学びの栞 (B) 


 6. 宗教・信仰


 6-a (人間は同胞たちを支配するために神のイメージを造り出した)

 あなたに偉大なる真実を教えましょう。人間は自分の同胞たちを支配するために、神のイメージをつくり出したのです。宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのためにつくられたのであり、それを使って人々を抑えつけるのに恐怖という手段が用いられたのです。どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのはわけないのです。
 神が地獄や悪魔をつくり出したのではありません。それは人間が自分の兄弟たちを苦しめるための恐ろしい創造なのです。大衆を恐れさせ、支配可能な集団とする目的で、宗教がそのドグマを通してつくり出したものなのです。それが偉大なる真理です。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所1996p.61

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 6-b [12-a] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)

 車椅子の年老いた女性に―

 ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
 そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63

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 6-c (供養のあり方について)

 この世の者が今ある肉体を使って、死者の思いを気が済むように果たしてあげれば、死者の心はどんなに安らかになれるでしょう。いつまでも真っ暗な不安定な苦しい所に、変則的な形で生きているつもりにさせておいたのでは可哀想ではありませんか。
 そのことを子孫たる者まずよく理解してあげて下さい。
 そして、死者自身にも自分の現状をよくわかってもらうことです。
 子孫の思いやりの心が下地となって死者を説得し、そして自らの死を間違えずに正しく納得してもらう、これが供養というものの神髄です。
 私の寺における供養とはまさにこのことの実践にあります。
 かりにも先祖の死者たちを悪霊などと思っているうちは、どんなに形を調えて供養をしようが、生者と死者との間に魂の通い合いは絶対に望めません。
 自分が今生きているから、生かされているから供養が出来るのだと、たったそれだけの素直さがあればいいのです。そのことで魂が少しずつ磨かれて行ってこそ、死者たちは納得し、喜び、安らかになつて成仏して行きます。この世での悪霊の仕業など、もうどこを探したって見当たらないのです。
 生まれてから今日までの間、何一つ苦しみ悲しみの無かった人は、こんな大事なことを全然学んでいません。これは不幸です。気の毒です。生きている問のこれから後の時間も、死んでしまってから後の長い魂としての時間も、どれほどつらいものになってしまうか考えただけでも身が震えます。
 苦労から逃げるための供養ではなく、するのが当たり前の供養を、これからも淡々と続けて行って下さい。

   萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、
     1994、pp.235-236.


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 6-d (お経は霊を慰め浄めることになるか)

  誦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。
 お経のもつ高い光は、勿論あるのだから、そのひびきは、業因縁を超えて、幽界にとどくわけなのだが、誦む人の心に、愛もなく、信もなく、ただ習慣的に誦んだり、周囲の関係で、しかたなく誦んだりしたのでは、その人の心の波と、お経のもつ高い波とが、合致せず、そのひびきは、幽界の霊魂にとどかぬので、効果がないということになるのである。
 お経を誦む時は、やはり、その経文に心を集中してあげることが第一で、そうすれば心が空に近くなるので、その空に、お経の光が充満し、その人と因縁のある霊魂にひびいてゆき、霊魂の因縁を浄めることになる。
 僧侶に誦経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違うのである。のりともこれと等しい。

   五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.85-86

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 6-e (信仰と宗教とは同じではない)

 そもそも信仰と宗教とは文字が異なるが如くその意味は全く違うものなのだ。信仰とは神仏を拝み尊ぶが如く、己れの心を清く美しく磨き、神仏の御心と同じが如く、自分自身を自分で信じ尊ぶ事が出来る程に己れを向上させる事を云うのである。神と自分の直接取引、つまり産地から消費者へ直売と云う形である。そしてその間に入って、こう云う拝み方もあります、ああ云う拝み方もグッズもありますとノウハウを教えて利ザヤを稼ぐ問屋、即ち流通機構が宗教である。悩み多い世間を、いかに発想の転換をはかり楽に生きて行くかと云う事を教えるのが経典であり、ハウツーものの本である。であるからして宗教とは企業に過ぎぬ。三井、住友、丸紅辺りの商事会社と全く同じなのである。教祖や法皇や教え主なぞと仰々しい呼び方を押しつけているがそれは会長とか社長とかと呼ぶべきなのだ。権大僧正だの大司教だのとずらずらと階位をつけているが、それは只の専務だの部長だの課長だのと同じものに過ぎない。教会の神父や牧師や寺の住職や神社の神主は単なる支店長なのであり、折伏や教化に廻る人々は営業部員なのである。故に神秘的なものでも不可思議なものでも犯すべからざるものでもないのである。
 最近はオカルトブームとやらで、何かと煩雑な社会機構の中で疲労困憊した人々が神秘のカによって救けて貰おうと様々な宗教団体に入って問題を起しているが、それも道理である。宗教とは企業であるからして、それは早い話が、三井や伊藤忠といった商事会社の玄関に入って行って、「どうか私の悩みをお救い下さい」と拝み込んでいるのと同じ事だからである。又、もっと非道い話が、その神父にしろ牧師にしろ僧侶にしろ、「そんな霊なんて迷信です」と云ってとんと信じていない不思議な者達がいる事である。では貴方達は何で商売をしているのかと云い度い。神や仏や先祖供養なぞと云う霊を拝む事で商いをしているのではないか。その霊を否定するとは何事ぞ。己れが信じても居ないもので商売をしているのは、詐欺師くらいなものである。その詐欺師に魂の救いを求めた所でそれはとても叶わぬ事は自明の理であろう。

  美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
    佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
       pp.155-157 に所収。

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 6-f[12-f] (どんな魂にでも必ず神の光にめざめるときは訪れる)

 キリスト教は、純粋な真実の種を包含しているがゆえに、もっとも純粋な宗教であったと私は述べました。この言葉の意味を説明したいと思います。キリスト教の“身代わりの腰罪”そして、「私が道であり、真実であり、生命である。私によらず天の父のもとに至る者はいない」という言葉に関して、異議を唱える人がいることでしょう。悲しいことに、これはいまだに、多くの人々にとっての障害となっています。私自身も今にしてわかったことなのですが、これらの言葉の背後にある霊的な意味を理解していないからです。
 身代わりの贖罪という福音を、私たちは教えません。人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならず、人の邪悪な考えや行動の責任を、その人から取ってやることのできる人はいないということを私たちははっきりと理解しています。
 しかしながら、人間がどんなに深い奈落にまで沈んでいたとしても、その魂がキリストの力と愛とによって創造された真実の光で照らし出されたとき、その人は再び生まれ変わり、それまでの自我は死ぬことになります。このようにして、キリストだけが人間を無知と、罪と奈落から救い出すことができるのであり、人間を永遠の生命へと導くことができるのです。
 心霊主義者であれ、伝統的なキリスト教信者であれ、仏教徒であれ、無心論者であれ、どんな魂にでも、神の光にめざめるときは訪れます。別な言葉でいえば、キリストの光に目覚めるときがやってきます。すべての魂は、どのような名前がついていようが、どんなにキリストを否定しようが、慈悲深いキリストのはかり知れない愛と完全な叡智とによって、いつの日か、天国の“狭き門”を通らなければなりません。
 この前、仏教徒の考えについてお話しました。これについても、もう少し説明が必要だと思います。今日の仏教徒は、人間存在の究極にして最も崇高な目標は“ねはん”として知られている生命の局面に入ることであると信じています。従って、仏教徒は数多くの人生を急いで体験して、輪廻転生から自由になるために、できるだけ早く肉体をもって生まれ変わりたいという願望をもっています。ねはんに辿り着けば、永遠の輪廻から解放されると信じているわけです。
 ねはんの境地に達したとき、欲望から解放され、無の境地の中で安らぎを見出すであろうことは確かです。仏教徒の間違いは、釈迦の教えを間違って解釈しているところにあります。これと同じように、キリストの教えも二〇〇〇年前に使徒に与えられたものとは非常に異なったかたちで伝えられています。
 釈迦は、人間ひとりひとりの魂が最終的に身を任せなければならない道を指し示すためにやってきたのです。その道とは、崇高な存在に身をゆだねるという道です。自分自身の体験によって、幼子のような素朴さと、信頼の気持ちがあって初めて人間は天国に入れることを証明されたのです。釈迦はこれを教えられたのです。
 もう一つ述べておきたいと思います。もしも、皆さんが霊の真実のヴィジョンに従うならば、洋の東西を問わず、すべての宗教の源である、古代の叡智の中に、この真実を見出だされることでしょう。そのなかに、心静まらない霊がいる場所、それよりも高いアストラル界、精神界、天界、宇宙界のことが説明されているはずです。
 これまでの長い歴史を通して、さまざまなマスターがほぼ同じような教えをもって地上に戻ってきては、その教えを残していきました。人間と神のために自我を放棄し、欲望を放棄する覚悟のある人には、なんという光輝に満ちた運命が開かれることでしょうか。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.249-251

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 6-g[15-j] (ただ一つ存在する真実の宗教とは愛である)

 ただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な現実があります。
 これは宇宙的な宗教で、国境や、慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つ。その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、花、生きとし生けるものすべてが理解できるものです。真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。
 この愛は必ず実現するでしょう。愛は人間に、さまざまな形や儀式や信条や教条は、そこに生き生きとした魂がなければなんの役にも立たないことを教えてくれるでしょう。すべての生きとし生けるものは霊の力を証明するものであり、霊の力にこたえることができるのです。
 人間にはさまざまな人種的な違いがあり、また多様な考えがあります。人種や考えがなんであれ、一人一人をそれぞれ公平に扱ってあげるべきです。しかし、すべての人間は最終的には、創造者の無限の愛を認め、それに敬意を払ってお辞儀しなければならないのです。そのとき、ついに人間は、すべての人間のために働く人は神のために働いているのだ、ということを理解するのです。
 この素晴らしい日が訪れるまで、地球は死から完全に解放されることはないでしょう。すべての人が、仲よく調和に満ちて、自己の意思を曲げて、宇宙の崇高な法則を崇拝するとき、死は勝利のなかに飲み込まれて消滅するでしょう。
 そのとき、人間の肉体はもはや死の横暴に屈することはなくなるでしょう。なぜなら、人間の肉体は死ぬのではなく、転換することになるのですから。罪は、その本質において死そのものです。死は罪の結果なのです。これは文字通りの意味です。罪は必ずなんらかの形による死をもたらします。しかし、叡智に満ちた、純粋で真実の愛は、永遠の生命を与えてくれるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.284-285

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 6-h (私たちは神聖な存在であることを忘れてしまっている)

