学びの栞 (B) 


 20. 脳


 
 20-a[9-zc] (脳は思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーである)

 意識の流れから想念を取り出す力をどうしてあなたはもっているのだろうか。あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、存在の感情面での状態にしたがって、想念を引き寄せてくる。想念があなたの養分となる、つまりそれがあなたの存在の内で感じられ、実感されるためには、波動を下げて光体となることがまず必要だ。想念が、身体を包んでいる光であるあなたの存在の精神と遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。つまり想念は、光に遭遇すると自ら発光するのである。光は思考物質の波動を下げる。こうして光が、それと似たようなものを引き寄せるのだ。想念は目に見えず、それが次に光の炸裂という形で見えるようになる。想念は光という形であなたの脳に入り、今度はその想念の波動値によって異なる特定の周波数をもつ電気的な光の推進体へと変容するのである。
 何かひとつのものをあなたが意識するとき、あなたはその想念を受け取っている。想念を受け取っている瞬間に、あなたの脳がその想念の光を受け取っているのだ。通常は視界の横のほうでだが、ときとして光が炸裂するのを見る人がいる。そこで目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取っているところなのである。目の前に輝く光が現れるのを見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部でその姿を見せた瞬間なのである。目を閉じたとき、さまざまな色の動きや、形が広がるのが見えるなら、あなたは想念が脳に入るときにどんな姿になるかを目にしているのだ。
 あなたの脳は、思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーであり、その各部がそれぞれ違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできているのだ。各部分は、その細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を秘めている。ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。
 一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ。それは、あなたの存在の精神を通して入ってくる想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅すると、それを理解できるよう実感するために、身体のあらゆる部分に伝達するという特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 254-256

     
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 20-b[9-zd] (波動の想念を受け取る脳の力は脳下垂体によって制御される)

 皆の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれるものがあるが、それには音量を決めたり、どのメガヘルツの周波数の電波を受信するかを決める調節器があるはずだ。脳もまた、同じような調節器を持った受信機であり、ある特定の周波数を受信するためには、それを蓄積するようつくられた部分が起動されていなければならない。
 異なった波動の想念を受け取る脳の力は、ちょうど右脳と左脳の間に位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。脳下垂体は第七のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。異なる想念の波動を受け取って蓄積するそれぞれの部分を起動させるはたらきをするのである。思考を用いて思索したり、論考したりして、その想念を身体全体にめぐらせ、体験として実感し、さらに大きな叡智を得るというあなたの力を開いてくれる扉なのである。
 脳下垂体はたいへん小さな、しかしすばらしい分泌腺であり、これを「第三の眼」と呼ぶ人もたくさんいる。でも、三つめの眼はない。頭の中にはそれが入る余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口状の部分があり、それがちょうど花びらのように見える。あなたの脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れのシステムを通じ、支配され制御されている。内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れて、いまひとつの内分泌腺で、脳下垂体の近くの大脳の基底の部分、ちょうど脊髄の上に位置する松果体の口状部へと流れていく。松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取るさまざまな脳の部分を起動させるはたらきをするのである。
 身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンによって調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体のホルモンが他の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。そのバランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、そのホルモンの量を増やして、今度はそれがさらに高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 256-257

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 20-c[9-ze](意識の流れからの想念はあなたの存在の内でどう実現するか)

 意識の流れからの想念は、あなたの存在の内でどういうふうに実現するのだろうか。想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままでそれを通すのだ。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。
 さて、変性自我とは何だろうか。人間としての体験から得られた叡智が魂に蓄積され、脳の知性の部分を通して表現されているものだ。神なる人間が、ただ生き残る生き物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中に収まらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け容れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つためにすべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。
 変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させたその波動を蓄積する役割を持つ脳の部分に送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。
 松果体は、あなたの中枢神経を司っている。個々の思考の波動を集め、それをさらに増幅して、電気的な思考のハイウェイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込む。松果体から来た電流は中枢神経の内部にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つひとつの細胞へと伝えられていく。
 さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行なわれた食物の摂取の際に、酵素のはたらきで得られた気体が供給されている。想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。これが、細胞分裂を通して細胞が自己複製することを可能にするのだ。もうひとつ細胞を創造し、自らを再生するのである。こうして、このたったひとつの想念を通じて、身体全体が潤ったのだ。これが化身の分子構造の内部で生が実感される過程である。それは、あなたが存在する一瞬一瞬に受け容れているすべての想念がもたらす結果を通じてのプロセスなのだ。
 想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。全身がである!こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体中を走る感じ」というようなものをつくり出す。そして、そのフィーリングは魂に送られ、そこで記録される。
 あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する、まったくバイアスのないコンピュータなのだ。何か感情を感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 257-259

