暗闇の中で光を求めて (身辺雑記 36)
  ー 事件後5年の1998年9月に霊能者A女史へ宛てた手紙 ー

 先日はご丁寧なお手紙をいただきまして有り難うございました。また、札幌では私のこれからの生き方について、いろいろとご助言下さいましたことを、厚くお礼申し上げます。

 あのあと、八月下旬に東京へ帰ってからは、毎年、事件の日に向けて繰り返してきた気の重い行事の一つ一つを終えていきました。「大韓航空機事件の真相を究明する会」の定例研究会、HBCやNHKからの取材・録画、新聞原稿の執筆、九月一日の参議院議員会館での声明発表と記者会見、五年忌の法要等です。

 ふだんは家に閉じこもりがちで、友人、知人とも没交渉のままですが、真相究明のための努力は放棄するわけにはいきません。九月一日のNHK「ニュースTODAY」や、二日、三日のNHK「北海道ジャーナル」の番組は御覧になられましたでしょうか。空しい気持を抑えながら、真相究明のためにはあえて人前に出て、あのような発言を繰り返しております。放送局から送られてくるビデオ・テープも、昨年からやっと封を切って、自分自身の映像に対峙してみるようになりました。少しは「進歩」しているのかもしれません。

 しかし、まだこういうこともあります。

 犠牲者のひとりである蔡洙明君という一二才の少年が書き残した『いのちときぼう』という詩集があって、その詩集の発刊をきっかけにして「いのちときぼうの会」がつくられました。洙明君が通っていた世田谷の小学校の先生や父兄が中心になり、いまでも定期的に会合が開かれています。九月四日の日曜日に私はその会に招かれ、大韓航空機事件について一時間ほど話をすることになったのです。それが私にとっては今年の「行事」の最後の予定でした。

 区の公民館の一室に集まった人たちは五〇人くらいで、会場の最前列には高校生らしい男女の若者が何人か静かに座っています。私は教壇にでも立っているつもりで、淡々と話を進めていけるはずでした。ところがはじめに立った司会の人の紹介で、私のすぐ前にいるその若者たちが、かつては洙明君の同級生だった人たちと聞かされると、それだけで急にしばらく私は声が出なくなってしまいました。潔典の先生に電話でお礼を申し上げようとして受話器を取り上げても、とうとう一言も声が出せなかったあの事件直後の症状がよみがえってきたのです。

 正常のつもりではいても、いつも抑えに抑えているものが、ちょっとしたきっかけでどっと噴き出してしまいます。もうこういう状態からは抜け出さなければならないのですが、まだ私にはこころの深い傷が残っていて、それを確固たる信念で癒していくことができていません。それをどう克服していけばいいのか。札幌でいろいろとお伺いしていたのは、実はそういう再生の道への模索でした。

 あなたからいただいた富子の霊言のなかの「いつまでも悲しまないで下さい」や、潔典の霊言のなかの「元気になってほしい、怨念の苦痛のある間は立てないのです」を私はいま真正面から受け止めていかなければならないと、あらためて思い始めています。おそらく富子も潔典も、理解の遅い私をはらはらしながら見守っているのかもしれません。そしてまた、おそらく、私にはそのような富子や潔典の心配に応えていく義務があるのでしょう。いずれにせよ、これからは一層真剣に、霊界の勉強を続けていかなければならないと思っています。

 長い石段を一段ずつ上っていくように、足を引きずりながら、辛さに耐えながら、五年目の節目にまでたどり着いて、そして今年の九月一日で、ともかくもその節目を越えました。五年目であることに何とか意味をつけてみることが出来るかもしれない、「五年目の節目」と受取りそれを越えることで少しでも張り合いのある生き方の可能性が開けるのかもしれない、などとこころのどこかで考えながら、今の私は、再出発のきっかけをなんとか掴もうとしています。私が「生きる」ことで富子も潔典も「生きる」のであれば、苦しみ嘆くだけで私が無明のまま死んでいくことはできません。自分に残されたいのちの長さに関心をもつようになってきたのも、そう考えるようになったからです。

 事件の翌年、札幌のお宅でお目にかかったとき、富子と潔典を霊界から呼び寄せて下さったことがありました。あの時は、富子と潔典に話をするようにと言われてもただ呆然とするだけで、それがどういうことなのか何もわかりませんでした。いまは少しずつわかりはじめようとしています。もし許されるならば、こんどいつか、もう一度あのような機会をお与え下さいませんでしょうか。これは私にとっては重大な問題で、自分なりにもっと勉強したうえで、またきっとお願いさせていただきたいと、これまで思い続けてきました。そういうことも一つの生きがいとして、またお目にかかれる日まで、精進を進めてまいります。

