祈りへの道


   断たれなかった命

  ひとつの心象がある。
 五歳の子がいま溺れようとしている。 ところは大阪の尻無川。時は一九三五年(昭和一〇年)の夏、お盆が過ぎて、二、三日経った暑い日の夕方であった。
 尻無川の川岸には、原木が筏を組んだ形で浮かんでいて、その上に二人の男の子がいた。遊び友達で七歳と五歳。そのうちの五歳の子がいま、筏の端から川へ落ちたのである。
 二人の子供は、短い棒切れを持っていて、たまたまその筏の近くまで流れてきた長さ五〇センチほどの木舟を引き寄せようとしていた。
  「お盆流し」といっていただろうか。多くの人々がお盆の日に木の舟をあつらえ、先祖の霊供養のために、果物やお菓子を積みローソクを灯して海へ流していた。
  そのあたりは大正区の新千歳町といった。尻無川はこの町の南端を通り抜けて、まもなく大阪湾の広い海へ出る。いったん海へ出て、波にもまれ転覆したりして、空になった木の舟がよく尻無川の川岸に流れ着いていた。
  どれくらい待っていたのかはわからない。いま、その木舟の一つが、ゆらゆらと近づいてきたのである。二人の子供にとっては、それはあこがれの宝の舟であった。短い棒でばたんばたんと水を打ちながら、夢中になって、なんとかその舟を自分たちのものにしようとしていた。五歳の子の棒切れがもう少しで届きそうになった時、危険を知らぬ手はさらに先へ伸びようとする。そして、水に落ちた。
  泳ぎはまだ知らない。冷たい水の中をずぶずぶと沈んでいき、まわりには、こまかい水泡がたちこめる。子供は泣きわめきながら、手足をばたばたさせてもがいていた。口からも鼻からも水が入り込んで苦しい。
  一度沈んだ小さい体は、もがいているうちに、また浮かび上がってくる。上がってきた。手が原木の端にちょっと触れたようであったが、するりとすべって、また沈んでいった。
  一大事である。七歳の子にもそのことはわかったであろう。原木の筏にしゃがみこんで、必死に手で水をかき混ぜるようにしながら、水中の小さな体をつかもうとしていた。
  二度目に上がってきた時、もがき苦しんでいる小さな手が、七歳の子の手に一瞬ふれた。しかし、その二つの手は結ばれることなくするりとすべって、小さい体はまた水の中へ、ずぶずぶと沈んでいった。
  うす青い水、白い泡、息のできぬ苦しさ、泣き叫んでもどこへも届かぬ声。死の影が近づいていた。子供はそのまま沈んでいく。ちょっとたってまた上がってきた。三度目。もう眼界である。どう考えてもそれが最後であった。その最後のチャンスに五歳の小さな手は七歳の小さな手をはじめてしっかりととらえた・・・・・・。
  その五歳の子は私である。
  私はいま、しみじみと思う。いったい、あの時のあの危機は何であったか。


   父と私

  一九四五年(昭和二〇年)の二月、日本の太平洋戦争が末期症状を示していた頃、私は当時の日本によって植民地化されていた韓国の仁川公立中学校の一年生であった。
  卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、私は陸軍幼年学校を受験し、合格内定の通知が届いた。その直後に、私は生まれてはじめて病気になった。ある朝、急に四〇度の熱を出し、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまったのである。
  病院に運ばれるまでには、医者の往診を受けて三日くらいは家で寝ていた。高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の柔和な姿かあり、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。
  み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿。
  高熱にうなされながらも、少しは正気に返る時があるものであろうか。工場長をしていた鉄鋼会社も休み、片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は確かに言ったはずである。「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と。
  み仏なのになぜ神棚なのか。いまとなってはおかしいと思う。ただ、私はそう言ったはずである。父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのかもしれない。
  私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時たしかに思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、燦然と輝き続けた。しかし、それもまた幻覚であったのであろうか。
  入院したのはかなり大きな総合病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。
  私は病院でも高熱を出し続けたまま、意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれていったのはかすかに記憶はあるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。
  温顔で人望のあった病院長は、このままでは、希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という熱冷ましの注射薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。
  父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。
  院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく---それはとうの昔になくなっているはずだから---万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」
  そのことを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。
  その当時の仁川市は人口三〇万くらいであったろうか。薬局も全市で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。
  そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。
  父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながらある小学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、二〇年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。
  父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」
  しかし父は、そのことばにもすがりつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。
 綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。
  二月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。
  突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、最後のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・・。
  父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。
 しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。
  「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」
  私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。
  私はここでもつくづく思う。あの最後の瞬間に、父の脳裏にひらめかせたものは何か。そして、それよりも、この父が私の父であることの意味は何か。


