[生と死と霊に関する論文]


  ヨハネ福音書の成立について


   1.

  ヨハネ福音書は誰が書いたのか。その著者を明確に特定できるような資料はない。伝承では使徒ヨハネが著者であるとされているが、この見方にもいろいろと疑問が出されてきた。
  まず、この福音書自体、最初から「ヨハネの」福音書と呼ばれていたわけではなかった。そのように呼ばれるようになったのは、二世紀の後半になってからである。このことは、初代教会の諸伝承において、第四福音書と使徒ヨハネが密接に結びつけて考えられていたことを示している。その外的証拠となるのが、二世紀後半の『反マルキオン序文』、イレナエウスの証言、アレキサンドリアのクレメンスの証言、テルトウリアヌスの証言、ムラトリ断片などである。これらは、アジア、ガリア、エジプト、アフリカの各地方、およびローマの伝承を代表していると考えられる。*1
  このうち最も重要と思われているのがイレナエウス(Irenaeus)の証言である。その著『異端反駁論』第二巻の中には、「アジアにおける主の弟子ヨハネと親しい関係のあったすべての長老たちは、ヨハネがそれ(福音書)を彼らに伝えたことを証言している。ヨハネはトラヤヌス帝の時まで彼らの間に滞在していたからである」という記述が残されている。また第三巻には、「しかし、パウロによって創立され、ヨハネがトラヤヌス帝の時までそこに滞在していたエペソにある教会も、使徒たちの伝承の忠実な証人である」とも述べられているのである。さらに次のような詳細な言及も含まれていた。*2

 ポリカルプスも、使徒たちに教えを受け、主を見た多くの人々と親しくしていたばかりではなく、使徒たちによってアジアのスミルナにある教会の監督へ任命された。私たちも少年時代に彼を見て知っていた。なぜなら、彼は長生きし、かなりの老年になって栄光に輝く殉教の死を遂げたからである。彼は使徒たちから学んだことを絶えず教えたが、それはまた教会の伝承であって、それのみが真理なのである。このことについては、アジアの全教会および現在のポリカルプスの後継者たちが証言している。ポリカルプスは、ヴァレンティヌスやマルキオンや他の異端者たちとは比較にならぬほど、はるかに信頼 しうる確実な真理の証人であった。アニケトウスが監督の時、彼はローマを訪れ、多くの者を前記の異 端から神の教会に立ち返らせ、彼が使徒たちから受けたものは教会の伝承である唯一の真理であること を宣教した。

  ポリカルプス(Polykarpus)とは、イレナエウスの師である。イレナエウスはポリカルプスのことを使徒ヨハネの弟子であったと思い、自分は使徒ヨハネの孫弟子のつもりでいたらしい。こうして彼は、同じ著書の中で、他の福音書が書かれた後、「主の御胸によりかかっていた主の弟子ヨハネは、アジアのエペソにいた時、彼の福音書を出した」と、単純明快に、使徒ヨハネが主の愛弟子であり、そのヨハネは高齢まで生きてエペソに住み、そこで第四福音書を出したことを記述して残したのである。*3)
  しかし、このイレナエウスの証言については、その信頼性に多くの批判や疑問が投げかけられてきた。その主な理由は、新約聖書を初めとして、数多くの文書資料のなかに、使徒ヨハネがエペソに居住したことを示す有力な証拠が見いだせないことである。それに、この証言の中にもあるように、イレナエウスがポリカルプスに師事していたのは彼がまだ子供の頃であった。この子供であったイレナエウスが、師のポリカルプスの話のなかで彼が主の弟子ヨハネを見た、と聞いた時、その主の弟子が果してゼベダイの子のヨハネであったか、という疑問を持ったとは考えにくい。波多野精一は、「歴史研究などは夢にも知らざる一少年、批評的精神の極めて乏しき時代の一少年が、二〇世紀の学者の提出する問題を問題としたであろうか」と強い疑問を投げかけている。*4)
  このような証言はもう一つある。二世紀前半にヒエラポリスの監督であったパピアス(Papias)が書いたといわれているものである。幾つかの新約聖書のラテン語訳写本に含まれている『反マルキオン序文』に次のように述べられている。*5)

  ヨハネの福音書は、ヨハネが肉体をもって存在していた時、彼によって世に出され、諸教会に与えられた。それは、ヨハネの愛弟子であるヒエラポリスのパピアスという人が、彼の五つの書の中に記しているとおりである。彼はたしかに、ヨハネが口述するままに、忠実にこの福音書を書き記した。そして 異端者マルキオンは、その反論のゆえにヨハネから非難され、ヨハネによって退けられた。

  この文中のヨハネが使徒ヨハネであるとすれば、これは現存する文書としては第四福音書の著者を特定する最古の資料となるはずであるが、ヨハネとマルキオンが出会っていることは時代のずれがあって、信じがたい。マルキオンというのは小アジア出身で、極端なパウロ主義の立場から、一切のユダヤ的色彩、したがって旧約聖書そのものを否定し、一種の新しい文献集を編纂した人物である。それが紀元二世紀の初頭のことで、その時にはヨハネはすでにこの世を去っていた。*6) 当然のことながら証言としての価値は低い。そのために、「パピアスがヨハネの口述によって第四福音書を書いた」というのも、あまり信頼性はないということになった。結局、「ヨハネによる」福音書は宙に浮いた形になってしまったのである。*7
  それでは、福音書自体の中に手がかりを掴むことはできないであろうか。
  問題を複雑にしているのは、第四福音書のなかにも、使徒ヨハネについての直接の記述は一度もないことである。共観福音書にはヨハネに関するさまざまな記述があるが、そこからも手がかりは得られない。念のために共観福音書の記述からヨハネの人物像を浮き彫りにしてみると次のようになる。

  ヨハネはゼベダイの次男で、ガリラヤの海に釣り舟を持っており、仕事を手伝わせるために雇い人を使えるほどに裕福であった(マルコ一・一九ー二〇)
 彼の母はサロメで、このサロメはイエスの母の姉妹と思われる(マタイ二七・五六、マルコ一六・一)
 兄ヤコブとともに、私に従えというイエスの招きに従った(マルコ一・二〇)
 ヤコブとヨハネは、ペテロと漁師仲間であったと思われる(ルカ五・七ー一〇)
 イエスの弟子達のリストでは、常にペテロ、ヤコブ、またはヨハネで始められていることからもわかるように、彼は、イエスの内輪の弟子の一人であった。そしてイエスは、特にこの三人とは重要な場面でしばしば一緒にいる。(マルコ三・一七、五・三七、九・二、一四・三三)
 性格については彼は明らかに強い個性を持ち、野心的な人間であったと思われる。イエスは、彼と彼の兄にボアネルゲという名をつけたが、福音書著者はそれを雷の子という意味に理解している。
  ヨハネと彼の兄ヤコブは、極めて排他的で、非寛容であった(マルコ九・三八、ルカ九・四九)
 彼らの性格は非常に激しかった。エルサレムに旅をしていたとき、彼らを歓迎しようとしなかったためサマリヤの村を焼き払ってしまおうとしたこともある(ルカ九・五四)。
 彼らと母のサロメは、イエスの御国で、自分たちがその御座の右と左にすわりたいという大望を持っていた(マルコ一〇・三五、マタイ二〇・二〇)
 最後の晩餐の準備を命じられたのはペテロとヨハネであった(ルカ二二・八)

  これらからみると、ヨハネは使徒群の指導者の一人であり、内輪の一人であったことは間違いないが、少なくとも若いうちは、激しい野心的な、そして非寛容の性格であったらしい。*8 彼についてはこのほか、「使徒行伝」などにも若干の記述がある。これらもあげておくことにしよう。

