学びの栞 (B) 


 2. 生と死(あなたは死後も生き続ける)


 2-a (死後のいのち)

 昔のほうが、もっと人々は死の問題に事情が通じていて、天国や死後のいのちを信じていました。肉体が死んでしまった後にもいのちが存在することを本当に知る人がどんどん少なくなったのは、おそらくここ百年はど前からでしょう。でもいま、私たちは「新しい時代」にいます。おそらく私たちは、科学と技術と物質至上主義から、純粋で本物の霊的な時代へと移行したようです。これは、信仰という意味ではありません。霊性という意味です。霊性とは、私たち個人を越えたずっと大きな存在、この宇宙を創造し、いのちを創造した存在があるという気づきであり、自分がその存在のかけがえもなく大切で意義のある一部であって、そうした存在の発展に大きく貢献できる、という気づきです。
 私たちはみな、いのちの源泉から、いや神から生まれたときに、神性という面を授かりました。それは、私たちが文字通りその源泉の一部を内に持っているという意味です。つまり、それが私たちに永遠なる英知を与えてくれるのです。多くの人が感じ始めているとは思いますが、自分の肉体は単に住居や神殿、あるいは私たちの言うマユに過ぎず、死という移行を迎えるまでの何カ月か何年かの間、住むところなのです。そこで、死にゆく子供たちやその兄弟たちに説明するときに使う象徴的な言葉を使って言うと、死が訪れるとき、私たちはマユから出て、チョウのようにもう一度自由になるのです。

  エリザベス・キュブラー・ロス『死後の真実』
    (伊藤ちぐさ訳)」日本教文社、 1996.pp.79-80

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 2-b [23-f] (死んでも真のあなたは朽ち果てて灰と化すわけではない)

 自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、いったい何が起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中に思考をしている存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もしあなたが死ぬと決めたのなら、真のあなたは、地中に埋められ、朽ち果てて灰と化すわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界であなたがいたところだ。そこであなたは、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、すべては冒険でしかないのだ。そしてあなたは、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけここ地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 82

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 2-c (生命は決して終わることがないという偉大な真実を忘れるな)

 ・・・ひとつ偉大な真実を話しますから、これだけは絶対に忘れないようにしてください。生命はけっして終わることがありません。確かに身体に危害をおよぼすことはできます。首を斬ることだろうが、内臓をえぐり出すことだろうが、どんなひどいことでも可能です。でも、その化身の内に生きる人格=自己は、絶対に滅ぼすことはできません。思考や感情をいったいどうやったら破壊できるか、ちょっと考えてみてください。思考を爆破できるのか、刃物で刺すのか、それともそれに戦いをしかけるとでもいうのでしょうか? それは不可能です。人間でも動物でも、ここに生息するすべての生き物の生命力は、身体という仮面の影に生きている人格=自己、つまり目に見えない思考と感情の集合体なのです。
 死は大いなる幻影です。なぜなら、いちど創造されたものはけっして消滅させられないからです。死とは、肉体だけの死なのです。肉体の内に宿り、それを操る本質の部分は(もしそれが望むのなら)、すぐにこの場所に戻り、もうひとつ別の化身と統合されるのです。肉体の壁の内に生きる生命力は、生き続けていくからです。それを覚えておきなさい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 86

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 2-d (この地上界から去ると人は身体の本能や感覚から解放される)

 さて、この地上を去った存在がどうなるかについてお話しましょう。身体がその機能を失うと、エネルギー、つまり魂は、この存在の精霊によって引き抜かれます。すべてのものには魂があります。動物もやはり魂と精神を持っているのです。もしそれがなければ、生命を維持していくのに必要なエネルギーと創造性を持つことがなくなってしまいます。
 精霊が魂を呼び出し、それまで宿っていた空洞からそれをはずしてやると、すべては落ちつき、平穏が訪れます。皆の宗教に関係のある言葉がありますね。「見よ、神のゆりかごにおいては痛みすでになく、涙も悲しみもなし」それは真実です。というのは、この地上界から去ると、人は身体の本能や感覚から解放されるからです。つまり、もはや恐怖や身体の痛みなどは感じなくなるということです。飢えも、そして不安をつくり出す「時間」という幻もなくなります。肉体と関係のあるものはすべて消滅し、あなたはユートピアと呼ばれる場所に行きます。「神のゆりかご」にいるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 86-87

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 2-e (死の瞬間にあなたは物質の固体性から脱出し光の存在に戻る)

 身体の死は、ちょうど眠りに入るのに似ています。精霊が魂を呼びよせると、魂はシールとかチャクラとか呼ばれる身体のエネルギーの中心点を通りながら、上昇していきます。魂とは、ひとことで言うと記憶ですが、頭の中心に位置する最後のチャクラである第七チャクラ、つまり脳下垂体と呼ばれる部分を通って身体の細胞組織を離れます。ここを通過するときが、よく風の音を聞きながらトンネルを通っていくような感じとして体験されるのです。トンネルの向こう側に見える光が、あなたという存在の光、あなたという存在の精霊なのです。魂が身体を離れると、身体はその生命を終え、存在は自由な魂=自己となります。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みもありません。
 死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいくらい明るくなってきます。この地上界を去る瞬間に、あなたは物質の固体性から脱出し、光の存在に戻るのです。そこでのあなたは強力な心と感情だけの存在で、身体も光のかたまりとなり、自分の光体を通して受け容れた思考によって、その電気的な形態が変わる状態となります。そこからは、七つの天界のうちのひとつに行くことになります。どれに行くかは、この地上界にいたときに感情面で表現されていた態度、つまり意識のレベルによって決まります。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 87-88

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 2-f [9-k] (あなたは自分の死を早めるために努力をしているようなもの)

 死というのは肉体の終わりに過ぎず、人格=自己の終わりではありません。しかし、身体の生命力が衰退し、死と呼ばれるものへと身体が誘われていくのもまた、人格=自己が持つ価値観を通してのことなのです。
 あなたの身体は、指示されたとおりにしか反応しません。心臓のそばに宿っている魂が、感情というシステムを通して、身体をすべて管理しているのです。この魂が、化身の生命を維持するために、全身にホルモンを分泌させています。魂はこれを独自にではなく、あなたの価値観や思考過程の指示のもとに行なっています。いまこの次元で生きる皆が持っている価値観のおかげで、思春期を過ぎると体内での各種ホルモンの生成は止まってしまいます。これらホルモンの生成がやむと、ある種の死のホルモンが体内で起動し、全身が衰退して、老いて死んでいく過程が始まるのです。体内で死のホルモンがつくられるのは、あなたが罪悪感と、自分に対する審判と、そして死の恐怖の中で生きているからにほかなりません。皆にとっての美とは、人の内面の性格ではなく、すべて外見的な若さにもとづいたものです。自分を埋葬するための保険をかけることで、あなたは死を予期します。自分が病に倒れたりしたときに自分の財産を守るべく保険をかけます。自分の化身の老化と死を早めるために、あらゆる努力をしているようなものなのです。なぜなら、あなたはそれをまったく当然のこととして予測しているのですから!
 身体はただの僕(しもべ)に過ぎず、思考全体のための道具なのです。確かに驚異的な創造物で、この世で最も高度な道具です。しかし、それ自体の心を持つようにはつくられていません。それは、僕になるという特定の目的のためにつくられたのであり、あなたが生かしておきたいと思う間だけ生きているのです。あなたがもし「老年」という想念を受け容れ、身体が衰えて死ぬことを当然のことと考えるなら、あるいは自分が愛と幸福とよろこびを得ることを拒むならば、あなたの身体はゆっくりと死の崩壊へと落ち込んでいくことでしょう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 116-117

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 2-g [57-b] (不死は死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になる)

 いつもいまを生きることです。このいまの瞬間のほかには、どんなものであろうと未来の存在を認めてはいけません。あなたの現在は、自分さえそれを許せば、永遠になるのです。自分があとどのくらい生きるかなどと考えをめぐらせてはなりません。あなたはずっと生き続けます。自分の身体の永続性のことを思うのです。そうすれば、そうなります。真実とはまさにそういうものなのです。
 主よ、自分を愛しなさい。身体を祝福してあげなさい。あなたの存在の盟主である魂に語りかけ、若さの酵素をもたらすよう命ずるのです。それだけでよいのです。身体は永久に生きられることを知りなさい。
 不死は、死ぬという考えをなくしたときにはじめて達成可能になります。人類全体がもし未来や過去に生きるのをやめ、この現在という、いま起きている瞬間の繰り返しの中に生きるようになり、生きるという考えが死よりも強いものになれば、死と呼ばれる茶番は消滅させられるでしょう。将来、それは必ず消滅します。なぜなら、時間はもはや存在しなくなり、ここで語ってきた叡智は、この地上に生きるすべての人にとって生きた現実となっているからです。そうなれば、死はまったく意味のない無の存在と化すのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 118-119

