41. およそ、因果の道理は歴然として明らかであり、
    そこには私情をはさむ余地はない。
    それ故に、悪事を犯した者は悪しき境界に墜ち、
    善事を修めた者は善き境界に生まれる。
    この道理には一寸のくるいもない。

                                ― 道元(1200−1253)


 日本曹洞宗の開祖である道元は、『正法眼蔵』を著わして禅思想の神髄を説いた。語録から特に公案で使われてきた重要な問答を取り出し、それに説明注釈する形で教えを述べたものだが、これはそのうちの一つである。因果応報は、仏教でも中心的な教えの一つである。ただ、応報には時間的な遅速があって、現世で報いを受ける者もあれば、来世で報いを受ける者もあるということであろう。そして、その因果応報の道理には「一寸の狂いもない」。自分が蒔いたタネは必ず自分で刈り取ることになるのである。

 同じことは、シルバー・バーチもつぎのように言っている。「地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。その関係が終わりもなく続くのです。」
  (2016.04.01)




 42.人間が不幸なのは自分が本当に幸福であることを知らないからである。
    ただ、それだけの理由によるのだ。

                      ― フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)


 ドストエフスキーは、モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれた。トルストイ、ツルゲーネフと並ぶ、19世紀後半のロシアを代表する文豪である。空想的社会主義者として1849年に官憲に逮捕され、死刑判決を受けたが、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦でシベリアへ流刑となり、1854年まで服役する。この体験に基づいて書かれたのが『死の家の記録』である。刑期終了後、ペテルブルクに帰還してからは、キリスト教的人道主義に傾き、『罪と罰』などを発表している。死ぬ数か月前には、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を書き上げていた。

 その彼の、不幸の原因は「自分が本当に幸福であることを知らないからである」ということばは心に響く。不幸だと思うから不幸なのだという言い方もあるが、そのような思念の持ち方以上に重要なことは、幸福であることを「知らない」ことにあるのかもしれない。呼吸ができる、手足を動かせる、食事ができる、眠る場所があるなどについても、あまりにも当たり前として一顧だにされないのが普通だが、本当は、これらも大きな幸福ではないであろうか。それらが失われると、私たちは初めて幸福とは何かと考え始めたりする。だからであろうか、ドストエフスキーは、「人間には、幸福のほかに、それと全く同じ分量の不幸がつねに必要なものである」ということばも遺している。
  (2016.04.08)




 43.貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、
    欲深くていくら持っても満足しない人だ。

                                   ホセ・ムヒカ(1935〜   )


 質素な生活ぶりから“世界一貧しい大統領”といわれた前ウルグアイ大統領・ホセ・ムヒカ氏(80歳)のことばである。彼は、大統領在任中は、給料の9割を慈善事業に寄付していた。外遊の際はエコノミークラスで、豪華な大統領公邸ではなく郊外の質素な農家に住み、自家用車は中古のフォルクスワーゲンに乗っていたという。街の食堂で庶民と一緒に昼食をとったり、服装は常にノーネクタイ、サンダル履きで通していたらしい。彼は大統領としては、本当は、“世界一豊か”であったのかもしれない。

 4月5日に初来日し、4月7日には、東京外国語大学で「日本人は本当に幸せですか?」と題して講演した(「朝日」2016.04.08)。ものにあふれた日本の社会にも貧困はつきまとう。その貧困は、むしろより深刻ではないか。講演では「一番大きな貧困は孤独です。物の問題ではない」とも述べたという。同じ日の新聞で、タックスヘイブン(租税回避地)で資産の増大を図る各国首脳の強欲ぶりや、「都知事の欧州視察5000万円」のタイトルで、都知事の大名旅行ぶりなども引き続き報じられていた。彼らもまた、「欲深くていくら持っても満足しない貧乏人」なのであろう。
    (2016.04.15)




 44. 人間には不幸か、貧困か、あるいは病気が必要なのだ。
    そうでないと、人間はすぐに高慢になってしまう。

                           イワン・ツルゲーネフ(1818-1883)


