潔典のアメリカヘの旅 

      「英語」をえらんだ子供たち

 武本潔典(きよのり)は、昭和37年6月5日、北海道・苫小牧の市立病院で生まれた。私の長男である。姉の由香利(ゆかり)と二人姉弟で、一つ違いであった。
 私はその頃、その地方のある国立大学で、英語を教えていた。いまも、別の大学で英語教師を続けているから、この、父親が英語の教師であるということが、子供たちの将来の志望をきめるのに、いくらか影響を与えたかもしれない。札幌で高校を卒業すると、二人とも英語の勉強を志して、由香利は上智短期大学英語科に入り、潔典は東京外国語大学英米語学科の学生となった。
 しかし、二人に英語専攻をえらばせたうえで、一番大きな影響を与えたのは、おそらく、昭和48年12月から約1年間の、アメリカ留学(遊学というべきかもしれない)であったろう。私が文部省在外研究員としてアメリカヘ行くことにきまったので、二人の子供たちも、母親といっしょについてくることになったのである。
 昭和48年のクリスマス・イブに日本を出発した時、潔典は小学校の5年生、由香利は中学1年生であった。二人とも家では、バイオリンのけいこを割合きちんと続けたほかは塾にも家庭教師にも縁はなく、遊び放題に育ってきた。そのせいか、性格だけはのんびりしている。アメリカヘ行くことがきまってからも、急にあわてて英語を勉強しようともしなかった。「大丈夫でしょうか」と妻はちょっと心配のようであった。「まあ、何とかなるだろう」と私は答えた。しかし、本当に何とかなるのかどうか、私にもあまリ自信はなかった。


      日本語から英語の世界へ
 
 クリスマスをハワイで過ごし、ロスアンゼルスとサンフランシスコにそれぞれ二、三日ずっとまって、私たちは1月1日に、オレゴン州ユジーンに着いた。ここにあるオレゴン大学は、私がかつて大学院生活を送ったところである。ユジーンは、緑の美しい、人口約10万の落着いた大学町で、昔の友人や知人も何人か残っていたから、家族づれの私には、何かと心丈夫であった。
 着いてから二日目に、大学のアパートに入った。中古車を買い、最少限度の生活用品を揃えて落着くのに、一週間もかかったろうか。もちろん、どこへ行っても、英語でしか話は通じない。潔典も由香利も、じっと私の英語に耳を傾けるだけであったが、「お父さんはいいなあ、英語ができるから」とうらやましがったリした。どんな粗食でも空腹ならとびつくように、英語学習にも"飢えている"ことが重要である。潔典も由香利も、急に入りこんだ英語の世界の中で、日がたつにつれ、否応なしに、"英語の飢え"を感じはじめてきたらしい。
 八日目に、潔典と由香利を近くの小学校へつれていった。校名はアイダ・パタソンといい、日本の小学校なら、二つか三つは入りそうなだだっ広い敷地に、かわいらしいカラフルな校舎が、コの字型に並んでいる。児童数は全部合わせても200名くらいしかいない。 潔典と由香利を何年に編入させるかが問題であったが、先生方の間では、すでに相談ができていたようである。「ご心配いりません」とカウンセラーで銀髪の美しいミセス・プルイトが言った。「子供たちはすぐに慣れますから。キョノーリは5年生に、ユカーリは6年生に入れたらいかがでしょうか」。私たちに反対する根拠があったわけではない。彼女から言われたように、二人を5年と6年のクラスにそれぞれ引渡すと、私も妻も、そのまま帰るほかはなかった。
 その日の夜、潔典にとっては、「画期的」な事件が起こった。電話がかかってきたのである。ダスツンというクラスメイトからで、キヨノーリに話したいという。とにかく受話器をにぎらせた。ダスツンがペラペラしゃべりだす。潔典は眼を白黒させている。私があとで聞き直して通訳したが、潔典にとっては、これは忘れがたい経験であったにちがいない。 アメリカの子供たちは人懐っこい。この小学校では、日本からの「留学生」ははじめてのせいもあって、二人はたちまち、人気者になってしまったようである。学校が終わってからも、友だちが家まで遊びにきた。二人、三人。多い時には五人、六人も。それがほとんど毎日のように続いた。
 ことばは遊んでいるうちに自然に覚える。気をつけて見ていると、はじめの二、三か月は、ぽつんぽつんと単語だけで受け答えをしていた。それが三か月を過ぎた頃のある日、突然に、抑えていたものが、ふき出してきた感じで、文の形の英語が飛び出しはじめた。そのあとは急カーブの上昇である。半年後、夏休みに入る頃には、電話も、友だちとの会話でも、一応不自由なくこなせるようになった。


