学びの栞 (B) 


 74. 背後霊

 74-a [50-a] (人の一生は後天的に変わりうるか)

 人の一生は過去生の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
 私が常に人々にいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
 意志カの強い場合、これも真理に素直であることが根抵にないと、意志カだけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
 善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志カにものをいわせ、徴底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
 祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正のカとなる。
 その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.81-82

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 74-b (守護霊とはおおむね祖先の霊でその子孫を幸福へ導こうとする)

 守護霊とはおおむね祖先の霊である。祖父さん、祖母さんが、自分の背後にいて、霊の眼で、霊の耳で、子孫である自分の運命を予見し、悪い運命への道から、善い運命の道へ、導いて下さるのである。
 それはちょうど、父母が小さ子供の手を取って、あちらだ、こちらだと、引き廻わしてくれるのと同じことなのである。しかし、肉体の父母にはその子の将来の運命は一分後のこともわからない。が、守護霊はその子孫の将来に起こる出来事をよく知っていて、その子孫の運命を幸福へ、幸福へと導こうとしているのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.35

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 74-c (守護霊に感謝を捧げている人ほど守りやすい肉体はない)

 守護霊は霊界,幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因果)を、あらゆる手段をもって、その人間の運命として現れぬように修正してゆく。
 この守護霊の働きを、知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半が、この蔭の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。いわゆる菩薩行なのである。
 いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。
 例えば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた、という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念が、その人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して物を忘れさせるのである。
 また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。
 例えば、ある人が、何か急に友人Aを尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもあるような気持で、その友人を尋ねる。と、友人A一家は、事業に失敗して、今まさに一家心中の手前であった。驚いたある人は早速この友人Aのために一肌脱いでやることになった。
 この場合、Aの守護霊は、Aを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に、念を送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊は、はっきり知っているのである。
 この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起こっているのである。
 守護霊はその被守護体の睡っている時から醒めて働いている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるために、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。
 ここで、大いに考えなければならぬことは、守護霊にとって、一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。
 守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど守りやすい肉体はないのである。もっとも守護霊の生前の氏名など知る必要はない。守護霊が懸命に、浄めの念を肉体に送っても、その肉体の心が、全然他をむいていて、一向に守護霊のほうに心を向けなければ、守りにくくて仕方がない。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.39-41

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 74-d (守護霊に感謝を忘れず自己の運命を委せればよい)

 人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。
 この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。何故ならは、守護霊、守護神、と真っすぐにつながり、そのつながりによって、その光によって、業生の因縁因果の渦巻からいつの間にか離脱でき、分霊本来の光が直霊(神)につながり、肉体をもったままで、人間神の子の実観を、真に体得できるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.42

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 74-e(人間生活は自分一人で生きているのではなく守護霊と二人連れ)

 弘法大師が、同行二人、といったのは、この人間生活は自分一人で生きているのではなく、守護霊と二人連れなのだ、神様と一緒に生きているんだ、ということで、キリストの、神常に汝と倶にあり、という言葉と同じである。ただ、一般の人たちに、神、という風に、あまりに大きな、高い感じのものより、守護霊という、自分自身と直接つながりを持つ、祖先のしかも力ある霊が背後で常に守ってくれている、と思うほうが非常な親近感で、念じやすく、かえって神に統一する環境になりやすい。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.44

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 74-f[64-a] (人の一生は先天的に決定されているものであるか)

 人の一生は過去世の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
 私が常に人びとにいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そんなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出されて一度び定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、そのまま喜べることで、別にいうことはない)悪縁に触れず、その果の出ぬように、出ても、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくのである。これは、神に素直である人の救われの道である。
 意志力の強い場合、これも真理に素直であることが根底にないと、意志力だけでは、定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
 善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志力にものをいわせ、徹底してやってゆけば、運命は変わってゆく。
 祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の努力とは別個に、運命修正の力となる。
 その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、人を救い、自己を裁くことをも止めれば、運命は善くなってゆくのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.81-82

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 74-g [79-a] (指導霊からの援助とあなたの進むべき道を選ぶ自由意志)

 あなた方は気がついていないようですが、皆さんは、毎日の生活を営むなかで、目に見えない友達によって一歩、一歩導かれ、手を貸してもらっているのです。彼らがあなたのためにしてくれることに気づいているとしても、それは当然のことだと考えています。
 この友達とは、人間の魂の世話をするために降りてきて、ときには何年間にもわたって、いや、一生にわたって、魂の中に神聖な火花を起こそうとしている指導霊のことです。彼らはどんな困難に直面してもひるむことなく、ばらばらになってしまった人間の生活の断片を元に戻そうとして、絶えず努力しています。人間の魂のなかに、ほんのわずかであれ、キリストの意識を目覚めさせようとして頑張っているのです。
 彼らは地上に住む人間をこのようにたえず援助するかたわら、地上よりもさらに低いアストラル界の下のほうにも降りていって仕事をしています。アストラル界の上層部にも行きます。人間存在の最も低いレベルから最も高いレベルまで、人間に対する彼らの超越的な愛と援助が浸透しているのです。
 それでは、人間の自由意思の力はどうなるのだ、という疑問を皆さんは持つかもしれません。人間は欲望の程度によって判断されるのか、成功によってか、それとも失敗によって判断されるのかと思われるかもしれません。なぜなら、人間の日常生活の外面的な枠組みに対してさえ、この強烈な力が働いているとすれば、人間は何かの大きなゲームの駒、あるいは、操り人形に過ぎないからです。
 しかし、事実は異なります。たしかに、人間の内面的な生活に対するこのような手助けが、偉大な愛の存在である神によって命じられてはいますが、それによってほんのわずかであれ行動する際の自由意思が、人間から失われるということはありません。
 なぜなら、あなた方は常に選択をしているからです。上昇する道を進むか、それとも、下降する道を進むか。外部の出来事に対して肯定的に反応するか、否定的に反応するか。あるいは、建設的な行動をとるか、破壊的な行動をとるか。下降する道を選択したときにのみ、苦しみや苦難を通して、その選択ないしは決定の“結果”を体験することになるのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.207-208

