学びの栞 (B) 



 55. 事故・災害・障害


 55-a[19-f] (事故にはそれを体験することで学べる教訓がある)

 事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。じつは事故ですら、前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において、十分に知っているのです。
 子供についても、きっと質問があるに違いありません。父親が酔っ払って欲情をおこし、その結果生まれたかわいそうな子供たちはどうなのか、と質問したいに違いありません。あるいは、病気の親から、病気をもって生まれた子供はどうなのかと。このような罪のない子供たちもまた、運命によって苦しみに満ちた人生を生きていかなければならないのかと。
 あるいは、狂気の肉体に閉じ込められた魂、生まれたときから病に犯された肉体に閉じ込められた魂はどうなのだろうか、という疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どうすれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
 これらの場合にもまったく同じ答えが当てはまる、と私たちは答えたいと思います。人間の魂は自分に何が起きるか、ということについての予知能力を常にもっており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。
 このような問題について、きわめて限られた洞察力しかもっていない人間にとっては、どのような動機によって、魂が苦難の人生を選択したのかを理解することは不可能であり、魂がどれほどの苦しみを体験しなければならないのかを垣間見ることすら不可能です。しかしながら、戦慄を覚えるほどの惨事が地上において行なわれているのを目撃した後ですら、人間が、善なるもの、神、宇宙の第一の源と呼んでいる、あの全能の存在の価値を判断してはなりません。たとえ、この存在が幼い子供たちが苦しむのに任せて、何もしないように見えるにしてもです。
 私たちがいるところでは、誰であれ価値判断をするということはありません。より広い視野から見ると、神はいかなる意味においても、復讐をしたり残酷であったりするようにはけっして見えないのです。私たちがいつも感じているのは、限りない愛であり、神の思いやりに満ちた知性であり、人間に対する永遠の慈悲心です。私たちに見えるのは、全智全能の父が、自分の子供が歩む道を自由に選択する意思の力を与えている姿です。苦しみの道であれ、喜びの道であれ、エゴを克服していく道であれ、すべての道は上昇を続け、やがては、完璧な宇宙の崇高な意識のもとに帰っていくのです。
 猫がネズミをもてあそんでいるのを見て、感傷主義者は身震いしてこう叫びます。「なんて恐ろしい、残酷なことをするんでしょう。自然は残酷さにみちみちている!」。一見そのように見えるかもしれません。しかし、そう見えるのは限られたヴィジョンしか持っていない人なのです。実際はそうではありません。さまざまな外観の背後には神の愛と理解があり、すべてのものに浸透しているのです。私たちのまわりに充満しているように見える苦しみは、神の崇高な調和と愛と美を、すべての神の被造物の意識に理解させるための手段を包み込んだものなのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.260-262

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 55-b (障害のある子にも神から特別な贈り物が授けられている)