   強いられた苛酷

  それから一四年後。私はアメリカでの留学生活を終えて、名古屋の大学で教壇に立っていた。
  最初の一年が終わろうとしていた一二月の下旬、講義中の私に用務員が、弟からの一通の電報を届けた。胃の具合がよくないとかで入院していた父が、開腹手術をしてみたら、肝臓ガンで手のつけようのない状態なのだという。すっと、目の前が暗くなった。
  父はその当時、ひとりで北海道の苫小牧市へ渡り、事業を拡大すべく全精力を注ぎ込んでいた。夏休みには、私も苫小牧へ行って、父としばらく生活をともにしている。やはりちょっと胃のあたりが変だというので、私は嫌がる父を無理やり説き伏せて市立病院へ入院させた。
  父は一〇日ほどで退院した。精密検査をしても異常はないということであった。私は安心して、名古屋へ戻ったのである。それから、たった三か月、同じ病院で、いまさら肝臓ガンで手がつけられないとは。
  父は「10万人に1人」ともいわれた人物で、私にとっては誰よりも偉く、ほとんど絶対的な存在であった。子供の時から一心に慕っていた。父がもし死ぬようなことがあれば、私も生きておれないような気がしていた。
  私はすぐ苫小牧へ行った。病院で院長からいろいろ説明をうけたが、納得できず、当時ガンの権威といわれた札幌医科大学の中川学長に来てもらって再診を請うた。結果は同じであった。望みは絶たれた。
  父のいのちは、長くても六か月、早ければ三か月と言われた。悲しみで気が動転する中を、私は父には覚られないように笑顔をみせながら、次のことを実行しようとした。

 1、名古屋の大学はやめて、苫小牧付近の大学へ就職すること。
 2、父の最大の期待であり、喜びであったはずの私の結婚をすぐにでもして、新婚の二人で少しでも父の看病に努めること。

  私は、この二つとも実行した。父の看病の合問を縫って、就職運動に奔走し、結婚の話を進めた。新しい大学への就職が決まり、形だけの結婚式を挙げた二日後に、父は逝った。
  私はいまも悲しみをもって振り返る。あのような苛酷を私に強いたもの、一体それは何であったか。