 どうぞよろしくご教導下さいますよう重ねてよろしくお願い申し上げます。

  =1988.9.22=

     *****

 このA女史は、事件のあと、初めて訪れた私に、「2〜3年は苦しまれるでしょうね」と言った。私はそれをうつろな気持ちで聞きながら、2〜3年すればこの苦しみが薄らぐのだろうかと思った。しかし、2〜3年経ってもそうはならなかった。5年目でやっと、この程度の手紙を書いていたのだから、私の無明の闇はよほど深かったに違いない。無知ほど怖ろしいものはない。事件から22年が過ぎたいま、かつての己の無知を省みて忸怩たるものがある。

  (2005.12.01)





 霊界実在を認識し始めた頃 (身辺雑記 35)
  ー 事件後5年の1988年9月に長男・潔典の友人たちに宛てた手紙 ー
 

 この間は潔典の五年忌にわざわざおいでいただき誠に有り難うございました。潔典もなつかしいあなた方に今年もまたお会いすることができて、さぞうれしく思っていたことでしょう。私がいま、少しは潔典のいる世界について理解しはじめていることを潔典は知っているはずですから、あの時も、彼は自分の感謝の気持を私が代わってあなた方に伝えてくれるであろうと期待していたにちがいありません。その潔典のためにも、もう一度あなた方にこころからのお礼を申し上げます。

 私は時々あなた方の前で、自分が理解している範囲での霊界の話をしたりしましたが、知的水準の高いあなた方には、あるいは場違いの感じを与えてしまったことになるでしょうか。だいたい私自身が五十数年生きていながら、霊界のことなど何一つ知らず、また知ろうともしてこなかったわけですから、いわば付け焼き刃も同然で、あまり説得力があるとも思えないのです。しかし、それにもかかわらず、しどろもどろにでも口を開かざるをえないのは、あなた方が潔典にとって大切な友人であるからにほかなりません。自分にとって大切な人たちに、潔典も、折りさえあれば、きっと一生懸命に語りかけたがっているだろうと思うからです。

 事件後五年間、私は苦しまざれに、藁をも掴む思いで仏門を叩き、聖書などもひもといたりしてきました。いまでもまだまだ理解できないでいることが多すぎますが、それでもひとつだけ、私なりに確信が持てるようになったことがあります。それは霊界が厳として存在するということです。そしてこのことは、人間とはもともと肉体を持った霊的な存在で、生命は肉体にあるのではなくて霊にあるということの証左でもあるのでしょう。つまり、心臓の鼓動が停止したら人間は死ぬのではなくて、肉体は滅びても霊は生き続ける。これを、短い人生を 「生きている」現在が、実は死んでいるのであって、「死んだ」時から人間は永遠の生命を生き始める、というように説いている人もいるようです。

 もし、これが本当にそうであったら、私たちの人生観は根本的に変わってしまうかもしれません。たかだか数十年の人間の一生というのは永遠の生命からみるとほんの一瞬ですが、その一瞬がすべてであると思い込んでいるのと、それが永遠のなかの貴重な一瞬であると受け止めているのとでは大きな違いがあります。そこであらためて聖書を読み直してみますと、イエス・キリストは一生懸命にその永遠の生命を説いていることに気がつきます。私はまた、仏典のなかの阿弥陀経というのを好んでとなえるようになりましたが、ここでは釈尊が「いつわりを述べているのではない」と何度も念をおしながら、やはり同じことを説いています。

 説かれ方はどうであれ、この霊界実在は私にとって重大な福音となりました。迷信を嫌い不条理を排し、しかもなお迷いに迷いながら、私はいまやっとその認識によって、苦悩の闇の底からなんとか這い上がろうとしています。潔典と潔典の母親のいのちを代償として、はじめてひとつの真理に目覚めるとは、いかにも愚鈍で遅すぎますが、極限状態を経て生死の問題を突きつけられてきたこういう私の生き様だけでもお伝えすることが、あなた方のご厚志にお応えする道でもあろうかと考え、あえて未熱さを披瀝いたしました。私の意のあるところを、もしこの短い手紙からお汲み取りいただくことができればたいへん有難く存じます。

 末筆ながら、あなた方のご健康をお祈り申し上げます。

    = 1988.9.26 =

   *****

 この手紙を書いた時には、1983年の事件で潔典が母親と共に霊界へ移ってからすでに5年経っていた。それから、さらに17年も時が流れていまの私がいる。

 東京外国語大学・英米科で潔典と特に親しかった4名の友人たちは、このあとも一度も欠かすことなく毎年私の家を訪れ、潔典と母親の仏前に花を供えてくれたことを私は忘れることが出来ない。事件後22年になる今年も、それは続いた。