  ヨハネはいつもペテロの伴侶のようで、自分からは決して話し出さない。彼の名前はいつも、使徒達のリストのはじめに書かれた三人の名前のひとつである(使徒行伝一・一三)
 彼は宮の美しの門で足の利かない男が癒されたときにペテロと一緒にいる(使徒行伝三・一以下)
 ペテロとともに彼は、サンヒドリンの前に連れ出された時、勇気と大胆さでユダヤ人指導者に立ち向かったので、彼らを驚かせた(使徒行伝四・一ー一三)
 ペテロとともに彼は、ピリポによってなされた活動ぶりを調査するために、エルサレムからサマリヤへ行く(使徒行伝八・一四)
 パウロの手紙には彼は一回だけあらわれる。ガラテヤ人への手紙二章九節においては、彼はペテロとヤコブと共に、パウロの働きを承認するように書かれている。

  共観福音書などにはこれだけの記述があるのに、なぜ第四福音書にはヨハネに関する記述が欠けているのか。「ヨハネの」福音書と呼ばれているにもかかわらず、その理由はわからない。この第四福音書には、わずかに、ヨハネと思われる「イエスが愛しておられた弟子」についての言及が次のように、四つの場面でみられるだけである。

  その弟子は、最後の晩餐の時にイエスの胸によりかかっている(一三・二三ー二五)
 イエスが十字架上で最後の息を引き取ったとき、マリヤを託したのはこの愛弟子であった(一九・二五ー二七)
 最初のイースターの朝、マグダラのマリヤが空になった墓から戻ってきたとき、途中で会ったのはペテロとこのイエスが愛しておられた弟子であった(二〇・二)
 その彼は、イエスが復活して湖畔に姿を見せた最後の顕現の時にもいる(二一・七、二〇)

 イレナエウスの証言以来、伝承の中では確かに、この愛弟子がヨハネであることは疑われたことがなかった。しかし、そうするとここで奇妙な問題が起こってくる。もし、ヨハネが本当にこの福音書を書いたのであれば、自分で自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」と言っていることになる。それを文中で繰り返すのは大変なうぬぼれであり、ヨハネがそのようなことを敢えてしたとは考えにくい。この福音書がヨハネの名を冠し、なお、このような矛盾を排除するためには、福音書が実際にヨハネのあかしを書き記したものであり、しかも同時に、執筆者は別にいた、とする可能性を考えなければならない。


   2.

  その可能性を示す一つの説はこうである。
  紀元百年頃のエペソには、ヨハネを指導者とする一群の人々がいた。ヨハネはすでに百才に近くなっていたはずである。そのヨハネを、彼らは聖人として仰ぎ、父のように愛していたであろう。その彼らが、年老いてヨハネが死ぬ前に、キリストと一緒に過ごした日々のことを聞き出し、書き留めておきたいと願ったのはきわめて自然のことと思われる。つまり、ヨハネが語ったことをまわりの信奉者の一人が筆記した、と考えるのである。それならばつじつまがあう。
 余命いくばくもないヨハネは、彼が理解するイエスの真意を口述したのであろう。かつてイエスは、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ一六・一二ー一三)と言ったが、そのときのヨハネには、その真理が十分に理解できていたに違いない。そのヨハネの真理に対する理解が、聖霊の助けによって、ほとばしり出たのがヨハネ福音書であった、というのである。*9
 それでは、その使徒ヨハネの理解を実際に筆記したのは誰であったのか。
 初代の教父たちが伝えるところによれば、エペソには同じ時期に、二人のヨハネが実際にいた。一人は使徒ヨハネであるが、もう一人は、長老ヨハネとして知られていた同名の別人である。ヨハネというのは、ユダヤ人にはきわめてありふれた名前であったから、二人のヨハネが同時に存在していても少しも不思議ではない。先にあげたパピアスは、この二人のヨハネについて重要な証言をしている。一三〇年頃に彼は『主の言葉の注釈』という五巻の書を著しているが、その中で、次のように述べているのである*10

  しかし私は、これまで長老たちから十分に学び、よく記憶している事がらをことごとく、私の解釈と合わせて書き記し、それが真理であることを保証することをためらわないであろう。私は、多くの人々がそうであるように、多く語る人々を喜ばず、真理を教える人々を喜んだ。また、他人の戒めを物語る人々を喜ばず、主から信仰によって与えられ、真理そのものから出ている戒めを語る人々を喜んだ。それで、もし長老たちに仲間であった人に出会うと、長老たちのことばについて――あるいはアンデレ、 あるいはペテロ、あるいはピリポ、あるいはトマス、あるいはヤコブ、あるいはヨハネ、あるいはマタイ、そのほかだれでも主の弟子たちが語ったことは何か――、そして主の弟子であるアリスティオンと長老ヨハネが語っていることを、私は問いただした。なぜなら、書物から得るものが、生きた永続的な声から得るものほど私に益をもたらすとは、私は考えていなかったからである。

  ここでパピアスは、明らかに二人のヨハネに言及している。初めのひとりは使徒のグループに属するヨハネで、「語った」と過去形で述べているが、二人目のヨハネは主の弟子の中にいて、動詞も「語っている」と現在形が使われているのである。
  この長老ヨハネは、エペソに近いヒエラポリスの監督で、周囲の人々から非常に愛されていたらしい。彼は紀元約七十年に生まれ、一四五年に死亡したといわれている。つまり彼は、実際に使徒ヨハネと生涯の一部を共に生きたのであった。
  周知のように、ヨハネの第二の手紙と第三の手紙は、「長老のわたしから」で始まっている。第二は、「長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ」であり(ヨハネ第二、一)、第三の手紙は、「長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ」(ヨハネ第三、一)となっている。ここでも、これらの手紙を実際に書いたのは長老ヨハネであり、それらの背後にある精神と記憶は、長老ヨハネが常に念頭においていた彼の師、すなわち、「イエスが愛された弟子」と彼が描いていた使徒ヨハネであった。*11 このようにみてくると、長老ヨハネこそが、第四福音書の筆記者であったということになる。そしてこれが、現在では最有力な学説であるという意見もある。*12
  これに対しては、しかし、異論がある。たとえば波多野は、長老ヨハネが第四福音書の直接の筆記者であることは認めているが、使徒ヨハネは福音書が書かれる七十年も前にすでに亡くなっているという。それが事実ならば、少なくとも長老ヨハネが使徒ヨハネの口述を筆記したというようなことはあり得ない。
 彼が使徒ヨハネの死亡の有力な根拠のひとつににしているのは、「ヨハネと彼の兄弟ヤコブとはユダヤ人に殺された」と書かれたパピアスの書の第二巻による。パピアスというのは、使徒ヨハネが晩年を送ったといい伝えられている小アジアで長い間監督の要職にあったから、使徒ヨハネに関する叙述の信頼性も高いと彼は考えた。 *13
  確かに「使徒行伝」には、「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した」(一二・一ー二)とあるから、ヤコブの死を疑うことはできない。しかしヨハネはどうか。使徒ヨハネも殺されたとしても、それがいつどこであったかは、パピアスも明確にしていない。ただ、下手人がユダヤ人とあるところから、殺されたことが事実ならば、パレスチナにおいて、七十年のエルサレム陥落以前であったとみることだけはできるであろう。パピアスは「使徒行伝」のこのヤコブと一緒にして、「ヨハネはユダヤ人に殺された」といっているのであるから、その死の時も場所も、ヤコブとはあまり隔たってはいなかったとも考えられる。しかしそれなら、ここでまた問題が起きる。第四福音書の口述者はいったい誰であったのか。波多野はそれを、使徒ヨハネではなく、もちろん長老ヨハネでもなく、筆記者のヨハネが創造したキリストの理想の弟子に、キリストの精神を語らしめたと、次のようにいうのである。

  それは著者の想像より生まれた理想の姿なのである。彼はこの想像的人物にことよせて己が福音書の特質を示したのである。彼は他の福音書の著者らにまして深く救主の人格と事業とを解し得たと信じた。彼は復活して今もなお生けるイエスと親しく交わり、その深き宗教的経験にもとづいて己が心眼に映じたままを写し出でた。彼にとっては、己が経験しまた描写した通りに救主の神髄を経験せる人々こそ、真にイエスを見、真に彼と親しく交わった弟子であった。地上の生活においてイエスに親炙したのを特に重要視するが如く見ゆる著者は、却って霊においては救主と親しむのをすべてに優って重んじたのである。かくて彼の心眼には、特にイエスと親しめる理想的の弟子の姿が映じた。彼の福音書はその弟子の著書として現れた。*14


   3.

