学びの栞 (B) 


 76. 動物・植物


 b76-a (霊的エネルギーは植物界や動物界でも同じように働く)

 霊的エネルギーは植物界や動物界でも同じように働きます。植物は非常に敏感で、優しく穏やかな環境下で大切に世話をされ、愛されていると感じるとみごとに生長するものです。これで興味深い話を思いだしました。わたしがまだ九時〜五時の仕事をしていたころ、ある日、同僚の家を訪ねました。彼女のアパートメントで腰をおろすと、耳をつんざくような鋭い音が聞こえたのです。このかんだかい悲鳴のような霊気はわたしの周囲を取り巻いていました。まるでけが人があらんかざりの声で助けを求めているようでした。わたしは部屋のなかを見まわし、ようやくその正体に気づきました。アパートメントにある植木という植木がからからに乾いて、まさに枯れかけていたのです。彼らは必死に水を要求していたのでした。すぐさま同僚にそれを伝えたところ、彼女はもう二週間以上も水をやっていなかったと答えました。
 植木が悲鳴をあげるなんて妙だと思われる方も多いでしょう。そういう方はこの分野の研究書をお読みになるとよいかもしれません。特にピーター・トムキンズ著『植物の神秘の生活』をお勧めします。“生命”の不思議な力はあらゆる姿、形、大きさとなって現われ、植物もその例外ではないことを理解しなければなりません。わたしたち自身の霊能力、そして、わたしたちを取り巻くエネルギーにじっくりと耳を傾け、心を開けば、この生命の形態をもつと深く知ることができるのです。
 植物界ばかりでなく、動物もやはり第六感を頼りにしていることはよく知られています。試しにあなたの愛犬や愛猫の行動を観察してごらんなさい。ある特定の人物を見るたびに犬が身をすくめたり、激しく吠えたりしませんか? お客であふれる部屋をうろうろと歩きながら、人を選んですり寄ってはいませんか? たとえば、地震やたつまき、ハリケーンといった自然災害のとき、動物は落ちつきを失ってうろうろし、しばしばクロゼットのなかや家具の下に隠れます。彼らはわたしたちのようにテレビでニュースを見るわけではありません。ただ本能的にわかっているのです。たいてい動物は災害が起こる前にそれを感じ取ります。人間の不安も敏感に感じ取ります。天気予報を知りたければ近くの家畜を観察するといいでしょう。嵐の前、よく牛が草地で横たわっています。創造の過程で動物たちは自衛と生命維持のために霊感や本能を発達させてきたのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.17-18


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 76-b (ペットたちも死後は美しい自然界に似た天界へ行く)

 すでに本書でも触れているように、動物にも死後生存があります。霊の世界に入った動物はごく自然の成り行きとしてこの移行を受け入れます。わたしたちは彼らから学ぶべきでしょう。
 「わたしの愛するペットはどこに行くんですか?」とよく質問を受けます。ペットたちも天界へ行きます。とても美しい自然界に似た世界です― 人間たちがいる場所と同じなのです。動物が死ぬと、現世で交流のあった人間(たち)に迎えられます。該当する人物がいなかったり、現世で人間との交わりがなかった動物の場合は、一般に動物の世話係が彼らを迎えます。こうした世話係は愛情深い寛大な魂で、ペットと強い愛の絆で結ばれている家族の一員が霊の世界にやってくるまでペットたちの面倒を見ます。おそらく、世話係は現世でも動物に惜しみない愛情を注いでいた人びとでしょう。
 死んだばかりの動物が地上の住居に舞い戻ってくることは珍しくありません。それまでと同じ椅子にすわり、同じ場所で眠り、あなたをしげしげと観察することでしょう。現世であなたから受けた愛と親切を覚えていて、しばしばお返しとしてあなたを見守り、保護するのです。
 ですから、動物にしろほかのどんな生命体にしろ、どうか軽視しないでください。神が創造されたあらゆる生物に対する愛の神秘をわたしたちは分かち合わねばならないのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.214-215

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 76-c (動物は生態環境のあるべき姿のなかで生きている)

