在の内にある生命の力は、さまざまなことを学び、そこから幸福を得るために人生を体験すべくここにいるのです。自分はここに来た何か「高次の存在」で、やってきてはじめてこれがひどい場所であるとわかったのだと思いますか? 「高次の存在」は、どこにいようとも幸福を見いだすものです。
 この次元が困難な時代を迎えるとき、確かにここでの生を少しは耐えやすくしてくれるでしょうから、ほかの場所に行くことを思うのもいいのかもしれません。でも最後は、どこにいようとも、それをどんなものにするかは、自分の選択なのだと私たちは気づくことでしょう。良いも悪いも、幸福も不幸も、わくわくするのも凡庸にするのも、人生の体験を決定するのは私たちの態度であり、判断でしかないのです。
 ここは存在するのにはすばらしい場所です。主よ、そのことがわかれば、あなたは賢き女性になります。別の場所があるのを知っている以上に偉大な美徳とは、この人生を自分の手にとって、それをできるだけすばらしいものにしていくことです。そのあらゆる部分を体験し、それを最高に楽しむことなのです! そうすれば、あなたの存在はこの人生で満たされるようになります。この次元を去るというとき、わざわざここに戻ってこないと体験できないものはもう何もなくなるのです。
 ひとつの方向しか向いていない生き方をし、社会的に受容されるという理由だけでその生き方を続けている人たちは、死に際して苦悩と後悔にさいなまれます。あれをしておくべきだった、これをやるべきだった、あの人を愛しておけばよかった、この人と結婚すべきだった……。こういったすべての「しておけばよかった」ことが、その人をこの場所に戻し、それがすべて満たされるまで「今回はできる」ことを体験させるのです。すべて満たされると、もうここに戻ってくることはありません。

 ―でもそうすると、私はその「しておけばよかった」があったから戻ってきたことになるわけで、それがいったい何だか、いまの私にはわからないのです!

 主よ、それは生きるということです! もしそれではあまりに単純すぎるというのなら、何か生きる理由を自分でつくり出し、心からそれを追い求めなさい。でも、それを満たしてしまったら、今度は何のために生きるのですか?また別の理由、そしてまた別の、また別の、と永遠に続いてしまうわけです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 209-211

     *****


 23-q[56-n] (本当に生きるとはどういうことかがわかること)

 ―すると、このために戻ってきたという特定のものはないわけですね。今回も私が成就できないかもしれないものとか……。

 美しき主よ、叡智というのは蓄積された感情のことです。この次元に来るそれぞれの存在が他と異なっているのはこのためなのです。すでに体験し理解したことは、もう体験しません。なぜなら、もうしたいとは望まないからです。これからまだ理解すべきこと、あるいは自分の命を満たし、智慧を与えてくれると約束することには、あなたはいつも惹かれていきます。それがあなたを誘い、わくわくさせ、神秘の心をくすぐり、そして惑わせるからです。自分を在るがままにして、存在の内から湧き出る欲求、フィーリングに耳を傾ければ、すばらしき自己を、さらなる偉大な叡智と永遠のよろこびへと拡大していくのに必要なことは、あなたはいつも体験していることでしょう。
 さて主よ、あなたの困惑について、ひょっとすると助けになるかもしれない知恵について、お話しましょう。もし存在の理由を必要としているならば、それは永遠というときを通じて、あなたが「在るもの」としてその瞬間だけを生きるということです。それは、「自己への愛」と呼ばれるものです。自分への愛は永遠へと続いていきますが、これやあれになるといった目的は、この生の間に満たされ、次はただ別のものがそれにとって替わるだけのことです。いつのときもあなたとともにあるのはこれしかない、というものは何でしょうか。それは自分をもっと豊かにし、さらに偉大な叡智と自分への深き愛へと広げてくれるものです。つまりそれは、最も厳しい目であるあなた自身の目から見て、自分を最も偉大な人間にしてくれることをしていく、ということなのです。これは永遠に続くものです。主よ、あなたこそが人生の目的なのです。
 これやあれやをしなければならないとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って、在るということに集中するようになれば、それまでとは比べものにならないほどの大いなる幸せと自由を発見します。それは、生の真の状態への解放であり、本当に生きるとはどういうことかがわかることなのです。
 それこそが、あなたの目的です。在ることです!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 211-212

     *****


 23-r (死後もっといい場所に行くのになぜまたこの地上に戻ってくるのか)

 ―この次元を去るとき、私たちは必ずもっといいところに行くとあなたは言いました。

 そのとおりです。この会場を去るとき、あなたはすでに、より偉大な存在へと進みます。あなたの生は、あらゆる瞬間に、その前よりもすばらしくなっていくからです。

 ―ええ、では生まれ変わりのはたらきについて何か教えてくださいませんか。つまり、ここを去ってもっといい場所に行くのに、なぜまたこの次元に戻ってくるのでしょうか。何かを学ぶために帰されるのですか?

 主よ、まずはじめに訊きますが、この場所で将来あなたを待ち受けているもっといいものはないと、どうしてわかるのですか?

 ―それはここに生きることが辛苦であるように思えるからです。対処していかねばならない苦痛や哀しみがたくさんあります。自分自身で多くの苦痛を体験しているのではなくても、そこらじゅうにそれが見えます。ですから、ここには明らかに多くの苦痛があり、これが近い将来ずっと良くなるとは想像しがたいのです。

 ここ地上界にあった最後の「苦痛」は飢餓でした。皆、いつも空腹だったのです。その頃の生活と言えば、一生懸命働いて、ペニーでもルピーでもシェケルでも、とにかく空腹を満たすためのパンの一斤やチーズの一かけ、あるいはまずいワインなどを買うお金を稼ぐことでした。いまの自分たちを見てごらんなさい。皆、脂肪を落とそうと必死になっているではありませんか! 皆が充分に食べられるようになり、小太りになってきたと思ったら、誰かがやってきて「だめだめ、そりゃ美しくないよ」と言うのです。だから今度は、皆、一生懸命飢えようと努力しているというわけです。人生というのはまったく冒険の連続としか言いようがありませんね。
 主よ、この場所での「苦痛」とは、つまり自我というもののことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 233-234

     *****


 23-s (あなたは自分の意思でこの地上に生まれ変わってきた)

 ― ええ、でもあなたの言いたいことがよくわかりません。人生というのは繰り返しなのだと言っているように聞こえます。その繰り返しに終わりはないのでしょうか。

 人生というのは循環ではないし、それが繰り返されることもありません。それはつねに変化していますが、同時にそれは不変となるべく一瞬一瞬、進化しているのです。生はすべてを包括し、それが存在するという事実、その「在るということ」だけで、次の瞬間をつくり出しているのです。それは一瞬一瞬、各々の存在の手で、各人の価値観にしたがって創造されています。変化のサイクルが繰り返しに思えるのは、生に対する見方のためなのです。
 生まれ変わりは確かに真実です。でもそれは単に、生に対する見方が身体が死ぬことを許したために、ひとつの身体を置いて、ここかあるいはこの物質次元のどこかほかの場所で、別の身体を取り上げるだけのことです。
 なぜここに戻ってくるのでしょうか。それは、戻ってきたいからです。あなたは自分がここに戻ってこさせられる、自分がどの次元にいようとも、そこから追い出されて化身に戻り、産道を通る苦労やまわりの自我に完全に依存するという苦労をただ繰り返すだけだと思うのですか?
 ここにあなたを送り出した宣告などありませんでした。あなたに自分の意志に反することをさせられる人は誰ひとりいないからです。ここに戻ろうと決意したのは、あなたです。あなたが再びこの次元で自分を表現したいと望んだのです。ですから、もしあなたが自分のみじめな状況を誰かのせいにしようとするのなら、自分の目をしっかりと見据えなくてはなりません。自分のよろこびも、自分の存在も、自分の悲しみも、あるいはすばらしき人生も、すべてはあなた自身にその責任があるのです。本当に、そろそろこれを皆が知るべき時期にきています。
 この地上界に生まれ変わることを強いられる人は誰もいません。しかし、気の遠くなるほど長い間ここに生きていると、人間はこれが存在のすべてだと思い始めてしまうのです。そして自分の身体を失い、感情的な執着から離れ、いろいろあったおもちゃがなくなってしまうと、もうすぐに大急ぎでここに戻ってきたくなります。ここがただひとつの天国だと思ってしまうからです。だからこそ、その人にとっては実際にそうなるのです。
 あなたがここにいるただひとつの理由とは、あなたが、ここにいたいからです。あなたの存在の内に、ここで満たすべき何かがあるからです。その何かとは、よろこびや悲しみ、憐れみや怒り、あるいは苦痛など、自分がこの幻影の次元で体験したいと思うものを何でも表現する必要性のことです。それを自分の好きなだけ体験するためなのです。それに飽きたりつまらなくなったりしたら、自分の見方を変えて、何かほかの感情を体験するのです。事実はそれほど単純なものなのです。
 ユートピアが、苦痛や悲しみや、地獄のような状況と並んで存在することはあるのでしょうか。もちろんあります。わずかな考え方の違いがそれを隔てているだけなのです。
 あなたがことに戻ってきたのは、神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」の本質を生きるためです。そして、その「在りて在るもの」の本質は、あらゆる人のすべてを内包しています。あらゆる見方・考え方、感情、性格、それにあらゆる状況を網羅しているのです。それは神という思考の領域で創造されるものであり、すべて幻影なのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 234-236

     *****


 23-t (あなたはなぜいまのような自分として生まれてきたのか)