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 20-d[9-zf](何かを知りたいならば必要なのは感じることだけである)

 記憶には大きさというものがない。それはひとつの実体であると言える。記憶は視覚的な記録ではない。それは感情の記録なのだ。視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。魂は、記憶の目的で画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。
 魂は、全身で感じられた思考によってつくり出された感情を受けて、記憶の中からそれと似たものを探す。脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。
 記述できることは、すべて体験にもとづいたある特定のフィーリングと結びついている。皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験があるおかげだ。皆は花という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験がある。だから花はある特定の感じをもたらしてくれるのだ。絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験をそれと結びつけているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。魂は、そういった感情の体験からの情報をすべて記録している。想念からのフィーリングが感じられると、魂はそれを記録し、そして記憶にあるこれまで体験した思考の中から、それと似たフィーリングを探す。そして、その情報を脳に送り返し、その想念は実感された、つまり化身全体を通して、そのすべてが理解されたことを伝えるのである。思考はただ脳だけで実感されるのではない。それは全身で実感されるのだ。脳の理性の部分が、その後でそのフィーリングを描写する言葉を作成させてくれるのである。
 想念はどのように実感され、知られるようになるのだろう。それは感情を通してだ。「知っている状態」というのは、まさにひとつのフィーリングにほかならない。どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知られることはない。感じられて、はじめてそれはひとつのアイデンティティを持つのだ。ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。一度そのフィーリングを自分の内に持てば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。
 わが愛する兄弟たちよ、あなたたちの内にこそ、すべての知識への扉があるのだ。あなたの内面で燃える炎は、あらゆる徴少な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞形態を持つ生き物、つまり在るものすべての内にちらちらと燃える炎と同じものなのだ。まったく同一の火なのである。すべての生命とひとつであるというあなたの状態は、光の原理を通じて実感される。魂にある感情に信を与える光とは、花々や、星や、その他在るものすべてに信を与えるのと同じ光だからだ。だからこそ、あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有しているのである。何であろうとも、それを知るということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。花を知っている状態というのは、内面の存在が、フィーリングを通して到達するものなのである。何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 259-261

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 20-e[9-zg] (脳の松果体は知識を具現化させるチャクラである)

 思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか。松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。受け容れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。まずそれは身体のレベルで起きる。松果体が、まず最初にその想念が感情として記録されるよう、電流として全身に送る役割を持つからだ。想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。つまり、体験する「ハイの状態」、あるいは体中を走る感覚がより強くなるわけである。そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。その期待感が、光の場の電磁部分を起動させ、ちょうど磁石のように、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。それは、あなたの想念すべてから得られ、体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、物であり、人であるのだ。なぜだろうか? あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。
 では、望みというのはどう具現化するのだろうか。望みとは、それが満たされるという想念を、物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。あなたが自分に感じることを許した「満たされるという想念」は、すべて電磁場を通ってあなたの身体を離れ、意識の流れに入っていって、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。その欲求が身体の内で完全に、そして強く感じられたものであればあるほど、それが満たされる形も完全なものとなる。そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、それが現れるのも早くなる。絶対的な「知っている状態」というのは、オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 261-262

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 20-f[9-zh] (あなたにはあるものすべてを知る力がある)