 ツルゲーネフは、『猟人日記』、『ルージン』、『処女地』などの名作によってロシア革命思想に大きな影響を与えた。近代リアリズム文学の父とされる。彼は、ロシア中部オリョールに生まれて、15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じた。母親は、広大な領地と 5000人の農奴を持つ専横な女地主であった。父はその財産目当てで結婚したといわれるだけに、父と母の間にはいざこざが絶えなかったようである。このような家庭の内情が、人間には「貧困が必要」と彼に言わしめたのかもしれない。1847年に発表された『猟人日記』では、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで逮捕・投獄されたりもしている。

 不幸でなく、貧困でもなく、病気でもなければ、ともすると人間は高慢になりがちである。これはその通りであろう。不幸がなければ幸福もない。また、幸福が当たり前と思っているなら、謙虚になることもないであろう。イエスは、豊かな者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりむつかしいと言った。富者はその財産をすべて貧者に与えよ、と諭したこともある。病気でさえ、決して無意味ではない。ガンになってはじめて自分を取戻し、「ガンになって有難う」と感謝している人々も世の中にはいる。人間がこの世に生まれて、霊的に成長していくためには、やはり、不幸か、貧困か、病気が何よりの教材になるのかもしれない。
    (2016.05.06)




 45. 人生において最も耐えがたいことは悪天候が続くことではなく、
     雲一つ無い晴天が続くことである。

                                             ― カール・ヒルティ(1833-1909)


 カール・ヒルティ(Carl Hilty)は、『幸福論』、『眠られぬ夜のために』の著者として日本でもよく知られているスイスの法学者、哲学者、政治家である。1851年にドイツのゲッティンゲン大学に入学したが、翌年にはハイデルベルク大学に移り、法律の研究に専念した。敬虔なクリスチャンとして、人生、人間、神、死、愛などの主題について含蓄深い思想書を数多く著した。享楽を避けることを強調し、禁酒運動などにも力を入れていた。しかし、彼自身、大学時代には、普通の学生と同じく奔放な生活を送って、少しは酒も飲み、決闘をしたこともあったらしい。

 「雲一つ無い晴天が続く」天然現象を、私は、アメリカのアリゾナ州ツーソンで暮らしていた時、実際に経験している。初めは、毎日「日本晴れ」でいいな、と思ったりしたが、夏の間、それが何週間も続くと、気持ちが落ち着かず、異様に思われてくる。ぽっかり浮かぶ白い雲の姿や、どす黒い雨雲、灰色に覆われた一面の曇天などが無性に恋しかった。人生においても、すべてが順調で何の問題も起こらず、石ころひとつ落ちていないような平坦な道を歩み続けるのは、確かに苦痛であるかもしれない。かつて、霊能者のA師は、そのような順風万帆だけの人生を歩む人があるとすれば、それは、「神から見捨てられた人」だと、笑いながら言ったことがあった。
    (2016.05.13)




 46. 物事に良いも悪いもない。
    考え方によって良くも悪くもなるのだ。

                   ―ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)


 これは、悲劇「ハムレット」のなかのことばで、原文は、“There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.” である。このことばは、「世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ」とも言い換えられるであろう。また、 [33]に掲げた「運がいい人も、運が悪い人もいない。運がいいと思う人と、運が悪いと思う人がいるだけだ」(中谷彰宏)ということばとも軌を一にする。全く同じ仕事を与えられても、不平たらたらで働く人と、感謝して働く人がいるが、その違いは自分の心の中にしかなく、結局は、幸福と不幸の差を生み出しているものは、自分自身の考え方なのである。

 アメリカの女優シャーリー・マクレーンは、ベストセラーになった彼女の著書『アウト・オン・ア・リム』の「日本の読者の皆様へ」のなかで、自分が今までに学んだ最も重要なことは、「私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどうとるかという認識の問題だとわかったこと」だという。つまり、「人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべて」で、いいかえれば、「私たちの人生は私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです」と述べている。(地湧社、1994、pp.2-3)
    (2016.05.20)