 ある動物が別の動物を食べて生存を果たすというシステムが残酷なものに見えるのは、畏敬の念を欠いた目を通して見たときのみである。そのシステムは元来、異なった種同士が与えることを学ぶための場であり、そこでは、異なった王国間で、自然なギブ・アンド・テイクとエネルギー交換が行われている。
 それが生態環境のあるべき姿である。異なった王国間で、エネルギーの自然な再分配が行われている。エネルギーを必要以上にもちいたり、必要のないエネルギーをため込んだりしているのは、私たちの王国、つまり人間の世界のみである。そのために、エネルギー循環のバランスがいちじるしく乱されてしまっている。
 もしも私たちの一人ひとりが、毎日、その日に必要なものだけを消費してきたならば、その循環は完璧だったはずである。動物たちは、冬を過ごすためにどうしても必要なとき以外は、私たちのようにため込まない。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
   サンマーク出版、2003、pp.51-52

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 76-d[5-h] (人間のみが個別の魂をもっているのである)

 私たち人間は、それぞれがひとつの魂をもち、その魂のもつ本来の性質に向けた旅をつづけているが、この点で、人間は動物、野菜、鉱物などと大きく異なっている。人間のみが、個別の魂をもっているのである。人間の創造のパワーが偉大であることの理由が、ここにある。魂の進化のプロセスは、いくつもの認識のレベルを経て進んでいく。
 動物は個別の魂をもっていない。彼らは集団で共有する魂、「グループ・ソウル」をもつのみである。個々の動物は、それぞれが特定のグループ・ソウルの一部である。それぞれの馬は、馬というグループ・ソウルの一部であり、それぞれの猫は、猫というグループ・ソウルの一部である。グループ・ソウルは集団で共有されている魂であり、個別の魂とは異なったものである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.190

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 76-e(人類史上今日ほど大量の生き物が犠牲にされている時代はない)

 人類史上、今日ほど大量の生き物が犠牲にされている時代はない。工場のような工程でにわとりが飼育され、やがて死体となって食肉業者のもとへ送られていく。鶏、豚、仔牛、うさぎ、羊、七面鳥、きじ、あひる、がちょう、あげていったらキリがない。こうした生きものが大食の祭壇に捧げられているのが現実なのである。
 肉には野菜を、ということで野菜や果物を大量に生産することにも危険が伴っている。そのために使用する化学薬品が生命体系を破壊しつつあるからである。小動物や昆虫が殺虫剤で毒を浴びている。そうした成分がめぐりめぐってどれほど人体に入ってくるかは計り知れないのである。
 屠殺場は死を予期した動物の恐怖の鳴き声と血で、まさに地獄絵の様相を呈している。一撃をくらって脳天を割られ、首を落とされると、あっと言う間もなく胴体が釣り下げられ、やがて手足がバラバラにされてしまう。駆けまわっていたあのけなげな生き物が見る影もなくなっている。
 それが急速冷凍される。それが何か月あるいは何年かして冷凍庫から引き出され、のこぎりで切りきざまれて食肉店へまわされる。
 赤身が鮮やかなのは染料が注入されているからである。風味は調味料で取り戻される。繊維を柔らかくするためにさらに別の化学薬品が使用される。かくして見た目には血のしたたるような柔らかい赤身のステーキができ上がる。
 私は、霊的に成熟した人間は自然に食べものについての正しい認識が芽生えるものと確信している。そして成熟したスピリチュアリストは最後は植物食を中心とし、しかも人工を加えない自然な食品を選ぶようになるに相違ないと信じている。
 成熟した人間には美食は見るのもいやなものである。物質文明最大の汚辱である。文明人は現在のようなぜいたくな食習慣を恥じるべきである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、p. 121

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 76-f[42-o] (動物殺害を止めれば霊的自覚の水準は高まり始める)

 食習慣が変わり、動物を血祭りに上げることを止めることによって、霊的自覚の水準が高まりはじめるであろう。そして西洋文明諸国の食事が質素になれば、世界の食料事情も良くなることであろう。
 大食については弁護すべき要素は何一つない。許されてよい理由は一つとして見出せない。大食の習慣がなくなることによって、餓死する可能性のある何百万もの人が生命を救われる。自分は美食を食らいながら飢餓国へお金を寄付するなどという行為は、人間の尊厳を侮辱するものである。
 われわれは何とかして食習慣を改める必要性を世界へ向けて訴えないといけない。“罪”という用語は少し古くさくなってきたが、この大食に関するかぎりはピッタリである。
 大食はまさに“死に至る罪”である。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 124-125

