1999.6.5 発行
 こすもすセミナー特別講演 〔第2集〕

  生と死の実相について

    ー 私たちはなんのために生まれてくるのか ー


                 武 本 昌 三

   The Illuminating Truth of Our Life and Death
     ーWhy Did We Come into This World?ー

            by Shozo Takemoto


    人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、
  悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の
  下した罰だとか、何か否定的なものと考えているようです。
  でも本当は、自分の身に起こることで否定的なものはひと
  つもありません。
    あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「も
  しこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気には
  なれなかっただろう」というようなことはすべて、あなたへ
  の神からの贈り物なのです。
               ー エリザベス・キュブラー・ロス ー



    は じ め に

  昨年(一九九八年)のこすもすセミナー講演集「いのちを慈しみ明日に向かって生きる」は、幸い好評を得て、多くの方々に読んでいただくことができました。発行元の溝口祭典の方へも、いろいろとお礼のことばが届けられて、著者としてもこの小冊子が少しでもお役に立ったことを、大変有り難く思っていました。なかには、昨年の講演会で私の話を聴き、講演集をお読みくださった後、病気でお亡くなりになった方もおられます。お亡くなりになる前に、「この講演集を読んだおかげで安心して死ぬことができる」と私に対する謝意を漏らされたというお話もお伺いして、私は一瞬声を失い、ただ身の引き締まるような気がいたしました。
  同じようなことが、最近、私のかなり身近なところでもありました。私の長女の嫁ぎ先の親戚に、大谷さんという八一歳の方がおられました。今年の正月に長女の家で新年会があり、その時に隣り合わせに座っていろいろとお話しをお伺いしたのですが、大谷さんはご自分が癌にかかっており、あまり長く生きられないことを覚っておられたようです。その大谷さんは私に、「先生の講演集を何度も読ませていただいて、死ぬのが怖くなくなりました」と言ってくださいました。そして、その後入院され、気丈な闘病生活を続けられて、春四月、桜の花の咲き始めたころ、穏やかに霊界へと旅立たれたのです。私の耳には今も、正月に聞いた大谷さんのことばが焼き付いています。そのことばを思い出す度に、私は、思わず手を合わせたくなるような厳粛な気持ちになります。
  私は、この小冊子のなかで、人間は死んでも死なないこと、死んでもまた生まれ変わること、いのちは永遠であること、などを科学者や研究者の研究成果を紹介しながら、私なりに例証してきました。その私の書いたものが、死を迎えようとする方々にもこのようなかたちで影響を与えたのであれば、私は名状しがたい峻厳な感慨に打たれる一方で、どう申し上げたらよろしいのでしょうか、何か大きな重い責任のようなものも感じざるをえないのです。「おまえの言っていること、書いてきたことは、本当にそれでよいのか、多くの方々を惑わしていることにはならないのか」と、つい、自らに問いかけてみたりもいたします。
 そのような私の頭のなかには、かつては、初期キリスト教のあくなき迫害者であったパウロのことばが思い出されます。パウロは生前のイエスには会っていませんでした。イエスの死後も増えつづける信徒たちを脅迫、殺害しようとして、エルサレムからダマスコへ向かっていたパウロは、道を急いでダマスコの近くに来たとき、突然、天からの光に打たれて倒れました。そして、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。あなたはなぜわたしを迫害するのか」という天からのイエスの声を聞きます(使徒行伝・九章)。それを契機に、彼の生き方は一八〇度変わりました。かっての迫害者は、今度は熱烈なキリスト教徒になり、キリスト教の伝道に一生を捧げて、最高の伝道者といわれるまでになったのです。そのパウロが、「死人のよみがえり」について述べた、つぎのようなことばがあります。

  しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。・・・死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだでよみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
  ・・・さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際によみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。(コリント人への第一の手紙・一五章)                                          
  私は、キリスト教徒ではありませんし、まだ信仰も浅く、仏教徒ともいえませんが、この「死人の復活が本当にないのであれば、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなってしまう」というパウロのことばには、強くこころを打たれます。パウロは、自分の体験を通しても、キリストのよみがえりを、信ずるというより知っていましたから、不動の信念で、このことばを述べたのでしょう。今回のお話は、このパウロのことばを思い起こしながら、このような信仰の強さについて考えてみることから、始めさせていただきたいと思います。


  一  信じるということ

  イエスは、ゴルゴタの丘で十字架にかかった後、予言どおりに復活して、弟子たちの前に現れます。しかし、一二弟子の一人のトマスは、たまたまイエスが姿を現した時には、その場に居ませんでした。ほかの弟子たちが、復活したイエスに会ったことを感激して伝えると、トマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、またわたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言ったのです。考えてみれば無理のないことかもしれません。深くイエスを尊敬していた弟子たちも、イエスが十字架に架けられたときには、自分たちも捕らえられることを恐れて、ほとんどが逃げ隠れていました。十字架に架けられ、三日後にはよみがえるという予言をイエス自身から聞いてはいても、はじめは誰も、それを信じられなかったのです。
  復活したイエスは、しかし、また弟子たちの前に現れます。今度は、トマスもいました。イエスはトマスに言います。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。トマスは、もうことばもありません。ただ畏れおののいて、「わが主よ、わが神よ」と言うのが精一杯でした。その彼に向かって、イエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」と優しく諭したことを、聖書は書き記しています。(ヨハネ・二〇章)
  この、信じるか信じないかということは、私にとっても、生き延びていく上でのきわめて切実な問題でした。
  前回の講演でお話ししましたように、私は一九八三年九月一日の大韓航空機事件で、アメリカから帰る途中の妻と長男を亡くしてから、滞在中のノース・カロライナで大学の教壇に立つこともできずに日本へ引き返し、しばらくは寝たきりの病人のような状態で何か月かを過ごしました。なすこともなくお経を唱えていると、そのような自分があまりにも惨めで、つい泣いてしまったりもしました。一年が過ぎ、二年が過ぎても、私はまだ深い闇のなかで呻吟していたように思います。やがて私は、このような聖書や仏典などを、藁にもすがるような気持ちで読み始めるようになります。
  私は、妻と長男がいなくなってしまったことが、どうしても承服できませんでした。妻と長男が死んだということはどういうことか。そもそも、いのちとは何か。私たちはいったいどこから来たのか。そして、死とは何か。生を終えてからはどこへ行くのか。いやでもそれらの問題に向き合わざるをえなかったのです。いくら考えてもよくわかりません。しかし、考えるのをやめることは出来ません。わからないなりに、悩みつつ、苦しみつつ、考えていくうちに、ふと、無明の闇に差し込むかすかな光を感じることがありました。それが、たとえば、前回も引用しましたが、『歎異抄』第五段のような文に出会ったようなときです。
  父母というのは、自分の父母だけが父母なのではない。人間は何度も何度も生まれ変わるから、生きとし生けるものは、みんないつかの世で、父母であり兄弟であった。だから、親鸞は、念仏を唱える場合でも、現世の自分の父母だけに対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、というのです。
  人間のいのちというのは、いま生きている間がすべてで、死んだらそれが最後だと思っているのと、いのちは永遠に続いて、人間は繰り返し生まれ変わるのだというのでは、大変な違いです。そして、いのちが永遠に続くというのが本当であれば、それは、大きな救いです。しかも、死んだ後は、極楽とか浄土へと移り住むことになり、その極楽・浄土が光に包まれた壮麗な歓喜の世界であるとするならば、死ぬことは悲しみではなくて、喜びでなくてはなりません。本当に、霊界とか極楽・浄土はあるのでしょうか。
  この素朴な疑問についても、『歎異抄』の中ではふれられている箇所があります。『歎異抄』の第九段では、弟子の唯円が、親鸞に、「いくら念仏をとなえていても、どうも天に舞い地に踊るというような全身の喜びが感じられません。それに、真実の楽園であるはずの浄土へも、早く行きたいという気持ちが起こらないのはどうしてでしょう」と、率直に聞いたのです。親鸞もそれに対して率直に答えました。「実は私もそのことを不思議に思っていたのだが、そなたも同じであったか」と。そして、つぎのように自分の考えを述べています。

