学びの栞 (A) 


 1. 心配・不安・恐怖 (明日のことを思い煩うな)


  1-a (霊界の先祖や肉親から守られるために)

 あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなたがたが恐怖や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、やすらかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。
 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスビリチェアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。宗教の違い、民族の違い、主義主張の違い、そんなものはどうでもよろしい。冷静で、穏やかで、明るい心を保つことです。それが霊界の愛する人々、先祖霊、高級霊からの援助を得る唯一の道です。恐れ、悩み、心配、こうした念がいちばんいけません。

      『古代霊は語る』(近藤千雄訳編)潮文社、
        1986、pp.251-252.


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  1-b (恐怖心こそ人類最大の敵である)

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」ーーこうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然とわかるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。
 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛ーー人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんがーー愛こそ神の摂理の遂行者なのです。
 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。
 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。
 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。絶対的な叡智であり、また絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。
 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、pp.113-115


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 1-c (この世の生活には何一つ怖いものはない)

 地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。それは無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。
 あなた方の "呼吸する" というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根元的生命力と同じものです。その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。
 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識のうちに物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現しはじめるということに過ぎません。
 あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最少限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。
 永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。今と昔を較べるために過去のページを繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないことをご存知のはずです。人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。
 霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場をかいま見たことになります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、また物的なことに心を奪われたり偏ったりすることもありません。安全も援助も全て "霊" の中に見出すことができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。
 この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ、日常生活の一つひとつに正しい認識をもつことができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるということです。霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識はわが身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

    『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp73-76 


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 1-d (世の中には心配することなど何一つない)

 私は自信をもって皆さんに申し上げますが、この世の中には心配することなど何一つありません。
 人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。 
 ・・・・・・不幸の訪れの心配は不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸よりも害を及ぼしています。

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.42-43

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 1-e (完璧な信仰はすべての恐怖心を追い払う)

 私のことを私の背後に控える大きな存在の表象、代弁者、代理人と思ってください。その大きな力があなた方を包み、支え、その力があなた方を導いているのです。どこにいてもその知識を携え霊の世界との協力関係を確立した人は、イザという時にその豊かな力を呼び寄せることができます。
 皆さんのような方が怖れたり、取越苦労をしたり、心配したり狼狽したりする必要はまったくありません。完璧な信仰は完璧な愛と同じく全ての恐怖心を追い払うものだからです。人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信ーー全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
   潮文社、1985、p.125

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 1-f (学識があり誠実そのものの人の取越苦労)

あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きて行くことは可能です。義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私はそんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.56


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 1-g (取越苦労性の人は霊的に未熟か) 

 その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.57

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 1-h(俗世的な悩み事や煩わしさに呑み込まれるな)

 物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。そこで私のような古い先輩---すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ちうけている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません。
 といって、地上の人間としての責務をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衡感覚、正しい視点をもつこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性のすベてを内蔵している事実を忘れないようにすることです。そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義をもち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.175-176

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  1-i(取り越し苦労と不必要な心配はやめよ)

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その摂理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、潮のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。種子を蒔けば芽が出る---この、いつの時代にも変らない摂理こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなたがたを見放すことはありません。
 私は、神の子すべてにそういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私たちの世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。視点が変ることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.205-206


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 1-j  (死に直面したら恐怖心を抱くのも当然ではないのか)

 おっしゃる通り当然でしょう。が、その状態こそ恐怖心を捨てる試金石でもあります。私たちがみなさんの前に掲げる理想がひじょうに到達困難なものが多いことは私も承知しております。私たちの要求することのすべてを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。
 それには大へんな奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。その潜在力を開発する方法を会得しさえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得しさえすれば、霊力の貯水池から吸み上げることができるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
 人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部そろっているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを “神の御国は汝の中にある” と言いました。神の御国とはその無限の霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれを我がものとすることができると言っているのです。開発すればするほど、ますます多くの宝が、永久に自分のものとなるのです。もしも私の説く訓えがラクなことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあることになるのです。生命は永遠です。終りがないのです。完全へ向けての成長も永遠に続く過程なのです。
 
    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.75-76

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 1-k[29-w] (霊媒に対する励ましのことば=2= 取り越し苦労は無知の産物)

 ・・・・・・・・・・ここにお集りの同志の方にいつも申し上げていることですが、私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。それには何十年も掛かることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮しはじめると、とたんに人間の方が高慢になって“さあ、どしどしやろう”といった調子で、性急に事を運ぼうとします。
 私たちがそれまで辛抱強く時機の熟するのを待ったことをご存知ないのです。私たちは霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。そのための通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないように細心の注意をもって監視しなければなりません。これが又とても厄介な仕事なのです。
 確固たる霊的知識に裏うちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。
 同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。私はいつも交霊会の開会に際してこう述べています―“心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょう”と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。
 私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いてさしあげます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っすぐに突き進まれるがよろしい。それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵をしぼって導いてあげるということでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ―訳者)
 あせってはなりません。快く私たちの協力者となってくれるだけでよいのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.44-48

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 1-l (明日のことを思い煩ってはいけない)