 あなたにはあるものすべてを知る力がある。それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。物質次元で物質的な身体の中に生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、すべて三次元に形あるものを通してそれができるようにするためなのである。あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、すべて体験する現実となる。はじめは自分の化身の内に見えるものとして、次にはあなたの人生の状況として。そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにはあるのだ。そうやって、この地球上に天上の王国がつくられていくのである。
 それは実に簡単な科学だ。忘れないでほしい。思考はただ存在する。そして、光は見える。光の波動が下げられ、電気信号となる。電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて固体となる。そして、固体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。同じ真実が身体にもはたらく。それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから電気を受けて、固体の全身に送り、その固体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。望みを現実のものとするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけでいいのだ。するとその感情が父なるものに送り返され、それが満たされるのである。ただそれだけのことなのだ。単純すぎるだろうか。それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか?

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 262-263

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 20-g[9-zi] (あなたの脳のほとんどは休眠状態で何もしていない)

 もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。脳のほとんどは休眠状態にある。何もしていないのだ! それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。それを除いてしまうのである。言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。
 皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定されているからだ。つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。
 誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 264-265

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 20-h[9-zj] (あなたが自分に考えることを許したものは必ず体験する)

 閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!
 はっきりと言おう。何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。
 閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。確かにそれは変化をもたらす。なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。
 これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。
 天才になるというのはとても単純なことなのだ。自分で考えるようになればいいだけなのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 265-267

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 20-i[9-zk](脳の全体が使われれば自分の身体はどのようにもできる)

 脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。水は電気の伝導体だ。水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。
 もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか? もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか? 完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。
 脳全体の能力は膨大なものだ。なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。
 身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。
 いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完璧に再生させるのである。完璧に、だ! 奇跡的なことだと思うだろうか。それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 267-269

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 20-jl[9-z] (愛や喜びのすべては想念を変えるだけですぐそこにある)

 身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。確かにそういうものは効く。それが効くと誰もが信じているからだ。また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。曰く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。だから実際にあなたにはそれができない。なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。そして、彼らは癒された。一瞬のうちにである。「知っている状態」は、そういうことができるのだ。そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。身体はそうできているのである。
 存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか? それは、社会意識だ。どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。どこに愛があるのか。どこに永遠が? どこに神があるのだ? そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。
 一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。それは、知りたがっていなかったからだ。あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。だからあなたは自分の力を手放してしまった。自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。脳のはたらきを止めてしまった。それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 269-270

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 20-k[9-zm] (あなたは自分の内に完全に神になる力を持っている)

 人間が、気の遠くなるほど長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。神というのはそれだけのことなのだ。思考の総体、生の貴さだ。そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。完全に、である。いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。知ることができることはすべて知るだろう。あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。
 あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。変性自我である。なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも……。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 270-271

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 20-l[44-z](自分を愛すれば愛するほどあなたの脳は開いていく)

 ここにいる人たちは皆、物質という限られた形態で神について学ぶことでは、その能力いっぱいまで成長してきたと言える。地上界でのたくさんの生を通じて、自分の創造性の産物であるこの天国のあらゆる要素を体験してきている。その体験を通して、社会意識という、動物の群れのごとき現実に生きる神なる人間の限られた思考の価値観については、知るべきことはすべて学んだのである。恐れや不安、悲しみや怒り、強欲についてはもう学んだのだ。嫉妬、憎しみ、戦争についても学んだ。死についてもすでに学んでいる。自分自身と、自分の神なる「源」との断絶についても、もちろんもう学んでいる。そして、その源は、この地上界という、「在るということ」が目を見張るような形で見られる場において、あなたがその最終のレベルで神を体験できるように、すべての冒険を通じてあなたを愛し、支えてきてくれた。
 無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、あなたは自分をひとつにしているものに再びならなくてはいけない。身体というやっかいな荷物があるので、それになるただひとつの道は、第七のチャクラである脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ越えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることである。それが、自分の「知っている状態」を限りない神の叡智へと広げる方法なのだ。神の叡智とは、その存在そのものであり、在るがままでその存在を許し、愛しているもののことであり、つまるところ、それは思考の総体なのである。
 では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れを使って脳の眠っている部分を目覚めさせるには、いったいどうすればいいのだろうか。それは、単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてを愛しみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。
 自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。審判を超え、時間という幻影を超えるのである。あなたは自己の命を満たすためだけに生きるようになる。自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。そして、よろこびの道だけをたどる。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。
 さて、あなたは私にこう言うだろう。「でもラムサよ、それではまったく利己的なのではありませんか?」と。そう、まさにそのとおりだ! しかし、利己的というのは、利神的なのだ。あなたの内にあるこの神のために生きるすべての瞬間、そして心に抱いたあと、手放すことのできたすべての幻影、そして自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるのである。自己への愛(これはまさに神への愛ということだ)だけのために生きるようになったとき、あなたは社会意識の密度の中に神を浸透させていく。すると、あなたは愛する兄弟たちが自己へと戻る道に光を当てることができる。それは、彼らを愛する父のもとへと返してくれるただひとつの道なのだ。
 自分を本当に愛し、自分は神をそのまますべて受け容れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 274-276

