アン・ターナーと私


 私がアン・ターナーに初めて会ったのは、1992年の2月、ロンドンの大英心霊協会においてである。大英心霊協会というのは、1872年の創設以来、イギリスの作家コナン・ドイルや著名な物理学者オリバー・ロツジなど、多数の名士によって支えられてきた世界的に有名な心霊研究の殿堂である。
 私は当時、ロンドンから東南へ電車で一時間ほどのロチェスターに住んでいた。ロンドン大学の客員教授として、週3日は大学へ通っていたが、その日は、講義のない日であった。大英心霊協会で霊能者の面接のために、午後、ヴィクトリア駅から歩いて大英心霊協会へ行き、二階の控え室になっているリンカーンの間で、ひとり休憩していたのである。 
 そこへ一人の中年の女性が入ってきた。ベネトンのブランド名の入った白いトレーナーシャツのようなものを着ている。私は、「あなたも面接にこられたのですか」と聞いた。すると彼女は、「いや、私はここの霊能者なのです」と言って、名刺を一枚私にくれた。それが、アン・ターナーであった。
 彼女はすぐに部屋を出ていったのだが、名刺をみると、住所がロチェスターになっている。しかも、その住所は、私の家からは歩いても15分くらいで行ける距離であった。私はその時、なんとなく因縁めいた親しみを感じて、そのアン・ターナーの名刺を大事にしまいこんだ。
 その後、私は予約していた別の霊能者の面接をうけて、霊界にいる妻や長男の情報を聞かされた。私はそれまでいろいろと勉強をしてはいたが、まだ、霊界の存在とか、死んだ妻や長男の様子が分かるということに対して、信じきれていなかった。いわば、半信半疑であった。半信半疑でありながらも、溺れるものは藁をも掴む思いで、大英心霊協会へ何度も通っていたのである。
 
 私の家族は、妻と長女の由香利、長男の潔典の四人である。私は、1982年の春から、フルブライト上級研究員としてアメリカのアリゾナ大学に行くことになり、妻とアリゾナ大学への留学が決まっていた長女の由香利が私と同行するはずであった。東京で大学生活を送っていた長男潔典は一人で東京に残ることになっていた。
 ところが、アメリカ出発前に、妻の母親が癌に冒されていることがわかって入院し、妻は予定を変更して、母親の看病のために東京に残ることになったのである。私は、長女の由香利と二人だけで一年間、アリゾナで過ごした。
 その翌年、1983年の夏には、私はノース・カロライナ州立大学へ移ることになったので、長女の由香利もノース・カロライナ州立大学へ編入学し、私は長女と二人で、大学のあるローリーの町に住んでいた。私はそこへ、夏休み中に、東京から妻と長男を呼び寄せた。私たちは久しぶりに、家族四人揃っての楽しい一か月の休暇を過ごした。
 しかし、この夏の楽しい思い出は、悲劇の結末で幕を閉じた。アメリカ時間の8月31日、帰国の途についた妻と長男を乗せた大韓航空機は、予定の航路を大きく外れてソ連領空に深く侵入し、サハリン沖でソ連機のミサイルによって撃墜されてしまったのである。
 私と由香利は、アメリカ生活を中断して、日本へ引き返した。私はしばらくは寝てばかりいた。寝ている間は、過酷な現実からいくらかでも逃避できる。目がさめれば、あわててまた眠ろうとした。悲しみと絶望の日々が何ヶ月も続いた。2年経っても、3年が過ぎても、その悲しみと絶望は消えなかった。 長年勤めていた地方の国立大学もやめ、札幌から東京に移っていた私は、無明の闇にさまよう長年の苦しみからの区切りをつけたいという思いもあって、1991年の春から、ロンドン大学の客員教授になった。
 私は一人でロンドンへ出発した。かつての4人家族は、私と由香利の2人だけの生活になっていたが、もし私が死ねば、由香利は一人で生きていかねばならなくなる。どんなに辛くとも、それはやがて現実になる。私は、その避けられない一人で生きていくことの「現実」に由香利を慣らせておく必要もあると考えていた。 
 ロンドンに着いてからは、大学での講義と原稿執筆で忙しい日々を過ごしていた。忙しくすることで、深いこころの傷を癒そうとしていたかもしれない。忙しい合間を縫って、よく旅行もした。日曜日には、家の近くの教会にも欠かさず通い、聖書の勉強もするようになっていた。
 翌年、1992年になってからは、大英心霊協会へ通い始めた。公開のデモンストレーションにでてみると、そこでは、大勢の聴衆のなかから、任意の一人一人を指名して、霊界にいる家族の消息をつたえたりしている。なかには、亡くなった家族の名前まで言い当てられて、出席者がわっと泣き出すようなこともあった。私は、徐々に、霊能者の前に1対1で座って霊界からのメッセージを受けとるこころの準備を整えていた。アン・ターナーに初めて会ったのは、そのような時であった。
 
