[参考資料 60]  (2019.10.20)


         生と死の真実を求めて
          
肉体は滅びても人は生き続ける




     目    

    はじめに ・・・・・
  一  大いなる力に導かれて生きる ・・・・・
  二  霊的真理に目覚めるまでの長い道のり ・・・・・
  三  後に遺していくもの ー ホームページ「ともしび」について ・・・・・
  四  89歳の感慨 ・・・・・
     1.89歳の誕生日を迎えて ・・・・・
     2.自分に起こっていることはすべて良いことである ・・・・・
    おわりに ・・・・・






は じ め に  ー 死の恐怖を克服する


 江戸時代の禅僧であった仙厓義梵(せんがい ぎぼん、1750ー1837)は、88歳で遷化するまでに多くの洒脱・飄逸な禅画を描いた画家としても著名である。綾瀬凛太郎『仏教の名言100』(学研新書)によれば、その義梵が死ぬ前に、「来時来処を知る 去時去処を知る 懸厓に手を徹せず 雲深くして処を知らず」という遺偈(ゆいげ)を残した。
 遺偈とは、禅僧が死ぬまぎわにその境地を詩や歌の形で書き表したものである。この本の著者は、この遺偈の意味を、「その先は知らないが人はいつか死ぬ。それでいい」と意訳している。しかし、義梵の最期のことばは、「死にとうない、死にとうない」であった。これを聞いた弟子たちは、このことばには、きっと深い真意が隠されているのだろうと思って重ねて聞き返した。ところが義梵は、「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言って、果ててしまったのだという。
 室町時代の一休宗純(1394ー1481)にも、同様の話が伝えられているが、死を達観していると思われる禅僧でさえこういうこともあるのだから、一般の人々にとっては、死の恐怖はなおさらのことである。試みに、インターネットで調べてみると、数多くの人々が死に対する恐怖を訴えているのが目につく。たとえば、そのうちの一つ、匿名のある投稿者は、こう書いている。

 「自分が自分じゃなくなってしまうのを考えると、心臓が破裂しそうになる。 今までの日常生活が、日常生活じゃなくなってしまう。 怖いです。日々、死に近づいているのを考えると、イヤだ。逃げたい。でも逃げられない。だからいっそ死んだほうがましだとも思う。でも死ぬのは怖い。どうすればいいのか、わからなくなる。ここ毎日、そればかり考えて、苦しい。誰か助けて欲しい。」

 こういう死に対する恐怖心は多くの人々がもっていると思われるが、どうすればそこから抜け出せるのであろうか。
 浄土真宗の中興の祖といわれている蓮如上人(1415ー1499)は、人間は誰でも死ぬべき存在であることを、『御文章』のなかで、「自分が先か、他人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人は後になり先になったりして絶え間なく死んでいくものです。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうのです」(現代文訳)と書いている。
 そして、人が死んでいくのは老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである、と信仰の大切さを説いた。「誰か助けて欲しい」というこの投書の主の切実な叫びには、このような信仰も、ひとつの答えになるかもしれない。
 しかし、やはり、何よりも直截に強く心に響くのは、3千年前にこの地上に生きたという古代霊シルバー・バーチのことばであろう。例えば、この古代霊は、「地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません」と言っている。(『シルバー・バーチの霊訓(8)』潮文社、p.62 以下、『霊訓』と略記する)
 このようなことば一つをとってみても、死の真実を知らずに苦しんでいる人には大きな救いになるのではないか。

 死の真実については、極めて貴重で重大な教えが、シルバー・バーチの霊訓の中には数多く含まれている。人々は、死を忌み嫌い、恐れて、ひたすらに長生きすることを願うが、長生きをすること自体も、実は、それほど大切なことではない。永遠の生命がわかれば、無数に繰り返される人生の一齣で、20年だけ地上に生きても、或いは100年を生きたとしても、その差は限りなくゼロに等しいからである。
 シルバー・バーチは、「地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ決められています」という。(『霊訓(8)』p.61)「あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」とも言っている。(『霊訓(8)』p.71)
 このことについては本文でも触れるが、寿命を自ら選択しながら、その長短を気にするのはいささか滑稽であるかもしれない。だから私たちは、死の恐怖に怯えたり、長寿をひたすら願ったりするよりは、この世での生と死の学びと霊性向上にもっと心を向けるべきなのであろう。
 私自身がかつてはそうであったように、いのちの真実に無知であることは苦しい。1983年9月1日に米ソの熾烈な対立の中で起こった大韓航空機事件は、「世界史の転換点」といわれたりしたが、私はこの事件で、妻と長男を亡くした。その後は、何年もの間、無明の闇の中で悲しみ苦しんだ。しかし、やがてそれを私なりに克服できるようになったのは、「人は死なない」という霊的真理によってである。
 この意味でも、大韓航空機事件は、私の人生にとっても大きな転換点になったが、それは、日米両政府の人的交流計画によるフルブライト奨学制度の試験に私が応募したことから始まっている。その経緯を改めて辿り直していくために、この小著も、「フルブライト」への応募の時点から書き始めることにしたい。






    一.大いなる力に導かれて生きる

            どういうわけか、苦しい、悲しいことが続いた。
                     幾年を経て、それが深い意味をもつことを知った。



 「フルブライト」受験

 1982年(昭和57年)2月8日(月)の早朝に発生した東京・千代田区赤坂見附のホテル・ニュージャパンの火災は、死者33名、負傷者34名を出す大惨事となった。
 当時、小樽商科大学に在職して札幌に住んでいた私は、その日の夕方、空路で羽田に着いて東京に滞在していた。翌日のフルブライト上級研究員の最終口頭試験に臨むためであった。
 試験会場の山王ビルディングは、そのホテル・ニュージャパンに隣接していた。私がかつて通っていた東京都立第一高等学校(現・日比谷高校)は、その裏側の丘の上にあったので、この辺の地理に私は詳しかった。
 久しぶりに現地を訪れた時、ホテル・ニュージャパンは前日の火災の惨状をまだそのまま残していた。黒こげになったホテルの窓のいくつかからは、宿泊客が脱出を試みたと思われるシーツを繋ぎ合わせてロープ状にしたものが何本も汚れた壁に垂れ下がったままになっていた。私は不吉な影を追い払うようにして、フルブライトの試験場に入った。
 口頭試験は、フルブライト委員会のヤング事務局長を含めた3人の試験官を前にして英語で行なわれた。

 私はその頃、ドイツ・ハイデルベルグの応用言語学会機関誌「International Review of Applied Linguistics in Language Teaching」(IRAL) に掲載されることになった「Cultural Implications of Language Contrasts between Japanese and English」(日英語の言語比較と文化的意味)という論文を書いていて、そのコピーも審査資料の一部として委員会には提出していた。
 その論文を中心にしていろいろと質問され、30分ほどで口頭試験は終わった。3人の試験官たちの反応は悪くはなかったようなので、私はもしかしたら合格するかもしれないと思った。私はその翌日、札幌へ引き返した。
 フルブライトの書類審査は前年の秋から始まっていた。その時の口頭試験は予備審査を通過したあとの最終段階で、その合否については、まもなく通知がくると思われた。通常は最終段階の口頭試験から1か月もかからないことを私は聞いていた。しかしその年に限って、合否の通知は、1か月過ぎても2か月経っても来なかった。
 大学で教えている場合、1年も海外へ出かけるような長期出張には、当然ながら留守中の授業担当者を非常勤で手当てするなどの措置が必要になるから、少なくとも4、5か月程度の余裕をもって人事委員会に申請しなければならない。
 5月に入って、もうこれ以上は待てないから、大学に迷惑をかけないためにも、フルブライトへは辞退の連絡をしなければならないのではないかと考え始めたころ、やっと、「上級研究員」決定の通知が届いた。後でわかったことだが、アメリカの不景気による政府の財政難で、その年に限って、予算決定が大幅に遅れたからであったらしい。

 私は9月中旬に、1983年9月14日までの1年間の予定でアメリカのアリゾナ大学へ向かうことになった。妻とアリゾナ大学への編入学が決まった長女が同行し、東京外国語大学在学中の長男は東京に残る予定であった。
 ところがその後、当時、東京・荻窪の実家に住んでいた妻の母親が胃がんに冒されていることがわかって、妻は急遽、渡米を取りやめ、看病のために東京に残ることになった。私と長女だけが渡米して、アリゾナのツーソンに住み始めた。
 妻の母親・山本雪香はその年は持ち越したが、翌年、1983年の2月に亡くなった。母親に付き添って看病に明け暮れていた妻は、悲しみと過労で、葬儀のあと寝込んでしまった。
 長男の潔典(きよのり)は、はじめの予定では、1982年9月に私と妻が長女と渡米した後は、翌年3月からの春休みに、アリゾナへ来て家族と合流することにしていた。それが私たち家族にとっては2度目のアメリカ生活になるはずであった。
 その9年前、1973年の暮れから1975年の初めにかけて、私は文部省在外研究員としてアメリカのオレゴン州に滞在したが、その時は家族4人が一緒であった。長男と長女は、現地の小学校、中学校へ通い、夏休みにはアメリカとヨーロッパの旅を続けるなどの楽しい思い出があった。私はそれが子供たちに対する最良の教育になると思っていた。
 1983年の春休みに長男が来れば、またアリゾナのツーソンで家族水入らずのアメリカ生活ができることになる。私は今度も子供たちには貴重な教育の機会が得られると期待していた。潔典には、アリゾナ大学での言語学講義の聴講も用意していた。しかしそれも、妻の母親の葬儀と、その後の妻の体調不良で、妻と長男の渡米は諦めなければならなかったのである。