  はるか遠い昔から今日に至るまで、生死を繰り返してきたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ見たこともない極楽浄土は恋しくないというのは、本当によくよく煩悩は強いものにちがいない。けれども、いくら名残惜しいと思っても、この世との縁が切れ、静かに生命の灯が消える時は、あの浄土へ行かざるをえなくなる。仏は、急いで浄土へ行きたいと思うことの出来ない者をことのほか憐れんで下さっているのだ。そうであればなおさら、大慈大悲の仏の本願が頼もしく、往生は間違いないと信じられる。逆にもし、天に舞い地に踊る喜びがあり、急いで浄土へ行きたいというのであれば、その人には煩悩はないのであろうかと、かえってうたがわしく思われてしまうのだ」。

  私は、こういう文章に少しずつ、目を開いていくようになりました。いま、自分が住んでいるこの苦しみの多い、迷いの世界に執着して、あれほどすばらしい極楽・浄土へもすぐに行きたいと思わないのは、それほど人間のもっている煩悩が強いからだ、というような言い方にも、それなりに少しずつ、理解できるような気がしてきたのです。
  むかし私が見たある外国映画の一つのシーンにつぎのようなものがありました。ヨーロッパのどこかの監獄で、一人の囚人が、三〇年も四〇年も独房に閉じこめられてよぼよぼの老人になってしまいます。老人は、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていました。
  第二次世界大戦の末期だったでしょうか、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、高い塀も頑丈な建物も崩れ落ちてしまいます。その独房の老人は生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきました。そして、よろよろと外へ向かって歩き始めます。しばらく歩いて振り返りますが、誰も追ってくる様子もありません。目の前には、広々とした野原が広がっています。それは、老人が長い年月あこがれてきた自由の世界のはずでした。老人は、また少しよろよろと歩き続けます。しかし、そこで立ち止まってしまうのです。やがて老人は、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行きました。
  自由が束縛されても、孤独の苦しみがあっても、あまりにも長い年月それに慣らされてしまいますと、もうそこから抜け出すことさえ不安になってしまいます。浄土・極楽がいかに壮麗ですばらしいところであると聞かされても、唯円が疑問に思ったように、煩悩の世界に慣れきってしまうと、「急いで行きたい」と思われないのも、無理ではないのかもしれません。しかし、それでは、この煩悩の世界に生きている限り、安心立命の境地に達するのは難しいということになってしまうのでしょうか。信心というのは、ここで問題になってくるのだと思います。また親鸞に戻って、今度は、親鸞自身の信仰のありようをみてみることにしましょう。
  かつて親鸞は、常陸の国(いまの茨城県)を中心に、下総、下野、武蔵などの関東諸国に、他力本願の念仏を説いてまわっていたことがありました。その後親鸞は、一二三五年、六三歳の頃、関東を去って京都に帰っていったのですが、残された関東の信徒たちの間には、やがて信仰に対する考え方の違いから正統派と異義派に分かれて対立するようになっていきます。そこで、信心に迷いを来した人たちが、あらためて親鸞から直接に教えを受けるため、常陸の国から東海道十余か国をはるばると越えて、京都へ向かったのです。
  東海道といっても、鎌倉時代のことですから、江戸時代の東海道五十三次などよりよほど不便で、危険も多かったにちがいありません。その命がけの旅をしてやってきた信徒たちを前にして、親鸞は、「あなた方は、私が念仏以外に往生極楽への道を知っているだろうとか、いろいろと経典以外の教えにも通じているだろうとか勝手に考えているようだが、それはとんでもない誤りである」と切り出しました。そしてその後で、親鸞は率直にしかし強いことばで、自分自身の入信のいきさつを告白するのです。「私はただ、念仏をとなえて阿弥陀仏に助けていただくだけだと、法然上人に教えていただいたことを信じるのみである。そのほかはなにもない。念仏をとなえれば本当に浄土に行けるのか、それとも地獄に堕ちるのか、そんなこともどうでもよい。かりに、法然上人に騙されて、念仏したあげくに地獄に堕ちたとしても、私は決して後悔はしないであろう」と。
  これはずいぶん思い切った言い方だと思います。関東からはるばる命がけの旅を続けてやってきた信徒たちは、いま固唾をのんで親鸞の顔を見守っています。この緊迫した雰囲気の中で、親鸞は、赤裸々な自分自身の姿をさらけ出して、信念を披瀝しなければなりませんでした。しかしこれは、まかり間違えば師としての信を失いかねず、仏道の教えにも疑問を抱かせることにもなりかねないことばです。そのようなことばを、確固たる信仰の証として信徒のこころに直裁にしみこませていったのは、おそらく親鸞のその時の気迫であったにちがいありません。
  親鸞はさらに続けます。「そのわけは、念仏よりほかの修業に励んで悟りを開けるはずであったのに、念仏に打ち込んだために地獄に堕ちたというのなら、その時は、師に騙された、という後悔もあるかもしれない。しかし、私はどのような修業もできない身だから、どうせ私には地獄がはじめから定められた行き場所なのだ」と。そして、最後をつぎのように結びました。「阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えにも嘘はない。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師のお説きになったことにも誤りはない。善導大師のお説きになったことが真実であるなら、どうして、法然上人の言われることが虚言でありえようか。そしてまた、法然上人の言われることが真実であれば、この親鸞の言うことも空言であるはずがない。これがつまり、私の信心なのだ。この上は、念仏を信じようが、捨てようが、それはあなた方の勝手である」。
  これが、信仰とはこういうものだと、親鸞が血を吐くようなことばで述べたまごころからの告白でした。


 二  霊界からのメッセージ

 事件のあと札幌で、私が妻の友人であった霊能者の青木さんを訪ねて、彼女が私の長男の潔典と交わした会話について聞かされたことは、前回の講演でお話ししました。「ありがとう・・・楽しかった・・・今までの生活がすべて・・・・」という彼女への答えが、直感的に潔典のことばだとわかって、私は涙をぽろぽろとこぼしましたが、その時は、本当に不思議でした。そんなことが本当にあり得るのだろうかと、戸惑いました。しかし、その後何度も、このような霊界からのことばを聞いているうちに、少しずつわかってきたのです。霊界からのことばは、私にとっても、だんだんと不思議ではなくなっていきました。いまでは、それが事実であることを、私は「知って」います。
  一九九二年二月一一日は、私にとって忘れることの出来ない記念の日です。その時、私はイギリスのロンドンにいました。前年の四月から、ロンドン大学の客員教授としてイギリスに来て、ロンドン郊外のロチェスターという町に住んでいましたが、日本へ帰国する日が近くなってからは、私はかなり頻繁に、ロンドンの大英心霊協会へ足を運ぶようになっていました。大英心霊協会というのは、一八七二年の創設以来、イギリスの作家コナン・ドイルや著名な物理学者オリバー・ロッジなど、多数の名士によって支えられてきた世界的に有名な心霊研究の殿堂です。この日私は、このロンドンの大英心霊協会で、霊界にいる長男の潔典と「再会」することができたのです。
  霊界からのことばにいくらかは慣れていたとはいえ、この「再会」は私にとっては大変なことでした。その時の様子を、私は強い感動と感謝の気持ちのなかで、すぐに東京にいた長女へ知らせましたが、その時の手紙に、私は次のように書きました。これはもちろん、みなさんにお聞きいただくことを全く予想していませんでしたので、私ごとの羅列になって恐縮ですが、ありのままをお伝えするために、あえてそのまま、一部を引用させていただきます。