 わたしはまた毎週一回、半日をシカゴの「盲人のためのライトハウス(灯台)」で盲目の子どもや両親たちとすごしていた。あたえることよりもあたえられることのほうが多い仕事だった。
 そこで会った人たちは、おとなも子どももともに、運命がもたらした試練と苦闘していた。わたしはそこで運命の対処法を学んだ。かれらの人生は悲惨と勇気、落胆と達成のはざまを疾走するジェットコースターのようなものだった。わたしは晴眼者のひとりとして、たえず「自分になにができるか」と問いかけていた。わたしの仕事はおもに「聞く」ことだったが、それ以外にも、チアリーダー役をつとめ、いのちをじゅうぶんに開花させ、豊かに、幸福に生きる可能性を「見る」ように盲人たちを励ました。人生は悲劇ではなく、挑戦すべき課題だった。
 それはときに、あまりにも重い問いだった。想像以上に多くの子どもたちが盲目のまま生まれ、あるいは水頭症として生まれたために植物状態とみなされ、死ぬまで病院ですごしていた。不毛の人生というしかなかった。希望も援助もみつけられない両親たちも同じだった。盲目の子どもを生んだ親たちの多くが、死にゆく患者と同じ反応の諸段階を経過していくことにわたしは気づいた。受容するにはあまりにも厳しい現実だった。しかし、受容する以外に道があるのだろうか?
 九か月の正常な妊娠期間をへて、確実に健康な赤ん坊を生むはずだった母親がいた。ところが分娩室でなにかが起こり、娘が盲目で生まれてきた。母親は絶望の淵につき落とされた。それは正常な反応だった。だが、援助を受けてこころの傷を癒した母親は、やがて娘のハイディーが教育を受け、専門職につくことを望むようになった。健全な、目をみはるほどの回復ぶりだった。
 不幸なことに、その希望が非現実的だと主張する医療の専門家と出あうことになった。専門家はハイディーを施設に入れるようにすすめた。家族は途方に暮れた。しかし、施設に連絡する前に、運よく「ライトハウス」の助けを得ることができた。わたしはそこでその母親と出あったのである。
 もちろん、わたしに奇蹟を起こすことなどできるはずもなかった。娘の視力を回復させることはできないが、母親の悩みに耳をかたむけることはできた。必死に奇蹟をもとめていた母親は、やがて、どんなに厳しい障害のある子どもにも神から特別な贈り物が授けられているというわたしの話に耳をかたむけるようになった。「期待をぜんぶ捨てるのよ」わたしはいった。「お嬢さんを神からの贈り物として愛し、抱きしめるだけでいいの」
 「それから?」母親がたずねた。
 「そのうちに、神がお嬢さんに授けられた特別な贈り物が姿をあらわすわ」
 どこからそんなことばがでてきたのか、自分でもわからなかったが、わたしはそう信じていた。母親は希望を新たにして帰っていった。
 それから何年もたって、新聞を読んでいたわたしはハイディーにかんする記事をみつけた。ライトハウスで会ったあの赤ん坊が元気だったのだ。元気どころか、りっぱに成長し、将来を嘱望されるピアニストになって、はじめてのリサイタルをひらこうとしていた。批評家はハイディーの才能を激賞していた。わたしはすぐに母親を探しだし、会いにいった。母親は胸をはって、ここにくるまでの苦労を語った。懸命に育てているうちに、ハイディーはとつぜん音楽の才能を発揮しはじめた。「まるで花がひらくようでした」母親はそう語り、わたしの励ましのおかげだと礼をいった。
 「あの子を拒絶するのはかんたんだったでしょう」母親はいった。「みなさんからそうしろといわれました」
 いうまでもなく、わたしはこうした感動的な瞬間のことを自分の子どもたちに伝えた。けっしてあきらめてはならないことを学んでほしかったからだ。人生に保証はない。だれもが難問に直面する。直面することによって学ぶようにできているのだ。生まれた瞬間から難問に直面する人たちもいる。すべての人のなかでもいちばん特別な人たちだ。その人たちはいちばん大きなケアといつくしみを必要としているが、いのちの唯一の目的が愛であることを思いださせてくれるのもその人たちなのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.204-206

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 55-c[43-k] (偶然というものはないし事故は起こるべくして起こる)

 でも、わたしはあのトラックにひかれることを選んだのではない! あの強盗に襲われることを選んだのではない、あの精神異常者に強姦されることを選んだのではない。ひとはそう言うでしょう。そう言えるひとが、世の中には確かにいるんです。 

