[生と死と霊に関する論文]


   聖書とSPIRITUALISM
    −「コリント人への手紙」におけるパウロの信仰について−


     ま  え  が  き

  パウロは、シリアのタルソ(現トルコのタルスス)で、富裕なユダヤ人の家庭に生まれた。生年は明らかではないが、紀元3年頃とされている。1) イスラエルの王の名にちなんで、サウロと名付けられた。パウロというのは、サウロと発音のよく似ているラテン語名である。ユダヤの律法に従って、生後8日目に割礼を受け、子供の時からすべての面で厳格な律法の解釈にしたがって育てられた。律法学者になるために、エルサレムの高名な師ガマリエルに師事したこともある。「同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言い伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった」 と、「ガラテヤ人への手紙」(1:14) のなかで自ら記しているように、律法に関してはきわめて優秀な学生であった。
  また、「ピリピ人への手紙」のなかには、有名なパウロの自己紹介があるが、そこでは 「私は八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、へブル人のなかのへブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者」 と言っている。(3:5-6) ベニアミン族というのはイスラエルの12部族のなかのひとつで、この部族は特に厳しく律法を守ることで知られていた。2) また、「へブル人のなかのへブル人」と言っているのも、単なるユダヤ人ないしはイスラエル人であるよりも、イスラエル先祖伝来の慣習に極めて忠実であることを示そうとしたのであろう。さらに、「律法の上ではパリサイ人」とも言っているが、このパリサイ人というのは、同じユダヤ教のサドカイ派とは違い、律法を絶対視する律法主義の立場をとっていた。彼は、このようなユダヤ教の伝統を特に重んじ律法を守ることに厳しい家庭に生まれたことを誇りにしていたと思われる。そしてこのことは、彼の生涯に影響を及ぼす大きな意味をもっていた。
  律法に関しては極めて優秀な学生であったばかりでなく、「律法の義については落ち度のない者」と自分でも言っているくらいだから、パウロはよほど厳格な律法の実践者であったに違いない。そしてそれ故に、誰であれ律法からはみ出る者は許せなかった。当時キリスト教は、まだユダヤ教の一分派のようにしか捉えられていなかったが、その中で律法を無視し、イエスを 「神の子」と称するキリスト教徒に対しては「迫害者」にならざるをえなかったのもそのためである。
  その彼が、キリスト教徒を追ってダマスカスへ至ったときに、天からの光に打たれ、イエス・キリストの声を聞く。そして、それを契機にパウロは、迫害者の立場から180度転換して熱心なキリスト教徒に変身した。それからのパウロは、3回にわたって2万キロに及ぶ大伝道旅行を行い、キプロス島、小アジア、マケドニア、ギリシアに布教した。最後には、62年頃にローマで殉教したとされるが、これについての定説はない。キリスト教では4世紀以降、2月22日を、彼の殉教の日と定めている。3)
  新約聖書には、パウロが書いたとされる13の手紙がおさめられているが、そのすべてがパウロ自身のものと確認されているわけではない。ほぼ確実に彼自身の手になるものとされるのは、「ローマ人への手紙」、「コリント人への第一の手紙」と同 「第二の手紙」、「ガラテヤ人への手紙」、「ピリピ人への手紙」、「テサロニケ人への第一の手紙」、それに「ピレモンへの手紙」の7つだけである。ここでは、このうちの「コリント人への第一の手紙」の一部分をとりあげる。4)
  この手紙は、54年頃に書かれたと考えられているが、この時代のコリントは、ローマ帝国の最も重要な都市の1つであった。5) 東西交易の橋渡しの役割を果たし、地中海周辺のあらゆる地域から移民、商人、貿易商、旅行者を引き寄せていた。このような交通の要所にあったことが、コリントの教会を周辺地域に対する伝道の一大拠点にしたばかりでなく、教会間交流についても中核的な役割を果たさせていたのである。それ故にパウロは、このコリントの教会を他のどの地域の教会にもまして重要視していたと思われる。
  しかし、一方では、交通の要所にあったが故に、その住民たちは、さまざまな文化的背景をもち、それぞれの出身地固有の社会習慣や信仰を保つ傾向が強かった。港町特有の快楽主義や退廃的な道徳観もはびこっていたらしい。そのなかではコリントの教会も、日常的にきわめて多様な習慣や信仰、腐敗した公衆道徳にさらされることになり、それらが、異邦人を中心とするキリスト教社会の分裂を助長していたようである。
  このような背景の中で、コリント人からの社会的・宗教的習慣に関する質問がパウロへ出された。コリントのキリスト教徒が、仲間割れしたり不道徳を許容しているという報告もあったらしい。そのような質問に答え、イエスの復活についての自分の意見を述べるために書かれたのがこの手紙である。6) 以下本稿では、この手紙の第15章の、復活と永遠の生命について述べているところだけをとりあげ、Spiritualism 的解釈を加えながら検討を進めていくことにする。
  テキストとしては、日本聖書協会のGood News New Testament(『新約聖書』)1989年版を用いる。この新約聖書は、原文であるギリシア語からそれぞれ別々に、英語と日本語に翻訳されたものが載せられているので、英語と日本語を併記することによって、原文のギリシア語の理解に少しでも近づいていく手立てとしていきたい。


   1.

1.1  And now I want to remind you, my brothers, of the Good News which I preached to you, which you received, and on which your faith stands firm. That is the gospel, the message that I preached to you. You are saved by the gospel if you hold firmly to it --- unless it was for nothing that you believed.

  兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。(15:1-2)

  パウロは教会のすべての問題を、福音を中心にして、それをよりどころに論じようとしている。教会の問題は、福音に照らして、福音と自分との関係の中ではじめて明らかにされるべきものと考えていたからである。その福音とは、自分勝手に思い込んだり解釈したりしているものではなくて、教会の確固たる伝承として,告げ知らされたものである。それは、生活の中で核をなすものであり、救いを保証するものでもある。したがって、この核となる福音なしには、信仰そのものが成り立たない。パウロが、教会員に対して「兄弟たち」と語りかけながらも、そのような福音を想起するようにと呼びかけているのもそのためである。
  このように、福音とは、すでにそれを持っている者から自分たちに伝えられるものであって、自分で創り出したり、発見したりするものではない。したがって、パウロの宣教も、その中心的な部分では、教会の伝承を伝えることであった。彼は、誰よりも教会の伝承については忠実な継承者であり、解釈者でもあったのである。
  コリント人の場合にも、福音は彼らが受け入れたものであった。福音の重要な役割とは、こうして受け入れられた真実が何よりも人々に希望をもたせ、こころの安定を与えることであった。誘惑の多い世界の中でそれは、人々に誘惑にうち勝ち、苦悩の中では失望や肉体の苦痛にも耐える力を与えてくれるものでもある。だからこそコリント人は、この福音を受け入れることによってそれまで「救われてきた」のである。パウロはまず、そのことをコリント人に想起させたうえで次に進む。

1.2  I passed on to you what I received, which is of the greatest importance: that Christ died for our sins, as written in the Scriptures; that he was buried and that he was raised to life three days later, as written in the Scriptures; that he appeared to Peter and then to all twelve apostles. Then he appeared to more than five hundred of his followers at once, most of whom are still alive, although some have died.

  わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。(15:3-6)

  ここで、イエスのよみがえりという核心部分に入るが、はじめに、このイエスのよみがえりについて、聖書はどう述べているか、それを順に書き並べてみることにしよう。
  マルコによると、イエスはゴルゴタの丘で処刑されてから、三日後には予言通りに復活して、まずマグダラのマリアの前にその姿を現した。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所へ行って、イエスが復活したことを話したが、彼らは誰もそのことを信じようとはしなかった。その様子が、つぎのように書かれている。

  さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入り口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
  墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねてあなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
  週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリアに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きている事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。(16:1-13)

  次に、マタイではどうか。ここでは、主の使いが天から下ってきて、大きな墓石を脇に転がし、その上に座ったことになっている。見張りをしていた人たちは、恐ろしさのあまり震え上がって、死人のようになった。そのあとはこうである。

  この御使いは女たちに向かって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜しているいることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。 あなたがたにこれだけ言っておく」。
  そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」 と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいただいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。(28:5-10)

  ルカの場合は、女たちが用意しておいた香料を携えて、墓に行ったときには、墓石はすでに脇にころがされてあった。墓の中に入ってみると、イエスの死体がない。女たちが途方にくれていると、そこへ「輝いた衣を着たふたりの者」 があらわれた。そのあとは、つぎのように記されている。

 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
  そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。(24:5-12)

  ヨハネでは、マグダラのマリアが、一週の初めの日に、朝早くまだ暗い内に墓へ行ったことになっている。その時にも、墓の石はすでに取り除かれてあった。イエスの遺体はない。そこですぐ引き返して、ペテロと 「イエスが愛しておられた」もう一人の弟子にそのことを告げる。ペテロともう一人の弟子は急いで墓場へ行ってイエスの墓が空になっているのを確認するが、死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句をまだ悟りきれずに、そのまま自分たちの家に帰って行ってしまった。しかし、マリヤは墓の外に立ったままであった。

  マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれた場所に、ひとりは頭のほうに、ひとりは足のほうに、すわっているのを見た。すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」 と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのかわからないのです」。そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
  イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤはその人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。イエスは彼女に「マリヤよ」 と言われた。マリヤはふり返って、イエスに向かってへブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
  イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上がっていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またはあなたがたの神であられるかたのみもとへ上がって行く』 と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。(20:11-18)

  以上、4福音書とも若干の細部の違いはあるが、イエスが三日目によみがえったことについては大筋で矛盾はない。もちろん、これらの記述が史実ではないにしても、イエス復活がこのような伝承に近い形でおこなわれたことは想像に難くはない。
  しかし、これは弟子たちにとっても思いがけない大事件であったに違いない。イエスが十字架に架けられたとき、彼らのほとんどは師のイエスを見捨てて逃げ隠れていた。その弟子たちは、このようなイエスの復活の報告を受けても、にわかに信じ難く半信半疑であった。彼らは、その時はまだユダヤ人たちが逮捕に来ることを恐れて、隠れ家の戸を固く閉ざし、不安の中で息をひそめていたのである。
  よみがえったイエスはそこへ現れた。十字架に釘打たれた手と槍で突かれたわきの傷跡を弟子たちに示して、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」 と、彼らに語りかけたのである。イエスが復活したというマリアの話は本当であった。弟子たちはみんな、そのイエスの復活した姿を目の前に見て、驚き感動し、そして畏れおののいたことであろう。
  ところが、十二弟子のひとりでデドモと呼ばれるいる トマスは、たまたまそのとき、彼らと一緒にはいなかった。ほかの弟子たちが、彼に 「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。(20:24-25) 
  死んだ人間がふたたび生き返るということを信じるのはむつかしい。敬愛する師のイエスからいろいろと教えを受け、何度も復活の予言を聞かされていた弟子でさえ、容易には信じられなかったのである。しかし、その8日後、イエス はまた、隠れ家に潜んでいる弟子たちの前に姿を現わす。今度はトマスモいた。イエスはトマスに言った。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
  トマスはことばもなかった。「わが主よ、わが神よ」というのが精一杯であった。その彼に向かってイエスは言った。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」。(24-29) トマスのみならず弟子たちすべてにとって、この予言通りのイエスの復活は、大きな衝撃であったろう。そして、当然のことながら、彼らのこころのなかに大変革をもたらせた。「ヨハネ伝」では、このあと、この書の目的として、「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスを神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と付け加えている。(30-31)

1.3  Then he appeared to James, and afterward to all the apostles. Last of all he appeared also to me --- even though I am like someone whose birth was abnormal. For I am the least of all the apostles --- I do not even deserve to be called an apostle, because I persecuted God's church. But by God's grace I am what I am, and the grace that he gave me was not without effect. On the contrary, I have worked harder than any of the other apostles, although it was not really my own doing, but God's grace working with me. So then, whether it came from me or from them, this is what we all preach, and this is what you believe.

  そののち、ヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(15:7-11)

  ここから、パウロはイエスのよみがえりを再確認し、その事実を証人の1人として証言していこうとする。ここで、最後には私にもよみがえったイエスが現れたとパウロは述べているが、彼は生前のイエスには会っていない。その彼の前に、イエスが現れたのは、キリスト教徒を迫害しようとして、パウロがダマスカスまでやって来たときであった。そのときの様子を記録によって、ここで再現させてみることにしよう。
  パウロは律法からはみ出ていくキリスト教徒たちが許せず、先頭に立って初期のキリスト教会を迫害していた。「使徒行伝」には、「ステパノの殉教」のなかで、イエスを信じるステパノを石で打ち殺すユダヤ人たちのリンチぶりが描き出されているが、そのなかにはパウロも、ユダヤ名「サウロ」で登場している。この「使徒行伝」には、さらにつぎのような記述もある。

  サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリアとの地方に散らされて行った。信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒ら回った。(8:1-3)

  このパウロの迫害ぶりは、さらにエスカレートする。「使徒行伝」は、さらにつぎのように続けている。

  さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の区別なく縛り上げて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(9:1-2)

  このように「諸会堂あての添書を求めた」と書かれていることからも、パウロのキリスト教徒迫害の意気込みが感じられるが、ただ、この大祭司からキリスト教徒迫害の了解を取りつけたという点については疑問の余地もないわけではない。当時、ローマ帝国は、各地のユダヤ人社会にある程度の自治権を認めてはいた。特にエルサレムの最高法院には、宗教的法規に関してユダヤ以外にまでその権限を及ぼすことを許していたらしい。そして大祭司は、この最高法院の長でもあった。しかしこの時代に、大祭司ないしは最高法院がユダヤ以外に在住するユダヤ人を逮捕したり、その引き渡しを要求したりする権限まで持っていたことを確証する材料はないようである。7) したがってこれらの記録を読む場合にも、若干の物語的粉飾を考慮に入れなければならないであろう。
  ともあれ、パウロはダマスコへでかけることになる。しかし、その途中で、彼にとっては決定的な事件が起こった。「使徒行伝」はそれをつぎのように伝えている。

  ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、誰も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。(9:3-8)

  こうしてダマスコの町へ入って行ったパウロは、「三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」 のであるが、それからどうなったか。「使徒行伝」の記述はつぎのように続く。

  さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」 とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
  アナニヤ答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう。
  そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。(9:10-19)

  この体験はパウロの回心を理解するためには極めて重要なので、ここで、同じ「使徒行伝」のなかの、彼が一人称で語っている部分にも目を通しておくことにしたい。パウロは自分自身の体験を次のように語っている。

  旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照らした。わたしは地に倒れた。そして、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、「主よ、あなたはどなたですか」と言った。すると、その声が、「わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである」と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。
  わたしが、「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」と尋ねたところ、主は言われた、「起きあがってダマスコへ行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう」。わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。(22:6-11)

  一人称で述べられているこの体験は、このほかにもう1か所(26:12以下)あるが、内容は大筋で変わってはいない。一人称で書かれているとはいえ、パウロ自身のペンによるものではないから、どうしてもある程度の作者の主観的な潤色は避けられないであろう。しかし、そういうことを考慮に入れたとしてもなお、このパウロの決定的な体験は、疑うことができない。なぜなら、これらのほかにも、パウロ自身が自分のペンでこのことを、ガラテヤ人への手紙の中でも書いているからである。彼はこの体験を、「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示してくださった・・・・・」(1:15-16) と述べ、「ここに書いてあることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない」(1:20) と確言している。8)
  ただし、前述の「使徒行伝」を除いて、パウロ自身が直接この体験について語っているのはここだけである。ほかには、間接的な記述が若干見られるにすぎない。1-2で、イエスは聖書に書いてあるとおり三日目によみがえり、まずペテロの前に姿を現した後、12人の弟子、500人の信者、ヤコブなどに現れる。そして、この1-3で「いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも現れたのである」とあるのも、その1例である。9)
  この体験は、さらに、「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである」(「ガラテヤ人への手紙」(2:19-21) というパウロの信仰につながっていった。これが、パウロの回心であった。
  ここで注目しておかねばならないことは、このようなパウロの回心が、イエス・キリストのあらかじめ予定していた事実として語られていることである。イエスはパウロのことを、「あの人は、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者」と言いきっている。そしてここでは、弟子のアナニヤもまた、イエスに「選ばれた者」であった。イエスは、なぜこのような迫害者のパウロを選び、そしてそのパウロを導くためにアナニヤをも選んだのであろうか。
  たとえばこの時までにイエスはすでに12使徒を選んでいる。この場合もそうであるが、イエスをこころから慕う者は数え切れないほどいたはずである。その中からわずか12人をイエスは選んだ。その選定基準は何であったのであろうか。このことは、イエスの数々の奇蹟を理解し、弟子たちの布教や伝道のありようを理解していくためにも極めて重要な要点であるように思われる。
  先ず、イエスが弟子を選ぶに当たって、知性と教養を基準にしたのでないことは、その12人のなかでも傑出していたペテロとヨハネでさえ「無学で無知」と表現されているところからも明らかである。また、弟子たちの中にはユダという裏切り者がいたことからも、徳性の高さであったともいえない。しかも12人の弟子のすべてが、イエス受難の際には逃げ隠れて、非業の死の現場にも姿を見せていないのである。彼らはそのとき師を見捨てていた。さらにはまた、崇拝の念の強さでもなかった。キリストへの崇拝の念なら、他の無数の信奉者たちもその強さにおいて負けてはいなかったかも知れない。しかしそれにもかかわらず、ここで1人を選び、あそこで2人を選ぶというふうに弟子を指名していったところをみると、何か基準があったことは間違いないであろう。それは何か。
  それは、霊的能力であったとみてまず間違いないであろう。地上人類としては最高といえる霊的能力を発揮したキリストは、たとえ程度においては劣っていても、同じ霊的能力を持っていた者を身のまわりに置いておきたかったはずである。それには、二つの理由が考えられる。
  一つは、近代の心霊実験会でもそうであるが、ひとつのサークルができると、霊媒自身の能力にさらにパワーが付加されるという事実がある。サークルのメンバーのオーラの調和が、より大きなパワーを生み出すのである。キリストがそうした雰囲気に左右されていたことを物語る事実として、キリストを快く思っていない生まれ故郷に帰ったときには、何一つ驚異的な現象を見せることができなかったことが、聖書にも述べられている。
  もう一つの理由は、自分の在世中か死後のいずれであるかは別として、イエスは多分弟子たちに自分に代わって同じ仕事をしてほしかったのではないか。それには当然、霊的能力が不可欠であった。こうして選ばれた弟子たちのなかでも、特に霊媒的素質が強かったのはペテロとヨハネとヤコブのようであった。キリストが何か大きな霊的現象を起こすときには、常にこの三人が呼ばれているのはそういう理由からであろう。10)
  ここで話をふたたび、イエスとイエスに「選ばれた」アナニヤとの対話の場面に戻すことにしよう。アナニヤはイエスの復活を信じ、幻の中に現れたイエスにいささかの疑いも挟まなかった。そして荘厳で感動的な「会話」がイエスとアナニヤの間で交わされたのである。アナニヤはイエスに言われたとおりにパウロの所へ行き、そして、イエスのことばを伝えた。おそらく、ここであらわれたのも霊的能力であったろう。再び目が見えるようになったパウロは、今度はキリスト教徒としての活動を開始する。

  サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。(9:19-20)

  パウロは、使徒と呼ばれるに値しない自分であると言いながら、他の使徒の誰よりもキリスト教のために働いてきたという。そのことは、命を懸けた壮大な2万キロにおよぶ彼の宣教の旅を思えば、だれでも納得する彼の献身であった。「コリント人への第二の手紙」のなかでは、自分自身の味わってきた苦労を次のように述懐しているが、それは誰から見ても、決して誇張したものではなかったであろう。11)

  ・・・苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四〇に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠れぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。(11:23-27)

  イエスは、アナニヤとの「会話」のなかで、「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」と言ったが、これも、パウロにとっては神の恵みであった。彼は現実にそのような苦しい目にあったが、それも神の意志であることを知っていた。だからこそ彼は、そのような苦難に遭っても耐えることができ、そのように働いてきたのは、「わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」(15-10) と述べているのである。

1.4  Now since our message is that Christ has been raised from death, how can some of you say that the dead will not be raised to life? If that is true, it means that Christ was not raised; and if Christ has not been raised from death, then we have nothing to preach and you have nothing to believe. More than that, we are shown to be lying about God, because we said that he raised Christ from death --- but if it is true that the dead are not raised to lifek, then he did not raise Christ. For if the dead are not raised, neither has Christ been raised. And if Christ has not been  raised, then your faith is a delusion and you are still lost in your sins.

  さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。(15:12-17)

  1-1にあるように、パウロの宣教は、その中心的部分でキリスト教会の伝承を語り伝えることであった。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたことであった」(15:3) とパウロは語っている。その伝承とは真実の伝承であり、それがパウロにおいては信仰を説く場合の核になっていた。「キリストは死者の中から復活した」というのは伝承内容である。それが真実であることを聖書は伝えている。ここの死者とは、キリスト教徒の死者であろうが、その死者がもし蘇らないとすると、キリストも蘇らなかったことになってしまう。これは大問題である。それでは、キリスト教信仰のすべてが崩れ去ってしまうことになってしまうからだと、パウロは言っているのである。
 イエスの刑死は、弟子たちにとってはもとより大変な衝撃であった。そのイエスがもし死んだままであれば、弟子たちは自分たちの敬愛する師の刑死という事実以上に、その刑死の背後にある神の意志さえも読みとろうとしたであろう。そして、そのままでは、もともとそれほどすぐれた人材を揃えたわけでもなく、強固な組織や集会場なども持っていなかったこの弟子たちの集団は、まもなく霧散解消しても少しもおかしくはなかった。しかし、それはそうならなかった。あの弱い弟子たちは、イエスの教えを守り、それを広めるために一斉に立ち上がったのである。それは、イエスの予言通りの復活が事実として起こったからにほかならない。
  パウロにとっても、このイエス復活の信仰が絶対不可欠であった。イエスは死んでも死ななかった。この否定し得ない厳粛な復活によって、たとえばつぎのような事実も教え示すことができる。12)
  まず、復活は真理が虚偽より強いことを証明している。ヨハネ伝によれば、イエスは真理を理解しないユダヤ人たちに、「神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている」(8:40) と言ったが、彼らがイエスを殺そうとした理由は、自分たちの神についての誤った考え方を否定されたくなかったからである。だから、もし終局的に彼らがイエス抹殺に成功したのであれば、虚偽は真実よりも強いということになってしまう。イエスの復活は、すなわち、真理の虚偽に対する勝利であり、真理の不滅性を究極的に保証するものにほかならない。
  また、復活は善が悪より強いことを証明している。イエスは自分を殺そうとしているユダヤ人たちに言った。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望通りを行おうと思っている」。(ヨハネ8:44) イエスを十字架につけたのは悪の力であった。だから、もし復活がなかったなら、最終的に善よりも悪のほうが勝利をおさめたことになる。
 さらに、復活は愛が憎しみより強いことを証明している。イエスは神の愛の化身であった。これに対して、イエスを十字架に架けようとした者たちは、怒りと憎しみに凝り固まっていた。もし、復活がなかったならば、人間の憎しみがついには神の愛をも征服してしまったことになってしまう。だから、復活は憎しみのなせるわざをことごとくうち破る愛の勝利ということができる。
  最後に、復活はいのちが死よりも強いことを証明している。もしイエスが死んだままでよみがえらなかったら、この世に生きた最善、最高の生が死によって永久に奪われてしまったことになったであろう。
  パウロは、自分のダマスコでの体験からも、イエスのよみがえりを信じていた、というよりも知っていた。あの時の体験がなければ、いまの自分もあり得ないのである。この明々白々の事実からも、彼自身、教会の伝承の真実性を疑うことはできない。パウロにとっては、それを否定することは自分自身をも否定することであった。だからこそ、パウロは確信を持って主張する。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。」(15:14-15)
  16節以下では、パウロは、13節をくり返しながら、議論を宣教から個人の信仰問題へと移していった。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストになって眠った者たちは、滅んでしまったのである。」(17-18) とつぎのように続く。

1.5  It would also mean that the believers in Christ who have died are lost. If our hope in Christ is good for this life only and no more, then we deserve more pity than anyone else in all the world. But the truth is that Christ has been raised from death, as the guarantee that those who sleep in death will also be raised.

  そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば,わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。(15:18-20)

  この、信仰そのものが無意味になり、信仰を貫いて死んだ者もただ、意味もなく滅んでしまうことになる、という考え方は当時の教会の信者たちにとっては耐え難いものであったろう。そのことはパウロもよく知っていたはずで、ここではパウロは、この信徒たちの耐え難い感情にも訴えるつもりになっていたのかもしれない。そして、この世だけの生にしがみつきながら、キリストの復活が保証する来世が単なる絵空事にすぎないのであるならば、「わたしたちは、すべての人のなかで最もあわれむべき存在になる」と断定するのである。しかし、事実は、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」。(15:19)
  パウロは、キリストのことを「眠っている者の初穂」といったが、これはユダヤ人なら誰でも知っている初穂のイメージを用いたのである。過越の祭りは、イスラエルの子らのエジプトからの救いを記念するものであったが、それはまた、大麦の刈り入れの時期にもあたり、刈り入れの祭りでもあった。大麦が刈り取られると、それは神殿に運ばれ、傷がつかないようにやわらかな棒で打穀され、製粉所でひかれて、出来上がった麦粉が神に捧げられる。それが初穂であった。
  この初穂が神に捧げられてからでなければ、巷の店で新麦を売買することも、新粉からパンを作ることもできなかった。初穂は、来るべき収穫の前兆であった。同様に、イエスの復活も、来るべき信者の復活の前兆であったのである。初穂が、しかるべく捧げられるまでは、新麦を食べることができなかったのと同様に、イエスが死人の中からよみがえるまで、いのちの新しい収穫は到来しなかったのである。13)
  ここでいう「眠っている者のよみがえり」は、死んでも新しい生命をもつこと、もっと端的にいえば、死後にも生は続くこと、と捉えることができると思うが、これを考えるひとつの手がかりが、ひろく現代に知られている臨死体験であるといえよう。
  この臨死体験の例は欧米諸国をはじめ世界各国で無数に報告されているが、それでも日本ではまだ、これを真面目に取り上げて研究しようという風潮は強くはないようである。そんなものはオカルトめいた民間伝承の類であろうと、聞き流してしまう人々も少なくはない。しかしアメリカでは、1970年代に入ってから、レイモンド・ムーディ博士やキュブラー・ロス博士などの医学者の研究をきっかけにして、臨死体験を学問的研究の対象にしようという動きが広がってきた。
  現在では、心理学者、精神・神経医、脳生理学者、宗教学者、文化人類学者、哲学者など多方面の学者がこの研究に関心を寄せ、国際的な研究団体が組織され、研究誌も発刊されている。このような傾向は、ヨーロッパでも例外ではない。イギリス、フランス、北欧などでも臨死体験の研究は盛んになり、1990年には、ワシントンのジョージタウン大学で、13か国から300人もの研究者や体験者を集めて、臨死体験研究の第1回国際会議が開かれるまでになった。14)
  この欧米における臨死体験研究の草分けの一人であるムーディ博士は、150例の臨死体験をもとにして、それらの体験内容を分析することから研究を始めた。それでわかったことは、死に瀕した時の状況や、死を体験した人々のタイプが多種多様であるにもかかわらず、体験の内容そのものには驚くほどの共通点があったということである。その共通点は非常にはっきりしていて、15ほどの要素に分類できる。そこで博士は、それらの15の共通要素をすべて含んだ臨死体験のありようを、理論的なモデルとして次のように組み立て、『かいま見た死後の世界』 という本のなかで発表した。