  二月一一日の耕治叔父さんの命日には、札幌では英子叔母さんの親戚の人たちが一〇人くら い集まってくれたらしい。有り難いことだと思っている。お父さんもこちらで、日本時間に合 わせてお供えをし、こちらの一一日には、ロンドンの大英心霊協会へ行った。いままで何度も、 大勢のなかでの公開実験に参加して、お父さん自身が霊界からの通信を受ける場合の準備をし てきたが、近頃は、一人で霊能者の前に座って、一対一で直接話を聴くようになっている。
  一一日は耕治叔父さんの命日でもあるので、かねてから、この日を予約していた。霊能者は、まずママと潔典が霊界にいることを見抜いた。それから、「あなたの弟さんも霊界にいますね」と言った。その霊能者アン・ターナーによれば、霊界でも耕治叔父さんの「記念日」にお父さんが大英心霊協会に来て神妙に座っているというので、みんなが集まっていたらしい。耕治叔父さんは、すぐに出てきて、お父さんの横に立っていたようだ。そして、潔典が出てきた。 潔典はお父さんの前に立って、非常に感動している様子だと、アン・ターナーが言っていた。
  お父さんは、この霊能者のアン・ターナーに大英心霊協会で初めて会って、その前に黙って座っているだけで、アン・ターナーはお父さんのことは何も知らない。日本から来ていることも、事件のことも、家族のことも、彼女には一切言っていない。アン・ターナーは、「あなたの前に立っているのはあなたの息子さんで、身長は五フィート・八インチ(一七三センチ)ぐ らい、聡明な顔つきに見える」と言う。潔典の身長はそのくらいだろう。しかし、それだけで はまだよくわからないから、お父さんは黙っていた。アン・ターナーは、また言った。「息子さんが、自分の名前は、キュオーニとかクヨーニだと名乗っている」。そして、何度か、「キ ューオーニ、キヨーニ、クヨーニ」と独り言を言うようにつぶやいた。
  お父さんは、はっとした。これは潔典だ。潔典に違いない。ほかの名前ならこのように聞こえるはずがない。しかし、それでも念のために次のように聞いた。
 「それは英語の名前か?」
 「そうではない、外国語の発音で私にはよくわからないが、そのように聞き取れるのだ」
  潔典(きよのり)という発音は、たしかに日本語になれていない英米人には聞き取りにくい。これを一度聞いて、正確にくり返すことの出来る英米人はほとんどいないだろう。そこでお父さんは、思い切って聞いてみた。
「その発音は、『キヨノリ』とは違うか?」
 彼女は答えた。
 「そうだ、キヨノリだ。キヨノリと言っている」

  長男の潔典の名前をこのように言われたことは、私にとっては大変なことでした。私は、娘にはあまり強い刺激にならぬように、意図的に、あまり感情を込めずに淡々とこの手紙を書いたつもりなのですが、実際には、私の心の中は激しく揺れ動いていました。事件後、長い年月、何年も何年も苦しみ続けてきて、いま初めて、一つの大きな山を越えようとしている。そのような思いが激しくこころを揺さぶっていたのです。
  この手紙はまだ続きます。もう少し、引用させていただきます。

  ・・・また、アン・ターナーはつぎのようにも言った。
 「息子さんは、あなたの左足に scar(傷跡)があると言っている」
お父さんは、このへんでかなり緊張していた。言っていることはよくわかっていたが、左足には傷跡はない。だから「私の左足には傷跡はない」と、率直に答えた。なぜそんなことを言うのだろうと、不審にも思った。しかし、アン・ターナーは怯まなかった。「それは古い傷跡で、もう消えかかっているのかもしれない。必ずあるはずだから探して見よ」と言う。いくらそう言われても、自分のことは自分が一番よく知っている。無いものは無い、とお父さんは思った。そこでちょっと失望して、その日の面接は終わった。
  そのあと、家へ帰るためにヴィクトリア駅の方へゆっくり歩きながら、突然はっとして立ち止まってしまった。アン・ターナーの「scar」ということばで、お父さんはつい、刃物の傷跡のようなものを連想してしまったのだが、やけどの跡も「scar」ではないか。それならお父さんには、子供の時に、湯たんぽでやけどした傷跡が大きくいまもはっきりと残っている。それを知っている者は、潔典を含めて家族しかいない。ただひとつ、違っているのは、そのやけどの傷跡は、左足ではなく、右足だ。しかしこれも、前に立っていた潔典からは、お父さんの右足は、左足になる。
  潔典は、やはりあの時、お父さんの前に立っていた。自分の名前を告げ、お父さんの足の傷跡を言い当てることで、それが間違いなく潔典であることを一生懸命にお父さんに訴えようとしていたのだ、深い感動を顔に表しながら。お父さんがやっとここまで来てくれたことを、そして、潔典やママが「本当にまだ生きている」のだということをお父さんが理解し始めたのが嬉しかったのだろう。
 事件後まだ札幌にいたとき、青木さんを通じての霊言で、潔典から「いつまでも元気がない・・・お父さんは何でも出来る人ではないか」と言われたことがある。そのお父さんがやっといま、少しずつ立ち直ってきた。何よりも、潔典やママが元気で生きていることがわかって、あのように潔典やママたちの前に座るようになった。これからは、もっともっと「対話」ができるようになる。だから、潔典は感動していたのであろう。お父さんも感動していた。

  私のことは何も知らない初対面のイギリス人から、ひとことも私や家族のことは話していないのに、妻や長男が霊界にいて、長男の名前から私の足の傷跡のことまで告げられる、というようなことは、普通ではあり得ないことでしょう。そんなことがあれば、それは奇跡としか思えませんが、その「奇跡」が現実に私に起こったのです。その後、潔典とは、何度か「会い」、二月二四日の妻の誕生日には、妻とも「会い」ました。そして、日本へ帰国してからも、毎年六月五日の潔典の誕生日には、アン・ターナーを通じて、潔典と文通も続けてきました。私には、このような妻と長男との「対話」がいまも、生きていく上での強いこころの支えになっています。


  三  霊界とはどういうところか

  私の妻と長男が、霊界で元気に暮らしていることを私は知っていますが、霊界というのは、全体としては、この地上の生活と比べものにならないほど、明るく愉しいところであるようです。その霊界からの通信は、欧米や日本で記録に残っているだけでもおびただしい量にのぼっています。そして、霊界がすばらしい光明の世界であることは、ほとんどの通信が一致して述べているといってよいでしょう。だいたい、似た性格の人たち、趣味の共通している人たち、同じような才能を持つ人たちが寄り集まって、悩みや苦しみとは無縁の、生き生きとした生活を送っており、いまさら地球の地上生活には戻りたくないと考えている人がほとんどのようです。
  前回の講演では、コナン・ドイルが「死んで」からも、霊界から通信を送り続けたお話をしました。彼は、「何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界でいま現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです」と言っていました。そして、多くの霊界通信を送ってきましたが、そのなかには、霊界のことをつぎのように、伝えているところもあります。  

  私は、ことばに言い表すことの出来ないほど美しい世界にいます。この現実を、地上にいる私の友人たちに伝えることが私の最大の願いです。私がやってきたこの霊界がどのようなものであるかを理解してもらわなければ、このよろこびを分かち合うことが出来ません。ですから私は、死語の世界についての真実を広く知らせなければという衝動を、こちらへ来てますます強く感じているのです。@

  これが、コナン・ドイルのことばですが、霊界というのは、それほどまでに素晴らしいところなのでしょうか。この霊界の様子を、私がいま、数多くの通信例から選んで皆さんにお伝えするのは、あまり容易ではありません。まず、誰がどのようにして送ってきた通信であるかを吟味しなければなりませんし、口調や品位なども話す内容とともに問題になります。そういうことを含めて、その真実性は、結局、皆さんに判断していただくよりしかたがないようです。ここでは、私がロンドンにいるときに翻訳した、シルバー・バーチと名乗る高位霊からの通信文の一部をご紹介しましょう。それには、つぎのように述べられています。 