 明日のことを思い煩ってはいけません。大切なのは今日です。あなたのなすべきことに能力の限りを尽くしなさい。最善を尽くす―私たちはこれ以上のことは要求しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 144










 2. 死 (あなたは死後も生き続ける)


 2-a (生命は本質が霊的なものであるが故に永遠である)

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
 不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。
 私たち霊団の者はなぜこの地上へ戻ってくるのでしょう? 数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らぬ愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁でつながっている霊や類魂)も存在します。
 教会で行われる婚礼では、「死が二人を別つまで」という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば、二人を別れさせるものは何一つありません。愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを大霊に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたその恩返しに同胞へ恩恵を施してあげてくだされば、それでいいのです。

  サイキック・プレス編『シルバーバーチは語る』
     ハート出版、pp.13-15


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 2-b (死とはなにか)

  あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
 "死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれは当然暗闇が後退していきます。
 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが "死んだ" といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.131-133


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  2-c (死ぬことは悲劇ではない)

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。
 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.133-134


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  2-d (死は自由であり解放である)  

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩ーー愚かさ、無知、依桔地、偏見等々を乗り超えて働きます。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p.150

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 2−e (なぜ死を悲しむのか)

  =交霊会の仲間の死を悼む発言に対して=

 いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。
 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。しかし知識は使うためにあるのです。その知識のおかげで視界が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすればーーもし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かされるのです。
 身近かな人の死に直面した時、あの馴染みの顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピりチュアリズムというものをーーこれも霊的真理の一側面に付した仮の名杯にすぎませんがーー身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。私どもが教えんとしていること、駆使しうるかぎりの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。
 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にそれとはまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習癖から卒業しなくてはいけません。あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能のすべてを発揮できるようにならなければなりません。
 悪いと知りつつ非を犯す人はーー"罪を犯す″という言い方は私は好きではありませんが---知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な非となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。私がいつも"知識は責任を伴う″と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかも知れませんが、人間は一人の例外もなく今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識してください。死ぬということはパイブレーショソの問題、つまり波長が変るということにすぎないことを認識してください。知覚の仕方が変るだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.40-44

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 2-f (死を悲しむのは間違っている)

 "生″を正しい視野で捉えていただきたい。その中で "死″が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間ほあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知--死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来のかぎりない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。
 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分が耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳みを拭い落とした目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。愛はつねに愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近かな存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこぴを十分に味わうことができるはずです。
 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.44-46

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 2-g (呼吸が止まった直後に起きること)

 魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所----病院なり休息所なり----に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.145

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 2-h (死は悲しむべきことではない)

 この交霊会も死が幻影であることを証明する機会の一つです。すなわち死の淵を霊的知識で橋渡しをして、肉体という牢獄を出たあとに待ちうける充実した新たな生活の場の存在を紹介するために私たちはこうして戻ってきているということです。何でもない、実に簡単なことなのです。ですが、その簡単なことによって、これまでどれほど意義ある仕事が為し遂げられてきたことでしょう。手を変え品を変えての普及活動も、結局は古くからの誤った認識を駆逐するためにその簡単な事実を繰りかえし繰りかえし述べているにすぎません。その活動によって今や霊的知識への抵抗が少しずつ弱まり、橋頭堡が少しずつ広がりつつあります。われわれの活動を歯牙にかけるに足らぬものと彼らが多寡をくくっていたのも、つい先ごろのことです。それがどうでしょう、今やあなた方のまわりに、崩れゆく旧態の瓦礫が散乱しております。
 私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体---これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊約存在である---この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。
 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは何げなく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、みずからの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。
 私の説く真理をきわめて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受けとめる方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなたがた西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。
 あなたがたにとって当たり前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている---私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。神とのつながりほ絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、けっして断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。
 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現していかなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。
 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登っていくのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.26-29

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 2-i (死を四季の移り変わりになぞらえて)
 
 四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに備えて自然が声をひそめはじめる秋。
 地上は今まさに大自然の見事な顕現---春、イースター、復活---の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。
 こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマと星辰の動きの中に、神々の生活---自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。
 同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れはてた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学びとってください。そしてこれまで自分を見捨てることのなかった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信してください。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.30-32

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 2-j (死はいのちを滅ぼすことができない)

 あなたはまさに一個の巨大な原子---無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は死と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。
 しかし死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの甦った霊をご覧になることができるでしょう。
 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの烏が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。死の意味がおわかりになるはずです。そして死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門にすぎないことを得心なさるはずです。
 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を今すぐあなた方に身をもって実感していただけないことは私は実に残念に思います。しかしあなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇を無くすことができます。人類はもう、何世紀も迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途をたどっております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.36-38

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 2-k(死後存続の証拠は十分に提供されている)

 お伝えする真理はいたって単純なものなのですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。
 すなわち偏見を捨てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。
 これは空想の産物ではありません。何千回も何万回もくり返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。
 以上が第一の目的です。”事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永いあいだ気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”---そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。
 それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私がこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる”確定的事実“というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや ”私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります” といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。”事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです” と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.25-26

