[生と死と霊に関する論文]


  回心と信心 ー親鸞とパウロの場合ー


   1.

 親鸞は日野有範の子として承安3年(1173年)に京都・日野の里に生まれた。母については、詳細は不明である。親鸞の幼少の頃に死んだと云う説もあるが、明確な史料はない。九歳の春に、親鸞は比叡山延暦寺の座主となった慈円の下で得度・出家した。その時に、名を範宴と改めた。座主の慈円は『愚管抄』の著者で、関白九条兼実の弟である。九条家の浮沈に応じて四度も座主になり、叡山に習学の風を興したとされるが、保守的な旧仏教の代表者で、法然の浄土信仰には批判的であった。『愚管抄』のなかでも慈円は、法然を異端、邪教の僧としてこきおろしている。(1) 親鸞もまた法然のように、この比叡山に幻滅して下山することが、初めから運命づけられていたのかもしれない。
 その頃の京郁を中心とする世情は、激しく揺れ動いていた。数百年続いた藤原氏中心の貴族政治のあと、保元・平治の乱をへて平清盛を頂点とする武土団が政権を握っていたが、治承4年(1180年)には、平氏打倒をめざした以仁王と源頼政の決起が起こっている。ことは成らず、以仁王は源頼政とともに殺された。この時、殺された王の首実検のためによび出されたのが、親鸞の叔父で以仁王の学問の師であった宗業である。親鸞の出家は、この以仁王の事件となんらかの関わりがあったのかもしれない。彼の父・有範もそのころ出家し、親鸞の兄弟四人も全部、僧になっている。一族全部が僧になるというのは、明らかに一家離散の証拠だと、梅原猛氏は言う。(2)
 以仁王は殺されたが、やがてそれが平氏一門の没落への口火となり、源氏の政権に代わって、世は中世へと転換していく。その政権争いの舞台は宇治が中心であったので、親鸞の生まれた日野の里もその渦中にあった。得度・出家したばかりの九歳の親鸞(範宴)は、すでにその激動の暗い世相のうつろいを、肌身で感じ取っていたはずである。
 源平の合戦以来、世の中は乱れに乱れて、末世の絶望感が重苦しく澱んでいた。どのように乱れて、どのように暗かったのか。それを見つめていた一人の人間の記録が残っている。鴨長明の『方丈記』である。たまたま、親鸞が出家したと伝えられている年には年号が改められ、養和元年となっていたが、鴨長明はその頃の暗い世相を『方丈記』のなかで、つぎのように描いた。(3)

 また、養和の頃とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は、春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀悉くならず。空しく春耕し、夏植うる営みありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は、地を捨てて、境を出で、或は、家を忘れて、山に住む。様々の御祈り始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にその験なし。京の習ひ、何わざにつけても、皆もとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上がるものなければ、さのみやは操もつくりあへむ。念じわびつつ、様々の財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見たつる人なし。たまたま換ふる者は金を軽くし、栗を重くす。乞食路のほとりに多く、愁へ悲しむ声、耳に満てり。
 前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思う程に、あまりさへ、疫病うち添ひて、まささまに、跡かたなし。世の人皆けいしぬれば、日を経つつ、きはまり行く様、少水の魚の譬へにかなへり。はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したる者、ひたすらに、家毎に乞ひありく。かくわびしれたる者ども、ありくかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢え死ぬる者のたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界に満ち満ちて、変り行くかたち有様、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行さ交ふ道だになし、あやしき賎山がつも、力尽きて薪さへ乏しくなり行けば、頼む方なき人は、みづからが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木あひまじはりけるを、尋ぬれば、すべき方なき者、古寺に至りて、仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪の世にしもむまれあひて、かかる心憂きわざをなむ見侍りし。

 このように養和元年とその翌年の寿永元年は、二年続きの大飢饉であった。養和元年のすぐあとにまた年号が変わっているのも、凶事に見舞われた時に取られる宮廷の措置である。
 飢催で食べるものもなくなった民衆は、村を出て他郷へ放浪をはじめた。都に入る食料は途絶え、路傍にさまよう乞食だけが増えた。しかもその翌年には、飢饉だけではなく悪疫も流行して、世相はさながら地獄の様相を見せはじめる。相当な身なりをした女性も、いまは家ごとに食べ物を乞い歩くようになった。道端に倒れた多くの餓死者は放置されたままで、死臭が辺りにたちこめている。何も生計の方法を持たない生さ残りの貧民は、自分の家を壊して薪として市で売ったりもした。しかもその薪の中には、寺の仏像や調度品などを盗み出しては割り砕いたものも混じっていたというのである。
 『方丈記』 の記述はさらに次のように続く。

 またいとあわれなる事も侍りき。去りがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを不知して、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ臥せるなどもありけり。仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も不知死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四、五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へて言はば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
 崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかる例ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず、まのあたりめづらかなりし事なり。

 餓死者は続出した。夫婦でも家族でも、愛情のより深い者から死んでいった。乏しい食料を自分は食べずに、愛する者へ与えようとしたからであった。
 中世の京都の人口は、多くて十万人位といわれている。(4) その京都の中心部だけで、二か月間に四万二千余人の餓死者が出たというのであるから、その惨状は目もあてられぬほどであったにちがいない。母親が死んでいることも知らず、乳を吸おうとしている幼児の姿などは、いかにも哀れで、涙を誘われる。
 この方丈記の冒頭には、「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止りたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくの如し」とあるが、この生死無常の観念の背景には、このような悲惨な社会的現実があった。それを親鸞も知っていたはずである。おそらく、幼い彼自身が、道端で餓死して悪臭を放っている死体を何度も目にしていたのではないであろうか。顔をそむけて歩きながら、子供心にも、無常観に強くうちひしがれていたということもあったかも知れない。


   2.

