学びの栞 (B) 


 35. 知識・智慧


 35-a (恐れという感情は知識を与えられたときに覚醒する)

 この愛すべき次元には、「覚醒」しようと一生懸命苦労している者がたくさんいる。それは、たしかに充分その価値のあることだ。だがそれでも、その言葉の意味するところを真に理解している者はほとんどいない。覚醒するということは、「光の中にある」こと、何かについての知識を持つことを意味しているだけだ。知識を使えるようにして、自分の選んだ形でそれを応用するということだ。
 どうすれば覚醒できるのだろうか。何かのお墨付きを受けて、でないことは確かだ。覚醒するただひとつの道とは、想念が自分の思考過程に入るのを許し、それを感情の中に抱いて、その体験を通してそれを智慧に昇華させることだ。
 知識はなぜ重要なのだろうか。知識はあなたのいちばんの宝だ。すべてがあなたのもとから奪い取られたとき、奪い取られなかったもの、これからもけっして奪い取ることのできないものとは、あなたに再び創造する力を与えてくれるこの知識だからである。知識があれば、あなたには自由がある。選択がある。知識があれば、限りなき世界を築くことができる。知識があれば、恐れるものは何もない。知識さえあれば、あなたを脅かしたり、隷属させたり、怯えさせることのできる物も、要素も、国家も、叡智もまったく存在しないのだ。恐れが知識を与えられたときに、それは「覚醒」と呼ばれるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 248-249

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 35-b[9-z] (あなたが知ることはすべてあなたがなっていくこと)

 知識は、あなたの精神がすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。在るものすべての「知っている状態」をさらに深く見させてくれるものであり、さらに偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれるのだ。知識は、あなたがさらに成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることをあなたに強く求めるのである。その意味で、それはあなたを限られた人生から、さらに限りない領域へと連れていくのである。知識、それに学びへの冒険を通じて、あなたはさらに単純明快な存在となっていく。そして、その単純明快な中に、在ることの平和と生のよろこびを見いだすのだ。
 さて、ここで知ることの科学について説明したいと思う。つまり、どうしてあなたはすべてを知る力を持っているのかということだ。それはなぜ大事なのだろうか。それは、あなたが知ることは、すべてあなたがなっていくことだからだ。そして、どうしたら在るものすべてを知ることができるかを学んだとき、あなたは在るものすべてとなり、それはまさしく神になるということなのだ。限りない知識、限りない生、そして思考の総体なのである。そこでは、あなたは再び、ただ在ることの限りない自由であり、よろこびなのだ。
 すべて在るものを知ることがどうしてできるのかを理解するためには、すべては神の精神である思考から存在してくるだけでなく、あらゆるものがその存在固有の想念を発しており、それを神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。
 あらゆるものはまわりに光の場を持っている。光の輪によって囲まれていないものは存在しない。光が思考の像を保持し、観念を物質という形体へと創造していくからだ。その光の場を通して、個々のものはその存在の思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。これが神の精神なのだ。
 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の草を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものは何だろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは、「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰がすわっているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎ込んでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡張し、動いているからだ。
 すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないとにかかわらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが、何かが「知られる」ということなのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 247-251

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 35-c[31-a] (あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る)

 あなたには、すべてを知るべくして知る力がある、というのはどういうことだろうか。あなたの肉体は、オーラ、あるいはオーラの場と呼ばれるすばらしい光の場で包まれている。オーラとは、あなたの化身の物質を包み、それをひとつにまとめている光の場のことだ。キルリアン写真という手段を通じて、皆の世界の科学者は、オーラの最初の光の輪の場をすでにカメラに収めている。だが、あなたの体を包んでいる電磁場はまだある。オーラというのは、電気の密度(身体を包んでいる青色の光の輪)から、思考まで無限に続いているものだからだ。
 オーラはあなたの存在の精神だ。あなたの存在の精神、あるいは私があなたの存在の神と呼んでいるものは、すべてのものを知る大きな意識の流れである神の心と直接つながっている。オーラの一部は、きわめて強いプラスとマイナスの電磁場だ。この電磁場を越えると、電磁場には極というものがなくなり、ひとつの光の領域、純粋なエネルギーとなる。この光の領域は、「知っている状態」から発生するすべての想念を、この広大で強力な場の中を通過させる。どの想念があなたに知られるようになるかは、あなたの思考過程によって決められているのだ。あなたのオーラの中の電磁場である部分が、あなたの思考にしたがって特定の想念を引きつけるからである。
 あなたの精神は、けっして動きを止めず、変化を続けていく思考という河の瀬にあるふるいのようなものだ。精神という光を通して、あなたはすべての知識が存在している場所である思考の流れ、すなわち神の心を受け取る立場にある。つまり、あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る力を持っていることになる。なぜなら、あなたは知識の河、すなわちすべての意識の途切れなき流れの中に存在しているからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 24