  私は瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達したとき、担当の医師が私の死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。大きく響き渡る音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を、猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、いままでと同じ物理的世界にいて、私はある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の肉体を見つめていた。この異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。
  しばらくすると落ち着いてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。私にはいまでも「体」が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力をもっていることがわかった。まもなく別のことが始まった。誰かが私に力をかすために会いに来てくれた。すでに死亡している親戚とか友達の霊が、すぐそばにいるのがなんとなくわかった。そして、いままで一度も経験したことのないような愛と暖かさに満ちた霊ー光の生命ーが現れた。この光の生命は、私に自分の一生を総括させるための質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。さらに、私の生涯における主な出来事を連続的に、しかも一瞬のうちに再生してみせることで、総括の手助けをしてくれた。
  ある時点で、私は自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それは紛れもなく、現世と来世との境目であった。しかし、私は現世に戻らなければならない。今はまだ死ぬときではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、私は今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世に戻りたくはなかったからだ。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういう訳か、私は再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生してしまった。
  その後、あの時の体験をほかの人に話そうとしたけれど、うまくいかなかった。まず第一に、想像を絶するあの体験を、適切に表現することばが全然見つからなかった。それに、苦労して話しても、物笑いの種にされてしまった。だからもう誰にも話さない。しかし、あの体験をしたおかげで、私の人生は大きな影響を受けた。特に、死ということについて、中でも、死と人生のと関係に関する私の考え方に大きな影響を受けた。15) 

  確かに、臨死体験の基本的なパターンは互いに非常によく似ているから、ムーディ博士のこのモデルはよく理解できる。しかし、よく似た基本的な構造を持ちながらも、体験例の具体的な内容は、それぞれ人によって違うし、民族や文化によっても同じではない。これが本当に死後の生なのかという疑問もないわけではない。それをどのように受け止めていけばよいのであろうか。
  これについて、キュブラー・ロス博士は、臨死状態で体験するのは死後の世界そのものではなくて、生から死への移行過程ではないかと考えている。臨死体験者というのは、本当に死んでしまった人ではなくて、また生き返った人ばかりである。死後の世界の入り口まで行っただけで、完全に中まで入り込んでしまったわけではない。だから、臨死体験者というのは、死後の世界から見ると、生まれたばかりの、へその緒をつけた状態の赤ちゃんのようなものだというのである。
  へその緒をつけているから、まだ地上の世界とつながっている。だから戻ることが出来る。本当の死を体験するのは、そのへその緒が切られてからで、臨死体験者が語る内容というのは、だから、あくまでもへその緒付きの状態で生と死の境界領域をさまよったときの体験だと、博士はいうのである。16) もしそうならば、この現代の臨死体験のさまざまな事例は、パウロのいう、「キリストにあって眠った者たち」の状況とは一線を画して考えねばならないことになりそうである。


   2.

2.1  Someone will ask, "How can the dead be raised to life? What kind of body will they have? You fool! When you plant a seed in the ground, it does not sprout to life unless it dies. And what you plant is a bare seed, perhaps a grain of wheat or some other grain, not the full-bodied plant that will later grow up. God provides that seed with the body he wishes; he gives each seed its own proper body.

  しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくものは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。(15:35-38)

  一度死んでしまった人間が、どのような体で甦るのか、という問いかけは、信者の中にもあったに違いない。病気でやせ衰えて死んでいく人々、あるいは、事故か何かで体に無惨な傷跡を残して死んでいく人もあるであろう。そういう死者も甦るというのならば、どのような体をして甦るのか、という疑問をもつのも無理ではないのかもしれない。しかしパウロは、断固としてそのような疑問をもつことの愚かしさをいましめる。
  初代キリスト教には、どの教会にもユダヤ人とギリシア人がいたから、このような身体のよみがえりを考える場合にも、その構成メンバーによる二つの背景があったことを考えておく必要がある。
  まず、ユダヤ人の背景としては、サドカイ人というのは、徹底的に死後の生を否定していた。「使徒行伝」には、「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」(23:8) と書かれている。旧約聖書にも死後は死者の家に行くことを述べてはいても、死後の生命への明るい展望についてはほとんど触れられていない。ただ、イスラエル人は「選民」であったにも関わらず、その歴史は苦難の連続であった。その不条理を正すためには、この世とは別の世が用意されていなければならない。そのような論理から、イスラエルにおいては不死への希望が成長していったことは否定できないであろう。
  一方、ギリシア人の間では、魂の不滅がひろく信じられていた。しかし、不滅なのはあくまでも「魂」であって、身体の復活となると、彼らにも問題外として受け止められていたであろう。むしろギリシア人にとっては、魂の永遠性というのは、身体の解体と消滅を前提とするものであった。プラトンも、「肉体は魂の対照物である。魂は独立と善とを実現しうるのに対して、肉体はあらゆる弱さの根源にしかすぎない」と、述べている。ギリシア人にとっては、永遠の生命というのは、まさに肉体と別離し、肉体を捨て去ることにあったといってよいであろう。17)
  パウロの見解では、しかし、肉体は悪ではなかった。キリストの受肉が行われた以上、肉体は悪ではありえなかった。だから彼にとっては、死後の生命とは、肉体と魂とを備えもつ全人的生命であり、一人一人の個人性も存続するのである。このことは、Spiritualism の世界では、死後の身体をもつ生命としてひろく取り扱われてきた。ただし、死後の身体とはもちろん肉体ではなく、霊体である。人間は死後も霊体をもつ個性として、永遠に生き続ける。ここでそのことに少し触れておくことにしよう。
  この「死後の生」研究の古典的著作となったのが、イギリスの科学者で哲学者でもあったオリバー・ロッジ卿の『レーモンド』であろう。 レーモンドというのは、1915年に戦死した彼の息子の名前である。この本の価値は、当時の有名な霊媒、それもたった1人ではなく数人を通して個別に入手した情報を、当時のヨーロッパの知性を代表する世界的な科学者が細かくチェックした上で編纂されているという点にある。霊界の聡明な息子と、必死に死後の真相を求める地上界の父親との、真剣でしかも愛情あふれる交霊は、初めて霊的なものにふれる人はもとより、すでに交霊というものの実在を信じている者にも改めて感動を与えずにはおかない。
  これは、人類にとってのもっとも貴重なドキュメントであり、もしかしたら近代における最も重要な文献の一つであるといっても過言ではない、とコナン・ドイルなども言っている。とにかくこの『レーモンド』 は、死後の世界の実在を扱ったものの中でもとりわけ信頼度の高いものであることは確かなようである。それも、一方的に霊界側から主張してきたものと違い、一見何でもないような事柄を時間をかけて一つ一つ押さえていく手法が用いられていて、かえって説得力がある。
  著者のオリバー・ロッジ卿は、早くから死後の個性存続を信じていた。息子のレーモンドが戦死したあと、レーモンドからの霊界通信が次々と正確さを証明されるにいたって、卿の死後個性存続への確信は揺るぎないものとなった。例えば、レーモンドの戦地での写真にまつわる次のようなエピソードがある。18)
  レーモンドが戦死したのは、1915年 9月14日である。それから 2週間後に開かれたピーターズという霊媒による交霊会で、ムーン・ストーンと名乗る支配霊がこう述べた。

  お子さんが戦死される前に立派な写真を撮っておられますね。2枚・・・いや3枚。2枚は1人だけのポートレートで、もう1枚は他の将校たちといっしょのもので、お子さんはそのことをしきりに告げてほしがっておられます。その1枚には、ステッキを手にした姿で写っているそうです。
 
  この時点でのレーモンドの軍服姿の写真は、戦地へ赴く前に撮った前向きと横向きの2枚のポートレートがあるのみで、グループで撮ったものがあることをロッジ家の人たちは知らなかった。そこで関係者を通して調査してもらったところ、その事実に間違いないことが明らかになった。そして12月になってその写真が送り届けられてきた。同じ頃、戦地から届けられたレーモンドの遺品を片づけていた母親が、戦場日誌の中に、「写真撮影、8月24日」という記載を見つけた。ロッジ夫人は、その時のことをサイン入りでこう証言している。

  4日前(12月6日)、私は戦地から届けられたレーモンドの遺品の中にあった日誌をめくっておりました。縁に血がついており、その血でページとページがくっついている箇所もありました。その時ふと、 そのページに”写真撮影”とあるのを見つけて驚きました。日付は8月24日となっておりました。私はそのことを、その日の日記にこう書き入れました。 「12月6日。初めてレーモンドの日記を読み、"写真撮影、8月24日”の記録を確認」と。  1915年12月10日 メアリ・ロッジ

