61. 真理・霊的真理
61-a (霊的真理を知ることの重要性)
=第二次世界大戦の最中におけるメッセージ=
何もかもが危険にさらされているこうした時期こそ霊的真理を教えてあげる必要があります。信仰という信仰がことごとく片隅に追いやられ、すべてが混乱の渦中にある今こそ、こうした単純な霊的真理を説くことによって自分を役立てることができるのです。その真理だけは不変です。なぜならば不変の自然法則の働きを土台としているからです。あなた方は大規模な混乱と破滅を目のあたりにされています。他の国ではさらに大規模な、そして見るも無惨な光景が繰りかえされています。混乱と残酷、裏切りと暴虐が大手を振ってのし歩いております。まさに野獣のごとき暴力が我が物顔に振る舞っております。あたかも自由の灯が完全に消され、全てが闇と化したかの如く思われる国が数多く見られます。
こうした時こそ、われわれ霊的法則の働きを知った者が、霊的真理こそが人間にかつて想像もしなかった高い視野を与えてくれること、心の中に消そうにも消せない炎が灯してくれること、最後は霊的光明が勝ち、自由を我が物とすることができることを説いて聞かせるべき時です。それは宝の本来の資産なのです。いかに粉砕しても絶対に存在を失わない究極的な存在である
"霊″が所有していなければならないものです。霊性が怖じけづき、縮こまることはありましょう、が、決して征服されてしまうことはありません。霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理は、地上にいるあなた方も霊的存在であるということです。物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大宝、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものは自然法則の働きの一部ですが、これが人間にも霊が宿っていることを証明しました。その証拠は、視野を曇らされず理性に従い何の捉われもなく自由な思考をめぐらすことの出来る人には、人間が本来霊的存在であることが議論の余地のない事実であることを雄弁に物語っております。そしてその基本原則から次々と重大な意味が湧き出てきます。その一つ一つがそれを受け入れる用意のできた人々に、こうしてはいられない、何とかしなくては、というせっばつまった衝動を覚えさせます。
いったん人間が霊であることを悟ると、この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊ーーいずれは当たり前の生活の場となる霊界でのより素晴らしい生活に備えるために生まれてきた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。すなわち霊媒を通じて与える死後存続という素朴な真理から始まって、そこから生活を一変させる数知れない重大な意味を発見していることです。そして、こうして人類がその宿命の成就のために闘っている時、言いかえれば霊的教説がその真価を問われている時、その背後では、かつて地上で革命家、殉教者、指導者と呼ばれ、今なお新たな力を携えて霊界で研さんを重ねている見えざる大軍が、その持てる力を総結集して援護に当たっている事実を知らねばなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.28-30
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61-b (死の意味と真実の知識を求める人たち)
英国中、いや世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。その祈りーー声に出しての祈りも声なき祈りもーーただならぬ窮地で指針を求める魂の叫びが私どものところまで響いてまいります。そういう人たちこそわれわれが手を差しのべてあげなければなりません。道に迷っている人々です。その多くは自分が悪いのではありません。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて
"死″の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、"処女懐胎″だの"エデンの園″だの"使徒信条″だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。
彼らは素直にこう考えます。もしもこの世に救いになるものがあるとすれば、それは今の自分、苦しみの渦中にある自分たちをこそ救えるものであるべきだ、と。そこで私たちはあらゆる不利な条件、あらゆる障害をいとわず、そうした絶望の底に喘ぐ人々を慰めようと必死になるのです。これまでも幾度か申し上げてきたことですが、皆さんはこうしたささやかなサークルが僅かの間ここに集まって私たちのために力を貸してくださるそのことが、どれはど大きな意味があるのか、そしてそのおかげでどれほど遠く広く真理を広めることができているかをご存知ないようです。私どもが述べる僅かな真理の言葉ーー僅かとはいえ永遠の実在を土台とした不易の叡智なのですがーーそれが受け入れる用意のできた人々の心、霊的に成熟した魂に根づいていく。これは実に偉大な仕事というべきです。その真理を語るわれわれが成るほどと神の使徒であることを証明するには、ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、ただただ、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.36-38
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61-c (正真正銘の真理は変更されることがない)
スピリチュアリズムを非難する教会も今やその真理がはじめて地上へ啓示された時にみずから説いていた教説を説いてはいません。科学もほぼ百年前に説いていた学説を今は説いていません。我がもの顔だった唯物主義者さえ譲歩し、視点を変え、思いも寄らなかった新たな要素を考慮せざるを得なくなっております。それに引きかえ、私たちがこれまで説いてきたものを髪の毛一本ほどでも改めたり逸脱したりしたことがあるでしょうか。どこか私の霊訓で以前と違うところを指摘できるでしょうか。地上の事情が変ったために修正しなければならなくなった箇所が一つでもあるでしょうか。物質界での新しい発見が為されたために、それまで私どもが絶対ですと断言してきた基本的真理を改正せざるを得なくなったところがあるでしょうか。
あるわけがありません。自然法則を取り消したり変更したりしなければならなくなることは決してありません。生命活動に付随する環境条件のすべての可能性を認識しているからです。"生″の現象にも、あなた方のいう"死″の現象にも、自然法則やその働きを改めなければならないものは絶対に生じません。私どもが説く真理に死はありません。正真正銘の真理だからです。霊的実在こそ真の実在です。だからこそ存在し続けるのです。永遠に残る叡智の宝石です。受け入れる用意のある者を導く永遠の真実です。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.39-40
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61-d (永遠に変わらない霊的真理)
私どもは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体系には関心はありません。大切なのは地上生活のように錯覚によって惑わされることのない霊の世界からの真理です。なぜか。それは、あまりに多くの落伍者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方、一見立派そうな人間が霊的事実について誤った概念と偏見と無知のために、死後に直面する生活に何一つ備えができていないというケースが又あまりに多すぎる現実を見て、私どもは、いずれは永続的な実在の世界となる死後の生活に備えるための単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私たちの手間も大いに省けるだろうと考えたのです。そこであらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図された通りに生きられるように、不変の霊的真理を授けようと努力しているわけです。
他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難・中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそ永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理です。けっして知性を欺きません。単純・明快で、誰にでも理解できます。聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。これには法王も大主教も司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私どもはこれを捏ねまわして神学体系を作ろうなどとも思いません。ただこうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すベての人間が身体的にそして霊的に自由を享受し、二度と束縛の中で生きていくことは無くなるでしょう。無知の暗黒が消滅し、代って真理の光がふんだんに注がれることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.66-68
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61-e (人間のすべてが知っておくべきこと)
(単純な霊的真理だけを説いている理由は) 難解な問題を回避したいからではありません。私は今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らない大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈を捏ねまわすのは賢明とは思えません。今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理ーー墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみにまで神の愛の温もりをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる掛けがえのない財産なのです。そうした基本的な真理さえ知らない人間が何百万、何千万、いや何億といる以上、われわれはまず第一にその人たちのことから考えようではありませんか。それがわれわれにとって最も大切な義務だと思うのです。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.68
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61-f (物的なものはいずれ朽ち果てる)
私にできることは永遠・不変の宇宙の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰一人として完全に究めることも説明することもできない永遠の摂理があります。それは構想においても適用性においても無限です。人間のすべてが、日々決断を迫られる問題に直面した時に、自分が霊的存在であること、大切なのは物的なもの----それはそれなりに存在意義はあっても----ではなくて、それがあなたの本性、永遠の霊的本性に与える霊的な意義であることを自覚することができるようになれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。
物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。
私の目には、あれこれと”大事なこと″があって毎日あっちへ走りこっちへ走りして、忙しく暮しながらその実 “いちばん大事なこと″を見落し、なおざりにしているために、心が絶望的でヤケになっている大ぜいの人々の姿が見えます。このあたりに私どもが説く教えの核心があるのですが、お判りになりますか。その人たちが日々の生活の中に生きるよろこび---神の子として当然味わうべき充足感を見出してくれるようにと願って霊界から舞い戻ってくるそもそもの目的がそこにあることが判っていただけるでしょうか。
それはいわゆる宗教、教会、信条、教義といったものより大切です。人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱の原因となってきた、その類のもののいずれにもまして大切です。が、それは自分という存在についての(霊的存在であるという)いたって単純な事実にすぎないのです。なのに、それを悟っているのはごく僅かな人たちだけで、大多数の人は知らずにおります。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.94-96
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61-g (流血の手段で問題が解決したためしはない)
私たちが説いていることは曽て人類の進歩のために地上へ降りた各時代の革命家、聖者、霊格者、理想主義者たちの説いたことと少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境と闘争を克服することができたのでした。彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲ったのでした。
彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力がふたたび地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしてもその激流をせき止めることはできません。
人間は問題が生じるとすぐ流血の手段でカタをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、従って何の解決にもなりません。なぜ神から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ大ぜい殺すこと以外に、解決法が思いつかないのでしょう。なぜ一ばん多くの敵を殺した者が英雄となるのでしょう。地上というところは実に奇妙な世界です。
地上にはぜひ私たちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に霊的法則と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかが判るでしょう。
こうした仕事において私たちは、自分自身のことは何一つ求めていません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てばという、その願いがあるだけです。永いあいだ忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的なエネルギーを再発見してくれるようにと願っているだけです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.106-107