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 2-h [51-i] (人が死ぬのは老いることを真実として認めているからである)

 この生で昇華する人は、ほとんどいないでしょう。それは、ここで教えられていることの真の意味を悟り、それを理解する人があまりいないからです。ほとんどの人は死ぬことでしょう。それは、老いること、衰えていくことを真実として認めているからであり、自分を運んでくれているこのすばらしい機械も、見栄えのいい間しかきちんとした世話をしないからなのです。だから彼らは年老い、身体はだんだんと衰弱していき、死を迎えるのです。すると精神と魂は身体との連結から解放されます。でも、この物質密度の次元にまた戻ってこようとすると、自分を表現するための媒体がまた必要になります。こうして、再び主がたくさん生まれてくるというわけです。
 ほとんどの人は死にます。しかし、だからといって、それですべてが終わりというわけではありません。それは単に、ひとつの化身という仮面が取り去られ、また別の仮面を見つけなければいけないだけのことです。しかし、もしここに戻ることを選ぶならば、昇華を促すような意識に戻ってくるでしょう。もうすぐそれは、よく理解された当たり前の現実となるからです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 119

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 2-i (現代人の大半は死んでしまえば終わりと思いこんでいる)

 現代人の大半は、死んでしまえばそれまでである、と肉体消滅によって人間の生活は終了する、と思いこんでいる。この考えほど、人間の神性を隠蔽するものはないのである。
 肉体が死ねば確かに肉体は人間の原形をとどめず、灰になってしまう。肉体という形は消滅し去る。肉体人間の眼の前から、その人の姿は永遠に消え去ってしまう。しかし、はたしてその人は再びこの肉体界に現われることはないのであろうか。
 肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。肉体は何兆という細胞が種々の要素を仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の放射した光波(念)が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波(念)がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしまうのである。
 もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくなった上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。
 上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまった、という人はいない。ただ着手であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、ということなのである。
 いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、のみである。私はこの肉体要素を魄(はく)とよんでいる。
 肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。ここの生活は、肉体界の波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を営む。ただしこの世界は想うことがすぐ現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかなか現われぬ世界とは違う。想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようでなかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するのである。何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なかなかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。一生わからないこともある。しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人はすぐ憎みかえされ、だます人は、すぐにだましかえされる。憎み、悲しみ、恐れ、不正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。
 こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。これらを浄めるべく努力することにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁となって、肉体界に再生する。今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。かくして何度か再生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。この幽界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を、魂魄(こんぱく)という。いいかえれば、霊とは神であり、神性であり、魂魄を因縁性とよぶのである。従って、分霊は、霊界に本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂魄であるといえるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.25-27

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 2-j[70-b] (人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない)

 人間世界におけるすべての不安の根底は死の恐怖にある。
 いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、その苦しみは、心の痛みにはならない。
 死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。
 死は人間にとっての終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間の進歩は一段と早まるに違いあるまい。
 人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない。これは先章から私が説いていることなのである。
 死とは幽界(以後は霊界をも含めて)への転出なのである。肉体の死とは幽界への誕生なのである。
 死ぬことを往生といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。
 肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.51

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 2-k[24-a] (皆さんに証明しますが私は死んでもなお生き続けるのです)

 新たに解放された精神の力すべてを行使して、新しい友達に、生まれ変わったドイルを見てもらいたいと思います。私は昔の地上での生活や出来事のこまごまとした問題には、もはや関心がありません。そうしたことが、関わりのある人の霊的な発達に影響を及ぼす場合は別ですが。とはいえ、その場合でも、霊的な生活の基礎となるべきものについて話をすることを除いては、その人を助けてあげることはできません。
 たしかに、昔のドイルは死につつあります。しかし、皆さんに証明いたしますが、私は死んでもなお生き続けるのです。それは間違いありません。しかし、二度目の死を体験した人には、よけいな飾り物は何もありません。その崇高な体験の後では、純化された精神だけしか残らないのです。あの二度目の目覚めの素晴らしさ! そのとき、私はただひとつのことしか意識していませんでした。ただ一つ! それは、神の私に対する、そしてすべての人間に対する愛の奇跡、その愛の無限性、その愛の全体性でした。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.162-163

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 2-l (何度も繰り返しますが私たちは死後の世界で今現在生きています)

 何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。人間は死後も生き残るだけでなぐ、すべての生命の背後には普遍的かつ創造的な神の力が働いているということ、そして、人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛に生きる気持ちになるまでは、人間はけっして永続的な心の安らぎ・幸せ・調和を見いだせないということを証明したいのです。
 すべての存在との同胞愛が、まず第一になければなりません。その次に大切なのが、地上での生活をいとなんでいる間に天国と接触することによって得られる新しい自由です。そうです。同胞愛、偉大な同胞愛が、天国と同様に地上でも実現すること、それが理想なのです。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.244

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 2-m[7-a] (死んだのではなくどこか遠くに行ってしまったのでもなく)

 私が長い年月にわたって心霊主義の福音を広げようとしていたとき、私の主な関心事は愛する人を亡くした人々に慰めをもたらしたいということでした。同胞に対する人間的な暖かい愛に満ち満ちている一人の人間として、また愛する家族をもつ一人の人間として、私は後に残された人々に心から同情しました。
 そうして悲しんでいるかわいそうな人たちに、彼らが失った人々は死んだのでもなければ、どこか遠くに行ってしまったのでもなく、非常に近いところにいて、コミュニケーションをはかることすらできるのだということ、そして、彼らは安らぎと喜びの中で生活しているのだとわかってもらうこと、それが私の最大の関心事だったのです。当時の私にとっては、これは本当に大切な悟りともいうべきもので、これに比べれば、他のことはさほど重要ではなかったということがおわかりいただけるでしょうか。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.245

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 2-n[75-b](生命は終わることのない周期であり死という現実はない)

 これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼすことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死はけっして君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実はありえないと理解するでしょう。
 新しき人間にとって、初めも終りも存在しないのです。なんとなれば、新しき人間は、生命は終わることのない“周期”であり、この周期は常に進化し、常に回転し、すべての人間の魂を周期の腕の中に永遠に抱擁してくれている、と理解するからです。もしひとりの人が一つの法則を破るならば、神の定めた一つの真実を犯すならば、すべての人間の幸福を脅かすことになるのです。
 世界がこのような救済を体験する前に、艱難辛苦を通して同胞との魂の絆の結合をはからなければなりません。現在あなた方の地球には、物質主義によってもたらされた大きな破壊が進行しているのが見えます。これは死にほかなりません。物質主義による死にほかなりません。そして、ついでにいえば、物質主義そのものの死の始まりでもあります。
 物質主義はそう簡単には死にません。かくて苦しみが訪れることになります。人間が物質の富の神をかくも長くかつ絶えず崇拝してきたのですから、これはしかたのないことです。人類が非常な苦痛を体験した後に訪れる新たなる始まり、霊的な悟りと理解が達成された、光に満ちた新しい時代の到来が、私たちには見えます。やがて人間の共同体における生活の霊的な基盤が確立されるでしょう。すべての芸術、文化、科学、国政、宗教の活動において、人間は天界の叡智によってインスピレーションを与えられ、導きを与えられることでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.281-282

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 2-o[41-h](死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎない)

 人間の肉体の死は確かにこの世の全ての終りだということは物質界、自然界的に見れば正しい。だが、死を霊の立場、霊界の側から見れば、単にその肉体の中に住んでいた霊、肉体の中に住んでその肉体をこの世における一つの道具として使用して来た霊が、肉体の使用を止め、肉体を支配する力を失ったということに過ぎないのである。そして、霊はその後は霊界へと旅立って行くのだ。
 死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎないのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.31

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 2-p (死後二、三日間は死者の霊はまだ死者の肉体の中に残る)