  (2005.11.01)






 長男が思い定めていた他界の時期 (身辺雑記 34)

 もう5年前になりますが、ロンドンの大英心霊協会で知り合った霊能者アン・ターナーを通じて長男・潔典(きよのり)からの手紙を受け取ったことがありました。2000年6月5日付のその手紙には、「ぼくたちは、生まれるときには、好きな家族を自分の責任で、自分で選んで生まれてくるのですね。友だちなどもやはり、生まれるときに、自分の責任と好みでえらんでいるのです。こういう特別の愛があることも、いまのぼくにはわかってきました」という一節があります。そして、「ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも、長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えながらあらためてお詫びします」という一節もあります。

 1983年の夏、アメリカのノース・カロライナ州立大学の客員教授をしていた私のところへ、母親と二人でやってきて夏休みを一緒に過ごした潔典は、1983年8月30日の午後、ノース・カロライナ州ローリー・ダーラム空港から、母親と二人で帰国の途につきました。フィラデルフィア経由のユナイテッド航空機でニューヨークのケネディ空港には、午後6時過ぎに着いています。それから国際線にまわって、午後11時50分発のソウル経由成田行きの大韓航空機007便に乗ったのです。潔典からは、ケネディ空港から、2度電話がかかってきました。無事に着いたというのが午後7時過ぎ、それから、もうチェック・インもすんで、座席も窓際が取れ、あとは乗るだけ、というのが午後9時過ぎです。上述の手紙で「あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください」と潔典が言っているのは、この最後の電話での会話のことです。

 いつも明るい潔典の声が、その時だけは、しどろもどろで、飛行機に乗り込む前の状況を急いで説明したあとは、慌てたように「ママと代わるから、代わるから」と言って、母親に電話が代わったのです。妻の富子とは、普通にしばらくおしゃべりして電話を切りましたが、私は、電話が終わった後しばらくは、何か、暗い胸騒ぎを抑えきれませんでした。子供のときから素直で天真爛漫な潔典を、私はほとんど叱った記憶はないのですが、あの時だけは、東京に着いたらかかってくるであろう電話で、「潔典、あんな電話のかけ方をしたらお父さんは心配するではないか」と、強く注意しておこうと思ったくらいです。

 実は、この電話の前にも、いくつもの潔典の不安を示す態度やことばがありました。『疑惑の航跡』(潮出版社)のなかにも書きましたが、帰国前のバーベキューで、その材料を仕入れにスーパーマーケットへ行ったとき、巨大な1キロ半はありそうなステーキの塊を指差して、潔典がにこにこしながら、「死ぬ前にこんなビフテキを一度食べてみたいな」と言ったこともあります。そのようなことなどを含めて、潔典の態度やことばは、今にして思えば、私に対してそれとなく別れを告げていたのかもしれません。しかし、鈍感な当時の私は、それらからほとんど何も察知することは出来ませんでした。事件が起こってから初めて、愕然としてすべてをまざまざと思い出しただけです。

 いまの私にはわかるのですが、潔典は、あの時、自分がこれから死出の旅路に出ることを魂の奥深くでは知っていて、そのことを、それとなく意識し始めていたのだと思います。シルバー・バーチは、死ぬ時期というのは、本人には分かっていることで、ただ、「それが脳を焦点とする意識を通して表面に出て来ないのです・・・・ 魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります」と述べていますが(栞A57-e)、潔典がケネディ空港でしどろもどろの電話をしたというのも、「それ相当の準備」がまだ終わっていない段階だったからなのかもしれません。

 その後、1999年6月5日の東京でのA氏を通じてのメッセージで、「お父さんは僕に、仕事や勉強など、とりわけ語学の面と国際文化の領域で跡を継ぎ、活躍してほしいと期待をかけてくれていました。でも守護霊たちが、もっとあの世のことに精通するほうへと導いていき、たいそう大きな力が働き、このような具合に流れ上、なってきました」と伝えられたこともあります。「このような具合」というのは、潔典が私を霊的に目覚めさせるためのきっかけを与えるというのが一つの大きな動機になっていることで、そのことも、私は後に知るようになります。そして、今年の8月31日には、同じくA氏を通じての、新しいメッセージを受け取りました。

 そのなかでは、潔典の近況として、「生前の父親であったあなたに対しては、敬意を表し、また、感謝しています。お互いのかかわりで、本当に愛が体験できました。それこそ、もっとも貴重なことだったのです。ある期間、親子で、家庭において生活をともにした、それがとても有難く、すばらしいものでした。今でも彼のベースにそれはなっています。その意味でも感謝してきています」と伝えられています。そして、そのあと、潔典自身の私に対することばも、次のように聞くことが出来ました。「有難うございます。よく耐えてくださいました。もうじきお会いしましょう。こちらで待っています。他界する時期は自分でもわかるでしょう。僕も分かっていました。」