 47. 義のために迫害されてきた人たちは、幸いである。
   天国は彼らのものである。

                                   ―マタイ(5:10-12)


  生命が永遠であり、私たちは本来が霊的存在であることを知れば、このイエス・キリストのことばも理解しやすい。このことばは、さらに次のように続く。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対して偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 「人間は平等である」というが、霊的進化の過程でみると、決して平等ではない。進化の早い者も遅い者もいる。しかし、早い者も遅い者も、神の子という点では、同じである。遅い者もいつかは必ず早い者が今いる立場に到達する。イエスが言ったように、「すべてあなた方を殺す者」も、やがては「神に仕えているのだと思う時が来る」のである。(ヨハネ16:-2) だからであろう、イエスはさらに言う。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5-44) 
  (2016.06.03)




 48.わたしたちは何ひとつ持たないでこの世に来た。
    また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

                                  ―テモテへの第一の手紙(6:6-9)


 これは、使徒パウロがテモテに対して書いたといわれる手紙の一部で、「知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、果てしのないいがみ合いが起こるのである」に続いて、冒頭のことばを含む、つぎのことばが述べられる。「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。」

 「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」と書きながら、富むことを求めることの愚かさを戒めている。このあとには、さらにこう続く。「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」これは、今でも、というより、今でこそ、現代に生きる私たちがかみ締めなければならない戒めである。真の富とは何かを知らず、また、一人一人が自らすでに持っている莫大な富に気がつくことなく、欲望の赴くままに金銭を追い求めて血眼になっている人々の、なんと多いことであろうか。
  (2016.06.10)




 49. 人生はマラソンだから
    百メートルで一等をもらってもしょうがない。
                         
―石坂泰三(1886-1975)

 石坂泰三は、東京帝国大学卒業後、逓信省に入省して、4年務めたのち第一生命に移り社長になった。その後、東芝社長、第2代経団連会長、万国博会長等を歴任した。英語でシェイクスピア、テニソン、エマーソン、カーライル、ドイツ語でゲーテ、シラー、アンデルセン等を、すべて原書で読破して教養を身につけていたという。世界各地に一流の人物を友人、知人に持ち、財界では最も外国人に尊敬された日本人として知られていた。「これから幹部になろうという者は、相手の言葉だけでなく、文化、歴史、政治、経済といったものをよく勉強しなくちゃいかん。もちろん、その前に自分の国のこともよく知っていなくては」と、部下たちに教えている。彼は、いわば、人生の達人であったといっていいであろう。

 その彼は、「人生のコースには人それぞれのペースというものがある。自分のペースに合わせて、息切れず、疲れすぎをせず、ゆうゆうと歩を進めて、とにかくその行き着くところまで、立派に行き着けばよろしいのだ」と言っていたが、冒頭のことばは、それと軌を一にする。しかし、霊的にみれば、人生はマラソンどころか永遠であるから、それを百メートル競走のように勘違いして、一歩でも人の前に出ようとして必死に走り、それで一等になっても、ほとんど何の意味もない。逆に、つまずいて転んだりしてビリになっても、なんのマイナスにもならないし、むしろプラスになることが多い。大切なことは、霊性向上の道を、自分のペースに合わせて悠々と歩を進め、「その行き着くところまで、立派に行き着くこと」である。
 (2016.06.17)




 50. あなたが転んでしまったことに関心はない。
    そこから立ち上がることに私は関心がある。

                     ― エイブラハム・リンカーン(1809-1865)


 リンカーンはケンタッキー州に生まれたが、両親は無学な農民であり、彼自身も基礎教育をわずかに受けただけで、以後独学であった。1832年、23歳のときに政治の世界に入ることを勧められイリノイ州議会議員選挙に出馬したが落選。郵便局長、郡測量士を務めた後に弁護士になった。1834年、州議会議員への二度目の出馬を行い当選。1846年にはアメリカ合衆国下院議員に選出され、1860年、共和党大統領候補に選出されて、民主党候補を破り、第16代大統領となった。南北戦争の最中に、1862年に奴隷解放宣言を行い、1865年4月に奴隷制に固執する南軍は降伏したが、その6日後、観劇中に拳銃で撃たれて死亡した。

