41.家族を亡くした人へのことば

  41-a (一人娘を亡くしたばかりの母親の手紙に対して)

 「私は十九歳の一人娘を亡くしてしまいました。私も夫もあきらめようにもあきらめきれない気持です。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバー・バーチの霊言を読みました。シルバー・バーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。肢体不自由児だった娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバー・バーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております。」

 その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある側面についての理解を深めさせます。娘さんもその理解カを得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。
 また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかも知れませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。死が鳥かごの入口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時がくればお二人も死が有り難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう。

      『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
          1986、pp.152-153

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 41-b (二人の息子を大戦で亡くした夫婦に対して)

 霊のカに導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことの出来る方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡智を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
  お二人は悲痛の淵まで下りられました.魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。"ゲッセマネの園" と "変容の丘" は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦難に耐える力は深遠な霊的真理を理解するカと同じものです。悲しみと喜び、閻と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に日覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆びつくものであることを思い知らされます。霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなたがたお二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。
 ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するもものだからです。いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探険です。
 お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。
 どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たしてください。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせてください。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
         1986、pp.61-63

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 41-c (夫を亡くしたばかりの妻に)

 あなたもそのうち物的なつながりよりも霊的なつながりの方が大きいことを理解しはじめることでしょう。ご主人はこの世にいた時よりもはるかにあなたにとって身近な存在となっておられます。
 地上人類が肉体的存在の消滅を大変な不幸として受けとめるのは、地上世界の進化が物的バイブレーションの段階を超えていないからです。その段階を超えて進化すれば、物質というものがただの殻にすぎないことを理解するようになります。それを実在であるかのように思い込むのは地上が影の世界だからです。
 霊的に向上していくと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。地上的縁には拘束力がありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。
 ぜひ銘記していただきたいのは、あなた自身にとって大変な悲しい出来ごとのように思えることも、実は他の大ぜいの人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。あなただけの個人的な見地からのみ眺めてはいけません。その体験を通じてもし大ぜいの人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。そして、あなた自身がこちらへお出でになりご主人と再会された時にも、それが大きな拠りどころとなります。
 "死んだ人”たちはあなたのもとから去ってしまうのではありません。死という名のドアを通り抜けて新しい生活へ入っていくだけです。その人たちにとって死は大きな解放です。決して苦しいものではありません。彼らにとって唯一の辛さは、地上に残した人々が自分のことで嘆き悲しんでいることです。
 いくら順調に進化していても、地上にいるかぎりは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです。縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。肉体に宿っていた時よりも一段と親近度を増しているのですが、人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。あなた方は今この時点において立派に霊魂なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやってきているところです。時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。
 皆さんはなぜ物的な出来ごとをもって永遠を判断しようとなさるのでしょう。皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら計れません。なのに、わずかな地上生活でもって永遠を計ろうとなさいます。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.43-44

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 41-d (最愛の伴侶を失った人の自殺は許されるか)

 許されません。あくまでも摂理にしたがって寿命を完うしなければなりません。神の摂理はつねにその働きが完璧だからです。完全な愛によって、つまり全存在に宿り全存在を通じて働いている神の意志によって支配されているからです。その摂理の働きに干渉する権利は誰にもありません。もし干渉して与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わされます。
 たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間にわたって辛い体験を支払わされることになります。おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.45-46

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 41-e(肉親を失った悲しみに必死に耐えている人に)

 あなたの(霊の世界を見る)目がさえぎられているのが残念でなりません。(霊の声を聞く)耳が塞がれているのが残念でなりません。その肉体の壁を超えてご覧になれないのが残念でなりません。あなたが生きておられる世界が影であり実在でないことを知っていただけないのが残念でなりません。あなたの背後にあって絶え間なくあなたのために働いている霊の力をご覧にいれられないのが残念でなりません。数多くの霊---あなたのご存知の方もいれば人類愛から手を差しのべている見ず知らずの人もいます---があなたの身のまわりに存在していることが分かっていただけたらどんなにか慰められるでしょうに。地上は影の世界です。実在ではないのです。
 私たちの仕事はこうした霊媒だけを通して行っているのではありません。もちろん人間世界特有の(言語によって意志を伝える)手段によって私たちの存在を知っていただけることをうれしく思っておりますが、実際にはその目に見えず、その耳に聞こえずとも、あなた方の生活の現実に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、あなた方の性格をのばし、魂を開発しております。そうした中でこそ(死後の生活に備えて)霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことができるのです。

 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.29-30

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 41-f (霊的真理を理解しているメンバーの他界を知って)

 大収穫者すなわち神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後にたどる道をより明るく飾ることをなさいます。
 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界ではまた一人物質の束縛から解放されて、言葉で言い表せない生命のよろこびを味わいはじめる魂を迎えて、うれし涙を流します。私はいつも"死"は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮せずに終った内部の霊性を発揮する機会に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいることを説いております。ここにおいでの方々は、他界した者がけっしてこの宇宙からいなくなったのではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮戦している吾々を援助してくれているということです。
 その戦いは地上のいたるところで日夜続けられております---霊の勢力と醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきにいたり、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のおかげで勝利はかならず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。いずれあなた方もその戦いにおいて果たされたご自分の役割---大ぜいの人々の慰めと知識を与えてあげている事実を知って大いなるよろこびに浸ることになりましょう。今はそれがお分かりにならない。私たちとともに推進してきた仕事によって生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを今はご存知でありません。
 実際はあなた方はこうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき心の傷と精神の疑問と魂の憧憬のすべてに応えてくれる真実を求めている飢えた魂にとって、何ものにも替えがたい宝となっております。太古の人間が天を仰いで福音を祈ったごとくに、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新たなしるしを求めて天を仰いできました。そこで私たちがあなた方の協力を得て真実の知識をお持ちしたのです。それは正しく用いさえすれば必ずや神の子すべてに自由を---魂の自由と精禅の自由だけでなく身体の自由までももたらしてくれます。
 私たちの目的は魂を解放することだけが目的ではありません。見るも気の毒な状態におかれている身体を救ってあげることにも努力しております。つまり私たちの仕事には三重の目的があります---精神の解放と魂の解放と身体の解放です。そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと取り越し苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものでないでしょうといった反論に会うであろうことは私もよく承知しております。しかし、事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。
 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差しのべ、日常の最少限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住まいを提供するという、こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時、それは実は私たち霊の世界からやってくる者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです。その種の俗世的問題かち超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません。霊的な真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持を抱くようでなければなりません。その真理にいかなる名称を付けようと構いません。政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル---どれでもお好きなものを貼られるがよろしい。それ自体なんの意味もありません。大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し、当然受げるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.32-35

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 41-g (霊界の家族はいつも側にいてくれる)
   =妹と父親を亡くした11歳のジョン君へのことば=

 ジョン君に知ってほしいことは、もうわかっているでしょうけれど、妹とお父さんはいつもそばにいてくれているということです。これはまだまだ知らない人が多い大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョソ君を愛し力になってあげたいと思っているからです。このことを人に話しても信じてくれませんよね?みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを理解しないために地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば “死” を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることがありますが、死んだ本人にとっては少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのです。ジョン君もそのことをよく理解してくださいね。妹のことは小さい時に見たことがあるからよく知ってるでしょう?

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.71-72

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 41-h  (婚約者を不慮の事故で亡くしたばかりの女優へ)

 あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものほ悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは閻でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。
 あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終りとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。ですが、私の見るところでは、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょう?
 こういうふうに理解なさることです--- これが私にできる最大のアドバイスです---われわれ生あるものすべては、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは霊だからこそです。その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。その霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために体験を積みます。それはちょうど子供が学校へ行って卒業後の人生に備えるのと同じです。
 さて、あなたも他のすべての人と同じく一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色褪せ、朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は穀であり、入れ物にすぎず、実質ではないからです。地上の人間の大半が幻を崇拝しています。キツネ火を追いかけているようなものです。真実を発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。
 神が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的、計画、機構の中の一時的な存在として人生を捉らえ、自分がその中で不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義は分からなくても、究極においてすべてが永遠の機構の中に組み込まれているのだという確信は得られます。霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段です。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまりその生物的集合体ではないのです。それはあなたではありません。あなたという別個の霊的存在があなたを地上で表現していくための手段にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。
 死が訪れると霊はそれまでに身につけたものすべて---あなたを他と異なる存在たらしめているところの個性的所有物のすべてをたずさえて霊界へ行きます。意識、能力、特質、習性、性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。真にあなたのものは失われません。真にあなたの属性となっているものは失われません。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.99-102


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 41-i (地上のことが気がかりな死亡直後の彼)

 あなたにとって理解しがたいことは、多分、あなたの(亡くなった)フィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的には私よりもあなたの方が身近かな存在だということでしょう。理解できるでしょうか。彼にとっては霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は彼がそのことについて何も知らずにこちらへ来たということです。
 一度も意識にのぼったことがなかったのです。でも今ではこうした形であなたが会いに釆てくれることで、彼もあなたが想像なさる以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来ても記憶の幻影の中でのみ暮らして実在を知りません。その点あなたのフィアンセはこうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずに済んでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.105


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 41-j (不慮の事故で他界したフィアンセの現況)

 しあわせとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたといっしょになりたい気持の方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的に危害が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされるでしょう。
 宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造してくださったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。けっして口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだからそう申し上げているのです。あなたはまだ人生を物質の目でご覧になっていますが、永遠なるものは地上の尺度では正しい価値は分かりません。そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの---生命、愛、本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです。

     『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.107-108


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 41-k (戦死した息子と霊的交信ができずに嘆いている親に)

 私の目には人間の心と魂とが映ります。外部の身体は映りません。苦悩の淵に沈まれたあなたの心は私にはよく分かります。ですから、あなたの心の奥底で動めいているものを私が知らずにいると思ってはいけません。あなたはまさに悲しみのドン底を体験されました。そしてその悲しみを少しでも和らげてくれるものを求めておられます。しかし、こんなことを申し上げては非情に思われるかも知れませんが、あなたが求めておられるものを叶えられなくしているのは、知らず知らずとはいえ、実はあなたご自身であることを知ってください。
 宇宙には科学の実験室における如何なる分析検査にもひっかからず、化学薬品によってもメスによっても分析できず、しかも、これまで大きさを測定し重量をはかり切開できた他のいかなるエネルギーをも超越する力が存在します。
 私が言っているのは愛の力のことです。その愛は全生命の根源であり、宇宙を創造した大霊すなわち神の属性であるがゆえに死滅することはありません。それはまさに生命の息吹きでありエッセンスなのです。この愛さえあれば、縁で結ばれた者どうしはあらゆるハンディキャップ、あらゆる障害、あらゆる妨害を乗り越えて、いつかは必ずお互いを見出し合います。
 息子さんのことはよく存じております。聡明な、まばゆいばかりの青年でした。あなたは今その息子さんのことで心を痛めておられます。が、その息子さんは実は今もあなた方のお側にいるのです。死んでしまったのではありません。生命に満ちあふれた姿で生きておられます。いつかはその存在を証明することに成功するでしょう。そして傷ついた心をみずから癒すことになるでしょう。どうか私の言うことを素直に信じてください。息子さんは(戦死によって)何の傷害も受けておられません。精神的能力も霊的能力もまったく健全です。そのうちきっと、今だにあなたを取り巻いている濃いモヤ取り除けるようになるでしょう。それを是非とも突き破らねばなりません。
 しかし、それは大変努力のいることです。実に困難なことです。いかに困難なものか、例をあげてみましょうか。私はこうして地上との交信を可能にしてくれる通信網を操るための訓練に二十年以上も費してまいりましたが、今日の地上を取り巻く状況が(戦争のために)あまりに混沌とし、騒乱と険悪さに満ちているために、やむを得ずその繊細な通信網を最少限にしぼって、ようやくこの霊媒との連絡を確保しているのが実情なのです。
 お子さんがあなた方を喜ばせてあげられないのはお子さんが悪いのではありません。地上に近い霊界の下層界における混乱状態のせいであり、それにもう一つ大切な原因として、無理もないこととはいえ、絶対的確証を得ないと気がすまない、あなたのその冷ややかな分析的精神構造があります。しかし私もお手伝いします。そのうちその悲しみの鈍痛を忘れかけている時があることに気づかれるようになることを、ここで断言しておきましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.84-86

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 41-l (最愛の息子を亡くして嘆き悲しんでいる母親へ

 どうか次のことをよく理解してください。冷たいことを言うと思わないでください。本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで申し上げます。死は、死ぬ人自身にとって少しも悲劇ではありません。あとに残された人にとってのみ悲劇なのです。暗黒の世界から光明の世界へと旅立つことは悲しむべきことではありません。
 あなたが嘆き悲しむとき、それは実はわが子を失った自分の身の上を悲しんでいらっしゃるのであり、自由の身となった息子さんのことを悲しんでおられるのではありません。息子さんは地上にいた時よりずっと幸せなのです。もう肉体の病に苦しむことがないのです。刻々と蝕まれていくということもありません。内部の霊的資質を開発し、それを何の障害に邪魔されることもなく自由に発揮し、それを必要とする人のために存分に役立てることができるのです。
 あなたは見慣れたあの姿が見られなくなったことを淋しがっておられるのです。物的身体が二度と見られなくなったことを嘆いておられるのです。しかし、本当の息子さんは立派に元気で生きておられるのです。ただその手で触わってみることができないだけです。どうかその物的感覚の世界、五感というお粗末な魂の窓の向こうに目をやり、霊的実在を知ることによって得られる叡智を身につけるように努力なさってください。
 死は生命に対してまったく無力なのです。生命はつねに意気揚々としています。愛する息子さんは決してあなたのもとを去ってはいません。むしろ死によって霊的にはさらに身近かな存在となっているとも言えるのです。むろん、そのことが今のあなたに理解できないことは私も承知しております。なぜならあなたは物質の世界に生き、物質の目で見つめておられ、霊の世界のすばらしい壮観がごらんになれないからです。しかし、いつの日かその物質のベールが取り除かれて霊的な目が開かれれば、あなたも新しい世界の目も眩まんばかりの光輝をごらんになり、人生には完壁な償いの法則があり、すべてが神の摂理によって治められていることを理解されることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.88-89

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 41-m  (亡き子の死後存続の確証を求めている新聞編集者へ)

 私たち霊界の者の目には、本当は存在してはならない暗闇の中で生きている何億、何十億とも知れぬ神の子の姿が見えます。荒れ果てたみじめな家屋で空腹と渇きに苦しみながら、生得の権利であり神からの遺産であるところの ”魂の自由” を奪われた生活を送っております。
 その一方には、己れの飽くなき貪欲を満たさんがためにそうした無数の同胞を虐げつづけることに知恵をしぼっている者もいます。そこで私は霊性に目覚めた方々に申し上げるのです---勇気をもって闘いなさい。あらゆる不正、あらゆる闇、あらゆる横暴、あらゆる不公平と闘いなさい。その人の背後には人間的煩悩から解放された霊の大軍が控え、鼓舞し援助し、決して見捨てるようなことはいたしません、と。
 これが知識を伝達する手段をお持ちの方に私からお願いしていることです。私の言わんとしていることがお分かりですね。為さねばならないことが沢山あります。あなたも含めて、死後存続の確証を得たいと望んでおられる方に申し上げたいのは、(確証はおろか)霊的知識にめぐり合う機会すら得られない人が無数にいるということです。
 あなたも私たちと同じ視野に立って地上世界をごらんになることです。そうした無数の人たちが、いずこへ向かうべきかも分からぬまま、疑念と不安を抱きつつ狼狙し、途方に暮れた生活を送っております。道を見失っております。と言って、永年にわたって権威があるかに思ってきた宗教はもはや信じられなくなっております。暗中模索と挫折の繰り返しです。そこで私たちは考えたのです---よい道具(霊媒・霊能者)さえ用意できれば安心と確信と自信を生み出す知識の光をふんだんに地上へもたらすことができるであろう。そして神が意図された通りの生き方、つまり平和と協調と愛にあふれた生活ができ、神の一部としての霊性が要求するところのものを追求することに勤しむことになるであろう、と。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.90-92


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 41-n (夫を事故で亡くしたある婦人へのことば)

 この度のご不幸はあなたにとっては忍ばねばならない重い十字架ですが、死後の存続の事実を知らずに色褪せた古い信仰をもって対処するよりは、あなたのように知識と理解とをもって対処できる方はどれだけ幸せでしょう。もはやあなたの人生は処理できないほど大きな問題も困難もありません。そうしたものが地平線上に姿を現わしても、すぐに消えていくことに気づかれるでしょう。そこに霊の力が働いているからです。空虚な信仰ではなく確固とした知識の上に築かれた信仰から生まれる平静さと信頼感のあるところには、私たち霊界からの力も注ぎやすいということです。
 弱気になってはなりません。毎朝をこれから先の使命達成の前触れとして明るく迎えることです。これからも引き続き自信に満ちた生活の模範を垂れ、あなたより不如意な境遇のもとで迷い、恐れ、疑い、たぶん大きな不安の中で生きている人々が、あなたの生活ぶりの中に聖域、憩いの場、あるいは避難所を見出すことができるようにしてあげて下さい。
 あなたみずからが魂の灯台となって明るく照らせば、あなたはふんだんに霊の力の恩恵に浴し、それはひいては霊力の伝達者が同時に霊力の受信者でもあること、そのおかげで多くの仕事を為しとげることが出来ることの証となるのです。
 私は決してご主人がいま何の悔いも感じておられない---幸せいっぱいで満足しておられるなどというセリフは申しません。そんなことを言えばウソになります。幸せいっぱいではありません。埋め合わせをしなければならないことが山ほどあり、収支相償うところまで行っておりません。まだ今しばらく辛抱がいります。新しい生活に適応する努力をしなければなりません。
 でも、感情的なストレスの多くが消えました。当初のことを思えばずっと良くなられました。もうそろそろ、あなたへの影響を着実に行使することができるでしょう。これまでは思い出したように気まぐれにやっておりました。ご主人はもともとそういう方ではありません。何ごともキチンとしたがるタイプで、これまでほったらかしていたものを少しずつ整理していきたいと考えておられるところです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1985、pp.39-41


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 41-o [9-b] (愛の念や心に思うことはすべて力になるのか)
            - 夫を事故で亡くしたある婦人へのことば(続) -

 なります。ご主人は頼りになるものをあなたに求めておられるからです。ご主人はまだ地上の雰囲気の中にいること、これからも当分いまの状態が続くこと、したがって私たち霊よりもあなたの方が近づきやすいという事実を理解しなければなりません。ご主人はあなたが動揺したり躊躇したり疑ったりしない人間であってほしいのです。ですから、あなたが岩のように堅固であれば、そのことがご主人に安心感を与えます。愛と援助の念を送ってあげれば、それがご主人を安心≠フ衣で包んであげることになり、それが何よりの援助となりましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1985、p.45


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 41-p (死んでいった当人の身の上を悲しんではならない)

 肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んで行った当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。
 人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.56


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 41-q (死別した家族は決して遠くへ離れてはいない)
      =奥さんを病気で失った或る男性に対することば=

 これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。
 あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。
 あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。
 あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。
 あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された事実″を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生のすべての基盤となさってください。あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。
 神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.57-59


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 41-r (わが子の死を乗り越えて得られた霊界からの援助)
      =二人の子供を失った夫婦に対することば=

 あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝激的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。
 お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、其の自分を見出させてくれることになった触媒でした。
 魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。
 現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。
 真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。
 大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。
 霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.59-61


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 41-s (霊的に繋がっている者は決して別れることはない)
  =ジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の死後、交霊会に出席した奥さんと息子さんに対してのことば=

 今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして蔭から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。
 ご主人はいつもあなたのお側にいます。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係---半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。
 あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁なものに手の届く人はそう多くはいません。
 お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。
 ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機をもたらしてくれるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.61-62

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 41-t (死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできない)

 ― 永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた ―

 本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認してさしあげることを、とてもうれしく思います。
 地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを認識すべきです。
 地上に生をうけた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意ができたということです。
 その死別という試練に直面した時に自分をどう慰めるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。
  しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力はけっして見捨てません。必ずや援助の手が差しのべられます。
 悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。
 私はいつも思うのですが、地上の人々、中でもとくに霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感をもって認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです。
 その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来としてよろこんで迎えることです。
 あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろ努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、よく存じております。
 他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。
 ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお“わが家”とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存続の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つの手本を示していただきたいのです。
 別離といっても身体上のことであり、霊的には別れてはいないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊はけっして滅びないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.63-66

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 41-u[27-g] (死を生の終わりと考えて泣き悲しむ無知を取り除く)

生″を正しい視野で捉えていただきたい。その中で死″が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私たちは是非ともその無知----死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 217

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 41-v[27-h] (苦痛と老いと疲労から解放された人をなぜ悲しむのか)

 苦痛と老いと疲労と憂うつから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 217-218

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 41-w[2-zn] (死にまとわりついている悲しみと嘆きは取り除くこと)

 皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 218

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 41-x (子供を残して死にたくないのは自然の情ではないか) 

 あなたは生命を五、七十年の地上人生のみで考えていらっしゃいます。永遠の生命をこの世的なことだけで判断できるのでしょうか。大霊の叡知をいま生活しておられるチリほどの物質の世界だけで裁いてはいけません。地上には比較の尺度がないのです。生命活動の世界の中でも最低の界層の一つしか見ていない人間に、どうして最高界のことが理解できましょう。

   『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
      コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.160








   42. 悪・罪・憎しみ

 
42-a  (邪悪な人間でも憎むことはできない)

 私は憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます。

 そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
      1986、pp.124-125

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 42-b (地上にはなぜ邪と悪があるのか)

 権力の座にある者の我がままが原因となって生じる悪---私は無明という言葉の方が好きですが---そして邪、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきり区別する必要があります。地上の邪と悪には貧民街ができるような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やすためには同胞がどうなろうと構わない者たち、こうした現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らなければなりません。悪の原因にはそうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるのです。
 しかし一方において忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生はつねに暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくものであるということです。もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです。

  『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.159-160

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 42-c (敵に対する態度について)

 私にとってはどの人間もみな「肉体を具えた霊魂」です。私の目にはドイツ人もイギス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。時にはやむを得ず対症療法として罰を与えねばならないこともあるかも知れませんが、すでに述べた通り、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。すべての人類のためを思う願望からしか生まれません。復讐を叫ぶ者---目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。すべての人間に生きる場が与えられております。理性と常識によって問題を解決していけば、すべての者に必要なものが行きわたるはずです。という説明よりほかに分りやすい説明が見当りません。あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を為しとげたか。それは一語に尽きます---寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも寛容心があったからこそです。米国は人種の問題、国籍の問題、宗教の問題を解決してきました。黒人問題もほぽ解決しました。その歴史を通じて全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。
 今あなた方の国が体験していることは、やがて世界全体が体験することになります。米国は世界問題解決の、ミニチュア版のようなものです。例えばあなたの存在を分析してみても遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つがみな存在意識をもっており、雑多であるがゆえに粗末になるということはありません。逆に豊かさを増すのです。成長の途上においては新しい要素の付加と蓄積がひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来あがります。それは、自然というものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の性貿を生むのです。大自然の営みは一ときの休む問もない行進です。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.163-164

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 42-d [46-g] (霊界にも邪悪はあるか)

 私は邪と悪には二種類ある---この"悪"という言葉は嫌いなのですが---すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。私たちの世界には耶悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした佗しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。
 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。その両者のどらちが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私たちの世界へ来てからも葛藤はあります。それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精練と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表われであって、ほんの一時のことにすぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.180-182

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 42-e (死後の世界でも罪を犯すことがあるか)

 もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界では、それがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌にあらわれて、霊格が下がるのがわかります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.142

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 42-f (神は悪の思念のなかにも宿っている)

 神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは ″これとこれだけに存在します″というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる ″完全な生活″を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。

    『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.198

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 42-g (罪は告白すれば赦されるか)

 それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているにすぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.202

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 42-h  (犯罪を考えただけの場合と実行した場合)

 それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、まっ先に考慮すべきことは ”それは霊にとっていかなる影響をもつか” ということです。ですから、この際も”殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か” ということです。
 さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない---言わば臆病なのです。心ではそう思っても実際の行為には至らないというタイプです。
 そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。
 しかしそれを精神的次元で捉らえた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為にいたらせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.121-122

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 42-i (あなたは誰かを憎むことはあるか)

 私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲等が生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い---あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.123


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 42-j (残虐行為に対する報復をどう考えるか)

 心配なさるには及びません。神の摂理は完全です。一人ひとりが過不足のない賞罰を受けます。無限の叡智をもってこの全大宇宙を計画し不変の法則によって支配している神は、そこに生活している者のすべてのために摂理を用意しており、誰一人としてその働きから逃れることはできません。懲罰と報復とを混同してはいけません。
 私たちは同じ問題をあなた方とは別の視野で眺めております。復讐心と憎しみによって世の中を良くすることはできません。その邪心が判断力を曇らせ、決断を下すにも計画するにも不適格な状態になってしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.70-71


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 42-k (殺人犯を処刑しても問題の解決にはならない)

 それは憎むことを教えることになるでしょう。憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物ごとを判断してはなりません。これまで何度もくり返されてきたことです。殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません。地上へ戻ってきて他の人間を殺人行為へそそのかします。
 では一体どうすれば問題の解決になるのかということになりますが、処罰を矯正的な目的をもったものにすればいいのです。社会の一員としてふさわしい人間になってくれるように、言いかえれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人のためになるのです。それが ”人のため” の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.73

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 42-l(残虐行為や邪悪に対して寛大である必要はあるのか)

 寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません。・・・・・それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は “死”と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。その意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp. 125-126


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 42-m (敵のことをせめて悪く思わないだけでも進歩とはいえないか)

 おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと寛容の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。ですから、皆さんには可能なかぎりの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.193

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 42-n [19-e](悪人のエネルギーは成長と改善のためにも使用できる)

 私は悪″とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴ら″と思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。自分から悪人になってやろう″利己主義者になってやろう″と思って悪人や利己主義者になる人はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、したがって物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方角を間違えたにすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 95-96

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 42-o [13-zk] (悪とは何かということを見きわめておく必要がある)

悪″とは何かということを見きわめておく必要があります。地上生活の究極の目的は死″と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次の生活舞台にそなえて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢″です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。其の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 96

     *****

 42-p [19-f] (人間が作った教義を無視しても必ずしも罪にはならない)

 霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。もしもその夫婦が霊的に傷つけ合えば罪になることもあります。問題は視点をどこに置くかによって違ってきます。つねに霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 97

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 42-q [20-h] (故意に悪いことをするより無知から犯す間違いの方が多い)

 故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば悪人″といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 97

     *****


 42-r (罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つける)

 罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知・かんしゃく・せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。あとになってしまった″と思うようなことを考え、口に出し、行っているものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 97

     *****


 42-s (最大の罪は他人を身体的のみならず霊的に傷つけること)

 最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へはつねに善意で接し、いつでも援助の手が差しのべられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、せっかくのチャンスをみずから拒絶したその人を気の毒に思ってあげなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 98

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 42-t[10-t](霊的知識を持ちながらそれを日常生活に生かしていない人の罪)

 霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理にのっとった生き方ができない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 99


 42-u[10-u] (霊的真理を知っている人でも利己的になることがある)

 霊的実在に目覚めた人ならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 99

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 42-v [26-g] (霊的原理は倫理・道徳とは一体不離の関係にある)

 地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 100

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 42-w [13-zo](地上の悪は不完全な段階で神を表現している不完全さである)

 私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で悪″と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している不完全さ″を意味するに過ぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 111

     *****


42-x (罪とはその行為者の霊性を下げ同時に他人を傷つける行為)

 すべては罪″とは何かという定義にかかわる問題です。私にいわせれば、罪とはその行為者とそれを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人のためになる行為の反対と思えばよろしい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 100

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 42-y[13-zp](愛と憎しみは表裏一体で同じエネルギーの表現である)

 神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 112


 42-z[34-d] (愛の倒錯したのが憎しみで勇気が倒錯したのが臆病)

 私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質において同じ一本の棒の両端を表現したものです。私はまた、低く沈むことができただけ、それだけ高く上昇することができるとも申し上げております。臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することができるということです。人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへ転換されていくのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 225

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 42-za (他人に対する敵意や敵愾心は無知の産物である)

 敵意や敵愾心は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には洗脳″の結果である場合もあります。知的抵抗力のない幼い時期に植えつけられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 232

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 42-zb[61-zu] (相手に魂の準備ができていない時はなすすべがない)

 あなたの説く霊的真理が敵意をもって迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備ができていない時は、なすすべがありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 232-233











 43. 偶然・必然


 43-a (あなたも偶然に生まれてきたのではない)

 世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても---天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規則ないし法則を用意したのです。その背景としての叡智においても機構においても完璧です。その法則は霊的なものです。すべての生命は霊だからです。生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。霊は生命であり生命は霊です。生命が意識をもった形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。
 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡智と知識と理解カと真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。
 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。しかし決断は自分で下さなければなりません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に叶った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.161-162


     *****

 43-b [58-c] (偶然の出来事は一つもない)

 皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは自然法則の一部にすぎません。宇宙の大霊すなわち神は宇宙を法則によって経綸し法則に則って顕現していくように定めたのです。その法則が宇宙の全活動を統御しております。宇宙のいずこにもーー人間の知り得た範囲に留まらず人間の能力をはるかに超えた範囲においてもーー法則の行き届かないところはありません。
 その法則の中に神の意志が託されているのです。およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。
 科学者の手によって物質界の原理の多くが発見されました。が、その探求の手はまだまだ霊的な分野にまでは及んでおりません。人生を物的尺度でもって判断し理解し考察しようとするのは愚かです。小さな一部分にのみ関心を集中し、肝心な大きなものを見落しているからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.172-173

     *****

 43-c [17-q] (同じ病気でもなぜ治る人と治らない人がいるのか)

 そもそも心霊治療家のところへ足を運ぶということ自体、偶然のことと思われますか。偶然ではありません。偶然というものはあなたの世界にも私の世界にも存在しないのです。断言します---神の摂理は完璧です。いずれあなたもその働きを理解し、その完璧な摂理をこしらえた完全なる愛の存在を知って、私と同じように、まるで鉄槌を食らわされたような思いをなさる日が来るでしょう。
 私たちはすべて---私も同じなのです---暗闇の中で手探りで進みながら時おり光明の閃きを見つけ、摂理への洞察力を手にします。そこで感嘆します。しかし暗闇の中にいるかぎり摂理の全貌が見えませんから、私たちはそれをとかく偶然のせいにし、運よくそうなったのだと考えます。しかし、断言しますが、偶然というものは存在しません。
 そう言うと皆さんはきっと "では自由意志の問題はどうなるのか" と聞かれるでしょう。確かに人間には自由意志が与えられております。が、その自由意志の範囲は魂の進化の程度によって規制されると申し上げたはずです。自由は自由です。が、その自由にも程度があるということです。自由は自由です。が、それも宇宙の法則、すべてを経綸している法則の中における自由だということです。宇宙最大の組織であろうと極小の生命体であろうと、その法則から逃れることはできません。何ものも神の摂理から逃れることはできません。完璧なのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.136-137


     *****


 43-d (宇宙には偶然の巡り合わせや偶然の一致はない)

 一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。
 あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。
 全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困雄、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。
 人生は全て比較対照の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (1)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、pp.70-72


     *****


 43-e (いわゆる“偶発事故”による死はあるのか)

 ひじょうに難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。
 ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。したがって偶発事故の起きる余地はありません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。ぜひ知っていただきたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。
 よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 212-213

     *****


 43-f [50-j] (偶発のように思えることも因果律の働きの結果である)

 ― 偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大へん複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p.53

     *****


 43-g (法則によって規制されている宇宙では偶然はない)

 幸運(つき)というようなものは存在しません。法則の働きがあるのみです。たまたまそうなったというようなことは一つもありません。法則によって規制されている宇宙においては、すべての出来事は原因と結果の関係で生じているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.58-59

     *****


 43-h (自然災害の犠牲者は偶発事故による死になるのか)

 もしもその偶発事故″という用語が、因果律のリズムの範囲外でたまたま発生したという意味でしたら、私はそういう用語は使いたくありません。事故にも、それに先立つ何らかの原因があって生じているのです。原因と結果とを切り離して考えてはなりません。
 圧倒的多数の人間の地上生活の寿命は、あらかじめ分かっております。ということは、予定されている、ないしは運命づけられている、ということです。同時に、自由意志によってその死期″を延ばすことができるケースも沢山あります。そうした複雑な要素の絡み合いの中で人生が営まれているのですが、基本的には自然の摂理によって規制されております。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たなる啓示』
     (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.20












 44. 神

 44-a [4-i] (シルバー・バーチの祈り)

 神よ、あなたは一体どなたにおわし、いかなるお方におわすのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 私たちは自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間に目を向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
 そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心をもつ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて--- 物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
 あなたの子等のすべてがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すペての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インデイアンの祈りを---無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして---捧げ奉ります。

  『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.184-186

     *****

 44-b  (神は完全無欠か)

 あなたのおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この復難を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。
 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っているかぎりは、その五感がまわりの出来ごとを認識する範囲を決定づけます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。五感に束縛されているかぎりは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然カの作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.191-192