 あなたは自分がなぜいまの自分なのかわかりますか?それはほかの役割はもうほとんど体験してきていて、今回はいまの自分を体験しているからです。なぜ飢えた子どもではなく、いまのような裕福な人間に生まれてきたのでしょうか。それはあなたが裕福な人間になりたがっていた、飢えた子どもだったことがあるからです。だからいまはそうなったのです。なぜあなたは家族を養うためにパンを焼くパン職人ではないのでしょうか。それはあなたがパンを焼いて家族を養っていたパン職人だったことがあるからです。そして今度は、パンを彼から買うほうの存在になっているのです。
 この世界のすばらしいところは、それが途切れなく続いていて、変えることもできるし、何でも自分の好きな役になれることです。そして、生命の場で進化していくにつれて、自分の内面にとって最も重要な学びを与えてくれる幻を演ずるための舞台を提供してくれる局面へと、あなたは進んでいくのです。そしてその舞台では、王様にも乞食にも、愛する者にも愛される者にも、奴隷にも自由な人間にもなれる自由があなたにはあるのです。そこでは、自分の魂がその命を満たすために必要な叡智を提供してくれる幻なら何でも可能なのです。
 主よ、あなたがまだしていない体験はたくさんあります。まだしていないこと、会ったことのない存在がたくさんいるからです。この世界には、必要とするものもきわめて清楚で、崇高で平和な生き方をしている存在がいます。必要なもの、欲しいものは、ただ単に出現させてしまう人たちです。彼らは幸福でよろこびにあふれた生活を送っています。その生き方は、あなたが自分の体験として、まだこれから選んでいくべき思考レベルでの見方であり冒険なのです。
 あなたがまだこれから体現していかなくてはならない叡智はたくさんあります。その中で、最も大事なものは何だと思いますか? ただ生きるという、単純な理由のために生きることなのです。生きることだけのために生きるのは、生について得られる叡智の中で最も偉大なものです。それが平和を知ることができるときだからです。よろこびを知ることができるときなのです。そして主よ、あなたが再び全身全霊で神になることができるときであるのです。
 生についてのこの叡智は、まだあなたがこれから体験すべきものです。それはあなたが、自分がおどかされ、怯えさせられることを許してしまい、人を支える役割、労苦を耐える役割、競争する役割、理想主義的な役割、苦しむ役割、神経症的な役割へと自分を追い込んでしまってきたからです。それを自分の運命と受け容れてきたので、そのとおりになったのです。でも、もし生というものの他の部分を見に行くことを自分に許すならば、こういった役割は、生きる上であなたが持っている選択のわずか一部分にしかすぎないことがわかるでしょう。
 この場所での生は、人類の歴史でいろいろなことがあったにせよ、本当はやはり相当優れたものです。残念なことに、都市に住み、社会意識のどろりとしたよどみの中に生きる者たちは、この場所がみじめでひどいところだと思っています。でも、もしも勇気を出して観念や脅しや人間の限られた意識から離れ、自然の中で自分の内にある神とひとつになって生活することができたならば、生きることはとてもすばらしいのだとわかるでしょう。それは途切れなく続く、無限で美しいものであることがわかるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 236-238

     *****


 23-u (再生を希望しないなら生まれ変わらねばならない理由はない)

 主よ、あなたがここに戻ってきた理由は、生きるためです。しかし、あなたはまだ自分をこの次元に拘束するものから自分を切り離してないので、神と生というものの壮大さを体験していないのです。氷河の上を歩いたり、橋のような形をした岩の下に隠れたり、あるいは冬の窓の外をじっと見つめ、そこに紅冠鳥がとまっているのを見た体験もなければ、砂漠を歩き、食物を求める蛇を見つめたりしたこともないのです。巨大なピラミッドの中でひとり眠ったり、誰も脚を踏み入れたことのないような場所を探検したこともありません。そのような場所はまだたくさんあります。大洋を航海し、大きな魚が飛び跳ねるのを見てもいないし、鹿の後をつけて木漏れ陽のさす森に脚を踏み入れた体験もないことでしょう。
 自分の存在にとって、しびれるような、ぞくぞくするすばらしいことを、あなたはまだあまりしていないのです。そして、そのどれひとつをとってみても、それに比べれば、あなたの仕事や学歴や地位や自動車の年式などどうでもいいことなのです。
 これらはあなたがまだこれから体験していく生の側面です。しかし、実際に体験すれば、それはあなたの神経症や恐れや策略や疑問に思う気持ちなどを、一気に消滅させてしまうことでしょう。そして、よろこびで爆発したいくらいだと思う瞬間が訪れます。
 さて、もしここに戻ってきたくないのなら、戻ってきてはいけません。そうしなくてはならない理由など、絶対にないのです。私は二度と戻ってきませんでした。それは、風とともに昇華し、自分であるものすべてを持っていったからです。そうすることで、私は自由な存在になりました。自由な存在なのです! それは、この場での自分の人生でしたことすべてを超越したからです。自分を許し、この生を受け容れて心に抱き、神になるという、いますべきことへと進んでいったのです。そして、もしこの無知でみじめな蛮人にそれができたのなら、主よ、あなたにもできることは火を見るよりも明らかです。
 この次元での生を終える形というのは、まずそれを生き、愛し、そこにある単純なものの一部となります。次に、生の自由を制限したり、限定したり、あるいは怯えて縮こまらせてしまうような観念を自分の中からなくしていくのです。そして、自分自身の自由の中に生き、自分を愛し、そして自分を他と比べるのをやめるのです。
 社会的なイメージのために生きるのをやめ、自分の内でそれがどんなものであろうとも、自分白身の理想と真実のために生きるようになり、自分という永遠の存在を愛するようになったとき、あなたは草花や魚たちや、まさに生命すべてとひとつになるのです。そうすればあなたはこう言えます。「この体験はもう終わりだ。私はここにあるすべての生命を愛した。だから新たな冒険に進む準備ができたのだ。遠い国々、新しい叡智、そしてこれまでとまったく違う存在の形へと」。こういったことをしたならば、あなたはこの次元を輝く栄光のもとに去ることができるのです。私はそうやってここを去りました。
 私はこの次元を愛する者です。ここにある渓谷をよく歩きます。木々の間をそよぎ、子どもたちの笑い声の一部となるのです。ここで生きることがどんなものか、私は知っています。ここで価値あるものを見逃してはいないからです。しかし、それよりもっと大事なのは、何よりも私が愛する者たち、わが愛する兄弟たちの苦難を知っていることです。そして私には答えがありますが、それは実践されなければほとんど役に立ちません。
 あなたと、そしてほかのすべての人がここで自己を表現している理由は、それをしたいからなのです。それが生まれ変わりです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 238-240

     *****


 23-v[9-y] (あなたの悲しみが他の存在の幸福であることがよくある)

 ―それから、もしできたら、この次元に押し込まれていないときにあなたは何をしているのか話してもらえないでしょうか。

 皆さんがしているのと同じこと、つまり自分を表現しているのです。ただひとつの違いは、皆の表現には制限がありますが、私のにはないということです。私は永遠に手が届くのです。自分の終わりについてはけっして思いめぐらすことはありません。そんなものはないのですから。そして、本当に私は風とともに行きます。それが私の究極の望みでした。
 私は幸せでいます。あなたの人生を見つめ、あの人のも、この人のも見つめています。そしてここでの皆の幻を見て、それは皆にとっては確かに深刻なことばかりで、いわば気持ち悪い色の水でいっぱいですが、私はおかしくて笑ってしまいます。なぜなら、ただもっと見ようとすればいいだけのことで、そうすればもっと豊かなものがあるからです。
 私は自己を表現していて、自分の在るがままで幸せでいます。いま皆が見ている姿ではないとき、私は「在りて在るもの」なのです。すべてのものが生まれてくる場です。第七のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に近づくところまで存在しているすべてのものを内包しています。そして、第七のレベルの存在になると、もはやレベルというものさえありません。ただ存在するだけなのです。そういう意味で、すべてのもの、すべての「知っている状態」、そしてあらゆる思考を体現する感情すべてとなるのです。
 思考そのものになるのがどんなことか思いめぐらしてみてください。思考はどれほど遠くまで移動することができるでしょうか。太陽の表面に思考を置いてみることはできますか。月の裏面はどうでしょうか。あるいはあなたから見える天界の大小の星には? どこかほかの次元にいる別の存在に想念を送ることはできるでしょうか。これはみな、ほんの一瞬もかからずにできることです。そうなれるものを、あなたは自分の内面に持っています。そういう表現をしたがらないのは、あなた自身なのです。いまある状態の表現をしたがっていますから、それはそのとおりになっているのです。

 ―自分がなぜ繰り返し戻ってくるのかわかる時点が、必ずあるはずだと思うのですが……

 あります。それは、幸福と呼ばれるものです。そしてその時点とは、いまの自分よりもなりたい存在などない、いまいるこの場所よりもいたいところはないというときのことです。それがわかる時点です。
 もうひとつ、あなたにとっての悲しみや苦痛が、他の存在の幸福であることがよくあります。ここにいる人は誰でも自分の人生は幸せなのです。皆そのことに気づいていないのですが、それは彼らの幸せの理想像というのが、ピーターパンのおとぎ話に出てくる妖精ティンカーベルよろしく、あちこち忙しく動きまわっては、すこしでも状況をよくしようと、あれを青に、これを紫にピンクにという具合に色を変えているピエロのような存在だからです。
 ここにいる誰もが幸福です。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからです。もし病気になりたければ、病気になっています。もし不幸になりたければ不幸になっているのです。それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸せにしてくれるからなのです。無理に笑わせようとすると、突如として涙を流して泣き崩れてしまう人もいるくらいですから。
 ここにいる誰もが自己を表現し、生を楽しんでいます。もしそうしていなかったら、一瞬のうちにその人は死んでしまうことでしょう。そして、ときが来れば、皆、確かに死にますが、それは自分はそうしなければならないと思っているからです。主よ、ある日あなたもまわりにいる皆を見ているだけで気づくことでしょう。どんな形で自己を表現しているにしても、皆、限りなく幸せだな、と。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 241-243