 あなたがたはみんな、根本のところで、強盗に盗みの欲求、あるいは必要性を起こさせる原因を生み出している。あなたがたひとりひとりが、強姦を可能にする意識を生み出している。あなたがたが自らのなかに犯罪の原因を見いだしたとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。
 飢えた人びとに食物を、貧しい人びとに尊厳を与えなさい。運に恵まれていないひとに機会を与えなさい。大衆が群れて怒る原因となる偏見に、より良い明日へのささやかな約束によって終止符を打ちなさい。性的エネルギーに関する無意味なタブーや制約を捨て、人びとがその真のすばらしさを理解するように、適切な方向にエネルギーを向けるように助けてやりなさい。そうすれば、盗みや強姦がない社会に向かって大きく前進するだろう。
 いわゆる「事故」というもの、曲がり角の向こうから疾走してくるトラックや、空から降ってくるレンガについては、出来事を大きなモザイクの一片として受けとめる術を覚えなさい。あなたがたは、それぞれ自分を救済する計画を実践するために、この世にやってきた。救済といっても、悪魔の誘惑から自分を救うという意味ではない。悪魔などというものはないし、地獄も存在しない。あなたがたは、真の自分を実現しないという忘却の淵から自分を救おうとしているのだ。
 あなたがたは闘いに負けるはずがない。失敗するはずがない。だから、闘いというよりは、単なるプロセスと言うべきだ。だが、それを知らなければ、いつももがいていなければならないと感じるだろう。人生は闘いだと信じ、闘いを中心に宗教をうちたててしまうかもしれない。その宗教は、闘いこそがすべてだと教えるだろう。だが、それは間違った教えだ。プロセスの進行は闘いではない。身をゆだねていれば、いずれは勝利が得られる。
 事故は起こるべくして起こる。生命の要素があるときにある方法でぶつかり、ある結果を引き起こす。あなたがたは、自分なりの理由で、その結果を不運と呼ぶかもしれない。だが、魂の課題という点から考えれば、不運ではないかもしれない。
 もう一度念を押しておこう。偶然というものはないし、なにごとも「たまたま」起こったりはしない。個々の出来事や冒険は、真の自分を創造し、経験するために、あなたがた自身によって呼び寄せられるものだ。(マスター)はみんな、それを知っている。だから、神秘な(マスター)たちは、人生で(あなたがたが言う)最悪の出来事にぶつかっても動揺したりはしない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.73-75

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 55-d (自然災害の犠牲者もすべて苦しみから解放され自由になっている)

 地球は常に変動しており、ときには地殻から揺るがすほどの動きを示すこともあります。それが自然災害と呼ばれるもので、多くの人命が失われ、生活が物質的にも精神的にも破壊されてしまうのです。あまりの理不尽さに「なぜ私が」「どうして私達が」と思われるのは当然でしょう。しかしそれは地球の自然活動の一部であり、人類始まって以来起こり続けたことで、おそらく地球最後の日まで繰り返されることです。
 私達は霊的存在であるがゆえに、肉体は滅びても、生命は続きます。魂や意識は決して死にません。地上界で起こる自然災害が決して偶然に起きているのではないと認識されている高次の霊世界へとのぼっていきます。肉体の世界で感じた痛みや苦しみは意識が飛び越えた瞬間、消えていきます。
 これを心に留め、私は断言します。今回の惨劇で命を失ったあなたがたの愛する人達はすべて安全な場所にいて、この地上界で味わった苦しみや悲しみから解放され自由になっています。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.294-295

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 55-e (世界では何故さまざまな天変地異が起こっているのか)

 今、世界で起きているさまざまな天変地異は「人類の集合意識」が起こしている部分もあると、私自身は考えています。集合意識を代表するような存在がいます。ここ一〇年ほど、世界中で大地震や気候の大幅な変動が続いていますが、これらも相当前からプランニングされていると思います。
 アセンションの一環としてそれらを起こして、みんなの気づきを促そうというわけです。
 それによって気づく人も大勢いますし、気づかない人も大勢います。東日本大震災でも、かなりの日本人、あるいは他国の人たちの意識変化が見られました。価値観というか考え方というか、行動の方向性も含めて変わった人が多かったと思います。思いやりの気持ちが生まれ、実際にそれを行動に移した人が大勢います。
 ボランティアに行ったり、あるいはボランティアに行かないまでも義援金を寄付したりしたわけです。日本全体で被災地をサポートしようという思いやりの心が生まれ、何かしようというふうに思ったわけです。
 被災地やそこに近いところでは、例えば物にせよ、時間にせよ、労働にせよ、かぎられたものを分かち合おうという思いが強く発生しました。
 もう一つ、重要な意識変化があります。
 それは、自然との共存が重要なのだということに、多くの人が気づいたことです。
 それまでは原子力でオールオッケーと考えていたのですが、いや原子力では難しいのではないか? ダメでしょう、というような意識変化です。
 もっと自然と共存できるような生き方にスイッチしなくてはならないのだと、多くの日本人が、いや世界の人々が思い始めました。ですから今、日本の多くの方がこれを機に原子力依存をやめたい、別の発電方法に切り替えたいと主張しています。自然にとって害がない方向に行きたいと思っているのです。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.138−139)

