1983.8.29. 帰国する日の前日、ローリーのアパートの
前で。 母親と並んで立ち、ちょっとおどけてみせる潔典。


 麗しい母と子の思い出

      (富子の叔母 新潟県上越市在住)
                     梨 本 キ ク

 私が最後に富子さんにおあいしたのは、昨年の2月12日。その朝、高田は白一色の雪でしたが、東京は曇り空の寒い日でした。度々の入院を繰返していた姉が亡くなり、三たび上京した時のことでした。その夜、富子さん、潔典さん、良子さんと私の4人は、まだ姉の面影のただよう2階のお部屋で、やすませて頂くことになったのです。

 富子さんは、しっかり者でよく気のつく、几帳面な人でした。後でわかったのですが、私のお布団の中にいつの間にか、あんかを入れ、ほどよい温かさにしておいて下さいました。 2人の姪は何くれとなく心づかいしてくれました。

 思いがけない病に冒されあの世へ旅立っていった母を想い、夜の更けるのも忘れて、語ってくれました。発病以来病院へ通い、退院の折は杉並の家へ見舞ったり、再入院した時も、由香利さん共々よく慰めて下さいました。

 アメリカの由香利さんからのクリスマスカードと幾通ものお手紙等も見せて頂きました。それから潔典さんが家庭教師として高校生の兄弟を教えておられること、お父さまからはアルバイトの経験は大切だが、無理をしないで、1人位にしておくよう言われていること等、色々お話して下さいました。

 潔典さんはとても純真で明るく素直なお子様です。母子の会話を聞いて居りましても、信頼しているお母さんと、可愛い坊やといったところでしょうか。屈託がなくて、それでいて、頼りがいのあるお子様です。そばで聞いていて、本当にほほえましく感じたものです。

 そして富子さんは、1枚の紙に家族のお名前から、大学名、御住所等くわしく書いて下さいました。お話はなかなか尽きませんでしたが、私は翌日、高田へ帰る予定でした。

 「叔母さま、明日上野まで是非私達にお見送りさせて下さいね」と言われて、「よろしくお願いしますよ」とお約束しました。そして明くる日を楽しみながらみんな眠りに入ったのでした。

 翌日朝の食卓を囲みました折り、富子さん達のお疲れの様子を見て、2人の甥達が、上野まで送って下さることになったわけです。車に乗りました時、「叔母さま、母の分まで長生きして下さいね」といつまでもいつまでも手をふって別れを惜しんで下さいました。

 「もっともっとお話致しましょう」と別れがたい御様子でしたのが、今でも私の脳裏からはなれません。今にして思えばあれが最後となってしまいました。

 あれから 6か月後、アメリカで親子 4人楽しい休暇を過ごされました。1か月の楽しい想い出の数々を胸にいだきながらの帰途、あのような無惨な事件に遭遇されようとはだれが予測し得たでしょうか。私は運命のいたづらに、人の命のはかなさに、ただ茫然とするばかりでした。一瞬にして260余名の方々の貴い命が奪われてしまったのです。

 富子さん、潔典さん、安らかにお眠り下さい。そして天国のお父さま、お母さま、おじいさま、おばあさまのおそばで、いつまでも・・・・・・・・。いまは、ひたすら御冥福をお祈りするばかりでございます。

   逝く春や、憶い出悲し、北の海。     合掌

        (1984. 5. 20.)



 武本富子さんのこと

      (小樽商科大学 和田完教授夫人)
                     和 田 芳 子

 ノース・カロライナのローリーから富子さんの絵はがきが届いたのは、昨年の8月31日でございました。なつかしい文字で春にお母様を亡くされたこと、その後体調をくずされていたこと、それからローリーの町の歴史や町並の紹介など、行間にはお元気で生き生きと見聞を楽しんでいらっしゃる様子があふれた楽しいお便りでした。私共が夕食後のテレビで、あの事件を伝えるニュースの画面の中に富子さんと潔典さんの名前を見たのはその翌日のことでございました。予想もしないあまりの出来事にショックを受けながら、どうか夢であってほしいと幾度も思い、何かの間違いであることを祈りました。