     *****


 23-w (過去のすべてのあなたは今のあなたほど偉大ではなかった)

 ―もうひとつ質問をしてもいいですか? ほかの生で私がいろいろな人間だったと言われましたが、過去世で私がどんな人間だったかを教えてもらえるでしょうか。

 主よ、もしあなたの「記録」と呼ばれているものをすべて詳細にわたって取り出し、それを話そうとしたら、あなたの次の生までここにいることになってしまうでしょう。あなたの生の数は二万三百四十六と半分です。ですから、あなたの過去について語るなら、どの時代の、どの国で、どの幻像についてなのかを決めてもらわなくてはなりません。そうすればそれを取り出してくることができます。
 しかし、主よ、自分の人生が凡庸で感情に欠けていると思っている人たちの多くが、過去に凝った想像を働かせていることに私は気がつきました。過去には、彼らが今の生にないと感じている人生の躍動感、あるいは自愛の念があると見ているからです。そして、過去についてこれ以上はないと思えるほどロマンチックで英雄的な空想をします。ここでの人生が退屈でつまらないものであるとき、自分は戦で勇敢に戦い、自分のために泣いた女をたくさん残してきたのだといつでも結論づけることができるからです。そして自分が凱旋してきたときには、町中がこれを祝い、そのお祝いは長い長い時間続いたというわけです。あるいは、その時代、自分は世界中のどんな女性よりも美しく、あらゆる男性は自分の恋人だったというのかもしれません。
 さて、これは皆に理解してほしいことです。皆はそれぞれ数多くの生を生きてきました。その生は、華々しくてロマンチックなものであり、みじめで野蛮なものであり、有名人であり、悪名高い人間でもありました。しかし、過去のすべての自分も、いまのあなたほど偉大ではなかったのです。このいまという瞬間、主よ、あなたはこれまでで最も偉大な存在なのです。なぜなら、いまのあなたは、これまで生きてきたすべての生の知識と体験の集大成であるからです。主よ、いまというのが、これまであったすべての目的だったのです。
 いまの自分の仮面や幻像や体験にかかわらず、あなたが現在のあなたほど優れた存在であったことはこれまでないのです。あなたがいま、有している智慧、知識、そして愛は、これまでよりもずっと大きなものだからです。もし私があなたを、五つ前の過去世まで「後退」させたとしたら、あなたは自分が誰だかわからないでしょう。なぜなら、あなたは自己という要素を、過去の自己では認識できないところまで進化させてきたからです。これまでに生きた生で自分だった人間が今日のあなたを見たとしたら、あなたのことを勇敢な人間、天才、異端者と呼ぶことでしょう。あなたを「取り憑かれた」人間と呼ぶでしょう。あなたの叡智が自分の時代のものよりもはるかに偉大だからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 243-244

     *****


 23-x (過去生での自分を見ようとするのは賢いことではない)

 過去に自分がどんな人間だったかを見るのは賢いことではありません。過去に答えを求めると、あなたは生のこの瞬間をけっして体験することはなく、いまが持っている未来についての答えも体験することはできません。自分がうしろを向いているために、それがやってきても見ることができないからです。主よ、あなたは過去に自分が誰だったのか知りたがっているというのに、いまの自分が誰かさえ知らないのです。
 過去に自分が生きてきたことを知るのはいいことです。それはこれからやってくる明日に希望を持たせてくれるからです。しかし、そういうすべての体験に生きていた根本的な美は、あなたの内面でいまでもまだ静かに考えながら、ある悟りへと目覚めるのを待っています。自分は、好きなように生を創造し、自分の命を満たしていく力と選択を持つ偉大なる神なのだという悟りなのです。
 このいまという瞬間に生きることを学ぶことです。いまというときは、いわば処女領域なのです。何でも許される瞬間なのです。あなたが自分の態度を通して、その処女領域である時間を、自分がこうだと決めたものにするのです。不愉快になったり、苦痛や哀しみを感じたり、みじめになったりすることもできます。それはすべてほんの一瞬でできることなのです。あるいは、次の瞬間に自分の態度を変え、美しく、自由で魅惑的、幸せでよろこびと歓喜にあふれる自分になることもできます。すべてはその瞬間に起きることです。さらに次の瞬間には、前の二つにはまったく影響されず、厳粛、聡明で、何にでも一生懸命取り組み、良心の珂責の意識を持つ人間になるなど、とにかく何でも自分が望むものになれるのです。
 大事なことは、いまの自分が誰なのかを知り、この人生で幸せになるよう何か行動を起こすことです。もし将来の生で、今回の生を覚えていてほしいと思うなら、一つひとつの瞬間を感慨深いものにして、魂の内でそれがいつもあざやかなままで残るようにするのです。無限へと生きていくことを願うなら、まずこの瞬間の一つひとつをフルに生きることを学ばなくてはなりません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 244-246

     *****


 23-y (未来のあなたは皮膚の色や顔が変わってもいつもあなたのまま)

 一私の未来には何が見えるか教えてもらうことはできるでしょうか。

 あなたが未来に誰になるかですか? あなたはいつもあなたのままです。目や皮膚の色、それに顔となる仮面は変わりますが、あなたはいつもあなたなのです。いつも同じ魂、存在の中に同じ神、同じ精神を持っています。次の生では、それが何であろうと、あなたが自分で演じようと決めた幻像の人物となります。そしてもしそれがこの地上界であれば、あなたは出生の過程を通り、自分独自の計画にもとづいて子宮の果実を創造して、その存在の中であなたが自分のために設定したゲームや幻影をすべて満たすようにしていくのです。あるいは、単に幻はなしで、さらに偉大なる叡智へと進んでいくこともできます。
 主よ、いまという瞬間に生きることを学びなさい。この人生で堂々たる存在となり、あなたを体験するのです。風に乗り、想念で月へと航海しなさい。あなたのすばらしき想念を太陽のもとに置き、あなたが誰かを知らしめるのです。星の上に腰かけなさい。水に語りかけるのです。それがすべてあなたであり、すべて神であり、すべて生というものなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 246

     *****


 23-z (あなたはいま自分の「神なる状態」へと進んでいる)

 ―ありがとうございます。最後の質問がひとつあります。私がどの次元に進もうとしているのか教えてもらえるでしょうか。

 神へ、です。自分の「神なる状態」へと進んでいるのです。神であることに向かって進んでいるのです。自分の神なる状態を進化させているのです。あなたはこの場所に神としてやってきて、飢えや暑さや寒さ、それに領土の境界線など、肉体界のもろもろに巻き込まれてしまいました。そして、自分の神性、力、それにすべてを内包し、すべてよりも賢い知性である自分の姿を忘れ去ってしまったのです。それがあなたとこの次元とのつながりをつくり出しましたが、この次元もまた第七のレベルに向かって進化しているのです。
 あなたは第七の叡智、つまりすべての内にある神を知るという次元に向かって進んでいます。そして、その知識の頂点にあるのが、それを与える者、つまりあなたなのです。完璧にそうなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 246-247














 24. 繁栄と滅亡をくり返す人類

 なぜ私の話が一五パーセントの人々にしか理解されないか。それには理由があるが、その前に少しふれておかなければならないことがある。
 かつて私は、次のような疑問をいだいてきた。

 @人類が地球上に誕生したのは、いまから約三〇〇万年前とされている。それから現在にいたるまで、人類の文明は三〇〇万年もかけて、原始時代の幼稚な文明から現代の華々しい科学文明へと、ほんの少しずつ進歩してきたのだろうか。
 A周知のように現在の文明は、ここわずか一〇〇年の間に異常な変貌をとげている。この物質文明は、人類にとって最初のものであろうか。
 B現在の文明がわずか一〇〇年あまりで開花したものであるならば、一〇万年もあれば、もっと発達した文明が過去にあってもよいはずではなかろうか。
 
 これらの疑問に対し、やがて生命体から明快な答えが得られるようになった。その答えとは、「実は、一〇万年以上も前に、人類は現在と同じ文明をもっていた。人類は、それまでにも何度か、発達した物質文明によって滅亡をくり返していた」というものである。
 これを裏付けるような調査結果がしだいに現れ始めた。
 いまから十数年前、京都大学と大阪大学が共同して、琵琶湖の湖底を二五〇メートルほどボーリングし、地層を調べたことがある。その結果、日本には、一一万年前、一八万年前、二五万年前、三五万年前に、それぞれ氷河期があったことが判明した。
 それに触発され、同じ頃にアメリカでも同様の発掘調査が行われた。しばらくして一一万年前の地層から、現在使われているコンピュータとほぼ同じコンピュータの一部、それに乾電池が発見されたという報告が、アメリカの学会から私のもとにもたらされた。それに伴い、コンピュータがあるくらいなら当時すでに自動車も飛行機も、原水爆もあったのではないか、という推測が芽生えてくるようになったのである。
 生命体は、はっきりとこういっている。「一〇万年以上も前の大昔も、いまと同じような物質文明が発達し、その結果、人類は滅んだ。ガソリンエンジンをつくって、石油を燃やし、空気を汚染してしまったことなどから、氷河期をまねいたのがその主な原因であった」と。事実、私の発明の多くは、その頃の人類が使っていたものの現世における再現にすぎない。
 現在の自然と文明の関係はどうであろうか。科学がそれほど発達していなかった頃は、動物が排出した炭酸ガスを植物が吸収して酸素に変え、その酸素を動物が吸うといったように、空気もきちんと循環していた。それが石油の大量消費などによって、一気に何万年分かの炭酸ガスを排出するようになり、空気がうまく循環できなくなってしまっている。それが現実の姿である。
 現代の科学技術は、単に便利でさえあれば、周囲にどういう悪影響をもたらすかということをいっさい考慮せず、環境を破壊するような道具や機械でも、委細かまわずどんどん生産し続けてきた。たとえば、なぜ初めからガソリンエンジンを使わない、空気を汚染しない車を発明しなかったのか。結局、現在の物理化学は、精神論を内に全く含んでいないからである。かつて滅んだ文朋も、まさにそうであった。
 こうして人類は、過去に四回も高度な文明を獲得し、そのつど、自ら生み出した科学によって滅んできたのである。

 政木和三『この世に不可能はない』サンマーク出版、1997、
        pp.122-125.