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 2-l (死後も生き続けていることの意味を探る)

 人類史上はじめて宗教が実証的事実を基礎とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性をもつ者ならかならず得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事がはじまるのです。それでおしまいとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだという確証を植えつけてあげる必要があります。
 墓の向うにも生活があるのです。あなた方が “死んだ” と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。
 死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。
 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすベてを残していったあとに一体なにが残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、氷いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.27-28


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 2-m (人は自然な死に方をしたほうが霊界では受け入れ易いか)
       − 交霊会に出席している少女の質問に対して −

 もちろんです。大きな違いがあります。もしも地上のみんなが正しい知識をもち自然な生き方をすれば---もしもですよ---そうすれば死に方があっさりとして、少しも苦痛をともなわなくなります。そして又、死後の霊の身体を調節する必要もないでしょう。ところが残念なことに、実際はそんなにうまい具合に行っておりません。
 地上を去って霊界へ来る人のほとんどが自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのようにできあがっているのか、霊的な実在とはどんなものなのかについて恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人がそれはそれは多いのです。そういう人は、私がたびたび言っておりますように、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。ルースちゃんも知っているように、そんなくだものはおいしくありませんね。
 果実は熟せば自然に落ちるものなのです。霊が十分に成長すると自然に肉体から離れるのです。いま私の世界へ、渋いくだものや酸っぱいくだものがぞくぞくとやってきております。そのため、そういう人たちをこちらで面倒を見たり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんながちゃんとした知識をもってくれれば、私のように地上の人間の面倒を見ている者はとても手間がはぶけて有難いのですけどね。ルースちゃんの言う通り、死に方によって大変な違いが生じます。以上のような答えでいいですか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.122-123


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 2-n (亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義である)

 (亡くなった人を悲しむのは)一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。
 過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません!過ぎ去ったことをくどくど思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に胸をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 64


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 2-o (物質に惑わされ物的なものには価値がないことが理解できない)

 それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。
 私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 66-67


     *****


 2-p (人の死を悲しく思うのが人間の情ではないのか)

 私の世界へやってきた人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 67-68


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 2-q [10-e](死後の生命を知っても死後に備えた生き方は容易ではない)

 その間題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば……もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば…もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 69-70


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 2-r [57-c] (霊格に関係なく地震などで一度に大量の死者が出るのはなぜか)

 なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。
 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません。
 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 70-71


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 2-s (死は独房の扉の鍵を開けて解放してくれる看守の役を果たす)

 私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが、”死” は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 72-73


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 2-t [21-d] (私たちが死んだら霊界へはどのようにして行くのか)

 死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の玉の緒″が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。
 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。
 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 103


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 2-u [56-j ] (何のために生まれてくるのか=2= 生き続ける命)

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて― 地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの― が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。
 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。
 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。
 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 20-21

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 2-v (死は自由をもたらしてくれる有り難い解放者)

 死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死が自由をもたらしてくれるのです。
 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。
 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意ができたことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。
 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば―“最終的に”と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです― 肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。(訳者註― 近似死体験というのがあるが、これは医者が“ご臨終です”と宣告してもコード=玉の緒=がまだ切断していなかった場合である)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 50-51

     *****


 2-w (飛行機事故で即死の場合は霊的にどういう影響があるか)

 今申し上げたこととまったく同じです(3-b [57-f])。 霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 52-53

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 2-x [36-o] (死後の生命なんか欲しくないと本心から思っている人)
         =地上への誕生も必ずしも強制されるわけではない=

 ― 死後の生命なんか欲しくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることはできません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反抗にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。

 ― と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。ぜひとも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならないカルマ(業)があって誕生してくる場合もあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988pp.58-59

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 2-y[46-zl] (死後の生命と霊界での生活をいかに立証するか)

 − 死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

 死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、はたして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
 霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。
 死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。
 経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。
 界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落着く先は、あなたが地上で身につけた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。
 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。
 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
 難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても“生きている”ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。
 もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それはウソを言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。
 霊は、今の私のように人間の口を借りてしゃべらなくても、いつまでも援助の手を差しのべることができます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で可能なかぎり援助し続けるでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 82-84

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 2-z  (死について=1= 人間はいつ死んだといえるか)

 ―これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新開やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間でずいぶん議論されております。心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死をもって本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって“死んだ”と判断すべきだとお考えですか―この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは……。

 分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた実在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
 すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時―この“最終的に”というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです― 霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
 さて、いわゆる“霊視能力”をもった人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 206-207


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 2-za  (死について=2= 臓器移植には賛成できない)

 ―そもそもこの間題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが“この人は本当に死んでいるか” “もう臓器を摘出することが許されるか”ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。

 臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
 そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから“大勢いるのです”というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれて行く人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 207-208

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 2-zb  (死について=3= 死後の死体をどう取り扱うか)

 ― もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけです。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。

 それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、たとえ肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行なう前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
 ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 208-209

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 2-zc  (死について=4= “突発事故”による死の霊的影響)

 ―それと関連した問題として“突発事故”による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。

 今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

 ―天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。

 私はその“突発事故”という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。“たまたま”と思われるものも因果律の作用にすぎないものです。再生の問題についてですが、これは大へん複雑な問題で、もっと時間をいただかないと十分なお答えができません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 209-210

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 2-zd  (死について=5= 死者の霊に教えを読んで聞かせることの効用)

 ―最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は“死者へ向って読んで聞かせる”という供養の仕方を説いております。この“読んで聞かせる”ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。

 “死者”というのは何のことでしょうか。

 ―ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。

 ああ、なるほど! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向って読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチ独特の含み笑いをする)

 −違いますよ!