  もちろん、この主張を真っ向から否定するような見解もある。たとえば、F.V.フィルソンは、使徒ヨハネが、「一世紀の初め、ユダヤ人たちによって殉教の死を遂げた」というのは、根拠薄弱な古代伝承にすぎない、と一蹴する。しかしそれは、ヨハネを第四福音書の著者とするためではない。それよりも彼は、この第四福音書の「イエスの愛しておられた弟子」は、そもそもヨハネではなく、ラザロであると主張するのである。*15
  この「イエスの愛しておられた弟子」が第四福音書にみられるのは、すでに指摘したように四つの場面だけである。初めに出てくるのは、イエスの地上生活最後の夜で、「弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた」(一三・二三)で、このように、名前を挙げずに弟子について言及するという形式は、これ以前にはどこにも見あたらない。次に出てくるのが、(一九・二六ー二七)である。ここでは、(このイエスの愛された弟子は)「イエスの母を自分の家に引き取った」となっている。ラザロの郷里ベタニアは、エルサレムから極めて近く、二マイルも離れていなかったから、この「愛弟子」がラザロと仮定しても、イエスの母を引き取るのに問題はない。
  しかし、それよりも、この福音書自体のなかで、イエスが特にラザロを愛していたことは、次のように、第一一章のなかで何度も明示されているのである。ラザロ以外では、ヨハネを含めて、そのように描写されている弟子はひとりもいない。

  姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。(一一・三)
 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(一一・五)
  「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」(一一 ・一一)
 イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」(一一・三五ー三六)

  この後、イエスは死んだラザロを実際に生き返らせる。そして、そのラザロは、イエスと共に、ベタニアで夕食の席にいた(一二・二)。彼はまた、キリストの偉大さを証明した生き証人でもあるために、弟子たちのうち、彼だけが、ユダヤ人指導者たちによって命をつけ狙われることになった(一二・九ー一一)。その上で、一三章に入ると最後の晩餐の席で、私たちは、「弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた」(一二・二三)のを知り、「その弟子は、そのままイエスの胸によりかかって」(一二・二五) いるのを見るのである。これらの一三章以下の「愛弟子」が名前を明示されていないとはいえ、急にラザロ以外の誰かである、としなければならない理由はない。つまり、ラザロこそが、イエスの愛弟子なのである。愛弟子がラザロであると考えて、一三章以下がそれ以前の描写との間に矛盾をきたすこともない。
 ラザロの家は、前述の如く、エルサレムの近郊にあったので、イエスが十字架に架けられて以来、イエスの母を自分の家に引き取った(一九・二七)。ラザロは、イエスによって死からよみがえらされたくらいだから、イエス復活の可能性を強く感知していたであろう。だから彼は、いち早く、空になったイエスの墓を見てイエスの復活を信じ(二〇・八)、さらにテベリヤの海辺に現れたイエスを、ほかの弟子たちが気付かないうちに「あれは主だ」と認めることができたのも不思議ではない(二一・七)。ラザロは死んだのに生き返らされたのだから、主が来られる時まで死ぬことはないという噂さを立てられたのも(二一・二三)、筋書きとしては自然である。
 このように見てくると、「イエスが愛された愛弟子」とは、ほかならぬラザロのことであるというフィルソンの主張は十分に説得力があるようにみえる。そして、第四福音書の結語となっている「これらの事を書いたのは、この弟子である」(二一・二四) にもし従うなら、ある意味でラザロが福音書の著者であると言わざるを得ない、と彼独自の見解を打ち出した。*16
 ここで「ある意味で」と断っているのは、ラザロは、この二一章が書かれた頃にはすでに死んでいたと思われるからである。「こう言うわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか』と言われただけである」(二一・二三)とあるのは、ラザロの死の事実を含蓄しているからだ、とフィルソンは言う。そして、そのラザロがなお、「著者」であるための可能性を、次のように三つあげている。*17

 (一)ラザロが一章から二〇章までを書き、彼の友人たちすなわち21-24における'私たち')が、彼の後二一章を付加した。
 (二)ラザロの友人もしくは助手が、彼の名によって福音書全体を二つの段階に分けて書いた。最初一章 から二〇章までをラザロの生存中に、次に彼の死後まもなく二一章を。
 (三)もし私たちがラザロはキリストのための殉教者となったという一二・一〇の暗示をまじめに受け取 るなら、たぶん彼は使徒的教会の初期に死んだと推定すべきであろう。そこで私たちはこう言いうるであろう。すなわち、愛弟子ラザロのある忠実なエルサレム中心の弟子が、ラザロの名によってそれもたぶんラザロの死後数年して一章から二〇章までを書き、さらにしばらくして誰かの手で二一章が付加された。けれどもその頃ではもはや教会は愛弟子の身元も知らず、すでにゼベダイの子ヨハネと彼を同一視しはじめていた。


   4.

 第四福音書二一・二四には、「これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている」とある。「この弟子」、「彼の」と言い、「わたしたちは」という以上、この福音書は明らかに愛弟子以外の誰かが口述または筆記していることを示している。少なくともこれらの語句は、決して愛弟子のものではない。そしておそらく、二一章全部にわたって、あるいは福音書全体において、愛弟子以外の誰かが、その弟子のあかしを書きとどめているのである。
  さらに考えられることは、この章句を書いた人は、その愛弟子をよく記憶しており、彼のあかしを伝達するキリスト者のグループに属している。だからこそ彼または彼らは、愛弟子の名において与える彼らの証言は真実であり、信頼すべきものであることを熱心に述べているのである。古代では著述にあたって、筆記者や助手を使うことが広く行われていたのであって、そのことを考慮に入れれば、この場合、ラザロを著者とすることも、あながち不自然ではない。
  このような、ラザロをイエスの愛弟子とみたうえでの仮説は、確かにそれなりに説得力はあるが、問題は、それについての初代教会の外的証拠が皆無であることである。もしラザロが愛弟子であったなら、どうして使徒ヨハネが愛弟子であったという伝承が生まれてしまったのか、それを説明することができない。伝承との調和からいえば、やはり、ゼベダイの子の使徒ヨハネが愛弟子であることが最も自然な解釈であるが、これはすでに見てきたように、福音書自体の記述内容と矛盾することになり、結局は、この愛弟子は最後まで確定することは難しいようである。しかし、この愛弟子が、ヨハネであるにせよ、ラザロであるにせよ、福音書の筆記者は別にいたことだけが確かな事実として残る。
  その筆記者の詮索をもう少し続けてみよう。
  まず、福音書の序文のなかで、著者は自分を含めて、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た」(一・一四)と述べている。この「わたしたち」は当然、筆記者自身を含めたイエスの生涯の直接の目撃者たちと考えるのが自然であろう。だから福音書の筆記者は、イエスのそばにいて直接イエスの生涯の一部を見ることができた者のひとりであったことになる。
  次に、一九・三五には、十字架につけられ、すでに死んでいるイエスの脇腹をローマ軍の兵士が槍で突き刺したとき、血と水が流れ出したのを目撃している者が出てくる。「それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信じるようになるためである」のなかの「それを見た者」である。この目撃者は誰であったか。
 周知の通りこの十字架のそばには、愛弟子がイエスの母とともに立っていて、イエスから母の世話を託されている(一九・二六)。そして、この愛弟子は、その時から「イエスの母を自分の家に引きとった」(一九・二七)のであった。それならばこの愛弟子は、それ以上十字架の下には留まっていなかったのではないか。死刑が執行された後も、まだしばらく十字架の下にいたと考えるより、イエスの母のショックを少しでも和らげるために、できるだけ早くイエスの母を連れて死刑の現場からは立ち去ったと考える方が自然である。
 もしそうであるなら、この愛弟子は、「それを見た者」ではない。むしろ、自分が真実を語っていることを知っている「その人」こそが愛弟子であり、「それを見た者」は愛弟子を助けて、第四福音書を書き上げた筆記者であるという見方も可能になってくる。すでにみてきた「これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている」(二一・二四)の「わたしたち」に含まれている「筆記者」の存在も、この見方とは矛盾することはない。
  これらの内的証拠の検討から、浮かび上がってくる筆記者のイメージを、増田誉雄らは、次のようにまとめた。