 25. 法・裁き・賞罰


 25-a (ほとんどの法律は人を胴喝し隷属させる目的でつくられていった)

 ―あなたが言っているのは、ある特定の生き方をする必要はない、何になっても何をしてもいいし、要するに「何でもOK」に聞こえます。

 まったくそのとおりです!あなたに対する父の愛とはそういうものなのです。

 ―それなら、生きる目的というのは何ですか

 生きる目的というのは、生という場に、自分の存在の内にある想念を何でも表現していくということです。そして、それがどんな形で表れてこようとも、いつでも自分の望みどおりの瞬間にそれを変える選択があるのだと知っていてください。
 生きる目的というのは、その一部となること、その中心にいること、そしてそれを輝かせることです。生きていくこと、一瞬一瞬、人生が自分の内面で花開き展開していくにつれて、そのときに自分が望むものになること以外にあなたの運命はないのです。その目的を満たしていく中で、自分の望むとおりのものになり、望むとおりのことをし、望むとおりのものでいられる限りなき自由があなたにはあるのを知ることです。

 ―でも、何でもできるとすると、中には聖書にある神の法に反するものも出てくるのではないでしょうか。

 わが美しき主よ、あなたの愛する父は法など何もつくっていないのです。ただひとつを除いては。その法とは、あなたの崇高なる意志にしたがって自分の生を表現すべし、というものです。自分の意志を行使するという行為を通じてのみ、あなたは父そのものであるすべての生命の意識を拡張できるからです。もし父なる神が法をつくる存在であったなら、生命の進化と、その存在が永続していくのを可能にする表現の自由を、あなたが(ということは神自身が)有するのを阻んでしまったことでしょう。もしそうしたなら、神は限定された「源」、ひとつの終焉となってしまっていたはずです!
 聖書に書かれ、あなたが「神の法」と呼んでいるものは、実は数多くの法律です。預言者がそれぞれ法を加えていったからです。確かにそれは、「神の法」によれば、こうだとかああだとか、これを制限しているとか、あれをしなければならないといったことを語る強力な言葉となってきました。この、皆が「神の法」と呼ぶもののおかげで、人々は神に身を委ね、神を恐れるようになったのです。子どもたちは親を恐れるのではなく、親のようになることを教えられました。
 父なる神に法はないのです。法をつくるのは人間であって、神ではありません。父は人間に自由意志を与え、自分の世界で正当な法を与えることのできるただひとつの存在としました。すべての生命についての理解が進化していく中で、自分の世界にふさわしい信念、真実、あるいは価値観は何でも思考からつくり出せるという自由を与えたのです。人間はこの自由を用いて、社会に生きていくために必要と考えられた法律をつくり出しました。しかし、残念ながらほとんどの法律は、人を胴喝し、隷属させる目的で情け容赦なくつくられていったものです。自由を高めるためではなく、制限するためにつくられたのです。人間が無法状態に自分を置くことを許さないのは、自分という存在を恐れるあまり、自分自身を治める法律がなければならないと考えているからです。それは、自分の無限性と神性を理解していないだけなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 181-183

     *****


 25-b[42-b] (すべてを包含する宇宙から見ると悪というものはない)

 ―でもラムサ、もし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現して悪いことをしてしまうのをどう防ぐのでしょうか。

 よく聞きなさい。すべてを包含する宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は魂が邪悪であると記されていますが、そうではありません。人間の魂は神なるものです。なぜなら、その魂、そして人間の存在そのものすべてが神だからです。もしそれが神でないとしたら、それはいったいどこからやってきたというのでしょうか。
 父なるもの、存在自体の管轄外にあるものはないのです。ひとつとしてありません。悪である、間違っていると誰かが判断した想念や行為は、意識の中では生きているものです。そしてもし意識の中で生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。すべては神の一部ですから、もし何かひとつが悪であると言うなら、それは神もまた悪であると言っていることになります。神は悪ではありません!でも、神は善でもないのです。なぜなら、善というものの境界を定めるためには、悪、あるいは邪悪なものという考えに対比して判断しなければならなくなるからです。
 神は善でも悪でもありません。神は悪でないのとまったく同じように善でもないのです。そして神は完壁でもありません。父なるものはただ在るのです。すべての生命の「在るということ」であり、自身を知るためによろこびを得るということ自体のよろこびのために生きる「いまという瞬間の表現」なのです。そしてこの生の本質には、その壷をいいとか悪いとか、邪悪とか神なるものとか、あるいは完全か不完全かとかを判断することによって、ただ在るという状態から脱して何か他のものに変容するということはできないのです。
 神が世界を見下ろして、「これは邪悪だ」と言うことができたらどうなるかわかりますか?意識というもの全体、つまり、表現する必要があるものを表現しているすべてが、生の流れから消滅してしまうのです。もしこれが起きたら、生とその途切れない広がりが存在しなくなります。もともと創造を可能にしている自由意志が存在しなくなるからです。しかし、神は、完全に無限の「在るということ」、そしてその分かつことのできない全体性なのです。ですから、神は、制限を課すような限られた見方で自分自身を見つめることはできないのです。もしそれができたとしたなら、あなたはここにいることも、自分や自分の兄弟を判断するといったひとつの選択肢を体現していることもなかったでしょう。
 主よ、善も悪もないのです。あるのは「在るということ」だけです。「在るということ」では、すべてのものは、その部を満たしたかどうかだけで見られます。その魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るのです。あなたがこれまでしてきたことはすべて、たとえそれをどんなに美しいもの、あるいは卑しいものとあなた自身が判断してきたとしても、それはただ知るということのためだけにしてきたことなのです。何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしたことなのです。それを実際にしてみることによって、はじめてあなたはそれをすることの価値に気づき、またその価値を確かめることができて、そこから何かを得られたのです。それは邪悪でもないし、よこしまなことでもありません。それが神になるために必要なことなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 183-185

     *****


 25-c[42-c] (もし善と悪があると信じるのならそれはあなたにとっての真実である)

 神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。人間は、その創造性を駆使して善悪のバランスを編み出し、自分の同胞たちから表現の自由を奪ってきました。宗教的な教義や政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰への恐れは、もう長い間、国家を支配し統率するための剣として使われてきました。そして、もし皆の言葉で「邪悪」と呼んでいるものがあるとしたら、それは存在の内にある神を表現する自由を人から奪ってしまうことです。そして、自分の同胞に対してこれをするたびに、実は、自分にも同じことをしているのです。それもさらに深い影響を受ける形で同じことが起きます。なぜなら、他の人間に対して下す審判や制限は、自分の意識の内面でもやはりひとつの法となるからです。その法によって、あなた自身も自分に限界を設け、自分に審判を下すことになるからなのです。
 人間は魂が邪悪なわけではありません。悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みのなかでは悪というものはないのです。人間に自分の好きなものを思考から創造させるという選択を可能にしている生の場があるだけです。それだけが存在する現実なのです。この現実において神は、迷信、教義上の信念や、きわめて限定され、せばめられた人類の考え方を通して、悪という幻想の存在を許しているのです。悪を長い間観察し、判断し、期待し続けたことによって、確かに悪は人の現実の中に存在していますが、それはその人の現実だけのことです。その人が信じるようにその世界もなるのですから。
 法で存在するのは、自分の人生においてあなた自身が創造し、効力を発するとしたものだけです。もし善と悪があると信じることを選ぶのなら、それはあなたの真実であり、それはそれで間違ってなどいません。でもひとつ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であり、私のものでも誰のものでもないことです。もしそれが確かにあなたのものならば、もともとあなたの意見の中で形づくられたのですから、そのすべてがあなたに属していることになります。その意見を持っている限り、それは確実に現実のものであり続けます。それを信じなくなれば、現実でもなくなるのです。ただ単にそういうことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 185-186

     *****


 25-d[42-d] (命を奪われた者はまた何度も何度もこの地上へ戻ってくる)

 さて主よ、あなたが悪と思っているものは何か教えてください。悪いものとは何だと理解していますか?

