41. 臨死体験

B41-a (精神医学の巨人・ユングの臨死体験)

ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。それは、ベッカーさんとの対話の中でも話に出た、精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。
 「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の頼戸際忙まで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた」
 このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私(立花隆)は驚いた。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。これが現代の記述なら私も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181〜327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである。

  立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、1994、pp.51-52


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 41-b (キルデ博士の臨死体験)

 医師の臨死体験者をもう一人紹介する。フィンランドのラウニ・リーナ・ルーカネン・キルデ医学博士である。キルデさんには、NHKの番組の中でもちょっとだけ顔を出して体験を語ってもらっている。キルデさんは、公衆衛生学が専門で、ラップランド地方政府のチーフ・メディカル・オフィサーを十三年間つとめた人である。
 キルデさんの体験は、一九六九年、医学校を卒業して医者になったばかりの年に起きた。急性腹膜炎で、救急病院に担ぎ込まれ、緊急手術を受けたときのことである。
 「そのとき私は、全身麻酔をかけられて意識喪失状態にあったわけです。しかし、突然気がついてみると、私は天井のあたりに浮かんでいて、自分が手術されるところを見ていました。そして不思議なことには、手術をしている医者の考えが読めたのです。これからメスを取って切ろうとしているなというのがわかりました。彼が切ろうとしているところには小さな動脈がかくされているということもなぜか私にはわかりました。しかし彼はそれに気がついていない。だからその動脈が切られてしまうというのがわかったのです。私はこれを止めようとしてあわてて叫びました。『そこを切っちゃダメ! そこには動脈があるのよ!』。しかし、彼には私の声が聞こえません。私が予知した通り、彼は動脈を切ってしまいました。血がパァーと噴き上がり、天井近くまで達するのが見えました。その途端、私はトンネルの中に吸い込まれていきました。トンネルの中は真っ暗で何もありませんでした。その向こうに輝く光があり、そこに私は入っていきました。それは自由の女神像くらい巨大で強く光り輝いていました。光は暖かく、愛に満ちていました。輝き方があまりに強かったので、私は光を直接みることが出来ませんでした。私は思わずその前にひざまずいてしまいました」
 キルデさんは、一九九〇年にアメリカのワシントンで開かれた、第二回臨死体験研究国際会議の初日に行われた記念講演の講演者だった。医者であり社会的地位も高い臨死体験者として、彼女は欧米では有名な人なのである。彼女が自分の体験を書いた『死は存在しない』という本は、フィンランドでベストセラーのトップになっただけでなく、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、スペインの各国で翻訳出版され、ノルウェー、スウェーデンでは、それぞれベストセラー一位と五位になっている。

 立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、1994、pp.149-150

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 41-c (体外離脱して自分の心臓手術を眺める)

 サリバンさん(コネチカット州で運送業、59歳)は、それまで手術というものを受けたことがなかったので、手術室に関する予備知識といえば、TVドラマの手術室の場面くらいしかなかった。そしてサリバンさんは、救急車でかつぎこまれて、心臓カテーテル検査を受けるとすぐに手術室に運び込まれ、あっという間に麻酔をかけられたので、手術室の中を観察しているひまもなかった。だから、サリバンさんが手術室の様子をちゃんと見たのは、体外離脱してからである。
 「わたしがまず何よりびっくりしたのは、沢山の人がわたしの体を取りかこんでいたことです。五人くらいいたと思います。そして、そのうち二人が、熱心にわたしの脚を手術していました。わたしは、悪いところは心臓だとばかり思っていたので、これにはびっくりしました。あの医者はいったい何をやっているのだろうと不思議に思いました。高田先生は、わたしの頭の方にいました。その両脇に医者と看護婦が一人ずついて、それから、わたしの頭のところに大きな白い帽子をかぶった看護婦がいて、先生以外に全部で五人いました」
 高田医師に聞くと、これはその通りなのである。サリバンさんの心臓は冠動脈が動脈硬化を起こし心筋梗塞をもたらしていたので、冠動脈のバイパスを作る必要があった。そのバイパス用の血管は普通、脚の血管を切って利用するのである。心臓の手術にかかる前に、脚を切開して、その血管をいつでも切り取れるようにむき出しにしておかなければならない。脚のところにいた二人の医師は、その作業をやっていたのである。こういうことは、かなり心臓手術に通じている人でなければ知らないことである。もしサリバンさんが本当に見ていなかったとすれば、なぜサリバンさんが二人の医師が脚の手術をしていたことを知ったのか不思議なところである。
 「上から見ると、私の目のところが、何かよくわからないもので覆われていました。あれはいったい何だったのですか」
 高田医師によると、患者の目を万が一にも誤って傷つけることがないように、患者の目を閉じさせ、その上に卵形のアイバッチをのせ、それをテープで固定してしまうのだという。だから、たとえ患者が手術中に意識を取り戻して目を開いたとしても、患者は何も見えないのである。体外離脱の解釈で、麻酔が途中で弱くなって、患者が薄く意識を取り戻した状態で、薄目を開けて外を見ていたのではないかという説もあるが、サリバンさんの湯合は、それも不可能なのである。
 「それからもうひとつ驚いたのは、みんながブーツをはいていたことです。なんでブーツをはいているんだろうといぶかしく思いました」
 高田医師によると、確かにそのとき高田医師をのぞいてみんなブーツをはいていたという。そのブーツは導電性の物質でできていて、衣服に生じた静電気などの電気をアースするためにはくのだという。昔は、麻酔薬のエーテルなど、電気火花で爆発の恐れがある物質が手術室にあったので、そういうブーツをはくようになった。しかし、最近はそういう危険な物質がなくなったのであまりはく意味がなくなったが、いまでも昔からの習慣でみんなはいているのだという。
 「それから高田先生は、手を胸の前に組んで、肘を左右に突きだすような格好をしていました。その姿勢のまま、肘の先で何かを指しながらいろんな指示を下すので、まるで、両肘が鳥の翼のように見えました。鳥が翼をバタバタ動かしているようでした。それで私は、おやおやこの人はこれからどこかに飛んでいこうとしているのだろうかと思いました」
 これについては、高田医師は自分ではピンとこないようだったが、同僚の医師が、それは高田医師のクセだと証言してくれた。手術前に両手は丹念に殺菌してある。それをまた何かにふれさせると、細菌がついてしまう。それを恐れて、肘を手の代わりに使うのだという。
 「それから高田先生は、黒い重そうな眼鏡をしておられましたね。そのとき以外眼鏡をしておられるのを見たことがないので、変だなと思っているんですが」
 これもその通りだった。高田医師は、手術のときだけ、特別の拡大鏡がついた眼鏡を着用するのだそうである。
 「それから、ライトが三つあったのを覚えています。そのうちの一つは、ランプの集合体で、それがときどき私の視野をさえぎるので、まわりこむようにして見なければなりませんでした。あと二つのライトがあったのを覚えているのですが…」
 ランプの集合体というのは、手術の上を照らす無影灯であろう。天井の片すみから見おろすようにすれば、たしかにそれで視野がさえぎられるはずである。もう一つのライトは、高田医師が頭につけていたヘッドランプであろうというが、もう一つはどれをさすのかはっきりしない。
 「それから、ものすごく大きな機械が、高田先生のすぐ後ろのところにありました。それが何に使われる機械なのかよくわかりませんでしたが、とにかく大きなものでした」
 高田医師によると、その位置にある大きな機械というと、心臓手術に使われる人工心肺装置にちがいないという。
 「私の胸が切り開かれ、心臓が見えていました。こういう大手術のときに血が大量に流れるのかと思っていたら、ほとんど流れていないのでびっくりしました。そして、心臓は血で赤いのかと思ったら、白っぽい紫色で血の気がぜんぜんないのにも驚かされました。それから、心臓はいわゆるハート形をしていると思っていたのですが、ハート形とはぜんぜん似ても似つかぬ形をしているのもびっくりでした。心臓はガラスのテーブルの上に置かれているように見えました」
 このくだりは、ガラスのテーブルという点をのぞいて、みんな事実に合致している。血液の循環は、人工心肺装置につながれて、そちらで行われているので、手術中の心臓にはぜんぜん血液がきていない。だから、白っぽい紫色をしているのである。
 結局、サリバンさんの手術描写は最後のガラスのテーブルという一点をのぞくと、ほぼ完全に手術の現場の様子に合致しているのである。そして、その中には、見ていなければわかるはずがないと思われる要素がいろいろ出てくるのである。
 これをどう解釈すればよいのだろうか。前に、こういう事例の一つの解釈として、耳で聞いた話など、他の感覚器官から得た情報を総合して、視覚像を頭の中で再構成してしまうのではないかという有力な説があると書いた。しかし、このケースはその説で解釈可能だろうか。
 バイパス用の血管を脚部から取り出す場面とか、ブーツ、拡大鏡付き眼鏡、高田医師の肘の動き、心臓の色など、他の感覚情報から得られたとはとても思えないのである。

 立花隆『臨死体験(下)』文芸春秋、1994、pp.223-226





 42. 悪・罪・憎しみ


 42-a. 復讐してはならない

 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する」と書いてあるからである。(ローマ12章17-19)
 「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、はかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
 「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

  (マタイ5章38-48)

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 42-b[25-b] (すべてを包含する宇宙から見ると悪というものはない)

 ―でもラムサ、もし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現して悪いことをしてしまうのをどう防ぐのでしょうか。

 よく聞きなさい。すべてを包含する宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は魂が邪悪であると記されていますが、そうではありません。人間の魂は神なるものです。なぜなら、その魂、そして人間の存在そのものすべてが神だからです。もしそれが神でないとしたら、それはいったいどこからやってきたというのでしょうか。
 父なるもの、存在自体の管轄外にあるものはないのです。ひとつとしてありません。悪である、間違っていると誰かが判断した想念や行為は、意識の中では生きているものです。そしてもし意識の中で生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。すべては神の一部ですから、もし何かひとつが悪であると言うなら、それは神もまた悪であると言っていることになります。神は悪ではありません!でも、神は善でもないのです。なぜなら、善というものの境界を定めるためには、悪、あるいは邪悪なものという考えに対比して判断しなければならなくなるからです。
 神は善でも悪でもありません。神は悪でないのとまったく同じように善でもないのです。そして神は完壁でもありません。父なるものはただ在るのです。すべての生命の「在るということ」であり、自身を知るためによろこびを得るということ自体のよろこびのために生きる「いまという瞬間の表現」なのです。そしてこの生の本質には、その壷をいいとか悪いとか、邪悪とか神なるものとか、あるいは完全か不完全かとかを判断することによって、ただ在るという状態から脱して何か他のものに変容するということはできないのです。
 神が世界を見下ろして、「これは邪悪だ」と言うことができたらどうなるかわかりますか?意識というもの全体、つまり、表現する必要があるものを表現しているすべてが、生の流れから消滅してしまうのです。もしこれが起きたら、生とその途切れない広がりが存在しなくなります。もともと創造を可能にしている自由意志が存在しなくなるからです。しかし、神は、完全に無限の「在るということ」、そしてその分かつことのできない全体性なのです。ですから、神は、制限を課すような限られた見方で自分自身を見つめることはできないのです。もしそれができたとしたなら、あなたはここにいることも、自分や自分の兄弟を判断するといったひとつの選択肢を体現していることもなかったでしょう。
 主よ、善も悪もないのです。あるのは「在るということ」だけです。「在るということ」では、すべてのものは、その部を満たしたかどうかだけで見られます。その魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るのです。あなたがこれまでしてきたことはすべて、たとえそれをどんなに美しいもの、あるいは卑しいものとあなた自身が判断してきたとしても、それはただ知るということのためだけにしてきたことなのです。何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしたことなのです。それを実際にしてみることによって、はじめてあなたはそれをすることの価値に気づき、またその価値を確かめることができて、そこから何かを得られたのです。それは邪悪でもないし、よこしまなことでもありません。それが神になるために必要なことなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 183-185

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 42-c[25-c] (もし善と悪があると信じるのならそれはあなたの真実である)

 神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。人間は、その創造性を駆使して善悪のバランスを編み出し、自分の同胞たちから表現の自由を奪ってきました。宗教的な教義や政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰への恐れは、もう長い間、国家を支配し統率するための剣として使われてきました。そして、もし皆の言葉で「邪悪」と呼んでいるものがあるとしたら、それは存在の内にある神を表現する自由を人から奪ってしまうことです。そして、自分の同胞に対してこれをするたびに、実は、自分にも同じことをしているのです。それもさらに深い影響を受ける形で同じことが起きます。なぜなら、他の人間に対して下す審判や制限は、自分の意識の内面でもやはりひとつの法となるからです。その法によって、あなた自身も自分に限界を設け、自分に審判を下すことになるからなのです。
 人間は魂が邪悪なわけではありません。悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みのなかでは悪というものはないのです。人間に自分の好きなものを思考から創造させるという選択を可能にしている生の場があるだけです。それだけが存在する現実なのです。この現実において神は、迷信、教義上の信念や、きわめて限定され、せばめられた人類の考え方を通して、悪という幻想の存在を許しているのです。悪を長い間観察し、判断し、期待し続けたことによって、確かに悪は人の現実の中に存在していますが、それはその人の現実だけのことです。その人が信じるようにその世界もなるのですから。
 法で存在するのは、自分の人生においてあなた自身が創造し、効力を発するとしたものだけです。もし善と悪があると信じることを選ぶのなら、それはあなたの真実であり、それはそれで間違ってなどいません。でもひとつ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であり、私のものでも誰のものでもないことです。もしそれが確かにあなたのものならば、もともとあなたの意見の中で形づくられたのですから、そのすべてがあなたに属していることになります。その意見を持っている限り、それは確実に現実のものであり続けます。それを信じなくなれば、現実でもなくなるのです。ただ単にそういうことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 185-186

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 42-d[25-d] (命を奪われた者はまた何度も何度もこの地上へ戻ってくるのです)

 さて主よ、あなたが悪と思っているものは何か教えてください。悪いものとは何だと理解していますか?