 人間が死ぬと、その肉体に住んでいた霊は霊界へ旅立つことになるが、それまでには普通、この世の時間でいえば二、三日の間がある。死と同時に肉体の中の霊は眼ざめるが、このことを知って霊界からは他の霊(導きの霊)が死者の霊のところへやって来る。これは霊同士の感応が起きる結果である。そして、霊界からやって来た導き霊と死者の霊は、死者の死せる肉体の場所で、お互いの想念(考え)の交換を行なう。この交換のことは、また別の所で詳しく述べるが、これは死者の霊が、その後永遠の生を送るための大事な準備の一つなのだ。
 さっきいった死後二、三日間は死者の霊がまだ死者の肉体の中に残るという理由は、この想念の交換のためなのだ。そして、この間は死者の霊は死せる肉体の中で静かに音のない霊の呼吸を続け、また霊としての考えをめぐらしているのだ。
 「死者も考えている!」のである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.32

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 2-q[46-d] (人間が死んでまず最初に行く場所が精霊界である)

 この世の人間が死んで、まず第一にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、一たん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのだ。
 精霊界の広大さがどれほどのものであるかは私にも、あまりに広すぎて実はわからないくらいだが、日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて精霊界に入ってくることからだけでも、その広さは想像を絶する。
 精霊界はその広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峯々からなる大きな山脈に囲まれた中にある。その広さにおいては、この世に比べることのできるものとてないが、形と様相だけからいえば、山間にある大きな窪地だといってもよい。
 精霊界からは、その周囲を取りまく巨大な山脈の間のここかしこに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの眼にはふつうは見えない。彼らが精霊界において霊界へと移転する準備が終わったときだけ眼に見えるようになるのだ。だから、精霊界に住む精霊たちは霊界が存在することすら知らず、彼らは、ちょうど、この世の人々がこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけを全ての世界だと思って生活している。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.42-43

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 2-r[46-e] (死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊)

 精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。
 「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」
 このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
 「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きてあるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」
 そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
 人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。
 だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
 「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.45-46

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 2-s[54-x](人間が死んで精霊界へ行くと次第に元々の霊になっていく)

 一口でいえば人間の心の本性、心そのもののうちもっとも内面的なもの、本当の意味の知恵、理性、知性、内心の要求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらは全て霊の働きなのだ。これに対し、肉体はもちろん、眼や耳、鼻、舌、体の感覚といった肉体的、表面的感覚は全て物質界、自然界にそのもともとの住み家を持っている。
 人間が肉体的に死に霊(精霊)となって霊界(精霊界)へ行くと、その霊はもともとの霊そのものに次第になっていく。精霊でも初めのうちはまだ外部的感覚の残りかすや外部的記憶を持っているが、次第にこれらを捨て、もともとの霊の姿になり、また霊的感覚がすぐれてくる。もともとの霊の姿とは人々にもわかりにくいかも知れないが、もし人が社会や人との関係を全て捨てて夜半自分の部屋で瞑想にふけり自分の心の真の姿をのぞいたとすればこれが、その人のもともとの心の姿、霊の姿に近いといえよう。
 人は世間にあるうちは道徳、法律、礼儀、他人への顧慮、習慣、それに打算など網の目のような外面的なものにしばられ、あるいは知識のような表面的な記憶にわざわいされている。しかし、霊界ではこんなものは全て不要なばかりかじゃまものに過ぎない。これをだんだんに捨て霊のもとの姿に帰るために精霊界はあるのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.54

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 2-t[18-f] (学べば学ぶほど課題は難しくなる人生の学校)

 人はいつもわたしに死とはなにかとたずねる。死は神々しいものだと、わたしは答える。死ほど安楽なものはないのだ。
 生は過酷だ。生は苦闘だ。
 生は学校に通うようなものだ。幾多のレッスンを課せられる。学べば学ぶほど、課題はむずかしくなる。
 火事はその課題のひとつだった。喪失を否定しても無益である以上、わたしはそれを受容した。ほかになにができただろう? つまるところ、失ったものは「もの」にすぎない。いかにたいせつなものであれ、あるいはいかに痛ましい感情であれ、いのちの価値にはくらべようもない。わたしはけがひとつ負わなかった。すでに成人しているふたりの子どもたち、ケネスもバーバラも生きている。脅迫者たちはわが家と家財一式の焼き討ちには成功したが、わたしを滅ぼすことはできなかったのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.15-16

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 2-u[50-j] (自動車事故などでの突然の別離をどう捉えるか =2=)

 致命的な衝撃を受けたとき、愛する人は苦痛を感じたのだろうか、とよく依頼人に質問されます。ほとんどの場合、霊は記憶を失って覚えていません。つぶれた車体を見て、どこの気の毒な人が亡くなったんだろうと思ったりするそうです。命のない物体と化した自分の姿に気づいて、そこで初めてその体験を自覚するのです。
 霊が自分の死を理解すると、最初はかなり動揺し、狼狽します。なにしろ、死んだという実感がまだないのですから。事故死の場合、霊体は文字どおり肉体の外へ放りだされますが、身内や親しい友人、あるいは、ガイドがすぐそばにいて、死という転移を無事に終えられるように助けてくれます。
 そのおかげで、霊の姿となって命が続いていることにすぐ気づきます。自分の霊体に目をやり、これまでの肉体とそっくりだとわかるでしょう。時には病院で目覚める霊もいるかもしれません。ただし、それは現世の病院ではありません。親戚や親友が歓迎に訪れ、事故で亡くなったことを教えてくれるでしょう。
 どんな死もそうですが、特に突然死の場合、霊には新しい環境に順応するための援助と理解が必要なのです。ありがたいことに、そうした霊を助けてくれる美しい魂たちがいます。現世にあてはめれば、ソーシャルワーカーやセラピストにあたる魂です。彼らと同じように、霊的ヘルパーたちが不慣れな環境に新しく入ってきた霊を精神的に援助します。
 職業柄わたしは遺族の話を聞きますが、子供に先立たれることくらいつらい体験はないと親御さんたちがしばしば口にします。わが子の死に覚悟ができている人はいないでしょう。両親は自分たちのせいで子供を死なせてしまったと嘆き悲しみます。まるでわが子の死に責任があり、その気になれば死を防ぐことができたと言わんばかりです。しかし、その力があるのは神だけです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.103-104

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 2-v[1-h] (なぜ死によって存在が消えると人々は怖れるのか)

 この喪失の恐怖には死の恐怖が含まれます。(これはかつて学んだフロイト心理学につながるかもしれませんが)無意識のなかでは生きる欲求と本能が最も強いのだとわたしは確信しています。わたしたちの多くは元来、自我に根ざしていて、命の終わりを認めることすらいやなのです。そのために死を恐れます。死に対してわたしたちはまったくコントロール不能だという事実、そこからこの恐怖が生まれるのです。死とは絶対的な未知です。人間の感覚を超え、理性的論理的思考を超えています。予想がつかないためにわたしたちは未知なるものを恐れます。死を予期できないだけでなく、どこへ行くのか、そもそもどこか行く場所があるのか、かいもく見当もつきません。こうした恐ろしげな考えが、社会の未熟な死の通念にたえず肉づけされて、わたしたちの恐怖をいっそうあおりたてるために、残念ながら、死は究極のニュースとなります。
 死によって存在が消えるといまだに大勢の人びとが信じているのは不思議でなりません。このような固定観念を消し去り、五感を超えたものに対して人びとの心を開け放つためにも、わたしの仕事は重要だと感じています。霊のメッセージを愛する人に伝えた瞬間、人生が永遠に変わります。これまでの年月を振り返ってみて、わたしはこういった驚異の体験をヴィデオに録画しておけばよかったと思っています。人びとの反応を言葉で語るのはむずかしいものです― 至福に包まれた当人をまのあたりに見るようにはいきません。せめてこの本では、その感じを幾分かでもつかんでいただきたいと思っています。ふたつの世界―物質界と霊界―に交流の橋が架けられると、まさに奇跡的な再会が果たせるのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.195-196

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 2-w  (人が死ぬとどのようなことが起こるか =1=)