 (一)彼はイエスの愛弟子とは別人である。
 (二)彼はイエスの地上生涯、特にその十字架の死の目撃者であった。
 (三)彼は愛弟子と親しい関係にあり、愛弟子のかけがえのない証言を文書化する仕事を助けた。彼は おそらくエルサレム出身のユダヤ人で、福音書の記述にみられるように、パレスチナの地理に通じ、 紀元七〇年に破壊される前のエルサレムの状況を熟知し、さらにユダヤ教にも通じでいた。*18

  結局このように、第四福音書の著者はユダヤの地誌に通暁したユダヤ人キリスト者という程度で、それ以上の確証を得ることは無理のようである。その執筆の場所についてもエペソが確認されているわけではない。従来からのエペソ、アレクサンドリア説に対して、シリアから小アジアにかけてのかなり広範囲な地域を想定する説もあることも、公平のためにつけ加えておかなければならないであろう。*19 


   5.

  ここで、その内容の検討に入ろう。
  この第四福音書はギリシア語で書かれている。イエスの死後三〇年くらいで、つまり紀元六〇年くらいまでにすでに、キリスト教は小アジアとギリシア全土に広がり、ローマに達していた。紀元六〇年までに、ユダヤ人キリスト者一人に対して、一万人のギリシア人キリスト者が教会内にはいたといわれている。*20 つまり、教会のメンバーの大多数はいまやユダヤ人教会のものではなく、ヘレニズム世界に育った人々であった。そのためにキリスト教は新しく言い直される必要があった。またギリシア人の世界でもひろく受け入れられるように、この福音書はギリシア語で書かれなければならなかったのである。
  問題はそればかりではなかった。ギリシア民族は世界的な大思想を生み出してきた偉大な民族である。彼らは、キリスト教に興味を持ったとしても、自分たちの偉大な思想をユダヤ的思考の枠組みの中で再構成することには困難を感じたに違いない。ユダヤ教を経由することなく、いわばユダヤ教によって回り道させられることなく直接にキリスト教の救いに至る道はなかったであろうか。ギリシア語で書かれた第四福音書は、その要請にも応えなければならなかった。*21
  もともとギリシア人には、「ロゴス」という概念があった。それはギリシア語では、言葉と理性の二つを意味していた。ギリシア人はこの世界と宇宙に目を凝らし、荘厳ですばらしく、また信頼に足る秩序があると考えた。昼夜は誤りなく規則的に訪れ、一年はその季節の変化を一定に保ち、星や惑星も定まった軌道を少しも外れることなく動き続ける。大自然を支えているのもこのような不変の法則である。そして、この不変の法則を生み出したものこそが彼らにとっては神のロゴスであり、全世界・宇宙の壮大な秩序を維持しているのが神の理性なのである。
  奇妙な一致であるが、その概念は紀元前五六〇年頃にエペソで生まれたとされている。*22 当時エペソには哲学者ヘラクレイトス(Heraclitus)がいた。よく知られているように、彼の基本的な考え方はこの世界のすべてのものは時事刻々変化しているということであった。つまり万物は流転する。だからたとえば、私たちは同じ川に二度入ることはできない。その川は常に流れ続けており、二度目に入った川の水は最初の時の水と決して同じではないからである。
  確かに万物は流転する。しかしそれならばなぜ世界は完全な混沌状態ではないのか。それは万物の流転がすべて一定の法則のもとに生じ、秩序立てられたものであるからでる。そしてその法則を支配し、秩序を与えているのがロゴスであり、言葉である。またそれは神の理性でもある。
  このことは人間の生き方にも当てはまる。私たち個人個人に思考を促し、善悪の相違を教えるものは何か。私たちに正しい選択を行わせ、真理を真理と認めさせるものは何か。それも私たちの中にある神の理性である。ヘラクレイトスにとっては、自然界のすべてはロゴスによって生じ、かつ流転し、人間個人においては、ロゴスが真理の判断者であった。ロゴスとはつまり、世界とすべての人間を支配している神の精神にほかならない。このようなヘラクレイトスの考え方を少しずつ押し進めていって、ギリシア人はついに、世界を創造し、人間に真理を判断せしめるロゴス、言葉、神の理性という概念を持つようになったのである。
  ギリシア人が持っていたもう一つの概念は「二つの世界」である。彼らはいつも二つの世界を考えていた。一つは自分たちが住んでいるこの世であるが、実はそれは影の世界である。それは模倣の世界であり、非実在であって、実在と真実の世界は別にある。それが神の世界である。そしてどのようにしてこの実在の神の世界に入っていけるかということが、ギリシア人たちの頭を捉えて離さなかった人生上の大問題であった。
  第四福音書の筆記者は、イエスの存在とその教えこそがそれに応えられるものと考えていたに違いない。ギリシア人のいう神のロゴスは、人間イエスにおいて地上に現れたのである。神の理性とはイエスの精神にほかならない。そして、イエスによってのみ人間は、影の世界から実在の世界へ、すなわち、永遠の真理へと入っていくことができる。つまりイエスは、神の創造的な生命と光を与える言葉であり、世界を創造した神の力でもある。そのイエスが世界を保持する神の理性として、人間の形を取って地上に来られた、というのがこの筆記者の確信であった。そして、そのうえで「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書きはじめたのであろう。この言(ことば)は、まさにギリシア人のロゴスであった。
  第四福音書のこの冒頭の部分は、極めて重要であり、深い意味を持っている。ここで筆記者は言葉に関して、つまりイエスに関して、三つのことを言っている。およそつぎのようなことである。

 (一)言葉はすでに事物の最初にあった。言葉は被造者の一つではない。言葉は創造以前にあった。つまり、言葉は時間のうちに存在するようになった世界の一部ではない。言葉は永遠の一部であり、時間と世界が造られる以前に神とともにあった。このように彼は、いわゆるキリストの「先在」として知られているものを考えていたのである。
 (二)この筆記者はさらに、言葉は神と共にあったという。これにより彼は、言葉と神との間には極めて親密な関係があることを言おうとしている。つまり、イエスと神との間には極めて親密な関係がある。神がどのような方であり、人間に対してどのよに愛の精神を注ぎ込もうとしているかを、真に理解しているのはイエスだけである。それゆえに、イエスのように神の愛と精神を表現できる者はほかにはいない。
 (三)最後にこの筆記者は、言葉は神であったという。これは言葉は神と同一という意味ではない。言葉は神と全く同じ人格、素質、本質を持っていたという意味であろう。従ってこれは、イエスが神と同一人物であったと言っているのではない。イエスが精神において、実在において、神と同じであり、私たちがイエスのうちに神はどのような方であるかをみることができると言っているのである。

  そのうえで、彼は信仰の大切さを説いた。信仰とはまず、イエスが神の子であることを知ることである。そして、イエスのいうことがすべて真理であることを信じて、その真理の上に私たちの生き方を全的にゆだねていかなければならない。


   6.