 人の死はいつもどこかで突然やってくるとはいえ、これ程までに無残で不条理なことがあってはならないと、見えないものに向って告発したい思いに追いやられました。

 思えば室蘭工業大学時代の39年頃から20年余り、富子さんとはお互い心を開いてお話し合える良き友であり、先生には家族にとっても忘れ得ない心尽くしや温かい愛情を向けていただいてまいりました。下の子がまだ1才に満たない頃でしたか、紅葉の一日、オロフレ峠を通って洞爺湖ヘドライブに誘っていただいたり、ある時はクリスマスに、又ある時はスキーにと、富子さんもこの上い方で、それら数知れない程の楽しい想い出を私はいつまでも忘れることが出来ません。

 室蘭の頃はお互い子供達も小さかったことで多忙な子育て時代でした。由香ちゃん、潔典ちゃんは仲がよくてとても可愛いいとか、2人でいつもホッペをつけて寝てるのよ、とかおっしゃって、富子さんは若い母親として心からお小さい2人をいとおしみ、はんとうに幸せそうでした。読書好きで、あの頃も井上靖の小説を夜遅くまで読んで今日は頭が重いなどとおっしゃることもありました。札幌の白石在住の頃の富子さんはPTA活動や児童劇に深くかかわり、それまでとは又違った視点で御自分の世界を開いていかれたようでした。

 やがて昭和48年、アメリカに発たれる前に同じ札幌の手稲金山に引越されてからは、我が家とは車で5分程の近い距離になり、帰国後は私が伺ったり富子さんがいらっしゃったりでお話合える構会も多くなりました。

 大げさに言えば、この時代に生きる者が一様に通らなければならない悩みとでも言うのでしょうか、お互い夫の愛情と庇護のもとで、ひたすら愛する子供を育て、日常を何事もなく過しながら、ぜいたくにも心の中に迷いや矛盾を抱えていましたので、日頃の思いを時間を忘れて語ることもありました。子供達もすでに中学生になっていたあの頃、富子さんは子供達を取り巻く学校や教育制度、受験体制についてと研究し、いろいろ知識を持っていらして、私はよく教えられることがありました。又ある時に、行動的といえないおとなしい富子さんが、一たん話し出すと、心の中にたたんであったものがふき出るようで、繊細な心は敏感に反応し、いろいろ矛盾や不条理なことに精一杯の力で立ち向かおうとする一面は、1人の人間として思わぬたくましさを見せ、同時に痛々しく感じられもしました。

 又真面目で純粋な心の方でしたから、富子さんにかかわる人々やあらゆるものに対して心をつくし、いつも誠実に生きようとしている態度が私にはよくわかりました。人のめぐり合わせとか、偶然や必然性など一様でない人生の在り方に目を向けて、深く思いやるところがありました。そうしたお話になると経験も思慮も浅い私はいつか聞く方にまわってじっと耳を傾けながら、彼女は私より幾倍も多く誠実に人々とかかわり、広く人生を知り、はるかに深く人生を考えていることを知らされたものでした。それは富子さんの中で重要な価値をおいていた文学の心そのものであったかも知れません。           

 しかし何と言っても富子さんの大きな部分を占めていたのはお2人のお子様のことです。母親として当然なこととはいえ、富子さんは由香利さんと潔典さんの将来を考えて常に心をくだいていらっしゃいました。色白の美しい富子さんが顔をほころばせてお2人のことを語るとき、私は母親としてこれ程充実している人が他にいるだろうかと思える程でした。先生も又お2人のお子様の上に、教育者としての目と父親としての溢れるような愛情を注がれて、将来に広く豊かな夢を措いていらっしゃいました。先生と富子さんは心を合せて、そのための最善の努力をされていたように思います。由香利さんも潔興さんもそんなお2人の期待にこたえて、すくすくと或良していらっしゃいました。

 ついこの間まで利発で笑顔の愛らしい明るい少年だった潔典さんは、東京外国語大学に進まれて、思いやりと逞しさ持ったすばらしい青年になっていました。人柄も知能も容姿もすべて御両親のすぐれた部分を受け継いで、まぶしいほどの青年でいらっしやいました。先生と富子さんが心をつくして育み、その夢も確かな歩調で進み、これから花開こうとしている矢先のことでございました。