 出家した親鸞は、比叡山の廷暦寺に入った。これから二九歳で法然の門に入るまで、二〇年間、学問と修業に没頭していたと思われる。しかし比叡山の現実は、親鸞が考えていたよりもはるかに腐敗・堕落していた。高位の僧は政治の実権者に取り入って、名声と富を得ることに腐心し、下級の僧は、僧兵となって暴力闘争の中で明け暮れしていた。組織人事も、その当時の閉鎖的・因習的な公家・貴族の社会制度がそのまま反映されていて、親鸞には昇進の道もほとんど閉ざされていたようである。
 当時の京都の大寺院は、狭隘な朝廷という職場にあぶれた公家・貴族の二、三男たちの格好の落ち着き先であった。貴族社会から流れ込んだ子弟たちには、貴族僧としての立場が約束されていた。彼らは、仏教界のいわば幹部候補生であった。身分の低い家柄の僧が、二〇年も三〇年も修業に励んだ末にやっと手に入れられるような要職にも、彼らは実家の家柄一つを条件に、若くして容易につくことができたのである。(5)
 いつの間にか、仏教界の上層部は、貴族出身の僧の厚い壁ができ上がっていた。しかも貴族僧の多くは、仏道をこころから求めていたわけでもない。その彼らは、寺院に入ってからも俗社会の因習を引さ継ぎ、高位高官をめぐつての醜い栄達争いを繰り返していた。下層の僧たちこそ哀れである。立身出世の希望も摘み取られた多くの僧たちは、自暴自棄となり、仏教の世界は、沈滞から荒廃へ、腐敗から堕落へと転げ落ちていた。
 歌聖として知られる藤原定家の『名月記』という日記が残っている。寛喜元年(一二二九年)のところに、当時の比叡山延暦寺の僧侶についての記述があって、そこには「妻子をもち、金貸しをして富裕になる者、悪事を行う者などが山門に充満している」とある。一方では、南都・北嶺などの悪僧が行う強訴や武力蜂起が都の人々を脅かしていた。まさに仏教の世界は、公家社会がそうであったように、落ちるところまで落ちて、救い難い行さ詰りを見せていたのである。(6)
 親鸞の心の中にも徐々に絶望感がひろがり、腐敗した現状をどうすることもでさない自己の無力感と自己嫌悪にも悩まされていた。そういう親鸞を尻目に、修行にも励まず学問も怠けているような貴族出身の若僧が、家系や父親の肩書きにものをいわせて、次々に親鸞を追い越し、昇進していく。
 親鸞の生家は、公家貴族の一員ではあっても、決して名門ではなく、平凡な下級貴族である。父有範の官位は正五位で、官職も、皇太后大進といういわば閑職であった。その子供である親鸞が、いかに優秀で熱心に修業に励もうとも、比叡山での栄達はありえなかったのであろう。まだ若い親鸞は、純真に道を求めようとすればするほど、理想と現実との大さな狭間で、挫折感に苦しみ、激しい煩悩に身を焦がしていた。そして、そんな親鸞を善導する力は、比叡山にはもはやなかった。
 京都郊外の神護寺には、元暦二年(1185年)の「四十五箇条起請文」というのが今も残されている。それには、四五か条にわたって、寺での生活を規制する禁止事項が神仏に誓う形で列挙されている。寺の権威をかさにきて他人の田畑や財産を横領してはならない。寺の大事以外には、私的なことで刀杖甲冑をつけて武力行使してはならない。僧侶が美服をまとい、寺の中で賭博をしてはならない。寺の中に女人を宿泊させてはならない、等々である。(7)
 このような禁令が出されているということは、逆に言えば、そのような破廉恥行為が目に余るほど行われていたということであろう。真に仏道を求めようとする僧たちが、その目的を遂げるためには、かえって寺院から遠ざからねばならなかったのも、十分にあり得ることであった。
 親鸞の夢は次第にしぼんでいった。自己嫌悪や無力感を含めて煩悩だけが消えずに残った。それゆえにこそ、親鸞はなお一層真剣に、煩悩に苦しむ自己の救済を求めて、修行に励もうとしたであろう。しかし、煩悩は晴れない。寺の中へ夜ひそかに女性を連れ込むような破戒僧が珍しくなかった周辺の環境の中で、彼自身が肉欲に悩まされることもあったに違いない。いつまでも苦しみが続いた。親鸞が、どのような修業によっても救われることのない人間の業の深さを自分自身の中に気づき始めたのも、このような絶対絶命の境地に追い込まれたからであろうか。
 親鸞は一九の時、聖徳太子の墓に詣でて、三日間参籠したことが伝えられている。その二日目の夜中に聖徳太子が光明となって現われ、次のように親鸞に告げたという。(8)

  我が三尊(阿弥陀仏・観音・大勢至)は塵沙の界を化す
  日域は大乗の相応の地なり
  諦に聴け諦に聴け我が教令を
  汝の命根は応に十余歳なるべし
  命終わりて速かに清浄土に入らん
  善く信ぜよ 善く信ぜよ 真の菩薩を

 これは『親鸞夢記』に残されている。この著作が親鸞自身のものかどうかについては、信憑性が問題になることもあるが、この「汝の命根まさに十余歳」という箇所をどう解釈するかは、意見の分かれるところである。しかし、奇しくも親鸞はそれから一〇年後、二九歳の時には聖徳太子にゆかりの深い、洛中の六角堂頂法寺に百日間寵ることになる。それは、親鸞の新しい生への出発点になった。
 ともあれ、それまでの親鸞は煩悩の渦中にあって坤吟していた。人間というのは結局、煩悩から離れることは出来ない。したがって、人間の救いは、煩悩具足のままの救いでなければならない。そしてその救いのためには、人間はあらゆる自力のはからいを捨て去って、阿弥陀の力にすべてを委せ切る他力に徹することである。坤吟のなかで親鸞はそう考え始めた。
 この「自力から他力へ」は親鸞の思想を支える重要な核心である。その違いはどこにあるのか。のちに親鸞は、これについて次のように書いている。

 まづ自力と申ことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し余の善根を修業して、わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて、身口意のみだれごころをつくろい、めでたうしなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申なり。また他力と申ことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆへにさらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべし、とおもふべからず。自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるることにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。(9)

 自力というのは、念化の行者が、ほかの仇の御名を唱えたり、さまざまな善根をおさめたり、わが身をたのみ、わが心のはからいをもって、立派に行じて浄土へ往生しょうとする。それを自力というのである。また、他力というのは、阿弥陀如来の誓願のなかでも、特に選びとられた第十八願の、念仏往生の本願を深く信じて心喜ぶことである。それは如来の御誓いであるから、他力については、義なきを義とするのだ。
 だから、自分は悪い人間であるから、如来のお迎えを受けられるはずはないなどと、思ってはならない。凡夫はもともと煩悩をそなえているのだから、悪いにきまっている、と思ったほうがよいであろう。また、自分はこころが正しいから、往生でさるはずだと、思ってもならない。自力のはからいでは、真実の浄土に往生できるものではない。念仇の行者のおのおのの自力では、浄土の辺土までしか往生でさないものだと、私はうけたまわっている。
 これが、親鸞の考えていた「自力」と「他力」である。比叡山で煩悩に苦しみながら、悩みに悩んだ親鸞は、このような他力に目覚めはじめていたのであろう。二九歳の親鸞は、遂に山を下りる決意を固めた。そして六角堂に籠もったのである。
 この六角堂参籠については、親鸞の妻直筆の「恵信尼文書」が貴重な資料として残っている。その手紙によって、参籠の状況が次のように明らかにされた。