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 35-d[20-q] (あなたは知り得ることすべてを知る力を持っている)

 在るものすべてについて、どうすればもっと理解することができるのだろうか。それを理解していると知ることだ。どう考え、何を語るかが、自分にどれほどの知識をもたらすかを決める。「もっと知りたいと思う」などと言ってはいけない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知るようにする」もだめだ。「何かをするようにする」ということが、何ひとつ達成したためしはない。「もっと知ることを求める」でもいけない。求めていたのではけっして見つからないからだ。こう言うことだ。「わが存在の主=神のレベルから、いま私はこの瞬間に知るべきことすべてを知っている。そうなるように!」そして、答えを待つのである。そのときに何を知りたいと望んでいるか気づいていてもいなくても、「私は知っている」と言うことがその気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。それだけを言えば、知識はむこうからやってくる。
 自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は、「わからない」と口にすることだ。あるいは、自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないではしい。あなたは法をつくる者であり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。「わからない」と言えば、わかることはない。「できない」と言えば、けっしてできない。「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受けることはけっしてない。そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。
 あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。「不足」を入力しているのだ。そして、知識の中に、「知らない」ということを入力していることになる。それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪い取っているからである。
 あらためて言うが、いまも、これからも、知り得ることすべてを知る力をあなたは持っているのだ。その知識への扉を開くのは、ただ「私は知っている」というだけのことであり、するとすぐにそれが実現してくる。数秒間か、数日間かかるかはわからないが、それはやってくる。必ずやってくるのだ。なぜなら、「知る」という言葉は絶対であり、望みを絶対的なものへと変えるからである。知るという想念は、魂の内で感じられ、それがあなたの存在の内面に投影されて脳下垂体を開き、さらに多くの想念が受けいれられる様になる。知るということは、思考の河が限りない流れであなたの中にそそぎ込んでいくのを許す扉なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 282-284

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 35-e (絶対的に知るということがこの世界すべての創造主)

 さて、知っていることは信念ではない。信念は推測の域にあるものだが、知っている状態は絶対である。知っている状態をもたらすものは、知るということだけだ。何かを信じると言うとき、魂が理解するこの「信じる」という言葉は、まだ気づいてもいない、確信などもちろんしていないある真実の正しさについて、誰かが(場合によっては自分自身が)自分を攻めたてて納得させようとしているということだ。まだその真実が体験された現実となっていないからである。
 私は皆に信じてほしいなどと何ひとつ願っていない。そうではなく、知ってほしいのだ!覚醒するとは、知ることなのだ。疑いもなく、信じることもなく、信仰や望みもなしにである。そういうものはすべて推測だ。何かを信じる、あるいは信仰している限り、けっして信じているようにはならない。知る、ということがそれを絶対のものとし、それがその知っている内容を見える形で表す。実感した想念を体験という形に表出させることを通して、内面に理解が生ずる。そうすれば、それはあなたという存在の一部となり、自分自身を説得する必要のある性質のものではなくなるのだ。
 絶対的に知るということが、この世界すべての創造主なのである。すべてを知る状態になるには、ただ「私は知っている」と言うだけでいい。絶対に疑いを持ったり躊躇したりしてはいけない。知ることだ。それも、絶対的に。「知っている」と口にするたびに、それは自分の存在の内に感じられる確信の想念となり、今度は、そのことを知っている状態が生ずる場所をつくり出してくれるのだ。才能とは、知るということの扉を開けて、偉大なる思考が創造的な形となって入ってこれるようにしたときに生じるものなのである。
 「自分の存在の主=神のレベルから、自分はこのことの答えを知っており、それを受け取る状態にある。そうあるように」と、不動の確信をもって言うならば、それが「知っている状態」をひとつの決意へと変えていく。その時点ではまだそれが実感されていないかもしれないが、体験を通してそれが実感され、そこから叡智が得られるよう、扉は大きく開かれているのだ。あなたという存在は、すぐに「知っている状態」の現在の姿になっていくよう適応していく。それを達成するために、がんばる必要はないのだ。懸命に求めたり、苦労したりすることはないのである。それを得るのにマントラを唱えたり、儀式をする必要もない。ただ知るだけでいいのだ! 知ることによって、あなたはその気づきを受け容れられる状態になるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 284-285