  このような、死後の生についての研究は、最近ではいろいろ、「科学的に」検証しようとする動きが出てきているが、もちろん、これに対して異論、反論がないわけではない。それはこの種の研究が盛んなアメリカでも同じである。そこで、その真偽を探るために、ジョージア大学教授のロバート・アルメダー博士は、死後の生命についての肯定論者と否定論者の主張を客観的に分析し検討する作業を続けてきた。その結論はどうであったか。1992年に博士は、その検討結果をつぎのように報告している。

  私たちは現在、人類史上はじめて、人間の死後生存信仰の事実性を裏づける、きわめて有力な経験的証拠を手にしています。このことが、哲学や倫理学における今後の考察に対して持つ意味は、きわめて大きいといえます。
 人間が死後にも生存を続けるという考え方は、誰にでも認められる証拠によって事実であることが証明できるばかりか、誰にでも再現できる証拠によって、事実であることが、すでに証明されているのです。19)

  このように、死後の生が「証明された事実」であることのひとつの例を、アメリカの退行催眠研究者の1人について述べておきたい。マイアミ大学医学部教授のブライアン・L・ワイス博士の例である。彼は、1988年にMany Lives, Many Masters と題して、退行催眠の実例を紹介する本を出版したが、これは日本では、『前世療法』というタイトルで翻訳されて出版されている。 
  この本の原題のなかの「マスター」とは、日本では一般に指導霊とか守護霊といわれている存在である。私たち一人一人を保護し、魂の成長の助言や指導を行ってくれているいわば「恩師」と考えてよいであろう。恩師は当然、私たちのことはすみからすみまで何でも知っているので、退行催眠の時など、超意識下で恩師からのメッセージを受けることがある。ワイス博士は、そのような自らの体験をこの本にまとめたのだが、その序文のなかで、博士はこう書いている。「私がこの本を書いたのは、心霊の分野、特に生まれる前や死んでから後の魂の体験に関する研究に、少しでも貢献するためである。これから読者の方々がお読みになるものは、一字一句、本当のことである。私は何一つつけ加えていない」。20)
  このワイス博士は、やや長めの金髪で魅力的なキャサリンという神経症の患者を退行催眠によって治療していた。キャサリンは、水を怖がり、暗闇を怖がり、飛行機を怖がり、そして何よりも死をひどく恐れていたそうである。それらの原因を退行催眠によって治療していく過程が、本の中では時間を追って詳細に書き記されている。しかしここでは、そのキャサリンが、退行催眠の治療を受けている最中に、指導霊からワイス博士宛のメッセージを伝えた部分だけを取り上げてみることにしたい。ワイス博士の前で長椅子に横になり、深い催眠状態に入っているキャサリンが急にこう言い出したのである。

  あなたのお父様がここにいます。あなたの小さな息子さんもいます。アブロムという名前を言えば、あなたはわかるはずだと、あなたのお父様は言っています。お嬢さんの名前はお父様からとったそうですね。また、彼は心臓の病気で死んだのです。息子さんの心臓も大変でした。心臓が鳥の心臓のように、逆さになっていたのです。息子さんは愛の心が深く、あなたのために犠牲的な役割を果たしたのです。彼の魂は非常に進化した魂なのです。・・・・・彼の死は、両親のカルマの負債を返しました。さらに、あなたに、医学の分野にも限界があること、その範囲は非常に限られたものであることを、彼は教えたかったのです」。21)

  これを聞いたワイス博士は、びっくり仰天する。「今、1982年、私の薄暗い静かな診療室で、隠されていた秘密の真実が、耳を聾する瀧の如く、私の上に降り注いでいた」と博士は書いた。正確を期するために、このあとも、博士自身のことばをそのまま引用してみることにする。

  鳥肌が立つ思いだった。こうした情報をキャサリンが知っているはずがなかった。どこかで調べることができるようなことでもなかった。父のヘブライ名、1千万人に1人という心臓の欠陥のために死んだ息子のこと、私の医学に対する不信感、父の死、娘の命名のいきさつ、どれもあまりにも個人的なプライバシーに関することばかりだった。しかも、どれも正確だった。 ・・・・・もし、彼女がこんな事実を明らかにできるのであれば、他にどんなことがわかるのだろうか? 私はもっと知りたかった。
  「誰?」。私はあわてて言った。「誰がそこにいるのですか?誰がこんなことをあなたに教えてくれるのですか?」
  「マスター達です」と彼女は小声で言った。
  「マスターの精霊達が私に教えてくれます。彼らは私が肉体を持って、86回生まれていると言っています」22)

  この時以降、自分の人生はすっかり変わってしまった、とワイス博士は述べている。彼の場合も神の手が差し伸べられて、それまでの人生のコースを変えてしまったのである。それまでは、注意深く批判的に一定の距離を置いて読んでいた沢山の霊界に関する本の内容が、すべて納得できるようになった。亡くなった父も息子も「生きている」ことを彼は知ったのである。「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」と博士は結んでいる。
  このような研究をその後も広く熱心に続けられて、現在では、Spiritualism の世界では死後の生は「確定された事実」として捉えられているといってよいであろう。
  ただし、死後の生の肉体は、パウロもここで言っているように、死ぬ前の肉体と同じではない。種が一度土の中で「死んで」、全く異なった形で復活するように、その肉体も質的に変容をとげた新しい形の復活体(霊体)である。この死後も肉体に相当する何らかの身体をそなえているという事実はspiritualism思想の根幹をなす個性の死後存続を具体的に理解する上での基本であるといってよいであろう。材質は肉体よりもはるかに柔軟であるが、細かい部分まで肉体と同じであるといわれている。
  むろんそれは地上時代から肉体とともに成長していたもので、肉眼では見えないが、肉体と同じ形態を持ち肉体と完全に融合して存在している。けれどもこの両者は、肉体の死に際してーーあるいは条件次第では生きている間でもーー離ればなれになり、両者を同時に見ることもできる。生前と死後の違いは、死後は両者を結びつけている生命の糸が切れて、それ以後は霊的身体だけで生きていくという点である。肉体は、あたかもさなぎが出ていったあとの抜け殻のように、やがて分解して塵となって消える。これまでの人類は、その抜け殻を手厚く葬ることに不必要なほどの厳粛さを求め、肝心の「成虫」のその後の事情については、実にいい加減な関心しか示さなかった。
  パウロがここで述べているように、種は地中に埋められて死ぬが、やがてふたたびよみがえる。そして、よみがえったものは蒔かれた時と同じ形ではない。しかし、それは同じ生命であり、同じ種である。私たちのいまの体もやがて死ねば埋められて死滅する。だが、またよみがえる。そのときの体はいまの体と全く同じではないかもしれない。しかし、違っていてもよみがえったのは前と同じ私たちであることには変わりはない。存在するのはやはり私たちなのである。これが真理であって、この真理を理解することが人間にとっては何よりも大切なことなのであろう。このことについてコナン・ドイルも自らの死後、霊界通信により次のようなメッセージを送ってきている。

  科学者たちは、自然の出来事は物質的存在の正常な営みの一部であると見なしがちです。そして、自然は一種の法則によって動かされていると考え、その法則に名前をつけるだけで、なぜそうなるのかについては理解しようとはしません。彼らはただ、種を土のなかに蒔き、一定の水分と太陽と温度があれば芽が出る、と主張するのです。そしてそれを聞く人は、その種蒔きの結果を奇跡として見るのではなく、言い換えれば、霊的な力の不可思議な現実化であるとは見なさず、ごく当たり前のこととして受け入れてしまうだけなのです。
 霊界の真実を知らない多くの人々は、自分を支えてくれている自然のさまざまな営みをごく当たり前のことで、あたかも自分たちの権利でもあるかのように考えています。その結果、自然のあらゆる現象の根源にある妖精たちの限りない奉仕、忍耐、愛情に感謝することもしようとはしないのです。
 人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界が広がっています。こうして、真実と愛が、常にこの惑星に、そして宇宙に、奉仕することが可能になっているのです。23)

  つまり生命は、肉から霊へと形は変えても、滅びることはないのである。それは永遠に生き続ける。パウロはそれをキリストにあって眠っている者がかたちを変えてよみがえるというように説いているが、それは、キリストにあって眠っている者以外でも、人間である限り同じである。そして、その延長線上には、あるいは、その根源的なところに、つぎのようなもう一つの真理が存在しているのかもしれない。

  生命は決して終わることはない。確かに身体に危害を加えることはできるであろう。首を斬ることだ ろうが、内蔵をえぐり出すことだろうが、やろうと思えばどんな残酷なことでもやれないことはない。しかし、その肉体の中に生きる人格=自己は、絶対に滅ぼすことができない。人格とは思考や感情である。思考や感情をいったいどのように破壊できるのか。考えてもわかることである。思考を爆破できるであろうか。刃物で刺すことができるであろうか。そもそも闘いを挑むことができるのか。それは不可能である。人間でも動物でも、地上に棲息するすべての生き物の生命力は、身体という仮面に覆われて生きている、つまり眼には見えない思考と感情の集合体なのである。24)

2.2  And the flesh of living beings is not all the same kind of flesh; human beings have one kind of flesh, animals another, birds another, and fish another. And there are heavenly bodies and earthly bodies; the beauty that belongs to heavenly bodies is different from the beauty that belongs to earthly bodies. Ths sun has its own beauty, the moon another beauty; and even among stars there are different kinds of beauty.

  すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するもの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。(15:39-41) 

  神は、地上の様々な生命に、創造の目的に適応したからだをそれぞれに与えている。もしそうだとするならば、神が私たち人間にも復活の生命にふさわしいからだを与えてくれることは十分に期待できることである。エリザベス・キュブラー・ロスは、逆に、このような神の偉大さを疑うのであれば、たがいにすべて異なる何十億ものエネルギーパターンを創り出すには、どれほどの才能と労力が必要かを考えてみればいい、という。そして、次のように書いている。

  重要なのは、私たちは存在のはじめから、神に帰るまで、いつも同一性を保ち、自分だけのエネルギーパターンを保つということです。この宇宙の、この地球上にいる、そして、さえぎるもののない世界にいる、何十億という人間のうちに、二つと同じエネルギーパターンはりませんし、同じ人間というのはいません。そっくりの双子でさえちがいます。25)

  このような造物主すなわち神の偉大さがわかってくれば、その神によって創られた何十億というそれぞれに同じではない人間の偉大さをも理解できるようになるのかもしれない。コナン・ドイルは、このことについて、「キリストが地上人類として空前絶後の最高級霊の降誕であることは霊界通信の中でも異口同音に認められている。その意味では確かに神の子と呼ぶにふさわしいが、私たちも同じく神の子であり、ただ、キリストのほうがより神に近い存在であったというにすぎない」 といういい方をしている。26)
  これは、彼のきわめて鋭い洞察であるといえよう。たとえ何十億の人間がいたとしても,確かにその一人一人は異なり、すべてが自分だけのエネルギーパタンを持っているのである。その完璧な存在を理解するには、私たちもまた神の子であることを知らねばならないというのであろう。思い切った表現のようであるが、パウロのこのような書簡の意味をその基底のところで把握するためには、こういう視点からの理解も必要なのかもしれない。たとえば、1926年11月23日生まれの現代インドの聖者、サイ・ババもよくそういう言い方をする。ここでちょっと立ち止まって、サイ・ババの誠実な信者であるオーストラリアの一作家がこの点について述べていることに、目を向けてみよう。

  インタビューの部屋から姿を見せたサイ・ババは、庭にいる私たちに向かって歩いていた。私のすぐ横には若いインド人がいた。彼はサイ・ババが横を通り過ぎようとした瞬間、「あなたは神ですか」と突飛な質問を投げかけた。
  自分自身ではなかなか解けない疑問を、直接本人から聞いてみようとしたに違いない。突然質問されたサイ・ババは、この男を見つめてゆっくりと、 
 「神はあなただ」と言った。
  当時私は、神は私たち自身の中に存在するというサイ・ババの教えを少しずつ理解し始めていた。サイ・ババはこの若い男が質問したのをよい機会とし、すべての人間の中に神が宿っていることを改めた説いているような気がした。サイ・ババが説くように、私たちは皆、神聖な意志の子供たちであり、その意味では私たち全員が神の化身である。しかし、通常私たちはそのことに全く気がついていない。 
  一方、私たちがある人を指して神の化身と呼ぶとき、彼は自分の持っている力の大きさを理解し、すべての源である神聖な意志の存在にも気がついている。神の化身と呼ばれる人々は神聖な意志に導かれた生活を営み、神である証明となる行いをする。その行動は神の意志から生まれ、通常人間が見せるような身勝手で自分の利益だけを考えたものではない。すべての神の化身の行いは人類の幸福を目的としている。神の化身は人間の魂を高めるために地上に降りてきた。彼の知力は深く、行動の目的も普通の人間のそれとは異なる。そのため、私たちにとってその行動は、一見不可解であり、時にはその意味を取り違えてしまうこともある。
  私たちの人生の目的は自分の中に存在する神との結合であり、その目的を果たした時、神の化身を理解し、同じような行動をとることができるのかもしれない。自分の中の神の声に注意を払わない現在の自分から、神を意識した人間になることができるのだ。27)

2.3  This is how it will be when the dead are raised to life. When the body is buried, it is mortal; when raised, it will be immortal. When buried, it is ugly and weak; when raised, it will be beautiful and strong. When buried, it is a physical body; when raised, it will be a spiritual body. There is, of course, a physical body, so there has to be a spiritual body.

  死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから霊のからだもあるわけである。(15:42-44)

  ここで述べられているのは、3つの対比である。現在のからだは朽ちるが、来世のからだは朽ちることがない。現在のからだは卑しく弱いが、来世のからだは栄光につつまれて強い。現在のからだは肉体のからだであるが、来世のからだは霊のからだである。このような対比を通じて、パウロは、来世の霊のからだの栄光に包まれた輝きと滅びることのない永遠性を強調しているように思われる。
  ただし、霊のからだは1人だけの空間に1人だけで存在しているわけではない。霊の世界の中で霊のからだがあるのである。その霊の世界のなかでは霊のからだはどのように生きていくのか。周知のように、コナン・ドイルは霊の世界へ行ってからも、その世界の様子を熱心にこの地上の私たち宛の報告として霊界通信を送り続けているが、ここで一つ、その霊の世界に関するものを取り上げてみることにしよう。
  コナン・ドイルによると、霊の世界の生活形態は、基本的には地上生活と同じで、霊的身体による主観と客観の生活であるという。ただ、霊体をはじめとして環境を構成している成分が、物質に比べてはるかに意念の影響を受けやすく、その人の個性と思想が環境に反映される傾向が強いようである。食事や金銭、痛みといった肉体に付随していたものは当然ないが、精神的なもの、芸術的なもの、思想的なもの、霊的なものが重要になり、意欲さえあればそれだけ進歩も早いことになる。
  衣服は実質的には不要である。しかし、地上時代の習慣と、つつましさと美的センスがその人特有のものを身につけさせている。また老若といった地上特有の違いが消えて、老いが若さを取り戻し、若さが成長して大人らしくなり、皆それぞれの霊性を表現した容姿になるのだという。28)
  さらに、パウロのいう「肉のからだ」と「霊のからだ」の存在を示す一つの証左として考えられるのが、いわゆる「体外離脱」である。ターミナル・ケアの世界的権威として知られているキューブラー・ロス博士は2万例に及ぶ臨死体験の調査研究から、死後の生に対する確信を抱き、数多くの著作や講演、セミナーで永遠の生命を説き続けてきた。博士自身も自分の臨死体験を著書などで述べている。そのキューブラー・ロス博士に、評論家の立花隆氏がアメリカまで出かけてインタビューした記録があるが、そのインタビューの時に、立花氏は念のため、臨死体験のほかに、体外離脱をしたことがあるか、と博士に聞いてみたのである。すると思いがけなく、彼女はつぎのように答えた。

  あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何万人といるのです。
  (体外離脱して)いろんなところへ行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行って来ました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、「地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある」といっていました。29)

  これがたとえば、一人の教養のない人間の言ったことであれば、あるいは、単なる幻想にすぎないと一笑に付すこともできるかもしれない。しかし、これを言っているのがキュブラー・ロスであるとなると、おのずからその重みが違ってくる。このような例はまだいくつもある。あのスイスの精神医学の巨人、C.G.ユングにも、彼が自ら書き記した体外離脱の証言があることを立花氏は紹介している。

  1944年のはじめに、私は心筋梗塞に続いて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失の中で譫妄状態になり、私はさまざまの幻像を見たが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときに始まったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、「まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした」といっていたが、彼女の付け加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢見ているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
  私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるか彼方にはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らし出されて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた・・・・
 どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、ほぼ1,500キロメートルの高さである。この高度から見た地球の眺めは、私が今までにみた光景の中で、もっとも美しいものであった。
  しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。視野の中に、新しい何かが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりもう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっていた。」
 (ユングが宇宙空間で出会った黒い大きな石塊は、その中がくり抜かれて、ヒンズー教の礼拝堂になっていた。その中にユングは入っていく。)
  「私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり私はすべてが脱落していくのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したものすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬燈の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしてあらゆる出来事からなりたっていた。私は私自身の歴史の上になりたっているということを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である」。30)

  この最後の「わたしは存在したもの、成就したものの束である」は、実に示唆に富んだことばで、高級霊からの霊界通信を思い起こさせる。ユングは、このほかにも宇宙から眺めた地球の姿を詳しく述べているのだが、それは立花氏をも驚ろかせた。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」と言うまでは、誰も宇宙から地球を見れば青く見えることは知らなかったはずであった。それをユングは、ガガーリン以前にそれを書いていたからである。それでもなお、彼の体外離脱を否定するというのは、客観的に見てもかなりの無理があるといわなければならない。
  このような体外離脱体験が意味するものは、人間には生存中からパウロのいう「肉のからだ」と「霊のからだ」を併せ持っているということである。私たちが死ねば、「肉のからだ」は死ぬ。しかし、「霊のからだ」は滅びることがない。そのことを示す貴重なエピソードをふたたびキューブラー・ロス博士の体験に基づいて触れておきたい。かつて、シカゴ大学医学部教授として勤務中の博士にはシュワルツ夫人という患者がいた。その彼女が亡くなり埋葬されてから10か月ほど経った頃、博士はこのシュワルツ夫人の「来訪」を受けたのである。その「来訪」の模様を講演会で語っている部分を、少し長くなるが、つぎに引用してみよう。