     *****


 44-c (子供に神のことをどう教えるか)

 説く人みずからが全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの美事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目約をもち、法則によって支配されていることを指摘いたします。そして更に人間がこれまで自然界で発見したものはすべて法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行き亘っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が---いかに現象が複雑をきわめていても---その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。
 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇び(くしび)なカ、それを神と呼ぶのだと結びます。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.196-197

     *****


 44-d (神とは法則である)

 人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。
 神がすべてを知り尽くしているのも法則であればこそです。法則だからこそ何一つ見落されることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が----いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも----けっして見逃されることがありません。すべてが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を引き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いになっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.26-27

     *****


 44-e (神とはなにか)

 神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。
 神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれれがどうして主人を知ることを得ましょうか。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさをもつ存在が描写できましょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.140-141

     *****


 44-f  (雀1羽が落ちても神が知るというのは可能か)

 神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。雀が神であるということは神が雀を知っているということです。神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.141

     *****


 44-g (神が愛にも憎しみにも宿るのは矛盾ではないのか)

 完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。
 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力すことであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯にすぎません。終りではありません。あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているにすぎません。それはあなただけに当てはまる考えです。あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。とにかく神は全存在に宿っております。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.142

     *****


 44-h (神も進化していくのか)

 そうではありません。神は法則でありその法則は完璧です。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しているということです。地震もかみなりも進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。
 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。
 それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。
 しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。
 霊は物質に優ります。霊が王様で物質は召使いです。霊がすべてに君臨しております。全生命のエッセンスです。つまり霊は生命であり、生命は霊なのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.143-144

     *****


 44-i (神は自ら創造した宇宙とは別に存在するのか)

 いえ、宇宙は神の反映です。神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。蠅に世の中のことが分かるでしょうか。魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。星が虚空を理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。
 しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.145

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 44-j (神が戦争の勝利のために味方することはあるか)

 宇宙の大霊である神はいかなることにも干渉いたしません。法則、大自然の摂理というものが存在し、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを止めたり干渉したりする必要性が生じるような事態はかつて一度たりとも起きていませんし、これからも絶対に起きません。
 世の中の出来ごとは自然の摂理によって支配されており、神によるいかなる干渉も必要ありません。もし干渉がありうることになったら神が神でなくなります。完全でなくなり、混乱が生じます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.79


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 44-k (神の愛が憎しみの中にもあることが理解できない)

 それはいまだに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。
 神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。これは私がくり返し説いていることです。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は憎しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。人生は常に比較対照の中で営まれています。
 たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有り難さは分からないでしょう。時には曇りの日があるから太陽の有り難さが分かるのです。人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味が分かるのです。病気になってみてはじめて健康の有り難さが分かるのです。病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.150-151

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 44-l (私たちは憎むということも学ぶべきか)

 私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。
 自分から ″悪人になってやろう〃 ″利己主義者になってやろう″と思って悪人や利己主義者になる人間はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。
 神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限、全智、全能、不可変、不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。
 神を、右手にナザレのイエスを従えて玉座に坐している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければなりません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体----雄大な千変万化の諸相の一つひとつに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。


    『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.152-153

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 44-m [58-k] (神とは法則であることを理解する重要性)

 人間的存在としての神は人間がこしらえた観念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。
 だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも、すべてが法則のワク内に収められているからです。すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引きおこし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終りました。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.155-156


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 44-n (神についてのこれまでの説明で納得できるものがない)

 その通りなのです。忘れてならないのは、人間はつねに成長しており、精神の地平線が絶え間なく広がっているということです。言いかえれば、境界線が取り除かれていきつつあるということです。知識が進歩すれば宇宙そのものと、その宇宙に存在するものについて、より大きな理解力がもたらされます。
 太古においては人間は環境についてほとんど知識がなく、自然現象についてはまったく理解していなかったために、何もかも神さまの仕業にしておりました。その神さまについても人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。そこに生贄の思想の原点があります。雷が鳴り稲光がすると神さまが怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるためにいろんなお供えをするようになったのです。
 そうした野蛮な小さい考えも次第に大きく成長し、人間は無知の暗闇から脱し、迷信の霧を突き抜け、知識の夜明けを迎えて、宇宙の根源はどうやら人間の想像を超えたものらしいということに気づきはじめました。しかし、だからといって古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。何かすごく大きな人間の男性のような姿をした神さまが宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今もなお存在しています。
 さて私たちはさらに一歩進めて、宇宙を創造しそして支配しているものは、男性神でもなく、女性神でもなく、とにかく形ある存在ではないと説いているのです。人間的な存在ではないのです。宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適用性においても無限なのです。それは無限の愛と叡智から生まれたものであり、したがって完壁であり、過ったり失敗したりすることが絶対にないのです。
 私は生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、初めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じこめてしまうことはできません。物質というのは霊のいたってお粗末な表現でしかありません。物質界に生きる人間は視覚と聴覚と触覚と嗅覚と味覚の五つの感覚でしか物事を判断することができませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することはまず無理なのです。
 そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向う側にあるものが理解できるわけがありません。そこで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるためにその完全さを理解することができないということです。人間が個体性を具えた限りある存在である以上、個体性のない無限の存在を理解することはできないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の手助けになればと思って申し上げてみました。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.142-144


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 44-o (神の御国はあなた方の中にある)

 イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17:21)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中に居るのです。ということは自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿しているということです。それを引き出して使用することが、この世に生まれてきたそもそもの目的なのです。
 私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊カに不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる愛の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。もしも地上人類が、その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることができれば、地上生活は一変することでしょう。その力はいくらでも授かることができます。神がわが子に施す恩寵ほど気前のよいものはありません。
 ですから、決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安の念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取り越し苦労は蹴ちらしなさい。そんな憂うつな有難からぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp.191-192.


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 44-p  (神の懐のなかに生きる)

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来ごとは宇宙のいずこにも決して起きません。
 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙問の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新らしい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。
 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれているこもを忘れぬようにしましょう。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
     1988、p.36 

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 44-q [11-b] (大霊である神を全能で慈悲ある存在とする形容について)

 なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡智と慈悲ぶかき目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。
 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。
 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識をもったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。
 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな人間神″的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在できるのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。
 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面はきわめて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、または霊的身体---どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい---で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.176-187

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 44-r [11-c] (大霊は宇宙の霊的意識の集合体と考えてよいか)

 結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理---大自然の法則---は、自動的に宇宙問のすべての存在を包含するからです。たった一つの動き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。宇宙は慢然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった一つの調和体なのです。
 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。
 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.189-190


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 44-s (宇宙を見ればある程度まで神の概念を掴むことが出来る)
     =「神とは何でしょうか」という質問に対して=

 神の概念を完全にお伝えすることは不可能です。神は無限です。一方、言語や概念、心象といったものはどうしても限界があります。小なるものが大なるものを包みこむことは出来ません。が、宇宙をご覧になれば、ある程度まで神についての概念をつかむことが出来ます。
 この大宇宙は法則によって規制されているのです。千変万化の諸相を見せていながら、その一つ一つに必ず配剤がなされているのです。見えないほど小さいものであっても、途方もなく巨大なものであっても、動き、呼吸し、存在しているものはすべて自然法則によって支配されているのです。何一つとして法則のワクからはみ出るものはありません。四季は順序よく巡り、地球は地軸上を回転し、汐は満ちては返します。種子を蒔けばその中にあったものが芽を出すのです。自然は正直なのです。
 法則は絶対です。新しい発見も、それが何であれ、どこであれ、やはり同じ自然法則のもとで統制されているのです。何一つ忘れられることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることはありません。
 何の力でそうなっているのか。それは限りある存在ではありません。尊大にかまえた人間的存在ではありません。旧約聖書に出てくるエホバ神でもありません。復讐心に燃え、機嫌を損ねると人間に災いをもたらすような神ではありません。気まぐれで、いつ腹を立てるか分からないような神ではありません。
 歴史と進化のあとをご覧になれば、地球が徐々に前に向かって、あるいは上に向かって進んでいることが分かります。ということは、その背後の力は善の力だということを示しているわけです。すべてを支配し、すべてを統制し、すべてを指揮し、すべての中に存在する、その無限の愛と叡智の権化としての神の概念を、あなたがたも少しずつ理解してまいります。それを私は“大霊”と呼んでいるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.129-131


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 44-t (神性の発現に伴って潜在的資質が発達し個性が強まる)

 質問: もう一つよく持ち出される問題に、人間の神への回帰思想があります。最後は神の霊の中に没入して個性を失ってしまうというのですが……

 究極はニルバーナ(涅槃)の達成ではありません。霊的進化はひとえにインディビジュアリティの限りない開発です。個性を失っていくのではありません。反対に増していくのです。神性の発現に伴って潜在的資質が発達し、知識が増え、性格が強化されていきます。
 神は無限なのです。したがって無限の発達の可能性があります。完全というものは絶対に達成されません。絶え間なく完全へ向けて進化して行きます。その結果として自我を失ってしまうことはありません。ますます自我を見出していくのです。

 質問: それはどういうものであるか、言葉で説明できないものでしょうか。

 いいえ、説明できません。なぜならばそれは言語を超越した次元のことだからです。意識と悟りの状態です。その状態に達してみないと理解できないものです。巨大な意識の海にインディビジュアリティが埋没してしまうのではありません。反対にその意識の海の深奥があなたのインディビジュアリティの中に吸収されてしまうのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.131-132


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 44-u[10-h] (生きがいある人生を送るには=1= 神を知る)

 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人のために役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。
 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。
 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩と近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。
 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。
 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊がすべてなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。
 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。
 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。
 その絆を断ち切ることのできる力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。
 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形がほかならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結びつけ、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。
 皆さんより永い経験をもつ私たち霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の美事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。
 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにもかかわらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 26-28

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 44-v (神というのは人格を具えた存在なのか)

 ― (その聖公会の牧師には夫人のほかにもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる)私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。“大霊とは法則です”と述べておられるのですが、別のところでは“未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです”とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。

 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。
 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で“それ”と呼んだら、男性名詞で“彼”と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。
 物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。
 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、したがって完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるよう働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。
 あなたは“人間性”を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。
 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植えつけられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。

 ― すべてが神のふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 88-91

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 44-w (大霊が霊を経ないで人間に直接語りかけたことはあるのか)

 ― 私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人類の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個人が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。
 それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることができます。
 又、病の人を癒やし、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
 一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 94-95

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 44-x (私たちから大霊に直接語りかけることはできるのか)

 ― 私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私たち自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。
 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 95-96

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 44-y (神とは大自然の法則よりもっと大きい存在である)

 ―(招待された科学者が語る)科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが“大霊”と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。

 まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴッド、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。
 限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後のその壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。
 今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。
 残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。
 神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。
 ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。
 神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。
 私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 106-109

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 44-z (神は人間を霊的にご自分に似せて創造された)

 ―(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。

 それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。
 別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。
 地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。
 神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。
 地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。
 神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 109-110

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 44-za [13-s] (魂が目覚めるには霊的な絶望の淵を体験する必要がある)

 ― 神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。
 同時に又、地上に救いの手を差しのべるべき時機が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度にすぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 110-111

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 44-zb (すべての生命に息吹きを与えてきた神の無限の愛)

 この大宇宙を開闢(かいびゃく)させた力、物的身体に生命の息吹きを与えた神、全天体、全法則の統治者である大霊、千変万化の生命活動となって顕現している霊、人類の全歴史を通じて各時代ごとにさまざまな予言者や霊媒を通して真理を啓示してきた父なる神、すべての生命に宿り、すべての生命の背後に存在する大エネルギー、それほどの偉大な存在が、牧師が数滴の水を新生児に垂らしたからといって喜び、垂らしていないからといって困った思いをなさることはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.61

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 44-zc(神とは宇宙の自然法則である)

 神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 108

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 44-zd(神は全生命、全存在、全法則に宿っている)

 神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれわれがどうして主人を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 108

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 44-ze(全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にある)

 あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 108

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 44-zf[75-g](物質の世界は完全からはほど遠い存在である)

 神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻―こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化して行くものだからです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 109

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 44-zg (地球上の天然現象のすべては神の法則によって営まれている)

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 109

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 44-zh[13-zl] (人間も魂を開発して神と直接の交わりをもつことができる)

 宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなたがた人間が理解できないのは当然です。しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 110

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 44-zi (神は愛を通してのみでなく憎しみを通しても働く)

 神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 112

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 44-zj (人生の明るい側面だけに神が宿っているのではない)

 善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 112-113

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 44-zk (神とは永遠不変の大霊であり霊的な宇宙エネルギーである)

 私が地上にいたころはインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の交霊実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。そこでわれわれは最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも白″というのは完全″無垢″混ぜもののない純粋性≠フ象徴です。そこで最高の霊は純白の大霊″であると考えました。当時としてはそれがわれわれにとって最高の概念だったわけです。それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移し替えるのであれば、永年使い慣れたものを使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形態をとっているのが人間です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 116

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 44-zl (全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることはできない)

 こうして神について述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界にはびこっていた数々の幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現しているものと信じます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 116-117

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 44-zm (人類の進化に伴って神の概念も深くなっていく)

 忘れてならないのは、人類は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭いものでなくなってきており、神ないし大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 117

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 44-zn (私は神とその無限の力に全幅の信頼を置いている)

 こうした教えを私が説くのは、その真実性をこの目で確かめているからです。その結果として私は、宇宙の大霊すなわち神とその無限の力に全幅の信頼を置いています。その力は誤るということがありません。人間は欠点のゆえに、弱点のゆえに、汚れゆえにしくじるということがあります。しかし、失敗は成功する方法を学ぶ手段でもあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 145

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 44-zo[52-l] (極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟である)

 すべての存在に神の息吹きが掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹きが宿されているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.191-192

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 44-zp[47-z] (困難に直面した時は必ず道は開かれるという自信をもて)

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台なしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンにそって摂理が働きます。宇宙の大霊もみずから定めた摂理の枠からはずれて働くことはできないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信をもつことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くためのあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。
 神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなたの方です。あなたが神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開かれるのだという自信をもつことです。不動の信念をもつことです。そうすれば道は必ず開かれます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.199-200

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 44-zq (何事が起きてもすべては神の叡智で良きに計らわれている)

 霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度ごらんになれは、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむということがなくなるでしょう。何事が起きようと、すべては神の叡智で良きに計らわれているとの確信をもつようになることでしょう。宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さをきわめた力ですが、叡智との組み合わせによって、必要なものは必ず成就してまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 234

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 44-zr(神は常に存在し、これからも永遠に存在し続ける)

 私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で悪≠ニ呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している不完全さ≠意味するに過ぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
      潮文社、1988、p.111

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 44-zs (人は神であり神の力が貴方の中にある) 

 皆さんの魂に喜びが満ちていれば、それだけ皆さんは神に近づいていることになる。人は神。地上で、この貴方を犯すものは何もない。私が永年かかって皆さんに教えたいと思ったのはこのことである。
 もし皆さんが物質に心を煩わしているなら、貴方はこの教えを学ばなかった者である。だからといって、私は物質を無視せよと言っているのではない。人は物質世界にあって自己を発揮し、またしかるが故に物質世界に責任を負うものであるから。
 しかし決して、人は神であり、神が人であることを忘れてはいけない。神の力が貴方の中にある。この力によって、貴方はいかなる物質にもまさり、またそれに犯されることはない。これまさしく、一切の悪を退け、病気を克服し、あらゆる障害と闘うことのできる力である。だがこの力を使う者の数はきわめて少ない。
 昔、イエスもそう教えたではないか。「天国は貴方の内部に在る」と。

    桑原啓善『シルバー・バーチに聞く』
     でくのぼう出版、2005、pp.131-132


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 44-zt (大霊の前ではすべての人間の秘密もむき出しにされる)

 人間には大霊の御心のすべてを窺い知ることはできません。しかし大霊には人間の心の奥底までのぞき見ることができます。けっして騙されることはありません。大霊の前ではすべての人間の秘密が素っぱだかにされ、むき出しにされます。自分をごまかしていた人間も大霊だけはごまかせません。摂理というものがあり、これだけは裏をかくことも無視することもできないからです。
 人間が大霊の計画の推進をおくらせ少しのあいだ障害となることはあっても、そのまま計画を押し留めつづけることはできません。
 そういう次第でわたしは霊界での大集会に参列したあと、他の多くの同僚と同じように、この地上にあって人類のために刻苦している同志を新たな希望と熱意と情熱とで鼓舞するための努力を一段と強める覚悟で、地上へもどってまいります。
 地上の同志の中には、真理普及の闘いで髪に白いものが目立っている人が大勢います。背負った重荷に腰が曲がりかけている人もいます。時には、結局は大したことは出来なかったと、残念がる人もいます。しかし、仕事の成果の判定者は自分ではありません。判定者はただ一人、寸分の不公平もなくすべてを判定なさる大霊のみです。

   トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
     コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 53-54








 45. 地位、財産、権力

 45-a (地上の地位、財産、権力は重要ではない)

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では "物"を有り難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死とともに消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。
 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりにできるだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重大な仕事です。手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生まれて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡智と理解を広める仕事に協力していることになります。
 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終ってはいけません。こんどはそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

    『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.117-119.

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 45-b (ある他界した人物の評価について)

 皆さんは人間が他界して私たちの世界へ来ると、その人の評価の焦点がまったく異ったところに置かれることをご存知ないようですね。皆さんはすぐに地上時代の地位、社会的立場、影響力、身分、肩書きといったものを考えますが、そうしたものはこちらでは何の意味もありません。そんなものが全てはぎ取られて魂が素っ裸にされたあと、身をまとってくれるのは地上で為した功績だけです。
 しかしこの方は地上で本当に人類のために貢献されました。多くの人から愛されました。その愛こそが死後の救いとなり、永遠の財産となっております。金銭はすべて地上に置きざりにしなければなりません。地上的財産はもはや自分のものでなくなり、愛、情愛、無私の行為だけが永遠の資質となるのです。魂が携えて行くのはそれだけであり、それによって魂の存在価値が知れるのです。
 したがって同胞からの愛と尊敬と情愛を受ければ、それが魂を大きくし、進化を促すことになります。真の判断基準によって評価される界層においては、そうした要素がもっとも重要視されます。肝心なのはいかなる人間であるかであり、何を為してきたかです。

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.90-91

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 45-c(物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もない)

 物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう。
 地上世界を見ておりますと、あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら、その一ばん大切なことを忘れ、怠っている人が大勢います。私たちの説く教訓の中でもそのことが一ばん大切ではないでしょうか。それが、いったん宝の世界へ行った者が再び地上へ戻ってくる、その背後に秘められた意味ではないでしょうか。それを悟ることによって生きる喜び---神の子として当然味わうべき生き甲斐を見出してもらいたいという願いがあるのです。
 それは、いわゆる宗教あるいは教会、教義、信条の類い、これまで人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱を生んできたものより大切です。少しも難しいことではありません。自分という存在の本性についての単純きわまる真理なのです。なのに、それを正しく捉らえている人はほんの僅かな人だけで、大方の人間はそれを知らずにおります。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.179-180


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 45-d (霊界への備えに自信をもち平然として死を迎える)
        −この世の成功者になるかどうかはどうでもよい−

 世間でいう成功者″になるかならないかはどうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.155-156

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 45-e[60-p] (人間の地上時代の名声は霊界では何の価値もない)

 (招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名のるのがいることを述べると)

 私たちの世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書きではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが衆目に赤裸々にさらされるのです。
 ごまかすことはできません。ウソをつくこともできません。見せかけも通じません。こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります。
 名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声はいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。
 大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。
 いつもお願いしているように、もしも私の言っていることにあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなところがあったら、遠慮なく拒絶なさってください。愛の心で接し真理の刻印を押されたものを説きながら、それで皆さんの魂に訴えることができなかったら、それは私たち霊団の努力は失敗に終わったことを意味します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 94-95

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 45-f[65-j] (見栄や肩書きははぎ取られて魂がまる裸にされる霊界)

 私はすでに多くの方が直感的に、あるいは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入れ先は霊界です。しかもその上層界です。そこではすべての人が実在を目のあたりにします。原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉い人とされ、地上時代の見栄や肩書きはすべてはぎ取られ、魂がまる裸にされて、長所も短所も衆目にさらされてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.182

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 45-g「10-zf」 (平然として死を迎えることができるようになるために)

 世間でいうところの成功者″になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。それさえできれは、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 225-226

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 45-h (名声とは子どもの玩具のようなもので何の価値もない)

 名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声をいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者といわれた人は名声を求めたでしょうか。大切なのは、どれだけ人のために役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 226















 46. 霊界の生活

 
46-a
(霊界の生活の種々相

 
(霊界の時間)

 地上の時間は便利さを目的として刻んであります。つまり地球の自転と太陽との関係にもとづいて、秒、分、時間、日を刻んであるわけです。私どもの世界には夜と昼の区別がありません。光の源が地上とは違うのです。したがって地上と同じ意味での時間はないことになります。こちらでは霊的状態で時間の流れを計ります。言いかえれば、経験していく過程の中で時の流れを感じ取ります。一種の精神的体験です。
 霊界の下層界では生活に面白味が乏しいですから、時間が、永く感じられます。上層界ではーーむろん比較上の問題ですがーー快い活動が多くなりますから短く感じられます。次々と新しい体験があるという意味です。別に時間とか月とか年とかの分け方はありません。仕事への携わり方はその人次第です。精神と霊に関連した活動はいくらでもあります。
 あなたがたの世界でも時間の錯覚があります。一時間はいつも一時間とはかぎりません。たったの五分が一時間のように感じられることもあります。それが時間の精神的要素です。地上においてもその精神的要素が現実に存在することを理解してくだされば、私ども霊界の者が地上の時間の純粋に機械的要素とは無縁であることがお判りいただけるでしょう。こういう説明よりほかに良い説明方法がないように思います。

 (霊界にも電車はあるか)

 ありません。ただし電車に乗りたいと思えば電車が目の前に現われます。理解できないでしょうね。でも夢と同じようなものです。電車で行きたいと思えば電車が現われるのです。
 皆さんだって、夢の中で船に乗ろうと思うことがあるでしょう。すると船が現われます。自分がこしらえるのです。そして少なくとも自分にとっては本物の船です。それに乗ると動き出します。必要な船員もちゃんと揃ってるでしょ? その時の意識の場においては現実なのです。現実というのは相対語であることを忘れないでください。

 (みんな自分の家をもっているか)

 はい、持ちたいと思う者は持っております。そう望んでそれなりの努力をいたします。が、持とうと思わない者もいます。同じく家を持つにしても自分の建築の好みに合わせて工夫する者もあります。例えばあなた方のご存知ない照明方法を組み込んだりします。こうしたことはその霊の創造的才能に関わる個人的な好みの問題です。
、いったん家をこしらえたら、その建築様式は純粋にその人の好みの問題となります。青空天井にしたければそうなります。好みというものは長い間の習慣によって形づくられていることを忘れてはいけません。習慣は精神的な属性であり、死後も存続します。
 生涯を英国だけで送った人は当然英国風の住居の様式に慣れ親しんでおり、したがって同じような様式の家に住むことになります。そういう習性が残っているからです。やがてその習性から脱け出せば、また別の種類の住居をもつことになります。こうしたことも生活の連続性を維持するための神の賢明なる配慮なのです。ショックを防ぎ、生活をスムーズに、そして調和のあるものにしてくれています。

 (国会はあるか)

 霊界には"国会″はありません。住民の生活を規制するための法律をこしらえる必要がないからです。霊界では自然法則が全てを律するのです。逃れようにも逃れられない形でその法則が付いてまわります。物的身体はもうありません。物的生活にかかわる諸問題も関係がなくなります。今や霊的な形態で自分を表現しており、霊的自然法則が直接に作用することになります。その仲だちをするものは何も要りません。

 (コンサート、演劇、博物館など)

 博物館は大きな建物ーー学問の殿堂の中に設けてあり、そこにありとあらゆる種類のコレクションーー地上の全歴史にわたる資料の中から霊界の興味ぶかい生活形態を示すものが展示されております。例えば地上に存在しない花の種類があります。そのほか人間の知らない自然の様相がたくさんあります。そのサンプルがホールに陳列してあるのです。
 コンサートはしょっちゅう開かれております。音楽家には事欠きません。大音楽家と言われる人も大勢いて、自分の才能をできるだけ多くの人を楽しませるために役立てたいと願っております。
 劇場ーーこれも数多くの種類があります。純粋に芸術としてのドラマを目的としたものもあれば、教養を目的としたものもあり、教育を目的としたものもあります。
 地上でもっていた天賦の才、素質、能力は死とともに消えてしまうのではありません。逆に、死がより大きな自由をもたらし、それを発揮する機会を広げてくれます。

 (新聞やラジオは)

 ラジオはありません。通信様式が違うからです。いちばん一般的な方法はテレパシーですが、要領さえ呑み込めば、目の前にいなくても莫大な数の人に向けて呼びかけることができます。それは地上のラジオとは原理が異ります。
 また、いわゆる新聞はありません。地上のようにその日その日の出来ごとを書いて知らせる必要がないからです。必要な情報はそれを専門としている者が然るべき方面へちゃんと送り屈けてくれます。その要領はあなた方には理解しがたいものです。
 例えば私が知らずにいることでぜひ知る必要のある事柄があるとしましょう。そんな時、知らせるべきだと思った人が思念で私に知らせてくれます。そういう仕事を担当している霊団があるのです。そしてそのための特殊な訓練をしております。

 (地上の私たちのインスピレーション)

 それはまた次元が異ります。人間がインスピレーションを受け取る時は、意識的にせよ無意識的にせよ、霊界のある知的存在(霊)と交信状態にあります。そして、その状態にある間はその霊の力なりインスピレーションなりメッセージなりを受け取ることができます。意識できる場合もあれば無意識のうちに受けている場合もあります。それはその時の環境条件によります。
 その点、私どもの世界では絶え間なく思念を出したり受けたりしております。霊的波長が同じ者どうし、つまり霊的知性が同質である者どうしで送信と受信を行っております。その波長は霊的発達程度によって定まります。

 (名前は地上時代のままか)

 そうです。身元の確認の上でそうしておく必要がある人は地上時代の氏名のままです。ただ、氏名がすなわちその人物ではないことを忘れてはなりません。その人を認知するための手段の一つに過ぎません。
 (地上の氏名のままの)状態が人によって何百年も何千年も続くことがあります。しかし、いつかは地球の磁場から超脱します。そうなると、もうその名前は意味がなくなります。その人の本来の霊格によって存在が確認されるようになります。
 地球の引力圏から脱すると、つまり地球とのつながりで暮らしている段階を超えて純粋に霊的といえる段階まで到達すると、ある種の光輝を発するようになり、それを見ればそれが誰それで、どの程度の霊格を具えているかが一目瞭然となります。

 (霊界で有名になる人)

 地上での名声は単なる"生まれ″に由来し、他に何の要因もない場合が多いものです。生きざま、努力、苦労によって克ち得たものでない場合が多いのです。そうした中でまったく名を知られず偉大さを認められなかった人物が、こちらへ来てそれに相応しい評価を受けている人が大勢、実に大勢いるものです。魂こそ消そうにも消せないパスポートなのです。
                       ′
 (書物のようなものは)

 あります。書物なら実にたくさんあります。地上にある本のすべての複製もあります。地上にない本もたくさんあります。こちらには芸術の全分野の資料を集めてある巨大な建造物がいくつもあり、その中に印刷物も含まれております。あなた方が興味を抱くものならどんなものでも用意してあります。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1985, pp.146-154 より。

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 46-b (霊界の生活と地上の生活)

 こうして再び地上へ戻ってくる時の私の気持ちはいつも "味気なさ"です。この表現でもまだ十分に意を尽くしていません。地上には光と生命が欠けています。うっとうしくて単調で、活力に欠けております。まるで弾力性を失ったクッションのようで、何もかもがだらしなく感じられます。生き生きとした魂、愉快な精神の持ち主はきわめて稀れです。全体を無気力の雰囲気が支配しています。生命のよろこびに満ちあふれた人は少なく、絶望と無関心がはびこっております。多分あなた方自身はそれに慣れっこになっているためにお気づきにならないのでしょう。
 私は全てが光り輝く色彩豊かな境涯からやってまいります。そこでは心は真の生きるよろこびにあふれ、各自が自分に合った仕事に忙しく携わり、芸術の花が咲き乱れ、全ての者が奉仕の精神にみなぎり、自分が持っているものを持たざる人に分け与え、知らざる人を教え導くことをよろこびとし、情熱と迫力とよろこびをもって善行に励んでおります。
 その点この地上は全てが今のべたような陰気さに包まれております。しかし、ここが私どもの奮闘しなければならない土地なのです。ここが私たちが奉仕しなければならない領域なのです。ここが全力を投入すべき場なのです。一人一人が神の無限の可能性を秘めた統一体としての一部なのです。自分という存在の内部に日常生活のあらゆる問題を克服していくためのインスピレーションとエネルギーを摂取する手段を宿しているのです。その永遠の実在に気づいている人、あるいは奥に秘められた能力を引き出す方法を心得ている人はきわめて稀れのようです。そうなると当然、物質的生活と同じく実感のある霊的生活ーー本当はより実感があるのですがーーの豊かさとよろこびを味わえるはずなのに、物的生活の味気ない単調さの方を好む者が多いことになります。私がなぜこんなことを言うのかお判りですか。
 何ごとにつけ、比較の仕方によって良くも悪くもなることは事実です。私が較べたのは、これまで地上で見てきたものと、先ほど行ってきた天上の境涯です。ですが、地上の人々もここに集える私どもと同じ知識を身につければ、少しもみじめに思う必要はなく首をうなだれることもないでしょう。元気づけてあげることが出来るということです。全てのカの根源は霊にあり、永遠の富を獲得することは人生の悩みのタネとなる物的なものよりも大切であることを悟ることでしょう。
 私の目には、あまりに多くの人間がその貴重なエネルギーを浪費させることにしかならない事で悩み、怖れ、取越苦労している姿が見えるのです。重点の置きどころが間違っているのです。視点を間違えているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1985, pp.157-160

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 46-c (霊界では人間は謙虚になる)

 霊界での生活が始まった当初はどうしてもそうなります。それがバランスの回復と修正の過程なのです。時が経てば次第に本来の平衡を取り戻して、地上生活の価値を論理的にそして正確に認識するようになります。こちらへ来ると、あらゆる見せかけが剥げ落ちて、意識的生活では多分はじめて自我が素っ裸にされた生活を体験します。これは大変なショックです。そしておもむろにこう考え始めますーー一体自分のやってきたことのどこが間違っていたのだろう。何が疎かにされてきたのだろうか、と。
 そうした反省の中ではとかく自分の良い面、功績、価値を忘れて欠点ばかりが意識されます。その段階ーーこれは霊界の磁気作用に反応しはじめた時に生じるものですが(※)ーーいったんその段階を過ぎると、自分の本来の姿が見えはじめます。それが人によっては屈辱的なショックであったり、うれしい驚きであったりします。人知れず地道に、その人なりのささやかな形で善行に励んできた人が、霊界では、地上で自分が尊敬していた有名人よりもはるかに高い評価を受けていたというケースはたくさんあります。有名にも二通りあります。 (※ 地上的波長の磁気作用から脱することで、言いかえれば地縛霊的状態を脱すること。俗に "成仏する" というのはその程度のことで、そこから真の霊界生活が始まる−訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.202-203

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 46-d (死者に対する霊界の受け容れ態勢について)