 滞在期間の延長を考える

 次のチャンスは、夏休みしかない。しかし、夏休みをアメリカで過ごすためには、私のフルブライト上級研究員の滞在期間を少なくともあと半年は延長する必要があった。
 フルブライトの上級研究員の場合、通常であれば、滞在期間を半年でも1年でも延長するのはあまり困難ではない。1年後の9月以降、どこかの大学で研究を続けるか教えるかして、公的に、給与を受け取る形を整えればよいことになっていた。
 私は妻と長男の春休みの渡米が困難になった時点で、私の研究分野に沿うような教育・研究担当者の公募があれば応募することを考えるようになった。アメリカは大学の数も多いし、「フルブライト」にはそれなりの権威が認められていたから、私は何とかなるのではないかと思っていた。
 しかし、現実は予想外に厳しかった。その年に限って、アメリカの大学は、私の居たアリゾナ大学を含めて、軒並みにあまり前例のない大幅な予算削減に苦しんでいたからである。アリゾナ大学卒業生の就職も「最悪の状況」といわれていた。
 その年のアメリカ社会は、大変な不況で、失業率も1930年の大恐慌以来の11パーセント近くになっていた。失業率2パーセント台であった好景気の日本では想像もつかない深刻さであった。
 私が住んでいたツーソンでも、市役所で清掃夫を12名募集したら、750人の応募者が早朝から長蛇の列で並んだという。ある石油会社の見習い工数十人の募集には、応募者は、前日から徹夜で並んだ人を含めて3千人にふくれあがったという新聞記事もあった。アメリカ各地の大学の教員、研究員の公募も極端に数は減っていたが、それだけに就職競争も激しかったかもしれない。

 その当時、1982年の日本では、経済の高度成長を経て安定成長期にあり、バブル景気の余波はまだ続いていた。 日本の自動車生産も1980年には米国を抜いて世界一になっていた。その影響を受けたアメリカの自動車産業は深刻な不況に悩み、「日本憎し」の声が全米に広がっていた。アリゾナ大学のキャンパスでも、日本製の新しい自動車1台を叩き壊して土中に埋めるという反日イベントが行われたりした。
 しかし、その一方では、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as Number One : Lessons for America)が、アメリカでベストセラーになっていた。アメリカの大学でも日本語や日本文化に関する関心が高まって、受講生も増える傾向にあった。だから不況の中でもこの分野での教員の公募には、僅かに期待がもてるのではないかと思われた。



  二つの選択肢

 そんな折に、12月中旬、カリフォルニア州モントレーのアメリカ海軍語学学校から、私が所属していたアリゾナ大学言語学部に、日本語講師公募の書類が送られてきた。 海軍語学学校というのは、後に日本文学研究の大家として知られるようになったドナルド・キーンさんが学んだ学校で、英才教育で有名である。
 私はここの外国語教育には関心があった。軍隊は好きではないが、この学校独特の外国語教授法の実態を知りたいと思ってきた。
 印欧系言語相互のなかでの外国語教育の研究は、日本の英語教育にはあまり参考にはならない。アルタイ系ともいわれたりするが世界で孤立している日本語と印欧系の英語は、互いにきわめて異質であるから、日本語から入る英語教育で参考になるとすれば、英語から入る日本語教育である。そのような観点から、私はいくつかの論文も書いてきた。
 私はアメリカ海軍語学学校の教員公募に応募することにした。これが無事に通って翌年9月からカリフォルニアへ移ることになれば、家族との再会もカリフォルニアにすればいいと考えたりもした。
 私は、履歴書、研究業績一覧表、推薦書などと共に、要求されていた英文のエッセイと日本語のエッセイを新しく書いた。与えられたテーマについて、英語と日本語でそれぞれに口頭で録音テープに吹き込むという作業も済ませた。12月29日に応募書類とテープをアメリカ海軍語学学校へ送った。
 念のために、アリゾナ大学言語学部の掲示板に貼り出されていた「日本語・日本文化」担当教員の公募書類のうち、マサチューセッツ大学、プリンストン大学、ノースカロライナ州立大学にも、同様の応募書類を発送した。応募書類の作成で明け暮れしているうちに、何時の間にか、アリゾナの砂漠の町での1982年は過ぎていった。

 翌年の1983年3月25日から 3日間、サンフランシスコのヒルトンホテルで言語学会が開かれた。言語学、外国語教育の研究者が全米から集まることになっていて、アリゾナ大学からも十数人の教授、助教授、大学院学生と共に私も参加した。
 アリゾナのツーソン空港からロサンゼルスを経由して約1千3百キロを飛んで10時過ぎにサンフランシスコに着き、学会会場のヒルトンホテルへ向かった。
 アメリカでは、学会は求人の場合の候補者選考の場にもなっていた。研究発表のプログラムが終わると、別室に設けられたPlacement Service(就職斡旋)の部屋で、教員を公募している幾つかの大学が机を並べて、求職中の教員、就職を希望する大学院学生たちと面談することになっていた。
 学会2日目の午後、私はここでノースカロライナ州立大学のK教授に会った。K教授は前年の暮れに私の応募書類を見た段階で、採用に強い意欲を示していた。この時の面談でも、4月中旬には採用が正式に決定できるだろうと言った。
 アメリカ海軍語学学校からもポジティブな反応が続いていた。1月下旬以降、私のパスポートとビザの写しを求めてきたり、私の1974年からのオレゴン大学客員教授時代の勤務内容についての照会があったりした。そして、4月1日には、Notice of Rating(資格査定通知)を送ってきた。アメリカ海軍語学学校独特の査定で、総合点数 99点、「一級インストラクター(GS-7)」という書類と共に「GS-7」に対応する高額の俸給表なども同封されていた。
 しかし、任用予定については何も触れていなかった。電話でそのことを問い合わせると、予算の決定があり次第、任用については追って知らせるというような返事であった。ここでもまた「予算」であった。私は滞在期間延長を在籍中の小樽商科大学へ申請するかしないかの決断を迫られていたので、少し考えて、5月末までにアメリカ海軍語学学校の任用が決定されなければ、赴任することはできない、と手紙を出した。
 それまでに、応募書類を送っていたマサチューセッツ大学からは、1年間だけの短期任用は受け入れられないという返事があり、プリンストン大学からは、求人の対象は教授クラスではなく若手の大学講師クラスに絞っているという返事を受けていた。4月初めの時点で、滞在期間1年延長のための就職可能性が残されていたのは、アメリカ海軍語学学校とノースカロライナ州立大学の 2つだけになった。
 ところが、そのノースカロライナ州立大学のK教授から4月中旬に手紙がきて、任用決定が少し遅れるかもしれないといってきた。さらにその後電話がきて、遠慮がちに、フルタイムで駄目の場合、パートタイムでも教えてもらえるかと聞いてきた。やはり予算削減で苦しんでいるようであった。
 パートタイムで週6時間教えて、給料はフルタイムの半分になるのだという。私はパートタイムでもいいから任用を決定してくれればそれに従うと答えた。給料の多寡よりも、滞在延長手続きのためには、任命決定書を早く小樽商科大学の人事委員会に提出する必要があった。

 その年のアリゾナ大学の講義は、5月初めにすべて終わって、5月6日からは期末試験であった。長女の場合は、5月12日の人類学の試験が最後で、翌日からは夏休みに入る。5月30日からは、フルブライトの年次大会が予定されていた。アメリカ全土に散らばっている各国のフルブライト研究員たちが呼び集められ、一堂に会して総会と研究分野別の研究会に出席するのである。
 たまたま年次大会の会場は、ノースカロライナ大学(University of North Carolina)の所在地チャペルヒルであった。通常、各州には2つの代表的な州立大学があって、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)のほうは首都のローリーにある。私はこの年次集会に出席している間に、ローリーへ行って、ノースカロライナ州立大学のK教授にも会うことになっていた。
 そのノースカロライナ州立大学の任用は、5月の20日が過ぎてもまだ決定の連絡はなかった。アメリカ海軍語学学校からも、任用決定通知はまだ届いていなかった。これでは小樽商科大学への手続きができない。私は悩みながら、滞在延長は取りやめて帰国することも考えるようになっていた。いずれにせよ、私のアリゾナでの生活はまもなく終わろうとしていた。



 砂漠の中での送別会

 その頃、アリゾナ大学で私の世話役になってくれていたベイリー教授から、砂漠の中での朝食会に招待された。私の親しい友人で牧師のウエンガーさんが日本文化研究で博士号をとって、カリフォルニアの大学への就職が決まっていた。そのウエンガーさんや私に対する送別会のつもりであったようである。5月28日の土曜日、午前6時半に、私と長女は車でベイリー教授の家に着いた。
 ベイリー教授一家4人、ウエンガーさんの家族4人、それにアリゾナ大学で博士課程にいる日本人留学生3名を含めて、総勢13名が3台の車に分乗して砂漠へ向かった。町の中心部から東へ約40分、ツーソンでは一番高いレモン山へ行く途中に、ベイリー教授の目指す場所があった。
 灌木の中の空き地にテーブルを組み立て、持参のコーヒー、サンドイッチ、果物などで朝食をとりながら、とりとめのないおしゃべりを楽しんだ。
 朝早いうちは何とかしのげるが、日中の気温は摂氏で40度近くに上がるので、長く居ることはできない。1時間半ほど過ぎて、そろそろ引きあげようとしていた時、近くの灌木の陰でドーンという車がぶつかったような音がした。皆でかけつけてみると、なんとそこには、朝食後その辺で遊んでいたベイリー教授の長男で15歳のショーンが、小型トラックにはねられて倒れていたのである。
 騒然となった。救急車を呼んでショーンを病院へ運んだが、ショーンは死んだ。私は大きなショックを受けた。上級研究員に課せられたフルブライトの年次大会に出なければならなかったが、旅行どころではないような気がしていた。

