学びの栞 (B) 


 59. 奇跡・超能力・超常現象



 59-a奇蹟のみを喧伝する宗教には邪しまなものが多い

 先覚者釈尊は、自己の肉体を超越して本源の光に達した時、自己そのものが、光明身そのものであることを悟ったのであり、それ以来、自由自在に神の力を駆使して、数多の奇蹟を行い、その弟子たちも、霊界の守護神の力を借りて、それぞれの神通力を発揮した。
 仏教学者は釈尊の偉大さを、その哲学的な説教におき、その奇蹟の面は、釈尊の偉大さを称えるための一つの物語的に解釈している向きが多いが、あの奇蹟があったればこそ、仏教哲理が現在のように拡がったのであり、この点、キリストの奇蹟も真実のものであることを私は明言する。
 奇蹟なき宗教は、あまりに広まらないし、人間を魅力しない。といって奇蹟のみを喧伝する宗教には邪しまなものが多い。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.49

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 59-b (イエス・キリストが五千人の人々に食事を供した奇跡)

 マスター・キリストが五斤のパンと二匹の魚で五〇〇〇人の人々に食事を供したことについて、真実ではないと疑う人たちがたくさんいます。そのような奇跡をキリストはいったいどうやって実現したのか、と彼らはたずねます。キリストは意識を普遍的実在まで上げ、思いを神と一体化させ、霊的な原子を自分の思いに引きつけ、原子の振動のスピードを緩め、その原子がどういう物質界の形をとるか決めることによって、これを行なったのです。こうして、五〇〇〇人の人々に食事を与えられたのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、p.197

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 59-c[58-a] (種を蒔き一定の湿り気と太陽と温度があればなぜ芽が出るのか)

 人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している、強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしません。信心の深い人は神聖な計画や、すべての物にきちんとした秩序を与えている、愛に満ちた父なる神の存在について信頼を込めて語ります。しかし、自然に見られる法と秩序を支配し、保持して維持するための素晴らしい組織が霊界に存在しているということを考えようとはしないのです。
 科学者たちは、こうした出来事は物質的存在の正常な営みの一部であると見なしがちです。そして一種の法則によって動いていると考え、その法則に名前をつけるだけで、なぜそうなるのかを理解しようとはしません。種を土の中に蒔き、一定の湿り気と太陽と温度があれば芽が出る、と彼らは主張するのです。それを聞いた人たちは、その結果を奇跡として見るのではなく、つまり、霊的な力の不可思議な現実化であるとは見なさず、ごく当たり前の出来事として受け入れるだけです。
 これと同じように、一般の人たちは自分を支えてくれる自然のさまざまな営みを当たり前のことと見なし、自分たちの権利であるかのように考えています。その結果、自然のあらゆる現象の源である、妖精たちの限りない世話、愛情、忍耐に感謝しないのです。
 人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界があります。こうして、真実と愛が常にこの惑星に、そして宇宙に奉仕することが可能になっているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.201-202

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 59-d[73-g] (この世には人類科学の範疇を飛び超える出来事がある)

 大本教(正式には大本)の開祖である出口なおの「お筆先」が京都府亀岡市の教団本部にあります。
 美術館みたいな感じで展示してあるわけですが、それを見た時は驚きました。読み書きのできないなおがわずか二七年の間に、新聞紙程度の大きさの半紙に二〇万枚、書いたわけです。ずーっと、二七年間。
 これが後の『大本神諭(教典)』ですが、あれを目にすると、人間のやることじゃないとわかります。
 ある意味で常識を超えています。常識を超えると普通は見えません。そこにあっても。多分あれは、そういう感覚なのかなと思います。
 出口なおの娘婿・出口王仁三郎が書いた『霊界物語』も、実に八三冊もあるのですが、その執筆スピードを例えて言えば、一日で三〇〇頁分の書籍を仕上げ、それを毎日毎日、こうワーツと書く形式です。それも自動書記で、ぶ厚い本八三冊分。人間業ではありません。
 その事実を論理思考でどう考えても、これは人のやっていることではないなという結論に向かうわけです。
 出口なおに至っては、字を書けない人だったわけですから。
 そういう事実が日本中に、世界中にあるわけですから、それらをより精査することで、「この世」には人類科学の範疇を飛び超える出来事があるのだという「共有知識」が明確になるのだと思います。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.169−171)