 その年の 2月11日、私はまた大英心霊協会へ行った。この日は、前年に亡くなったばかりの私の弟・耕治の命日であった。私は、初めてアン・ターナーの時間に予約し、面接室で、1対1で彼女と向かい合った。
 彼女はまだ、私が誰であるか知らない。日本から来ていることも、ロンドン大学で客員教授をしていることも、私の家族のことも、私が一人で住んでいることも、なにも知らない。その前に、控え室のリンカーンの部屋で、会ったことは覚えていたかもしれないが、まだ、私の名前も知らない。その彼女の前に私は黙って座った。
 彼女は、しばらくお祈りをした後、私にはなにも訊こうとはせず一人で話し始めた。そして、「奇跡」が起こった。霊界にいる長男の潔典と「再会」することができたのである。何度も足を運んで、霊界からのことばにもいくらかは慣れていたとはいえ、この「再会」は私にとっては大変なことであった。
 その時の様子を、私は強い感動と感謝の気持ちのなかで、すぐに東京にいた長女へ知らせたが、その時の手紙に、私は次のように書いた。これはもちろん、公開することなどは全く予想もしていなかったので、私ごとの羅列になってしまうが、ありのままを伝えるために、あえてそのまま、一部を引用させていただく。

  2月11日の耕治叔父さんの命日には、、札幌では英子叔母さんの親戚の人たちが10人くらい集まってくれたらしい。有り難いことだと思っている。お父さんもこちらで、日本時間に合わせてお供えをし、こちらの11日には、ロンドンの大英心霊協会へ行った。いままで何度も、大勢のなかでの公開実験に参加して、お父さん自身が霊界からの通信を受ける場合の準備をしてきたが、近頃は、一人で霊能者の前に座って、1対1で直接話を聴くようになつている。
  11日は耕治叔父さんの命日でもあるので、かねてから、この日を予約していた。霊能者は、まずママと潔典が霊界にいることを見抜いた。それから、「あなたの弟さんも霊界にいますね」と言った。その霊能者アン・ターナーによれば、霊界でも耕治叔父さんの「記念日」にお父さんが大英心霊協会に来て神妙に座っているというので、みんなが集まっていたらしい。
 耕治叔父さんは、すぐに出てきて、お父さんの横に立っていたようだ。そして、潔典が出てきた。潔典はお父さんの前に立って、非常に感動している様子だと、アン・ター ナーが言っていた。
  お父さんは、この霊能者のアン・ターナーに大英心霊協会で初めて会って、その前に黙って座っているだけで、アン・ターナーはお父さんのことは何も知らない。日本から来ていることも、事件のことも、家族のことも、彼女には一切言っていない。
  アン・ターナーは、「あなたの前に立っているのはあなたの息子さんで、身長は5フィート8インチ(173 センチ)ぐらい、聡明な顔つきに見える」と言う。潔典の身長はそのくらいだろう。しかし、それだけではまだよくわからないから、お父さんは黙っていた。
  アン・ターナーは、また言った。「息子さんが、自分の名前は、キュオーニとかクヨーニだと名乗っている」。そして、何度か、「キューオーニ」「キヨーニ、クヨーニ」と独り言を言うようにつぶやいた。お父さんは、はっとした。これは潔典だ。潔典に違いない。ほかの名前ならこのように聞こえるはずがない。しかし、それでも念のために次のように聞いた。
  「それは英語の名前か?」
  「そうではない、外国語の発音で私にはよくわからないがそのように聞き取れるのだ」
  潔典(きよのり)という発音は、たしかに日本語になれていない英米人には聞き取りにくい。これを一度開いて、正確にくり返すことの出来る英米人はほとんどいないだろう。そこでお父さんは、思い切って訊いてみた。
  「その発音は、『キヨノリ』とは違うか?」
  彼女は答えた。
  「そうだ、キヨノリだ。キヨノリと言っている」

  長男の潔典の名前をこのように言われたことは、私にとっては大変なことであった。私は、娘にはあまり強い刺激にならぬように、意図的に、できるだけ感情を込めずに淡々とこの手紙を書いたつもりであったが、実際には、私の心の中は激しく揺れ動いていた。事件後、長い年月、何年も何年も苦しみ続けてきて、いま初めて、一つの大きな山を越えようとしている。そのような思いが激しくこころを揺さぶっていたのである。
 この手紙はまだ続いている。もう少し、引用させていただきたい。

