81. 幸福になりたければ守護霊に自己の運命を委せればよい

 私たちは、一人ひとりが例外なく、守護霊や指導霊に霊界から見守られ、導かれながら生かされている。だから、霊界の立場からすれば、そのことを知って守護霊、指導霊に常に感謝の気持ちを忘れない人ほど守りやすく、守護霊の存在に気がつかない人は、守りにくいということになるのであろう。これを五井昌久師は『神と人間』のなかで、次のように言っている。

 人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。(「学びの栞B」74-d)

 ここではさらに、このような守護霊と神への全託の心があれば、その人の行動はおのずから調和したものになり、生活も楽になっていくと述べられている。それは私たちが守護霊、守護神とまっすぐに繋がることであり、そのつながりによって、「業生の因縁因果の渦巻」からも、いつのまにか離脱できるから、ともいう。



 82. 霊体は意のままに動かせるし、頑丈だし、快適そのものだ

  ジュディー・ラドンは『輪廻を超えて』のなかで、私たちがあの世へ移った時にまず気がつくことは、「自分が肉体をまとっていたときと同じような姿をしている」ことで、「五体はもとどおり満足で、見慣れた服まで着ている」と述べているが、その事実についは『新樹の通信』でも私たちはいろいろと教えられてきた。ただ、身体は以前と同じようでも、感じが次のように、まるきり違うらしい。

 こちらでの身体は地上のものにくらべて、より微細な素材からできており、痛みや病気、不快感、疲労、飢えなどの感覚はない。わずかな不快感すらなく完全に自由なので、新しくやってきた者はみな爽快感をおぼえる。すっかりくつろいだ身体はしなやかで意のままに動かせるし、頑丈だし、快適そのものだ。(「学びの栞B」46-v)

 さらに述べられている生活環境についても、たとえば建物は、「たいてい美しい大理石のような材料でできており、内なる光と清らかさに輝きわたって見るも楽しいもの」であり、「自然のままの田園もあって、土は独特の黄金色で燦然と七色にきらめいて」いるという。これらも、『仏説阿弥陀経』のなかの極楽浄土の描写と同じで、そのお経のなかで「これは嘘ではない」と繰り返している仏陀のことばが改めて思い出される。



 83. 私は精神霊媒で霊界に通じる電話にすぎない

 私は霊的知覚と霊視の才を利用する精神霊媒です。私は霊界に通じる電話にすぎないといつも会席者に説明します。日常、ごく普通に人の考えを受け取るのと同じで、私は霊界の人びとが私の意識に送りつけてくる想念の波長を鋭敏に感じ取るのです。(「学びの栞B」30-0)

 これは、ジェームズ・ヴァン・プラグが『もういちど会えたら』のなかで述べていることばである。しかし、実際に霊界からの想念の波長を感じ取るのは、そう簡単なことではない。まず霊媒が自分の波長を高め、霊は波長を低くして双方の波長が合わなければならない。そのための霊媒の資質も問われるし、私たちの心の準備も問題になってくるであろう。

 うまく波長が合えば、霊界の家族は私たちに理解しやすいメッセージを送ってくる。自分の名前や住所、あるいは、私たちと共有している事実をいろいろと伝えて自分が生き続けていることを証明しようとする。しかし、これは霊界通信のまだ初歩である。時に思うことがあるが、私たちが霊的に無知でなかったら、霊界の家族はどんなに心が安らぐことであろうか。



 84.ほとんどの場合人は自分の知っている者を親に選びます

 私たちは生まれ変わる時どのようにして自分の親を選ぶのか。「ほとんどの場合、人は自分の知っている者を親に選びます。前の生で子どもや親であった存在たちです。でも、この地上界での自己表現の媒体を提供してくれるというだけの理由で、自分の知らない人を親に選ぶ人もいます」とラムサは言う。(「学びの栞B」23-l)

 このように私たちは主体的に親を選んで生まれてくる。ある時の交霊会では、その前年に母を亡くしたある女性に対して、ラムサは「もしあなたのお母さんがこの次元に戻ることを選ぶなら、彼女にはあなたの子どもの子どもか、そのまた子どもになるという選択があります」とも述べている。