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 59-e[29-zg] (スピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例)

 『人は死なない』にはほとんど書きませんでしたが、すでにスピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例はいくつもあります。中国地方にいる某物理学者の方は、数年前にがんを患い、その後、腸閉塞を起こしたりして調子が悪かったそうですが、知人のヒーラーのところに行った途端、治ってしまったというのです。皮膚科でも取ったほうがいいと言われたがんが、ヒーリングを受けた一週間後、自然にポロッと落ちてしまったそうです。皮膚科の先生が相当驚いたそうですが、それは驚くのは無理もありません。
 そんな劇的な体験をしたのが物理学者だったものですから、ご自身も相当な感銘を受けたようで、次から次へと学校や物理学界で宣伝したそうです。
 他にもがんで手術をしようかと悩んでいたその先生の教え子の女子大生は、ヒーリング後にがんが消えてしまったそうで、当然がんが消えたその証拠も画像で残っているわけですが、その結果、彼女は手術しないで済みました。
  スピリチュアル・ヒーリングは、別に稀なことではありません。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.173-174)

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 59-f  (気功で治されたパーキンソン病)

 最初の受講から少したった平成六年の十月、私は中健次郎先生の北京気功ツアーに参加しました。そのときの参加メンバーは、私の他に七〇歳代のAさん夫妻、三人の医者を含めその他九名でした。ツアーでは、四泊五日の滞在中に四人の先生に指導を受けましたが、どの先生もその道の最高レベルの方々でした。ここでは、そのうち特に印象に残った二人の先生の指導について述べてみます。
 まず、外気功の大家である黄震寰先生。航空工学の教授で六一歳とのことでしたが、見た目には四〇歳代にしかみえない。黄先生は、最初に踊りのように流れる気功の演武を披露された後、三人のお弟子さんを相手に対気を行いました。お弟子さんたちは、それこそ黄先生の体に触れるか触れないかくらいのタイミングで飛ばされていました。試しに私は、そのコロコロと飛ばされていたお弟子さんの一人と対気をしてみましたが、手刀一押しであっという間に飛ばされてしまいました。中健次郎先生のときと同じで、まるで岩と対峠したようでした。
 もう一人は、外気治療の第一人者である李和生先生です。李先生は、ツアーに参加したパーキンソン病を患っている七〇歳代の男性Aさんに、実際に治療を施されました。先生が右手をAさんの両足裏から一〇センチメートルほど離し、団扇で風を送るようにハタハタと扇ぐような動作を一五分ほど続けると、Aさんは鼾をかいて寝入ってしまいました。いっしょに日本から付き添ってきた奥さんによると、この病気になって以来、こんなふうに熟睡するのをみたことがないとのことでした。我々は、その後約一時間ほど先生の授業を受けましたが、その間Aさんはずっと眠ったままでした。
 さて、我々が驚いたのは、Aさんを起こしたときです。それまでAさんはパーキンソン病特有の動作が硬くて歩幅が小さいよちよち歩きだったのが、若干のぎこちなさはあるもののほぼ普通の滑らかな歩行ができるようになったのです。Aさんの奥さんは、涙を流して喜んでいました。私はというと、それまでの臨床医学の知識が邪魔をして俄かには信じがたく、その現象をどう理解してよいのかわかりませんでした。
 李先生は、パーキンソン病になった理由は本人の頑固で怒りっぽく奥さんに対して感謝の念を示さない生き方にある、だから神罰があたったのだとAさんを諌めていました。まあ、今さらそう言われても人の性格はそう変わらないでしょうが。
 ともあれ、目の前で起きた現象は私にとって本当に驚きでした。もっとも、中先生によると、このレベルの気功治療ができるのは、中国でも一億人に一人くらいだそうですが。
 気功の原理は、いまだ解明されていません。気功が自然科学のさらなる進歩によって解明できるものなのか、あるいはまったく別次元の原理に属するものなのかということもわかっていません。一部の基礎研究によると、様々な波長の波が出ているといわれていますが、それが気功のすべてを説明できるわけでもないし、その波がなぜ出るのかについてもまったくわかっていないのが実状です。
 このように多くの人が可視化、体験できる現象でさえ、現在の医学知識ではそう簡単に解明はできません。ただ確実にいえることは、現に「それはある」ということです。

    矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.36-38

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 59-g (2度目に山から転落した時吹雪の中で天の声を聞く)

 「もう山へは来るな」と、確かに聴こえました。周りは吹雪ですから、そんなふうに人の声が聴こえるはずがありません。「こだまかな?」とも考えましたが、こんな吹雪の中こだまが聴こえるということもありえない。いや、そもそも、近くに人は人っ子一人いないはずです。ちなみに、声の質は、女性というより男性に近いものでした。
 それから、しばらくすると、私はまるで憑き物が落ちたように肩の力が抜けて気が楽になりました。そして、「もう山はやめた」と即断しました。これが医学部の五年のときのことですが、以来、一度も本気の登山はしていません。あれから三〇年以上たった今も、ときおり考えることがあります。「あの体験はなんだったのだろう?」「なぜ二度も私は奇跡的に助かったのだろう?」そして、「あのとき聴こえた声は何か?」それは決して幻聴ではありませんでした。
 当時、私は、山に取り憑かれていたといっていい。登らなければならないという強迫観念のような思いに捕らわれていました。あのまま登り続けていれば、私は必ずや事故死していたと思います。そのように自堕落に山に登り続けてきた私を、あの声が諌めてくれたのでしょう。そのころはまだ私は「霊聴」という言葉は知りませんでしたが、その声は確かに霊聴であり、啓示であったのだと思います。(矢作)

 矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』マキノ出版、2012、pp.20-21

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 59-h (夫に対する感謝の気持ちが生まれたらガンが消えた)

 (中) 例を挙げてみましょう。乳ガンで苦しんでいた、当時五十歳代前半の女性の例です。彼女は四〜五aの腫瘍があり、なかなかよくならず、不安に苛まれ悩んでいました。私の教室に通って、気功も続けていましたが、残念ながら、最初のころは大きな効果を上げるには至っていませんでした。彼女には不満がありました。ガンになったあとのご主人の態度を非常に不服に思っていたのです。仕事を理由に病院にもついてきてくれなかったことを、非常に冷たいと感じていました。
 ところが、ある日、彼女は「一人あること」の真の意味に気づくのです。私のところで気功を学ぶ前から、彼女は、さまざまなインド哲学にも親しんでいました。インドでは、人間の本質というのは、「サット・チット・アーナンダ」といって、純粋な存在であり、純粋な意識であり、純粋な喜びであるといっているんですが、彼女はそれを知識として知っていただけでした。
 その日は違っていました。「私の魂は、常に何かに依存して自立していなかった。それでいつも、他人や外の状況に影響を受け、それを変えようとしていた。しかし、一人あることの中にすべてがある」と目覚めたのです。「ガンになったからこそ、ほんとうの自分に気づくことができたのだ。一人で存在そのものにふれることは、孤独という意味ではなく、その存在そのものの中に純粋な喜びがあり、叡智がある。今までもそしてこれからも、常に導いてくれる道があったのだ」。
 彼女はそう思ったんですね。すると、自然と旦那さんにも感謝の気持ちが生まれてきたそうです。自分はガンになってよかった。ガンになったおかげで、いろいろな出会いがありこの心境に到達することができたのだから。そんなふうに考え始めた日から、ガンはどんどん退縮し始め、あっという間に消えてなくなったんですね。その後も、彼女のガンは、再発することがありません。
 (矢作) 現在もお元気なのですね。
 (中) ええ。今はもう五十九歳になりますが、いつもこコニコ顔で、生き生きと元気に暮らしています。

  矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』マキノ出版、2012、pp.82-83

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 59-i (自分で作った病気は自分で治せる) 

