No,58〜No,80




  私というのはいったい何か
     ー生活と文化をめぐる随想 (61)ー     (2008.08.01)


 作家の石上玄一郎は、1910年に札幌で生まれ、旧制の弘前高等学校では太宰治と同窓でした。『石上玄一郎作品集』(全3巻、冬樹社)のほか、多くの著作の中には、『太宰治と私』(集英社)などもあります。

 彼は、3歳で母を、5歳で父を失ってからは、妹と共に、父の郷里の盛岡市へ移り、祖母に育てられました。岩手県立盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)から4年修了で弘前高等学校へ入学していますが、その当時から持ち前の文才を発揮し、「校友会雑誌」に『予言者』を発表したときには、当時の津島修治(後の太宰治)に大きな衝撃を与えたといわれています。

 しかし、1930年には、公金私費スキャンダルに絡む校長排斥運動に関係し、その弘前高等学校からは放校処分を受けてしまいました。その後は、非合法左翼運動の闘士として活躍していましたが、23歳の時に祖母が亡くなってからは、政治からは遠ざかり、文学に打ち込んでいきます。そして、後年には、仏教への傾斜を強めていくことになりました。

 その石上玄一郎の書いた本に、『輪廻と転生 ―死後の世界の探求― 』(1981年、第三文明社)があります。「死後われわれはどこへ行くのか?輪廻転生を巡り生命の本質に迫る」と、表紙の帯には書かれています。

 本の内容は確かにその帯書きのとおりで、先史時代の風葬、葬法の意味から始まって、エジプトの不死の観念、ギリシア諸家の輪廻感、インダス人の来世観を説き明かし、仏教における輪廻思想にまで論考を展開する達意の叙述は、すぐれた学術論文に接しているような一種の高揚感と感銘を与えてくれます。著者が「本格的に取り組んだ」第一級の学術研究書といってもいいのでしょう。

 しかし、学術論文がすぐれて「科学的」でなければならないとされているように、やはりこの本は、内外の広範囲な哲学、宗教、思想関係資料をしっかりと基盤に据えながらも、あくまでもこの世界の3次元の枠組みのなかからのみ「生命の本質に迫る」だけで、そこからは一歩も抜け出せていないもどかしさが、どうしても残るように思われるのです。

 この本の序章のなかで、著者は、弘前高等学校時代、同期であったある大会社社長の死に際会したことについて述べています。家庭的にも社会的にも恵まれ、大会社の社長として「顕官名士との交友に明け暮れ」していたその友人が、突然、命取りの悪性腫瘍に冒され、病苦を押して、つぎのような手紙を書いてきたというのです。

 《私はこれまで世事に追われ、慌しく毎日を送ってきた。自分の責務をはたすことに手いっぱいで、自らを顧みる心のゆとりを持てなかった。幸運にも、事業は順調に行き、経営の基礎もかたまったので、会社は私がいま引退してもさしあたって支障はない。また家の方は息子達もどうにか一人前になっているので、まさかの場合にも、別に後顧の憂いはない。
 だが、こうしてひとり病床に臥していると、何とも言えず空しく、しきりに心の飢えをおぼえる。これまでの自分の生涯ははたして何であったか、この自分はいったい何者なのかという、ふかい懐疑に捉えられずにはいられない。君よ、教えてくれ、今、ここにこうしているこの私はそもそもいったい何なのだ……》

 この友人は、間もなく亡くなったのですが、著者は、その少し前に、高級ホテルとまがうばかりに設備の整った病院を訪れ、完全看護を受けている友人を見舞っています。そしてそこでも、同じように、「君、教えてくれないか、こうしている俺はそも何者なのだ」と聞かれたのです。彼は、辛うじて、こう答えました。

 《それはわれわれ人間にとっての永遠の課題だよ、古来、世の哲学者や宗教家は、この疑問をとくために苦しんできた。だがおそらくそれを明らかにした人はいないのではないか。この私自身それが分らぬし、答えるすべを知らない。またたとえ誰かそれに応えたにしろ、それはその人のものであって、君のものではない筈だ。》

 著者は、この見舞いの折のことばを回想して、「冷淡ともいえる私の言葉におそらく彼は失望したに達いないが、それでも黙ってうなずいてくれた」と書いています。しかし、彼自身も、その返事には満ち足りぬものがあったのでしょう。「その時から、彼の問いは今度は私自身の虚空の声ともなって、あたかも幻聴の如く、鳴り響いてやまぬのである」と、つけ加えています。あるいは、このような友人との苦い死別の経験も、著者がこの本を書くことになった一つの要因になったのかもしれません。