 ひたむきに生きていらっしやった親しい友と、多くの可能性をもったすぐれた青年の突然の不幸に、流れる涙を押さえることができません。

 一昨年の7月初旬、富子さんは東京の潔興さんのところから、久々に帰られたと私の家に訪ねて下さいました。お母様が癌で手術をされて大変お忙しかったそうですが、東京の水が合うのでしょう、顔色も良く晴ればれとお元気そうでした。由香利さんがアリゾナの大学に留学が決まっで、すでに出発されたととても嬉しそうでした。先生も近く渡米なさること、富子さんは潔典さんの所でしばらく病後のお母様を見守りたいとも話していらっしやいまんた。あの日もいろいろとつもるお話で時間も過ぎ、夕刻帰宅した主人の車で、金山のお宅までお送りしたのが富子さんとの最後になってしまいました。

 あの日富子さんが話された一つのことが心に残っております。それは由香利さんの留学に当って、上智大学のシスターからの励ましのお便りの中に「神はその人になし得ぬことはお与えにならない」といったことが書きいれてあった、ということでした。富子さんは、その言葉をいつも心に留めているようにと涯米なさる由香利さんに話されたそうです。

 愛するものを2人も突然無残にうばわれた先生と由香利さんにとって、そのお悲しみはどれ程深いものか、それは私共には伺い知れないどんなに大きな苦しみであることかと、そのことを考えますといつも胸がつまります。無力でお力になれる手だてもありませんが、どうか富子さんの話されたシスターの言葉を、逝かれた富子さんからのメッセージとして、今の深いお苦しみをのりこえていただきたいと心から願うのでございます。



 武本富子さんの想い出

        (富子の友人 札幌市在住)
                  日 高 絹 枝

 「あ−ら、そのお声は日高さん」
 電話器の向こうから喜々とした彼女の声が心地よく私の耳に伝わってくる。何ともよい気分にさせてくれるひびきでした。
 理性のかたまりのような方に見える外見とは全く異なって、彼女のはずむような声が私はたまらなく好きで、又聞きたくなっては幾度お電話をしたことでしょうか。
 「いらっしやいませんか」
 「今日は足が痛むので・・・・・・・」
 「それでは私が」
 といつも、このようなやりとりのあと、足の悪い私の家へと足を運ぶ彼女でした。
 そんな時には時間を見計らって、私がお迎えにと外まで出るのです。彼女の姿を見つけると私は大きく手を振ります。すると彼女は、そんな私に応えて息をはずませ小走りに走ってくるのです。何ともほほえましい光景でした。時折見せてくれるほんのちょっとした仕草が童女のように可愛らしく感じられる人でした。
 それは、大きな声すら出したこともないであろうと思われた物静かな彼女の私に対する精一杯の喜びの表現ではなかったかと、今あらためて胸をあつくいたしております。
 それからの一ときは、ついワインもすすむ程に話がはずんだりして、それはそれは楽しい時間になるのです。その上毎回意外な一面をのぞかせ、お逢いする度に違った彼女を発見し、日々新鮮になっていることを知らされる不思議な人でした。
 息子のご縁でお付き合いが始まり、個々には全く違った者同士がすっかり仲良く親しくなるのにそんなに時間はかかりませんでした。よほど感情の交流がよろしかったのか、それとも心やさしい彼女の演出だったのか。
 そんな彼女との間で、ある時、こんなにも早いお別れを暗示するような一つの出来事がありました。
それはアメリカに行かれる少し前で、舞台は例によってわが家でした。
 もう少しで五十路を迎える主婦たちの話題の一つに、おのおの自分の主人の定年後の生活設計を漠然と語りあうことがよくあるものですが、当日もたまたまそのような謡になったのです。
 ちなみに、私共夫婦は2人とも故郷が九州の福岡なのです。そこで定年後は九州で生活したいと私が申しました。
 ところがどう感違いされたのか、彼女は自分がアメリカヘ行っているあいだに私共の九州への引き上げがあると思われたらしく、ただならぬ淋しがりようでした。
 彼女につられて、わたし一瞬そのような錯覚を覚えたくらいですが、後刻感違いに気がつき涙を流しながら大笑いをいたしました。
 落ち着いた理性的な日頃の彼女を知る私からみれば、このような一幕を演じた彼女は、やはりあまりにも早いお別れを暗示していたとしか思われません。
 あの忌わしい事故さえなければ、大韓機に乗りあわせてさえいなければ、とすべてが変わり失われてしまったいまでも、彼女への思いだけはかわらずに続いています。簡単に忘れてしまうにはあまりにも想い出が多すぎるのです。
 この間の5月2日付の新聞の片隅には、小さく撃墜大韓機の捜索本部解散の記事が載っていました。
 私はふとその記事を目にした時、いいしれない憎悪とむなしさで、何か大声でどなりたい衝動にかられていました。その怒りと悲しみの中で、思い切ってこの稚拙なペンをとらせていただきました。
 富子さん、どうか安らかにお眠り下さい。こころからご冥福をお祈りいたします。