 ―そうですね、それは善の反対だということでしょう。でも、ふつうはやはりほかの人に危害を加えることが悪だと思っています。

 そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか。

 ―たとえば誰かが私の娘に危害を加えたとすると、それは悪です。なぜかといえば……もし娘が死んだりしたら……。

 それは悪についてのあなたの判断ですね。でも、死ぬということがなぜ悪なのですか。

 ―ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うわけですね。

 そのとおりです。それは、ひとつのものが終わるという考えで自分に限界をつくることはしないからです。何ひとつとして、消滅するものはないのです。ひとつもありません! すると、もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか。
 父なる存在は、その在るということ、それに途切れなき生の永続性において、すべてが存在できるという保証を危うくするような、自分より偉大な存在など何ひとつつくり出してはいません。父が創造したものには、何ひとつとして消滅するものはないのです。それはすべて永遠に生き続けます。ですから、あなたの子どもも、消滅するのではありません。神の生命を消滅させられるものは何もないからです。

 ―あなたは、ほんとうに殺人でさえも間違ったことではない、悪ではないというのですか。

 そのとおりです。
 主よ、生は途切れなく続くものです。それはずっとずっと続いていくものなのです。そしてこの瞬間から次の瞬間へと生の場で自己を表現していく中で、私たちには人生の一つひとつの瞬間を幸福で満たす機会が無限にあります。しかし、自分の生の時間をどう満たすことを選ぼうとも、それは必ず、その人の意志と望み、そして自分の存在にとっていいと見たことにしたがったものとなるのです。もし、ある瞬間に、ひとりの存在が他の命を奪うことを選んだとしたら、次の瞬間、その人は強烈な罪悪感と自分に対する審判、そして、その行為が必ず自分のところにはね返ってくるという恐怖の念のもとで生きることになります。ですから、その人間のこれから先の時間はけっして安寧なものではありません。自分の行ないを許さない限りは……。
 この命を奪った者を忌まわしく思い、審判を下し、罵る人もたくさんいることでしょう。でも、私はこの他人を殺めた人間を愛します。愛さない、ということがどうしてできるでしょうか? この人間が、神の摂理、生、そして神の驚異の中には入っていないとでも言うのでしょうか。いいえ、主よ、そんなことはありません。
 命を奪われた者は、また何度も何度も戻ってくるのです。生とは永遠だからです。それは継続するのです。それは、ただひとつ永遠であるものですが、また同時にすべてのものでもあります。もし私がこの行ないを憎悪し、命を奪った者に審判を下したとしたら、それは自分に審判を下していることになるのです。その人はすでに自分自身に対する審判をつくり出しています。自分の行為については自分の価値判断のもとにあり、これから先、自分自身の思考と感情の世界で、それに直面し、対処していかなくてはならないからです。
 私はその行ないを憎悪しません。それを論証し、理解し、そして超越したのです。命を奪う者の行為を断罪すれば、私はそれより偉大な存在ではなくなります。これだけは確かです。そして、私の人生はその審判によって影響されるようになるのです。なぜかと言えば、「偉大なる在りて在るもの」である私が、自分の一部をわが存在から切り離してしまったことになるからです。すると私はもはやひとつの全き存在ではなくなってしまうのです。わかりますか?
 このようなものを目にするとき、そこではひとつの命が満たされるという過程が起きているのです。一瞬一瞬ごとに、私たちには、自分が何かに駆られるような形、あるいは目覚めさせられるよぅな形で自分の命を満たすことができるという選択があります。これは私たちが選ぶことなのです。これだけが人間が持っている「共和国」なのです。自分の内面奥深くにある共和国です。政府は法律や規則にしたがって大衆を治めようとするでしょう。しかし、ある存在の内面にある静謐な思考過程の中ではたらく意志を治めることは絶対にできないのです。それができるのは、その存在自身だけです。そしてその人間は、自分の感情の状態にしたがい、個々の瞬間のバランスをとって生きていくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 186-189

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 42-e[9-w] (善悪はなくあらゆるものは智慧を与えるひとつの体験である)

 聴衆の皆さんに向かって、私はこう言います。あなたより偉大な師はいません。そして一人ひとりがそれぞれの人生に責任を持っているのです。私たちは思考の中で物事をする存在なのではないのですか。そして、私たちの思考がさらに進化するのは、それが実体をもったときではないのでしょうか。
 人を牢獄に入れ、これ以上小さくて暗く、汚らしい穴ぐらはないという場所に押し込めることはできても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです。そしてその人間は、思索を通して自分を納得させ、自分に教え、そして、自分に審判を下すこともするのです。
 私は善も悪も認めません。認めるのは生だけです。もしある存在が、いま、ひとりの存在を殺めんとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為をしようとするなら(それはどちらも変わらぬことです。なぜなら、考えたことはすでになされていることと同じなのです。思考の中で他の存在を真っ二つに斬ったことのない人などひとりとしていません)、どちらの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行なう必要があったのです。ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。彼もまた、もしかしたら、真っ二つに斬られるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところまで引き寄せてしまったのです。こうして、暴行をはたらく必要があった者と、(それを理解するために)暴行される必要のあった者が、その体験のために同じところに引き寄せられてきたのです。
 神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです。これがあなたへの私の答えです。そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。
 人間が、法律だの計画だの規則だのといったものにあふれた、この限定された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのもののよろこびと平穏を見いだし、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるでしょう。そしてすべてが、自分の意図を反映した流れを自由につくるようになるのです。そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになります。そして、神であるもの、つまり、すべての生命を育み、支えていく基盤となるのです。そうでありますように―

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 189-191





 43. 偶然・必然

 
43-a (この世界には事故や偶然といったものはない)

 あなたは自分の身に起きることはすべて偶然だと考えているだろうか。それは知られたる真実とは違う。この世界には、事故や偶然といったものはない。そして、ほかの人間の意志や策略の犠牲者などという人間もいない。あなたに起きることはすべて、考えること、感じることによってあなたの人生にもたらされているのだ。それは、「もしこうなったら」という仮定の形、あるいは恐れという意識を通して空想されたか、何かはこうこうこうなると誰かほかの人間が言うのを、あなたが真実として受け容れてしまったものだ。あらゆるものは、思考と感情によって定められた意図的な行為として起きるのである。すべてのものがそうなのだ!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.77














 44. 神


 44-a (自分の内にある神に気づくこと以外に人類に救いの道はない)

 自分の内にある神なるものに気づくこと以外、人類に救いの道はない。あなたはこの気づきの種となるのだ。一人ひとりが自分の価値に気づき、そして自分の生命が永遠であることに気づくとき、あなたたちはひとり、またひとりと、無限の思考、無限の自由、そして無限の愛という意識の中に新しい存在として加わっていく。あなたが考えたこと、気づきを得たことはすべて、あらゆる場所に存在する意識体のレベルを向上させ広げていく。そして、わかったことを明確な意図をもって自分の人生の向上のために体現し、自分の生とするようになったとき、あなたはまわりにあふれているはかの人々のような凡庸な生き方に比べて、はるかに崇高な思考プロセスとスケールの大きい考え方、そして明確な意図をもった存在が、あなたの内にあるのを示すことができるだろう。
 今日、ときは有史以来、もっとも偉大な時代に到達している。困難で課題も多い時代だが、あなたはこの時代がもたらしてくれるものを見ることを全うすべく、今ここに生きることを選んだのである。あなたたちは皆、今度こそは生きているうちに神に会えると、何度も何度も繰り返し約束されてきた。それなのに、幾たびの生を経ても、自分が神を見ることをあえて許そうとしなかったのだ。この場所に壮麗な王国が出現するのをあなたは目の当たりにすることだろう。夢想だにしなかったような文明が現れてくる。そして新しい風が吹く。そして、あなたの生きるこの宇宙のエメラルドであり、神の棲みたもう家であるこの美しい場所に、愛と平和とよろこびが祝福を与えてくれることであろう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.12-13

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 44-b (「未知の神」は私のまわりすべてにあった)

 「未知の神」とはいったい誰なのか。それは私……そして夜の巣にある鳥たちであり、葦に凍てついた霜、朝焼け、黄昏の空だったのだ。それは太陽であり、月であり、子どもたちであり、その笑い声であり、なめらかな脚であり、流れる水、そしてニンニクと草と真鍮の香りだったのだ。それはつねに目の前にあったのだが、私がこの理解を得るのには長い時間がかかってしまった。「未知の神」は月や太陽を超えたところにあるのではなかった。それは私のまわりすべてにあったのである。この見方が新たに私の内に生まれてからは、私は人生を受け容れ、自分にとって大切なものを大事にし、生きるべき理由を見つけられるようになった。血や死や戦争の悪臭のほかにも、存在するものがあったのだ。生命というものが! それは私たちが思っていたよりも、はるかに偉大なものだった。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.29-30

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 44-c (わが全生涯の目的は神を見て神をわがものとなすにあり)

 産を失うも可なり、願わくは神の聖顔(みかお)を失わざらんことを。病に悩むも可なり、願わくは神の聖旨(みこころ)を疑わざらんことを。人に棄てらるるも可なり、願わくは神に棄てられざらんことを。死するも可なり、ねがわくは神より離れざらんことを。神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。

  内村鑑三『一日一生』教文館、1986、p.18

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 44-d (ひとは神を知るためにこの世に生まれてくる)

 ・・・・・・江上波夫さんと御一緒したことがあったとき、山好き、肉好き、パン好きの私を見ていると、騎馬民族の典型を見るみたいですと言われた。北大の犬飼哲夫さんは、酒好き、動物好きの私に、アイヌの女のひとに似ていると言われた。どこから来て、どこへゆくのか、人生の旅も終わりに近く、仕残したことがあってはならぬと、毎日、試験問題を眼の前につきつけられた思いでいるのだが、これにも鍵がある。私には、突如として涙が溢(あふ)れかえった経験が幾つかある。高松塚古墳見学にゆこうとして、遠くに松の生えたその丘を望むなり、いきなり涙滂沱(ぼうだ)となったのは、出身民族にかかわることらしい。
 二十二歳の時、本間俊平という、秋吉台で免囚保護事業をしているプロテスタントのひとの講演が、本郷の東大に午前十時からあるのだが、私は学校の運動会で、明治神官外苑にゆかなければならなかった。控室で運動服に着替えていると、一天俄(にわ)かにかき曇って雷鳴とどろき、豪雨となって中止。私は、講演に行ったのだが、神は私のために、天から雷雨をよこして下さったと思い、号泣したいほどの感動に全身が震え出さんばかりであった。二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。

  田中澄江「神を知るために」から 「朝日新聞」1991.3.11

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 44-e (神は在りて在るものすべてを愛する存在である)

 神はありとあらゆるものなのであり、すべてを呑み込む力だ。水面をなでる風であり、色づく木の葉であり、深い色合いのバラの純粋さなのである。神とは、抱擁し合う恋人たち、笑っている子ども、蜂蜜の色をした髪の光沢だ。それは朝に昇る太陽であり、夜にまたたく星であり、満ち欠けを繰り返しながら夜半の空をわたる月なのだ。神とは、ぞっとするような姿の昆虫であり、控えめに空を飛ぶ鳥であり、ひどく醜いミミズでもある。神とは、動きであり、色であり、音であり、光である。神は情熱だ。悲しみだ。在りて在るもの、存在するすべて、それこそがあなたが父なる神と呼ぶものであり、ひとつの全きものとしての森羅万象すべて、そして在りて在るものすべてを愛する存在なのである。
 神は、御座に鎮座し、生きることすべてに関してあれこれ善悪の判定を下すひとりの人格ではない。神とは、生きることそのものであり、この躍動する一瞬一瞬すべてなのである。それは在るものすべてが存在し続けている姿であり、その永続性なのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.51