 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。

 ―何人かの弟子達が他界した親戚縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親戚縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。

 別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。

 (訳者注)原則的にはシルバーバーチの言っている通りかも知れないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄りそってくる霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言をくり返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかも知れない霊にとっても勉強になると考えている。シルバーバーチは“よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ”と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 210-212

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 2-ze (霊に十分な準備が整わないうちに起こる肉体の死)

 人間が"死"と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.32

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 2-zf [46-zt](死後に赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしい所である)

 死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.34

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 2-zg (霊的に無知であれば死後しばらくは地上に戻ってうろつく)

 こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐しい環境−我が家・仕事場など---をうろつきます。そして大ていは自分がいわゆる死者″であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気づいてくれないこと、物体にさわっても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.35

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 2-zh[8-e](霊的に覚醒するまでは地上の個性はそのまま残る)

 死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、そのうち霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる復活″です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.36

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 2-zi  (死後も地上圏へ戻ろうと思えば戻れるし現に戻っている)

 死後にも生命は存在します。いわゆる故人″も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題を片づけてはなりません。なぜ生き続けることができるのか、どういう過程で甦るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどういう影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐったあとにどういう体験をしているか― 地上での言動や思想が向上を促しているか足を引っぱっているか、地上の人間に伝えるべき教訓として何を学んでいるか……こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永いあいだ人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.46-47

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 2-zj  (死ぬ時は決して一人で霊界へ旅立つのではない)

 死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛でつながった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく脱け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きをする態勢ができております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.48

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 2-zk  (人間に賦与された生命の炎を消すことはできない)

 人間は墓場を乗りこえて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことはできません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何をもってしても、内部に宿る神性、この世に生をうけることによって賦与された生命の炎を消すことはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.50















 3. 遺体・葬祭

 3-a (死体は土葬にするよりも火葬にする方がいいか)

 ぜったい火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、いたずらに悲しみや寂しさを誘うだけです。
 人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。
 死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。
 衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますが(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません。

 ※『霊訓』の続編である『インペレーターの霊訓』に次のような箇所がある。
 《二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが「なぜいけないのですか」と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。
 「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほどに発達してくると有害です」
 ― でも、すぐそばではありません。
 「二つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感な人間にとっては尚のこと有害です」
 ― 墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。
 「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もう少し進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」》


    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 214-217

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 3-b [57-f](遺体は火葬する前に一定期間安置しておく必要があるか)

 ― 死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかつさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れたあとも、地上での長いあいだの関係によって相互依存の習性が残っているからです。
 その意味では一般的に言って埋葬または火葬までに死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それからあとのことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。
 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上に永らえさせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 51-52









 4. 祈り


 4-a (祈りとはなにか)

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑えがたい気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部に向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご存じなのです。要望は口に出される前にすでに知られているのです。
 なのになぜ祈るのか。それは、祈りがわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段であるからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態におくことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。
 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、そのときの高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

  シルビア・バーバネル編『シルバー・バーチの霊訓(7)』
     (近藤千雄訳)潮文社、1987,pp.198-199


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  4-b (祈りには効き目があるか)

 本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りとよぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネがほしい、家がほしいーーこうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとってなんのプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強いカを求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。つまり、その願望が霊的に一種のバイプレーションを引き起こし、そのバイプレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。

   アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓(1)』
     (近藤千雄訳)潮文社、1988、pp.169-171


       ***** 

 4-c (祈りの効果は、祈る人の地位には関係ない)

 地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊カが具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、スジの通らない教義に疑り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。
 祈りとは本来、自分の波長をふだん以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来事のすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことはできません。

     『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1986、p.47


      *****

 4-d (シルバー・バーチの祈り) -1-

 神よ−天地の創造主、至尊至高の絶対的なカ、全存在の宿命の統括者にまします神よ、私たちはこれまであなたの得さしめ給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。
 私たちの為に暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私たち自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私たちを栄光と光輝とによりて温く包んで下さったその叡智に対して深く感謝いたします。
 私がこうして存在することの真の理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私たちをお導き下さるその愛に深く感謝いたします。
 また、私たちのために真理普及の道を切り開いて下さった先達の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者たち、その他、宗教家、哲学者、賢聖−ーそのうちのある者は地上にては名も知られず、死して漸くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかれずにおりますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。
 これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。皆々と共に感謝の言葉を捧げるとともに、代りて私たちがあなた御カの通路となり、あなたの御計画堆進の一翼を担い、御子たちのために役立つことができますよう導き給わんことを。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

    アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓(1)』
      (近藤千雄訳)潮文社、1988、pp.196-197


     *****


 4-e (祈りは誰に向けられるべきか)

 とても良い質問です。人のために何とかしてあげたいと思われるのは真摯な魂の表われです。全ての祈り、全ての憧憬は神へ向けるべきです。ということは、いつも嘆願を並べ立てなさいという意味ではありません。
 たびたび申し上げているように、祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。そうすることが結果的に私たちの生活を高めることになるとの認識に基いてのことです。意識を高めるということは、それだけ価値判断の水準を高めることになり、かくして自動的にその結果があなた方の生活に表われます。
 何とかして宇宙の心、宇宙の大中心、宇宙をこしらえた神にまず自分が一歩でも近づくように、真剣に祈ることです。それから、何とかしてあげたいと思っている人がいれば、その方を善意と、ぜひ自分をお役立てくださいという祈りの気持で包んであげることです。
 ですが、それを自分が愛着を覚える人のみにかぎることは感心しません。たとえ崇高な動機にに発するものであっても、一種の利己主義の色あいを帯びているものだからです。それよりはむしろ全人類のためになる方法で自分の精神が活用されることを求めることです。ということは、日常生活において自分と交わる人に分け隔てなく何らかの役に立つということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1985、pp.168-169 

     *****


 4-f (シルバー・バーチの祈り ) -2-

 神よ、私たちはあなたの完璧な摂理の背後に秘められた完全なる愛を説き明かさんと努力している者でございます。人類はその太古よりあなたがいかなる存在であるかを想像しながらも、その概念はいつも人間的短所と限界と制約の上に築かれてまいりました。
 宇宙の生命活動を律するその霊妙な叡智を人間は幽かながら捉え、それを人間に理解できる言葉で説明せんとしてまいりました。あなたの性格を人間のすべてに共通する弱点と欠点と感情を具えた一個の人間として想像しました。気に入った者には恩寵を与え、気に入らぬ者には憤怒を浴びせる人間味むき出しの神を想像いたしました。その後の進化に伴って人間の知識も進歩いたしましたが、この大宇宙を創造した究極の存在について想像したものは真のあなたの姿には遠く及びません。
 無限なる存在を有限なる言葉で表現することは所詮いかなる人間にも不可能なのでございます。あなたの尊厳の神性、あなたの愛と叡智の永遠性は、五つの感覚のみの物質の世界に閉じ込められた人間には真実の理解は不可能なのでございます。
 そこで幸にして実在の別の側面を体験させていただいた私たちは、あなたが定められた摂理の存在を説いているところです。すべてを包含し、すべてを律する法則、不変不朽の法則、無数の生命現象に満ちた宇宙における活動を一つとして見逃すことのない法則、すべての自然現象を律する法則、人間生活のすべてを経綸する摂理に目を向けさせようと致しているところでございます。
 一宗一派に偏った神の概念を棄て、宇宙がいかなる法則によって支配されているかを理解することによって、そこに連続性と秩序とリズムと調和と完全なバランスの観念が生まれてまいります。一人一人が無限なる組織の中の一部であり、自分一個の生命活動もあなたのご計画の中に組み入れられていることを自覚いたします。
 私たちの仕事は人間の霊に宿されているところの、人生に輝きを与えるはずの資質、いまだに未知の分野でありながら莫大な可能性に満ち、その活用によって人間生活に豊かさと生き甲斐、壮厳さと気高さ、人生観を一変させてしまう広大なビジョンと精神的飛躍を与えるところの魂の秘奥を明かすことにあります。
 それこそ人間を永遠なるものとつなぐものであり、それこそあなたがお授けくださった神聖なる属性であり、それを開発することが少しでもあなたに近づき、存在の意義を成就し、あなたの遺産を相続することになるものと信じるのでございます。
 かくのごとく私たちは人間の霊的成長を促す分野に携わる者です。そこが人間がこれまで最も無知であった分野だからでございます。その無知の暗闇を払いのけることによって初めてあなたの真理の光が人類の水先案内となりうるのです。闇の存在はことごとく消え去り、あなたの御子たちは、あなたの意図されたとおりに自由に堂々と、神性を宿す者に相応しい生き方に立ち帰ることでございましょう。
 ここに、ひたすらに人類のためをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1985、pp.212-214 

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 4-g [44-a] (シルバー・バーチの祈り) -3-

 神よ、あなたは一体どなたにおわし、いかなるお方におわすのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 私たちは自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間に目を向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
 そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心をもつ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて--- 物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
 あなたの子等のすべてがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すペての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インデイアンの祈りを---無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして---捧げ奉ります。

  『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.184-186

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 4-h (シルバー・バーチの祈り =4=

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性におわします。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理におわします。全存在を支える力におわします。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。
 私たち(霊団の者)はあなたという存在を絶対的法則---不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞讃の念を倍加することになりました。
 私たちほ今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。
 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における"死″の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同士のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。
 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにしてあなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡智と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。
 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。
 ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.216-217