 私は鉛を飲み込んだような重い体と気持ちを引きずったまま、次の日の夜、深夜便でツーソンからフェニックスを経由してノースカロライナのローリー・ダーラム空港へ向かった。3千2百キロの空の旅を私はぐったりして殆ど眠ったまま過ごした。
 チャペルヒルでは、会場のホテル・ヨーロッパで5月31日の晩さん会から年次大会は始まった。世界各国から選ばれて集まっている百数十人の研究員たちは、ホテルの部屋を割り当てられ、翌日から、午前、午後、夜間の3回に分けて、いくつかの研究発表や分科会が開かれた。
 世界の人種問題、教育問題、経済問題、文化の違いと国際交流、世界情勢のなかのアメリカの役割、研究者、ジャーナリストの使命等々熱心な発表と討論が続いたが、私にはまだ、ショーンの突然の死の後遺症が強く残っていて、会場の雰囲気になじめず上の空であった。発言するのも苦しかった。
 2日目は、午前中にチャペルヒルの街とノースカロライナ大学を見学して、午後は研究会と討論、3日目も午前中はデューク大学を見学して、午後の総会で年次大会は終わった。私はノースカロライナ州立大学のK教授に迎えられて、40キロ離れたローリーに移り、その夜はK教授の自宅で、日本食の夕食をご馳走になった。
 私の任命については、学内の処理はすべて終わっていて、大学財務部の予算決定を待っている段階だという。K教授は、フルブライト教授をパートタイムで来てもらうのは申し訳ないといいながら、手続きが遅れてしまっていることを何度も私に詫びた。来週にも決定は降りるはずだから、私たちのアパート探しも心がけておくとも言った。

 次の日の午後、私は泊まっていたローリーのヒルトンホテルで、フルブライト年次大会に出席していた東北学院大学の鈴木教授とたまたま出会った。鈴木さんは図書館学の専門家でノースカロライナ州立大学図書館を午前中訪れていたという。私は鈴木さんに誘われて、午後の時間を一緒にすごした。Raleigh Little Theater(ローリー小劇場)へ行き、ミュージカル「Southern Pacific」(南太平洋)を観た。
 私はミュージカルを楽しめる気分ではなかった。辛い気持ちを抑えていた。たまたま隣に座っていた中年の女性のしとやかな優しい表情とちょっとひと言ふた言交わした時のことばの柔らかな響きに、僅かにこころが癒されているような気がしていた。
 劇場を出てからは、ダウンタウンで日本風の居酒屋の店を見つけて夕食をとり、その後はヒルトンホテルへ帰って、鈴木さんの部屋で深夜の12時近くまで缶ビールを何本も飲みながら話し込んだ。
 少し酔いがまわってきたせいもあったかもしれない。私は苦しい胸の内を曝け出して、鈴木さんにツーソンでのショーンの死の話をした。いま滞在延長の予定が思い通りに進んでいないこともあって、延長はしないで帰国するかどうか迷っているところだと言った。
 その時、鈴木さんは、「実は・・・・」と、自分の息子さんの話をした。その前年の春、そのショーンと同じ15歳の長男が、小児がんで亡くなったのだという。
 亡くなる一週間前には病院から仙台の自宅へ移っていたが、夜中に長男が声を殺して泣いている様子が病室の外へ伝わってきて悲しかったと鈴木さんは打ち明けた。9月に日本へ帰っても、位牌の前に座るのが辛いとも言った。
 私はここでも、彼の息子さんの死が他人事ではないような気がして、暗く沈みこんだ。ふらふらと深夜の自室に戻り、ベッドの上に倒れるようにして眠った。



 ノースカロライナへの道

 ローリーからツーソンに帰ってから1週間が過ぎても、ノースカロライナ州立大学の任用通知書は届かなかった。私はやっと決心して、滞在延長は取りやめることにした。私のフルブライトの滞在期限は9月14日となっていたが、それまでに帰国することをフルブライト委員会に伝える手紙を書いた。規定による帰国旅費の支給申請書も作り、6月15日の朝、近くのポストに投函した。
 辛い気持ちで何もする気がおこらず、その時はそのままアパートへ引き返した。その、ほんの20分ほどの留守の間に、ノースカロライナ州立大学からの速達便が届いていた。任用通知書であった。私は呆然となった。
 しばらく苦しみながら考えた後、私はノースカロライナへ赴任することにした。先ほどフルブライトへの書類を投函したばかりのポストの前で1時間以上も待って、やがて現れた郵便物集配人に事情を話し、私の手紙を取り戻したいと言った。集配人は、規則でここでは返却できないので、郵便局本局へ身分証明書を持参して受け取りに行ってほしい、と答えた。
 翌日、私は言われたように郵便局の本局へ行って、フルブライト宛の書類を取り戻した。そしてアパートへ帰ってみると、今度は、アメリカ海軍語学学校からの手紙が届いていた。予算措置ができて、これから任用手続きを始めるからもう少し待ってもらいたい、というのである。
 手続きを始めるのはいいが、それでまた少し待てといわれても、私にはもう待つ余裕はない。私は、アメリカ海軍語学学校のほうは無視することにした。

 7月1日、車に荷物をいっぱい積みこんで、私と長女はツーソンを後にした。アリゾナのツーソンからノースカロライナのローリーまで、直線距離は約3千キロだが、その間に、車では、ニューメキシコ、テキサス、アーカンソー、テネシー州などを通過して行かねばならない。途中、名所旧跡などに立ち寄りながら、私たちの車は 3千4百キロを走って、10日目の7月10日、ローリーの近くまでたどり着いた。
 翌日には、大学から北へ30キロほどの2LDKで90平方メートルくらいのアパートを自分で探して契約した。7月12日に引っ越しをして、14日に電話がついたので、東京の留守宅へ電話した。妻の富子に、これからでもこちらへ来られるようであれば来てはどうか、と言った。(アリゾナに着いて以来のツーソンでの生活、ローリーへの旅については、拙著『アメリカ光と影の旅』第2章「忍びよる暗い影」に詳しく書いている)
 私からの電話を受けて、東京では、ニューヨーク行きの航空券を手に入れるために八方手を尽くしたらしい。しかし急のことで、どこの航空会社の予約も取れなかった。キャンセル待ちの大韓航空の航空券でそれもソウル経由のものが8月3日になってやっと取れ、妻の富子と長男の潔典は、その2日後に慌ただしくニューヨークへ飛んできた。
 私と長女は、その前日にローリーを車で出発して、アメリカ時間の8月5日午後9時過ぎ、ケネディ国際空港で富子と潔典との1年ぶりの再会を果たした。



 再会のあとの別離の悲劇

 それから25日間、私たちはまた家族4人になって、かつてオレゴンに住んでいた時にそうしたように、車で東部諸州やノースカロライナ州の周辺を旅してまわった。(このことについても、拙著『アメリカ光と影の旅』第3章「うち砕かれた夢」に詳しく書いている)
 そして、8月30日の朝、思い出深いアメリカ2度目の滞在を終えて、富子と潔典は帰国の途についた。ローリー・ダーラム空港からフィラデルフィア経由でケネディ空港へ飛び、そこで大韓航空機に乗ったのである。しかし、その大韓航空007便は、遂に富子と潔典を無事に日本へ帰してはくれなかった。(事件発生以降のことは、拙著『疑惑の航跡』第1章「慟哭」などに詳述している)

 いまもはっきり覚えているが、潔典は迫りくる危機を予感していたようである。帰国を二、三日後に控えた日の昼下がり、その日は外部の気温がことのほか高く、私たちはみんな冷房の利いた家の中にひきこもっていた。私は寝室で寝転んで本を読んでいた。
 潔典はアパートの裏にあるひょうたん型のきれいなプールでひと泳ぎして帰ってきて、向かいの寝室にいるはずであった。静かで物音がしないので、私は潔典が勉強でもしているのかと思った。彼はこのアパートにいる間も、時々姉の机に向かってはギリシア語文法の本を読んでいた。
 私はお茶でも飲もうと思って立ち上がり、部屋を出ようとしてドアのところまで行った。向かい合った潔典の居る部屋は開け放たれていて、潔典がベッドの上に横になっていた。こちらを向いていた。その姿がちらっと私の眼の中に入ったのだが、その時、不意にわけもなく、一つの気配を感じたのである。(潔典が怯えている・・・・・)。
 なぜそう感じたのかはわからなかったが、それはまぎれもなく「怯え」であった。ただその時は、深くは意にもとめずに、その怯えはすぐ私の意識からは消えてしまった。
 大体、潔典が怯えなければならない理由などあるはずがなかった。潔典の純真で明るい性格には暗いイメージの「怯え」はおよそ結びつきそうには思われなかった。私の気の迷いに違いない。そんな私の常識が、その時の一瞬の感じを打ち消してしまったのかもしれない。