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 55-f (地震だけでなく、経済、政治的な変動も世界中で多発する)

 二万人近くの死者・行方不明者と、あと被災された方も含めると数十万から一〇〇万人以上の人々が直接もしくは間接的な被害に遭われているわけですが、彼らもそこを通していろいろなことに気づいたと思います。
 特に亡くなった方々は、この大震災が起きることを転生してくる前から知っており、意図的にこの人生を選んで生まれた尊い方々だと思います。自分が犠牲になることで、大勢の人に気づきの機会を提供するという目的を持って生まれてきているのです。
 みなさん、かなり意識の高かった人たちだと思いますが、この人生をあえて選び、還って行ったということです。
 こういう話をすると不謹慎だと怒る人がいますが、これまで繰り返し転生した背景を考えると、私はむしろ、今回の人生を選択した崇高な魂に敬意を表します。
 彼らは彼らなりのプランがあり、今度はもっと上のレベルの世界に行くのだと思いますが、問題はこの世界に残された人たちです。
 その家族とか、被災者とか、それ以外にも日本人全体が、どういう気づきを得るのかということです。
 大勢の方々が、実にさまざまな気づきを得られたと思います。次に進むための出来事だったと思うし、意図的に上のほうがプランニングしていたのだと、私は感じます。
 そしてこういう現象は、今後も定期的に起きます。
 もちろん日本だけでなく、これからは世界の多くの地域や国で起きます。それは東日本大震災と同様、気づきを促す方向で起きます。
 ただし、地震は地殻変動が大きく影響しますので、もちろんそれ以外の理由でも起きます。アセンションするためには、地球自身が大きく変化する必要があります。地球が変わるためには多くの場所に溜まったストレスが大きく発散される必要があります。その発散の結果として地震があちこちで起きることも多いと思います。
 それプラス、人類の「気づき」を促すために起きるものもたくさんありますから、地震だけでなく、経済的な変動や政治的な変動といったさまざまな意味での地殻変動が、今後一〇年間くらいは世界中で起きると考えられます。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.138−139)

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 55-g  (なぜ戦争や飢餓、天災、不幸はなくならないのか)

 そもそも戦争や飢餓、天災、不幸の原因は私たち人間にあります。
 私たちのネガティブ(否定的)な思いとそれに基づいた行動がネガティブな結果を導いています。
 天候不順や災害、水害、地震といった一見私たちの思いや行動に関係ないことがらでさえも、私たちのネガティブな思考や行動が引き寄せている場合があります。
 このように自ら招いているという現実があるのに、不幸がなくならないのを高次の存在たちのせいにするのはおかど違いです。受験に落ちたからといって、頼んだ神様の力不足のせいにしているようなものです。
 高次の存在たちはそれぞれに役割はちがうかもしれませんが、彼らが一様に願っていることは、私たちに早く気づいてほしいということです。
 何に気づくのかと言うと、「自らの不幸の原因は自らの思いや行動にある」ということです。「ネガティブな思いとそれに基づいた行動をやめ、ポジティブな思いとそれに基づいた行動をしなさい、そうすれば幸せになりますよ」ということです。
 宇宙には「自分が発したものを自分が受け取る」という原理があります。この原理については前にお話ししました。自分の行ないが、いずれ自分に形を変えて返ってくるという意味です。ここで、行ないには体での行ないだけでなく、言動や心で何を思うかということも含まれます。
 高次の存在たちは私たちに早くこの原理に気づいてほしいと願っているのです。
 地球は第3密度という段階にいますので、その中で生きていくと、ともすればネガティブな物の見方をしやすくなります。そのような見方をすると、「自分が発したものを自分が受け取る」原理のために、ネガティブな体験をすることになります。
 たとえば、「世の中は苦しいことばかりだ」という信念を持ってると、苦しいことばかりを体験することになります。その結果、やっぱり世の中は苦しいことばかりだと、自分の信念がますます強固なものになっていきます。
 ただ、だからと言って、ネガティブな見方を持ち続けて良いわけではありません。それは、ネガティブな現実を生み出し続けるだけです。高次の存在たちは私たちに「ポジティブな見方を持つように早く切り替えてください」と願っているのです。

 坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』ハート出版、2016、pp.176-177

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 55-h (事件や事故にはそれぞれに意味がある)

 毎日のように暗く悲惨なニュースが飛び込んできます。事件、事故、災害など、あってはならない出来事で大切な家族を亡くされたご遺族のお気持ちは、察するに余るほどの深い悲しみに包まれています。
 私は、そのようなご遺族の方から相談をお受けすることが多々ありますが、事件や事故で亡くなった方は次のようなメッセージを伝えてくれます。
 小学校低学年の男の子が、お母さんの目の前で車にはねられて亡くなった悲しい事故がありました。
 その後、四十九日たってからも、ご家族の悲しみは少しも癒えることなく、まだ幼い妹が、誰もいない家の外を指さし「にいに (お兄ちゃん)!」と嬉しそうに駆け寄るという出来事が頻繁にあったり、男の子の同級生が、事故現場で男の子の姿を見た、というようなことがあって、ご相談をお受けしました。
 実際、男の子は、お花やジュース、お菓子がいっぱいお供えされた事故現場から動けなくなっていたのです。
 「おうちに帰りたい」という男の子を私に一度憑依させて、ご自宅へ連れて帰りました。ほっとした表情でご家族へのメッセージを伝えて、迎えにきてくれたおじいちゃんと一緒に光の中へ浄化していきました。
 その子のメッセージとは、パパの仕事の心配とママの体調のこと、そして妹のことでした。
 「妹はワガママで、中学生になったらママと口をきかなくなるかもしれないけど、すごく気が弱くて、愛が欲しい子だから、パパもママもしっかり見ててあげてね。それから、弟も生まれるけど、僕の生まれ変わりじゃないから、僕だと思わないで、弟をしっかり見て個性を伸ばしてあげてね」というもの。
 それから 2年後、男の子を出産予定だと、ご両親からご報告をいただきました。
 また、「大学生の娘を殺害されて、妻が後を追って死にたいと言って、こちらの言うことを聞かない……」とご相談をいただいた時も、ご自宅へ向かう車内に娘さんが現れて、「どうか、母をよろしくお願いします。父は、母の姿を朝から晩までずっと見張っています。このままでは、私は二人から離れるわけにはいきません。二人には生きて欲しいんです」と、涙ながらにメッセージを届けられました。
 お母様とお父様の前でそのメッセージをお伝えすると、娘さんは、
 「私は自分がどうなったのか、ちゃんとわかっているよ。こんなことはもう二度と起こってほしくない。だけど、殺されたのが私でよかった。だって、私は、お父さんやお母さんやみんなに、いっぱい愛されたから。幸せだったから……。それに、うちのお父さん、お母さんは強い人だもん。私に起こったことをみんなに伝えて、もう誰も悲しまないようにしてほしいの。ありがとう……」
 と言って、お母様に寄り添うようにもたれかかりました。
 お母様は「本当にあなたの母でよかった。ありがとう……ありがとう……」と何度もおっしゃられていました。
 今ではお母様は講演活動、お父様は通学路での見回りをボランティアでされていて、娘さんの死を無駄にしないように頑張っておられます。