  ところで、第四福音書を読んでみると、その内容は共観福音書と比べて大きく異なっていることに気がつく。
  顕著な違いは、この福音書では他の福音書に含まれている多くの叙述を省略してしまっていることである。たとえば、第四福音書にはイエスの誕生、バプテスマ、荒野の誘惑などの記述はない。また、最後の晩餐、ゲッセマネ、昇天についても何も語っていない。悪魔や悪霊にとりつかれた人々に対するいやしの言葉もない。さらに顕著なことは、イエスのたとえ話がひとつも記載されておらず、共観福音書では重要な部分を占めるイエスが語られた説話にも、一切触れてはいない。
  それだけではない。より深刻な問題は、第四福音書にみられるイエスの生涯と公的活動についての記述が、共観福音書としばしば矛盾する、ということである。具体的には次のような点である。
  まずはじめに、第四福音書はイエスの公的活動の開始について違った記録をのせている。
  共観福音書においては、イエスが説教者としてあらわれたのはバプテスマのヨハネの後であった。「さてヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えられた」(マルコ一・一四、ルカ三・一八、二〇、マタイ四・一二)。しかし、第四福音書においては、イエスの公的活動とバプテスマのヨハネの活動とは重複していて、しかもその期間はかなり長い。(ヨハネ三・二二ー三〇、四・一ー二)
  つぎに、第四福音書はイエスの公的活動の舞台についても共観福音書とは違った記録を載せている。
  共観福音書では、イエスの宣教の舞台はガリラヤであり、エルサレムにはイエスの生涯の最後の週にいたるまで現れてはいない。ところがこの福音書では、イエスの公的活動の主舞台はエルサレムとユダヤであり、ガリラヤには時折足を運んでいるにすぎない(ヨハネ二・一ー一二、四・三五、五・一、六・一、七・一四)。ここでは、宮清めの行われたときにあたる過越の祭の期間中も、エルサレムにいたことになっている(ヨハネ二・一三)
  また、名前の記載されていない祭の時にも、イエスはエルサレムを訪れている(ヨハネ五・一)。イエスは仮庵の祭のためにもそこにおり(七・二、一〇)、冬季の宮清めの祭にもエルサレムにいる(一〇・二〇)。事実、第四福音書によれば、イエスはその祭の後、エルサレムを一度も離れることはなかった。第四福音書では、一〇章以後、イエスはずっとエルサレムにいるが、そうするとイエスは宮清めの祭の冬から、十字架につけられた過越の祭の春までの数カ月滞在していたことになる。ところが、たとえばマタイ、ルカの場合はそうではない。イエスは最後の週に初めてエルサレムに来て、次のように嘆くのである。

  ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことだろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった。(マタイ二三・三七、ルカ一三・ 三四)

  このイエスのことばは、イエスがそれ以前に再三エルサレムを訪れていたことを前提としている。イエスが何度もエルサレムに来ていて、訴えていた事実がなければこのような話し方はできない。この点からみれば、明らかに第四福音書は正しく、共観福音書の記述には無理がある。事実、第四福音書と共観福音書との相違に関する最も古い説明者の一人であるといわれるエウセビオスが取り上げているのも、この活動舞台の相違であった。*23
 エウセビオスによれば、彼の時代、紀元三〇〇年頃には、四つの福音書に対して、次のような理解が一般的であった。
  マタイが最初に宣教したのはヘブル人であったが、別の地に赴いて布教することになった。マタイは出発前にイエスの生涯の物語をヘブル語で書き、自分がいなくなってもイエスの教えがヘブル人たちの間に浸透していくようにした。マルコとルカがそれぞれ福音書を著した後も、ヨハネは依然として口頭でイエスの教えを伝えていた。しかし、すでに世に出まわっている三福音書には、イエスの公的活動の初めの頃の記録に欠けているものがあることがわかってくる。そこで第四番目の福音書でその欠如部分を埋めていくことが要請された。このようにして書かれた第四福音書は、他の三福音書がイエスの生涯の後半部分に焦点を当てているのに対して、キリストの布教活動の最初の部分をも含んでいるというのである。*24 活動舞台の相違がでてきたのも、ここからである。
  さらに、第四福音書は、イエスの公的活動の期間についても違った記載をしている。
  他の三福音書では、一見したところ、イエスの公的活動の期間は一年しかないような印象を受ける。たとえば、過越の祭について述べられているのは一回だけである。第四福音書には三回の記載があって、一つ目は宮清めの時(二・一三)であり、二つ目は五千人のパンの奇跡の直前(六・四)である。そして最後に、イエスが十字架に架けられたときにも過越の祭は出てくる。当然これらの過越の祭は、別々のものであったろうから、これだけをみても、イエスの公的活動の期間は二年ないし三年でなければ説明がつかない。ほかの例でこれをみてみよう。バークレーはつぎのように指摘している。
  マルコには弟子たちが麦の穂をつんだ記述がある(二・二三)。その季節は春であったに違いない。それからしばらくイエスの布教の話が続いたあと、五千人のパンの奇跡の話になると、人々は青草の上に坐っていた(六・三九)。その季節はこれも春であったろう。そうすると、この二つの春の間には一年の時が流れていたはずである。この後さらに、ツロとシドンへの旅があり、イエス変貌の出来事がその後で起こっている。イエス変貌の出来事が起こったのは仮庵の祭りの時であり、それでペテロが小屋を三つ建ててそこに留まりたいと願った、と考えるのが最も自然である。そして、その時期は十月の初めになるというのである。*25
  この出来事とその後の四月の最後の過越の祭との間にも半年の期間があるわけだから、イエスの公的活動期間の捉え方は、やはり第四福音書の方が正しい。


   7.