 それでは、その後の石上玄一郎は、宗教の研究に打ち込み、この本を書くことによって、この「虚空の声」に自分なりの答えを見出すことができたのでしょうか。どうも、そうはならなかったようです。この本の終章にあたる「輪廻思想の虚妄と真実」まで書き進めてきて、彼は、こう続けています。

 《これまで東西の輪廻思想に就いて、私は私なりにあたう限りの模索を続けてきたが、どうやらこのあたりで、私自身の輪廻観を問われねばならぬときに立ちいたったかのようである。私は、あらためて、もの心づいてからこの方の、自分の前半生を振返ってみる・・・・・》

 そう述べて、4歳のときに母親と死別した時以来の思い出に触れていくのですが、その後に続く、つぎの述懐には、彼自身の「虚空の声」に応えられない無力感と哀しみがまだ深く後を引いているように思えてなりません。読む者のこころには、その哀しみの余韻が、訴えられるかのように強く響いてくるのです。

 《両親に死に別れたあと、東北の城下町で祖母に育てられた少年時代、それは貧困と寂蓼の中で、傷つきやすい心に夢想癖だけが昂じた一時期だった。やがて訪れたあの重苦しい軍国主義の時代、私はただ激流にもまれる木の葉のように生きていた。無力な抵抗と挫折、青春はむなしく屈辱と痛恨の中に過ぎていった。
 だが齢、不惑を過ぎてなお疑惑はいよいよつのり、煩悩はたちがたく、妄執は去りがたい。恩愛に溺れ、名利に誘われ、彷徨、流転するだけだった。そしていまや人生の黄昏を前にしつつも、迷いの雲のついにはれるときなく、真如の月はとうてい望むべくもない今日この頃である。
  
  そして、わたくしはまもなく死ぬのだろう。
  けれどもわたしというのはいったい何だ。
  何べん考えなおし読みあさり
  そうともきき、こうも教えられても
  結局まだはっきりしていない
  わたくしというのは・・・・・・・・
  
 郷土の先輩、宮沢賢治が、死を前にして述べた言葉、またかの旧友が、死の床から私に問いかけたと同じ言葉で、私はいま自分自身に問わねばならなくなった。だがその問いは恰も幻聴の如く、わが耳に鳴り響くだけで、それに対するいかなる応答も私は未だに見出せないのだ。》



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   不思議現象を探索する
       ー生活と文化をめぐる随想(60)ー   (2008.06.01)

 2001年の春、中国の西安を訪れた時、どういう経緯であったか記憶は曖昧ですが、西安市西影路にある中国人民解放軍医療センターに立ち寄ったことがあります。そこで漢方医学による治療を担当しているという中年の女医から伝統的な漢方薬の話をいろいろ聞かされたのですが、そのときにちょっと面白い体験をしました。

 人間の「気」の力に話が及んで、「気」を使えば、例えば、人民元の紙幣で箸を切ることもできると彼女が言ったのです。日本でも、名刺で割り箸を切るというのは、マジックショーか何かで私も見たことがありましたが、名刺よりはるかに薄いぺらぺらの紙幣で、中国の骨で出来ているような太い箸を切るというのは、ちょっと信じられないような気持ちでした。

 そこで私が、日本の千円札を一枚取り出して、これで切れるかと、聞きなおしたのです。彼女は切れると言いました。そこで、私は、持ってきてもらった中国の箸の両端を両手で握って、彼女の前に差し出しました。彼女は、千円札の皴を伸ばすように撫でて、右手の親指と人差し指の間に挟み、ちょっと呼吸を整えてから、さっと振り下ろしました。太い箸は見事に切れました。その切られた箸は、いまも私の手許にあります。

 しかし、この程度のことは、超能力に詳しい人から見れば、不思議でもなんでもなく、超能力の名にさえ値しないのかもしれません。そんなことを考えさせられるのが、例えば、森田健さんがいろいろと公表されている不思議な体験談です。ゆで卵を元の生卵に戻す、煮た豆から芽を出させる、茹でられて死んだはずのエビが生き返って動き出したりする、というのですから、さすがに、「本当ですか」と疑いたくもなります。でも彼は、中国へ何度も出かけて、何人もの超能力者に逢い、それらを目の前で目撃しているのです。その「科学的に検証」された結果は、写真入で、『「私は結果」原因の世界への旅』、『自分ひとりでは変われないあなたへ』、『ハンドルを手放せ』(いづれも講談社α文庫)などのページを開きさえすれば、誰でも見ることが出来ます。