 ―そうですね、それは善の反対だということでしょう。でも、ふつうはやはりほかの人に危害を加えることが悪だと思っています。

 そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか。

 ―たとえば誰かが私の娘に危害を加えたとすると、それは悪です。なぜかといえば……もし娘が死んだりしたら……。

 それは悪についてのあなたの判断ですね。でも、死ぬということがなぜ悪なのですか。

 ―ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うわけですね。

 そのとおりです。それは、ひとつのものが終わるという考えで自分に限界をつくることはしないからです。何ひとつとして、消滅するものはないのです。ひとつもありません! すると、もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか。
 父なる存在は、その在るということ、それに途切れなき生の永続性において、すべてが存在できるという保証を危うくするような、自分より偉大な存在など何ひとつつくり出してはいません。父が創造したものには、何ひとつとして消滅するものはないのです。それはすべて永遠に生き続けます。ですから、あなたの子どもも、消滅するのではありません。神の生命を消滅させられるものは何もないからです。

 ―あなたは、ほんとうに殺人でさえも間違ったことではない、悪ではないというのですか。

 そのとおりです。
 主よ、生は途切れなく続くものです。それはずっとずっと続いていくものなのです。そしてこの瞬間から次の瞬間へと生の場で自己を表現していく中で、私たちには人生の一つひとつの瞬間を幸福で満たす機会が無限にあります。しかし、自分の生の時間をどう満たすことを選ぼうとも、それは必ず、その人の意志と望み、そして自分の存在にとっていいと見たことにしたがったものとなるのです。もし、ある瞬間に、ひとりの存在が他の命を奪うことを選んだとしたら、次の瞬間、その人は強烈な罪悪感と自分に対する審判、そして、その行為が必ず自分のところにはね返ってくるという恐怖の念のもとで生きることになります。ですから、その人間のこれから先の時間はけっして安寧なものではありません。自分の行ないを許さない限りは……。
 この命を奪った者を忌まわしく思い、審判を下し、罵る人もたくさんいることでしょう。でも、私はこの他人を殺めた人間を愛します。愛さない、ということがどうしてできるでしょうか? この人間が、神の摂理、生、そして神の驚異の中には入っていないとでも言うのでしょうか。いいえ、主よ、そんなことはありません。
 命を奪われた者は、また何度も何度も戻ってくるのです。生とは永遠だからです。それは継続するのです。それは、ただひとつ永遠であるものですが、また同時にすべてのものでもあります。もし私がこの行ないを憎悪し、命を奪った者に審判を下したとしたら、それは自分に審判を下していることになるのです。その人はすでに自分自身に対する審判をつくり出しています。自分の行為については自分の価値判断のもとにあり、これから先、自分自身の思考と感情の世界で、それに直面し、対処していかなくてはならないからです。
 私はその行ないを憎悪しません。それを論証し、理解し、そして超越したのです。命を奪う者の行為を断罪すれば、私はそれより偉大な存在ではなくなります。これだけは確かです。そして、私の人生はその審判によって影響されるようになるのです。なぜかと言えば、「偉大なる在りて在るもの」である私が、自分の一部をわが存在から切り離してしまったことになるからです。すると私はもはやひとつの全き存在ではなくなってしまうのです。わかりますか?
 このようなものを目にするとき、そこではひとつの命が満たされるという過程が起きているのです。一瞬一瞬ごとに、私たちには、自分が何かに駆られるような形、あるいは目覚めさせられるよぅな形で自分の命を満たすことができるという選択があります。これは私たちが選ぶことなのです。これだけが人間が持っている「共和国」なのです。自分の内面奥深くにある共和国です。政府は法律や規則にしたがって大衆を治めようとするでしょう。しかし、ある存在の内面にある静謐な思考過程の中ではたらく意志を治めることは絶対にできないのです。それができるのは、その存在自身だけです。そしてその人間は、自分の感情の状態にしたがい、個々の瞬間のバランスをとって生きていくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 186-189

     *****


 25-e[50-b] (カルマ的つながりは必要性を宗教的に説明しているにすぎない)

 ―最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。

 彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?

 ―でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。

 主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 191-192

     *****


 25-f[50-c] (皆がカルマと呼ぶものは神の法ではない)

 ―なるほど。言わんとしていることはわかるような気がします。でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。

 あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。それを信じる人たちの法なのです。残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完璧という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょぅか。カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。それは一人ひとりが責を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
 カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。その信念に力を与えたからです。そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 192-193

     *****


 25-g[50-d] (カルマは存在せず気まぐれな欲求だけが存在する)

 私は、カルマ、あるいは完璧という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。完璧というものはありません。あるのは、「在るということ」だけです。生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。ですから、完璧な状態というのは、けっして達成されはしないのです。
 私が認めるのは「在るということ」だけです。そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。
 あなたは自由な魂であり精神なのです。あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。あなたにはそれをする限りない力があるからです。
 カルマは存在しません。欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 193-194

     *****


 25-h[50-e] (あなたが自分の運命を支配し人生を創造している)

 殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。それは永遠のものでも永遠の状況でもありません。ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。
 あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか? なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。
 誰があなたの運命をつくり出していると思いますか? 多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。それは途切れなく続いているのだということです。そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それは昨日にとらわれているわけではありません。あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。それが父なる存在のあなたへの愛なのです。それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 194-195

     *****


 25-i[50-f] (あなたは過去の行為について償いをする必要はない)

 誰も過去に支配されている人はいません。一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。いつのことについてもです。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。
 過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。
 主よ、でもその過去はもう終わっているのです。それはもうここにはありません。過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。過去のおかげで得られたのはそれなのです。だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。
 実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。
 あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。それなのにあなたは完璧を求めるように言われているのです! いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 195-197











 26.












 27. 無知・迷妄・迷信


 27-a [46-b] (霊的真理に無知のまま霊界で眠り続ける無数の人たち)

 もしそこを見れば大きな悲しみをもたらすであろう次元について、ひとつだけ話しましょう。そこは、意識の第一、第二のレベルを表現している存在たちの次元です。そこは平野のような平らな場所です。そこには何があるのでしょうか。山々や川、草花や空が光の状態でいる姿はありません。何十億という存在が、その光の化身の形のままで、無限に続く列をなしている姿があるのです。彼らは眠りの状態でそこに横たわり、自分たちは死んでいるという幻影の中に生きているのです。なぜなら、この人たちは、墓場の先に生命はあり得ないと固く信じているからです。思考はいまでも生きていて、磁気を発し、衝動も持ち、活発なのに、そのエネルギーのレベルでは、自分が死んでいると思い込んでいるのです。でも、実はまだ本当に生きているのです。ひとつだけは覚えておくことです。どんなことであろうと、私たちが固く信じることは、それが真理であると自らを必ず納得させてしまうものなのです。そして、真理であると知っていることは、すべて現実の姿へと変容します。私たちの創造性、そして意志は、それほど強い力を持つものなのです。
 この次元にいる皆の多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、死んだ状態のままでいると教えられました。そして神の愛から断絶されるという恐れの気持ちから、この教えを真理として受け容れたのです。こうして、死を目前にしたとき、彼らは復活を待つ場所に行くのだと信じました。そのために、このレベルでは、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待つ存在が、何列にも何列にも並んでいるのです。私たちは彼らを目覚めさせようともしました。実際にひとにぎりの存在が目覚め、起き上がりました。しかしまた、彼らのほとんどは、何か悪魔のようなものが、自分たちを誘惑し、起こそうとするとも教えられてきています。これも、彼らは真実として知ってしまっていることです。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのです! 自分が生きていることに気づき、眠りから覚めるのに、まだ何千年とかかってしまうのかもしれません。本当に残念な教えだったと言えます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 91-92

     *****


 27-b (文化人・知識人はしばしば無知である)

 粗方の苦労知らずは、この世の事共も又知らぬ。知らぬ者は、無知蒙昧の輩であり例外なく傲慢である。傲慢なる者は己れの卑小さに気附かずに居る。この類の人間は主に中途半端な小者のエセインテリに多く見受けられる。科学者だの医者だの学者だの文化人・知識人と呼ばれるジャンルの人間達であるか、はたまた実利一方主義の無教養で頑固な蛮族で有る。
「そんな馬鹿な、この近代科学の世の中に、科学で実証出来ないものを信じるなんて、貴方の妄想か、精神の疲労か混乱から来てるんですよ」と高所から宣うのである。だが私が、「はい然様で御座んすか、それ程、科学様は御偉くて万能でオールマイティーでいらっしゃるんですかね。科学様がお認めにならぬものは一切この世にあってはならぬものなんですかね」とやり返すと大方の人は黙ってしまう。
 この宇宙、この世界、この国、この町、この家、この躰、これ等の事共のどれ程を人間が知っているというのであろうか。或る医大の教授が、「今の科学じゃ人間の体の仕組は未だ三十パーセントも解っちゃいないんですよ」とおっしゃっておられたが、これは正直で謙虚な方である。通常の医者や科学者は、超常現象や己れの無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それを認めれば科学者として医師としての負けだ。それ等を否定する事こそ立派な科学者で常識ある人間だと思い込んでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷と云う事は愚か者だと云う事である。聡明なる御仁は素直で謙虚である。「超常現象なんてあるわけはありません」とそれに対する勉強も研究も体験もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。

  美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
   佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
       pp.152-153 に所収。   
 



 28. 