 夢と希望をもちつづけた人

        (富子の友人 札幌市在住)
                   北 野 寿美子

 昭和58年7月下旬、お便りを差し上げましたが何の音沙汰もなく、日頃筆まめな奥様だけにお体でも悪いのではと気にしていました。そこへ8月31日、アメリカから家族で旅をした旨の短かいながら楽しさが満ちあふれる文面のおはがきを受けとり安心していた矢先、あの忌わしい事故のニュースでした。

 勤め先の娘から「武本さんが乗っているのでは?イニシャルが気になる」との電話、そんなはずはないと答えたものの、おはがきに九月初め帰国予定とあったのを読み返し心でひたすら否定しようとしました。「不時着したようよ」と又電話。ほっと安堵の胸をなでおろしましたが、刻々と変るニュースに一喜一憂しているうち、最悪の事恵が発表されるや、さあっと血の引くのを感じました。

 奥様と初めてお会いしたのは、娘が小4になる3月バイオリンを習う事になり白石のお宅へお伺いした時でした。清楚で上品なお方というのが第一印象でした。週1度のおけいこに何度かお邪魔しているうち、2人のお子様が個性豊かにのびのびと育てられているのに感銘をうけ反省させられました。お子様ばかりかおけいこに来られる子供達へのお茶の食器にも上等なものを何げなく使用なさる心くばりに胸を打たれることがしばしばでした。
 
 子供達によい芝居や音楽をとの願いから子供劇場に加入し、劇団プーク、わらび座の「エルマの冒険」、「森は生きている」、「ベロ出しチョンマ」、映画では「猫は生きている」等々親子で観賞しました。46年(45年かもしれません)に地域の小学生を対象にサークル「わかくさ会」を誕生させ、地区の会舘で自作自演の紙芝居、合唱をしたり、器楽合奏では由香利さん潔典さんのお得意のバイオリンも加わり、子供だけとは思えない名演寿を披露したり、毎回盛りだくさんの出し物で楽しませてもらいました。奥様はアドバイスするのみで会場作りから司会、進行まで子供達だけで自主的に行っていました。子供によい環境を作ることを身をもって実行され、その成果は利発で感情豊かなお子様に十二分に現れているのをお見うけ出来ました。

 お互いに子供が中学高校と進むにつれ私も手持ちぶさたになり、たまたま奥様とお茶をのむ事がありました。本好きのお方だけに話題は読書の事、偶然同じ本を読んだ時の感想等時間の過ぎるのも忘れ話しこんだものでした。お子様の将来についても語られ、個性と特技を生かして語学を学んでほしい望みをおもちのようでした。将来を有望祝されていた潔典さん、大きな夢と希望を常にもちつづけ家族をこよなく愛していらした奥様。                   
 最後にお会いしたのは昨年(58年)3月、娘の卒業式に出席すべく上京した折、娘と永山のお宅へお邪魔した時でした。お手製のスパイスのきいたスパゲッティにワインをご馳走になり、暑いアリゾナ大学で勉学に励まれるお嬢さんのお写真を拝見させていただき、潔典さんのクラブ活動のご様子などを伺い楽しいひとときをすごさせていただきました。   

 今はもう呼べど叫べどお返事がかえってこないと思うとき、悲しさと淋しさが吹き抜けるような心さみしい想いです。今は只々おすきなお花をお供えしてご冥福をお祈りするのみでございます。

