
41.家族を亡くした人へのことば
41-a (一人娘を亡くしたばかりの母親の手紙に対して)
「私は十九歳の一人娘を亡くしてしまいました。私も夫もあきらめようにもあきらめきれない気持です。私たちにとってその娘が全てだったのです。私たちはシルバー・バーチの霊言を読みました。シルバー・バーチ霊はいつでも困った人を救ってくださるとおっしゃっています。肢体不自由児だった娘は十九年間一度も歩くことなく、酷しい地上人生を送りました。その娘が霊界でぶじ向上しているかどうか、シルバー・バーチ霊からのメッセージがいただけないものでしょうか。地上で苦しんだだけ、それだけあちらでは報われるでしょうか。私は悲しみに打ちひしがれ、途方に暮れた毎日を生きております。」
その方にこう伝えてあげてください。神は無限なる愛であり、この全宇宙における出来ごとの一つとして神のご存知でないものはありません。すべての苦しみは魂に影響を及ぼして自動的に報いをもたらし、そうすることによって宇宙のより高い、より深い、より奥行きのある側面についての理解を深めさせます。娘さんもその理解カを得て、地上では得られなかった美しさと豊かさをいま目の前にされて、これからそれを味わって行かれることでしょう。
また、こうも伝えてあげてください。ご両親は大きなものを失われたかも知れませんが、娘さん自身は大きなものを手にされています。お二人の嘆きも悲しみも悼みも娘さんのためではなく実はご自身のためでしかないのです。ご本人は苦しみから解放されたのです。死が鳥かごの入口を開け、鳥を解き放ち、自由に羽ばたかせたことを理解なされば、嘆き悲しむことが少しも本人のためにならないことを知って涙を流されることもなくなるでしょう。やがて時がくればお二人も死が有り難い解放者であることを理解され、娘さんの方もそのうち、死によって消えることのない愛に満ちた、輝ける存在となっていることを証明してあげることができるようになることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
1986、pp.152-153
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41-b (二人の息子を大戦で亡くした夫婦に対して)
霊のカに導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とのつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだという確信をもって人生を歩むことの出来る方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡智を見出されました。眠りのあとに大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今お二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
お二人は悲痛の淵まで下りられました.魂が謀反さえ起こしかねない酷しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです。"ゲッセマネの園"
と "変容の丘" は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。苦難に耐える力は深遠な霊的真理を理解するカと同じものです。悲しみと喜び、閻と光、嵐と好天、こうしたものはすべて神の僕であり、その一つひとつが存在価値をもっているのです。魂が真の自我に日覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものにあるのではなく永遠に不変の霊的なものにあると悟った時です。地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色あせ錆びつくものであることを思い知らされます。霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなたがたお二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりがいっそう緊密になっていく道にしっかりと足を踏まえられました。
ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます。といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません。そういうことは有り得ないことです。なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するもものだからです。いかなる困難も、いかなる苦難も、いかなる難問も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影にすぎません。悲劇と悲しみをもたらしたのはすべて、あなたのもとを通り過ぎていきました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、いま学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの、驚異に満ちた精神的探険です。
お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。
どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たしてください。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせてください。そこにおいて本来の温もりと美しさと光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
1986、pp.61-63
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41-c (夫を亡くしたばかりの妻に)
あなたもそのうち物的なつながりよりも霊的なつながりの方が大きいことを理解しはじめることでしょう。ご主人はこの世にいた時よりもはるかにあなたにとって身近な存在となっておられます。
地上人類が肉体的存在の消滅を大変な不幸として受けとめるのは、地上世界の進化が物的バイブレーションの段階を超えていないからです。その段階を超えて進化すれば、物質というものがただの殻にすぎないことを理解するようになります。それを実在であるかのように思い込むのは地上が影の世界だからです。
霊的に向上していくと、光とその光によって生じる影との区別ができるようになります。地上的縁には拘束力がありません。霊的な縁こそ永遠に続くものです。
ぜひ銘記していただきたいのは、あなた自身にとって大変な悲しい出来ごとのように思えることも、実は他の大ぜいの人たちのためにあなたを役立てようとする計画の一端であることがある、ということです。あなただけの個人的な見地からのみ眺めてはいけません。その体験を通じてもし大ぜいの人々の魂が鼓舞されることになれば、それがひいてはあなた自身の魂の成長を促すことになります。そして、あなた自身がこちらへお出でになりご主人と再会された時にも、それが大きな拠りどころとなります。
"死んだ人”たちはあなたのもとから去ってしまうのではありません。死という名のドアを通り抜けて新しい生活へ入っていくだけです。その人たちにとって死は大きな解放です。決して苦しいものではありません。彼らにとって唯一の辛さは、地上に残した人々が自分のことで嘆き悲しんでいることです。
いくら順調に進化していても、地上にいるかぎりは相変わらず霊的なバイブレーションよりは物的なバイブレーションの方が感応しやすいものです。縁故のあるスピリットがすぐ身のまわりにいます。肉体に宿っていた時よりも一段と親近度を増しているのですが、人間の方は鈍重なバイブレーションにしか反応しないために、すぐ近くにいても、その高いバイブレーションに感応しないだけです。あなた方は今この時点において立派に霊魂なのです。物的世界での教訓を身につけるために地上にやってきているところです。時としてそれが辛い教訓となることがありますが、それはそれなりに価値あることではないでしょうか。
皆さんはなぜ物的な出来ごとをもって永遠を判断しようとなさるのでしょう。皆さんは空の広さは計れません。地球の大きさすら計れません。なのに、わずかな地上生活でもって永遠を計ろうとなさいます。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.43-44
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41-d (最愛の伴侶を失った人の自殺は許されるか)
許されません。あくまでも摂理にしたがって寿命を完うしなければなりません。神の摂理はつねにその働きが完璧だからです。完全な愛によって、つまり全存在に宿り全存在を通じて働いている神の意志によって支配されているからです。その摂理の働きに干渉する権利は誰にもありません。もし干渉して与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わされます。
たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間にわたって辛い体験を支払わされることになります。おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.45-46
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41-e(肉親を失った悲しみに必死に耐えている人に)
あなたの(霊の世界を見る)目がさえぎられているのが残念でなりません。(霊の声を聞く)耳が塞がれているのが残念でなりません。その肉体の壁を超えてご覧になれないのが残念でなりません。あなたが生きておられる世界が影であり実在でないことを知っていただけないのが残念でなりません。あなたの背後にあって絶え間なくあなたのために働いている霊の力をご覧にいれられないのが残念でなりません。数多くの霊---あなたのご存知の方もいれば人類愛から手を差しのべている見ず知らずの人もいます---があなたの身のまわりに存在していることが分かっていただけたらどんなにか慰められるでしょうに。地上は影の世界です。実在ではないのです。
私たちの仕事はこうした霊媒だけを通して行っているのではありません。もちろん人間世界特有の(言語によって意志を伝える)手段によって私たちの存在を知っていただけることをうれしく思っておりますが、実際にはその目に見えず、その耳に聞こえずとも、あなた方の生活の現実に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、あなた方の性格をのばし、魂を開発しております。そうした中でこそ(死後の生活に備えて)霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.29-30
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41-f (霊的真理を理解しているメンバーの他界を知って)
大収穫者すなわち神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後にたどる道をより明るく飾ることをなさいます。
肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界ではまた一人物質の束縛から解放されて、言葉で言い表せない生命のよろこびを味わいはじめる魂を迎えて、うれし涙を流します。私はいつも"死"は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮せずに終った内部の霊性を発揮する機会に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいることを説いております。ここにおいでの方々は、他界した者がけっしてこの宇宙からいなくなったのではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮戦している吾々を援助してくれているということです。
その戦いは地上のいたるところで日夜続けられております---霊の勢力と醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきにいたり、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のおかげで勝利はかならず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。いずれあなた方もその戦いにおいて果たされたご自分の役割---大ぜいの人々の慰めと知識を与えてあげている事実を知って大いなるよろこびに浸ることになりましょう。今はそれがお分かりにならない。私たちとともに推進してきた仕事によって生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを今はご存知でありません。
実際はあなた方はこうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき心の傷と精神の疑問と魂の憧憬のすべてに応えてくれる真実を求めている飢えた魂にとって、何ものにも替えがたい宝となっております。太古の人間が天を仰いで福音を祈ったごとくに、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新たなしるしを求めて天を仰いできました。そこで私たちがあなた方の協力を得て真実の知識をお持ちしたのです。それは正しく用いさえすれば必ずや神の子すべてに自由を---魂の自由と精禅の自由だけでなく身体の自由までももたらしてくれます。