  相違はこれらばかりではない。福音書の書き方や内容においても顕著である。
  まず第一に、第四福音書は共観福音書に述べられていることの多くを省略しているが、同時に、共観福音書が伝えていない事実をも多く含んでいる。
  たとえば、ガリラヤのカナにおける婚礼(二・一ー一一)、ニコデモがイエスのところへ来たこと(三・一ー一五)、サマリヤの女(四)、ラザロの復活(一一)、イエスが弟子の足を洗ったこと(一三・一ー一七)、一四章から一七章までの間にところどころ挿入されている精霊や慰め主についてのイエスの説話などを伝えているのも第四福音書だけである。
  また弟子たちの描写についても、第四福音書では生き生きとして精彩を放っている。トマスが語っているのも(一一・一六、一四・五、二〇・二四ー二九)、アンデレがその本領を発揮しているのも(一・四〇ー四一、六・八ー九、一二・二二)そうであり、また、ピリポの性格を覗き見ることができるのも(六・五ー七、一四・八ー九)、ベタニヤでイエスに香油を注いだ女に対して、ユダの詮索的な抗議が取り上げられているのも(一二・四)、第四福音書においてだけである。
  さらに第四福音書の筆記者は、何気ない叙述のなかにしばしば、その場に居合わせた人でなければ書けないような具体的で詳細な事実を含めている。

  たとえば、子供がイエスに持ってきたパンは大麦のパンであった(六・九)
 弟子たちが嵐のなかを湖を舟で渡っていたときイエスが来たが、その時の彼らが湖畔から漕ぎ出していた距離は四・八キロから六・四キロであった(六・一九)
  ガリラヤのカナでは、石の水瓶が六つ置いてあった(二・六)
 また、いばらの冠について語っているのはこの筆記者だけであるし、イエスが死んだとき、四人の兵卒がくじをを引いたのは、縫い目のない下着であった(一九・二三)
 この筆記者は、さらに、ベタニヤで香油が注がれたときにはその香りが家の中いっぱいに漂っていたことまで覚えているのみならず、イエスの死体に塗るために使われた没薬と沈香の正確な目方まで知っている(一九・三九)

  このほか、パレスチナとエルサレムについての詳細な知識についても、共観福音書との比較で注目せざるをえない。
  第四福音書の筆記者は宮を建てるのにどれくらいかかったとか(二・二〇)、ユダヤ人とサマリヤ人が絶えず反目していること(四・九)を知っている。ユダヤ人が女性をさげすむこと(四・九)や、ユダヤ人が安息日をどのようにみているか(五・一〇、七・二一ー二三、九・一四)などについてもこの筆記者の記憶は詳しい。
  パレスチナの地理についての知識の深さも例外ではない。第四福音書の筆記者は二つのベタニヤを知っている。そのひとつはヨルダンの向こう側にある(一・二八、一二・一)。彼はまた、ベッサイダは弟子の一人の故郷であり(一・四四、一二・二一)、また、カナはガリラヤにあり(二・一、四・六、二一・二)、スカルはシケムの近くにあること(四・五)を知っている。
  エルサレムの町については、通りの呼び名にいたるまで精通しているように思われる。彼は、羊の門とその近くの池と(五・二)、シロアムの池(九・七)、ソロモンの廊(一〇・二三)、ケデロンの谷(一八・一)、ガバタとよばれる敷石(一九・一七)、などを知っている。エルサレムは紀元七〇年に破壊され、この第四福音書が書かれたとみられるのが紀元一〇〇年頃であることを考えると、*26 この筆記者は何十年も前の記憶をたどりながら、しかもこれだけ詳細に描写しているのである。
  波多野によれば、さらにこの福音書の構成で特徴的なことは、イエスの説話が主眼になっていることにある。そして、他の福音書と違う点は、ここではいつもイエスが自分自身を説話や弁論の対象にしていることだと、と彼はいう。*27
  この福音書の中で、イエスが繰り返しては長々と論じているのは、常に自分の本質、根源、天なる父との関係、弟子やユダヤ人との関係などである。その語り方はいかにも類型的で、相手がサマリヤの女であろうが、パリサイ派のニコデモであろうが、弟子であろうが、その区別に頓着はしない。これらのことから、第四福音書のなかのイエスの説話は、実はその読者に対する筆記者自身の説話であるとする見方がでてくる。この福音書の筆記者は、結局、イエスの説話の形で、この福音書を読むものに対して自らイエスの精神を教えることを目指したとも考えられるのである。
  第四福音書は、奇跡の描写にも特徴がある。共観福音書と比べてみても、第四福音書の筆記者はイエスの奇跡を特に重視していることは明らかである。たとえばマルコも、イエスがヤイロの娘を生き返らせた事実を語っているが(五・二二以下)、それは死後まもなく起こった死人の復活であった。第四福音書のラザロの復活(一一章)の場合は死後四日も経ってから起こったことで、その時の死骸は既に腐敗して悪臭を放っていた。この福音書の筆記者は念入りにその奇跡を強調する。このラザロの死が決して仮死でなかったことを、「イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った」と述べ、さらにイエス自身の「ラザロは死んだのだ」という言葉をもつけ加えている(一一・一三ー一四)
  イエスが盲人を治癒した話でも同様である。他の福音書でも盲人を治癒した話は載せているが、第四福音書の場合は生まれながらの盲人を直しているのである。生まれつき盲人であることを、念入りにいろいろな角度から、その盲人の両親の証言まで入れて強調している(九・一以下)。奇跡とは、この福音書の筆記者にとって、神の子のみ業と栄光のしるしであった。ラザロの復活はイエス自身が真の生命であるしるしであり、生まれながらの盲人の治癒では、イエスが光そのものであることのしるしなのである。このように奇跡を強調することによって、筆記者はイエスが説いてきた永遠の真理を伝えようとしているのに違いない。
  しかし一方では、この筆記者の記述にも問題がないわけではない。詳細で鋭敏な筆致も、時には急に記述が首尾一貫性を欠いて不鮮明になる。たとえば、ユダヤ人の指導者の一人であるニコデモが夜イエスのところへ来たときの対話では、イエスはいろいろと説話を続けるが、いつのまにかニコデモの存在は希薄になり、ほとんどイエスの独白のような体裁になる。そして、ニコデモがイエスの話を聞いてどのように感じたのか、どのような影響を受けたのかは一切不明のままで終わってしまう(三・一以下)
  ギリシア人の来訪のところでは、ピリポにイエスとの面会の取りなしを頼むのだが、そのことを聞かされたイエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」といった後で、あの有名な「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という言葉を発する。そしてギリシア人との面会については最後まで何も触れられてはいない(一二・二〇以下)
  このほか、六の三によれば、すでに山の上にいるはずのイエスが、六の一五になって、また山へ登ることになっている。三の二二では、イエスが洗礼を授けたとある。しかし、四の二二では、イエスは洗礼を授けなかったと、明確に否定する。一二の四以下でイエスは大声を出して、「わたしは光としてこの世にきた。それはわたしを信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである」と、滔々として真理のことばを述べ伝える。しかし、その前にイエスはそれを聞いているはずのユダヤ人の群衆から「身をお隠しになった」(一二・三六)ままであるので、聞き手は誰もいなかったことになる。
  このような一見奇妙と思われる描写の例で、重要なのはイエスとユダヤ人との関係についての記述である。
  共観福音書にみられる人間模様は、ユダヤ人社会の縮図である。そこには学者も無学文盲の下層民も、パリサイ人や税吏や罪人も、老いも若きも、女も子供も、あらゆる階層の人々がイエスを中心にして、さまざまな係わり方で登場する。イエスはそれらの人々を前にして、時には嘆き、時には励まし、時には慰め、ひたすらに愛を注ぎながら真理を説き続けてきた。しかし、このようなユダヤ人の種々相とそれに対応するイエスの熱情は、第四福音書のなかにはみることができない。ここでみられるのは、単なる「ユダヤ人」だけであり、イエスでさえ弟子に向かって、弟子以外の同国人をユダヤ人と呼んでいる(一三・三三)。自らがユダヤ人でありながら、ユダヤ人をこのように呼ぶ理由は何か。その言い方によって一つの意味が強く示唆されているのである。それは、ユダヤ人の不信仰にほかならない。そして、この第四福音書においては、イエスはユダヤ人と対立し、その対立の中で、他の福音書にみられるような救い主としての面影が薄れているようにさえ見えなくもない。
  このことからも、この第四福音書の著者がヨハネではないといえるであろう。イエスと起居を共にし、すぐ近くでイエスの愛の姿を見てきたはずのヨハネでは、このような記述の仕方は考えにくい。筆記者は別にいて、実際に起こった事実よりも、己の信じるところによって、キリストの真理を教えることに主眼をおいていたと考える方がつじつまが合う。つまり第四福音書は、波多野のいうように一定の傾向と目的をもつ神学書または説教書であった。その筆記者は読者を熱心に教え導かんとするあまり、しらずしらずに自らも直接、読者に対して、教会堂における説教者の口調で呼びかけてもいる。*28


   8.

