41. 人生に偶然はなく起こることは起こるべくして起こる

 キュブラー・ロス博士は、晩年、自分の生涯について「わたしはまじめに教会に通う、しとやかなスイスの主婦になるはずだった。ところが、いざ蓋をあけてみると、なんとアメリカは南西部に居を定め、この世よりははるかにすばらしく荘厳な世界の霊たちと交信する、依怙地な精神科医、物書き、講演者として終わろうとしている」と、述懐している。

 予想外の、死と死後のいのちの研究に三〇年以上も費やしてきた彼女は、「死の専門家」と思われて、家を焼かれるなどさまざまな迫害をうけたりもしてきたが、それに対しても、「わたしはいつも、死ほど貴重な経験はめったにないといっている。それは日々をちゃんと生きていれば恐れるものはなにもないということでもある」と強気の姿勢を崩さなかった。その彼女の、次のことばには重みがある。

 人生の個々のできごとは、たがいに噛みあわないようにみえるかもしれない。だが、わたしは経験をつうじて、人生に偶然などはないということを学んできた。起こったことは、起こるべくして起こったのだ。(「学びの栞B:43-f )



 42. 瞑想のなかで守護霊に頼んでみましょう

 ジェームズ・ヴァン・プラグは『もういちど会えたら』のなかで、「わたしたちは決してひとりではない。ガイドは常にわたしたちのすぐそばにいます。わたしたちを見守り、援助するのが彼ら霊の務めなのです」と言っている。このガイドを彼は「教師」とも言っているが、守護霊のことであろう。この守護霊に会うことはできるのであろうか。彼は、まず第一の方法は瞑想です、と言ってこう教える。

 霊的ガイドに会うという意志を持って瞑想に入ります。充分にリラックスしたところで、教師に姿を現わしてくださいと心のなかで頼んでみましょう。深いリラックス状態にあって、なおかつ、過大な期待を持っていなければ、あなたの心の目には誰かの顔が浮かんでくるでしょうし、あるいは、衣服の一部が見えるかもしれません。(「学びの栞B:47-d)

 これがうまくいかなければ夢による方法も考えられると、次のようにも言っている。「ベッドに横たわって眠りにつきながら、夢のなかで姿を現わしてくださいと教師に頼むのです。マントラのように何度も何度も頭のなかで繰り返し唱えましょう。やがて、眠りに落ちると、教師の夢を見るはずです。」



 43. 人生の教訓は天国は自らの中に存在するという真実です

 すべての存在局面はあなた自身の意識の中に存在しています。これらの世界は、人間の息が届くところよりも近いところに位置しています。私たちが心の中に深く受けとめ、人生の中で身をもって生き抜かなければならない一つの教訓は、天国は自らの中に存在するという真実です。(「学びの栞B:51-l)

 これは、霊界から送られてきたコナン・ドイルのことばである。このことばは、こう続く。「この王国に入るために、大袈裟な知的探求は必要ではありません。必要なのは、幼児の純朴な心だけです。ですから、あなたの子供に妖精のことを教え、話してください。あなた自身も庭に出て、妖精を探してみてください」。そして、霊界へ行ってからの彼が認識しているいのちの真実について、つぎのように付け加えた。

 単純さ、これが鍵なのです。単純であること。生命は複雑ではありません。無知なるものだけが物事を複雑にしているのです。生命はその単純さにおいて偉大であり、その偉大さにおいて単純です。それだけのことです。



 44.聖書の内容の取捨選択は出版されるまで続いた

 「聖書の執筆者たちは偉大な信者で、偉大な歴史家だった。彼らは自分たちや友人たちに伝えられた物語を書きとめたのだ。長老から長老へと、文字になるまで言い伝えられてきた物語を」と、『神との対話』の神は語る。しかし、その内容が正しく伝えられているわけではない。神は続ける。

 イエスの教えの周囲にすでに「教会」が生まれていた。そして、力強い教えのまわりに人びとが集うときにはどこでも必ずそうだが、教会のなか、信者の集団のなかには、イエスの物語のどの部分をどのように語るかを決めた人びとがいた。この取捨選択、編集のプロセスは、福音と聖書の内容を収集し、文字にし、出版するまで続いた。(「学びの栞B:12-h)