私たちの目的は魂を解放することだけが目的ではありません。見るも気の毒な状態におかれている身体を救ってあげることにも努力しております。つまり私たちの仕事には三重の目的があります---精神の解放と魂の解放と身体の解放です。そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと取り越し苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものでないでしょうといった反論に会うであろうことは私もよく承知しております。しかし、事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。
挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差しのべ、日常の最少限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住まいを提供するという、こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時、それは実は私たち霊の世界からやってくる者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです。その種の俗世的問題かち超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません。霊的な真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持を抱くようでなければなりません。その真理にいかなる名称を付けようと構いません。政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル---どれでもお好きなものを貼られるがよろしい。それ自体なんの意味もありません。大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し、当然受げるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.32-35
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41-g (霊界の家族はいつも側にいてくれる)
=妹と父親を亡くした11歳のジョン君へのことば=
ジョン君に知ってほしいことは、もうわかっているでしょうけれど、妹とお父さんはいつもそばにいてくれているということです。これはまだまだ知らない人が多い大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョソ君を愛し力になってあげたいと思っているからです。このことを人に話しても信じてくれませんよね?みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを理解しないために地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば
“死” を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることがありますが、死んだ本人にとっては少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのです。ジョン君もそのことをよく理解してくださいね。妹のことは小さい時に見たことがあるからよく知ってるでしょう?
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.71-72
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41-h (婚約者を不慮の事故で亡くしたばかりの女優へ)
あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものほ悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは閻でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。
あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終りとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。ですが、私の見るところでは、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょう?
こういうふうに理解なさることです--- これが私にできる最大のアドバイスです---われわれ生あるものすべては、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは霊だからこそです。その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。その霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために体験を積みます。それはちょうど子供が学校へ行って卒業後の人生に備えるのと同じです。
さて、あなたも他のすべての人と同じく一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色褪せ、朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は穀であり、入れ物にすぎず、実質ではないからです。地上の人間の大半が幻を崇拝しています。キツネ火を追いかけているようなものです。真実を発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。
神が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的、計画、機構の中の一時的な存在として人生を捉らえ、自分がその中で不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義は分からなくても、究極においてすべてが永遠の機構の中に組み込まれているのだという確信は得られます。霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段です。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまりその生物的集合体ではないのです。それはあなたではありません。あなたという別個の霊的存在があなたを地上で表現していくための手段にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。
死が訪れると霊はそれまでに身につけたものすべて---あなたを他と異なる存在たらしめているところの個性的所有物のすべてをたずさえて霊界へ行きます。意識、能力、特質、習性、性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。真にあなたのものは失われません。真にあなたの属性となっているものは失われません。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.99-102
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41-i (地上のことが気がかりな死亡直後の彼)
あなたにとって理解しがたいことは、多分、あなたの(亡くなった)フィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的には私よりもあなたの方が身近かな存在だということでしょう。理解できるでしょうか。彼にとっては霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は彼がそのことについて何も知らずにこちらへ来たということです。
一度も意識にのぼったことがなかったのです。でも今ではこうした形であなたが会いに釆てくれることで、彼もあなたが想像なさる以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来ても記憶の幻影の中でのみ暮らして実在を知りません。その点あなたのフィアンセはこうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずに済んでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.105
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41-j (不慮の事故で他界したフィアンセの現況)
しあわせとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたといっしょになりたい気持の方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的に危害が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされるでしょう。
宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造してくださったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。けっして口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだからそう申し上げているのです。あなたはまだ人生を物質の目でご覧になっていますが、永遠なるものは地上の尺度では正しい価値は分かりません。そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの---生命、愛、本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.107-108
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41-k (戦死した息子と霊的交信ができずに嘆いている親に)
私の目には人間の心と魂とが映ります。外部の身体は映りません。苦悩の淵に沈まれたあなたの心は私にはよく分かります。ですから、あなたの心の奥底で動めいているものを私が知らずにいると思ってはいけません。あなたはまさに悲しみのドン底を体験されました。そしてその悲しみを少しでも和らげてくれるものを求めておられます。しかし、こんなことを申し上げては非情に思われるかも知れませんが、あなたが求めておられるものを叶えられなくしているのは、知らず知らずとはいえ、実はあなたご自身であることを知ってください。
宇宙には科学の実験室における如何なる分析検査にもひっかからず、化学薬品によってもメスによっても分析できず、しかも、これまで大きさを測定し重量をはかり切開できた他のいかなるエネルギーをも超越する力が存在します。
私が言っているのは愛の力のことです。その愛は全生命の根源であり、宇宙を創造した大霊すなわち神の属性であるがゆえに死滅することはありません。それはまさに生命の息吹きでありエッセンスなのです。この愛さえあれば、縁で結ばれた者どうしはあらゆるハンディキャップ、あらゆる障害、あらゆる妨害を乗り越えて、いつかは必ずお互いを見出し合います。
息子さんのことはよく存じております。聡明な、まばゆいばかりの青年でした。あなたは今その息子さんのことで心を痛めておられます。が、その息子さんは実は今もあなた方のお側にいるのです。死んでしまったのではありません。生命に満ちあふれた姿で生きておられます。いつかはその存在を証明することに成功するでしょう。そして傷ついた心をみずから癒すことになるでしょう。どうか私の言うことを素直に信じてください。息子さんは(戦死によって)何の傷害も受けておられません。精神的能力も霊的能力もまったく健全です。そのうちきっと、今だにあなたを取り巻いている濃いモヤ取り除けるようになるでしょう。それを是非とも突き破らねばなりません。
しかし、それは大変努力のいることです。実に困難なことです。いかに困難なものか、例をあげてみましょうか。私はこうして地上との交信を可能にしてくれる通信網を操るための訓練に二十年以上も費してまいりましたが、今日の地上を取り巻く状況が(戦争のために)あまりに混沌とし、騒乱と険悪さに満ちているために、やむを得ずその繊細な通信網を最少限にしぼって、ようやくこの霊媒との連絡を確保しているのが実情なのです。
お子さんがあなた方を喜ばせてあげられないのはお子さんが悪いのではありません。地上に近い霊界の下層界における混乱状態のせいであり、それにもう一つ大切な原因として、無理もないこととはいえ、絶対的確証を得ないと気がすまない、あなたのその冷ややかな分析的精神構造があります。しかし私もお手伝いします。そのうちその悲しみの鈍痛を忘れかけている時があることに気づかれるようになることを、ここで断言しておきましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.84-86
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41-l (最愛の息子を亡くして嘆き悲しんでいる母親へ)