 霊界は実にうまく組織された世界です。各自が持って生まれた才能---地上ではそれが未開発のままで終ることが多いのですが---それが自然な発達の過程を経て成熟し、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになります。(受け入れ態勢のことですが)まず戦争の恐怖が地上を揺さぶっていない平和時においてほ、不可抗力の死の関門を通ってひっきりなしに霊界入りする者を迎える仕事に携わる男女の霊が大勢おります。迎え方はその人間の種類によってさまざまです。死後のことについて知っている人の場合、知らない人の場合、知っているといっても程度の差があり、間違っている場合もあります。そうした事情に応じてそれなりの扱い方を心得た者が応対します。そして初めは新しい環境に戸惑っていたのが次第に馴染んでくるまでその仕事に携わります。
 実は神の叡智の一つとして各自は地上にいる時から死後の環境に少しずつ慣れるように配慮されております。毎夜眠りに落ちて肉体が休息し、まわりの生活環境が静寂を取り戻すと、その肉体から霊体が脱け出て本来味わうべきよろこびの体験をします。しかしその体験は(肉体に戻った時は)大半の人間が忘れております。一段と高いすばらしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過したことがまったく脳の意識に感応しません。しかし死という大きな変化を経て新らしい世界へ来ると、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた環境へ赴き、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出しはじめます。最初はゆっくりと甦ってきます。そうなるまでの期間は永い人もいれば短い人もいます。一人ひとり違います。それは霊的意識の発達程度によって異なります。言いかえれば、霊的実在についての認識の程度によって異なります。
 正しい認識をもち、すでに地上時代から死後の世界を当然のことと考えていた人は死後、あたかも手袋に手を入れるように、すんなりと新しい環境に馴染んでいきます。死後に何が待ちかまえているかを知らずに来た者、あるいは間違った固定観念に固執していた者---大勢の案内者を差し向けなければならないのはこの類の人たちです。各自の必要性に応じて適当な指導霊が付けられます。まったく知らない人であることもありますが、実は永いあいだ地上生活の面倒を見てきた背後霊の一人であることがよくあります。また血縁関係の絆で引き寄せられる霊もいます。霊的な親和性に刺戟されてやって来る場合もあります。
 さて、以上はすべて平和時の話です。これが戦時下になると、いろいろと問題が厄介となります。なにしろ何の準備もできていない、何の用意もしていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから。みんな自分が死んだことすら知りません。気の毒ですが、その大半はしばらく好きにさせておきます。意識が霊界よりもはるかに地上に近いからです。手出しができないと観念して側でじっと見つめているのは、私たちにとっても悲しいものです。実に心苦しいものです。しかし、事情が事情だけに、彼らの方に受け入れ態勢が整うまでは、いかなる援助もムダに終ってしまうのです。言わば完全に目隠しをされているのと同じで、われわれの存在が見えないのです。死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けます。そしてそのうち---期間は各自まちまちですが---様子が少し変だということに気づき始めます。
 全体としては以前と変わらないのに、気をつけて見るとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいほ無気味なことが繰り返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでない。銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んで行かない。敵の身体に体当りしても相手は少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。自分の方がおかしいのか相手の方がおかしいのか、それも分らない。時には自分が幻影に迷わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。が、そのうち---霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時問であったり何日であったり何か月であったり何年であったり何世紀であったりしますが---いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。
 一人ひとりその接触の仕方、看護の仕方が異なります。自分が死んだことがどうしても信じられない者にもいろんな方法が講じられます。地上と隣接する界層へ連れていき、そこで地縛霊を扱っている霊団にあずけることもあります。本人の知っている人間ですでに他界していることもよく知っている人のところへ連れて行くこともあります。疑う余地がないわけです。このように同じ目的を達成するにも、さまざまな方法を講じるのです。
 さらには一時的にエーテル体つまり霊的身体を痛められたために看護してやらねばならない人がいます。いわゆる爆弾ショックのようなものを受けた者です。意識が朦朧としており、手当てが必要です。こちらにはそういう患者のための施設が用意してあり、そこで適切な手当をして意識を取り戻させ、受けた打撃を取り除いてやります。あくまで一時的な傷害です。そのことをぜひ強調しておきたいと思います。地上での死因がいかなるものであれ、それが霊体に永久的な傷害を与えることがあるように誤解されては困るからです。そういうことは絶対にありません。そうした傷害はショックの後遺症にすぎません。正しく矯正すれば跡形もなく消えてしまいます。完全に回復します。
 もう一つ強調しておきたいことは、みずから望まないかぎり、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。迎えに来てくれる人が一人もいないのではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います。誰一人見捨てられることはありません。誰一人見失われることはありません。誰一人忘れ去られることもありません。すばらしい法則がすべての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。地理上の問題は何の障害にもなりません。こちらには距離の問題がないのです。霊界全体が一つの意識となって、全てを知り尽くしております。地上と霊界との間の親和力の作用によって、今どこそこで誰が死の玄関を通り抜けたかが察知され、直ちに迎えの者が差し向けられます。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.13-18

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 46-e (一緒に死亡した家族は霊界でも一緒か)

 それは一概には言えません。これは答え方に慎重を要する問題です。落胆される方がいては困るからです。一つには再びいっしょになることを望むか望まないかに掛かっています。死後の世界での結びつきは結ばれたいという願望が大切な絆となるということ、そして地上では死後あっさりと消滅してしまう絆によって結ばれている家族がいるということをご理解ください。もし家族の間に何か共通したものがあればーーたとえば自然な愛とか情とか友愛といったものがあれば、それによってつながっている絆は切れません。夫婦関係と同じです。地上には結婚というしきたりだけで夫婦である場合がたくさんあります。霊的には結ばれていないということです。結びつけるものが何もないということです。こうした夫婦の場合は死が決定的な断絶を提供することになります。が反対に霊的次元において結ばれている場合は、死がより一層その絆を強くします。事情によっていろいろと異る問題です。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.23-24

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 46-f (霊界の生活と地上への働きかけ)

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に「死んだ」のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ溶け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。
 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持が起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解できるでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人にかぎられております。一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の値値もない世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、内在する霊的能力がそれまでいかに居睡りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。その地上世界を何とかしなければならない---私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまでに身につけた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。
 同時に私たちは、そのために必要とする力、人類の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。悪魔の密使と見なされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間とともに地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。
 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。
 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え---誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立流な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居睡りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです。が、そうした中にも、そこここで分ってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません。ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。
 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から脱け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.153-156
 
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 46-g  [42-d] (霊界にも邪悪はあるか)

 私は邪と悪には二種類ある---この"悪"という言葉は嫌いなのですが---すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。私たちの世界には耶悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした佗しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。
 葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。その両者のどらちが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私たちの世界へ来てからも葛藤はあります。それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精練と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表われであって、ほんの一時のことにすぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.180-182


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 46-h  (霊界では金銭の心配も生存競争もない)

 この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
 金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差しのべる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。
 地球へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私は地上に戻るのはいやなのです。なのにこうして戻って来るのはそう約束したからであり、地上の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくれるあなたがたの、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.133

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 46-i (最後の審判を待ち続けている霊)          

 (そのような霊がいるのは)本当の話です。それが私たちにとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しないかぎり、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けます。
 死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めないかぎり、私たちもどうしようもないのす。自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像がつかないでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.46-47

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 46-j (幼児に語る霊界の話)

 霊界にも広い広い動物の王国があることをご存知ですか。そこでは動物界のあらゆる種類が---動物も小鳥も---襲ったり恐がったりすることなくいっしょに暮らしております。ライオンが小羊と並んで寝そべっても、ケンカもせず餌食になることもありません。美しい花園もたくさんあります。そこに咲いている花々はそれぞれの種類に似合った色彩、濃さ、形をしています。地上では見られない色彩がたくさんあります。また美しい湖、山々、大きな川、小さな川、豪華な羽毛と目の覚めるような色彩をした小鳥がたくさんいます。昆虫もきれいな種類のものがたくさんおります。地上で見かけるものよりは変異しています。(物質界という)さなぎの段階を通過して、本当の美しい姿を見せているからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.161-162

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 46-k (霊界ではウソをつくことは出来ない)

 ウソというのが存在できないのです。神さまの摂理をごまかすことはできないからです。あるがままの姿が映し出されるのです。見せかけも、ごまかしも、ぜんぶはぎ取られてしまい、そのままの姿がみんなに見られるのです。でも、それを恐がるのは自分のことしか考えない人たちだけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.164

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  46-l (幼児に語る霊界の話 =続=)

 ではもう一つだけお話してお別れすることにいたしましょう。私は間もなく地上を離れ、いくつもの界を通過して私の本当の住処のある境涯へ行き、そこで何千年ものあいだ知り合っている人たちとお会いします。地上のために働いている人たちばかりです。しかもたびたび苦しい思いをさせられています。私はこれからそこへ行って、かつて身につけた霊力を取り戻してきます。
 そこへ行って私はこれから先の計画を教えていただき、これまでに私が仰せつかった仕事をちゃんとやり遂げているかどうか、どこまで成功しどこが失敗したか、それを次の機会にやり直すことができるかどうかをお聞きします。それからみんなで揃って大集会に出席して、そこであなたたちがイエスさまと呼んでいる方とお会いします。するとイエスさまは美しさとやさしさと理解と同情にあふれたお言葉を掛けてくださいます。そのとき私たちは神さまのマントで包まれます。愛の衣で包まれます。そして神さまの尊い力で身を固めて一人ひとりに授けられた新しい使命に向かって出発します。お二人のような子供から ″シルバーバーチさんが大好き″と言われるごとに私は ″ああ良かった″と思います。なぜなら私たちの仕事は愛を得てはじめて成し遂げられるものであり、愛の反応を見出してはじめて仕事がうまく行っていることを知るからです。
 どうかその天界の光がみなさんの毎日の生活に反映されることを祈ります。神の恵みがいつもみなさんとともにあることを祈ります。ここにおいでのみなさんは今まさに神が託した霊団の保護のもとにいらっしゃいます。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.168-169

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 46-m(霊界へ行ってから後悔すること)

 いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終ったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一わかります。逃がしてしまった好機がいくつもあったことを知って後悔するわけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.179


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 46-n (死後の世界はそんなに素晴らしいところか)
       −なんの悩みもないのかと聞かれて−

 同じ死後の世界でも、どこに落着くかによって違ってきます。バラにもトゲがあります。悩みもあります。が、それもすべて今たずさわっている使命に関わったことだけです。だからこそ時おり地上を去って、私を地上へ派遣した霊団の人たちのもとへ帰り、こんど地上へ行ったらこうしなさいとの指示を仰ぐのです。私たちも数々の問題を抱えています。が、それはすべて神の計画の達成という目的に付随して起きることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.24-25


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 46-o  (ことばでは伝えることが困難な霊の世界の無限の豊かさ)

 私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 76


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 46-p (霊界ではお互いの意思疎通はどのようにして行うのか)

 こちらへお出でになれば、もはや肉体はありません。肉体そっくりの身体はありますが、言葉は話しません。言語というのはいたってお粗末な思念の代用品でして、地上に近い下層界を除けば、そういうお粗末な媒体を用いなくても、以心伝心のすばらしい交信方法があります。思念は言語を超えたものです。
 同じように、食べることも飲むこともいたしません。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。
 永遠の太陽ともいうべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。霊的性質が何一つ隠せないという意味において、みんな霊的に素っ裸ということになります。あるがままの姿が知られ、見せかけも代用もカムフラージュもできません。
 あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしかできません。自分より上のレベルの者とはできません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルのものが受け入れられないからです。自分より下のレベルまで下りることはできます。自分の方が霊的にすぐれているからです。
 いずれにしても交信は直接的に行われます。あなたが心に抱いたことがそのまま相手に知られ、相手の考えることがそのままあなたに知れます。面倒なことは何も生じません。
 皆さんはこの英国に住んでいて英語をしゃべっています。英語のしゃべれない外国人と会えば言語が違うために意志の疎通ができません。が、以心伝心の交信には言語は不要です。迅速です。厄介なことは何一つ生じません。
 私がこうして霊媒を支配している間は、思念や画像や映像やシンボルを私に供給してくれる係がいます。供給という用語が適切かどうか知りませんが……私はそれをあなた方の言語に翻訳する訓練ができております。それにはずいぶん長い年月を要しました。支配中は霊媒の語彙の中から適切な用語を見つけ出さねばなりません。時には霊媒自身が忘れているものもありますが、記憶の層にはちゃんと残っております。が、霊媒から離れてしまえば地上の各種の文献を調べることもできます。必要とあれば地上の大家の書いたものを見つけ出して、イザという時に備えてメモしておきます。この霊媒から離れているかぎりは思念を言葉に翻訳する面倒な手間はいりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 77-78


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 46-q  (視力は物的なものだがどうやってお互いを認識するのか)

 霊的な眼がありますからー人ひとりが認識できます。私たちは盲目ではありません。
 あなた方はその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動もまったく無意味なのです。
 脳がレシーバーとしての働きをしてくれれば、あとはその情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには “見る” 能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。”見えた” という認識は、精神がその印象を脳から受け取ったときに生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 79


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 46-r (霊界で相手を認識するときの状況について)

―その人の何を見ているのでしょうか。
人間と同じ形体です。頭もあり胴体もあります。

―身体はないとおっしゃいましたが……
物的身体はないと申し上げたのです。霊的身体はあります。

―ということは、相手を認識するときは霊体を見ているわけですか。
もちろんです。みんな同じに見えるわけではありません。一人ひとり違います。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、p. 79


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 46-s (この地上にあるものはすべて霊界にもある)

 すべての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されて納めてある図書館があります。必要が生じるとそこへ行って調べものをして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものは全てこちらにもあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 80-81


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 46-t (地上的成長のどの段階で人間の霊体がそちらから見えるのか)

 それはその段階での霊的覚醒のレベルによって違ってきます。地上と霊界の違いは、地上ではさまざまな発達段階の人がいっしょに生活できることです。こちらでは同じレベルまで発達した者としか会えません。霊的身体は霊格が高くなるほど成熟していきます。霊界での成長は(老化に向かうことではなく)成熟するということです。ですから、年老いて他界した人はこちらへ来て若返り、若くして他界した人は霊的成熟度に似合った顔つきとなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 81


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 46-u (「人間にはなぜ顔があるのでしょうか」という質問に対して)

 それは、個性というものがそれぞれの魂の刻印だからです。まったく同じ人は二人といません。双子でも霊的には同じではありません。完全へ向けての過程---本質的には無限の過程ですが---は顔や形体が無くなるということではありません。個性が崇高さを増し、霊的成熟度が増し、一段と強烈な光輝を発するようになります。その過程を続けていくうちに、上層界には目も眩まんばかりの光輝を発する存在がいることを知るようになります。
 私が地上を離れて内的上層界へ帰ると、”神庁”とでもいうべきものに所属する存在と出会うことがある話をしたことがありますが、そうした霊もみな個性を具えた存在です。個体性を失ってはいません。不完全の要素が少なくなり、完全無欠の要素の占める部分が多くなった段階にまで進化しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 82


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 46-v (なぜ霊界へ行ってからも霊的身体が必要なのか)

 霊はその個性に応じて自我を発揮するためには何らかの形体が必要なのです。霊それ自体には個的形体はありません。霊とは生命です。が、その生命が顕現するには人間なり動物なり植物なり花なり、その他ありとあらゆる形体をとる必要があります。霊は何らかの形体をとらないことには存在が認識されません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 82-83


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 46-w [80-t] (霊界で光り輝く存在″と直々に会えるのはなぜか)

 ----「霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が光り輝く存在″と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか」という質問に対して----

 いいえ。決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けにしなければなりませんでした。しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している “正反対の体験” を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。
 霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。たとえば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識できる人も描写できる人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さなかけらにすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 83-84


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 46-x (地上の人間には理解することが容易でない霊界の本当の姿)

 とても難しいのです。しかし、その理解のための準備が睡眠中に行われております。睡眠中は肉体を離れて一時的に “死ぬ” わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 84-85


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 46-y  (背丈が6フィートの人間は霊界へ行っても6フィートか)

 どうやらこの質問には個人的興味が混ざっているようですね。答えはイエス≠ナす。物的身体は霊的身体の写しだからです。ただし、そのサイズは霊的発達程度とは関係ありません。身体は巨人でも霊的には小人である場合があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 85


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 46-z [9-c](人間が他界した直後には言語上の問題があるか)

 あります。いわゆる "幽界"、つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております。

 ----さらに、「一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか」という質問に対して----

 もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 85-86


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 46-za (もしあなたと一緒になれば、そこは私の精神で作られた世界か)

 そうとも言い切れません。もしもあなたが今の私と同じ位置、つまり同じ発達レベルにあると仮定すれば、あなたは私に見えるものを見、私が体験するものを体験します。が、いま私が住んでいる世界---あなたといっしょになると仮定している世界が何で構成されているかはまた別の問題です。これは言語で説明するのは困難です。言語というのはその裏側にある実在をいくらかでも表現しようとして絵画や概念やシンボルなどをそれでくるんでみているに過ぎません。
 私たちは “生命とは霊である” というところから出発いたします。私たちの世界はあなた方の世界と同じく霊というものがあってはじめて存在しているのです。その霊は無限です。したがって無限の顕現をしています。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 87


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 46-zb (霊体も物質であって原子の回転速度が一段と速いだけなのか)

 それもこれもみな、ただの用語にすぎません。物的≠ニか物質≠ニかを用いる時はその意味を明確にしておかないといけません。ある意味では霊の世界は霊化された物質”で出来ていると言うことができます。しかしその時の物質≠ニいう用語はあなた方が理解しているものとは違います。また物的身体≠ニいうのも、今あなたがおっしゃった通り原子で出来ているのです。原子はさらに細かく分析できますが、そのうち計量器では分析できない段階に至ります。するとその原動力は物的なもの、形あるものではないことになります。つまり物質が形あるものというのはそう見えるというだけのことということになります。固いと思うのは錯覚なのです。
 人間にはいろいろな身体があって、それぞれ発達程度が異なります。その肉体から脱け出ると、それとそっくりの幽質の身体をまといますが、それは地上時代からずっと使用し自我を表現していたものです。バイブレーションが地上生活にふさわしい高さだからです。その幽体は地上で肉体が実感があったように、他界直後の生活においては立派に実感があります。
 すべては意識している場″の問題です。船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。夢だった″と思うのは目が覚めた時です。そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。目が覚めている間は地上生活が実感があるように、その夢の状態が実感があるように思いつづけることでしょう。
 今のあなたは夢を見ているのではないという確証はどこにあるのでしょう? もしかしたら、ここにいる人たちといっしょに同じ夢を見ているのかも知れないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で地上生活という夢を見つづけている人間が無数にいるからです。その夢から覚めて、ようやく自分は肉体ではないという自覚を得るのです。何度も申し上げているように、あなた方は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではないのです。これは大変な違いです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 90-92


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 46-zc(われわれにはもともとパーソナリティ=確定した人物像= はない)

 おっしゃる通りです。パーソナリティというのは地上にいる間だけのものです。地上生活のために便宜上つけているマスクのようなものです。地上生活が終わればマスクは捨て去ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 92


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 46-zd (霊界では行動範囲に限界はあるか、自由に旅行もできるのか)

 もちろん出来ます。ただし、それが出来るだけの資格を手にすればのことです。霊格の問題です。そこに目的意識というものが無くてはなりません。(遊び半分、面白半分の宇宙旅行や探険は許されないということ---訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 109-110


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 46-ze (地上で始めた仕事を霊界でも続けている人が大勢いる)

 そちらで医者だった者がこちらでさらに勉強し、地上での知識をプラスして病気の治療に当たっている人がたくさんいます。それが霊的開発の証なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 110


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 46-zf [9-f](霊界の生活にも地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのか)

 こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。
 そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.114-115


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 46-zg  (家も庭園もあり湖も海もある霊界の輝かしい生活)

 霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。
 ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えは手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした(地上とよく似た)環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大へんショッキングな出来ごととなってしまいます。
 霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より高い境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完壁な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。

 (訳者注 − オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻でアーネル霊が、暗黒界から救出された霊の集団によって作られたコロニーについて次のように述べている。《その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難、いや、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします》)

 霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 115-117

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 46-zh (死んで霊界入りした人間を指導する霊界の組織)

 ― 死んで霊界入りした人間は自分が死んだことが自覚できるのでしょうか。

 みんながみんな自覚できるとはかぎりません。大半の者が自覚できます。が、完全な自覚(悟り)に到達するには相当な時間が掛かります。

 ― 霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

 いえ、いろいろと指導しております。本人は気づかなくても陰から手助けしております。
 霊界はすべてが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。その霊たちが神の計画推進の任に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.60-61

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 46-zi (霊界の生活には無限の種類の仕事と楽しみがある)

 こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽のまわりを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。したがって地上のような時間というものがありません。
 こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐためとか家賃を払うためとか衣服や食糧を買うためにするのではありません。
 地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能をもつ人が次々と霊界へやってまいります。そういう人たちはこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することができます。
 みんな自分がしたいと思うことにたずさわっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することができます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことができます。絵画に興味のある人も地上と霊界の傑作のすべてを鑑賞することができます。
 子供が好きな人は両親に先立ってこちらへ来た子供の世話をすることができます。魂に病のある者に関心を寄せる人は、そうした霊のための更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事にたずさわります。それぞれに応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界のための仕事に従事する者もいます。
 とにかく地上を去ってこちらへお出でになれは、言葉では言い尽くせないほどの豊かさが待ちうけております。たとえば音楽であれば、地上に無い音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。そのすべてをお話しすることはとても不可能です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.68-69

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 46-zj (霊界へ行っても地上と同じように何らかの形体を具えるのか)

 幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。また他人を認識するための感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部そろっています。
 ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能して行く上で必要な霊的器官を具えています。
 よく理解していただきたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり実感があり、霊というと何だが影のようで実体がないかに思えるのでしょうが、私たち霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。
 と言っても、人間がしゃべるに必要な器官は霊にはありません。しゃべる必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることができるのです。

 (訳者注― 別のところで、言葉でしゃべる必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際にしゃべり合っていると述べている。いわゆる地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気づかずに生活している霊には地上時代に使用した器官がすべて残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.69-70

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 46-zk (美しい霊界では生活のための必需品も全部揃っている)

 海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、もはや物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮りにいても、それは例外に属します。
 もう一つの霊界の有難い点は、地上のような“生きるための必需品”を得るための苦労がいらないことです。食糧品や衣類を買う必要がありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部そろっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.70-71

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 46-zl [2-y](死後の生命と霊界での生活をいかに立証するか)

 − 死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

 死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、はたして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
 霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。
 死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。
 経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。
 界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落着く先は、あなたが地上で身につけた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。
 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。
 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
 難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても“生きている”ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。
 もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それはウソを言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。
 霊は、今の私のように人間の口を借りてしゃべらなくても、いつでも援助の手を差しのべることができます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で可能なかぎり援助し続けるでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 82-84

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 46-zm [65-c] (霊界でピアノを習いたい時はやはり練習が必要か)

 もちろんです。何もしないで身につくものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境のために発揮できなかった才能をもつ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられることがよくあります。霊界では、何ものにも束縛されることなくそれを最高度に発揮することができます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 90-91

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 46-zn (霊界の生活を地上の人へ説明する難しさ)

 ― 睡眠の必要がないそうですが、休息とか寛ぎの時間はありますか。

 あります。寛ぐ必要を感じたら寛ぎます。

 ―霊体はどうやって養いそして維持するのでしょうか。

食べものによって養う必要のある物質的身体ではありません。

 ― 霊的な栄養はありますか。

 あります。摂取すべき霊的エネルギーがすべて揃っています。霊は無限です。

 ― こうしたことは無論そちらへ行くまでは理解できないことなのでしょうね。

 その通りです。こちらへお出でになれは、こんどは私と同じように、それを地上の人に説明する難しさを知ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 91-92

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 46-zo (霊界のことは物質界の言語では表現できない)

 ― ここにいる私が、死後はあなたと同じ世界へ行くことは疑う余地もなく理解しております。あなたのお蔭でその事実に途方もなく大きな意味があることを知りました。その意義を地上にいる間に実現しなければなりません。また私たち人間には何らかの霊的才能が宿されていて、それを地上において発達させるのが私たちの義務であることも知りました。私たちは地上では大たい以上のように理解するのが精一杯であると考えてよろしいでしょうか。

 非物質的な霊の世界のことを物質界の言語で表現できないのは、あなた方の思考そのもの、あなた方の精神的概念のすべてが、その言語によって規制され、意識がその三次元の地上界だけに縛られているからです。
 五感もそれ自体は素晴らしいものですが、現実にはそれが外界から摂取するものを制限し、また摂取したものの理解を制約しています。霊覚者は表面の生命活動の裏側にある大きな実在を霊覚によって認識しますが、それを伝えようとすると言語の無力さを痛感します。言語は人間がこしらえたものであり、インスピレーションはその言語を超越したものだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 92-93

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 46-zp (霊界における各界層間の連絡と思念のプライバシー)

 ― 霊界の各界層間の連絡はどのようにして行うのでしょうか

 今も申し上げた通り(46-zo)、そうした質問にお答えする上で問題なのは、言語を超越した実在を言語によって表現しなければならないということです。“界層”という用語自体がまず問題です。皆さんは地球の表面のようなところを想像なさるのでしょうが、実際はただの“状態”であり“段階”の一つです。
 霊界は段階的に上下の差があります。一つの段階はすぐ上と下の段階と融合してつながっており、それが限りなく続いております。明確な境界線が引かれているわけではありません。地理的な区域というものはないのです。
 ある界からそれより高い界へ一方的に通信を送ることはできません。が、高い界から低い界へ向けて通信を送ることはできます。その方法は以心伝心によります。言葉はしゃべりません。音声を発するための物的な器官がないからです。思念対思念による交信です。

 ― すると霊界には思念のプライバシー(秘密)はないわけですか。

 ありません。私たちの世界では何一つ隠すことができません。すべてが知れてしまうからです。だからといって、別に恥ずかしく思うことはありません。地上ではごまかし、ウソをつき、だますことができます。名前を合法的に変えることもできます。が、本性を変えるわけにはまいりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 93-94

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 46-zq (霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事はできない)

 ― 霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事をすることができると聞いています。これはグループソールの原理と関係したことなのでしょうか。つまり一個のダイヤモンドの複数の相の一つ一つが行うことが、あたかも一つの相が同時に行っているように思えるのでしょうか。

 霊界ではさまざまな霊相を表現することができますが、一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することはできません。一度に一つの場所にしか存在できません。
 ただ、地上の人間のように物的条件による距離の制約は受けません。たとえば地上の距離にして何千マイルも離れたところへでも、行きたいと思えば一瞬の間に行くことができます。
 それはダイヤモンドの一側面、つまりグループソールの一個の単位であることとは何の関係もありません。その側面が全体としての進化に寄与するための体験を獲得するために地上へ誕生します。

 ― その結果ダイヤモンドが全体としてより立派なものとなるわけですね。

 そういうことです。一段と深い霊的覚醒と発展が得られるからです。各側面が地上での体験によって霊性を高めるのです。地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。そうでなかったら存在しないはずです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 99-100

     *****


 46-zr (実在する霊界は想像できないほど豊かで美しい世界)

 私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、皆さんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。
 物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ません。が、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物的なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永続性はないのです。
 その霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。そして二度と同じ形体には戻りません。一方、真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。
 肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 102

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 46-zs  (霊界で住む領域はすべて霊性の発達程度によって決まる)

 霊界へ来て何年になるとか、地上で何歳の時に死んだといったことは何の関係もありません。すべては霊性の発達程度によって決まることです。そこが地上世界と霊界との大きな違いです。地上ではみんなが同じ平面上で生活し、精神的にもまったく異なる人々と交わりますが、こちらへ来ると、あなたが交わる相手は霊的に同質・同等の人ばかりです。立派な音楽家の曲が開けないという意味ではなく、生活の範囲がほぼ同等の霊格の者にかぎられるということです。そこには親和力の法則という絶対に狂うことのない法則が働いております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.34

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 46-zt [2-zf](死後に赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしい所である)

 死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.34

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 46-zu (霊界を美と光と素敵さばかりで想像するのは間違いである)

 霊の世界が何もかも明るく美しいものばかりと思うのは間違いです。なぜなら、そちらの世界から送り込まれてくる者によって構成されているからです。
 もしそちらから送り込まれてくる者が聖人君子ばかりであれば、死後の世界は今すぐにも天国となるでしょう。ところが残念ながら、現実はおよそそれとはかけ離れております。私たちが迎え入れる者の中には、性格のいびつな者、無教養の者、霊的なことに無知な者 ――がいます。そういうものを学ぶ環境に置かれていなかった人たちです。
 また、利己的なことにばかり奔走して、霊的な側面がまったく眠ったままの状態でやってくる者もいます。ですから、霊の世界を美と光と素敵さばかりであるかに想像するのは間違いです。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
     (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.172-173

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 46-zv (霊界にも専門学校、総合大学等が用意されている)

 (「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」という質問に対して)

 もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。
 そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。
 この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。
 地上の皆さんでもその知識に与ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)
     コスモ・テン・パブリケーション、1990、p.43










 47. 霊界からの導き・援助


 47-a (私たちは霊界から見守られている)

 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありま せん。私どもはあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。
 できるだけ高い界のバイプレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して 宇宙で一人ぽっちでないこと、いつもまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。
 人間は同胞のために自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。
 単なる信仰、盲目的信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。
 いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。

       『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.15-16


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 47-b (私たち一人一人につく守護霊)

 母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当る霊が付きます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。守護霊は決まって一人だけですが、その援助に当る霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめ分かっております。が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988,  p.179


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 47-c (私たちをいつも導いてくれる力 )

 もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私がなによりも差しあげたいと思うのは "霊的視力" です。この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。あなた方は身のまわりの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいものかをご存知ない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つ無いことを自覚されるはずです。
 私たちは法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲内のことをするほかはありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。霊のカは生命のカそのものだからです。生命は霊なしには存在しません。生命ーーその本質、活力、潜在力、こうしたものほ全て "霊"であるからこそ存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp76-77


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 47-d  (背後霊と人との結びつき)

 どうか私のファンの方々、ますます大きくなった私の家族ともいうべき方々によろしくお伝え下さい。そして目にこそ見えませんが私がその家族の一員として常に目を離さずにいると伝えて下さい。ただの挨拶の言葉として述べているのではありません。実際の事実を述べているのです。決して見捨てるようなことは致しません。援助を必要とする時は精神を統一して私の名を唱えて下さるだけでよろしい。その瞬間に私はその方の側に来ております。私は精一杯のことを致しております。これ以上はムリというぎりぎりのところまで力になっているつもりです。困難に遭遇しないようにしてあげるわけにはまいりません。躓かないようにと、石ころを全部取り除いてあげるわけにはいきません。ただ、たとえ躓いても、転ばないように手を取って支えてあげることはできます。肩の荷をいっしょに担いであげることによって苦しみを和らげてあげることはできます。同時に喜びもともに味わって一層大きくしてあげることも出来ます。
 いかなる困難も、解決できないほど大きいものは決してありません。取り除けないほど大きい障害物もありません。私たち霊界の者からの援助があるからです。人間の力だけではムリとみた時は別の援助の手があります。人間としての精一杯の努力をした上での話ですが・・・・・・・・

      『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.32-33

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 47-e (霊界からの援助の確証)    

 ある程度は"信じる″ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することはできないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することはできないのです。しかし、ある程度はできます。それを表現する能力を具えた道具(霊媒・霊覚者)が揃った分だけはできます。それを基盤として、他の部分は自分で合理的と判断したものを受け入れて行けばよいわけです。
 いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。私がいかなる存在であるかについては、これまでにも必要なときに、そしてそれを可能にする条件が許す範囲で、明らかにしてきたつもりです。それ以上のことは、あなたの得心のいくかぎりにおいて、あなたの私への信任にお任せします。ですが、これだけはぜひ申し上げておかなければなりません。これまでを振り返ってご覧になれば、あなた方の生活の中に単なる偶然では説明のつかないものが数々あること、私ども霊団とのつながりができてからというものは、援助の確証が次々と得られていることを示す具体的例証を発見されるはずだということです。
 私は本日ここに集まっておられる方々の背後で活躍しているスピリットのあなた方への心遣いについて、いちいち申し上げようとは思いません。とても短い時間ではお話できないでしょう。ですから、せめて次のことを素直に受け入れていただきたい。すなわち背後霊はみなこうした機会を通じて皆さん方が愛の不滅性ーーこうして志を同じくする者が集まった時に心に湧き出る大いなる愛の情感は、墓場を最後に消えてしまうものではないということを改めて認識してほしいということです。 

      『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.126-127

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 47-f (霊界から地上の同胞を救うために)

 しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。
 光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。
 私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行きわたらせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはずです。
 私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私たちの勝利でもあります。挫折すれば私たちの敗北でもあります。いついかなる時も私たちにとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。
 私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。そのときの辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことをいちいち指示し始めたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害されはじめます。
 霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かつています。物ごとがラクに順調に捗るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私たちにも干渉を許される場合が生じます。
 万一私たちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ちいたった時は干渉します。たとえばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.21-23

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 47-g (他界した家族や友人は今なお実在の人物)

 その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいたときと同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身のまわりにいて何かと援助してくれております。自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らにはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。けっして薄ぼんやりとした、影のような、モヤのような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.131

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 47-h (霊界の先祖や肉親から援助を受けるために)

 あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなたがたが恐怖感や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、やすらかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。
 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスピリチェアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であれはそれでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取越苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。それらがモヤをこしらえて、私たちを近づけなくするのです。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.172-173

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 47-i (霊界の身内の誰かがいまここに来ているか)

 人間というのはおもしろいですね。よくそういう質問をなさいますが、愛のつながりのある人はいつもそばにいてくれているのです。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。みなさんは肉体という牢に閉じ込められているからそれに気づかないだけです。霊の世界には時間もありませんし距離もありません。意識の焦点を合わせさえすれはいいのです。私はこれから遠くへ参りますが、あい変らずここにいると言ってもいいのです。

   『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.165-166

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 47-j  (霊界は地上の政治組織にどう関与しているか)

 ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルにはこだわりません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰をもった人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり--- 一語にして言えば奉仕のために活用します。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.232

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 47-k (地上の人たちに身近な霊界の存在)

 あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。
 私たちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私がまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとはかぎらないことは否定しません。しかしそのことは、私たちがあなたがた自身の心臓の鼓動と同じくらい身近かな存在であるという事実とはまったく別の問題です。私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤそれ以上にあなた方の身近かな存在です。私の愛の活動範囲にある人は私たちの世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。それを物的な現象によってもお見せできないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.133-134

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 47-l [10-p] (生きがいある人生を送るには=9=  霊界からの導き)