 山を出でて、六角堂に百日こもらせ給て、後世を祈らせ給けるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせ給て候ければ、やがてそのあか月いでさせ給て、後世のたすからんずるえんにあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給て候けるやうに。又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまいりてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死いづべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候しを、うけ給はりさだめて候しかば、上人のわたらせ給はん所には、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせ給うべしと申とも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思まいらする身なればと、やうやうに人の申候し時も仰せ候しなり。(10)

 親鸞は懸命に祈りに祈り、参籠九五目目にして、聖徳太子の示現にあった。それは、京都吉水の庵にいる法然に縁を求めよ、というものであった。親鸞は迷わずに、夜明けとともに法然を吉水の庵に訪ねた。その頃の法然は、すでに六九歳の円熟した境涯であった。彼が比叡山を下りて、他力専修念仏を説きはじめてから二六年もたっており、その名声は都の内外に高まっていた。その法然のところへ、聖徳太子が親鸞を導いたのである。
 聖徳太子は、もうひとつの重要な示現を親鸞に与えている。親鸞が法然のもとに導かれた二年後の建仁三年(一二〇三年)四月五日、彼は夢を見る。その中で六角堂の救世観音が僧の形をして、白蓮に乗り次のように親鸞に言った。

  行者宿報説女犯、我成玉女身被犯
  一生之間能荘厳、臨終引導生極楽

 親鸞よ、もしお前が前世からの因縁により、どうしても女なくしてはいられないのであれば、私が美しい女になって、お前に犯されてやろう。そして一生の間、お前の人生を気高く守り、死ぬ時にはお前を極楽へ導いてやろう、というのである。しかも聖徳太子はさらにこの後で、「これはこれわが誓願なり。善信、この誓願の旨趣を宣説して、一生群生にきかしむべし」とつけ加えた。思いきった肉食妻帯の肯定であり、梅原氏はこのときが浄土真宗成立の日であると思う、とまで述べている。(11)
 この肉食妻帯は、師の法然にとっては逸脱であった。法然は、のちに専修念仏への非難が起こったとき、七か条起請文をつくり、弟子たちにも署名させた。親鸞も、僧綽空という名で署名に加わっているが、その起請文の第四条で法然は、淫酒、食肉をいましめているのである。そこで法然は、善導伝の「目をあげて女を見ず」という言葉をあげ、こういう善導の行為に見習わない者は、如来の道教を忘れ、祖師の旧跡にそむく、拠り所のない者である、という云い方をしている。このように法然は、肉食妻帯には批判的で、自らは持戒堅固で有名であった。しかしその法然も、六角堂参籠を終えてまっすぐに自分の門をたたいた頃の親鸞の姿には、一途に道を求める者の真剣味に打たれていたことであろう。
 法然の弟子になった親鸞は、末法の世における救いとは何か、について真剣に教えを乞うた。法然は親鸞にどのように教えたのであろうか。「末法の世における救いとは、ただ一つ、行往坐臥つねに念仏を唱えるだけでよいのである。それによって、善人も悪人も区別することなく、平等に救われるのだ」と言ったかもしれない。しかし、それだけでは親鸞が納得でさるはずはなかった。問題は、なぜ、ただ一つの救いが念仏なのか、であったろう。それを親鸞は問い続けた。一日も休むことなく問い続けて、吉水通いが百日に及んだ。そして百日目に親鸞はこころから納得して、阿弥陀の本願を信じられるようになった。ついに親鸞は、他力の念仏者への回心をなしとげたのである。


   3.

 ここで、もう一つの、そして劇的な回心を、遠く小アジアの地に見てみることにしょう。パウロの場合である。親鸞の時から、時代はさらに千年以上さかのぼる。
 パウロの生年については、紀元前後に生まれたことは間違いないが、正確なことはわからない。紀元五年から一〇年の間に生まれたという説もあるが、これも推測の域を出ない。(12) 両親がどういう人であったかについても、不明である。しかし、当時、ローマの属州キリキアの首都であったタルソで生まれたことはわかっている。これは、『使徒行伝』のなかで彼自身のことばとして、「わたしはキリキアのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け......」(22・3)と書かれているからである。ガマリエルは、紀元二五年から五〇年頃までのユダヤ教の指導者で最高法院の一員でもあった。このことからも彼は平凡な一ユダヤ人ではなく、当時の社会ではエリートであったことがわかる。
 彼は同時に、「生まれながらのローマの市民」でもあった。ということは、彼の父か祖父が地位も財産もある社会的な成功者で、何らかの方法でローマの市民権を手に入れており、市民としての特権を持っていたことを意味する。これはその当時は大きな特権であり、何かことがあった場合でも、ローマの地方総督は、独断では彼を処置することができななかったのである。(13)
 キリキアというのは、現在のトルコ南部の沿岸地帯で、肥沃な平原を擁し、織物などの産業が発達していた。その中心地タルソは、いまでは海岸線から二〇キロほどの内陸になってしまっているが、パウロの時代には、ヒツタイトの昔からの繁栄を受け継ぐ東地中海最大の港町のひとつであった。豊かな経済力に支えられて、商業、交通の要衝であると同時に、ローマ時代にはヘレニズム文化の一中心地でもあったようである。アテネ、アレクサンドリア、タルソと並び称され、ローマ皇帝アウグストスの師アテノドロスの出身地として、知的な尊敬を集めていた。(14)
 パウロはのちに、信仰の貴重な証となる「ローマ人への手紙」を含めて、一連の手紙をギリシア語で書くことになるが、これも、彼の育ったこのような環境によるものであろう。当時のギリシア語はコイネーとよばれ、地中海を囲んだ国々で共通に使われていた言葉であった。いわば、当時の世界語である。その世界語のギリシア語を話し書くことによって、彼はストア派の表現を使いこなし、ギリシア的精神を身につけていた。これは彼が、国際性や人類的普遍性を感覚として持っていたことをも意味する。(15) このようにパウロは、ローマ市民権を持つ国際性豊かなユダヤ人エリートであったといえよう。
 ユダヤ人の本国は、いうまでもなくパレスチナの一隅にある。しかし、彼らの多くが、早くからデイアスポラ(散らされたイスラエル)のユダヤ人として、ひろくパレスチナ以外の土地に居住するようになっていた。この散在の傾向は、アレクサンドロス大王の東征で始まるヘレニズム時代には特に顕著で、地中海の東半分の諸都市を中心に、周辺諸国の隅々にまでその居住地域は広がっていった。タルソに生まれ育ったパウロも、このようなデイアスポラのユダヤ人であった。
 もっとも、パウロは一度も、自分がデイアスポラのユダヤ人であることは語っていない。『ピリピ人への手紙』の中には有名なパウロの自己紹介があるが、そこでは「私は八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と言っている。(3・5・6) ここでいう「ヘブル人」というのは、ユダヤ人ないしはイスラエル人と同義ではない。それは、生活様式および気質の点で、イスラエル先祖伝来の慣習に極めて忠実であることを示す表現である。デイアスポラにありながら、ユダヤ教の伝統を重んずる家庭に生まれたことを彼は誇りにしていたようにみえる。
 彼が自分のことを「パリサイ人」と言っているのにも、その彼の誇りがうかがえる。デイアスポラのユダヤ人はパレスチナを離れていてパリサイ派とかサドカイ派とはっきり言うことはでさない。しかし、一代または二代前にさかのぼればパレスチナに住んでいたはずであるから、その頃からすでにパリサイ人であったということになる。このことは、彼の生涯に、無視できない大さな意味を持っていた。
 つまりパリサイ派というのは、律法を絶対視する律法主義の立場を取っていたからである。そしてパウロは、パリサイ派の若者として、ガマリエルという当時の律法学の権威のもとで律法を勉強した。「律法の義については落ち度のない者」と自分でも言っているくらいだから、よほど厳格な律法の実践者であったに違いない。そしてそれゆえに、律法からはみ出る者を許さなかった。イエスをキリストと信じるようなキリスト教徒には「迫害者」にならざるをえなかったのである。
 律法に忠実であろうとすればするほど、その律法の枠を越えて、神の子と称するキリスト教徒に対しては敵意をむき出しにしていた。そしてその迫害は、「ステパノの殉教」から始まった。『使徒行伝』は、その場面をつぎのように、ステパノのことばから記述している。