 大切なことは、この世に戻ろうと決意するのはほかならぬ私たち自身だということである。だから、生まれてからの状況が惨めであってもそれを誰かのせいにすることはできない。自分のよろこびも悲しみも、魂の修行のためにそれらを選んだ私たちにその責任があることを忘れてはならないのであろう。



 85. あなたは過ちを犯したこともない。一度たりともないのだ。

 ラムサの流麗な言葉にはいつも魅了され、心を打たれる。おそらくそれは、ラムサの言葉が何よりも真理を伝えているからであろう。自分は神なる存在であることを知り、自分の生をそのまま受け容れることをラムサは説く。罪悪感をもつことをやめ、「哀しみにくれる自分という、ばかばかしい偽善はよそう」と教える。そして、こうも述べた。

 あなたは過ちを犯したこともない。一度たりともないのだ。何も間違ったことをしたこともない。何のために罪の意識を感じる必要があるのだ? あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩ずつ進むための「神への階段」と呼ばれるものだ。(「学びの栞B」65-e)

 過ちを犯したことはないし、失敗したこともない。いつも学んできたのだと、ラムサは強調する。過ちや失敗と思っていることも、本当は、自分に必要だったことを学んでいるというのである。学びであるからには罪悪感を持つ必要はない。だから、今日という日を過ちや失敗で捉えてはいけないのであろう。「それはあなたを永遠へと導いてくれる道なのである」とラムサは続けている。



  86. 事故は起こるべくして起こる

 偶然というものはないし、事故も起こるべくして起こる。よく言われることだが、これはこの世だけの短い視野で捉えては理解できない。永遠の生命の中で自己を救済していく一つの過程として事故も自ら招き寄せるものであると、ウォルシュ『神との対話』ではつぎのように述べられている。

 事故は起こるべくして起こる。生命の要素があるときにある方法でぶつかり、ある結果を引き起こす。あなたがたは、自分なりの理由で、その結果を不運と呼ぶかもしれない。だが、魂の課題という点から考えれば、不運ではないかもしれない。(「学びの栞B」55-c)

 ここでは、これはさらに、こう繰り返されている。「もう一度念を押しておこう。偶然というものはないし、なにごとも『たまたま』起こったりはしない。個々の出来事や冒険は、真の自分を創造し、経験するために、あなたがた自身によって呼び寄せられるものだ。」



 87. 人は神を知るためにこの世に生まれてくる

 これは「随想」(68) の「神を知るために生まれる」の中でも触れているが、むかし、文部大臣賞の『カキツバタ群落』など多くのすぐれた作品を書いた作家の田中澄江さんは、「神を知るために」と題する文のなかで、「自分は、どこから来て、どこへゆくのか。自分は何をしに、この世に生まれて来たのか。物ごころついて以来、心に持ったはずの問いかけを、まだ、私は持ちつづけ、まだ、問いつづけている」と書いた。そしてこう続けている。

 二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。(「朝日」1991.3.11)

 同じようなことを内村鑑三も『一日一生』(教文館、1986)のなかで書いている。財産は無くしてもかまわない。人に棄てられてもかまわない。病気になっても、死んでもかまわない。しかし、神から離れることは出来ないと、つぎように述べた。「神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。」



 88. 誦経は霊魂をなぐさめ浄めることになる

 むかし、般若心経を訳した玄奘三蔵が印度への求法の旅の途中で悪鬼に襲われた時、般若心経を唱えて救われたという話がある。いろいろな功徳を求めてお経をとなえる人はいまも多いと思われるが、功徳を求めて唱えるお経には功徳はないともいわれたりする。功徳はあるのか、ないのか。五井昌久『神と人間』にはこう述べられている。

 誦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。(「学びの栞B」6-d)

 ここでは、さらに、お経の持つ高い波長と読む人の波長が合わなければ、その響きは霊界には届かないともいう。霊界通信でもそうだから、これは恐らくその通りであろう。だから僧侶に誦経してもらう時にも、その僧侶の霊格の高さや、施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方も違ってくることになる。



