アメリカ留学の想い出


  私が留学生として初めてアメリカへ行ったのは、一九五七年夏である。九月下旬に始まる秋の新学期から、オレゴン大学大学院に入学することになっていて、それまでの一か月半、私はカリフォルニア大学バークレイ本校で、留学生のための夏期講座に出席していた。

 インターナショナル・ハウスという大きな寄宿舎の六階でフランツ・シモンという UCLA(ロサンゼルス分校)の学生と同室であったが、彼は猛烈な勉強家であった。がっちりした体格で、旺盛なエネルギーを一心に勉強に注ぎ込み、寸暇を惜しんで教科書に取り組んでいる。授業から帰ってきたら、三十分ほど運動して、それから勉強を始め、明け方の二時頃まで机に向かっていた。睡眠も五時間くらいしかとっていなかったかもしれない。私はいつも先に寝ていた。

 ある日、食堂で夕食の後ちょっと雑談していた時に、フランツは、夏休み前半の一か月半はロサンゼルスで線路工夫のアルバイトをしたが、仕事がきつくて大変だったと言いながら、私に豆だらけの両手を見せてくれたことがある。私が、なぜ線路工夫などをやったのか、と聞くと、彼は当たり前ではないかというような顔をして、短く、"money" と答えた。鉄道の線路工夫というのは、重労働であるだけに賃金がほかのアルバイトより倍も高く、要するにお金がほしかったから線路工夫を選んだというのである。彼は、バークレイ本校での夏期講座の授業料も、そのアルバイトで稼いだお金で払った、と言った。

 当時の日本では、まだアルバイトというのはどこか貧しく、暗い響きがあったから、私はフランツからそれを聞いたとき、自然に彼のことを貧しい苦学生なのだと思いこんだ。親が貧しくて、子供の授業料も払えないのだと勝手に想像してしまったのである。しかし、それはそうではなかった。

  お互いに夏期講座を無事に終了し、別れの日が近づいてきた頃、フランツが、自宅がサン・フランシスコの郊外にあるので、ロサンゼルスへ帰る前に、私を夕食に招待したいと言ってくれた。私は彼の運転する古い自動車に乗って彼の家へ向かった。彼は一人息子である。父親はオランダ系のアメリカ人で、母親はドイツ人だそうだが、私はその両親に会うまでは、子供の授業料も払えない「貧しい親」というイメージを抱き続けていた。

  一時間近く走って、やがてフランツの家に着いた。場所がどの辺であったかは忘れたが、サン・フランシスコの郊外に小高い丘があって、その麓の一隅に鉄格子の門がある。そこを通り抜けて、アスファルトのアプローチを駆け上り、着いたところが堂々とした邸宅でそれがフランツの家であった。その小高い丘全体が邸宅の敷地になっていて、英語でいうマンションである。フランツの父親はもともと外科医で、サン・フランシスコにある大病院の院長であることも、その時はじめて耳にした。

      *

  オレゴン大学大学院では外国語教育専攻であったが、主専攻のほかに副専攻として社会学をえらび、学部の三、四年次生の、四十人ほどのクラスに出ていた。週四回の授業で、一か月半目に中間試験があり、三か月目に期末試験がある。要するに、日本の週一回で一年の講義を三か月に集中させている形である。

  担当のジョンソン教授は、最初の授業で評価について説明した。A,B,C それぞれの評価を受ける学生数の一定の割合のほか、D(落第)の割合もはじめから決まっていて、全員が一生懸命頑張ったとしても、数名の学生は必ず落とされる。このようにして、アメリカの大学では入学しても、卒業までには半分近くの学生が大学から閉め出されてしまうのである。

 私は、生活費と学費の奨学金を支給されていたが、それには一つ、いかにもアメリカらしい条件がつけられていた。成績でCを三つとったら、その時点で支給は即時中止というものである。これは大きなプレッシャーになっていた。ドルの送金をしてもらうことなどは出来ない時代であったから、失敗すれば中途で帰国するしかない。奨学金は文字通りの命綱であった。