 この「よく耐えて」というのは、私が妻の富子と潔典が霊界で生き続けていることを理解するようになるまでの長い悲嘆の道のりを言っているのでしょう。そして、「僕も分かっていました」というのは、もちろん、潔典の他界した時期のことで、1983年9月1日〔日本時間〕を意味しています。潔典は、生まれ故郷の北海道を目前にしたサハリン沖の海上で、この日の未明、母親と共に散っていったのです。私は、今年のこの潔典からのメッセージには、あふれるような思いを抑えながら、峻厳な気持ちで聞き入っていました。

  (2005.10.01)





 敗戦後の留萌沖「三船殉難」の悲劇 (身辺雑記33)


 留萌沖を見渡す小平町鰊番屋跡に建つ
三船殉難慰霊碑」 碑文の一部に「夢に抱
きし故山を目睫にしてこの惨禍に逢う悲惨
の極みなり」とある。筆者撮影(2005.07.17)


 札幌の手稲区にある我が家は、2階の北側の部屋が、長男・潔典(きよのり)の部屋になっていて、その窓からは、数キロ先に石狩湾の海が展望できる。晴れた日には、大きく湾曲した湾の東端が北に伸びているその先端あたりに、増毛山地が海に落ち込んでいる雄冬岬も視野に入ってくる。その岬の北陰にあるのが、留萌市である。今は沖合・沿岸漁業基地として命脈を保っているが、かつては、100万石といわれた鰊漁場で栄えていた。その沖合いで、1945年8月22日、「三船殉難」の悲劇が起きた。

 太平洋戦争の敗戦から一週間が過ぎて、樺太(現サハリン)から「緊急避難」する3隻の引き揚げ船が「国籍不明」の潜水艦によって襲撃されたのである。小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻で、合わせて5千人あまりが乗っていた。8月22日の早朝、3時過ぎ、それぞれの引き揚げ船は、北海道の島影をすぐ左側に見ながら、ゆっくりと小樽港へ向かって南下していた。魚雷攻撃と砲撃により、小笠原丸と泰東丸は瞬く間に沈没、第二新興丸は大破しながらもかろうじて留萌港にたどり着いたが、計約1,700名の人名が犠牲になってしまったのである。

 昨年8月、「国籍不明」の潜水艦はソ連太平洋艦隊の所属であったことが「北海道新聞」に報道された。新生ロシアが、長い年月を経て、やっと真相を情報公開したのである。ソ連軍は、スターリンの命令により、8月15日の日本の降伏後も、なお戦闘を継続させていた。スターリンは、北海道の北半分の占領を企て、ソ連軍2個師団を留萌に上陸させる作戦計画を立てていたらしい。その作戦を円滑に遂行するために、潜水艦を留萌沖周辺に配置して、留萌港に近づく日本艦船はすべて撃破する態勢をとっていたという。小笠原丸などの3船が犠牲になったのは、このような状況下であった。

 このソ連の北海道北半分占領の企ては、アメリカ政府の強い反対にあって、8月22日の夕方、急遽中止された。しかし、戦闘停止命令がソ連潜水艦に届いたのは、その日の深夜になってからで、そのときにはすでに、約1,700名の日本人人命を奪った惨劇は終わってしまっていた。スターリンの領土拡張の野望は論外としても、あの戦闘停止命令が、せめて1日早く出されていれば、と思う。8月15日に日本は降伏しているのになぜ、と考えたりもする。

 あの日から60年、いまは、この惨劇を偲ぶ慰霊碑のひとつが、留萌沖の青い海を前にして、小平町の鰊番屋あとにひっそりと建っているだけである。私は、札幌から車で稚内の「祈りの塔」へ行くときには、その小平町の慰霊碑の前を通っていくのだが、今年の夏も、その慰霊碑の前には、犠牲者の御霊に捧げられた花束が、潮風にさらされて小さく打ち震えていた。私は、札幌の自宅のかつての長男の部屋の窓から海を眺めるとき、稚内の「祈りの塔」への一直線上にある、この「三船殉難の碑」のことも、いつも誰かに訴えておきたいという気持ちを抑えることが出来ないでいる。

  (2005.09.01)





  宗谷岬に建てられた「祈りの塔」 (身辺雑記 32)


 裏(北)側から見た「祈りの塔」。手前
には一面に咲いているアルメリアの花が
小雨の中で濡れていた。筆者撮影
 (2005.07.20)