         (昭和59年5月)



 室蘭・春水台の想い出

       (室蘭工業大学 沢田義男教授夫人)
                       澤 田 和 子

 武本先生ご一家と、おつきあい出来ましたのは、春水台・室蘭工大官舎の住人になった折でこざいました。丁度武本先生のご長女由香利さんと、私共の長女佳江と同じ年頃で四、五才位でございましたでしょうか。娘は春水台の官舎を行ったり来たり、どちらが我が家か、わからない楽しい毎日を過ごさせていただきました。物静かな、お優しい奥様で、由香利さんと潔典さんの仲に、割り込んでの娘の仕草を暖かく見守って下さいました。

 或る時スキーに一緒に連れて行って下さいました折、由香利さん、潔典さんが、にこにこ笑って、そばで見ていらっしやる中で、奥様のスキーの上に乗って喜んでいる娘の姿に、驚きと申し訳なさと、感謝で一杯でございましたのが忘れられません。お誕生日には、いつもごちそうになり、娘の幼い日の想い出を、沢山に作っていただきました。幼稚園、小学校と小樽に行かれますまで、暖かいご交際をいただきました。

 小樽に行かれましてから、ご無礼をいたしておりましたが、娘が小樽の短大に参りまして、武本先生のお宅へ訪問させて頂く事が出来ました。幼い日の楽しかった想い出を、時間のたつのも忘れてお話にふけり、暖かいおもてなしの1日を過ごさせて頂いて参りました。そのあとも娘は、奥様の暖かいお心尽くしをいただきました。其の後、私も奥様にお逢いする事が出来、室蘭でお別れして以来で、お懐かしく、うれしさで一杯で、積もるお話に花を咲かせ、昔とちっともお変りにならないご様子に、過ぎた年月が縮まった想いでした。

 その時バス停まで、送って下さいました奥様に、再会をお約束して、帰って参りました。
丁度そのバスから下車なさった当時札幌北高校に通学していらっしゃった潔典さんともお逢いする事が出来ました。ご立派に成長なさった潔典さんでした。お優しさ一杯の童顔が残っていらっして、お懐かしく、お懐かしく存じました。発車するバスの中からお二人が並んでいらっしたお姿が目に残り、今もはっきりと浮かんで奉ります。

 まさか、これが最後のお別れになってしまうなど、信じられない思いでございます。テレビで悲報を知りました時は、間違いであって欲しいと、それのみを念じましたが、残念に残念に存じます。

 今はただ心よりご冥福をお祈りいたしております。本当に奥様有り難うごさいました。
心からお礼申し上げたく、拙い文をしたためました。



 アマストにて

         小樽商科大学商学部助手
                    上 田 雅 信

 武本先生御一家がマサチユーセッツ州アマストの私たちを訪ねて下さったのは、1983年8月初旬のことであった。先生と私は、同じ時期にアメリカヘの留学が決まり、先生は、お嬢さんの由香利さんとアリゾナ大学に渡られ、10か月をそこで過ごされた後、ノース・カロライナ州立大学に移られたところであった。夏休みを利用してアメリカに来られる潔典君と奥様も御一緒だというので、私も妻も何日も前から楽しみにしていた。
 
 アマストは、ボストンから西に百マイル程のところにある人口3万人余の小さな町で、とくに観光名所として有名な訳ではないが、2つの大学−アマスト大学とマサチユーセッツ大学ーのある落ちついた美しい町である。先生たちがアマストに滞在されている間に、潔典君の希望で、言語学関係の本を多く置いているアマストの本屋に行ったこと、町の図書舘に行き、「ミカド」というレコードを借り出したことを思い出す。本屋では、彼は探していた本を古本で見つけ、「ミカド」は、コピーを作り(彼はこのレコードは、ステレオで録音されたものは日本では入手できないので、東京外大の半田一郎先生へのお土産にするのだと言っていた)、これだけでもアメリカに来た甲斐があったと嬉しそうだった。アマストの二つの大学のキャンパスを歩いたことや、車で1時間程のところにあるタングルウッドでボストン交響楽団の野外コンサートを聴いたことも大切な思い出である。
 