 そのことはそのまま忘れていたが、事件が起こった後、長女が言った言葉で、愕然として私はそれを思い出したのである。やはりローリーを出発する何日か前、「お姉ちゃん、大韓航空って大丈夫だろうか」と、潔典が言ったのだという。
「アリゾナの学生の中には、大韓航空は嫌だという人もいたけれど、大韓航空はパイロットが優秀だし、大韓航空にしか乗らないという学生もいたよ」と長女が答えると、潔典は「助かった!」と叫ぶように口に出したという。
「助かった」という言い方はおかしい。潔典のことばらしくもない。やはりあの子は、何かを感じ取っていたのだ。潔典の第六感が、身近に迫りつつある重大な危険を、あの時、予知し始めていたのではなかったか。そう思うと、あの時の「怯え」の一瞬の感じが一本の鋭い針となって私の胸に突き刺さってくるのを覚えた。

 富子と潔典がフィラデルフィア経由でニューヨークのケネディ空港へ向かった8月30日の午後6時半、潔典からケネディ空港に着いたという電話があった。そして午後9時、チェックインも済みこれから機内に入るという潔典からの2度目の電話があった。
 私が電話するように言っておいたのを守ってくれたのだが、その2度目の電話では潔典の声が何故かしどろもどろで異常であった。私に一瞬さっと不吉な影がよぎった。潔典は何か慌てているような口調で、「ママに代わるから、ママに代わるから」と繰り返して電話は富子に代わったのだが、富子は普段の穏やかな口調であった。
 私は受話器を置いた後もしばらく、 潔典のしどろもどろの声が気になってぼんやりしていた。私は、富子と潔典が東京に着いたら、電話で潔典に注意しておこうと思った。潔典はよくできた子で、私は潔典を子供の頃からほとんど叱ったことがない。しかしその時は「あのような話し方をしたらお父さんが心配になるではないか」と叱りたいような気持ちになっていた。後に私は、この自分の鈍感さにひどく罪深いものを感じさせられて苦しむことになる。



 なぜこの大事件に巻きこまれたのか

 事件のあと何年かの間、私は「溺れる者は藁をも掴む」心境で仏典や聖書を学び、霊界の本を読み、霊界からのメッセージを求めて次々と数十人の霊能者と接触したりもした。そして、少しずつ霊的真理に目覚めていった。
 やがて1991年春からのロンドン滞在中に、大英心霊協会の霊能者たちの導きで霊界の富子と潔典とも「再会」するという奇跡を体験して、長年の悲嘆と苦しみからも抜け出していった。私はその闇の中から抜け出すまでのたどたどしい歩みを『生と死の彼方に』 第3章の「学び」以下に書いている。
 右に述べたケネディ空港での最後の電話についても、事件から17年を経た2000年6月5日に、ロンドンの霊能者アン・ターナーを通じて、潔典からお詫びのことばが届いた。
 潔典は、「ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えながらあらためてお詫びします」と「手紙」のなかで述べていた。

 それでは、私はなぜあのような国際的な大事件に遭遇して妻と長男を失わねばならなかったのであろうか。このことについては、いままでに数多くの霊界からのメッセージや「証言」が寄せられており、今では私にとって、不思議な謎ではない。
 たとえば、その一つの例として、潔典が霊界からこう伝えてきたことがあった。

 「お父さんなら、頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです。でも必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、1人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせ、同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすことを、その聡明さによって、やってくれるということが期待されたからです。」(1999年6月5日)

 ここで、自分のことであるのに「聡明」などの文字を書き写すのには嫌悪を感じるが、霊界からのことばには一言一句修正を加えることは出来ない。同様の「証言」は東京の霊能者A師を通じても幾つかあった。つぎのように言われたこともある。

 「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。」(2004年6月5日)

 これらの霊界からの「証言」やメッセージについては、私は『天国からの手紙』(第6章以下)や『天国の家族との対話』(第7章以下、HPに掲載)にも書いてきた。
 「世の中が偶然によって動かされることはありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません」と、シルバー・バーチは言っている。(『霊訓(3)』p.161)
 事件によって私が悲嘆のどん底に突き落とされたとしても、それは私にとって必要なことが必然的にもたらされたということになるのであろう。いまになって事件に至るまでの過程を逆に振り返ってみると、思い当たるようなことがいくつも出てくる。
 まず、私は、フルブライトを受験して合格しなければならなかった。その決定がその年に限って異常に遅れたにも拘わらず、私はフルブライトを諦めるのではなく、受け容れてアメリカへ向かわねばならなかった。アメリカではアリゾナに1年居て帰国するのではなく、家族を呼び寄せるためにも、滞在延長をしなければならなかった。それもアメリカ海軍語学学校のモントレーで教えることによってではなくて、ノースカロライナ州立大学での教職でなければならなかった。
 そうでなければ、それらの選択肢のうちの一つにでも私が別の選び方をしていれば、私は事件に巻き込まれることはなくなっていたはずなのである。思い当たることはこの他にもまだ沢山ある。今にして思えば、私は抗うこともできずに、ただ与えられた道を歩んできたとしか考えられない。シルバー・バーチは次のようにも言っている。

 「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのか、といった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし、すべてはちゃんとした計画があってのことです。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。」(『霊訓(1)』pp.70ー71)

  いまの私には、こういうことばも私なりに理解できるような気がしている。確かに私は、「何ものかによって一つの道に導かれて」きた。その結果、私はあの年にアメリカであのような大事件に遇った。それは私の宿命であった。そして、そのことをも含めて、私は今まで、大宇宙の大いなる力によって導かれ、守られ、生かされてきたのである。

        明日ありと思う心の仇桜
           夜半に嵐の吹かぬものかわ
                        ー 親鸞 ー







    二.霊的真理に目覚めるまでの長い道のり


 生と死の真実を求めて

 1983年9月1日の大韓航空機事件で妻と長男を亡くしてからは、私はアメリカの教職を中断して帰国し、札幌の自宅でほとんど寝たきりのようになっていた。
 11月下旬のある日、私はふと思いついて、妻・富子の友人の青木さんの家を訪ねた。彼女は、運命鑑定などをしている霊能者である。富子は、「私は運命鑑定などは信用しないわよ」などと言ったりしながら、時折彼女と会っては、気のおけないおしゃべりを楽しんでいた。私が富子を車で彼女の家まで送っていったこともあるが、私自身は青木さんとは初対面であった。
 「もうそろそろ、お見えになる頃だと思っていました」と、私の顔を見るなり、いきなり彼女は言った。
 その時の私は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境であったかもしれない。何でもいいから、こころの支えが必要であった。青木さんはそういう私の心境もわかっていたらしい。ぽつりぽつりと語る私のことばに耳を傾けたあと、「まだこれから 3年は苦しまれるでしょうね」と、私に同情を示した。
 彼女は事件のあと、富子と潔典(きよのり)のために 2週間の供養をしてくれたのだという。そして、霊界の富子と潔典とも話をしたとも言った。このことばは私を驚かせた。
 彼女は静かに語りだした。「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現われたんです。私は最初それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると潔典さんでした・・・・・」
 私は内心の動揺を抑えながら黙って聞いている。(そんなことが本当にありうるのであろうか)まさか、と思う。その時の私は、霊の世界については全く無知であった。彼女は続けた。
「潔典さんはですね、はじめに『有難う』とおっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなく、今までの生活がすべてです』 と答えられました。」
 ここまで聞いて、私はこころのなかで思わず「あっ」と叫んでいた。これも直観である。「ありがとう・・・・ 楽しかった・・・・今まので生活がすべて・・・・」これは潔典のことばだ。父親の私にはわかるのである。私は涙をぽろぽろと落とした。
 青木さんの話はそれからもしばらく続いたのだが、聞いている私はもう上の空であった。あまりにも不思議な気がして、3日後にはまた彼女を訪れ、その潔典のことばをもう一度確認したりしている。
 その後何度か足を運んでいるうちに、富子からのことばもいろいろと聞いた。「どうか、いつまでも悲しまないで下さい・・・・、 ***に夢を、いつも明るい希望を・・・・」と、語りかけられたりした。「***」は長女の名である。

 私は、少しずつ聖書や仏典などを読みはじめていたが、それからは、ケネス・リング、レイモンド・ムーディ、モーリス・ローリングスの近似死体験に基づく死後の世界に関する研究書や調査報告などをひもとくようになった。
 その頃はまだ『シルバー・バーチの霊訓』は出版されていなかったが、市販の霊界について書かれた本を探しては、丹波哲郎のものなども含めて次々に買っていった。私にとって死後の生命は、信じるか信じないかの問題ではなかった。私が生き続けていくための希望を支える絶対的条件になっていた。