 死に際してどのようなことが起きるのか、これから典型的なケースを例にとって見てゆきたい。
 まず最初は、病院または自宅で自然死をとげた男性の場合である。たった今、肉体は機能を停止し、周囲には親族や医者や看護婦らが何人か集まっている。ところが彼自身はすっかり元気で、久しく味わったことのないような爽快さを感じている。いつもとひとつだけ違っているのは、自分が部屋の天井あたりに浮かんで悲嘆にくれる家族を見下ろしていることだ。当然、彼は驚いている・・・・・どうして自分はこんな奇妙なところにいるのだろう!すでに生命を失った肉体と、自分の姿を見ることのできない家族とを前にして、彼は後ろ髪を引かれる思いである。もし生前に霊魂の不滅を信じていなければ、彼はさらに動揺や混乱を感じるかも知れない。うまい具合にこの「死者」が広い心の持ち主であれば、肉体は死んだが自分は生きながらえているのだ、という事実を受け入れることになるだろう。
 噂に違わず魂の体には肉体へと結びついている「銀のひも」がついており、くだんの友があの世へ旅立つ前にこのひもは切れる。たいていの場合、新参者が新しい環境に順応できるよう手助けするために、事前に生前親しくしていたガイドが臨終の場に居合わせるよう取り決めがなされている。ガイド役は、かつての友人や先に亡くなった家族がつとめることが多く、今際の際にやってきて、これから新しく旅に出る者をなぐさめたり歓迎したりする。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.28

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 2-x (人が死ぬとどのようなことが起こるか =2=)

 臨終のパターンは多種多様だ。臨床死を宣告されてしばらくした後に息を吹きかえし、鮮やかな夢の話をする人びとの例を読まれたかたも多いだろう― 長くて暗いトンネルに入ると明るい光が接近してきて、ついには一種の天上界の法廷のようなものに出会い、そこで自分の人生を回顧してから送りかえされる、という話は、普遍的な体験というわけではない。ふつうみなさんは、そのような裁判には遭遇しないものだ。裁きを受けて永遠の破滅に追いやられる黄金の門など、決して存在することはない。こういった臨死体験が示すことがらは、天界において生と死を決断するプロセスとどこか似通っている。この場合わたしたちの側で問題となるのは、その人物が地上を離れるのに機が熟しているかどうか、という点だ。そこで彼らは、こちら側に来るか地上にもどるべきかを決める、一種の宇宙の裁判所の陪審員の前に連れていかれる。みなさんが読まれたのはすべて地上に送り返されたケースばかりだ。だがこれは決して宗教家たちの説く最後の審判ではなく、単にその人個人に関わる、一種の情報交換の場のようなものにすぎない。みなさん一人ひとりを取り囲む魂の領域から無数の支援がなされているが、これもそのほんの一例なのだ。
 ここでとくに強調しておきたいのは、みなさんの周囲にはみなさんと同様に完全な人格をそなえ、しかもこの世の身体を持たない魂がたくさん存在しており、みなさんの成長に心から関心を寄せているということだ。こちらでは、このような存在が行なっている仕事は多種多様で、さまざまなレベルにわたっている。ある種の決定― 特に生死に関わる決定などの場合― は比較的高いレベルのみにおいて行なわれ、地上に返ってきた魂のケースなどがこれにあたる。物質界の生活に戻るのが最良である、と高いレベルの魂たちによって判断され、そのように取り決めがなされたのである。
 さきに述べたケースではそのような最終判定は不必要であり、こちら側への移行は容易かつ自然に行なわれる。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.28-29

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 2-y (人が死ぬとどのようなことが起こるか =3=)

 あなたの知っている「自己」とは、あなたの存在全体からみればほんのわずかな部分にすぎない。物質界で生活してゆく上でもっとも有利なように、自己はごく狭い範囲に限定される必要があるのだ。だが死ぬと同時に、あなたがた一人ひとりの機能は飛躍的に拡大する。たとえてみれば急に千里眼の持ち主となってテレパシーが通じるようなもので、他人の考えを簡単に読み取ったり、多くのことを直観的に理解したりすることができるようになるのだ。まさかと思うだろうが、いったん肉体というわずらわしいものを脱ぎ捨ててしまえば本当にそのような状態になる。あなたは現実に周囲の人びとの考えを読み取ることができる― それも一切言語に頼ることなく。想念の伝達は言語を介さず、普遍的に理解される心の言語によって行なわれる。要は、周囲の人の考えや感情、人柄がすっかりわかってしまうということなのだ。
 もうひとつの重要な変化は、「覚醒」という驚くべきプロセスである。いましがた終えたばかりの人生の主目的は何だったのか、またその目的に向かって精力を傾注できたかどうかが一瞬のうちに明らかになる。こちら側からの自己評価や自己判定を見たなら、きっとみなさんは驚き悲しむことだろう。こちらへやってきて「目覚め」、自分が文字どおり人生という的を射そこなったことに気づく者は多い。彼らは本来の目的を忘れたり脇道にそれたりしてしまったのだ。だからといって、うまく目的を果たした者や本来進むべき方向に忠実だった者が少ないわけではない。しかし、こちらへの到着後ただちに自分が生前いかに盲目だったかを知って衝撃を受ける者を、わたしたちはあまりにも多く眼にしている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.30-31

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 2-z[56-u] (人が死ぬとどのようなことが起こるか =4=)

 間違った方向に進んでしまう者も多々あるが、それでもなお、賢明で直観力のすぐれた多数の者たち―すなわち有意義な社会変化を創りだす手助けをする人びと―がすでにあなたがたの世界にきている。だが、自分の人生の大切な仕事から大きく逸脱してしまい、こちら側へきてからいつまでも悔やんだり幻滅を感じている者があまりにも多いので、それについて気づいたことをお話ししておきたいのだ。こちらでは時間が意味をなさないとはいえ、彼らは一生を回顧したあとも、当初の決意を立てなおし、自分の失敗を評価し、地上の状況を調べ、次の人生に登録するなど、長い間骨の折れる仕事をせねばならない。
 ところで人生の評価は、こちら側でなされる努力のほんの一部にすぎない。とはいえ、これは自分自身の魂とその成長を直視するという、死後はじめての、しかももっとも影響力の大きい体験のひとつなのだ。これがあまりにも強烈な体験であるために、多くの人はそれ以後の多くの転生―もし転生すればの話だが―において、再びこれまでのように人生に無関心でいるようなことはしない。自分への失望が非常に大きかった人は、次の人生においては目標に対して多大な意欲を持ち、目的を達成するために情熱をかたむけることだろう。しかし、進むべき方向を間違えて本来の目的から外れる危険もつねにつきまとっている。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.31-32

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 2-za[46-zb] (生命は決して滅びることはなく意識も永遠である)

 死は意識の停止であってその先は無だ、と想像する人もあるが、そうではない。また、あなた自身が神もしくは何らかの存在と融合し、あなたの人格そのものが失われてしまうということもない。死は、みなさんがご存じの地上の生活よりも、多くの点でもっと精彩に満ちたものだ。あなたの意識は文字どおり拡張し、以前にも増して「あなた」らしくなる。肉体を離れた後にこの意識の持続を体験することによって、爽快感とあふれんばかりの豊かさの感覚がもたらされる。またこれらの領域には完璧な安心感がみなぎっており、ここでは誰もが、何ひとつ滅び去るものはないと悟るのである。
 みなさんの世界では核兵器の脅威に多くの人が気づいている。大量破壊兵器の生産や使用に反対する大規模な運動が当然あってしかるべきだ、と考えるのももっともなことだ。だがわたしは、この問題について二、三付け加えたいと思う。人類は神ではない。人類には地球を創造することも破壊することもできない。原子の力が巨大なのは事実だ。だが意識の力はすべてにまさっている。みなさんの世界には、それを見守る神(女神)が存在している。わたしも、みなさんを上から見守っているより小さい女神たちのひとりだ。わたしがいるのは領域6で、領域7には神(あるいは女神)が存在する。わたしはこの最高の領域と接触しており、この広大な領域を完全とはいかないまでもほぼ理解している。そしてわたしはメッセージをいくつか託されてきている。このメッセージは、すべての人に慰めを与えることになるはずだ。
 生命は決して滅びることはない。たとえ女神自身が望んだとしても、女神には一個の生命たりとも破壊することはできないだろう。宇宙の不変の法則は、意識という巨大な力に基づくものだからだ。
 意識は永遠不滅である。ゆえに、心も永遠不滅だ。たとえ核による破局、極度の汚染、森林伐採、その他の大変動によってみなさんの世界が破壊され、地上に生物がもはや生存できなくなったとしても、成長のために物質界に生まれ出ようとするみなさんの魂には、新しい世界が与えられることだろう。みなさんの住む地球の他にも多くの惑星があり、何百万という膨大な数の惑星には、すでにみなさんとよく似た生き物が暮らしている。現在みなさんの世界がその住民たちによって脅威にさらされているのとほとんど同じような仕方で略奪された世界は、これまでにもかずかず存在してきた。
 どうか気を取り直してほしい。一人ひとりがこの時代の狂気と戦うことは、人類全体にとって望ましいことだ。絶望することはない。人間には、人類を滅ぼすだけの力はない。人類には宇宙で一番安全な居場所がある。この地球こそが、とどまるべき場所なのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.49-50