   重大な結果を招く導火線

  さらに時は流れる。
  一九八二年(昭和五七年)の秋、私はフルブライト上級研究員として、アメリカのアリゾナ大学へ赴く。私はその前、一九七三年(昭和四八年)には、文部省在外研究員としてオレゴン大学へ行っていたから、アメリカの大学での客員教授はこれで二度目であった。
  一度目のオレゴン大学の時は、家族四人が一緒であった。妻の富子と、当時小学校五年生の長男の潔典、中学一年生の長女の由香利、それに私である。
  二度目のアリゾナ大学の時には、妻と、アリゾナ大学へ編入学が決まっていた由香利が私と同行する予定であった。潔典は東京外国語大学の学生で、東京に残し、春休みにアリゾナヘ来ることにしていた。
  この一度目と二度目のアメリカ生活には極端な違いがある。一度目はすべてが順調に進み、家族は幸せであった。二度目は、すべてが順調に進まず、結果的には地獄の苦しみで幕を閉じた。
  フルブライトの審査決定がその年に限って、ぐずぐずと異常に遅れたことは、アメリカ政府の財政上の都合とかで、まあたいしたことではなかったかもしれない。しかし、いまから考えると、そのことも含めて、いろいろな暗示がすべて私に、アメリカ行きは「ノー」であることを示していた。
  まず、出発前に妻の母親が胃ガンにかかっていることがわかり、妻は同行をとりやめ、長男の潔典と東京に残った。私と由香利だけのアメリカ生活になってしまった。
  当時私は札幌に住んでいたが、住んでいた家は、妻の友人の紹介で、札幌市職員の若夫婦に留守中住んでもらうことにしていた。大学のそばに、マンションの一室を持っていたが、それは二年契約で武田薬品の社員住宅として貸した。
  東京経由でアメリカヘ出発するその日の朝、貸したマンションの住人から、「ガス風呂」のボイラーがこわれて、浴室が水浸しだという電話が入った。ボイラー自体はまだ新しかったから、故障とは考えにくい。おそらくから焚きでもしたのであろう。しかしそんなことを詮索している暇はなかった。私はボイラーを新品のものに取り替えるように工事店に電話で手配し、その代金を銀行振込みにして空港へ急いだ。
  アメリカに着いたのは九月の中旬である。アリゾナでは大学から歩いて一〇分くらいのところにある「サラトガ」という名のアパートに入った。二階建てで全部で三〇室くらいもあったろうか。
  私と由香利の部屋は一階にある。私たちの真上には、南米からの、やはりアリゾナ大学の学生が住んでいた。ある日の朝、私が大学へでかけようとしていると、突然、「ザーザーポタポタ・・・・・・」と水の激しく落ちる音がする。場所は浴室であった。浴室の天井から大量の水が漏れ、その水の勢いで天井の漆喰が溶けて流れて、大きな穴が開いてしまったのである。
  二階の風呂のお湯があふれたのであった。管理人にみてもらって、応急処置はしてもらったが、しかし、どういうものか、この水漏れは、その後も再三再四続いた。
  妻の母の胃ガンは、一二月まではもたないといわれていたが年を越し、二月の九日に亡くなった。看病疲れで妻はその後寝込んだ。はじめに一緒に渡米できず、春休みには長男と一緒にアリゾナヘ来るという予定は、再び延期された。
  あとのチャンスは夏休みしかない。しかし、夏休みのチャンスを確保するためには、私のアメリカ滞在を延ばしておかなくてはならなかった。
  アメリカと違って、日本では新学期は四月からである。その四月から本務に復帰するのであれば、半年の滞在延長を教授会に認めさせるのはそんなに難しいことではない。ただし、その場合一つだけ条件があった。私費で滞在を延長するのではなく、アメリカの大学からの給与をうけて客員教授として残るということである。
  フルブライト上級研究員の場合、アメリカの大学で給与を出してもらって滞在を延長するのはよくあることで、私も楽観していた。ところがその年に限って、アメリカの大学は、軒並みに経済不況の影響をうけて大幅な予算削減にあい、客員教授採用が厳しく制限されるようになった。
  いくら履歴書を送り、論文を送ってもうまくいかず、私は滞在延長をついにあきらめて帰国を決め、フルブライト委員会宛に帰国手続きの書類を送ることにした。
  郵便ポストは、大学へ行く途中にある。つらい思いをしながら書類をそのポストに投函し、その日はそのままアパートヘ引き返した。その間約二〇分。そのちょっとの間に、速達便が届いていた。ノース・カロライナ州立大学からの招聘状であった。私は呆然とした。
  私は先ほど投函したばかりのそのポストヘ急いで、集配人が来るのを待った。集配人が来て私は事情を話し、フルブライト宛の書類を返してほしいと言った。集配人は、規則で一応本局へ届けなければならないので、本局の方へ身分証明書を持って取りにきてほしいと答えた。やっと私は本局でその書類を取り戻した。
  これはあとになってわかることだが、このことは重大な結果を招く導火線となる。あの時、問一髪の差で私に運命の道を選ばせたもの、それは一体何か。