どうか次のことをよく理解してください。冷たいことを言うと思わないでください。本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで申し上げます。死は、死ぬ人自身にとって少しも悲劇ではありません。あとに残された人にとってのみ悲劇なのです。暗黒の世界から光明の世界へと旅立つことは悲しむべきことではありません。
あなたが嘆き悲しむとき、それは実はわが子を失った自分の身の上を悲しんでいらっしゃるのであり、自由の身となった息子さんのことを悲しんでおられるのではありません。息子さんは地上にいた時よりずっと幸せなのです。もう肉体の病に苦しむことがないのです。刻々と蝕まれていくということもありません。内部の霊的資質を開発し、それを何の障害に邪魔されることもなく自由に発揮し、それを必要とする人のために存分に役立てることができるのです。
あなたは見慣れたあの姿が見られなくなったことを淋しがっておられるのです。物的身体が二度と見られなくなったことを嘆いておられるのです。しかし、本当の息子さんは立派に元気で生きておられるのです。ただその手で触わってみることができないだけです。どうかその物的感覚の世界、五感というお粗末な魂の窓の向こうに目をやり、霊的実在を知ることによって得られる叡智を身につけるように努力なさってください。
死は生命に対してまったく無力なのです。生命はつねに意気揚々としています。愛する息子さんは決してあなたのもとを去ってはいません。むしろ死によって霊的にはさらに身近かな存在となっているとも言えるのです。むろん、そのことが今のあなたに理解できないことは私も承知しております。なぜならあなたは物質の世界に生き、物質の目で見つめておられ、霊の世界のすばらしい壮観がごらんになれないからです。しかし、いつの日かその物質のベールが取り除かれて霊的な目が開かれれば、あなたも新しい世界の目も眩まんばかりの光輝をごらんになり、人生には完壁な償いの法則があり、すべてが神の摂理によって治められていることを理解されることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.88-89
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41-m (亡き子の死後存続の確証を求めている新聞編集者へ)
私たち霊界の者の目には、本当は存在してはならない暗闇の中で生きている何億、何十億とも知れぬ神の子の姿が見えます。荒れ果てたみじめな家屋で空腹と渇きに苦しみながら、生得の権利であり神からの遺産であるところの
”魂の自由” を奪われた生活を送っております。
その一方には、己れの飽くなき貪欲を満たさんがためにそうした無数の同胞を虐げつづけることに知恵をしぼっている者もいます。そこで私は霊性に目覚めた方々に申し上げるのです---勇気をもって闘いなさい。あらゆる不正、あらゆる闇、あらゆる横暴、あらゆる不公平と闘いなさい。その人の背後には人間的煩悩から解放された霊の大軍が控え、鼓舞し援助し、決して見捨てるようなことはいたしません、と。
これが知識を伝達する手段をお持ちの方に私からお願いしていることです。私の言わんとしていることがお分かりですね。為さねばならないことが沢山あります。あなたも含めて、死後存続の確証を得たいと望んでおられる方に申し上げたいのは、(確証はおろか)霊的知識にめぐり合う機会すら得られない人が無数にいるということです。
あなたも私たちと同じ視野に立って地上世界をごらんになることです。そうした無数の人たちが、いずこへ向かうべきかも分からぬまま、疑念と不安を抱きつつ狼狙し、途方に暮れた生活を送っております。道を見失っております。と言って、永年にわたって権威があるかに思ってきた宗教はもはや信じられなくなっております。暗中模索と挫折の繰り返しです。そこで私たちは考えたのです---よい道具(霊媒・霊能者)さえ用意できれば安心と確信と自信を生み出す知識の光をふんだんに地上へもたらすことができるであろう。そして神が意図された通りの生き方、つまり平和と協調と愛にあふれた生活ができ、神の一部としての霊性が要求するところのものを追求することに勤しむことになるであろう、と。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.90-92
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41-n (夫を事故で亡くしたある婦人へのことば)
この度のご不幸はあなたにとっては忍ばねばならない重い十字架ですが、死後の存続の事実を知らずに色被せた古い信仰をもって対処するよりは、あなたのように知識と理解とをもって対処できる方はどれだけ幸せでしょう。もはやあなたの人生は処理できないほど大きな問題も困難もありません。そうしたものが地平線上に姿を現わしても、すぐに消えていくことに気づかれるでしょう。そこに霊の力が働いているからです。空虚な信仰ではなく確固とした知識の上に築かれた信仰から生まれる平静さと信頼感のあるところには、私たち霊界からの力も注ぎやすいということです。
弱気になってはなりません。毎朝をこれから先の使命達成の前触れとして明るく迎えることです。これからも引き続き自信に満ちた生活の模範を垂れ、あなたより不如意な境遇のもとで迷い、恐れ、疑い、たぶん大きな不安の中で生きている人々が、あなたの生活ぶりの中に聖域、憩いの場、あるいは避難所を見出すことができるようにしてあげて下さい。
あなたみずからが魂の灯台となって明るく照らせば、あなたはふんだんに霊の力の恩恵に浴し、それはひいては霊力の伝達者が同時に霊力の受信者でもあること、そのおかげで多くの仕事を為しとげることが出来ることの証となるのです。
私は決してご主人がいま何の悔いも感じておられない---幸せいっぱいで満足しておられるなどというセリフは申しません。そんなことを言えばウソになります。幸せいっぱいではありません。埋め合わせをしなければならないことが山ほどあり、収支相償うところまで行っておりません。まだ今しばらく辛抱がいります。新しい生活に適応する努力をしなければなりません。
でも、感情的なストレスの多くが消えました。当初のことを思えばずっと良くなられました。もうそろそろ、あなたへの影響を着実に行使することができるでしょう。これまでは思い出したように気まぐれにやっておりました。ご主人はもともとそういう方ではありません。何ごともキチンとしたがるタイプで、これまでほったらかしていたものを少しずつ整理していきたいと考えておられるところです。
『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.39-41
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41-o [9-b] (愛の念や心に思うことはすべて力になるのか)
- 夫を事故で亡くしたある婦人へのことば(続) -
なります。ご主人は頼りになるものをあなたに求めておられるからです。ご主人はまだ地上の雰囲気の中にいること、これからも当分いまの状態が続くこと、したがって私たち霊よりもあなたの方が近づきやすいという事実を理解しなければなりません。ご主人はあなたが動揺したり躊躇したり疑ったりしない人間であってほしいのです。ですから、あなたが岩のように堅固であれば、そのことがご主人に安心感を与えます。愛と援助の念を送ってあげれば、それがご主人を安心≠フ衣で包んであげることになり、それが何よりの援助となりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.45
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41-p (死んでいった当人の身の上を悲しんではならない)
肉親の死に遭遇した時、あの顔、あの姿がもう二度と見られなくなったことを悲しむのならまだしも、死んで行った当人の身の上を悲しむのであれば、それは止めなくてはいけません。
人生は霊的価値を基盤として考えないといけません。その価値があなたの行為の一つ一つの輝ける指標として、日々の生活の中で発揮されなくてはいけません。スピリチュアリストを自任している方々は、スピリチュアリズムを死という不幸に遭遇した時だけ持ち出して、それ以外の時はどこかに仕舞い込んでおくようなことでは困ります。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.56
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41-q (死別した家族は決して遠くへ離れてはいない)
=奥さんを病気で失った或る男性に対することば=
これまでずいぶん過酷な道を歩んで来られましたが、あなたはこれ以上為すべきことはないというところまで、よく頑張られました。考えうるかぎりのことをおやりになりました。いかに愛しているとはいえ、その人の身体がもはや霊を引き止めておけない状態になってしまえば、それ以上生き永らえてくれることを望むのは酷というものです。地上の人生にはいつかは別れる時がまいります。頑健な方が居残り、弱った者は先に行った方がよいのです。
あなたには有難く思うべきことが山ほどあります。大きな危機に、無知のままではなく正しい知識をたずさえて臨むことができました。もしも霊についての知識がなかったら、あなたの人生は今よりどれほど大変なものとなっていたことでしょう。その意味であなたは貴重な人生のおまけを体験なさったと言えます。そのことをあなたは感謝しなくてはいけません。が、霊を引き止めておけなくなった身体から奥さんが去って行くのは、もはやどうしようもありませんでした。
あの時の奥さんの心境は複雑でした。もう死んでしまいたいと思ったこともあれば、何とかして生き延びたいと思ったこともありました。が、生き延びたいと思ったのはあなたの立場を思ってのことでして、ご自分の立場からではありませんでした。奥さんにはもう何の苦痛もありません。老いも病気も衰弱も、そのほか人生の盛りを過ぎた者にかならず訪れる肉体の宿命に苦しむことはなくなりました。肉体が衰弱するほど霊は強くなるものです。
あなたが楽しくしていれば奥さんも楽しい気分になります。あなたが塞ぎ込めば奥さんも塞ぎ込みます。一人ぼっちになられたのは身体上だけの話であり、霊的には少しも一人ぼっちではありません。奥さんは決して遠くへ離れてはいません。今でもあなたを夫と思い、あなたの住む家を我が家と思っていらっしゃいます。
あなたは信仰心をお持ちです。ただの信仰心ではなく、あなたに証された事実″を根拠とした現実味のある信仰心です。それが、間違いなく訪れる不幸に備えるために、受け入れ態勢の整った時点でもたらされました。それをあなたの人生のすべての基盤となさってください。あなたはこれからまだまだこの地上で得るものが沢山あります。あなたの人生はまだ終末に来てはいません。他人のために為すべきことがあり、開発すべき資質があり、成就すべき目的があります。
神は完全なる公正です。自然の摂理を通して因果応報がきちんと行われております。収支は常に完全なバランスを保っております。あなたは忘れ去られることも見落とされることも無視されることもありません。あなたを導き、援助し、慈しんでくれる愛があります。それを頼みの綱となさることです。それが、いついかなる事態にあっても不動の信念を維持させてくれることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.57-59
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41-r (わが子の死を乗り越えて得られた霊界からの援助)
=二人の子供を失った夫婦に対することば=
あなた方お二人が、縁あって訪れてくる人たちにいろいろとお役に立っておられる様子を見て、お子さんはとても誇りに思っておられますよ。大切なのは受け入れる用意のできた土壌に蒔かれるタネです。あなた方が受け入れられたタネはいま見事な花を咲かせております。お子さんは、お二人の人生に衝激的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのをご覧になって、とてもよろこんでいらっしゃいます。
お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、其の自分を見出させてくれることになった触媒でした。
魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。
現在のお二人の生活も決して楽ではありません。これまでも楽だったことは一度もありません。が、日常の問題にもちゃんとした摂理があります。それは、人のために自分を役立てる者は決して生活に不自由はしないということです。基本的に必要とするものは必ず与えられるということです。その際に大切なことは、それまでの体験によって得たものを、日常の生活の中で精いっぱい生かしていくことです。そうすることの中で、神とのつながりを強化して行くことになるからです。そのつながりが強くなればなるほど、援助と力とが流れ込む通路が内面的に奥深くなって行くのです。
真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。不安の念の侵入を受けつけず、無知と迷信と悩みが生み出す暗黒を打ち消します。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。
大切なのは、ご自分の方から神を裏切らないことです。これまでに得たもの、いま受けつつあるもの、そしてそれから生まれる叡智のおかげでせっかく宿すようになった信頼を裏切るような行為をなさらないように心掛けることです。