 29. 霊能者について


 B29-a 霊能者の慈愛に触れる)

 浜玉町からやっと帰ったその日から、家中、到る所で大きなラップ音が始まった。一番ひどいのは私の寝室で、木材をへし折るような音は絶え間なく、音ばかりか電気スタンドがついたり消えたり、電源を切ってある加湿器がポチャポチャと水音を立て、水がなくなった印の赤ランプが点る。そして浜玉町で味わった脱力感・不安、心臓の異常感がきた。あいにく娘はパリへ行っていない。
 私は渾身の力を奮い起して「南無妙法蓮華経」を唱誦し、部屋が霞むほどに線香を燃やした。お題目を唱える時は最初、大声を出して相手のエネルギーを壊し、それから慈悲心をもって静かに諭すように唱えなさいと教えられていたが、もう慈悲心どころではなくなった。喧嘩腰である。闘いである。ここで弱気を出したらやられてしまう。勝つか負けるか。まさに「どたん場」という気持だった。
 朝になるのを待ちかねて私は美輪さんに電話をかけた。すると美輪さんはいつもの、こともなげな口調でいった。
「おやおや、佐藤さん、またいろいろ憑けて来たのねえ。鎧冑の武将と、それから、これは何だろう・・・・・・黒い丸い帽子の真中にトンガリがついているのをかぶってる・・・・・・ああ、わかった、蒙古の兵隊よ。元寇の役の時かしら。肩から袈裟がけに斬られてるわ・・・・・・」
 元寇の役で殺られた蒙古兵だとすると、およそ七百年も昔から浮遊している霊ではないか。その間、玄界灘のあたりは幾千万の人が通っている筈なのに、どうしてその間、誰にも憑かず今になってこの私に憑くのだろう。その私の疑問に対して美輪さんはあっさり、
「そういうものなのよ」
 といって笑う。払ってあげるといわれて私は美輪さんの家へとんで行った。祭壇がしつらえてある部屋で、お経を上げる芙輪さんの後ろに虚脱したように坐っていた。悪夢の中にいるようだった。しかしそのうち、なぜだ、なぜこんなことになるのかという怒りに似た思いは少しずつ消えて行き、私の頬を涙が伝い出した。美輪さんの慈愛が胸に染みた。なぜ美輪さんがさほど親しくもなかった私のために、ここまでしてくれるのか、それに思い到った時、凍土に春の雨が染みて行くように、私の心は潤ってやわらかくなった。
 今から思うと美輪明宏さんは私の人生が変って行く最初の案内者だった。私が美輪さんのすべての言葉を疑わずにそっくり受け取ったのは、彼の霊能力への信頼というよりもあの華美な装いの奥にある「慈愛」ゆえだったと思う。それに触れたことによって、私は胸の奥底に慈愛を秘めている人の心に敏感になった。いかに霊能に優れていても、慈愛のない霊能者はまことの霊能者とはいい難いのだ。霊能は神から与えられた能力、使命として与えられた力なのである。だから金や名声への欲望のために使ってはならないものなのだ。

  佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002、pp.37-39

     *****


 B29-b (霊能者は盗難などを正確に解明できるか)

 その答えが、正確である、正確でない、というより以前に、そうした霊能で犯人や罪人を指摘したりすること、自体が、神の意志にそうことではなかろう、と私は思う。
 霊能は、神から来るものでなければならぬ。たとえ、それが、神霊直接でなく、もっと低い霊界からの指導であってもよいが、その指導は、常に、弟子あるいは聴聞者の魂の進歩に役立つものでなければならぬ。ただ、たんに犯人を指摘して、罪人を造る手伝いをすること、つまり人を裁くことを、一人の人間や、一つの家のためにやったりすることは、霊能者の本来性から外れている。霊能者は本来宗教者であるべきなので、単なる当て物やになったら、まして 人を傷つけるために役立つようになったら、神の心から、まるで離れた存在になってしまう。この意味をまず知ってもらって、問の答にうつろう。
 その犯人は何歳位の、こうした顔立ち等と、答える場合、本当にその人の場合もあればあるいは、聞く人の潜在意識をみて、聞く人が、あの人が怪しい、と写っているような人を名指したり、指摘したりすることが多いのである。その場合、その行者(霊能者)はその答えが、聞く人が怪しい、と思っているから、とそれに合わせていうわけではなく、その答えが神のお告げである、と信じていう場合が多いから困りものなのである。
 そのような問に答えて、犯人を指摘するような行者は、低い階層の人なので、真の神示も幽界の霊魂の念をも見分けができず、口から出る言葉は、すべて神のお告げだと信じているものである。だから、盗難など、そうした行者などに尋ねたりするものではなく、自己の心を省みて、何か心の間違いがあったらお許し下さいと、一人座して、神(守護霊、守護神)に祈るべきである。そうすれば、出るほうが、その人のためによければ、出てくるし、出ぬほうがその人のためになるなら、出て来ぬものなのである。物が失くなることより、右往左往して心を乱すほうが、よほど大きな損失である。その人に必要であるものは必ず返ってくるものである。私が、そうしたことを尋ねられたら、私はまず黙って祈ってやり、返るものなら、返る、返らぬ物なら、返らぬ、とはっきり答えるだけで、犯人のことなどには一言も触れぬことにしている。その盗られた、という因縁がなんであるかはわからなくとも、何かの因縁に違いないのだから、その因縁のため、人騒がせしたことを詫びながら、因縁の消え去ってゆくことを念じれば、大体盗られた物は返ってくるものである。禍を縁として、常に福に転じられるように心掛け、修練することが、人間にとって必要なことである。

   五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
     1988、pp.110-112






 30.







 31.オーラ


 31-a[35-c] (あなたには知るのが可能なことはすべて知り得る力がある)

 あなたには、すべてを知るべくして知る力がある、というのはどういうことだろうか。あなたの肉体は、オーラ、あるいはオーラの場と呼ばれるすばらしい光の場で包まれている。オーラとは、あなたの化身の物質を包み、それをひとつにまとめている光の場のことだ。キルリアン写真という手段を通じて、皆の世界の科学者は、オーラの最初の光の輪の場をすでにカメラに収めている。だが、あなたの体を包んでいる電磁場はまだある。オーラというのは、電気の密度(身体を包んでいる青色の光の輪)から、思考まで無限に続いているものだからだ。
 オーラはあなたの存在の精神だ。あなたの存在の精神、あるいは私があなたの存在の神と呼んでいるものは、すべてのものを知る大きな意識の流れである神の心と直接つながっている。オーラの一部は、きわめて強いプラスとマイナスの電磁場だ。この電磁場を越えると、電磁場には極というものがなくなり、ひとつの光の領域、純粋なエネルギーとなる。この光の領域は、「知っている状態」から発生するすべての想念を、この広大で強力な場の中を通過させる。どの想念があなたに知られるようになるかは、あなたの思考過程によって決められているのだ。あなたのオーラの中の電磁場である部分が、あなたの思考にしたがって特定の想念を引きつけるからである。
 あなたの精神は、けっして動きを止めず、変化を続けていく思考という河の瀬にあるふるいのようなものだ。精神という光を通して、あなたはすべての知識が存在している場所である思考の流れ、すなわち神の心を受け取る立場にある。つまり、あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る力を持っていることになる。なぜなら、あなたは知識の河、すなわちすべての意識の途切れなき流れの中に存在しているからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 246-247















 32. (地球外生命)






 33. 体外離脱

 33-a (体外離脱とはなにか)

 体外離脱(OOBE=Out of Body Experience) とはどういうことか。このテーマにまだ出遭ったことのない人たちのために説明させていただくと、体脱体験とは、完全に意識があるまま、自分が自分の肉体の外にいることに気がつき、(いくつかの例外はあるが)あたかも肉体的にも機能しているがごとく物事を感知したり、また行動したりすることだ。空間(時間も?)をゆっくり移動したり、明らかに光速以上のスピードで動いたりできる。物質、例えば壁、鉄鋼板、コンクリート、土、海洋、大気、更には放射線の中さえまでも何の努力もせず、何の影響も受けず動き回ることができるのだ。
 ドアを開ける手間もかけず隣の部屋に行ったり、三千マイルも離れた所に住む友人を訪ねることができる。興味が湧けば、月世界、太陽系、更には銀河系をも探索できる。または・・・・・・我々の時空間意識ではぼんやりとしか感知されていなかったり、論理化されていない異種のリアリティを持つシステムに入り込むこともできる。
 こうしたことは新しい現象ではないのだ。最近行なわれた調査によると人口の全体の二十五バーセソトの人間が少なくとも一回はこのような経験をしているという。人類の歴史にはこうした体験談がたくさんある。初期の文献ではこうした経験は普通「幽体離脱」と名付けられていた。私はこの用語がオカルト的意味合いを持ち、我々の基準からすると確かに非科学的と言えるので、まずこの言葉を拒否して、使わないところから始めた。心理学者で私の友人であるチャールズ・タートは私たちが六十年代に一緒に研究していた時に「体外離脱」という用語を普及させた。過去二十年の内にこの言葉は西洋においてこの特別な状態を表現する一般的な用語として受け入れられるようになった。

  ロバート・A・モンロー『魂の体外旅行』(坂場順子訳)
  日本教文社、1992、p.3

  私注:Robert A. Monroe=オハイオ州立大学で工学と
     ジャーナリズムを学ぶ。1958年の体外離脱体験
     によって人生観が一変し、1973年より、ヴァージニ
     ア州シャーロッツビルの「モンロー応用科学研究所」
     の所長を務め、音響工学を用いた拡張意識状態の
     研究に専念する。前著『体外への旅』


          *****

 33-b (体外離脱体験の調査)