 稚内の宗谷岬は日本最北端の地ですが、その宗谷岬の、晴れた日にはサハリンを望む小高い丘の上に、大韓航空機事件の「祈りの塔」があります。白御影石張りの塔と翼壁、台座で構成され、ツルが翼を広げた形です。高さは事件の起こった年、1983年にちなんで19.83メートル。ツルの頭の部分は、サハリン沖の撃墜現場を向き、その現場の緯度と同じく46度に傾いています。総工費 1億2千5百万円は、全国からの寄付金や私たち事件犠牲者遺族の拠出金、それに大韓航空の協賛金などでまかなわれました。

 この「祈りの塔」が建てられたのは、事件後2年を経た1985年の夏のことですが、完成するまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。まず、「祈りの塔」の最初のデザインが、変更を余儀なくされました。1984年8月に遺族会が公表した「祈りの塔」のデザインでは、塔全体に46度の傾斜がつき、その四分の一の高さのところに翼をかたどったものが左右についていました。これに対して、「ちょうど飛行機が海面に墜落する姿で、悲惨なイメージが強すぎる」と外部からクレームがつけられ、設計をやりなおさざるをえなくなったのです。現在の「祈りの塔」は、2度目のデザインで生まれた妥協の形です。

 しかし、このような「祈りの塔」の形態よりも、私が遺族の一人として、なによりもこだわっていたのは、この「祈りの塔」に刻み込む碑文でした。碑文が誰によって書かれるにせよ、それまでに明らかにされた証拠によって、そこには、大韓航空機の故意によるソ連領空侵犯と、それを知っていながら放置していた者の責任の指摘、および、犠牲者に対する遺族としての真相究明の誓い、の2点だけは、必ず盛り込まなければならない、と強く主張していました。

 いろいろと遺族会で話し合った結果、碑文は、遺族の中から公募するかたちで原案がいくつか集められました。私も遺族の一人として、あえて応募することにしましたが、それは、つぎのようなタイトルの碑文案です。

     ***

    愛と誓いを捧げる

 愛しい人たちよ、一九八三年九月一日の未明、あなた方を乗せた大韓航空00七便は安全運航の責任と義務を完全に放棄し、定められた航路から五百キロも外れて故意にソ連領空を侵犯しました。そのためにソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、何の罪もないあなた方まで犠牲にされてしまったのです。

 アメリカ政府と軍部はこの領空侵犯を熟知していて、始めから終わりまで克明に追っていたはずであったのに、なぜ警告して救おうとはしなかったのでしょうか。ソ連政府と軍部はこの航路逸脱を二時間半にわたって捉えていながら、どうして軍用機と間違えて撃墜してしまったというのでしょうか。

 愛しい人たちよ、あなた方の生きる喜びを無残にも奪い去った大韓航空と米ソの人命軽視を私たちはあくまでも糾弾し、事件の真相を明らかにしていくことを誓います。あなた方の犠牲を決して無駄にさせないためにも、いのちの重みと平和の尊さをひろく世界の人びとに訴えていくことを誓います。

 愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください。

     ***

 この碑文案の採用については、当時、予想もできなかった遺族会内の一部の不明朗な動きの中で、烈しい軋轢があって、私はその渦中に巻き込まれてしまいました。詳しいいきさつは、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(「世界」1985年10月号)にも書いておきましたが、妻と長男を失って悲嘆のどん底にあった私にとっては、ほとんど耐えがたい苦しみで、そのころから私は遺族会からも離れ、新しくスタートした「真相を究明する会」のメンバーとして、その後10年近く、真相究明運動に携わっていくことになります。

 結局、現在の「祈りの塔」に刻み込まれた碑文は、タイトルと最後の一行は、私の原案と同じですが、その中身は、米ソが深く関わった事件の骨子が、私の知らないところですべて骨抜きにされ簡略化されて、つぎのようになりました。

     ***

    愛と誓いを捧げる

 あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来、あきらかにされるでしょう。

 わたしたちは、あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません。わたしたちは生命の重さと平和の尊さと武力のおろかさを、ひろく世界の人々に訴えていくことを誓います。

 愛しい人たちよ、安らかにお眠りください。

    ***

 事件が起こってから22年、この「祈りの塔」が建てられてからも20年が経過しました。事件の真相究明は、国会議員、文筆家、航空技術者、市民運動家等、大勢の方々のご協力の下に数十回におよぶ研究会を経て、1988年1月には、『大韓航空機事件の研究』(三一書房)を刊行することができました。少なくとも私自身にとっては、事件は、世間でよくいわれていたような、謎でもミステリーでもなく、真相は、私自身は、明らかになったと思っています。しかし、この事件を引き起こしたものが、国家の大義という虚飾をふりかざした政治家たちの陰謀であれ、自国防衛の蓑にかくれて栄達を図る軍人たちの謀略であれ、いまでは、小さな、哀れな人間たちの業(ごう)のようなものに思えてなりません。20年以上の歳月が流れるうちに、私は、事件そのものも、もっと大きな広い視野で捉えなおすようになりました。