 最も信仰の深い人々は、実は同じことを心の奥では信じているのに、私達は宗教の名において、お互いに殺し合ってきたのです。
 重要な宗教はどれも同じことを強調しています。それは、霊的な生活を送ること、すべての生命とすべての物に宿り、しかもそれを超えた神聖なる存在を理解すること、良き行ないと奉仕、愛、思いやり、慈悲、希望、信仰などの大切さです。どの宗教も、死後の生活と魂の不滅を説いています。そして、親切、許し、平和を強調しています。
 私が宗教と言う時、人間が作った教義や戒律ではなく、気高く霊的な知恵と伝統を意味しています。政治的な理由のために広められ、人々を分離しょうとする人間が作った教義や戒律のことを言っているわけではありません。霊的な真理と、政治的野心に基づく規則を、私達は注意深く区別しなければなりません。そのような規則は私達を恐怖に陥れ、バラバラにする壁なのです。
 今、私達は、神はあらゆる所に存在するということや、魂の不滅、つまり、肉体が死んだ後も魂は存在し続けるということを直観で信じるだけでなく、客観的データに基づくものとして、受け入れ始めているのです。
 それなのに、私達はなぜこんなにも、友人や隣人の宗教は言うに及ばず、自分自身の宗教の真髄に無知なのでしょうか? なぜ、沢山の共通点があるのに、お互いの違いばかりを見ようとするのでしょうか? なぜ、偉大な先達が思いを込めて提示した教えや教訓、規則、指針などを無視するのでしょうか?
 やはり、私達は自分がもともと知っていたことを、忘れたのだと思います。決まりきった日常の生活に囚われて、私達は不安や心配で疲れ、自分の地位や外見、他人にどう思われるかを気にしてばかりいて、霊的な自分を忘れているのです。そして、自分の本質を忘れたばかりに、死を怖れています。自分の評判や立場、損得のために、他人にうまく利用されるのではないか、と心配ばかりし、愚かに見えはしないかと怖がって、霊的に生きる勇気を失ってしまったのです。
 しかし、長い間、正反対のものと考えられていた科学と霊性が、一つになりつつあります。物理学者と精神科医は、現代の新たなる神秘主義者になっています。私達は、これまで神秘主義者が直観的に知ったことを、証明しつつあります。私達はみな神聖な存在です。私達はこのことを何千年もずっと知っていたのに、忘れてしまったのです。そして故郷に帰るためには、その道を思い出さなければなりません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.328-330

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 6-i (重要な宗教が示すすべての道は神性と悟りへと続いている)

 もし、愛という唯一の神、唯一の宗教しかないとすれば、なぜ、私達は自分が生まれた所の宗教を信奉したり、特定の一つの信仰を選んだりするのでしょうか?
 結局は、何かに出席したいのであれば、どんな種類の教会や寺に行こうと構わないのです。自転車の車輪のスポークのように、重要な宗教によって示されたすべての道は、同じ中心へ、神性と悟りへと続いているのです。一つの道が他の道よりすぐれているわけでも、劣っているわけでもありません。みんな平等で同じなのです。
 しかし、子供時代から馴染んできた自分の宗教の知恵や真理を知っていると、幸先の良いスタートを切ることができます。すでに、多くの知識や体験を蓄積しているからです。それだけでなく、快い親しみも感じるでしょう。親しみは平和な感覚をもたらします。あなたの心はリラックスし、意識して努力しなくても、深い瞑想状態に入ることができます。親しみと快さは、他のことに気を散らさずに心を集中させ、ずっと楽に深いレベルの瞑想や祈りや黙想に入り込むために役に立ちます。この深いレベルで、あなたは超越的な意識レベルを体験できるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.330-331

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 6-j (すぐれた宗教には真理と美と知恵が隠されている)

 すべてのすぐれた宗教には、すばらしい真理や美しさや知恵が隠されています。私達はそのすべてを、学生のように試してみるべきです。霊的な観点を変えることによってもたらされる気づきは、私達の霊的な成長を促進するからです。そして、あなたの宗教的伝統を捨てる必要もありません。結局、バラを好きな人もいれば、ランや百合や野の花やひまわりが好きな人もいるのです。でも、どれもみな、それぞれに美しく、神はどの花にも同じ太陽の光を降り注ぎ、同じ雨を降らせて慈しんでいます。みな、それぞれに違いながら、みな特別なのです。
 あらゆる霊的伝統に共通する教えをわかりやすく言い換えれば、雨は花の上と同じように雑草の上にも降り注ぎ、太陽は教会の上と同じように、刑務所の上にも輝いているのです。
 神の光は一切、差別しません。そして、私達の光も差別すべきではありません。
 唯一の道、唯一の方法、唯一の教会、唯一の思想だけがあるわけではありません。
 ただ一つの光があるだけです。
 壁が崩れ落ちた時、これ以上にないほどすばらしい地上の楽園に、すべての花が一斉に花開くことができるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.331

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 6-k[61-0] (すべての世界的な宗教には真理が含まれている)

 何世紀にもわたって、キリスト教や他の諸宗教の真の教えといっしょに混乱した教義までが受け入れられるようになってしまったのは嘆かわしいことだ。だが特に申し上げておきたいことは、すべての世界的な宗教には真理が含まれている、ということである。それらのうちひとつとして他の宗教から抜きん出て真実度の高いものはない。本書でわたしたちが関心を持っているのは、個々の人びとに手を差し伸べ、内なる声に耳をかたむけるよう告げることなのだ。真理はあなた自身の心の中にある。あなたの心の奥深くからやってくる直観が、物質界で知りうるもっとも偉大な真理へとあなたを導いてくれる。誰にでも、このように深遠な真理を自分のものとする道は開かれているのだ。人にはそれぞれ魂があり、この魂が宇宙の叡知を伝えてくれる。耳をすませて聞いてほしい― ただそうするだけでいいのだ。
 とはいえ耳を傾けること自体にも、ある程度の訓練と理解が必要だ。まず最初に、真理があなた自身の心の中にあることを認めなくてはならない。つぎに、さしせまった日常の雑事に関するとめどないイメージだとか独り言などの雑念を一掃する努力をしなければならない。こうした雑念を断ち、心の内から聞こえてくる声に耳をかたむけてみよう。答えは必ず得られるはずだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.56

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 6-l (彼の祈りはなぜ聞き届けられなかったのか)

 キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例は決して少なくはたい。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈祷が熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

 ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈繭を聴かれしならん。(内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983、22頁) 

  ここまで信仰が深められれば、あとは、感謝と喜びがあるだけである。神は決して、罰として艱難を下すことはない。このような大試練に彼が耐え得ることを知っているがゆえに、神は彼の願いを聞き届けなかったのである。彼の祈りが不熟心であったからではたく、むしろ十分に熱心であったが故に、神はこの苦痛を彼に与えた。彼はそれを神に感謝するのである。そして、最後に残された「忍ぶべからざる一事」は、彼の愛する者が何ゆえに不幸にして短命であったか、という問題だけであった。

  武本昌三「信仰と救済」−9(『論文集』[T]より)

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 6-m (愛する者の失せしによりても万を得て一つを失わず)

 余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も― 時にはほとんど神をも― 失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。
 然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
 余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。

  内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』(岩波文庫、1983、27-28頁)

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 6-n  (仏教では「神」の存在を考えていない)

 世界には様々な宗教がありますが、その最も根源的な分類は「普遍的な教義を持っているか否か」でしょう。いわゆる「民族宗教」と「世界宗教」の違いです。
 「民族宗教」とは、その土地の伝統や文化が混ざり合って自然に形成された宗教のことです。いつ誰が始めたというわけではなく、土地に古くから伝わる神様をそのまま信じていたり、生活と宗教が一体化されていたりするものが多いのが特徴です。
 たとえばヒンドゥー教はこの典型例でしょう。竜神、暴風神など様々な民間信仰や地元の神話が合体し、さらにインドの社会システムを組み込みながら自然にできあがった宗教です。インドの文化や社会構造がそのまま宗教のシステムに投影されているため、ヒンドゥー教が他の国で成立することはありえません。
 このように民族宗教は、普遍的な教義を持たないため他の民族に広がりにくいことが特徴です。
 一方、「世界宗教」とは、その教えが教義という形で明確に示されている宗教のことです。明文化されていることで、固有の文化や地域にしぼられず、誰もがその宗教を信仰することができます。キリスト教やイスラム教、そして仏教もこの中に入ります。
 ただし、これらを大きく二分するのが、「神の存在を信じるか否か」という非常に大きな問題です。
 「神」とひとくちに言っても解釈は様々でしょうが、世界を創造し支配する絶対的な存在だというのが共通の要素でしょう。たとえば、キリスト教やイスラム教などは、唯一絶対の創造主の存在を信仰する一神教です。
 この類の宗教は、何をおいてもまず「神への信仰」が中心にあり、そこから全てが説明されます。「神」は絶対的な存在ですから、その存在を疑ったり、反抗したりしてはいけません。
 それでは仏教はどうでしょうか。
 実は仏教は「神」の存在を認めていないのです。いわゆる「無神教」という類です。
 仏教の開祖として尊敬を集めている釈尊(釈迦、ゴータマ・シツダールタ)も、決して神様ではありません。また、「仏」は悟りの境地に至った人のことを指す言葉ですから、誰にでもなれる可能性があり、「神」とはまるで違うものです。
 「神」がいればそれに従えばいいわけですが、仏教にはそういう存在がない。幸せとは何か、真実とはなにか、その答えは経典を学んだり修行したりしながら、自分で見つけなくてはならないのです。
 仏教がきわめて哲学的であるといったのはこのためなのです。
 実際に釈尊も「私の教えをあなた自身で疑い確かめなさい。疑問を抱いたりおかしいと思ったりするのであれば、私に従う必要はありません」と説いています。
 また、チベット仏教に古くから伝えられている有名な教えにも、「場所が変われば違った先生がいる。先生が違えば教えも違う」というものがあります。弟子は一人の先生の教えだけを盲信せずに、仏教の教えを広く全般的に学ばなくてはいけないし、先生も他の宗派に目を向けなくてはいけないという教えです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.25-28

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 6-o (全てに実体はなく、その本質は空である)

 あらゆるものごとに「実体はない」というこの本質を、仏教では「空」と表現します。
 ただし大切なのは、「空」は「存在していない」という意味ではないということです。「存在していない」と「実体がない」は全く別物なのです。簡単に言えば、「そのものの有無」が存在であり、「確かな姿」というのが実体です。
 どうしてもこれを混同してしまう人がいます。たとえば「すべての本質は空である」と聞くと、「私もこの世界も何もかも存在しないのだったら、何をしたって意味が無い、何をしたって無駄だ」などといった「虚無論」を唱える人がいる。
 「空」の理論を大成したインド仏教の僧侶・ナーガールジュナの論書『中論』にも、同じような人が登場します。ナーガールジュナが「あらゆるものに実体はない」と「空の本質」を説くと、反対意見を唱える人々から「あなたの見解は間違っている。あなたの言うとおりなら、全てのものは一切存在していないということじゃないか。そんなはずがない」と、議論をふっかけられる場面があるのです。それに対し、ナーガールジュナは「あなた方は『全く存在していない』ことと『実体がない』ということを混同しているのだ」と答えています。
 仮にあらゆる物事の存在を否定した場合、この世界には自分も含めて何もないということになります。でも自分が存在していないのなら、今この間題を考えている私たちは一体なんなのでしょうか。手を伸ばせば自分の体に触れることができるのに、それも存在していないというのなら、私たちは何を触っているのでしょうか。そしていま目に見えているあらゆるものは、全く存在すらしていないというのでしょうか。
 そこで、簡単な例で説明しましょう。たとえば先ほど私たちは昼ごはんを食べましたね。食事を食べたからこそ美味しいと感じたし、空腹も満たされました。もしごはんそのものが存在していなかったら、そのような感覚や作用はなかったはずです。私たちは全くの空想の中で夢幻を食べたわけではありません。
 つまり、ごはんは確かに存在したのです。ただし、それぞれ自分の味覚で味わい、自分の知覚で認識したに過ぎません。昼ごほんのいわゆる実体、確固たるありようというものは誰も捉えることができないのです。
 このように究極的なレベルまで追究すると、あらゆるものは単なる個人の概念や世俗的な通念に過ぎないことがわかります。だからといって、存在や現象そのものが否定されることにはならない。
 むしろ概念が生じるのは、その存在があるからなのです。存在すらなければ、それを表す概念も生まれません。何らかの認識が生まれたり、それについて語られたりしているということは、概念がどんなにめちゃくちゃだったとしても、存在しているということなのです。
 「空」は存在があって初めて成り立つ概念です。物事は存在があって初めて認識されるけれども、どんな認識も単なる概念に過ぎないので、だからあらゆる実体は「空」である。こういうわけです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.67-70

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 6-p (愛や慈悲や利他などは何の得にもならないか) 

