武本潔典君を偲んで

        札幌北高等学校教諭
                菊 池   隆

 私は、武本潔典君の出身校、札幌北高等学校で2年間、学級担任をつとめた。
 
 かれが2年生の秋、本校では、国際ロータリークラブの要請で、アメリカ、ニューヨーク州からの女子留学生を受け入れることになった。ローラという名で、留学期間は、1年間。私のクラス、2年4組に所属することになった。武本君の会話を含めた英語力が、当時、学年を通し、抜群であることを知っていた私が、とくに、申し出たからであった。
 
 私は、ローラの席を武本君のとなりに決めた。はじめ、日本語を余り話せなかった、このローラは、武本君の通訳よろしく、まもなく学校生活にも慣れ、クラスの生徒とは勿論、男女、学年を問わず、だれからの区別なく、親しく交わるようになり、やがて、学校中の人気者となっていくが、それには、ローラを迎えた時から橋渡し役をつとめて来た武本君の功績を大きく評価しない訳にはいかない。武本君は、このとき、すでに、日米国際交流の一翼を担ったことになる。
 
 毎年、本校では、9月上旬に、学校祭を行う。クラスのみんなが協力して参加するものに、行燈行列と模擬店とがある。それぞれの責任者が選ばれ、責任者を中心に、いくにちも前から準備が進められていく。担任は、あまり介入しない。とくに、私などは、ほとんどタッチしたことがなく、全く頼りにならない担任であったと思う。
 
 武本君は、私が担任をした(2年生と3年生の)2年間、模擬店の方の責任者に選ばれている。これは、仲々に大変なことである。
 
 とくに、3年生は、翌年の大学受験を控え、その準備も忙しい。従って、だれも、責任者になることを好まない。武本君の場合、手稲山から片道1時間半もの道のりを通学して来ている。帰宅時刻が大幅に遅れることになる。しかし、クラス全体の意見は、武本君の、この事情を認めようとはしなかった。
 
 やがて、いさぎよくこれを引き受けた武本君から、てきばきと作業手順が示された。かれを信頼するクラスメートの多くの協力で、着々と準備は進んだ。学校祭当日、みごとな和風喫茶店「江戸紫」が開店することになった。
 
 武本君は、決して、めだとうとはしない。友達との相互信頼のもと、地道な努力を惜しまない。本当に、頼りになる生徒であった。
 
 武本君は、また、スポーツ好きな生徒でもあった。校内野球大会があると、ソフトボールの部門でキャプテンとして、まとめ役をつとめ、また、みづからもピッチャーとして出場している。試合中、苦境に立つことがあっても、決して笑顔を忘れることはなかった。
 
 勉強もよくできた。ほとんどの教科で上位をしめていたが、私の記憶では、英語、世界史がとくに群を抜いていた。世界史担当の富久尾先生は、テストの採点をされながら、いつも、おどろいておられた。
 
 3年生の3学期、共通1次試験が終わった翌日だったか、自己採点をすませた武本君は、思ったより点数が悪かったといって、心配していた。しかし、東京外語大の英米語学科の2次試験もおわり、新聞公表の前日、私は、武本君から、合格の電話を受けた(あの時の声は、いまも、私の耳に残っている)。

  武本君に最後に会ったのは、かれが、大学1年の9月、本校の学校祭のときである。大学では、「テープコーダーを持って、街頭に出て、外人との会話を録音して来なさい」と、きびしくされていると話していた。
 
 最後のことばは、「また、来ます」だった。
 
 しかし、武本君とは、もうこの世では会えない。あの笑顔を見ることができない。あのはずんだ声をきくこともできない。昨年の9月、突如として、あのいまわしい事件が起こつたからである。
 
 昨年8月、渡米中の武本君が、アメリカのアマースト大学の校庭で、お姉さんと一緒にとった写真が最後なのであろう。あの笑顔がとくに印象深い。北高生時代の笑顔と全くおなじである。
 