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 4-i (型にはまった祈りには効果がない)

 祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴えるカをもった波動を起こすことも出来ません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。
 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫も変えることはできません。人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りはすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的ないし霊的行為であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応はかならずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたパイプレーションが生み出す自然な結果です。
 あなた方を悩ます、全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と直正面から取りくんだ時---解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。
 ところで、いわゆる"主の祈り″(天にましますわれらが父よ、で始まる祈祷文。マタイ6・9〜13、ルカ11・2〜4 訳者) のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起原においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)時代から二千年近くも過ぎました。その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句のとおりを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人にわかりやすい言葉で述べたことは事実です。
 今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらいお判りになるでしょう。完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。
"御国の来まさんことを″などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。かならず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛かっております。そういう時代が来ることは間違いないのです。しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛かっているということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.218-221

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 4-j (人間の神性を称えるシルバーバーチの祈り)=5=

 神よ、私たちはあなたの永遠の真理、あなたの無限の力、あなたの不変の摂理の生き証人でございます。あなたの聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。
 私どもは昇りゆく太陽の中に、沈みゆく太陽の中に、夜空のきらめく星の中に、大海の寄せては返す潮の中に、そよ風とその風に揺れる松のそよぎに、やさしい虫の音に、澄み切った青空の中に、そのほか移り変る大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見出すことができます。
 また、あなたは生きとし生けるもののすべてに宿る霊の中に見出すことができます。人間においてそれは意識を有する個的存在として顕現しております。あなたとともに宇宙の限りなき創造の大業に携わらしめるために人間をその高き段階へとお引き上げくださったのでございます。
 あなたは人間にあなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。人間はその霊的資質を有するが故の当然の成り行きとして、物的生命を超えたより精妙なる力、すなわち霊力を知覚せしめるところの霊的能力を有しております。
 人生を営むことを可能ならしめているものは、その霊力にほかなりません。人間を全創造物から超脱せしめているものもその霊力にほかなりません。思考をめぐらし、判断を下し、反省し、決断し、美に感嘆し、美を賞美し、叡智を授かり、その真価を悟り、知識を獲得し、それを大切にする能力も、霊カあればこそでございます。
 より高き世界からのインスピレーションを感受せしめるのも霊力でございます。人生の重荷に耐えかねている者のもとへ赴くことができるのも霊力あればこそでございます。霊の世界の存在を知覚し、その世界の居住者が人間をより広き奉仕的行為のために使用せんとしている事実を認識することができるのも、霊の力ゆえでございます。果てしなき宇宙の大機構の中に置かれた己れの位置を理解せしめるのも霊の力でございます。私たちは人間にそうした本来の役割を成就せしめるものについての知識、死後に赴く世界にふさわしきものを身につけさせるものについての知識を広めんと希望している者でございます。
 そうなってはじめて人間は、いま目を曇らせている暗闇をみずから払いのけることを得ることでございましょう。そうなってはじめて叡智と真理と悟りと調和と平和の中に暮らせるようになることでございましょう。そうなってはじめて同胞があなたとの真のつながりと生きる目的、そして人間が死と呼ぶ扉の向こうに待ちうけている、より大きな生命の世界の存在を理解する上で力となることができることでございましょう。

    『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.222-224

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 4-k (相互扶助の尊さを称えるシルバーバーチの祈り)=6=

 神よ、私たちはあなたの真理、あなたの叡智、あなたの愛、そしてあなたの、永遠なる自然法則の理解を広めるために、力のかぎりあなたの忠実な子供たらんと願っている者でございます。地上のあなたの子等にあなたの無限の機構の中における存在価値を理解させること---真の霊的自我を見出し、暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界にあって、あなたから授かった力を発揮するように導いてあげることを願いと致しております。私たちは霊的実在についての単純素朴な真理---正義と権利と善と美の永遠の基盤であるところの真理を説かんと致しております。道を見失える者、いずこにあなたを見出すべきかを知らずに迷える者に対しては、あなたが彼ら自身の中に存在すること、あなたの無限なる霊がみずからの存在の内部にあること、まさしく天国は彼らの心の中にある---よろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国は自分の心の中にあるという事実を教えることを目的と致しております。
 私たちは悲しみに暮れる人々、人生に疲れた人々、病める人々、困窮せる人々、肉身を失ったまま慰めを得られずにいる人々、いずこに導きと英知を求めるべきかを知らずにいる人々に近づき、あなたがその人々をけっしてお見捨てになったのではないことを教えてあげたいと願っている者でございます。私たちの使命は地上のすべての地域とその住民にいっさいの分け隔てなく行きわたっております。あなたの霊は人間界のすみずみまで流れ、雄大なる宇宙のあらゆる現象に現われ、意識的存在のすべてに顕現されていると認識するゆえにございます。
 その事実を認識することによって新たな安らぎが得られ、それは、ひいては人間の心と魂と精神を鼓舞してお互いがお互いのために生きる意欲を誘い、あなたの子のすべてに分け隔てなく奉仕することによってあなたに奉仕することになることでございましょう。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.224-225