 (中) もう一つは、その当時四十代後半の女性の例です。このかたは、大腸ガンでした。しかもガンは全身に転移していて、医師からは見放されていました。それで、私の講習会に気功を習いにきたのですが、最初は、大変暗い顔をしていました。休憩時間に質問してきた彼女に、私は軽い気持ちで「自分で作ったものは自分で治せますよ」とお話ししたんです。私の講習会では、「性命双修」といって、心を浄化する「性功」と、体に働きかける「命功」の両方を指導していますが、彼女は習ったことをすぐに実行してくれました。
 このかたの場合、心身ともに問題があったんですね。例えば、彼女はもともとお肉が大好きで、あまり健康的な食生活をしてはいませんでした。しかも、夫婦関係もうまくいっていないと感じていました。旦那さんのことが嫌でたまらないと感じていたのです。夫婦の間の会話の中で、しばしば使われるのは、「だって」「でも」「しかし」といった言葉ばかりでした。こうして旦那さんにネガティブな言葉をかけると、向こうからもネガティブな言葉が返ってくる。それで夫婦関係が険悪になったんでしょうね。
 (矢作) 言葉には言霊がありますから、どうしてもそういうことになりますね。
 (中) そうなんですね。悪いほうへ悪いほうへと人間関係が回っていく。彼女は、心をコントロールするすべを学んでいきました。気功を練習することによって、しだいに波立ちやすかった心を制御できるようになった。そのうえ彼女は、思い切って自分の言葉を変えてみたんです。好きではなかった旦那さんに「好きよ」というようになった。「あなたと結婚して幸せよ」といえるようにもなったのです。
 そうこうするうちに、毎晩外でお酒を飲み遅く帰ってきていた旦那さんが、「おまえのそばがいちばん安らぐなぁ」と早く帰ってくるようになりました。そして、早起きして、二人で手をつないで、散歩に出かけるぐらい仲よくなったんですね。
 そして、自分が末期ガンであったことも、いつしか忘れ、あるとき、改めて検査してもらったところ、体じゅうに転移していたすべてのガンが消えていたのです。彼女はもう七十歳になっていますが、現在もお元気です。このかたの場合も、性功で心を浄化するうちに、気づきが訪れたんでしょうね。そして、気づきが起これば健康を回復する力がわいてくる。
 (矢作) 人間には、それだけの自然治癒力があるのでしょうね。ふだん私たちは、いろんな事情から、そこに蓋をしていて、その力を引き出すことができなくなっているんですね。

  矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』マキノ出版、2012、pp.83-85

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 59-j (アトピーが消えた不思議な水の力)

 私が49歳のときのこと。
 髪の毛が半分白かったのです。順調に中年のおじさんになりつつありました。そんなときに、ある人に会いました。講演会後のお茶会に、見知らぬ人が参加していました。見知らぬ人、初対面の人がお茶会に参加すること自体は珍しいことではありません。ですが、妙に親しげなのです。
 「初めてお会いするのですよね」と聞きました。
 「なにを言ってるんですか。○○家の○○子ですよ」と言うのです。その人は家族ぐるみで、何回も会っている人でした。
 「え、そんな顔していましたっけ」と私。
 「そうですよね。この顔は初めてですよね」とその人が。
 「意味がわかりません。どういうことですか」
 「前回まで、ずっとアトピーだったんです。ひどいアトピーで、薬でも温泉治療でも治りませんでした。死にたいと思ったことが何度あったかしれません。
 でも、つい最近ある人からこう言われたんです。水分を取るときはその水に向かって言いなさい。私の細胞を正常にしてくださってありがとう、と。水は、コーヒーも紅茶もみそ汁も、体に入る水、水という水すべて。ほかの治療を全部やめてこれをやることにしました。そうしたら、2週間で膿がとまり、その後、2週間でかさぶたが全部はがれました。つまり、26年間苦しんできたアトピーが、水に話しかけて飲んだだけで治ってしまったんです。
 前回までは5mmのブツブツの間をファンデーションで埋めてから、そこに目や口を描いてましたから、毎回違う顔でした。今日はすっぴんで、これがほんとうの顔です」
 すごい話で驚きました。が、それはそれでとても楽しい話です。私もやってみたい、人体実験をしてみたいと思いました。
 しかし、そのとき、私には不調なところがありません。
 自覚できる 「治った」 「変わった」.と言えるようなところはないだろうか、と探しました。
 一つだけありました。髪の毛です。
 ありとあらゆる水に「若返らせてくださってありがとう」と言いながら飲みました。1カ月後、髪の毛が真っ黒になりました。以来、私の髪は黒いまま。まったく染めていないのに黒いのです。
 三つ目の実例。
 完全に100%白髪になっている70歳の人が、この話を聞きました。そして実践。1年間水に向かって「若返らせてくれてありがとう」を言い続けました。1年後、半分以上が黒髪になりました。
 私の知り合いの医者に言わせると、高齢になるとメラニン色素が髪の毛の根元に集まらなくなるのだそうです。
 たとえ集まったとしでも、集まったメラニン色素を髪の毛の中に送り込むのは、膨大なエネルギーが必要なのだとか。エネルギーがたくさんある若い人ならともかく、70歳の人が、と驚いていました。
 この三つの実例の結果、以下のようなことが推定されるのです。
  ―― 水はものすごいエネルギーを秘めているみたいだ。体の中で私たちの望むように働いてくれるみたいだ。命令したりいばったりしてはいけないが、ありがとうや感謝の気持ちが伝わると、よく言うことを聞いてくれるみたいだ――