   運命の分かれ目

  私がノース.カロライナヘ行くことになったので、アリゾナ大学の東洋学部で親し<していたベイリー教授が、送別会を兼ねて朝食会へ招待すると言い出した。ほかにもアリゾナ大学で学位をとって別の州の大学へ就職する人が二人いたから、その人たちや友人、それにベイリー教授の家族をも含めて、出席予定者はみんなで一五名くらいはいたであろうか。
  朝食会は砂漠でやるのだという。五月の下句、私と由香利は朝六時半にベイリー教授の家へ行き、そこで三台の車に分乗して砂漠へ向かった。
  アリゾナ大学のあるツーソンの町から東へ約四〇分、そのあたりでは一番高いレモン山へ行く途中に、ベイリー教授の目指す場所はあった。灌木の中の空き地にテーブルを組み立て、持参のコーヒーとサンドイッチ、果物などで朝食を取りながらとりとめもないおしゃべりを楽しむ。
  朝早いうちは何とかしのげるが、日中の温度は、摂氏で四〇度近くに昇るので、長くはおれない。一時間くらいでそろそろ引き上げようとしていた時、近くでドーンという自動車どうしがぶつかったような音がした。
  皆で駆けっけてみると、なんと、そこには、朝食後そのへんで遊んでいたベイリー教授の長男で一五歳のショーンが、小型トラックに跳ねられ、倒れていたのである。騒然となった。
  ショーンは死んだ。朝食会に出席していた招待客の一人の所属する教会で簡素な追悼式が行なわれ、その後火葬されて、違反はショーンが好きであったレモン山に撒かれた。
  私は大きなショックを受けた。とてもこのままノース・カロライナヘ出発できるような状態ではないような気がして、ここでまた日本へ帰国すべきではないかと思い悩んだ。
  悩みながら、迷いに迷った末、やっとノース・カロライナ行きを実行した。七月一日の朝、私と由香利は小さな車に荷物をいっぱい積み込んで、とうとうツーソンをあとにしたのである。
  ノース・カロライナ州立大学は首都のローリーにある。ツーソンからローリーまで、三五〇〇キロの旅を一〇日間で終え、着いてからは、モテルに泊まりながら、アパートを自分で探した。郊外にある2LDKで、トイレも二つついている真新しいアパートに移った時、「これで、ママも潔典もよべるね」と私は由香利に言った。
  七月一四日に電話がついて、最初の電話を東京へかけた。電話に出た妻の富子に、ちょっと遅くなったけれども、これからでも来れるようなら来てはどうか、と言った。これが運命の岐路であった。私はこのことを思い出すたびに、いまも激しく胸が痛む。
  キャンセル待ちの大韓航空の航空券が八月三日になってやっと取れ、富子と潔典はその二日後に慌ただしく、ニューヨークヘ飛んできた。しかし、その大韓航空は、ついに二人を無事には日本へ帰してはくれなかった。
  短いアメリカの夏を、久しぶりに家族四人、水入らずで過ごしたあと、帰国の途についた富子と潔典は、ニューヨークから大韓航空○〇七便に乗った。そして、九月一日早朝、北海道を目の前にして、モネロン島沖で理不尽にも散らされてしまったのである。
  この残虐を私の妻と長男にもたらせたもの、一体それは何か。