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 20-m[9-zo] (限界のない想念を受け取っていけば光を発するようになる)

 どんな望みでもそれをかなえるいちばんの方法は何だろうか。あなたの存在の主=神から直接それを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて身体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在の内の神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在の内に入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。
 限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂の内で感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。
 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、何となく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経系を通って、あなたの身体の一つひとつの細胞へと送られる。これが、体中がしびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞一つひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 276-277

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 20-n[9-zp] (波動の高い思考が理解されるとそれは智慧として魂に記録される)

 限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく表す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、何の前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。
 覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくるとき、あなたは感情あふれて言葉を失ってしまうことだろう。
 思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するというのは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくれば、あなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。
 高い波動の想念から体験できた高揚感は、その後どうなるのだろうか。
 あなたの魂がそれをとらえ、記憶としてそこに永遠に置くのだ。魂は、感情、フィーリングを通して、この限りない思考の記憶がよみがえることを許すのである。こうして、あなたの「知っている状態」はいつのときもそこにあるように捕捉されているのであり、自分が受け容れることを許したものは、何度でも呼び覚ますことができるのだ。
 その高揚感には、いまひとつすばらしいことが起きる。魂が、オーラの場を通じて意識の流れへとそれを放射するのだ。これは意識の密度を高めるだけでなく、同じフィーリングを生み出す状況を人生に引き寄せてくるのである。なぜだろうか。その想念が体験を通じて完璧に理解されるようにである。波動の高い思考が完全に理解されると、それは智慧として魂に記録される。智慧とは、その知っている状態があなたの内面で絶対的なものとして固まったことを意味している。智慧は魂の波動レベルを高め、次にそれが、魂の高次の感情の状態に人生全体を合わせていくはたらきをするが、同時に脳下垂体をあらためて刺激し、それよりもさらに偉大な、高い波動の思考を脳が受け取ることを可能にしていく。こうしてこのプロセスはさらに続いていくのだ。
 脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が、創造的な形体へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それは、あなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに、似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。
 やがて、輝き、創造性、そして「知っている状態」が、自分の内面でどんどん強まるにつれて、以前は感じたことも知っていたこともないようなことをあなたは感じ、知り始める。ほかの人間を見て、その人を自分の存在の内に感じるようになる。自分の思考から、これからやってくる日々のことを知ることができるようになる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 277-280

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 20-o[9-zq] (思考の波動をすべて検知できれば自分の好きな波動になれる)