  小林正観『幸も不幸もないんですよ』マキノ出版、2010、pp.174-177

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 59-k (中国の人体科学学会で披露された超能力)

 さらに張宝勝さんについてもふれておきたいですね。このかたは、高名な超能力者で、その飛び抜けた能力を用いて行ったたくさんの逸話が残されています。実は、私自身、直接お会いする機会があって、張宝勝さんの能力を実地に体験してもいるのです。
 確か、一九八九年のことだったと思います。中国の人体科学学会に、日本からは筑波大学教授の湯浅泰雄博士、超常現象に造詣の深い電気通信大の佐々木茂美博士など、著名な学者が招かれました。私は、中国と日本の橋渡しをする現地スタッフという役割で、通訳として、この会合に参加していたのです。あるホテルでの食事のとき、張さんが現れ、その能力の一端を私たちに披露してくれました。
 張さんは、部屋に入るやいなや、「これはだれのだ」と、みんなの前に一つの財布を見せたんですね。持ち主の学者は、いつの間にか自分の財布が張さんの手にあったのですから、驚いたことはいうまでもありません。知らないうちに、彼の財布はテレポーテーションされ、張さんの手の中にあったのです。
 さらに、ロウで密封された薬瓶を私たちの手の上で振り、その封印を解かぬまま、中の錠剤だけをポロポロと落として見せたり、丸めた紙を一瞬でその瓶の中に入れてしまったり。ある学者の名刺を他の人にぐちゃぐちゃになるまでかませ、それを自分の手のひらにのせて、元のきれいな名刺に戻してしまったり、とにかく度胆を抜かれることばかり。人力では曲げようもない銀のスプーンを手に持ち、クニャクニャと螺旋状に曲げてもくれました。曲げられたスプーンは、相当な熱を帯びていました。
 また、張さんは座っていた私の背後に立ち、私の背に指を当てたのです。たちまち私は背中に猛烈な電気ショックのような熱さを感じて「ウォー」と飛び上がりました。張さんが指を当てたところは、服に、焼け焦げた穴が開いていました。もちろん、張さんは隠し持ったライターで背広に火をつけたわけではありません。ただ、意識の力だけでそれをやすやすと成し遂げるわけです。 (中健次郎)

 矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』マキノ出版、2012、pp.176-178

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 59-l (「ルルドの奇跡」がヨーロッパの知的風土を変えた)