 先月、ひとりで、久しぶりにまた、その「祈りの塔」へ行ってきました。いつもは晴れていることが多かったのに、その日は小雨が降っていて、平和公園と名づけられたその小高い丘の「祈りの塔」のあたりには、人影はどこにもありません。私は、まわりに誰もいないことにむしろこころの安らぎを感じて、しばらく「祈りの塔」の前に佇んでいました。塔の翼壁には、犠牲者の国の数に合わせて、16枚の白御影石がはられています。その翼壁の右側にあるのが「愛と誓いを捧げる」の碑文です。塔を中心にして、左側の対称の位置には、事件犠牲者269名の名が刻み込まれ、事件の概要を私が和文と英文で書いた石版が、少し離れたところに置かれています。

 「犠牲者霊位」と書かれた名簿は、黒大理石で、269名の名前は雨で濡れていました。左上から2行目に、妻と長男の名前があります。雨に濡れているその名前を指先でそっとなぞっていますと、自分でも思いがけなく、不意にどっと涙があふれてきました。いまは、生と死の意味を自分なりに理解できるようになっているつもりでも、私にはあまりにも長い間、悲しみ苦しみ続けた記憶が、こころの奥深くに染み付いてしまっているからかもしれません。

 この「祈りの塔」の裏側には、イソマツ科の宿根草で海辺に咲くアルメリア(和名ハマカンザシ)が、ひろく一面に咲き続けています。宗谷漁業組合の婦人部の方々が、大韓航空機事件犠牲者の冥福を祈って植えてくださったものです。私は、雨に濡れて、少し寂しそうに赤い色を見せているこの可憐なアルメニアにこころを癒されながら、妻と長男に別れの言葉をかけて、「祈りの塔」から離れていきました。

  (2005.08.01)





  4年ぶりのアメリカへの旅 (身辺雑記 31)


全世界に750万人の信者を持つといわ
れるモルモン教の総本山ソルト・レーク
寺院 この周辺には大礼拝堂やビジタ
ー・センターなどの関連施設が並んで
いる (筆者撮影) 2005.06.05


 この間、4年ぶりにサンフランシスコの街を歩いていました。ユニオン・スクエアー周辺の建物をきょろきょろ眺めていますと、道に迷っているとでも思われたのでしょうか、見知らぬ中年の商社マン風の日本人男性から話しかけられました。その人は、もう20年も前から、何度もサンフランシスコへは来ているのだそうです。私に、サンフランシスコは初めてですか、と聞いてきましたので、「いいえ、何度か来たことはあります」と答えました。考えて見ますと、私が初めて、サンフランシスコへ来たのは、1957年で、もう48年も前のことになります。それからも、アメリカでの長期滞在や旅行で、この街へ足を踏み入れたのは、30回くらいにもなるでしょうか。しかし、そういうことまでは、会ったばかりのその人には話しませんでした。

 アメリカは1957年以来、かなり広く見て回ったつもりですが、国土が広大ですから、よく知られた都市でもまだ行っていないところが結構ありますし、2、3度訪れただけの街もあります。サンフランシスコからは、飛行機で東へ約1時間半のソルト・レーク・シティもそんな街の一つです。ソルト・レーク・シティ郊外の知人の家に2週間ほど滞在していましたから、ソルト・レーク・シティの街をゆっくり見て回ることもできましたが、この街は、これで3度目でした。

 初めてこの街を訪れたのは、1958年の夏のことです。オレゴン大学 (University of Oregon) での留学生生活を1年終えたところで、夏休みにフィラデルフィアに行く友人の車に便乗して、西から東へ4千500キロの旅を続けました。ニューヨークでひと夏を過ごした後は、グレイハウンド・バスでまず、南へ下り、ニューオーリンズからテキサスを通って今度は大陸を東から西へ横断し、一週間目くらいにソルト・レーク・シティに立ち寄ったのです。留学前から、札幌の碁盤の目のように整然と区割りされた街並みは、ソルト・レーク・シティをモデルにしたものだ、という誰かから聞いた話が頭に残っていて、現場でその話に納得し、美しい清潔な街という印象を強く持ちました。