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61-h (人間は一人の例外もなく神の分霊)
私が残念に思うのは、本来霊的存在であるところの人間があまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちスビリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。
あなた方も一人の例外もなく神の分霊なのです。ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです---“私がすべての法則を用意し、あなた方一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい″と。
そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応できる人材を送り込まねばならないのです。地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。
しかし冷たい冬の風が吹きまくった後にはかならず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびは分かりません。が春はきっと訪れるのです。そして生命の太陽はゆっくりと天界を回って、いつかは生命の壮観がその極に達する時が参ります。
今、地上全体を不満の暗雲がおおっています。が、その暗雲を払いのけて夢を抱かせる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を速めるのも遅らせるのも、あなたがた神の子の自由意志の使い方ひとつに掛かっております。
一人の人間が他の一人を救おうと努力するとき、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終らせることはありません。誰かが先頭に立って藪を開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて新しい道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
高級神霊界の神が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでいる姿を時折見かけます。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚める日が来ることを祈りつつ眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。
私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大ぜいの同志とともに波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.112-114
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61-i (霊的にみれば俗世的な宝はガラクタも同然)
スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがえのない高価なものをお持ちになっている。自分が霊的に宇宙の大霊と直結していることを悟られた。神の分霊であるという事実を悟られた。その神から遣わされた使者の働きかけを受けとめる心掛けも会得された。
そうしたことに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれから先も永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切であるかがお判りになるはずです。
見かけの結果だけで物ごとを判断してはいけません。あなた方は “物” の目でしか見てないのです。”霊”の 目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。そしていつもこう思うのです---もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。
地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問してみることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人は一人もいません。
地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならないかぎり、いつになっても無くならないでしょう。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.116-118
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61-j (霊的真理普及は厳粛な仕事である)
ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。霊媒能力は神聖なるものです。いい加減な気持で携わってはならない仕事なのです。ところが不幸にして大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なるものと自覚せず、苦しむ者、弱き者、困窮せる者のために営利を度外視して我が身を犠牲にするというところまで行きません。
また、真理の啓示を受けた者----永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は頭初のあの純粋無垢の輝きを失いかけていないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。時の流れとともに煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己れの全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えていただきたいのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.84-85
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61-k (人類の霊的解放へ向かってのゴール)
真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人々を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持は強烈にして抑え難く、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、希求してきた地球上の無数の人々を、今、その思いが奮い立たせております。
こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消していきます。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中に.燦然と輝きわたることでしょう。
それは抑え難い霊的衝動の湧出によってもたらされます。今まさにそれが更生の大事業を推進しているのです。私がけっして失望しない理由はそこにあります。私の目に人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです。
『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.38-39
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61-l (あらゆる地上の問題は霊的真理を知らないことに帰着する)
あらゆる地上の問態を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです。すなわち人間は本来が霊的存在であり、神からの遺産を受け継いでいるが故に、生まれながらにして幾つかの権利を有しているということです。
その権利は、次の生活の場に備えるために、地上生活においてその属性を十分に発揮させるためのものです。その妨げとなるものはいかなるものでも排除する---それだけのことです。それをどう呼ばれようと構いません。私はラベルや党派には関心はありません。私が関心をもっているのは
“真理” だけです。
もしもあなたが私と同じ立場に立って、毎日のように発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者がぞくぞくと私たちの世界へやってくるのをご覧になれば、多分あなたも私と同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければという気持を抱かれるはずです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.64
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61-m (霊的真理を知ることによって霊界からの導きを受ける)
(スピリチュアリズムを知ったことによって生じる)一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にないということを知ったことです。いつどこにいても霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。最善をつくしているときには必ず霊界かちの導きの力が加わっていること、あなたのもっているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最善のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協力精神に満ちた霊の存在がまわりにいてくれているということです。このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる一ばん有難いことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.136
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61-n (霊的真理は人の一生を一変させる)
私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。それが肉体と共に成長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的成長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的成長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分という存在の拠って来る原因を知ります。これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。 霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p.97
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61-o (自己の霊性に目覚めよ)
現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしないかぎり覚醒は得られません。物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変りありません。酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.99-100
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61-p (真理とは無限の側面をもつダイヤモンド)
私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同じ様に有限だからです。われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面をもつダイヤモンドです。無限の反射光をもつ宝石です。その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊のもつ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には ”さあ、これが真理ですよ” と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.139-140
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61-q (真理はどのように受け容れられていくか)
真理は真理です。その本質は永遠に変わることはありませんが、そのバリエーション(質・程度・適用性などの変化・変異)は無限です。大衆に一度に理解してもらえるような真理を説くことはできません。一人ひとりが異なった進化の段階にあり、同じ真理に対して各人各様の反応を示すものだからです。
私はつねづね、神の計画は一度に大勢の人間を目覚めさせることにあるのではないことを説いてまいりました。そういうやり方では、永続性のある効果は期待できないからです。いっときの間は魔法をかけられたようにその気になっても、やがて必ず反動が生じ、群衆心理から覚めて個人としての意識がもどると、しばしば後悔の念とともに現実に目覚めるものです。
それではいけません。私たちの計画は個人を相手として、一人ひとりその霊的需要度に応じて真理を授けることにあります。大ていの場合、地上でもっとも縁の強かった人からのメッセージで確信を植えつけます。それによって確立された信念はいつまでも持続し、いかなる人生の嵐に遭っても、いかなる痛打を受けても挫けることはありません。
ですから、大ぜいの人を一度に目覚めさせる方法はないのです。少なくとも満足すべき結果を残させる方法はありません。
忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなけれければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質ができあがります。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.68-69
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61-r (死についての真理を知っているから得なのか)
ー交霊会に出席したある少年の質問に答えてー
