科学の進歩と人間の長生き        (2013.06.07)


  もうかなり昔になりますが、1966年に制作された「ミクロの決死圏」という映画を見たことがあります。潜水艇に乗せた医師たちを特殊装置で極小にまで縮小し、注射器の針に吸い込ませて脳内出血をおこした患者の体内に送り込むという筋書きです。体内に送り込まれた医師たちは、血管を通って脳にまで達し、患部を内部から治療して帰ってくるというSF映画でした。その映画のように人間を縮小するということはありえないでしょうが、現在では、極小の世界で、それに似た治療が現実味を帯びてきているようです。

 昨年(2012年)2月29日にNHKスペシャルで放送されたという「ナノ・レボリュウション―病が治る日」の再放送を、私は去る5月18日にNHKBS1で見ました。「ナノ」というのは、1ミリの100万分の1 なのだそうです。その超微小世界を扱う「ナノテクノロジー」の研究が1980年代から本格化してきて、いまでは、医学の分野で、病気の発見や治療に応用され始めているというのです。例えば、がん治療にはよく「抗がん剤」が使われますが、この薬ががん細胞に辿りつくのは2〜3パーセントで、残りは健康な細胞をも傷つけるという副作用があります。それがナノテクノロジーでは、ピンポイントにがん細胞だけに作用させることが、すでに臨床実験の段階まできているといいます。

 このナノテクノロジーにより、病気の発見も飛躍的に進むことが期待されているようです。人の体を構成する60兆の細胞は、病気になると、ふだんとは異なるタンパク質(バイオマーカー)を出すことがわかってきました。すべての病気には、固有のバイオマーカーがあるので、血液検査で数時間もすれば、どんな病気にかかっているかすぐに特定できるのだそうです。現在すでに、前立腺がんやインフルエンザなど10種類ほどの病気で実用化されていて、あまり遠くない将来、おそらく20年、30年後には、もう病気になる人はだんだんなくなり、病気になっても、治療はかなり容易になるということが、この番組では語られていました。

 このようにナノテクノロジーによる医療が進んでいきますと、人の寿命もさらに延びていくことになります。むかしは定年は50〜60歳くらいでしたが、いまは60〜70歳くらいでしょうか。この定年もさらに一段と遅れていくことになり、平均寿命も90歳を超えて100歳に近づくことも決してありえないことではないかもしれません。現在の若い世代は、そのような世界に生きていくことが十分に考えられます。問題は、そのように寿命が延びていくことが、人間にとって本当に幸せなことなのかどうか、ということでしょうか。番組のなかで、近未来に生きている92歳の「若くて元気な女性」が、「病気がなくなれば苦しみから解放されると思ったのに、すごく寂しくなった」とつぶやいていたのが印象的でした。



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 今年は八つの花を開かせた私のサボテン
 (2013.06.01)

 
  八つのうち四つを開花させているサボテン。
  この四つは翌日の昼にしぼみ、代わりに残りの
 四つが開花した。(2013年5月21日夜9時に撮影)



 毎年6月中旬に一回だけ、一つか二つの花を開かせてきたベランダのサボテンが、昨年は私の入退院に合わせるように、7回も開花しました。6月14日から10月12日にかけてです。それで、今年はどのような咲き方をするのか、興味をもって見守っていたところ、5月21日の夜、八つの蕾のうち四つが写真のように花を開かせました。

 夜に開いた花は、朝になって陽に当たりますと数時間でしぼんでしまいます。この写真の花は、5月22日の昼ごろにはしぼんで、代わりに残りの四つの蕾が花を開かせました。今年は、5月21日の夜から22日の夕方までに、八つの花が一度に開いたことになります。いままで、二つ以上の花が一度に開いたことはありませんので、今年はどうしてこのような開き方をするのか、ちょっと不思議な感じがしています。