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 44-f[54-j] (自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった)

 自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった。自分をしっかりと見たことがなかったからだ。自分が誰なのか、何者なのかを見据えたことがなかったのだ。神がどんな姿か見たいだろうか。鏡のところに行ってみよう。そうすれば、あなたは神と面と向き合っているのだ!
 自分は価値ある人間であることをまず知ることだ。あなたの真価を評価できる物差しなどない。あなたの美を描き出せる像もない。そして、あなたの世界に終わりもないのである。
 最も偉大な説法は、山上に立ったある師によってなされたものだ。そこに立つと、その師は聴衆に向かってこう言った。「神を見よ」それだけしか言う必要はなかった。神を見よ。なぜなら、一人ひとりが、限界も、望みも、病も、貧富も、よろこびも哀しみも、生命も、そして……その死も、すべてを創造していたのだから。
 神を見よ。それを覚えておくことだ。あなたは、すべてのものに宿るあの存在なのだから。いつの日にか、あなたも神を見ることだろう。自分に触れてみるとよい。ただそれだけでいいのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 83

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 44-g [9-m] (神なる本質を持ったあなたこそ崇高なる創造主である)

 天界に光をもたらしたのは誰か。花の美しさ、木々の勇壮さをつくり上げたのは誰なのだろうか。人間という、不可思議な謎と言える存在を創造したのは、いったい誰なのだろうか。それは、すべての生命の総体である神ではない。在るものすべてを創造したのは、自分たちも神々であり、すべてを愛する父なる存在の息子である、あなただったのだ。すべてをである。父なる存在とは、すべてのものが、そこからできている物質、思考体だ。しかし、思考する能力、感じる能力、それに自由な意志という神なる本質を持ったあなたこそが、この世界での崇高なる創造主なのだ。
 神は確かに思考の総体であり、在るものすべての源である。しかし、父なる存在そのものである思考から、すべての創造物の美と魔法を創造したのは、あなたたちだ。創造力と、崇高なる神性を通して、思考を受け容れ、保持し、その想念を思いめぐらす能力があなたにはある。そして、その知性を通して、あなたは在るものすべてをつくり出したのである。
 ここで何かひとつ空想してみてほしい。わくわくするような、スリリングな、気持ちが思わず昂まるような空想だ。今度は、その空想がもたらす感情をすべて、余すところなく味わい尽してみよう。そう、あなたの宇宙はこうしてつくられたのだ。人間はこうしてつくられたのである。すべてはこうしてつくられたのだ。
 わが愛する主たちよ、あなたはまさにすべての生命の創造主だ。皆は宇宙のみなし児などではないのだ。それどころか、宇宙を創造した側なのである!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 121-122

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 44-h [9-o] (あなただけが父なる存在の完璧な複製である創造物である)

 神である父の最初の創造物となったあなたは、それぞれが神から生まれた神であり、父の息子であり、そして神の精神と呼ばれる崇高な知性の一部となったのである。神々であるあなたたちだけが、神から直接創造された存在だ。あなただけが、父なる存在の完璧な複製である創造物なのだ。それは、父なる存在が拡大した姿があなただからである。父なる存在のすべては、その愛する息子たちをすべて合わせたものの内に、無限に息づいているのである。
 父なる神とは、生命という強制的で思索的である思考のことだ。あなたの思考がじっとしてはいられないように、それはけっして立ち止まらない継続する過程である。思考、あるいは生命が永遠に向かって拡張を続けていくためには、それを続ける理由がなくてはならない。その理由が、あなたなのだ。あなたたちの一人ひとりが神の精神の一部となったのは、あなたを通して生命が永遠に拡張を続けるためだ。永遠とはけっして時間の単位ではない。なぜなら、永遠とは、この瞬間のことであり、現在という瞬間の継続性、永続性そのものであるからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 124

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 44-i [9-p] (思考はそれ自体について思索し広がっていって光になった)

 はじめにまず、思考がそれ自体について思索し、広がっていったときにどうなったか。それは思考の本質のなかでも光と呼ばれるものになったのだ。光が最初に創造されたのは、思考が行なわれ広がっていくとき、その波動は必ずある周波数、光を発する周波数のレベルまで下げられるという理由からだ。つまり、思索され、拡張された思考が降りていく最初の形態が光なのである。あなたの血筋は、この光の誕生のときまでさかのぼる。なぜなら、最初に思索の対象となった想念から生まれた光の分子が、それぞれがひとりの人間となり、神となり、息子となったからだ。こうして、創造の誕生のとき、すべては光の存在と呼ばれるものになったのだった。
 皆の誰もが、この同じ瞬間に創造され、存在するようになったのだ。過去に存在したもの、これから存在するもの、すべての存在は、神が自己について思索したこの瞬間に思考から光へと創造されたのである。思考から広がっていった光は、「思考の河」と呼ばれるすべての想念の流れ、つまり神の精神と隣り合わせに位置しており、その一部となったのだ。
 皆の一人ひとりがなった光とは、そのときもいまも、あなたそのものである知性であり、光という形に広がった神だ。この神なる光、あなたの最初にして永遠の身体であるものこそが、あなたの存在の精神、あるいは私が「あなたの存在の内にある神」と呼ぶものだ。あなたの精神は、まさに神、神の心なのであり、それも単一の存在としての、という意味合いのものだ。今日でも、あなたはこの原初の精神、原初の神なる自己を持っている。そしてあなたは、思考という、あなたの愛する父が思索をめぐらし、光へと広がったその瞬間に光の存在となったのであり、いまでも、この輝かしき原初の光体をそのまま内に有しているのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 125-126

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 44-j [9-u] (思考観念を用いて神々が乗る車両として人間は創造された)

 神々が自分の創造したものを直接体験し、しかも創造性の表現を続けるための手段として、物質界での存在をつくろうと決心したのは、食物連鎖がしっかりと確立されてからのことだった。それも、創造したものとしてではなく、自分自身として体験する媒体を、である。そのために、彼らは人間という化身をつくったのだ。
 思考は浸透性の周波数を持っている。つまり物質を通過してしまうということだ。そのために、光という形の思考であった神々は、花になることはできたが、その香りを嗅ぐことも、その本質を知ることもけっしてできなかった。彼らはちょうど、木々の間をそよぐのに、木そのものを感じたり抱きしめたりすることができないそよ風のようなものだった。石を通ってしまうことはできても、それを感じることはできなかった。思考は石という物質に影響されることがなかったからだ。その低いレベルの波動を感じる能力を備えていなかったのである。
 神々が花の香りを感じ、花を手に取り、身に飾るには、またその美を知り、そのあざやかさを体験するためには、物質界に存在して、花と同じ周波数で振動する媒体をつくらねばならなかった。このために、ほかのすべてが創造された後、人間という化身が創造された。神々が、物質体、あるいは「固体」、つまり思考が最も低次のレベルまで変換されたものを通じて、自分の創造物を体験し、また自分の創造性を表現していくという目的のためである。
 人間は思考観念を用いて、神々が乗る車両として創造された。それは個々の神々にとって、完璧な化身だった。魂を宿らせることができて、しかも神の精神で包むことのできる化身だったからだ。これで神は、花に触れ、その香りを嗅ぐことができたのだ。その体験は、神々の行ないの中でも至上の宝と言える「感情」として、魂の内に永遠に記録される。これで神々は、木を見てはこれに思いを馳せ、その香りを楽しみ、その美に触れることが可能になった。これで神々は、互いの姿を見て、触れ合い、抱き合い、そして話すこともできるようになった。互いに育み合い、観察し合い、完璧に自由でいられるようになった。神々は、今度は人間としての遊びの対象となる、まったく新しい冒険を手にしたのである。それは、目には見えないながらも大切な本質、感情というものを体験するためであった。
 こうして、固体の密度を持たない光の存在である神々は、自分の観念にあった密度をつくり出したのである。この化身という固体を通して、神々はいまひとつのレベルで自己を表現することが可能になったのだった。それは、想念が物質という形で投影され、出現するという次元だ。この過程で神々は、人類と呼ばれる細胞物体の知性という形で表れた単一の「神」、つまり神なる思考そのものとなったのである。こうして、彼らは神なる人間、人間なる神になった。人間というすばらしい形態で自己を表現する神、自分の内にあって、自分の父なるものの永遠への広がりを続けていく神を表現する人間となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 131-133

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 44-k [8-a] (凝縮した思考と集約された物質で人間は創造されてきた)

 最初の人間は、神々のある一団がいろいろな試みを繰り返して初めて誕生した。最初は男だけが創造されたが、それも目に見える形での性器を持っていなかった。それは体内にあり、自己複製(クローニング)というプロセスを用いて、自分で繁殖ができるのだった。最初の男性ばかりの化身たちは、皆一様に似たような姿をしていた。彼らは今日の皆の目から見れば、グロテスクと映るような下等な生き物だった。だが、当時の神々にとっては、彼らは美しかった。しかし脚があまり早くなかったために、いつもまわりの動物の餌食となった。そこで神々はいろいろ試し、長い時間をかけて手を加えて、やっと自分が完全に乗り移るに値するものをつくり上げたのだった。化身が完成すると、数多くの神々が、人生の探求という新しい冒険のために、大よろこびで化身に入っていった。
 神々が宿った化身は、きわめて危険な環境の中で生き、ほかの生き物と共存していくために、光の存在たちがいつも手を加えて改善してゆける力を持つようにつくられていた。神が感情という形で抱いた想念はすべて、一つひとつの細胞の中にパターンとして記憶され、自己複製のプロセスを経てもそのまま伝えられるように、この化身はつくられたのである。
 ずっと後になり、男をさらに完成させた形として「人間の子宮」、つまり女が創造されると、遺伝子の共有を通してこの化身に独自性を与え、それをさらに複雑化、高度化させることが可能になった。男はそれまでに得てきた叡智を自分の精子に持ち、女は卵子に持った。性行為を通じて両者の遺伝子パターンがひとつになり、親の学びや気づきを基盤とした、さらに偉大な存在が創造されるのであった。だが、そこで創造されるのは、さらに良い身体であって、精神ではなかった。
 神々が人間として生きることについての理解を深めるにつれて(生存がこのプロセスを必要とした)、原初の姿から身体をさらに完成させる働きは続き、それが「進化」と呼ばれるものとなり、皆の数え方で言うと、これが千五十万年以上続いたのだ。現在の皆の姿になるのに、それだけ長い時間がかかっているのである。
 あなたの身体はまだ若い。移動性の高い、立った姿勢の人間は、まだ千五十万年の年齢でしかないのだ。しかし、光の存在であるあなたは、いつのときにも存在していたのである。なぜなら、時間という概念がなかったというのに、思索する思考の始まりがいつだったのかを、いったいどうやって決めることができるのか? つまり、あなたはときの彼方からある古い存在なのだ。あなたがときを数えるのに使う用語でいうと、何十億年という間、あなたは電磁場の中での創造を続けていた。それから今度は、電磁場の波動を下げて物質にすることが、これまでと違う新たな冒険となった。
 こうして、何十億年という創造と探求を通じて、人間は、凝縮した思考と集約された物質でできた、生きて呼吸する生き物となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 133-135

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 44-l [52-a] (私たちは神との愛を通して互いにつながっているのである)

 私にとって、皆は愛する兄弟だ。私だけでなく、見えるもの見えないものを含め、すべての宇宙に在る、生命のすべてのレベルの、すべての存在と兄弟なのだ。私たちは皆、神という存在の恩寵、知性を通して、そしてそれよりもずっと大事な意味で、その愛を通して互いにつながっているのである。その神とはもちろん、あなたがどんなに破天荒なことをしようとも永遠にあなたを支え、維持していってくれるすばらしい思考のことだ。
 皆は全員が、かつては光を発する思考の片鱗だったのであり、それが永遠という途切れなきプロセスに向かって神が存在し続けていく姿になったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、細部まで気を使い、多くの試みを重ねながら、あなたは物質という化身、あるいは別の言い方をすれば、「凝縮した思考」をつくり上げた。化身を通して、それまでとはまた違う次元の存在で自分を表現できたあなたは、神という思考パターン全体を探求できたのだ。この限りない創造性への冒険を通して、かつては形を持たない光だったあなたは、自分を人間という細胞物質へと生まれ変わらせたのである。その過程であなたは神なる人間になったのだ。それは、人間という生きた生命体を通じて表現される神の知性の姿なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 141-142

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 44-m[8-d] (人間という形の神にならない限り神の絶対性は理解できない)