 リンカーンは偉大な大統領の一人であったが、その人生は挫折の連続であった。挫折が彼を鍛え、押し上げていったといえる。ざっと列挙すると――彼が9歳の時に母が死去、19歳で姉が死去、23歳で州議会に落選、25歳で事業に失敗、26歳で婚約者が死去、27歳でノイローゼ、34歳から46歳まで下院議員選挙で5回連続して落選、40歳で長男が死去、46歳で上院議会選に落選、47歳で副大統領選に落選、そして、51歳でアメリカ合衆国大統領になった。ほとんど挫折だらけの人生の中から冒頭の彼のことばは発せられている。原文は、“I am not concerned that you have fallen. I am concerned that you arise.”である。
   (2016.07.01)




 51.あなたができると思えばできる。
    できないと思えばできない。
    どちらにしてもあなたが思ったことは正しい。

                         ― ヘンリー・フォード(1863〜1947)

 思念にはエネルギーがある。その力は偉大であるが、通常は、あまり意識されることはない。しかし、「できるにせよ、できないにせよ、あなたの思った通りになる」のである。原文は、“Whether you believe you can do a thing or not, you are right.”である。ヘンリー・フォード(Henry Ford)は、アメリカのフォード・モーターの創設者で、工業製品の製造におけるライン生産方式による大量生産技術開発の後援者である。自動車の産みの親はカール・ベンツで、育ての親はヘンリー・フォードといわれる。T型フォードは、世界で累計1,500万台以上も生産され、産業と交通に革命をもたらした。

 フォードは、「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」と言っていた。そして、「私はいままでどんな人でも採用してきたし、一度採った者は絶対に解雇しない主義でやってきた。車をつくるのではなく人間をつくるつもりなのだ。解雇は絶対にしない」と言い続けていた。安価な製品を大量生産しつつ労働者の高賃金を維持する「フォーディズム」の創造者でもあった。1914年当時、従業員の賃金を従来の2倍に引き上げ、日給5ドルとしたことで世界を驚かせた。フォード・モーターの社主として、世界有数の富豪となり、有名人となった。遺産のほとんどをフォード財団に遺して、遺族がその組織を恒久的に社会貢献のために運営できるよう手配した。
  (2016.07.15)




 52. 野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。
    働きもせず、紡ぎもしない。
    しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
    この花の一つほどには着飾ってはいなかった。

                                   ― 「マタイ」 6:28-29 ―

 野の花がどうしてあのように咲いているのか、考えてみると不思議である。世界中のいたるところで、様々な種類の花々が季節に従って無数に色とりどりの花をつけている。咲いては散り、散ってはまた無心に咲く。自分でそこに根をおろすことを選んだわけでもなく、誰かに見られたいと思って、美しさを競っているわけでもない。「働きもせず紡ぎもしない」が、自然のままで素直に生をうけいれている。それだけでなんの作為もないのだが、その可憐な美しさは、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどには着飾ってはいなかった。」― 何度読み返しても胸に染み入る美しいことばである。

 先日、ふと目に入ったテレビ画面で、ある中年の女性が銀座でインタビューに応じているのを見た。数回の美容整形手術をして2千万円を費やし、400万円で買ったという腕時計や、きらきらする数百万円のアクセサリーを身に着けている。これで本人は美しくなったつもりのようであったが、外面はともかく、ストレートに眼に顕れる内面の醜さと貧しさは、覆うべくもないような気がした。神の子であることにも気がつかない浅はかな人間の姿は、この野の花とは対極にある。冒頭のイエスのことばは、さらにこう続く。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」
  (2016.07.22)