 いま、その当時撮ったスライド写真をあらためて眺めてみますと、州議事堂や壮大なモルモン教会などの建物などのほかに、1847年、ブリガム・ヤングをリーダーとするモルモン教信者たちが、東部での迫害から逃れて西に向かい、やっとこの地にたどり着いて、「これこそが理想の地である」(”This is it!”) と言ったという彼らの銅像の写真があります。近くのソルト・レークは琵琶湖よりも9倍も大きく、塩分含有量25パーセントの文字通りの塩辛い湖で、当時、コカコラの瓶とハンバーガーを両手に持って湖に入っても、体は沈まないといわれたりしていました。私も自分で湖に入ってみて、それを確認しています。南西40キロのところにある、世界最大の露天掘りのビンガム銅山の写真も残っています。いまは、直径4キロ、深さは800メートルになっているようですが、当時でもその巨大さには、まだ日本は貧しかっただけに、アメリカの資源の豊かさと強大な国力を強く感じさせられていました。

 2度目にソルト・レーク・シティを訪れたのは、1974年のやはりアメリカの夏休みの間です。このときは、4人家族で40日をかけてアメリカをざっと一周する車での旅の途中でした。州議事堂やモルモン教会・大礼拝堂の世界最大といわれるパイプオルガンなどの写真がいまも残っています。30年も経ちますと、このときに見て回った街の印象などは、かなり薄れてしまっているのですが、ひとつだけ鮮明に残っている思い出のようなものがあります。車でモテルにとまって、朝、支払いを済ませ、モテルを出ようとしたときのことです。フランス系の名前のモテルの女主人は、愛想笑いをして手を振ったりしていましたが、足早に私たちの泊まった部屋へ向かっていました。私はそのとき、ふと、女主人がタオルなど盗まれていないか、確かめに行っているのだと直感したのです。

 その当時はまだ観光もいまほど盛んではなく、そのモテルでもアジア人の客は、珍しいほうであったかもしれません。アメリカ人でもモテルのバスタオル類を持ち帰ったりするのは、よくあることでしたから、貧しいアジア人ならば、と彼女が考えたとしても不思議ではなかったでしょう。しかし、その彼女は、私たちが泊まって部屋に入って、多分、驚いたと思います。もちろんタオル類はそのままですし、部屋は使用前と変わらないくらいにきちんと清潔に整頓されていました。亡くなった妻はかなりのきれい好きでしたから、使用後のベッドメイキングなども、そこまでしなくても、と言いたくなるくらいに、いつもきれいにしていたのです。もちろん、女主人に対する印象は、私の勘違いということもありうるわけですが、それでも、ソルト・レーク・シティといえば、私には、チリ一つ残さずきれいに整頓して後にしたこのモテルの部屋のことが、妙につながりをもって連想されてしまいます。

 3度目の今度は、二人とも無類の好人物という感じのヤング夫妻の案内でモルモン教会などを見てまわりました。モルモン教というのは、1805年にニューヨークの片田舎で生まれたジョセフ・スミスが1827年に神の啓示をうけたことに始まるようです。彼は、モロナイという天使から教典を授かるのですが、その教典を編纂した預言者モルモンから、モルモン教の名が生まれました。ビジターセンターの建物の中央に螺旋階段があって、47年前に最初に訪れたときには、この螺旋階段をぐるぐる降りていって、一番下まで来ると、そこには光が差し込むなかで、天使から教典を授かっているジョセフ・スミスの像があったような気がしていたのです。しかし、今度は逆に、螺旋階段をぐるぐる上っていって、一番上まで来ると、そこにはイエス・キリストの大きな像が立っていました。私の錯覚であったのか、あるいは、47年の間に建物の改造や展示の変更があったためなのか、教会の何人かに聞いて見ましたが、みんな若かったせいか、よくわからないようでした。

 モルモン教の創始者であるジョセフ・スミスが生まれたのは、1805年ですから、いまからちょうど200年前ということになります。その彼が、天使から授かった教典を、これは独特の霊言であったのでしょうか、それを英語に翻訳して、『モルモン書』として出版したのが1830年で、これが、聖書と並んで用いられているモルモン教の聖典です。そして、この出版の年の1830年は、私が生まれた1930年のちょうど100年前です。私が、そのことを言いますと、熱心なモルモン教徒であるヤング夫妻は、これもなんかの縁であろうと、私に『モルモン書』と、永遠の生命などを説いた何冊かの雑誌などをプレゼントしてくれました。アメリカから帰ってきた私には、いま、それらの文書が、与えられた夏休みの宿題のように、手元に残されています。

  (2005.07,01)





   親鸞の悪人正機説 (身辺雑記 30)


 『歎異抄』に出てくる親鸞の悪人正機説はよく知られているが、この「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」の「悪人」をめぐっては、いろいろの受け取り方がなされているようである。なかには、明らかに誤解と思われるものもないわけではない。