 写真の中央部に小さな蕾が二つ見えますが、この蕾は裏側や先端部分に隠れているものを含めて八つ数えられます。おそらくこれらは、やがて花を開かせるのではないかと思われます。もしそうなれば、今年は、八つの花を開かせるのが二回続くことになります。これは、いままでにはなかったことですが可能性はありそうです。しかし、その後も、また開花が続くかどうかは今のところはわかりません。これからしばらく見守っていきたいと思っています。



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  70年間文通を続けてきた老師との再会  (2013.05.29)


 その老師と久しぶりにお会いしたのは、一昨日、5月27日、羽田空港においてであった。老師はいま島根県の出雲市にお住まいである。今年で89歳になって足腰も弱っているが、東京の次男と三男や孫たちに会うために思い切って上京したい、この際あなたにも会いたいと、私の所へはがきが届いたのが二週間ほど前である。東京のご家族の方々とも電話で話し合って、お会いする日時を調整しようとしたが、予定がぶつかり合ってなかなか決められない。それで、一週間ほどの滞在が終わって出雲へ帰られる日に、羽田空港で落ち合うことになったのである。

 その老師との初めての邂逅は、もう72年も前のことである。昭和16年の春、私は、父の赴任に伴って、大阪から、戦前の植民地朝鮮の仁川にあった旭小学校へ転入学した。老師はその小学校で私の下の妹の担任であった。女子師範学校を出て間もない頃で、まだ18歳前後であったはずである。家庭訪問で私の家へ来られたのを記憶しているが、旭小学校では、勉強を教わったこともないし、特に親しく話し合ったこともない。それに老師は― といっても、その頃はまだ子どものように若い女教師であったが― 旭小学校には2年在職しただけで、島根県のふるさとの小学校へ転勤してしまったし、私も仁川には5年住んだところで敗戦になり、戦災で荒廃した大阪へ引き揚げていた。

 しかし、どういうきっかけであったか、その当時、まだ若かった彼女との文通が始まり、その文通は、延々と続いて、いまに至っている。引き揚げてきて大阪で食糧難に苦しみ、栄養失調でふらふらしていたときには、「何も持たないで、とにかく、こちらへいらっしゃい」と、島根県の自分の家へ来るようにと強く勧めてくれた。その彼女も、昨年は米寿を迎えて、その記念に2冊目の歌集『紅梅』が刊行されている。「営々と父祖の拓きし棚田かな 桜の山となりてまた春」などと、そこには、いかにも彼女らしい、老師らしい、温かみのある歌が数多く収められていた。

 羽田空港では、見送りに来ていたご家族の方々も一緒に、みんなで搭乗前の一時間ほどを、空港内のレストランで昼食をともにした。老師は私の隣に座ってしきりに私に話しかけてくる。10年ほど前にも東京でお会いしているが、おそらくこれが最後で、もうお会いすることはないかもしれない。私自身も昨年は大病を患っている。彼女にとっても、これが覚悟の上京であったろう。私は、「70年もの間、美しいお手紙で、いろいろと私をあたたかく支えて下さったことをこころから感謝しています」と言うと、89歳の老師、福岡絹子先生は、83歳の老「児童」である私の手を両手でしっかり握って、「いろいろとありましたね。どうかくれぐれもお体を大切に、ご健康を祈っていますよ」と声を詰まらせた。



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  仏になることを念じながら般若心経を唱える  (2013.05.22)


 『般若心経の基礎知識』(大法輪閣編集部編、2012)という本に、僧職にある小松庸祐氏が、「般若心経読経の心得」という文を書いています。このなかで、小松氏は、私たちが読経する本当の理由は、「お釈迦さまと一体化し、仏になるため」というふうに述べています。だから、般若心経を唱える時には、自分自身が「仏」になったと念じることが大切だというのです。

 むかし、お釈迦さまが説法している時には、諸菩薩、諸天をはじめ、その説法を聴きたがっている多くの弟子たちがまわりに集まっていました。それと同じように、私たちが一生懸命に「仏」になることを念じながら般若心経を唱えれば、それらはお釈迦さまのことばそのものですから、やはり、諸菩薩、諸天が、そのお釈迦さまのことばを聴くために私たちのまわりに集まってくるのだそうです。それを、小松氏は、次のように説明しています。