 教皇(法王)ピウス九世は、一八五四年、この年はダーウィンの『種の起源』が出る五年前に当たるのだが、この年の十二月八日「聖母無原罪の御宿り」ということを信仰箇条とした。聖母マリアは、人間の中でも罪なくしてつくられたたった一人の女性、つまり、原罪におかされることのない女性だ。だから、神なるキリストが宿った。このことを教義(ドグマ)として信じるべきだとした。世界中はこの宣言にびっくりした。自然科学がめざましい発達を見せている時代なのにもかかわらず、聖母マリアだけが人類の中でたった一人罪がなく、だからキリストは処女に宿ったのであり、キリストは完全な人間であり、神であるなどという話を公然と発表するなど、信じがたい話だった。
 カトリック教会は人知の発達を阻害するとして批判のやり玉に上がった。しかしピウス九世はそれにもめげず、十年後の一八六四年、今度はシラバス(誤謬表)というのを出す。これは、進化論や進歩主義といった近代思想をすべて否定する八十項目を表にしたものだ。あまりの反動に歴史を曲解するものとしてフランスでは公刊が禁止されたくらいだ。しかしさらに五年後、バチカン第二会議を開き、奇跡を正式に認めた。奇跡なくしてキリスト教はない。万能の神が奇跡を起こせないはずがない、というわけだ。ピウス九世の一連の行動によって、カトリック教会は世界中の知識人の失笑と憐れみと、そして憎しみをかったのだった。
 ところが、ピウス九世が「聖母マリアの無原罪」をドグマとしてから四年後の一八五八年、一つの事件が起こる。フランス南西部、ピレネー山脈の山麓にルルドという小さな村があった。その貧農の家にベルナデットという女の子がいたのだが、この子に聖母マリアが表れたというのだ。そして、マリアがここを掘りなさいというので、いわれたとおり掘ってみると、泉が涌き出てきた。しかも、その泉の水に触れるや、次から次へと病人が治り始めた。奇跡としかいいようのないことが続々と起こったのだ。この全く無学な少女から起こった奇跡が、次第次第にヨーロッパの知的風土を変えていく。
 アレックシス=カレルというノーベル医学・生理学賞を受賞したフランスの生理学者がいる。彼も青年医師時代、ルルドへ巡礼する病人のつきそい医者としてついていった。すると、絶対に治らないとされていた末期の結核性腹膜炎と肺結核の人が、自分の見ている前で治ってしまった。彼はその報告書を書いたのだが、迷信を信じるなど、医者にあるまじき行為だとして非難され、フランスに居られなくなる。カナダで農場をやろうとするが失敗し、結局はロックフェラー研究所に入り、ここでの研究が実ってノーベル賞を獲得した。ルルドでの体験は、この医者にも深刻な印象を与えたのだ。

  渡部昇一『語源力』海竜社、2009年、pp。132-134

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 59-m (イエス・キリストの奇跡について)

 奇跡は無私無欲、自己のためには何の求むるところなき人にあらざれば、けっしておこなえるものではありません。
 これは前にも申し上げましたとおり、霊の能力の発顕でありまして、かかる能力は、もし与えられるものであるといたしますれば、かかる人にのみ与えられるものであります。利欲一方の相場師がいかに望むとも、一攫千金の利をむさぼらんために一つの奇跡をもおこなうことはできません。また、たとえ宗教家たりといえども、自己の勢力の扶植を謀り自己の教会の拡張を欲して、その能力の微塵だも得ることはできません。
 奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。世の愛にまさるの権能はありません。そうしてそのまことの宇宙を動かすの能力なることを示さんために、神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります・・・・
 よくキリストのなされた奇跡について考えてごらんなさい。その中に、自己のためになされた奇跡とては一つもありません。彼は盲目の目を開かれました。跛者の足を立たせられました。一時に四千または五千の人を養われました。しかしながら、かつて自己の飢餓を癒やさんがために一回の奇跡だも施されませんでした。
 彼の敵は彼を十字架の上に上げて、彼をあざけりて言いました。 
 「人を救いて自己を救うあたわず」(マルコ伝15-31)と。
 キリストはじつに人を救うためには奇跡をおこない得ましたが自己を救うためにはこれをおこない得ませんでした。自己を殺さんがためにきたりし敵の傷は、奇跡をもってただちにこれを癒すことができましたが、しかし自己の脇より流れ出づる血潮を留めることはできませんでした。人を救うための異能をそなえしイエス・キリストは、自己を救うためにはまったく無能でありました。弱者を救わんがためには風をも叱咤してこれを止めたまいし彼は、自己の敵の前に立てば、これに抗せんとて小指一本をさえも挙げたまいませんでした。
 キリストの奇跡よりもさらに数層倍ふしぎなるものはキリストの無私の心であります。しかしながら、このふしぎなる心があってこそ初めてかの奇ぎなる業がおこなわれたのであります。業は心の発顕でほかありません。しかるに世の人は外形の業にのみ眼を留めて、その、これを発せし心に思い及びません。

   内村鑑三『キリスト教問答』講談社学術文庫、1981、pp.233-235

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 59-n (私たち姉弟が亡き母と一緒に見た満開の桜)