 2-zb[17-zh] (死にゆく者への最大の贈り物は安らかに死なせてやること)

 たとえば病人がいて、山をも動かすような信念をもっていて、きっと良くなると信じ、口にもしていたのに・・・・・・六週間後に亡くなったという場合はどうなんですか? これはその前向きのプラス思考、積極的な行動にあてはまるんですか

 「山をも動かす」信念の持ち主が六週間後に死んだのなら、そのひとは六週間、山を動かしたのだ。彼にとっては、それで充分だったのだろう。彼はその最期の日の、最期の時間に、「オーケー、もう充分だ。つぎの冒険に進もう」と決めたのではないか。本人が言わなかったので、あなたはそれを知らないかもしれない。じつは、彼はずっと前に―何日も、何週間も前に―決意していたのだが、話さなかったのかもしれない。おそらく誰にも話さなかったのだろう。
 あなたがたは、死ぬのはよくない、という社会を創りあげた。死んでもいいなんて言ってはいけない、そんな社会だ。あなたがたは死にたくないから、どんな環境あるいは状況でも、死ぬことを望んでいる者がいるなんて想像できない。
 生きているより死んだほうがいい、という状況はたくさんある。少しでも考えれば、想像がつくはずだ。だが、自ら死を選んだひとの顔を見ているとき、あなたがたはその真実には気づかない。それほど、わかりやすくはないから。死にゆくひとは、まわりのひとが死を受け入れたがらないことを知っている。部屋にいるひとたちが、自分の決意をどう受けとるかを感じる。
 部屋に誰もいなくなってから死ぬひとが多いのに、気づいたことがあるだろうか?愛する者に「さあ、向こうへ行きなさい。何か食べていらっしゃい」とか「行って少し眠ってきなさい。わたしはだいじょうぶだから。明日の朝、また会おう」と言う者さえいる。そして、親衛隊が去ると、魂はまもられていた身体から離れる。
 もし、「わたしはもう死にたい」と言ったら、集まった家族や友だちは、「まさか、本気じゃないでしょう」とか「そんな言い方をしないでください」「がんばって」「わたしを置いていかないで」などと言うだろう。
 医療専門家はみんな、ひとが安らかに、尊厳をもって死ねるようにするのではなく、ひとを生かしておくように訓練されている。
 医師や看護婦にとって、死は失敗なのだ。友人や親戚にとって、死は災いだ。ただ、魂にとってだけ死は救い、解放だ。
 死にゆく者への最大の贈り物は、安らかに死なせてやることだ。「がんばれ」とか、苦しみつづけろだの、本人にとっての人生最大の転機に、まわりのことを、心配しろだのと要求しないほうがいい。
 まだ生きると言い、まだ生きられると信じていると言うひと、生きたいと祈っているひとでさえ、魂のレベルでは「気が変わっている」ことがしばしばある。魂が身体を捨てて自由になり、べつの探求の旅に出る時がきた、と決意したら、身体が何をしても決意をひるがえすことはできない。精神が何を考えても、変えることはできない。死ぬときに、身体と心と魂のうちのどれがものごとを動かしているのかがわかる。
 一生を通じて、あなたは身体が自分だと思っている。ときには精神が自分だと思うこともある。ほんとうの自分は何者かを知るのは、死ぬときだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.109-111

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 2-zc (死は生命の終わりではなくそこから本当の生活が始まる)

 死は生命の終焉ではない。そこから本当の生活が始まる。使い古したコートを脱ぎ捨てるように肉体を捨てる瞬間が死である。あなた自身はさなぎから脱け出る蝶と同じである。より自由な、より大きい世界へとはばたいて行くのである。
 死というものは存在しないのである。あるのは生命のみである。一つの形態から脱して次の形態で生活する。生命は永遠である。あなたの生命も永遠である。宿る形態は異なっても、あなた自身は生き続ける。あなたは不滅なのである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.55-56

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 2-zd[57-f] (あなたは死にたくても死ねないのである)

 堂々と働いて生きていたその尊い生命が最後にはウジ虫のエサになることで終わる、という考えをもった人間からどうして価値あるものが生まれてこよう。どうして精神の向上が得られよう。豊かな生活がどうして送れよう。
 私は人間の不幸せもストレスも心配も病気もみな、そうした理解の欠如から生まれていると確信している。あなたは永遠に不滅なのである。永遠に生き続けるのである。死にたくても死ねないのである。
 この事実を受け入れさえすれば何もかもが一変する。永遠に生き続けるという視点から見ると、何もかもが違って見えてくる。かりに今一つの問題を抱えているとする。それを百年後に振り返ったらたいしたことに思えなくなっているであろう。まして二、三千年後に別の世界でのびのびと生活している時に振り返ったら、バカバカしくて話にならないことであろう。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、p.57

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 2-ze (威厳をもって死に臨めるようにしてあげるべきである)

 死はすべての者に必ず訪れる。これだけは避けることができない。あなたもいずれは死ぬ。私も死ぬ。その死期が訪れた時、これから体験する重大な変化に備えるための余裕を誰もが与えられて然るべきであろう。精神的に、また霊的に、死という関門を通過する上で必要な準備をするための時間と知識とを与えられて然るべきであり、その権利を奪える者は誰一人いないはずである。
 死期の近づいた人は、自宅で自分のベッドにいて家族の者に囲まれ、慣れ親しんだ雰囲気に浸らせてあげるべきである。そうした中で死および死後の過程に詳しい人の話に耳を傾け、霊的援助と指導を受け、いよいよ疲弊し切った肉体を離れる時が来たら、威厳をもってそれに臨めるようにしてあげるべきである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.62-63

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 2-zf (死は霊的には実に安らかで平静な過程である)

 一個の人間にとって死は生涯で最も重大な瞬間である。それまでの全人生はその死のすぐあとから始まる新たな生活への準備だったのであり、それはちょうど卒業を間近かに控えた学生と同じであろう。これからいよいよ社会へ巣立って、それまで身につけたものを活用することになる。なればこそ、細心の注意と配慮と理解と同情と愛を必要とする瞬間であることになる。
 少なくとも死はSF小説で読むような血も涙もない科学的装置に取り囲まれた中で迎えるべきものではない。外科医、内科医、実験技師、看護婦、ガウンとマスクをした物々しい姿の人たちに取り囲まれた中で迎えるべきものではない。
 息者の死に立ち合うことになった治療家は、死がけっして恐ろしいものでないことを知っている。霊的には実に安らかで平静な過程である。迎えに訪れた霊が以心伝心で通じ合って手引きしていく過程である。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
   潮文社、1988、pp.63-64

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 2-zg (家族に死なれた者のもつ罪悪感と自己憐憫の情)

 家族に死なれた直後にまず悲痛に打ちひしがれ、当分の間それが続く。やつれ果て、従来の体力の回復が不可能に思えるほどになる。不眠が続く。そのうちストレス症状が出はじめる。
 精神分析してみると間違いなく心の奥に罪責コンプレックスと自己憐憫の情が潜んでいる。罪責感は自分の手落ち、至らなさを痛感することから生じている。もっと優しくしてあげておけばよかった、という後悔である。自己憐憫は悲しみと自虐と服喪心の形をとる。
 痛みも症状も不眠もみな心身症である。必要なのは治療ではなく教育である。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.64-65

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 2-zh(次の世界はまだ未知であるがゆえに常に不安がつきまとう)

 死の過程を通過すると霊界へ入る。地上での生活、そしてそこで学ぶべき教育が終わって、より大きい生活、より高い教育の世界へと入って行く。
 学生の中にも卒業するのが怖いという人がいる。学校は安全であり、守られており、何よりもそこでの生活に慣れているからである。商工業の世界、成人の世界、そして何よりも責任をもたされる世界はまだ未知であり、危険だらけのように思えてならない。
 しかし、いつかは卒業しなければならない。そこはたいした学校ではなかったかもしれないが、とにかく通い慣れ、知り尽くした世界である。安心感を与えてくれる。次の世界はまだ未知の世界である。未知なるものには常に不安がつきまとうものである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p.65