 89. 真理はあなた自身の心の中にある

 霊的真理こそは永遠に変わらぬ真理である。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理であり、決して知性を欺くこともない。それは不変の自然法則に基づいた単純素朴な宇宙の真理だからである。では、その真理に到達するにはどうすればよいか。ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』には、次のように述べられている。

 真理はあなた自身の心の中にある。あなたの心の奥深くからやってくる直観が、物質界で知りうるもっとも偉大な真理へとあなたを導いてくれる。誰にでも、このように深遠な真理を自分のものとする道は開かれているのだ。人にはそれぞれ魂があり、この魂が宇宙の叡知を伝えてくれる。耳をすませて聞いてほしい―― ただそうするだけでいいのだ。(「学びの栞B」6-k)

 しかし、「ただそうるすだけでいい」と言われても、私たちはすぐには納得できそうもない。やはり、ある程度の訓練と理解が必要のようである。大切なことは、真理が私たち自身の心の中にあることを認めることであるという。それから、日常の些事に関する雑念を断ち、心の内から聞こえてくる声に耳をかたむけていけば「答えは必ず得られる」、と付け加えられている。



 90. その神とはあなたのことなのだ

  「あなたは自分の想像をはるかに超えて愛されている。というのも、何をしようとあなたは生き続けていくからだ」と3万5千年前にこの地上に生きたラムさはいう。そして、「それなら、なぜこれほどまでに心配してきたのか? なぜ争ってきたのか? なぜ悲しみに打ちひしがれてきたのか? なにゆえに、苦労ばかりせず、生きることをしてこなかったのか?」 とも続ける。

 私たちは死んでも死なない。神の摂理のなかで永遠の生命を生き続ける、というのは重大な真理である。それを私たちはいろいろと学んできた。シルバー・バーチに教えられ、ラムさも同じことを何度も繰り返す。「あなたには決して消せないものがある、それがいのちというものだ」と言って、つぎのようにも断じた。

 あなたがいかに盲目で、真理を受け入れようとしなくても、いのちだけは必ず持ち続ける。それが神と呼ばれるものの持つ貴重な特性だからだ。そしてその神とはあなたのことなのだ。(川瀬勝訳『ラムサ―真・聖なる予言』p.82)



 91.人間を知るということは神を知るということと一つである

 人間とは何か。その真の姿を追い求めて、古来、多くの智者、識者、学者たちが考え続けてきた。しかし、人間は本来霊的存在であるから、この世の科学的尺度では答えを出すことはできない。むしろ、智者、識者、学者たちのほうがしばしば「霊的理性では劣等である」(スエデンボルグ)といわれるゆえんである。

 「人間とは何か」は、おそらく、「神とは何か」を問うことと等しい。私たちはそれを知るためにこの世に生まれてきたといえると思うが、霊的なことは知らなくても、神を信じ、素直な明るい気持ちで、愛他行ができる人は、自らの生き方でその答えを出していることになるのかもしれない。五井昌久師にもつぎのようなことばがある。

 真の人間を知るということは、神を知るということと一つである。いかに神、神と神を追い廻しても、その人の行いが愛と真心に欠けていては、その人は真の人間を知らぬのであるから、救われるわけがない。(「学びの栞B」13-b)



 92.善事をなすほど不幸な出来事がより多く現われる場合もある

 おそらく私たちは、一人一人が、前世から持ち越してきたカルマをこの世で解消するために生まれてくるのであろう。「私は努めて愛の行ないに励み、感謝の気持で日々を過しているつもりですが、次から次へと病気や不幸が絶えません。いったいどうしたらよいのでしょう」と、ある人が五味昌久師に訴えたことがあった。

 このように、善行に励み感謝の気持ちで日々を過ごしている人でも、次々と、悩みや苦しみに襲われることは決して少なくはない。それがカルマであろう。しかし、それらの悩みや苦しみを克服していくことによって、自分及び祖先のカルマが完全に消え去っていく。だから決して憂うべき事態ではないという。それを五井昌久師は次のように教えている。