答えは簡単なのですよ。知識はすべて得になるということです。ところが、残念なことに、そうとばかりも言えない事態が生じるのです。知識はたしかに喜びと幸せと落着きをもたらしてくれますが、こんどはそれをどう生かすかという責任ももたらすのです。知識は、無知から生じる愚かな心配を取り除いてくれます。知識は自分とは何かを自覚させ、これからどうすべきかを教えてくれます。そして、真理を知らずにいる人を見て気の毒だと思うようになります。真理を知らなかったために罪を犯す人はもちろんそれなりの償いをさせられますが、真理を知っていながら罪を犯す人は、もっと大きな償いをさせられます。より多くを知っているということが罪を大きくするのです。ポール君は真理を知っているだけ得です。しかし、これからどういう行いをするかが問題です。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.133-134
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61-s (霊性を発見するためになぜ目覚めなければならないのか)
― あなたは人類全体が霊においてつながっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。
表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体をたずさえた霊であって霊をたずさえた肉体ではないということです。物質が存在できるのは霊による賦活作用であるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。
改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ちうける次の段階の生活にふさわしい進化を遂げることです。
地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神からいただいた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 39-40
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61-t (霊的真理によって迷信を駆逐しなければならない)
― 同じ問題 (6-p) について別の交霊会で
皆さんとともにたずさわっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当の自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことができるはずなのです。それが、その迷信のためにほとんど不可能な状態になっているのです。
その仕事は、当然、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難はクスリなのです。私たち霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。
世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。
そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させるための挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。
もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 125-126
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61-u (魂に受け入れる用意ができるまでは真理は受け入れられない)
真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。
受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。
もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが“私には信じられません”と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。
その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 128-129
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61-v (霊的真理は拒絶されても少しも損なわれることはない)
― 私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、あとは(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。
そうです。あとは各自の判断にまかせることです。
― 拒絶されても構わずにおくということですね。
真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意ができていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 130
61-w [6-r] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =1=)
―(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多くを知るようにもって行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。
おっしゃることは本質的には結構なことですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど……
たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。
あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかも知れません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。
そういうタイプの人には霊的実在の動かしがたい証拠、たとえは“不治”の宣言を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるをえないでしょう。
もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏面の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 142-144
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61-x [6-s] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =2=)
―言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、あるー定水準に達した者に何かを与えるようになっている― 他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。
無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ征服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。
人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。別の論拠を持ち出してそれを論ばくする人がいるかも知れません。そういう人には五感に訴えるもの―
何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません。(奇跡的な病気治療など―訳者)
しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 144-145
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61-y (大霊を始源としているがゆえに広がっていく真理)
私たちが行っている仕事が今後もますます要請されてまいります。地上世界は流血と悲劇と苦悩にあふれております。無明ゆえに神の摂理にそった生き方をせずに、暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。そこで私たちは希望と光明と安らぎと調和へ導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無明ゆえに軽蔑しようとします。お届けするメッセージを拒絶します。霊力の働きかけを否定します。しかしそうした態度にはお構いなく真理は地上へ広がっていくことは間違いありません。大霊を始源としているからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 22-23
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61-z (人間は肉体をたずさえた霊であり、霊を宿した肉体ではない)
全生命の基盤となっている永遠の実在に関する知識を広めることは、もとより私たちの仕事の一環です。生命は霊であり霊は生命だからです。しかし同時に人間は肉体をたずさえた”霊”であり、霊を宿した”肉体”ではないということ、肉体はその所有者が自我を発揮するための仮の宿にすぎないという事実を、受け入れる用意のできた人たちに教えてあげることも大切な仕事です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 25
61-za[18-zk] (魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じない)
魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難をきわめるものであっても、魂をいっそう成長させるための手段と心得てください。現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場かぎりの捉え方ではなく、永遠の価値をもつ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 74
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61-zb [56-o] (霊的真理を手にすれば普及と実践が伴わなければならない)
霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 99
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61-zc (真理というのは一見すると矛盾に思えることがある)
真理というのは至って単純なのですが、一見すると矛盾しているかに思えることがあります。闇があるから光の存在が分かり、悲しみがあるから喜びが味わえるのです。危機にさらされるから平穏無事の有難さが分かるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 144

62. 義務・使命・責任
62-a (魂を目覚めさせ自分自身の修養を始める)
私たちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは惰眠をむさぼっている魂に目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養を始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑えることです。神は決してお急ぎになりません。宇宙は決して消滅してしまうことはありません。法則も決して変わることはありません。じつくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあることの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.91
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62-b (私たちは愛と叡智によって導かれている)
われわれは見せかけは独立した存在ですが、霊的には一大統一体を構成する部分的存在です。そうして、どこにいても、まわりには物的束縛から解放された先輩霊の一大軍勢が待機し、地上へ働きかけるための手段(受容性に富む人間)を求めて常時見張りを続けており、過去の過ちを繰り返させぬために、そして平凡な日常生活から人間が叡智を学び地上生活が実のあるものになってくれるように霊的知識を少しでも多く授けたいと願っている、そうした事実を認識して、これからの仕事に臨もうではありませんか。われわれは愛と叡智によって導かれ、知識とインスピレーションによって支えられている、偉大にして遠大な目的のための道具であることを片時も忘れぬようにいたしましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.46-47
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62-c (言うことを聞かないと自認する人に各個の責任を説く)
言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。スピリチュアリズムには七つの綱領≠ニいうのがあります。その一つに各個の責任″というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 56-57
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62-d (自己責任を自分の問題として真剣に自覚していく)
(そのように)ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。
このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い時に、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。
いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。動機さえ正しければ絶対に(霊的に)間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。
あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 57-59
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62-e (間違った教えを説いた人の償い)
いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、こんどはその組織がその人間をがんじがらめに束縛しはじめます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説をくり返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。
私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一心に説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを捨てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、行っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して
"これ以外に民を導く方法は無いではないか。説くべき教えが他に無いではないか"
と開き直っている人たちです。
しかし、たとえそうとは知らずに間違った教えを説いた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとはいえません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.43-44
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62-f (人に法を説く者には重大な責任がある)
永遠・不変の公正はけっしてごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧にいれたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。
人に法を説く者が重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。私はたびたび言っております---あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。 一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無とん着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.45-46
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62-g [10-i] (生きがいある人生を送るには=2= 人に尽くす使命)
大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることがないように配慮してあるのです。
さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。
その上われわれみずからが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する者を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。
われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがえのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちのために活用することができます。要するに、この荘厳な霊力の流れる通路としていっそう磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 28-29
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62-h (霊的指導者として人びとの救済のために献身する責任)
―(霊的指導者として人生相談にものっている人が述べる)自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信をもって霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。
あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身のまわりに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。
私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せつけてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人たちを裏切ったことは一度もありません。
くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思い込んだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。
自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳もふさがれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。
幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さ自覚して、われわれを頼ってくる人々をよろこんで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。
(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが“見ずして信じることのできる者は幸いである”―
現代人にも通じる名言というべきであろう ― 訳者)
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 46-48
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62-i [79-o] (知識にはそれをどう生かすかという責任が伴う)
知識には責任が伴うというのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、こんどはそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。そこにあなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86
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62-j (真理を知った者はそれだけ余分のものが要求される)
あなたがもし霊的真理についての知識を手にしながらそれに適った生き方をすることができなければ、それ相応の代償を払わねばなりません。“知らなかった”という言い訳は許されないからです。知識は自動的に責任をもたらします。真理を知った者はそれだけ余分のものを要求されます。それは言い変えれば、その人への大切な信頼にほかなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86

63. 霊と霊力
63-a (霊こそ実在ですべての根源)
残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。いわば一種の退廃的雰囲気の中で生きておりますーーそれが
"生きる" と言えるならばの話ですが。霊の光の啓示を受けた人は幸いです。私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。
自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変りありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.120-121
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63-b (霊的知識の普及がなぜ必要か)
いかなる反抗勢力、いかなる敵対行為、いかなる中傷、いかなる迫害をもってしても、悲しみに満ちた人々の魂の琴線に触れ、病める身体を治し、迷える人々に光明を見出す道を教え、人生に疲れた人々を元気づけることのできる献身的な通路があるかぎり、その仕事が挫折することは決してありません。
本来なら、こうしたことはとうの昔に教会という権威を担った人々によって成就されていなければならないところです。それが現実には成就されていません。というよりは、その肝心なものが置き去りにされているのです。そして今や霊的にも物的にも、その担い手は教会とは何の縁もない普通一般の人たちとなっております。もし教会関係の人々が自分たちの本来の存在意義を自覚すれば、もし自分たちの本質がその神性にあることを理解すれば、そしてもし自分の身のまわりに存在する莫大な知識の宝庫、霊力、エネルギーを自覚すれば、それを活用して新しい世界をわけなく建設することができるところなのですが・・・・・
しかも、それは是が非でも成就していただかねばならないのです。なぜならば私たち霊界の実情を言わせていただけば、毎日毎日ひきも切らず地上から送り込まれてくる不適応者、落伍者、放蕩者、社会のクズともいうべき人たちーー要するに何の備えもない、何の用意もない、何の予備知識も持たなくて一から教えなければならない人間の群れには、もううんざりしているのです。本当はこちらへ来てすぐからでも次の仕事に取り掛かれるよう、地上での準備をしておくべきなのですが、現実にはまるで生キズの絶えない子供を扱うように看護し、手当てをしてやらねばならない者ばかりなのです。
そういう次第で、あらゆる形での霊的知識の普及がぜひとも必要です。人類が霊的事実を理解してくれないと困るのです。真理に導かれる者は決してしくじることはありません。真理は理解力をもたらし、理解力は平和と愛をもたらし、心に愛を秘めた者には解決できない問題は何一つありません。人類の指導者が直面するいかなる難題も、霊的真理と霊的叡智と霊的愛があればきっと消滅していくものです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..88-90
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63-c (霊とはなにか)
実を言えば霊こそ生命であり、また生命こそ霊なのです。地上界、霊界、宇宙のあらゆる世界におけるエネルギー、原動力、駆動カはその
"霊"なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。
皆さんが地上生活を営めるのは霊的存在だからです。もし肉体から霊的本質が撤退してしまったら、物質界はまったく感識できなくなります。人間は毎晩死んでいるようなものだと言われますが、再びその身体に戻って来れるのは
"生命の糸" によってつながっているからです。睡眠中に万一切れるようなことがあったら、生命力は二度とその身体に活力を与えることができなくなります。
肉体は霊の力によって動かされている械械です。あなたは肉体ではありません。地上にいる間だけその肉体に宿って自我を表現している
"霊" なのです。肉体の用事が終われば霊は去っていきます。
霊は無限の可能性を秘めていますから、その表現形態もまた無限です。これでおしまいという限界が無いのです。霊そのものに限界が無いからです。肉体器官を通して表現しているもの中で人間が馴染んでいるものとしては、考える、推理する、判断する、決断する、反省する、考察する、調査する、熟考するといった知的能力と、見たり聞いたり感じたり動いたり触れたりする感覚的能力があげられます。これらは肉体を通して自我を表現している霊の属性の一部です。
肉体という制約から解き放たれると、霊はさらに広範囲の表現形態を通じて自我を表現することが可能になります。霊媒、すなわち霊界からの影響力を感識してそれを地上で再現することの出来る人をみれば、それがどの程度のものであるかが、ある程度まで判るでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..106-107
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63-d (幻影のなかで生きている私たち)
この仕事に携わる者の特権として私には幾つもの段階をへて送られてくる莫大な霊カを使用する手段が授けられております。必要とする人々へ分け与えるために使用することが私に許されているのです。私たちの世界こそ実在であり、あなた方の世界は実在ではありません。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことでしょう。
あなた方は幻影のなかで生きておられます。全て "影"なのです。光源はこちらの世界にあります。実質の世界です。こちらへ来て始めて生命とは何かということがお分りになります。その真実味があまりに強烈であるために、かえってお伝えすることができないのです。どうか、私のことをあなた方の兄貴だと思ってください。あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたいという願望をもって腐心している兄貴と思ってください。
私はあなたがたが気づいておられる以上にしばしばそれぞれのお家を訪れております。私に敬愛を覚えてくださっている家庭を私の地上での家庭であると思っているのです。状態がどうも良くないときーー地上での仕事にはよくそういう時があるのですーーそんな時に敬愛に満ちたあなた方の光輝で温めてもらいに来ることができるということは大いなる慰安の源泉です。
私たちは、やっていただいたことに対しては必ずそれなりの支払いをいたします。いつもこう申し上げているのですーー施しをする人はかならずそれ以上の施しをしてもらっており、差引勘定すればいつも戴いたものの方が多くなっていると。施す者が施しを受けるというのが摂理なのです。なぜなら、施しをしようとすることは魂の窓を開き、精神を広げ、心を大きくすることであり、その広くなったチャンネルを通して愛と導きと保護の力が流れ込むことになるからです。ですから、私に礼をおっしゃることはないのです。私がしていることは実に些細なことに過ぎないのですから。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..123-124
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63-e (霊的真理を広げるために)
大きな変動期にあっては霊媒を通じそのメッセージ、霊的知識を広めることを目的とした霊力の演出がよりいっそう要請されます。
地上のいたるところに悩みを抱えた人々が無数にいます。従来の信仰は瓦解してしまいました。が、その人たちの心の奥に、自分にも気づかずにいるある種の願望があります。それは永遠の実在の証を求める心です。