     こころのひろがりと社会への適応

 夏休みに入ると私たちは旅に出た。前半の6週間は、車にテントや食糧をいっぱい積込んでアメリカを一周する。後半の3週間には、ロンドンまで飛んでドーバー海峡を渡り、ドイツ、イタリア、フランスなど6か国を、やはり車でまわった。旅からは学ぶことが多い。私たちのは、経費を最低限に抑えた貧乏旅行である。泊るところも、キャンプ場や知人宅や民宿のようなところがほとんどであった。土地の人々と対話し、さまざまな風物、文化に接して、情感は高まリ、ものを見る眼はひろくなっていく。潔典にとっても由香利にとっても、貴重なこころの種となったはずだが、このことについては、いま、ここでふれる余裕はない。 夏休みが終わって、9月から新学年がはじまると、由香利は近くの中学校へ進学し、潔典は6年生に進級して、パタソンに一人で通い続けた。茶目っ気があって、いつも笑顔を絶やさないような明るい性格で、潔典はアメリカの子供たちの社会にも、よく溶け込んでいたようである。英語の力も、読み書きを含めて、クラスメイトに追いつき追い越しはじめた。そして最後の三か月も、夢のように過ぎた。


     再び留学を目指して

 私たちは、昭和50年1月に帰国した。潔典は日本の小学校は、一年飛ばしたまま3月に卒業し、4月からは、札幌郊外の手稲西中学校に入学した。合唱部に入り、スポーツも好きで、特に野球に熱中した。札幌北高等学校へ進学してからは、ギターに凝りだした。スポーツ好きはその後もかわらず、新聞もテレビも、スポーツの部分だけは、毎回、見るのを欠かしたことがない。机にかじリついて勉強するタイプではなかったが、成績はいつもよかった。パタソンでの影響のためか、英語は得意で、下手をすると父親の私もやりこめられてしまう。将来の志望も、自然に、大学教授ということになっていたようである。やがてこの子に、専門の分野でも追い越されるであろうと、私は楽しみであった。
 大学は、東京外国語大学英米語学科と上智大学外国語学部英語学科を受験し、両方とも合格した。私は潔典には、東京外大→東大大学院→アメリカの大学院というコースをえがいていた。アメリカ留学は,何が何でもいいというのでは決してないが、言語学に傾いていた潔典には、やはりアメリカ留学は有益である。その準備のためにも、潔典の外大3年目在学中に、アメリカの大学の言語学関連の講義を聞かせておきたいと考えていた。そして私は、そのお膳立てをした。
 しかし、運命はすべてを狂わせた。昨年の7月、私はフルブライト上級研究員として、留学中の由香利と共に、ノース・カロライナ州立大学にいた。そこへ呼び寄せた潔典は、母親と帰国の時、あのKAL 007便に乗ってしまったのである。
 潔典は、自分が大切にいたわり続けてきた母親とともに、生まれ故郷の北海道を眼の前にしながら、つぼみのまま、北の海に散った。由香利と二人だけ、無残に取残された私の眼には、母親の位牌と並べられた潔典の位牌の、真新しい墨の文字が、限りなく悲しい。

 故武本潔典不退位、昭和58年9月1日寂、行年21歳。

  福武書店「英語」1984年5月号所収
   「アメリカへの旅 ー英語学徒・武本潔典の想い出ー」 より