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 74-h[30-u] (霊界のガイドからのメッセージに耳を傾ける =3=)

 パーソナル・ガイドはあなたがこの世で知っていた人物の場合もあります。たとえば、母親や父親、祖父母、伯父伯母、あるいは、すでに霊の世界に去った友人。人は亡くなってもあなたのことをずっと忘れません。現世でつちかわれた愛の絆は霊界でも続くのです。
 天国に行った霊はそこでみずからの人生を振り返り、生きているあいだにもっとあなたを助ければよかったと考えます。その機会がめぐってきたわけですから、霊はそれを最大限に活用してあなたを援助してくれるでしょう。日常の出来事や家族の心配事を助けてくれたり、あるいは、あなた自身の心の動揺や変化に支援の手を差しのべてくれるかもしれません。
 パーソナル・ガイドは、日常生活のなかでわたしたちを導こうと熱心に働きかけ、状況を改善する最良の方法をなんとか示そうと努力します。けれども、その一方で、現世のわたしたちはさまざまな教訓や難題を経験することによって学習したり向上したりするわけですから、最愛の霊といえどもそれに干渉することはできないのです。わたしたちの学習過程は決して容易ではありません。困難な状況や人生の試練からわたしたちが最大の恩恵を得られるように、ガイドたちがただ傍観し、わたしたち自身の決断を見守っている場合も多いのです。時には耐えがたい場合もありますが、そういうときこそわたしたちは最も大きなことを学び取るのです。
 そうしたガイドはいつもわたしたちのそばにいるのか、それとも、わたしたちのほうから手を伸ばして、来てくれるように頼まなければいけないのか、とたくさんの方から質問されます。わたしの答えはこうです。わたしたちは決してひとりではない。ガイドは常にわたしたちのすぐそばにいます。わたしたちを見守り、援助するのが彼ら霊の務めなのです。わたしたちが開わる課題に応じてガイドは時どき代わるかもしれません。けれども、わたしたちのほうから呼ぶ必要はないのです。彼らはわたしたちの求めをわかっていますし、いつでも喜んで手を貸してくれるからです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.66-67

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 74-i[30-v](霊界のガイドからのメッセージに耳を傾ける =4=)

 第二のカテゴリーは熟練技能あるいは専門知識を持つヘルパーです。わたしたちが従事している活動や仕事に関して導いてくれる霊たちです。この専門ガイドはわたしたちが努力して取り組んでいる分野の専門知識を持っています。たいていは特定の知識分野でのエキスパートです。たとえば、あなたがミステリー小説を書こうと決心すると、同じ分野の著作活動に従事していたか、もしくは、専門としていた作家の霊がその決意に引き寄せられてきます。このガイドが、創作技術を高める方法や着想の活用法をあなたの心に吹き込んでくれるかもしれません。音楽家や芸術家、数学者、科学者、教師、ソーシャルワーカーといった人びとにもこれはあてはまります。あなたが助力を求めればその分野のガイドたちが来てくれるでしょう。印象やフィーリングをあるがままに受け入れれば受け入れるほど、有効なメッセージが伝わり、好結果が生まれます。これはすべての人にあてはまります。どれだけ受け入れられるか、その一点にかかっているのです。あらゆる作品、特に偉大な大家たちのそれは霊界から霊感を受けているのです。
 なぜガイドはわたしたちを助けたいのでしょうか? 答えは簡単。それが自然だからです。霊の世界に移ると、わたしたちはすべて平等なのだと強く意識するようになります。人類が成長し、学習し、同じ考えを分かち合い、向上できるように、なんとか助けたい。霊的ガイドは自分たちの想念を人間に伝え、援助することで、あらゆるものに内在する霊的エネルギーに人類が同調できるように助けるのです。繰り返しになりますが、わたしたちがどれだけ心を開いているかによって、畏敬の念を感じずにはいられないほどすばらしいインスピレーションがもたらされることもあるでしょうし、そうでなければ、霊は気づいてもらうまで辛抱強く待っているかもしれません。
 第三のカテゴリーに属するヘルパーは霊の教師あるいはマスターです。彼らは霊的にきわめて高い存在で、物質界には生きたことがないかもしれませんし、何度も転生を重ねながら、なんらかの霊的な仕事に携わっていたのかもしれません。ほかのガイドたちと同様、わたしたちの霊的な発達度や理解度に応じて引き寄せられてきます。霊の教師はわたしたちの霊的な進歩を助けたいと強く願っています。霊的な才能や可能性を与えようとする場合も多いのです。霊的啓蒙の途上にある者にとってこのガイダンスははかりしれない恩恵となります。
 転生を繰り返して魂を進化させていくわたしたちには、たいていひとりかふたりのマスターが一貫して付き添ってくれるでしょう。わたしたちの霊的自己に同調し、わたしたちが物質界で過ごすあいだは霊的な成長を助け、中間生でも援助してくれます。しかも、個々の生においてはそれぞれにマスター・ガイドが現われるでしょう。やはり、わたしたちの魂の進化の度合いに応じてガイドが惹きつけられ、重要な教訓や人格の諸相の改善を手助けしてくれます。たとえば、ガイドの導きで無条件の愛を学べるかもしれません。「生徒の心構えがととのうと教師が現われる」という言葉はまさに真実です。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.67-69