  ・・・ある日、私は一大決心をしました。「シカゴ大学を辞めよう。今日、死と死の準備のセミナーが終わったらすぐそれを打ち明けよう」。
  新しい牧師と私は、セミナーのあと、いつもきまってエレベーターまで並んで歩き、エレベーターが来るのを待ちながら仕事の話を片づけると彼はエレベーターに乗り、私はオフィスにもどるのでした。私のオフィスはセミナーと同じ階の廊下の突き当たりにありました。・・・その牧師は大男なのですが、エレベーターが来る前に私は彼の襟首をつかんで言いました。「ちょっと待ってください。私は恐ろしい決断をしたの。それを聞いてちょうだい」。
  大男をひっつかまえてそう言ったことで、私は自分が英雄になったみたいな気分でした。でも彼は何も答えません。
  そのとき、エレベーターの前に一人の女性があらわれ、私をみつめました。よく知っている人なのに、それが誰だかどうしても思い出せない、ということがあるでしょう。みなさんにも経験があると思います。私は牧師に、「まあ、あれ、誰だったかしら。知っている人だわ。私のことをじっと見ている。あなたがエレベーターに乗るのを待っているんだわ。きっと私に用があるのよ」。
  私は、彼女が誰かということに心を奪われて、牧師をつかまえようとしていたことをすっかり忘れていました。その女性が忘れさせたのです。彼女は透き通っているように見えましたが、後ろにあるものがはっきり見えるほどではありませんでした。私は牧師にもう一度「誰かしら」と聞きましたが、牧師は答えませんでした。それで私は牧師のことはあきらめました。私が最後に牧師に言ったのは、「私からじかに彼女に、あなたの名前が思い出せないって言うわ」という意味のことでした。先ほどからのことはすっかり忘れていたのです・・・・・。

  この大男の牧師には、エレベーターの前に現れた女性は見えなかったのであろうか。しかし、キューブラー・ロス博士が二度繰り返してその女性のことを言っているのを聞いているはずだから、それがどういうことかのみこめなかったにしても、そのような状況が生じたことは知っているはずである。牧師は不審に思いながら、答えようがなかったのであろうか、そのままエレベーターに乗り込んでしまう。キューブラー・ロス博士は、話を続ける。

  牧師がエレベーターに乗るとすぐに、その女性が近づいてきて、「ロス先生、帰ってきました。オフィスにお寄りしてもよろしいですか。ほんの二,三分しかお時間はとりません」 という意味のことを言いました。彼女が私の名前もオフィスの場所も知っていたので、彼女の名前を思い出せないということを、こちらから言わずにすみました。
  エレベーターからオフィスまでの距離があんなに長く感じられたことはありません。私は毎日、精神分裂病の患者たちと接しています。彼らのことを愛しています。彼らが幻覚を見るたびに私はこれまで何千回もこう言ってきました。「壁に聖母が見えるでしょ。でも私には見えないわ」。で、そのとき、私は自分に言い聞かせました。「エリザベス、あの人が見えるって言いたいんでしょ。でもそれはありえないことよ」。
  私がそのとき何をしていたか、おわかりになりますか。私はエレベーターからオフィスに行くまで、自分に対して検証していたのです。「疲れているせいだろうか。これまで精神分裂病患者ばかり診てきたせいだろうか。いろいろなものが見えはじめたようだ。この女にさわって、現実かどうか確かめなくては」。彼女の肌が温かいか冷たいかを知ろうと思い、あるいは触れたとたん消えてしまうのではないかと思い、実際に触れてみたりしましたが、オフィスに着くまで、自分がどうしてそんなことをしているのか、自分でもわかりませんでした。私はそのとき、観察している精神科医であると同時に患者でもあったのです。自分のしていることも、また自分がその女性を誰だと思っているのかも、わかりませんでした。ひょっとしたら、この人は本当に何か月も前に死んで埋葬されたシュワルツ夫人かもしれないという考えを必死に押し殺そうとしました。

  このように「霊のからだ」が目の前に現れるということは希有のことなのであろう。さすがのキューブラー・ロス博士も、この時は半信半疑で状況がよくのみこめないでいた。しかし、科学者の自覚を取り戻して、この現象が事実であることを証明する証拠を掴もうとする。そして彼女は、その証拠をも手に入れた。31)

  オフィスまでくると、彼女がドアを開けました。まるで私のほうが客みたいに、彼女は本当に信じられないくらいの優しさと思いやりと愛情を込めてドアを開け、こう言いました。「ロス先生、私が帰ってきたのには二つ理由があります。ひとつは先生とゲインズ牧師にお礼を申し上げるためです」。ゲインズ牧師というのは、私と理想的な協力関係にあった素晴らしい黒人牧師です。「私にしてくださったことに対して、お二人にお礼を言いたくて。でも私が帰ってきた本当の理由は、先生にお願いするためです。死とその準備についてのお仕事をやめてはいけません。まだ、いまは」。 
  私は彼女の顔を見つめました。そのとき私が彼女のことをシュワルツ夫人かもしれないと思ったかどうかは覚えていません。何しろ彼女は何か月も前に埋葬されていましたし、私は死者のよみがえりとかそういったことはいっさい信じていませんでした。私はなんとか自分の机にたどり着くと、こうすれば彼女が消えるのではないかと期待して、そこに実在している机やペンにさわりました。でも彼女は消えませんでした。そこに立ったまま、優しく、でも同時に強い調子で言いました。「ロス先生、聞こえますか。先生の仕事は終わっていません。私たちがお手伝いします。時がくればわかります。でも、いまはまだやめないでください。そう約束してください」。
  私は思いました。「やれやれ、こんなことを話しても、誰も信じてくれないだろう。いちばんの親友だって」。そのときは、何百人もの人にこの話をすることになろうとは夢にも思いませんでした。私の中の科学者が首をもたげ、ひじょうに狡猾な、とんでもない大うそをつきました。「ゲインズ牧師はいまアーバナにいるの」。 
  そこまでは本当でした。ゲインズ牧師は実際にアーバナの教会に移ったのです。「あなたがひとこと何か書いてくれたら、きっと喜ぶと思うわ」。
  私は彼女に紙と鉛筆を渡しました。おわかりでしょ、私はその手紙を親友の牧師に送るつもりはなく、科学的な証拠にしたかったのです。埋葬された人間に手紙が書けるはずがありません。彼女はじつに人間的なーーいや、人間ではありませんねーー優しい笑みを浮かべました。私のもくろみなど、お見通しだったのです。テレパシーというものがあるとしたら、私の考えていることが彼女に伝わった方法はテレパシーでした。それでも彼女は紙を鉛筆を受け取って、短い手紙を書いてくれました。もちろん私どもではそれをガラス張りの額縁に入れて大事に保管しています。書き終えると、彼女は言葉には出さずに言いました。「これで満足ですか?」。
  私はそれを見て、思いました。「これは誰にでも話せるような話題じゃない。とにかくこれは大事にしておこう」。彼女は立ち上がって、繰り返しました。「ロス先生、約束してください」。私が「約束するわ」と答えた瞬間、彼女はでていきました。
  その手紙はいまもちゃんと持っています。32)

  パウロは、「肉のからだがあるのだから霊のからだもある」のだといった。そのことばは、本稿で取り上げてきた臨死体験や体外離脱、霊界通信、退行催眠などのすべてによっても、感動的に裏付けられているといってよいであろう。真理はひとつであって、この手紙に書かれたパウロの真理のことばは、2千年近くを経ていまなお、私たちのこころに深い感銘を刻み込んでいるのである。

                   −−1999年10月15日−−



 

   *The Bible and Spiritualism
      -- On Paul's First Letter to the Corinthians --