  夢の中で潔典から頼まれたという女性からの電話

 それからしばらくして、ある日の夕方、札幌市内の野々原と名乗る女性から電話がかかってきた。北海道大学の学生食堂に勤めていると言っていたが、私には面識がない。彼女は「昨夜、潔典さんの夢を見ました」 というのである。
  当時はまだ、事件については、しばしばテレビや新聞に取り上げられていた。その前日も、彼女は、たまたま事件を報じているテレビで、冨子や潔典の写真を見たらしい。そして、夢の中に現れた潔典から「ぼくの父に会ってほしい」と頼まれたのだという。 テレビ局に電話して、私の電話番号を聞きだし電話しているのだと、遠慮がちの低い声でおずおずと言った。
 潔典から「ぼくの父に会ってほしい」と頼まれたというのは、ただ事ではない。私はすぐにその翌日、彼女の家へ出向いた。
 野々原さんは中年の寡婦で、中学生のお嬢さんと2人で暮らしている。S教団の信者で、霊界の存在や、死後の生命のことも信じているようであった。S教団では霊能者も二百数十人もいて、霊界との交信も日常的に行われているという。
 事件前の私なら、そういう話ははじめから受け付けようとはせず、「夢のなかで頼まれた」などという話も一笑に付したかもしれない。しかし私は、黙って 2時間ほども、真剣に彼女の話に耳を傾けた。青木さんから霊界の潔典からの霊言を受け取ったばかりであったし、その時の私には、霊的な話を非常識だとか、荒唐無稽であると忌避するような余裕は全くなかった。
 野々原さんが所属しているのは、S教団の札幌支部で、本部は東京の立川にあるという。私は、札幌支部の支部長を紹介してもらって、その翌日、札幌支部へ出かけた。

 円山公園に近い S教団札幌支部に着いてみると、受付に出たのは、私の小樽商科大学のかつての教え子の一人である新田君であった。新田君はちょっと驚いたような顔をした。私も、一瞬、大学教授として来るべきでない所へ来たような後ろめたさを感じたかもしれない。
 支部長は、菅野さんという温厚な感じの老婦人であった。私は、菅野さんの私室に迎え入れられて、ここでもまた、S教団の教えや霊界のことについて話を聞いた。菅野さんはほとんど一人で、穏やかに語り続けた。優しい人柄が伝わってくるようで、悲しみ苦しみ続けて凍り付いてしまったような私の重い心もあたたかく癒されているような気がした。
 菅野さんは、立川の S教団で会合があるので、その翌々日には上京するという。私は、私もS教団本部に連れて行ってくれるように頼んでみた。彼女は承諾してくれた。
 菅野さんは、東京では、多摩市の永山団地に娘さんが住んでいるので、そこに泊まることになっていた。たまたま長男の潔典が住んでいたのも永山団地であった。棟は違うが、歩いても数分の距離である。
 私と菅野さんは、その3日後の朝、京王線の永山駅で落ち合い、1時間ほどで立川のS教団本部に着いた。門をくぐりぬけて塀に囲まれた広い敷地の中に入ると、ちょうどすれ違うようにして、法衣を着た一人の老人が歩いてきた。それがS教団のI教主であった。
 信徒にとっては、教主さんは神のような存在であるらしかった。菅野さんは、教主さんの前に歩み寄って、深々と頭を下げた。そして、私のことも何か話したようである。
 やがて、教主さんは、少し離れて立っていた私の所へ来て、黙って手を差し伸べた。じっと私の顔を見ながら握手をしたあと、静かな足取りで立ち去っていった。 菅野さんは驚いていた。教主さんから握手をされるのは大変なことのようであった。
 私は菅野さんから事務局へ連れていかれて、法務主任のYさんを紹介された。それから応接 室のようなところで、ずいぶん長い間、Yさんから S教団や真言密教についてのお話を聞いたが、その内容については、いまはほとんど覚えていない。
 ただ、霊界というのはあるらしかった。人は死んでも霊界で生き続けるということも聞かされた。しかも、霊界とは荘厳華麗な世界で、そこではみんな安らぎに満ちた生活を送っているという。
 そのことは、私も「仏説阿弥陀経」を読みだしていたので、初耳ではない。しかし、Yさんは話の途中で「私も早く死んで霊界へ行きたい」と言ったのである。このことばは、私の胸に強く響いた。本当にそう思っているのか、そのように思うこともありうるのか、と何度もこころのなかで繰り返していた。
 私は札幌へ帰ってからも、しばしば S教団の札幌支部へ通うようになった。霊界のことを少しでも知りたいという一心からである。しかし、霊界について関心を深めていく一方で、私にはどうしてもしなければならないことがあった。大韓航空機事件の真相究明である。



 事件の真相究明と教団での学び

 悲嘆に暮れている中で、これは二重の苦しみであったが、遺族としては避けては通れない。つらい気持ちを抑えながら、私は事件関係の資料をひろく集めて、真実を探し求める努力を続けた。
 事件の翌年8月には、東京の憲政記念館で、国会議員の瀬谷英行、田英夫、宇都宮徳馬、土井たか子氏らと政治評論家の山川暁夫氏らが 21名の設立発起人を代表して記者会見を開き、「声明」を発表して、「大韓航空機事件の真相を究明する会」の設立を呼び掛けた。
 私は、瀬谷英行、田英夫両参議院議員、市民運動家の荒川亘氏と共に4人の代表委員の1人 に選ばれて、それからは、頻繁に札幌と東京を飛行機で往復するようになった。その翌年の春には、小樽商科大学を依願退職して東京へ移った。
  私にはもう名誉とか地位・財産のようなものは何の意味もなくなっていた。
 東京では、「真相を究明する会」の仲間たちと熱心に研究会を重ねながら、新聞、雑誌、単行本などに会員諸氏の研究成果を発表していった。
 私も、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(「世界」岩波書店、1985年10月号)、『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)をはじめ、新聞、雑誌に幾度となく書き、単独で広報紙「APPEAL」(訴える)も毎週発行して、国会議員やマスコミ各社に真相究明を訴えていった。そして、その傍ら、立川の S教団本部に通うことをくり返した。

 S教団では、毎月何回か例会の日があって、その日には、お祈りなどの宗教行事が終わると、霊能者から霊言を聞く「接心」という時間が設けられている。
 大広間に集まった数百名の信徒たちが、十数人のグループに分けられて輪になって座り、その中へ教団の霊能者が1人入ってくる。霊能者は、お祈りの後、輪になって座っている一人一人の前ににじり寄り、順番に霊言を伝えるという形であった。
 信徒たちの誰が先になるか、後になるかはわからない。教団の霊能者は二百数十人いるということであったが、そのうちの誰が輪の中に座るのかもわからない。私が最初に本部で接心を受けた時には、輪の中に瞑想して座っている私の前に、いきなり若い霊能者が寄ってきた。
 彼は、「あなたの内臓が弱っているが、何か苦しいことがあるのか」と訊いた。内臓が弱っているのかどうか私にはわからないが、苦しいことはある。悲しくて苦しいからここへ来ているのである。しかし、私は、事件のことも妻と子を亡くしていることも言わなかった。その霊能者も、私の妻や子が霊界にいることには気が付いていないようであった。その時の「接心」は、 私の健康問題についてあれこれ言われただけで終わった。
 S教団本部の「接心」で、霊能者と何度も対峙しているうちに、「身近な家族が霊界にいる」などと言われたこともあったが、それ以上、具体的に霊言で示されたことはなかった。
 札幌では、青木さんから、潔典や富子からの霊言をすでに聞いている。「有難う、楽しかった、アメリカ旅行だけではなく、今までの生活がすべて」などという潔典からのことばは、いかにも潔典らしいことばで、私は直感的にそれが真実の声であることを感じ取って涙を流したのだが、そのようなレベルの霊言を聞いたことは、ここの「接心」では一度もなかった。
 青木さんは、富子や潔典のことや事件のこともよく知っていたのに対して、S教団の霊能者たちは、事件と私のことは何も知らないという違いはあったかもしれない。私は、S教団の霊能力が高いといわれる幹部の「特別接心」というのも高い料金を払って何度も受けてみた。
 何年もの間、「接心」と「特別接心」を受け続けて、霊能者の前に座ったのも数十回を超えたが、結局、私は、こころから納得できるような霊言は何一つ得ることはなかった。

 しかしその非の一端は、おそらく、霊言を受ける側の私にもあった。当時の私は、事件の真相究明活動でアメリカ政府の犯罪が明らかになっていく中で、大統領のロナルド・レーガンや国防長官のキャスパー・ワインバーガー、国務長官のジョージ・シュルツなどを激しく憎み、罵り、毎月、抗議文を送り続けたりしていて、心は重く暗く閉ざされていた。怨念の塊になっていたことが障碍となって、霊界からの霊言を受け難くしていたことはあったかもしれない。
 それからも、そのような状態でさらに何年か過ぎた。その間私は、霊界についての教えや霊言には少しずつ慣れていったような気がする。いつかは真実に迫る霊言を聞くことができるかもしれないと、微かに希望を繋いでいた。
 真相究明運動の方は、1988年に、「究明する会」の研究成果として『大韓航空機事件の研究』が 510ページの大冊にまとめられ三一書房から刊行された。その後、1991年春からは、私は、7年間の真相究明運動から初めて離れ、ロンドン大学客員教授として、1年の予定でイギリスへ渡った。



 大英心霊協会を訪れる

 ロンドンでは、大学へ通う傍ら、大英心霊協会を度々訪れるようになった。大英心霊協会はスピリチュアリズムの殿堂で、優れた霊能者が沢山いることは知っていたが、しかし、はじめの半年は、それらの霊能者の前に座って一対一で霊言を受けることはしなかった。
 もしここでも、S教団で受けてきたような霊言の内容で終わってしまうのであれば、私はもう一生救われない。切羽詰まったような気持ちで、霊的真理の勉強を深め、霊言を受け入れる心の準備をしなければならないと思っていた。
 この頃にはすでに、シルバー・バーチの教えに接するようになっていた。大英心霊協会の売店でシルバー・バーチの霊訓原本をすべて買い入れて繰り返し読んだ。その重大性に気づき、自分でも一部を翻訳したりしている。
 大英心霊協会では、公開デモンストレーションというのがある。霊的真理の普及のために無料で一般に公開しているものだが、私も出席して、霊言を受ける雰囲気に慣れていこうとした。そして、1992年1月30日、私は大英心霊協会で初めてミーディアム(霊能者)の前に一人で座った。