 体外離脱体験の発生率に関する調査はごくわずかしか存在しない。最も古いのは一九五四年にハートによって行われた調査である。ハートは百五十五名の学生に体外離脱体験をしたことがあるか質問したところ、二十七・一バーセソトがあると答え、そのほとんどの者が一回以上体験していると述べた。この時に得た結果は後年行なわれたいくつかの調査の結果ともほぼ一致している。グリーソは一九六八年に三百八十名のオックスフォード大学の学生に対する質問の結果を報告している。質問は「今までに自分の肉体の外にいると感じる経験をしたことがあるか」というものであった。それに対して三十四パーセソトが肯定的に回答した。一九七五年にパーマーとデニスはヴアージニアの小さな町で学生と住民を「無作為に」千人選んで行なった初めての調査の結果を発表している。その結果、学生の二十五パーセントが、また住民の十四パーセントが、体脱体験があると答えたのである。体脱体験の研究で極めて独創的な方法を取ったのはシールスの研究である。シールスはほぼ七十か国にわたる非西洋諸国から体脱体験にまつわる信仰に関するデータを集めた。文化の相違にもかかわらず信仰の内容は驚くほど類似していた。シールスは、この事実は「本物の出来事」、つまり本当の体脱体験が存在する間接的証明であると考えた。例えば、多くの国々ではシャーマンが体外に出て飛行できる能力を持つと見なされていることは極めてよく知られている。事実シャーマソはそうした能力がなければシャーマソとして聖別され得ない。エリアーデによると、こうした飛行が表わしているのは「秘密のもの、形而上学的真理、象徴的意味、超越、自由について知的な理解カを持つこと」である。南アフリカで行なわれた調査では新聞公募に応じた百二十二名の報告を分析し、体脱体験は被験者が眠っていたりリラックスしていたりまどろんでいたりする時に起こっているのが分かった。被験者の五十バーセソト以上が体脱が起こった時に普通の心理状態にあったと主張している。

  ロバート・A・モンロー『魂の体外旅行』(坂場順子訳)
  日本教文社、1992、p.471-472


       *****

 33-c (自己催眠による体外離脱ーーキルデ医師の場合)

 どういう方法を取ったのかというと、手、足など末梢血管系の血流をどんどん減少させて、血液が心臓と脳に集中するように、自己催眠をかけたのだという。
「指先から血がなくなる。どんどんなくなっていく。掌からも血がなくなっていく。足のつま先から血がなくなっていく。土ふまずのところから血がなくなっていく。足全体からどんどん血がなくなっていく」
 と頭の中で念じながら、同時に、手や足から血が徐々になくなっていくさまを頭の中でゆっくり丹念に順番に追いながら、できるだけリアルに想像していくことを繰り返して自己催眠をかけていくと、本当に末梢の血流量が減っていくのだという。
「突然、足指の先から頭までふるえが走りました。髪の毛が逆立ち、全身が鳥肌立ち、体中の柔毛が逆立つのを感じました。それと共に、凍りつくような寒さを感じました。そこは北極地方で寒いところだったとはいえ、部屋は暖かくしていたから、気温のせいではありません。末梢の血流が減ったので寒くなったのだと思います。次の隣間、ブラックアウトが起こりました。視野が真っ暗になって何も見えなくなったのです。それが一秒もつづいたでしょうか。気がついたら、私は体外離脱していたのです。私は天井のあたりに浮かんでいました。見下ろすと、私の肉体は膝だけ立てた格好でベッドの上に横になっていました。そして浮き上がった私も、はじめは、それと全く同じ格好、つまり、膝を立てた格好で横になっていましたが、すぐに自由に思った通り動けるようになりました。私の肉体は、まるで死体のように見えました。それを見ても、恐ろしいとか、哀れとか、特別の感情は何もわきませんでした」
 −ー浮き上がった自分のほうはどうなっているんですか。何かこれが自分といえるような実体があるんですか。それとも単にそこに視点があるだけなのですか。
「ちゃんと私の体と同じような形があるんです。顔もあるんです。しかし、それは半透明のスキムミルクのようなものでできていました。これがエネルギー体というものなのかと思いました」
 先にも述べたが、体外離脱中に、何か自分の実体といえるものがあるのかどうかは体験者によってちがうのである。キルデさんと同じように答える人もいれば、単に視点だけだったという人もいる。
 −ーベッドの上の肉体のほうは、単なるオブジェ(物体)になってしまっていて、自分の主観性のかけらも残っていないんですか。
「全く何もないんです。それは意外なことでした。私は医者ですから、どうしても医学的にものを見てしまいます。肉体を見下ろしながら、『私の脳はあそこにある。なのにあの脳は何も考えていないんだ』と不思議に思いました。思考も感情も、一切がエネルギー体のほうにあるのです」
 ー− そっちのほうの意識はしっかりしてるんですか。
「完璧です。完全に清明な意識が保たれていました」
 ---そういう事態にあわてふためくというような心の動きはありませんでしたか。
 「全然ありません。心理的には冷静そのものでした。それで、もっとよく研究しようと思って、肉体のそばまでおりていってじっくり観察することにしました。そばにいくと、肉体がゆっくりゆっくり呼吸しているのがわかりました。それは異常なほどゆっくりでした。それで、呼吸数を数えてみようと思いました。私は麻酔医をしていたこともあるので、いつでも時計を見ずにキッカリ六十秒の時間をとることができるように訓練されていました。だから、時計なしで呼吸数がはかれたのです。数えてみると、一分間にわずか十回でした」
 ---それは少ないですね。
 「正常値は二十回前後ですから、半分です。あまりにも少なすぎます。それでちょっと心配になり、今度は脈をとってみることにしました」
 ---体外離脱中のエネルギー体に、脈を取るなんてことができるんですか。
 「ええ、やってみると普通にとれたんです」
 ---普通にというと。
 「エネルギー体の手で、肉体の手を取って、手首の動脈のところに指をあてたら、ちゃんと脈が取れたんです。おかしな話と聞こえるかもしれませんが、実際、ちゃんと脈を感じたんです。しかし、かぞえてみたら、一分間に三十二回しかありませんでした。やはり正常値の半分です。低すぎます。ますます心配になって顔のところに手をあててみました。すると、顔から暖かみが失せて、冷たくなっているのです。冷たいだけでなく、こわばっていました。これは大変だと思いました。呼吸、心拍、体温などの生命徴候が明らかに低下しているのです。これは、死んでしまうことになるのかもしれないと思いました。肉体が死ぬとしたら、エネルギー体の自分のほうも死ぬことになるのだろうかと考えましたが、どうなるのかよくわかりませんでした。その頃はまだ、死というものがあると思い、死を恐れていましたから、心理的にパニック状能に陥りました。そして、戦場の兵士が生命の危機にさらされたときに、思わず『お母さん!』と叫ぶように、私も、『お母さん、助けて!』と叫んでいました。するとどうでしょう。私は一瞬にして、千キロも離れたヘルシンキの両親が住む家の居間に飛んでいたのです」

  立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、
     1994、pp.168-171


          *****

 33-d (キュブラー・ロス博士の体外離脱体験)

 −ーロスさん自身は、臨死体験以外に、体外離脱をしたという経験はありませんか。

 「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるというわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何方人といるのです」

 ーー体外離脱してどこに行くんですか。

 「いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、『地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある』といってました。

   立花隆『臨死体験』(上)文芸春秋社、
         1994、pp.439-440.



 34. 人の能力の差はどのようにして現れるか

 今生の能力は、すべて過去世の経験、勉強が土台になっているので、過去世において、数学なら数学をよく勉強した人は、今の世で、数学に秀で、音楽をよく学んだ者は、音楽に秀でる。天才といわれる人は、皆、過去世において、その道を極めた人で、六歳でピアノの天才、とか、八歳で、専門家はだしの画を描くなど、ということはみな過去世において、真剣に、その道を学んだ人たちなのである。
 観相家や、手相観等が、この児は、何々が適職ですよ、などというのは、人相や手相に、その児の、過去世の経験が現われているからである。私ほそれを、霊覚で、直覚的に教え指導するのである。
 今生には、過去世の経験が非常に大事であるので、今、正に死期にある人が死ぬまで、勉強や研究をしている姿は尊く、また来生のために非常に役立つものなのである。
 いかなる道の成功も、一朝一夕でできるものではなく、過去世の過去世からの、努力、研究、経験が、土台となって、ものをいうのであることを、私どもは忘れてはならぬのである。過去世を考えずに、この人間世界を見廻わした場合、これほど、不平等、不均衡、不公平な世界はないので、虚無主義者や、刹那享楽主義者や、
階級闘争主義者が出てくるのも無理はないのである。
 しかし、その人たちは、神の意志や、業の法則から見た場合、実に不幸な人びとといわなければならない。人間は一時一分一秒も、ゆるがせにせず、自己を高め深める経験、勉強をなすべきである。その他に、自己を救う道はないので、青年が、真の人間のなんたるかを識らずに、また、識ろうともせず、ただ、いたずらに、主義、主義と叫んで業因縁の渦に巻きこまれてゆくことは、実に哀れな気がするのである。
 社会、国家、人類を、真に愛し、思うならば、まず、自己を高める勉強に全身を打ちこみ、真の人間のなんたるかを、うすうすでもよいから知って、それから活動したとしても、決して遅くはない。人生は悠久なのである。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
         1988 、pp.84-85










 35. 知識・智慧


 35-a (恐れという感情は知識を与えられたときに覚醒する)

 この愛すべき次元には、「覚醒」しようと一生懸命苦労している者がたくさんいる。それは、たしかに充分その価値のあることだ。だがそれでも、その言葉の意味するところを真に理解している者はほとんどいない。覚醒するということは、「光の中にある」こと、何かについての知識を持つことを意味しているだけだ。知識を使えるようにして、自分の選んだ形でそれを応用するということだ。
 どうすれば覚醒できるのだろうか。何かのお墨付きを受けて、でないことは確かだ。覚醒するただひとつの道とは、想念が自分の思考過程に入るのを許し、それを感情の中に抱いて、その体験を通してそれを智慧に昇華させることだ。
 知識はなぜ重要なのだろうか。知識はあなたのいちばんの宝だ。すべてがあなたのもとから奪い取られたとき、奪い取られなかったもの、これからもけっして奪い取ることのできないものとは、あなたに再び創造する力を与えてくれるこの知識だからである。知識があれば、あなたには自由がある。選択がある。知識があれば、限りなき世界を築くことができる。知識があれば、恐れるものは何もない。知識さえあれば、あなたを脅かしたり、隷属させたり、怯えさせることのできる物も、要素も、国家も、叡智もまったく存在しないのだ。恐れが知識を与えられたときに、それは「覚醒」と呼ばれるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 248-249