 《般若心経などを読経する時、お経文を唱えるのは自分の声なのですが、それはまさしくお釈迦さまの説法そのものなのだと心に念じてください。
 そして自分の読経の声を自分の耳で聴くわけですが、それはお釈迦さまの説法を聴聞しているのだ(お釈迦さまは自分のために説法をしてくださっているのだ)と思ってください。
 多くの諸菩薩・諸天が、目には見えませんがあなたの周りに雲集(雲のように集まる)し、お釈迦さまの説法そのものであるあなたの読経を聴いておられます。この雲集する諸菩薩・諸天に囲まれた中で、お釈迦さまの聖語であるお経の一句一句を唱え、自分自身もお釈迦さまと同じ「仏」になる修行が、読経なのです。》 (p.103)



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   静けさから遠ざかっていく社会のなかで  (2013.05.15)


 もう50数年も前の昔になりますが、評論家の大宅壮一氏が、出回り始めたテレビの放映を見て「一億白痴化運動が展開されている」と「週刊東京」(1957年2月2日号)で述べたことがあります。作家の松本清張氏も「放送朝日」(1957年8月号)で「日本人一億が総白痴となりかねない」と書いたことから、「一億総白痴化」ということばが新しい流行語になっていきました。テレビはまだ高価で、あまり一般には普及していませんでしたが、一部の人たちの間では、そのマイナスの影響が当初からいろいろと危惧されていたようです。

 私が留学生としてアメリカのオレゴン大学へ行ったのはちょうどその頃です。当時のアメリカは、貧しかった日本から見ると夢のように豊かな国で、テレビはもうどこの家庭にもありました。しかし、子供たちの情操教育によくないということで、テレビを家に置こうとしない人たちもいました。私の留学中、Friendship Family として私の世話をしてくれていたバイアリーさんという若いお医者さんもそうです。二人の幼いお子さんがいて、郊外の自宅の広い敷地には、小川が流れ、お子さん用の仔馬も飼っていて、キャンピングカーや自家用の小型飛行機ももっていましたが、家の中にはテレビはありませんでした。

 1990年代の後半になりますと、携帯電話が流行し始め、それは急速に普及して、いまでは大人から子供に至るまで誰でも持ち歩いているようにみえます。それにゲーム機、音楽プレイヤー、i-phone等々がどこでも目に付くようになり、私たちのまわりには、「騒音」の泥沼にはまり込んでしまってもう抜け出せそうもない人々が増えてきているように思えてなりません。便利といえば確かに便利ですが、これらはテレビ以上に、こころを蝕むような深刻な問題を抱えているとはいえないでしょうか。静寂のなかで自分自身と向き合うひと時をもつということが、だんだん難しくなってきて、私は時おり、今ではもうすっかり死語になってしまったあの「一億総白痴化」ということばを思い出したりしています。



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   最期まで学びを怠らず身体も大切にする   (2013.05.06)


 関が原の合戦で敗れた石田三成は、処刑される直前、警護の武士に水を所望したそうです。それに対し、「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ」と言われたところ、「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えた、という話が「茗話記」という本に残っています。

 警護の武士は「すぐに首を切られる者が、毒断ちして何になるのか」と笑ったのですが、三成は「大志を持つものは最期の時まで命を惜しむものだ」と泰然としていたといいます。実は、漢方では、柿は痰の毒ではなく、薬だという説もありますが、それはともかくとして、死ぬ直前まで身体を大切にしようとしていたことは、霊性向上の観点からみても、正しい心がけといっていいでしょう。

 これは、私の「学びの栞」(B10-a)にも取り上げていますが、『愛情はふる星のごとく』(岩波現代文庫)を書いた尾崎秀実氏は、1944年11月7日に、東京拘置所の絞首台で44年の生涯を閉じました。戦時中の国家機密を外国に漏らしたということで国家反逆罪に問われたのです。中国を深く侵害していた日本の帝国主義と軍閥の暴挙を少しでも阻止しようとして、確信的に行動した結果でした。本当に国を売った国賊なのか、それとも真の愛国者なのかは、見方によって評価が分かれるところです。