 期末試験は、通常一科目二時間ずつだが、この社会学の時は論文形式の試験で、時間はいくらかけてもよいことになった。それでも、二時間くらいでほとんどの学生は書き上げて出ていく。ねばっていた学生も一人減り、二人減りして、最後にはとうとう私一人になってしまった。時間は午後六時をまわっていただろうか。その時に教授は、書き上げたら答案を研究室のドアのすき間から入れておくようにと言い残して、家へ帰ってしまったのである。

 広い教室に一人残されて私は呻いた。中間試験の時は客観式で、これは分厚い試験問題の冊子を速読していかなければならなかったから、どうしてもアメリカ人学生には勝てない。それだけに、その論文試験では是が非でもいい成績を取らなければならなかった。部屋には誰もいないし、教科書やノートは、すぐ手の届くところにある。私は呻きながらカンニングの誘惑と闘い続けた。留学生選抜試験の時に、私の周りでなりふり構わずカンニングをしていた日本の教員たちの姿も脳裏を横切ったりする。

  そのまま五分、十分と時間が過ぎていった。やっと気を取り直して、私は静かな心境で答案を書き続けた。後にジョンソン教授から、私の答案が一番よくできていたとほめられた時には、しみじみとうれしかった。せっぱ詰まった気持ちであったとはいえ、もしあの時カンニングをしていたら、私はおそらく現在に至るまで、深い罪悪感に苦しめられることになったであろう。

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  オレゴン大学で学んでいる間、私を学校の休みのときなどによく自宅へ招待してくれていたバイアリーさんという若い医者がいた。美しくしとやかな奥さんと、ボブという三歳の男の子がいた。街外れの広い家の敷地には、小川が流れて、子馬なども飼っている。自家用のビーチクラフト機も持っていて、一度、大学の上空を飛びながら、私にも操縦させてくれたことがある。

 最初の年の感謝祭の休みに、私はバイアリーさんの友人の家での夕食に招待された。私はまずバイアリーさんの家へ行って、そこからバイアリーさん夫妻の車で一緒に出ようとした。三歳のボブは、その時に来てもらっていた女子高校生のベイビー・シッターと留守番である。女子高校生に抱かれて、見送りに玄関先まで出てきた。

 奥さんがボブの頬にキスをして、車に乗り込もうとすると、まだ幼いボブは心細くなったのであろうか、急に泣き出した。奥さんは一度引き返してボブをなだめたので泣くのを止めたが、母親が離れていこうとするとまた泣き出した。その時である。車から降りて、無言のままつかつかとボブに近寄っていったバイアリーさんが、いきなり泣いているボブに激しく平手打ちを食わせたのである。温厚なバイアリーさんにしては信じられないような一瞬の出来事であった。

 三歳のボブは、「ウッ」と息を詰まらせたまま、泣くのを止めてしまった。アメリカ人の父親の、しつけの厳しさをまざまざと見せつけられて、私は深い感銘を受けた。

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 一学年が過ぎて、初めての夏休みに私は四千五百キロをドライブして大陸を横断し、東海岸へ向かった。日本では、個人の海外渡航などはまだ一切認められなかった時代である。日本へ帰ったらもう二度とアメリカへは来れないような気がしていたから、どうしても、ニューヨークを見ておきたかった。しかし、奨学金で旅費まではカヴァーしてくれない。私は友人の世話で、ニュージャージーのリゾートホテルのレストランで、一か月半アルバイトをすることにした。

 ホテルは豪華で、すぐ前には大西洋の大海原が広がっていた。週末などには、すぐ隣のニューヨークなどから大勢の人々が休養にやってくる。私はアルバイトの女子学生とペアーを組んで、レストランのいくつかのテーブルを受け持ち、ウェイターとして忙しく働いた。しかし、まだ、ウェイターに徹しきることは出来なかったのであろう。主任のトムは、何かにつけて口うるさく小言を言い続けた。 

 小言を言われながら働くのは辛いし、それにひどく疲れる。その時の私は、まだ日本的な甘えから抜け切れていなかった。「エリート留学生」のはずの私が、こんな仕事で小言をいわれながら働いていることを親が知ったら何と言うだろう、と思ったりもした。私は三週間ばかりで、とうとうその仕事を途中で投げ出してオレゴンに帰り、夏休み後半の夏期講座に出ることを考え始めた。