人間は本来が霊的な魂を宿した存在です。そして魂はその存在を支えてくれるところのものを求めて、じつとしておれないものです。魂も養育してやらねばなりません。扶助してやる必要があります。活動の場を与えてやらねばなりません。魂は表現を求めてやまないのです。たとえ意識的には自分を理解していなくても、つまりそうした霊性を自覚していなくても、内部の霊的自分、真の個性の欲求を無視することはできません。
教会による月並みなお説教では、特殊な一部の人を除いて、満足を与えることはできなくなりました。絶え間なく進歩する世界、常に変化し生長していく世界にあっては、何世紀もの昔のおきまりの宗教的教説を今日に当てはめることは不可能なのです。となれば当然、人間が勝手にこしらえた神学をもとに同じことを繰り返し訴えても、耳を傾ける人が次第に少なくなっていくに決まっています。
この点に関するかぎり、歴史は繰り返しません。なぜなら、キリスト教の信条と教義に背を向ける者が次第に増えていっても、ではその人たちの考えが唯物的になっていくのかというと、そうではないのです。というのは、確かに無味乾燥な福音が魅力を失いつつありますが、この度はその原因に別の要素があるのです。それは宇宙の謎と取り組んでいる科学者によって、唯物主義の思想が不毛で無意味で到底受け入れられないものであることが明らかにされてしまったことです。(訳者注:物理学の進歩によって物質の究極の姿が従来の"もの″の観念を超えてバイプレーションの状態であるということが明らかになったが、それでもなおそのパイプレーションを構成する究極の要素は突きとめられていない。かつては "これが一ばんの素"という意味で素粒子論が行われたが、今ではそれも途中の段階であって、その奥にまだ何かがあるらしいことが理論物理学で言われており、その確認が実験物理学で行われつつある。ともかくも物質の本性は人間が五感で感じ取っているものとは全く異なることが明らかとなった。シルバー・ハーチほその点を指摘している)
こうした時期、すなわち多くの者が視野の変化に気づき、何もかもが改造のためにるつぼの中へ放り込まれている時こそ、霊的真理を普及すべき絶好機なのです。
かつて私は、人間が絶体絶命の窮地にある時こそ神を知る絶好機であると述べたことがあります。今、再びその必要性が大なる時となり、霊力が奔流となって流れ込んでおります。愛は死の淵を超えて届けられます。愛する者を導き、悲しみに暮れる心に慰めの方針をもたらし、病に苦しむ人には治癒カを注ぎ、道に迷える人には手引きを与え、霊力の実在の証の全てを提供せんとして心を砕いております。
そうした証を伴った真理こそ永遠なるものです。不変なのです。地上で何が起きようと霊界でどういう異変があろうと、そのために取り消されたり書き変えられたりすることは決してありません。永遠の実在なのです。一度それを把握したら、一度自分のものにしたら、一度理解してその有難さを知ったら、その時からその人の生活に光沢と美しさと豊かさと輝きと自信と確信が具わり、二度と寂しい心を抱いて歩むようなことはなくなります。
かくして真理を広めるということは大切な仕事であり、大勢の人に与えられる絶好機、人のために自分を役立てる貴重な手段であることが分ります。煩悶の叫び声をあげている数知れぬ人々は、私たちが奮闘すべき場を提供してくれているのであり、一人が光を見出すごとに、一人が無知の闇から抜け出て知識を手にするごとに、一人が悲しみの涙をよろこびの笑みに変えるでとに、魂の勝利、永遠の闘いの中における勝利を克ち得たことになります。
ですから、どこでもよろしい、誰でもよろしい、力を引き締め、鎧でしっかりと身を固め、神の大軍が背後に控えてくれているとの信念のもとに、この人類にとって掛けがえのない重大な闘いを引き続き闘い抜こうではありませんか。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..164-167
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63-f (私たちを導く偉大な霊の力)
さきほど霊媒の言うことの信頼性が問題となりましたが、皆さんはすでにそうした場合に私が要求している判断の基準をご存知です。すなわち自分の理性に照らし、自分の判断力と常識とで決断なさることです。私はかつて一度たりともあなた方を盲目的信仰へ誘導したことはありませんし、知性が反撥するような行為を要求したことはありません。
自慢することはおよそ私には縁のないことです。宇宙を知れば知るほど謙虚な気持で満たされるものです。ですが、それでもなお私はあなた方を導く霊の力の偉大さを公言して憚りません。それが私のような者にも与えられているのです。私が偉いからではありません。私が為さんとするその意欲に免じて授けられているのです。これまでの私と皆さんとの交わりの長い年月を通じて、その霊力は存分に与えられ、それ以後も皆さんが望まれるかぎり続くことでしょう。
私はもし皆さんが日常生活の自然な成り行きの中において霊的にそして身体的にみずからを御して行くことができるのであれば、敢えてこうした交霊会の継続を望むものではありません。霊的な知識を獲得しながら身体に関わる面をおろそかにするのは感心しません。それは、身体ばかりを構って霊的側面をおろそかにするのと同じように愚かしいことです。
神の顕現であるところの大自然が与えてくれる活力と能力を存分に活用して人生を謳歌なさるがよろしい。ふんだんに与えられる大自然の恵みを遠慮なく享受し、完成へ向けて進化し続ける永遠の壮観の中にその造化の神が顕し給う美を満喫なさるがよろしい。
と同時に、その背後にあって私たちを道具として使用せんとする崇高なる霊の働きに常に思いを馳せましょう。その神の恩寵を存分に享受するために心を広く持ちましょう。なるほどと私たちが神のメッセンジャーであることを認めてもらえるように、日々の生活における言動に愛と善意を反映させるように心がけましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..170-171
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63-g (霊こそが永遠の実在)
私たちが施すものには二重の目的があります。基本的にはその中身は霊的であるということです。それが最も大切だからです。人生において各自の霊に関わることが他の全てのものに優先します。霊こそが永遠の実在だからです。ですが一方、地上の物的生活において生じることが霊性に深刻な影響を及ぼすこともあります。それゆえ私たちの努力は、地上的環境を改善し改革し修正し、ありとあらゆる不公平を是正し、不公正を取り除き、病気を駆逐し、害悪が及ぼす汚点を払拭することにも向けなくてはならないのです。私ども霊界の者は地上の落伍者、備えなき者、未熟者が次から次へと送り込まれて来るのをいつまでも許しておくわけにはいかないのです。魂の準備は本来そちらですべきものであり、こちらではないのです。地上は霊が修行のために送り込まれるところです。霊界の生活への適応性を身につけないまま霊界入りする者が多すぎます。こちらへ来てからでは教育がしにくくなります。地上の方がやり易いのです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p..184
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63-h (霊力とはどういうものか)
人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊カというものは存在しないことになります。つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊カは存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立流に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。たしかに愛のカは強烈です。しかし霊のカはそれよりも無限大に強烈です。
あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動きまわり、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、あなた方の存在のすべては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊カの流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿にすぎません。
霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。もっとも"神″というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊カが曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊のカです。
それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることの出来ない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒---どうお呼びになっても構いません---そうしたものが無ければならないということです。壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。
私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。
スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界のほうからこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩い場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊カをお持ちになっています。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp..170-173
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63-i (もしも霊力が働かなくなったら地球は回転を止める)
もしも霊力が働かなくなるようなことがあったら、地球は回転を止め、四季は巡ってこなくなることでしょう。もしも霊力が働きを中止したら、太陽の炎は消滅し、月はあの幽玄な輝きを見せなくなるでしょう。もしも霊力がしくじることがあったら、種子は花を咲かせず実を結ばなくなることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.42
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63-j (摂理に順応しさえすれば必要なものに事欠くことはない)
私たちは、霊が生命を吹き込んでくれたおかげで共通の絆を与えられているのです。そのことによって全世界の神の子が根源において結ばれていることになるからです。人間が地上でも、そして死後も生き続けることを可能にしているのは、神を共通の親として、全人類を一つの家族に結びつけているのと同じ霊力なのです。
この崇高な事実こそ私たちが啓示せんとしている真理です。あらゆる物的差違、あらゆる障害、あらゆる障壁を超えるものです。肌の色の違い、言語の違い、国家の違いを超越するものです。物的存在の表面の内側に、断とうにも断つことのできない同胞性で全人類を結びつけている、共通の霊的属性があることを教えております。
今の地上世界にはぜひともこの真理が必要です。その理解さえ行きわたれば戦争は無くなります。世界中ではびこり過ぎている利己主義と貧欲と既得の権利が撲滅されます。人間の唯一の、そして真の尊厳すなわち霊性が、今あまりにはびこっている低俗な物的価値基準に対する優位を発揮するようになります。
その理解が行きわたるにつれて、無限の豊かさと輝きと崇高さと愛と指導力と治癒力とを秘めた霊の力がそれだけ多く発揮され、これまであまりに永いあいだ支配して混沌と災禍をもたらしてきた無知と偏見と迷信を駆逐して行くことでしょう。
あなた方も、お一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。
必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。
霊は物質による制約には負けません。全生命の原動力であり、全存在の始源である霊は、あなたが地上生活において必要なものはすべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発・強化して、死後に待ちかまえる次の生活の身仕度をすることです。となると、ありとあらゆる人生体験---楽しいことも苦しいことも、光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的成長にとって何らかのプラスになるということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.42-44
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63-k (地上世界のすべてが霊のおかげで存在している)
真理の顕現には無限の形態があります。真理とは無限なる大霊から出るものであり、顕現の媒体となる人物の進化の程度によってその形態が違ってくるからです。その真理の理解は単純・素朴さを通して行われます。やたらに綴りの長い単語や聞きなれない難解な用語を用いたからといって、それで真理にハクがつくわけではありません。むしろそれが無知の仮面となっていることがよくあるものです。
私たちの説く真理は無辺・無限の大霊の真理です。すべての人のためのものであり、一宗一派、一個人のものではありません。全人類を愛の抱擁の中に包まんとして働きかけております。
実在は物質の中には見出せません。その肉体の中にも発見できません。存在の種子は物的器官の中には見出せません、あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界へ来てはじめて霊性を身につけるのではありません。
受胎の瞬間から人間も霊的存在なのです。その存在の源である霊という実在からあなた自身を切り離そうとしても、それは絶対にできません。地上世界のすべてが霊のおかげで存在しているのです。霊なくしては生命はありません。なぜなら生命とは霊であり、霊は生命だからです。
(物的表面にとらわれず)肝心かなめのものにすがることです。目を逸らしてはいけません。これこそ真実であると確信したものにしっかりとすがることです。そして煩雑な物的生活の中で何が何やらわけが分からなくなった時は、大霊の力と安らぎの住む内部へ退避して、その雑念を忘れることです。そうすればその静寂の中にあなたにとって必要なものを見出すことでしょう。あなたという存在の組織は必ず神の定めたパターンにしたがって織っていくことが大切です。
そのためには一体われわれは何の目的で神によって創造されたかを忘れないようにしましょう。その神とのつながりに汚点を残すような行為は絶対にしないようにいたしましょう。そうなることが全生命の根源たる神の意図を正しく理解している者すべてに必ず与えられる恩寵に、われわれも常に浴することになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.44-46