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見捨てるようなことは決していたしません。本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんというセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。
 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。
 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。
 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意ができております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。
 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に其の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけあなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら“人のために役立つこと”を心掛けております。
 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することができるのです。
 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べている−訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 35-38

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 47-m (私たちを守り導いてくれている大霊の驚異的な霊力)

 (ここでその質問者はシルビア・バーバネルに向って「私はあなたがお書きになったWhen a Child Dies〈子供の死後〉を読んでいろいろと慰められました。私も娘を二人亡くしているものですから。つい最近も男の子を亡くされた方にお貸ししたばかりです。私と同じように大きな慰めを得てくださればと期待しているところです」と述べると、シルバー・バーチがこう述べた)

 パン種が発酵するのです。これからも発酵し続けることでしょうでしょう。この大規模な戦いにおいて、われわれは勝ち組の方に属しております。最後は必ず勝利者となります。敗者とはなりません。背後に控える勢力は全宇宙でも最大のものです。大霊の力なのです。地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております。私の目には何一つ心配すべき理由は見当たりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 45-46

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 47-n (地上の人間は一人ひとりが常に霊界から導かれている)

 ― 私は地上はいずれまた戻ってくる学校だと考えているのですが、正しいでしょうか。

 学ぶべき教訓を学ばずに終われば、それを学ぶためにまた戻って来なければならないでしょう。
 しかしこれまでのあなたの人生を振り返ってご覧になれば、万事休すと思われた時に霊の道標があなたの進むべき方角を教えてくれていることがお分かりになるはずです。霊の力はそういう形で働いているのです。あなたは決して一人ぼっちではありません。いつもあなたと血族関係のあった霊だけでなく、血縁とは別の霊的近親関係によって結ばれている霊によっても導かれております。神の子を導くことによって神に奉仕する、その手段として人間を導いているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 89-90

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 47- o  (あなたを絶対に見捨てることのない霊団が付き添っている)

 向上進化の道は孤独なものです。が、背後にはあなたを絶対に見捨てることのない霊団が付き添っております。魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.48

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 47-p (地球が存在を始めて以来霊が派遣され神の教えは説かれてきた)

 地球が物的世界の一つとして存在をはじめた当初から、神の教えを説くための霊が派遣されてきました。そして各民族、各時代の言語でしゃべりました。その内容の程度もその国、その時代の要請、その民族の成長と発達の程度に即応したものでした。その方法・手段も理解力に応じたもの、高踏的になりすぎないものが用意されました。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.50

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 47-q (神の力はそれを受け取る波長をもつ人なら誰にでも与えられる)

 神の働きに何か特別なわくがあって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長をもつ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 132

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 47-r (すべてのことは霊界から佳きに計らわれている)

 宇宙間のすべてのことが知れるようになっております。すべてを知ろしめすための、高級霊による一大組織があるのです。その中には一度も物質界に降りたことのない霊もいます。すべてが大霊の計画の直接の実行者です。総合的な基本計画というものがきちんと出来上がっており、その中にすべてのもの、すべての人間に対する配慮がなされております。私がすべてのことは佳きに計らわれているから安心なさいと申し上げる根拠はそこにあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 151-152

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 47-s (生活に必要なものは不自由しないように取り計らってさしあげます)

 私が光栄にも地上世界の霊的新生の仕事にたずさわってきたこれまでの永い年月を振り返ってみて言えることは、いかに陰うつな影に被われても、それはあくまでも一時的に光をさえぎっているに過ぎず、永遠の太陽は常に輝いているということです。これからも皆さんの近親の霊とともに、私も皆さんが最善を尽くしておられるかぎり、生活に必要なものは不自由しないように取り計らってさしあげます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 153-154

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 47-t (この世で頼れるものは何もないと思えた時に啓示が与えられる)

 目の前が真っ暗となり、もはや物質の世界には頼りになるものは何もないかに思えた時に啓示が与えられます。それは、まず生命は霊であるがゆえに死後も永遠に続くものであることを証拠によって得心することに始まり、やがて霊的な恩恵を授かることによって次は、自分のもとを訪れる人々の悩める心を癒やしてあげることができるようになります。その一つ一つの道程に計画があるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 154-155

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 47-u[68-zm] (人のための善行が無駄に終わることは決してない)

 物質の世界において誰かが奇特な行いをしようとする時、霊界においてそれを支援しようとする霊がすぐさま馳せ参じます。善行が無駄に終わることは決してありません。なぜなら霊界側では人類の向上のために役立つことをする人にいつでも援助の手を差しのべる用意がなされているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.166

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 47-v[74-za] (あなたの善行を手助けしようとする霊は大勢いる)

 あなたにとってまったく見知らぬ霊、名前すら聞いたことのない霊でありながら、あなたのために力になってあげたい一心で来てくれる霊が大勢いるものです。そういう霊は名のりたがりませんし、見返りというものを一切期待しないものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.167



 47-w[10-zd] (思念が霊的摂理に順応すれば必要なものは必ず手に入る)

 正しい生き方、すなわち霊的知識に順応した日常生活を送れば、自動的にあなたは霊的に、精神的に、物質的に必須のものを思い通りに手にすることができるようになります。物的なものを最優先させようとする考え方がそもそも間違いなのです。物的世界に置かれている人間としての義務、あるいは自我の表現器官としてのその身体にとって大事なものも無視しなさいと言っているのではありません。心に宿す思念が霊的摂理に順応したものであれば、霊と精神と身体とが調和し一体となって働くので、必要なものは必ず手に入るようになると言っているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.168-169

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 47-x (自信と安らぎと幸せのための単純な霊的真理を)

 私たちの霊団は悪魔の使いではありません。皆さんを混乱の袋小路に誘い込もうとしているのではありません。理解と自信と安らぎと幸せを生み出してくれる単純な霊的真理をお教えしようとしているだけです。言いかえれば、少しでも神に近づけてくれる摂理を啓示してあげようとしているのです。それが私たちの使命なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.180

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 47-y (幸せと安らぎと繁栄をもたらす手段としての人間)

 高級霊は人間を霊的知識をもたらすための手段----真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでも広く行きわたらせ、苦痛・悲劇・不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらすための手段と見なしております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.193-194

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 47-z[44-zp] (困難に直面した時は必ず道は開かれるという自信をもて)

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台なしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンにそって摂理が働きます。宇宙の大霊もみずから定めた摂理の枠からはずれて働くことはできないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信をもつことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くためのあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。
 神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなたの方です。あなたが神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開かれるのだという自信をもつことです。不動の信念をもつことです。そうすれば道は必ず開かれます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.199-200

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 47-za[34-c] (万策つきた最後の一瞬に差しのべられる救いの手)

 時には万策つきて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.206

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 47-zb[39-zm] (霊界からの援助や働きかけにある厳然としたパターン)

 霊界から手を差しのべてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべるべき時があり、それに加えて必ず、その時どきの環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も私よりはるかに霊格の高い霊団によって計画された枠の外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです。光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団---どうお呼びになられても結構です。要するに私たちが行う全仕事に対して責任をもつ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方たちとお会いする喜びが待ちうけております。その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、次に私がどの程度まで成功しどの点において失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私のなすべきことを判断することになるのです。その霊団の上にはさらに高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 214-215

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 47-zc[39-zn] (霊界からの導きで身元を明かすことを躊躇する理由)

 霊界の誰かがそれまでに身につけた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 216

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 47-zd(霊界から地上へ働きかけるためには)

 霊の地上への働きかけは、そのために必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差しのべてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。

     『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 216-217

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 47-ze (人のために尽くす行為は必ず霊界からの援助を引き寄せる)

 地上で生活している人間のすべて――富める者も貧しい者も、身分の高い人も低い人も、地位も肩書きも階級も職業もいっさい関係なくすべての人に、自分を人のために役立てるチャンスが必ず訪れることになっております。それは、小さな間違いを正してあげる仕事かも知れませんし、小さな不公平を公平にしてあげる仕事かも知れません。暗い片隅にささやかな光明をもたらしてあげる仕事かも知れません。
 世間の目にハデに映る闘いばかりが意義ある闘いではありません。わたしたちは人間の行為の価値基準を、それが他人のために役立つことであるか否かに置いております。それなら誰にだってできるはずです。いつどこにいても、人のために自分を役立てるチャンスならいくらでもあるはずです。
 どうか、ご自分を少しでも役立てることに努力してください。自分を役立てたいという願望で心を、精神を、そして魂を満たしてください。そうすれば、こちらであなたのような人材を求めているスピリットを自動的に引き寄せます。その時点であなたは、霊力が地上へ働きかける手段となることに成功したことになります。そして思いもかけなかったほどの力量を発揮する仕事が授けられることになるかも知れません。が、いずれにせよ、ラクな人生でないことだけは覚悟しておいてください。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
     コスモ・テン・パブリケーション、1989、(pp.57-58)

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 47-zf  (霊界からじっと見守らねばならないこともあるのです)

 あなたが人生の嵐に遭遇するのを私たちが阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることもできません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才覚をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。

 光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあってはじめて平穏無事のありがたさが分かります。悲しみを味わってはじめて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp.68-69

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 47-zg (人のために役立つ行為は必らず霊界から援助される)

 あなたが人のために役立つことをしようと努力する時、必ず背後には複数の進化せる霊が集結して援助してくれます。決して見棄ててはおきません。といって、それで物事がらくに成就されると期待してはいけません。必ず困難はつきまといます。面倒なことも生じます。が、きっと成就されます。霊の世界からの協力者は決して降参しません。あなたが投げ出さないかぎり、いつまでも、勝利するまで味方になってくれます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 152-153

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 47-zh (霊界の者が人間を見放すようなことは絶対にない)

 自信をもって断言しますが、われわれ霊界の者が人間を見放すようなことは絶対にありません。残念なことに、人間側がわれわれを見放していることが多いのです。われわれは霊的条件のもとで最善を尽くします。が、人間の側にも最善を尽くすように要求します。こちらもそちらも、まだまだ長所と欠点を兼ねそなえた存在であり、決して完全ではありません。完全性の達成には永遠の時を必要とします。
 ですから、その時その時の条件下で最善を尽くせばよいのです。転んだらまた起きればよろしい。転ぶということは、起き上がる力を試されているのです。自分がしようとしていることが正しいと確信しているなら、思い切って実行すればよろしい。袂を分かつべき人とは潔く手を切り、その人の望む道を進ませてあげればよろしい。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たなる啓示』
      (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.47

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 47-zi (霊団の者は自分自身のことは何一つ求めない) 

 わたしたち霊団の者は、自分自身のことは何一つ求めません。求めているのは、皆さんが物的な面だけでなく、精神と霊にかかわる面においても、心がけ一つで我がものとすることができる無限の恩沢に少しでも気づいてくれること、それのみです。測り知れない価値をもつ真理が皆さんを待ちうけているのです。
 利己主義・無知・既得権力――これがわたしたちの前途に立ちはだかる勢力です。そして、わたしたちはこれに真っ向から闘いを挑んでいるのです。徹底的に粉砕したいのです。魂を飢えさせ、精神を飢えさせ、そして身体を飢えさせる元凶であるこうした地上の悪の要素を取り除いて、その飢えを満たしてあげたいのです。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
       コスモ・テン・パブリケーション、1989、p60

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 47-zj (人のために役立てるチャンスは誰にも必ず訪れる)

 地上で生活している人間のすべて――富める者も貧しい者も、身分の高い人も低い人も、地位も肩書きも階級も職業もいっさい関係なくすべての人に、自分を人のために役立てるチャンスが必ず訪れることになっております。それは、小さな間違いを正してあげる仕事かも知れませんし、小さな不公平を公平にしてあげる仕事かも知れません。暗い片隅にささやかな光明をもたらしてあげる仕事かも知れません。
 世間の目にハデに映る闘いばかりが意義ある闘いではありません。わたしたちは人間の行為の価値基準を、それが他人のために役立つことであるか否かに置いております。それなら誰にだってできるはずです。いつどこにいても、人のために自分を役立てるチャンスならいくらでもあるはずです。
 どうか、ご自分を少しでも役立てることに努力してください。自分を役立てたいという願望で心を、精神を、そして魂を満たしてください。そうすれば、こちらであなたのような人材を求めているスピリットを自動的に引き寄せます。その時点であなたは、霊力が地上へ働きかける手段となることに成功したことになります。そして思いもかけなかったほどの力量を発揮する仕事が授けられることになるかも知れません。が、いずれにせよ、ラクな人生でないことだけは覚悟しておいてください。

    トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
    コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 57-58

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 47-zk (地上の悲劇はすべて摂理に反した生き方から生じている)

 皆さんは今、霊界での審議会で用意された叡知がこのわたしを通して届けられるのをお聞きになっていらっしゃるのです。それを広めることによって地上人類の叡知と理解力とが増すにつれて、生活が大霊の御心にそったものとなるでしょう。摂理にのっとったものとなるでしょう。地上世界の悲劇と飢餓、苦労と心痛は、すべてその摂理に従った生き方をしていないところから生じていることを悟るようになるでしょう。その理解が深まるにつれて大霊の庭の美しさを見えなくしている醜い雑草が無くなっていくことでしょう。
 それを目標としてわたしたちは、人類の魂を解放し、精神を自由闊達にするだけでなく、物的身体も自然の法則と調和した健康を享受できるようにしてあげようと努力しているのです。

    トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
      コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 244

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 47-zl (私は皆さんの愛する人が霊界で今も健在であることを証明してきた)

 わたしが嬉しく思うのは、皆さんが永遠に失ったと思い込んでおられた愛する人、あなたを愛してくれていた人が今も健在であることを証明してあげることができたことです。それによって皆さんは、生命がこの宇宙から消えて無くなってしまうことが絶対にないこと、死は愛と情と友愛によってつながっている者を切り離すのではなく、反対に、霊的には一段と親密なものとする事実を認識することができます。
 それにしても、わたしがつくづく残念に思うのは、わたしたち霊団の影響力がどれほど大きいかをお見せできないことです。どれほどの障壁を破壊し、どれほど多くの障害を取り除き、どれほど多くの霊的知識をお届けしたことでしょう。地上世界は今こそそれを必要としているのです。いたって単純で素朴な真理ではありますが、それが霊的自由と精神的自由と物的自由とを地上にもたらすことになるのです。

    トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
      コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 251






  48. 公平・不公平

 48-a [50-i] (地上では正義が勝つとはかぎらない)

 地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平常を取り戻します。霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。
 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988,  pp.58-59


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 48-b [58-v] (宇宙の摂理の前では絶対に不公平はない)

 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が″自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている″などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束ないことになります。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988,  p.47


     *****


 48-c [58-l] (世の中の不公平をどう考えるか)

 地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。
 私がいつも念頭においているのは神の法則だけです。人間の法律は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則はけっしてその必要がありません。地上に苦労がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなたがた人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。
 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終りまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.186-187


 48-d [25-d] (埋め合わせや懲罰・報償を裁定するのは誰か)

 − 埋め合わせと懲罰があるということは、たとえば立派な行いには褒賞があるということになりますが、そういうことを裁定する神様はどこにいるのでしょうか。

 もしも埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあってよいでしょうか。もちろん、よいはずはありません。いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。
 良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのは、あなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 84-85

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 48-e [10-g] [50-h] (取り返しのつかない過ちというものはない)

 一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする---霊的法則がそうなっているのです。
 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。
 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る---そうあらねばならないのです。
 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。
 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。
 うちの宗教の教えを信ずれは罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。神聖″とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。
 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。完全へ向けての向上に終止符を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。
 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあたりを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.63-65

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 48-f[4-zzd ] (ものごとを目先の結果だけで判断してはならない)

 目先の結果だけで判断してはいけません。あなた方は物質の目だけでご覧になっておられます。もし霊の目で見ることができれば、一人ひとりに完全な公正が行きわたっていることがお分かりになるはずです。私は時おり皆さんの祈りに耳を傾けてみることがありますが、もしも神がその願い通りになさったら却って皆さんにとって好ましくない事態になるのだが、と思うことばかりです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.166

     *****


 48-g [19-i] (あなたは神に向かって不平を言う資格があるのか)

 同じこの地球上に身を横たえる場所もなく、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.166

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 48-h (人生が不公平に思えるのは事実の反面しか見ていないから)

 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べればはるかに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合をはるかに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.199

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 48-i[19-k] (世の中は不公平と思うのは誤った判断である)

 神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなたがた自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見るかぎり世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かも知れません。しかし、それはきわめて偏った、誤った判断です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.201-202

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 48-j (霊眼で見れば完全な正義がすべての人に等しく働いている)

 何事も、目の前の結果で判断してはいけない。人はただ、物質の目だけで物を見るが、もし人が霊の目で物を見ることができれば、完全な正義がすべての人に等しく働いていることが分かるだろう。
 私は死後霊界に入った多くの人達と話をしたことがある。しかし誰にきいても、一人として、霊の目をもって物を見る時、自分は神から善い取扱いを受けなかった、と言う者は一人もいなかった。

    桑原啓善編著『シルバー・バーチに聞く』
       でくのぼう出版、2005、pp.31-32

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 48-k (貧富の格差是正が現在の地上の焦眉の急である)

 有り余るほど持っている者と不足している人たちとの間の隔差を修正すること、これこそが現在の地上の焦眉の急です。内部の神性を発揮しようにも、肝心の身体が惨めなほど疲弊し衰弱している魂に対して、いったい自我の発見などということが説けるのでしょうか。わたしたちは決して人間の身体上の必需品について無関心でいるわけではありません。身体と精神と霊とが自然な状態で生活する上で本当に大切なもの″を見出すことができるような、そういう生活環境を築くことこそわたしたちに課せられた使命なのです。

   トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
   コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 217











 49.時間と空間

 49-a (事故が予知できるのはなぜか)            

 その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは”永遠なる現在”だということです。このことをよく理解して下さい。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来、過去も未来もないのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。単に物的感覚の延長にすぎない透視、透聴の類いの心霊的能力によっても予知できますし、霊視・霊聴の類いの霊感によっても知ることができます。Psychic と spiritualは同じではありません。ESP(Extra Sensory Perception 超感覚的知覚)は人間の霊性には何のかかわりはなく、単なる五感の延長にすぎないことがあります。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.85-86

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 49-b  (霊の動く速さに限界があるか)

 私たちスピリットの動きに時間・空間による制約はありません。霊界生活に慣れてくるとまったく制約をうけなくなります。この地球のどの地域でも思念の速さで行き着くことができます。思念が私たちにとって現実の存在なのです。ただし、霊的発達段階による制約はうけます。その段階を超えたことはできません。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできません。それがその霊にとっての限界ということです。ともあれ、霊的生活での霊自身による制約にすぎません。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.149

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 49-c (時間は永遠の現在ならば、どこに自由意志の働く余地があるのか)

 こういう言い方は失礼かも知れませんが、あなたの認識は少し混乱しております。時間は永遠の現在です。過去でもなく未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転しつづける一個の円だと思ってください。今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたとこころをあなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。
 未来をのぞく″とおっしゃいましたが、それは三次元の物質界との関わりから離れて霊視力ないしは波長の調整によってこれから生じるものを見る、その能力が働いたにすぎません。つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意志が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.41-42

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 49-d (霊界では地上で意識しているような時間はないのか)

 ― 地上で意識しているような時間は無いのでしょうか。

 ありません。地上の時間というのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。私たちは地球の回転の影響は受けません。したがって昼とか夜とか春夏秋冬の区別がありません。時間は私たちにとっては存在しません。強いて言えば“永遠の現在”の中に生きております。

 ―“永遠の過去”でもあるわけですね。

 私たちにとっては過去も未来も、ともに永遠の現在です。皆さんの睡眠中のことをお考えになれば、さほど理解の困難な話ではないと思います。睡眠中は一時的に物的束縛から解放されています。ですから夢の中ではそういう束縛を受けないで、途方もない距離を行き来できます。いつもの時間の観念が無視されています。永い夢の出来事も数分のうちに起きております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 100-101

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 49-e (過去も未来もなく時間は永遠の現在の中に存在する)

 ― この世では時間に縛られているように思えても、霊界では時間というものが存在しないのですね。

 時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。(別のところで時間を無限に回転する輪にたとえ、いま触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている― 訳者)
 皆さんは三次元の世界に生きておられます。私たちは地軸の回転、つまり昼と夜を生じさせる回転する球体とは無縁です。永遠の光の中で生活しております。これをどう説明すればよいのでしょう。肉体のような物質的身体がありませんから眠る必要がありません。睡眠を必要とする身体を持っていないのです。休息を必要とする時は、元気が回復するまで休止するだけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 101-102










 50. 業・カルマ・因果律

 50-a (戦争、事故、寿命は業によって決まるのか)

 業(ごう)というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次ぎに寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなたがた人間自身が解決すべきことです。自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.81-82

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 50-b (善行によってカルマは一度に精算できるか)

 自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きのなかで消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があればかならず相当の結果が生じ、その結果のなかに次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけにはいきません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.80-81

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 50-c (事故は業を消すために計画されるのか)

 ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず”計画されている″という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事をひき起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。その犠牲者---この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます---の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなたがたにとって死はたしかに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者にとっては、ある意味でよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生すればあなたがたはよろこびますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるんです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大喜びでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.84-85

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 50-d (原因と結果の法則は容赦なく展開する)

 (摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。真理は完璧なのです。

     『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986、pp.59-60


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 50-e (患者が自由意志によって死を選んでも因果律は働くのか)

 いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。
 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木が落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。
 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。
 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.143-144


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 50-f(患者が自由意志によって死を選んでも因果律は働くのか)(続)

 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。
 地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。
 私たちはあなた方と正反対の見方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という見方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いの種と見なすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。
 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねはならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。
 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。
 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。
 魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。
 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987pp.144-147


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 50-g [76-w] (人間は動物を虐待していながらうまく罪を免れている)

 うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である完全なる公正を失います。
 そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五、七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で精算されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.197-198


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 50-h [10-g][48-e] (取り返しのつかない過ちというものはない)

 一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする---霊的法則がそうなっているのです。
 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。
 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る---そうあらねばならないのです。
 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。
 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。
 うちの宗教の教えを信ずれは罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。神聖″とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。
 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。完全へ向けての向上に終止符を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。
 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあたりを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.63-65

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 50-i [48-a] (地上では正義が勝つとはかぎらない)

 地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平常を取り戻します。霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。
 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988,  pp.58-59

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 50-j [43-f] (偶発のように思えることも因果律の働きの結果である)

 ― 偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

 偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大へん複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p.53

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 50-k [23-p] (霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるか)

 ― 霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるのでしょうか。

 むろんです。それが普通です。

 ― ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。

 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画性があるのです。

 ― 私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!

 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 125-126

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 50-l [16-zg] (前世から持ち越したカルマによって病気になる人もいる)

 ― 特殊な理由から治してほしいと思わない、だから治らない(と私は考えるのですが)、そういう人は別として、カルマというのはどのように働くのでしょうか。治りたい一心で治療を受けていながら一向に良くならない人がいます。これはカルマのせいでしょうか、それとも治療家の力不足でしょうか。

 これは難しい問題です。なぜかと言いますと、治療行為が行われている時にその背後でどのようなことがなされているかは、ひと口では説明できないからです。
 ご承知の通り心霊治療の本来の目的は魂の琴線に触れることです。あなたはさきの質問で心掛けに問題のある患者のことを持ち出されました。いわゆる“心身症”です。身体上の病いも大半は内部の不調和が外部に現われているにすぎないものです。
 今の地上には過度の緊張やストレス、欲求不満から生じている病気や異常が増えております。純粋に身体に起因している病気はほとんどありません。
 霊的治療においては造化の根源から発している霊的なエネルギーを使用します。そのエネルギーの質、量、種類は、それが通過する治療家の霊的発達の程度によって決まります。次にその病気の原因となっている根本的な事情(カルマその他)によって支配されます。さらにはその時点における治療家と患者双方の精神的ならびに身体的状態によっても影響を受けます。
 治療が成功したと言えるのは、患者が霊的な受け入れ準備ができていて魂が感動を覚えた時のみです。その時はじめて霊的覚醒がもたらされるのです。それ以外は単なる身体上の反応にすぎません。それが一時的な場合もあれば、それきり全治してしまうこともありますが、肝心なのは患者の霊性への影響です。
 地上生活のそもそもの目的は人類および動物その他、ありとあらゆる生命体に宿る霊的要素が、ほんの火花にすぎなかった状態からゆらめく炎となり、ついには美事な火焔となるための条件を提供することです。そこで魂が真の自我を見出し、人生が提供する物的な側面だけでなく、さらに大切な霊的側面をも味わうようになります。
 さてあなたはカルマの問題を出されました。因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理のことで、あらゆる生活の場でいっときの休みもなく働いております。患者の中には前世から持ち越したカルマ的状態によって病いを得ている人がいます。その因果関係が完全に解消されていない場合は、治療が表向きは失敗したような結果となります。もしも完全に解消されていてそれ以上カルマが出なくなっていれば、治療が効を奏するわけです。それが“魂に受け入れの用意ができている”ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 69-70


 50-m[16-zh] (霊能者にも体調不良があったりするのをどう考えるか)

 ― あなたはよく“心が正常であれば身体も正常です”とおっしゃっていますが、霊能者も大ていどこか調子が悪かったり異常をかかえていたりするようです。霊能者であるからにはその心はきっと“正常”であろうと思うのです。もしもこの世での苦がカルマのせいであるとすれば、それとこれとはどう結びつけたらよいのでしょうか。

 霊能者といえども自然の摂理から逃れることはできません。摂理はすべての存在を包摂し、そこには例外も逸脱もありません。病気が生じるのは二つの理由があります。
 一つは霊と精神(心)と身体の調和によって健康が維持されている、その調和が崩れていることです。もう一つの可能性はいわゆるカルマです。地上でしか償えない前世での出来事があって、それがまだ解消されていないということです。
 理想的な世の中であれば霊能者も理想的な人物なのでしょうが、あなたが住んでおられるのは理想的な世の中ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 71

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 50-n[17-zh] (臓器の移植手術も時にはカルマの観点から考える必要がある)

 ― 角膜移植には反対ですか。霊的には何ら問題はないように思えますが……

 私は原則として臓器の移植手術には反対です。他人のために自分の臓器を提供する方の誠意を疑うわけではありません。
 神は霊が地上で自我を表現するための道具として物的身体をお与えになりました。そこに身体と霊との緊密な関係があるわけです。もしも臓器移植が不可欠のものであったら、心臓や腎臓の移植手術に失敗は有りえないはずです。
 角膜の問題はとても厄介です。人間の苦痛に対して冷淡であるかに思われたくないのですが、時として失明の原因がカルマにあることがあります。何もかもカルマのせいにしてしまうのは卑怯だと思われかねないことは私も承知しておりますが、地上でも、あるいは霊界でも、偶然にそうなったというものは一つもありません。因果律は絶対であり、ありとあらゆる出来事を規制しております。
 目が見えないということも因果律の結果です。目の見えない人が角膜を移植してもらって見えるようになるということが、霊的にみて果たしてその人にとって良いことであるか否かは、一概に片づけられる問題ではなく、議論したら延々と続くことです。
 身体的には良いことかも知れません。が、霊的には必ずしも良いこととは言えません。皆さんより永い人生体験をもつ霊界の存在という有利な立場から申し上げれば、もっとも大切なのは霊的にみて良いことかということです。

 ― それは病気全般について言えることでしょうか。

 カルマが絡んでいるものに限っての話であれば、そうです。その場合は霊的治療も奏効しません。したがって角膜移植をしても視力は戻りません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 79-81

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 50-o (現在の体験の受止め方が将来の結果を生み出す原因となる)

 当然のことながら過去は今体験している結果の原因をこしらえたわけですが、その結果に対する現在の対処の仕方が、代わって将来の結果を生み出す原因となるわけです。ですから、今こそ良いタネを蒔くように努力するのです。幼児に説教するようなことを言うようですが、しかし、それが真実なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.63-64

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 50-p (人間は地上でも霊界でも次々とカルマをこしらえるもの)

 もしも借金(カルマ)のすべてを返済してしまうと、もはや苦しむということのない段階に到達したことになるでしょう。身体が完全無欠になるからです。しかし人間は、地上にいても、あるいはこちらへ来てからも、次々と借金(カルマ)をこしらえております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 76



 50-q [79-r] (大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれている)

 大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれています。それは畑に植えた種子と同じく、生長に必要な養分を与えれば必ず芽を出し、大きく育ち、やがてその美事な花を咲かせ実を結びます。あなた方は一人一人が庭師です。内部の神性が首尾よく芽を出すかどうか、あるいはいつ芽を出すかは、各自の努力次第です。そこには自由意志というものが許されております。暗闇に閉じ込め、発育に必要な光を当てなければ、大霊の顕現する機会はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 88

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 50-r[58-zk] (因果律は絶対で死の床での悔い改めも通用しない)

 ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは行い″です。行為″です。つまり各自の毎日の生活″そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできないのです。ごまかすことはできないのです。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 103

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 50-s (賞も罰も自分で自分を罰し自分で自分に褒美を与えている)

 賞も罰も自分でこしらえているのです。自分で自分を罰し、自分で自分に褒美を与えているのです。それがいわゆる因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理です。その働きは絶対です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 149

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 50-t[13-zzg] (因果律は地上生活中に成就されるとは限らない)

 いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊の進化″にあることだけは確かです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 210

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 50-u (因果律は信仰とか願望には関係なく必ず働く)

 いくら善人でも無知から霊的な罪を犯すことがあり得ます。たとえば、ここに一人の子供、とても気立ての良い子がいて、その子が炉の中に手を突っ込んだとします。炉の火は、その子が良い子であるか悪い子であるかにおかまいなく、その手に火傷を負わせます。もしもその子に、火に手を入れたら火傷をするという知識″があったら、手を突っ込むことはしなかったでしょう。ですから、この場合、火傷をするしないは知識の問題です。私が因果律の問題は魂の進化の程度によって決まるという言い方をするのは、そうした要素があるからです。因果律はかならず働きます。信仰とか願望にはおかまいなく働きます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 213

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 50-v(地上で病苦の人たちは過去世の過ちの償いをしているのか)

 苦難は生命進化の大道における不可欠の要素です。では苦難の法則がどのように働いているかとなると、簡単には説明できません。霊的な因果律の働きを考慮せずに、ただ表面の物的現象だけで推断するのは禁物です。といって因果律は目に見えませんから、そういうものの存在を信じるほかはありません。つまり大霊は愛と叡知の極致ともいうべき存在ですから、究極においては必ず公正が行きわたるようになっていると信じることです。
 地上人生は全存在のホンの一側面にすぎません。地上生活がすべてではないのです。その間の出来事についてもきちんとした埋め合わせと償いの法則が働いています。カケラほどの短い人生の表面だけを見て大霊のなさることを批判すると間違いを犯します。それは他の大きな側面を無視することであり、それすら全体の一部にすぎないからです。
 何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることもありません。何一つ無視されることもありません。摂理がすべてを支配しているのです。あらゆる存在が、あらゆる側面が、大きい・小さい、単純・複雑の違いの別なく、永遠に不変の摂理によって支配されているのです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
     (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.136-137









 51. 生命・バイブレーション・波長

 51-a (説明しにくい生命の意識体)

 これは説明の難しい問題です。あなた方には"生きている″ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識をもって生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。
 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなたがたに、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。
 私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなたがたにはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。虹の色はたしかに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986, p.60


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 51-b (バイブレーションとはなにか)

 生命のあるところには必ず運動があり、リズムがあり、鼓動があり、パイプレーションがあります。生命は活動せずにはいられないものです。静止したり惰性的になったりするものではありません。生命には常に運動が付随します。その運動を理解し、その意味を理解するには、まずその定義から始めなければなりません。私がパイプレーションという時、それはエネルギーの波動の形で顕現している生命のことで、無数の生命形態ないしは現象の一つを指しています。存在するものはすべて振動し、何かを放射し、活動しています。私たちがこうして地上へ働きかけることができるのもバイブレーションのおかげです。私たちはふつう物的感覚の領域を超えたバイブレーションの世界で生活しております。言わばオクターブの高い世界です。霊的エネルギー、霊的パワー、霊的現象はことごとく物質より感度の高い、微妙なバイブレーションから成り立っております。
 地上のように物質に浸りきり包み込まれている世界と交信するためには、次の二つのうちどちらかの方法を取らなければなりません。すなわち、人間の側がその低いバイブレーションを高めてくれるか、それとも私たち霊の側がその高いバイブレーションを下げるかのどちらかです。両方が歩み寄れば・・・・誰しもそうお考えになるでしょう。ところが、どうしてどうして、なかなかそううまくは行かないのです。いつも私たちの方が遠路はるばる下りて来なければなりません。地上世界からの援助は多くを望めないのです。この霊媒(モーリス・バーパネル)を使ってしゃべるために私は私の本来のバイブレーションを下げております。その状態から脱け出て私の本来の界へ戻る時は、その界に合った意識を取り戻すためにバイブレーションを加速しなければなりません。こうしたことは全てバイブレーションの操作によって行われるわけです。それを簡単に説明するにはバイブレーションという用語しか見当りません。それにしても、長いあいだ霊的な分野のことにはいっさい耳を貸さず目を瞑ってきた科学者が、今になって物質の世界の謎を解くカギはバイブレーションにあるという認識をもち始めたことは興味ぶかいことです。