 潔典君は、長身のハンサムな青年で、いつも笑顔を絶やさなかった。自分のペースを知っていて、それを余裕をもって着実にこなしているように私には見えた。先生たちがアマストを発たれる前夜、潔典君とウイスキーを飲みながら深夜まで話しをした。潔典君は、大学院にすすみ英語学を専攻する希望であることを語った。とにかく、英語を学ぶこと自体が楽しくて仕方がないといった様子であった。
 
 東京外大の半田一郎先生の講義がどんなに面白く有意義かを話してくれた。それは、本当に、英語の使われている国の文化や歴史まで触れた大変幅の広いもののようであった。潔典君は、英語学者になるための準備を着々とすすめている感じであった。
 
 大韓航空機事故の知らせを聞いたのは、9月1日の夕方のことであった。潔典君と奥様が事故機に乗られていたと聞いて、私たちは、茫然とした。潔典君や奥様のいるアマストの町の情景や、潔典君や奥様が話されたことがとぎれとぎれに思い出されて、涙が止まらなかった。私には、今でも、潔典君や奥様がどこかで元気に暮らされているような気がしてならない。潔典君や奥様の思い出は、美しいアマストの町の叙景とともに、いつまでも私たちの記憶に残ることだろう。



 潔典君と奥様を偲んで

      札幌医科大学衛生短期大学部助教授
                       根 本   慎

 5月から6月にかけての北海道では、短かな春から初夏の陽気へと移り変り、1年中で最も快適な季節を迎えています。若葉の緑と抜けるような空の碧さが目に染むようで、週末にはあちこちから運動会の歓声がかすかに聞こえて来たりするのどかさです。しかし、この静かに澄み渡った空を見ていますと、この同じ空で、しかも北海道の近海で、あの大韓航空機事件が起きたとは考えられないことです。
 
 忘れもしません。あの日、昨年9月1日のことでした。大学に籍を置く私は「ああ、夏休みも終りだな」と、頭の片隅で思いながら夕方六時半頃、札幌駅で汽車に乗るため改札口の方へ向かっていました。改札口に入る手前で珍しく新聞の号外を受け取りました。列車に乗り込んですぐにその小さな号外を読み、私は呆然としてしまいました。大韓航空機007便の乗客名簿の中に、武本昌三先生の奥様御子息潔典君と思いがけぬ名前があったからでした。住所は東京都内となっていましたが、年齢は一致しているように思えました。

 この号外を読んだ直後、その朝自宅を出る際耳にしたテレビのニュースを思い出しました。当日未明、民間航空機の航跡がレーダーから消えたというもので、日本国内で離発着予定の航空機で該当するものはないとのことでした。私は持っていたラジオでNHKのニュースを聴いてみましたが、号外とまったく同じ内容でした。帰宅してすぐに持ち帰った号外を家内に見せたところ、なんということが起こったのかと困惑した様子でした。早速、日頃からお世話になっている方で、武本先生を良く御存知の方に電話をしてみましたが不在で連絡が取れません。他の方にもお尋ねしょうかとも考えましたが、誤った連絡で御迷
惑をおかけしてはと、思い留まりました。

 よりによって武本先生の奥様と潔典君が搭乗していたとは考えたくないことでした。それが現実のことであれば、武本先生を初め、御両親の皆様、先生を存じ上げている者にとり、どんなに心を痛めることかと考えておりました。しかし、その翌日、新聞・テレビの報道で、大韓航空機がサハリン上空を通過の折に撃墜されたことが明らかになりました。通常では考えられない航跡を取っていた大韓航空機、その飛行機に潔典君と奥様が乗っておられたとは・・・・・・。私達武本先生の御家族を存じ上げている者にとり、大へん悲しい出来事となりました。

 私が武本先生のご家族とお会いできるようになったのは昭和49年秋のことでした。当時、武本先生は文部省在外研究員として米国西海岸にある大学街、オレゴン州ユジーンに御家族の皆さんとともに滞在されておりました。私も武本先生の御力添えをいただき、先生が研究生活を送っておられるオレゴン大学大学院で学ぶことができるようになったのでした。御家族の皆様が帰国されるまで約3カ月の間、暖かな御世話をいただきました。初めての外国生活をする者にとり、先生、御家族の皆様が近くに居て下さり、大へん心強く有り発いことでした。