 74-j[47-d] (あなた自身の霊的ガイドを見つけるには)

 わたし自身、ガイドたちがわたしのもとへ現われたり、ほかの霊媒から教えてもらうまでは、霊的ガイドについて考えたこともありませんでした。あなたのガイドが誰なのか特に知る必要はないと思いますが、なかには自分が話している相手をどうしても知りたいという人もいます。霊がそばにいて導いてくれるという概念を納得するひとつの方法なのです。それだけで自分に教師がいることを把握できるわけではありませんが、そういった人びとは人格化した交わりを求めるのです。その気持ちはよくわかります。いくつかの方法を使えば霊的ガイドを認知しやすくなります。
 まず第一の方法は瞑想です。霊的ガイドに会うという意志を持って瞑想に入ります。充分にリラックスしたところで、教師に姿を現わしてくださいと心のなかで頼んでみましょう。深いリラックス状態にあって、なおかつ、過大な期待を持っていなければ、あなたの心の目には誰かの顔が浮かんでくるでしょうし、あるいは、衣服の一部が見えるかもしれません。たとえば、一本の羽毛が見えて、それがアメリカインディアンのものだと気づく場合もあるでしょう。そこで、もっと見せてくださいと頼めば、ガイドが姿を現わすかもしれません。ひとりの教師を見ることができたら、別の教師を見たいと頼んでもかまいません。あるいは、最初のガイドに、ここで学ぶべき教訓を示してくださいと頼んでもいいでしょう。瞑想を終えたらガイド(たち)に感謝しましょう。日誌をつけ、ガイドのことやガイドから示された内容、とりわけ彼らの使命について書き留めておくことをお勧めします。
 瞑想やリラックスの程度によって個人差はありますが、この訓練でうまくいくはずです。もしなかなか教師の姿が認識できなかったり見えない場合は、別の方法を試してみましょう。ベッドに横たわって眠りにつきながら、夢のなかで姿を現わしてくださいと教師に頼むのです。マントラのように何度も何度も頭のなかで繰り返し唱えましょう。やがて、眠りに落ちると、教師の夢を見るはずです。結果がすぐに出るとはかざらないので根気よく続けてください。結果が現われるまで毎晩繰り返し祈る必要があるかもしれません。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.73-74

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 74-k (あなた方は言葉につくせないほどの愛に囲まれている)

 とりわけ重要なのは、地球上の生命および宇宙の全存在― 実のところその数は、あなたがたが想像しうるよりはるかに多い― には大きな意味がある、と理解することである。すべての存在は女神たちや神々に見守られている。みなさんの世界では、いかなる状況においても無数の魂が世話をしてくれており、あなたがた一人ひとりは言葉につくせないほどの愛に囲まれている。だから安心してほしい。世界には目的があり、その目的は善なのだ。もしあなたが悩み苦しんでいるなら、人生のどこかにその苦しみをやわらげたり変えたりしてくれる鍵があることを知ってほしい。あなたが犠牲者なら、自分の心の片隅に、持ち前の強さを発揮することのできる強くて有能な人がいることを知っておいてほしい。もし友人や家族の一員が彼ら自身を傷つけているせいであなたが心を痛めているなら、大目に見ることと他人に奉仕することの間で調和をとることが、あなたがた双方を変えてくれるということを覚えておいて欲しい。心の内を包み隠さず話して、あとは大目に見てあげるのが一番その人のためになることもあるのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.22

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 74-l (人間には例外なく一人ないし複数の背後霊がついている)

 人間には例外なく背後霊がついている。その中に一人ないし複数の、とくにあなたと連絡が取りやすい霊がいて、その霊が取り次いでくれる。別に霊能者は必要ではないのである。
 身体を締めつけるような衣類(コルセット、ドルト等)を取りはずし、思い切り寛ぎ、お気に入りのイスに腰かけ、部屋を少し暗くして、騒音を遮断する。そうした環境の中で日常生活の物的な煩わしさを一切忘れて瞑想する。これが背後霊との連絡に最も理想的な状態である。
 もとより、霊の声を聞くとか姿を見るとかの現象は起きないかもしれない。幻想的な光の変化を見たとか、草原が燃えるシーンを見たとかの話にはならないかもしれない。
 そういうことは、実は、無用なのである。背後霊はコミュニケーション(通信)ではなくてコミューン(交わり)によって指導するのである。導き、慰め、援助、その他、あなたに必要なものがどこからともなく得られることに気づかれるはずである。
 霊的援助はそうした形で得られるのであって、人間的努力を省くために霊能者に頼ろうとするのは、霊的能力の悪用である。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.79-80

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 74-m[25-k] (地上生活のすべては“録画”されているから何一つ隠せない)

 人間は死んで次の世界へ行くと、しばらくは地上生活の反省をさせられる。地上時代のことがビデオテープを見るように展開する。すると自分の過ち、間違い、手落ちが明瞭に認識される。別にキリスト教でいうような審判日とか天国とか地獄があるわけではない。淡々とした調子で地上での行為について自己反省させられる。すべてが録画されているから何一つ隠せない。
 その時に自惚れの愚かさがありありと分かる。霊的な授かりものを自分のものと思い込んでいたから愚かなのである。自分のやったことはみな自分一人の功績と思い込んでいたわけである。
 実際には背後霊がいろいろと世話を焼いてくれていたのを無視していたわけである。そして何よりもいけないのは、自分の業績を低い次元、世俗的レベルに下げていたことになる。
 自分の業績を地上のものさしだけで計ると何だか立派なことをしたような誇りを覚えるものである。が、永遠の生命の観点から判断すると取るに足らぬことに思えてくる。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 113-114