    美鈴 『あの世を味方につける行き方』扶桑社、2010年、pp.47-49

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 55-i (九死に一生を得ることの意味)

 事故などで危うく死にかけるような場面に遭遇しながら、かろうじて助かる経験をした方もいるかもしれません。このような九死に一生を得るという経験は、守護霊による手助けという部分もありますが、それだけでは決してありません。
 前世も含めての徳の貯金、良い種まきがあったのです。
 自らがまいた種は自らで刈り取る因果の法則というのがあります。人に意地悪をしたら自分も何らかの形で意地悪をされるというような、悪いこと、直接的なことで考える人も多いですが、そうとは限りません。自分が良い種まきをして、それが貯金のように積まれて、危ない場面で助かるという形で帰ってくることもあるのです。
 その種まきは、前世のものも引き継がれます。ですから今、あなたが良い種まきをすることも、これからの自分のためのよい貯金となるでしょう。
 九死に一生を得ると人は、「ああ良かった」と思うでしょう。でもそれは「この世にいることが幸せ」という考え方があるからで、現世での視点です。
 あの世から見れば、この世はたましいを磨く修行の場です。ですから守護霊があなたに言うとすれば、「まだまだ生きて、学ばなければいけないね」という言葉かもしれません。「はい、卒業です。お疲れ様」とは言ってもらえず、「さぁ、修行は続きますよ」。九死に一生を得るとは、そう簡単には卒業させてもらえないという意味でもあるのです。

    江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.171-172

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 55-j (崇高な魂ゆえに事件の被害者となることもある)

 犠牲になられた方たちも、決して事件・事故に遭うことを望んで生まれてきたわけではありません。寿命は決めていても亡くなり方までは決めて生まれてこないのです。
 もちろん、別の亡くなり方を選択することもできたでしょう。しかし、崇高な魂ゆえに、起こってはならない事件の被害者となることで、このような悲しい出来事が二度と起こらないようにと、大きなメッセージを残して亡くなられていくのです。

    美鈴『あの世を味方につける行き方』扶桑社、2010年、p.49

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 55-k (台風や洪水などの自然災害も人間が招いた人災である)

 人間は不遜にも植物のためではなく、人間のために地球を変えようとしています。植物のためにあった地球を勝手に自分たちに都合よくつくり変えてしまいました。
 砂漠を緑化するのではなく、石油を掘る掘削基地にしてしまったり、バベルの塔のようなビル群を建ててしまい、草一本生えないような人工的な街をつくってしまいました。
 亡くなった亡骸を土に返すのではなく、焼いてダイオキシンをまき散らし、さらに骨を取り出してお墓の中に収納し、その前で拝むことを供養だと勘違いしています。
 一見合理的で便利になったつもりでも、じつは自分たちの首をしめてしまう逆の結果を招いていることに、愚かな人間は気がついていないのです。近年とみに被害が増している台風や洪水などの自然災害、火山の爆発も、愚かな人間が招いた人災だと私は思います。
 一例をあげると、最近大型化が進んでいる台風は明らかに人間が引き起こしたものです。人間がたれ流した化学肥料が海を汚染した結果、海の微生物が大量に増殖し、赤潮が発生したからです。
 墨汁を一滴水の中にたらすと、透明な水の場合より、より多く太陽の熱を吸収します。それと同じように赤潮におおわれた海面はより多く太陽の熱を吸収し、海水の温度が高くなります。
 気温の上昇とともに、大量の水蒸気を含んだ下層の不安定な空気が収束して上昇気流となり、上空に大量の水蒸気を運びます。それらはやがて多数の積乱雲を生んで、巨大台風が発生する原因となっていきます。
 また赤道近くの海面の湿度が高くなると、その分、北極や南極など極地の気温は下がります。なぜなら地球はちょうど16℃に保たれるよう地球全体でバランスをとっているからです。
 極地の冷たい空気と、高湿になった赤道から来る温かい空気がぶつかるのが、ちょうど日本列島がある緯度になります。
 そのため、日本やヨーロッパ、アメリカでもそのあたりの緯度にある場所が大雨になったり、洪水や土砂崩れの災害に襲われているのです。
 もし私たちがすべての生命体につながる「意識」の回路を閉じていなければ、当然、無数の生命体から危機を知らせるメッセージが届いたでしょう。でも悲しいかな、「意識」の回路を閉じた人間には、地球の意識のメッセージは届かないのです。