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 4-l (シルバー・バーチの開会の祈り) -7-

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。あなたは決して無知な人間が想像するごとき嫉妬ぶかい、横暴な方ではございません。また残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。
 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹きが創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理---絶対に誤らず、絶対に連続牲を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はありえないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有りえないのでございます。なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。
 しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性のすべてを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。
 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。すなわち、あなたの霊は彼らのすべてをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。
  私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理---霊眼を開き霊耳をもって聞き霊力の働きかけに素直にしたがって霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場をとる無数の霊に呼びがけております。これこそが私どもの祈り---心から、魂の奥底から湧きでる願いであるとともに、可能なかぎり人のために己れを役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。その目標へ向けて私どもは真摯なる気持で自信をもって邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。

   『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.5-7

     *****


 4-m (シルバー・バーチの閉会の祈り) -8-

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場をあとにいたします。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。
 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申し上げます。
 あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。

     『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.8


     *****


 4-n (交霊会におけるシルバー・バーチの開会の祈り =9=)

 神よ、いつの時代にも霊覚着たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間見ておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる壮厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。不意の霊カのほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり---全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。
 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉毀損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿---愛と叡智と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。
 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。そうすることによって子等もあなたの存在に気づき、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。
 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上から一掃することができましょう。そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。
 ここに、己を役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

  『シルバーバーチの霊訓 (6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.8-9

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 4-o (祈りはどのようにして霊界へ届くか)

 この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.46


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 4-p (交霊会でのシルバー・バーチの祈り) -10-

 神よ。私たちは到達しうるかぎりの高く尊く清きものとの調和を求めて祈りを捧げるものです。私たちはあなたの中に完全なる愛と叡智の精髄と、宇宙の全生命活動を支配する永遠不滅の大精神の存在を確信いたしております。小さき人間の精神ではあなたのすべてを捉らえることはできませぬ。それゆえに人間が抱くあなたについての概念は、ことごとく真理の全体像のおぼろげな反映にすぎないのでございます。
 しかし同時に私たちは、全宇宙をその愛の中に抱擁し、規律と不変性をもって、過失も欠陥も汚損もなく統括し支配している絶対的摂理の驚異を理解することはできます。すなわち、あなたはその叡智によって全存在の一つ一つの側面、活動の一つ一つが管理され、すべてが一つのリズムのある、調和のとれた宇宙機構の中で滞ることなく流動しております。その中にあってあなたの子等はそれぞれの定められた位置を有し、全体に対して必須にして不可欠の役割を演じているのでございます。
 その一つ一つの小さな火花があなたの巨大なる炎の存在に貢献いたしております。私どもは各自に潜在する未熟なる霊の萌芽がその始源であるあなたとのつながりに気づき、永遠に切れることのない霊的絆で結ばれていることを悟ることによって、その霊性を存分に発揮することになるよう指導いたしております。
 私たちの仕事は、人間がいま発揮している資質よりさらに精妙なる霊的資質を発揮することによって、今は手の届かない高所を目指し、待ちうける宝の宝庫へ一歩でも近づこうとする向上心を鼓舞すべく、力と知識と叡智の源であるあなたの存在を説くことにあります。
 宇宙には、資格ある者なら自由にそして存分にわがものとすることのできる、莫大な霊的宝庫が存在いたします。そして地上よりはるかに広大な生活の場における新たな体験から生み出された叡智によって、地上世界に光明と豊かさをもたらさんとしている進化せる先輩霊もまた無数に存在いたします。その活動の障害となるのは偏見と歪曲、迷信と無知、そして人間生活の暗黒面に所属するものすべてが蓄積せるものです。
 私たちは地上世界を知識の照明によって満たし、人間がつねに真理によって導かれ、あなたの愛の存在に気づいてくれることを望んでやみませぬ。そうすることがあなたからの豊かな遣産と崇高なる宿命を悟らせ、手にした真理に則った生活を送らせてあげるゆえんとなるからに他なりませぬ。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.15-16


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 4-q (神が全生命に宿っているのに特に祈る必要はあるのか)

  その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列にすぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。
 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟---これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。
 言いかえれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.205


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 4-r (祈り求めたものはすでに授けられたのと同然か)
    −「汝が祈り求めるものは
       すでに授かりたるも同然と信ぜよ。
       しからば汝に与えられん」
       というイエスのことばに疑問を抱くある女性に対して−


 この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気拝があれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気にくわないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.206


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 4-s (シルバーバーチの祈り) -11-

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。
 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝のいくつかを明かさんとしているところでございます。
 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたのあるがままの姿---完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解のすべてを取り払わんとしております。
 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなたから隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てをしろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。
 それゆえに私どもは、その摂理---これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝きわたることでございましょう。
 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。
 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身につけた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性をもつ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.207-209


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 4-t (シルバー・バーチの交霊会開会の祈り =12=)

 神よ。みずからに似せて私たちを造りたまい、みずからの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係をいっそう緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。
 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導きたまわんことを祈るものでございます。
 私たちは、これまであまりに永きにわたって御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛にほかなりません。
 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。
 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒やし、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。
 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人たちに対し、そして又、今なお霊力の地上へのいっそうの導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。
 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己れを役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp. 2-4