 53.他人の失敗から学びなさい。
    あなたは全ての失敗ができるほど長くは生きられないのだから。

                         ― エレノア・ルーズベルト(1884〜1962)―


 エレノア・ルーズベルトは、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻で、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家として高名であった。両親とも大富豪の名門であったが、父はアルコール中毒患者となり、母は美人で、冷酷な性格であったといわれる。両親と早く死別したため、母方の祖母の下、家庭教師によって、厳格に養育された。その後イギリスに渡り、ロンドン南西部、ウインブルドンにあった女学校に入学、卒業した。帰国後ニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にし、大きな衝撃を受ける。このときの体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力であったともいわれている。

 大恐慌後の世界的な不景気下の1933年に、ルーズベルトが大統領に就任し、その後夫が三選されたホワイトハウス時代の12年間、ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものとされている。ルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対したりもした。1957年の秋、私は留学先のオレゴン大学で彼女の講演を目の前で聞いている。両親が富豪であっても、決して恵まれていたとはいえない家庭環境で育ったことやその後の波乱の多い多彩な生活体験が冒頭のことばの背景にある。原文は、Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself. である。
  (2016.08.05)




 54. 神がすでに下さっている恵みに感謝せよ。
    そうすれば、神はさらなる恵みを与えて下さる。
   すでに与えられている恵みに感謝しないで、
    新たな恵みを受けることは困難である。
   不平家が、生涯満足を感じることができないのは、
    感謝することにおいて欠けているからである。

                                                ― 内村鑑三(1861-1930) ―


 内村鑑三は高崎藩士・内村宜之の長男として、江戸小石川に生まれた。札幌農学校(現在の北海道大学)に卒業後は水産研究に従事したが、結婚に破れて深刻な悩みと苦しみを抱えて1884年に渡米し、アマースト大学に学んだ。そこで総長のシーリー博士と出会い、キリスト教の信仰による深い平安を得た。帰国後、旧制一高の教員のとき、教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件として大きな問題となり、辞職する。しかしその間に『基督信徒の慰め』『求安録』『代表的日本人』などの名著が生まれた。1900年には「聖書之研究」誌を創刊して、内村の信仰と、彼の聖書の深い読み方が全国的に知られるようになる。冒頭のことばは、この「聖書之研究」のなかの一節である。

 私たちはすでに多くの恵みを受けている。いのちそのものを与えられているほかに、日々の食事と着るものを与えられ、体を休めて眠る場所もある。それがどんなに大きな恵みであるか、それらが一つでも欠けている状態を考えてみればすぐにわかることである。しかし、私たちは、まわりの他人のもっと豊かな衣食住を目にして、ともすると、感謝を忘れて不平不満を抱きがちである。それでは、内村も言うように、「新たな恵みを受けることは困難」になるのであろう。不平不満を並べている者が生涯満足を感じることができないのは、ただ一つ、「感謝することにおいて欠けているから」に違いない。
  (2016.08.12)




 55. 君たちは従業員を何と思っておるのか。
    従業員と会社はひとつだ。
    家計が苦しいからと、家族を追い出すようなことができるか!
                                 
― 出光佐三(1885-1981)―

 出光佐三は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニアで、石油元売会社出光興産を創業し、貴族院多額納税者議員でもあった。冒頭のことばは、太平洋戦争敗戦で出光の海外部門をすべて失い、海外部門で働いていた従業員たちをどうするか社内で話し合った時に幹部に対して出光が述べたひと言である。出光商会の主義の第一は人間尊重であり、第二も人、第三も人であるとして、彼は従業員を家族のように扱った。この言葉の通り、出光は、敗戦後の困難な時代に、約1,000人の従業員を一人もやめさせることなく、ラジオ修理や旧海軍のタンクの油処理などをしながら苦境を乗り切り、経営再建を成し遂げた。