 ユジーンでお会いした潔典君とお姉さんの由香利さんは、近くにある小・中学校に通われて居りました。御2人は伸び伸びとして学校生活がいかにも楽しそうでした。言葉の不自由も全くない様子で、電話でのお喋りも滑らかで感心しておりました。「フットボールに夢中で勉強はさっぱりしないんだ」と、先生はおっしゃっていましたが、それは先生の御謙遜で、2人の御子様は立派な御両親のもとで愛情を豊かに注がれて成長されているのがよくわかりました。

 あの笑顔の印象的な潔典君が数年後、難関の東京外国語大学英米語学科に入学されたことをお聞きして、それがまったく自然のこととおもわれました。東京外語大に入学されたのは潔典君の秀れた能力によることは当然ですが、潔典君には英語を学ぶのに理想的な家庭環境も備わっていました。父上の武本先生は東京御出身であるばかりではなく、外国留学の難しい時期にアメリカで留学生活を送られ、生きた英語を身につけておられました。英語を専門とされる父上をもたれた上に、あのユジーン滞在を含む御家族揃ってのアメリカ・ヨーロッパの生活体験は、潔典君にとって英語を自然に修得する貴重な経験であったと思われます。

 小学生の頃から英語を膚で感じ、英語の世界が広がり始めた潔典君が大学での専門として英語学の道を選ばれたとして何の不思議もないことでした。潔典君が確実に前進される姿を御両親はさぞかし頼もしく見守られていたことでしょう。東京外語大での生活も3年目を迎えられていた潔典君には、既に将来の道がはっきりと描かれていたに違いありません。武本先生と由香利さんを訪ねて、一家揃っての夏休みの後には、ユジーンでの経験と同様に大きな飛躍が宿されていたに相違ありません。

 大韓航空機事件直後、新聞に載った潔典君の写真にはユジーンでお会いした際の面影とはすっかり変わった、しかし、御両親によく似られた立派な御顔がありました。その御顔に、2年か3年前に1度だけ電話で数秒間耳にした潔典君の声が重なります。その声は御父上、武本昌三先生の御声かと思われる凛とした響きでした。

 北の海に散った御子息だけでも大きな痛手であるはずですのに、武本先生は奥様までも失ってしまわれました。奥様は目鼻立ちの上品な、溌剌とした大へんお美しい方でした。都会的な優れたセンスの持ち主で、女性らしい趣味を広くお持ちのように御見受けいたしておりました。私どもの子供にいただいた御本は大へん夢のある内容と豊かな色合で家内も目を見張り、お心遣いに感激したものでした。家内は奥様を大へん素敵な方と普段から言っておりましたし、時間が許せばゆっくりとお話を伺いたいと願っておりましたが、それも叶わず奥様は不帰の方となってしまわれました。秀れた点を数多く備えておられた奥様は、家庭で武本先生を支えられ、先生とともに2人の御子様を立派に育てられたのでした。

 今年1月末、ユジーンの街で潔典君や由香利さんと知り合い、お世話になったジーン・ルイスが東京から訪ねて来ました。3日間の滞在でしたが、以前滞在した先生のお宅の近くを通りたいと言います。家の方は御不在だと言ったのですが、どうしても行きたいと言うものですから先生の御家の近くまで行くことにしました。御宅にはどなたも居られる様子はなく、ジーンもようやく納得しました。雪の中に静かに立つ先生の御宅を拝見しますと潔典君と奥様のことが想い出され、先生と由香利さんの悲しみが窺われる思いでした。

 本当に全てが順調に進んでいた武本先生の御家庭でした。既に社会の第一線に立たれていらっしゃる武本先生に加えて、潔典君も由香利さんも開花の年代に入られ、御家族の前途は洋々たるものでした。突如として湧き起ったあの御不幸を他に向ける術もなく耐えておられる武本先生、由香利さん。どうか御2人の心の傷が1日も早く癒やされますように、1日も早くお元気を取り戻されて、亡くなられた潔典君と奥様の分まで生き抜いていただきたいと存じます。
                        
 最後に潔典君と奥様の御霊が安らかでありますよう心より御祈り申し上げます。

             (昭和59年6月5日)