      『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986, pp.114-116


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 51-c [40-l] (遠隔治療では治療家の身体または霊体はどの程度使用されるか)

 講演(40-i)の質疑応答: 遠隔治療が可能であることを考慮すると、直接治療においてその治癒力を受けるのに、治療家の身体または霊体はどの程度まで使用されているのでしょうか。

 遠隔治療にも治療家の霊体を使用しなければなりません。

 − その過程を説明していただけませんか。

 治療家はテレビジョンとよく似ています。霊的なバイブレーションが治療家に届けられると、治療家(の霊体)を通過する際に半物質的治療光線に転換されて、それが患者に送られます。治療家は変圧器です。

 − 遠隔治療でも同じですか。

 同じです。

 − それがどうやって患者に届けられるのでしょうか。

 患者が治療を要望したということでつながりが出来ております。思念によって治療家へ向けてのバイブレーションが生じます。そこに絆が出来たわけで、そのバイブレーションに乗って治癒力が患者に送られるのです。

 −自分のために遠隔治療が行われていることを知らない場合はどうなりますか。

 患者と関わりのある誰かが知っているはずです。そうでなかったらその患者に向けて治療が行われるわけがないでしょう。

 −治療家がその患者の病状が悪いことを知って一方的に遠隔治療を施してあげる場合もあるでしょう。

 それだけでもう絆ができております。

 − でも患者の方からは思念が出ていません。

 いえ、出ております。治療家がその絆をこしらえております。こちらの世界では思念に実体があることを忘れてはなりません。私があなたを見る時、私にはあなたの身体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかも知れませんが。私たちにとって実体があるのは思念の方であり、実体がないのは身体の方です。あなたが思念を出せば、それが立ちどころに実在物となるのです。それがバイブレーション---波動をこしらえます。それが遠隔治療で使用されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 175-178

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 51-d [22-d ](霊が地球に宿り悠久の時を経て生命として顕現しはじめた)

 ― (旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。

 申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ! 創世紀その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうやって誕生したかという、その事実なのですから。

 ― その説がたくさんあるのです。どれが事実なのかが分からないのです。

 生意気を言うようですが、私はそうした説≠超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりもなく終わりもありません(※)。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります―アブラハムが生まれる前から私は存在している″と。(※これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球という惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている―と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生けるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている―訳者)
 霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数え切れないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現しはじめたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。
 その生命の誕生に大気圏外からの存在(※)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則にしたがって顕現し、発達し、進化してきたのです。(※天地創造についての質問に対する答えの冒頭でシルバーバーチは自分のことを大気圏外からきた生物″という冗談めいた表現をしているが、これはもちろん霊界からやってきた霊″の意味で言っている。ここで言っているのは他の惑星からのいわゆる宇宙人の参加はなかったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究にまたれる面白くかつ重大なテーマであろう―訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 177-179

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 51-e [29-y] (生命の相の無数の波長と振動が同じ空間を飛び交っている)

 無数の生命の相が互いに融合しあっております。境界線のようなものは存在しません。一方の側に物的なものが存在し、他方の側に霊的なものがあって、それが混ざりあっているのです。原理は無線電信と同じです。無数の波長、無数の振動があるのですが、同じ空間を飛び交っております。そのうちのどれに反応するかは器機の感度によります。地上の人間は物質の波動の世界に閉じ込められております。物的な波長しか感知できません。霊視能力者はふつうの波長より一段と精妙な波長を感知できる人であり、霊聴能力者はふつうの音の波長より一段と精妙な波長を感知できる人です。これも霊媒という器機の感度の問題です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.46

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 51-f [73-g] (太古にさかのぼるほど人類は超能力を使用していた)

 地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいました。もともと人類は数多くの霊的感覚を使用することができたのです。内部の霊妙な能力に気づいていたのです。古い記録をごらんになれは、太古にさかのぼるほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達とともに次第に萎縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチできる人はきわめて少数となりました。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.46

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 51-g [60-s] (霊が地上と交信する時は必然的に霊側が犠牲を強いられる)

 人間は本質的には地上にいる時からすでに霊的資質や属性のすべてを所有しております。時たまチラリと発現することはあっても、大半は居眠りの状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.47

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 51-h [60-t] (地上との交信には波動を下げて霊界から降りなければならない)

 人類の大半は霊的に高度なものをみずからの力で手にすることは不可能です。バイブレーションがあまりにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、あまりにも洗練されているために、よくよく鍛練されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。そこで地上との交信には私たちの方から言わば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しきが大きく殺がれてしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.47-48

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 51-i[5-q] (人間の生命力は動植物が顕現している生命力と同じ)

 人間という形態を通して顕現している生命力は、小鳥・動物・魚類・樹木・草花・果実・野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.199

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 51-j[1-za] (すべての悩みや取り越し苦労は一時的なものにすぎない)

 人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配ごとの波に呑み込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.203

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 51-k (果たして死ぬ前″に生命があるのかと思うことさえある)

死後″とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、果たして死ぬ前″に生命があるのかと思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 230

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 51-l (利他的なことに精励するほど高い波長に感応するようになる)

 自分の内部に宿る威力を認識し、それを活用しさえすれば、克服できない困難というものはありません。それをいかにすれば活用できるかとなると、まずその能力を開発しなければなりませんが、ただ開発しただけではだめです。高い波長に感応できるものでなければなりません。ではどうすればよいのか。それは日常生活の中身を人のために役立つもので満たしていくことです。そう努力することで霊性を高めるのです。自己中心的で俗世的すぎると、波長は低いものにしか感応しません。自我を滅却して利他的なことに無心に精励するほど、高い波長のものに感応するようになります。そのとき内部の神性が発揮されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
       潮文社、1988、p. 160














 52. 人類は互いに兄弟

  52-a (人類は互いに兄弟である)

 人間はなぜ戦争をするのか。それについてあなた方自身はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間世界に悲しみが絶えないのでしょうか。その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である "神" が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです。ところが人間は何かにつけて "差別" をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸がうまれ、そして破壊へと向かうのです。
 前にも言ったとおり、私どもはあなた方が "野蛮人" と呼んでいるインデアンですが、あなた方文明人が忘れてしまったその絶対神の摂理を説くために戻ってまいりました。あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言いかえれば、神の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。
 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅したように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の神の摂理の上に今一度文明を築き直す、そのお手伝いをするために私どもは地上に戻ってまいりました。それは、私どもスピリットと同様に、物質に包まれた人間にも、"神の愛" という同じ血が流れているからに外なりません。
 こう言うと、こんなことをおっしゃる人物がいるかも知れません。「イヤ、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら不幸のままでいる方がまだましだ」と。
 しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上とは互いにもたれ合って進歩して行くものなのです。地上の文明を見ていると、霊界の者にも為になることが多々あります。私どもは霊界で学んだことをあなた方に教えてあげようと努力し、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その相互扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。
 そのうち地上のすべての人種が差別なく混り合う日がまいりましょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割を持っているからです。霊眼をもって見れば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の教養を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあるのがわかります。
 ここに集まられたあなた方と私、そして私に協力してくれているスピリットはみな、神の御心を地上に実現させるために遣わされた "神の使徒" なのです。私たちはよく誤解されます。同志と思っていた者がいつしか敵の側にまわることがしばしばあります。しかしだからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。神の目から見て一ばん正しいことを行っているが故に、地上にない霊界の強力なエネルギーのすべてを結集して、その遂行に当たります。徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽をあばいていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され、あとずさりさせられることがあります。しかしそれも一時のことです。
 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人間を救い出し、もっと高尚でもっと気の利いた生き方を教えてあげたい。お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい。そうすることによって心と霊と頭脳が豊かになり、この世的な平和や幸福でなく、霊的なやすらぎと幸福とに浴することが出来るようにしてあげたいと願っているのです。
 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか父なる神の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、共に手を取り合って、神の摂理の前進を阻もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。
 こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然それを知らずにいる、あなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように次々と語りつがれていくべきです。自分が得た真理を次の人へ伝えてあげるーーそれが真理を知った者の義務なのです。
 私とて、霊界生活で知り得た範囲の神の摂理を、英語という地上の言語に翻訳して語り伝えているに過ぎません。それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが、必ずしも私の解釈の仕方に得心がいくとはかぎらないでしょう。しかし忘れないで下さい。私はあなた方の世界とはまったく次元の異る世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。ですから、もしも私の語った言葉が十分納得できない場合は、それはあなた方がまだその真理を理解する段階にまで至っていないか、それともその真理が地上の言語で表現し得る限界を超えた要素をもっているために、私の表現がその意味を十分に伝え切っていないかの、いずれかでありましょう。
 しかし私はいつでも真理を説く用意ができています。地上の人間がその本来の姿で生きていくには、神の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居睡りをしているよりは目覚めていた方がいいはずです。皆さんと共に、そういった居睡りをしている魂を目覚めさせ、神の摂理に耳を傾けさせてやるべく努力しようではありませんか。それが神と一体となった生活への唯一絶対の道だからです。
 そうなれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまいましょう。それを境に、それまでとは全く違った新らしい生活が始まります。
 知識はすべて大切です。これだけ知っておれば十分だ、などと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できるかぎり吸収するよう努めていただきたい。こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。
 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。
 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても実質的には常に霊的世界で生活しているのです。従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識していただきたい。あなた方も実際は霊的世界に生きているーー物質はホンの束の間の映像にすぎないのだーーこれが私たちのメッセージの根幹をなすものです。
 そのことにいち早く気づかれた方々がその真理に忠実な生活を送って下されば、私たちの仕事も一層やりやすくなります。スピリットの声に耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が、小さな我欲を棄て、高尚な大義のために己れを棄てて下されば、尚一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。
 繰り返しますが、私は久しく忘れ去られてきた霊的真理を、今ようやく夜明けを迎えんとしている新らしい時代の主流として改めて説くために遣わされた、高級霊団の、通訳にすぎません。要するに私を単なる代弁者と考えて下さい。地上に霊的真理を普及させようと努力している高級霊の声を、気持を、そして真理を、私が代弁していると考えて下さい。その霊団を小さく想像してはいけません。それはそれは大きな高級霊の集団が完全なる意志の統一のもとに、一致団結して事に当っているのです。その霊団がちょうど私がこうして霊媒を使っているように私を使用して、霊的真理の普及に努めているのです。
 決して難解な真理を説こうとしているのではありません。いま地上人類に必要なのは神学のような大ゲサで難解で抽象的な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれている至って単純な真理、その昔、霊感を具えた教祖が説いた基本的な真理、すなわち人類は互いに兄弟であり、霊的本質において一体であるという真理を改めて説きに来たのです。
 すべての人種に同じ霊、同じ神の分霊が宿っているのです。同じ血が流れているのです。神は人類を一つの家族としておつくりになったのです。そこに差別を設けたのは人間自身であり、私どもがその過りを説きに戻ったということです。
 四海同胞、協調、奉仕、寛容ーーこれが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること。こうした倫理は簡単ですが繰り返し繰り返し説かねばなりません。個人にしろ、国家にしろ、人種にしろ、こうした基本的倫理を実生活で実践するときこそ、神の意図した通りの生活を送っているといえましょう。
 そこで私の使命は二つの側面をもつことになります。すなわち破邪と顕正です。まず長いあいだ人間の魂の首をしめつけて来た雑草を抜き取らねばなりません。教会が、あるいは宗教が、神の名のもとに押しつけてきた、他愛もない、忌まわしい,不敬きわまるドグマの類を一掃しなければなりません。なぜなら、それが人間が人間らしく生きることを妨げてきたからです。これが破邪です。
 もう一方の顕正は、誰にもわかり、美しくて筋の通った真実の訓えを説くことです。この破邪と顕正は常に手に手をとり合って進まねばなりますまい。それを神への冒涜であると息巻いたり尻込みしたりする御仁に係わりあっているヒマはありません。
   
    近藤千雄訳編『古代霊は語る』
      潮文社、1986、pp.39-46


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  52-b (人類はひとつの家族である)

 私が地上へ戻って来たのは基本的な霊的真理をほんのわずかだけ述べるためです。私からみればーー地上の年令で言えば私は大へんな年寄りですーーあなた方の世界が必要としているのは、神学という名の仰々しい抽象的な教義の寄せ集めではなくて、霊の力に動かされたいにしえの賢聖によって説かれた、宗教の根幹であるところの二、三の単純な真理、すなわち人類はお互いがお互いの一部であること、そして肌の色の違いの内側にはすべてを結びつける共通の霊的な絆があるということ、これだけです。
 お互いの血管を同じ血液が流れているー一つまり同じ霊が各自の本性に潜んでいるということです。宇宙の大霊が私たちを一つの家族にしたのです。子供である人間が互いに差別をつけ、潜在する一体性に気づかず、かくして私どもが戻って来て、地上のいかなる組織・団体もそこに霊的実在の認識がないかぎり真の進歩は得られないことを教えてあげなければならないことになるのです。
 四海同胞、協調、奉仕、寛容ーーこうした精神こそ人生の基本であり、これを基礎としないかぎり真の平和はあり得ません。持てる者が持たざる者に分け与えることによって互いに奉仕しあい、睦みあい、援助しあうことーーこの単純な真理は繰り返し繰り返し強調しなければなりません。これを個人としての日常生活において、民族としての生活において、そして国家としての在り方の中において実践する者こそ、人間としての本来の生き方をしていることになるーーこれだけは断言できます。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.78-79

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 52-c (人種が混ざり合って地上天国が実現する)

 私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです。
 そのうち神の摂理が地上全土で理解され、あらゆる肌色をした人種が混り合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。今のあなた方にはそうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。が、その一つひとつに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。
 そのすべてが融合し合うまでは地上にいかなる平和も訪れません。言いかえれば表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは真の平和は訪れません。
 このサークル---レギュラー・メンバーとシルバー・バーチ霊団---がほぼ世界中の民族から構成されていることに気づかれたことがおありでしょう。そのことにも地上人類への教訓が意図されているのです。
 私たちはどの民族にも他の民族にない特有の要素があって全体のために寄与していることを学んだのです。各民族が全体にとって最善のものを持ち寄るのです。今までのところ地上人類は黄色人種は黄色人種なりに、白色人種は白色人種なりに、他の人種にない存在価値があることを理解しておりません。
 あなた方一人ひとりが神の構成分子であることを忘れてはなりません。お一人お一人が神の仕事、神の力、神の愛、神の知識に寄与することができるということです。自分よりも力の劣る人に手を貸すという、それだけの行為が、あなたを通じて神が顕現しようとする行為でもあるということになります。
 いかなる方法でもよいのです。相手が誰であってもよいのです。どこであってもよいのです。倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べものを与え、頼る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。
 そうした行為の一つひとつが神の仕事なのです。人間がそう努力するとき、そこにはかならず霊界から支え、鼓舞し、援助せんとする力が加わり、予期した以上の成果が得られます。
 神が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院の中だけではありません。霊カに反応する人であればいつでもどこでも神の道具となります。神のカによって魂を鼓舞された人、高き天上界からの熱誠に感動して崇高なる憧憬に燃える人はみな神の道具です。
 地上世界はいまだに神の力を特殊なものに限定し、聖霊の働きかける通路はかくかくしかじかの人でなければならないと勝手に決めてかかっておりますが、神はインスピレーションに感応する人、神の御心に適った生き方をしている人、神の摂理に従順な人であれば、どこの誰であろうと道具として使用します。
 そのカはいっさいの地上的差別を無視します。地位や肩書き、社会的階層の上下、肌の色、人種、国家、階級の別は構いません。場所がどこであろうと、誰であろうと、その力に反応する人に働きかけ、真理の大根源からの霊カを注ぎ、心を啓発し、魂を鼓舞し、宇宙という名の神の大農園の働き手として雇います。
 どうか皆さんもこの教訓を会得され、神のために、人生の暗闇と重圧と嵐の中で難渋している神の子等を救う決意を固められ、彼らの重荷を軽くしてあげ、新たな希望と知識と光とカをもたらしてあげていただきたいのです。それによって彼らの身体に新たなエネルギーが湧き、精神は勇気に満ち、霊は新たな意気に燃えて、神の恩恵を噛みしめることになるでしょう。同時にあなた方も人のために自分を役立てることの喜び----自分のためには何も求めず、ひたすら他人の心を高揚してあげる仕事の真の喜びを味わうことになるでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.29-32


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 52-d (われわれは一人ひとりが広大な霊的家族の一員である)

 われわれは、顕と幽の区別なくいずこに存在しようと、神を父とし、一人ひとりがその子供という関係において一つの広大な霊的家族を構成しております。神性の絆がわれわれのすべてをつなぎ、一体としております。その意味で私たちは、こうして顕と幽の二つの世界の問に横たわる障害の多くを克服してきたことを、この上ない恩恵として感謝しております。そのおかげで地上世界へ影響力を行使できる聖なる霊が次々と輩出しております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.65


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 52-e (人間は一人で生きているのではない)

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。すなわち世界の人間の全てが霊的につながっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。
 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物もいっしょです。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解したかぎりにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てることーーこれが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。
 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己れを犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。それがたった一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差しのべることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

      『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.158-160


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 52-f  (人種の違いと肌の色は魂の資質とは何の関係もない)

 質問:有色人種と白人との間のミゾを修復するために、われわれ若者は何をすればよいのでしょうか。

 手本を示すほかはありません。あなたたち自身の生活ぶりの中で、魂には黄色も赤色も黒色もないこと、肌の色は魂の資質とは何の関係もないことを示せば、そうした差別、禁制、防柵に苦しめられている人たちの注意を引くようになります。大霊はその無限の叡智でもって子等にさまざまな肌の色をもたせ、それらが一体となって美事な全体色を出すようにと意図されたのです。
 白い肌は霊の優秀さの証明ではありませんし、有色の肌が霊として劣っていることの証明でもありません。本当の霊の試金石は神的属性を発揮する時、すなわち霊が物質を超越して優位を占めた時です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.126-127

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 52-g [12-zw] 大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻せ

 その昔、幼な子が彼らを導くことになろう″(イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻さないかぎり、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。地上では太陽光線の作用の結果にすぎない肌の色でいろいろと差別が行われております。表面の肌の色だけを見て、その奥の霊性においてはみな同じであることを忘れております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 101

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 52-h (いつの日か地上のあらゆる肌色の人種は融合する)

 いつの日か地上のあらゆる肌色の人種が融合することでしょう。どの人種にも他の人種にできない役割をもっているからです。霊眼をもって見れば、すべての人種が調和し、それぞれの特質、特有の文化、特有の学問を捉供し合って生きる時代の到来が見えます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 101

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 52-i (全人種には大霊を共通の父母とする霊的同胞性がある)

 私たちは大霊を共通の父母とする、全人種の霊的同胞性という福音を説きます。その理解の障害となるのは地上的慨念であり、教会という人工的建造物であり、権力の独占であり、暴君の自尊心と横暴です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 102

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 52-j [6-w] (霊的な教訓が地上に広まれば各宗教の区別もなくなっていく)

 霊的な教訓が地上に広まるということは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。さらには、チャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴークといった各宗教の礼拝・儀式の場の区別も無くなります。なぜなら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包蔵しており、自分たちにとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 102

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 52-k (全人種が融合し差別がなくなるまでは地上に平和は到来しない)

 私たちはみな大霊の子供です。大霊はそのうちのある者を赤く塗り、ある者を黄色く塗り、ある者を黒く塗り、そしてある者には何も塗らずにおきました。が、それぞれが大霊の機構の中で存在価値をもっているのです。いつの日か大霊の摂理が行きわたり、さまざまな肌色の人種が混ざり合い、愛の心を抱いて共に暮らすようになった時に、世界中に調和が実現します。その一つ一つの色が何を意味するかを皆さんは理解しておりません。それぞれに大きな目的をもち、造化の摂理に貢献しております。すべての肌色が融合し、肌色で区別することをせずにその背後の魂を見るようになるまでは、地上に平和は到来しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 102-103

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 52-l[44-zo] (極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟である)

 すべての存在に神の息吹きが掛かっております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹きが宿されているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.191-192















 53. 催眠術


 53-a[23-r] (催眠術で前世を思い出すことにより教訓は得られるか)

 ― 前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。

 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、たんに現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表われであることがあります。
 別のケースとして、それにカルマがからんでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世に呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。
 もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊のしわざである場合もあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 128-129

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 53-b [23-s] (催眠術での遡及によって過去世の証拠が得られるものか)

 ― 催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないのでしょうか。

 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。
 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体脱離)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 130

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 53-c[23-t] (催眠術による前世への遡及は用心してかからねばならない)

 ― 生まれ変る時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。

 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。

 ― その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったかを聞いております。

 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は“暗示性”にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示どおりに反応しているとはかぎらないからです。

 訳者注― ここでは催眠術がテーマとなっているが、基本的には霊能者や審神者についても言えることで、見当違いのことを大まじめでやっていることがあるので用心が肝要である。その弊害に陥らないための最大の武器は、やはり、しっかりとした心霊学の知識である。
 心霊学は霊的なことについての学問であるから、霊的なことに関わる人のすべてが心得ておくべきものであるはずなのに、神道や仏教の当事者はもとよりのこと、霊能者、霊媒およびその審神者が基礎的な知識すら持ち合わせないことに呆れることがあるし、何と危険なことだろうと、恐ろしささえ覚えることがある。
 そうした事実を考慮して私は『霊訓』の続編である『インペレーターの霊訓』の冒頭で霊的通信の入手経路について概略を述べておいた。またインペレーターの霊言および自動書記通信の中には霊媒および霊能者に対する忠言、とくに邪霊・悪霊・イタズラ霊の存在について言及しているものが多く見られるので、ぜひ参考にしていただきたい。
 見た目に清潔そうに見えてもバイ菌がうようよしているように、平凡な日常生活の背後にバイ菌のような霊がうようよしている。問題はそうした霊に操られた霊能者や霊媒が多すぎることである。それは最近の書店の心霊コーナーを見れば一目瞭然であろう。
 嘆かわしいことこの上ないが、これも凡人には測り知れない神の計画の一端なのかも知れないと思って諦めつつも、せめてそれが真実でないことを指摘することだけはすべきだという考えから、敢えて付言させていただいた。事のついでであるが、私が親しくしている米国人のスピリチュアリストに最近の米国の心霊事情を尋ねたところ、英国にくらべて精神的なものより現象的なものが多く、しかもいかにも米国らしくスケールの大きい催しがあるが、いかがわしいものが多いので自分は久しくそういう催しに出席していないと言い、個人的には英国のスピリチュアリズムの方が性分に合っている、とのことだった。
 その英国のサイキックニューズ紙の最新号(二二・八・一九八七)で主筆のオーッセンが、編集手帳のようなコラムの中で面白い話を持ち出して、それに厳しい批判を加えている。
 あらましだけ拾って紹介すると、ある日オーッセンに電話でいい霊媒を紹介してほしいという依頼があった。わけを聞くと、エルビス・プレスリーの十周忌の記念行事としてプレスリーの霊を呼び出すための“国際的交霊会”を催したいという。アメリカとオーストラリアの方はすでに話がついているが、イギリスからも参加してもらいたいという。オーッセンはむろんそれを断ったと述べてから次のように警告している。

 「正直言って私はジャーナリストやテレビ局からのこの種の依頼にうんざりしている。名前を呼べば簡単に出てきてしゃべってくれると思っているらしいが、霊との交信はそういう調子にはいかないのである。
 いかなる霊媒も、こちらから霊を呼び出すことはできない。あくまで霊の方から親近性と愛を掛け橋として戻ってくるのである。
 依頼されればどんな霊でも呼び出してあげられると豪語する霊媒は今すぐ霊能養成会へ行って一からやり直すしかない」

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 130-134

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 53-d (催眠術は研究に値するものか)

 施術者が善意の目的をもち、その能力を人のために役立たせたいという願望から行うのであれば、もちろん結構なことです。催眠術者も魂の潜在力を使用している点は同じです。
 (催眠術者が接触するのは)大我、すなわち内部の大霊です。何度も申し上げていることですが、人間の各自に内在するその力を自覚すれば、そしてそれを使用することができれば、人間にとって克服できない困難はありません。
 その力と接触する方法は霊性を発達させること、波長を高めること、人のためになる生活を心がけること、要するに霊格を高めるようなことです。この世的なものに心を奪われるほど波長は低下し、私利私欲を捨てるほど波長は高まり、接触する波長も高くなり、内部の大霊がより多く発揮されることになります。
 (その内部の大霊は)その肉体を通して顕現している意識的自我によって条件づけられます。物的世界で生活している間は脳の意識中枢によって程度が左右されます。催眠術によって左右されることはありません。なぜなら施術者は牢の番人のようなもので、牢の扉を開けて自由にしてあげるだけです。
 施術者が善意の意図のもとに働けば被術者の内部の神性を刺激するという立派な仕事ができます。しかし同時に、動物性を刺激してしまうこともあるのです。が、どっちにしたところで、今あなたが表現しておられる意識は、いつの日か発揮するであろう大我のホンのひとかけらに過ぎません。

   『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
    コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp.148-149








 54. あなたは誰なのか


 54-a (あなた方は本来が霊的存在である)

 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。
 ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた "小さな自分" 以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。
 となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。
 そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。
 それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる "神"の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。
 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。
 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。
 あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることができます。その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。
 あなた方にはそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
      1988、pp.26-28


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 54-b (あなたが霊性に気づくとき)

 霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気づかぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。
 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。
 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆びつき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。
 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。
 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないものーー磐石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだーー自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。
 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小ばかにして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、1988、
    pp.33-36 


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 54-c (あなたは神のミニチュアである)
 
 星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。が、その大自然の営みの原動力である霊カと同じものを自分を通して働かせ、そうすることであなた自身もその営みに参加することができるのです。神からの遺産を受けついだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。あなた方は神の縮図であり、その拡大が神というわけです。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p.80 

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 54-d (あなた方一人一人が神である)

 霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり生命は霊です。この荘厳にして途徹もなく広大な宇宙を創造した力も、あなた方を生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。又、あなた方が愛し合い、物を思い、心を遣い、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までの全てを体験させる力、それは霊の力なのです。
 あなた方の一人一人が神であり、神はあなた方一人一人であると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。その神の力が病人を癒すのです。その力を分析してお見せすることはできません。何で出来ているかを説明することもできません。私に言えることは、それが無限の形態をとって顕現しているーーなぜなら生命は無限だから、ということだけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.188-189 

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 54-e (あなたは永遠の霊的存在である)

 その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週に一度お会いしてわずかな時を過すだけですが、そのことがお互いの絆を強化し接触を深めていく上で投に立っております。毎週毎週あなた方の霊そのものが霊的影響力をうけて、それが表面へ出ております。その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。また、こうしたサークル活動はあなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも役立っております。人間にはこうしたものがぜひとも必要です。なぜなら人間は毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、物的生活に必要なものを追い求めてあくせくしているうちに、つい、その物的なものが殻にすぎないことを忘れてしまいがちだからです。それは実在ではないのです。
 鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているにすぎません。身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具にすぎません。その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。それはあらゆる物的概念を超越した存在です。すべての物的限界を超えております。あなた方の想像されるいかなるものよりも偉大なる存在です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.35-36


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 54-f (あなたは死んでから霊的存在になるのではない)

 あなたも今のこの時点において立派に霊的存在なのです。死んでから霊的存在となるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄から解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなた方は自由の身となるのです。
 基本的にはあなた方人間も “霊” としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質が具わっております。今はそれが未発達の形で潜在しているわけです。もっとも、わずかながらすでに発現しているものもあります。その未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、神からのすばらしい遺産を真にわがものとするにはどうすればよいかを私たちがお教えすることができるのです。
 しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的にある種の犠牲を強いられることになります。なぜならば、そのためには波長を地上の低い波長に合わせなければならない---言いかえれば、人間と接触するために霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.29-30

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 54-g  (真実のあなたは触れることも見ることも出来ない霊である)

 あなたは物質の世界に生きているために、とかく生命活動を物的なものとして考えがちです。しかし生命の本質は物的なものではありません。生命の基盤は非物質的なものです。物質をいくら分析しても生命の起原は見つかりません。あなたという存在は物質ではありません。身体は物質でできています。しかし本当のあなたは、触れることも見ることも感知することも聴くこともできません。真実のあなたは霊″なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.33

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 54-h [8-c] (あなたの生活そのものがあなたという実在を形成していく)

 あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、“死”の過程をへて肉体と永遠に訣別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に惨めに見られることもありません。地上生活によって形成された性格をそっくりたずさえて行くのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.33-34

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 54-i (本当のあなたは肉体を通して自我を表現している意識である)

 厳密に言えば霊は身体に宿るという言い方は適切ではありません。霊と身体とは波長の異なる存在だからです。本当のあなたは体内にいるのではありません。心臓と肺の間に小さく縮こまっているのではありません。地上で生活するためにこしらえられた物的装置を通して自我を表現している意識″です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.38

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 54-j (あなたも大霊の一部であり無限の神性を宿している)

 あなたも大霊の一部であり、無限の神性を宿しております。その神性を発揮するにつれて、より次元の高い摂理との係わり合いが生じてまいります。それは決して低い次元の摂理と矛盾するものではありません。ただ魂がある一定の段階まで進化するまでは無縁というにすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 79-80

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 54-k (あなたは幾百万年をかけて下等から高等な種へと進化してきた)

 幾百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を棄てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなたが宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年かかったことでしょう。しかもまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年かけることになるでしょうか。かつてあなたは猿でした。猿そのものだったという意味ではありません。猿という種を通して顧現した時代もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには大霊の息吹きがあります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹きに段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への変移があるということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 80

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 54-l[1-u] (悩みや失望は自分が霊であることを理解していない証拠)

 一ばん厄介なことは、人間が物的なものに浸り切ってしまい、人生のすべての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです。あなたがもし思い通りにならないからといって悩んだり、失望したり、イライラしたりするようであれば、それはあなたがまだ一ばん大切なことは本当のあなたである霊≠ノ係わることでありその身体″ではないということを理解していない証拠です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.172

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 54-m[11-o] (一人一人が大霊であり大霊の無限の霊力が潜在している)

 地上はいがみ合い、恨み合いといった不和にあふれております。悲哀と悲劇と流血の連続です。それでいながらお互いにわれらに平和を与え給え≠ニ祈ります。私は皆さんに、内部に秘められている神性を自覚しなさいと申し上げたいのです。あなた方のお一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が潜在しているのです。それを開拓し表面に出す努力をすれば、有限であるがゆえの束縛を克服できるはずです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 174

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 54-n[11-r](あなたは霊だからこそ永遠に生き続けるのである)

 あなたは霊″だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには教祖さま″は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.194

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 54-o[1-z] (あなたは身体の奥に莫大なエネルギーを秘めている)

 あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーのすべてを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありませんが……。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.196

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 54-p (あなたは生命の旅路の一時期を地上で過ごしている巡礼者)

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにしてください。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われて霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れないようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以上にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることもできないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。しかし、やはり霊こそすべての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚してください。生命の旅路においてホンの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.206

















 55. 物質文明と霊的進化 

 55-a (物質文明は霊的にはきわめて未熟である)

 人類は物質文明を自負しますが、霊的にはきわめてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで "物" に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。
 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。
 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代って思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘びしく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。
 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利と言えるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。霊的進化というものは先へ進めば進むはど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.30-32 

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 55-b (色褪せることのない霊的宝物)

 私たちが携えてきたお土産をよくご覧になってください。いつまでも色褪せることのない、目も眩まんばかりの宝物ばかりです。その光輝はいつまでも輝き続けます。われわれのしていることに目を向けはじめる人の数がますます増えつつあります。莫大な規模の計画が用意され、われわれにもその一部が割り当てられております。克服しなければならない困難があることでしょう。取り除くべき障害物もあることでしょう。が、われわれ戦勝軍はひたすらに前進し続けております。
 長いあいだ圧制し続けた勢力も今となってはもうわれわれを圧制できなくなっております。過去幾世紀にもわたってわれわれに抵抗してきた勢力ーー正直に言わせていただければ唯物主義者と神学に擬り固まった宗教家たちほ、全て退却の一途を辿りつつあります。彼らの内部において混乱が生じ、時代とともに信じる者の数が減少の一途を辿っております。それにひきかえ、われわれはますます勢力を強めていきつつあります。真理、神の真理、永遠の真理が味方だからです。それを武器とした戦いに敗戦は決してありません。
 時に後退のやむなきに至ることがあるかも知れません。が、それも一時のことです。そのうちきっと失地を取り返し、結局は前進の一途を辿ります。この仕事に携わる人に私が決して絶望しないように、決して懐疑の念を抱かぬように、決して恐れないようにと申し上げるのはそのためです。あなた方の背後に控える霊の力は、あなた方の想像も及ばないほど強力にして威厳に満ちているのです。前途に立ちはだかるものが何であろうと、困難がいかなるものであろうと、いつかはかならず取り除かれ、計画の推進とともに真理普及に必要なものはかならず授かります。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1985、pp.178-179

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 55-c (霊界では地上の原爆の発明をどのようにみているか)

 地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、私が考えていることを正直に申しましょう。
 地上の科学者たちは戦争のために実験と研究にはっぱをかけられ、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。しかし本当はその秘密は人類が精神的、霊的にもっと成長してそれを正しく扱えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったでしょう。今の人類はまだまだうっかりの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的、霊的にどこまで成長するかにかかっています。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.76-77