 人類として、皆は自分たちが未開の存在だと思っているのだろうか。目に見えない世界にいる者に比べて、自分たちが劣ると考えているだろうか。そんなことはない。いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入れている。人間という形の神にならない限り、神の最終的な絶対性ともいうべきものを理解することは、けっしてできない。それは誰にも不可能なのである。なぜなら、神の王国は、光から電磁場へ、そして物質へ、形体へと拡張していく性質のものだからだ。つまり、神とは、思考の中の高い波動であるだけではなく、固体物質という、密度が最も高く、波動もいちばん低い思考の形でもあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 142-143

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 44-n[8-e] (人類であることは一つの特権であり神なる生き方にほかならない)

 まだこれから神なる人間になる必要がある存在は、神としての完全な体験を持っていないそれに思いを馳せ、すべての生命から叡智、智慧を得ることができない。この次元に旅した者たち、この次元の目を見張るような世界の一部となるとともに、それを進化させた者たち、山々を動かし、色をつくり出し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛やよろこびや創造の精妙さを理解できるのだ。この旅人たちだけが、あなたもその一員であるこの存在たちだけが、永遠を理解し、それを追い求める気持ちを理解したのである。彼らこそ、すべての生命のために永遠というものを創造した張本人だからだ。物質の次元がある限り、生命が無限の創造性へと途切れなく続いていくことを可能にしてくれるからなのだ。だからこそ、男であること、女であること、人類であることは、まさしくひとつの特権であり、誉れである。これはまさに神なる生き方にほかならない。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 143

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 44-o[8-f](人類は天使よりもずっと進化した存在である)

 皆が「天使」と呼ぶ言葉がある。このような神なる存在になりたいと願う者が皆の中にもたくさんいる。だが、天使でいることには大きな短所がある。彼らはまだ人間として生きていないために、理性のバランスというものがない。これから最終的には神の化身として人間になる存在ではあるが、いまだ単なるエネルギーの存在にすぎないのだ。それに、彼らには人類に対する情けや慈しみの念といったものがない。実際にあなたになってみるまでは、目に見えない世界に生きる存在に、どうしてあなたのことが完全にわかるであろうか。人類は天使よりもずっと進化した存在だ。天使たちには、人間という限界のある形で生きる神についての理解がない。このために、人間のよろこびや哀しみなど、人類についての理解に限りがあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 143-144

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 44-p [8-g] (人類の一員となることはそれだけで聖なる体験である)

 人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになるのである。
 したがって、人間になることで、あなたは自分をおとしめたわけではない。これは絶対に理解しておく必要がある。もし、これまで人間になったことがなければ、完璧な形や天界に入ることはけっしてできないからだ。生命のレベルに降りたことがないのに、いったいどうして天界に昇華することなどできるのだ?
 あなたの内に燃える全能の神というこの火、それを理解するために人間になるのは、充分その価値があり、また賢い選択でもある。すべての生命はこの火でできているのだ。そして、人類と呼ばれるこの物質界での知性を通してそれを体験すれば、神とはいったい何なのかについて、完全な視野を与えてくれる。そして、神の何たるかをすべて完全に理解できたとき、内面、外面の宇宙や、物質、肉体、愛、よろこび、哀しみ、それらがすべて理解できたときに、あなたは父なる存在そのものになるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 144

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 44-q[56-f] (この世に生きる最大の理由は神である自分を理解すること)

 皆の一人ひとりは、さまざまな理由のためにこの次元に生きている。しかし、最大の理由と言えば、すべての中で最も大きな神秘、つまり自己を理解するためだと言える。これは、私が神、あるいはあなたの内にある父なる存在として語っているものであり、あなたの存在のはじめにその存在理由を与えてくれたものであり、あなたが創造し進化してきた手段でもあり、そしていつかまたあなたがなっていくものである。
 あなたが神そのままになる、つまり自分の内にある神を完全に表現していくとすると、あなたがなろうとしているものはいったい何なのだろう。自分がなるべきものを判断する基準を与えてくれるような神とは、いったいどんな神なのだろうか。それを少し考えてみよう。
 私が愛する神、その僕である神、それを通してすべての神秘のはたらきがなされる神とは、生命の全体性が途切れなく続く姿のことだ。生命の王国が続いていくのは、永遠が続いていくことであり、そこでただひとつ存在するのはいまという瞬間だけである。この「いま」、この特定の瞬間には、神とは在るがままの姿でいるすべてのもののことだ。したがって、この「いま」では、神は在るものすべての「在るということ」になる。そして、これからやってくる無数の「いま」では、神はすべての生命が、それ自体よりもほんの少し先を行く形で脈打っている姿であり、鼓動しながら生き、感じ、広がり、そして進化しながら自己の存在を表現している姿なのである。
 神とはすべて存在するものの最終的な姿だが、境界もないし、始めもないし、終わりもない。それは並ぶもののない無限性なのである。神の「在るということ」は、現実の上にある現実であり、次元の上にある次元であり、宇宙の上にある宇宙なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 149-150

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 44-r[22-d] (銀河系だけでも百億個の太陽がありこの地上だけに生命があるのではない)

 ここにはほんの小さな銀河があるにすぎない。そしてもし皆が、自分たちがそこに存在するただひとつの生命であると考えているなら、それは倣慢であると言わざるを得ない。皆の住む銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星があるのだ。
 いったいどのくらいの数の太陽系が存在しているかを伝えられる数の単位は存在しない。大小あらゆる惑星、そこに生息する生命をすべて数えあげられる数字も存在しない。数はないのである。もし無限というものを理解したいと願うなら、時間や距離や単位を超えて考えられるように、頭の中をプログラムし直す必要がある。さらに大きな現実では、そういうものは存在しないからだ。
 神はただ在る。始まりとはいつのことだったのか? そんなものはなかったのだ。神はつねに在ったのだ。思考、宇宙、空、テルスター(telstar)を維持し、それに生命を与える。テルスターが何か知っているだろうか。光を物質に変容させ、それを宇宙に噴き出して星団をつくるものだ。ではテルスターはどこからきたのだろうか。思考、空、宇宙空間、見わたせば星と永遠が見える偉大なる空(くう)からだ。神の最も完璧で限りない存在としての姿を思い描きたければ、宇宙空間という終わりなき永遠を思い描くとよい。宇宙空間こそが、あなたの目にするものすべてを取り囲み、在るものすべてを維持し、その存在を確立してくれるものだからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 150-151

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 44-s[22-e] (終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのか)

 皆、宇宙空間のことを、まるで何もない場所であるかのように語る。しかし、すべてのものをしっかりとその公転軌道に固定しているのは何なのだろうか。虚無空間に皆の惑星である地球を浮かばせているのは何か?百億個の太陽を有する皆の銀河を支えているのは何か?何がすべての物質の通過を可能にしているのか?よく考えてみれば、光が移動するときはいったい何の上を通っていくのか? これがすべて、あなたが「何もない」と言う場所で起きているというのだろうか。百億個もの星と、その太陽系を維持できるその「何もないもの」をぜひ見せてはしい。
 神はあるレベルでは、すべてのものを構成する物質だ。別のレベルで言えば、異なる次元にある時間の流れであり、並行した宇宙を創造する時間の歪曲(タイムワープ)である。さらに別のレベルでは、物質を支える光という周波数帯だ。そして何よりも大きなレベルでは、あなたを現在の位置に保っている「何もないもの」、つまり思考であり、宇宙空間の永遠なのである。
 神とは生命すべてであり、脈打ち、広がり、進化し、永遠へと途切れなく続いていく。それは、過去にあったものの存在を可能にする「在るということ」であり、いま在るものの永続性であり、これからやってくるものの可能性である。生命を与える動きであり、定まった目標や理想に到達するのではなく、思考から光へ、そして物質へと、つねに生命を創造し続けている限りない思考プロセスなのである。神とはすべての物の本質部分であり、それがある意図を持った動きの中でつねに変化し、創造し、広がり、そして存在する姿なのである。
 すべてを包括し、何よりも力を持ち、つねに進化を続け、動き、存在し続けていくものの姿を、いったいどうすれば認識できるというのだろか。このいまの瞬間の神が、次の「いま」には同じものではないというのに、どうして「これが神である」と示すことができるのか。終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのであろうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 151-152

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 44-t[54-r](神そのままになるということはあなたそのままになるということ)

 父はあなたというすばらしい存在の内面以外のところにはけっして認められない。それを試みることさえ、自分に無理な要求を課すことになる。なぜなら、もともと自分の内面から発するものを語ろうというのに、自分の外を見ようとしても、始まらないからだ。神の姿を認められるただひとつの道とは、自分の内面にある父の姿を見極めることだ。何よりもまず、それはとても気分のいいことではないか。限りない創造という複雑なものを理解することから、自分自身の人生、思考過程、そして「在るということ」、すべての「いま」に意識を戻すことができるのである。
 父を知覚し、理解し、感情面で知るためのただひとつの方法は、あなた自身が誰なのかを理解し、感情を通してそれを知ることである。そうすれば、あなたは神を知ることができる。そしてこう言うことができるようになる。「私は父なる存在とは誰なのかを知っている。私と父はひとつであり、私は自分自身が何者なのかを知っている」
 神そのままになるということは、あなたそのままになるということなのだ。自分が単に自分の「在るということ」でいられるとき、あなたには終わりもなく、限界もなく、創造性と選択あふれる存在となれるのだ。あなたはすべてを許容するようになり、動きそのものとなり、静謐であり、よろこびなのだ。純粋なエネルギーであり、力強い方向性であり、全身すべての感情であり、思考であるのだ。自分の存在すべて、自分の呼吸すべてをかけて存在し、自分を愛し、自分の美徳が生活の中に入ってくるのを許す。これがまさしく神そのままに生きるということなのだ。
 とにかく、ただ自分でいることだ……「在るということ」だけでいるのだ。存在のレベルでは、あなたはすべてでもある。神になるとは、こう語ることだ……「私は在るものなり」。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 153

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 44-u[54-s] (神はあなたと一つであり別の存在なのではない)

 あなたの神なる意志のほかに、「神の意志」なるものは存在しない。もし神が、生きるということを、ただひとつの表現方法しかないような、凡庸なものにしたかったのなら、あなたを存在させることはなかっただろう。自分の明確な目的を持った独自性を表現できるように、あなたに意志を与えもしなかっただろう。
 「神の意志」と呼ばれているものは、自分の兄弟たちを統治し、支配するために、人間の手によって創造されたものである。その教えを信じて、神の意志が自分のものとは別にあると考えてしまうと、つねに「彼の意志対自分の意志」という対立に明け暮れることになる。なぜなら、あなたが、あることをしたいと願い、それをしなくてはと感じているのに、「神の意志」は、そうしてはならぬと言うかもしれないからだ。
 神はあなたと別の存在なのではない。神とあなたとは同じひとつのものなのである。あなたの意思はまさに神の意志なのだ。あなたがしたいと思うことは、まさしく「神の意志の領域」と呼ばれるものであり、神の意志そのものなのである。したがって、あなたはけっして自分の運命と対立しない。なぜなら、運命は最初から決まっているわけではないからだ。それは、すべてあなた自身が決定していくものなのである。あなたが思うことはすべて、これからやってくる瞬間を創造しているのだ。あなたのこの瞬間は、まさにほんの少し前のあなたの思考の産物なのである。それが神の科学というものだ。父なる存在が、その意志であなたのために決めることといえば、自分の魂の内にあるさまざまな感情にしたがって、人生の全体をすべて体験すべし、ということだけなのだ。なぜか? あなたがよろこびとは何かを知り、神があなたに、そしてすべての生命に対して持つ無条件の愛を知るようになるためだ。
 もし、あなたが、どうも神と折り合いがよくないと感じているなら、もしかしたら、神について、あなたのもつイメージをつくり直すべきなのかもしれない。というのは、もしあなたが神と闘わねばならないのなら、その神は無条件の愛とは言えないからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 154-155

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 44-v[54-u](神こそがあなたの夢を実現する基盤なのだ)

 にぎやかな出生の瞬間から、父は皆の一人ひとりに、純粋で無条件の契りを与えた。それはこういうものだ。あなたが考えるもの、望むもの、何であろうとも父はそれそのものになる。その契りはいまもあり、これからもずっと変わらない。その契りを通して、皆の一人ひとりが父なるものすべてを踏襲する後継ぎとなったのだ。このようにして、父は自分そのものである人生すべてをあなたが理解し体験できるように、その瞬間までの自分をすべてあなたに与えるのである。父こそがあなたの夢を実現する基盤なのだ。だが、夢を紡ぐのはいったい誰なのだろうか。あなただ。では、あなたの夢はいったい何でできているのか。想念、神、生命だ。
 神そのものである想念すべてをもとにして、あなたはどんな真実だろうと、価値観だろうと、望み、願いだろうとそれを創造することができる。自分の思考過程で創造するどんな真実でも、価値観でも、父そして人生は必ずそのとおりになってくれる。そしてあなたが望むどんな想念、理想であろうとも、父なるものは、自分自身でもある物質を通じてこれを具現化し、あなたがそれを体験できるようにしてくれるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 156-157