  ……ああ、強情で、心にも耳にも割札のない人たちよ。あなたがたは、いつも精霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。(7・51-53)

 ステパノがここまで言ったあと、聞いていた人々からの迫害を受けて殺されることになる。その中にはパウロもいて、ユダヤ名「サウロ」で登場する。当時、ユダヤ人には人々を死刑にする権限は認められていなかったはずだが、これは暴徒によるリンチで、そんなに珍しいことではなかったかもしれない。そのような法を無視したリンチにも、律法を守ることに熱心であったパウロは、個人の資格で先頭に立っていたのであろう。ステパノはそのパウロの生贅であった。

 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は 精霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現われ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(7・54-60)


   4.

 パウロのキスト教徒に対する迫害は、このあとも続く。『使徒行伝』には、さらに次のような記述がある。ここではパウロは人々の先頭にたって、容赦なくキリスト教徒を迫害しているさまが描かれている。

 サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリアとの地方に散らされて行った。信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った。(8・1-3)

 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の区別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(9・1-2)

 大祭司からキリスト教徒迫害の了解を取りつけた点については、疑問の余地もないわけではないが、(16) パウロは、ダマスコヘ出かけることになる。律法のためには、難を避けて逃れていたキリスト教徒たちを一人でも多く捕らえなければならないと思っていたであろう。彼らをエルサレムへ引っ張ってきて皆殺しにしてもかまわないくらいの意気ごみであったかもしれない。パウロはダマスコヘ向かった。しかし、その途中で、彼にとっては決定的な事件が起こる。『使徒行伝』は、それを次のように伝えている。

 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、だれも見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。(9・3-8)

 このパウロの体験を疑うことはできない。なぜなら、パウロ自身がこのことを、ガラテヤ人への手紙の中でも書いているからである。彼はそれを「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった…・・・・」(1・15-16) と述べ、「ここに書いてあることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない」(1・20) と確言している。
 ただし、パウロ自身が直接この体験について書いているのは、ここだけである。ほかには、間接的な記述が若干見られるにすぎない。例えば、コリント人への第一の手紙には、キリストが聖書に書いてあるとおり三日目によみがえって、まずペテロの前に姿を現し、そのあと十二人の弟子、五百人の信者、ヤコブなどに現れたあと、「いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも現れたのである」(15・8)とある。そして、「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない者である」(15・9)と続けている。
 事実、彼はキリストが彼に現れたことによって回心した。このキリストの復活がなく、このように復活したキリストの声を聞くことがなかったならば、パウロの回心はあり得なかったにちがいない。しかし、それにもかかわらず、パウロ自身はこのように、自分のこの決定的な体験について決して多くを語ろうとはしていない。『使徒行伝』がその事実に三度も触れてくわしく報告しているのとは対照的である。それはもちろん、「使徒と呼ばれる値打ちのない者」という謙虚さにもよるであろう。しかし、見落としてならないのは、パウロのこの体験の受け取り方である。
 つまり回心の出来事は、パウロ個人の行動によるものではなく、神の側からの介入であった。その意味では親鸞のことばでいえば、自力ではなく他力である。それをパウロが自分の体験として述べる場合は、いかに神の恩寵がそこに働いていたかを強調しても、おのずから焦点が自分のところに結ばれやすいことになる。救いを徹底的に神の恵みによるものとするパウロにとっては、寡黙であることはいわば当然の成り行きであったのかもしれない。
 ともあれ、ここでまた、ダマスコへ向かっているパウロへ戻ろう。パウロは光に打たれた。光に打たれて倒れ、キリストの声を聞いたパウロは目が見えなくなり、人々の手にひかれてともかくも、ダマスコへたどり着いた。その後どうなったか。『使徒行伝』は次のように続けている。

 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというクルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってさて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得ているのです」。
 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないのかを、彼に知らせよう」。
 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして精霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。 そこで彼は立ってパブテスマを受け、また食事をとって元気をとりもどした。(9・9-19)

 ここでは、パウロの回心体験が、イエス・キリストのあらかじめ予定していた事実として語られている。キリストはパウロのことを、「あの人は、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者」と言い切っているのである。パウロも後に、これを「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵をもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしに内に啓示して下さった」と前述のように、神の恩寵による他力として自覚することになる。それぞれに短いことばではあるが、これらは厳粛な意味を持つ。
 ここでは弟子のアナニヤもまた、「選ばれた者」であった。キリストの復活を信じ、キリストのことばにいささかの疑いをも挟まなかった。そして荘厳で感動的な「会話」がイエス・キリストとの間で交わされたのである。(17) アナニヤはパウロのところへ行き、言われたとおりに、キリストのことばを伝えた。目が見えるようになって、彼は生まれ変わった。そして直ちに行動を開始する。

  サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説さはじめた。(9・19-20)

 生粋の律法主義者でパリサイ派のパウロは、この時から律法による生さ方と決別した。律法熱心の生き方では、実際に人が律法を厳格に守るかどうかが決め手とみなされ、神はただそれに応えて、その人を祝福したり退けたりするにとどまる。神に対する忠実が唱えられてはいるが、現実には神は傍らに押しやられ、人間に対する上下の位置を保つだけに過ざない。そのことにも、彼は気がついたのであった。かつては飽くなきキリスト教徒への迫害者であったパウロは、このように、もはや律法ではなくて「このイエスこそ神の子」とする信仰に入った。これがパウロの回心であった。


   5.