     *****


 35-b[9-z] (あなたが知ることはすべてあなたがなっていくこと)

 知識は、あなたの精神がすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。在るものすべての「知っている状態」をさらに深く見させてくれるものであり、さらに偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれるのだ。知識は、あなたがさらに成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることをあなたに強く求めるのである。その意味で、それはあなたを限られた人生から、さらに限りない領域へと連れていくのである。知識、それに学びへの冒険を通じて、あなたはさらに単純明快な存在となっていく。そして、その単純明快な中に、在ることの平和と生のよろこびを見いだすのだ。
 さて、ここで知ることの科学について説明したいと思う。つまり、どうしてあなたはすべてを知る力を持っているのかということだ。それはなぜ大事なのだろうか。それは、あなたが知ることは、すべてあなたがなっていくことだからだ。そして、どうしたら在るものすべてを知ることができるかを学んだとき、あなたは在るものすべてとなり、それはまさしく神になるということなのだ。限りない知識、限りない生、そして思考の総体なのである。そこでは、あなたは再び、ただ在ることの限りない自由であり、よろこびなのだ。
 すべて在るものを知ることがどうしてできるのかを理解するためには、すべては神の精神である思考から存在してくるだけでなく、あらゆるものがその存在固有の想念を発しており、それを神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。
 あらゆるものはまわりに光の場を持っている。光の輪によって囲まれていないものは存在しない。光が思考の像を保持し、観念を物質という形体へと創造していくからだ。その光の場を通して、個々のものはその存在の思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。これが神の精神なのだ。
 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の草を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものは何だろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは、「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰がすわっているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎ込んでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡張し、動いているからだ。
 すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないとにかかわらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが、何かが「知られる」ということなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 247-251

     *****


 35-c[31-a] (あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る)

 あなたには、すべてを知るべくして知る力がある、というのはどういうことだろうか。あなたの肉体は、オーラ、あるいはオーラの場と呼ばれるすばらしい光の場で包まれている。オーラとは、あなたの化身の物質を包み、それをひとつにまとめている光の場のことだ。キルリアン写真という手段を通じて、皆の世界の科学者は、オーラの最初の光の輪の場をすでにカメラに収めている。だが、あなたの体を包んでいる電磁場はまだある。オーラというのは、電気の密度(身体を包んでいる青色の光の輪)から、思考まで無限に続いているものだからだ。
 オーラはあなたの存在の精神だ。あなたの存在の精神、あるいは私があなたの存在の神と呼んでいるものは、すべてのものを知る大きな意識の流れである神の心と直接つながっている。オーラの一部は、きわめて強いプラスとマイナスの電磁場だ。この電磁場を越えると、電磁場には極というものがなくなり、ひとつの光の領域、純粋なエネルギーとなる。この光の領域は、「知っている状態」から発生するすべての想念を、この広大で強力な場の中を通過させる。どの想念があなたに知られるようになるかは、あなたの思考過程によって決められているのだ。あなたのオーラの中の電磁場である部分が、あなたの思考にしたがって特定の想念を引きつけるからである。
 あなたの精神は、けっして動きを止めず、変化を続けていく思考という河の瀬にあるふるいのようなものだ。精神という光を通して、あなたはすべての知識が存在している場所である思考の流れ、すなわち神の心を受け取る立場にある。つまり、あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る力を持っていることになる。なぜなら、あなたは知識の河、すなわちすべての意識の途切れなき流れの中に存在しているからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 24










 36. 人はどのようにして生まれるか

 B36-a (人はどのようにして生まれるか)

 人間は死後、その人の過去の想念や行動によって、その霊魂の幽界における生活が決まり、その霊魂が種々の苦難や悲哀、あるいは喜びを味わいつつ、進化に役立つ行をするのであるが、これ以上は幽界における経験よりは、肉体界における経験のほうが、よりその霊魂の進化を促進させるに役立つと、その霊魂の教育に当たっている先輩霊(高級霊)あるいは守護神が思った場合、肉体界誕生の待合場へその霊魂は移され、そこで肉体界誕生の日を待つのである。この場合、よほど高級な霊魂以外は意識を睡らされているのである。意識があっては、幽界の微妙な波動の世界から、肉体界の粗い波動の世界に転移することが、非常に苦痛であって、普通の霊魂では耐え得られぬからである。もっとも高級な霊魂の中には、意識したまま、この苦痛を耐え忍び、母体にある程度住して、あるいは、赤児と誕生して直ちに、再び霊界に還って、自己の業因縁を、すっかり解脱してしまうものもある。
 普通級の霊魂は、待合場に移されて以来、幽界の記憶を喪失したまま、誕生し、また再び肉体の死まで、過去の記憶を失ったままでいるのである。そうして幾度びか、死から誕生、誕生から死へを繰りかえしつつ、業因縁を解脱してゆくのである。
 この誕生する霊魂は、過去世において、その父母の、どちらかに深い因縁(関係)を持つ霊魂で、血縁が多く、その想念の周波数が、類似している。そのために、子は親にその姿形がよく似ているのである。
 しかし時には血縁でない場合もあるが、これとて、その想念の周波数が類似している霊魂であることには違いない。
 周波数が類似していても、その霊魂の光の大きさや、浄まり方の違い、過去世からの経験の違いによって、親子でありながら、親とは雲泥万里の差のある大人物も生まれ、小人物もできあがるのである。
 もっとも胎教や、誕生後の教育の相違も、親子の差を違える力になっている。
 ここで大事なことは、幽界の待合場には、多くの霊魂が、その誕生を待たされているのであり、その中にはA夫婦なら、A夫婦の関係霊魂も幾人かいるわけであって、肉体界のA夫婦の性交時の心の波動の高低や、想念の種類によって、その中の、その時のA夫婦の想念に一番適合する霊魂が、宿ってくるのである。
 例えば、A夫婦が、高い浄らかな気持で、性交を営んでいる場合は、高い浄らかなる霊魂が宿り、争いの想念を持ちながらの営みの場合は、荒々しい霊魂が宿るのである。
 だから、夫婦関係というものは非常に大事なもので、善良な立派な子供を欲するならば、胎教や、生後の教育よりも、性交時の夫婦の心の持ち方が、さらに一層大事なのである。
 この誕生については、夫婦それぞれの過去世からの因縁や、性交時の想念などを、守護神が、観じて、その児を宿らせるのである。
 また、生まれ変わりの年限は、その霊魂の因縁によって違うが、近来、非常にその年限が短縮されて、死後二、三年や、七、八年で生まれ変わる人がたくさんできている。しかし霊そのものが生まれ変わるのではなく、魂(幽界に蓄積された想念、普通霊魂と呼はれている)が魄(すなわち肉体となる原子)を、寄せ集めて、肉体界に生まれ変わってくるのであ。そのすべての原動力は、その人のみ霊元、いわゆる直霊から来て、守護神が、その誕生を、指揮するのである。であるから、Aという人間が、肉体界に生まれ変わりとして生活していながら、前生からつづいているAという霊魂の想念は、幽界にも生活しているのである。いわゆる二重写しのようになっているのである。もっといいかえると、想念は霊、幽、肉の三界を貫いて活動している、ということになり、その想念活動の力は、分霊から発しており、その元は直霊にあるのである。しかし、 こうした説明は実にむずかしく、ややこしいので、普通は霊魂の生まれ変わり、と簡単にいっているので、そうした説明だけで納得されてよいのである。ただし、この現界を、現世(うつしよ)、というのは写世(うつしよ)、霊界から写し出されている、という意味の言葉であるのだ。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
         1988 、pp.77-79


     *****

 B36-b (人は自分の人生を選んで生まれる)

 みなさんの体験というものは、すべて目的があって生じたものだ。これは大切な問題であり、しかもみなさんの文明ではたいてい無視されてしまっている問題である。人生には、その一日一日に意味がある。あなたがたの魂は、たえずバランスをとり、成長していくために努力を続けている。この宇宙に偶然というものはない。むろん、大多数の人びとは偶然としか思えないできごとの裏にひそむ真実に、気づいてはいないのだが。体験には、自分の人生のめざす方向や信念が関わっている場合もあれば、自分のエネルギーや決意を阻むさまざまな問題、あるいは前世の体験が関わっている場合さえある。そこで、あまり触れられてこなかった輪廻転生の問題についてお話しすることにしよう。
 一部の宗教や文化において、このような自然のできごとに対して反対があるのは妙なことだ。人間が成長していくありさまは、かいつまんで言えばつぎのようになる。まず意識が生まれる。意識はこの世に突入するに十分な強さを集積する。ほとんどの場合、この世への転生によって学び、成長してゆく可能性という豊かな収穫が得られるため、人は何度も輪廻転生をくりかえすことになる。魂は幾度となく肉体から出たり入ったりする。この世へ肉体をもって転生する価値は、かけがえのないものである。転生によって自由ー−前進するだけでなく後退する自由もあれば、あらゆる方向にむかっての可能性を追求していく自由もあるー−を試す機会が与えられる。そしてこれはすべて、人格すなわち魂にとって豊かな学びの体験なのである。
 さて、「天上の」私たちは何度も何度も同じ悲嘆の声を聞いてきた。
 「もし天