 尾崎氏は、新聞記者として中国特派員も勤めた極めて有能な中国問題専門家でした。獄中から愛する家族へ送り続けた数多くの手紙には胸を打たれますが、その尾崎氏は、獄舎でも家族から次々に書籍や資料を差し入れてもらって、膨大な量の読書を続けています。そして、その読書は、死刑直前まで中断されることはありませんでした。尾崎氏は霊性の自覚はなかったかもしれませんが、この最期まで学び続ける姿勢は、これも、霊的人間としては全く正しい生き方であると思われます。



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  必要以上に長生きするということ        (2013.04.22)


 本欄の前回で、大空澄人氏のH.P.「(続)いのちの波動」から、19歳で他界された若い女性からの「愛の通信」を転載させていただきました。この通信を受けた大空澄人氏は、「この女性は若くしてこの世を去られたこともあるのでしょう。清浄でさわやか、こちらも清々しい気持ちになれました」と書いておられます。それから、「あまり長い間この世にいるとこの世の汚れを受けて心が濁ってしまうかもしれません。私もそういう意味で必要以上に長生きをしたくありません」とも書いておられます。

 この「必要以上に長生きをしたくありません」というのは私も全く同感です。人はそれぞれに考え方が違いますし、世の中の常識では、「長生きすることはいいこと」ということになっていますから、それに敢えて異を唱えるつもりはありませんが、しかし、やはり、私個人としては、「必要以上に」長生きしたいとは全く思いません。その私が、実は、昨日、4月20日に、83歳の誕生日を迎えました。日本人の平均寿命は世界一で、男性80歳、女性86歳だそうですが、その男性の平均寿命をも超えて、すでにかなり長生きしていることになります。

 昨年、大腸がんで入院した頃には、ちょうど、東京外国語大学文書館に収めてもらえることになった私の著書のほか、留学関係文書や記録を整理している最中でした。それに、長男の潔典のアメリカでの小学校在学記録や写真集などを加えて、2冊の分厚いファイルにまとめたものが、いまようやく提出できる段階になってきています。身のまわりの持ち物も、かなり整理してきましたから、これからは、さらに「必要以上に」長生きしている領域に入っていくことになりそうです。霊界へ移ってから、遣り残したことを気にかけることがないように、この世での役割はすべて無事に果たして、タイミングよく、穏やかで爽やかなお別れができることを密かに願うばかりです。



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  いまではこころから納得できることば     (2013.04.08)

 
 大空澄人氏のホームページ、「いのちの波動」と「(続)いのちの波動」には、貴重で重要なメッセージが数多く含まれていて、私のような者にとってはたいへん有難く、読み返すたびに、こころを打たれます。たとえば、4月4日には、「旅立った子を思うお母さんへ」という一文が載せられています。大空澄人氏がインスピレーションで得た情報を伝えているものですが、そこには、こう述べられています。

 《その子はこちらで保護して面倒を見ているので心配する必要はありません。その子は家族思いで常に家族の事を気にかけている健気な子です。何故その子は若くして他界したのか?その理由はお母さんの霊的意識の目覚めに伴い、いつかは分かる時が来るでしょう。簡単な事ではありません。それは人生の命題です。》

 それから、3月30日には、19歳で他界された若い女性からの「愛の通信」というのも載せられています。これも、優れた霊能者の大空澄人氏だからこそ伝えることのできる霊界からの通信で、こういう文章を自由に読ませていただけることが、本当に有難く思えてなりません。そこには、こう書かれています。

 《私は今、そちらで生活していた時よりも幸せを感じて生活しています。こちらに来た人は暫くすると不思議な事に残された家族が感じるような悲しみを感じなくなるのです。その理由は視野が格段に広がり物事の捉え方が変わってしまうからです。環境が変われば考え方も変わってくるのです。
 それまで小さな窓から外の景色を眺めていたのが屋根の上に上がって周囲を見渡せるようになったと言えばいいでしょうか。受け止め方が全く違ったものになるのです。説明するのは難しいですがそうなんです。》