  私の住む霊界では、すべてが彩り豊かに輝いています。こころは生きる喜びにあふれ、人々はすべて楽しい仕事に打ち込んでいます。芸術活動も盛んで、人々はいつも他の人に奉仕することを考えています。自分の持っている者は持っていない人に分かち与え、知らない人には教え、こころの暗い人を導いていこうとしています。善行のための熱心さと喜びと輝きに満たされているのです。
  人間の一人一人は神の分身であり、神のもつ限りない大きな可能性を分け与えられています。誰もが、この世で生きていく困難を乗り越えていくための霊感と能力を自分のなかに持っているのです。しかし地上では、この永遠の事実について知っている人は少ないし、自分自身のすばらしい優れた才能を引き出すことの出来る人も多くはありません。そして地上の多くの人々は、霊界ではこの地上よりももっと現実味のある豊かな色彩や優しさに満ちた生活が出来ることも知らずに、無味乾燥な地上の生活の方がいいと思い込んでしまっているのです。
  私は、自分が見てきた霊界と、いま里帰りしてきたこの地上の世界とを比べて、ありのままを話しています。本当は、あなた方のこの地上の世界は、霊界の太陽の光の影であるにすぎません。この世界はいわば空虚な殻であって現実ではないのです。物質の世界には、もともと、正真正銘の現実などはありえないのです。物質の存在自体が霊の作用によるものだからです。そもそも、物質というのは、現実の霊の世界が出す波動のひとつの表現であるにすぎません。
  この地上の世界の人たちが、もし私たち霊界の人間が知っていることを知ることが出来たなら、意気消沈することもなければ、うなだれていることもないでしょう。人々はみな、生気を取り戻すでしょう。それは、あらゆる力の根元が霊にあり、霊界の永遠の富を手に入れるほうが、苦労や心配の種になる物質的なものよりずっと大切であることを理解しはじめるからです。私は、この地上で、本当に多くの人々が自分たちのエネルギーを使うに値しないさまざまなことで悩んだり、恐れたり、心配したりするのを見てきました。力を入れるべき場所を間違っているのです。見当違いの努力をしているのです。いつかは改められなければなりません。A

  このシルバー・バーチというのは、ロンドンのハンネン・スワッハー・ホームサークルと名付けられた交霊会で、一九二〇年代後半から五〇年あまりも地上の人間に教訓を語り続けてきた高位霊です。霊能者を通して語られた膨大な記録は、英語以外にも数か国語に翻訳され、世界各地にいまも多くの熱心な信奉者を持つといわれています。B
  このシルバー・バーチは仮の名前で、地上時代の本名は、何度尋ねても本人は明かそうとはしませんでした。「人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だとわかったら、私が述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それはよくない錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよいのです。私の言っていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じて下さい。そんな馬鹿な、と思われたら、どうぞ信じないで下さい。それでいいのです」と、答えてきたそうです。
  交霊会では、自由に質問もできましたから、聞きたいことはなんでも聞くことが出来ました。私たちの全く未知の世界のことをいろいろ聞くわけですから、素朴な質問も多いのですが、それらに対して、シルバー・バーチはどう答えているか、それをいくつか、つぎに抜き出してみることにいたしましょう。C 

  「死者たちにも時間があるのでしょうか、死者たちはどのような仕事をしていますか?」
  あなた方の時間は、便宜上こまかく区分されたものです。つまり地球の自転や太陽との関係に基づいて、ある時の流れを何日だとか、何秒だとか、あるいは何時間だとか何分だとかいうふうに決められたものです。私たちには夜も昼もありません。私たちの光は、あなた方の光とは性質が違うのです。だから、私たちにはあなた方がいう時間というものはありません。私たちが時間をはかる基準は、霊の状態によって決まります。いわば、楽しみの量として時間を感じるのであって、私たちにとっての時間は精神作用のひとつなのです。
  仕事のやり方は、個人個人で違います。質問された方が、物理的な尺度で霊的な諸経験を理解しようとされると、困難を感じられるかもしれません。こちらの世界には、心と霊に関連する数え切れないほど多くの仕事があります。それらの仕事は、あなた方の物質世界にあるのと同じような文化的なものもあり、教育的なものもあり、それぞれ目的を持っていて、物質世界へ働きかけるものもあります。それらの仕事に、私たちは自分の好きなだけいつでも取り組むことが出来るのです。

  「霊界では、一人一人が自分自身の家を持っているのですか?」
その通りです。家が欲しい人は家を持っています。家が欲しいと願って、家を手に入れるのです。しかし、家を欲しがらない人もいます。また、人によっては、自分の好みの建築様式で家を建てたがりますし、あなた方には知られていない光の思想を具体化した家作りを考える人もいます。それらはまったく、霊界の住民の創造能力に基づく個人の趣味の問題なのです。

  「霊界には、音楽会や劇場、あるいは博物館のようなものはありますか?」
  音楽会はいつでも開催されています。非常に多くの音楽家がいて、しかもその多くが、音楽の大家なのですが、彼らはいつも、自分たちの音楽が出来るだけ多くの人々に楽しんでもらえることを望んでいます。劇場も、いろいろな種類のものが沢山あります。ある劇場は演劇のためだけのものですし、文化的な目的で使われる劇場や、教育目的で使われる劇場などもあります。
  あなた方の世界で持っていた才能や技能、手腕などは死によって終わることはありません。かえって死後は、束縛から解放されて、才能でも技能でも手腕でも、より大きく発揮できるようになるのです。
  霊界人の博物館というのは、人類の全歴史を通じての地上生活に関するあらゆる種類の陳列品が並べられています。また、霊界生活の興味深いコレクションもあります。たとえば、霊界には地上では咲かないような花がありますし、あなた方には知られていない自然生活の様々な様式もあります。

  「霊界には、新聞やラジオがありますか?」
  コミュニケーションの手段が違いますから、ラジオはありません。通常お互いの間で用いられるのがテレパシーです。しかし、その場にいない多くの人に向かって通信を送ることが出来る人もいます。ただその場合も、あなた方のラジオの原理で通信されるわけではありません。
  また、あなた方の世界での新聞のようなものはありません。それは、あなた方のように、いろいろな出来事を記録して知らせる必要がないからです。必要な情報は、それを送ることを仕事にしている人がいて、知らせなければならない相手には絶えず情報を送っています。でもこれは、あなた方には理解しにくいでしょう。
  たとえば、私の知らないことを私に知らせたい時には、私がそのことを知るべきだと考えている人によって想念が私に送られます。そのような想念を送ることを職業としている人々がいるのです。そのために特別の訓練を受けた人たちです。
 
  「本だとか、あるいは本に相当するものが霊界にはありますか?」
  数え切れないほどの沢山の本があります。あなた方の世界で知られている本はすべてこちらにもあります。それに、あなたの世界にはない霊界だけの本も沢山あります。すべての学問、芸術のための巨大な建物や施設があって、文学専門の図書館なども確保されています。あなた方に興味のあるどんな科目についても知識をえられるようになっているのです。
 
  このような質問と回答を含めた訓話が、五〇年あまりも続けられたわけですから、その総量は膨大で、ここではその一端にしか触れることができません。この辺で終わらせることにしましょう。シルバー・バーチは、ある日の交霊界で、自分の仕事や、私たち地上の人間のなすべきことについて、しみじみと語ったことがありましたが、それを最後にお伝えしておきたいと思います。