 (脳梗塞になっていた)母が、震災直後の四月二十三日に亡くなりました。病院から連絡をいただき、二十二日の深夜に弟と病院に駆けつけ、ずっと母のそばについていてあげました。いつもは海側の病室なのに、このときは山側でした。夜が明けてカーテンを開けると、満開の桜並木が窓いっぱいに見えたのです。母は桜が大好きでした。いつも桜を見たい、桜を見たいと言ってたのに、自分で寝返りもできなかったから、きっと悔しかったんだろうなと思いながら、
 「お母さん、桜が満開で良かったね」
 と声をかけてあげました。弟も「うんだ、桜が満開だな」と母をいたわるように言いました。私たち姉弟は、亡くなった母の爪を切ってあげたり、二人で母の思い出話をしながら、そばでずっと窓の桜を眺めていたんです。
 一年ほど経って、とくに用事はなかったのですが、母の供養にあのときの桜をもう一度見たいと思って病院に行きました。ところが、どういうわけか桜の木が一本もないのです。あんなにたくさんあった桜の木をぜんぶ切り倒したのかと思って、隣の『ひかみの園』という(陸前高田市にある)障害者支援施設でたずねました。
 「ここの桜、いつ切ったんですか?」
 「桜の木なんか最初から一本もないですよ」
 「え? 去年は隣の病院の窓から満開の桜が見えたんですけど……」
 「さあ、桜の木は見たことないですが」
 驚いて弟に伝えると、「うそだべ、絶対にあったべっちゃ。いっしょに見てたちゃ」と首をかしげています。どうして二人が桜を見たのか、本当に一本もないんです。あれは何だったんでしょうか。もしかしたら、母は、満開の桜を、私たちと一緒に見たかったのかもしれませんね。

   奥野修司『魂でもいいから、そばにいて ― 3・11後の霊体験を聞く
        新潮社、2017、pp.41-43

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 59-o (死んだ両親から伝えられたことばで生きることが楽になる)

 今でも忘れない不思議な出来事が起こったのはその頃です。東京に行く用事があったので、震災の年の七月三日に気仙沼のブティックで洋服を買っていました。四人ぐらいお客さんがいて、一人ずつ帰っていき、私も洋服を手にしてレジに向かったら、最後まで残っていた女性のお客さんから『どなたか亡くなりましたか』と声をかけられたんです。びっくりして振り向くと、 「お父さんとお母さんでしょ? あなたに言いたいことがあるそうだから、ここで言ってもいい?」
 店の人が言うには、気仙沼で占いを職業にしている方で、女性雑誌にも出ているそうです。私はほとんど反射的に『はい』と返事をしていました。私はその頃、左の腕が重いというか、肩こりでもない、筋肉痛でもない、なにか違和感があったので、原因がわかるかもしれないという気持ちもあって承諾したのだと思います。
 「あなたは胃が弱いから胃の病気に気を付けろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ」
 そこで号泣してしまいました。
 「ちゃんと伝えたから、もうお父さんとお母さんに帰ってもらっていいかしら」と言われ、何だかわからないままうなずきました。
 そして、その方が私の肩のあたりを触り、お経のような呪文を唱えて私のまわりを一周すると、左肩をボンボンと叩いたんです。すると突然、左肩から、サーチライトのように光が真っ白な円柱になって空へ昇っていきました。ちょうどバットぐらいの太さでした。一瞬でしたね。店員さんたちもその場にいました。
 「見えたでしょう?」
 「はい」
 「安心して上がって行ったから」
 いつの間にか、私の腕にあった違和感が消えていました。
 そのときの気持ちをどう表現していいかわかりませんが、驚くというよりも、懐かしい気持ちでしたね。それまですごく不安定だった心が、父と母が死んでも繋がっている感じがして大泣きしていました。「ありがとう」と言われたとき、私が死んでも父と母に逢えるんだから大丈夫だね、そんな感じが体の中を駆けめぐったんです。
 今でも墓参りをするたびに、逢いたい、逢いたいと言います。最期も見てないし、家にもつれて来れなくて、ずっと安置所に置いていたことも悔やまれてならないんです。なんで逃げなかったのか。もし次の日だったら、私と一緒に歯医者に行くことになっていたんだから逃げられたのに‥‥‥。そんな思いをずっと引きずっていたのですが、あの白い柱を見たとき、父と母に許されたと思ったんです。いつか自分も死んだ両親と逢えるんだと思うと、生きることがすごく楽になりました。

   奥野修司『魂でもいいから、そばにいて ― 3・11後の霊体験を聞く
      新潮社、2017、pp.44-46