  このように、第四福音書の描写によれば、キリスト教とユダヤ教とはイエスの生前からすでに対立関係にあり、イエスがキリスト(メシア)であったかどうかについて激しく争ってきたように見える。パウロの説教によってキリスト教がユダヤ教を超越する新宗教であるという新しい自覚を得てからは、キリスト教の伝道は格段の進歩を示し、ユダヤ教の切り開いた地盤をさえ浸食するようになっていた。当然のことながらユダヤ教徒の反感は高まる一方であった。彼らはキリスト教徒を敵対者とみなし、あらゆる手段を尽くしてその非難迫害に努めていたのである。第四福音書はこのようなユダヤ教徒の非難をはねのけるための対応手段として世に出されたという見方も、あながち理由のないことではない。*29
  ユダヤ人はイエスとバプテスマのヨハネとの関係を捉えて非難の材料にした。ユダヤ人の言い分はこうである。イエスは自ら罪の許しの必要を感じていたからこそヨハネのもとに行ったのではないか。またバプテスマを受けたのは、キリストがヨハネの弟子になったことを意味する。そのようにヨハネより小さいキリストがどうしてメシアでありえようか。これに対してなんと答えるか。第四福音書の筆記者はその反論を、パブテスマのヨハネに語らせたのである。「わたしはキリストではない。わたしは、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である。わたしは水でバプテスマを授けるが、あなた方の知らないかたが、あなた方の中に立っておられる。それがわたしの後においでになる方であって、わたしはその人のくつの紐を解く値打ちもない」(一・二〇ー二七)
 奇跡もまたユダヤ人の非難の的であった。彼らはイエスの奇跡を否定はしなかったが、それらをイエスだけがなしうる奇跡とは認めなかった。特に悪鬼の駆逐とよばれる精神的医療のようなものは、イエスでなくても能力者は他にも沢山いる。それだけでは不十分であると論じた。第四福音書では、これに答えうるように、悪鬼の駆逐のようなものは取り除き、奇跡の種類が厳選された。そのために、ここで取り上げられた奇跡の数は多くはないが、その内容は共観福音書に比べてみてもはるかにその神秘性は強い。ここでは、ラザロの再生など、イエスでしかなし得ない奇跡のみが明確に示されたのである。
  しかし、最大の難点はイエスの死であった。十字架にかけられて死ぬということは、ユダヤ人にとってはメシアとは全く相いれぬ観念であった。ローマ人によって犯罪者として殺されたものがメシアであるはずはない。イエスが本当にメシアならば、なぜユダのようなものを弟子に加え、しかもその裏切りを避けることができずにたやすく捕縛されてしまったのか。メシアならば自らの力で死を追い払うこともできるはずではなかったか。
  この批判に対して第四福音書の筆記者は、まずイエスの死が犯罪者の死ではないことを示した。あのピラト審問の場面では、ピラトでさえイエスの無罪を認めていたことを書き、彼はただユダヤ人の凶暴を恐れてイエスを救い得なかったこと、イエスは全く罪がなかったにもかかわらず、真理に暗いユダヤ人の妄想と狂気こそがイエスを死に追いやったことを明確に示そうとした。次のようにである。

 するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」。ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」。
 ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、もう一度官邸に入ってイエスに言った、「あなた は、もともと、どこから来たのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。
 そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。
 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの 人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルに背く者です」。
 ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出し行き、敷石(へブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。(一九・四ー一三)

  その上でさらにこの福音書の筆記者は、イエスの死の意味を述べ伝えようとする。イエスは単に罪がなかっただけではない。イエスは自分の死を正確に予見していた。イエスは死を避けることのできない運命としてそれに屈したのではなく、人類の救いのために神の定めた道を自ら選んだのである。イエスは縛吏に捕えられたのではない。彼らをして捕えさせたのである。殺されたのではない。自ら自由に死を選んだのである。それをこの福音書の筆記者は、次のような荘厳なイエスの言葉で伝えている。

 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである。(一〇・一七ー一八)

  このように考えてくれば、第四福音書の目的の少なくとも一部は、不信仰なユダヤ人との論争にあったことは明らかである。*30 先に出ていた共観福音書はユダヤ人にさまざまなイエス攻撃の口実を与えた。その矛先を立派に受けとめ、改めてイエスの真理を教えていくことが、新たに四番目の福音書を書かなければならなかった動機の一つであったともいえるであろう。


   9.

  このように、第四福音書は共観福音書とは、その目的までを含めてさまざまに異なる。なかでも特徴的なことは、第四福音書には、共観福音書にある多くの説話や言説がほとんど取り上げられていない。ある解説者は、第四福音書のわずか八パーセントが共観福音書と並行するにすぎず、その他のものは新しい資料であると評価した。*31
 第四福音書はこの新しい資料を特別な主題に集中させているようにみえる。そしてそれは、すぐれて霊的なものになった。二世紀のアレキサンドリアのクレメンスも、第四福音書の筆記者は、共観福音書が「肉体的」であることを認めて、最後に「霊的な福音書」を書いたのであると証言している。*32 したがってこの福音書では、イエスによってなされた業の著しい多様性を語り、また多数の主題についてのイエスの教説を述べる代わりに、イエスの人格に焦点を当て、信仰と生活に対するイエスの意味の上に、たえず注意を喚起しようとしている。二〇ー三一において、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子であると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と明白に述べているとおりである。
 フィルソンは、その第四福音書の特別の主題を次のように三つに集約した。*33

  (一)  本書はイエスが誰であったかを明らかにしようとしている。
  イエスは神の子であり、人類に対する神のみ業の偉大な行為者である。第一章の中だけでも、ロゴス、神、生命、光、子、メシヤ、主、神の子、神の子羊、ラビ、イスラエルの王、人の子などの名称でイエスを呼んでいるが、これらはイエスの持つ意味を信仰者に対して明瞭に示すためである。
  多くの象徴的語句はまた、イエスがいかに人類の師であり、人間の魂の救済にとって不可欠であるかを示唆する。生命のパン、世の光、羊の門、よい羊飼、復活・生命、道・道理・生命、まことの葡萄の木などがそうである。この福音書の中では、イエスのこの世における独特の位置が明らかにされ、救い主としての全体的な業もまた強調される。イエスにおいて肉体をとったみ子は、すべてのものの創造と支配に関わる父なる神の能動的な代理者であった(一・三ー 五)。イエスは人間に生命を与え、その生命の中で彼らを支えようとする。イエスこそは救い主・生ける主であり、さらにすべての人の審判者になるであろう。この神の子キリストの重要かつ適切な業は、永遠から永遠にいたるのである。
  (二)  この福音書は、イエスが何を人類に与えようとしているかを告げている。
  それは、一語でいえば生命である。イエスは人類のために命を与えようとしていることを、「永遠の生命」という言葉で繰り返し説いているのである。第四福音書は、キリストの到来とその業において、すでに新しい世は始まったという新約聖書の認識を反映し、キリストを信じることによって信仰者は神とともにこの世で永遠の生命に入り、来るべきすべての世においても、その生命のうちに存続することを強調する。このように信仰者においては、永遠の生命とは現在の恩寵であるのみならず未来への特権でもある。そしてその特権への道は、自ら目覚めて神を知ることにある。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(一七・三)と、それを本福音書では、私たち強く訴えかけている。
  (三)  この福音書では、キリストの業を通して人がいかにしてこの永遠の生命を受け取るかを語る。
  その道は、イエスは神の子であると信じる(二〇・三一)ことであり、キリストのうちに留まり、彼の戒めを守り、同じ信仰を持つ人々と共に愛に生きることである(一五・四、一〇、一二)。これは心からの真実の信仰でなければならない。それは口先だけの告白ではなく、イエスについての言説をそのまま鵜呑みにすることでもない。真実な信仰とは、深い、完全な、確実な、忠実な服従的委託であって、それは感謝にあふれた生活、礼拝、およびあかしの中でなされるのである。こうして信仰は二つのことを要求する。すなわち、キリストを信じ、彼のうちに留まることに対する明確な決断と、礼拝・服従におけるこの告白の誠実な表現とである。