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 44-w[15-c] (自分の思考をどう使おうと神の愛はけっして変わらない)

 あなたへの神の愛の例として、ある神によって生命連鎖の中に長い生命を与えられた蛇という生き物を見てみよう。この生き物は、さまざまな筋肉と骨がある長く細い身体を持つ。動きは非常にすばやく、とても大きい頭部には、ただひとつの防御手段である、皮膚を破るほどの力を持つ牙がある。噛みつけばわずかのうちに大きな体格の人間でも倒すことができるが、逆にどんな人でも蛇を斬ったり、わけなくつぶしてしまうこともできる。
 さて、二人の神を考えてみよう。最初の神は科学的な心を持っていて、蛇をすばらしい生き物として見ている。脚もないのに動きは大変すばやいし、皮膚には美しい色と模様を持ち、どこまでも続くとさえ思われるような華麗な骨格があるからだ。別の神がやってきて、蛇はぞっとする下等な生き物だと言う。噛まれれば危険だし、人間を殺すことができるのだから、ひどい生き物だというわけだ。
 すべての生命の「在るということ」である父なる存在にとっては、すべてのものは在るがままの状態で純粋だ。すべては父そのものである生命の表現という意味においては、純粋無垢な存在なのである。何かを美しいとか、下等だ、醜いなどとするのは、その対象へのそれぞれの見方なのである。父なる存在である思考をもとにして、対象に思いをめぐらし、変えていくという創造的な力を持っている私たち神々だけが、本来は真に純粋で無垢なものを、ただ存在する以上の何かであると判断を下してしまうのだ。
 神の最高の創造物であるあなたに、この蛇に対して自分の好き勝手な判断を下し、意志を行使する権利を与えるほどの神の愛(蛇という生命の実体もこれだが)とは、いったいどれほど偉大なものであろうか。生命の力が持つあなたへの愛は、あなたが思考を通して願うものなら何にでもなろうというほど深いのだ。父なる存在は、何でもあなたが望むものになる。あなたが変えたいと望むとおりの姿にさせてくれる。父そのものである生命は、下等で醜悪、卑しいものにも、最高峰の美にも、あなたが見たいと願うものそのままになるのだ。
 さて、この父なる存在が、何でもあなたが知覚し願うものになるということ、それもあなたの思考過程のおもむくままにそうなるのは、驚くべきことではないだろうか。そう、これこそ愛というものだ。
 自分の思考はどう使おうとかまわない。父なる存在のあなたへの愛はけっして変わらないからだ。神そのものである人生を、あなたがどれほど下等で卑しいものと見ようが、それは神にとっては神そのもの、自分そのものでしかかいのだ。それでも神であり、純粋であり、愛されているものなのだ。この約束はゆるぎないものである。父なる存在は、それ自身では価値判断を下すことがまったくないからだ。父はただ在るのみである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 157-159

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 44-x[54-v] (どこで神に挑戦しようともあなたは必ず愛されている)

 あなたと神の間の愛に条件はない。もし神があなたの思考を検閲したり、神自身である生のすべてを体験するのを妨げたとしたら、神を永遠に広げていくという自由が、あなたにはなくなってしまうだろう。
 神は、自分のしたいようにする完璧な自由がある状態のあなたを愛している。あなたの意志は彼の意志だからだ。それが神とその息子たち、そして神と神自身の間の契りなのだ。あなたが何をしようとも、どこで神に挑戦しようとも、あなたは必ず愛されている。神はあなたが望むとおりのことをさせてくれる。あなたが途切れない存在であり、何者もあなたを神から切り離すことはできないことを知っているからだ。父なる存在は、あなたの生命の原動力を取り上げることができるような、自分より高次の存在をつくったりはしていない。だからあなたはつねに存在していく。ここでの人生が完了すれば、またさらに別の機会がある。自分の好きなように創造する自由が……。
 この人生、そしてこれからやってくる人生を、あなたは自分の意志にしたがって生きていくだろう。そして、その自由をあなたに与えたのは、あなたを愛する存在、あなたの父、全能の神、すべてを愛する者と呼ばれる存在なのである。
 あなたは自由な存在なのだ。意志という力と、愛という能力によって。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 159

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 44-y[9-zn](あなたは身体の中に永遠に生きていける力も持っている)

 反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。
 反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。その寺院とは、あなたのことだ。すべてはあなたの内面にある。あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。限界と無限の両方の存在を許すのである。
 「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。それがハルマゲドンだ。自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。
 神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。
 あらためて言おう。あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。それに、望むものは何でも実現させる力を有している。もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 271-273

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 44-z[20-l](自分を愛すれば愛するほどあなたの脳は開いていく)

 ここにいる人たちは皆、物質という限られた形態で神について学ぶことでは、その能力いっぱいまで成長してきたと言える。地上界でのたくさんの生を通じて、自分の創造性の産物であるこの天国のあらゆる要素を体験してきている。その体験を通して、社会意識という、動物の群れのごとき現実に生きる神なる人間の限られた思考の価値観については、知るべきことはすべて学んだのである。恐れや不安、悲しみや怒り、強欲についてはもう学んだのだ。嫉妬、憎しみ、戦争についても学んだ。死についてもすでに学んでいる。自分自身と、自分の神なる「源」との断絶についても、もちろんもう学んでいる。そして、その源は、この地上界という、「在るということ」が目を見張るような形で見られる場において、あなたがその最終のレベルで神を体験できるように、すべての冒険を通じてあなたを愛し、支えてきてくれた。
 無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、あなたは自分をひとつにしているものに再びならなくてはいけない。身体というやっかいな荷物があるので、それになるただひとつの道は、第七のチャクラである脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ越えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることである。それが、自分の「知っている状態」を限りない神の叡智へと広げる方法なのだ。神の叡智とは、その存在そのものであり、在るがままでその存在を許し、愛しているもののことであり、つまるところ、それは思考の総体なのである。
 では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れを使って脳の眠っている部分を目覚めさせるには、いったいどうすればいいのだろうか。それは、単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてを愛しみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。
 自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。審判を超え、時間という幻影を超えるのである。あなたは自己の命を満たすためだけに生きるようになる。自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。そして、よろこびの道だけをたどる。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。
 さて、あなたは私にこう言うだろう。「でもラムサよ、それではまったく利己的なのではありませんか?」と。そう、まさにそのとおりだ! しかし、利己的というのは、利神的なのだ。あなたの内にあるこの神のために生きるすべての瞬間、そして心に抱いたあと、手放すことのできたすべての幻影、そして自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるのである。自己への愛(これはまさに神への愛ということだ)だけのために生きるようになったとき、あなたは社会意識の密度の中に神を浸透させていく。すると、あなたは愛する兄弟たちが自己へと戻る道に光を当てることができる。それは、彼らを愛する父のもとへと返してくれるただひとつの道なのだ。
 自分を本当に愛し、自分は神をそのまますべて受け容れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 274-276

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 44-za[65-f](あなたはこれまでの生でのあらゆる体験から智慧を得てきた)

 あなたは自分の好きなように夢を創造できる。だが、自分の理解という目的のためにどんな形の夢をつくり出そうとも、それは同時にあらゆる場所の意識全体に何かを加え、豊かにしているのである。あなたがそこから何かをただ取り去るということはない。それはできない。あなたが嬉々として取り組んでいく冒険は、すべて生をさらに情熱的で鮮やかなものにする。心に抱くすべての想念、体験するすべての幻像、すべての発見、それにどんなに卑しく醜いものでも、あなたの一つひとつの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、それを広げるとともに、神の精神をも拡張するのである。
 もし自分が人生で失敗し、何か過去に間違ったことをしたと思うと、自分自身の内面、外面両方の偉大さ、それに生全体の重要性を見て取る力を減じてしまう。過去をなくしたいなどとけっして思ってはならない。過去のどの一部でもだ。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との間の相克は、あなたの魂の内に、美しき叡智の宝玉をつくり出したからだ。それは、もう二度とそういう夢は見る必要はないし、そのゲームをつくり出すことも、その体験もしないことを意味している。すでにすべて体験し、それがどんなふうに感じるかもあなたは知っているし、生で最高の宝であるフィーリングというその記録を魂の内に持っているからだ。
 私は、あなたが愛されていることを伝えるためにここにいる。愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。それは、あなたが、自分が誰か、何なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからである。そして、これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と智慧を得てきた。それを世界に与えてもきた。花が開くように展開されていく生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。
 あなたの人生は、あなたの内にある火がつくり出したすばらしき壮観だった。それは、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。どんな仮面をかぶろうともあなたは神なのだ。どんな人間関係を体験していようとも、あなたはやはり神なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 307-308










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 46. 霊界の生活

B46-a (美しい霊界の現実をいかにして地上へ伝えるか)

 私は言葉に表わすことができないほど美しい “天の世界” にいます。この現実を地上にいる私の友人たちに伝えることが私の最大の願望です。私がやってきたこの天国がどのようなものであるかを理解して初めて、これを分かち合うのが可能になることも私にはわかっています。このようなわけで、死後の生活についての真実を広く知らせたいという衝動をますます深く感じているのです。私が地上で生活をしていた間に、伝道者としての評判をある程度勝ち取ったと言えるのではないかと思います。私はこの仕事を地球の人々のために、今も続けていますが、私が地上にいたときに用いていたものとは異なる方法と手段を使っています。
 地球そしてそこに住む人々と本当の接触をすることは、なんと難しいのでしょう。私がかつて想像していたのとはすべてが違うのです。霊的な存在の真実の生活がどのようなものであるかについて、人間はまだ理解しておりません。神に感謝します。今、その真実を覆う霧が晴れ、これまで可能であるとは思われなかったような明確さで見えるようになっています。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル』(大内博訳)
   講談社、1994、p.160

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 46-b [27-a] (霊的真理に無知のまま霊界で眠り続ける無数の人たち)

 もしそこを見れば大きな悲しみをもたらすであろう次元について、ひとつだけ話しましょう。そこは、意識の第一、第二のレベルを表現している存在たちの次元です。そこは平野のような平らな場所です。そこには何があるのでしょうか。山々や川、草花や空が光の状態でいる姿はありません。何十億という存在が、その光の化身の形のままで、無限に続く列をなしている姿があるのです。彼らは眠りの状態でそこに横たわり、自分たちは死んでいるという幻影の中に生きているのです。なぜなら、この人たちは、墓場の先に生命はあり得ないと固く信じているからです。思考はいまでも生きていて、磁気を発し、衝動も持ち、活発なのに、そのエネルギーのレベルでは、自分が死んでいると思い込んでいるのです。でも、実はまだ本当に生きているのです。ひとつだけは覚えておくことです。どんなことであろうと、私たちが固く信じることは、それが真理であると自らを必ず納得させてしまうものなのです。そして、真理であると知っていることは、すべて現実の姿へと変容します。私たちの創造性、そして意志は、それほど強い力を持つものなのです。
 この次元にいる皆の多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、死んだ状態のままでいると教えられました。そして神の愛から断絶されるという恐れの気持ちから、この教えを真理として受け容れたのです。こうして、死を目前にしたとき、彼らは復活を待つ場所に行くのだと信じました。そのために、このレベルでは、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待つ存在が、何列にも何列にも並んでいるのです。私たちは彼らを目覚めさせようともしました。実際にひとにぎりの存在が目覚め、起き上がりました。しかしまた、彼らのほとんどは、何か悪魔のようなものが、自分たちを誘惑し、起こそうとするとも教えられてきています。これも、彼らは真実として知ってしまっていることです。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのです! 自分が生きていることに気づき、眠りから覚めるのに、まだ何千年とかかってしまうのかもしれません。本当に残念な教えだったと言えます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 91-92






 47. 



 48. 



 49.



 50. 業・カルマ・因果律

 50-a [74-a] (人の一生は後天的に変わりうるか)

 人の一生は過去生の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
 私が常に人々にいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
 意志カの強い場合、これも真理に素直であることが根抵にないと、意志カだけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
 善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志カにものをいわせ、徴底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
 祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正のカとなる。
 その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.81-82

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 50-b[25-e] (カルマ的つながりは必要性を宗教的に説明しているにすぎない)

 ―最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。

 彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?