霊的真理にしがみつくことです。これまでに自分たちに啓示されたものを信じて物事に動じないことです。一つ一つの問題に正面から取り組み、精いっぱい努力し、済んだことは忘れることです。援助は必ず与えられます。なぜなら、お二人を愛する人たち、地上にいた時より一段と親密度を増している人たちが、お二人が難題を切り抜けるように取り計らってくれるからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.59-61
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41-s (霊的に繋がっている者は決して別れることはない)
=ジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の死後、交霊会に出席した奥さんと息子さんに対してのことば=
今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして蔭から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます。明日のことを思い煩ってはいけません。心配の念を心に宿してはいけません。地上世界には何一つ怖いものはありません。
ご主人はいつもあなたのお側にいます。愛のあるところには必ずご主人がいると思ってよろしい。あなたの心、あなたの家庭からいっときも離れることはありません。物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。そうした霊的次元の愛を知り、理解力を身につけ、そしてお互いに足らざるところを補い合う関係---半分ずつが合わさって統一体を構成する関係、魂の結婚という、地上で滅多に見かけられない真実の霊的関係を成就されたあなた方は、本当におしあわせです。
あなたはご主人のことを誇りに思うべきです。その啓蒙の光は在世中にもしばしば異彩を放っていた偉大なる霊です。彼ほどに人の心の琴線にふれ、高邁なものに手の届く人はそう多くはいません。
お二人に対する愛は少しも変わっておりません。その愛が鋼鉄の帯のようにお二人を取り囲んでおります。これからも常にお側におられます。お二人を守り、導き、支えとなり、慈しんでくれることでしょう。あなた方が手にされたこうした知識が他の無数の人々も手にできるようになれば、地上はどんなにか変わることでしょう。
ですから、毎朝を無限の可能性に満ちた新しい霊的冒険の始まりとして、又、あなたの霊的な輝きと資質を増す機会の到来として、歓喜をもって迎えるのです。毎朝が、霊的成長を促し内部の神性を発達させ全生命の始源へ近づけてくれる好機をもたらしてくれるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.61-62
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41-t (死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできない)
― 永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた
―
本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認してさしあげることを、とてもうれしく思います。
地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを認識すべきです。
地上に生をうけた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時がまいります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意ができたということです。
その死別という試練に直面した時に自分をどう慰めるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。
しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力はけっして見捨てません。必ずや援助の手が差しのべられます。
悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかも知れませんが、ある意味でとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のドン底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。そのドン底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在として実在していることを確信なさっておられます。
私はいつも思うのですが、地上の人々、中でもとくに霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感をもって認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです。
その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来としてよろこんで迎えることです。
あなたの人生は、手にされた証拠によって一変しました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろ努力をなさっておいでです。私は実際にそのご様子を拝見して、よく存じております。
他人がどう言おうと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。できるかぎりの最善を尽くして人のために力になってあげることです。
ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年にイヤな思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお“わが家”とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存続の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きて行けるのだという、一つの手本を示していただきたいのです。
別離といっても身体上のことであり、霊的には別れてはいないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊はけっして滅びないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.63-66

42. 悪・罪・憎しみ
42-a (邪悪な人間でも憎むことはできない)
私は憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます。
そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、
1986、pp.124-125
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42-b (地上にはなぜ邪と悪があるのか)
権力の座にある者の我がままが原因となって生じる悪---私は無明という言葉の方が好きですが---そして邪、それと、人類の進化の未熟さゆえに生じる悪と邪とは、はっきり区別する必要があります。地上の邪と悪には貧民街ができるような社会体制の方が得をする者たち、儲けることしか考えない者たち、私腹を肥やすためには同胞がどうなろうと構わない者たち、こうした現体制下の受益者層の存在が原因となって発生しているものが実に多いことを知らなければなりません。悪の原因にはそうした卑劣な人種がのめり込んでしまった薄汚い社会環境があるのです。
しかし一方において忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生はつねに暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくものであるということです。もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります。人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.159-160
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42-c (敵に対する態度について)
私にとってはどの人間もみな「肉体を具えた霊魂」です。私の目にはドイツ人もイギス人もアメリカ人もありません。みなスピリットであり、大霊の一部であり、神の子供です。時にはやむを得ず対症療法として罰を与えねばならないこともあるかも知れませんが、すでに述べた通り、新しい世界は憎しみや復讐心からは生まれません。すべての人類のためを思う願望からしか生まれません。復讐を叫ぶ者---目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。すべての人間に生きる場が与えられております。理性と常識によって問題を解決していけば、すべての者に必要なものが行きわたるはずです。という説明よりほかに分りやすい説明が見当りません。あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を為しとげたか。それは一語に尽きます---寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも寛容心があったからこそです。米国は人種の問題、国籍の問題、宗教の問題を解決してきました。黒人問題もほぽ解決しました。その歴史を通じて全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。
今あなた方の国が体験していることは、やがて世界全体が体験することになります。米国は世界問題解決の、ミニチュア版のようなものです。例えばあなたの存在を分析してみても遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つがみな存在意識をもっており、雑多であるがゆえに粗末になるということはありません。逆に豊かさを増すのです。成長の途上においては新しい要素の付加と蓄積がひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来あがります。それは、自然というものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の性貿を生むのです。大自然の営みは一ときの休む問もない行進です。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.163-164
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42-d [46-g] (霊界にも邪悪はあるか)
私は邪と悪には二種類ある---この"悪"という言葉は嫌いなのですが---すなわち既得権に安住している利己主義者によって生み出されているものと、人類の未熟さから生まれるものとがあると申し上げたつもりです。私たちの世界には耶悪なものは存在しません。もちろん死後の世界でもずっと低い界層へ行けば、霊性があまりに貧弱で環境の美を増すようなものを何も持ち合わせない者の住む世界があります。が、そうした佗しい世界を例外として、こちらの世界には邪悪なものは存在しません。邪悪なものを生み出す原因となるものが取り除かれているからです。そして、各自が霊的発達と成長と進化にとって、適切かつ必要なことに心ゆくまで従事しております。
葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。もっともその意味が問題ですが・・・・・地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。その両者のどらちが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。私たちの世界へ来てからも葛藤はあります。それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精練と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表われであって、ほんの一時のことにすぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.180-182
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42-e (死後の世界でも罪を犯すことがあるか)
もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界では、それがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌にあらわれて、霊格が下がるのがわかります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、さきほど言ったように、利己主義の罪と呼ぶよりほかに良い表現が見当たりません。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.142