  多くのことがなされてきましたが、まだしなければならないことも沢山残っています。私は、私たちが少しでもお役に立てるような人々のところへ自由に行けるように、魔法の絨毯でもあればいいと思いますよ。また別の魔法の絨毯があれば、この霊界で、かって私たちがお役に立てた人々がこちらに来ているのを捜すことが出来るかもしれません。そうすれば、私たちのしてきた仕事が、表面に現れているよりずっと大きなものであることを私たちも認識できるでしょう。
  私は、いままでどれくらいの仕事をしてきたかと考えることはしません。それは私たちみんなの仕事ですが、これからも続けていかなければならない仕事を前にして、私は常にこころから謙虚でありたいと思っています。あなた方も、ですから、毅然として頭を上げ、神聖な目的のために奉仕していることを自覚して下さい。そして、あなた方の人生でふれ合った人々に、あなたがしようとしていることが何であるかを知ってもらえるような生き方を心がけていきましょう。あなた方とふれ合った人々に、いつでも出来る限りの奉仕をしましょう。それらの人々を、出来る限り高めていきましょう。機会があればいつでも、導いていってあげましょう。奉仕こそがすべてなのです。ほかのすべてのことが忘れ去られた時でも、世俗的なすべての持ち物が泡のごとく消え去ってしまった後でも、この世の財産のすべてが色あせ朽ち果てることになっても、あなたが人々のために尽くした奉仕だけは、あなた方の人柄を示す永遠の宝石 となって輝き続けることでしょう。D


  四  かいま見る死後の世界

  このような霊界の有り様を、かいま見たと考える人たちが日本のみならず世界中に多くいます。いわゆる臨死体験の証言者たちです。臨死体験というのは、事故や病気などで死にかかった人が九死に一生を得て、意識を回復したときに語る「あの世」的な体験のことですが、三途の川を見たとか、光のトンネルを出て美しいお花畑の中を歩いたとか、あるいは、魂が肉体から抜けだした、死んだ肉親に会った、といった一連の共通したパターンがあります。近年では、医学の発達のおかげで、死にかかった人も死なずにすんだり、いったんは心臓が止まって「死んだ」人も生き返ったりする事例が増えてきていますから、この種の体験者の数はかなり多くなっているのかもしれません。
  いまから四年ほど前のことですが、杏林大学医学部の秦葭哉教授のグループが同大学付属病院の救急外来に運び込まれた意識不明の患者のうち、その後蘇生して知的障害も持たなかった人三三人に聞き取り調査をしたことがありました。その結果、一二人が臨死体験をしていたそうです。体験率からいうと三六パーセントの高率になります。しかし、実際には、忘れてしまって思い出せないと言う人などもいたりして、死にかける人の半分以上は臨死体験をするのではないかといわれています。E
  最近では、臨死体験の報告は多くの本になって出版されていますから、お読みになった方も多いと思いますが、ここでは、立花隆さんが取材した、放送評論家の志賀信夫さんの体験談をみてみることにしましょう。
  志賀さんは、一九八一年の六月のある日、会合を終えて家に帰る途中、タクシーを拾おうとして道路を駆け足で渡ったときに、タクシーにはねられました。一三メートルもはね飛ばされて道路にたたき付けられ、意識を失いました。その時に臨死体験をしたのです。志賀さんは、その時の様子を絵に描きながら次のように語っています。
 
  バアーッと、このくらいの太さかな、七色の光の束があるのです。その光の中を、ぼくがスーッと上がっていくんです。それがとても気持ちいいんです。ほんとに何ともいえずいい気持ちでした。そして上に上がると、そこは芝生みたいな、花園みたいな場所で、真綿でできてるみたいに、柔らかくて、ファーッとしていて、そこに横になると、気持ちいいのがさらに気持ちよくなったみたいでした。・・・なんともいえずいい気持ちです。これまで味わったどんないい気持ちよりいい気持ちですよ。比べようがないです。天国に行ったようなというか、恍惚の境地ですね。そして満ち足りているんです。何もいらない。充足度百パーセントという感じですね。あればかりは、一回体験してもらわないことには絶対わかってもらえないと思う。F

  この志賀さんは、立花さんが「臨死体験によって自分が変わったことというのは何かありますか」と尋ねると、「やはり死をおそれなくなったことでしょうね。死というのは、ああいう風に突然襲ってくるもので、人間の力でどうこうしようたってどうにもなるものじゃない。死に抵抗するなんてバカげたことだと。それに、死ぬっていうのは苦しいことではない。とても気持ちがいいものだと。もう一回やったっていいと思ってるんです。戻ってこなくてもいいくらいですよ。つまり、生きる死ぬにこどわらなくなったんです。人間一生懸命生きていれば、いつ死んだっていいんです。どうってことないですよ。生死について悩む必要はない。そういう心境になって、あんまりまわりのことが気にならなくなりました」と答えています。
  宗教学者として著名な山折哲雄さんも、このような臨死体験をもっているようです。三〇歳の頃、学生たちと酒場で酒を飲んでいるとき、突然大量の吐血をして意識不明になり、救急病院にかつぎ込まれました。若いときに患った十二指腸潰瘍が再発したのでした。
 山折さんは、意識を失うとき、体がふわっと浮き上がるような浮揚感を感じました。すると、目の前に、いっぱい五色のテープを吹き流したような、光り輝く虹のような光が広がって、自分の体を包みました。光に包まれて浮き上がりながら、「このまま死んでいけるなら楽だな。死んでいっても悪くはないな」と思ったそうです。苦しさは何も感じなかったと述べています。G
  このような例は本当に無数にありますが、それでも日本ではまだ、このような臨死体験を真面目に取り上げて研究しようという風潮は強くはありません。そんなものはオカルトめいた民間伝承の類であろうと、聞き流してしまう人々も少なくはないようです。しかしアメリカでは、一九七〇年代に入ってから、レイモンド・ムーディ博士やキュブラー・ロス博士などの医学者の研究をきっかけにして、臨死体験を学問的研究の対象にしようという動きが広がってきました。
  現在では、心理学者、精神・神経医、脳生理学者、宗教学者、文化人類学者、哲学者など多方面の学者がこの研究に関心を寄せ、国際的な研究団体が組織され、研究誌も発刊されています。このような傾向は、ヨーロッパでも例外ではありません。イギリス、フランス、北欧などでも臨死体験の研究は盛んになり、一九九〇年には、ワシントンのジョージタウン大学で、一三か国から三百人もの研究者や体験者を集めて、臨死体験研究の第一回国際会議が開かれるまでになりました。H
  この欧米における臨死体験研究の草分けの一人であるムーディ博士は、一五〇例の臨死体験をもとにして、それらの体験内容を分析することから研究を始めました。それでわかったことは、死に瀕した時の状況や、死を体験した人々のタイプが多種多様であるにもかかわらず、体験の内容そのものには驚くほどの共通点があったということです。その共通点は非常にはっきりしていて、一五ほどの要素に分類できます。そこで博士は、それらの一五の共通要素をすべて含んだ臨死体験のありようを、理論的なモデルとして次のように組み立て、『かいま見た死後の世界』という本のなかで発表しました。

  私は瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達したとき、担当の医師が私の死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。大きく響き渡る音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を、猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、いままでと同じ物理的世界にいて、私はある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の肉体を見つめていた。この異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。
  しばらくすると落ち着いてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。私にはいまでも「体」が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力をもっていることがわかった。まもなく別のことが始まった。誰かが私に力をかすために会いに来てくれた。すでに死亡している親戚とか友達の霊が、すぐそばにいるのがなんとなくわかった。そして、いままで一度も経験したことのないような愛と暖かさに満ちた霊ー光の生命ーが現れた。この光の生命は、私に自分の一生を総括させるための質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。さらに、私の生涯における主な出来事を連続的に、しかも一瞬のうちに再生してみせることで、総括の手助けをしてくれた。
  ある時点で、私は自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それは紛れもなく、現世と来世との境目であった。しかし、私は現世に戻らなければならない。今はまだ死ぬときではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、私は今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世に戻りたくはなかったからだ。 激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういう訳か、私は再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生してしまった。
 その後、あの時の体験をほかの人に話そうとしたけれど、うまくいかなかった。まず第一に、想像を絶するあの体験を、適切に表現することばが全然見つからなかった。それに、苦労して話しても、物笑いの種にされてしまった。だからもう誰にも話さない。しかし、あの体験をしたおかげで、私の人生は大きな影響を受けた。特に、死ということについて、中でも、死と人 生のと関係に関する私の考え方に大きな影響を受けた。I 