 欲望の肥大化は、人間を利己的で短絡的にもします。
 多くのものを手に入れれば幸せで、手に入れられなければ不幸になるというしくみである以上、限りある富を周囲と争い、他人から少しでも多く奪わなくてはなりません。他人に優しくしたり何かしてあげたりするのは自分の損につながります。そうしていつも誰かと争った結果、途方もなく疲弊してしまうのです。
 また、「幸せ」が外的な刺激による反応に過ぎないということは、それ自体がとても不安定で危ういものだということです。自ずと目先の欲求や利益に踊らされることとなり、短絡的な考えしか持てなくなります。
 この最たる例が環境間邁でしょう。冷静に考えれば、地球は、自分たちの代だけでなく次の代もその先もずっと住み続ける場所です。替えが利きません。自分たちの瞬間的な都合や利益を優先して、未来にまで残るダメージを負わせていいはずがないのです。
 それでも、今の自分たちには関係がないからと「まあいいや」と思ってしまう。その短絡的な考え方が私はとても恐ろしいと思います。
 そして、行き過ぎた欲望とエゴが極限まで達すると「戦争」が起こるのです。
 特に二十世紀は「暴力と流血の世紀」だったと言ってもいい。人類の歴史を振り返っても、これほどまでに自分たちの欲望を主張し、暴力が横行した世紀はなかったでしょう。その結果、凄まじい数の人間の尊い命が失われました。第二次世界大戦だけでも数千万人が亡くなったと言われています。
 特に日本の広島と長崎に落とされた原爆は、一発で多くの人を死なせただけでなく、街そのものを吹き飛ばしてしまいました。科学技術の進歩が街を豊かにしたはずなのに、その科学技術で街が破壊されてしまったのです。
 もう私たちはわかったはずです。
 いくら欲望が満たされても本当の「幸せ」にはたどり着けない。それはもう二十世紀の歴史が証明してくれました。
 欲望を追求し、人と争い、挙句の果てに戦争まで起こしても、私たちは幸せになるどころかますます苦しくなり、世界は最も悲惨な姿になってしまった。欲望を追求した先は、幸せどころか自滅と崩壊の道につながっていたのです。
 二十一世紀を生きる私たちは、この失敗を認め、誤った認識を正していかなくてはいけません。これまで当たり前だと思っていた価値観を見直し、平和な世界を築く必要があります。それはこの地球に住む全ての人間の責任なのです。
 特に今は人口がどんどん増え、すでに七十億人に達しています。これだけ人間がいるのですから、それぞれが欲望のままに行動すれば、たちまち世界中が争いの場となるでしょう。
 こんな私たちですが、それでもやはり今も昔も「幸せになりたい」という願いは変わらないのです。それでは一体、本当に「幸せ」になるにはどうしたらいいのでしょうか。
 そのためには、これまでの固定観念を大きく転換させ、正反対の道筋をたどってみることです。正反対の道筋とは、欲望やエゴの放棄です。
 欲望やエゴは、これまではむしろ「幸せ」を追求するモチベーションともなっていました。それをあえて捨ててしまいます。そして、他人への「愛」や「慈悲」、「利他的な考え」といった正反対の観念を取りいれるのです。
 とはいえ、愛や慈悲や利他などというと、自分には何の得にもならない、むしろ損してしまう、そう思う人がいるかもしれません。
 しかし考えてみてください。欲望やエゴがあるからこそ人はいつも渇きを感じ、他人と争わざるをえません。争いに勝つためには、嘘をついたり、人を騙したり、貶めたりもします。他人からも同じことをされるのではと怯え、自分の財が失われる恐怖にも駆り立てられます。
 結局、欲望やエゴは自分の得になるどころか、自らを苦しめ悪い結果を生み出すものなのです。

    ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.39-43

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 6-q (あらゆる苦はすべて自らの楽を望むことから生ずる)

 他人に思いやりを持ち、広い視野で物事を見つめる。利他的な行動をとり、自分が今持っているもので満足する。人を信頼して正直に生き、他人への思いやりや優しさを人間関係の基本にする――。
 そうすれば渇きや争いから解放され、心が平穏になることを感じるでしょう。他人への恐れや後ろめたい感情は消え、自分のことを自分で信じられるようになるはずです。
 このとき心の中には、これまでと別の種類の幸福感が生まれてくるはずです。刺激による心の高まりとは違う、静かで穏やかな「心の平和」です。これこそが私たちが追い求めてきた「幸せ」の本当のありようだったのです。
 これまで言及してきた「幸せ」は、全て肉体的・外因的な幸福感でした。外的な刺激に感覚器官が反応し、快感を覚えるというものです。だからこそ、外部の世界にそれを求めて、どんどん欲望が肥大化していきました。
 しかし、「心の平和」は、精神的な幸福感です。あくまで自分の内部に生じるもの。外部に快楽の種を求めるのではなく、自分で「幸せ」を生み出すものなのです。外的条件に左右されることもなければ、誰かと争う必要もありません。
 また、刺激による反応に過ぎなかった肉体的幸福感は、とても不安定で刹那的なものですが、精神的な幸福感は自分の力で深めることも長く維持することもできます。純粋な精神活動による自律した「幸せ」なのです。これは肉体的な幸福感よりずっと確かなものだといえるでしょう。
 こうして一人一人に確かな「心の平和」が確立すれば、それはやがて全体の平和にもつながっていくでしょう。個人の幸せが家庭の幸せを生み、家庭の幸せが社会、国家、そして世界の平和にもつながっていくのです。
 一人一人の心の中に平和があってこそ、グローバルなレベルでの平和が達成できるのです。人々が互いに「幸せ」を求めて争い、欲望に駆られ、自分のことしか考えていなければ、いつまでも世界が平和になるわけがないのです。戦争や紛争の根絶はまさにここから始まるのだと思います。
 ただし「心の平和」を確立することは、物質的な快楽を得るよりずっと難しいことです。
 食べ物を食べる、欲しいものを買う、そんな単純なことで快楽はすぐに得ることができるのですが、精神的な「幸せ」はそういうわけにはいきません。自分の心を訓練し、常に努力をしなければ、すぐに欲望に流されてしまいます。
 そんなことは面倒だ、欲望のままに生きたい、そう思う人もいるでしょう。
 でも欲望やエゴで幸福を実現しようとすれば、必ず破綻するということを忘れてはいけません。安易な方法で得た幸福は、やはり安易に崩れ去るものです。欲望やエゴを切り捨て「心の平和」を育ててこそ、本当の「幸せ」が生まれるのです。
 仏典(仏教の経典)にもこんな言葉があります。
 「この世のあらゆる楽、それらはすべて他者の楽を望むことから生ずる。
  この世のあらゆる苦、それらはすべて自らの楽を望むことから生ずる」
 『入菩薩行論』をまとめ、チベットで最も尊敬されている高僧・シャーンティデーヴァ(寂天)の言葉です。これが書かれたのは八世紀ですが、二十一世紀の私たちもこの言葉の意味を深く考えなくてはいけません。
 とはいえ、欲望やエゴをすぐに捨てられるかといったら、やはり大変難しいことです。他人への思いやりはどうやったら生まれるのか、と私に質問した方もいました。
 しかし、命あるものは多かれ少なかれ、他人への思いやりや愛情を必ず持っている。私はそう確信しています。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.43-47

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 6-r (他者への愛情や思いやりを深めるための二つの思考法)

 実際に他者への愛情や思いやりを深めるには、どのようなことをしたらよいのでしょうか。
 仏教では具体的な方法論を二つ教えています。
 まず一つは、自分の視点と他者の視点を置き換えてみること。
 ともすると人は自分だけ良ければいい、自分さえ幸せになればいいと考えてしまいがちです。しかし、一旦その視点を捨てて他人の視点と入れ替わってみるのです。
 そうすると、他人の目から自分を見ることができる。自分がいかにたくさんの他者と共に生きている存在なのか、自分の考えがいかに狭く悲しいものだったのかが自ずとわかってくるでしょう。
 もう一つは、どんな事象も全て自分につながっていると考えることです。
 仏教では、あらゆる事象は全て関係しあっていると考えます。どんな生き物も過去に死んだおびただしい数の生命も、一つとして独立しているものはありません。偶然生まれたかのように思われる命も、他の生き物との関係性の中から必然的に生まれてきたのです。
 それはあなたの存在も、あなたに起こる全ての出来事も同じです。他の人の存在や影響があったからこそ生まれ、そしてあなた自身も他人に影響を与えているのです。
 こう考えれば、相手に起こることは自分に起こることと同じだとわかるでしょう。自分の幸せを願うことは、他人の幸せを願うことと同じ。そして他人を疎かにすることは、自分を不幸にすることと同じです。
 相手を自分と同じように捉えることができれば、自然と慈しむことができるでしょう。そして、だんだんと利己的な感情が消え、純粋に他者を思うようになります。
 やがて全ての他者、あらゆる命を愛するところまで慈悲の心が大きくなる。そして、ただ思いやったり共感したりするだけでなく、その人が幸せになれるように自分が何かしよう、苦しみを取り除いてあげようという段階になります。
 もちろん、これほど大きな慈悲の心に近づこうというのであれば、それなりの修行が必要です。私もその段階になれるよう常に鍛錬していますが、いまだに修行中なのです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.51-53

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 6-s (仏教には「二諦」といわれる二つの真理がある)

 私たちの認識が実体ではないからといって、全くのデタラメかというと、決してそうではありません。
 あくまでその事象の構成要素に基づいて認識を生み出しています。さまざまな要素から一部を切り取ったり、並べて意味付けたりしながら、自分の中の鏡に像を映し出しているようなものです。
 それでは人間を認識するための構成要素とは何でしょうか。
 仏教ではこれを「五蘊」という五つの要素に分けています。
 一つは、姿、形、声や匂いなどの要素、すなわち「肉体(色蘊)」です。これに対して精神的な要素については、一くくりではなく四つの要素に分けて整理しています。それが知覚(受蘊)・感情(想蘊)・意志(行蘊)・思考(識蘊)の四つで、それぞれが精神を構成している一つの要素なのです。
 仏教は、この五つの要素でもつて人間が構成されていると考えています。そして人が人を認識するときは、この五蘊を組み合わせたり、一部を取り出したりしながら、その人の概念を勝手に作り出しているのです。つまり自分や他人の「自我」は、五蘊によって生み出された仮の姿なのです。
 五蘊という構成要素がある以上、私たちの作り出す概念には一定の妥当性があります。実際、私たちは常に色々な物事を認識し、その概念でもって物事を考えたり生活したりしています。姿も見えるし、言葉も聞こえる。もちろんそこから生まれた概念に実体はないのですが、ある程度それは共有され、共通の認識としてはたらいているのも事実です。
 たとえ究極的に実体がないとしても、普通の世界では「真実」である。これは認めざるをえません。つまり重要なのは、世俗的なレベルと究極的なレベルを分けて物事を整理することだったのです。
 私たちは普段、世俗で生活をし、世俗的なレベルで物事を考えています。この段階では、私もあなたもこの場所にいて、お互いをはっきり認識しあっています。それはこの世俗的なレベルでは真実です。
 一方で、その概念を突き詰めて考えた時、何の実体もなく、ただ存在だけしか明らかでない。人も五蘊も、物も現象も、全ては「空」である・・・・・・。このこともまた究極的なレベルにおける真実なのです。
 このように、世俗のレベルと究極のレベルを分けて考え、それぞれ別の真理があるという考え方を、「二つの真理」という意味で「二諦」と呼びます。世俗的なレベルの真理を「俗諦(世俗諦)」、究極のレベルの真理を「真諦(勝義諦)」とし、それぞれ別の真理を認めているのです。
 ただし、私たちは世俗的な観念の方に縛られているので、なかなか二つのレベルに分けて物事を実感するのは難しいものです。
 チベットにも、なんとかこれを理解しようと瞑想している僧侶がたくさんいます。
 実際にこの二諦を実感した人によれば、全ての物事の意味が消え、この世界が空っぽのような状態を感じながらも、同時に自分の肉体に触れてその存在を実感したそうです。つまり、究極的なレベルでは空であると悟りながらも、世俗的なレベルでは肉体の存在を知覚し、自分がここにいると捉えている。この二つのレベルの真理を実感したのだそうです。

    ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.70-73

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 6-t (『般若心経』には「空」の真髄が書かれている)

 この「空」の概念が説かれた有名な経典が『般若心経』です。
 「空」を説いた般若経は多様かつ膨大にありますが、『般若心経』はその思想の真髄を短い形に圧縮したもので、まさに「空」の真髄が書かれていると言えます。
 よく唱えられる機会が多いので、日本のみなさんにも馴染みが深いものでしょう。もともとはサンスクリット語で書かれていたものですが、普段みなさんが唱えているのは漢訳されたものです。日本のみなさんはこれを日本語ではなく漢文のままで唱えていますが、わたしたちチベット仏教徒はチベット語訳の『般若心経』を唱え、それを勉強しています。
 それでは、これまで説明した「空」の概念をこの『般若心経』で見てみましょう。
 この経典は、王舎城(古代インドのマガダ国の首都)の霊鷺山で、釈尊とたくさんの弟子たちが集まっている場面を説いています。このとき、その場にいた観自在菩薩が「空」の本質を悟るのです。
 これが冒頭の「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空」という部分です。
 「観自在菩薩が、般若波羅蜜多(悟りを得るための修行)を行なっていたとき、五蘊はみな空である″と見極めた」という意味です。
 前に紹介したとおり五蘊は人間を構成する五つの要素です。この五蘊に究極的に実体がないということを観自在菩薩は見極めたのです。
 そこで、その場にいた舎利子(シャーリプトラ)という弟子が「他の人も悟りを得るためには、どのように修行したらいいか」と尋ねると、「修行をする者はみな、五蘊が本質的に空であることを見極めなくてはならない」と答えます。
 さらに「色即是空 空即是色」と観自在菩薩は続けます。この「色」とは物質的なものを意味する言葉で、そのまま訳すと「物はすなわち空である、空はすなわち物である」となります。これは「物質的なものは空である。空であることは物質的である」という意味です。
 前半の「物質的なものは空である」は、肉体や物質はこの世に現れた現象に過ぎず、究極的には「空」なるものだということ。
 後半の「空であることは物質的である」は少しわかりにくいかもしれません。これは、物事が存在していなければ「空」の性質は成立しない、物事が存在しているからこそそれが「空」なるものだといえる、という意味です。先ほど説明したことが、まさにこの短い一行で説明されているのです。
 ちなみに、日本でよく用いられる『般若心経』は、「小本」というバージョンを漢訳したものです。サンスクリット語の原典には「小本」と「大本」があり、「小本」は教義のみが書かれているのに対し、「大本」には細かな設定や説明が書かれています。より詳しく正確に内容を理解するのであれば、ぜひ「大本」にも触れるとよいでしょう。
 たとえば「五蘊もまた」はそのいい例です。冒頭の「照見五蘊皆空」をそのまま日本語に訳すと「“五蘊はみな空である”と見極めた」ですが、「大本」には「“五蘊もまた、みな空である”と見極めた」と書かれているのです。この「もまた」という追加の意味の言葉があることで、人を構成する五蘊だけでなく、あらゆる事象も「空」であるということが示されているのです。
 このように、『般若心経』は、その短い経典の一言一言に「空」の本質が説かれ、意味が隠されているといえます。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.73-77

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 6-u (なぜ「空」の本質を理解する必要があるのか) 

 さて、ここまで「空」の本質を説明してきました。なぜこれを理解する必要があったのでしょうか。
 それは、私たちがいつもおおよそ実体のない感情や思い込みにとらわれて、真実を見誤ったり、幻想に苦しめられたりしているからです。「空」を知ることで、このとらわれから自分を自由にすることができるのです。
 たとえば、あなたの近くにいる「嫌な人」を思い浮かべてください。特に、その人に怒りを覚えたり、憎しみを感じたりしたときのことを思い出してみてください。きっとその瞬間、あなたは相手の全てを憎み、本当に「嫌な人」だと思ったことでしょう。相手の言葉も振る舞いも何もかもが嫌だと思ったはずです。
 でも冷静に分析すると、その時相手がたまたまとった行動や、自分に向けられた言葉だけで、相手の全てを判断していたことがわかります。それだけの、ほんの偶然の要素で人間そのものを判断し、「嫌な人間」だと決めつけ、それが相手の「実体」だと思ってしまうのです。
 その相手にだって、仲のいい友人もいれば、その人のことを好きな人もいるでしょう。ひょっとすると、あなた以外のほとんどがその人を好きだということだってありうる。
 つまり、「嫌な人間」というのはその人の実体ではなく、あなたが生み出した概念に過ぎません。むしろ自分自身の感情や観念の反映なのです。
 知人の科学者からも、こうした人間心理は科学的にも証明されていると聞きました。人は誰かに怒りを抱いた時、関係のない性質も含めて全てが嫌な人だと感じてしまうのだそうです。その人の全人格を否定し、人間そのものが怒りの対象になってしまうのです。
 これは決してマイナスの感情にだけ言えるのではありません。愛情や好意といったプラスの感情にも言えることです。別に愛情を否定しているわけではありませんが、愛しい人はつい完璧で素晴らしい人に見えてしまい、どうしても執着してしまう。でもこれもまた、その人の絶対的な価値ではなく、あなたの「好き」という感情の反映にすぎないのです。
 つまり同じ対象でも、見る人やその時の条件によって、評価や解釈は大きく変わってしまうということです。ある人にとっては素敵な人に見えても、別の人にとってはすごく嫌な人間に思えるかもしれない。見る人それぞれの視点や感情が、「幻」のような人のありようを作り上げているのです。
 でも、絶対的な実体はない。絶対的に嫌な人も、絶対的にいい人もいないのです。
 それなのに、なんの実体もない「空」の概念に、私たちは常に囚われてしまう。これが一番の問題です。それでも、この真理を自覚することによって、憎悪や執着の感情を幾分か減らすことができるでしょう。
 こういった自らを苦しめる感情が減れば、心の平和につながるはずです。これこそが「空」を理解しなくてはいけない理由なのです。

  ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.78-81

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 6-v (自分の苦しみや憎しみには実体がないことを自覚する)

 そこで、苦悩を生み出している自分の心を見つめてみましょう。そして自分の苦しみがどのようなものかを考えてみます。
 ところが考えれば考えるほど、わからなくなってくるはずです。
 確かに苦しみや悲しみを感じているのに、それがどのようなものか言い表せない。押しつぶされそうなほど深く大きなものだと思われたのに、どこにあるのか見つからないでしょう。どこにあるのか、どんなものかわからない。苦しみとはそれほどまでにあやふやな概念なのです。
 「苦しんでいる自分」というイメージも同じです。「私はいま苦しんでいる」「私は不幸だ」というのは、そう自分で認識しているに過ぎません。そのような自分がどこかにいるわけでも、誰かが規定したわけでもない。
 つまり、苦しみにもまた実体がないのです。あなたの苦しみも、苦しみを感じているあなた自身も、その実体はありません。すべてあなたの観念に過ぎず、あなたがそう認識しているだけなのです。
 もちろん、それが全くのまやかしであるという意味ではありません。あなたが苦しみを感じているという現象は、確かにあるからです。
 しかし、苦しみの実体がないために、自分が意識すればするほど大きなものに感じられ、強固なものに思えてしまうのです。もはや自分自身で苦しみを増幅し、誇張してしまっている人が多いのではないでしょうか。
 苦しみだけではありません。恐怖、猜疑、憎悪、絶望……。あらゆるマイナスの感情は、どれも自分で生み出し、自分でそれを強め、そしてそれに自分が苦しめられている悪循環に陥っています。
 もしあなたが誰かに怒りや憎しみを抱いたとします。そんなときは少しだけ立ち止まって考えてみてください。私はどうしてこんなに怒っているのか、本当に相手は憎むべき人間なのか、と。
 すると、相手自身に実体はまるでないのに、自分が勝手にマイナスの解釈を膨らましていることに気づくはずです。ちょっとした言動で「この人は敵だ」と思い込んでしまっていただけなのです。
 ずっと説明してきたとおり、この世界の事象に実体はないのです。「嫌な人の存在」「怒りを覚える言動」はときに絶対的な実体に思えますが、論理的に考えていくと結局は実体が見つからず、「空の本質」に突き当たってしまうでしょう。
 このマイナスの感情から抜け出すためにも、物事の本質は全て「空」であるということを改めて見直しましよう。自分を支配している苦しみや憎しみには実体がないことをはっきりと自覚するのです。そして自らの知性でそれを良い方向へと転換させましよう。
 また、相手の言動に怒りを覚えたり、思い通りにいかないと悩んだりするときには、その裏に利己的な考えがあることにも気づかなくてはいけません。自分さえ良ければいいというエゴが膨れ上がり、それが裏切られたために心が乱れているのです。
 もちろん、ことはそんなに簡単ではありません。実践していくには難しいことも多いでしょう。しかし、この習慣を常に意識化し、少しずつ心を訓練していくのです。
 そう考えることで、感情に振り回されず、冷静に対処することができるようになります。
 理由のないまま感情が膨れ上がることは減り、その感情の強さは徐々に和らいでいくでしょう。すぐに苦しみが消えるわけではありませんが、やがてはそれをコントロールできるようになると思います。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.93-96

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 6-w (仏陀になる可能性は誰にでもある)

 修行を重ね、煩悩障も所知障も滅して、ついに一切智を手に入れるとどうなるか――これを「悟り」といい、この人をまさに「仏陀」「仏」と呼びます。
 仏教を開いた釈尊は、修行の末についに「仏陀」となりました。ただし今のところは、釈尊ただ一人しか仏陀になれていません。
 ただし、仏陀になる可能性は誰にでもあります。この可能性を「仏性」といいます。
 いくら煩悩にまみれていても、それは実体という幻によって引き起こされているだけで、心自体が汚いわけではないからです。心に巣食っていた煩悩という汚れが取れれば、もともとのきれいな心が現れます。
 経典『如来蔵経』にも、「どんな人間の心も、その本質は汚れもよどみもない清らかなものだ」と書かれています。誰もが少なからず「よい人間でありたい」と願うのも、この清らかな心による「自性清浄心」があるからなのです。
 チベット語では悟りのことを「チャン・チユプ」と言います。チャンは「滅する」という意味があり、浄化すべき汚れを全て滅するという意味で、「チユプ」は「完全に得る」という意味で、煩悩を滅し、全ての優れた資質を得て、仏陀の境地に達するという意味が込められています。
 ちなみに、人が仏陀になったとき、その体や姿はどうなるのでしょう。悟りの境地に達し、輪廻から解き放たれた人はどう見えるのでしょうか。
 とらわれのない究極の段階へいくと、人はその本性だけとなる、そう考えられています。色も形も関係ない、真実そのものになるとされています。つまり、そのありようは、普通の人間の感覚器官を通じて見ることができないレベルなのです。
 ですから、仏陀になった釈尊もその瞬間に「本質的には見えなくなった」とされています。しかし、そのとき釈尊はまだ生きていましたし、その間は肉体もありましたから、当然周囲の人々にその姿は確認されていました。
 これは一体どういうことでしょう。これを読み解くにあたっては、仏陀となった釈尊の姿、すなわち「仏身」には三つの相があるという解釈がなされています。
 その一つの「法身」は、いまお話しした究極の本性のことです。見る方も仏陀になり、同じように究極の段階に至らなくては認知することはできないものです。
 一万で「化身」とは、いわゆる人間の形をした姿です。普通の人間が「人」として認知でき、目で見たり触ったりできる、世俗のための姿です。
 その中間の相として「報身」があり、これは修行を積み、さまざまな真理が分かった人だけが、その概念を捉えることができるとされています。
 いずれにせよ本性は法身であり、報身や化身はこれを土台にして、俗世にあわせて生じたものです。
 ここまでお話ししたとおり、全ての煩悩を断減し、この世の苦悩から解脱し、そしてイ一切智を得ることは大変難しいことです。仏陀は究極の段階にあり、これまでこの境地に達することのできたものは釈尊しかいないとされています。
 もちろん、私もこの段階にはありません。さきほど「ダライ・ラマ法王は生き仏と言われていますが」とおっしゃった方がいましたが、私自身そのような自覚は全くありません。
 仏陀はこの世界の全てを悟ったものですが、私はとてもそんな高い悟りの境地に達していません。私はただの一人の人間で、みなさんと何も違いがないのです。強いて言えば、私の方がみなさんより長く密教や仏教の勉強をしているため、少々知識が多いということぐらいでしょうか。
 もしくは、仏教を熱心に勉強していた前世の力が、今の私にはたらいているのかもしれません。もちろん私も前世を正確に認識することはできないのですが、そのような存在をよく感じ取ることがあるからです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.111-114