 553年にコンスタンチノーブルで開かれたいわゆるニカイア会議では、教会の支配を強めるために輪廻転生を削除してしまった、といわれるが、神もそれについて、「カトリック教会の公会議が、どの教義が不健康、あるいは時期尚早で、大衆に知らせてはならないかも決定していた」と述べている。



 45. ほんとうの自分は何者かを知るのは死ぬときだ

 「たとえば病人がいて、山をも動かすような信念をもっていて、きっと良くなると信じ、口にもしていたのに・・・・・・六週間後に亡くなったという場合はどうなんですか? これはその前向きのプラス思考、積極的な行動にあてはまるんですか?」という問いかけに、神は答えた。

 「山をも動かす」信念の持ち主が六週間後に死んだのなら、そのひとは六週間、山を動かしたのだ。彼にとっては、それで充分だったのだろう。彼はその最期の日の、最期の時間に、「オーケー、もう充分だ。つぎの冒険に進もう」と決めたのではないか。そして、こうも述べた。

 医師や看護婦にとって、死は失敗なのだ。友人や親戚にとって、死は災いだ。ただ、魂にとってだけ死は救い、解放だ。一生を通じて、あなたは身体が自分だと思っている。ときには精神が自分だと思うこともある。ほんとうの自分は何者かを知るのは、死ぬときだ。(「学びの栞B:17-zh)



 46. あなたの朝はもうすぐやってくる、私の朝がやってきたように

 「これまで私は、考えられるあらゆる言い方で、何度も何度も何度も、あなたが知ることのできる最も重要な真実を語ってきた。それは、あなたは神である、ということだ。そしてあなたは、ひょっとしたらそれはまさに真実なのかもしれないと気づき始めている。愛すべき主たちよ、それをはっきりと知るということは、一瞬一瞬あなたの人生が開花していく過程を通じてのみ可能になるのだ。だが、あなたには次のことも知ってほしいと私は願っている」。これは、ラムサのことばである。ラムサは こう述べてきて、やがて訪れてくるある朝の壮麗な風景について触れながら、つぎのように続ける。

 「この壮麗なる風景、時代を超えてあらゆる瞬間を目撃してきたこの風景に見とれ、この神秘の感情があなたの存在すべてを包み込んだとき、あなたはまさに自分が太陽神の生命そのものであることを悟り、天に舞い上がるほどの気持ちとなる。あなたはまさに遠い地平線に強く静かにそびえ立つ、生命を守る歩哨そのものなのだ。あなたはまさに、目覚める夜明けの色であり、林の中にある木々の枝の動きであり、窓辺に落ちる朝露の一滴であり、そして朝鳥の甘くやわらかなよろこびの歌そのものなのだ。」 ― そして、ラムサは、その次に見る夜明けは「私そのものである神を見よ」という視点から見るものとなるという。ラムサは、このこと ばを、こう結んだ。

 真実を学ぶのと、その真実になるのはまったく別のことだ。しかし、そんなことをまったく思ってもいないとき、あなたは起き上がり、このような壮麗な風景を空に見る。そして、あなたの存在そのものの平穏を通じ、この真実を「知っている状態」が現実となるのだ。ある晴れた朝に。すると、あらゆる言葉、あらゆる混乱、怒り、自己の拒絶、神を理解することの複雑さ、探求、本や教師たち、それらはすべて終わりを告げる。静かに、それを表す言葉もない、深遠なる気づきを通して。
 あなたの朝はもうすぐやってくる― 私の朝がやってきたように。(「学びの栞B」38-e)



  47. この世で起きることはすべて霊的計画の一部です

 世の中に偶然というものはないとは、よく言われることである。自分に起こっていることは、すべて自分にとって必要なことが、必然に起こっているのであって、その意味では、本当はみんな「いいこと」なのだともいう。だから、例えば、私が現在経験している大腸がんや大動脈瘤の手術なども、本来の私にとっては、必要、必然であって悪いことではないのであろう。ジェームズ・ヴァン・プラグは、事故や自然災害でさえ、偶然ではないと次のように言っている。

 一見して偶然の事故に見えるものも、あるいは、自然災害でさえ、必ずしも見た目どおりとはかぎりません。物事の基本にはカルマ的責務があるうえに、一個の魂、あるいは、集団としての魂が物質界に入る前には霊的な契約を結んでいるのです。この世で起こることはすべて霊的計画の一部です。(「学びの栞B」43-g)