 ミーディアムの前に座って一対一で霊言を受けることを、大英心霊協会では「シッティング」(Sitting)といっていた。ほとんど奉仕活動である。そのシッティングでのアン・クーパーは中年の落ち着いた感じの女性で、ちょっと祈りを捧げた後、はっきりした口調で語り始めた。
 霊界の富子、母、潔典、弟の耕治などがつぎつぎに私の目の前に現れているようであった。私のことは何も知らないはずの彼女が、私の家族の一人ひとりを目の前に見ているように極めて正確に描き出していく。
 潔典については、「あなたの息子さんは、身長 5フィート8インチ(約173センチ)くらいに見える。黒い髪、美しい顔で非常に好ましい青年だ・・・・ たいへん知能が高い、私には説明し難いが、人間の心を世代を超えてコミュニケートさせる方法のようなものを研究しているらしい・・・・あなたに強い感情を送っている、姉とは年齢があまり違わないのではないか・・・・・・」などと彼女は言った。
 潔典の身長は 174センチである。「知能が高い」も、潔典の知能はおそらく私よりもレベルが上で、大学での成績は1、2学年とも「全優」であったから、彼女の言ったことは間違ってはいない。姉との年齢差は1年2か月だから、これも言われた通り「あまり違わない」。
 これらのことばは途切れ途切れに語られているので、予約していた 30分の時間は瞬く間に過ぎたが、明らかに正確度の極めて高いことばの数々を受け留めて、私はこころの高揚を抑えきれずに、なかば夢見心地で、大英心霊協会を後にした。
 このアン・クーパーには、2月4日にも会って、2度目のシッティングを受けた。その日、協会の控室でたまたまアン・ターナーにも会った。その時は、彼女がミーディアムであることも知らず、私はまったく偶然に会っただけだと思っていたが、後にそれは、霊界からの導きであったことを知るようになる。

 2月11日には、アン・ターナーのシッティングを受けて、彼女の卓越した霊能力により、遂に妻と長男との奇跡的な「再会」を果たしたのである。
 彼女は、私のことを全く何も知らず、聞こうともしなかったが、私の前に霊界の長男が立っていることを伝え、感動した面持ちで自分の名を「キノーリ」、または「クノーリ」と名乗っていると私に言った。「潔典」(きよのり)がそう聞こえるのであろう。霊界へ移ったのが1983年の事故であることも正確に指摘した。あり得ないようなことが現実となって、私は茫然となった。
 堰を切ったように、私はそれから何度もアン・ターナーに会った。彼女は私を前にして、独り言を言うように、淡々と妻と長男のことばを次々と私に伝えた。それらのことばには、疑うにも疑いようのない真実の重みがあった。家族しか知らないはずの事実も明らかにされた。私は人生の大きな転換期に立っていることを肌身に沁みて深く感じていた。
 帰国前の忙しさの中で頻繁に大英心霊協会を訪れ、アン・ターナーのほかにも十数人のミーディアムからシッティングを受けた。そのほとんどのことばに私は十分に納得し、格段に高い真実の響きを感じ取っていた。長い彷徨の末に遂にここまで来て、心の底から霊界の存在も確信できるようになった。長年の悲しみと苦しみからも初めて解放され、私は生き返ることができた。



 日本へ帰国してから

 1992年3月末、日本へ帰国してからもシルバー・バーチから学び、アン・ターナーからのテープによる家族との霊界通信を続けた。やがて私は、そのような霊的体験を本に書き、講演会で話すようになった。
 東京でも、高い霊能力をもつA師から、いろいろと霊言を聞くようになり、ホームページを開設して、シルバー・バーチの教えを伝えるようにもなった。そして今の私は、あのアメリカ滞在中に「世界史の転換点」ともいわれた大事件に巻きこまれた意味も、今生で私に課せられた使命といったようなことも、私なりに理解できるようになっている。
 かつて、慟哭と絶望のなかで迎えた「9月1日」からは、今年(2019年)で36年の歳月が流れた。事件に遭遇してからのあの悲嘆と慟哭の日々が、遠い夢のなかの一こまのように思い出される。あの頃は、もう私の人生も終わったのだと思っていた。立ち直ることは考えられなかったし、立ち直りたいとも思わなかった。
 いまでは、生きるというのはどういうことか、死んでから私はどこへ行くのか、そういう切実な問題もいろいろと理解できるようになって、穏やかに残された日々を過ごしている。随分時間がかかり寄り道してしまったようだが、結局は霊界の家族からも導かれて、霊的真理に理解を深めることができたことを、私はこころから神に感謝したい気持ちである。






    三. 後に遺していくもの ー ホームページ「ともしび」について ー


 開設15年後の中断と継続

 私のホームページ「ともしび」は、2003年3月に開設された。私の講演会の主催者や出席者の方々のお勧めと尽力があって、私にとっては思いがけないことであったが、ホームページを開設する運びになった。 ホームページの作成やプロバイダーへの事務手続き等は、すべて、パソコンに詳しい溝口祭典の佐々木薫さんがしてくれた。
 はじめの頃は、毎日のように入力・更新を続けながら、私も忙しくパソコンに向かっていたが、昨年、2018年の3月に、開設15年目になるのを潮時に、私が伝えるべきことはほぼすべて伝えてきたという思いもあって、「引退」を表明した。
 しかし、その後、各地の多くの方々から、海外からのものを含めて、このホームページ存続の強い希望が寄せられた。更新はしなくても、公開だけは続けて、これまでのホームページを読めるようにしてほしいという意見が多かった。終了を1年だけ延ばすということも考えたが、結局、無断で中断することもあるということをお断りして、公開だけは続けることになった。



 生と死の真実を伝える

 私は、このホームページの「はじめに」のところで、「最愛のご家族を失って深い悲しみに沈んでおられる方々や、さまざまな人生の試練のなかで、迷ったり苦しんだり悩んだりしながら生きる意味と幸せを求めて重い足取りで歩んでおられる方々の、足許を導くささやかな 『ともしび』になることができれば、たいへん有難いことだと思っています」と書いている。
 かつての私は、自分自身が「死後の生」や「霊界の存在」などについて何もわからず、1983年の事件で妻と子を亡くして以来、長い間、悲嘆と絶望に陥っていたから、このようなことを将来の自分が書くようになるとは、全く予想もできなかった。
 その私が、1991年の春から、ロンドン大学客員教授としてロンドンに住むようになってから、霊的真理に接するようになった。1992年に入ってからは、頻繁に大英心霊協会へ通うようになり、アン・ターナーやその他の大勢の優れた霊能者に出会った。やがて、思いもよらなかった霊界の妻と子にも「再会」して、死後の生を十分に納得し確信するようになっていったのである。

 1992年の春、日本に帰国してからは、私は霊的真理の学びを深めていきながら、「死後の生」について本を書き、講演会で話し、講演集なども発行していくようになった。後には、このホームページも開設した。私の著書『天国からの手紙』の「はじめに」には、次のように書いているところがある。

 「愛する家族を失えば、もう、救われることはないのか。いつまでも、今度は自分が死ぬまで、悲しみつづけなければならないのか」というのは、長い間、私に付き纏っていた深刻な悩みであった。それが、実は、妻も子も「死んではいなかった」ことを知るに及んで、私の人生は180度の転換を遂げたのである。だから、「それならば、自分で自分の愛する家族のいのちを取り戻すべきである」と書くこともできた。
 人は死ぬと、焼かれて灰になり無に帰すると考えるのは、無知にほかならない。愛する家族が亡くなって、もう決して逢うことも話し合うこともできないと思い込むのも、大きな間違いである。そういうことも臆することなく口にするようになった。自分で考えても、大きな変化であったと思う。
 と同時に、私自身が、その無知と勘違いの中で苦しんできただけに、その無知と勘違いの恐ろしさを痛いほどに思い知らされてもいた。」

 この『天国からの手紙』のなかでは、私はこうも書いている。

 「人は死なない。というより、死ぬことができない。愛する家族も死んではいない。いまも生き続けている。話し合えないことも決してない。
 ただ、そのことを知らずに、死んだらすべては終わったと諦めて、愛する家族をみずから忘却の彼方へ押し流し、話し合おうとはしない人たちが、おびただしくまわりにはいるだけである。
 確かに、その姿は目の前には見えないかもしれない。
 しかし、もう永遠に会えない、となぜ思い込むのか。話し合うこともできないと、誰がそう言ったのか。「死んで」しまったのだから、本当にもう会うことも話し合うこともできないのか。それを自分で確かめたのか。
 いまでは、私は、溢れるような思いを抑えて、そう問いかけることができる。」(pp.310ー311)