 ここで、回心から信心の問題に入ろう。まず、親鸞の信心を取り上げてみたい。『歎異抄』の第一段には、こうある。(18)
 
 弥陀の請願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと、云々。

 この段は、『歎異抄』 の真髄ともいわれる部分で、親鸞の説く念仏の本質をよく示している。意味を理解しやすいように、まず、「弥陀の請願不思議」から取り上げてみよう。
 「弥陀」はもちろん阿弥陀の略称であるが、サンスクリットの原名は二つに分かれている。Amitayusは無限の寿命をもつもの、無量寿の意味で、Amitabhaは無限の光明をもつもの、無量光の意味である。このどちらも阿弥陀と書写された。(19)
 浄土三部経のなかの無量寿経によると、過去久遠のむかし世自在王仏のもとで、無上なるさとりを得ようと発心した法蔵菩薩が衆生を救済するために四八の本願を立て、途方もなく長い間修業を重ねた後、本願を成就して、いまから一〇劫のむかしに仏となった。これが阿弥陀如来である。これは、親鸞の『正信偈」の第三句から第一六句にもつぎのようにまとめられている。(20)

    (3) 法蔵菩薩因位時
    (4) 在世自在王仏所
    (5) 覩見諸仏浄土因
    (6) 国土人天之善悪
    (7)  建立無上殊勝願
    (8) 超発希有大弘誓
    (9) 五劫思惟之摂受
  (10) 重誓名声聞十方
  (11) 普放無量無辺光
  (12) 無碍無対光炎王
  (13) 清浄歓喜智慧光
  (14) 不断難思無称光
  (15) 超日月光照塵刹
  (16) 一切群生蒙光照

 法蔵菩薩 のこの「四八の本願」のうち、念仏信仰のうえで特に大切なのは、この稿のはじめにも触れた第一八願であろう。それには「設(も)し、我、仏を得たらんに、十万の衆生至心に信楽して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、若し生まれずんば正覚を取らじ」とある。これは、「苦しんでいる衆生がいて、誠を持って信じて、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願って、南無阿弥陀仏と称えて、もしその者が往生できなかったら、私は自分ひとり仏にはならない」と法蔵菩薩が誓っているのである。(21)
 請願不思議とは思議すべからざる、つまり絶対の請願ということで、その請願の成就した結果が本願の念仇「南無阿弥陀仏」である。そしてこの念仏こそが、阿弥陀の全人類救済の象徴であると考えられている。それでは、念仏とは何か。
 念化とは、文字通り仏を念ずるということで、本来、仏身を心の中に想い描いて祈るこころの統一方法であった。念じ方は仏をどう考えるかによっても違うが、多くの場合、仏の姿やその国土を心に思い浮かべたり、彫刻や絵にして念じたりする。ところが、当時はすでに浄土教が興り広まっていたため、念仏といえば阿弥陀仏を念ずること、というほどになっていた。『観無量寿経』には「童心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏を称えしむ。仏の名を称えるがゆえに、念仏のなかにおいて、八〇億劫の生死の罪を除さ、命終わる時、金蓮華のなお日輪のごとくして、その人の前に往するを見ん」(第一六覿下品下生)などとある。
 中国の善導大師は、阿弥陀信仰の中心として『観経』を選び、念仏三昧と観仏三昧とに分けて考えたといわれている。観仏とは仏身や仏国土を観想することで、この信仰は日本の源信によって大成され、平等院鳳凰堂など平安貴族の華麗な美の世界を創造させた。親鸞が言っている念仏とは、この前者の念仏のことで、ただ専心に南無阿弥陀仏を称える口称仏として、師の法然から受け継いだものである。いわゆる専修念仏がこれで、いろいろな修業を交えておこなう雑修とはっきり区別していた。親鸞は、称名念仏ただ一つに専念し、阿弥陀仏の本願力によって救いが得られることを強調していたのである。(22)
 その次に来る「往生をばとぐるなり」の往生は、文字通り「生に往く」ことであり、「往生浄土」ということばで表現されるように、これは極楽浄土へ行くことである。だからここまでは、普通の凡夫が、思議できないほどの阿弥陀仏の請願の絶対的な力に助けられて、さっと救われて極楽浄土へ行けるのだと信じ、念仏を唱えようというこころが生じる時、そのとき即座に、その人は阿弥陀仏によってしっかりと救い取られる、という大意になる。
 それでは、このようにして凡夫が救い取られるための条件は何であろうか。それが何もないのである。ここでは、何もないことを強調する。弥陀の本願には老少の年齢差も、悪人や善人の区別もなく、ただ、弥陀の救いを信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけでよい。そしてその理由として、「本願というのは、罪が深く悪にまみれ、身の苦しみ、こころの悩みの盛んなすべての凡人を救うことが目当てなのであるから、阿弥陀他の本願を信じることができればその他の善は必要はない。念仏より優れた善はないからである。また、悪をも恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないからだ」と続けている。
 この第一段では、要するに、凡人に村する救いは自力による善行や修業を一切必要とはせず、ただ念仏を唱えることであることを強調して、他力念仏の絶対性を強く訴えているのである。そして、そのために、自力と他力の違いを明確にして、さらに第四段で次のように述べた。

 慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の悪悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。 しかれども、おもふがごとく助とぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するを云べきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。

 私たちがこの世で、いくら憐れだ、可哀想だと思っても、なかなか生きとし生けるすべてのものを助けおおせるものではない。そのような慈悲はどうしても中途半端なものになる。だから私たちは、できるだけ早く阿弥陀如来の本願に目覚め、その大慈大悲心を体してひろく衆生を救えるようにならなければならない、というのである。ここでもまた親鸞は、自力聖道門の慈悲心と他力浄土門の慈悲心をくらべて、他力こそ弥陀の本願に叶うすぐれた大慈悲心であることを強調している。
 当時の仏教界にはまだ、比叡山の天台系や高野山の真言系、あるいは奈良の旧仏教系諸派の根強い勢力があった。これらの自力聖道門と比較して、他力浄土門の優位を説いていくことは、余程の信念と勇気のいることであった。それは、聖道門を代表する南都・北嶺に対する大胆な挑戦でさえあった。(23)比叡山における二〇年間の苦しい修業の後、山を下り、六角堂に参籠し、法然の門を訪ねて、ついに回心に至った親鸞は、強勒な精神力で堂々と不動の他力信仰を説いていく。それはまさに、「念仏にまさるべき善なきがゆへに」であった。悪さえも恐れることはないのだという。「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」である。これらの文からだけでも、親鸞がいかに他力の信心に徹していたかということがよくうかがえるのである。


   6.