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42-f (神は悪の思念のなかにも宿っている)
神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは
″これとこれだけに存在します″というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる
″完全な生活″を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.198
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42-g (罪は告白すれば赦されるか)
それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているにすぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.202
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42-h (犯罪を考えただけの場合と実行した場合)
それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、まっ先に考慮すべきことは
”それは霊にとっていかなる影響をもつか” ということです。ですから、この際も”殺したいという考えを抱くにいたった動機ないしは魂胆は何か”
ということです。
さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいとは思っても手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでに至らない---言わば臆病なのです。心ではそう思っても実際の行為には至らないというタイプです。
そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。
しかしそれを精神的次元で捉らえた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為にいたらせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.121-122
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42-i (あなたは誰かを憎むことはあるか)
私は誰も憎みません。憎むことができないのです。なぜなら私は神の子のすべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいはほんのわずかしか発揮できずにいる人をみて、いつも気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲等が生み出すものに対して怒りを覚えます。それにともなって、さまざまな思い---あまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないというところまでは進化しておりません。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.123
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42-j (残虐行為に対する報復をどう考えるか)
心配なさるには及びません。神の摂理は完全です。一人ひとりが過不足のない賞罰を受けます。無限の叡智をもってこの全大宇宙を計画し不変の法則によって支配している神は、そこに生活している者のすべてのために摂理を用意しており、誰一人としてその働きから逃れることはできません。懲罰と報復とを混同してはいけません。
私たちは同じ問題をあなた方とは別の視野で眺めております。復讐心と憎しみによって世の中を良くすることはできません。その邪心が判断力を曇らせ、決断を下すにも計画するにも不適格な状態になってしまいます。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.70-71
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42-k (殺人犯を処刑しても問題の解決にはならない)
それは憎むことを教えることになるでしょう。憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物ごとを判断してはなりません。これまで何度もくり返されてきたことです。殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません。地上へ戻ってきて他の人間を殺人行為へそそのかします。
では一体どうすれば問題の解決になるのかということになりますが、処罰を矯正的な目的をもったものにすればいいのです。社会の一員としてふさわしい人間になってくれるように、言いかえれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人のためになるのです。それが
”人のため” の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.73
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42-l(残虐行為や邪悪に対して寛大である必要はあるのか)
寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません。・・・・・それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は
“死”と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。その意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 125-126
*****
42-m (敵のことをせめて悪く思わないだけでも進歩とはいえないか)
おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと寛容の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。ですから、皆さんには可能なかぎりの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.193
*****
42-n [19-e](悪人のエネルギーは成長と改善のためにも使用できる)
私は悪″とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴ら″と思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。自分から悪人になってやろう″利己主義者になってやろう″と思って悪人や利己主義者になる人はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、したがって物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方角を間違えたにすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 95-96
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42-o [13-zk] (悪とは何かということを見きわめておく必要がある)
悪″とは何かということを見きわめておく必要があります。地上生活の究極の目的は死″と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次の生活舞台にそなえて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢″です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。其の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 96
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42-p [19-f] (人間が作った教義を無視しても必ずしも罪にはならない)
霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。もしもその夫婦が霊的に傷つけ合えば罪になることもあります。問題は視点をどこに置くかによって違ってきます。つねに霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 97
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42-q [20-h] (故意に悪いことをするより無知から犯す間違いの方が多い)
故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば悪人″といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 97
*****
42-r (罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つける)
罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知・かんしゃく・せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。あとになってしまった″と思うようなことを考え、口に出し、行っているものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 97
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42-s (最大の罪は他人を身体的のみならず霊的に傷つけること)
最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へはつねに善意で接し、いつでも援助の手が差しのべられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、せっかくのチャンスをみずから拒絶したその人を気の毒に思ってあげなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 98
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42-t[10-t](霊的知識を持ちながらそれを日常生活に生かしていない人の罪)
霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理にのっとった生き方ができない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 99
42-u[10-u] (霊的真理を知っている人でも利己的になることがある)
霊的実在に目覚めた人ならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 99
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42-v [26-g] (霊的原理は倫理・道徳とは一体不離の関係にある)
地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 100
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42-w [13-zo](地上の悪は不完全な段階で神を表現している不完全さである)
私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で悪″と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している不完全さ″を意味するに過ぎません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 111
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42-x (罪とはその行為者の霊性を下げ同時に他人を傷つける行為)
すべては罪″とは何かという定義にかかわる問題です。私にいわせれば、罪とはその行為者とそれを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人のためになる行為の反対と思えばよろしい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 100
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42-y[13-zp](愛と憎しみは表裏一体で同じエネルギーの表現である)
神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 112

43. 偶然・必然
43-a (あなたも偶然に生まれてきたのではない)