 いまはただ、わかくして北の海で散った武本君の霊に対し、ひたすら、冥福をお祈りするのみである。



  楽しさを醸し出す人

           東京外国語大学教授
                   簗 田 長 世

 私と武本潔典君との最初の出会いは、昭和56年の7月、英米科新入生の合宿オリエンテーションの時であった。その年は箱根の小涌園が宿だった。毎年のことだが、2年担当者は学生に馴染みがないため、全く手持ちぶさたで、1年担当教官を取り巻いて話込む学生諸君の脇で所在なく話に耳を傾け、12時近くなると、これで役割は終りとさっさと引き上げて眠ってしまうのだが、その年は違った。私が一晩中酒を飲んで学生と一緒に騒ぎ、寝たのは明け方の1、2時間だけということを経験したのは、10回前後のオリエンテーションとの付き合いの中で、この1回だけだった。

 学科代表だという或種の義務感と、毎年そういうことをやってくれる某教官がその年は不参加で私が代りに張り切ってしまったこととも関係があるが、何よりもその年の学生諸君が私に親しみを感じさせ、私に若さを呼び戻し、夜の更けるのを忘れさせたからだろうと思う。その夜はほとんどいつも一緒にいた相手が、武本君を含む数人だった。その夜何を喋り、何を聞いて、夜明しまでしたかは覚えていない。私が吸い込んだのは、いや私を吸い込んだのは、武本君の底抜けの明るさが触発し、居合わせた若者たちが増幅するあるこの上なく楽しい雰囲気だった。だが、その楽しい雰囲気の中心は今や永遠に失われてしまった。痛恨の限りである。

 その翌年、私は授業で毎週武本君に会った。教室の真ん中の列、前から3番目か4番日の席に、武本君を含む3人がいつも常席で座っていた。教室で勉強に関して何を喋ったかは、ここでもまた覚えていない。ただ、この3人組を柏手によく軽口をたたいたことは覚えている。そのうちに夏休みが近づき、私と武本君との思い出の上で忘れられない日がやって来た。それは7月の10日か11日、その年のオリエンテーション旅行の前々日だった。たしか私の方から誘って、武本君を含む6、7名と巣鴨に飲みに行った。
 
 その時も再びあの名状し難い楽しさに包まれて、私はしたたかに飲み(あるいは飲まされて、だが注がれる場合はそれまでにも何十回もあったが、あのようにハメをはずしてしまうのは何か特別の作用があったのだろう)、自分から始めた馬鹿な遊び(ジャンケンで勝った方が相手の手の甲を無条件でひっぱたけるという蛮行)にのめり込み、大声で騒ぎ、やがて理性も記憶も意識も失って、翌朝の武本君たちの話によれば、巣鴨の駅前で倒れ、救急車を呼ぶか否かの思案となり、結論として高尾の拙宅まで意識不明のまま武本君たち学生数名同乗のタクシーで送り届けられるという、私としては前代未聞の大事件になってしまった。勿論私は家内から厳しくおキュウをすえられ、当分は「重謹慎」処分で、その翌日(飲んだ日の翌々日)のオリエンテーションでは、蛮行で紫色に腫れた左手を膏薬でくるみ、酒も飲まずに小さくなっていた。

 武本君の思い出はもう一つ、その年の秋、彼を含む2年生の男女各数人にベックさんも呼んで裏高尾の影信山に登ったことだ(よくもまあ、教師でありながら、学問や研究の思い出でなく、遊んだ思い出ばかり、さぞや反面教師であった、いや、いまもあるのだろう、と思う)。影信山−高尾山コースは裏高尾随一の急な登りがあって、若い学生と一緒に行って己の体力が未だ彼らと伍し得ることを確かめるには恰好の道だ(これより急で高いとこちらの馬脚が出るという意味で恰好の)。

 私はその時も競うことに夢中で何を喋ったか聞いたか覚えていない。ただ、細い山道を先になり後になりしながら登り、途中で一息いれては遅れた者に声をかけ、ヨタ話をしては笑い、可憐な秋草を愛で、影信の頭上の太陽の下で皆が山ほど持ってきた弁当を分け合い、ビールを欧み、といった爽やかな記憶は今も眼底にちらつく。私が何か皮肉めいたことを言うと、武本君が、「先生、そりやないですよ、そりやないですよ」と、あの人なつっこい笑い声で抗議する、そんなことはずいぶん何度もあった。とにかく楽しい1日だった。武本君にとっても楽しい日だったらしい。

 3年になって彼が英語学を主に勉強するようになり、授業で私と接触することはなくなったあとも、あの魔の夏休みに入る前に、彼は秋になったらまた山登りに行きたいと言っていた。私ももう1度行きたかった。そして夏休みも終りに近づき、私がその楽しかるべきハイキングの日の接近を心待ちにしていたとき、あの悲報が入った。私が彼を含む何人かと一緒にいるときいつも満喫できたあの無限の楽しい雰囲気は、大韓航空と共に洋上に消えた。悲しいことだ。