  確かに、臨死体験の基本的なパターンは互いに非常によく似ていますから、ムーディ博士のこのモデルはよくわかります。しかし、よく似た基本的な構造を持ちながらも、体験例の具体的な内容は、それぞれ人によって違いますし、民族や文化によっても違います。それに、前章で述べてきた、霊界の有り様とのへだたりも感じられないことはありません。それをどのように受け止めていけばよいのでしょうか。
  これについて、キュブラー・ロス博士は、臨死状態で体験するのは死後の世界そのものではなくて、生から死への移行過程ではないかと考えています。臨死体験者というのは、本当に死んでしまった人ではなくて、また生き返った人ばかりです。死後の世界の入り口まで行っただけで、完全に中まで入り込んでしまったわけではありません。だから、臨死体験者というのは、死後の世界から見ると、生まれたばかりの、へその緒をつけた状態の赤ちゃんのようなものだというのです。
  へその緒をつけているから、まだ地上の世界とつながっている。だから戻ることが出来る。本当の死を体験するのは、そのへその緒が切られてからで、臨死体験者が語る内容というのは、だから、あくまでもへその緒付きの状態で生と死の境界領域をさまよったときの体験だと、博士は述べています。J
  しかし、臨死体験が霊界の入り口まで行って帰ってきたものであったとしても、キュブラー・ロス博士は、霊界の存在を堅く信じています。前回お話ししましたように、彼女自身が臨死体験者でもあるからです。博士は、その霊界の存在に確信を持つようになったいきさつを、次のように語っています。

  私はもともと科学者として訓練を受けた人間です。物理的事実以外のものに対しては疑いの目を向けるように訓練された人間ですから、霊魂や心霊的な世界について語ることには抵抗がありました。科学者とか医者は、そういう領域に足を踏み入れてはならないものとされていました。そういう領域の現象は、基本的に証明することも確認することも出来ないことだからです。しかし、現実に体験者の話を次々に聞いていくと、逆に、そういう現象に目を向けようともせず、耳を傾けようとしないほうが科学者として誤りだと思うようになったのです。そして、医者が幻覚だとか精神異常というレッテルを貼るだけで、それ以上相手にしない患者の話を真面目に聞いてみると、その中に無視しがたい真実があるということがわかってきました。しかし、それが本当に真実であるとわかったのは、やはり自分自身で臨死体験をしてからです。K

  こうしてキュブラー・ロス博士は、臨死体験の事例を二万件も集めて、霊界が実在すること、人間というのは死んでも死なないのだということを、広く世界の人々に伝えていくのが自分の使命であると考えるようになりました。一九六九年に『死ぬ瞬間』を出版し、一躍世界中にその名が知られるようになってからは、文字通り伝道者となって数多くの本を書き、ほとんど休み無く世界中を飛び回って講演し、セミナーを主催し続けました。日本へも来たことがあります。その博士は、「すべての苦難は、あなたに与えられた成長の機会です。成長こそ、地球という惑星に生きることの唯一の目的です。あなたが美しい庭に座っているだけで、銀の皿にのった豪華な食事を誰かが運んでくれるのだとしたら、あなたは成長しないでしょう。でも、もし病気だったり、どこかが痛かったり、喪失を経験したときに、それに立ち向かえば、あなたは必ず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、特別の目的をもった神からの贈り物として受け入れることが大切です」と述べています。L
  一九九七年一月、脳卒中の発作を起こしてその後遺症に苦しんでいた七一歳の博士は、病床で彼女自身が「これが絶筆になる」と述べている本を書き続けていました。死を少しも恐れず、むしろ喜ばしいことと考えている博士は、医者ですから自分の意志で「体から離れる」こともできます。「もっとましな世界」つまり霊界で、「もっとましな暮らし」ができることも十分に知っていました。それでも博士は、この地上生活を卒業する前に与えられている最後の教訓を学ぶ機会として、不快や苦痛を忍耐強く受け入れていました。その彼女が、このおそらくは最後になると思われるこの本を、次のような読者へのことばで締めくくっています。

  死は怖くない。死は人生でもっともすばらしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の形態への移行にすぎない。
  愛があれば、どんなことにも耐えられる。どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛を与えようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。永遠に生きるのは愛だけだから。M

 
  五  なぜ生まれてくるのか

  私たちはなぜこの世に生まれて、いま生きているのでしょうか。また、人間はなぜ生まれ変わりを繰り返すのでしょうか。それは、この世の生活の中で、いろいろと経験を積みながら学んでいくためです。学び残した部分はまた生まれ変わって学習を続けます。いわば、この世は、私たちの魂の成長のための学校なのです。キュブラー・ロス博士も、「いのちの唯一の目的は成長することにある」としばしば繰り返しています。そして、人生におけるすべての苦難、悪夢、試練はその成長のために神から与えられた贈り物だとも述べています。それらは、私たちの魂の成長のための大切な教材だからでしょう。
  教材というのは、小学校から中学へ、高校から大学へと、学習レベルが上がれば上がるほど難しくなっていきます。この場合、難しい大学の教材と取り組むのは、やさしい小学校の教材を与えられるより「不幸で気の毒」ということになるでしょうか。しかもその教材は、自分がマスターできないものを与えられることはありません。難しく困難と思える教材でも、それを乗り越える能力があるからこそ、与えられるのです。大いなる苦難、深い悲しみ、重くのしかかる試練などは、まさにこの「大学レベルの教材」といってよいのでしょう。これらの教材に取り組むことは、だから、進歩した能力のある魂に与えられた特権であるとさえいえると思います。進歩の代償は常に試練と困難だからです。
  人間が生まれてくるのは魂の成長のためということについては、前回の講演で述べた退行催眠によっても、数多くの被験者の証言から明らかにされてきました。たとえば、カナダのトロント大学の主任精神科医であったジョエル・L・ホイットン博士の研究がそうです。博士の研究のもっとも注目すべき点は、生まれ変わる前のまだ霊界にいるうちに、多くの人々が次の人生を計画するという事実を探り出したことでした。
  ホイットン博士の研究では、一人一人の魂は、自分の前世での体験についての評価や反省をもとに、つぎの転生ではどのような体験をするかを自ら決めていくことがわかってきました。ただしその場合にも一人一人に指導霊がついてくれて、その個々の魂にどのようなカルマの負債があるか、生まれ変わってどんな点を学ぶ必要があるのかをふまえて、幅広い助言を与えてくれるのだそうです。
  たとえば、博士の被験者のある女性は退行催眠のなかで、「私はどんな困難が人生の途上に生じてもそれに立ち向かっていけるよう、つぎの人生を計画するのを助けてもらっています。私は弱い人間なので、責任を回避することばかり考えていますが、障害を乗り越えるための課題を自分に課さなければならないことはわかっています。私は、つぎの人生ではもっと意識を高めて強くなり、さらに進歩して責任を果たしていかなければなりません」と、語っています。また、別の被験者は、「前世で十分な扱いをしてやらなかった人たちがいるので、またこの世に戻って借りを返さなくてはなりません。こんど彼らが私を傷つける番になっても、許してやるつもりです。またこの故郷の霊界へ帰りたい一心だからなのです。ここが故郷なんですから」というふうにも述べています。N
  霊界ではこういうふうに、自分の前世での生き方を反省したり、さらに修行して霊性の向上を目指す計画をたてたりしながら、貪欲を抑え怒りや恐怖を鎮め、愛を高めて、転生の階段を一つずつ昇っていくことになっているようです。そして、魂があるレベルまで成長すると、情緒面での成長のための転生は必要がなくなり、今度は、他の人を直接助けるために自ら志願して生まれ変わるか、あるいは、霊界にそのままとどまって、霊界からこの地上の人々を助けることを選ぶことが出来るようになります。O
  いずれにしても、退行催眠によってあの世の記憶をよみがえらせた被験者たちの証言は、基本的にはみな同じであることがわかりました。それは、「いまのこの世で、自分がどのような境遇に生まれ、どのような人間として生きているかということは、すべて自分の責任である。なぜなら、自分自身がそれを選んだ張本人だから」ということです。それをホイットン博士は、「たとえ現状がいかに困難でも、この現状に我が身をおいたのは自分自身なのだ。人はそれぞれ、試練や苦難の中にこそ学び成長するための最大の機会がある、と理解したうえでその試練や苦難を探し出していくのである」と結論づけています。P
  この「自分で選ぶ人生」については、ほかの研究者による退行催眠の証言によっても数多く裏付けられており、矛盾はありません。たとえば、マイアミ大学医学部教授のブライアン・L・ワイス博士も、退行催眠のなかで被験者に対して述べられた指導霊のことばをつぎのように紹介しています。