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 55-d (人類は原爆の恐怖にどう対処すればよいか)

 問題のそもそもの根元は人間生活が霊的法則によって支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながらお互いに扶け合い協調と平和の中に暮したいという願望は見られず、我が国家を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも我が階層を豊かにしようとする願望が支配しております。すべての制度が相も変わらず唯物主義の哲学を土台としております。唯物主義という言葉は今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には同じです。誰が何と言おうとこの世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだと考えています。そしてそれを土台としてすべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまりたった五つの感覚で得られるほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。
 しかし生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学、医学、原子、こうしたもので理解しょうとしても無駄です。生命の謎は科学の実験室の中で解かれる性質のものではありません。魂をメスで切りさいたり化学的手段で分析したりすることはできません。いかなる物的手段によって解明しようとしても、生命を捉らえることはできません。なのに物質界の大半の人間は(生命を物質と思い込んで)霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視してかかります。
 地上の全生命は “霊” であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は霊に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間からすでに霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。霊なしには生命は存在しません。なぜなら生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。
 死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように何らかの証拠を提供することが私どもの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日ほそれよりさらに恐ろしい途方もないものとなるでしょう。が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになります。魂の自由性を永遠に束縛することはできないのです。魂の自在性を永遠に拘束し続けることもできません。自由性と自在性はともに魂がけっして失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在以上のものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを測り知ることのできない巨大な宇宙の中での千変万化の生命現象の根元的要素である霊とまったく同じ不可欠の一部なのです。
 以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き明日はどうなるのだろうと不安に思いながら歩むことがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになります。なぜなら霊は自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきです。永遠なる存在である霊が拘束され閉じ込められ制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせている障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。ですからご質問に対する答えは、とにもかくにも霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和を招来するためには霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて他に手段はありえません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.80-84


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 55-e (この地上におけるどのような変化を見てきたか)

 大ざっぱに言えば、地上における変化は文明化″といわれる過程でしょう。人類は物質的な面で大きく飛躍しました。大自然の仕組みについて多くの発見をしました。山頂を征服し海底を探査するようになりました。大陸と大洋を横断するようになりました。物質的な面では非常に高度なものを成就しました。驚異的な発達ぶりであったと言えましょう。しかし、同じ発達が精神面と霊的な面に見られないのです。人類は物質と精神と魂のうちの物質面だけが異常に成長してしまいました。他の二つの側面がそれについて行っていないのです。それが利己主義という、地上でもっとも厄介な罪を生むことになったのです。
 さて、こうした事実から学ばねばならない教訓があります。それは、物質面での発達を、全面的ではなくてもいいから、霊的ならびに精神的側面にもある程度反映するようにならないかぎり、人類はみずからの存在の産物、みずからの創造の成果を平和的生活の中で味わえるようにはならないということです。そうならないかぎり地上には混沌と無秩序と不協和音が絶えないということです。良いことをしようという意欲を起こさせ、協調と奉仕の仕事へ鼓舞するのは精神と霊の発達なのです。
 精神と霊の発達は利己主義を滅ぼし、代わって霊的教訓をもたらします。精神と霊に宿された才能を開発し、その上で物質的文明の産物を自分一人のためでなく他のすべての人たちのために活用するようになれば、いわゆる地上天国が実現されます。地上世界のすべての人間が自分より不幸な人のために役立てる何らかの才能を具えているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.149-150


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 55-f (この機械化時代は人類の進化に役立っているか)

 最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むものと想像してはいけません。前進と後退の繰り返しです。少し登っては滑り落ち、次に登ったときは前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。ある一時期だけを見ればごらん!この時期は人類進化の暗い汚点です≠ニ言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ほんの一部です。
 人間の霊性は徐々に進化しております。進化にともなって自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。
 数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんのひとにぎりの者にかぎられていました。が今や、無数の人々がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死してのちもその成就のために立ち働いております。そこに進歩が得られるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.192


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 55-g (核実験などで地球や人類が滅びることはないか)

 ありません。人類も生存し続けます。人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。惑星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。無視すれば霊的向上は望めません。霊的な身仕度ができないまま私たちの世界へやってまいります。そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。いかなる人間も、たとえ集団組織をもってしても、神の意志の実現を挫けさせることはできません。その進行を遅らせることはできます。手を焼かせることはできます。妨害することはできます。しかし宇宙を支配しているのは無限なる叡智と愛です。いつかは必ず行きわたります。それが神の意志だからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.34-35


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 55-h  (地球の大地の多くが破壊され、もう元には戻せないのでは)

 しかしその太地には莫大な潜在的資源が隠されています。まだまだ多くのものが明かされていきます。多くのものが発見されてまいります。人類は進化の終局を迎えたわけではありません。まだまだ初期の段階です。
 霊的真理を悟った方は決して絶望しません。それまでに明かされた知識が楽観的にさせるからです。その知識を基礎として、霊力というものに絶対的な信頼を抱くことができるのです。永い人類の歴史には数々の災禍がありました。が、人類はそれを立派に乗り越えてきました。我ながら感心するほどの強靭さをもって進歩してまいりました。これからも進歩し続けます。なぜなら、進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.35-36

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 55-i  (霊的存在としての人間は進化の過程のどの段階で登場したか)

 ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。
 人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.44-45

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 55-j [79-i] (科学技術の発達に伴う人類の自由意志選択の責任)

 ― (ジャーナリストが質問する) 霊界および他の世界から人類へ向けてさまざまな警告が届けられております。あるものは原子力は悪であるから阻止せよと言い、またあるものは人類の独善主義について警告しています。そうした警告めいた予言を総合的に検討して記事を書くようにとの依頼を受けているのですが、ご意見を承りたいのです。もし何か特別に警告すべきことがありましたら明確に述べていただきたいのですが……

 私は原子力が悪だとは思いません。その使用法が邪悪になることはありえます。しかし反対に測り知れない恩恵をもたらすこともできます。そのカギを握るのは、その途方もないエネルギーを管理する、あるいは管理を誤るかも知れない立場にある人たちです。
 警告めいた予言のことですが、霊界にカッサンドラ(ギリシア伝説の凶事の予言者)のような霊がいて、何か大変なことが地球に迫りつつあるということで大ゲサに嘆いているような図を想像してはなりません。
 そんな単純なものではないのです。大霊は子等に一定限度内の自由意志を与えておられます。その自由意志による選択によって地上を光輝と美と豊かさに満ちた所にすることもできれば“生き地獄”とすることもできます。その選択をするのはあなた方人間なのです。
 科学技術の発達とともに途方もないエネルギーの存在が明らかにされて、それをいかなる目的に使用するかの責任が大きくなってまいります。正しい進化の方向を選ぶことになる唯一の道は、私の理解しているかぎりでは、無限の神性を宿している子等がそれをできるだけ多く発揮して地上世界を美しく飾り、大自然がその豊かな恩恵を実らせるようにする以外にありません。
 それが人間が選択すべき唯一の道です。それを無視して富の神マモンを崇拝し、欲望に乗り、利己的になり、他人のことはどうでもよいと考えるようになったら最後、自分の国だけでなく地球全体が暗愚と困難と悪と疫病という、自由意志の選択の誤りが生み出す結果で埋めつくされることになります。
 しかし、そう申し上げながらも尚かつ私は、人間がいかに驚異的なエネルギーを手にしようと、それよって起こす破壊や荒廃を一定限度で食い止める無限の力には到底太刀打ちできないことを断言しておきます。地球全体を、あるいは宇宙そのものを完全に破壊する力は持てません。

 ― やはりあくまでも神の持ち物というわけですね。

 そうです。あくまでも大霊の持ち物であり、大霊が支配しなければならないのです。大霊は無限です。無限なる愛であり、無限なる叡智であり、すべて子等に、地上を天国となしてそこに共存するための手段を提供してくださるのです。それを受け取るか否かの選択は自由ですが・・・・・
 自由だからいいのです。もしも人間が操り人形かロボットのようなものだったら人生は何の意味もないことになるでしょう。完成へ向けての進化も成長もありません。永遠の虚無の世界となってしまいます。それは神の意図するところではありません。
 皆さん方のどなたよりも永く宇宙人生を送ってきた私は、神の完全性が生み出した宇宙の美事な機構を畏れと驚嘆と敬意と感嘆をもって眺めるようになりました。無限の知性が考案した摂理の働きを阻止できるものは何一つ存在しません。
 人生のすべての相を支配している永遠の霊的原理をかい間見るという光栄に浴した者は、明日はどうなるのかという不安を抱く必要はみじんもありません。驚異的な科学技術の発達、科学的業績は善にも悪にも使用できますが、いくら悪いことに使っても、それがもたらす破壊にも限界があります。地球全体、およびそこに住む人類をもろとも破滅させてしまうほどの無制限・無束縛の自由が許されるわけではありません。
 愛は憎しみに勝ります。霊は物質に勝ります。その宇宙最大の力は生命の大霊かち出ているのです。無限の知性によって考案され、無限の叡智によって支配されている宇宙の摂理は、いま住んでおられる世界が少しでもよい世界へ向けてゆっくりと着実に進歩するように配慮してあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 195-198

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 55-k (物欲や暴力などが目立つこの地上世界に希望はあるのか)

 ―今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか“文明国”と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人たちへ何かメッセージをいただけないでしょうか。果たして希望はあるのでしょうか。

 大霊の御心は必ずや行きわたります、と申し上げます。人類の霊的革新および動物問題の改善に関わる仕事にたずさわる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、いつどこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません、と申し上げます。
 地上天国はいつの日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階をへながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力・混乱・衝突・戦争・残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検のための全面的解体作業)の過程にあるからです。
 すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎ立てております。又、あまりに永いあいだ手枷足伽となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや抑制できなくなっております。
 そうしたるつぼの真っ只中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです。しかし歴史を振り返ってごらんになれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれるはずです。
 総体的にみて人類はかつてより親切心と寛容心が増え、その一方において偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくということです。
 気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場をつくり、退却させられることがないようにすることです。それが至るところに恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをしつづけます。その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と愚行と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。
 明るい希望と楽観の根拠がいつでも十分に揃っているのです。なぜなら大霊の働きの休む時はないからです。

 ―われわれがスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの現れだと私は思います。

 それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないということになっているのです。ですから、いったん根づいたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 166-168

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 55-l (渦巻き状に進化する地上の上層部は明るい展望が開けている)

 ―地上世界は渦巻き状に進化しているように思います。

 おっしゃる通りです。その渦巻きの一ばん底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識をたずさえた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことはすでに何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次になすべきこともちゃんとご存知です。
 もう一つ別の側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されていきつつあります。その多くはあまりに永いあいだ人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力と取って代り、生活状態が改善されていくことでしょう。
 大切なのは、取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安、こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。
 真理を知った者は、それがわずかであっても―たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています―いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。
 何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは“心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります”ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 169-170

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 55-m[11-q] (地上世界には霊的新生が大いに必要である)

 地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的のために自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が徐々にではありますが行きわたりつつあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.188

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 55-n[65-q] (物的繁栄の中にあっては無視される霊的真理)

 生長・変化・進化・進歩・開発・発展----これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環運動、周期運動、螺旋運動−こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなたも、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望するものです。それは人生全体を織りなすタテ糸でありヨコ糸であるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.204

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 55-o (宇宙には進化する目的があり常に進化しつつある)

 宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたものというのはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。不純なところを一つ無くしていくごとに、その奥にさらに不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。したがって当然、その時点においては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。どこかに荒けずりのところがあり、問題があり、困難が伴います。が、それもすべて進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、p.72












 56. 人生の目的


 56-a (人生の目的はさまざまな体験をつむこと)

 光の中ばかりで暮らしておれは光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません。
 人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまぎまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終れば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。
 毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当らないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身につきます。片方無くして他方は有り得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。
 あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを "過ち" とよぶ方を好みます。もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰一人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。
 光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。平和を有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対称の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発はないでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。
                                                      『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp.44-46 

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 56-b (スピリチュアリズムの目的)

  スピリチュアリズムの全目的は、人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。
 それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から理想の花咲くパラダイスヘと変わることでしょう。われわれは今それを目標として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居睡りの生活から目覚める人ーーこうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とを携えて巡礼の旅に出る魂であると言えましょう。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1985、p.196

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 56-c (霊的真理を広めていく責任)

 私たちの説く真理はひと握りの人のためにどこかの小さな団体、秘密結社のようなところに仕舞いこんでおくべきものでしょうか。真理を知らずに迷い、絶望的になり、あるいは悲嘆に暮れている数知れない人の姿が私たちの目に見えないとでもお思いでしょうか。私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。まず第一に人生を支配する法則---物的生活、精神的生活、霊的生活を支配する法則の存在を説かなければなりません。続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿るすばらしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想的世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。
  私たちの説く真理は最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められるべき宿命を担っているのです。誤りを訂正し、不足を補い、これまで人間が愚かにもしでかしてきたことの後片づけをするだけで何十年も何百年も費します。地上の人類がこうまで無知でなければ、そのエネルギーを別の用途に向け、時間のムダも省けるのですが・・・・・・

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.120

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 56-d (人間は霊的に成長しなければならない)

 私たちがなぜ地上へ戻ってくるのか。実は霊界へ送り込まれてくる人間の中に、もしも地上で霊的知識を身につけておればこうまで酷くはならなかったろうと思われる廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるで出来ていない者があまりに多すぎるのです。無知と恐怖と迷信と偏見に満ちた者ばかりなのです。そうした地上の暗黒面を助長している勢力を打ち崩すことが私たちの仕事です。私はそれを敢えてスピリチュアリズムと呼ぶつもりはありません。私は自然法則について語っているだけです。父なる神などという言い方も致しません。私は宇宙の大霊という呼び方をしています。私は法則に目を向けます。私は宇宙の目的に目を向けます。人間は霊的に成長しなければならないのです。もしも地上で為すべきことの一部だけでも成就できたら、避けようにも避けられない宿命である次の霊的生活への準備が整ったことになります。そうなるように仕向けるのが私たちがこうしてあなた方の世界へ戻って来る目的です。同胞である地上人類への愛に発しているのです。情愛の絆がわれわれを結びつけ、私たちがあなた方に真理を語り、代ってあなた方が同胞のためにそれを語り継いでいただくということです。
 私はただ私が見たままの事実を述べるだけです。そしてその評価はあなた方の理性に訴えております。それが最高の判定者であると考えるからです。とにかく知識を広めることです。迷信を突きくずすのです。光明を輝かせ闇を無くすのです。古くからの誤った権威を亡ぼすのです。強欲、貪欲、私利私欲、旧態依然たる教理と慣行の息の根を止めるために何とかしなければなりません。これらのすべてが霊の敵です。断じて無くさなくてはいけません。新しい世界にとっての障害物です。その行く手を邪魔する者は、たとえ一時にせよ、神の計画を妨害していることになるのです。真理はいかなる組織・団体よりも大切です。何も難しく考えることはありません。真理はきわめて簡単なのです。ところが人間は簡単では気が済まないのです。形式と慣習を好みます。よその形式と慣習を真似したがります。よそが教会を建てると自分のところにも教会を建てないと気が済まないのです。よそが祈祷で儀式を始めるようになると自分のところでも祈祷文をこしらえます。よそが讃美歌を歌うと自分のところでも讃美歌をこしらえます。もっともその多くは文句が同じで、歌い方を変えているだけですが・・・・。よそが説教を始めると自分たちも説教を始めます。
 そんなことをしなくても、ただひたすら霊力を第一に考えておれば、神についての知識と霊的法則の普及のための合流点はいくらでもあります。そのことが何より大切です。レンガはあくまでレンガです。建築物はあくまで建築物にすぎません。そんなものを崇拝してはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。そのことを知った者はその真理の炎を絶やさぬように努力し、向かうべき方角も分らずに迷っている人々にいつでも希望と慰めと啓示を与えてあげられるようになることが勤めです。あなた方の世界は暗黒に満ちております。人生に疲れ生きる意欲を失い困惑している人、慰めのひとこと、一片の真理を喝望している人々が大勢おります。あなた方による緊急の援助を必要としております。そういう人々のためにあなた方は一刻を惜しんで真理の普及のために努力すべきです。その人たちにとって霊的真理が人生のすべてを建て直す盤石の土台となることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.123-125

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 56-e [13-p] (余暇の正しい使い方について)

 余暇は神と霊の開発・陶冶に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関係したことはすでに十分な時間が費されているからです。人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが・・・・・しかし精神と霊も発育が必要であることをご存知の方はほとんどいません。そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたまま生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間見たことすらありません。誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにおります。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面のすばらしさを知らしめます。
 となれば霊位そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライべ−トな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、イソスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.211-212


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 56-f (地上の人間としてどのように生きていくべきか)

 私に言わせればそれは至って簡単なことであり、なぜ地上の人間がそれを難しく考えるのか理解に苦しみます。あなたも他のすべての人間と同様に、為すべき何らかの仕事があってこの物質界に誕生してこられたのです。ときには内省の時をもって、果たしてこれが自分にとっての本当の仕事なのだろうか、世の中を啓発する上で少しでも役に立っているだろうか、知識の蓄積を怠っていないだろうか、獲得した霊的真理を人に分け与える努力をしているだろうか、これで最善を尽くしていると言えるだろうか---正直に自分にそう問いかけてみることです。そうすればおのずと答えが出てまいります。
 それだけでいいのです。自分に正直になり、最善を尽くす---それだけでいいのです。宗教的信条や教義などは必要ないのです。自分はいま何を為すべきかを素直に認識するだけでいいのです。その心掛けを日常生活で徹底させれば、決して道を誤ることはありません。この物質界に誕生してきた目的を成就させていることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.90


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 56-g [13-i] (自我の開発が人間として最も大切な目的)

 自我の開発---これが人間としてもっとも大切な目的です。それがこうして私たちが霊界から地上へ戻ってくる目的でもあるのです。すなわち人間に自己開発の方法、言いかえれば霊的革新の方法をお教えすることです。内在する神の恩寵を味わい、平和と調和と協調と友愛の中で生きるにはそれしかないからです。今の地上にはそれとは逆の内紛″が多すぎます。
 数からすれば私たちの霊団は比較的少数ですが、計画は発展の一途をたどっております。着実に進歩しております。確実な大道を見出す巡礼者の数がますます増えております。まことによろこばしいことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.21-22


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 56-h (霊的実在に気づくための体験をするのが人生の目的)

 地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。大自然の摂理は正常な人間には例外なくその機会が与えられるように働いていることを私は確信しております。もしそうでなかったら神によって無視されたり恩恵にあずかれない人間がいることになり、そういうことは絶対に有り得ないことだからです。霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 117


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 56-i [18-t](何のために生まれてくるのか=1= 苦難の意味)

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。
 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。
 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。
 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねはなりません。
 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。
 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。
 人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 18-19


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 56-j [2-u] (何のために生まれてくるのか=2= 生き続ける命)

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて― 地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの― が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。
 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。
 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。
 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 20-21


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 56-k[13-q] (何のために生まれてくるのか=3= 霊性の開発)

 地上というところは、バイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。
 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。
 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼(はがね)が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。
 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。
 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。
 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺へ連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 21-23


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 56-l [18-u](何のために生まれてくるのか=4= 解決できない問題はない)

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。
 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。
 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器― 非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 23-24

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 56-m (地上生活の目的はさまざまな体験を積むこと)

 ― この世的なものをなるべく捨てて霊的なものを求める生き方が理想なのでしょうか、それともできるだけ多くの地上的体験を積むべきなのでしょうか。

 物質というものを霊から切り離して、あたかも水も通さないほどに両者が仕切られているかに思ってはいけません。両者には密接な相互関係があります。地上にいる間は、霊が物質を支配していても物質がその支配の程度を規制しております。物質を霊から切り離して考えてはいけません。
 地上生活の目的は、いよいよ霊界へ旅立つ時が来たときに霊に十分な備えができているように、さまざまな体験を積むことです。まずこの地球へ来るのはそのためです。地上はトレーニングセンターのようなものです。霊が死後の生活に対して十分な支度を整えるための学校です。
 あなた方にとってイヤな体験こそ本当はいちばん為になるのですよと繰り返し申し上げるのは、そういう理由からです。魂が目覚めるのは呑ん気な生活の中ではなく嵐のような生活の中においてこそです。雷鳴が轟き、稲妻が走っている時です。
 酷い目に遭わなくてはいけません。しごかれないといけません。磨かれないといけません。人生の絶頂と同時にドン底も体験しなくてはいけません。地上だからこそ味わえる体験を積まないといけません。かくして霊は一段と威力を増し強化されて、死後に待ちうけている生活への備えができるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 40-41

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 56-n (障害や不利があるからこそ内部の神性を発現する機会がある)

 人生が両面性から成るということは挑戦の機会があるということであり、障害や不利な条件に立ち向かうことになるということです。そうでなかったら素晴らしい内部の神性は永遠に発現する機会がないことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 79

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 56-o[61-zb] (霊的真理を手にすれば普及と実践が伴わなければならない)

 霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 99

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 56-p (物的体験をするために私たちは物的世界の地上へ送られてくる)

 種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始するための養分を摂取するためです。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動にそなえて物的体験という魂の養分を摂取するために、この地上という物的世界へ送られてくるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 150

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 56-q (未熟であるからこそ私たちはこの地上に生まれてきた)

 その日一日、その場の一時間、今の一分・一秒を大切に生きることです。明日のことを思い患うことなく、今″という時に最善を尽くすのです。あなたが煩悩をもつ人間的存在であり、未熟であることは、神は先刻ご承知です。だからこそ地上に来ているわけです。もしも完全であれは、今そこに存在していないはずです。地上生活の目的はその不完全なところを一つでも無くしていくこと、それに尽きます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 150-151

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 56-r[18-zu] (霊的価値の高いものが簡単に達成されることはない)

 そもそもあなたがこの地上へ生まれて来たのは、陰性のもの、邪悪なものを克服して霊的に一段と強くなるためです。それが容易に達成されるとは申しておりません。大へん難しいことです。しかし霊的価値の高いものがそう簡単に達成されるはずがありません。なぜなら、それには霊的視野と焦点を常に誤らないようにするための強烈な精神的鍛練を要するからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.169

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 56-s[10-ze] (自然の摂理と調和して生きれば霊的自覚はさらに大きくなる)

 霊と精神と身体を支配している自然の摂理と調和した生活を送っていれば、健康が維持されるのみならず、進むべき道をしっかりと踏みしめているとの確信を覚えるようになります。その霊的自覚はますます大きくそして強くなってまいります。それが存在というものの、そもそもの目的なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.171

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 56-t[61-zh] (人生の目的は失敗から学び霊的真理にしがみつくこと)

 地上生活の究極の目的は失敗から教訓を学び、転んでは立ち上がり、日々の生活の中の冒険的な出来事に一つ一つ対処し、しかも他方においては、自分が本来は霊であり肉体は道具にすぎないこと、したがって大切なのはその霊に及ぼす影響であることを忘れずに、常にそれを優先させて基本的な霊的真理にしがみつくことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.171

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 56-u[18-zzb] (問題を一つ一つ片づけていく中で新たな力を獲得していく)

 悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片づけていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.182

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 56-v[64-c] (運命の枠組みの中で潜在的神性を発揮するのが人生の目的)

 人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに神の分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある一定限度内での自分意志が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.198

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 56-w (霊的存在としての生き方に徹していれば必ず霊的に向上する)

 日々の生活でいかなる問題が生じようと、それによって気が滅入るようなことがあってはなりません。私はバラ色の人生、何の苦労もないらくな人生をお約束することはできません。お約束ができるのは、霊的存在としての本来の生き方に徹していれば、必ずや霊的向上が得られるということです。そうなって初めて物質の世界へ誕生してきた甲斐があったことになるのです。
 物質は一種の障害物であるという見方もできます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それにひきかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するには五つの物的感覚を使用しなければならないのです。たとえてみれば巨匠が粗末な.ハイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末であるために、その繊細な響きが出せません。人体はまさに土の塊りです。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。
 いつも明るく楽天的で愉快な気分を忘れないようにしてください。うなだれてはいけません。背後霊にとって最も働きかけやすい雰囲気は、陰うつさや落胆や絶望感の無い状態です。そうした陰湿な感情はあなたのオーラを包み込み、背後霊にとって厄介な障害となります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
       潮文社、1988、pp.148-149

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 56-x(霊界では地上への誕生の際、地上で果たすべき事を予め示されるか)

 一般的にはそうです。その人の霊的発達程度に応じて、どういうことをするかの選択が許されます。見せられるといっても、細かい点までいちいち見せられるわけではありません。地上でも、たとえば溺れて危うく死にかかった人が、その危機一髪の瞬間に、それまでの過去の生活を全部見た、という体験をすることがありますが、事実そういうことは有り得ることでして、地上への誕生前に地上生活をあらかじめ見せられるのも、そういう形でのことです。そういう生活がその人の次の進化の階梯にとって必要であるとの認識のもとに選択するのです。霊的に進化した人ほど困難な仕事を選ぶものです。
 それは当然ではないでしょうか。高度な叡知を身につけた人が安楽な仕事を選ぶはずはありません。偉大な人物が苦難の人生を送るのは、その辺に理由があります。それはその人が覚悟していた挑戦です。それを克服することによって、それまで未開発だった資質が開拓され、霊性が一段と発現されるのです。しかもそれは、死後霊界において為さねばならない、より大きい仕事のための準備でもあるのです。

     トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
      (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.159-160








 57. 人間の寿命・死ぬ時期

 
57-a (人間の寿命は前もって決められているのか)

 肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、霊が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。
 肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 61

     
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 57-b (大勢の人が一度に事故死した場合でも定められた寿命か)

 問題は用語です。あなたは今定められた″という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を規準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって魔可不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。
 地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の退場″であり、後者は入場″です。
 地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 61-62

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 57-c [2-r] (霊格に関係なく地震などで一度に大量の死者が出るのはなぜか)

 なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。
 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません。
 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 70-71


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 57-d (過食・暴飲も自殺行為だがそれでも死は予め決まっているのか)

 答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれは、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.149


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 57-e (死ぬ時期は誕生時から知られているのか変えられないのか)

  ---「知られている」というのは、質問者が、生まれてくる本人、あるいは霊界の仲間の霊などによって、を意味していることをシルバー・バーチが聞きなおしたうえで---

 知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。
 人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.149-151

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 57-f[3-b] (遺体は火葬する前に一定期間安置しておく必要があるか)

 ― 死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかつさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れたあとも、地上での長いあいだの関係によって相互依存の習性が残っているからです。
 その意味では一般的に言って埋葬または火葬までに死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それからあとのことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。
 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上に永らえさせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 51-52

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 57-g (定められていた誕生日は帝王切開では変えることにならないか)

 ― 各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決まっていた誕生の日時を変えることになりませんか。

 それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命にみずから終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p.57

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 57-h (人為的に早められた出産は占星学的に影響があるか)

 ― 出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く産まれることになりますが、これは占星学的に何か影響を及ぼしませんか。

 出生の日時がよくよく気になるとみえますね!地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現しはじめるかということです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時からではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎とともに地上的生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p.57

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 57-i (人間は完全な生活条件の下では150歳まで生きられるのでは)

 ― たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・・・

 肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。
 肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。
 地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.62-63

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 57-j (死ぬはずの人間でも医術で生き続けることがあるのではないか)

 ― 普通だったらとっくに死んでいるはずの患者が医術によって何か月も生き続けている場合があるように思うのですが、こういう場合はどうなるのでしょうか。

 死ぬべき時期がくれは、いかなる医師も生かし続けることはできません。

 ― でも、そう思えるケースがよくあります。例えば最近ではアメリカの少女の例があります。

 その子の場合、医師が死期を延ばしているという証拠はどこにあるのでしょう? 私が理解しているかぎりでは、地上の医師はまだ死期について確定的なことは分かっておりません。正確な死の瞬間について論争が続いているではありませんか。
 死の過程は生命の糸(シルバーコード)が切れて霊体が肉体を離れた瞬間をもって終了します。その時はじめて“死んだ”と言えるのです。いったんその分離が生じたら最後、いかなる医師も肉体を蘇生させることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 129-130

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 57-k (神は肉体が永遠の生命をもつようには計画していない)

 ― 支配霊にはレッド・インディアンが多いようですが、霊媒が次々と他界していったあと、それを継ぐ人がいないようです。もっと多くのインディアンの支配霊の働きを期待したいのですが……

 情けないことを言ってはいけません。時が至れば必ず手段は見つかるものです。もとより霊媒も生身である以上は、いつかは霊界へ来なくてはなりません。神は肉体が永遠の生命をもつようには計画されていません。地球というのはほんの束の間の生活の場です。永遠の住処ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 140

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 57-l (人の寿命は、大ていの場合、前もって分かっている)

 ― 寿命は前もって決まっているのでしょうか、それとも体力その他の要素の問題なのでしょうか。

 ありとあらゆる要素が絡んでおります。物的身体は魂が体験を得るために欠かすことのできない大切な道具です。魂と身体は二人三脚です。が、そのことは別として、地上の寿命は、大ていの場合、前もって分かっております。
 物的身体と霊的自我とを完全に切り離して考えてはいけません。両者はがっちりと組み合わさり、前者は後者を制約し、後者は前者に生気を与えております。一個の人間の存在をバラバラに分解して考えてはいけません。いくつもの要素が組み合わさって一個の存在を形成しており、しかも、その一つ一つの要素が互いに反応し合っております。それぞれの要素が組み合わさり、融合し合って、あなたという一個の存在を形成しているのです。

   トニー・オーツセン編「シルバーバーチの新たなる啓示」
    (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.134-135

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 57-m (事故で一度に千人が死んだ場合の千人の寿命をどう捉えるか)

 ― たとえば船の事故で千人の溺死者が出たとします。その千人は、ちょうどその時期に地上との緑が切れることになっていたのでしょうか。魂の成長のために与えられた地上での寿命が、ちょうど同じ時期に終るように運命づけられていたのでしょうか。

 霊的なことを地上の言語で表現するのはとても難しいです。あなたのおっしゃる“運命づけられた”という表現を用いますと、では誰によって、何を基準に? という疑問が生じます。たぶん皆さんの頭の中には、大霊が死ぬべき人間を船に乗せておいて事故を起こさせたような図を想像しておられるのでしょうけれど、そういうものではありません。人生の千変万化の人間模様の背後に大自然の摂理が働いていて、その結果として事故が発生しているのです。
 肉体にはいずれ死が訪れます。死によって霊が肉体から解放されるのです。その意味では、肉体の死は霊の誕生です。その死を地上の人間は悲劇とみますが、われわれ霊界の者にとっては少しも悲しむべきことではありません。霊界への誕生なのですから、死は自由解放への扉を開いてくれる恩人です。煩わしい地上の悩みごとから解放してくれるのです。特殊な例外を除いて、死は罰ではなく、報酬です。ですから、死というものを、何としても食い止めねばならない悲劇と見ないで、魂が本来の自我を見出すために仕組まれた、大自然の生命活動の一環と見るべきです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たなる啓示』
    (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.136

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 57-n (肉体的生命の維持が第一の目的とは考えない)

 私は臓器の移植には賛成できません。実は、輸血にも賛成できないのです。あくまで私個人としての意見ですが、肉体的生命の維持(死なないようにすること)が第一の目的であらねばならないとは考えません。
 私の考えでは、人間としての正しい生き方――霊的に、精神的に、そして物質的にどういう生き方が好ましいかを教えることこそ、第一の目的であるべきです。心の持ち方が自然の摂理にかなっていれば、おのずと品行も方正となり、身体も健康となるはずです。それを臓器を取り替えることで解決しょうとしても無駄です。最良の解決法は自然の摂理にかなった生き方に戻ることです。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
     (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.190-191









 58. 神の法則と摂理 


 58-a (神の摂理は一分一厘の狂いもなく働く)

 神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相応の結果を生み、自分が蒔いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さをもって作用し、人間的制度にはお構いなしです。地上生活では勝者がいれば敗者がいるわけですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。
 と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くぴるつもりは毛頭ありません。それは私にも痛いほどよく分かります。ただ、もしも私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私が神界から授けられた義務を怠ることになります。永い歴史を振り返れば、あまりの悲劇に指導者も "世も未だ" と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋もれてしまうと思い込んだものでした。しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続けることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.82-83 

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 58-b [79-g] (切ることの出来ない神との縁) 

 私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません。しかし、もしも容易であったらそれだけの価値はないことになりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲りくねった道です。己れを棄てることーーこれが進化の法則です。
 もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは,永遠の叡智を嘲笑うことになります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。
 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生むカは同じものなのです。その根源的なカがどちらへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意志にかかわる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。
 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。神の力とエネルギーと援助を呼び込む手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.83-84 

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 58-c (偶然の出来事は一つもない)

 皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは自然法則の一部にすぎません。宇宙の大霊すなわち神は宇宙を法則によって経綸し法則に則って顕現していくように定めたのです。その法則が宇宙の全活動を統御しております。宇宙のいずこにもーー人間の知り得た範囲に留まらず人間の能力をはるかに超えた範囲においてもーー法則の行き届かないところはありません。
 その法則の中に神の意志が託されているのです。およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。
 科学者の手によって物質界の原理の多くが発見されました。が、その探求の手はまだまだ霊的な分野にまでは及んでおりません。人生を物的尺度でもって判断し理解し考察しようとするのは愚かです。小さな一部分にのみ関心を集中し、肝心な大きなものを見落しているからです。


   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.172-173

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 58-d (スピリチュアリズムよりは自然の法則)

 しばしば申している通り、あなた方はスピリチュアリズムという言い方をされますが、これは地上でのラベルであって、私にとっては自然の法則そのものなのです。スピリチュアリズムという用語を用いると人によっては、とくにその真意を知らない人にとっては、何やら無気味な感じを与えます。それよりも、大自然の法則ーー宇宙の物理的・精神的・霊的法則、まだまだ未開拓のままである人間の潜在的能力、表面下に存在する活動の世界、すなわち超自然界、人間のもつより繊細な能力ーーこうした広大な分野は "スピリチュアリズム″とか "霊媒現象" といった誤解されやすい用語を用いなくても教えることができます。
 詭弁を弄しなさいと言っているのではありません。真理には多くの側面があり、したがって特別なラベルを貼らなくても表現できることを言っているのです。すでに他界した人にも、地上で幻滅を感じている人にもーーそういう人が実に多いのですーー霊的知識を普及するチャンスを与えてあげることによって大いに助けになってあげられます。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.62-63

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  58-e(戦争犯罪人は霊界でどのように扱われるか)

 誰であろうと、それぞれの事情に応じて自然法則が働きます。法則の働きは完璧です。原因に対して数学的正確さをもって結果が生じます。その因果関係を髪の毛一本ほども変えることはできません。刈り取らされるものは自分がタネを蒔いたものばかりです。その魂には地上生活の結果が消そうにも消せないほど深く刻み込まれております。摂理に反したことをした者はそれ相当の結果が魂に刻まれます。その一つ一つについて然るべき償いを終えるまでは向上は許されません。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.207-208

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 58-f (人生は霊的摂理に支配されている)

 人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方にはみずから真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。すべての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること--- 一個の人間、一つの団体、一つの国家が誤った思想から、貪欲から、あるいは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、すべては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配はあり得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血はあり得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。
 われわれの仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広めることです。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。あなた方のよりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そうして知ったことは、この世に奇跡はなく、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。
 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、すべてが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。その法則とは、原因にはかならずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いたタネは自分で刈り取るということです。所詮はごまかすことができない---なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今のべた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。きわめて簡単な真理なのです。人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶け合うことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる---ただそれだけなのです。
 何も知らない人たちを光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられる霊的啓示を無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私たちが非難するのは、そうした本来私たちと手を取り合うべき人たち、本来宗教を説くべき立場にある人々が私たちの敵の側にまわっているからです。人間として非難するつもりはありません。彼らの多くは彼らなりに正しいと思うことに携わっているのです。真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽くしております。私たちが非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽にしばりつけ、光明を見出すチャンスがありながら暗闇の中に閉じ込めておこうとする組織です。
 これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在すること、わが子の苦しみに無関心ではいられないはずの親が存在するその証を求めております。牧師のもとへ行っても相も変らず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。そしてすぐに"聖なる書″を引用します。国によって大小さまぎまな体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。霊的実在が存在することを証するものは何一つ持ち合わせていません。
 彼らが説く信仰は彼らみずからが心の奥では信じきれなくなっているものです。自分が自信を持てないでいて、どうして他人に確信が与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らないでいて、どうして他人に慰安が与えられましょう。いわゆる"あの世"についてみずから疑問符を付けている者が、どうして肉親に先立たれた人たちを慰めてあげられましょう。先のことを何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導くことができるでしょう。
 ところが真理はすぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡智の泉、真理の光がすぐ身のまわりで待ち受けているのです。宗教が無力なのではないことを彼らは理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた漫画なのです。三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスがすべての罪を背負ってくれるということ)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。
 地上の人間は肩書きやラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮りにここに宗教など自分には無縁だと言う人がいるとしましょう。神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を越えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.186-190

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 58-g (正しい信念が全障害を乗りこえさせる)

 宇宙の大霊すなわち神は無限です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。完全な信仰心をもって正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、かならずやそれを手にすることができます。
 それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、かならずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。地上の歴史を繙けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分かります。.忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。
 時として厳しい環境に閉じこめられ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗りこえることができます。そんな時は神の象徴である太陽に向かってこう述べるのです---自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。
 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。"完き愛は怖れを払う"(ヨハネ@4・18)"まず神の御国と義を求めよ。さればすべてが汝のものとならん"(ルカ12.・31)
 これは遠いむかし神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気をもって実践すればかならず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えができれば、何事も望み通りの結果が得られます。
  もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることは出来ないということです。よい霊媒現象を得たいと思えはそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。


   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.14-15

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 58-h (大自然の摂理と整然たる因果関係)

 タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が"実り″を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みのすばらしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。
 蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた種は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの実りをもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。
 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。
 発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。 聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を堆し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を一刻も早く棄てさるべきであることになります。
 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.24-26

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 58-i (神は人間のすべてに内在している)

 私たちは神の摂理を説いているのです。摂理こそ地上に健康と幸福をもたらすと信じるからです。教会で(聖書を絶対のものとして)説教している人たちは、いずれその誤りを始めから是正させられる日が来ます。法則から逃れることはできません。誰一人として免れることのできる人はいません。なかんずく霊の声を聞いた者は尚さらです。そうと知りつつ実行しない者は、知らずして実行しない者より責任は重大です。
 いったん心眼が開かれ霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。立派な霊媒になれるはずなのに銀貨三十枚で霊的才能を売ってしまっている人が数多くいます。
 神は人間のすべてに内在しております。むろん人類はありとあらゆる進化の形態をへて今日に至り、したがって誰しも遺伝的に動物的性向を宿してはおりますが、同時にそれらのすべてに優るものとして神の属性も宿しており、それを機能させ発揮しさえすれば、地上生活を神のごとく生きることができます。
 あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。"神の御国は汝等の心の中にある"-----この言葉の真意を理解する人がなんと少ないことでしょう。
 その、より大きな自我と接触する方法は神の摂理に則った生活を送ることでしょう。が、それを実行する人が何人いるでしょうか。生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一ばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。人間は往々にして思念の主人でなく奴隷になっている、とはよく言われることです。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.27-29

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 58-j (摂理に順応して生きることが何より大切)

 人間は戦争が起きると"なぜ神は戦争を中止させないのか″"なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか″と言って私たちを非難します。しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。
 自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることはできません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心---こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、仲違いとなります。
 神の摂理を説こうとしている私たちは、こうして地上へ戻ってくる真の目的を理解していない人たちから(さきほど述べたように)よく批難されます。しかし私たちの目的は摂理を説くことでしかないのです。この世には大自然の摂理しか存在しないからです。それをあなた方が宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと、あるいは哲学と呼ぼうと、それはどうでもよいことです。
 誰であろうと---一個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと国民全体であろうと---摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケがまわってきます。いつも申しておりますように、その摂理の働きは完璧です。時としてそれがあなた方人間には見きわめられないことがありますが、因果律は間違いなく働きます。法則だからです。このことはこれまで何度も説いてまいりました。ここでも改めて申し上げます---宇宙には自然の法則、神の摂理しか存在しない、と。
 ですから、その摂理に順応して生きることが何よりも大切であることを人類が悟るまでは、地上に混乱と挫折と災害と破滅が絶えないことでしょう。私たちにできるのは永遠の霊的原理をお教えすることだけです。物的なものがすべて朽ち果て灰燼に帰したあともなお残るのはそれだけだからです。物的なものしか目に映じない人間は、幻影を追い求め永遠を忘れるために大きな過ちを犯すのです。いたって単純な真理ばかりです。が、地上人類はいまだにそれを悟れずにいます。
 霊界からいかなる手段を講じてもなお悟れないとすれば、苦痛と涙、流血と悲劇を通じて悟るほかはありません。私としてはこうした形で、つまり愛と協調の精神の中で悟っていただきたいのです。ですが、それが叶えられない---つまり霊的手段ではだめということになれば、摂理に背いた生き方をしてその間違いを思い知らされるほかはありません。地上で偉人とされている人がかならずしも私たちの世界で偉人であるとはかぎりません。私たちにとっての偉人は魂の偉大さ、霊の偉大さ、人のためを思う気持の大きさです。こうしたものは物的世界のケバケバしさが消えたあとも末永く残ります。
 自由意志は神からの授かりものです。ですが、その使い方を誤ればそれなりの償いをしなくてはなりません。地上世界が神の摂理に適った生き方をすれば、その恩恵がもたらされます。摂理に背いた生き方をすれば、良からぬ結果がもたらされます。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.33-35

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 58-k [44-m] (神とは法則であることを理解する重要性)

 人間的存在としての神は人間がこしらえた観念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。
 だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも、すべてが法則のワク内に収められているからです。すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引きおこし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終りました。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.155-156

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 58-l [48-c] (世の中の不公平をどう考えるか)

 地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。
 私がいつも念頭においているのは神の法則だけです。人間の法律は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則はけっしてその必要がありません。地上に苦労がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなたがた人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。
 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終りまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.186-187

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 58-m (苦しみは摂理を破ったことへの代償か)

 ”摂理を破る”という言い方は感心しません。"摂理に背く”と言ってください。確かに人間は時として摂理への背反を通して摂理を学ぶほかはないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはおりますが、それは人生がもたらすさまざまな〃境遇〃に身を置いてみることによってのみ成長します。痛みも嵐も困難も苦しみも病気もないようでは、魂は成長しません。
 摂理が働かないことは絶対にありません。もし働かないことがあるとしたら、神は神でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その自然の摂理の正確さと完璧さに全幅の信頼を置かねばなりません。なぜなら、人間には宿命的に知ることのできない段階があり、それは信仰心でもって補うほかないからです。私は知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して ″ああ、これも自然の摂理だ。しかたない″などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中において本来の霊的責務を果たしていることになるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.20-21

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 58-n (間違った考えや窮状には同情することができない)

 私には、してあげたくてもしてあげられないことが沢山あるのです。みなさんの日常生活での出来ごとにいちいち干渉できないのです。原因と結果の法則の働きをコントロールすることはできないのです。また、あなた方地上の人間は大切だと考え私は下らぬことと見なしている事柄が心に重くのしかかっていることがありますが、その窮状を聞かされても私はそれに同情するわけにはいかないのです。
 私にできることは永遠不変の原理をお教えすることだけです。物質の世界がすみずみまで理解され開拓され説明しつくされても、宇宙にはいかなる人間にも完全に知りつくすことのできない神の自然法則が存在します。それは構想においても適用性においても無限です。もしも日常生活において決断を迫られた際に、あなた方のすべてが自分が霊的存在であること、大切なのは物的な出来ごとではなく---それはそれなりに存在価値はあるにしても---そのウラ側に秘められた霊的な意味、あなたの本性、永遠の本性にとっていかなる意味があるかということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.178-179


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 58-o (神の摂理を十分に得心する)

 私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解できるのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するに十分です。私は自分にこう言い聞かせているのです---今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解してきたものが完全なる愛の証であるならば、まだ見ていないもの、あるいはまだ理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。
 ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.185-186


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 58-p (人は神の摂理から逃れることはできない)

 善はみずから報酬をもたらし、悪と罪はみずから罰と断罪を受けると私は説くのです。向上するのも堕落するのも本人の行為一つに掛かっているのです。人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることも出来ません。誰にも出来ません。たとえ豪華な法衣をまとっていても、あるいは高貴な “上級聖職階” を授かっていても、神とあなたとの間の仲介役のできる人は一人もいないのです。あなたに存在を与え、全生命を創造された大霊の力から片時も離れることはないのです。苦しみを味わった者にはそれ相当の償いがあり、しくじった者には何度でも更生のチャンスが与えられるのです。神から授かった才能が永遠に使用されることなく放置されることはありません。いつかはそれを存分に発揮できる環境が与えられます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p.49


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 58-q (人は誰も神の法則の枠外に出ることはできない)

 みなさんは地上という進化の過程にある世界における進化しつつある存在です。その地球は途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部にすぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。
 その法則の枠外に出ることはできないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されているのです。あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなたみずから工夫しなければなりません。それさえできれば、病気も貧乏も、そのほか無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲での自由です、と申し上げざるを得ないのはそのためです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p.191

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 58-r (善意から摂理にもとる行為をせざるを得ない場合もあるのでは)

 私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 53-54


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 58-s (大自然の摂理に欠陥が見つかることは絶対にない)

 万が一にも大自然の摂理に欠陥が見つかったら、私はこのたびの使命をすべて放棄します。もしどこかに摂理のとおりに行っていないところが見つかったら教えてください。しかし、そういうことは絶対にありません。原因にはかならず結果が伴います。蒔いたタネを刈るのです。それ以外には有りようがないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.48


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 58-t [17-za] (生命の帳簿は常に帳尻が合っておりきちんと清算されている)

 みなさんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。
 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。
 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。
 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。(オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照−訳者)その障害を取り除くまでは生命力が流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。
 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。
 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。
 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。
 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。
 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。
 何よりも動機が優先されます。が、摂理に達反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持を満足させようとして身体を傷めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。
 たとえば、ここに人類の福祉に献身している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素---オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。
 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。
 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。
 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。
 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完壁に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。
 その摂理が廃止されたり一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.48-53


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 58-u (無限の叡智と愛によって管理されている宇宙の摂理)

 私たちがこれまでに賜った知識のすべて---いま生きている宇宙について、その宇宙を法 則によって管理している絶対的な力について、そしてその力と私たちとの関係ならびに私たち相互の関係について、より明確な理解を得させてくれた知識を有難く思っております。
 私たちは宇宙の摂理の働きについてより多くのことを学び、それが一つの手落ちもなく私たちの幸福にとって不可欠のものをいかに美事に用意してくれているか---無限なる叡智によって考案され、無限なる愛によって管理されている摂理が私たちすべてを包摂し、私たちのあらゆる必要性に備え、誰一人としてその支配からはみ出ることがないことを理解しております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.53


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 58-v [48-b] (宇宙の摂理の前では絶対に不公平はない)

 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が″自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている″などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束ないことになります。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988,  p.47

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 58-x[76-zo] (生物同士が共存共栄しながら生きていくのが自然界の原則)

  ― 自然界では“強い者”が生き残っているように思えるのですが、そうなるとその原則は人間界や霊的なことにはどう適用されるのでしょうか。

 相利共生(二種類の生物が相互に利益を得ながら生活すること)という言葉をお聞きになったことはありませんか。これが自然界の原則ではないでしょうか。互いに協力し合うことによって自然界がその目的を果たしていく、というのが基本原理ではないでしょうか。
 樹木が大気中の炭酸ガスを吸収しそれを酸素にして排気する。それを人間が呼吸して生命を維持する。これが調和、協調、つまりは自然の力の働きではないでしょうか。

 ― 私はとくに動物のことを念頭において質問したのですが……

 有史以前の動物の中で現在まで生き残っているのはどの種類でしょうか。たとえば象がいます。象はどう猛な動物だったでしょうか。そうではありません。草食動物であり、他の動物を襲ったりしませんでした。なのに生き残っており、他の肉食動物は滅びています。どっちが“強い者”でしょうか。
 あなたも庭をお持ちなのでご存知でしょうが、自然の摂理を大切にすれば立派な庭になり、摂理を無視すれば台なしになります。人間同士だけでなく動物に対しても情愛を向けないといけません。他の人間を搾取してはいけません。動物を搾取してはいけません。大自然を搾取してはいけません。
 そういう心掛けで生きれば、人間だけでなく地上に生きているすべての存在が、宇宙最大の力すなわち神によって考案された進化の法則の究極の目的である平和と秩序と調和を手にする上であなたも貢献していることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 205-206

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 58-y (自然法則によって人間にできることには一定の限界がある)

 ― “なせば成る”の教えを説くある指導者が、物的なものであろうと霊的なものであろうと“必ずそうなるのだ”と信じて行えば何ごとも成就すると述べています。これは心霊的能力の悪用になるのでしょうか。

 何もかもが自分の思い通りになるわけがない以上、その指導者の言葉は言い変える必要があります。人間にできることというのは自然法則によって一定の限界というものが設けられております。もしもそうした限界がなかったら、この地球をはじめとして物的宇宙全体が基盤としている原理のすべてを人間が破壊してしまうこともできることになります。
 私はその“なせば成る”式の生き方の背景にある積極的な物の考え方そのものに反対しているわけではありませんが、そのつもりになれは何もかも自分の思い通りになると考えるのは愚かです。例えば人間に太陽が思い通りになるでしょうか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 55

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 58-z[73-d] (心霊能力が軍事面などに利用されようとしている危険について)

 ― 心霊能力を軍事面に利用しょうとする実験が、とくにソ連において行われていると聞いておりますが、このまま行くと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。

 私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇敬と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。
 すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちというものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。壮大なものから微細なものに至るまで、単純なものから複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。
 地上での人間の行為にも制約というものがあります。その自然の制約に背いたことはできません。人間がなしうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。
 そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的な考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさんとしている人たちによってもたらされる利益の方が大です。
 心配してはいけません。心配の念はロクなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆つかせます。心配の念はせっかくの霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球をはじめとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 58-59

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 58-za (あなたにも大霊が働きかける可能性がある)

 摂理は完全です。ひたすら人のためを心掛けた生活を送っていれば、その人を通して大霊が働きます。あなたにもその可能性があり、すべての人に例外なく言えることです。“それは無理です”とあなたがおっしゃっても私は“可能です”と申し上げます。摂理は完全であり、ごまかすことはできません。その点をよく理解して実行に移さないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.58

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 58-zb (摂理に反したことをすればそれ相当の代償を支払わねばならない)

 個人であろうと集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、摂理に反したことをすればそれ相当の代償を支払わねばなりません。私はつねづね摂理の働きは完ぺきですと申し上げております。その結果が人間の目には見届けられないことがあります。が私は、原因と結果とが前になり後になりしながら機能していることを確信しております。それが法則だからです。このことは何度も申し上げてきました。が、ここで改めて申し上げます―すべては法則であり、神の摂理の働きでしかないのです、と。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.59

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 58-zc (神の摂理に素直に従う生き方は幸せと豊かさをもたらす)

 神の摂理に逆らった生き方をする人は、みずから厳しい収穫を刈り取らねばなりません。摂理に素直にしたがって生きる人は、物的な面においても霊的な面においても幸せと豊かさを手にすることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.59

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 58-zd (流血の悲劇を繰り返す地上では摂理は苦難の中で学ぶしかない)

 流血の悲劇を何度くり返してもなお懲りない為政者が牛耳る地上では、それが生み出す苦難や悲哀の中で摂理を学ぶしか方法がありません。本当は愛と互助の精神を発揮する行為の中で学んでほしいのですが、それができない以上、摂理に逆らったことをして痛い思いをするほかはありません。地上で“偉い人”が必ずしも霊界でも偉いとはかぎりません。こちらでは魂の偉大さ、霊性の高さ、奉仕的精神の強さが重んじられます。こうしたものは物的な金ピカの輝きが消えたあとも末永く残ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.59-60

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 58-ze (神の法則は完全無欠であり決して変更されることはない)

 新たに法則をこしらえる必要が生じることは決してありません。全法則が用意されているからです。宇宙の経綸にとって必要なものは今もすべて存在しますし、これまでも存在しましたし、これから先も間違いなく存在し続けます。大霊は全知全能ですから、あらゆる存在の相に必要なものはすべて予期しておられます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.62

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 58-zf [79-m] (摂理は完全であり自由意志も摂理の中に組み込まれている)

 摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意志も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達すると分かるようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.62-63


 58-zg [13-x] (あなたは魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ている)

 あなたは個性を築き魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ているのです。利己主義の道を選べば、それなりの代償を払わないといけません。人道主義の道を選べば、人間的成長という形での報いがあります。そうしたことはすべて摂理のもとに規制されており、いかに立派な教祖さまでもその働きを変えることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.63

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 58-zh [77-w] (利己主義のタネを蒔けばその結果を刈り取らねばならない)

 人間は戦争が起きるとすぐに“なぜ神は阻止してくれないのか”“なぜ未然に防いでくれないのか”とおっしゃいます。が、人間みずから神の摂理を無視する方向を選択した以上は、その責任は人間にあります。やりたいことを勝手にやっておいて、その報いを逃れるというのは許されません。摂理は変えられません。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。利己主義のタネを蒔けばそれ相当の結果を刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨み・貪欲・悪意・不信・猜疑心―こうしたタネを蒔けば、やがて時をへて戦争と困窮と混乱を生みます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 87-88

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 58-zi [79-q] (自由意志は使い道を誤ると償いをしなければならない)

 自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理にのっとった生活をすれば恩恵を刈り取ります。逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 88

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 58-zj  (神の摂理は完全なる公正が行きわたるようになっている)

 神の摂理は、最終的には完全なる公正が行きわたるようになっております。こればかりは誰一人として例外はありません。あなたにも、そして地上にかぎらず他のすべての天体上の存在の一つ一つに公平な配慮がなされております。摂理は絶対です。何一つ見落とされることはありません。あなたの霊的成長と発達に必須のものは、それを受け入れる用意ができた時にはきちんと手に入るように配慮されております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 100-101

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 58-zk[50-r] (因果律は絶対で死の床での悔い改めも通用しない)

 ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは行い″です。行為″です。つまり各自の毎日の生活″そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできないのです。ごまかすことはできないのです。自分が自分の救い主であり、贖い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 103

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 58-zl(宇宙の千変万化の諸相の一つ一つに神の法則が支配している)

 神を右手にナザレのイエスを従えて玉座に座している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければいけません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体、雄大な千変万化の諸相の一つ一つに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 113

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 58-zm (全生命を支配している神は人間的存在ではなくて法則である)

 神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えてまいります。神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 113

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 58-zn(神は法則であることを理解すれば人生最大の秘密を学んだことになる)

 人間的存在としての神は人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものは全て、視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 114

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 58-zo (存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できない)

 存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱をひきおこし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と機能していますし、また機能してもらわなくては困ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 114

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 58-zp (神とは法則であり法則がすなわち神である)

 私にとって神とは永遠不変にして全智全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完ぺきです。この複雑をきわめた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完ぺきな配慮が行きわたっております。たとえば極大から極小までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなたは不完全な物質の世界に生活しておられるということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 114-115

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 58-zq (五感に束縛されているかぎり神の存在は理解できない)

 五感に束縛されているかぎり、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 115

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 58-zr[65-e](大霊によって維持されている大自然の営みが最高の教えである)

 聖書もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 132-133

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 58-zs[65-f] (生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働く摂理)

 そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 133

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 58-zt[6-ze] (宇宙でもっとも大切な神の摂理にだけ従いなさい)

 私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子らを通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遣物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙でもっとも大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 137

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 58-zu (絶対に威力を失うことも誤ることもない宇宙の摂理)

 古い価値基準が棄て去られ、すべての権威が疑義を差しはさまれて影響力を失墜しつつあるこの混乱の時にあって、私たちは絶対に威力を失うことも誤ることもない摂理″という形での神の概念を説きます。それこそ宇宙の絶対的権威者なのです。物質の世界の人間がその摂理に従って生きるようになれば、平和と秩序が再び支配します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.181

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 58-zv[22-j] (大自然の法則と一致しないものは絶対に発生しない)

 まったく新しいものが創造されるということはありません。何が生まれても、それはすでに存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気づかないかの問題です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.191

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 58-zw[79-u] (人生はすべて法則によって支配されている)

 人生はすべて法則によって支配されております。天命・宿命・運命----こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてまいりました。では真相はと言えば、法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているということです。宇宙には何人にも動かしがたい基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。ただし、自由意志による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けるこけとはできないということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 212

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 58-zx[12-zzg] (罪は神の理法によりその歪みを正さなければならない)

 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用していただきたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する----それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 222

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 58-zy (大自然の摂理は正確無比で一分の狂いも不公平もない)

 私も何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にも増して強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。人間も含めて宇宙の個々の生命はそれぞれに在るべき位置にところを得ているということです。何ごとも憂えず、ただひたすらに心によろこびを抱いて、奉仕の精神に徹して生活なさい。そしてあとは神におまかせしなさい。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1984、pp. 236-237

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 58-zz (大霊の摂理は完璧でごまかせる者は一人もいない)

 大霊の摂理をごまかせる者は一人もいない――受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない、ということを常に忘れないようにしてください。賞と罰とは各自の行為によってきちんと決められており、変えることはできないのです。えこひいきもありませんし、裏をかくこともできません。大霊の公正は完ぺきです。各自が受けるべきものは、かっきり受けるに足るものだけ――かけらほども多すぎず、かけらほども少なすぎることがありません。

    トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
        コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 225









 59. 拒絶される真理


 59-a (なぜ真理が受け容れられないのか)

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡智と霊カを広げる手段が一つ増えることを意味します。これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。
 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。
 私たちからお贈りできるものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。
 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。
 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上とのかかわりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。ですから私たちの尽力は全て自発的なものです。それは人類愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかも知れません。愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・・・。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.94-96 

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 59-b (霊的真理を納得させるために)

 (バイブルの時代においても)霊的真理を現象によって実証し、見る目をもつ者、聞く耳をもつ者、触れる手をもつ者に一点の疑いもなく霊的真理の実在性を納得させようとの計画があったのです。現に、交霊会での現象はバイブルの中の現象の多くを確認させております。もっとも全てが一致することは望めません。なぜなら、よくご存知のとおり、バイブルは真理に身を捧げるのとは別の魂胆をもつ者の手によって骨抜きにされ、改ざんされてしまっているからです。
 われわれの目的は言わば宗教のリハビリテーションです。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。宗派間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して、実証的事実の基盤の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を今ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の時代にかぎられたものでなく、今日でも、どこにいようと、誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめるーーそういう計画があるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp..181-182 

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 59-c(用意のある人にのみ受け容れられる霊的真理)

 霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人にしか理解されないことを銘記しなければなりません。叡智は魂がそれを理解できる段階に到達するまでは受け入れられません。
 霊界からの働きかけには二つの目的があります。一つは五感が得心する形で霊的実在を確信させること。もう一つは、これも同じく重要なことですが、その霊的知識の意義を日常生活に反映させていくこと、つまり人間が霊的遺産と霊的宿命とをもった霊的実在であり、神に似せて創造されているからにはその霊も精神と身体の成長に必要なものを要求する権利、絶対に奪うべからざる権利があることを理解させることです。
 あらゆる不正、あらゆる不公平、あらゆる悪弊と利己主義、暗闇を助長し光明を妨げるもの全て、無知に安住し新しい知識を忌避することによって既得権を保持せんとする者のすべてに対して、敢然と立ち向かわなくてはなりません。なぜなら人間は自由の中に生きるべきだからです。霊と精神と身体が自由でなければならないからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.204-205

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 59-d [27-b] (なぜ無知のままでいたいのか)

 なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義をご生大事にするのでしょう。単純素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃の中で暮らしたがるのでしょう。
 外せるはずの足枷を外そうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかもその自ら選んだ暗闇の中で無益な模索を続けている魂がいるのです。思うにそういう人はあまりに永いあいだ鎖につながれてきたために、それを外すことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、はたして飛べるかどうか不安に思うものです。
 足枷を外すまではいいのです。が外したあとに自ら歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うまま放置されるようなことになってはいけません。私たちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。
 永いあいだ束縛の中で生きていると、やっと自由を得たときに、もう何の指図も受けたくないという気持を抱きます。そしてこう言います---“もう指図を受けるのはご免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り捨てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません″と。
 足枷から解放されて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります(たとえば神仏の化身として崇めていた教祖がただの人間にすぎなかったことを知って−訳者)。そこで私は、私という一個人、ただのメッセンジャー(使いの者)にすぎない者に過度の関心を寄せられるのを好まないのです。私はメッセージそのものにすべてを賭けております。地上の人間はあまり永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れてきました。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp..108-110

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 59-e (人生の楽しさと安らぎを奪う勢力のすべてを一掃する)

 私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため---それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ちあわせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。
 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。私たちは人間の理性---人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけでなく、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。
 私たちの努力目標は人類が力を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分からなくなった時でも、〃事実〃に裏うちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。
 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代おくれの教説ではありません。素朴な理性---あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡智の真偽を判断する手段に訴えております。もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断規準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.66-68

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 59-f (真理を永遠に抑えつけることはできない)

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。真なるものが損なわれることはあり得ません。虚言をもっていかに深くいかに固く埋めつくされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。いま私たちが旗じるしとしている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。
 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。
 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形体を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.68-69

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 59-g (永いあいだ道を見失ってきた人類)

 人類がいかに永いあいだ道を見失ってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰をもって事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。儀式と祭礼を発明しました。教会(キリスト教)、寺院(仏教)、礼拝堂(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに教典をこしらえ、わが宗教の教典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意をもって論争をくり返してきました。
 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の"師"となるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのはすべて霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信をもって語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ "しるしと奇跡"を伴って再び顕現しております。目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉身を失った人たちに慰めをもたらしております。
 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることができるようになりました。〃死〃の恐怖を取り除き、〃愛〃が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことができること、(宗教的束縛から)精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望をもたずに、〃よい知らせ〃を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意のできた魂が存在している事実を立証しております。
 これほどまで美しい話、これほどまで分かり易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.71-72

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 59-h (新しい時代を前に広がっていく霊的真理)

 われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁---迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けけてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容牲を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時期が到来したと言えます。その確信を私は語気強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終った、新しい時代が誕生している、と述べるとき、それは有るがままの事実を述べているのです。
 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々---その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依枯地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、捉われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けてください。
 われわれはもはや軽蔑の対象とされたかつての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りをもって説いております。霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.73-74


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 59-i (この単純な真理がなぜ受け容れられないのか)

 私たちは別に難解な真理を説いているのではありません。いたって単純なことばかりなのです。いたって分かりやすい、筋の通ったことばかりであり、それがなぜこうまで誤解を受けなければならないのか、なぜこうまで反撃されねばならないのか、なぜこうまで敵意を向けられねばならないのか、ただただあきれ返るばかりなのです。
 もしも私たちのもたらすメッセージが人類に永遠の地獄行きを宣告し、いったん神に見放されたら二度と救われるチャンスはないと説き、神とは人間を憎しみをもって罰し、責め立て、ムチ打つことまでする恐ろしい魔神であると述べているのであれば、こうした敵対行為も容易に理解できましょう。しかし私たちのメッセージは愛と奉仕のメッセージなのです。生命は永遠にして無限であり、死は存在しないこと、人間の一人一人が宇宙の創造という大目的の一翼を担う存在であると説いているのです。人間は物的身体ではなく永遠なる霊的存在であり、年令とともに衰えることなく、内部の神性が開発されるにつれてますます光輝を増していく存在であると説いているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.48


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 59-j  (宗教界から理解されずに迫害を受けてきた霊的真理)

 これまでもありとあらゆる弾圧の手段が企てられてきました。磔刑がありました。宗教裁判がありました。火あぶりの刑がありました。肉体的拷問、精神的拷問、その他、こうして痛めつけられることによって魂が救われるのだという狂気の信仰を抱く偏狭な宗教家によって、身の毛もよだつ手段が次々と案出されました。しかし、そのいずれも結局は効を奏しませんでした。”光”を見た霊覚者が次々と輩出し、導いてくれる霊力を信じ、永遠の真理を喘ぎ求めている人類への使命感に燃えて、その光の指し示すところに忠実に従ったのでした。
 今の時代にはもはや磔刑や火あぶりの刑は無くなりました。が、今あなた方は投獄という刑に直面しております。しかし、これまでにすでに獄舎も霊的真理に対しては無力であることが証明されております。一世紀近くも続いているスピリチュアリズムの運動がそれくらいのことで阻止できると思われますか。絶対にできません!