 一人でも多くの方々の「ともしび」となるために

 私は、妻や子が「生きている」ことを知り、何十回となく「対話」を重ねてきて、その生存の事実を「自分で確かめて」きたのである。だから、私には「溢れるような思い」があった。
 それを自分の胸にだけ秘めておくことはできない。 それが重大な生と死の真実であるだけに、一人でも多くの方々に伝えなければならないと思った。それで、このホームページの開設の機会に、まず、『シルバー・バーチの霊訓』を紹介することから始めたのである。
 訳者の近藤千雄さんと連絡を取りながら、『霊訓』11冊(12冊目は「総集編」)と『古代霊は語る』などを、内容により「生と死」「霊・魂・肉体」「霊界での再会」「偶然、必然」「霊界の生活」「人生の目的」「霊的真理」「心霊能力」等々、80の項目に分類して、その要点を抜粋し、「学びの栞」(A)として入力する作業を続けてきた。
 近藤さんが訳していないA. W. Austen 編集のTeachings of Silver Birch も私が和訳して、原文でも読めるように英和対訳の形で付け加えた。それが「霊訓原文」である。さらに、シルバー・バーチの膨大な教えの中から、要点になる言葉を100にまとめて「叡智の言葉」とした。これらが、シルバー・バーチの教えを紹介した私のホームページの主要部分である。

 この「学びの栞」(A) に対して、シルバー・バーチ以外の高位霊、霊能者、宗教家、学者、知識人等のことばから、各項目に対応するように選んできたのが「学びの栞」(B)である。これらも(A)と同じ項目別に並列させることによって、シルバー・バーチが言っていることを、他の霊能者や学者・宗教家などがどう言っているか、を較べてみることもできるようにした。
 「死後の生」の真実を知るということは極めて大切で私たちの生き方にも重大な影響を与えると思うが、「学びの栞」(A)のシルバー・バーチのことばを補完する意味でも、「霊界通信集」をもこのホームページに取り入れている。
 このうち「霊界通信A」は、『新樹の通信』を私が現代文に訳したもの全文を掲げ、「霊界通信B」では、それ以外の様々な霊界通信を載せている。私個人の「霊界からのメッセージ」も、参考までに付け加えた。そのうえで、「メール交歓」欄では、ホームページの読者の方々からの様々な質問に、今まで数百回、私なりの答え方をしてきた。
 それ以外にも、「プロフィール」、「教育活動」、「家族の想い出」などを付け加えているが、それは、霊的真理について無知頑迷であった頃からの私のすべてを曝け出したうえで、私が書いているものを判断していただきたいと思っていたからである。
 こうして、私のホームページ「ともしび」は、いまも公開されている。ささやかな試みだが、アクセス数も延べ 87万回を超えた。そう遠くない将来、私が霊界へ旅立ったあとも、しばらくはこのまま公開が続いているであろう。関心のある方は、どうかご覧いただきたい。


    http://takemoto-shozo.com/(「武本昌三・ともしび」でも検索できます)






    四. 八十九歳の感慨


  1 89歳の誕生日を迎えて

 私は今年(2019年)4月20日に、89歳の誕生日を迎えた。まさかここまで長生きするとは思っていなかったから、いささかの感慨を禁じ得ない。
 もちろん、世の中には、90歳以上も長生きする人が沢山いる。100歳に達する人も、私が生まれた昭和5年(1930年)頃は日本国内で100人ほどしかいなかったのに、今では約7万人に増えているらしい。
 世間では、長寿は目出度いこととされてきたが、それはおそらく、人生5、60年時代の名残である。しかし、ここまで平均寿命が延びてくると、長寿も手放しでは喜べなくなっているのではないか。
 長寿にも限度というものがあるだろう。長寿人口の急速な増加が介護や医療、社会保障などの深刻な問題をもたらし、現在の日本でも、さまざまな形で社会生活に重苦しくのしかかるようにもなってきている。
 そのような中で、89歳の誕生日を迎えて、私は自分にも、いつの間にか人並み以上の長い歳月が過ぎ去っていることを、改めて思い知らされている。

 私は5歳の時、川に落ちて溺れ死にそうになったが、奇跡的に助けられた。(1)
 15歳の時、急性肺炎から肋膜炎を起こして入院したが、戦争の末期で医薬品は極度に不足し、高熱を抑える薬も途絶えて打つ手がなかった。私は死を待つばかりであったが、その時も、父の死にもの狂いの努力で「トリアノン」というドイツからの輸入注射液を手に入れて、奇跡的に死を免れている。
 その病床では、燦然と輝くみ仏の姿に見守られるという神秘体験をした。(2)  それは初めての不思議な体験であったが、決して幻覚ではなかった。そのことを傍にいた父に話したら、父は慌てて私の額に手を当てたのを今でも覚えている。高熱で頭が侵されたと思ったのかもしれない。
 私は、こういうことで父に心配をかけてはだめだ、と思って言うのをやめた。しかし、何度見直しても、光に包まれた慈悲そのものの温かいみ仏の姿が私をじっと見下ろしていた。それ以来私は、心のどこかで、自分はみ仏に守られているという意識を持つようになった。
 その私は、敗戦後の飢餓状況をも生き延び、戦争で無一文になったわが家の困窮の中で、大学もアルバイトで明け暮れしながら辛うじて卒業して高校教員になった。
 2年後、当時は夢の国のように思えた豊かなアメリカへの留学生にも選ばれ、大学院を修了して帰国してからは、大学で教えるようになった。40歳で教授に昇進し、昭和48年(1973年)には文部省の在外研究員として、また昭和57年(1982年)にはフルブライト上級研究員として、アメリカのオレゴン大学、アリゾナ大学に客員教授として在籍した。当時の私にとっては栄光の日々であったといってよい。
 しかし、昭和58年(1983年)、私がノースカロライナ州立大学の客員教授であった時、夏休みを一緒に過ごして日本へ帰国の途中であった妻と長男が、9月1日の大韓航空機事件で他界したのである。晴天の霹靂であった。み仏に守られていたはずの私が、一転して、奈落の底に突き落とされた。
 当時、私は53歳であった。悲歎と絶望の中で、生きる希望も失い、教職を中断して帰国してからも、苦しくて寝たきりのような状態になった。眠ったままで、このまま目が覚めなかったらどんなに楽だろうと思ったりした。失われた妻と子の命は、どんなに足掻いても踠いても返ってはこない。私は自暴自棄になっていた。
 それでも一つ、どうしてもやらねばならないことがあった。事件の真相究明である。あまりにも理不尽なこの事件の下手人をあげなければ死んでも死にきれない。私は怨念の塊のようになって、巨大なアメリカ政府と軍部を相手にして蟷螂の斧を振り翳し続けるようになった。(3)  苦しい日々が続いたが止めるわけにはいかなかった。そして8年が過ぎた。

 平成3年(1991年)の春、真相究明活動からも離れて、私はロンドン大学の客員教授として渡英した。その頃、シルバー・バーチの教えにも接して、生きている自分を取り戻すことに微かな希望を繋ぐようになっていた。
 ロンドン大学に通いながら、大英心霊協会にも何度も足を運び、心の準備を整えたうえで、平成4年(1992年)に入ってからは集中的に十数人のミーディアムからの霊言を聞くようになった。アン・ターナーとの奇跡のような出会いもあった。そして遂に妻と長男との「再会」を果したのである。(4)
  あり得ないと思われた彼らの「生存」の厳然とした事実に直面して、私は何度も何度も確認したが、間違いではなかった。私は生き返った。私は神から見離されてはいなかった。み仏から守られていなかったわけでもなかった。
 家族を巻き込んだあのような事件に私が遭遇したのも、霊界での「高度の計らい」であったことが、今ではわかるようにもなっている。(5)

 ロンドンから帰国の途中、インドへ寄り、各地の仏跡巡りをした後、ニュー・デリーにあるマハトマ・ガンジーの慰霊碑を訪れた。その敷地の一角にガンジーのことばが刻まれた石碑があって、そこには「自分のまわりの一番貧しい人を見つけてその人を助けよ」とあった。私はすぐに反応した。
 インドとネパールの貧しい子供たちのための養育費と学費を毎月送金し始めた。私の資産は多くはないが、その後も援助の輪を広げて、モノとカネの大半を社会に還元してきた。「霊的真理」についての無料講演も機会あるごとに引き受け、平成15年(2003年)3月には、ホームページも開設して、私の体験に基づく生と死の真実を伝えようと努めてきた。そしてその年の9月、私は北欧への旅に出た。
 深夜のバルト海をフェリー・ガブリエラ号で航行していた時、信じられないようなことが起こった。29日の深夜、ちょうど午前0時、6階の個室の窓から見下ろした漆黒の闇の海の上に、赤く光る数多くの「生命体」が鳥の一群のように鮮やかに乱舞するという超常現象を目撃する。これも決して幻覚ではなかった。何度見直しても間違いではなかった。あとでわかったが、生気を取り戻した私に対する霊界からのエールであったらしい。(6)
  こうして、歳月はそれからもさらに流れて、今年、4月20日、私は89歳になったのである。今ようやく、私は私なりに、天から与えられた今生の使命を果たし終えようとしているのかもしれない。

 平成24年(2012年)の夏、私は大腸がんになって入院し、その時の検査で腹部動脈瘤も見つかった。二つの大きな手術を受けることになったが、私はあまり気持ちを乱されることはなかった。入退院の日々に合わせて、滅多に咲かないベランダのサボテンが不思議に花を開かせた。(7)
  私はその手術後も十分に生きてきたし、「足るを知る」ことも学んできた。私にはもうこれ以上、体力が衰えても少しでも長生きしたいというような願望はない。そう遠くない将来、私はこの世を去ることになるであろうが、その時機は神様にお任せして、残された日々を読書に親しみ学びを深めながら、霊界への旅立ちに備えていくだけである。
 私は自分の半生記(8) を含めて、いままでの波乱に満ちた生涯についても、ホームページにいろいろと書いてきた。頑迷な無知の状態から、厳しい試練を経て霊界の真理へ目覚めていった私の歩みの記録は、或いは私自身にとっても、今では、黄昏の道の足元を導く「ともしび」になっているのではないか、と密かに思ったりもしている。