 学生と教師という、元来距離のある人間の間でさえこれだけ悲しいのだから、日々より長く深く接していた級友諸君はもっと悲しいに違いない。そして我が子を失った、それもあのように明るく素直で、お父様と同じ英語学の道を志して、お父様の喜びの源泉であった潔典君を失われたお父様のお嘆きお悲しみは、想像を絶するものがあるであろう。潔典君の素晴しさを思い起こし、彼を失ったことの大きさを語ることは却ってお父様のお心の傷を深くするのではないかという恐れもあるが、私にできる鎮魂の営みはそれしかない。

 武本君の霊よ安かれ。



   弔 辞

       東京外国語大学英米語学科3年生
                     竹 内 徹 也

 武本潔典君とお母さん

 行方不明になった大韓航空機に君が乗っていると友人から電話があった時、たとえどんなことがあっても君が逝ってしまうはずがない、と祈るような気持でその夜を過ごしました。あれから24日がたちましたが、今でも信じることができません。僕の人生に於てこれまど悲しく辛い別れがあったでしょうか。この悲しみの気持をどう説明しようもなく、ただ立ちつくすばかりです。
 
 2年前、外語大に入学した日、人なつこい笑顔で最初に僕に話しかけてくれたのは君でした。誰に対しても優しく人なつこい君は、クラスの誰からも好かれ愛されていましたね。君は楽しい話で皆を惹き付け、君と一緒にいると時のたつのを早く感じたことでした。僕が落ち込んでいる時も君の楽しいユーモアで、君と話しているだけで気持が明るくなっていったものです。君の常に相手の気持ちを第一に考え行動する態度に僕たちはいつも教えられていました。バドミントン同好会を君が結成した時も、君のそんな人柄を慕ってたくさんの人が入ってきました。
 
 また君は、将来は言語学を研究していくのだと言って本当によく勉強していましたね。この本はためになるよと君が勧めてくれた本を読んで、議論を交わしたこともありました。
君のお母さんにも君の家に遊びに行った時、おいしい手料理をごちそうしていただきました。優 しくて楽しい本当にいいお母さんでした。
 
 潔典君とはお互い結塘式の時は行くからなと約束し、一生涯親友として付き合っていき
たいと思っていたのに、お二人がこんな形で急に逝ってしまわれるなんて本当に残念で悔
ゃし(て悔やしくてなりません。この上は僕たちも君の遺志を継いで、君に恥ずかしくな
いよう一生懸命努力していこうと思います。
 
 潔典君、お母さん、どうか安らかにお眠り下さい。

      − 1983年年9月24日 −

 


  武本から強烈な影響を受けたこと

      東京外国語大学英米語学科3年生
                       中 野  健

 武本は、何をやらせてもよくできる男だった。それがまた、ひと通りこなす、というのではなくて、どれもハイレベルにできるのだった。それより、実力があるというだけではなくて、人間として魅力があった。
 
 大学1年のなかば頃から、何となくグループができていつも一緒にいたのだが、いつも中心は武本であった。というより、武本を中心にした人間関係でグループができていた。僕は、高校ではわりとグループのまとめ役、中心人物をつとめていたのだが、正直いって武本にはかなわなかった。できる男だ、と思った。人間としての魅力を感じた。はっきり意識していたわけではなかったが、武本みたいになりたいなあ、というのが正直なところであった。
 
 武本はいつも僕の少し先を行っていたので、当面の努力目標、みたいな感じもあった。武本のまねをして、いろんなものに手を出したこともあって、おかげで一生縁がないと思っていた楽器なども弾くようになった。僕は現在、大学に入った頃から見ると、くらべものにならないほど精神的に成長した、と自分では思っているが、そこには武本の影響が大きかった。あれだけ実力があって、なおかつ人間的にもすぐれた男というのはなかなかいるものではない。
 
 武本は、間違いなくいい仕事をして、いい一生を送るだろうと思っていた。それは約束されたことであるとしか思えなかった。9月1日のニュースでは、はじめは「翌日には解放される」とかいぅ話だったので、また自慢話を聞かされちゃうなあ、ぐらいにしか思わなかった。撃墜が確定になっても、どうにも信じられなかった。あんな幸運のかたまりみたいな男が20歳やそこらで終わりになってしまうとはどうしても思えなかった。今でも信じられない、としか言いよケがない。
 