 心霊的な人間というのは稀有な存在だと思うだろうか。それはあなたが社会意識でものを考えているからにすぎない。社会意識というのは、そういう偉大な力が実は案外ふつうのことかもしれないとは考えないのである。誰もが心霊的な力を持っているのだ!自分に知ることを許すなら、あなたはすべてを知ることができる。なぜなら、社会意識の幻影に抑制されない「知っている状態」は、目の前からベールを取り去り、あなたは他の次元が見えるようになるからだ。耳から障害を取り除き、すべての生命が、自身との調和の中で振動する音楽を聴くことができるのだ。では、どうすればそうなれるのか? それを望むことによってである。
 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。
 花はある思考の波動を出している。同時に、カーペットもまたある思考の波動を出しているのだ。すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。風にも、ほかの何でも、自分が望むものになる絶対の自由を手にするのだ。
 やがて、脳下垂体全体が満開となり、脳のすべてが活動するようになる。すると、脳下垂体の内面にあった精神的なものは、すべて心の全体に与えられ、心はもう二度と以前の限られた状態に戻ることはなくなる。花が咲き始めると、それが閉じることはけっしてない。これからもずっと開いているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 280-281

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 20-p[9-zr] (脳下垂体が満開となるとあなたはもはや死ぬことはない)

 脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友のそばにいることもできるのだ。
 脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上っていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じなのだ。純粋な神となるとき、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。あなたはすべてになるのだ。これこそ、最も壮大な天国なのである。
 偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完壁な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面に入ってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきたすべての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終えるとき、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに百万倍も加速し、身体は見えない状態へと入って、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。
 あなたは三つの側面、つまり精神、魂、自我でできた生き物であり、それが固体という次元で自己を表現している姿である。そして、その三つの側面すべてがないと永遠を実現することはできない。自分の存在の主=神に語りかけるのだ。それはあなたの言うことに耳を傾けることだろう。そのとき、語っているのは、主であり、神であり、師であるのだ。覚えておくように言えば、それは覚えていてくれる。さらに偉大になるように言えば、そうなる。そして、自分の主=神のレベルから、限りなき叡智を持ちたいと望むなら、それはあなたの心を開き、偉大なる波動の思考が身体で感じられ、知っている状態が訪れるようにしてくれる。必要なのはそれだけだ。ただそうするように命ずることであり、内分泌腺はそれに従うのである。そして、自分の存在に電流が走り、さらに偉大な叡智へと高めてくれるフィーリングがやってきたなら、内にある神に対し、それがこれほど簡単だったことに感謝してほしい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 281-282

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 20-q[35-d] (あなたは知り得ることすべてを知る力を持っている)

 在るものすべてについて、どうすればもっと理解することができるのだろうか。それを理解していると知ることだ。どう考え、何を語るかが、自分にどれほどの知識をもたらすかを決める。「もっと知りたいと思う」などと言ってはいけない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知るようにする」もだめだ。「何かをするようにする」ということが、何ひとつ達成したためしはない。「もっと知ることを求める」でもいけない。求めていたのではけっして見つからないからだ。こう言うことだ。「わが存在の主=神のレベルから、いま私はこの瞬間に知るべきことすべてを知っている。そうなるように!」そして、答えを待つのである。そのときに何を知りたいと望んでいるか気づいていてもいなくても、「私は知っている」と言うことがその気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。それだけを言えば、知識はむこうからやってくる。
 自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は、「わからない」と口にすることだ。あるいは、自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないではしい。あなたは法をつくる者であり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。「わからない」と言えば、わかることはない。「できない」と言えば、けっしてできない。「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受けることはけっしてない。そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。
 あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。「不足」を入力しているのだ。そして、知識の中に、「知らない」ということを入力していることになる。それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪い取っているからである。
 あらためて言うが、いまも、これからも、知り得ることすべてを知る力をあなたは持っているのだ。その知識への扉を開くのは、ただ「私は知っている」というだけのことであり、するとすぐにそれが実現してくる。数秒間か、数日間かかるかはわからないが、それはやってくる。必ずやってくるのだ。なぜなら、「知る」という言葉は絶対であり、望みを絶対的なものへと変えるからである。知るという想念は、魂の内で感じられ、それがあなたの存在の内面に投影されて脳下垂体を開き、さらに多くの想念が受けいれられる様になる。知るということは、思考の河が限りない流れであなたの中にそそぎ込んでいくのを許す扉なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 282-284

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 20-r[11-d] (害を及ぼすものは決して体内に入れてはならない)