  木内鶴彦『臨死体験で明かされる宇宙の「遺言」』扶桑社、2016、pp.103-105

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 55-l (私たちは死後どのようにして霊界へ移ってきたか)
      ― タイタニック号犠牲者の霊界からの通信 (1) ―

 地上時代にスピリチュアリズムとの出会いによって驚くと同時に感動したのと同じように、私は、今度はこちらへ来てみて、地上時代に得た霊的知識が重要な点において百パーセント正確であることを知って、驚き、かつ感動しました。そうと知った時の満足はまた格別でした。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした。
 と言うのも、根本的には絶対的な確信があったとはいえ、細かい点で不安に思うことが幾つかあったのです。それだけに、実際にこちらへ来てみて、それがまさか≠ニ思えるほど、私の予想を裏切って現実であることを知り、満足したわけです。どこか矛盾しているように思われる方がいるかも知れません。確かに矛盾しているのです。
 と申すのも、私の地上時代の不安は、もしかしたら霊の世界には地上とはまったく異なる存在原理があって、地上界へ届けられる霊界の事情は、人間に理解できるように表現されているのであって、あるがままを正確に叙述したものではないのではないかという推察に根ざしていたのです。ところが現実は、地上とそっくりでした。
 私が地上を去って霊界入りする時の様子については、ここではあまり述べたくありません。すでに、いろんな場所で何度も述べております。死の瞬間は、当然のことながら、大変な混乱状態となりました。が、それが治まってからは、死後の後遺症のようなものは、二度と体験しておりません。が、その死の瞬間のことは述べる気になれません。
 何よりも私が驚いたのは、あの混乱状態の中にありながら、他の溺死者の霊を私が救出する側の一人であったことです。私自身も本当は大変な状態にあったはずなのに、他の霊に救いの手を差しのべることができたという、その絶妙の転換は、率直に言ってまったくの驚きでした。その時の事情が事情でしたから、なぜだろう? 何のために? といったことを考える余裕はありませんでした。そんな疑問が顔をのぞかせたのは、少し後のことです。
 落ち着く暇もなく、私をさらに驚かせたのは、とっくの昔に他界したはずの知人・友人が私を迎えてくれたことです。死んだことに気づく最初の原因となったのはそのことでした。そうと知って、どきっとしました。
 次の瞬間、私は、自分で自分を点検しておりました。一瞬のうろたえはありました。が、それはホンの一瞬のことです。すぐに落ち着きを取り戻すと、死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何ともいえない嬉しい気持ちになりました。ジャーナリストの癖で、一瞬、今ここに電話があれば! と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした。
 以上が、他界直後の私の意識的反応です。それからその反動ともいうべき変化が生じました。茫然自失の心境になり、やがて地上の我が家のことが気になりはじめました。その時点では、タイタニック号沈没のニュースはまだ入っていなかったはずです。ニュースを聞いたら家族の者はどう思うだろうか。その時の私の心境は、自分はこうして無事生き続けているのに、そのことを知らせてやるための電話が故障して使いものにならないという、じれったさでいっぱいの状態に似ていました。
 そのとき私は沈没の現場に来ておりました。他界後のことを長々と述べてきましたが、時間的にはまだ何分も経っていなかったのです。地球のすぐ近くにいましたから、その現場のシーンがありありと見えるのです。沈没していく船体、ボートで逃げる船客――そのシーンが私を自然と行動に移らせたのです。救ってあげなくては! そう思った次の瞬間には、私は茫然自失の状態から覚めて、水没して肉体から離れていく人たちを手引きする役をしておりました。

      エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳)
         ハート出版、1992、pp.31-34

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 55-m (私たちは死後どのようにして霊界へ移ってきたか)
       ― タイタニック号犠牲者の霊界からの通信 (2) ―

 ・・・・・・自分でも何が何だかさっぱり分からないのですが、私は必死になって手引きして、大きな乗り物とおぼしきものに案内してあげました。やがて、すべてが終了しました。まるで得体の知れない乗り物が出発するのを待っている感じでした。言わば、悲劇が完了するのを待っていたようなものです。ボートで逃れた者はもちろん生きて救われました。が、溺死した者も相変らず生きているのです。
 そこから妙なことが起こりました。その得体の知れない乗り物――というよりは、われわれが落ち着いた場所全体が、いずことも知れぬ方向へゆっくりと移動を始めたのです。
 そこに集まっている人たちの情景は、それはそれは痛ましいかぎりでした。死んだことに気づいた者は、あとに残した家族のことと、自分はこれからどうなるかが不安のようでした。このまま神の前へ連れて行かれて裁きを受けるのだろうか――どんな裁きが下されるのだろうかと、おびえた表情をしておりました。
 精神的ショックで、茫然としている者もいました。何が起きたのかも分からず、無表情でじっとしています。精神がマヒしているのです。こうして、新しい土地での評決を待つ不思議な一団がそこに集まっておりました。

 事故はほんの数分間の出来事でした。あっという間に大変な数(1,500余名)の乗客が海に投げ出されて溺死し、波間に漂っておりました。が、その死体から脱げ出た霊が次々と宙空へと引き上げられていったのです。生きているのです。中にはすこぶる元気なのもいました。死んだことに気づきながらも、貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても掴めなくて、かんしゃくを起こしている者もいました。地上で大切にしていたものを失いたくなくて必死になっているのでした。
 もちろん、タイタニック号が氷山と激突した時のシーンはあまりいいものではありませんでしたが、否応なしに肉体から救い出されて戸惑う霊たちの気の毒なシーンは、その比ではありませんでした。胸がしめつけられる思いのする、見るにしのびない光景でした。その霊たちが全て救出されて一つの場所に集められ、用意万端が整ったところで、新しい土地(ブルーアイランド)へ向けて、その場全体が動き出したのです。
 奇妙といえば、こんな奇妙な旅も初めてでした。上空へ向けて垂直に、物凄いスピードで上昇していくのです。まるで巨大なプラットホームの上にいる感じでした。それが強烈な力とスピードで引き上げられていくのですが、少しも不安な気持ちがしないのです。まったく安定しているのです。
 その旅がどのくらいかかったか、又、地球からどれくらいの距離まで飛んだのかは分かりません。が、到着した時の気分の素敵だったこと! うっとうしい空模様の国から、明るく澄み切った空の国へ来たみたいでした。全てが明るく、全てが美しいのです。
 近づきつつある時からその美しさを垣間見ることができましたので、霊的理解力の鋭い人は、たぶん急逝した者が連れて行かれる国なのだろうなどと言っておりました。神経的にまいっている新参者が、精神的なバランスを取り戻すのに適した場所なのです。
 いよいよ到着するころまでには、みんな一種の自信のようなものを抱くようになっておりました。環境のすべてに実体があること、しっくりとした現実感があること。今しがたまで生活していた地上の環境と少しも変らないことを知ったからです。違うのは、全てが地上とは比較にならないくらい明るく美しいことでした。
 しかも、それぞれに、かつて地上で友人だった者、親戚だった者が出迎えてくれました。そして、そこでタイタニック号の犠牲者は別れ別れになり、各自、霊界での生活体験の長い霊に付き添われて、それぞれの道を歩みはじめたのでした。

     エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳)ハート出版、1992、pp.37-39