 ―でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。

 主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 191-192

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 50-c[25-f] (皆がカルマと呼ぶものは神の法ではない)

 ―なるほど。言わんとしていることはわかるような気がします。でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。

 あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。それを信じる人たちの法なのです。残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完璧という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょぅか。カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。それは一人ひとりが責を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
 カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。その信念に力を与えたからです。そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 192-193

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 50-d[25-g] (カルマは存在せず気まぐれな欲求だけが存在する)

 私は、カルマ、あるいは完璧という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。完璧というものはありません。あるのは、「在るということ」だけです。生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。ですから、完璧な状態というのは、けっして達成されはしないのです。
 私が認めるのは「在るということ」だけです。そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。
 あなたは自由な魂であり精神なのです。あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。あなたにはそれをする限りない力があるからです。
 カルマは存在しません。欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 193-194

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 50-e[25-h] (あなたが自分の運命を支配し自分の人生を創造している)

 殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。それは永遠のものでも永遠の状況でもありません。ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。
 あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか? なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。
 誰があなたの運命をつくり出していると思いますか? 多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。それは途切れなく続いているのだということです。そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それは昨日にとらわれているわけではありません。あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。それが父なる存在のあなたへの愛なのです。それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 194-195

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 50-f[25-i] (あなたは過去の行為について償いをする必要はない)

 誰も過去に支配されている人はいません。一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。いつのことについてもです。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。
 過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。
 主よ、でもその過去はもう終わっているのです。それはもうここにはありません。過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。過去のおかげで得られたのはそれなのです。だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。
 実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。
 あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。それなのにあなたは完璧を求めるように言われているのです! いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 195-197

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 50-g[36-c] (あなたは自分で選んでこの地上に戻ってきた)

 あなたがここに戻ってきたのは、自分でそれを選んだからであり、自分で選んだ身体を通してやってきたのです。あなたの母親の卵子と父親の精子から、この「創造する幻」という次元で自己を表現するために自分の身体をつくり出したのです。前にしたことの帳尻を合わせるためにここに戻って来たのではなく、固体という存在を通して進化し、この次元での体験から得られる感情の中で自分を完成させるためなのです。
 あなたがここにいるのは、それがどんなところであろうと、自分がいたいからそこにいるのだ、ということを学ぶためです。叡智を学び、生の場でそれを実践するために、あなたはここにいます。この人生で(また、これから自分が望むだけ繰り返す幾度の人生でも)、あなたがここにいるのは、この幻を生き、魂が叡智という命を満たすのに必要なすべてを体験するためです。そして、この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなります。そして、自分がいつここでの体験を全うしたのかを判断できるのはあなただけです。ほかに誰もいません。
 主よ、あなたは神になるためにここにいるのです。そして神になるためには、自分の存在からすべての法律、すべての宗教的な教義、すべての儀式的な慣行を取り除き、思考過程を限りないものにしなければならないのです。自己表現の無限の自由、けっして死ぬことのない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は完全に無限のものであることを知るでしょう。それをあなたが知ったとき、生は無限になるのです。なぜなら、自分の存在の中で真実として知ったこと、望むことはすべてそのとおりになるからです。あなたが自分の世界で受け容れる必要のある法は、これだけです。
 自分は永遠の存在であること、これまでも失敗は何ひとつないこと、そしてこれまであなたがおかしたたったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことだということを知りなさい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 197-198















 51. 生命・波長・昇華


 51-a [23-g] (あなたは何度も何度も生を繰り返す永遠不滅の存在である)

 皆は自分の想像をはるかに超えて愛されている。というのも、何をしようとあなたは生き続けていくからだ。だったら、なぜこれまで心配をしてきたのだ? なぜ戦ってきたのだ? なぜ自分を病気にしてきたのだ? なぜ哀しみに打ちひしがれてきたのだ? なにゆえに、自分に限界を課してきたのだ? なぜ昇る朝日の荘厳さを、風の自由を、そして子どもたちの笑い声を楽しまなかったのだ? なにゆえに、苦労ばかりせず、生きることをしてこなかったのだ?
 あなたは何度も何度も生きる。あなたの種は永遠不滅の存在なのだ。あなたがどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、あなたがけっして消せないものがある。それが、生命というものだ。どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれるものが表す価値観であるからだ。そしてそれは、あなたのことなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 82

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 51-b [23-h] (偉大な存在であるあなたはこの生の後も繰り返し生き続ける)

 一輪の花に生命の途切れない営みを見ることができるならば、なぜあなたがその生命よりも劣っているなどと考えるのか。ただ春に花を咲かせ、夏には果実をならせて、秋になって葉を落とし、そして冬になると死ぬだけだと思うのだろうか。あなたはもっとも偉大な花よりも、さらに偉大な存在なのではないのか。あなたの生命はもっと重要なものではないのか。そう、まさにそのとおりだ。そして春のめぐり来るたびに花が咲き続けるように、あなたもまた生き続けるのだ。この生の後も、その後も、そしてその後も・・・・・・。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 85

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 51-c [9-h ] (思考にはすべて波動がありそれが特定の感情として体験される)

 ひとつ知っておいてほしいのです。頭の中で思いめぐらし、理解すべく心に抱く思考には、すべてある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験されるのです。ですから、苦痛に対する理解を会得しようとするならば、その人は苦痛に関連する限られた思考をめぐらしているので、その思考が低いレベルの振動数の波動を生じさせ、感情面ではその波動が痛みとして体験されるというわけです。愛について理解し、表現することを思い、学ぼうとしているならば、人と分かち合い、表現された愛に関する思考の高い波動がもたらす高揚感を味わうのです。それがどこであれ、自分の理解のために意識がおもに向いている方向が、あなたの行く天界です。それは、あなたの持つオーラと、あなたの存在の精霊が、その場所の波動へとあなたを引きつけていくからなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 88-89

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 51-d [23-i] 亡くなった母親がもしこの次元に戻ることを選ぶなら

  [前年に母を亡くしたある女性に対して]

 もしあなたのお母さんがこの次元に戻ることを選ぶなら、彼女にはあなたの子どもの子どもか、そのまた子どもになるという選択があります。もしあなたが生きている間にお母さんがこの地上に戻ると決めたなら、あなたの娘さんが子どもを持つ決心をしたときに、その子どもとして戻るでしょう。そして、もしお母さんがそうすればの話ですが、あなたにはその子が母親の生まれ変わりだとわかるはずです。その幼な子を見れば、表面上の表情や容姿を超越した感情をあなたは持つからです。そうやって彼女であることを知ることができます。
 あなたのお母さんは、その瞬間、あなたのことを知っているでしょうか。もちろんです。なぜなら、この地上界を離れると、人は化身で存在していたときよりも意識が鋭くなります。もはや物質の密度に埋没していないので、自分が意識できるすべてのレベルに、言わば波調を合わせることができるわけです。もっと密度の低い、高い波動の中にいるので、ほかの波動レベルにあるものを見られる能力を持っているのです。ほかの波動は、思考形体、光の形体として、そのとき自分がいるレベルと並行する形で存在しています。ですから、もし自分でそうしていればの話ですが、あなたのお母さんはあなたをいまもよくわかっています。ここを離れるとき、もし望むならば、あなたもここにいる人たちのことがよく見えるのと同じなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 90-91

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 51-e (自分への愛情を実感してはじめて自分以外の生命をも受け容れられる)

 たとえば、まず自分自身の荘厳な美を目の当たりにして、自分への愛情と慈しみの心を表すことができるまでは、すべての生命の美しさを見たり、それに気づいたりすること、あるいは他者に対する深い愛情と慈しみの心を表すことはできないのです。自分の心の中で、自分に対する愛情を実感してはじめて、自分の外に意識を広げて、自分以外の生命をも受け容れ、心に抱くための基盤ができるのです。これを理解し、知るようになると、それまで自分の外にあると知覚していた生命は、実は自分そのものだと気づき始めるのです。わかりますか?
 だからこそ、もし、あなたがこの次元を離れるとすれば、自分の思考プロセスと、自分が体現してきた感情面での態度とに波長が合う意識、叡智の次元へと行くわけです。それよりもさらに限りなく広がる次元に行くことはありません。なぜなら、それはまだ自己の現実となっていませんから、そのような叡智が存在すること自体、これから先に知覚していかなくてはならないからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 95-96

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 51-f [23-m] (生まれ変わりでは私たちは必ず産道を通らねばならないのか)

 ―もうひとつ質問があります。ここに戻ってくるには、私たちは必ず産道を通って生まれてこなければならないのですか?

 その質問に答えるのに、まずこの場所が三次元の知覚の次元であることをあなたにわかってほしいのです。ここは、思考を物質という三次元の形を通して目で見ることができる次元です。この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それがまず減速されて電磁場となり、さらにそれが物質の総体となり、この次元の固体となるに至ったのです。つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大密度の形態まで落としたものだということです。
 ここにあるものが同じ密度を持つためには、すべてが同じ周波数で振動もなくてはなりません。ですから、あなたの身体は、いますわっている椅子と同じ周波数で振動しているのです。あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからなのです。
 本質の部分でのあなたは、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーですから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質の中を通り過ぎてしまうことでしょう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしているのです。
 ですから、この波動の一部でいたいならば、実存する身体に宿り、その一部とならなくてはなりません。化身を持つためのひとつの方法が、産道を通って生まれてくることです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 112-113

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 51-g (物質の周波数領域を出て光の周波数領域に入る昇華)

 脳の能力がすべて使用可能な状態になれば、身体をコントロールしてその波動の周波数を上げ、物質の周波数領域を出て、光の周波数領域に入ることがいつでもできるようになります。これは昇華と呼ばれているものです。
 昇華とは、単にあなたの存在のすべてを、自分で受け容れている意識のいまひとつの次元に移行させることです。死は確かにそこに行くひとつの方法ですが、そうすると自分の化身を老いて退化するにまかせ、消滅させることになります。すると、もう化身はなくなってしまいます。昇華というのは、自分の身体を別次元に持っていくことなのです。
 この次元から昇華した者たちは、死という、究極的なものを支配したのです。思考の力を通して、身体の分子構造の周波数を高め、光の存在のレベルに身体とともに行けるところまで持っていき、そうすることで死を完全にバイパスしてしまうのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 113

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 51-h [9-j] (人間は本来すべてが昇華を体得できる能力を備えている)

 昇華を体得してしまえば、あなたは自分の身体を永遠に保ち、自分自身の化身のままで自由に往き来ができます。つまり、またこの次元に来たいと思ったら、ただ自分の波動をこの次元と同じ周波数で振動するところまで下げてやれば、もうその瞬間、あなたはここにいるのです!
 ここにいる人たちは皆、昇華できる力を備えています。肉体という幻影の陰には、すべての宇宙の創造主が隠れているからです。あなたは自分の意志で、限界のない想念を通してこの現象を起こすことができるのです。自分自身の思考に対して審判を下したりせずに、すべての想念を受け容れることを許せば、自分が夢見る理想の姿になる力と能力を持つことができます。そうすれば、何にでもなれるし、何でもできるようになるのです。ある想念を取り上げ、それを身体の中に濃縮し、身体の振動を早めるよう指令を出すこともできます。すると、思考がそのためにしっかりと保持していた理想のほうに向かって、身体が上昇していきます。身体全体がさらに早い速度で振動し始めるのです。その間、体温は上がり、身体が光り始めます。さらに振動を早めて行くにつれて、身体の物質が純粋な光の領域に入り、そして純粋な想念へと入っていきます。そうすると、それまで見えていたものの姿が見えなくなってしまうのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 114

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 51-i [2-h] (人が死ぬのは老いることを真実として認めているからである)

 この生で昇華する人は、ほとんどいないでしょう。それは、ここで教えられていることの真の意味を悟り、それを理解する人があまりいないからです。ほとんどの人は死ぬことでしょう。それは、老いること、衰えていくことを真実として認めているからであり、自分を運んでくれているこのすばらしい機械も、見栄えのいい間しかきちんとした世話をしないからなのです。だから彼らは年老い、身体はだんだんと衰弱していき、死を迎えるのです。すると精神と魂は身体との連結から解放されます。でも、この物質密度の次元にまた戻ってこようとすると、自分を表現するための媒体がまた必要になります。こうして、再び主がたくさん生まれてくるというわけです。
 ほとんどの人は死にます。しかし、だからといって、それですべてが終わりというわけではありません。それは単に、ひとつの化身という仮面が取り去られ、また別の仮面を見つけなければいけないだけのことです。しかし、もしここに戻ることを選ぶならば、昇華を促すような意識に戻ってくるでしょう。もうすぐそれは、よく理解された当たり前の現実となるからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 119

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 51-j [75-a] (光の周波数を下げる、或いは減速すると固体物質になる)

 皆のまわりにあるものはすべて物質と呼ばれている。物質とは、父なるもののことだ。あらゆるものは神だからである。しかし、物質を創造した者、その姿を定めた者とは、最高の技能を持った職人であり、神々であるあなたたちなのだ。なぜなら、存在の始まりのときから、思考を通して思い描くことができた観念をすべて物質に創造していくという、明確な目的をもった知性があなたにはあったからだ。
 さて、すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている(そしてこの感触は正しい)。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。
 光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりもさらに減速、凝縮させると物質になる。そして物質は、形体と呼ばれる分子・細胞構造体となる。そしてこの形体は、創造に必要な観念として魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。
 すべてのものの創造過程は、まず速度がまったくないもの、つまり思考をもとに、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速して、これやあれや皆のまわりにあるものすべてを創造する、という形をとる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 127-128