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63-l [10-m] (生きがいある人生を送るには=6= 霊こそ実在)
私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気づいていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は“霊”であることを改めて申し上げます。
物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他のすべての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元のチリに戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。
あなた方は霊をたずさえた身体ではありません。身体をたずさえた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械にすぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使いです。
こうした事実を追求していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変っていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解しはじめます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助と啓発のために活用する―それがあなた方のなすべきことです。
忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 31-33
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63-m [10-q] (生きがいある人生を送るには=10= 霊力の恩恵)
自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。
そうした強大な霊団― 生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊―
の存在をますます身近に感じることができるように努力いたしましょう。
その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることができているということは、本当に有難いことです。
霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭堡が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭堡の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。
われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほど多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるよう神に祈りたいと思います。
知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。人間の一人一人に神性の一部を植えつけてくださった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えてくださるように祈ろうではありませんか。
そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きに計らってくださるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落着きを得ることができます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 38-39
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63-n (霊には始まりも終わりもない)
― 私はテレビで The Making Of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起原のことを考えはじめました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。
いいえ。
― ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。
いいえ。
― では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。
どこからも発生しておりません。霊魂に起原はありません。
― これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。
そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終わりもありません。バイブルにも“アブラハムが生まれる前から私は存在している”というイエスの言葉があります。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿ってはじめて個別性をもつことになるのであり、霊ないしは魂は常に存在していたのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.54-55
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63-o (生命の原動力である霊は過去も未来もなく常に存在する)
― (質問者が代わる) 霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。
霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。さきほど“私はアブラハムが生まれる前から存在している”というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。
生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、すべてそうです。霊は存在の大原動力です。
母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。
しかし霊はさまざまな側面をもつことができます。そのいくつかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることは有り得ます。その意味では“年輩の霊”“若い霊”と呼べる霊は存在します。しかし“新しい霊”というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。
胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性または女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.55-57
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63-p (霊力はいつの時代にも誰にでも届けられている)
“聖霊に対する罪”とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になると否定します。こうして皆さんとの交わりができるのも霊力のお蔭なのです。ホンのわずかの間とはいえ、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.49
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63-q (過去の霊覚者を通して働いた霊力は今も働きかけている)
霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決めつけたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや礫刑の手段には出ないからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 138

64. 運命・宿命
64-a (永遠の生命を持つ人間の宿命と自由意志 =1=)
質問: 宿命というのは地上生活の中でどの程度まで働いているのでしょうか。そもそも宿命とは何かをご説明ねがえますか。先天的宿命というのは外部の力なのでしょうか、それとも自分で選んだものなのでしょうか。あなたは再生説を説かれますが、それはなぜなのか、どういう意義があるのか説明してください。
それはどちらでもあります。ある種の外部の力があなたにその道を選択させたということです。あなたには自由意志と同時に宿命もあります。もしも地上人生とは物的生活を総合したものだと考え、それで満足できる人は、それはそれでよろしい。が、現在のその肉体に宿っている霊---必ずしも同じ側面とはかぎりません---が以前にもこの地上で生活したことがあることも考えられます。あなたは一個の大きなダイヤモンドの数ある側面の一つであって、各々の側面が全体の進化のために異なった時代にこの物質界へ顔を出していることも有りうるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.132-133
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64-b (永遠の生命を持つ人間の宿命と自由意志 =2=)
質問: 大きなダイヤモンドの側面の一つである、つまり私は類魂の一つであるという意味だと思うのですが、もしも生命が永遠だとすると、他の類魂の体験を必要とするというのは論理的におかしいように思えます。
全宇宙を通じて作用と反作用が営まれております。はるか彼方にいる者でも、あなたが叡智を身につけていく上において多大な影響力を行使することが出来るのです。人間は身体的にも精神的にも霊的にも孤立状態で生きることは有り得ないのです。それをグループソールと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、所詮は用語を超越したものを表現するためにあれこれと用語を使ってみているにすぎません。
“あなた”とはいったい誰なのでしょう。その“あなた”という存在はいつから始まったのでしょうか。あなたという個的存在は受胎の瞬間から始まったのでしょうか。“アブラハムが生まれる前から私は存在している”とイエスが述べておりますが、それはどういう意味かお分かりですか。“霊としては私は常に存在していた”という意味です。あなたもそうですし私もそうです。インディビジュアリティの断片が異なった時代に物的世界に顔をのぞかせたということは有りうるのです。
私の説が受け入れられないとおっしゃる方と論争しようとは思いません。私は同志の方にも、ご自分の理性が納得しないものは拒絶しなさいと申し上げております。もしも私があなたから好感をもっていただけたら、そして愛ともいうべきものを頂戴できたら、それはあなたの理性が私の述べていることを真実であると認めたからであるに相違ありません。もしも理性の認可を得た上での好感を勝ち取ることが出来ないとしたら、それは私たちの仕事が失敗の運命にあることを意味します。われわれはこれまでに得た知識を土台とし信頼し合わなくてはいけません。基盤に間違いがないことを確信した上でなくてはいけません。そこから、ゆっくりと着実に、より高い道を目指して、手を取り合って開拓していきましょう。
あなたには、これから先、うれしいことがたくさん用意されております。イヤなことがないという意味ではありません。難問はつねに振りかかってきます。逆境にも遭遇します。あなたは完成された世界の完成された存在ではないからです。あなた自身が不完全であり、世の中も不完全です。しかし、あなたには自由意志があり、世の中の不完全とあなた自身の不完全を取り除いていくための力となる素晴らしいチャンスが用意されています。そこにあなたの仕事があります。
いかなる知識にも、それをいかに活用するかについての責任が付加されます。それはあなたへの一つの信託がなされたということです。その信頼を裏切ってはなりません。あなたがその知識を得るにふさわしい人間であったと同時に、これから先あなたに受け入れる用意ができた時に授けられる次の段階の知識に対しても十分な資格があることを、あなた自身の生活の中で身をもって示さなくてはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.133-135

65. 学び・教え
65-a (厳しさの中で学ぶのが鉄則)
教える立場に立つ者は自らが学ぶ者としての然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦ーー辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばねばなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。
これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊位を開発し、心霊的能力を可能なかぎり霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を備えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)のもつ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなにおもしろい実験をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。
地上には、自分を変えようとせずに世の中の方を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、すべての発展、すべての改革はまず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることができなければ、他の人を改める資格はありません。地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.162-164
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65-b(真理のために献身する者は苦労する)
「物的生活面で苦労が多いのはなぜか」
真理のために身を捧げる者は徹底的に試練を味わう必要があるからです。霊の大軍に所属する者はいかなる困難にも耐え、いかなる障害にも対処し、あらゆる問題を征服するだけの強さを身につけなければなりません。