 ここでまた、パウロヘ移ろう。この信心に徹していた点では、パウロの場合もまったく同じである。事実、キリスト教の伝道者のなかで、パウロほど信仰に徹していた人はいなかったといえよう。『ガラテヤ人への手紙』のなかでパウロは次のように書いている。

 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(2・15-16)

 この 「義とされる」の義の概念は、倫理的意味での個人的な正しさや社会的な正義を越えるものである。正しいというとき、それが何に対して正しいのか、何に叶っているのかその基準が問題になるが、「義とされる」の義は、あくまでも神の義を基準にしている。神というのは創造主である。世界も人類も神が作られた。その作られたもの、被創造者が創造主との関係において、正しく存在し、正しく交わっているか、それが義によって問われるのである。旧約の律法も、この創造主と被創造者とが正しい関係で存在でさるようにするよりどころと基準を示したものにほかならない。
 その神の義はさばきにおいてあらわされ、義なる神は不義なる人に村して厳しい審判者として立ち向かわれる。神は義であるゆえに、罪人を裁き死に至らせることもあるのである。(ローマ1・32)そして、詩編の筆者は、「生ける者はひとりもみ前に義とされない」(143・2)と告白せざるをえなかった。
 神の義はこのようにさばきとして示されつつも、神はまさにその義のゆえに、ひとり子キリストを賜るほどに不義なる者を愛し、救いの道を示された。(ヨハネ3・16)こうして神は律法とは別に、イエス・キリストによって人間を許し、信じる者を義とする「信仰の義」を与えられた。(ローマ3・21・26 4・13) パウロが強調しているのもこのような信仰によって義とされる「信仰義認」なのである。そのようなパウロにとって、信仰とは、例えばアブラハムの信仰であった。パウロはアブラハムを信仰の典型としてとらえ、「アブラハムこそ信仰の父だ」(ローマ4・11-12)と語っている。
 アブラハムは旧約聖書『創世記』に出てくる人物である。神から、「国を出、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行け」と命じられて、彼は直ちに従った。慣れ親しんできた自分の国を出て未知の土地へ行く。そのときに彼は未知の土地での安全や生活の保障を求めない。無条件に神の命に従ったのである。アブラハムには子はなかったが、神は彼の子孫の繁栄を約束した。その神の約束をアブラハムは信じた。主はこれを彼の義と認められた。(ローマ4・22)
 このあと神は、アブラハムにカナンの全土地を永久に所有する権利を与えるという契約を結ぶが、そのときのアブラハムの年齢は九九歳で、妻のサラは不妊の女で九〇歳であった。そのアブラハムが、実子を与えられるという神の約束を信じて、契約の印としての割礼を受けたのである。やがて、年老いたアブラハムとサラの間にイサクが生まれ、このときアブラハムは百歳であった。
 彼の信仰はゆるぎなく続く。また、ひとつの出来事があった。ある日、神は、約束の子として生まれたイサクを、理不尽にも自分のために殺し、燔祭としてささげよと命じられたのである。しかしアブラハムは、この命令にさえ反抗しようとはしなかった。いささかの疑いもなく神の命に従い、まさにわが子イサクを燔祭として捧げるために刺し殺そうとした瞬間、神の使いが天から彼を呼んで、押し止めた。神は言われた。「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜辺の砂のようにする....あなたがわたしの言葉に従ったからである。」(創世記22・16-18)
 このようなアブラハムについてパウロは、アブラハムの信仰が義と認められたことを強調する。信仰とは結局、神がその約束を必ず成就させてくれることを信じる、つまり神自身を信じることである。一切を神に委ねて、いかなる保証をも求めない。それが信仰なのである。
 その際、保証を求めようとするものは、あくまでも自己中心の思考であろう。つまり自我が働くのである。自我というのは常に確実な基盤の上に自分を基礎づけようとする。だから自己を自我として捉えている者は、必ず将来の不安に対して、納得できるだけの具体的な保証を求めるのである。アブラハムの場合、神の約束を信じ神の命令に従うことは、自我の基盤を不安定にし、危険に曝すことであった。それを敢えて恐れず、なんらの保証を求めようとしなかったアブラハムは、神の前に自我を放棄したのである。そしてそれをパウロは、信仰の典型としたのであった。
 パウロ自身の信仰は、イエス・キリストヘの信仰であるが、ここでも彼は、神に頼って安全と保証を求める自我の放棄を鮮明にしている。彼の場合は、ひたすらに律法を守ることによって、義なる人間として聖なる神の前に立とうとすることがすでに自我であった。律法によって自分の存在と安全を守ろうという律法主義的自我の放葉が、回心後の彼の信仰を支えていた。それゆえパウロは、信仰とは、キリストと共に死ぬことだという。そしてキリストと共に死ぬ者はキリストと共に生きるのである。『ローマ書』にはこうある。

 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである。(6・8-11)