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 51-k[9-zb] (波動の高い思考は自然の意識の中で体験しやすい)

 皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は、制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身の死、あるいは自我の死のどちらであってもである。したがって、皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受け容れられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められているのである。こういった低い波動の想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。だからあなたは、きわめて制限され、よどんでいる意識からの限られた想念をつねに与えられているのである。こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくり出すフィーリングを内から外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。
 皆の世界の中でも、大都市の意識はとくに限られている。そこに生きる者のほとんどは、きわめて競争的で、時間志向、ファッション志向が強く、互いを恐れていて、他を受容する態度がない。したがって、大都市はすべて密度の濃い意識で覆われている。他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろしたときに見るのは、複数の色の光でできた編み目のようなものだ。きわめて限定された意識がもつ、波動の低い想念が光の場として現れているのである。
 もっと波動の高い超意識の想念とは、「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。それは愛の想念なのである。そしてよろこびの想念なのだ。天才の想念だ。それは、本当はいま私が語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。無限の思考からのフィーリングというものは言葉による記述を超えているからだ。
 波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。そこでは、生というのは単純明快なものであり、時を超越して途切れなく続き、自己と完璧に調和がとれているからだ。そこでは、人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 253-254









 52. 人類は互いに兄弟


 52-a [44-l] (私たちは神との愛を通して互いにつながっているのである)

 私にとって、皆は愛する兄弟だ。私だけでなく、見えるもの見えないものを含め、すべての宇宙に在る、生命のすべてのレベルの、すべての存在と兄弟なのだ。私たちは皆、神という存在の恩寵、知性を通して、そしてそれよりもずっと大事な意味で、その愛を通して互いにつながっているのである。その神とはもちろん、あなたがどんなに破天荒なことをしようとも永遠にあなたを支え、維持していってくれるすばらしい思考のことだ。
 皆は全員が、かつては光を発する思考の片鱗だったのであり、それが永遠という途切れなきプロセスに向かって神が存在し続けていく姿になったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、細部まで気を使い、多くの試みを重ねながら、あなたは物質という化身、あるいは別の言い方をすれば、「凝縮した思考」をつくり上げた。化身を通して、それまでとはまた違う次元の存在で自分を表現できたあなたは、神という思考パターン全体を探求できたのだ。この限りない創造性への冒険を通して、かつては形を持たない光だったあなたは、自分を人間という細胞物質へと生まれ変わらせたのである。その過程であなたは神なる人間になったのだ。それは、人間という生きた生命体を通じて表現される神の知性の姿なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 141-142













 53. 催眠術・退行催眠

B53-a (ワイス博士の退行催眠)

 彼女の頭がゆっくりと左右に揺れ始めた。何かの情景を調べているようだった。彼女の声がまたしわがれた大声になった。
 「神はたくさんいる。なぜなら、神は我々一人ひとりの中にあるからだ」
 私(ワイス博士)はこの声は中間生から来ているのだと思った。しわがれた声になり、メッセージが急に確信に満ちた霊的な調子になったからだ。次に彼女の口から発せられた言葉に、私は息が止まり、心臓が引っくり返ってしまった。
 「あなたのお父様がここにいます。あなたの小さな息子さんもいます。アブロムという名前を言えば、あなたにわかるはずだと、あなたのお父様は言っています。お嬢さんの名前はお父様の名前からとったそうですね。また、彼は心臓の病気で死んだのです。息子さんの心臓も大変でした。心臓が鳥の心臓のように、逆さになっていたのです。息子さんは愛の心が深く、あなたのために犠牲的な役割を果したのです。彼の魂は非常に進化した魂なのです。・・・・・彼の死は、両親のカルマの負債を返しました。さらに、あなたに、医学の分野にも限界があること、その範囲は非常に限られたものであることを、彼は教えたかったのです」
 キャサリンは話すのをやめ、私はおごそかな沈黙の中にすわり込んでいた。そして、ぼんやりした頭で、必死で考えようとしていた。部屋の中が氷のように冷たく感じられた。
 キャサリンは私の個人的な生活については、ほとんど知らなかった。私の机の上には赤ん坊の娘の写真が飾ってあった。娘は幸せそうに笑って、下の二本だけ生えた歯がのぞいていた。息子の写真がその隣りにあった。それ以外は、キャサリンは私の家族も、私の個人的なできごとについても、本当に何一つ知らなかった。私は伝統的な精神療法のテクニックをしっかりと教え込まれていた。患者が自分の感情や考えや態度を投影することができるように、精神科医は白紙のようなものであるべきだとされていた。そうすれば精神科医は、投影されたものを患者の心を拡大しながら、分析することができるのだ。だから私は、意識的にキャサリンとの間に、距離を置いてきていた。彼女は私をただ、精神科医として知っているだけで、私の過去や個人的な生活については、何一つ知らなかった。私は自分の学位証書ですら、診察室に飾っていなかった。
 私の人生最大の悲劇は、一九七一年に起こった。私の初めての息子が、生まれてたった二十三日で死んでしまったのだ。その子の名前はアダムと言った。赤ん坊を家へ連れ帰ってから十日ほどたった頃、彼は呼吸困難を起こし、さかんに吐くようになった。診断をつけるのはきわめて難しかった。「心房隔壁欠損を伴う肺の静脈排血異常」だと言われた。一千万人に一人の異常だそうだ。肺静脈、すなわち、酸素を取り入れた血液を心臓へ送り返すはずの血管が、誤って心臓の逆の方へつながってしまっていたのだ。ちょうど、心臓が後ろの方へ引っくり返ったようになっていた。本当に、ごくごくまれなケースだった。
 思いきって開胸手術をしてみたが、それもアダムの命を救うことはできず、彼は数日後に亡くなった。私達は何カ月も嘆き悲しんでいた。夢も希望も打ち砕かれた思いだった。一年後に息子のジョーダンが生まれ、私達の傷をやっといやしてくれたのだった。
 アダムが亡くなった頃、私は精神科医になろうと決心したことがよかったかどうか、迷っていた。内科のインターンの仕事は楽しかったし、内科の研修医にならないかと誘われていた。アダムが死んで、私ははっきりと、精神科医を自分の仕事としようと決心したのだった。近代医学がその最新の知識と技術をもってしても、私のけなげな小さい息子の命を救えなかったことに、私は腹を立てていた。
 私の父は一九七九年のはじめに、六十一歳でひどい心臓発作に見舞われるまでは、健康そのものだった。最初の発作はどうにか持ちこたえたものの、心臓の壁が回復不可能なほどだめになり、三日後に亡くなった。これは、キャサリンの最初の診察の約九カ月前のことであった。
 私の父は宗教心の厚い人だったが、精神的なことよりは、儀式を重んじる方だった。彼のへプライ名はアブロムと言い、英語名のアルビンより、ずっと彼には似合っていた。彼の死後、四ヶ月たって、娘のエイミイが生まれた。彼女の名前は、父のアブロムにちなんで命名されたのだった。
 今、一九八二年、私のうす暗い静かな診察室で、隠されていた秘密の真実が、耳をろうする滝の如く私の上に降り注いでいた。私は霊的な海を泳いでいるような思いがした。水は心地よかった。鳥肌が立つ思いだった。こうした情報をキャサリンが知っているはずがなかった。どこかで調べることができるようなことでもなかった。父のヘブライ名、一千万人に一人という心臓の欠陥のために死んだ息子のこと、私の医学に対する不信感、父の死、娘の命名のいきさつ、どれもあまりにも個人的なプライバシーに関する事柄ばかりだった。しかも、どれも正確だった。この何も知らない検査技師の女性は、超自然的な知識を伝える導管なのだ。もし、彼女がこんな事実を明らかにできるのであれば、他にどんなことがわかるのだろうか? 私はもっと知りたかった。
 「誰?」。私はあわてて言った。「誰がそこにいるのですか?誰がこんなことをあなたに教えてくれるのですか?」
 「マスター達です」と彼女は小声で言った。
 「マスターの精霊達が私に教えてくれます。彼らは私が肉体を持って八十六回、生まれていると言っています」
 キャサリンの呼吸が遅くなった。彼女の頭の揺れが止まった。彼女は休息していた。私はもっと続けたかったが、彼女が言ったことの意味が気になっていた。本当に、彼女に八十六回の前世があったのだろうか? ”マスター達” とは、一体、何者なのだろう? こんなことがあり得るのだろうか? 我々の人生は、肉体を持たないが、すばらしい英知をもっている精霊達によって、導かれているのだろうか?神へ近づくための段階があるのだろうか? これは現実なのだろうか? 彼女が明かしたことから考えると、疑うのは難しかったが、それでもまだ、私はなかなか信じられなかった。何年間もの間、プログラムされてきた考え方を、私はくつがえさなければならなかった。しかし、私の頭も心も体も、彼女の言っていることは正しいと知っていた。彼女は真実を語っているのだ。

  ブライアン・ワイス『前世療法』(山川紘矢・亜希子訳)
   PHP研究所、1996、pp.56-60




 54. あなたは誰か


 54-a (自分自身を愛することは神を愛するのと同じことである)

 あなたしか自分に最高の恋人となることはできない。あなたしか自分に最高の友、最高の教師になることはできない。あなたに教えをもたらしてくれる声で、自分自身の声より優れたものはけっして現れない。今日この日、あなたの在るがままの姿が、自分がこれまで求めてきたものすべてに対する答えなのだ。しかし、もしどうしても自分以外のところに進むべき道や崇めるべき対象を求めようとするなら、神の栄光を見ることも知ることも、けっしてないだろう。自分の神性、覚醒、そして成長の過程は、自分自身を通して、そして自己愛をはっきりと認めることを通してしか、実現することはできない。人生に平和、幸福、そして満たされた気持ちをもたらすたったひとつの道は、自分自身を崇め、愛することだ。なぜなら、それは神を愛するのと同じことだからだ。そして、ほかの誰よりも自分を愛することだ。それはあなたに人類全体を受け容れる愛と不変の意志を与えてくれるからである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.46-47

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 54-b (あなたは繰り返し繰り返し生まれ変わってきていまの自分になった)

 あなたは誰なのか? なぜここにいるのか? あなたの目的と運命とはいったい何なのか? あなたは自分が単なる偶然の産物であり、ほんの短い時間ここに生きて、次の瞬間には消滅するためだけに生まれてきたと思うのだろうか? 本当に? 以前生きていたことなどない、と思うのはなぜなのか? なぜいま生きているのか? なぜあなたはあなた自身なのか?
 あなたはこの地上界に何千回と生きているのだ。まるで気まぐれな風のように、戻ってきては去っていった。あらゆる顔や肌の色、主義主張や宗教を体験している。戦をしかけ、しかけられ、王と召使いの両方を同じように生きている。水兵にも船長にもなった。征服者にも征服される者にもなってきた。自分の歴史の理解の中にあるすべてのものに、あなたはなった経験がある。なぜか? 感じるため、智慧を得るため、そしてあなた自身という最も偉大なる神秘を解き明かすためだ。
 あなたは自分がいったいどこからやって来たと思っているだろうか。単にひとつの細胞から進化した細胞の集合体なのか。ならば、あなたの目の奥からじっと見つめているのは誰なのか。あなたに独自性や人格、性格、魅力を与える本質とは何か。愛し、抱擁し、望みを持ち、夢を見る能力、そして創造するというとてつもない力を与えるのはいったい何なのか。あなたが子どもの頃にすでに見せる知性、知識、智慧はどこで積み重ねてきたものなのか? あなたは、永遠から見ればひと呼吸にしかすぎない今生の間だけでいまの自分になったと思っているのだろうか?
 あなたは、膨大な時間の中で繰り返し繰り返し生きることを通じて、いまの自分であるすべてになってきたのだ。そしてその生の一つひとつから智慧を得て、あなたという独自の美しい存在をつくり出してきたのだ。永遠という時間のほんの一瞬の間のためだけに創造されるにしては、あなたはあまりにも美しく、あまりにもかけがえのない存在である。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.71-72

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 54-c (あなたの親があなたを創造したのではない)