 
 (1)HP[身辺雑記] No.110):「私が体験してきた不思議なこと」(1)ー1 など
 (2)HP[身辺雑記] No.110):「私が体験してきた不思議なこと」(1)ー3, 4 など
 (3) 拙著『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)、(HP[大韓航空機事件] Ⅳ):「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店 「世界」 198510月号など
 (4) 拙著『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011年)pp.202209
 (5) 大英心霊協会ミーディアムの霊言、(HP[霊界からのメッセージ]  (東京ルート 12):「多くの人の目覚めのために」など
 (6)HP[身辺雑記] No.111):「私が体験してきた不思議なこと」(2)ー9 など
 (7)HP[寸感・短信] No.38):「3度目の入院の日の朝に開いたサボテンの花」など
 (8)HP[身辺雑記] No.7071  73109):「生かされてきた私のいのち」(原題)




  2 自分に起こっていることはすべて良いことである

 私たちは本来が霊的存在で、肉体が滅びても死ぬことはない。「死んでも」生き続ける。この世での生と死を何度も何度も繰り返して喜怒哀楽の様々な体験を積み重ねながら、霊性の向上を目指していく。
 おそらくこれが、私たちがこの世で理解しておかなければならない最も大切な霊的真理であろう。そして私たちは、この世に生まれる時は、どういう生涯を送るべきかをあらかじめ計画して、親を選び生活環境を選んで生まれてきたということも、知っておく必要がある。
 シルバー・バーチは、それを次のように言っている。

「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」(『霊訓 (12)』p.205)

 つまり、私たちは何も知らずに偶然に誕生するのではない。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話である。(『霊訓(1)』 p.38)
 退行催眠による治療で著名な米国の精神科医 ブライアン・L・ワイス博士によると、後でまた触れるように、私達は生まれる前の計画段階で、誕生後の自分が経験することになる主要な出来事や、運命の転換点などを前もって実際に見ているという。そして博士は、自分を含めてセラピスト達が集めた、催眠状態ないし瞑想中に、生まれる前の記憶を思い出した沢山の患者の臨床記録を基にした結論として、次のように述べている。

 「偶然でもなく偶然の一致でもなく、私達は私達の家族の一員として生まれます。私達は母親が妊娠する前に、自分の環境を選び、人生の計画を立てているのです。計画を立てる時には、愛に満ちた霊的存在に助けられます。そして彼らは私達が肉体に宿り、人生計画がひもとかれてゆく間、ずっと私達を導き守ってくれます。運命とは、私達がすでに選択した人生のドラマのもう一つの名前なのです。」(ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳) PHP研究所、2001年、p.70)

 そのうえで、ワイス博士は、「私達は生まれる前の計画段階で、これからの人生に起こる主要な出来事や、運命の転換点を実際に見ています。そしてその証拠は、沢山存在しています」と述べた後、「私達が出会う重要な人々、ソウルメイトや魂の友人との再会、こうした出来事が起こる場所に至るまで、すべて計画されているのです」とも付け加えている。(同書、p.71)

 だから私たちは、この世では、会うべく計画した人々に会い、生まれる前に計画したチャンスや困難に直面していることになる。つまり、この世での人間関係や苦難、悲歎などは、すべて霊性向上のために必要な、自分で選んだ経験である。
 したがって、自分で自分のために選んでおきながら、その経験が現実化すると不平不満を抱くのは、見当違いということになるのであろう。困難に直面している他人に対しても、シルバー・バーチが言うように、本当は、「お気の毒に・・・・ などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもない」わけである。(『霊訓(1)』p.109)
「あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほど重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです」といわれるのも、自分で選んだ体験であることがわかれば、納得がいく。(『霊訓(1)』p.190)
  要するに、この世では自分に必要なことが起こっているのであり、だから自分に起こっていることはすべて「良いこと」なのである。小林正観さんは、生前、それをつぎのように書いていた。

 「過去を悔やむことに、まったく意味はありません。全部、自分の書いたシナリオどおりに生きてきたわけですから。未来を心配することも、まったく意味がありません。すべてはシナリオどおりに起きるので、どんなに(私)が手を打ったとしても、どうしようもないときは、どうしようもないようになっています。でも、「それもこれもすべてベスト。 シナリオどおりだ」とわかった瞬間に、人生が楽になります。私たちは最高、最良の選択をして今ここにいるのです。」(小林正観『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房、2009年、pp.14ー15)

 この世は、五濁悪世といわれるだけあって、生きている限りは、金銭の苦労や病苦、愛恋、別離、死の恐怖などで苦しむ。しかし、実は、私たちはそれらを経験するために、自ら望んでこの世に生まれてきたのである。
 この世は霊性の向上を目指す魂の学校のようなもので、低学年から高学年までの様々な試練が用意されている。それらはみんな魂を磨くための必要な教材である。学年が上に上がるにつれて、教材はだんだん高度になり、難しくなっていくが、だからといって、その困難な教材に取り組んでいる「上級生」や「優等生」が惨めなわけではないであろう。ましてそれらが、この世で自分が学ぶべく選択したコースの「教材」であることを理解すれば、受け止め方は全く変わってくるはずである。






    お わ り に


 生と死については、人々は、古来、無明の闇のなかで悩み苦しみ、ひたすらに死ぬことに怯え続けてきた。かつて空海は、それを、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と嘆じた。(『秘蔵宝鑰』)
 しかし今は、その気にさえなれば、私たちは誰でも容易に、シルバー・バーチの「人は死なない」という単純明快で極めて重大な霊的真理に接することができる。それは、現代の奇跡と言っても決して過言ではないであろう。
 私は、これまでの16年間、それらの奇跡のことばをホームページの「学びの栞」に分類し、「霊訓原文」や「叡知の言葉」、「今日の言葉」などを添えて紹介してきた。「メール交歓」で数多くの質問にも私なりに答えてきた。私個人の転生を含む霊的体験についても、「霊界からのメッセージ」や講演集、著書などで伝えようとしてきた。それでも世間にはまだ、シルバー・バーチに気がつかない人も多いし、私のことばを耳にしても、妄言の類いとして聞き流されてしまうこともあるのかもしれない。

 かつてアメリカのシカゴ大学精神医学部教授を勤め、末期がん患者のターミナル・ケアの世界的な権威として有名であったエリザベス・キューブラー・ロス博士 (1926ー2004) は、患者の臨死体験の例を2万件も集めて、生命は不滅であり、人間は「死んでも」永遠に生き続けることを人々に説いてまわったことがあった。
 しかし、やがて、彼女は悟るようになる。人間は死後も生き続ける、本来、死というものはないのだということは、聞く耳を持った人なら彼女の話を聞かなくてもわかっている。だがその一方で、その事実を信じようとしない人たちには、二万はおろか百万の実例を示しても、臨死体験などというものは脳のなかの酸素欠乏が生み出した幻想にすぎない、と言い張るのである。そこで彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力をついに二万件でやめてしまった。
 その彼女が、少し自嘲気味にこう洩らしている。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」(『死ぬ瞬間と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社、1997年、p.129)
 同じく医師で、2011年に 『人は死なないーある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』を出版して以来、熱心に霊的真理の啓蒙活動を続けている東大名誉教授の矢作直樹さんは、私にとっては力強い同調者であるが、その彼も、「人間は死ぬと終わり、この人生が唯一の人生と頑なに信じている人に、あの世の話や転生の話をしたところで、その人との関係が悪化するだけである。わかろうとしない人にわからせる方法はない」と匙を投げている。(『悩まない ー あるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014年、p.114ー115)

  やはり、霊的真理を受け容れる魂の準備が整うためには、厳しい試練が必要なのであろうか。しかし、それでも真理は真理である。まわりに生と死について悩み苦しんでいる人があれば、私はその真理を伝えていこうと努めてきた。
 ただ、それは決して平坦な道ではなかった。世間の常識からはみ出して、霊界とか死後の世界などのことを語り続けていくうちに、大学教授としてあるまじきことであると私から去っていった教え子たちもいる。人のために尽くすことが宗教であるという信念で、貧しい人々を金銭的に援助し続けるというのも、ほどほどに抑えなければ、家族の間では深刻な軋轢を生みだしかねない。世間は甘くはないのである。「わかろうとしない人にわからせる方法はない」と、私もまたつぶやきそうになりながら、今は、この人生最後の「教材」に向き合っている。
 おそらく、このような霊的真理をめぐる周辺との齟齬・葛藤もまた、私にとっては残された必要な学びなのであろう。前項でも触れたように、「起こっていることはすべて良いことである」と受け止めていかねばならないと肝に銘じている。
 そのような思いの中で、89歳にもなって、改めて私は、紆余曲折の道を辿ってきた自分の足跡を、この際、この小著に留めておくことにした。悩みの多い世の人々の誰かにとって、この小著が小さな「他山の石」になることができれば幸いである。

  2019年10月10日    東京都八王子市の寓居にて  武 本 昌 三 



                   [ (小冊子)  ㈱ 溝口祭典、2019年10月20日発行 ]