 子供が若くして亡くなると、「まだあんなに若いのにどうして」と諦めようにも諦めきれず、また、「あんなにいい子が何故」と考えたりもして親は悲嘆の底に突き落とされてしまいます。私も長男を21歳で亡くした時は、そうでした。私は人一倍、霊的には鈍感で目覚めるのも遅れていましたから、何年も何年も苦しみ続けました。いまつくづく思うのですが、そんな時に、このような大空澄人氏の一文に接していたら、どれほど慰められたことでしょう。それでもいまの私には、「いつかは分かる時が来るでしょう。簡単な事ではありません。それは人生の命題です」というようなことばがよく理解できますし、こころから納得できるようになりました。



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  私にとっての無上甚深微妙の法         (2013.03.29)


 仏教の礼讃文(三帰依文)に、「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し、我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」というのがある。「百千万劫」の「劫」とは、古代インドにおける最長の時間の単位である。巨大な岩山を薄い白布で百年に一度さっと払い、それを続けて大岩石がすっかりなくなってしまうまでの時間が一劫であるという。それが、さらに百千万回も繰り返されるような、殆ど無限永久の時間がかかっても、なかなか聞くことができないのが、「無上甚深微妙の法」である。

 むかし、お釈迦様の前世の姿であった雪山童子が山中で修行中に、羅刹から真理の教えを聞く話がある。帝釈天が食人鬼の羅刹に姿を変えて、「諸行無常」(作られたものはすべて無常である)、「是生滅法」(生じては滅することを本性とする)という仏の教えを詩句にして唱える。それを聞いた雪山童子は、その詩句の後半があるはずで、羅刹にそれを是非聞かせてほしいと懇願する。羅刹は何日も食事をしないで飢えているから、雪山童子の体を食べさせてくれるなら教えてやってもいいと答える。雪山童子はそれを受け容れて、「生滅滅己」(生滅するものがなくなり)、「寂滅為楽」(静まっていることが安らぎである)という後半の詩句を聞く。そして、約束どおり高い木から身を投げて羅刹に食われようとしたが、その瞬間に、羅刹の姿は帝釈天に戻って、恭しく雪山童子の体を空中で捧げ抱いた。

 この雪山童子が羅刹から聞いた真実のことばは、雪山にちなんで仏教では、「雪山偈」(せっせんげ)とよんでいるらしい。偈というのは、仏の教えや、徳を称えたりするときのことばを詩句の形であらわしたものである。雪山童子にとっては、この「雪山偈」こそが、命に代えてもよい「無上甚深微妙の法」であった。この「雪山偈」は、日本語に訳されて「いろは歌」になっている。「色はにほヘど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ」が前半で、後半が「有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」である。私たちは、それを、(花は咲いても忽ち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。無常は生ある者のまぬかれない運命である)と(生死を超越してしまえば、もう浅はかな夢も迷いもない。そこにほんとうの悟りの境地がある) というふうに理解しても、それで命を捧げるくらいの「無上甚深微妙の法」と思えるであろうか。

 「無上甚深微妙の法」である仏典の数は膨大であるが、そのなかでも一番短いのが「般若心経」である。そして、その冒頭には、「観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊皆空度一切苦厄」とある。観音菩薩が真剣に修行している時に、あらゆるものは無常で常に移り変わっていくことを見極められて、苦しみや災難をすべて乗り越えることができた」という意味は何とか理解できるが、私たちには、なかなか「照見五蘊皆空度一切苦厄」とはいかない。後に続く「空」の真意も難解である。必死についていこうとしながらも、「願わくは如来の真実義を解したてまつらん」と願い続けるほかはない。