世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても---天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規則ないし法則を用意したのです。その背景としての叡智においても機構においても完璧です。その法則は霊的なものです。すべての生命は霊だからです。生命が維持されるのはその本質が物質でなく霊だからです。霊は生命であり生命は霊です。生命が意識をもった形態をとる時、そこには個としての霊が存在します。そこが下等動物と異なるところです。人間は個別化された霊、つまり大霊の一部なのです。
人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡智と知識と理解カと真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。
人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。しかし決断は自分で下さなければなりません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に叶った生き方をしている人、黄金律を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.161-162
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43-b [58-c] (偶然の出来事は一つもない)
皆さんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは自然法則の一部にすぎません。宇宙の大霊すなわち神は宇宙を法則によって経綸し法則に則って顕現していくように定めたのです。その法則が宇宙の全活動を統御しております。宇宙のいずこにもーー人間の知り得た範囲に留まらず人間の能力をはるかに超えた範囲においてもーー法則の行き届かないところはありません。
その法則の中に神の意志が託されているのです。およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。
科学者の手によって物質界の原理の多くが発見されました。が、その探求の手はまだまだ霊的な分野にまでは及んでおりません。人生を物的尺度でもって判断し理解し考察しようとするのは愚かです。小さな一部分にのみ関心を集中し、肝心な大きなものを見落しているからです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.172-173
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43-c [17-q] (同じ病気でもなぜ治る人と治らない人がいるのか)
そもそも心霊治療家のところへ足を運ぶということ自体、偶然のことと思われますか。偶然ではありません。偶然というものはあなたの世界にも私の世界にも存在しないのです。断言します---神の摂理は完璧です。いずれあなたもその働きを理解し、その完璧な摂理をこしらえた完全なる愛の存在を知って、私と同じように、まるで鉄槌を食らわされたような思いをなさる日が来るでしょう。
私たちはすべて---私も同じなのです---暗闇の中で手探りで進みながら時おり光明の閃きを見つけ、摂理への洞察力を手にします。そこで感嘆します。しかし暗闇の中にいるかぎり摂理の全貌が見えませんから、私たちはそれをとかく偶然のせいにし、運よくそうなったのだと考えます。しかし、断言しますが、偶然というものは存在しません。
そう言うと皆さんはきっと
"では自由意志の問題はどうなるのか"
と聞かれるでしょう。確かに人間には自由意志が与えられております。が、その自由意志の範囲は魂の進化の程度によって規制されると申し上げたはずです。自由は自由です。が、その自由にも程度があるということです。自由は自由です。が、それも宇宙の法則、すべてを経綸している法則の中における自由だということです。宇宙最大の組織であろうと極小の生命体であろうと、その法則から逃れることはできません。何ものも神の摂理から逃れることはできません。完璧なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.136-137
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43-d (宇宙には偶然の巡り合わせや偶然の一致はない)
一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。
あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。
全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困雄、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。
人生は全て比較対照の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。
『シルバー・バーチの霊訓 (1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.70-72
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43-e (いわゆる“偶発事故”による死はあるのか)
ひじょうに難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけの分からない盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。
ただ、その法則の範囲内での自由意志というものが許されております。が、その自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。したがって偶発事故の起きる余地はありません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるのです。ぜひ知っていただきたいのは、法則の中にも法則があり、その裏側にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。
よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 212-213
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43-f [50-j] (偶発のように思えることも因果律の働きの結果である)
― 偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。
偶発事故という用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大へん複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p.53
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43-g (法則によって規制されている宇宙では偶然はない)
幸運(つき)というようなものは存在しません。法則の働きがあるのみです。たまたまそうなったというようなことは一つもありません。法則によって規制されている宇宙においては、すべての出来事は原因と結果の関係で生じているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.58-59

44. 神
44-a [4-i] (シルバー・バーチの祈り)
神よ、あなたは一体どなたにおわし、いかなるお方におわすのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
私たちは自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間に目を向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心をもつ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて--- 物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
あなたの子等のすべてがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すペての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。
ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インデイアンの祈りを---無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして---捧げ奉ります。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.184-186
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44-b (神は完全無欠か)
あなたのおっしゃる神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この復難を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。
物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解できない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っているかぎりは、その五感がまわりの出来ごとを認識する範囲を決定づけます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。五感に束縛されているかぎりは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、さまざまな発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然カの作用と反作用の現われです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.191-192
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44-c (子供に神のことをどう教えるか)
説く人みずからが全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの美事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目約をもち、法則によって支配されていることを指摘いたします。そして更に人間がこれまで自然界で発見したものはすべて法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行き亘っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が---いかに現象が複雑をきわめていても---その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。
そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇び(くしび)なカ、それを神と呼ぶのだと結びます。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.196-197
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44-d (神とは法則である)
人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。
神がすべてを知り尽くしているのも法則であればこそです。法則だからこそ何一つ見落されることがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にその存在場所を得ているのです。人生のありとあらゆる側面が----いかに些細なことでも、いかに大きな問題でも----けっして見逃されることがありません。すべてが法則によって経綸されているからです。法則なくしては何ものも存在し得ません。法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を引き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し機能しております。私は神学はこれまで人類にとって大きな呪いになっていたと信じます。しかしその呪われた時代は事実上過ぎ去りました。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.26-27
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44-e (神とはなにか)
神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。
神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれれがどうして主人を知ることを得ましょうか。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさをもつ存在が描写できましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.140-141