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 74-n (やがて背後霊とともに見直すことになる自分の人生)

 一枚の絵を仕上げると、画家はスモックを脱いで数歩さがってその出来具合を見つめる。人生も同じである。死という最後の一筆を描き終えると、肉体というスモックを脱ぎ捨てる。そして自分の地上人生をビデオテープで見直すことになる。
 背後霊も姿を見せる。いうなれば美術評論家である。彼らもいっしょにビデオを見る。が、一番厳しい批評をするのは自分自身である。なぜなら、あそこのところはああすれば良かった、ということが実感として分かるのは自分以外にはいないからである。
 これと同じことが、いずれあなたにも起きる。地上での寿命が終わると、その肉体も捨てる。そして地上に別れを告げる。が、すぐに霊界生活に入るわけではない。その前に右に述べたような地上生活の反省の期間がある。
 それだけは絶対に避けて通れない。人生の一コマ一コマ、絵の一筆に批評が加えられる。広いカンバスの上で細かいところまで調べ上げられる。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 163-164

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 74-o (守護霊はなぜこの世の人間を守っているか) 

 まず、守護霊についてですが、各人には守護霊がついているとか、守護霊に力があれば人生が好転するが、守護霊に力がないと不運になるとかよくいいます。結論からさきに、いいますと、守護霊はやはり存在するものであり、しかも、各人に一名割りあてられているのです。そして、守護霊の力によってその人生が左右されるというのは、ある程度真実です。
 ではなぜ、守護霊が生きている人間を、あの世、すなわち、実在界から守護するようになったのか、その秘密をあきらかにしたいと思います。
 約三億数千万年前、地球に人類が住みはじめたころには、地上で生活する人間には、守護霊はついておりませんでした。しかし、地上生活をする人たちは、心が澄んでおりましたので、実在界の霊たちと直接交信することができました。現在でいう、霊道現象というのは、日常茶飯事だったのです。つまり、夜になると、各人が、坐禅のポーズで瞑想状態に入り、天上界の霊たちと交信をしながら、一日のことをふりかえるのがつねでした。なかには、瞑想中に、肉体を抜け出して、如来界や菩薩界で仕事をしている人間もおりました。
 このころには、まだ、地獄界もなく、悪霊は存在しませんでした。ですから、地上界の人たちも、実在界の人たちも、いつも善念と調和に満たされておりました。したがって、特別に守護霊をつけてまもってやらなくても、なんの心配もなかったのです。
 ところが、いまから一億二千万年ぐらい前になると、天上界の最下段、四次元幽界のなかに、不調和な念をもった霊たちが、暗い地獄界をつくりはじめました。しかも、彼らは神の光のエネルギーが入ってこないために、地上界を混乱におとしいれ、人びとに欲望と悪と不調和の想念エネルギーをつくり出させ、それを彼らの生命の糧としはじめたのです。こうしたことは、まったく予想されなかった事態の出現でした。地獄霊たちは、地上界の人間の心に忍び込み、不調和、争い、怒り、ねたみ、愚痴、こうした心を起こさせ、世の中を不信と混乱の渦中におとしいれようと画策しはじめたのです。
 このため、天上界では、光の指導霊たちが緊急会議をひらき、対策をたてることとなりました。そのとき、アモール、すなわち、現在のイエス・キリストの提案で、つぎの三つのことを決めたのです。

 一、悪霊の完全支配をさけるため、今後地上界の人間には、原則として、霊道をひらかせないこととし、物質世界で、よりよき人生を選びとる方向で努力させる。
 二、地上に誕生するとき、各人に守護霊を一名つけ、地獄界からの誘惑から身をまもらせることとする。
 三、実在界のことを完全に忘却されてはこまるので、今後、一定の周期ごとに、光の指導霊を地上に派遣して、宗教を説かせ、あの世の実在世界について、人びとに知らしめる。

この三原則は、それ以後、一億年以上にわたり、まもられております。しかし、地獄界がかなり巨大なものとなったため、一名の守護霊の力だけでは、魂修行をしている人間をとてもまもりきることがむずかしくなってきました。しかも、宗教家以外の一般の人びとは霊道をひらくことが禁止され、したがって、過去世の記憶を思い出すことが不可能になったため、かえって、この世の物質的欲望にのめり込んでゆくようになりました。
 さらに、光の指導霊が一定の期間おきに地上で宗教を起こしていたのが裏目に出たため、宗教間の争い、宗派間の争いが起きはじめました。それに乗じて、地獄の悪魔とかいわれる者が、宗教家の心のなかにも忍び込みはじめ、まちがった教えを説かせたため、地上にますます混乱をまき起こしていったのです。
 こういった事態を背景に、私たちの神理伝道が意味をもち、緊急性をおびていることは当然ですが、それにもまして、守護霊のシステムにも改良を加えねばならなくなってきたといえます。
 原則として、守護霊は、本体、分身方式でつくられた六人のグループのうち、つぎに地上に出る者がなっているのですが、地上に出る者の使命が大きく、どうしてもその実現が期待される場合には、その人の人生の最大関心事を専門とする指導霊をつけることとしました。
 とくに宗教家には、その人の本来の霊格以上の力をもった光の天使を指導霊とするようになりました。このようにして、守護、指導霊体制がかたまってきたのですが、地上生活をする人たちは、依然としてさまざまな悪霊たちによって、運命を翻弄されつづけているようです。

     大川隆邦『太陽の法』角川文庫、1990、pp.65-68

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 74-p (守護霊は謙虚さを好み倣慢さを嫌う) 