 善事をなせばなすほど、不幸な出来事が、より多く現われる場合もある。しかし、それは真の不幸ではなく、潜在していた不幸が、いち早く現われたに過ぎず、この現れによって、自分及び、祖先の業因縁が完全に消え去ってゆくのである。(「学びの栞B」48-a)



 93.お金と安心は同じものではありません

 一般には多くの資産があれば安心できるし何よりの幸せであると思われがちである。そのために資産を増やすことにのみあくせくして一生を終えることにもなる。しかし、巨万の富を得ても、それは安心とは必ずしも結びつかない。それを霊界からの教えとして、ジュディー・ラドンはこう述べている。

 お金と安心は同じものではありません。安心は内からだけしか得られません。安心は霊性の持つ特質であり、地上的なものではありません。お金は地上的なものです。ここを離れる時、お金を持ってはゆけません。(「学びの栞B」10-p)

 この世での資産は霊的な観点からみれば一つの単なる試練に過ぎないのであろう。その使い方によっては霊性が上がることもあるが、むしろ下がることの方が多いから、古来、賢人、覚者の多くはそれに近づくことを避けてきた。イエスも、「富者が神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と教えている。



 94. 自分の心が幸福を呼ばなければ幸福は来やしない

 私たちの思考は、良きにつれ、悪しきにつれ、その思っている事柄を自分に引きつけるにふさわしい資格を自分が作ってしまうことになる、と『運命を拓く』のなかで中村天風はいう。つまり、心が積極的であれば、積極的なものを引きつけるし、心が消極的であれば、消極的なものを引きつける。

 だから、何かにつけて、環境をやたらに呪い、運命をやたらに悲観するような人は、たとえどんなに金が出来ようが、どんなに境遇がよくなろうが、どんなに自分が高まろうが本当の幸福は感じられないのであろう。彼は真の幸福に至る道をこう述べている。

 幸福は向うから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。だから、現在の生活の状態、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。(「学びの栞B」9-zy)



 95. 宇宙に存在するあらゆる魂に関する大量の記録もある

 霊界にはアカシック・レコードというのがある。そこでは宇宙の全存在の過去から未来までの歴史がすべて記録されているらしい。それを読み解くことによって、この世の私たちの生き方のみならず、過去世や未来についても、指針を得ることができる。『輪廻を超えて』のなかで、ジュディー・ラドンはその記録を次のように説明している。

 記録はもちろん物質として存在するわけではないが、一種の宇宙のマイクロフィルムのようなものを介して利用できる。宇宙には想念パターンによって創り出された記録が記憶されているのである。これらの記録は、いわば霊的な図書館科学の専門家のような仕事をすることを選んだ人びとの手で利用に供される。(「学びの栞B」46-zs)

 霊能者のなかでも高度の霊能力を持ち、この「霊的な図書館科学の専門家のような仕事をすることを選んだ人」がリーダーである。リーダーは、リーディングといわれる手法により個人の様々な質問に答える。その霊能者に情報を提供するのは高位に居る霊団であり、基本的に私たちの霊的進化を進めるという観点から回答がなされるという。



 96.わがこころのよくて、ころさぬにはあらず

 なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。(「歎異抄」第13条)

 ある時、親鸞は弟子の唯円に、「そなたは私の言うとおりに従えるか」と訊いた。唯円が「謹んで従います」と答えると、親鸞は「それでは人を千人殺してくれないか。そうすれば必ず往生できるのだが」と思い切ったことを言った。唯円は、「おことばですが、私は千人はおろか、一人だって殺せそうにはありません」とたじたじとなった。

 親鸞は言った。「それならなぜ私の言うとおりに従うと言ったのか。これでわかるであろう。何事も思いのままに出来るのなら、千人殺せと言われれば千人殺すであろう。しかし、自分には一人も殺す業がないから殺さないだけで、殺さないのは何も自分の心が善いからではない。」 親鸞は、少し極端かもしれない例をあげて、人々のあらゆる行為は、宿業の現れでないものはないと説いたのである。