 1) 紀元5年から10年の間に生まれたという説もあるが、これも推測の域を出ない。左古純一郎『パ ウロと親鸞』朝文社、1989、p.13. いずれにしても、イエスよりは若く、67年に殉教したペトロと同年に近かったのではないかと考えられる。 
 2)国分敬治『パウロと親鸞』宝蔵館、1984、pp.48-49参照。
 3) 『使徒行伝』では、パウロはエルサレムで、彼に反対するユダヤ人が引き起こした暴動の後に捕らえられ、最後にはローマに送られたことになっている。そこで処刑されたと思われる。(20:24,38)では、パウロが自らの死の可能性について述べているが、「テモテへの第2の手紙」にも「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた」(4:6)とある。殉教の日については、Microsoft Encarta 98 Encyclopedia 参照。
 4) 使徒パウロは、コリントの信徒へ宛てて4通の手紙を出したという説が妥当とされている。その4通を、それぞれA, B, C, Dとすると、次のようになる。
   Aは最初の手紙であるが,これは失われた。
    (1コリント書5・9)には、「わたしは前の手紙で、
    不品行な者たちと交際してはいけないと書いた
    が・・・」とあって、この「第一の手紙」の前には、
    別の手紙が存在することをうかがわせる。
   B が現在正典として認められている「第一の手紙」
    (1コリント書)である。
   C は3番目の手紙として書かれたが、Aと同じく失わ
    れてしまい、残っていない。ある研究者たちは、
    現行の2コリント書のなかの10~13章の部分がこ
    の手紙Cの一部になっているのではないかと考
    えている。そして、この第三の手紙こそ、2コリン
    ト書2・4で言及されている、いわゆる「涙の手紙」
    ではないかと考えている。
   D は4番目の手紙で、これが現在の2コリント書で
    ある。
  新共同訳『新約聖書注解II』日本基督教 団出版局、1992、pp.123-124参照。
 5) ギリシアの地図を一目見れば、コリントの地理的重要性が一目で理解できるであろう。ギリシアの 南部は、ほとんど島といっていいような形をしている。西側にはコリント湾が、東側からはサロス湾が陸地に深く食い込んでいて、ギリシアの南北をつないでいるのは、わずか幅6キロほどの小地峡である。コリントはそこにある。ギリシアの北部から南部への交通は、すべてコリントを経由しなけれ ばならなかったし、地中海の東西交通も好んでコリントの街を通過した。コリントに集まる人々の数 をいっそう増大させたのが、コリント地峡大競技会であった。これはオリンピック大会に次ぐ大競技会で、コリントがその開催地であった。コリントは、古代世界における最大の貿易中心地の一つであったといえる。William Barclay『コリント』(柳生直行訳)ヨルダン社、1993、pp.5-7参照。
 6) パウロは、エペソを除いては、ほかのどの町よりも長くコリントに滞在した。彼は、生命の危険を おかしてマケドニアを去り、アテネに渡ったが、そこではあまり宣教には成功せず、そのあとコリントに移って1年半滞在している。この間のパウロの動きについては、「使徒行伝」(18:1-17)にその記録がある。
  パウロは、コリントではユダヤ人の会堂で伝道して大きな成功を収めた。しかし、まだ多くのユダ ヤ人は、彼に対して敵対的で、紀元52年にローマ人総督となったガリオに、パウロがユダヤ人の律法に反することを教えていると訴えたりしている。ガリオは、この訴えを取り上げなかったので、パウロはコリントでの働きを無事に済ませ、シリアへ渡っていったのである。
  その後、コリントの教会に問題があることが、いろいろな筋からパウロの耳に入ってきた。クロエの家の者からの情報(1コリント書1:12)、ステパナ達からの情報(1コリント書16:17)等のほか、コリント教会自体がいろいろな問題についてパウロに指導を求めてきたことも「第一の手紙」7章から明らかである。この手紙をパウロが書いたのは、紀元55年、彼がエペソに滞在していたときであ った。William Barclay、前掲書、pp.10-12参照。
 7) 佐竹明『使徒パウロ』日本放送出版協会、1988、p.63参照。
 8) この「使徒行伝」の報告は、ガラテア1:15-16と比べれば、はるかに物語的要素に富んでいること は否めない。おそらく、この種の要素は後からの潤色に属するものと考えることもできるであろう。 しかし、この出来事がパウロにとっては突然のことであって、しかも彼の人生に決定的転機をもたら したこと、それの内容がイエスの啓示であったこと、その起こった場所が、ダマスコ付近であったことは、両者が一致して報告していることである。もっとも、この体験が、いつどこで起こったかを正確に述べるのは難しい。パウロがこの体験後におこなった二度のエルサレム訪問の時期をそれぞれ「三年後」(ガラテア1:18)、「14年後」(同、2:1)と記されているので、このことから推して、この体験 はおよそ紀元33年頃で、彼の30代前半頃と思われる。また、場所については、ガラテア1:17に、この出来事の直後に「アラビアに赴き、それから再びダマスコに戻った」とあることからみて、ダマスコないしはその周辺であることは間違いない。佐竹明、前掲 書、pp.69-71参照。
 9) 「使徒行伝」がこのパウロの体験については3度も触れているのとは対照的であるが、これはもちろん、パウロ自身の「使徒と呼ばれる値打ちのない者」という謙虚さにもよるものであろう。しかし、見落としてならないのは彼のこの体験の受け取り方である。つまり、彼の回心は、パウロ個人の主体的な行動によるものではなく、「御子をわたしの内に啓示してくださった」と述べているように神の側からの働きかけであった。自身の回心を徹底的に神の恵みによるものとするパウロにとっては、 この寡黙は、いわば当然のことであったのかもしれない。武本昌三「回心と信心−親鸞とパウロの場合」参照。
10) 武本昌三「Arthur Conan Doyle のSpiritualism について」(補遺)参照。
11) パウロの苦難に満ちた2万キロに及ぶ伝道活動については「使徒行伝」に詳しいが、そこでは彼の 活動は3回の旅行の形をとっていると見ることができることから、通常はそれらを、第1,第2,第3 伝導旅行といっている。しかし、この呼び方は便宜上のもので必ずしも実状に即していない。第1伝導旅行(13-14章)では、伝道旅行と呼ばれるのにふさわしい形をとっているが、第2伝道旅行 (15:36-18:22)と第3伝道旅行(18:23-21:16)の場合には、(18:11)でコリントに1年半、(19:8-10)で エペソに2年あまり滞在したりしていて、長期にわたる中断がある。佐竹明、前掲書、p.140参照。
12) William Barclay、前掲書、pp.186-189参照。
13) William Barclay、前掲書、pp.189-190参照。
14) 立花隆『臨死体験』(上)、文芸春秋、1994、pp、9-10参照。
15) レイモンド・ムーディ『かいま見た死後の世界』(中山善之訳)評論社、1983、pp.31-32。
16) 立花隆、前掲書、p、429参照。
17) William Barclay、前掲書、pp.178-179参照。
18) コナン・ドイル『コナン・ドイルの心霊学』(近藤千雄訳)新潮社、1992、pp.185-187による。
19) R・アルメダー『死後の生命』(笠原敏雄訳)TBSブリタニカ、1992、p.5、p.189.
20) 19 B・L・ワイス『前世療法』(山川紘矢他訳)PHP研究所、1996、p.9.
21) B・L・ワイス、前掲書、p.56.
22) B・L・ワイス、前掲書、p.59.
23) Ivan Cooke, ed., The Return of Arthur Conan Doyle; The White Eagle Publishing Trust, Hampshire, 1975, p.125.
24) Steven L. Weinberg ed., RAMTHA, Sovereignty, Inc., Bellevue,  Washington(U.S.A), 1986, p.52. さらに、 たとえば、殺人、事故、強盗などで死ぬ場合、その死をどのように考えていけばよいのであろうか。 宇宙的視野から見るとすれば、生とどのようにつながっていくのであろうか。このような死と生の捉え方があることを参考までに付け加えておきたい。仮に、1万人の無実の人々が殺される場合でも、その死は単なる悲劇で終わるものではない。殺された者たちは、永遠の生命の中でさらなる学 びと体験の機会が与えられる。そして、あのナチスによって大量虐殺された500万ともいわれるユダヤ人たちも、神の視点からみれば、ヒトラーの意志による犠牲者ではない。ヒトラーは確かに、私たちの「狭い」視点で見れば重大な過ちを犯した。しかし、このような重大な過ちでさえ、神と宇宙の視点で見れば、つぎのようになる。
   ヒトラーが犯した過ちは、彼が死に至らしめた人々をなんら害することも、侵こともなかった。 あの人々の魂は、地上の束縛から解放された。さなぎから蝶が解放されるように。残された人々が彼らの死を悼むのは、彼らの魂がどんな喜びへと分け入っていたかを知らないからだ。死を経験したら、誰も死を悼んだりはしない。彼らは時ならぬ死をとげたのだから「間違っている」といわれるが、それは、宇宙では起こるべきでないことが起こりうるといっているのと同じだ。宇宙で起こることはすべて、完璧に起こるべくして起こっている。神は過ちを犯してはいない。ニール・ドナ ルド・ウォルシュ『神との対話』A(吉田利子訳)サン・マーク出版、1998、p.71 参照。
25) E.キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と臨死体験』(鈴木晶訳)読売新聞社、1997、p.175.
26) Arthur Conan Doyle; The New Revelation and the Vital Message: London, Psychic Press Ltd., 1981, pp.84-85.
27) Howard Murphet: Where the Road Ends;『最後の聖者サイババ』(秦隆司訳)、たま出版、1996、pp.89-91.
28) Arthur Conan Doyle; ibid., p.45 参照。
29) 立花隆『臨死体験・上』文芸春秋、1994年、pp.439-440.
30) 立花隆、前掲書、pp.51-54.
31) 同様の証拠としては、たとえば、イギリスでの物理霊媒による交霊会で、美しい容貌の女性霊が現れて、列席していた外科医がその手を取ってみたら脈拍まで打っていたという記録がある。「英国学士院のガリー博士がケーティ・キング霊の脈を計っているシーン」として、その写真まで残さ れている。コナン・ドイル、前掲書、p.175参照。
32) E.キューブラー・ロス、前掲書、pp.177-182.