 このような、キリストと共に死に、キリストと共に生さる信仰の事例を、私たちは現代においても見ることができる。その一つは、コルベ神父である。あの悪名高きドイツのユダヤ人強制収容所アウシュビッツで、処刑される囚人の身代わりとなり、自らのいのちを捧げた。その最後の様子は、つぎのように伝えられている。(24)
 一九四一年七月末、コルベ神父はアウシュビッツの第一四号獄舎に収容されていた。その獄舎から一人の逃亡者が出たのである。獄舎の因人たちは恐怖に身震いした。収容所長フリッチの警告があって、逃亡者を一人出したら、同じ獄舎に収容されている者のうち、一〇名が餓死刑に処せられることになっていたからである。
 逃亡者が出た日の翌朝、点呼の時、他の獄舎の人々は解散を命じられたが、第一四号獄舎の人々はその場に残された。彼らは炎天のもとに何時間も立たされていた。やがて所長のフリッチがあらわれて、囚人たちの顔を見ながら、一人また一人と指名していった。そして一〇名の処刑者が決まった。指名された人たちはどのような気持ちであったろうか。あまりの残酷無慈悲に神をも呪ったかもしれない。そのなかの一人は、突然、
 「ああ、妻と子供が可哀想だ。もう一度会いたい!」
 と泣き叫びはじめた。しかし、冷酷なフリッチは、うむを云わさず彼らの靴を脱がせ、はだしのまま飢死刑の監房のある第一三獄舎の方へ追い立てようとする。
 そのときである。まったく誰もが予期しなかったことが起こった。一人の囚人が、あっけにとられる仲間たちをかきわけて、前へ進み出てきたのである。コルベ神父であった。頭を少し傾け、目を大きく見開いて、フリッチの前に立った。慌てふためいてフリッチは、拳銃に手をかけ一歩退いてどなりつけた。
 「このポーランドの豚め、なにしやがるんだ!」
 コルベ神父は、笑みさへもふくみながら、
 「私をあの人の代わりに死なせて下さい」
 と、落ち着さ払って答えた。
 フリッチは茫然となった。信じられないことが今自分の目の前で起こっているのである。自分の命令に対するどんな反対も受けつけず、反抗者は即座に拳銃の一撃で処分していた彼も、一瞬、あまりの意外さに立ちすくんでしまった。
 「いったい、どういうわけだ?」
 とやっと尋ねた。
 コルベ神父は静かに答えた。
 「私は年寄りで、なにもできません。生きていてもたいして役に立ちませんから、あの人の代わりに死なせて下さい。あの人には妻子があります」
 しばらく沈黙が続いた。フリッチが事態を呑み込むのには時間がかかった。彼は何を感じ、何を考えたのであろうか。ただ、そのときの彼には、「否」と答える力はなかった。しゃがれた声で許可を与えた後は、黙り込んでしまった。この許可によって、先程の嘆き悲しんでいた男、フランシスコ・ガイオンチェック軍曹は元の列に戻り、コルべ神父は餓死刑の監房へ消えて行った。
 収容者の一人で、死体運搬の役目を命じられていたボルゴヴィオクという生き残りの証人がいた。その話によれば、他の人々の死体はすべて、ひきつった無惨な顔をしていたのに、コルベ神父の顔は、清潔で輝いているように見えたという。
 コルベ神父は、疑いもなく、キリストと共に死に、キリストと共に生きた。そして、これもまた、信仰に生きる徹底的な自我の放棄である。コルベ神父が、ここではパウロの信仰を実践したのである。

 この生死を超えて信仰に生さる徹底的な自我の放棄の姿勢は、親鸞においても見られる。『歎異抄』の第二段の後半を読んでみよう。

 ...親鸞にをきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰をかふむりて、信じるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また地獄にをつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏まうして、地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりて、といふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにをはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、親鸞がまうすむね、またもて、むなしかるべからずさふらふか。せんずるところ、愚身の信心にをきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計なりと云々。

 ここで親鸞は、「ただ念仇して弥陀に助けられよ」と教えてくれた師の法然に出会い、その法然の教えに納得して深く阿弥陀如来を信じるようになった。それだけである。それ意外のいわれはない、と述懐している。そして最後には、私は、念仏を称えることで本当に涅槃に往生できるかどうかさえも知らない、と言い、さらに徹底して、仮に法然から騙されて、念仏を称えたために逆に地獄へ落ちたとしても少しも後悔しないだろう、と断言している。それが親鸞の信心だというのである。信心においては一切の私心をもたない。徹底的に自我を放棄して、全的に心身を捧げる。絶対の帰依である。それが親鸞の信心であった。


   7.

 このような親鸞の信心を、さらに『歎異抄』の第三段でみてみることにしよう。

 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す。 いかにいはんや善人をや、と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。 そのゆへは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰さふらひしさ。

 これが親鸞の思想を貫く「悪人正機」である。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのは如何にも逆説的な言い方である。そのために数多くの異説もあらわれてきたのだが、ここで大切なのは、この善人、悪人の意味を取り違えないことであろう。
 親鸞は、「善人」とは「自力作善の人」であるといっている。自分の能力に自信を持ち、自力で救いを得ようとして、一生懸命に努力し修業を積んでいる。そういう人が善人なのであろう。そのような人の姿はそれなりに尊く、決して批判されるべきではないのかもしれないが、ただ親鸞は、そのような自力作善の努力を肯定的には捉えなかった。煩悩具足が人間の本質であり、その煩悩はどのような修業によってもはぎ取ることはでさないと考え、その上で、煩悩具足のままでの救いを見いだそうとしたのが親鸞であった。
 親鸞は『歎異抄』の第二段で、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし」と言っている。二〇年間、一生懸命に修業を積んだが駄目であった。相変わらず煩悩からは抜け出すことができず、私はもう地獄へ行くしかない、というのが彼の二〇年間の修業の結論であったのである。
 弥陀の前では私たち凡人の行為や心情には清浄なものはひとつもなく、ことごとく不浄であり罪過である。それが私たちの煩悩のせいであることに気がつかなければならない。それが親鸞の罪悪感であって、ここでいう悪人とは、その罪悪感に目覚めた人のことをいうのであろう。つまり「悪人正機」でいう「悪人」とはそのような私たちであり、また親鸞自身をも意味しているのである。
 この「悪人正機」の思想は、次の『歎異抄』の第九段によっても明確に感じ取ることができる。それを見てみることにしよう。

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそざ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられあることなれば、他力の非願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、裟婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

 唯円は親鸞に対して、信心が固まって極楽往生が決まっているはずなのに、念仏を唱えてもなぜ躍り上がるような喜びを感じないのだろう、と訴える。親鸞は、実は自分もそのような疑問を感じたことがあると答える。そして続けた。喜ぶべきことを素直に喜ぶことができないのは、煩悩がそうさせているからである。煩悩がそうさせているとすれば、私たちは煩悩具足の悪人であることの証拠である。弥陀は煩悩具足の悪人をこそ救うと誓われているのであるから、それによって私たちが救われるのは間違いない。だからこそ、弥陀の大悲大願は頼もしく思われ、煩悩具足の私たち悪人の極楽往生は決まっているのだと思いなさい。
 親鸞の『正信偈』のなかに、「不断煩悩得涅槃」という言葉がある。文字通り、煩悩をもったままで救われる、ということである。ここで親鸞は、従来の念仏の救いの論理と絶縁し、新しい救いの境地を見いだしたのであった。
 親鸞におけるこのような善人と悪人との関係、罪悪感に対応するものは、パウロのなかにも見ることができる。
 何よりもまず、パウロは、自己のなかに「罪悪感」を十分に自覚していた。『テモテヘの第一の手紙』には「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。「わたしは、その罪人のかしらなのである」(1・15)と書かれている。この「罪人」は親鸞の「悪人」に対応するといってよいであろう。そして「善人」に対応するものとしては「義人」があげられる。『マルコ福音書』には次のような記述がある。