  あなた方は、強欲を克服することを学ばなければならない。もしそれができないと、その強欲な性格は他のものと一緒に次の人生に持ち越される。そして、その重荷はますます大きくなっていくのだ。一回一回の人生でカルマを返していかないと、その後の人生はますます困難なものとなろう。もし一つの人生でカルマを返してしまえば、次の人生はもっと容易なものとなるのだ。どんな人生を送るかは、あなたが自分で選択している。だからあなたは、自分の人生 に百パーセントの責任がある。自分で選択したものだからだ。Q

  ここでいわれている「ますます大きくなっていく重荷」は、この世での修行のためのいましめと考えていいでしょう。重荷そのものは、「大学レベルの教材」と同じで、必ずしもマイナスばかりではないからです。しかし、重荷がマイナスばかりではないといっても、たとえば、重い精神病や肉体的な障害などのように深刻な問題を持つことはどうなのでしょうか。ワイス博士がおこなった退行催眠の被験者の証言によって、博士はこの問題についてもつぎのような答え方をしています。

  障害や困難の克服が、霊的な成長を促進するということは本当です。重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは進歩のしるしであって、退歩を意味してはいません。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主です。もっとも大きな成長の機会が与えられるからです。もし、普通の人生を学校での一年間としたら、このような大変な人生は、同じ学校でも大学院の一年に相当します。退行催眠で苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、このせいでしょう。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持っていないのです。R

  このように、魂が自らの成長のために、時には障害のある身体で、あるいは、特別の重荷を背負ってこの世に生きることを願うこともあるのかもしれません。自分が設定した目標を達成するために必要な環境を自ら創り出すためです。この場合、物理的な意味では「不利な」立場におかれているように見えても、霊的な目で見れば、的確で完璧な環境が選ばれている、ということになるのでしょう。
  この魂の主体的な選択を理解しなければ、私たちはしばしば、いのちの持つ意味についても重大な誤解を冒してしまうことになりかねません。一つの例をあげてみましょう。
  医学発達の歴史の中で、一九七〇年代に入ると、超音波による胎児診断を通して、出生前に胎児の先天的な病気の可能性についても診断できるようになりました。たとえば、先天性心疾患をともなうダウン症が判明した場合には、その胎児を出産するかしないかという生命の選択も可能になったのです。神戸市の保健課では、わざわざ対策室まで設けて、「不幸な子供を産まない運動」を始めました。
  これに対しては、障害者の団体が強く反発しました。障害を持って生まれてくる子を、はじめから「不幸な子」と決めつけてしまっているのは偏見以外のなにものでもないという理由からです。これは、きわめて正当な反応であって、霊的次元で見れば、「不幸な子供を産まない運動」は、障害を持って生まれることを「自分で計画して決めてきた」魂に対する非情な抹殺行為になってしまいかねません。
  障害を持って生まれてくれば、たしかに、周囲の偏見にさらされるだけでなく、様々な不自由や生活への重圧等にも耐えていかねばならなくなります。しかし、それが障害を持って生まれてくることの意味なのです。同時にそれは、まわりの人たちに、いのちの真実に目覚めさせ、人間愛のありかたを体得させる貴重な機会を提供することにもなっていきます。神戸市は、強い反対にあって、四年でこの対策室を廃止しましたが、それは当然のなりゆきでした。
  この障害者問題を考えさせられる、ひとつの格好の事例があります。『五体不満足』という本です。「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と表紙の帯に書かれたこの本は、いま三百万部を超える大変なベストセラーになって、日本中で読まれるようになりました。著者は早大生で、乙武洋匡君という二三歳の若者です。ご存じの方も多いと思いますが、彼には両手も両足もありません。先天性四肢切断という障害ですが、なぜこのような障害が起こるのか原因はいまだによくわかっていないそうです。乙武君は「とにかくボクは、超個性的な姿で誕生し、周囲を驚かせた。生まれてきただけでビックリされるなんて、桃太郎とボクくらいのものだろう」とこの本を書き出しています。
  乙武君は、自分の体に劣等感を持つどころか、自分に手足がないことを、誰にも負けないほかとは違う自分の長所だと思っているようです。そして、「多くの人が健常者として生まれてくるなか、どうしてボクは身体に障害を持って生まれてきたのだろう。そこにはきっと何か意味があるのではないだろうか」と考えた彼は、「障害者には出来ないことがある一方、障害者にしか出来ないこともあるはずだ」といって、福祉活動に乗り出していくのです。この健康な若者には、何の暗さもじめじめしたところもなく、彼の姿はいつも明るい光の中で輝いているようです。
  彼は、本の中で、小学校時代の思い出に触れて次のようにも書いています。

  障害を持っている子がクラスにいると、そのクラスは必ずと言っていいほど、すばらしいクラスになるようだ・・・
目の前にいる相手が困っていれば、なんの迷いもなく手を貸す。常に他人よりも優れていることを求められる現代の競争社会のなかで、ボクらはこういったあたりまえの感覚を失いつつある。
  助け合いができる社会が崩壊したと言われて久しい。そんな「血の通った」社会を再び構築しうる救世主となるのが、もしかすると障害者なのかもしれない。S

  この愛すべき若者は、生まれてくる前に霊界で計画した環境をその通りに自ら創り出して、そのなかで、困難と不自由を明るく乗り越え、まわりの人たちに愛と希望の光を投げかけていることになるのでしょう。この世で大きく成長しつつある、霊界の優等生候補といってよいのかもしれません。


    お わ り に

  何年か前のことになりますが、「朝日新聞」の読者欄に、「人が信じられない」と題する投稿が載ったことがありました。林美和さんという一九歳のフリーアルバイターからの投稿です。つぎのように書かれています。

  お父さん、お母さん、あなた方は活字になった私の文章を読んで一体どう思うだろうか。きっと何とも思わないだろう。氏名を見ても「長女と同姓同名の人がいる」ぐらいにしか思わないだろう。
  あなた方は私のことを人間だとは思っていない。自分たちの制作したロボットぐらいにしか思っていない。あなた方はいつも私にこう言っていた。「子供のくせに親の言うことに口答えをするのか」「お前なんか中絶したほうがよかった。今からでも死ねばいいんだ」・・・
  そういいながら、あなた方は私を殴りつけ、けとばし、精神的、肉体的に傷つけることによってストレスを解消していたのでしょう。あなた方にとって愛すべき子供は一人息子の弟ただひとりであり、私は必要なかったのでしょう。必要のない子供なら、どうして産んだのですか。どうして育てたのですか。私は中絶されても、コインロッカーに捨てられても恨んだりはしなかったのに・・・ おそらく、私は一生独身でいるだろう。私には家族は醜いものとしか思えない。
  お父さん、お母さん。私があなた方から教わったことは、人は信じられないということ。人を憎むということ。人間は醜いものであるということ。そして、この世に生まれてくるのは最大の不幸であるということーーただそれだけだった。