  また、アン・ターナーはつぎのようにも言った。
  「息子さんは、あなたの左足にscar(傷跡)があると言っている」
  お父さんは、このへんでかなり緊張していた。言っていることはよくわかっていたが、左足には傷跡は ない。だから「私の左足には傷跡はない」と、率直に答えた。なぜそんなことを言うのだろうと、不審に も思った。
  しかし、アン・ターナーは怯まなかった。「それは古い傷跡で、もう消えかかっているのかもしれない。 必ずあるはずだから探して見よ」と言う。いくらそう言われても、自分のことは自分が一番よく知ってい る。無いものは無い、とお父さんは思った。そこでちょっと失望して、その日の面接は終わった。
  そのあと、家へ帰るためにヴイクトリア駅の方へゆっくり歩きながら、突然はっとして立ち止まってしまった。
  アン・ターナーの「scar」ということばで、お父さんはつい、刃物の傷跡のようなものを連想してしまったのだが、やけどの跡も「scar」ではないか。それならお父さんには、子供の時に、湯たんぼでやけど した傷跡が大きくいまもはつきりと残っている。それを知っている者は、潔典を含めて家族しかいない。 ただひとつ、違っているのは、そのやけどの傷跡は、左足ではなく、右足だ。しかしこれも、前に立って いた潔典からは、お父さんの右足は、左足になる。
  潔典は、やはりあの時、お父さんの前に立っていた。自分の名前を告げ、お父さんの足の傷跡を言い当 てることで、それが間違いなく潔典であることを一生懸命にお父さんに訴えようとしていたのだ、深い感動を顔に表しながら。お父さんがやっとここまで来てくれたことを、そして、潔典やママが「本当にまだ生きている」のだということを、お父さんが理解し始めたのが嬉しかったのだろう。
  事件後まだ札幌にいたとき、青木さんを通じての霊言で、潔典から「.....何時までも元気がない。お父さんは何でも出来る人ではないか」と言われたことがある。そのお父さんがいまやっと、少しずつ立ち直ってきた。何よりも、潔輿やママが元気で生きていることがわかって、あのように潔典やママたちの前に座るようになつた。これからは、もっともっと対話ができるようになる。そう思って潔典は感動していたのであろう。お父さんも感動していた。

 私のことは何も知らない初対面のイギリス人から、ひとことも私や家族のことは話していないのに、妻や長男が霊界にいて、長男の名前から私の足の傷跡のことまで告げられる、というようなことは、普通ではあり得ないことであろう。そんなことがあれば、それは奇跡としか思えないが、その「奇跡」が現実に私に起こったのである。1992年2月11日は、私にとって忘れることの出来ない記念の日になった。
 3日後、私は予約をとってまた大英心霊協会を訪れ、アン・ターナーに会った。2月11日の「奇跡」があまりにも不思議で、もう一度、冷静な目で確かめてみたかったからである。
 はじめは、黙って座りながら、アン・ターナーの話を聞いていた。亡くなった弟が出てきて、「いろいろと困難な状況を残してきて申し訳ない」と言っている、という。それから、「子供3人のことなど、家族の面倒をみてもらって感謝している」とも、伝えられた。この状況はだいたいその通りで間違ってはいない。 しばらく黙って訊いていたが、私は口を開いて、「質問してもいいか?」と言った。そして次のように訊いてみた。
 「3日前、私の左足に傷跡があるというのは、間違いではなかった。あれを言ったのは誰か?」
 「あなたの父親だ.....」
とアン・ターナーは言ったが、ちょっと瞑想した後、
 「いや違う、あなたの息子だ」
 と言い直した。父も、私の足の傷跡については知っていたから、霊界の父が言ったとしても、不思議ではない。しかし、あれは潔典のことばであった。私は真剣になって、言った。
 「息子は、いまここに来ているか?」
 「来ている。あなたの奥さんも、ほかの家族も来ている」
 私は、つぎに言った。
 「息子は英語が話せる。霊界へ行ったのは何時か、訊いてみて欲しい」

 これはちょっと意地の悪い質問ということになるのかもしれない。アン・ターナーには、まだ事件や家族のことなどは一切言っていないのだから、通常なら、これは答えられない質問である。あてずっぽうに言ってみても、1983年という年があたるものではない。
 しかし、アン・ターナーはちょっと間をおいて、答えた。
 「1983年.....これは特別の年だ。思い当たることがあるか?」
 その後、アン・ターナーは続けた。
 「乗り物が見える...速いスピードで動いている....それが突然破壊された....彼は、それが突然であったので、混乱した....起こるはずのないことが起こって、事態がよく理解できなかった.....混乱のあと、自分の体が見えた.....」

 その自分の体の状態も述べられているが、それをここに書くのはひかえたい。最後には、「....しかし、いまは何の不安もなく、楽しく暮らしている。たいへん幸せだ、お母さんも家族もみんなまわりにいる.....」というようなことで、その日の話も終わった。私は、これらの話が、まぎれもなく潔典からのものであることを確信した。
 その後、 潔典とは、何度か「会い」、2月24日の妻の誕生日には、妻とも「会う」ことができた。そして、日本へ帰国してからも、毎年6月5日の潔典の誕生日には、アン・ターナーを通じて、潔典と文通も続けてきた。それはもう10年にもなる。私には、このような妻と長男との「対話」がいまも、生きていくうえでの強いこころの支えになっている。

   (2003年4月4日)