 そう決心して、明日はトムにそのことを告げようと考えていた日の夕方、たまたま、別のところでアルバイトをしていたエール大学の韓国人留学生パクさんに会った。品のよい物静かな彼の人柄に惹かれながら、私はつい、彼の前でも、仕事の話をして弱音を吐いてしまった。パクさんは、黙って私の話を聞き終わったあと、ひとこと静かに、「でも、あなたは殺されるわけではないのでしょう?」と言った。私はそのひとことにはっとして、一瞬全身に電流が流れたような衝撃を受けた。

 その当時のアメリカ留学というのは、勉強も生活も背水の陣で、ちょっと大げさに言えば、間違いなく命がけであった。しかし、殺されるわけではない。私のアルバイトにしても、考えてみれば日本のアルバイトより時給でおそらく十数倍は高く、しかもホテルの従業員として出される無料の食事も、ミルク、ジュース、卵、パン、肉類がほとんど飲み放題食べ放題である。当時の貧しかった日本では考えられないほどの豊かさであった。仕事も確かに忙しいが、疲労困憊して倒れてしまうようなものでは決してない。考え直してみれば、結構楽なのである。

 私は、決心を翻して、アルバイトを最後まで続けることにした。仕事の合間の小休憩の時間も惜しみ、床を拭いたり、窓ガラスも磨いたりして、くるくると独楽ネズミのように動き続けた。仕事は嫌ではなくなっていた。不思議なことに、ほとんど疲れも感じなかった。一生懸命に働いて、終わったら、シャワーを浴びて海岸に出る。大西洋の風が実に爽やかであった。

 鬼のように思っていたトムは、急に小言を言わなくなった。最後の日、給料の小切手を私に手渡しながら、彼は、「ショーゾー、君はよくやった」と、笑顔を見せながら初めて私をほめた。

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 大学院の最終試験は苦しかった。必死になって勉強し、終わったときには、自室のベッドの上で、「終わった、終わった・・・」と叫びながら、何度も転げ回った。結局、少しはやく、一年九カ月で大学院を終え、船でシアトル、バンクーバーを経由して帰国することになった。一九五九年三月のことである。

  シアトルには、留学の途中、船で一緒だったY君がいた。彼は三重県四日市の石油会社社長の息子である。いかにも坊ちゃんという感じで、船室の中でも恋人の写真を飾ってにやけていた。船がロサンゼルスに着き、一緒にハリウッドを見てまわった後は別れて、それ以来会っていなかった。

 彼はワシントン大学で経営学を学んでいたが、生活には随分苦労したらしい。下宿代を安くあげるために、住み込みで働いたこともある。しかし、女主人の下着まで洗濯させられたと言って、そこを飛び出した。レストランで深夜の掃除係をしていたときには、巨大なモップで床を拭こうとしても、小男の自分のほうが押し返されてしまう、と便りをくれたりした。

 帰国を間近に控えた私に、彼はシアトルで是非自分のところへ寄ってほしいと言ってきた。私は、にやけたイメージの彼に会うのはあまり気が進まなかったが、言われるままに彼のところへ行った。久しぶりに会ったとき、私は別人のように変わってしまっているY君の姿にひどく驚いた。かつての、世間知らずの坊ちゃんの面影はどこにもなかった。堂々と落ち着いていて、優しく、体つきも、ひと回りも、ふた回りも大きく見えた。

 彼は私にしみじみと言った。「大学院を終えて日本に帰れる君がうらやましい。ぼくはまだ一、二年はかかりそうだし、無事に卒業できるかどうかさえもわからない。でも、アメリカに来てよかったと思っている。ぼくは日本に帰ってももう怖いものはない。乞食をしてでも生きていける。そう四日市の両親に伝えてほしい。」

 太平洋を二週間で渡って、船は横浜に着いた。日本ではまだ、横浜から東京へ電話するのにも電話局の交換を通さなければならず、三十分も待たされたりしていた。強烈な逆のカルチャーショックが治まりかけた頃、私は機会を作って四日市のY君の家を訪れた。ご両親の前でY君のことを話し、彼の「乞食をしてでも生きていける」ということばを伝えると、Y君のお父さんは大きく頷き、じっと耳を傾けていたお母さんは、ぽろぽろと、大粒の涙を落とした。

                 (1996.9.5)