 このうちの『ハンドルを手放せ』には、森田健さんの「科学的検証」に共鳴している船井幸雄氏が、解説を付け加えていますが、そのなかで、氏は次のように述べています。

 《実は森田さんが1998年の夏前頃から次のようなことを言い出したのです。
 「死んだものが生き返ると思いますか」
 「そんなもの生き返るはずがないでしょう」
 「しかし煮た豆から芽が出たんです」
 それで、
 「バカなこと言いなさんな」
 と言ったのです・・・・・・(中略)
 それからまた中国に行ってきた彼は、二カ月ほどたって帰ってきてすぐに、「三回ほど私の目の前で、煎ったピーナッツや炊いた豆から芽が出ました。それだけでなく、頭と胴の離された死んでいたエビが、もとの通りくっついて生き返ったのです」
 と私に報告しました。
 「嘘だろう」
 と言うと、
 「私は嘘はつかないですよ」
 確かに彼は嘘をつくような人じゃありません。
 「しかし常識的には信用できないね」
 「じゃあ北京まで行きましょう」
 「そんな暇がない」
 と言ったら、
 「では、その生き返らせた人を日本に連れてきましょう」
 ということになったのです。
 その人は孫儲琳さんといって中国地質大学の研究員の人ですよと、写真などを見せながら詳しく説明してくれました。
 その結果、まず1999年2月に孫さんが日本に来ました。そして私たち何人かの面前で煎ったピーナッツから芽を出してくれました。そのピーナッツは、私の会社の社員が社内で育てて大きくして、何個か実がなり、いまではそのなった実からまたピーナッツが発芽して大きくなっています・・・・・・》

 船井氏は、この解説に「煎ったピーナッツから芽が出るのを確認」とタイトルを付けています。事実は事実として、認めざるをえなかったのです。氏は、人間として幸せになるためには、「素直」で「勉強好き」で「プラス思考」するという三条件が必要だというのを持論にしています。それが考え方の基本だというのです。そして、知らないことや確認できないことを否定しないというのが「素直」ということだと常々言っているそうです。私たちも、森田健さんが熱心に、そして楽しみながら、いろいろと提示してくれているこれらの「科学的検証」には、狭い常識や既成概念に捉われることなく、「素直」に向き合うべきなのかもしれません。



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  霊や霊能力は存在するか
   ー生活と文化をめぐる随想(59)ー   (2008.04.01)


 去る、3月5日の「朝日新聞」『声』欄に、読者からのつぎのような投書が載っていました。書いたのは、43歳のMさんという熊本県在住の高校教員です。

 《放送倫理・番組向上機構(BPO)が、「スピリチュアルカウンセラー」を名乗る人物の番組内の言動について「出演者への配慮が欠けている」としてテレビ局に自制を求めました。当然です。
 私自身、霊能力者や占師などが出演する番組はあまり見ませんが、新聞のテレビ欄を見ると、霊感的なものがブームになっていることは分かります。
 その番組以外でも、霊能力者や占師がメディアで色んなことを述べているようです。しかし、当たり前のことながら、それらの人たちの「能力」には科学的根拠はありません。
 私は、ブームに乗ってこのような番組を作り、流し続けることに強い危機感を覚えます。判断力の育っていない子どもが、霊の存在や霊能力を事実のように取り上げる番組を見続ければ、死生観は混乱するでしょう。
 そういう私も先祖の墓参りくらいは行きますが、このような風潮は案じられてなりません。》

 この文中の、「出演者への配慮が欠けている」とされている「スピリチュアルカウンセラーを名乗る人物の番組内の言動」というのは、それがどういうものであったか、私はテレビを見ていないのでわかりません。しかし、「霊の存在や霊能力を事実のように取り上げる番組」には「強い危機感を覚えます」といわれているのには、ちょっと考えさせられました。科学的根拠のない霊の存在や霊能力を、当然のように、「事実ではない」と言い切っておられることになりますが、果たしてそうなのでしょうか。「科学的」でないものは、この世の中には存在しないのでしょうか。