 97. 大惨事も基本的な法則であるかもしれない

 人間が低い波動の存在にとどまっている間は、自分自身の能力を越えたところにあるものを認識することはできない。上から下は見えても下から上は見えないということで、だから、自然災害のようなものでも、本当は、私たちには見えない大きな摂理のなかで起こっていることを知らねばならないのであろう。

 ジェームズ・ヴァン・プラグも、災害や事故の意味も私たちの理性では理解できない。私たちの人生は「推測すらおよばない巨大な構図の一部にすぎないのだ」という言い方をしている。(「学びの栞B」50-i) 私たちは霊界へ移って初めてそれらの真実に近づくことができるのであろうか。それをコナン・ドイルは、霊界からこう伝えてきている。

 しかしながら、物質性によってもはや束縛されなくなった心ならば、一見したところ大惨事に見えるようなことも、無限の愛が、道を踏みはずした神の子供である人間を完成させるために駆使している、基本的な法則であるかもしれないと理解できるかもしれません。(「学びの栞B」22-h)



 98. 霊媒現象の目的は生命の死後の存続を証明することにある

 本来、私たちはすべて霊的能力を潜在的にもっていると教えられている。なかには幼児の時より霊界とのパイプが拓かれていて、その能力を顕在化させている人もいるようである。人を救うための神よりのギフトというべきで、だからこそこの霊的能力は金銭目的のために使用されてはならないのであろう。

 私たちは、死んでも死なない。死後のより大きな生命活動に備えてこの地上に生まれるといわれるが、それを事実として証明するのは容易ではない。科学的常識に沿わないものはすべて拒否される傾向は、いまもなお根強く残っている。その壁を突き破っていくのが霊能者の与えられた使命である。優れた霊能者であるM.H.テスターはそれをこう言っている。

 霊媒現象の目的は生命の死後の存続を証明することにある。その能力を先天的に具えた人がいるのである。もしもあなたがそのお一人であれば、それはぜひとも開発すべきである。歌唱力のある人、絵の才能のある人、彫刻の才能のある人、作曲力のある人がそれをますます開発させる必要があるのと同じである。(「学びの栞B」73-c)



 99.愛は人を癒し、ストレスは人を殺します。

 感情というのは動いているエネルギーである。明るさが明るさを呼び、暗さが暗さを呼び込むというのも感情のエネルギーの為す業であろう。だから暗い感情を抱いてはならない。心配、憎悪、不安、それに、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などの暗い感情は細胞レベルで私たちの身体に害を与える。ブライアン・ワイス博士はそれをつぎのように言う。

 精神的なストレス(怖れ、怒り、慢性的な不安、落ち込みなども含む)が病気や死の主要な原因の一つであることは、今では広く認められています。私達の体は心と密接に結びついており、私達の気分や感情はすぐに体の症状へと移し変えられます。愛は人を癒し、ストレスは人を殺します。(「学びの栞B」1-e)

 私たちの本来の姿はいわばダイヤモンドなのだが、それが否定的で暗い感情の埃や汚れで覆われてしまっていることが多い。それを拭い去ることが魂の健康と体の健康にとっても大切で、そのことによって私たちは「自分達の真の性質、肯定的で愛に満ちた自分自身を再発見します」と博士は述べている。



 100. ただ信心を要とすとしるべし

 弥陀の本願には老少善悪の人をえられず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに。(「歎異抄」第1条)

 そのむかし、阿弥陀仏は大慈悲心をおこして、全人類救済の誓いをたてられた。その本願の不可思議絶大の功徳により、念仏をとなえることを思い立つだけで、私たちは阿弥陀仏の光明のなかで救われていく。私たちが老人であろうが、少年であろうが、あるいは、善人であろうが、悪人であろうが、阿弥陀仏は決して差別はしない。親鸞はこう述べて、さらに、続ける。

 「その阿弥陀仏の本願を信じるためには、他の善行も必要ではない。念仏が最高の善であるからである。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪というのはないから、悪をも恐れることはない。」他力念仏の絶対性を主張して、自力の善行さえ必要でないと言いながら、親鸞は、ただひたすらに念仏を唱えることだけを教えようとしている。「ただ信心を要とすとしるべし」は強く胸に迫ってくることばである。