はじめて遭遇した困難であっさりと参ってしまうような人間が霊の道具として役に立つでしょうか。最大の貢献をする道具は浄化の炎で鍛え上げなければなりません。それによって鋼鉄の強さが身につきます。一見ただの挫折のように思えても、実際はみな計画された試練なのです。人を導こうとする者が安逸の生活をむさぼり、試錬もなくストレスもなく嵐も困難も体験しないでいては、その後に待ちうける大事業に耐えうる性格も霊力も身につかないでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.206
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65-c [46-zm] (霊界でピアノを習いたい時はやはり練習が必要か)
もちろんです。何もしないで身につくものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境のために発揮できなかった才能をもつ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられることがよくあります。霊界では、何ものにも束縛されることなくそれを最高度に発揮することができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 90-91
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65-d(完全は完全から生まれるのではなく不完全から生まれる)
完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 108-109
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65-e[58-zr](大霊に維持されている大自然の営みが最高の教えである)
聖書もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 132-133
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65-f[58-zs] (生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働く摂理)
そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 133
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65-g (難解な教えよりも地上を少しでも明るくするための実践)
私は時おり霊界からの高等な教え″とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞のために何一つ役に立つことをしない人たちに嫌気がさすことがあります。教えに高等″も低級″もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。難解な教えを騒ぎ求めている人たちが、そんなことをやめて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所―空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを渇かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ最高の教え″を実践していることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 136
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65-h[14-d] (地上では教えを説く人物に関心を向けすぎてきた)
私という一個の霊、ただのメッセンジャーにすぎない者にあまり関心を寄せてくださるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向けすぎております。そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 139
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65-i [70-h] (私の使命は地上に真理と知識と叡智を啓示すること)
私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大へん高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 139-140

66. 睡眠と夢
66-a (夢のなかで起きていること)
実は今でもあなたがたは毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.135
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66-b (睡眠中の霊界での体験)
睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は
“地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ” と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.136-137
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66-c (睡眠中に霊界を訪れる理由)
仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの魅力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるとところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.138-139
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66-d (私たちは眠っている間どんなことをしているのか)
みなさんは毎晩その肉体をあとにして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることができます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.152
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66-e (わけのわからないような夢をどう理解すればよいか)
変てこな夢のことですか? あれは、(異次元の)体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それをムリして押し込もうとするためにあのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.153-154
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66-f (睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行している)
― 人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが、私にも同じ体験があるみたいです。どういう現象なのでしょうか。
いたって簡単なことです。幽体が肉体から脱け出て、時には私たちの世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。
死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)をへてこちらの住民となれば(意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 96-97
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66-g (夢の中での親しい人との出会いは本当に会っているのか)
― 誰しも夢を見ます。その夢の中で親しい人と会ったことを思い出すことがありますが、本当に会っているのでしょうか、それともただの想像にすぎないのでしょうか。あるいは会いたいという願望がそういう夢となって現れるのでしょうか。
いえ、実際にその人と会っておられるのです。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めております。純粋にして最高の形態で発揮された時の想像力は驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせていく創造的な力となります。
夢のすべてが霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した観念の反映にすぎないこともありますし、夜おそく食べた物の反応にすぎないこともあります。
― その違いは分かるものなのでしょうか。
分かります。食べた物や潜在意識のせいである場合は霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は精神的ならびに霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。
もっとも、その違いを見分けるには能力の発達が要請されます。物質的な印象にすぎない場合は肩にずっしりと重たさを感じますが、霊的な体験の場合には蝶に口づけをされたみたいな気分がいたします。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 97-99
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66-h (実際にはすべての人間が睡眠中に霊界を訪れている)
実際には人間のすべてが睡眠中にこちらの世界へ来ております。それは神の配慮の一つで、いよいよこちらへ来た時に環境の違いによってショックを受けないように、未来の環境に慣れさせておくのです。ちょうど子供時代を過した土地へ来るとその頃の思い出が甦ってくるように、睡眠中に訪れていた環境の記憶が甦ってきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.38
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66-i (睡眠中は霊的身体の操作へ切り替わりあなたは霊の世界に居る)
睡眠というのは物的身体の操作から霊的身体の操作へとスイッチが切り替わることであり、その意味で、その間は霊の世界にいるわけです。その睡眠中の身体に別の霊が入ってくる心配はありません。あなたがドアを開けっ放しにして出て行ったあと、誰かがノコノコと入ってきてドアを閉めてしまうというような図を想像してはいけません。そういうものではありません。物的身体は相変わらずあなたの管理下にあります。ただ意識の焦点が別の次元に移っているというだけであって、やがて朝になれば意識が戻ります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.39
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66-j (睡眠とは違って昏睡の場合は霊と身体との関係が正常ではない)
衝撃などで昏睡状態に陥った場合は、霊と身体との正常な関係が破られているわけです。睡眠の場合は朝になれば霊がそういうものと自覚してバイブレーションを落として身体に戻る用意をします。それが正常な関係ですが、昏睡状態の場合は無理やりに身体機能から離され、しかもその機能が破壊されているために、戻ろうにも戻れないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.39
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66-k (睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実である)
睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長に合っていて自然に引きつけられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。地上に籍を置く人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界へ降りて行く話があります。睡眠中の話ではありませんが、原理は同じです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.52

67. 音楽・絵画
67-a (霊界には最高の作曲家や演奏家が無数にいる)
(神の計画の中で音楽は一種名状しがたい役割を演じているようである。ある日の交霊会でシルバーバーチは英国の音楽界で指導的地位にある音楽家に次のように語りかけた)
あなたが音楽を通じて世の中のために貢献していらっしゃるその実態は、あなたご自身にはまず理解できないことです。音楽、なかんずくインスピレーション的な曲は、あなた自身はごく自然な形で作曲しているつもりでも、魂を癒やし慰め刺激し鼓舞する特質を具えているものです。それはそれなりに魂の琴線に触れて、五感を通じて得られるものよりはるかに偉大な生命の荘厳さがあることを認識させます。
これから先どこで演奏なさる時も、あなたは偉大な目的のための道具であること、あなたに感謝の気持ちを伝えられない大勢の人々に心の調和と同情と激励と幸福と健康をもたらす一助となっていることを思い出してください。
こちらの世界へお出でになれば、大へんな楽しみがあなたを待っております。と申しますのは、霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性をもった音楽が存在するからです。地上でまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。シンフォニーもあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんのわずかしかおりません。
地上で大作曲家と言われている人のすべてがこちらへ来ているわけですが、その巨匠がその後さらに向上進化しているのです。鑑賞力をもった人なら立派な音楽をいくらでも聴くことができます。ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。
それから、もちろん地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 104-105
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67-b (霊界では芸術家は地上時代の夢をすべて実現させることが出来る)