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 6-x (時間にも実体はなく認識の中で捉えている概念に過ぎない)

 「時間」は非常に身近なものです。しかし時間とは何なのかということを追究していくと、その概念の難しさに気づきます。
 たとえば、私たちは時間というものをどうやって把握しているでしょうか。たいていは六十分は一時間で、二十四時間は一日で……というこの世界での単位で捉えるでしょう。しかしこれは時間そのものではありません。時間を扱うにあたって私たちが決めた便宜上の単位に過ぎません。
 それでも単位がなくなった途端、私たちは時間を扱うことができなくなってしまいます。月、年、世紀、……とスパンを拡大していけば、最後には何の区切りもないただの時間になってしまいます。そしてその中では、過去も未来も今も全て一つの時間としてくくられて、実感として捉えることができないのです。
 逆に、短い時間を考えてみましょう。時間をどんどん細かく分割していけば、一時間は六十分に、一分は六十秒に……と細かく区切っていけますが、すぐに捉えることのできないほど細かな時間になってしまうでしょう。
 さらに「今」とはなにか、ということを考えてみてください。「今」は時間を考える上で最も基本の概念ですし、私たちは常日頃から「今」という言葉を使っています。しかしこの概念を正確に定義することができるでしょうか。
 仮に「今」を「この一瞬」だと規定します。でもそうすると、「今」には時間的な長さが全くないことになってしまいます。ところが私たちは、「今は食事中です」「今は幸せです」などと使うように、「今」にはある程度の時間を実感しているように思います。
 一方で「今」が一定の期間だとしたら、一体どこからどこまでが「今」なのでしょうか。とてつもなく長い時間を「今」ということもできるし、ほんの一瞬を「今」ということもできる。
 結局、時間の基本である「今」ですら、正確に定義することができません。
 つまり、「時間」には、確かな実体はないということです。確かに時間は存在し、常に流れているものですが、実体はない。私たちがどのように切り取るかで決まる、概念に過ぎないのです。

 仏教では、古くから時間への考察を続けてきました。その中では、時間に実体はなく、人間の認識の中で捉えている概念に過ぎないことも言及されています。
 そのため、人間の理解を超える長い時間を「劫」といい、逆に短い時間を「刹那」と呼び、その限界を認めているのです。
 このように、私たちの時間の認識には限界があります。たとえば、一年ぶりにあった人であれば、老化した、太ったなどの変化を発見することは簡単です。しかし、いま目の前にいる人が、一瞬一瞬老けていくのを見ることはできるでしょうか? 私たちは一瞬の変化を捉えることができないのです。
 自分自身の体も同じことです。一年前の体と今の体を比べれば、明らかに変化があるでしょう。でも、今この一瞬、どのように変化しているかは自分でも把握できません。でも一瞬ごとの変化があるからこそ、一分ごとの変化があり、一日ごとの変化があり、一年ごとの変化があるのです。
 死にも同じことが言えます。医学的見地では、ある時点を指して「死んだ」と規定していますが、それも人間が便宜上引いた、生と死のボーダーラインに過ぎません。実際の人間は自分で把握できないレベルで、少しずつ少しずつ死んでいくのです。
 これは「刹那滅」という仏教の考え方にも現れています。あらゆる物事は刹那の間にも生じて滅するという概念です。全て一瞬一瞬変化していて、同じ状態ではない。これが仏教でいう本当の意味での「無常」なのです。
 刹那滅は人間には捉えることができない、非常に微細なレベルの現象です。しかし、たとえ私たちの目には同じように見えていても、実は常に変化しているということをきちんと認識することが大事です。
 こう考えると、目の前の現状を嘆いたり、今持っているものに執着したりすることが、いかに意味がないかとわかるでしょう。全ては気づかぬうちに一瞬で変化してしまうものだからです。
 逆に言えば、どんなに小さな変化でも、その積み重ねが大きな変化をもたらすということです。少しずつでも自分を良い方向へ高めることで、まとまった時間が流れたとき、目に見える変化となって現れるでしょう。
 こうした事実を心に留めて、日々を過ごしていただければと思います。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.147-151

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 6-y (あらゆる事象は因果の法則によって関係しあっている)

 「原因があるから結果が生じる。結果には必ず原因がある」。
 仏教では、人間、物質、出来事、宇宙・・・・・あらゆる事象すべてがこの法則で成り立っていると考えています。
 これをいま目の前にある花でたとえてみましょう。植物は種から芽が出て成長して、やがて花を咲かせます。これを因果の法則に当てはめると、種が「因」となり、花という「果」が生じたということになります。
 これは人間だって同じことです。あなたは突然この世界に誕生したわけではありません。あなた自身にも当然因があります。
 生物学的に捉えれば、直接的な因は両親の卵子と精子になります。それでは両親の因はというと、そのまた両親の卵子と精子になる。
 こうやって因をたどっていくと、人類の祖先にまでたどり着いてしまいます。さらに進化の歴史を逆流して、動物の起源、そして生命の源まで還元し、ついにはこの世にある物質を生み出したビッグバンまで到達することになります。そして、このビッグバンにも、何らかの因が存在するはずです。
 つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。
 ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識にも因があると仏教では考えています。意識だけが突然この世界に生じるというのは論理的ではなく、因果の法則にも反しています。
 ただし、肉体や意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。たとえば両親の手が子どもの手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という果を生み出しているということです。
 意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。
 もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表層的な意識に過ぎません。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
 肉体が死んで別の物質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素となっているのです。
 これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終わりもない、本質的な連続性がそこにはあります。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.156-158

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 6-z (因果の法則の三つのルールと行為が引き起こす因果)

 「因果の法則」には三つのルールがあります。この三つが満たされていない状況では因果の法則は成り立ちませんし、反対に満たされていれば因果は成立することになります。
 第一のルールは、「因がないところに果は生じない」というものです。
 たとえば、何もない場所に突然花が咲くということはありません。種があったから花が咲いたのです。
 もしこのルールを宇宙の起源に当てはめると、絶対的存在が宇宙を創造したり、「完全な無」から宇宙が生み出された、という説は否定されることになります。逆にこれを認めるとすれば、宇宙誕生の瞬間だけは因果の法則を超越したということになりますが、なぜその時だけ法則が破られたのかという論理的な説明はまだ誰もできてはいません。
 第二のルールは、「不変から果は生じない」というものです。不変のもの、永遠のものは何の変化も起こさないため、因にも果にもなりえません。無常であるからこそ物質は変化し、新しい何かの因となるのです。
 第三のルールは、「因には果を生み出す素質がある」というものです。全く無関係の原因から結果は生じません。因の中に潜在的な可能性がなければ、因果は成立しないのです。それは、果と同種の性質を持っていたり、強い関係性があったりということです。
 たとえば花の因は種でしたが、いくら別のものを土の中に植えても花は咲いてこないということです。花という果を生み出す可能性、素質がない限り、それは因になり得ないのです。

 因果が当てはまるのは、形のあるものばかりではありません。
 「行為」にも因果の法則が成り立ちます。たとえば誰かの行為によって何か新しいことが生じた場合、その行為が「因」、起こったことが「果」ということになります。
 しかし、行為を行うのは、あくまで命を持つ生き物だけです。物質である場合、自ら行為をすることはありえないので、行為による因果も起こりません。そのため、物質の因果関係はシンプルで明確なものが多い。たとえばある物質が化学変化を起こして別の物質に形を変えるといった自然現象がこれに当たります。はるか昔、地球にまだ生物がいなかった頃は、きっとこの因果関係だけで世界は動いていたのでしょう。
 一方で、命あるものには行為が伴います。しかもそこには、色々な意志や感情が入り交じり、様々な人やものに影響を与えてしまう。そのため、因果関係に行為がからむと、その関係性は急に複雑になります。
 また、「行為」と一口で言っても、人間の場合は「三つのパターン」に分けられます。「運動」による行為、「言葉」で何か伝える行為、そして「心」をはたらかせる行為です。
 この三つの内、「心」における行為が非常に重要です。なぜなら、この心のはたらきがその人の意志や動機となって、新たな行動を起こさせたり、他人に発する言葉を生んだりするからです。
 たとえば誰かを助けるという行為を行うのは、その前に「その人のためになりたい」という心のはたらきがあったからです。逆に相手に意地悪な言葉を投げたときには、前から心の中で「この人のことが嫌いだ」という思いが渦巻いていたのでしょう。
 このように、因果は「心」によって、しくみがかなり異なってきます。特に人間は心のはたらきが強いので、因果に与える影響もかなり大きいといえます。
 ちなみに、草木や花などの植物は「行為」を起こすことがあるのでしょうか。
 植物もただの物質とは違って生物ですし、感覚に近いものが備わっているという考え方もあるようです。しかし物事の良し悪しを区別したり、幸せや苦しみを感じたりというような「心」は持っていません。ですから、動物がするような「行為」はないと言っていいでしょう。
 植物が花を咲かせたり実をつけたりと、ある種の変化を遂げたとしても、それは感情や意志に基づいているものではありません。花が咲くのは、植物そのものに組み込まれたはたらきのためです。色や形の違いも物質的な差異に過ぎず、そこに意志があるわけではない。植物は、物質と似たような単純な因果で廻っていると言っていいでしょう。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.159-162

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 6-za (世界の各宗教の教義は長い年月の間に変容してきた)