 彼にはずいぶん影響をうけたし、実は謝らなければならないこともあったのだが、こころから冥福を祈ります。



  武本の思い出
   − ポール・サイモンとやさしさと −

        一橋大学経済学部3年生
                   岡 部  隆

 雨の降る寒い日だった。永山の武本のアパートヘと向かう。いつもなら嫌いな雨だが、この日ばかりは雨でよかった。さわやかな秋晴れではかえって耐えられなかっただろう。武本の葬式の日のことだ。ここに来るのはこれで3度め。初めて来た時のことは今でもよく覚えている。

 武本とは高校の同級生である。札幌北高3年7組。クラスで東京に出て来た者でよく集っている。日時や場所を決め、みんなに連絡する。これは2人の仕事だった。女の子がいっしょのときもあるが、男だけで欧むことも多い。初めて武本のところへ行ったときもそうだ。武本と松本と尉の3人、8月の終わりの暑い日だった。

 酒を欧みながら乾しい話をすることは少ない。だが、この日は違った。人間の尊厳や人間と国家について話した。武本は個人を尊重し、国家であろうと個人に優先することはないと話していた。そんな彼が国家の犠牲になってしまうとはなんという皮肉だろう。しかし、このときの3人にそんな先のことなどわかるはずもない。話は白熱し、武本と松本は終電を逃してしまった。2人を僕の下宿に留めることにした。蒸し暑い夜、狭い僕の部屋に3人、一夜語り明かした。

 夜が明け、武本のアパートに行くことになった。武本が彼のところにはクーラーがあるから涼しいというのである。4時頃であっただろう。始発にはまだ間がある。どこの店も開いていない。3人は公園で時間をつぶした。早朝の公園はすがすがしかった。途中で朝食をとり、武本が本箱を買うというのでそれにつきあい、結局、永山に着いた−のは昼近くだった。永山は多摩ニュータウンの一角にある。まだ開発中のところで、駅や道路は立派だが人影はまばらだ。将来の発展を約束された街といえよう。武本にはふさわしい街のように思えた。彼のアパートは駅を見下ろす小高い丘にある。日によっては富士山が見えると彼は自慢していた。

 部屋はきれいにかたづけられていた。本がたくさん並んでいる学生らしい部屋だ。居間にヴァイオリンが置いてある。聞けば、昔習っていたということだ。これは初耳だった。弾いてくれるように頼んだが、もうずいぶん弾いてないからと断わられた。が、そのかわ
りにギターを弾き、歌を聞かせてくれた。もともと彼は初めからそうしたかったようだ。彼の演奏は高校のときに1度聞いたことがある。相変らず上手だった。今度サイモン&ガ
ーファンクルの公演に行くのだといって彼らの歌が多かった。武本に言わせれば、ポール・サイモンは彼のライバルだそうである。そのうち、松本と僕も歌に加わった。こうして騒いだあとで、2人は武本のアパートを後にした。

 毎日会っていた高校の頃を思えば、2人の会う機会はめっきり減った。大学も違えば、専攻も違う。お互いに忙しい生活を送っていた。武本とは高校時代から仲が良かった。もっとも彼は誰とでも仲が良かった。しかし、大学に入ってからのほうが彼のことをよく知ることができたと思う。彼の影響を受けたことも少なくない。一つおもしろいことがある。僕は武本に言われて赤鉛筆で本に線を引くことにした。それまではボールペンを使っていた。ところが、ボールペンだと裏のページに跡が残ってきたないと彼がいうのである。確かにそうだ。武本は赤鉛筆で辞書にずいぶん線を引いていた。彼の辞書ははとんど真赤だった。これが英語上達の秘訣かと思い、僕も辞書にやたらと線を引くようになった。だが残念なことに、その効果はあまり現われていない。

 逆に、僕が武本に影響を与えたことはないかと考えてみた。これは本人に聞いてみないことにはわからない。だが、一つだけつまらないことだが確かなことがあった。僕は彼を『みゆき』ファンにした。『みゆき』というのは大学生にも人気のある漫画だが、主人公のやさしさが彼の気に入ったようだ。僕が武本にその本を貸したのだが、おもしろいので彼も本を買ったと言っていた。この主人公はやさしさを表に出さないが、周りの人間はそのことをよく知っている。武本もそうだ。彼はやさしい人間だ。けれども、そのやさしさをひけらかしたりはしない。そんな武本を嫌う者は誰もいなかった。