 小林  「感謝」と「進化・向上」とは、人間の精神性を高める、発展させるという点で、同じ方向を目指していると思います。私も守護霊の話をすることがあるのですが、守護霊が最も好きな概念は「謙虚さ」で、最も嫌いな概念は「倣慢さ」であるように思うのです。
 「おごり」「たかぶり」「うぬぼれ」「倣慢」の四つは、いつも気を付けていないとすぐに芽吹くものなのではないでしょうか。
 中川 全くそのとおりです。謙虚でないと守護霊が動けないのです。
 本人が「私が、私が」という意識を持っていると、守護霊が動けないのですが、常に謙虚でいると連絡が密にとれて守護霊も働きやすくなります。
 謙虚でないとか、わがままだとか、独り善がりや倣慢であったりすると、守護霊は働けずにしょぼんとしています。かといって帰るわけにもいかず、そこで本人が気が付くのを待っています。一生気付かない人もいますから、その場合はしょぼんとしたまま帰っていくのです。
 小林 守護霊の方から、気が付くように働きかけることはしないのですか。
 中川 しません。それは神もしませんね。悪いことをしていても、神は「お前、悪いじゃないか」とは言いません。守護霊も何も言わないのです。
 というのも人間は神の子ですから、外から注意をするのでなく本人が自覚するのを最優先にしているのです。
 神はどんな悪人も罰することはなく、本人が気付くのをじっと待っています。神は「良心」と「理性」というソフトを人間に授けてあるのですから……。
 理性は善悪や知性をコントロールするためのものですが、それでも止められそうもないときの最終の歯止めとして、良心というものがあるのです。動物には良心というソフトは入っていないようです。理性についてはわかりませんが……。
 死刑囚には、ほとんど良心が蘇るようですね。お金やお酒、覚醒剤などの薬により理性は揺らぐことがありますが、しかし、良心だけはいかなるものにも絶対に麻痺することはありません。それはなぜかというと、人間のソフトは、人間ではなく神がつくったものだからです。良心というものは、神の支配下にありますから。
 小林 中川さんの言われる神というのは、人間の魂がずっと磨かれた結果、到達するという意味の神、ですね。
 中川 ええ、その神は宇宙の公務員(官僚)で、さらにその上に、呼び名のない神(GOD)がいるのです。
 小林 例えば、こういう構造があるのでしょうか。焚き火をしたときに、火をつけた1本の小枝をそこにくべるとします。最初は焚き火の炎と小枝の炎は別々のものですが、一緒に燃やした瞬間に炎の境目はなくなり、どこからどこまでが焚き火の炎か、あるいは小枝の炎なのかわからなくなります。神というのは、このような存在なのでしょうか。
 中川 いいえ。神というのは、厳密な境目があり、集団の神というのは存在しないようです。八百万の神々(たくさんおられる神様)は集団ではなく、一人一人が異なる使命を持っており、それを厳格に心得て、働いているようです。
 霊界では、集団で何かをするということはないと思います。人間が成った神(如来までの神)は、人間を始めとする生命体を管理するのが仕事です。
 管理より高度な、新しいものを作ったり消滅させたりするというのは、もっと上の神がされることです。
 小林 人間が地球上で把握できたのが、やっと如来までということですね。
 中川 そうです。その上がどうなっているかということは、如来でもわからず、異星人に聞かないとわかりません。

   小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』
     弘園社、2005、pp.109-112

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 74-q  (守護霊との通信は一方通行のように行われる) 

 小林 守護霊は神様とお話しできるのですね。
 中川 そうです。ただ、守護霊のレベルはそれほど高くはありませんから、神様といってもせいぜい諸天善神のところまででしょう。守護霊が菩薩のところへ行くのは難しいと思います。
 小林 私たちは、守護霊と話はできるのですか。
 中川 できますが、話といっても電話のようにはいかず、片通信のようなものです。私の場合は守護霊からが多いです。私が聞かなくてもパッとひらめくというのは、あちらからの片通信だと思っています。
 小林 こちらから守護霊への片通信というのはないのですか。
 中川 あるかもしれませんが、私はあまりありません。ただ、私が思っていることを守護霊が察したらしい、ということはよくあります。
 私が聞かなくても私が何を思っているか、何を知りたがっているか心を読みますから、必要なときにパッとひらめきが入ってくるのです。
 例えば、今、小林さんと話をしていて、どんな質問をされるのか、私には全然わかりませんが、守護霊は小林さんの頭の中を読んでいて、何を考えているか、次にどんな質問をするかということがわかっています。ですからすぐに応答できるのだと思います。
 小林 守護霊と、神である菩薩や如来とは、レベルは違ってもエネルギー体であるという点は同じなのですか。
 中川 同じです。守護霊も、諸天善神や菩薩や如来も魂だけの存在ですから。ただ、その波動が違うということです。
 守護霊が一生懸命に修行して諸天善神になり、諸天善神から菩薩に上がる霊も多くあります。そして菩薩もまた一生懸命に修行して、如来になるという霊もありますね。
 小林 仏教では仏さまを四種に分けています。如来(にょらい)、菩薩(ぼさつ)、明王(みょうおう)、天(てん)の四種。如来には「阿弥陀如来」「大日如来」「薬師如来」、そして唯一、人間から如来になった「釈迦如来」がいらっしゃいます。
 菩薩としては「お地蔵さま」も「地蔵菩薩」、「観音さま」も「観音菩薩」ですね。釈迦の死後56億7千万年後に現われて人類を救済するという「弥靭(みろく)菩薩」も有名ですが……。
 明王では「金剛明王」や「不動明王」「愛染明王」、天では「帝釈天」や、「毘沙門天」など四天王のほか、「吉祥天」「弁財天」「いだ天」などがおられます。だいたいこんな構造でしょうか。
 中川 はっきりしたことはわからないのですが、菩薩と如来は大きく違うものとは思いません。つまり、菩薩も一生懸命に修行すれば如来になれるということです。
 小林 我々に入り込んでいる魂というのがありますが、その魂が生まれ変わりを繰り返していく先に、菩薩や如来が存在するというわけですね。
 中川 そうだと思います。もとは皆同じでしょう。キリストは、今は如来界にいますが、生きていたときは普通の人間で、私たちと同じ魂だったのです。釈迦も、釈迦族の王だったときは、人間と全く同じだったわけです。
 小林 我々に入り込んでいる魂は「神の幼児」ともいえるわけですね。
 中川 ええ。ですが、幼児だからといって必ずしも神に成長するとは限りませんね。神になれる可能性があり、その道は付いているということです。ちょうど、日本人に生まれて総理大臣になる道はあるけれど、なれるかどうかは本人や本人の運命次第、というのと同じでしよう。
 小林 ある方の話によると、人間として10万回かそれ以上生まれ変わると、必ず神になるというのではないけれど、次は肉体を必要としなくなるそうですが。
 中川 神になったら肉体はいらないというのは当然ですが、魂の世界は肉体はいらないわけですから、普通の人が死んでも肉体は捨てるわけです。その方の話は、三次元でも肉体はいらないという思想ではないでしょうか。
 幽霊つまり浮浪霊もそうです。