 この瞬間に自分のクローンをつくる力を持っているのでもない限り、いまの身体をわざわざ傷つけるようなことはしないほうがよい(ちなみに、もし脳が完璧に機能していたら、あなたはそういう力を実際に持つことができる)。
 自分の身体を愛することだ。身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること。だが同時に、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。
 あなたが女性ならば、女性であれ。男性ならば男性であることだ。自分のそのままを愛するのだ。身体をけっして虐待してはいけない。わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。
 自分という存在の壮麗さを見てみるがよい。自分が神なるものとして行動するのだ。皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。精油を塗り、香水で飾るのだ。身体が欲するものだけを食すること。身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものは何かを必ず教えてくれる。
 害をおよばすもの、害をおよはすと自分が知っているものは、けっして体内に入れてはならない。とにかく何でも脳への酸素の流れを不足させるものは、脳細胞を多量に死滅させる。脳細胞はけっして戻らない。脳は細胞を再生する能力がないからだ。脳細胞が破壊されると、思考を身体で実感する感情に変換する能力が落ちてしまう。想念に思いをめぐらすことはできても、それはあなたにとっては存在しないのと同じになってしまうのだ。そうすると、よろこびが消える。フィーリングを通じて想念そのものになることなしに、いったいどうしてその想念によろこびを感じられるというのか。
 感じることができないと、この次元での「知る状態」を刻み込むことができない。これが、幻想を引き起こすドラッグを摂取したときに自分の脳におよばしている害なのだ。こういうものを摂取するたびに、それは脳から酸素を取り去ってしまう。あなたが感じている「ハイ」と呼ぶ状態は、脳が死んでいくことによって引き起こされているものなのだ。ドラッグを使うたびに、あなたは自分の知る能力を制限していく。そして、いずれはあなたが泣くことも笑うこともできなくなるときが来る。自分の存在の内に、もはや感情をつくり出すほど強いものが何もなくなってしまうからだ。
 すべてを知るという状態を体験すること、一輪の花が咲くのを見て涙し、陽が昇るのを待ち、その輝かしい美のすべてを知ることは、知る力を持つことであり、想念をフィーリングへと変換する力を持つことなのだ。それが「絶頂感」(エクスタシー)と呼ばれるものだ。これこそ、皆の言葉で言えば、いい「ハイ」なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296

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 20-s (人間の左脳はいくらでも進歩するようにできている) 

 小林 宇宙構造を踏まえた上で、このように生きる、ということはありますか。
 中川 人間は宇宙創造主によって、何か目的があってつくられたのだと思います。人間と他の動物とは、行動は似ていますが、内容が違います。
 他の動物には、生まれてから死ぬまでのソフトがきちんと組み込んであります。つまり、エサをとること、危険から身を守ること、子孫を残すこと、そして死ぬこと。寿命もそうですが、これらが全て動物によって決まっています。
 動物にはある程度の予知能力はありますが、それが高級な未来予知力に発展することはありません。また、エサをとることにしても、食べるだけの技術であり、人間のように、いろいろな技術を駆使して保存しておくというようなソフトは、組み込まれてはいないようです。
 人間だけが、左脳がいくらでも進歩するようにできています。限定されたソフトはなく、努力して考えれば成長するプログラムになっています。
 このように、神の代理をするまでにつくってあるということは、神は地球をつくり、自然界をつくったときに、神の代理として自然界を管理・運営させるために人間をつくったのだと、私は想像しています。
 細かいことまで神が管理するのは大変ですから、ある程度、人間にできることは任せるということでしよう。ですから人間は・地球上の生物など自然界を管理し、全ての生命を正しく守る任務があると思います。
 ところが今の人間は、動物は殺し自然は破壊するという、神の意思に反したことをしており、神は非常に嘆いておられることでしょう。
 小林 小動物など弱い立場のものを保護するどころか、攻撃し、痛めつけ、殺戮の側に回ってしまったのですね。
 中川 「調和」や「共生」の思想がどこの分野でも必要です。

   小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.126-127