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 76-g (霊界でも犬に手を触れ暖かい毛の感触を味わうことができる)

 動物は無償の愛をくれる。動物の世界から愛を学ぶことも多い。
 人間同士であろうと人間と動物であろうと、愛する者のためにはあちら側の世界からベールをくぐって戻ってきてくれるのである。
 私は動物のスピリットを幾度となくみている。声も聞こえるし、感じもする。
 体外離脱をしたときに霊界で犬に囲まれたこともあった。そのなかの何匹かはみたことがある。みんな喜んで私によってくる。霊の犬に手を触れることができ、暖かい毛の感触を味わうことができて心が温かくなったことを覚えている。
 動物のスピリットとの出会いの諸例は枚挙にいとまがない。
 彼らが飼い主のところに戻ってきたときの感動は、人間同士の再会に勝るとも劣らないほど歓喜の世界である。

   ゴードン・スミス『霊的世界からの癒し』(ノーマン・テイラー邦子訳)
      徳間書房、2009、p.195

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 76-h (動物はいつか人霊へと成長できるように進化している)

 動物はいつか人霊へと成長できるようにたましいを磨き、進化しています。ペットと野生の動物では表情さえ違うように、特にペットとして飼われる動物は、人間と暮らすことでより人霊に近くなるためのステップアップを目指しています。ペットにまでなるということは、いよいよもう人霊へと変化する時期が近いのかもしれません。立場を変えて言えば、人間がペットを飼うということは、進化を目指すたましいへのボランティアでもあるのです。
 ちなみにペットは飼い主の守護霊にはなりません。しかし、飼い主を励ましたり、心配したりといった広義での補助霊の役割が多少はあります。亡くなってからほどなく再生する可能性が高く、動物は動物としての道のりがあると考えたほうがいいでしょう。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017p.50

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 76-i (なぜ肉食動物と草食動物が存在しているのか)

 なぜ肉食動物と草食動物が存在しているのかというと、肉食動物に草食動物を捕食させて、全体のバランスをとるためです。そのため肉食動物には草を分解する酵素がありません。
 草には生き物に必要なミネラルなどが豊富に含まれています。そうしたミネラル分を吸収したかったら、肉食動物はいやでも草食動物を食べるしか方法がないのです。
 肉食動物が襲って食べた草食動物の死体の残りは、それらを処理するハゲタカやハイエナのエサになり、さらに彼らの残したものを虫や微生物、菌などが分解し、最終的には土に返ります。
 その土を養分にして草が育ち、その草を草食動物が食べて、さらに肉食動物に捕食されるという奇跡的な循環が保たれているわけです。
 では進化の歴史で最後に登場した人間の役割は何かということです。人間の役目は植物のために、すべての生物の上に立って全体のバランスをとることです。
 日本でいえば、昔から人々は山を手入れし、里山をつくり、田畑を耕してきました。山に入ってヤブの下草を刈ることで、山や森の動物たちが徘徊しやすいような環境をつくるのが人間の役目だったのです。
 動物たちは、活発に動き回り、あちこちに排泄しました。それらは山や森の植物を育て、田畑に豊かな土壌をもたらしました。さらには川から海に流れると、そこでプランクトンのエサになり、たくさんの魚や海の幸を育てたのです。
 川や海の魚は、陸の動物のエサになり、陸上の彼らが活発に動き回ることで、あちこちに排泄物が落ちて、山や森の植物が育つという循環が成立するわけです。
 私たちは地球環境のバランスをとり、循環がうまく回るよう調整役として存在しています。そのような生き方をするために私たちは地球に生まれてきたのです。人間が「意識」の回路を断ち暴走を始めるまでは、この循環はかなりうまくいっていたのではないかと思います。

      木内鶴彦『臨死体験で明かされる宇宙の「遺言」』扶桑社、2016、pp. 106-107