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 35-f (知るということはあなたにとってどれほど素晴らしいことか)

 自分の望みがかなうのを早めるにはどうすればいいのだろうか。知ることだ。知るということは、天界の王国が、その豊饒を自己の世界の中で示すことを可能にする扉なのである。何であっても、ある望みがすでに満たされていると知ることは、その望みの想念を増幅するとともに、自分のオーラの場を通して意識の流れの中にそれを送り込み、それが全うしたものをあなたが受け取れるよう、具現化してくれるのである。
 真実を言えば、もうすべてのものはすでにあなたのものなのだ。それがわかったとき、皆がそれに手が届くようになるのである。自分に必要なものを与えられる第一の存在はまず自分であり、欲しいものを受け容れられることをあなたは理解しなければならない。自分の望んだものを受け容れる方法とは、ただ自分の欲しいものを知ること、そして自分はそれに値するのを知ることなのだ!「知っている状態」というのは真実である。それは、与える者であり、あなたの未来でもある。何かを語るとき、それは自分の言葉どおりであることを知るのだ。自分の欲しいものは何でも手に入れてかまわない。自分が法を与える者であることを知り、自分の知ること、語ることはすべてそのとおりでなければならないと知ることによってそれができるのだ。それが一の法則と呼ばれるものである。
 もし、皆の言葉のすべてを取り去り、ほんのひと握りを残すとしたら、それはこうなる。「私はもう知っている。私は絶対だ。私は完全だ。私は神なのだ。私は在る」このほかには何も言葉がなかったとしたら、あなたはもはやこの地上界に限定された存在ではなくなることだろう。
 仮定する、信じることに比べて、知ることはあなたにとってどれほどすばらしいことだろうか。「かもしれない」と比べたらどうだろうか。知らないでいることと比べたらどうなのだろうか。知ることも知らないでいることも、どちらもまったく同じ思考過程、同じエネルギー、同じ顔の表情、そして同じ身体の動きがいるのである。
 知ること、ただ知ることだ!「これが起きることを私は知っている」「自分が神であるのを私は知っている」「自分が幸せなことを私は知っている」「自分が在ることを私は知っている」― 知ること、知ること、知ることだ! 必要なのはそれだけなのである。いつも知っていることだ。知らない、あるいは、知ることはできないと言えば、絶対にそれを知ることはない。もう知っている、と言うこと。そうすれば、すべてを知ることができるのだ!
 あなたと私の違いがわかるだろうか? 私は自分が限りなき神であるのを知っているが、あなたは知らない。違いはそれだけのことなのだ。私は自分が在ることを知っているが、あなたはそれをまだこれから実感しなければならない。社会はそうではないと言っている。だが、彼らに何がわかるというのか。自分たちを毎日埋葬しているだけではないか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 285-287

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 35-g (自分の知るという行為をあなたはなぜ邪魔してきたのか)