 永遠の生命を、この世的なたかだか100年の瞬間的な尺度で考えると、ものごとの真実は見えてこない。それはわかるような気もするが、それでも、この世での「悲劇」の体験者や、犠牲者や、その家族の深い悲しみや苦しみは残る。やはり、それは、私たちの理性では理解できないことで、「私たちの人生は推測すらおよばない巨大な構図の一部にすぎないのだ」と納得しなければならないのであろうか。



 48. 私たち生命は宇宙の子、星の子ということになる

 生命の大部分は、非常に少ない5種類くらいの元素でできている。「地球は100種類くらいの元素でできていることを考えると、これは非常に不思議なことだ。100種類ものなかの5種類だけを集中的に使っているのが、地球上の生命の特徴だ」と、『生命の旅150億年』の著者は述べている。

 動物も植物もだいたい同じで、多い順に、水素、酸素、炭素、窒素となる。動物の場合は次にカルシウム、燐になる。ところが宇宙は多い順に、水素、ヘリウム、酸素、炭素、窒素となり、ヘリウムだけは違うが、生命と非常によく似ているのである。この著者は、「このことから地球上の生命は宇宙と深い関係があることがわかる」と続けて、「私たちが宇宙の子」であることを、次のように言った。

 宇宙のはじまりには、水素とヘリウムだけであった。やがて密度の高いところで、水素が核融合反応をおこなつてヘリウムをつくり、輝きだして星が生まれた。その星の最期に炭素や酸素などがつくられた。そうした星がつくった元素が基になって、地球や私たちのからだができている。星の基になる水素は宇宙がつくりだしたことを思えば、私たち生命は宇宙の子、星の子ということになる。(「学びの栞B」39-a)



  49. 人は無限の能力を発達させ神に近づいていく存在である

 私たちは一人残らず神の子として生かされている。しかし、地上で目が曇らされている間は、その真実がなかなか理解できない。天界へ行って「調和に満ちた静かな生活を送っている存在たちを、あなたがほんの一瞥でもできれば」少しはわかるに違いありません、とコナン・ドイルは言い、霊界からつぎのように訴えている。

 一人一人の人間はこの世で一歩一歩訓練を受け、花を開きつつある存在であり、やがて、無限の能力を発達させ、神に近づいているのだということを、どうぞ忘れないでください。(「学びの栞B」44-zb)

 そのうえで、コナン・ドイルは、「神に対する理解が深まり心に光がさすとき、私たちは驚愕せざるをえません。人間の心はいかに気まぐれで感謝することを知らず、そしてわがままなものであるか!」と、自分が霊界へ還ってからの率直な思いを付け加えている。



 50. 霊が伝えられるのは霊的に正しいと確認できる場合だけです

 霊界からは、この地上の世界がまる見えである。指導霊たちは私たちの生き様をつぶさに見守っている。それならば、「私たちに何か事故が起こる前に、どうして指導霊たちは前もって教えてくれないのでしょう」と訊かれて、アメリカの優れた霊能者のジェームズ・ヴァン・プラグは次のように答えた。

 霊がわたしたちに伝えられるのは、自分が知っていること、そして、相手に知らせることが霊的に正しいと確認できる場合だけです。霊は鋭敏な洞察と視野の広い意識を獲得していますが、それぞれに啓発されたレベルからしか情報を送れないのです。(「学びの栞B」47-e)

 伝えることが霊的法則に反することになるのであれば、伝えたくても伝えることが出来ない。それに、指導霊たちも霊的存在としてのさまざまなレベルの中で生きている。私たちにもそれぞれに霊的レベルがある。その相通じ合う霊的レベルに達していない知識については、伝えられることがないともいう。



 51. わが全生涯の目的は神を見て神をわがものとなすにあり

 産を失うも可なり、願わくは神の聖顔(みかお)を失わざらんことを。病に悩むも可なり、願わくは神の聖旨(みこころ)を疑わざらんことを。人に棄てらるるも可なり、願わくは神に棄てられざらんことを。死するも可なり、ねがわくは神より離れざらんことを。神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。

  内村鑑三『一日一生』教文館、1986、p.18



 52. 神は必ず求めるものを与えてくれるという信念を持つ

 「祈りがかなえられないというときは、じつは、最も強く信じている思考や言葉、感情が作用している」と『神との対話』のなかで述べられている。そして、私たちの思考の陰にはつねにもうひとつの思考、「思考を支える思考」とでも言うべきものがあって、それが、思考をコントロールしているのだという。