   小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.138-140

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 74-r (人に尽くすことが自分の守護霊の力を強くする)

 精霊というと、日本人にはあまりなじみがないかもしれません。「守護霊」「指導霊」と言い換えることもできます。この世に生きるすべての人には必ず、その人を守り、導いている霊が寄り添っているのです。霊ということばが怖かったら、精霊、またはスピリット、天使などと呼び方はいろいろあります。
 「自分を守ってくれているそれはいったい誰の霊なの?」と思いますよね? その多くは、亡くなった両親、あるいは、おじいさんやおばあさんです。縁のある霊という場合もあります。指導してくれる霊を指導霊と呼びます。
 守護霊の力を強くするには、いま生きている人に親切にすることです。両親がいま、生きていれば、両親を大切にしてください。両親に自分を生んでくれたこと、育ててくれたこと、教育してくれたことに感謝しましょう。できれば、精いっぱい、親孝行することです。するとあなたを見守っている祖先の霊が、あなたの行いをちゃんと見ていて、向こう側の世界からより一層、あなたを助けてくれるのです。
 見えない世界のことがどうしてわかるのですか? 精霊がついている、天使がいる、守護霊がいるなんて、とても信じられない、まるで子どもだましみたい、と思われる方もいるかもしれません。僕だって、自分で体験してこなければ、こんなことは書かないでしょう。
 1985年以降、サン・ジェルマン伯爵、聖フランチェスコなどの指導霊から、いろいろ教えてもらって、やっとここまで来たわけです。昔から信心深かった人たちが言っていたことと同じです。信心深くなりなさい。両親を大切にしなさい、と聞いたときには、驚きました。
 僕の両親は残念ながら亡くなりました。父も母も亡くなるとき、「幸せな人生だったよ」 と言って亡くなりました。父は79歳、母は100歳でした。父の死はまだ、70代なのにと残念です。僕が最初の翻訳の本を出したのは父が亡くなってからのことです。父は本が好きでしたから、父に読んでもらえなくてとても残念です。でも死後、父からメッセージが来ました(亜希子の自動書記を通して)。
 父は向こうの世界でも大変忙しそうでした。「もう、お前のことは大丈夫だから、一族で大変な人の方を助けにゆくからね」と言っていました。
 
    山川紘矢『死ぬのが怖いあなたに』イースト・プレス、2011、pp.55-57

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 74-s (守護霊は親のような愛でいつも見守ってくれている)

 守護霊が差し伸べる手の事実を実感するのは、平穏な人生では難しいかもしれませんが、大きな絶望を経験することで気づけます。それはまるで昼間には気づきにくい光のようです。漆黒の闇だからこそ、その光は鮮明に感じられるものです。早くに両親と死別し、16歳からひとりで絶望と孤独と貧困の中で、生きることの意味を求道し生きてきた私のような波瀾万丈の人生であれば、たとえ霊能力がなくとも、人生の中にたくさんの小さな奇跡がちりばめられていたことがわかるでしょう。
 守護霊は故郷の親のような愛で、いつも励まし祈るように見守ってくれています。
 私は霊能力者でもありますから、守護霊とコンタクトをとることもあります。そのことを捉えて人は「なんでも教えてくれて良いね」と言いますが、決してそのようなことはありません。私が幼く未熟だった頃、人生の刹那に喘ぎ「どうして道を示してくれないのですか? 助けてくれないのですか」と嘆いたことがありました。そのとき守護霊は私に「それではお前の人生ではなくなる。安心して一歩ずつ歩め」と伝えてきたのです。そのとき私は自由意志というこの世の権利を理解しました。私の経験と感動を尊重し、自力で乗り越える成就の喜びが与えられているという事実に感謝の思いが湧き出たことを覚えています。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.9-10

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 74-t (守護霊はその人の人生で何回も関わってきている)