 仏教、キリスト教では、そもそも釈迦やキリストの生前に教義を記したテキスト(教典)があったわけではありません。教祖の死後、その弟子たちがその教えや奇蹟を記述しまとめたものが教典として引き継がれてきたのです。また、その教典も長い年月の間に様々な修整が施されてきました。
 仏教では、釈迦入滅後、五〇〇人の高弟たちが集まって釈迦の言葉を書き留めようとした第一結集(釈迦の言葉を編成し皆で合誦すること)では文字化されず、口承で後世に伝えられました。
 その後文章化が始まり、教典が出来上がっていきますが、釈迦が没してから一〇〇年後の第二結集における根本分裂(それまで一つだった教団が上座部と大衆部に分裂した事件)以後、上座部仏教聖典として伝えられていきます。
 一方、大衆部(大乗)仏教は、中央アジアから中国、朝鮮、日本という経路を辿って広がっていきますが、その教典は新たにつくられました。
 仏教と同じくインドの古代宗教であるヒンドゥー教でも、バラモン教の聖典ヴューダを基本としながら、各種の民族宗教、民間信仰を取り込んで、その内容に手が加えられていく事情は似通っています。
 また、キリスト教の教典である聖書には旧約、新約の二通りあることは周知の通りです。このうち、旧約聖書はユダヤ教の聖典ですが、モーゼによって記された「律法の書」をベースに、王、預言者、羊飼い等、他のユダヤ人の指導者たちが書き加えて成立したものです。そして、新約聖書は、キリストが処刑されるまでいっしょに過ごした高弟たち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ヤコブ、ペテロ、ユダによって、福音書、書簡、手紙がまとめられて生まれました。
 なお、イスラム教ではこの両聖書とコーランを教典としています(ただし、内容に齟齬がある場合はコーランの記述が優先される)。コーランは、神が大天使ガブリエルを介しムハンマドの体を通して彼らの言語(アラビア語)および思惟形態で語りかけたものを、後に三代目カリフとなったウスマン・イブン・アファーンが書き留めたものとされています。
 いずれにせよ、原初の宗教は、それが弟子たちによって記録されるようになったときから、変質していく宿命にありました。
 各宗教は、布教が進むにつれ教団としての組織化が進み、それと同時に教団内にヒエラルキーが形成されていきます。教団の指導層は、組織を維持するためにその時代時代における教団内外の政治的、経済的、社会的な背景を付度しながら、教義を実情に合わせて都合良く解釈してきたという面も否めません。
 そして、教団は自らの権威を誇示するために華美な聖堂を建立したり、その宗教が誕生した当初には存在しなかった冠婚葬祭をはじめとする数々の儀式を発明してきました。こうした様々な修飾が施され、一つの大きな社会勢力となって現在まで続く大宗教があるわけです。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.50-52

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 6-zb (明確な教義や教典を持たない日本の神道) 

 一般に、日本固有の宗教というと神道ということになりますが、神道には聖書やコーラン、経典のような明確な教典を持たず体系的な教義もありません。そういった意味では、仏教やキリスト教、イスラム教といった宗教とは異なります。
 原初の神道、いわゆる古神道は、太古の日本人の民俗信仰であり、森羅万象に精霊(神)が宿るとする点で、アニミズム(原始宗教)に近いものでした。その後、大和朝廷によって編纂された記紀(古事記、日本書紀)において王権(天皇)の出自と結びつけられ祭政一致のかたちをとり、以後仏教や陰陽道、儒教等の影響を受けながら、現在まで連綿と続いています。その過程で、儀式を付加したり、政治的な意図の下に再編されたり(明治維新時の国家神道)した点は、他の有力宗教と似通った経緯を辿っています。
 ただ、多神教である神道の基盤は、ありとあらゆる事物事象に神々(八百万の神)が宿るとする点にあり、原始宗教の直観的ダイナミズムを残しています。また、長く存在したものに対して畏敬の念を表し、道具塚、針供養等にみられるように、自然界だけでなく人工物にまで神(九十九神)が宿るとする点で、他のアニミズムと異なった非常にユニークな特徴を有していました(ただし現代の神社神道では神々の宿る範囲は限定されている)。
 自然崇拝、祖霊や死者への畏敬を本質とする神道が、曲がりなりにも現在までその命脈を保ってきたことは、天災の多い自然環境ながらも一方で豊かな山海の恵みを受けることのできる列島に太古より生きてきた日本人固有の世界観と無縁ではありません。
 自然を克服すべき対象とする西欧の自然観と日本人のそれには、少なくとも近代までは際立った違いがありました。しかし、欧米思想にどっぷりと浸かった現代の日本人が、この古代信仰の本質をどこまで理解しているかはわかりません。
 とはいえ、現在でも神道は大きな宗教法人として存立し、神社本庁が統括する神社は全国で八万社ほどにもなります。また、氏神祭等の祭事を通して日本人の生活の中に溶け込んでいることも事実です。
 カリスマによって創始されたのではなく、自然発生的に生まれ、明確な教義や教典を持たず、他宗教にも寛容というかその一部を取り込んでしまうほど融通無碍な側面を持つ神道は、欧米や中東の一神教の国々の人々には、ずいぶんといい加減な宗教だと映るのではないでしょうか。
 先進国の中で、このような信仰が形式的にではあれ社会的に認知された大きな組織として存在しているのは、日本だけでしょう。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.55-57

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 6-zc (昔の日本人は直観的に死後の存続を信じていた)

 古代から日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世に行くと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。昔の日本人はみな、直観的に「人の死後の存続」を信じていたのだと思います。
 では、現代の日本人は、なぜこのような死生観を持てなくなったようにみえるのか。
 明治の神仏分離から廃仏毀釈による仏教の衰退、さらに第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による国家神道の廃止、教育制度改革などの影響を受け、また明治維新後の西洋科学偏重の中で「科学主義的思考」が浸透し、それまでの日本人に共有されていた生活思想は徐々に失われていきました。近代におけるこうした変化が、日本人の死生観に大きな影響を与えたのは確かです。
 しかし、数千年にわたって連綿と続いてきた我々日本人の霊的なものに対する感性は、本当に消滅したのでしょうか。
 私は、そうは思いません。長い歴史の中で培われてきた死生観、日本人の内なる声は、たかだか百年あまりの短い時間の中で起きた表層の変化によって、かき消されてしまうほど軽いものではないと私は思います。
 肉親を亡くした経験のある人は特にそうではないかと思いますが、「霊魂」や「死後の世界」はその存在を証明できないから認めないと科学的に考える自分と、亡くなった人の霊魂がどこかにいて自分を見守ってくれているのではないかと直観的に感じる自分がいないでしょうか。現代の日本に生きる分別を持った人間としては人間の知性で理解できない事柄に関しては信じることができない、一方でそう考えることに何か割り切れない後ろめたさを感じる、というように二つの背反した思いが交差するのが本当のところではないでしょうか。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.198-199

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 6-zd (宗教は人類の諸々の文化とその起源から密接に関わっている)

 葬儀とは宗教儀礼である。葬儀の問題を考えるときに宗教を抜きにすることはできない。
 二一世紀は、九・一一米国同時多発テロから幕を開けたといえる。あの事件はイスラム教徒によるものとされているが、この新しい世紀が宗教の存在を抜きには語れないことを思い知った人も多いだろう。その後の世界各地での戦争や紛争やテロの背後にも必ず宗教の存在があり、宗教に対する人々の関心は日に日に増す一方である。
 フランスの宗教ジャーナリストとして有名なフレデリック・ルノワールは、著書『人類の宗教の歴史』で次のように述べている。
 「目に見えない世界(超経験的実体)を信じることと、それに関連する集団的儀礼―― これが私にとっての宗教の定義である――は、何万年も前から人類の歩みの一部をなしている。実際、宗教は人類の諸々の文化と、その起源から密接に関わっている。宗教的信仰と儀礼を持たなかった人間社会は、記録されている限り一つもないという事実と、宗教的信仰と儀礼は、人類の地理的、文化的な多様性の大きさにもかかわらず、類似した変遷パターンをたどっているという事実は、二重に驚くべきことだ」(今枝由郎訳)
 誰も異論はないと思うが、宗教の起源は明らかに埋葬からはじまっている。同書の第一章である「原始宗教」の冒頭を、ルノワールは次のように古代の葬儀の話から書き出している。
 「今からおよそ一〇万年前のある日、現在のイスラエルのナザレの近くのカフゼというところで、実際に何が起こったかは、今となっては誰一人としてわからないだろう。状況はおそらく悲痛だっただろう。考古学者の定義によれば、原クロマニョン人、あるいは古代型ホモ・サピエンスの二人の遺体が、身内の者に運ばれて、穴に埋葬された。うち一人は、二〇歳くらいの女性で、左側を下にして、胎児のように横向きに寝ており、その足元に六歳くらいの子どもが縮こまっている。この二体の遺体の回り――おそらくはその上――に置いてあった大量のレッドオーカー[イエローオーカー(黄土)を焼いて造る赤色顔料]から、一種の葬儀であることがわかる」(同訳)
 このような一〇万年前の埋葬跡に、人類の最初の宗教性をみることができる。埋葬の仕方から、当時の人々は死後の生、言い換えれば、死者が生存し続ける目に見えない世界の存在を信じていたとして、ルノワールは次のように述べる。
 「この埋葬跡でも、また世界の各地でも、遺体は胎児のように縮こまった姿勢で埋葬されているが、これは、死が新たな出生と見なされていたことを物語っている。一般に頭は、東すなわち日が昇る方向に向けて埋葬されているが、これも同じことを意味している。遺体は、孤独に放置されてはいない。人類の進化に伴って、徐々に手の込んだ装飾品が、遺体の脇に埋葬されるようになる。死後の大旅行の装備なのだろうか。それとも戻ってきて生存者に災いをもたらすことがないように、との厚いもてなしなのだろうか。どちらなのかは断定できないし、どちらであっても問題はないが、両者とも、死後も魂が存続すると信じられていたことの確かな証しである」(同訳)
 さらにルノワールは、以下のように述べる。
 「もう一つ意味深長なことは、死者は生存者から離れたところに埋葬されているということである。たしかに旧石器時代人は狩猟採集民で、まだ自然を制御できず、季節ごとに自然の恵みを求めて移動し、住まいを建てる術を持っていなかった。しかし、焚き火とか食べ物の残りの研究から、野宿地はわかっており、最初の『墓地』といえるものは、かならずそこから離れたところに位置している。例えばスクルでは、十数体の死骸が発見された洞窟は、日常生活が営まれていた洞窟から数百メートル離れている。これは、生存者が、土や石で覆われた遺体が腐敗する悪臭から逃れたかったというよりは、生存者にとって、おそらく遺体そのものが不安、さらには恐怖の源だったからだろう」(同訳)

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.133-135

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 6-ze (儒教ほど宗教らしい宗教はない)

 宗教学者の山折哲雄氏は、日本人の宗教について「宗教嫌いのお墓好き」「信仰嫌いの遺骨好き」と述べている。そういったお墓信仰と遺骨信仰は仏教とは無縁であり、「招魂再生」を掲げる儒教の影響を強く受けている。儒教はよく、古臭い倫理道徳の話と誤解され、宗教ではないと思われているようだ。しかし、本当は儒教ほど宗教らしい宗教はない。
 宗教とは何だろうか。日本における儒教学の第一人者で中国哲学者の加地伸行氏によれば、宗教はその人にとって必要ということがあって、はじめてその姿が現れるものだという。宗教とはそのように「自分にとって」という実在的なものであり、必要としない人には宗教は無縁である。まさに「馬の耳に念仏」といったところだろう。
 それでは、いつどういうときに宗教を意識し、求め、必要とするのか。もちろん人それぞれであろうが、大半の人において宗教が意識にのぼってくる大きな機会がある。それは「死」だ。もちろん死の前に「老い」や「病い」もあり、そのときに宗教を意識する場合も多いが、自らの死を前にするとき、ほとんどの人は確実に宗教を意識するものではないだろうか。
 加地氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」であるという。ふだん死は不安であるに過ぎないが、それが近いという現実になると恐怖となる。とすれば、その恐怖や不安を取り除くために「死とは何か」と考えるのが人間だが、大半の人間は心弱く、ただうろたえるばかりである。そして行きつくところ、誰かにすがって説明を求めるようになる。
 それでは、いったい何が死について語りうるのか。人々は死から逃れるために医学にすがりつく。でも、生物である人間は必ず死ぬ。医学は人が死ぬまでを説明することができても、死んだ後はまったく無力なのである。そのとき、死後について説明している、あるいは説明できるものは、ただ宗教だけなのだ。
 宗教の大きな目的の一つが魂の救済ならば、儒教はそれに大きく関わっている。中国の世界観では、人の魂には「魂」と「魄」があるとされる。人が死ぬと、魂は天に昇り、魄は地に潜る。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行なえば、天と地からそれぞれ戻ってきて再生すると考えられている。
 中国人にとって最大の不安は、子孫が途絶えてしまうことである。なぜなら、もし子孫が途絶え、先祖である自分を祀る儀礼を行なってくれないとしたら、わが魂と魄は分裂したままさまよい、永遠に再生できないからである。本当の意味で自分は死んでしまうのである。
 ならば、どうすべきか。天下の乱れをなくしてしまえば、そのような事態を未然に防げると考えたのだ。人々がみな幸福に暮らしていれば、家が絶えるという不幸な事態も起きないと考えたのである。そこで儒教では、政治を重んじた。正しい政治が行なわれることによって、生者のみならず死者もが救われるというのが儒教の思想であった。