 臨死体験を超えるといわれる『死後体験U』(2004、ハート出版)の著者・坂本政道さんは、東京大学理学部卒業後、カナダのトロント大学大学院で電子工学を専攻した科学者ですが、坂本さんは、この本の中で、つぎのように書いています。(12−13頁)

 《世の中には、科学的に存在が証明されたことしか信じない人たちがいる。証明されてない事柄はすべてウソだ、幻覚だとして受け入れない人たちである。たとえば、霊や死後の世界の存在について、科学的に証明されていないからそういうものは存在しないと言う・・・・・。
 そういう人たちは、今の科学はこれ以上進歩発展しないと考えているのだろうか。なぜなら、今までに存在が証明されたことしか存在しないのなら、これから発見される事柄は存在しないことになるからである。
 彼らの論理に従えば、物理学の最先端で議論されている海のものとも山のものともはっきりしないような新しいアイデアや新しい素粒子はすべてウソということになる。
 たとえば「11次元の超ひも」や「M理論」などである。あるいは、宇宙物理学で登場するダークマターやダークエネルギーである。これらの存在はまだ科学的に証明されていない。彼らの論理に従えば、こういうものは存在せず、これらはウソであり幻覚ということになる。
 このように、科学的に存在が証明されたことしか信じないと言う人たちは、科学的ではない。むしろ彼らは既存の出来上がった科学を信奉する宗教家である。科学信奉という新宗教の信者である。》

 私たちはこの「青く美しい」といわれる地球に住んでいますが、この地球は、広大な宇宙のなかでは小さなゴマ粒のひとつにもならないくらいのちっぽけな存在です。そのちっぽけな地球のうえで、これも宇宙の視野からみれば一瞬の、たかだか100年単位の短い歴史しか持たない近代科学を金科玉条にして、そのモノサシで測れないものは、真実ではなく迷信であると断定するのは、やはり人間の傲慢であり、無知というものでしょう。まして、霊とか霊能力というのは、地球的尺度の次元をはるかに超えて、宇宙的視野のなかでなければ捉えられない実在だと思えるからです。

 しかし、冒頭の投稿者Mさんのような人は、決して珍しい存在ではなく、むしろ、多数派です。いわゆる知識人、学識経験者などと呼ばれるような高学歴の人びとには特に多く見られるといってもいいでしょう。私自身も、かつては、そうでした。だいたい大学教授などが霊とか霊能力を口にしたりすれば、もうそれだけで「真理探究の殿堂」にはふさわしくないという批判や軽蔑をうけるような風潮は、いまでも決してなくなってはいないのです。一部には霊能を売り物にした「宗教」団体や「霊能力者」たちの金銭目当ての詐欺行為が後を絶たないことも事実ですから、それがこのような風潮を助長している面もあるかもしれません。

 確かに難しい問題ですが、霊や霊能力はあるのでしょうか。それに、死後の世界は本当に存在するのでしょうか。その真実を知るためには、私たちは古からの求道者のように、難行苦行を重ねて悟りを開かねばならないのでしょうか。そういうことはありません。実は、偏見に捉われずに理性を働かせて真摯にその答えを求めていけば、いまは誰でも身近に、その答えを受け取ることができるのです。宇宙的視野でその真理を伝えてくれているシルバー・バーチの教えもそのひとつでしょう。無数に散りばめられたその珠玉のことばのなかには、たとえば、次のような証言もあります。

 《すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。》 (サイキック・プレス編『シルバーバーチは語る』13頁)



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  コナン・ドイルに導かれて
    ー生活と文化をめぐる随想(58)ー  (2008.02.01)


 ロンドンの大英博物館の前の通りをちょっと曲がると、ミユージアム・ストリートがあって、その並びに、「アトランティス」という名の小さな古本屋があります。もう15年以上も前のむかし、私が客員教授として在籍していたロンドン大学は、大英博物館の隣にありますから、大英博物館を訪れたような時には、時折、この小さな古本屋にも立ち寄っていました。そこで買い集めた本のなかに、コナン・ドイルのThe New Revelation(『新しき啓示』)とThe Vital Message(『重大なメッセージ』)があります。

 コナン・ドイルというのは、もちろん、あの名探偵シャーロック・ホームズの長短六十編におよぶシリーズの原作者ですが、その彼が、エジンバラ大学医学部出身の眼科医であったことはあまりよく知られていません。医者としての仕事の暇つぶしに書いた『緋色の研究』が思わぬ好評を博したので、それをきっかけに、次から次へと書き続けるはめになってしまったのがどうも真相のようで、コナン・ドイル自身は、このシリーズを書き続けるのにあまり乗り気ではなかったといわれています。