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 4-u (交霊会でのシルバーバーチの祈りから =13=)

 内部に宿るあなたの霊こそ、私たちが何とかして発揮させてあげたいと願っているものでございます。それを発揮することによって初めて人間は神性をもつ存在としての限りない美質、豊かさ、光輝、威厳、壮大さ、気高さを真にわがものとすることが出来るのでございます。
 そうした資質を自覚することによって人間は自我意識を高め、自分を物的なものに縛りつけている拘束物の幾つかを切断し、未開発の精神と霊の豊かな遺産を手にすることが出来るのでございます。かくしてインスピレーションと叡智と啓示と真理への窓を開くことになります。それらは高き世界からの恩寵としてこれまでも脈々と流れているのであり、人間の受容力に応じて受け入れられているものでございます。
 その流れは常に壮大にして崇高なる霊力を伴っております。霊力こそ生命の源泉であり、強力にして生命力にあふれ、病の人には健康を、衰弱せる人には元気を、迷える人には導きを、そして今なお暗闇の中にいる人には光明をもたらすのでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.84


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 4-v  (真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るもの)

 真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るものです。神に挨拶するための機械的な口上手段ではありません。スピリチュアリストをもって任じている人も、もし日常生活においてその霊的真理の意味を生かすような生き方をしていなければ、何の徳にもなりません。私たちはラベルは崇めません。大切なのは、自分はこういう者ですとみずから称していることではなくて、ふだん行っている行為です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.117-118

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 4-w (シルバー・バーチの交霊会開会の祈り =14=)

 開会の祈り(Invocation)

 これより霊的世界に属する摂理の一端を啓示させていただくに当たり、その成功を宇宙の大霊にお祈りいたします。
 大霊について、また大霊と宇宙間の全生命現象およびそこに住まう大霊の子等とのつながりについて、より明確な理解を得さしめることができますよう、お祈りいたします。
 幾世紀もの永きにわたって大霊はあまりにも誤解され、小さく見くびられ、制約されてまいりました。そこで私どもは完全なる法則の働きとしての大霊の其の姿を啓示せんとしているところでございます。
 大霊はすべての生命現象の背後に存在するものでございます。宇宙間に存在するものはすべて大霊の活力と栄養を得ているからこそ存在できているのでございます。
 進化のあらゆる段階にある創造物がその摂理に絶対的に従っております。雄大なるものも慎ましきものも、強きものも弱きものも、小鳥も花も、木も風も、海も山も、丘も谷も、晴天の日も雨の日も、嵐も稲妻も、およそ大霊の表現でないものは無いのでございます。
 私どもはすべてが大霊の霊的イメージに似せて創造されていること、その存在を通して大霊の神性が表現されていること、動き呼吸し生きていられるのは大霊が内部に宿っているからであり、また大霊の内部に存在しているからであることを啓示せんといたしております。
 その親と子の関係に割って入れる者は誰一人いません。なぜなら、無限なるその貯蔵庫に納められている全インスピレーション、全真理、全叡智、全摂理、全知識は、子等が向上心と謙虚さと奉仕的精神をもってその道具となることを望みさえすれば、誰にでも手にすることができるものだからです。
 また私どもは人間の魂の中に例外なく潜在している偉大さ、誤解によって閉じ込められ、使用されることを待ち望んでいる強大な力、日常生活の中で身体を通して勢いよく顕現して霊的高揚を覚えさせる力をお見せしたく思っております。すべての子等が充実した生活、美にあふれた生活、地上に生をうけた目的を得心した生活を送り、望みさえすれば得られる地上ならではの豊かさと愉しさと利点を手にしてほしく思うのでございます。
 要するに私どもは大霊を子等に近づけ、また子等を大霊に近づけ、立ちはだかる障害を克服し制約と限界を無くして、子等が大霊の存在を知り仕事の中でその御心を顕現して行けるようにしてあげることを目的としているのでございます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

     『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 208-210

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 4-x (シルバー・バーチの交霊会閉会・感謝の祈り =15=)

 感謝の祈り(Benediction)

 私は、たとえ声は聞こえなくても、たとえ姿は見えず手に触れることはできなくても、私たちが常にお側にいることを皆さんに知っていただきたいと思います。
 愛するが故に私どもは皆さんのまわりに、またすぐお側に待機しており、その愛が、皆さんにそして皆さんを通して愛を必要とする人々に手を差しのべることを可能にしてくれるのです。
 か弱い人たち、元気を失くした人たち、路傍に倒れている人たち、社会の落伍者たち、いずこへ向うべきかを知らぬまま人生に疲れ果てている人たち、もはや俗世の宗教に安らぎを見出すことができず、しかもなお真実を求めている人たち、魂は自由を求めつつも教義とドグマと、対立する宗派の教えによってがんじがらめにされている人たち―こうした人たちに愛の手を差しのべることができるのでございます。
 私どもの教える真理は永遠にして無限なる大霊の真理です。一人のものではなく、すべての人に分け与えられるべきものです。全人類