 それを「神」はこう説明している。「つまり、何かを求めたり、願ったりしたら、望んだことがかなう可能性は非常に小さい。なぜなら、『欲求を陰で支えている思考』というのは、『望みはかなっていない』という思いだから。そちらのほうが現実になるのだ」。それでは、どう祈ればよいのか。「神」は次のように教えている。

 支えとなる思考のなかで、「望みがかなっていない」という思いよりももっと力強いのは、「神は必ず求めるものを与えてくれる」という信念、それだけだ。神があらゆる求めに応じてくれると信じるのはむずかしいが、そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みがかなっていることを素直に感謝するようになる。(「学びの栞B」4-i)



 53.あなたはわざわざ困難な人生を選んだのかもしれません

 私たちはこの世では、人間関係から学び、病気から学び、そして死から学ぶといわれている。このうち、人間関係は死ぬまで続く学びで、最も大切なのかもしれない。他の人々との交流を通して、愛についてあらゆる側面から学ぶための霊的な道を進んでいくことにもなるからである。

 ブライアン・ワイスは、「人間関係は私達の生きた実験室であり、学びのためのテストの場であり、生まれる前に決めて来た人生計画にどれくらい忠実か、発見する場でもあります」という。だから、厳しい人間関係であっても、それは決して無意味ではないと次のようにも述べている。

 障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとって最も大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。(「学びの栞B」56-q)



 54.人間の心はいかに気まぐれでそしてわがままであることか

 私たちはこの神秘に満ちた宇宙を眺めても、無数の星々の動きを完璧に制御している強大な宇宙の創造主の力にまでは考えが及ばない。また、植物の種を土の中に蒔き、適度の水を与え、それに太陽と温度があれば芽が出ることを知っていても、その背後にはその植物に生命を与えている無限の知的存在の力があることには気がつかない。私たちの命でさえ、実は「生かされている」のであることをどれだけの人が意識しているであろうか。

 コナン・ドイルは死後の霊界に在って、この生命力を創造し現実化している神の力の存在について、熱心に私たちに告げようとしてきた。私たち「一人一人の人間も花を開きつつある存在であり、やがて、無限の能力を発達させ、神に近づいているのだということを、どうぞ忘れないでください」と訴えてもいる。そして、こう続けた。

 それだけに、じっくりと考えてほしいのです。人間の心、意思、霊の一つ一つの努力、すべての行動、とるに足りない小さな体験から、最も素晴らしい体験に至るまで、すべての体験は、このような神としての人間の実現に役立つことになるのだ、ということを。このように理解することによって、心に光がさすとき、私たちは驚愕せざるをえません。人間の心はいかに気まぐれで、感謝することを知らず、そしてわがままなものであるか!(「学びの栞B」58-b)



 55.情欲を抱いて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである

 「姦淫するな」と言われていることは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイ5章27−28)

 この地上世界では、心のなかで思っていることは、他人に知られることはない。しかし、霊界へ行けば、思っていることはすべてそのまま相手に伝わるから、嘘やごまかしは通用しない。私たちはありのままの姿をさらけ出して生きていくことになる。それに備えるのがこの世での修行ということになるのであろうか。イエスの言葉はさらにこう続く。

 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。



 56.ここに戻るのはこの場所で生きたいからである

 私たちは生まれ変わる時どのようにして自分の親を選ぶのであろうか。ラムサは、ほとんどの場合、人は自分の知っている者を親に選ぶという。前の生で子どもや親であった存在たちである。しかし、場合によっては自分に合った知らない人を親に選ぶために何百年も待つこともあるらしい。すべては自分が必要とする体験を得るためである。

 だから、ラムサによれば、本当の意味で人の母親、父親である者は誰ひとりとしていない。すべての人間は、神という、生命の父母原理の息子であり、娘である。そして、「あなたの子どもも親も、本当は兄弟姉妹であり、皆、等しく神の精神の一部なのです」と説いて、つぎのように続けた。

 個々の存在は、自分がただ極めつけの美人になるとか、金持ちになるとか、あるいはみじめな貧民になるためだけに、この場所に戻ってくるわけでないことは、戻ってくる前からわかっています。ここに戻るのは、この場所で生きたいからであり、このレベルで感情を学ぶという課題に積極的に取り組みたいからなのです。(「学びの栞B」23-l)