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.138-140

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 6-zf (宗教とは「死ならびに死後の説明者」である) 

 儒教が宗教であることの理由はまだある。加地氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」である。人間にとって究極の謎である死後の説明ができるものは宗教だけだ。そして、個人のみならずその民族の考え方や特性にもっともマッチした説明ができたとき、その民族において心から支持され、その民族の宗教になるのである。
 中国の場合、漢民族にもっともしっくりくる「死ならびに死後の説明」に成功したのが儒教であり、儒教の後に登場する道教だった。そのため、儒教や道教は漢民族に支持され、国民宗教としての地位を得たのである。
 仏教は漢民族の支持を得られなかったため、中国では確たる地位を得ることができず、ついには国民宗教となることができなかった。
 この三つの宗教の死生観をみてみると、仏教には「輪廻転生」、道教には「不老長生」、儒教には「招魂再生」というコンセプトがある。仏教は生死を超えて「仏」になろうとする。道教は生死を一体化して「仙人」になろうとする。そして、儒教は生きているときには、「聖人」になろうとし、死後は祖先祭祀によって生の世界に回帰するわけである。
 祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじる儒教の世界観は、「孝」の一文字に集約される。
 では、「孝」とは何か。加地氏によれば、祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、その現在とは現実の親子によって表される。親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点だ。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもある。そこで儒教は次の三つのことを人間の務めとして打ち出した。第一は、祖先祭祀をすること。第二は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。第三に、子孫一族が続くこと。そして、この三つを合わせたものこそ「孝」なのである。
 「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしているが、そうではなく、死んでもなつかしいこの世に再び帰ってくることができるという「招魂再生」の死生観と結びついて生まれてきた観念が「孝行」だ。
 死は全人類に共通した不安であり、恐怖である。しかし、これによって、中国人は死への恐怖を和らげたのだ。加地氏によれば、招魂再生の第一目的は「慰霊」である。死を前にして恐怖に脅える人に対して、「心配しなくても、あなたをみなが忘れずに必ず呼び降ろします」という招魂再生の約束があるとき、死は怖いけれども、死後への安心感は生まれる。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.140-141

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 6-zg (私たちは一つの集合生命として過去も未来も一緒に生きている)

 「招魂再生の誓い」を現代の言葉に翻訳するとすれば、「亡き人の想い出を語る」ということだと加地氏は言う。「孝」があれば人は死なないのである。それは、こういうことだ。
 死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転した「生命の連続」という観念を生み出した。祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになる。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになる。
 とすれば、現在生きているわたしたちは、自分の生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、みなと一緒にともに生きていることになる。わたしたちは個体ではなく一つの集合生命として、過去も未来も、一緒に生きるわけである。それが儒教のいう「孝」であり、現在の言葉にすれば、「生命連続の自覚」ということだ。ここで「死」 へのまなざしは「生」へのまなざしと一気に逆転すると加地氏は述べる。これが儒教の死生観である。
 この死生観は、「利己的遺伝子」という現代生物学の重要な考え方ときわめてよく似ている。利己的遺伝子とは、イギリスの生物学者であるリチャード・ドーキンスが唱えた学説である。ドーキンスによると、生物の肉体は一つの乗り物(ビークル)にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくというのである。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次に肉体を残し、そこに乗り移るわけだ。子は親の肉体のコピーなのである。加地氏によれば、「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字どおり「遺した体」であるという。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのであり、このように、「孝」はDNAにも通じる。「孝」があれば人は死なないとは、そういうことだ。
 祖先の祭祀を行ない、子孫の繁栄を願うことは、自分の生命が死なないためでもある。儒教は、開祖である孔子の母親が葬祭業者であったこともあり、世界中の宗教の中でももっとも葬儀を重んじるとされる。
 葬儀は、まさに死と死後についての説明を儀式という「カタチ」にしたものであるが、日本の葬儀には儒教の影響が色濃くみられる。葬儀だけでなく、お墓もお盆の行事もすべてそうである。つまり、日本仏教そのものが儒教の影響を強く受けているのだ。

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.142-143

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 6-zh (日本の神道と仏教と儒教)

 儒教は神道にも影響を与えている。日本国有の「神祇信仰」が「神道」化していった背景には儒教の存在がある。儒教の「礼」は神道の儀式に取り入れられた。それは、現在における神前結婚式の場合も同様である。
 さらに神道は仏教からも影響を受けている。
 もともと自然信仰に近かった神祇信仰が「神道」化して神社を持つようになったのは、大陸から入ってきた仏教が寺院を建てたことが最大の理由であった。
 民俗学者の谷川健一氏は、著書『日本人の魂のゆくえ』で神道の「死穢」(しえ)に触れ、次のように書いている。
 「神社の中でしばしば襲われるあのどうしようもない空虚感はどこに由来するものであろうか。私の考えでは、蝕穢へのつよい警戒心、とくに死穢からできるだけ遠ざかろうとする清浄感が空虚感を生み出すのである。死者との連帯をもたないで宗教が成立するはずもないことは自明の理であるにもかかわらず、神社神道は死者の管理を仏教にゆだねた。その結果、死者の眠る大地との紐帯、大地を媒介にした生者と死者との連帯意識から生まれてくる充実感は喪失した」
 続けて、谷川氏は以下のように述べる。
 「人はあるいは反間するであろう。記紀にみられる諾再二尊の黄泉国での再会の挿話は、死穢への恐怖を物語っているだけではないかと。しかしそれは記紀成立の当時にすでに仏教の影響力が浸透していて、死をことさらに陰惨なものとして描いたともみることができるのである。それの証拠に、人が死ぬと、その埋葬された場所で近親者や友人が七日七夜歌舞をして死者をなぐさめたというのは記紀にあり、また南島の民俗の伝えるところでもある。しかしいつの頃からか神社神道はこの蝕穢の観念によって腐蝕されはじめたのだ。その結果、冠婚葬祭のうち、葬は僧侶にまかせ、あとはいただこうということになった。かくして祭と葬とは分化してしまった」
 『古事記』や『日本書紀』の記紀神話にさえ仏教の影響があったという見方は一考に値する。いずれにせよ、日本人の信仰において、神道と仏教と儒教は分かちがたく共生しているといえる。わたしは、神道や仏教のみならず、儒教までをもその体内に取り入れている日本人の精神風土を全面的に肯定する。別に無宗教とか宗教の世俗化ということで卑屈になる必要はまったくない。一神教の世界では戦争が絶えないが、日本人はあらゆる宗教を寛容に受け入れる。
 その広い心の源流をたどれば、はるか聖徳太子に行き着く。一七条憲法には、神道も仏教も儒教も、そして道教の思想までもが全部込められている。「あれも、これも」が「ええとこどり」に昇華されて、多様な宗教思想が仲良く共存している。まさに「和をもって貴しとなす」という太子の思想の核心をそこにみることができるのだ。

  一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.143-145

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 6-zi (死後の世界や生命の永遠を認めない宗教はない)

 精神分析学者のフロイトは、宗教を一種の幻想とみなし、人間の本能的願望に迎合する産物だと指摘した。なぜ、人間は霊魂の不滅や死後の世界の存在を信じるのか。それは、愛する人の死という最大の「悲しみ」に人間の心が耐え切れず、死者がこの世ではないどこかで生きていると考えたいからだというのである。そうすれば愛する人を亡くした者は、死別の辛さによって心のバランスを失うことがないというわけだ。
 人間は必ず死ぬ。では、人間は死ぬとどうなるのか。死後、どんな世界へ行くのか。これは素朴にして、人間にとって根本的な問題である。人類文明が誕生して以来、われわれの祖先はその叡知の多くを傾けて、このテーマに取り組んできた。
 フランスの哲学者であるフランソワ・グレゴワールは著書『死後の世界』において、「哲学のあらゆる問題の中でも、死後の問題はとりわけ大切な、根本的な問題であり、きわめて『大衆的』な問題である」と述べ、次のように語っている。
 「どんな時代、どんな文明でも、この間題を無視したためしはない。外界の存在とか、物質のむずかしい性質などについて考えそうもないような世間一般の人でも、死後の問題だけには注意を向けるのである。そして近代の実存主義の学説を待つまでもなく、自分が『死のための存在』であることを知り、(少なくともある場合には)この状態の苦悩を感じているのである」(渡辺照宏訳)
 死後の世界について思索した哲学者は数多い。ざっと名前を列記してみても、プラトン、セネカ、プロティノス、ライプニッツ、カント、レーノー、フーリエ、ウイリアム・ジェイムズ、ベルグソンらがいる。哲学というものはあくまでも確からしい仮説にすぎないけれども、その仮説はいつの場合にもその当時の科学の教えに結びついている。そして、科学的根拠をもって死後の世界を語ることはきわめて難しいにもかかわらず、彼らは情熱を持って論じてきた。
 死後の世界は宗教において、より具体的なイメージとなっている。当然のことながら、死後の世界や生命の永遠を認めない宗教はない。
 宗教心理学者の本山博氏は、監修をした『世界の諸宗教における死後の世界』の序文で次のように述べている。
 「死後、普通の人間がゆく死後の世界は、一体どんな所でしょうか。それは、フィリピン、アフリカの原始宗教やエジプトの死者の書に説かれている死後の世界と同じで、その国の此の世の世界と大して変らない世界です。つまり、フィリピンなら、フィリピンの現実の世界の延長というか、フィリピンの山や川や平野と同じ山や川、平野があり、農作物や果物があり、人々が働いている世界、同じ家族が集り、同じ部族の人々が集って共同生活をしている社会がある世界です。これが、死後、普通の人間が入ってゆく、それぞれの国での死後の世界のように思われます。このような世界が、原始宗教の死後の世界です。
 ところが、宗教が原始的、部族的なものから次第に民族宗教、国家宗教、世界宗教へと成長してゆくにつれて、哲学的考察、他宗教からの思想的借入などが行なわれ、また教義の確立が行なわれるにつれて、死後の世界は、冷たい概念によって解釈される死後の世界観に変ってゆくように思われます」
 これには二つの見方があるだろう。一つは、古代の叡知を直接的に伝える原始宗教のほうが、より正確な他界像を措いているという見方。もう一つは、霊たちが天国に住むという信仰は抽象の働きがさらに必要であり、古代の人間や未開民族はそこまでエネルギーがまわらないのだという見方である。そこでは「心霊主義」と訳されるスピリチュアリズムにみられるように、この世と地続きの死後の世界が描かれている。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.149-151

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 6-zj (葬儀は「礼」の中心となる行為であり「人の道」である)