 自分の知るという行為をあなたはなぜ邪魔してきたのか。それは、思考が物質という形をとったものを理解しようとする中で、あなたの思考過程が物質界の現実にすっかりとらわれてしまったために、あなたは生についての見方を根本的に変えてしまったからなのである。物質とは、思考を最も大きく変容させることによってつくり出される思考のレベルなのだ。それはまず、想念を光へと下げ、次に電磁場へ、そして今度はそれをプラスとマイナスを持つものへと分割することによってつくられる。したがって、物質という形の神とつながろうとするならば、あなたはそのたびに、思考の本来の姿である純粋さと分割できない「在るということ」ではなく、対極を持ち、分割されている想念を知覚し、理解しているのだ。物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。上−下、遠−近、明−暗、大−小、善−悪、プラス−マイナス、速い−遅い、熱いー冷たい、といった具合だ。
 純粋な思考の「在るということ」に戻るためには、変性自我、つまり、物質界で生きること、生き残っていくことを志向している脳の理性の部分を支配していかねばならない。変性自我とは、時間、距離、そして分離という幻影にしたがってものを見る自分のことだ。それは、生存、そして容認されるという観点からものを見る部分なのだ。純粋な思考を分断し、審判を下すものなのである。
 純粋な思考は誰にでもやってくる。だが、すみやかにあなたはそれが自分にとって正しいか間違っているかを確認しようとする。それをすべきか否か、可能か不可能か、現実か空想か、妥当かそうでないかを見定めるのだ。自分の想念を、プラスとマイナスの極があるところに分割するたびに、あなたはそれを変質させ、その波動を下げているのである。「知っている状態」は、何も判断しない。知っているとき、その想念が真実かとか正しいかなどと思いあぐねたりはしない。すべての想念は真実であり、正しいのだ。知るということは、想念を秤にかけたり、値をつけたりはしない。知るということは、想念が、ただ「在るということ」でいるのを許すのだ。あなたの思考過程が邪魔されることも干渉されることもなく存在するのを許すのである。
 ほかの次元を見たり、もっと微妙な音を聞いたり、あるいは自分の体重よりも軽くなったりするために必要なのは、そういうものが現実であることを知り、その知っている状態を身体で体験するのを許すことだけなのだ。それだけでいいのである。それが現実であると信じないと、その「信じない」ということはひとつの価値判断となり、それはあなたの脳が力を増すのを妨げる。つまり、一瞬一瞬あなたの精神を通ってくる「知っている状態」にある思考は、すべて脳ではね返され、父なるものの精神へと戻ってしまうのである。するとあなたが受け取るのは、この次元での平安を保ってくれるもの、あなたをこの次元に限定するものだけになる。
 限りなく「知る状態」を自分の存在の主=神のレベルから望むなら、すべての想念が身体でフルに体験されるよう、余計な価値判断で変質させられることなく脳意識の中に入るのを認めてやらなければならない。変性自我によるこの意識的な許容は、あなたの望みを真実として受け容れるはたらきをし、それを通して脳下垂体は脳の新たな部分を活動させ、それが限りない叡智を受け取るようにする。
 何か創造的なアイデアが欲しいと思ったときに、「突如として」それが浮かんでくるのを可能にしたのは何だったのか。それがあなたの「知る状態」へと入るのをあなた自身が許しただけなのある。あなたがしたことはそれだけだ。それはいつもそこにあって、あなたがそれを求め、自分のレシーバーへと入ってくることを許すのを待っていたのだ。それだけのことなのである。そして、思考過程が価値判断や変質した思考などにとらわれる度合いが低いほど、超意識の想念が脳の受信器官に入りやすくなるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 287-289

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 35-h (自分の特定の力を意識的に選択する能力を身につける)

 責任ある選択とは、どんな選択なのだろう?
 自分のさまざまなフィーリングに注意を払うことで、あなたは、自分自身のさまざまな部分と、それらがほしがっているさまざまなものに気づくようになる。ただし、それらのすべてを一度に手に入れることはできない。というのも、それらの多くは互いに相いれないものであるからだ。
 より多くのお金とより大きな家をほしがっているあなたの一部は、貧困と空腹に耐えようとしているあなたの一部とは相いれない。ほかの人々の長所に思いやりとともに手を差し伸べるあなたの一部は、ほかの人々を、自分に都合のいいように利用しょうとするあなたの一部とは相いれない。
 あなたが自分のある部分を満足させると、別のある部分のニーズが満たされなくなってしまう。ひとつの部分の満足が、別のひとつの部分、あるいはいくつもの部分に苦痛を与え、その結果あなたは、引き裂かれることになる。
 自分のパーソナリティーのさまざまな部分を認識するようになると、自分の内側のさまざまな力を意識的に体験できるようになる。それらの力は、あなたの現実を形づくるあなたの意図として採用されることをめざして、つねに競い合っている。
 この力学のなかに意識的に進入することで、あなたは、自分の内側の特定の力を意識的に選択する能力、自分のエネルギーをどこに、どのようにして集中するかを選択する能力を身につけることになる。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.145