 その理由は、多分、コナン・ドイルには、世間一般にはもっと知られていない、もうひとつの顔があったからだと思われます。それは、「地球浄化の原理」といわれるスピリチュアリズムの研究者としての使命感に燃えていた顔でした。前述の二書を書いたのは、1918年と1919年ですが、その後も彼は、熱心に研究を続けて、1926年には大著『スピリチュアリズムの歴史』 I、Uを刊行しています。

 このコナン・ドイルの『新しき啓示』と『重大なメッセージ』は、私の「目覚め」のための貴重な道しるべになりました。私は、自分自身のためにも、時間をかけてこれらの本の翻訳に取り組みながら、当時、まだ足を踏み入れたばかりであったスピリチュアリズムの理解を深めていきたいと考えるようになっていました。ところが、その後間もなく、シルバー・バーチ霊訓集の名訳で知られる近藤千雄さんがこの本も翻訳されていることを知ったのです。それが「コナン・ドイルの心霊学』(新潮社、1992年)で、出版されたばかりのその一冊は、近藤さんからわざわざ私のところへも送られてきました。

 この本にも書かれていますが、コナン・ドイルは自分に与えられた人類に対する使命を自覚して、自分の得た金銭的な富、豊かな生活、世間の承認と名声をもすべて投げ打ち、その生涯をスピリチュアリズムの普及に捧げ尽くしたのです。

 彼が「死んだ」とき、イギリスのサセックス州、クロウボローに近い自宅には、世界中の彼の作品愛読者、友人、知人等からの夥しい量の花束が、特別仕立ての列車で運ばれてきました。それらの花々はひろい庭をいっぱいに覆い尽くし、コナン・ドイルの葬儀は、湿った雰囲気とは無縁の、明るく静かな大規模のガーデン・パーティであったといわれています。数多くの参列者は、ほとんど喪服も着てはいませんでした。

 彼のよき理解者であったジョン・ディクソン・カー氏は自分の著書『サー・アーサー・コナン・ドイルの生涯』を、「彼の墓碑銘を書くなかれ。彼は死んではいない」ということばでむすんでいます。

 このことばのように、「死んではいない」コナン・ドイルは、霊界へ行ってからも、霊界の真相を伝えるための通信を送り続けてきました。この通信を仲介したのが、アメリカの女流作家で「ミネスタ」と呼ばれる著名な心霊主義者です。彼女は生まれながらの超能力者で、透視や、未来を予見する能力のほか、病気を診断し癒す才能なども身につけていました。

 しかし、ミネスタは生前のコナン・ドイルには会ってはいませんでした。1930年の夏、しきりにミネスタに会いたがっていたコナン・ドイルは彼女を自宅に招待していたのですが、その面会が実現する直前、1930年7月7日に、彼女はコナン・ドイルの訃報を受け取ってしまったのです。これは二人にとっても心残りであったに違いありません。コナン・ドイルが、この世では会うことのできなかったミネスタを自分の霊界通信の仲介者として選んだのも、決して意味のないことではなかったのでしょう。英語の原文 (The Return of Arthur Conan Doyle) からも判断できるのですが、この通信の「純粋度」もそれだけに、極めて高いものと考えられるのです。

 幸いなことに、このコナン・ドイルが2年間に亘って霊界から送り続けてきた数多くのメッセージは、いまでは、日本語にも翻訳されて、手軽に読めるようになりました。それが、大内博訳『コナン・ドイル―人類へのスーパーメッセージ』(講談社、1994年)です。このなかで、霊界のコナン・ドイルは、ある時の交霊会で、地上の人間の退廃ぶりを嘆きながらも、つぎのように語っています。

 私は今、地上にいたときには想像したこともないような素晴らしい生活、より高貴な道を示すべく戻ってきました。すべてをあるべき姿にしなければなりません。人類は死後の生活について知る必要があります。私はそれを皆さんに教えます。皆さんはそれを世界中の人々に知らせてください。私を本当に知っている人、私の考えや書いたものを理解できる人は、私の言葉を疑うことはけっしてないでしょう。彼らは私の言葉の中に、私を認めるはずです。彼らは私が話そうとしていることを理解するでしょうし、理解しなければなりません。(139頁)



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