 さらに、葬儀について語るなら、「人の道」ということを知る必要がある。「人の道」というのは、今から二四〇〇年ほど前に中国で儒教が生んだ考え方である。
 儒教はこれまで宗教ではなく、単なる道徳としてとらえられてきた。しかし、それは完全な誤解であり、儒教ほど宗教らしい宗教はない。儒教が宗教であることの最大の証明とは、ずばり葬儀を行なうことである。葬儀を宗教ではなく、単なる習俗としてみる人もいるが、葬儀とは紛れもなく宗教儀礼の根幹だ。「死および死後の説明」を形にしたものこそ葬儀であり、特に儒教は葬礼を何よりも重視した。
 もともと「原儒」と呼ばれた古代の儒教グループは葬送のプロフェッショナル集団であり、正式な儒教の創始者とされる孔子の母親も葬儀や占い、あるいは雨乞いに携わる巫女だったという。これは漠文学者の白川静の名著『孔子伝』が明らかにしている。
 雨乞いは、氏族の生活を左右する重要な農耕儀礼として、古代においては盛んに行なわれた。民俗学の古典中の古典であるフレイザーの『金枝篇』には、未開社会における雨乞いの儀礼が多く紹介されている。それゆえに、「儒」は需要の「需」、すなわち「もとめる」の意味でもあった。なぜなら、古代人の生活でもっとも切実に求められたのは、早魅のときの雨だからだ。
 そして、儒教の発生そのものが葬送儀礼と分かちがたく結びついていた。白川静によれば孔子の父親と母親は正式の結婚をしておらず、孔子は私生児であったという。孔子から二〇〇年ほど後に登場する孟子の母親は、孟子が子どもの頃に葬式遊びをするのを嫌って家を替えた、いわゆる「孟母三遷」でよく知られている。孟子の師にあたる孔子も子ども時代にはよく葬式遊びをしたようだ。
 私生児であり、かつ父親を早く亡くしたため、貧困と苦難のうちに母と二人暮らしをした孔子の少年時代。今でいう母子家庭である。葬送の仕事をやりながら、孔子を育てた母。そんな母親とその仕事を孔子はどのように見ただろうか。おそらく、深い感謝の念と尊敬の念を抱いたのではないだろうか。
 孔子は母親の影響のもと、「葬礼ほど人間の尊厳を重んじた価値ある行為はない」と考えていたとしか思えない。そうでないと、孔子が生んだ儒教がこれほどまでに葬礼に価値を置く理由がまったくわからなくなる。
 孔子は、人間にとってもっとも親しい人間とは、その字のとおり「親」であると述べた。そして、そのもっとも親しい親の葬儀をきちんとあげることこそ「人の道」の基本であるという価値観を打ち出した。
 孔子の後継者である孟子も、親の葬儀に何よりも価値を置いた。彼は『孟子』の中で、昔の習俗について次のように述べている。
 「思うに、太古には親が死んでも葬らない時代があった。親が死ぬと、みんなその死骸をはこんで谷間に棄てておいた。あとで、そこを通りかかって見ると、狐や狸が死骸の肉を食い、蝿や蚋などが一杯たかっていたので、思わず知らず額に冷汗がにじみでて、横目でちらりと見たきり、まともには見られなかった。この冷汗は、他人に見られるのが恥ずかしくてでたのではない。心の奥底から親に済まない、痛ましいと感じて、面や目にもにじみでたのである。そこで、急いでわが家に帰って、土籠や土車をとってきて、土を〔運んで死骸の上に〕かけて見えないように掩いかくした。〔これが埋葬の起源なのである〕。このように土をかけて見えなくするのが、まことに道理にかなった善いことだとすれば、後世の孝子や仁人がその親を手厚く葬ることも、これまた当然の道理であろう。〔したがって、薄葬のよくないことは、もはやいうまでもあるまい。〕」(小林勝人訳)
 このように、孟子は「埋葬をきちんと行なうことは、単なる習慣の問題ではない。それは、親子の絆を証しているのであり、死ですらそれをほどくことができないのだ」と結論づけている。古代の中国人たちは自分たちのあり方のルールとして「礼」というものを持っていたが、葬儀を最重要視することで、「死」がこの「礼」の基準となっていった。
 人間はその一生において、さまざまな社会的関係をつくっていく。一般人なら、成人式、結婚式、葬儀、祭祀といった、いわゆる冠婚葬祭である。この中で、冠(成人式)は一般庶民にまで徹底したわけではない。また結婚しない人間もいるし、祖先の祭祀をしない者もいる。しかし、必ず避けられないものは「葬」である。葬礼こそ一般人の「礼」の中心なのだ。
 それでは、諸礼のモデルとなるもっとも重要な葬礼はどのように組み立てられているのかといえば、親の葬礼を基準とするのである。なぜなら、一般的にいって、親が子よりも後で亡くなるという特別な事情を除くと、人間はほとんど必ず親の死を迎え、葬礼を行なうからである。
 この必ず経験する、親に対する葬礼を基準として、それを最高の弔意を表すものとする。逆にいえば、もっとも親しいがゆえに、もっとも悲しむわけである。このように、親の葬礼を行なうことこそは、すべての「礼」の中心となる行為であり、「人の道」を歩むことにほかならないのである。 

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.315-318

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 6-zk (なぜインドでは仏教が衰退したのか)

 なぜ、インドの出家仏教者は在家者のために通過儀礼を執行することができなかったのか。その理由は、カースト制度にあった。古来よりインドの社会はカースト社会である。もともと、ブツダはカースト制度の否定者として仏教を開き、あらゆる人々の「平等」をめざした。しかし、通過儀礼を執行すると必然的にカーストを形成してしまうというのである。鈴木氏は、次のように述べている。
 「仏教を信仰する者であっても、カーストに属している限り、成人式、結婚式、葬式をはじめとする通過儀礼を各々のカーストの決まりに従って執行することは、その社会(カースト)に所属する者の義務とされています。そして通過儀礼を完備した集団は、インドにおいては実体のある集団と見なされ、一つのカーストを形成するようになります。もし、インドの出家仏教者が在家仏教徒のために仏教式で通過儀礼を行ったとしたら、彼らは『仏教カースト』という凝縮力のある集団と見なされることになります。それを仏教は断固、拒否したのでした」
 しかしながら、仏教のパワーはインドにおいて衰えていく。カーストを認めるヒンドゥー教がインド人の通過儀礼を担当し、宗教としてのヒンドゥー教は一大勢力となっていくのであった。鈴木氏は述べる。
 「古今東西、人々の切実な願い・心の坤きに応えることのできない宗教、宗教者、宗教団体が生き残ったためしはありません。日本人が仏教にもっとも強く望んだのは、その呪術的力をもって除災招福をもたらすとともに、死者の魂を浄化し、祖先神を強化することでした。そして、そのような日本人の願いに応えることができたので、仏教は日本に根付き、今日まで生き残ってきたのです」
 日本にはカースト制度がなかったので、通過儀礼として葬儀を執行してもよいという土壌があったわけである。そして、日本には仏教式で葬儀を執行してほしいという願いがあった。仏教では人々の願いに応えて安心を与えるために、その人の状況に合わせて教えを説くことが求められ、その適切な手段を「方便」と呼ぶ。日本では、葬儀も方便となり、人々に安心を与える手段として成り立っていったのである。「葬式仏教」としての日本仏教は、日本人の宗教的欲求に応えてきたのだ。
 さらに鈴木氏は、日本の「葬式仏教」は釈尊の教えに沿っていると主張する。
 「何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である」と原典にある。日本では、葬儀という手段によって人々が現実に安心を得ている。それならば葬儀を行なうことは、それは善く説かれたものであり、釈尊の教えであるという解釈が可能になるわけである。

     一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.327-329

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 6-zl (世界平和のためには仏教的な慈悲の世界観が必要である)

 本山 日本は戦争に負けたのに、戦後これだけ復興することができたのは、アメリカについて、戦争をするための軍備拡張などに力を入れなかったからです。アメリカはそういうことにたくさんお金を使ったけれど、日本は一生懸命いろいろな工夫をし、技術を磨いて輸出もできるようになった。こうした繁栄は、やはり自由主義のアメリカの政策についていったからできたと思うのです。
 しかし、今は転換しないといけない時期を迎えています。自由主義とか、キリスト教的な対立の概念に基づいた世界観でなく、世界全体が仲よくやっていくという仏教的な世界観にならないといけない。そのときに日本は、一種のリーダーシップを発揮できる国だと思うのです。
 日本の社会は、徳川の世では朱子学、孔子様の教えを守ってきたのに、明治維新を迎えると西洋のものをみな受け入れられる柔軟性を持っていました。ヨーロッパの人たちにはできません。だからこそ、たとえ中国と一緒になっても、あるいは韓国やインドと一緒になっても、日本は中心になってやれると恩うんですよ。
 仏教的なものを生かし、利他行をするような政治、国益だけでなく世界の利益を考える思想で政策を実行できれば、大きく変わっていけるでしょう。
 アメリカでは、何をするにもまず国益が優先です。ヨーロッパもそうですね。自国の国益をまず優先させるのでなく、国連のようなものの場を大きくして、世界中が共同でやっていこうという考えが必要なのです。

      本山博・稲盛和夫『人間の本質』PHP研究所、2009、pp.134-135

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 6-zm (宗教家は魂があの世で救われることを説かねばならない)

 稲盛 よく、日本人は宗教心がないとか、足りないと言われます。実際に、あなたの宗教は何か、と聞かれたときに、「無宗教です」と答える人がたくさんいます。宗教心という言い方は漠然としすぎるのかもしれません。本当は、信仰心の有無を問うべきです。「あなたは信仰を持っていますか」と問えば、さらに少数になってしまうことでしょう。
 信仰というのは、たとえば釈尊であるとか、キリストであるとかに帰依することです。ですから、宗教心がある人より、信仰心を持っている人のほうが数は少ないと思います。信仰するということは、現世の問題であれ来世の問題であれ、神様や仏様に救ってもらいたいわけです。われわれのような俗っぽい人間は、助けてほしいと願うから帰依するんです。
 しかし、今の世の中は、「助けてほしい」などと言わなくても十分に飯が食えるし、ましてや死後の世界など信じていないという人が多い。人間の死とは無なんだ、だから遺灰を海に撒いてほしい、というようなことも行われている。つまり、「現世で救ってほしい、来世で助けてほしい」という差し迫った状態がないもんだから、当然、信仰心も起こらないんでしょう。
 また、宗教者側の問題もあります。
 「今、あなたは幸せそうに見えますが、神様、仏様にすがったら、もっと魂がやすらぎます。だから信仰を持つのは大事なことですよ。また、あの世はあります。死んだら、魂はあの世に行くのだから、そのためにも、神や仏に救ってもらうことが大切なんです」と宗教家が説かなければいけないのに、誰も説こうとしない。
 つまるところ、信仰というのは祈ることであり、私を救ってほしいという祈りがあって初めて信仰になると恩うんです。お坊さんも信者も、「私は仏教を勉強しています」から、「私は仏教を信仰しています」になれば、日本の社会までもが大きく変わってくるのではないかと思います。

    本山博・稲盛和夫『人間の本質』PHP研究所、2009、pp.140-142

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 6-zn (霊格の高くない生命体がいる神社や仏閣もある)

 神社や仏閣の中にはそれほど霊格の高くない生命体がいるところもあります。
 そういうところは、祈った人の現世利益のためにひと肌脱いでくれることもあります。そうすることで次回からも来てくれるようにしたいのです。その結果として、自分に依存するようにしむけたいのです。あわよくば自分の言いなりになるようにしたいのです。
 そういう神社仏閣の場合、お礼参りに来なかったり、お参りしなくなると悪さをされる場合もあります。
 暴力団に何かをお願いするのとまったく同じです。叶えてくれますが、後が怖い。こういうところとは関係を持たないほうが無難です。

     坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』ハート出版、2016、pp.178-182