 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(2・16-17)

 この義人と罪人とを分けるのは人間の行為である。そして行為を規定する基準は、旧約の世界では律法であった。モーセの十戒から始まった律法は、時がたつにつれて細分化され、イエスの時代には律法がユダヤ人の生活の隅々にまで浸透していた。人々の行為はすべて律法によって、厳しく規制されていたのである。だから義人というのは、そのような律法の規則を正しく完全に守っている人のことである。イエスはここでは、その義人を、病気ではない人に譬えた。そしてこの場合も、招かれるのは義人ではなくて罪人であったのである。
 すでに見てきたように、回心前のパウロはユダヤ教のなかでも律法を厳格に守ろうとするパリサイ派であって、自分自身のことを「律法においては義であった」と自信をもって述べている。それが、回心のあとでは、「私は罪人のかしらである」というようになる。義人から罪人へと百八十度の転換をしたのである。「罪人のかしら」とは、自分が一番罪深いということであろう。つまり罪悪感の強い認識である。それは、『ローマ人への手紙』の中では、次のように書かれている。

 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 (7・15-20)

 このように、かつて「法においては義」であったパウロは、自己の罪悪感を徹底させていって、やがて「罪人のかしら」という意識をもつようになった。そして、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と絶望の底まで落ちていった。それは親鸞の「いづれの行もをよびがたさ身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし」と同じ心境である。そして、その絶望の底から、絶望の底にあったゆえに、親鸞もパウロも、弥陀の慈悲とキリストの愛の光のなかで、遂には救いの確信を得るに至ったのである。

                    − 1993年10月15日 −



   

  (1) 梅原猛『仏教の思想』(下)角川書店、1988年、102頁、
   たとえば、『愚管抄』には次のよう な記述がある。
    又建永ノ年、法然房卜云上人アリキ。マヂカク京中ヲスミ
   カニテ、念仏宗ヲ立テ専念念仏ト号シテ、「タダ阿弥陀仏トバ
   カリ申スベキ也。ソレナラヌコト、顕密ノットメハナセリ」ト云ヲ
   云イダシ、不可思議ノ愚痴無智ノ尼入道ニヨロコバレテ、コ
   ノ事ノタダ繁盛ニ世ニハンジャウシテツヨクヲコリツツ....
 (2)梅原猛、前掲書、103頁。
 (3)西尾実『方丈記・徒然革』岩波書店、1957年による。
  29-32頁。
 (4)真継伸彦『親鸞』朝日新聞社、1988年、57頁。
 (5) 笠原一男『親鸞』日本放送出版協会、1988年、18頁。
 (6) 笠原一男、前掲書、22頁。
 (7) 笠原一男、前掲書、19-20頁。
 (8) 高史明『歎異抄』光村図書出版、1985年、71頁。
 (9) 親鸞・真蹟書簡による。増谷文雄「日本の仏教思想・
  親鸞』筑摩書房、1985年、230-231頁。
(10) 恵信尼とは親鸞の妻の法名である。破女は越後に生まれ
  た。越後に流罪となった親鸞と結ばれ、その赦免ののちに
  は関東に同行して、20年近くも苦楽を共にした。親鸞が京都
  に帰って隠棲し始めてからは、ひとり故郷の越後に帰って老
  後を養っていた。その間に親鸞は90歳の高齢で京郡で亡く
  なる。弘長2年(1262年)11月28日のことである。
   その臨終をみとったのは、二人の間に生まれた末女の覚
  信尼であった。彼女は父の亡き骸を荼毘に付したあと、越
  後に住む生母の恵信厄に父の訃報をこまごまと手紙で知ら
  せた。それに対する恵信厄の返書がこの「恵信尼文書」で
  ある。この恵信尼の手紙は、京都でも大切にされていたよう
  であるが、宝庫の奥にしまわれたまま忘れられていた。本
  派本願寺の宝庫から偶然発見されたのが大正10年になっ
  てからである。引用文は、増谷文雄、前掲書、338-339頁。
(11) 梅原猛、前掲書、106頁。
(12) 左古純一郎『パウロと親鸞』朝文社、1989年、13頁。
(13) 山本七平『聖書の常識』講談社、1985年、311-312頁。
(14) 山本七平、前掲書、311頁。
(15)国分敬治『パウロと親鸞』法蔵館、1984四年、36頁参照。
(16)当時、ローマ帝国は、各地のユダヤ人社会にある程度の
  自治権を認めていた。特にエルサレムの最高法院には、宗
  教的法規に関してユダヤ以外にまでその権限を及ぼすこと
  を許した。そして大祭司 は、この最高法院の長でもあった。
  しかしこの時代に、大祭司ないしは最高法院がユダヤ以外
  に在住するユダヤ人を逮捕したり、その引き渡しを要求した
  りする権限まで持っていたことを確証する材料は全くない。
  佐竹明『使徒パウロ』日本放送出版協会、1988年、
  63頁参照。
(17) この時も、イエスは霊体として現れているのであって、その
  イエスが生前通りのことばを使うのは、霊能力の世界では別
  に不思議なことではない。武本昌三「死と復活」注14。
(18) 本文は、高史明、前掲書、増谷文雄、前掲書からとった。
  「章」や「条」は、ここでは「段」で統一する。
(19)中村元『仏教辞典』岩波書店、1989年、13-14頁。
(20) 八木誠一・秋月龍眠『親鸞とパウロ』青土社、1989年によ
  る。26-27頁。
(21) 八木誠一・秋月龍眠、前掲書、27-28頁。
(22) 増谷文雄・遠藤周作『親鸞』朝日出版社、1979年、
  210-212頁参照。
(23) 田付実造『歎異抄を読む』日本放送出版協会、1988年、
  109-110頁
  参照。
(24) マリア・ヴィノフスカ (岳野慶作訳)『アウシエビッツの聖者
  コルベ神父』聖母の騎士社、1988年、267-287頁参照。