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.104-105


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 59-k (霊的真理を証明してみせるために霊界からの大掛かりな援助を)

 --- 「われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広くー般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期でないということでしょうか」という質問に対して---

 その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。
 私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。
 私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は其の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。
 あなたのように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとを訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。
 それ以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒賞は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。
 霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。
 落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進しつづけております。勝利をおさめつつあります。けっして負けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進をつづけております。
 あなたにこの知識をもたらしたのは、ほかならぬ悲しみ″です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。
 それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。
 あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなた方がどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。
 ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来ごとが魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した規準をあげるわけにはまいりません。地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないままに終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.164-168


     *****


 59-l (相手を霊的に目覚めさせられなかったら誰が悪いのか)

 悪い″という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落されることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されるのです。
 目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかったときは、その人のことを気の毒に思ってあげることです。せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。
 何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、あとのことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.169-171


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 59-m (霊的真理の教えを妨げるもの)

 私どもは、あらゆる反抗と敵意と妨害の中にあっても、点滴岩をも穿つの譬えで、一人また一人と光明が射し真理を悟ってくれることを信じて、素朴ながらも繰り返し繰り返し説いてまいります。その訓えの意味を十分に理解し価値を評価してくださる方は、それ以後は後ろ髪を引かれる思いをすることもなく、それまで永いあいだ魂を束縛してきた古い因襲的信仰にきれいさっばりと訣別することでしょう。暗闇から這い出て光明の世界へとたどり着いたのです。真実の光を見出したのです。それを理性で確認したのです。私どもの言説には人間の理性が納得する筋が通っていること、人間の常識を怒らせる要素がないこと、人間の知性を反撥させるものではないことを皆さんはご存知です。むしろ皆さんはこれほど明々白々たる真実がなぜ受け入れられないか---そのことに悩まされておられるくらいです。
 われわれに反抗する大きな勢力がまだまだ存在することを忘れてはなりません。その中でもとくに警戒を要するのがキリスト教会という宗教のプロが有する既得の権力です。彼らはそれを振りかざしてわれわれの使命を阻止せんとすることでしょう。彼らにはもはや何ら新しい恩恵は持ち合わせないのです。持ち出すものといえばカビの生えたような古い教説ばかりです。彼らは身は今の世にあっても精神は古き時代に生活し、その過去の栄光を現代に甦らせようとします。今の彼らには他に何の持ち合わせもないからです。教会堂はもはや倒れかけた墓の如く陰うつな空虚さに満ち、およそ神の霊の宿るところでは無くなっております。そういう宗教家がわれわれを非難し悪魔の手先である---信心深いお人好しや妄想にとりつかれ易い人間を騙そうと企んでいると宣伝します。私どもはそういう宗教家を見て惰なく思わずにはいられません。彼らは往々にして自分でもそうと気づかずに宗教家としての職責を裏切り、民衆を神へ導くことをせぬどころか神との間に垣根を立て、ただの書物にすぎないもの、ただの教義にすぎないもの、ただの建造物にすぎないものに自らの魂を縛られ、それを真理より大切なものであると信じ切っております。
 私どもが厳しい言葉でその非を指摘するのは、そういう宗教家に対してです。彼らは宗教家として落第したのです。この苦しみと悲しみの海にさ迷う無数の人々を導く資格を失っているのです。もはや彼らにとっては宗教がその真の意味を失っているのです。神学という粗悪品を混入して、イエスがせっかくこの世にもたらした素朴な啓示の言葉を忘れてしまっております。私どもが説く宗教とはお互いがお互いのために尽くし合う宗教です。人のために役立つことが霊の通貨なのです。神の子である同胞のために自分を役立てるということは、取りも直さず神のために役立てることであり、それを実行した人は立派に宗教的人間と言えます。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.49-51

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 59-n (霊的真理を抹殺することはできない)

 大衆に目隠しをして暗闇に閉じ込めようと思えば出来ないことはありません。かなり永い年月にわたってそうすることも可能です。しかし、いつかは大衆も自分たちが本来は光の子であることを思い出して真理の光明を求めはじめます。その時期を権力によって遅らせることはできます。妨害もできます。しかし、最後には真理が真理としてあるべき位置に落着きます。あなた方人間も霊的存在です。肉体だけの存在ではないのです。無限の可能性を秘め、神性を宿すが故に、その霊的可能性が発現を求めはじめます。一時的に無視することはできても、永遠に抹殺してしまうことは出来ません。だからこそ真理の普及が急務なのです。人間が霊的存在であるということは、内部に宿る霊はこの驚異に満ちた大宇宙を創造した力の一部であるということです。いかなる宗教的権力をもってしても、霊の声を永遠に封じ込めることはできません。
                                                      『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.51-52

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 59-o (欲する者には与えられる無限の知識の宝庫)

 神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が無知の暗闇の中で暮らし、影と靄の中を歩み、生きる目的も方角も分らず、得心のいく答えはないと思いつつも問い続けるようには意図されておりません。真に欲する者には存分に分け与えてあげられる無限の知識の宝庫が用意されておりますが、それは本人の魂の成長と努力と進化と発展を条件として与えられます。魂がそれに相応しくならなければなりません。精神が熟さなくてはなりません。心がその受け入れ態勢を整えなくてはなりません。そのとき初めて知識がその場を見出すのです。それも、受け入れる能力に応じた分しか与えられません。目の見えなかった人が見えるようになったとしても、その視力に応じて少しずつ見せてあげなくてはなりません。一気に全部を見せてあげたら、かえって目を傷めます。霊的真理も同じです。梯子を一段一段と上がるように、一歩一歩、真理の源へ近づき、そこから僅かずつを我がものとしていくのです。
 いったん糸口を見出せば、つまり行為なり思念なりによって受け入れ態勢ができていることを示せば、その時からあなたは、その辿り着いた段階にふさわしい知識と教訓を受け入れる過程と波長が合いはじめます。そのあとは、もう、際限がありません。これ以上はダメという限界がなくなります。なぜなら、あなたの魂は無限であり、知識もまた無限だからです。しかし闘わねばならない相手は無知だけではありません。永いあいだ意図的に神の子を暗闇に住まわせ、あらゆる手段を弄して自分たちのでっち上げた教義を教え込み、真の霊的知識を封じ込めてきた既成宗教家とその組織に対しても闘いを挑まなければなりません。過去を振り返ってみますと、人間の自由と解放への闘争のためにわれわれが霊界からあらゆる援助を続けてきたにもかかわらず、自由を求める魂の自然な欲求を満足させるどころか、逆に牢獄の扉を開こうとする全てを宗教の名のもとに阻止しようとする勢力と闘わねばなりませんでした。
 今日なおその抵抗が続いております。意図的に、あるいはそうとは知らずに、光明の勢力に対抗し、われわれに対して悪口雑言を浴びせ、彼らみずから信じなくなっている教義の誤りを指摘せんとする行為を阻止し、勝手な神聖不可侵思想にしがみつき、自分で勝手に特権と思い込んでいるものがどうしても捨て切れず、すり切れた古い神学的慣習を御生大事にしている者がまだまだ存在します。そこで私どもが人間のすぐ身のまわりに片時も休むことなく澎湃として打ち寄せる、より大きく素晴らしい霊の世界があることを教えに来るのです。そうした障害を破壊し、莫大な霊力、すべてに活力を与えるダイナミックな生命力をすべての人間が自由に享受できるようにするためです。その生命力がこれまでの人類の歴史を通じて多くの人々を鼓舞してきました。今でも多くの人々に啓示を与えております。そして、これから後も与え続けることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.59-61

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 59-p [6-j] (なぜ宗教の捉え方が違ってきたか)

 私ども霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教問題で指導者であるべき人たちから曲解されております。いつの時代にも宗教とは基本的に霊カとの関わり合いでした。それはまず地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が地上へ舞い戻ってくるという事実から始まります。つまり宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲に亘っています。ところが不幸にしてそれが誤って解釈され、その上、それとは別の意図をもった聖職者が割り込んで来たために混乱が生じたのです。
 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているものです。地上生活の全目的はその内在する霊に修行の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。それから本当の意味での生活が始まるのです。従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処生訓であり道徳律であると言えます。ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる建造物の管理でした。原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました。そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません。
 かくして真の宗教の観念が今日では曖昧となってしまいました。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ、"聖典″と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌を歌い、特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心をもつのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねはならないところの霊的自然法則に向けられています。人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。
 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へカを貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること---これが私たちの説く宗教です。
 "神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である″などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません。バイブル(キリスト教)を読んでも、クルムード(ユダヤ教)を読んでも、コーラン(イスラム教)を読んでも、バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。"宗教的″と見なされている行事をすべて行っても、それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、言いかえれば内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。
  ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは "行い″です。"行為″です。つまり各人の毎日の"生活″そのものです。私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、購い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。
 広大なる宇宙で生じるもの全てに責任をもつ大霊(神)の不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私たちは常にその摂理を念頭に置いています。なぜなら私たちの説く神は人間的弱点や人間的激情、人間的憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。私たちの観る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に存在し続ける法則です。地上の人間がこれまであまりに永いあいだ振り回され隷属させられてきた誤った観念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてがその絶対的法則によって支配されていることを教える以外にはありません。その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになることでしょう。真の美しさを遮っていたべ一ルが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えたところに存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。
 かくして私どもは常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うこともなく、過ることもない法則、地位の高い低いに関係なくすべての存在に等しく働く法則に忠誠と感謝の念を捧げる者です。誰一人おろそかにされることはありません。誰一人見落されることはありません。誰一人忘れ去られることはありません。誰一人として一人ぽっちの者はいません。法則や働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません。あなたがこの世に存在しているという事実そのものが神の摂理の証です。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発展に伴って視野が広がり、知識が無知を無くし、環境の変化に伴って新たな法令が要請されたりすると、従来の法律が廃止されたり別の法律と置きかえられたりすることもあります。しかし神の法則には新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則はこれまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。

    『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.69-73

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 59-q (誤解、敵意、無知、暗黒の勢力との間断なき闘い)

 もう一つ申し上げたいことがあります。そうした(死後存続の)問題と取り組んでいく上において私たちは暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安、取越苦労といった “恐怖心” との闘いも強いられているということです。
 地上の人間と霊界の人間との間にはその関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解、敵意、無知、こうした障害はお互いの努力によって克服していけるものです。そのために私たちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい心の姿勢というものがあります。あなた方は肉体をたずさえた霊であり、私たちは肉体のない霊です。そこに共通したものがあります。”霊” というつながりです。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.28-29


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 59-r (いつの時代にもある貪欲と利己主義への終わりなき闘い)

 人類はイザとなれば至善至高のものを出すだけの力を具えているのです。奉仕活動への呼びかけ、すべての者にとって地上をより良く、より公平に、より豊かにしようとする願望に対して応える資質を、人間は立派に具えているのです。ところが残念ながら、いつの時代にも、飽くなき欲望に駆られる人間、自分の利益しか考えない人間、人類全体の福祉、人類の理想、人類のすべてに宿る神からの霊的遺産に対してまるで無頓着な人種がいるものです。そうした種類の人間に対して皆さんは敢然と立ち向かわなくてはいけません。これは終りなき闘いです。貪欲と利己主義への闘いです。人類を本来の歩むべき道から堕落させ、せっかくの遺産を詐取しようとする連中です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.45


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 59-s (地上はこれまで教条主義によって呪われ続けてきた)

 (いかにインドを救うかというような大変な仕事でも)霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。多くの魂を束縛し、怨念と敵意と憎しみを助長し、神の子を迷信と偏見と無知による真っ暗閻の中で暮らさせている教条主義の呪いから解放しさえすればよいのです。
 永いあいだ “宗教”の名をもって呼ばれてきた、ただの古代神話、伝説にすぎないものを棄ててその拘束から脱する方法を教え、代わって霊的真理の陽光を浴びる方法を教えてあげれば--- “宗教” の名のもとに行われている欺瞞と誤謬を地上から一掃することができれば、地上を毒している問題の多くが解決されていきます。私はここで改めて、私に可能なかぎりの厳粛な気持で申し上げますが、地上はこれまで教条主義によって呪われ続けてまいりました。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.63


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 59-t [27-c] (地上の無知、迷信などが天国の到来を妨げている)

 私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒および出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信をもっております。
 神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。
 物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして受け入れる用意のある人にいきわたらせるか、その手段を求めて私たちは一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.26-27

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 59-u (人には必ず一度は霊的真理を知るチャンスが与えられる)

 すげない拒絶にあい酷しい批判を浴びせられても気になさらないことです。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを受け入れる用意ができていなかったことを意味します。むしろその人のことを気の毒に思ってあげなさい。神は人間の一人ひとりが地上生活の期間中に必ず一度は生命の基盤である霊的真理を知るチャンスを用意してくださっております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.156

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 59-v[27-e] (人間はなぜ光明よりも暗闇と無知を好むのか)

 人間はなぜ光明よりも暗闇を好むのでしょうか。なぜ知識よりも無知を好むのでしょうか。なぜ叡智よりも迷信を好むのでしょうか。なぜ霊の生きた真理よりも形骸化した教義の方を好むのでしょうか。なぜ霊的叡智の泉よりもホコリだらけの神学の方を好むのでしょうか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.180












  60. 霊言・霊的交信

 60-a (霊的交信の難しさ)

 霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、まったく次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。
 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するかーー完全か、部分的か、それとも全く融合しないかーーによって支配の度合が決まります。支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識につながった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、気嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲み過ぎ、たばこの吸い過ぎ等等、それはもういろいろとあるものです。そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合に影響を及ぼします。
 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。 時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。
 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るにはたいへんな努力が要ります。あえてそのたいへんな努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持よく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。地上を去り、まったく次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念があるかぎりは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。ですから、あまり無理なことを要求しないで頂きたいのです。霊媒を責めないで頂きたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。私どもは許されるかぎりの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.88-90


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 60-b (霊的交信は霊次第である)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。しつかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。
 霊の世界では言語は使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒にのりうつっている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思つてはいけません。こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの "糸" を操っているのです。そのうちの一本がいつ切れるともかぎりません。切れたが最期、そこで私の支配カはおしまいです。
 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単にできることのようにだけは決して想像しないで下さい。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、いちおう理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。
 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。その成功不成功は背後霊との合体の確信にもとづく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるはど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊界通信網が塞がれてしまいます。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.91-92


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 60-c (霊界から地上への働きかけ)

 私たちの仕事には二つの段階があります。第一は、これは非常に難しいことですが、私たちの仕事を地上に根づかせることです。これがいかに難しいか、皆さんにはお判りいlただけないと思います。物質の世界との直接の接触なしに影響力を行使する---純粋に精神のみの働きかけ、意念の集中、思念の投射を地上の一人の人間に向けて行います。本人はそれを無意識で受け、自分の考えのつもりで交霊会の行われている場所へ足を運びます。
 これは実に難しく、何年も何年も要します。私の場合はこの霊媒が生まれる前から準備を開始したほどです。その段階が終ると、第二の段階はさほど困難は伴いません。すでに道具、媒体、チャンネルができているのですから、あとはそれを通じて言いたいことを述べるだけです。伝わり具合の問題がありますが、少なくとも磁気的なつながりができたわけで、それは容易に切れるものではありません。
 それをきっかけに霊的影響力をいくらでも増すことができます。いわば霊力の通風孔をどんどん大きくしていくことが出来るわけですが、唯一の限界は霊媒の受容力にあります。それが私たちの協力関係における制約となっております。とかくの問題が生じても、全てその要因は私たちの方にあるのでなく、私たちが使用する道具にあります。なぜ霊はこうしてくれないのか、ああしてくれないのか、とよく言われますが、それに対する答えは、霊媒という道具がそれを可能にしたり不可能にしているということです。
 それはともかくとして、磁気的なつながりが出来あがってしまってからは、事がずっと簡単になります。私たちの世界を通して高い界からの霊力が地上へ届くようになるからです。人間の方から進んで内的自我を開発する意識に目覚めてくれれば、死の関門を通過するまで待たなくても、今すぐからその真の自我を発揮することになります。
 そうなると、時の経過とともに霊的な交わりがいっそう緊密に、豊かに、そして効果的になってまいります。そうなってからは、前もって計画されているさまざまな人たちを一堂に呼び集めることは、さほど難しくはありません。こう申し上げるのは、今日ここにお集まりの方々が、一人の例外もなく、霊カを受けやすいこの場に導かれて来ていることを知っていただきたいからです。それを受けられたあなた方は、自分がそうしてもらったように他の人々へそれを伝達する手段となることができます。
 こうして、結局は最初に申し上げた話に戻ってきましたーー私に礼を述べないでくださいということです。皆さんが明日を思い煩うことなく人生を歩めるのは、皆さん自身がみずからの自由意志で、霊力の働きの範囲内に連れて来られる段階を踏んできたからこそなのです。
 皆さんの生活の中に霊的知識がもたらされたことを常によろこばなくてはいけません。それがさらに、地上世界の恩恵だけでなく、その背後にある、より大きな恩恵まで思いのままに受けさせてくれる霊的知覚の存在を認識させてくれます。
 あなた方は地上だけでなく私たちの世界からも愛を受けていること、血縁とは別の縁で結ばれている霊がいて、血縁同様にあなた方を愛し、能力のかぎり指導に当ってくれていることを喜ばなくてはいけません。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.120-122

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 60-d (霊界通信における霊媒の影響)

 私があなたがたと縁のあるスピリットからのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。状態がいい時は連絡は容易にできます。が、この部屋の近所で何かコトが起きると混乱が生じます。突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。
 そうした個人的なメッセージの時はスピリットの言っていることが一語一語聞き取れます。それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションでスピリットがしゃべっていることを意味します。しかし、高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを言語で表現しなくてはなりません。それは霊媒が.スピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。その時の私は、シルバー・バーチとして親しんで下さっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです。
 たとえば画家がインスピレーションを受けるときは、ふだん使用しているのとは別のバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家はある霊カの作用を受け、それを映像に転換してキャンバスの上に画きます。インスピレーションが去るとそれができなくなります。それと同じで、私が皆さんに霊的真理をお伝えしようとすると、私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現するわけです。
 とはいえ、私は所詮この霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけ、それまで表象できなかった部分が表象できるようになるのです。
 今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるということまで分かっていますから、私の思うこと、というよりは、ここに来る前に用意した思想を全部表現することが出来ます。
 この霊媒を通じて語り始めた初期の頃は、一つの単語を使おうとすると、それとつながったほかの要らない単語までいっしょに出て来て困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.164-166

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 60-e (霊界通信における霊媒の影響)(続)

 あなたがた西洋人の精神構造は、私たちインディアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質をもった人々の睡眠中をねらって、その霊体を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。
 他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。
 初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはならないのです。それが上達の常道とというものです。赤ん坊が歩けるようになるには一歩一歩に全意識を集中します。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿りました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。
 最近他界したばかりの霊がしゃべる時はそこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に思念を印象づけるだけでよろしい。しかしそれにもかなりの練習がいります。それをこちらの世界の者どうしで行います。そう易々とできることではないのです。こうして霊媒の口を使って思うことを伝えるよりは、メガホンを使ってしゃべる方がずっとラクです。
 人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方に一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れを一たん止めて、新しい流れを作らなくてはなりません。もし似たような考えが潜在意識にあれば、その流れに切りかえます。レコードのようなものです。その流れに乗せれば自動的にその考えが出て来ます。新しい考えを述べようと思えば新らしいレコードに代えなくてはならないわけです。
 この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。私のパイプレーションに感応するからです。もっとも、私の方は.バイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるまで十五年もかかりました。
 霊媒のオーラの中にいる間、私は暗くて何も見えません。この身体によって私の能力が制限を受けています。この霊媒が赤ん坊のころから身につけていくことを私がいかに使用するかを一つひとつ勉強しなければなりませんでした。もっとも足の使い方は知る必要がありませんでした。私は足には用事がないからです。必要なのは脳と手だけです。
 この霊媒を支配している時に別のスピリットからのメッセージを口うつしに伝えることがありますが、その時は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳を使います。すべては霊媒のオーラと私のオーラの問題です。私のオーラは霊媒のオーラほど濃密でなく、霊媒のオーラの中にいる時でも他のスピリットが私のオーラに思念を印象づけることができます。言ってみれば電話で話をしながら同じ部屋の人の謡を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているのです。同時にはできませんが、切り換えることはできるわけです。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
   潮文社、1986、pp.166-168

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 60-f (地上の家族が何も反応してくれない無念さ)

 みなさんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像してみられたことがあるでしょうか。大ぜいの人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、はじめて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持を察したことがおありでしょうか。
 ・・・・ところが人間が一向に反応を示してくれません。聞く耳をもたず、見る目ももちません。愚かにも人間の大半はこの粗末な五感が存在のすべてでありそれ以外には何も存在しないと思い込んでおります。
 私たちは大ぜいの霊が地上へ戻ってくるのを見ております。彼らはなんとかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、あとに残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変ります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛にあふれた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、まことに気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります---こうした霊的交流の場へお連れしないかぎりそうした努力は無駄ですよと。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.40-41


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 60-g (霊界からの通信を受けるための心構え)

 私としては(亡くなった)若いフィアンセがあなたの身近かにいらっしゃることをお聞かせすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もなさっておりません。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それがマスターできるまでずっとお側から離れないでしょう。
 あなたの方でも心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が確かに届いていることを得心なさるでしょう。よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐに乱されるということです。不安、ショック、悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。心の静寂を得ることができれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得ることができれば、それが私たちの世界から必要なものをお授けする最高の条件を用意することになります。感情が錯乱している状態では、私たちも何の手出しもできません。受容性、受身の姿勢、これが私たちがあなたに近づくための必須の条件です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.103-104

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 60-h (霊界通信の難しさ、言葉のカベ)

 あなたからご覧になれば、私がこうして教訓やメッセージをお伝えできることから、私にはどんなことでも伝えられるかに思われるかも知れませんが、私は私なりにどうしても伝えきれないもの、私に適性が欠けているものがあることを常に自覚しております。何しろ私たちは五感では感識できない愛とか情とか導きとかを取り扱わねばならないのです。こうしたものは地上の計量器で計るような具合にはまいりません。それでも尚、その霊妙な力は、たとえ地上的な意味では感識できなくても、霊的な意味ではひしひしと感識できるものです。愛と情は霊の世界では人間の想像をはるかに超えた実在です。あなたが固いとか永続性があるとか思っておられるものよりずっとずっと実感があります。私が今ここで、あなたのご主人はあなたへの愛に満ちておられますと申し上げても、それは愛そのものをお伝えしたことにはなりません。言葉では表現できないものをどうしてお伝えできましょう。そもそも言葉というのは実在を伝えるにはあまりにお粗末です。情緒や感情や霊的なものは言語のワクを超えた存在であり、真実を伝えるにはあまりに不適切です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.156-157


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 60-i (初心者でも自分たちだけで霊的交信ができるようになるか)
       −霊界の娘と通信できることを知り始めた夫婦にー

 お二人が今お考えになっていることを実現するのは容易なことではありません。戦争という特殊な情勢が地上と霊界との関係に大きく影響しており、連絡が大へん混乱していることをまず認識しなければなりません。ご自宅で交霊会を催そうとしてもなかなかうまく行かないのはそのためです。
 永年の経験をもつ霊媒と強力な背後霊団を控えているサークルにおいてさえ、今は交信が非常に難しくなっております。まして初心者であるあなた方がうまく行かなくても不思議ではありません。
 まず第一に、まだ霊的能力そのものが十分な時間をかけた鍛錬をされておりません。指導と強化がなされておりません。まだこれからという段階です。今の状態で行うと近づいた霊の誰にでも好きに操られてしまいます。それに、霊力を補助してくれるメンバーが足りません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.92-93


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 60-j (定期的に開いてきた交霊会を中止するのはよくないことか)

 それに対しては “イエス” という答えしかないでしょう。ですが、次のことを知っていただかねばなりません。私もあなた方の世界のことは少しばかり体験しており、いろいろと難しい面があることを理解しておりますが、そうした中で、忙しい時間のいくばくかを割いて、背後霊との霊的な交流をもつことを心掛けてくださると、背後霊はとても助かるということです。そして、これは何度も申し上げていることですが、背後霊とのつながりを求め、たとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。
 ですから、たとえばテーブルも何も用いずに何分間か、ただお二人で座って黙祷するというだけでもいいのです。言葉に出すのもいいかも知れません。が、それも必ずしも必要ではありません。心を空にして穏やかな気持の中で精神を統一するだけで十分です。
 その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。
 地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一番近づきやすいからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.100-101


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 60-k (霊媒が他界した場合、支配霊は別の霊媒を探すのか)

 それは霊媒現象の種類によります。物理的現象が盛んだった初期のころは、そうした現象を起こすための難しい技術をマスターした指導霊が大勢いました。その種の霊はそれまでの霊媒が他界すると別の霊媒を探し出して仕事を継続しました。
 精神的心霊現象の場合には滅多にそういうことはありません。なぜかというと支配霊と霊媒とのつながりが物理霊媒の場合よりはるかに緊密だからです。オーラの融合だけの問題ではありません。時には両者の潜在的大我の一体化の問題もあるのです。そんな次第で、霊媒が他界すると同時に支配霊としての仕事も終わりとなります。そして支配霊は本来の所属界へ帰っていきます。私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。
 私の場合、霊媒との関係は誕生時から始まりました。仕事がご承知のような高度なものですから、まず初期の段階は、通信をできるだけ容易にするために必要な霊体と霊体、幽体と幽体の連係プレーの練習に費やさねばなりませんでした。
 そのうち霊媒が生長して自意識に目覚め、人間的に成長しはじめると、こんどは発声器官を使用して、どんな内容のものでも伝えられるようにするための潜在意識のコントロールという、もう一つの難しい仕事に取りかかりました。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.27-28


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 60-l (霊界通信では霊媒の潜在意識の影響を受ける)

 支配霊が霊媒をコントロ−ルすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出なくなります。
 どうしても(すべてが脚色されているということに)なります。いかなる形式をとろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすことはできないからです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.112-114

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 60-m (霊媒の霊言は信用できないことがある)

 霊が実在する---このことを疑っておられるわけではないでしょうね?次に、われわれにも個性がある---このことにも疑問の余地はありませんね?ではわれわれはいったい誰か---この問題になると意見が分かれます。なぜかといえば、そもそも同一性は何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との問にはある種の相違点があるからです。
 では一体われわれは何者なのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知のとおり私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身をいちばんうまく表現できるからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来ごとが生じております。
 通信がどれだけ伝わるか---その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における ”導き” の問題は簡単には片づけられません。なぜかというと、人間はその時どきの自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。いちばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。
 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意識の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると ”捨ておけ” という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画のワクの中で行動する約束ができている以上、私の勝手は許されないのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.131-132


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 60-n [29-k] (霊能者の品行は霊媒能力・通信にも影響を及ぼす)

 ―霊能者がタバコを吸いすぎたりアルコールを飲みすぎたり、そのほか生活面で真理に忠実でなく品行に問題がある場合は、それが霊能にも悪い影響を及ぼすでしょうか。

 もちろんです。いかなる霊媒能力、とくに精神的霊能について言えることは、その霊能者の質が高ければ高いほど通信の内容も質が高いということです。身体と精神の質を落とすようなことは霊にとっても同じ影響が及びます。
 忘れてならないのは、身体と精神と霊とは一体関係にあることです。緊密な相互関係があり、絶えずエネルギーや感情が行き交っております。霊の世界と物質の世界は実は一つの実在の二つの側面なのであり、お互いに影響し合っております。両者は融合し合っていて、はっきりとした境界線というものはないのです。
 そのことを理解なされば、物的身体に悪いものは霊的身体にも悪く、精神に良くないものは霊にとっても良くなく、したがって霊の宮(からだ)を汚すようなことは必ずその持ち主を通過して届けられる通信の質を汚すことになることがお分かりになると思います。
 理想を言えば完全であるに越したことはありません。そうすれば完全な通信が得られることでしょう。が、所詮、私たちが扱っているのは物質の世界に住む人間味たっぷりの道具です。アルコールもタバコもほどほどにたしなむのであれば大した事にはなりません。
 ただし、霊能者は常に理想を目指していなければなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 235-236

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 60-o[70-f] (来世についての通信に食い違いがあることの理由)

 (よく指摘される問題として、来世についての通信に食い違いがあることが挙げられる。その点について質されてシルバー・バーチがこう語った)

 霊の世界が無辺であること、したがって当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の段階があり、したがってそれぞれに体験の相違というものが生じるわけです。
 あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。
 このように、霊界についてどういう内容のことが伝えられるかは、通信霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られているということです。
 その霊がいま生活している界層については何でも入手できます。が、それより高い界層のことは理解できませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ下りることはできますが、高い界へは上がれないのです。
 私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性でもって判断しなさいということです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私たちとて絶対に間違いを犯さないわけではありません。まだまだ完全からは程遠い存在です。完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。
 サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私はけっして“こうしなさい”とか“これを信じなさい”とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私たちは協力者なのです。皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私たちは、真実と叡智と論理と理性と愛をもって皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。
 私たちの宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私たちが真実であると理解したかぎりの真理、私たちおよび皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣かも知れません。なぜなら私たち霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯しますし、欠点もあるからです。
 しかしこれからも私たちは、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きているかぎり、絶対に危害はこうむらないことを断言します。
 と言って、地上生活につきものの困難と苦難と面倒なことから逃れることはできません。なぜなら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。
 無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性という才能を賦与なさっています。何ごとにもそれを使用することです。たとえ霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 87-89

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 60-p [45-e] (人間の地上時代の名声は霊界では何の価値もない)

 (招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名のるのがいることを述べると)

 私たちの世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声は何の価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書きではなく、何を為したかによって自ら裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが衆目に赤裸々にさらされるのです。
 ごまかすことはできません。ウソをつくこともできません。見せかけも通じません。こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります。
 名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものにすぎません。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません。イエスはそういう名声はいっさい求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。
 大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は何と名のっているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。
 いつもお願いしているように、もしも私の言っていることにあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなところがあったら、遠慮なく拒絶なさってください。愛の心で接し真理の刻印を押されたものを説きながら、それで皆さんの魂に訴えることができなかったら、それは私たち霊団の努力は失敗に終わったことを意味します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 94-95

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 60-q (地上からの呼びかけに応えてくれない親戚の霊)

 ― 親密な間柄だった親戚の霊がどうしても出てくれないのはどういう事情があってのことかとの質問に対して。

 自由意志の問題です。地上へ無理にも引き戻そうとする強制力はいっさい働きません。こちらの世界へ来て、例えようもない楽しさと美しさと光輝を少しでも味わった者にとって、地上というところは、戻ってみたいと思うほど魅力ある世界ではありません。薄暗くて、じめじめして、これほど面白くない雰囲気はありません。こうした世界へ戻ってくるのは大変な犠牲を強いられるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 95-96

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 60-r (霊界の自分の所属界にいるままでは交信できないものか)

 ― テレパシーによって霊との交信ができた場合、それは霊にとって苦痛なのでしょうか。自分の所属界にいるままでは交信できないものでしょうか。

 それは十分可能なことです。私たちとしてはそちらとこちらとがお互いに半分ずつ歩み寄る形で交信できれば有難いのですが、残念ながらそう希望どおりにはまいりません。私たちの方から地球の大気圏、地上的環境、地上界のバイブレーションの中へ下りて行かねばならないのが実情です。つまり霊的なものを物的なものへ近づけなければならないのです。本当は物的なものを霊的なものへ近づけてほしいのですが……

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 96-97

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 60-s [51-g] (霊が地上と交信する時は必然的に霊側が犠牲を強いられる)

 人間は本質的には地上にいる時からすでに霊的資質や属性のすべてを所有しております。時たまチラリと発現することはあっても、大半は居眠りの状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.47

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 60-t [51-h] (地上との交信には波動を下げて霊界から降りなければならない)

 人類の大半は霊的に高度なものをみずからの力で手にすることは不可能です。バイブレーションがあまりにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、あまりにも洗練されているために、よくよく鍛練されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。そこで地上との交信には私たちの方から言わば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しきが大きく殺がれてしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.47-48

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 60-u(霊界通信はその内容によって価値が決まる)

 霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、まったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑ぐり深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意のできた人に訴えるのが目的です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 216

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 60-v (霊界との交信に機器を使用するのは可能になるか) 

 霊界と地上界との交信を促進するための計画はこちらでもいろいろとなされておりますが、霊媒に取って代るもの、たとえば電子工学を応用したものを考案中という話は聞いておりません。高周波――“高い”といっても程度は知れてますが――を記録する装置を使ってはいけないという理由はありません。それなりに交信を容易にし、判読しやすい形で受け取る上で役立つかも知れません。
 しかし、顕と幽の二つの世界の交信にとって不可欠の要素である霊媒に取って代わる器具を考案中という話は聞いたことがありません。それは絶対にできないでしょう。なぜと言えば、二つの世界は霊と霊との関係、つまり霊性で結ばれているからです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
      (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.125

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 60-w (霊界との交信を可能にするためには条件が必要である)

 質問:もしも本当に死後の世界があり、そして創造主が愛の神であるならば、他界した愛する者たちが五感で確認できる形で戻ってきて、私たちに死後存続の事実を確信させてくれるようになっていてもいいはずが、現実はそうなっていないのはなぜでしょうか。

 ― いいえ、ちゃんとそうなっているのです。ただ、そのためには条件が必要なのです。今夜のゲストのご夫妻も私との対話をするために来ておられますが、なぜここまで来られたかといえば、ここにはこのモーリス・バーパネルという霊媒がいて、私がその発声器官を使用できるからです。お二人の自宅では私との対話はできません。この霊媒がいないからです。このように、地上界と霊界との交信には、それを可能にする条件というものがあるのです。
 投書をされた女性が私に質問をするには、その質問を手紙という形で書いて郵送し、それがこの場で読み上げられるという過程を経なければなりませんでした。その質問に私がこの霊媒を通して答え、その答えが記録されてご質問者のもとへ郵送される――地上での交信にもこれだけの過程が必要です。地上界と霊界との交信にはさらに次元の異なる条件が必要なのです。
 電話で話すという、地上の人間どうしの交信の手段が確立されるようになるまでの歴史をたどってみられるとよろしい。それはそれは大変でした。それをみても、次元の異なる地上界と霊界との間の交信が簡単にはいかないことが想像できるでしょう。それなりの必要条件というものが満たされないことには、交信できないのです。他界した愛する人が何も通信してこないからといって、それを大霊に非があるかに思われてはいけません。それなりの手段を講じないといけないのです。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
      (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.165-166