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 2-zi (人間の死を悲しむのは間違いで愚かしいことである)

 霊界へ行ってからあなたは地上での生活のおさらいをさせられる。犯した過ちと、その過ちから学び取った教訓について反省させられる。自分で自分を裁くのである。
 が、愛する人たちが迎えに来てくれている。もうどこにも痛みも感じないし苦しみも消えている。健康そのものである。気分が落着いてすっきりしている。そこで今去ったばかりの地上へ目をやってみる。
 なんと、そこではあなたの柩を囲んで親族や知人たちが嘆き悲しんでいるではないか。みんな黒い服を着ている。胸をかきむしって泣いている者がいる。罪責と自己憐憫の情でいっぱいである。楽しいことを一切断っている。
 あなたはその無知に驚き、気の毒にさえ思う。が、いずれはこの人たちともいっしょになる日が来るのだと考えて自分を慰める。
 人間の死を悲しむのは間違いであるはかりではない。愚かしいことであり、実は一種の利己的感情の表われでもあるのである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp.65-66

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 2-zj (生死は人生のほんの一部にすぎない)

 人間のサイクルは宇宙のサイクルに反映しています。新しい星が生まれては消えるようにあなたがたも生きて死ぬのです。それでも宇宙は広がり、成長し続けています。大きな精緻な力が生命を形作り、導いているからです。
 生死は人生のほんの一部にすぎません。人間が地上に最初に降り立って以来、繰り返しています。けれど人類の意識の精緻な力は広がり、これからも続くのです。ひとつひとつの生死のたびに暗闇がとりのぞかれ、明るい光がとってかわります。宇宙の規模でも同じように、天体が内破すると、宇宙の暗い部分を引き出し、明るくなっていくのです。
 生と死はいつも交互にやってきます。空間と時間に存在する限り、あなた方は常に変化の中にいます。魂が向上すればするほど、視野がひろがり、自分達の厳しい状況が見えてきます。その厳しさはあなた方が本当の自分を理解するまで、あるいはあなた方とともに存在し、私達に希望を与えてくれるスピリットを理解するまで、あるいは誰かが亡くなったときまで続くのです。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.279-280

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 2-zk (人のそれぞれの死に方にも意味がある)

 人の死に方にも意味があります。
 その人が、そういう亡くなり方をする、ということもまた偶然ではなく、必然なのです。
 そういう亡くなり方をしたということで、本人と、周囲の家族や友人など、それぞれのたましいに、それぞれの学びがもたらされるからです。
 人は、生まれ出るときに、自分の今生での課題を決めて生まれてきます。
 いいかえれば、それぞれのたましいが抱える何らかのカルマを解消するために、再びこの世に生を受けるのです。
 カルマとは、因果応報のこと。原因があるから結果が生じる、その原因のことだと考えてください。悪い種を蒔いたら、それは自分で刈らなくてはいけません。いい種を蒔いたなら、その種のもたらす実りもまた自分のものになるのです。いいことも悪いことも、自分のしたことはすべて自分に返ってくる。これがカルマの法則です。
 たましいが何度も再生をくり返すのは、自分のもっているカルマを、次の人生のなかで解消するためです。
 死に方もまた、そのカルマの解消に役立つように定められているのです。
 たとえば、医療ミスで亡くなった場合を考えてみましょう。その死が大きな問題として取り上げられると、医療システムや社会全体に警告を発することになります。
 医療ミスで命を落とされた方のご遺族は、悔しさ、憤りでいっぱいでしょう。怒りをもって告発したとしても、長く険しい道のりを覚悟しなくてはいけません。しかし、医療界の腐敗や社会全体と闘うなかで、正義を貫くことの困難を実感したり、協力者を得る喜びを味わったり、それは大きな学びがあるはずです。苦しみは大きくても、たましいはその分、ほかの人の何倍も輝きます。
 誤解を恐れずにいえば、亡くなった方は、社会に警告を発すると同時に、その生き方を強く輝かせるという役割を担って亡くなったといえるでしょう。
 その功績によって、その人のもっていたカルマは解消されたのです。
 飲酒運転による事故の被害者も同じです。命をもって、社会全体に警告を発し、反省を促すという大きな役割を担った死といえるかもしれません。
 たましいのふるさとに戻れば、喝采で迎えられているはずです。すばらしい社会貢献をするという役目を担って、それを成し遂げてきたのですから。

     江原啓之『天国への手紙』集英社、2007、pp.38-39

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 2-zl[60-o] (母の降霊で一瞬にして感じられた死後の生存)

 亡くなった母親に聞いたら、彼女が亡くなったのは五月六日でしたが、その前日の五月五日には弟夫妻が訪れており、一緒に近くのスーパーマーケットに行っていますが、その時の母親の手はすごく冷たかったそうです。これは義妹の話ですが、彼女が見るからに母親には何の表情もなかった、という言い方をしていました。
 弟は私に「どうも元気がない」という言い方をしていました。五月四日と五日は私が母親のところに行って見ていたんですが、その時も元気がないというか、だいぶ弱っているなとは思っていました。
 それでもすぐに亡くなるとは予見できませんでした。亡くなってからのことを母親に尋ねると、私が訪れたことは覚えているんです。ところが弟夫婦と過ごしたことは覚えていませんでした。つまりその前後で、すでに彼女のスピリットは向こう側に行って、いろいろと準備をしていたようです。
 私は母を降霊していただいた経験がありますが、それこそ降霊を見ていると、一瞬にして「個性の存続」を感じます。
 それは現在、我々が持っている物理や医学程度の知識で想像のつくものとは全然違います。本当にそこにいるわけです。ですから、それまで自分が持っていた価値観が変わるのは本当に一瞬です。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.226-227)

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 2-zm (生涯を通じて死者を想い続けた哲学者)

 田辺元に多大な影響を与えた哲学者こそ、西田幾多郎である。主著『善の研究』によって世界に影響を与え、「日本人初の哲学者」とまで呼ばれた西田も、その生涯を通じて死者を想い続けた思想家であった。
 「哲学とは驚きに始まる」とよくいわれる。これはアリストテレスの言葉だが、西田は「哲学の動機は人生の悲哀でなければならない」と述べた。この言葉の背景には、多くの肉親や友人の死を体験し、つねに真正面から死別という出来事を受けとめ続けた西田の人生がある。
 西田にとっての初めての肉親の死は、彼が師範学校に通っていた一三歳のときである。一緒にチフスを患った姉・尚が一七歳で死去した。命をとりとめた弟・幾多郎少年の悲しみは深く「余は此時始めて人間の死がいかに悲しきものなるかを知り、人なき所に至りて独涙を垂れ幼き心にも若し余が姉に代りて死し得るものならばと心から思った」と後年に回顧している。
 次に西田が体験した肉親の死は、三歳下の弟の憑次郎が戦死したときである。幼い頃にはともに遊び、西田が四高教授を務めていた時代には、士官学校を卒業して金沢に任官してきた憑次郎と、互いの家を行き来していた。その弟が、日露戦争で中隊長として戦地に赴いて戦死したのである。憑次郎の死は兄である幾多郎の心に深い傷を残した。金沢駅に届いた遺骨を迎えに行った西田は、そのときの悲しみを「はらわたを引きちぎられるような気持ちだった」と語っている。
 そして、西田は愛する我が子も多く失った。西田は妻・寿美との間に八人の子を授かったが、七五歳で幾多郎が亡くなるまで五人もの子が先立っている。その悲しみは計り知れないが、特に西田が三七歳のときに次女・幽子を気管支炎のために亡くした悲しみは大きかった。西田の親友である国文学者の藤岡東国もその前年に娘を亡くしており、その記念として出版した『国文学史講話』の序を西田に依頼している。その序に、西田は愛娘を亡くした父親の痛切な悲しみを以下のように書いている。
 「亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは幸いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔やんでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない」
 西田は、ドストエフスキーが愛娘ソフィア(ソーニヤ)を失ったとき、知人から「また子供ができるだろう」といって慰められたエピソードを紹介する。そのとき、ドストエフスキーは「どうして別の子を(代りに)愛することができようか。わたしが欲しいのはソーニヤなのだ」と言った。そして、西田は次のように述べている。
 「親の愛は実に純粋である、その間一豪も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である。死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常時であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である」