   生きる道の模索

  事件に巻き込まれたあとになって考えてみると、不思議なことがいくつかある。
  ツーソンからノース・カロライナのローリーへ向かう直前、札幌の自宅に住んでもらっていたM氏から手紙が届いた。抽選で当たって、札幌市の公営住宅に入れることになったので家は出たが、留守中の管理は近くの親戚の者に依頼したという内容であった。私の帰国までは責任を持つから了承してほしいとも書いてあった。それならそれでもよかった。空き家にしておいてもどうということはない。管理をしてくれるというだけでもありがたいのである。私はそのことをほとんど気にもしないでツーソンを離れた。
  ローリーのアパートに落ち着いて、ノース・カロライナ州立大学へ出かけてみたら、ツーソンから回送されてきた手紙が一通届いていた。札幌のマンションの賃貸管理を任せていた不動産会社からのものであった。
  二年契約で武田薬品に貸していたのに、賃借人が一年経ってしかも夏の間に、自分の家を購入したということで出てしまった。現在空き家になっているが、新しい賃借人が決まるまで、鍵は預かっている、とある。私のマンションもまた、ここで空き家になったのである。
 事件が起こる数時間前、アメリカでは日本より一足早く朝を迎えていた。私の「転勤」に伴ってアリゾナ大学からノース・カロライナ州立大学に転学していた由香利と一緒に、車で大学へ出かけようとしていた時、突然、「ザーザー、ポタポタ・・・・・」と激しい水もれの音がした。あのアリゾナのアパートの時と同じ音である。
 急いで浴室へ行ってみたら、天井の壁から染み出た大量の水が、浴室いっぱいに流れ落ちていた。二階の若夫婦の奥さんが、ドタドタと階段を駈け降りてきて、風呂の水をあふれさせたのだと、ひたすら謝った。
  アメリカヘ向かって出発する時の、札幌のマンションの浴室といい、アリゾナのアパートの浴室といい、そしてこのローリーの浴室までも、なぜこのように浴室が水浸しになるのか。
  しかし、私にとって一番つらいのは、潔典が迫り来る危険を予知していたのであろうか、あの大韓航空に乗ることを、妙に不安がっていたことである。これもあとから思い出してみると、不安を示すいくつものことばがあり、言動がある。
  明るい性格ですぐれた資質を持った子であった。富子はよく、「潔典と一緒にいると、それだけでこころが和む」と言っていた。私は潔典のその明るさと、父親の私をやがて追い越して大きく伸びていくであろう学問的素質に、ひそかに全幅の信頼と期待を抱いていただけに、その潔典にはなじまない「暗い不安」を見抜くことはできなかった。私はその自分の愚かさを、血を吐くような思いで本の中に書いた(『疑惑の航跡』潮出版社、一九八五年)。
 事件が起こって由香利と私だけが取り残されたが、その苦しみをここで書き連ねるつもりはない。ただ、私は必死に、生きる道を模索してきた。
  富子の友人に、札幌在住の霊能者A女史がいる。ある時、私は苦し紛れに、藁をも掴む思いで、そのA女史を訪ねた。A女史とは、その時が初対面であった。彼女は私を見るなり「もうお出でになる頃かと思っていました」と言った。そして、自動書記で記録したという潔典からの、次のような「ことば」が伝えられた。

  ありがとう
  楽しかった
  いままでの生活が
  すべて

 私は、これがまぎれもなく潔典からのことばであることを全身全霊で感じ取った。涙がぽろぽろとこぼれた。
 その後、富子からの「ことば」も届く。

  どうか
  いつまでも悲しまないでください
  由香利に夢を
  いつも明るい希望を

  それまでの私は、霊界とか霊言についてはまったく無知であった。無明の闇の中に坤吟しながら、はじめて私は、仏典に目を向け、聖書を読み、霊界関係書にも数多く親しむようになった。三年経ち、五年が過ぎて、「日本心霊科学協会」の会員にもなった。
 今年(一九九一年)はあの事件から八年になる。四月にはロンドンに来た。ロンドン大学の客員教授として、しばらくはこちらにいることになり、先日は、ヴィクトリア駅からベルグラード・スクェアーへ行って、大英心霊協会(Spiritualist Association of Great Britain )にも会員登録をした。
  かつて、あの大阪の尻無川で溺れかかった私も、いまは還暦を過ぎている。この世で私に残された時間も、そんなに多いわけではないであろう。いくつもの「あれは何であったか」を胸に秘めて、私はいくらか焦り気味であるが、非力のままで、まだその答を何もつかみ取ってはいない。しかし、そのつかみ取るべき答は、おそらく、深い「祈り」の彼方にあるのであろう。
  私はいま、「日暮れて道遠し」の感を抱きながらも、無明の闇に幽かに射し込みはじめたかにみえる一筋の光を頼りに、こちらでもただ、とぼとぼと、祈りへの道を歩み続けていくのみである。

      (「心霊研究」 1992年 1月号所収)