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44-f (雀1羽が落ちても神が知るというのは可能か)
神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。雀が神であるということは神が雀を知っているということです。神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.141
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44-g (神が愛にも憎しみにも宿るのは矛盾ではないのか)
完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。
生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力すことであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯にすぎません。終りではありません。あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているにすぎません。それはあなただけに当てはまる考えです。あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。とにかく神は全存在に宿っております。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.142
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44-h (神も進化していくのか)
そうではありません。神は法則でありその法則は完璧です。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しているということです。地震もかみなりも進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。
日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。
それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。
しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。
霊は物質に優ります。霊が王様で物質は召使いです。霊がすべてに君臨しております。全生命のエッセンスです。つまり霊は生命であり、生命は霊なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.143-144
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44-i (神は自ら創造した宇宙とは別に存在するのか)
いえ、宇宙は神の反映です。神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。蠅に世の中のことが分かるでしょうか。魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。星が虚空を理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。
しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.145
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44-j (神が戦争の勝利のために味方することはあるか)
宇宙の大霊である神はいかなることにも干渉いたしません。法則、大自然の摂理というものが存在し、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを止めたり干渉したりする必要性が生じるような事態はかつて一度たりとも起きていませんし、これからも絶対に起きません。
世の中の出来ごとは自然の摂理によって支配されており、神によるいかなる干渉も必要ありません。もし干渉がありうることになったら神が神でなくなります。完全でなくなり、混乱が生じます。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.79
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44-k (神の愛が憎しみの中にもあることが理解できない)
それはいまだに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。
神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。これは私がくり返し説いていることです。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は憎しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。人生は常に比較対照の中で営まれています。
たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有り難さは分からないでしょう。時には曇りの日があるから太陽の有り難さが分かるのです。人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味が分かるのです。病気になってみてはじめて健康の有り難さが分かるのです。病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.150-151
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44-l (私たちは憎むということも学ぶべきか)
私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。
自分から ″悪人になってやろう〃 ″利己主義者になってやろう″と思って悪人や利己主義者になる人間はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。
神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限、全智、全能、不可変、不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。
神を、右手にナザレのイエスを従えて玉座に坐している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければなりません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体----雄大な千変万化の諸相の一つひとつに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.152-153
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44-m [58-k] (神とは法則であることを理解する重要性)
人間的存在としての神は人間がこしらえた観念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。
だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも、すべてが法則のワク内に収められているからです。すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意志が混乱を引きおこし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終りました。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.155-156
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44-n (神についてのこれまでの説明で納得できるものがない)
その通りなのです。忘れてならないのは、人間はつねに成長しており、精神の地平線が絶え間なく広がっているということです。言いかえれば、境界線が取り除かれていきつつあるということです。知識が進歩すれば宇宙そのものと、その宇宙に存在するものについて、より大きな理解力がもたらされます。
太古においては人間は環境についてほとんど知識がなく、自然現象についてはまったく理解していなかったために、何もかも神さまの仕業にしておりました。その神さまについても人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。そこに生贄の思想の原点があります。雷が鳴り稲光がすると神さまが怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるためにいろんなお供えをするようになったのです。
そうした野蛮な小さい考えも次第に大きく成長し、人間は無知の暗闇から脱し、迷信の霧を突き抜け、知識の夜明けを迎えて、宇宙の根源はどうやら人間の想像を超えたものらしいということに気づきはじめました。しかし、だからといって古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。何かすごく大きな人間の男性のような姿をした神さまが宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今もなお存在しています。
さて私たちはさらに一歩進めて、宇宙を創造しそして支配しているものは、男性神でもなく、女性神でもなく、とにかく形ある存在ではないと説いているのです。人間的な存在ではないのです。宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適用性においても無限なのです。それは無限の愛と叡智から生まれたものであり、したがって完壁であり、過ったり失敗したりすることが絶対にないのです。
私は生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、初めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じこめてしまうことはできません。物質というのは霊のいたってお粗末な表現でしかありません。物質界に生きる人間は視覚と聴覚と触覚と嗅覚と味覚の五つの感覚でしか物事を判断することができませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することはまず無理なのです。
そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向う側にあるものが理解できるわけがありません。そこで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるためにその完全さを理解することができないということです。人間が個体性を具えた限りある存在である以上、個体性のない無限の存在を理解することはできないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の手助けになればと思って申し上げてみました。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.142-144
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44-o (神の御国はあなた方の中にある)
イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17:21)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中に居るのです。ということは自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿しているということです。それを引き出して使用することが、この世に生まれてきたそもそもの目的なのです。
私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊カに不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる愛の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。もしも地上人類が、その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることができれば、地上生活は一変することでしょう。その力はいくらでも授かることができます。神がわが子に施す恩寵ほど気前のよいものはありません。
ですから、決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安の念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取り越し苦労は蹴ちらしなさい。そんな憂うつな有難からぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.191-192.