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp. 295-297

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 2-zn (どこで死のうが行く場所は同じである)  

 高齢者にわりと共通する心配が「病気と終活」でしょう。
 もちろん、そういうことが気にならない人もいますから「わりと」と言います。でも、気になる人は相当気にしています。
 子どもがいても面倒になるわけにはいかないと考えている高齢者も多く、将来的には老人ホーム、あるいは老人保健施設などの需要が数倍にも膨れ上がるのではと言われています。
 病気はともかく、終末期をどうするのかというテーマは、それを必要以上に問題視するからややこしくなるのです。私が『お別れの作法』(ダイヤモンド社)で詳しく書いたように、今では市販化されているエンディングノート、あるいはリビングウィル(特に治療などに関する意思表示)を残すことで自分と周囲の合意を形成されてはいかがでしょう。
 そういう普段からできるコミュニケーションを「不吉なことだ」と怒ったりするから、いよいよになって本人の希望が叶わなくなるのです。元気なうちがチャンスですから、余計なことなどと思い込まず、事前の準備は余命を心配せず精一杯楽しむためにも必要だと思います。
 また、可能ならばでいいのですが、死ぬことを怖がらないでほしいのです。
 あの世がある、いやあの世なんてない、そんな論争を繰り返すことに意味はありません。頑なに「ないものはない」と思い込んでいる人には、私からお伝えすることは何もありません。特定の宗教をお持ちの方もそれで満足ならいいと思います。しかしそうではなく、あるのかもくらいに興味がある人は、これまで手に取ったことがないかもしれませんが、いわば精神世界に関する本を読んでみるのも手かと思います(『お別れの作法』に詳述しました)。
 人間は知らないことに対して極端な恐怖心を持ちます。
 だったら、知ればいいのです。
 女性は比較的、好奇心旺盛な方が多いのであまり心配いらない人が多いのですが、これまでビジネス書や経営書を中心に読んできた中高年の男性が精神世界系の本を手にすることは、すぐには無理かもしれません。プライドやいろいろな思いが邪魔するかもしれませんが、これも人生の学びだと思えばいかがでしょうか。そのための終活です。あっちの世界のことを少しでも知っておけば、死ぬことが怖くなくなるのではないでしょうか。
 身内や親しい人が亡くなると人は泣いて悔しがりますが、私たちが元いたあちらの世界では祝福です。皆から「おめでとう、よく頑張ったね。積もる話を聞かせてよ」という感じです。それを考えるとお葬式も、もっとどんちゃんやってもいいのかなとも思ったりします。今のお葬式は遺された人だけの仕組みになっている気がします。
 そういう「あっちの世界とこっちの世界」の仕組みを知るためのテーマパークが実現すると面白いかもしれません。その仕組みを知ると、おそらく大半の方の生き方が変わるのではないでしょうか。もっと学ぼうという気になります。
 「死に場所」にこだわることも、やめましょう。
 どこで死んでも、大丈夫です。
 病院だろうと施設だろうと、自宅だろうと道端だろうと、海の上だろうと山の中だろうと、そこがその人の最期の場所、それ以上もそれ以下もありません。すでに魂はそこにはありません。亡くなると私たちはベール(幕)の向こう側にある元の世界(あの世)へと還ります。どこで亡くなっても行く先は一緒ですので、まったく心配する必要はないと思います。

   矢作直樹『悩まない――あるがままで今を生きる』
     ダイヤモンド社、2014、pp.146-159

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 2-zo (「死んでしまった」という言い方は間違いである) 

 皆さんの中には、すでに身内や親しい方を亡くされた方もいると思いますが、ひょっとしたらそのことで何らかの後悔をお持ちの方もおられるかもしれません。
 親孝行らしいこともろくにできなかった、自由に伸び伸びと育てることができなかった、最後まで喧嘩ばかりできちんと話せなかった、好きだというひと言がどうしても言えなかった。後悔にはいろいろなものがあります。
 でも悔やむ必要は全くありません。
 よく「自分のせいで死んでしまった」と口にする方がいますが、この言葉は二つの理由で間違っています。
 まず、亡くなったのはその方の持って生まれた寿命であり、誰の都合でもありませんので、自責の念にかられる必要は全くありません。そして死んでしまったという言葉は根本的におかしく、私に言わせると「帰った」という言葉が適切なのです。
 死んでしまったという言葉には、人生がこの世限りのものとする唯物論的な響きがあります。
 亡くなった方の感想としては四つあります。@お役目を終えてホッとしている、A今がとても幸せ、Bだから残った人に後ろ髪を引いて欲しくない、Cでもたまには思い出して欲しい、この四つです。
 あちらの世界の存在を信じることができない人ほど、死んでしまったという言葉を多用します。
 しかし信じることができれば、死んでしまったという言葉を使う必要はありません。
 「元いた世界に帰った」
 そう表現するのが正しいのです。
 残された人は、感謝の心で生きればいいのです。

    矢作直樹『見守られて生きる』幻冬舎、2015、pp.84-86

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 2-zp (死への恐怖は必要である)

 愛する人たちに二度と会えなくなる。何よりも死ぬのは苦しいことだ。簡単に言えば、死への恐怖はこの二つに集約されます。本当は、死んでからも愛する人に会うことはできるかもしれません。生きている者にはわからなくても、別の世界に行けばもっと自由になれるのだと思います。そして、死ぬ瞬間には意識がなくなっていますから、現実的な苦しみは感じないでしょう。
 とはいえ、もしも死後の世界があることが明確にわかり、かつ死が苦しみを伴わないとしたら、人生の途中で自らの命を投げ捨ててしまう人が増えるでしょう。そうならないためにも、死への恐怖心は大事なものなのです。

    矢作直樹『死んだらどうなるのか?』 PHP研究所、2013、p.33

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 2-zq (遺族は後悔の思いで苦しまなくてもよい)

 大切な人を亡くした後には、遺された者の心には何らかの後悔の念が湧き出たりするものです。
 「あの時、もっとこうしてあげればよかった」
 「もっと言うことを聞いてあげればよかった」
 そんな思いが出てくると、自分で自分をどんどん苦しめることになってしまいます。
 ただでさえ悲しみの中にいるのに、その上に後悔の念までもが出て来るのですから、とても苦しいことです。私も母を亡くした時、そのような思いに囚われたことがありますから、気持ちはよくわかります。
 でも、そんな後悔の念など持つ必要はないようです。あなたが思うほどに、亡くなった方はあなたのことを責めたりはしていません。
 「もっとこうして欲しかった」などという思いは、魂となったその瞬間に消え失せてしまうものです。そういう意味では、亡くなった人が満足のいくようにしてあげられなかったという後悔の念は、遺された人たちが生み出しているものだと言ってもよいでしょう。
 後悔の念ということで言えば、終末期医療の現場では、以前にはなかった問題が出てくるようになりました。医療技術の発達によって、昔では亡くなっていた人が生きることができるようになりましたが、本人の意思確認ができない状態では、家族にその判断が委ねられるのです。もしも生命維持装置をつけなければ、そこでその人の生は終わりを告げることになってしまいます。そして家族がもし延命措置を選択したとしても、本人に意識がない中、生命維持装置によって生きている姿を見るのは家族にしても辛いものです。
 生命維持装置をつけるという選択をし、苦しみの中で生きている家族は言います。「もしもここで装置を外してしまえば、「一生後悔するかもしれない」と。
 けれども私は、自分の後悔の念を払拭するために、逝こうとしている人を引きとめてはいけないと考えています。基準は、自分の後悔の念ではなく、大切な人が本当は家族がどんな選択をしてほしいと望んでいるかを想像することです。
 医師としても、同じような選択を迫られることがありますが、昔、先輩医師からこう言われたことがあります。
 「死に顔を汚くしないように注意しなさい」と。
 症状が急変し、もうダメだと判断された時には、余計な治療をしすぎてはいけないということです。死なせまいと輸液をどんどん身体に送り込むことで、一時間や二時間は命を引きとめることはできます。けれども、輸液を大量に注入された顔はパンパンに膨れ上がり、顔つきが変わってしまいます。そんな顔にしてご家族のもとに返すのは忍びないものです。ご家族にとって、安らかに見えるような顔にしてあげなければと思います。
 その先輩の言葉は、今も私の心の中に残っています。何が何でも生かそうとし、ギリギリまで死なせないというのは、それもまた、医師が後悔の念を抱かないためという面があります。
 亡くなった人への後悔の念は、大小いろいろな思いがあるでしょうが、それは遺された者がつくりだしているかもしれません。
 「後悔などする必要はないよ。だから前を向いて生きて」
 亡くなった人はきっと、あなたにそう語りかけているはずです。