 出光は神戸高等商業(現:神戸大学)を卒業したのち、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店した。同級生からは「神戸高商の恥さらし」と非難されたが、そのような彼の人物を見込んで、彼に別荘を売った代金のすべて6000円(現在の1億円)を無条件で与えたのが日田という素封家であった。その金で、彼は出光商会を設立し、紆余曲折を経て、大企業に育て上げてからは、このかつての恩人に生涯にわたって厚く報いた。内田尚樹『海賊とよばれた男』(講談社、2012年)には、このような出光佐三の波瀾万丈の95年の生涯と、終始自分の恩人や従業員を家族のように大切にしてきた信念のような人間愛が感動的に描かれている。
  (2016.08.19)




 56. 家の者が金持ちになることを、私は決して望んでいません。
    家の者が神を愛し、正しい生活を送ることだけを望んでいます。
                      ― ベルナデッタ・スビルー(1844-1879) ―


 ベルナデッタ・スビルー(Bernadette Soubirous)は、よく知られているように、南仏のルルドで聖母の出現を体験したフランスの聖女である。ルルドの奇跡の泉でベルナデットは超有名人となり、そのため人づき合いを患わしく思うようになった。彼女の帰りを待ち構えて、粗末な彼女の家の前で握手してもらおうと考えている人間も大勢いた。中には彼女にお金を手渡してまでも握手してもらおうとする人々もいた。彼女に触れたおかげで難病が治ったという病人もいたからである。彼女がその気になれば、金持ちになることも容易であったに違いない。しかし、彼女は断固として拒絶してお金を受け取らなかった。神を知る者が、金銭的な利益を得ることなど考えるはずもなかった。

 ベルナデッタは虚弱な体質で、幼少時に患ったコレラのせいでゼンソクに始終苦しめられていた。彼女は、他人の病気を治すことが出来ても、自分の病気は治すことができず、修道院でもカリエス(結核菌による骨組織の侵食)に苦しみながら、十字架を青白い手で握りしめて35歳の生涯を閉じた。死後30年経った1909年に、ベルナデットの遺体は検証のために中が改められることになった。掘り出されて棺が開けられると、遺体は腐敗もせず、いま眠りについたばかりと思えるほどの安らかな表情であったという。私たちは今でも、サンジョセフ聖堂の地下墓地へ行けば、ベルナデットの若々しい遺体と対面することが出来る。教皇ピオ十一世もこの奇跡を認め、1933年に彼女は「聖人」に列せられた。
  (2016.09.09)




 57. 物事を否定的にとるか、肯定的にとるか、
    その辺の違いが、人の人生を左右するのです。

                         ― 斎藤一人(1948年〜  )―


 斎藤一人氏は、東京都江戸川区出身の実業家である。健康食品会社の「銀座まるかん」創設者で、納税額日本一として知られている。1993年から納税額12年間連続ベスト10という日本記録を打ち立て、累計納税額も2004年までに合計173億円を納めて、日本一であるという。観音信仰と経営体験に基づいた独自の人生観を持ち、人生訓や自己啓発の教えをさまざまな講演会で話をしたり、多くの著書に書いている。冒頭のことばは、いうまでもなく、ポジティブに生きることの大切さを述べたものである。

 氏は中学卒業の学歴だが、その中学校もほとんどまともに行ったことがなかったらしい。しかし、そんな子供に対しても叱ることなく褒め続け、将来の希望を持たせてくれた母の言葉が今の成功への力になったと氏は言う。「子どもというのは、母を通して生まれた“神”である。だから、子どもは本当は「親のもの」ではない。子どもはその親を選んで生まれてきただけである」というような、私たちが霊的真理として学んできた親しみのある言葉も、氏の著書には数多くちりばめられている。
  (2016.09.23)




  58.  40歳を過ぎた人間は、
     自分の顔に責任を持たなくてはならない。

                 ― エイブラハム・リンカーン(1809-1865)―

  大統領になったリンカーンが、ある有能な人物を閣僚ポストに推薦された時、どうしてもその人物を受け入れようとはしなかった。その理由を聞かれたリンカーンが答えたというのが、冒頭のことばである。人間も40年も生きていれば、それまでに抱いてきた思い、感情、性向などが、あらゆる行為・体験の記録とともに魂に蓄積され、それらがいわば履歴書のようになって顔に現れてくる。だから顔を見れば、その人がどういう人かわかるのである。オーラが見える霊能者なら、一人一人が放っているオーラによって、その人の魂のレベルまで正確に読み取ることができるであろう。