 時が過ぎ、大学3年の夏も終わろうとしている。ある日の夕方、突然電話のベルが鳴った。桶谷からだった。彼も高校の同級生で、今も近くに住んでいる。新聞の大韓航空機の乗客のところに武本らしい名前があるというのだ。僕は武本からこの夏休みにアメリカに行くと聞いていた。札幌から帰ってきて、武本に何度か電話したので、彼が留守だということも知っていた。しかし、そんなことがあるだろうか。僕は新聞を見た。K・タケモト、多摩市。僕は桶谷のところへ急いだ。2人には何の言葉もなかった。じつとテレビを見つめていた。おぼろげながら事態がのみこめてきた。悲しみよりも怒りだった。

 それから約3週間、9月24日、武本の葬式。雨が冷たい。



 武本潔典君の想い出

     東京外国語大学インドシナ語学科2年生
                       田 辺 由 佳

 事件から数カ月、今も、あの武本君が犠牲者の一人だったということを信じたくない気持でいっぱいです。

 武本君とは、高校3年の時に同級生で、大学も同じ東京外大でした。高校時代の武本君は、何をやってもできる人というイメージでした。勉強は、文系科目、理系科目を問わず、全般にわたって優秀で、受験が近くなった頃、英語を教えてもらったこともあります。球技大会ではソフトボールで活躍し、学校祭では、模擬店の責任者を務めていました。そのうえ性格が底抜けに明るいので、女子の間では、「武本太陽」という、武本君の顔に似せた太陽のマークを書くのがはやったものでした。

 このように、武本君はとても目立つ存在だったので、大学に入ってからも、札幌に帰省するたびに、同級生の女の子同志で集まると、必ず「たけも(武本君の愛称)元気?」と聞かれ、武本君の近況報告をしていました。

 私が大学に入学した時、現役で外大に入って2年になっていた武本君が、入学式から数日後、わざわざ私の教室に「おめでとう」と言いに来てくれたことに、とても感激したのを覚えています。

 高校時代は、あまり話す機会がなかったのですが、大学に入ってからは、学校の廊下で会うたびに話をして、元気がない時も、武本君と冗談を言い合っていると、彼の明るさにつられて、気分が晴れたものでした。外語祭で、武本君が、私のクラスのタイ料理店に来た時、口慣れないタイ料理に「変った味だ」と言いながらも、一生懸命、残さずに食べてくれたので、武本君は優しい人だと改めて思いました。同じ授業は法学だけでしたが、お互いにノートをあてにしていたのにもかかわらず、2人ともはとんど受業に出ていなくて、テスト当日の朝早くに待ち合せをして、先輩からいただいた「テスト予想問題」のコピーをいっしょに必死で暗記したことも、良い思い出になっています。

 高校3年のクラスから東京の大学に来た人同志のクラス会や、同じ高校出身の外大生同志の「北高会」は、共に、武本君が中心となって企画し、いつも彼の明るさと、話題の豊富さで盛り上がっていました。武本君がいなければ、果してあれだけ盛り上がっただろうかと思うほど、武本君は存在感のある人だったと思います。

 事件は、夏休みの終わり頃で、私が東京にもどる予定だった目の前日でした。夏休みに入る直前に、「9月のテストが終わったら、またクラス会を開いて、みんなで飲みに行こう」という約束をしたのが、武本君との最後の会話です。武本君が、アルファベットを用いない語学をやってみたいと言っていたので、2学期になったら私がタイ語を教える代わりに、テスト前には武本君が「優」をとったというフランス語を教えてもらうことになっていました。夏休み前に、そのような会話をしていたので、夏休み明けには、よけい、大学に行くのが苦痛でした。

 これまでしょっちゅう会っていた人に、もう2度と会えないという事実を認めたくないにもかかわらず、大学へ行けば、いやでもそれを認めざるをえないというのは、とてもつらいことです。今でも、廊下を歩いていると、武本君に、明るい声で、「よお」と背中をボンとたたかれたことを、よく思い出します。

 あの天真爛漫な笑顔を、もう写真でしか見ることができないのが残念でなりません。