    矢作直樹『死んだらどうなるのか?』PHP研究所、2013、pp.126-129

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 2-zr (死はすべての終りではないことを伝えるために)

 以上の話を真実と考えるか、妄想駄ボラと思うかは読者の自由です。私はただ実直に、何の誇張も交えず私の経験、見聞を伝えました。これらの体験を書いて人を怖がらせたり興味を惹きたいと考えたのではありません。
 死はすべての終りではない。無ではない。
 肉体は滅びても魂は永遠に存在する。
 そのことを「死ねば何もかも無に帰す」と思っている人たちにわかってもらいたいという気持だけです。三十年にわたって私が苦しみつつ学んだことを申し述べたい。ひとえにそれが人の不信や嘲笑を買うことになろうとも。私にはそんな義務さえあるような気さえしているのです。
 この世で我々は金銭の苦労や病苦、愛恋、別離、死の恐怖など、生きつづけるための欲望や執着に苦しみます。しかし、それに耐えてうち克つことがこの世に生まれてきた意味であること、その修行が死後の安楽に繋がることを胸に刻めば、「こわいもの」はなくなっていく。
 それがやっと八十歳になってわかったのです。
 この記述によって好奇心を刺激された人、この私をバカにする人、いろいろいるでしょう。でもたった一人でも、ここから何かのヒントを得る人がいて下されば本望です。その一人の人を目ざして私はこの本を上梓します。 ([後書き]より)

   佐藤愛子『冥土のお客』光文社、2004、pp.251-252

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 2-zs (ダライ・ラマ法王が教える死の恐怖の克服)

 (ダライ・ラマ法皇との会見で、池上彰氏が「仏教についてもっと学べば、死に対する恐怖を克服することができるのでしょうか?」と訊いたのに対して、法王はこう答えている)

 死を恐れることは、人間が持つごく自然な感情だと思います。心についてもっと学び、知ることができれば、死への恐怖を軽減することができるでしょう。
 仏教的観点からいうと、心には始まりも終わりもありません。死とは、ただ衣服を着がえるようなものなのです。私たちの肉体は古くなっていくので、古い身体を捨てて新しい身体をもらうわけです。
 死の恐怖を軽減するために何よりも大切なことは、私たちが生きているこの人生を意義深いものにするということです。意義ある人生とは、他の人たちを助けるということであり、たとえそれができなくても、少なくとも他の人たちに害を与えるようなことはしない、という実践をすることです。
 そのように生きることができれば、あなたの人生はより意義のあるものとなります。意義ある人生を過ごすことができれば、死に直面したとき、たとえ死への恐怖があったとしても、後悔すべきことはほとんどありません。後悔することがなければ、死を恐れる気持ちもずっと少なくなります。
 この人生をポジティブに過ごし、意義ある人生にすることができたなら、それが来世においてよき幸せな生を得ることを保証してくれます。本物の修行者であれば、死が訪れたそのときに、死を恐れる気持ちはありません。次に得る新しい身体と新しい生を、ワクワクした気持ちで心楽しく迎えることさえできるのです。

    池上彰『仏教って何ですか?』飛鳥新社、2014、pp.185-186

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 2-zt(死が不幸だと考える人は死者の冥福を祈ることができない人である)

 死は門出であり、亡くなる方は一様に現世を卒業される方々です。若い人もいれば、かなりの高齢者もいます。年齢こそバラバラですが、彼らの共通項は「現世の卒業生」という事実です。卒業生には敬意を払うべきでしょう。
 それを不幸だと考えるのは、まだお迎えが来ず、現世を卒業できずに残っている人の思い込みにすぎません。死が不幸だと考える人は、死者の冥福を祈ることができない人ですから、わたしはそれこそ不幸だと思います。(一条)

   矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013. p.145

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 2-zu (死に対する誤解や恐怖心は真実を知らないことから生まれる)

 多くの宗教にはそれぞれ、死後の世界や神の国についての固有の言及がありますが、今の日本人の生き方には、「死んだら終わり、だから現世利益を得ることが大切」といった、現実的な姿勢がありありと見えます。これは非常に残念なことだと感じます。
 古来、日本人は生と死を同一視していました。一万年を超える歴史を持ち、この世とあの世を精神レベルで自在につなぐことができた日本人は、死は単なる肉体死であり、魂は永遠の存在であると知っていたからです。
 自分たちが大いなる存在に生かされている事実を知り、大自然と融合して生きることが最も大切だと知っていたのです。だからこそ、そうした霊性の高さを失いつつある現在の状況は困ったものです。
 死に対する誤解や恐怖心は、それが未知なるものであるから生まれます。
 死んだらどうなるかを知らないからです。まずは「あり得ない」という考え方を、自分の中から追い出してください。この世はわからないことだらけです。人間が知らないことのほうが多くて当然なのです。自在な姿勢で、多くの意見や様々な視点による情報を受け入れるあなたでいてください。

    矢作直樹『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.20-21

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 2-zv (医師からみた様々な人の死に方)

 畳の上で死にたい、自宅で死にたいという願望は、昔から強くあります。
 でも、それぞれの家庭が持つ生活背景によって、それが叶ったり叶わなかったりします。経験者ならおわかりだと思いますが、在宅看護・介護の問題は想像以上に根深いものがあるのです。
 病気の種類や症状によって違いますが、痛みなどを伴う場合、自宅で家族が患者さんの症状に付き合うのは想像以上に大変です。二四時間、一緒に耐えねばなりません。
 事前に医師からそれを聞かされて平気だとおっしゃる方でも、実際に自宅での看護や介護が数日、数週間、数カ月続くような状態になると、さすがにストレスが溜まり、疲労困憊します。
 だからこそ、家族は患者さんや医師と本音で話す必要があります。自分たちがどこまで可能で、どこからが不可能なのかをはっきりさせることが大切です。
 私たちはどこで死ぬかわかりません。自宅で亡くなる方もいれば、路上で亡くなる方もいるし、海や山や川で亡くなる方もいるし、大半の方は病院やその関連施設で亡くなります。どこで亡くなるにせよ、私たちは人間です。どこで死んだのかというその状況に違いはありません。だからどこで死のうと、自分は自分なのだという気持ちをいつも持っていてください。
 同時に看取るという視点も大切です。
 自宅だろうと病院だろうと、この世に別れを告げる時に誰かが一緒にいてくれれば言うことはありません。最期を共有できるよう身内の方々もきっと心されていることでしょう。病院でも家族などのいない人や事情があって家族が看取りに立ち会えない場面では医療スタッフが看取らせていただいています。
 私の亡き母のような独居や、事故、災害などで、独りで逝く人も向こうで待ってくれている人々がいるので心配要りません。みんな「おかげさま」です。
 どこで逝こうと魂にとっては同じです。
 死に(逝く)場所に違いはありません。残った方の務めは、亡くなった方が遺した歴史を振り返ること、自分とその方が共有した時間を思い出すこと。旅立つ方の晴れ晴れとした気持ちを、静かに実感してあげてください。

    矢作直樹『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.43-45

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 2-zw (死ぬことが一概に不幸なことだとは思えない)

 東大病院の救急で、あるいは東大病院に来る前の勤務先で、私は多くの方を看取ってきましたが、今まさにこの世にお別れを告げようとしている人は、まるで何かを見つけたような、ちょっと驚いたような表情に変化する方が少なからずいらっしゃいました。何かを見て顔をほころばせたように思えた方もいらっしゃいます。
 そんな表情が見えるのは、亡くなる二、三日前くらいからが多いような気がします。特徴としては、周囲に無関心になると同時に、まるで別の世界にいるような感じで、顔をほころばせるわけです。
 当然ながら、そんな表情を見せた患者さんは皆さん逝ってしまわれるので、彼らが何を見つけたのが何に対して驚いたのか、その確認がとれません。
 そんな表情を長年目にしていくうちに、死が幸福であるとは言わないまでも、死ぬことが一概に不幸なことだとは思わなくなりました。

    矢作直樹『「あの世」と「この世」をつなぐお別れの作法』
       ダイアモンド社、2013、(pp.18-19)