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44-p (神の懐のなかに生きる)
私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来ごとは宇宙のいずこにも決して起きません。
宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙問の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新らしい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。
私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれているこもを忘れぬようにしましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
1988、p.36
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44-q [11-b] (大霊である神を全能で慈悲ある存在とする形容について)
なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡智と慈悲ぶかき目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。
このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。
いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識をもったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。
私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな人間神″的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在できるのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。
神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面はきわめて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、または霊的身体---どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい---で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.176-187
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44-r [11-c] (大霊は宇宙の霊的意識の集合体と考えてよいか)
結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理---大自然の法則---は、自動的に宇宙問のすべての存在を包含するからです。たった一つの動き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。宇宙は慢然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった一つの調和体なのです。
それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。
その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.189-190
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44-s (宇宙を見ればある程度まで神の概念を掴むことが出来る)
=「神とは何でしょうか」という質問に対して=
神の概念を完全にお伝えすることは不可能です。神は無限です。一方、言語や概念、心象といったものはどうしても限界があります。小なるものが大なるものを包みこむことは出来ません。が、宇宙をご覧になれば、ある程度まで神についての概念をつかむことが出来ます。
この大宇宙は法則によって規制されているのです。千変万化の諸相を見せていながら、その一つ一つに必ず配剤がなされているのです。見えないほど小さいものであっても、途方もなく巨大なものであっても、動き、呼吸し、存在しているものはすべて自然法則によって支配されているのです。何一つとして法則のワクからはみ出るものはありません。四季は順序よく巡り、地球は地軸上を回転し、汐は満ちては返します。種子を蒔けばその中にあったものが芽を出すのです。自然は正直なのです。
法則は絶対です。新しい発見も、それが何であれ、どこであれ、やはり同じ自然法則のもとで統制されているのです。何一つ忘れられることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることはありません。
何の力でそうなっているのか。それは限りある存在ではありません。尊大にかまえた人間的存在ではありません。旧約聖書に出てくるエホバ神でもありません。復讐心に燃え、機嫌を損ねると人間に災いをもたらすような神ではありません。気まぐれで、いつ腹を立てるか分からないような神ではありません。
歴史と進化のあとをご覧になれば、地球が徐々に前に向かって、あるいは上に向かって進んでいることが分かります。ということは、その背後の力は善の力だということを示しているわけです。すべてを支配し、すべてを統制し、すべてを指揮し、すべての中に存在する、その無限の愛と叡智の権化としての神の概念を、あなたがたも少しずつ理解してまいります。それを私は“大霊”と呼んでいるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.129-131
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44-t (神性の発現に伴って潜在的資質が発達し個性が強まる)
質問: もう一つよく持ち出される問題に、人間の神への回帰思想があります。最後は神の霊の中に没入して個性を失ってしまうというのですが……
究極はニルバーナ(涅槃)の達成ではありません。霊的進化はひとえにインディビジュアリティの限りない開発です。個性を失っていくのではありません。反対に増していくのです。神性の発現に伴って潜在的資質が発達し、知識が増え、性格が強化されていきます。
神は無限なのです。したがって無限の発達の可能性があります。完全というものは絶対に達成されません。絶え間なく完全へ向けて進化して行きます。その結果として自我を失ってしまうことはありません。ますます自我を見出していくのです。
質問: それはどういうものであるか、言葉で説明できないものでしょうか。
いいえ、説明できません。なぜならばそれは言語を超越した次元のことだからです。意識と悟りの状態です。その状態に達してみないと理解できないものです。巨大な意識の海にインディビジュアリティが埋没してしまうのではありません。反対にその意識の海の深奥があなたのインディビジュアリティの中に吸収されてしまうのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.131-132
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44-u[10-h] (生きがいある人生を送るには=1= 神を知る)
われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人のために役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。
それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。
人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩と近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。
目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。
大霊と離れて何ものも存在しません。大霊がすべてなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。
無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。
小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。
その絆を断ち切ることのできる力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。
生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形がほかならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結びつけ、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。
皆さんより永い経験をもつ私たち霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の美事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。
また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにもかかわらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 26-28
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44-v (神というのは人格を具えた存在なのか)
― (その聖公会の牧師には夫人のほかにもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる)私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。“大霊とは法則です”と述べておられるのですが、別のところでは“未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです”とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。
分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。
大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で“それ”と呼んだら、男性名詞で“彼”と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。
物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。
生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、したがって完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるよう働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。
あなたは“人間性”を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。
摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植えつけられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。
― すべてが神のふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。
結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 88-91
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44-w (大霊が霊を経ないで人間に直接語りかけたことはあるのか)
― 私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人類の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。
大霊は個的存在ではありません。大霊は個人が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。
それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることができます。
又、病の人を癒やし、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 94-95
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44-x (私たちから大霊に直接語りかけることはできるのか)
― 私たちから大霊に直接語りかけることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、それは私たち自身に内在する神性のことでしょうか。
あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。
しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 95-96
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44-y (神とは大自然の法則よりもっと大きい存在である)
―(招待された科学者が語る)科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが“大霊”と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。いかがでしょうか。
まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。ゴッド、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。
限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後のその壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。
今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。
残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。あなた方が存在するような人物的存在ではありません。
神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。
ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。
神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということがありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。
私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 106-109
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44-z (神は人間を霊的にご自分に似せて創造された)
―(もう一人のゲスト)神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。
それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内臓しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。
別に難しい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。
地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。
神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。
地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。いつどこにいても人のためを心掛けるのです。力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内してこられるのです。
神は、愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 109-110
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44-za [13-s] (魂が目覚めるには霊的な絶望の淵を体験する必要がある)
― 神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。
それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。
同時に又、地上に救いの手を差しのべるべき時機が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度にすぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 110-111
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44-zb (すべての生命に息吹きを与えてきた神の無限の愛)
この大宇宙を開闢(かいびゃく)させた力、物的身体に生命の息吹きを与えた神、全天体、全法則の統治者である大霊、千変万化の生命活動となって顕現している霊、人類の全歴史を通じて各時代ごとにさまざまな予言者や霊媒を通して真理を啓示してきた父なる神、すべての生命に宿り、すべての生命の背後に存在する大エネルギー、それほどの偉大な存在が、牧師が数滴の水を新生児に垂らしたからといって喜び、垂らしていないからといって困った思いをなさることはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.61
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44-zc(神とは宇宙の自然法則である)
神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 108
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44-zd(神は全生命、全存在、全法則に宿っている)
神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれわれがどうして主人を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 108
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44-ze(全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にある)
あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 108
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44-zf[75-g](物質の世界は完全からはほど遠い存在である)
神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻―こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化して行くものだからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 109
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44-zg (地球上の天然現象のすべては神の法則によって営まれている)
日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 109
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44-zh[13-zl] (人間も魂を開発して神と直接の交わりをもつことができる)
宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなたがた人間が理解できないのは当然です。しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 110
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44-zi (神は愛を通してのみでなく憎しみを通しても働く)
神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 112
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44-zj (人生の明るい側面だけに神が宿っているのではない)
善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 112-113
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