  第四福音書のこの主題の中心にあるのは、神の子イエスである。それは「私は道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(一四・六)」ということばに集約されている。もうひとつの中心は、やはり永遠のいのちであろう。それはきわめて単純でありながら、同時に深遠な真理であるといえる。そしてその真理は感動的で威厳に満ちたことばで繰り返され、無学な一般庶民にも、真剣な求道者にも強く直接に訴える力をもってきた。たとえば、つぎのようにである。

  神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
  そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を 憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。(三・一六ー二一)

  この永遠のいのちは、イエスを信じる者にとっては、現在すでに手中にある。「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(五・二四)とこの第四福音書の筆記者は力強くイエスの言葉を伝える。そしてつぎのようにも続けた。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない」(一一・二五ー二六)。イエスを信じる者にとって、永遠のいのちは、現在ばかりでなく将来へ向けての、確かな所有をも約束されているのである。

               ---- 1994年10月15日 ----



   

  *1 増田誉雄他編「新聖書注解一」いのちのことば社、一九九三年、四三七頁
  *2 増田誉雄他編、前掲書、四三七頁
  *3 増田誉雄他編、前掲書、四三七ー四三八頁
  *4 波多野精一『基督教の起源』岩波書店、一九七九年、一九二頁
  *5 増田誉雄他編、前掲書、四三八頁
  *6 木田献一他編『聖書の世界』自由国民社、一九八四年、七四頁参照。
  *7 次のような指摘もある。
    「一九世紀のプロテスタント聖書学、とくに史的批判が初めて方法的に、第四福音書と共観福音書と の決定的相異、本文の矛盾、資料の利用、編集に言及し、その結果、ヨハネによる福音書はヨハネの作ではあり得ないという、正当な結論を引き出したのである。」ジークフリート・シュルツ(松田伊作訳)『ヨハネによる福音書』NTD聖書注解刊行会、一九九一年、三頁
  *8  ただし、晩年のヨハネについては、柔和な愛の人としての初代教会の記述が残されている。エウセビ オスがその著『教会史』のなかで述べている次のような話である。少し長くなるが、貴重な資料なので引用しておく。
  ヨハネは小アジアのある監督となった。彼はエペソの近くのある教会を訪問していた。会衆のなか に背の高い、きわめて美貌の一青年がいた。ヨハネは会衆の責任者である長老に言った。「私はその若者を、あなたの監督と保護の元にゆだねる。会衆はその証人になってもらいたい」。
  長老はその若者を引き取り、世話をし、教育をした。その若者がバプテスマを受け、教会に加わる日が来た。しかしまもなく彼は、悪友たちの仲間に入 り非行の生活を始め、ついには殺害と強盗の盗賊たちの首領となってしまった。しばらくしてヨハネが戻ってきた。彼は長老に言った。「あなたと、あなたが責任を持っている教会に対して、私と主が委託したものを返して下さい」。最初、長老はヨハネが言っていることがわからなかった。「私はあなたにおゆだねした若者の魂を求めているのです」とヨハネは言った。「ああ、彼は死んでしまいました」と長老は答えた。「死んでしまった?」とヨハネは尋ねた。「彼は神に対して死んでしま ったのです」と長老は言った。 「彼は恵みから落ちてしまいました。彼は罪を犯し、そのために町を逃れなければならなくなり、今では山の中の盗賊になっています」。
  すぐにヨハネは山に向かった。故意に彼は盗賊たちに捕らえられた。盗賊たちはヨハネを、今では盗賊の首領となった若者の前に連れてきた。若者は恥じてヨハネから逃げ去ろうとした。ヨハネは老人であったが彼を追った。「わが子よ、あなたは父から逃げ去ろうとするのか。私は弱く年老いている。わが子よ、私を憐れんで下さい。恐れるな。まだあなたのために救いの望みがある。私はあなたのために、主キリストのみ前に立ってあげましょう。必要ならばキリストが私のために死んで下さったように、私は喜んであなたのために死にましょう。足を止め、とどまり、信じなさい。私をあなたのところへ送られたのはキリストです」と叫んだ。その訴えは若者の心を打った。彼はとどまり、武器を捨てて泣いた。彼とヨハネは共に山を下り、若者は教会とキリストの道に連れ戻された。 W.バークレー(柳生望訳)『ヨハネ福音書』上、ヨルダン社、一九九三年、二四ー二五頁
 *9 W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、三〇ー三五頁
 *10  増田誉雄他編、前掲書、四三八頁
 *11  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、三三頁
 *12  新井智『聖書ーその歴史的事実』日本出版協会、一九八八年、二二四頁参照
 *13 波多野精一、前掲書、一八八頁
 *14  波多野精一、前掲書、一九六頁
 *15  F.V.フィルソン(金井輝夫訳)『ヨハネによる福音書』日本基督教団出版局、一九八六年、三九頁
 *16  F.V.フィルソン(金井輝夫訳)、前掲書、四〇頁
 *17 F.V.フィルソン(金井輝夫訳)、前掲書、四〇ー四一頁
 *18  増田誉雄他編、前掲書、四四〇ー四四一頁
 *19  木田献一他編『聖書の世界』自由国民社、一九八四年、一七九頁参照
 *20  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、三五頁
 *21  ただし、次のような見解にも注意を寄せておく必要がある。「最近では、死海写本の発見とその研究の進歩によって、以前はギリシア的起源とみなされていたもの がユダヤ的背景のもとに見出されるようになった。第四福音書にヘレニズム的特色が多く見られると しても、なお本質的にはユダヤ的背景が優先しているとみなすのが、イエスをメシアとして描いてい る本書の内容からも妥当である。」増田誉雄他編、前掲書、四三〇頁
 *22  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、四六頁
 *23  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、四頁
 *24  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、五頁
 *25  W.バークレー(柳生望訳)、前掲書、六頁
 *26  今世紀の二〇年代から三〇年代にかけて、第四福音書の一部を含むパピルス断片と第四福音書を資 料として用いている「未知の福音書」の断片が発見された。これらはともに、二世紀前半に書かれたと断定されたもので、このことによっても、第四福音書の成立が九〇年代後半であることは、ほぼ決 定的とみなされている。増田誉雄他編、前掲書、四四一頁参照
 *27  波多野精一、前掲書、一九八頁
 *28  波多野精一、前掲書、二〇六頁
 *29  波多野精一、前掲書、二一四頁参照
 *30  しかし、それは福音書全体の目的からすれば副次的なものにすぎないという意見もある。増田誉雄 他編、前掲書、四二九頁参照
 *31  F.V.フィルソン(金井輝夫訳)、前掲書、九頁
 *32  増田誉雄他編、前掲書、四二九頁参照
 *33  F.V.フィルソン(金井輝夫訳)、前掲書、一二頁