 しかし、一方では、また別の教えもある。スピリチュアリズムである。私たちは本来、「肉体を伴った霊」であって、「霊は永遠」である。つまり、私たちは死んでも死なない。死ぬというのは、壁をひとつ隔てた隣の部屋へ移るようなもので、「隣の部屋」では、愛する家族とも必ず再会できる、というような教えである。これは実に単純でわかり易い。しかも、その重大な真理を証言する膨大な記録もある。あまりにも単純でわかり易いからかえって信じられないのかもしれないが、少なくともいまの私にとっては、これが何よりも有難い「無上甚深微妙の法」である。



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  二・二六事件と妻の誕生日          (2013.02.25)


 二・二六事件とはいうまでもなく、1936年(昭和11年)2月26日未明、日本陸軍の一部青年将校らが1400人の部隊を率いて惹き起こしたクーデターである。彼らは殆どが陸軍士官学校出身の20歳代の少尉から大尉が中心で、政財界の腐敗を弾劾し農村の極度の疲弊困窮を救うための「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンにして決起した。彼らは、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監らを殺害して、昭和天皇に昭和維新を訴えようとしたが、天皇はその決起を受け容れず、結局、軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力により鎮圧した。

 決起のきっかけになったのは、第一師団の満洲移駐の発表であったらしい。当時陸軍では北支那への侵略が企てられていて、青年将校らは、それに強く反撥していた。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図らなければならない、というのがその理由である。しかし、彼らの主張が押しつぶされてからは、日本陸軍は政治に深く関与するようになり、農村の疲弊を顧みず、統制経済による高度国防国家への改造を目指した。日本陸軍は、翌年7月7日には盧溝橋事件を惹き起こし、日中戦争にのめりこんでいくことになる。そして、それは1941年(昭和16年)のアメリカ相手の太平洋戦争に繋がっていった。

 今年は、この二・二六事件から77年になる。たまたま、私の妻・冨子が生まれたのは1936年2月24日で、事件発生の2日前であった。しかも生家は、靖国神社のすぐ前で、誕生2日後から、生家の周辺は兵隊たちの物々しい警戒が続いて、産婆さんが通ってくるのも容易ではなかったらしい。東京市中は戒厳令が布かれて、それが29日まで続いたから、育児用品などを買いに出ることもできなかったという。そして、その生家も、太平洋戦争では、1945年3月10日の東京大空襲で、焼夷弾の直撃を受けて全焼した。二・二六事件から77年経って、妻の冨子も昨日が誕生日で、この世に生きていれば77歳になったことになる。



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  30年間活き続けたラジオの単3電池    (2013.02.06)

  
  潔典が高校時代に使っていたと思わ
  れる第二のラジオ。この電池は30年間
  活きていた。(2013年1月30日撮影)


 このホームページの「身辺雑記16」として、「時の流れがとまっていたかのように」という小文を載せたのは、2004年8月16日でした。その時からもう8年以上も年月が流れていますが、その「身辺雑記16」を私は、つぎのように書いて締めくくっています。

 《・・・・・潔典のおもちゃの時計が11年以上も、画面の人形が踊り、鳴り続けたというのは、アン・ターナーに言われるまでもなく、とても偶然とは思えませんが、潔典のラジオが22年以上たったいまも放送を送り続け、潔典たちの最後の写真を収めたカメラは、その日付が23年たったいまも正常に表示されている、というのもちょっと不思議な気がします。これらもまた、単なる偶然ではないのかもしれません。》

 実は、昨年11月に、潔典が高校時代に使っていた机の引き出しの奥から、上の写真のような第二のラジオを見つけました。スイッチを入れますと急に大音響で音楽が流れ出しましたので、慌ててボリュームを下げたのですが、年末にまたスイッチを入れても、同じようにラジオが聞こえることを確認しました。しかし、新年になってからは、もう聞こえず、電池の寿命がとうとう尽きたようです。この単3電池は、1982年以降、少なくとも30年間以上電池が活きてきたことになります。電池がこれだけ長く活き続けてきた実例として、ここに書き留めておくことにしました。

 






過去の寸感・短信
 2012年7月〜12月
 2012年1月〜6月
 2011年7月〜12月