  この投書は大きな反響をよび、いろいろな人がいろいろな形の反応を新聞に寄せました。ある六一歳の学院長は、「涙がポタポタと新聞紙の上に落ちてしまいました。理由がわたしにもわからないのです」と書き、林さんと同じ一九歳の女子学生からは、「私も幼い頃から殴られて育ちました。私が父に抗議すると、飼い犬にかまれた時のように逆上して暴力をふるいました。私は中学の頃から自殺することばかり考えていました」と、同情のことばを述べていました。また、ある五七歳の主婦は、「あなたももう独立なさっているのですから、なぜ自分が疎外されたのか、徹底的にお尋ねになるべきだと思います。復讐と言うことでしたら、ぼけない前で、親が年をとり弱くなった時に問い詰めることです。お前たちの性の営みがなければ私は生まれなかったのだと、はっきり言っておやりなさい」と、激しいことばを並べていました。
  このような問題は、どのように考えていけばよいのでしょうか。一つだけはっきりしていることは、単なる涙を流すだけの同情や、復讐のすすめだけでは、少しも問題の解決にはならないということです。それでは、林さんは立ち直れません。この林さんが救われるとすれば、どのようにして救われていくのでしょうか。それは、ここまで話しを聞いてくださった皆さんには、もうよくおわかりのことと思います。
  大切なことは、「知る」ことだと思います。人間は、知らないと弱いし、迷い苦しみます。逆に、知っていると、人間は強いし、迷いも苦しみもありません。喜びと希望を持ってポジティブな生き方ができるようになります。昔から人間は悟りを開くために、難行苦行をしたり、瞑想にふけったり、祈り三昧の生活を続けたりしてきました。それはそれで尊いことなのかもしれませんが、なかなか凡人には真似が出来ません。私は、やはり「知る」ことが大切だと思います。そしてそれは、誰にでもできることなのです。
  最後に、もう一度くり返して言わせてください。「知る」ということが大切です。人間は誰でも幸せを夢見ます。しかし、人間にとって幸せに生きるために必要なことは何でしょうか。財産でもない、名誉でもない、社会的地位でもありません。健康や五体満足でもないとさえいえるでしょう。人間にとって幸せに生きるために必要なことは、自分とは誰かを知ることです。自分がなぜこの世に生まれてきたのかを知ることです。霊界の人たちは、それを一生懸命に私たちに伝えようと努めてきました。仏教の教えも、それを私たちに知ることを繰り返し促してきました。神道も儒教も、イスラム教、ヒンズー教などもおそらくみんなそうでしょう。そしてそれは、キリスト教でも例外ではありません。
  聖書の中には、生と死の実相に触れた真理のことばがちりばめられていますが、キリストの教えで最も大切なことは、私たちが永遠のいのちを得られるだろうということではありません。私たちには永遠のいのちがあるということです。私たちは神のもとで兄弟になるだろうというのではありません。私たちは人種・国家を超えてすでに兄弟であるということです。私たちが求めれば与えられるだろうということではありません。すでに与えられているのです。必要なことはそれを知ること、ただそれだけです。
  ご清聴を、どうも有り難うございました。

 

@ アイヴァン・クック『コナン・ドイル』(大内博訳)講談社、
  一九九四年、一六〇頁。
A Tony Ortzen, ed., The Seed of Truth--More Teachings
  from Silver Birch--, Psychic Press, London, 1989, Chapt
  1 の翻訳より。
B 日本では、アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓』
  (近藤千雄訳)、潮文社、一九八八年、が(一)〜(一二)の
  一二巻本になって出版されています。
C これらも私が翻訳した、Tony Ortzen, ed., The Seed of Truth
   --More Teachings from Silver Birch--, Psychic Press,
   London, 1989, Chapt 1 の一部です。
D 注4と同じ。
E 立花隆『証言・臨死体験』文芸春秋、一九九六年、五頁
  参照。
F 立花隆、前掲書、四一〜四四頁。
G 立花隆『臨死体験』(上)、文芸春秋、一九九四年、二三頁。
H 立花隆、前掲書、九〜一〇頁参照。
I レイモンド・ムーディ『かいま見た死後の世界』(中山善之訳)、
  評論社、一九八三
  年、三一〜三二頁。
J 立花隆、前掲書、四二九頁参照。
K 立花隆、前掲書、四三〇〜四三一頁。
L エリザベス・キュブラー・ロス『死ぬ瞬間と臨死体験』
  (鈴木晶訳)、読売新聞社、一九九七年、七九頁。
M エリザベス・キュブラー・ロス『人生はまわる輪のように』
  (上野圭一訳)、角川書店、一九九八年、三七五頁。
N ジョエル・L・ホイットン『輪廻転生』(片桐すみ子訳)、人文
  書院、一九八九年、六五〜六六頁。
O ブライアン・L・ワイス『前世療法』A(山川紘矢・亜希子訳)、
  PHP研究所、一九九六年、一二七頁。
P ジョエル・L・ホイットン、前掲書、一一五頁。
Q ブライアン・L・ワイス『前世療法』@(山川紘矢・亜希子訳)、
  PHP研究所、一九九六年、二一四頁。
R ブライアン・L・ワイス、前掲書A、二一七頁。
S 乙武洋匡『五体不満足』講談社、一九九九年、九四〜九五頁。



  本稿は、こすもす斎場三階大ホールで一九九八年五月二四日に行なわれた「こすもすセミナー」 特別講演の内容に加筆修正を加えてまとめたものです。本稿でも、引用箇所にはすべて注をつけて、英書については便宜上、訳本名で出典を明らかにしておきました。
  前回と同様、私の講演の内容をできるだけ多くの方々に広く知っていただきたいという趣旨で、社会に対する奉仕活動の一環として、このような小冊子の発行を企画して下さった溝口祭典・溝口勝巳社長のご高配に、こころから厚くお礼申し上げます。



 謝 辞  

 前年度に引き続き、昨年は五月二四日に、弊社の三階大ホールで「こすもすセミナー」特別講演会が開催されました。この小冊子は、その講演内容を講師の武本昌三先生にまとめていただいたものであります。
 先生は、いのちとは何かという重大な問題に真正面から取り組み、霊界通信、臨死体験、退行催眠などの分野で欧米の医者や科学者たちによって明らかにされてきた事実を、私たちにもわかりやすく熱心にお話しくださいました。会場で真剣に耳を傾けて下さった数多くの聴衆の方々の感動とこころの癒しを、この小冊子からもくみ取っていただくことができれば、講演会の主催者としても大変有り難く存じます。
 人生についての真理を学ぶことは、私たち葬祭を業とする者にとりましては、とりわけ重要なことであります。葬儀というのは、もとより、単なる悲しみの儀礼で終わるものではなく、なによりも、その真理に裏付けられたものでなければなりません。その上で、多くの貴重な人生経験を積まれて安らぎのふる里へ帰って行かれる方々を、こころからの敬意をもって厳粛にお見送りするのが本来の葬儀であろうと心得ております。それだけに私たちも、この講演のお話を肝に銘じて、私たちの誠意と真心を、これからのご奉仕に活かしていきたい所存であります。
 この小冊子が、一人でも多くの方々に読まれることを祈念しながら、武本先生ならびにこの講演会にご出席くださった多くの皆様方に、あらためて衷心より厚くお礼申し上げます。

  一九九九年六月五日
      株式会社 溝口祭典  代表取締役 溝 口 勝 巳