 57.人生は自分がどのように世界を見ているかによって決まる

 私たちの人生に起きてくる悲劇的な事件でさえ、それは、私たち一人ひとりの成長のために必要だからこそ起こっているのである。そして、もし自分の人生は自分の内なる神を経験するためのものだと常に忘れないでいるならば、私たちの人生は輝きに満ち、一見悲劇に思えることも、実は悲劇ではないのだとわかる、と 『アウト・オン・ア・リム』のなかでシャーリー・マクレーンはいう。

 彼女は、「今までに私が学んだ最も重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということです」とも言っている。つまり、私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどう取るかという認識の問題であるというのである。これはまったくその通りであろう。人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてであるというのは、強い説得力を持つ。彼女はそれをこう続けている。

 いいかえれば、私たちの人生は私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです。だからこそ、前向きで実り多い人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっているのです。自分こそが自分の人生の実現者なのです。また自分こそが自分の先生なのです。あなた自身が神であることに気づいてください。(「学びの栞B」10-e)



 58.あなたは永遠不滅の存在で何度も何度も生きる

 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなた方の天の父は彼らを養っていて下さる。あなた方は彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」。これはマタイ6:26のことばである。このあとには、野の花の譬えがきて、「あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」と続く。

 ラムサにも、これに似たことばがあるが、ここで強調されているのは、人のいのちの貴さである。こう訴えている。「一輪の花に生命の途切れない営みを見ることができるならば、なぜあなたがその生命よりも劣っているなどと考えるのか。ただ春に花を咲かせ、夏には果実をならせて、秋になって葉を落とし、そして冬になると死ぬだけだと思うのだろうか。あなたはもっとも偉大な花よりも、さらに偉大な存在なのではないのか」。そして、次のように述べている。

 あなたは何度も何度も生きる。あなたの種は永遠不滅の存在なのだ。あなたがどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、あなたがけっして消せないものがある。それが、生命というものだ。どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれるものが表す価値観であるからだ。そしてそれは、あなたのことなのだ。(「学びの栞B」23-g)



 59.神のあなたへのただ一つの望みはあなたのよろこびである

 ラムサは、よろこびがすべての存在の状態の中で最も偉大であると教えている。そして、そのよろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由のことであり、価値判断のない表現の自由であり、恐れや罪悪感のない存在のことであるという。さらには、よろこびとは、自分が、自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態であり、在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことであるともいう。

 では、なぜ、よろこびが最も偉大なのであろうか。それをラムサは、こう述べている。「人がよろこびの状態にあるとき、その人は神そのものである流れとともにあるからだ。その流れの中では、嫉妬や怒りや反感、あるいは戦争などが存在する余地はない。よろこびの状態にあるとき、人を憎んだり、囚われの身にしたり、あるいは傷つけたりするのはむずかしい。幸せでよろこびあふれる状態にあるとき、あなたはすべてのものに見られる神を愛しているのである。」そして、次のように続けた。

 幸せになること、よろこびにあふれることは、父のあなたに対するただひとつの望みである。それはまさしく、感情の中で最も偉大な価値を持つものと言える。よろこびを理解し、よろこびそのものになるのは、どの次元にいようと、どんな叡智を達成した者であろうと、すべての人類に神が与えたただひとつの運命の道なのである。よろこびと幸せの状態に戻れば、それは神の状態に戻ることだからだ。(「学びの栞B」56-g)



 60. 霊界でははるかに劣る霊として生きている学者や智者たち

 スウェーデン王国出身の大学者スウェデンボルグ(1688-1772) は、生きながら霊界を探訪するという稀有の体験をもったことで知られているが、その彼は、霊界というものは「人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能なものではない」と述べている。

 宗教の教義も、それが真正なものであれば、その教えに従うことで多くの場合、霊的な心の窓を開くのに役立つ。しかし、やはり、何よりも大切なのは、霊的真理を受け入れる素直な心であるという。その点では、表面的な知識に偏りがちな学者や知識人などは、霊界ではかえって霊的には劣ることがあると次のように指摘している。

 私は霊界で世間にいたとき人々に学者、智者としとてあがめられた多くの人々が、霊的な理性においては、これらの人々より知識などのなかった人々よりはるかに劣る霊として生きているのに何度もぶつかってきた。彼らは知識や学問を霊的な心の窓を開くための手段として利用せず、逆に、これが彼らの「直ぐなる心」を失わせたことの結果なのだ。(「学びの栞B」27-d)