 (守護霊は)各自に数名ずつついています。
 守護霊とか守護神、指導霊、ガーディアン・エンジェル、ガイドなどいろいろな呼び名がありますが、どれも同じものを指しています。
 彼らは肉体をもたない、非物質の生命体です。過去に人間を体験したことのあるガイドもいれば、そういう体験のないガイドもいます。中には物質的な生命を体験したことのないものもいます。
 そのためもありますが、ガイドの姿形はガイドにより実にさまざまです。人の姿のこともありますが、熊や犬、ふくろう、ワシなどの動物、龍、光の球や渦、色のパターンのこともあります。あえて姿形をとらない場合もあります。
 人の姿の場合でも、ネイティブ・アメリカンの酋長とかギリシャの賢人、白髪の老人、観音菩薩、仏陀、キリストなどといかにも威厳のありそうな場合と、普通のおじさんやおばさん、子どもということもあります。姿はそれほど重要ではないということを表しています。
 自分の過去世のひとりがガイドになっていることもあります。
 ガイドの役割はその人を導くことです。より高い意識の段階へ発展できるようにすることです。
 ガイドはこれまでにその人の何回もの人生で関わってきています。私たちはみな生まれる前に次の人生を計画していますが、ガイドの助言の下にそれを行なっています。
 生まれた後は、細かいことで一々口出ししません。本人の自由意思を尊重し、ある程度、離れた位置から見守ります。
 ただ、まったく野放しということではなく、長期的な視点からその人にとって有益な出会いをアレンジしたり、折を見てアドバイスを与えたりします。

     坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
         ハート出版、2016、pp.122-123

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 74-u (亡くなった幼児たちも霊界では大切に守られている)

 幼くして亡くなった子どもについて、「あの世で寂しい思いをしているのではないか」と心配する親は多いでしょう。けれども心配はいりません。
 幼くして亡くなった子どもは、その子の守護霊によって守られます。さらに、亡くなった子どもはあの世でも保育園のようなところでちゃんとお世話されています。現世の保育園とは違いますが、集まって擁護してもらえる場所がちゃんとあるのです。
 そこには友達もいますし、お世話をする役割を担った霊もいて、子どもたちはみな楽しそうに過ごしています。霊視では、心細そうにしている子どもや、寂しげな子どもはひとりも視たことがありません。いつも、誰もが幸せそうで、楽しそうな場面ばかりです。
 子どもたちをお世話しているのは、この世でお子さんが欲しかったけれど恵まれなかった人や、自分の子どもを亡くした人たちです。亡くなってから子育ての役割を担い、とても手厚く子どもたちの面倒をみています。
 なかにはベビールームのようなところで、亡くした子どもと面会しているお母さんもいます。お母さんが現世で睡眠中に幽体離脱し、あの世に面会しに行って、一緒に遊んでいることもあるのです。
 睡眠中は霊界への里帰りをする時間なので、亡くなった人と睡眠中に面会していることはよくあります。夢として覚えている場合もありますが、目覚めてから忘れてしまうこともあります。覚えていることで亡くなった人への執着がいっそう強まってしまう場合は、忘れさせることがあるためです。たとえそのときは忘れてしまったとしても、亡くなった人とあの世で面会していた記憶は、たましいの奥底でちゃんと覚えています。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.67-68

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 74-v (守護霊はどのように見守ってくれているか)

 (守護霊が)あなたを見守っているといっても、「良いも悪いもあなたの味方」という意味ではありません。「どんなときもあなたは無罪です」などという司法があったら世の中はめちゃくちゃになってしまいます。それは霊的世界も同じ。いえ、現世以上に公平であるがゆえに、守護霊は「悪いことは悪い」と淡々としているのです。
 道を誤る人に対して守護霊がどう思っているか、あえて言うとすれば、「仕方がないね。転ばなければわからないでしょう」ということ。人間的な感情ではなく理性。それも、愛のある理性です。決して「こんなことになってどうしよう?」と慌てることもなければ、「こんなになっちゃって……」と涙するようなセンチメンタルさもありません。
 あなただって、間違っているときに「間違っている」と指摘されても、「いや、自分は正しい」と言い張ったり、「でも」「だって」と自己肯定するような言い訳をすることがありませんか?
 自分の間違いに気づけないのは未熟だからであり、その未熱さは転ばなければわからないときもあるのです。だからといって犯罪にまで突き進んでも仕方ないわけでは、決してありません。
 自分の未熱さが元で身から出た錆を、守護霊が止めてくれなかったせいだというのは、依存と言うほかないでしょう。

      江原啓之『守護霊』 講談社、2017、pp.106-107

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 74-w (指導霊や支配霊はあなたの仕事の選択にもかかわっている)

 仕事は、自分の技能を提供し食べるためのお金を得る適職、お金になる可能性は低いけれど自分のたましいが喜びを感じる天職の、両輪です。両輪をバランス良く回すためには、自分の素材や器を知り、現実的な努力を重ねることが、やはり大切です。
 守護霊でも特に指導霊や支配霊は、あなたの仕事にかかわりがあると言えます。
 支配霊は人や仕事との緑を結んだりしますし、霊系の影響が出やすい気質や素材(器用さや体力など)が仕事につながることもあります。
 また自分の技能、得意なことというのは指導霊の影響を受けやすいようです。
 例えばサラリーマンだった人が、どうしても自分の裁量でお店をやりたいと思い、資金を貯めて起業準備をし、脱サラの末に念願のお店を開くといった場合。やはり商人の守護霊がいる可能性が高いでしょう。
 とはいえ、守護霊だけで仕事が決まってしまうほど、そう単純なことではありません。
 前世を含めた過去世からの経験値や、家業といった家系の流れも仕事にはかかわってくるからです。
 例えばあなたが都会でサラリーマン生活を送っているとしましょう。通勤電車の混雑やビルに囲まれた職場環境に疲れて、田舎暮らしがしてみたいと思うようになったあなたは、サラリーマンを辞めて田舎で農業に転職しますか? それとも緑豊かな郊外に引っ越すだけでしょうか?
 ここから垣間見えるのが過去世での経験値。過去世で農業経験がなければ、いきなり田舎で農業に転職とは踏み切れないでしょう。せいぜいすぐに都会に帰れる郊外への転居止まりといったところではないでしょうか。