この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.133
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67-c (音楽の俗悪化は地上の狂暴化の傾向と結びついている)
(別の招待客が耳障りな現代音楽の話を持ち出して、インスピレーションが形態を変えた結果なのかと尋ねた。それに対して―)
インスピレーションが変わることはありません。インスピレーションは片時も休むことなく送られております。ただ、それを受け取る用意のできた者だけが受け取っているにすぎません。波長がそれに合わなければ受け取れないということです。インスピレーションは休みなく送られております。霊力と同じく、地上へ顕現する通路を求めております。
要するに波長の一致の問題です。地上には音楽、絵画、その他あらゆる芸術分野に先駆者がいます。その人たちは時代に先んじすぎているために、在世中は一般から理解してもらえないことがあります。が、時代が進むにつれて理解力の水準が上がり、その先駆者たちに正しい評価がなされるようになります。
しかし、そのことは地上でよく生じる音楽の俗悪化には当てはまりません。これはむしろ今日の地上を蝕んでいる狂暴化の傾向と結びついた問題です。
― 現代という世代が音楽に影響しているのではないかと思っておりました。
物質を霊から切り離すことはできません。物質的なものが霊的なものへ、霊的なものが物質的なものへと、互いに反応し合い影響し合っているからです。あなたの身体は霊に影響を及ぼし、あなたの霊は身体に影響を及ぼしております。両者は隔絶したものではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 107-109
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67-d (現代の俗悪な音楽は他人の幸せに対する無関心の表れ)
―(スイスの精神医学者の)ユングは内部にあるものは必ず外部に出るものであると述べています。現代の気違いじみた音楽にはその例証といえる要素があるのでしょうか。内部にあるよりも外部へ発散してしまった方がよいのでしょうか。それが狂暴性を発散させることになるのでしょうか。
いえ、残念ながらそれは、ごく当たり前の反応にすぎません。物的なもの、一種の利己性、つまり他人の幸せに対する完全な無関心の表れです。貪欲が巾を利かしているのです。自分たちの地上世界をみずから蝕んでいる狂暴性の原因はそこにあるのです。それが素行の面のみなならず音楽や芸術、その他ありとあらゆる生活面に表れているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 107-109

68. 奉仕(人のために尽くすこと)
68-a (奉仕とはなにか)
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全字宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。
好感のもてない人を愛するーーこれが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。
最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛ける、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇妙の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けではできません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、由己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988, pp.142-143
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68-b (善のための努力は必ず報われる)
善のための努力が徒労に終ることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終ることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つありません。真の安全は人間の目に映じぬ世界ーー地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。
人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的存在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが、永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変りの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心の支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.102-103
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68-c (人のために役に立つ喜び)
人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、自分が決して一人ぽっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることができたら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。
地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為はありません。どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物ーー人間、動物、その他何でもよろしいーーの為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.106-107
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68-d (霊界から差し伸べられる援助の手)
悟りの道に近道はありません。代りの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ズラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。
さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々ーー病める人、肉身を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人ーー要するになんらかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差しのべられるということも知っております。
時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。
その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者ーーその人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たちーーばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。そのおかげでどれはどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事ほ他にありません。
愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えないかぎり絶対に入り込めないように守られております。霊のカは避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡智は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目にほ見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないで下さい。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.112-114
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68-e (人のために尽くすこと)
私たちが説く全教説の基調は "人のために己れを役立てる" という言葉に尽きます。あなた方の世界のガンとも言うべき利己主義に対して私たちは永遠の宣戦を布告します。戦争を生み、流血を呼び、混乱を招き、破壊へ陥れる、かの物質万能主義を一掃しようと心を砕いております。
私たちの説く福音は互助と協調と寛容と同情の精神です。お互いがお互いのために良くし合う。持てる者が持たざる者、足らざる者に分け与える。真理を悟った者が暗闇にいる者を啓発するために真理という名の財産を譲る。そうあってほしいのです。
地上にはその精神が欠けております。人間の一人一人が持ちつ持たれつの関係にあること、全ての人間に同じ神性が流れていること、故に神の目には全てが平等であること、霊的本性において完全に平等であるとの観念を広める必要があります。性格において、生長において、進化において、そして悟りにおいて、一歩先んじている者が後れている者に分け与えるという行為の中に偉大さがあるのです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.24
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68-f. (一人でも多く神の愛に目覚めるように)
ー 交霊会のメンバーへの年末の挨拶から ー
大きな困難の時に当って私に示された敬愛の念に対して深く感謝いたします。あなた方の不断の忠誠心が常に私に誇りをもたせ、それに応えるべく私に為しうるかぎりのことをさせていただいたつもりです。
これまでの協調の仕事ぶりは実に見事でありました。お互いがお互いに対して抱いている信頼感を損なうようなことは誰れ一人として行わなかったことが、その何よりの証です。私は、私に向けてくださる敬愛の念をいつも嬉しく思っております。それが仕事をやり易くしてくれました。自分の携わっている仕事によって心の支えを得られた人たちが情愛を向けてくださっているのだと思えば自然とそうなるのです。
どうか私たちが誇りに思っている霊的知識は、それを知らずにいる人々にも分け与えてあげなければならないものであることを忘れないように致しましょう。私たちが手を伸ばすべき分野がまだまだあること、人生に疲れ果て、生きる希望も頼りとすべきものもなく、慰めと光を求めている人が無数にいることを忘れないように致しましょう。
そういう人々のうちの幾人かは私たちが心の支えとなってあげ、日々の生活の中に確信をーー人生を生き申斐あるものにする確信をもたらしてあげることができます。
人生を嘆き、慰めとなるものを未だに見出し得ず、心は悲しみに溢れ、目に涙を溜めている無数の人々のことを忘れないように致しましょう。
病を得ている人がいること、その多くは霊の力によって治してあげることができることを忘れず、神の子が一人でも多く父なる神の愛と叡智に目覚めるように、こうした霊的知識の普及に努力いたしましょう。
では、またお会いする日まで。私はいつも愛の心を携えて訪れ、愛の心を携えて帰ってまいります。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.115-116
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68-g (悲しみに暮れている人に何をなすべきか)
私たちの仕事は、その大きな世界、霊の宝庫へ目を向けさせ、暗闇と無知の中で道を見失っている数知れない人々に、霊的真理を知ることによって得られる導きと慰めと確信をもたらしてあげることです。それとても実は私の望んでいるところの一部にすぎません。肉親を失った人を慰めてあげること、悲しみに暮れる人の涙を拭ってあげること、こうしたことは実に大切なことです。確かにこれも私たちの使命の一部ではあります。しかしもっと大切なことは、そうした体験を通じて自分とは何か、本当の自分とは何なのか、何のためにこの地球という惑星に生を享けたのか、より一層の向上のためには何を為すべきかーーこうしたことについての正しい認識を得させてあげることです。それが一ばん大切なことです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.173
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68-h (いかなる悩みにも対処できる霊的真理)
今や大勢の人が、これが本当に人類にとっての鎮痛剤なのかと、期待の目をもってわれわれの方へ関心を向けつつあります。この真理、そしてこれに伴って得られる霊的な力は、たとえその数が何千何万となろうと援助し、導き、慰めてあげることができます。霊力の貯蔵庫は無限です。いかなる問題、いかなる必要性、いかなる悩み、いかなる心配事にも対処できます。
世界は今まさに全面的な再構築を迫られています。全ての価値観が再検討を迫られております。その大渦巻の中にあって
"これこそ基盤とすべき原理である" と自信をもって断言できる人はきわめて稀れです。
再構築にはそれに先だっての破壊が必要です。基盤は何度も言ってきたとおりすでに敷かれております。計画はできあがっているのです。今ゆっくりと、そして苦痛を伴いながらそれが姿を現わし、やがて、人間の運命がいかにして改善され神から授かった能力がいかにしてその発達のチャンスを与えられていくかが、徐々に明確になることでしょう。そこには不安や失望のタネは何一つありません。為すべき仕事があります。手を取り合えばきっと成就し、他の人も参加させてあげることができます。
私たちに与えられた光栄あるその奉仕の仕事のチャンスを楽しみに待ちましょう。そしてあなた方自身に精神的改革をもたらした同じ知識を同胞に授けてあげることができることの特権に感謝し、それがその人たちにも革命をもたらし、自分が愛と叡智にあふれた神の一部であること、その神は人間が人生から美とよろこびと輝きとを引き出すことをひたすらに望んでおられることを悟ってくれるよう祈ろうではありませんか。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.p.174-175
*****
68-i (数多くの人々の魂に目を開かせてきて)
=交霊会のメンバーに対することば=
私はあなた方を愛し、かつ誇りに思います。地上に戻ってくる指導霊がみな私と同じような愛を一身に受けることができれば、どんなにか満足に思うことでしょう。これほどの愛と、そしてそれ以上に尊敬の念を受けて |