 かつて、イギリスの霊能者・M.H.テスターも、こう述べたことがある。「人間の一生も一枚の絵である。日常の出来事の一つ一つが一本の線であり、失敗から学ぶことが新たな色彩を加える。人をよろこばせる行い、楽しくさせる人間味、笑い、情愛、哀れみ、理解、こうしたものは黄金色であり、いぶし銀であり、純白である。反対に非寛容、貪欲、好色、大食、嫉み、悪意などは青ざめた色、灰色、どす黒さを添える。そうしたものがすでにあなたの日常での出来事への反応の仕方に表われており、また人相にも出ている。二十歳の顔は神から授かった顔であり、四十歳の顔は自分でこしらえた顔である。」(『現代人の処方箋』潮文社、1988、pp. 170-171)
  (2016.10.14)




  59. 私がやった仕事で本当に成功したものは、
     全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続であった。
     そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。

                             ― 本田宗一郎(1906−1991)―


 本田宗一郎は、現在の浜松市天竜区で鍛冶屋の長男として生まれた。学歴は高等小学校だけであるが、学校の成績は悪く、甲乙丙のうち丙ばかりだったという。小学校卒業後、東京都文京区湯島の自動車修理工場「アート商会」に「丁稚奉公」したが、半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。その後独立して、トヨタ自動車の下請けをしたこともあったが、製品は不良品ばかりで、トヨタが合格を出したのは1000個につき僅か3個だったという話もある。1946年(昭和21年)に浜松市に本田技術研究所 を設立、これを世界的な大企業に育て上げて、現在の本田技研工業になった。

 終戦直後、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究を始めた。そして1952年から「ホンダカブ」を売り出した。これが「本田」の始まりである。「技術開発は失敗が99パーセント、新しいことをやれば、必ずしくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を惜しんで、何度でもやる」と彼は言う。「私の現在が成功というのなら、わたしの過去はみんな失敗が土台作りをしていることにある。仕事は全部失敗の連続である」ともいい、「失敗が人間を成長させると私は考えている。失敗のない人なんて本当に気の毒に思う」とさえ彼は言っていた。
 (2016.10.28)




 60. 生命が私たちに好ましいものであるなら、
   死もまた私たちにとって不快なものであるはずがないでしょう。
   なぜなら、死は生命を創造した巨匠の同じ手によって作られたのですから。

                   ― ミケランジェロ(1475 ー 1564)―


 ミケランジェロ(伊: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)は、いうまでもなく、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人で、西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えてきた大芸術家である。友人から死について聞かれて、冒頭のことばのように答えた。ミケランジェロは、24歳の時にバチカンのサン・ピエトロ寺院にあるあの「ピエタ」を彫刻した。単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない奇跡の作品である。当時から「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価されていたが、あの荘厳な、イエスの死体を抱いて嘆くマリアの像には、ミケランジェロの神に対する深い信仰と祈りが込められているように思える。

 ミケランジェロは自分が本業と考えていた彫刻以外の世界でも、システィーナ礼拝堂の天井画などを遺している。『創世記』の九つのエピソードを主題として構成されたこの壮大な天井画は、59歳の時から7年かけて描き上げた大作だが、人類最大の絵画遺産の一つといえるであろう。私生活では常に質素で、人付き合いを避けて引きこもり、周囲にどう思われようと頓着しない人物であった。食べ物や飲み物にも無関心で「楽しむためではなく、単に必要にせまられて」食事をとり、「服を着たまま靴も履いたままで眠り込むことがよくあった」らしい。様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、「最も神に愛された人」とも言われたりしたが、その彼は、実は、「最も神を愛した人」であったのかもしれない。
 (2016.11.26)