     江原啓之『守護霊』 講談社、2017、pp.88-89

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 74-x (お金を使ってどう生きるかという「生き方」が大事である)

 守護霊からしてみれば、「金持ちになるぞ」と意気込むときも、やってみて「やっぱり自分は金持ちじゃなくてもいい」と気持ちが変わったときも、見守りには変わりありません。「金持ちになるぞ」と意気込んでいるときのほうが念力が強いから、守護霊がよりサポートするかと言えば、そんなことはないのです。
 お金を道具として見れば、持っていることも負荷だし、持っていないこともまた負荷です。「どっちも鍛えられるよね。それぞれに経験と感動があるよね」と、淡々と見守っているでしょう。
 お金は金額で計れますが、心のあり方は物量では計れません。道具であるお金を使ってどう生きるかという「生き方」が大事であり、だからこそお金を何のため得るのかという動機が大事なのです。常にそこに立ち返って自分を見つめてみてください。

    江原啓之『守護霊』講談社、2017 pp.169-170

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 74-y(守護霊の存在を理解していれば一人でいても孤独ではない)

 あなたは自分を、この世でたったひとりぼっちの存在だと、思っていませんか?
 どうせ、自分のことなんか誰も気づきはしないと、思っていませんか?
 いじめられているのに、誰も気がついてはくれないと、思っていませんか?
 人生の終盤になって、どうせこのままひとりで死ぬんだと、思っていませんか?
 いいえ、そういうあなたを守護霊はいつだって見ています。あなたのたましいにずっと寄り添っています。
 あなたはひとりでもないし、孤独でもないのです。今、この瞬間さえも。
 どうして人生のなかで道を踏み外しそうになるのかといえば、孤独を強く抱いているせいでしょう。そして人が孤独を感じるのは、自分が心を開いていないときです。
 あなたが守護霊の存在を知り、理解しているならば、ひとりでいても孤独ではないはずです。孤高であっても、孤独感は抱かないでしょう。
 守護霊との絆を意識しながら生きる人には、必ずそれとわかるサインがあります。ひとり暮らしのなかで、ふいに人が訪れてきたり、誰かの援助があったり、いろいろな形で、「ありがたいな」と思うようなことがあるはずです。
 ですから現世で生きる人にとって大切なのは、感性としての気づきです。

     江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.190-191

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 74-z (守護霊に愛されている人は現世では苦難続きである)

 現世の視点でみれば、いいこと続きで、つつがなく暮らせる人が、守護霊に愛されていると思うのでしょう。しかしこれはまったく違います。
 守護霊に本当に愛されている人は、現世でいうところの「苦難」続きです。こう言うと急に「じゃあ、愛されなくてもいいや」と、あなたは尻込みするかもしれません。
 守護霊の愛は、あなたが思うような「庇護の愛」とは、違います。
 愛されている人は、トレーニングのバーベルがどんどん重くなり、目の前のハードルもぐんぐん上がります。もちろん、急に持てもしない最重量のバーベルになるわけではありません。必要以上の負荷をかけてはケガをしてしまうかもしれませんから、その塩梅はちゃんと守護霊もわかっています。その人の体力に合わせて少しずつ負荷がかかるので、その点は心配しなくても大丈夫です。
 やはり人間は少しずつでも負荷をかけていかないと、筋力や体力はアップできません。たましいも同じで、強くなれない。それだけに負荷がかかるということは、見込まれているということです。「大丈夫、できるよ」と。
 昔から「人は乗り越えられない苦労は与えられていない」などと言いますが、霊的真理で考えても、これは本当です。あなたにできないことは、決して与えられません。乗り越えられる保証付きなのですから、何も心配せず、安心して生きていけばいいのです。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017、pp.202-203

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 74-za (守護霊はすぐそばにいて愛情深く私たちを見守ってくれている)

 守護霊は生まれる前に立てた計画をすべて知っていますから、その人が試練に遭って死ぬほど苦しんでいても、その体験を味わうことは何よりも本人の学びのために必要なことである、ということを本人よりも深く理解しています。
 ですから、守護霊はすぐそばにいるのですが、ただ黙って見守っていることしかできないですし、しないのです。
 守護霊は親よりも何倍、何十倍も深い愛情を私たちに持ってくれています。これはもう地上にはない種類の人を想う気持ちです。
 そこまで愛している私たち人間が、身悶えするほどに苦しんでいる姿をただ見守るということは、生易しいことではありません。守護霊は手出しすることもできないまま、涙を流しながら寄り添ってくれています。
 「頑張れ、頑張れ」と言いながら、泣いている私たちの頭を優しく撫でています。
 そのようにして、そっと見守り、愛を送りながら、私たちをいい方向へと導いてくれているのです。
 守護霊は霊格の高い、慈愛に満ちた存在ですから、前にしゃしゃり出る、なんてこともしません。その分、感知するのが難しいとも言えます。
 でも、たとえ見ることができなくても、苦しいときに片時も離れることなく寄り添ってくれている存在がいるんだとわかれば、さらに、決して自分はひとりではないのだということを知れば、心が救われたり、試練を乗り越える勇気を奮い立たせたりすることができるのではないかと思います。

     桜井識子『幸せになるスピリチュアル作法』主婦と生活社、2015、pp.27-29