真相究明を訴える (『疑惑の航跡』「あとがき」より)

 本書は、1983年9月1日に大韓航空機事件が起こってから翌年春頃までの、私の個人的な心情の記録である。
 ここでとりあげた遺族たちの勉強会や抗議運動は、このあとも続けられた。犠牲者の1周忌には、国会議員、航空専門家、弁護士、作家等を中心にして真相究明の会が設立されたこともあって、真相究明への動きは、着実に一歩も二歩も前進していた。
 しかし、そのようなことについては、紙数の関係で割愛せざるをえなかった。私にまだ体力と気力があれば、いずれ別の機会に稿を改めて書くことにしたい。
 一つだけ述べておきたいことがある。                    
 昨年秋、遺族会総会の日に、大韓航空機事件を追って精力的な仕事をしておられた柳田邦男氏は、私たち遺族を前にして新しく出たばかりの『撃墜』(下)の内容をまとめてお話し下さった。
 柳田氏が打ち出した仮説は『ナブ』切換えミスである。KAL007便は、出発時にINSのモード・セレクタースイッチをNAVモードにする前に機体を動かしてしまった。そのためにINSの現在地点のデータが狂い、結果的には500キロ以上の航路逸脱を惹き起こした、というものであった。
 この氏の仮説については、その後、12月14日の『朝日ジャーナル』で、杉本茂樹氏が航空技術者の立場から、「その論拠の核心部分において、信じられないような初歩的ミスを犯している」と反論しているが、ここで述べたいのはそういうことではない。
 『ナプ』切換えミス説の解説が終わった時、私は、是非柳田氏にも聞いておきたいと思っていた一つの質問をしたのである。「アメリカはこのようなKAL007便の大幅な航路逸脱を知っていたと思いますか」という質問であつた。「知っていたと思いますね」と、事も無げに柳田氏は答えられた。
 つまり、柳田氏の事件のとらえ方は、「KAL 007便はたまたま人為ミスでソ連領空を侵犯してしまったのだが、アメリカはそれを知っていても警告しなかっただけだ」ということになる。
 しかし、それはそうではないであろう。
 本書では一部の根拠しか述べていないが(より具体的な根拠については、「真相を究明する会」会員諸氏の『世界』1985年5月号、『宝石』1985年6月号などの論文をご参照いただきたい)、あのKAL007便はおそらくアメリカに強制されて故意にソ連の重要軍事基地の上空に侵入したあと、ソ連戦闘機の警告を無視して逃げようとし、そして、予想に反して撃墜されてしまったのである。
 大韓航空機事件は、一般の航空機事故とは全く異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。
 真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そのことは、最近の防衛庁の資料で007便の意図的な領空侵犯が「証明」されてしまったいきさつからも、裏づけられているといえるであろう。
 もっとも、そういう風に考えるようになっても、まだ隠された部分が多く残っているし、それだけで私たち遺族の真相究明の「悲願」が達成されたわけではない。私自身はむしろ、アメリカが好きであった妻や子のためにも、アメリカ政府の犯罪を確信することに一層の苦しみと悩みを感ずるだけなのである。
 突飛な言い方になるかもしれないが、できればどなたか、確実な証拠と明快な論理で私たちの「確信」を突き崩していただけないものか。アメリカ政府は私たちの家族に対して決して犯罪を犯してはいなかった、ということを私たちに納得させて下されば、私たちもそれによって少しは救われるかもしれない。
 本書を書き終えたいま、アメリカ政府の犯罪に確信をもちながらも、私はまだ苦しまぎれに、そのような「期待」さえ捨てきれないでいる。

 本書の第一章は、『潮』の昨年九月号に掲載された。その時、『潮』副編集長の南晋三氏は私に、その続きを書いて一冊の本にまとめるよう勧めて下さった。
 いろいろと思い出しながら、妻と子について書いていくのは辛い。書いたとしても、あとに残るのはすさまじいばかりの空しさである。しかし、やはり書かずにはおれない。そういうこころの葛藤の中で、相かわらず半ば病人の状態のまま、その後の数カ月を過ごした。
 今年の1月になって、私はやっとこころを決め、第2章以下を書きはじめた。そういう私を南氏は終始あたたかい眼で見ていて下さった。生き甲斐らしいものはほとんどすべて失ってしまっていた私は南氏からの励ましの手紙を、一時、お守りのようにして持ち歩いたこともある。私はこの南氏のご好意を、いつまでも決して忘れることはないだろう。
 私はまた、出版部長の西原賢太郎氏にもこころからの感謝を捧げなければならない。
 西原氏は私の執筆に適切な助言を惜しまれなかった上に、私の不安定な精神状態を見抜かれて、あえて、気持を支えていくための「締切り」を設定して下さった。私は「それまでは生きていきます」と答えた。氏は「まだその後にも出版がありますから」と静かに言われた。
 私は約束通り「締切り」だけは守ったが、原稿そのものが氏の期待に副いえないことはないだろうかと、それのみをひそかに虞れる。
 ともあれ、本書は西原出版部長と南副編集長のこのようなご好意と励ましによって、ようやく上梓の運びとなった。私の妻と子の小さな足跡が、本書によりこの世に残されることにもなる。あらためてお二方に、厚く御礼を申し上げたい。

    1985年5月
     多摩ニュー・タウンの潔典のアパートにて