 自分を創造したのは両親だと考えているのだろうか。あなたの母親や父親は、遺伝という意味では親だが、あなたを創造したのではない。さらに大きな意味での真理では、彼らは愛すべきあなたの同胞だ。そしてあなたは、やはり彼らと変わらぬほどの年を重ねた存在だ。なぜなら、すべての存在は同じ瞬間に創造されたからだ。すべては、神、つまり壮大で崇高なる思考が、己に想いをめぐらし、わが身を拡大して輝ける光となったときに生まれたのである。それがあなたが存在を始めたときだ。あなたが生まれたときなのである。あなたの親とは、神のことだ。すべての生命の父母原理である神なのだ。
 自分は自分の身体だと考えているだろうか。それは違う。あなたの身体とは、あなたの真の姿である目に見えない本質を表に見せるマントにすぎない。その実の姿とは、あなたの化身の内にある人格=自己という、感情や価値観の集合体のことだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.72

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 54-d [5-a ] (あなたの真の姿は風のごとく透明で目に見えないもの)

 言ってみれば、あなたの身体はすはらしく高度な機械だが、それを使う存在がなければ、つまりあなたがいなければ、何の役にも立たない。あなたはあなたの化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが、ひとつの独立した人格=自己として己を表現しているものなのだ。自分の思考を見たことがはたしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかにすごい存在であるか、あなたはまったくわかっていない。というのも、あなたの真の姿は、風のごとく透明で目に見えないものだからだ。私があなたにとって謎であるように、あなた自身も同じなのだ。あらゆるものの中で最大の謎なのだ。
 虚飾なしの自分がどういうものか、あなたは知っているだろうか。仮面なしの自分は? 強がりという鎧がなくなった自分はどうだろう? 存在の内面にある核の部分では、あなたはまさに神そのものなのだ。人類最大の神秘である神は、あなたの内面以外の場所にあったことはない。あなたの目の奥に、衣服の下に、顔という幻影を超えたところに、神という思考の見えない美徳が確かに存在しているのだ。あなたをあなたたらしめている人格=自己がそこにはある。あなたの内にある神こそが、あなたに信を与え、そして創造するというとてつもない力を与えてくれる崇高なる知性なのだ。それは、あなたの生命を無限の時間の彼方まで、永遠に維持してくれるすばらしき生命の流れなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.73

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 54-e (身体は魂を運ぶ単なる車で物質界に生きるための手段にすぎない)

 あなたの真の姿とは、精神、魂であり、光の存在と感情の存在とが組み合わさったものだ。あなたの精神、この小さな光の点は、あなたの身体の分子構造すべてを取り巻いている。こうして、あなたの化身という個体を擁し、支えているのである。あなたの魂はその個体の内部、心臓の近くにある空洞に位置している。その場所は骨によって保護されていて、そこには電気エネルギーのほかには何も存在していない。あなたの魂は、これまであなたが抱いた思考すべてを感情という形で記録し、蓄積している。魂の内部に蓄積されたこの独自の感情の集合体があるために、あなたは固有の自我、アイデンティティ、人格=自己を持っている。あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷりと浸ってきた。それは違う。神は像というものを持たない。それはあなたも同じなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.74-75

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 54-f (あなたは自分で自分の人生のすべてを創造してきた)

 あなたはいったい誰が自分の人生をつくったと思っているだろうか。自分以外の崇高なる知性、あるいは何かの力があなたの人生を支配してきたと思うだろうか。それは知られざる真実ではない。あなたがしてきたこと、あなたの人となり、それにあなたが体験してきたこと、すべてはあなた自身にその責任がある。無数の雄大な星を創造する力があるあなたは、自分の人生のあらゆる瞬間、すべての状況を創造してきたのだ。どんな人間であるかは、自分で選んできているのだ。自分の容姿も自分で創造してきた。どういう生活をするかも、すべて自分で設計し、決めてきた。それこそが神なる人に与えられた課題であり、特権でもあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.75


 54-g [9-f](いまのあなたは自分が選んだそのままの姿である)

 自分をレベルが低いと考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分に知性があることを認めてあげなければ、さらに愚かになっていくことだろう。自分を美しいと思わなければ、あなたは卑しくなっていく。なぜなら、あなたが自分でそう定めたからなのだ。
 あなたはいったい何者なのか。その存在の静寂の中に、考え、創造し、そして自分がなりたいと望むものなら何にでもなっていける力を持つ神−それがあなただ。なぜなら、この瞬間、あなたは自分が選んだそのままの姿なのであり、それを阻むものなど何もないからだ。あなたはすべてに法則を与える者であり、自分の人生と、そこにある状況を創造する者である。あなたはまさに、すべてを超える智慧を持った知性でありながら、この生、そしてその他の数多くの生で、このことに気づかずに生きてきたのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.77-78

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 54-h (あなたは限界を容認することで限界だらけの人生を創り上げる)

 かつてあなたは花を創造することができた。だがいま、皆は自分のために何を創造しているというのか?最高の創造物といえば、不幸であり、心配であり、憐憫の情であり、みじめさ、憎しみ、対立、自己の拒絶、それに老化、病気と死ではないか。自分に限界を設けてしまうような信念を容認することで、あなたは限界だらけの人生をつくり上げる。その信念が今度は自分の内面で不動の真実と化し、人生での現実となっていくのである。
 かつて自由の風であった創造の神々。そのあなたたちが、大都会に隔離され、鍵をかけた扉の中に閉じこもって怯えながら生きる動物の群れのごとき存在と化してしまった。皆にあるのは、そびえたつ山々やすばらしい風ではなく、壮大な建物と恐怖にかられた意識だ。どう考え、何を信じ、どういうふうに行動して、どんな格好をするべきかを規制する社会をあなたたちはつくり出してしまった。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 78-79

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 54-i (あなたは自分の真の姿、見えない本質を忘れ去っている)

 皆は人生における最高の贈り物を信じようとしなかったのだ。そのために、はるかに大きな広がりを持つ、限りなき思考が浮かんでくるのを不可能にしてしまったのである。幾度となく生を繰り返し、存在を繰り返す中で、あなたはこの地上界での幻にあまりにもどっぷりと浸りすぎたため、自分の内を流れるすばらしき炎を忘れ去ってしまった。千五十万年の間に、あなたは全能で至高の存在から、物質界で自分を完全に見失うところまできてしまっている。自分でつくり出した教義や、法律や、流行や伝統の言いなりとなり、国家や信念、性別、人種の違いで分断されて、嫉妬と苦々しさ、それに罪悪感と恐れのなかに浸っている。自分の身体と自分を完全に同一視してしまったために、生存ということにすっかりとらわれてしまい、自分が選んだままに夢を創造させてくれる内なる神というあなたの真の姿、見えない本質を忘れ去っているのだ。不死、などということはまったく頭から否定してしまった。そのおかげで、あなたは死ぬ。そしてまた戻ってくる。何度も何度も、繰り返し繰り返し。そうして、あなたはいま、またもここにいる。千五十万年間ここに生きてきたというのにである。それでも、あなたはまだ自分の疑念にしがみついているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 80-81

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 54-j [44-f] (自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった)

 自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった。自分をしっかりと見たことがなかったからだ。自分が誰なのか、何者なのかを見据えたことがなかったのだ。神がどんな姿か見たいだろうか。鏡のところに行ってみよう。そうすれば、あなたは神と面と向き合っているのだ!
 自分は価値ある人間であることをまず知ることだ。あなたの真価を評価できる物差しなどない。あなたの美を描き出せる像もない。そして、あなたの世界に終わりもないのである。
 最も偉大な説法は、山上に立ったある師によってなされたものだ。そこに立つと、その師は聴衆に向かってこう言った。「神を見よ」それだけしか言う必要はなかった。神を見よ。なぜなら、一人ひとりが、限界も、望みも、病も、貧富も、よろこびも哀しみも、生命も、そして……その死も、すべてを創造していたのだから。
 神を見よ。それを覚えておくことだ。あなたは、すべてのものに宿るあの存在なのだから。いつの日にか、あなたも神を見ることだろう。自分に触れてみるとよい。ただそれだけでいいのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 83

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 54-k [8-c] (地球では思考と物質の融合である人類が進化の頂点にある)

 種としての人類はすばらしい知性を持っている。自分自身の細胞構造に生命の息吹と生存のための本能的手段を与えただけでなく、神なる目的のために、自分の崇高なる知性をさらに高度化し、進化させるべく、それを化身という物質と融合させたのだ。進化の科学という創造物を通し、皆は自分を「ネアンデルタール人」と呼ばれるところから「ホモ・サピエンス」にまで進化させてきた。こうして人類は、この地上界で、気の遠くなるような時間と、数多くの試み、進化、そして辛苦を重ね、いま私の前に、直立歩行の存在となったのである。
 人は皆、「見る次元」と呼ばれる、生命レベルの高いこの場において、自分の創造的知性の力を示し、その結果を目にするために存在している。ここには、あなたの愛すべき父である思考が、光から物質の密度まで、すべてのレベル、あらゆる形態で現実に表出し、存在しているからである。
 知性はどこにでもあふれていることはおわかりだろうか。本当にそうなのだが、ここ地球と呼ばれる皆の次元では、思考と物質の融合である人類が、いまその進化の頂点にあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 142

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 54-l[56-a] (あなたの人生の目的とは生きることを体験しそこから学ぶこと)

 さて、皆がこの次元にいるのは、いま宿っている化身の密度を通して神を探求するためだ。あなたのこの創造的進化を支えているのが生命というものであり、それは原子をそのあるべき領域に保ち、地球を宇宙の中に浮かばせているのと同じ「生命の力」である。その生命の力には、ひとつだけ法則がある。つねに進化、拡張、そして成長を続けるということだ。いつのときも、あなたの人生の目的とは、生きることを体験し、そこから学ぶこと、学んだものにさらに磨きをかけ、それを生命という法則の中に取り込んでいくことなのだ。
 あなたがいま生きているこの過程が「創造」だ。創造的な思考と戯れているのであり、智慧と叡智を手にして、自分という大いなる神秘を解明していくために、物質を通してそれを表現しているのだ。しかし、また同時に、この次元はすべて幻でもある。三次元の世界が現実そのものであると皆は考えている。そうではない。人間がしているゲームはすべて幻であり夢である。なぜなら、目の前のこの現実は夢とともに消し去ることもできるからだ。真の世界はあなたの内面にある。何かを感じるたびに出会う感情がそれなのだ。真の世界とは感情という観点から見てのみ存在し、論理によってではなく、愛に則って動いているのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 144-145

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  54-m [56-b] (人生という舞台は自分の幻をつくり出すための土台である)

 この世界は、もしあなたが自分の魂の内にある感情を通して知覚する目を持っていなければ、存在し得なかったものなのである。何もなくなってしまうのだ。この物質の天国は、すべてこの創造性の不思議な旅に参加する者たちの魂の内に感情を起こさせるためだけの目的で創造されたのである。いったいなぜなのか?それは、智慧という、生命の中でも最も崇高なもののためだ。智慧は知的な理解ではない。それはまさしく、体験から得られる、感情レベルでの理解なのである。
 人生という偉大なる舞台があなたの世界だ。あなたが自分の幻をつくり出すための土台なのだ。このすばらしき舞台は、自分が望むどんな現実であろうと、夢を現実化するかのごとく存在させられる機会を与えてくれる。なぜなら、神であるあなたには限りなき自由があり、どんな想念を持つことも、どんな感情を感じることもできるし、夢を現実化することもできるからだ。そして、その過程のどの時点においても自分の気持ちを自由に変えてかまわないのだ。
 この密度の高い次元に生きる理由は、その中に脚を踏み入れる者に対し、感情の中にある想念が変われば、すぐ現実がその後をついてくる点を証明することにあるのだ。このことが把握できたとき、このおそるべき創造力に気がついたときに、内面にある、自分が神であることを知っている部分と同調するプロセスが加速されるのである。だが、人間としての体験がなければ、これを知ることは不可能だ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 145-146

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 54-n [56-c] (この神の王国をさらに高め栄光を与えるのはあなたである)

 この人生はあなた自身が内面にしっかりと抱くべきものだ。熱き冒険とチャレンジあふれる豊かな人生なのだ。自分が成長し、なるべきものになるために自分が関わっていくべきことや、進化する機会を提供する開かれた扉を、まわりにあふれんばかりに与えてくれるのである。では、なるべきものとは何なのか? あなたがまさしく神であることを教えてくれる、すべての体験の蓄積だ。神だけが、物質界に自身の栄光を示すような創造物をつくり出す力を持っているのだ。
 あらゆるものに存在価値を与えるのはあなただ。人生という土台にさまざまなものを加えていくのはあなたなのである。この神の王国をさらに高め、栄光を与えるのはあなたなのだ。あなたはこのことを知らないが、それは自分が天使たちよりもいくらか低い存在だと考えてきたからだ。でもそんなことはない! まだあなたはわかっていないが、いずれすぐにわかる。もうすぐあなたに、さまざまな生命と虹と色が、本当の自分とは誰なのかを思い出せてくれるからだ。これが「覚醒の時代」というものだ。そうなったとき、ここでの生活はどんなものになるのだろうか。自分がまさに神の精神の一部だという気づきを開花させるのは、