 宗教学者の山折哲雄氏が、かつて中公新書で『悪と往生』を出版し、その執筆のいきさつを朝日新聞(2004.06.27)に載せたことがある。その文を氏は、「私には、長いあいだ解けずにいた疑問があった。唯円の問題の書『歎異抄』は、かれの師・親鸞を裏切っているのではないか。親鸞の思想から逸脱しているのではないか、という疑問である」と、書き出している。

 その疑問に、「正面から根源的に答えたものがどこにも見当たらず」、焦燥感のなかで生きていた氏に、転機が訪れたという。1995年3月、東京で発生したオウム真理教によるサリン事件である。「この新教団の指導者である麻原彰晃こそ、まさに現代における極重の悪人ではないか。とすればこの悪人は『歎異抄』のいうところにしたがって宗教的に救われるのであろうか」と氏は疑問を深める。

 氏は、親鸞の主著である『教行信証』のなかで、親鸞は、極重悪人が宗教的に救済されるためには、二つの条件が必要である、と述べていることを発見する。それは、善き師につくことと深く懺悔すること、の二つである。氏は、このことからも、『教行信証』と唯円の聞き書き『歎異抄』との間には、「思想的にも論理的にも大きなへだたりがあった」と主張する。そして、「悪人こそ往生にふさわしい」というのは、唯円の曲筆であり、『歎異抄』は裏切りの書と断定するのである。

 これは、しかし、氏の明らかな勘違いではないか。ボタンのかけ違いというのがあるが、はじめのボタンを間違えたら、あとはすべて間違ってくる。山折氏は、「悪人」の意味をこの場合は取り違えているのである。悪人正機説でいう悪人とは、少なくとも、麻原彰晃のような人物のことをいっているのではない。

 同じ第3章のなかに書かれているように、「どういう修行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいる欲の深い私たち」のことを、親鸞は自分自身を含めて悪人といっているのである。すでに第2章でも、親鸞は自分のことを「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし」と言っている。しかも、「悪人でも極楽へ行けるのは当然ではないか」とは、もとはといえば、親鸞の師であった法然上人のことばであった。

 この『歎異抄』13章には、次のような話も書かれている。

 あるとき親鸞聖人が弟子の唯円に、「おまえは私の言うことを信じるのか」と訊いたことがあった。唯円が、「もちろんでございます」と答えると、「そうか、それじゃ私のこれから言うことに決して背かないか」と重ねて訊きなおした上で、「それでは、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」と言ったのだそうである。

 唯円はさぞ驚いたことであろう。たじたじとなって、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」と答えた。それを聞いた親鸞は、「それではどうしていまおまえは私の言うことに決して背かないと言ったのか」と問い返して、こう言った。「これでおまえもわかるであろう。人間が心にまかせて善でも悪でもできるのならば、往生のために千人殺せと私が言ったら、おまえはすぐに千人殺すことができるはずではないか。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからなのだ。

 「因縁が備わっていないから殺さないだけだ」ということばには深く考えさせられるが、親鸞は「自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても百人も千人も殺すことさえあるのだ」と言ったのである。

  親鸞はこのように、人間というのは誰にでも悪を犯す可能性があり、そのような悪の可能性をもつ「悪人」を救済するのが阿弥陀仏の慈悲であると説いてきた。この阿弥陀仏の慈悲が「他力」ということであろう。因縁に支配されている「悪人」は、「自力」では自分を救えないから、「他力」によってのみ救われるということで、この意味でも、他力念仏というのは、この「悪人」であることの自覚のうえに成り立っているといってもよい。

  自ら善行に励み、自力で極楽往生できると思っている「自力作善」の人が「善人」であるが、こういう人は、ひたすら阿弥陀佛に縋ろうとする気持ちが強くはない。しかし、そういう「善人」であっても、自力の心を入れ替えて、阿弥陀佛に縋るようになれば、極楽浄土へ行くことができるようになる。それが善人の往生である。

 これに対して、「悪人」というのは、さまざまな欲望に翻弄されながら、どのような修行によってもこの苦悩の世界から逃れられないでいる人々である。しかし、阿弥陀佛の本当の願いは、むしろ、このような「悪人」を成仏させることにあったはずである。だから、自分ではなにも善行を行うこともなく、ひたすら「他力」に頼ろうとする「悪人」のほうが、かえって、阿弥陀佛の救いにもっとも値する人々ということになる。『歎異抄』では親鸞はそのように述べて、師の法然上人の言ったことを、敬意と親しみのなかで回想しているのである。

 (2005.06.01)




 小桜姫と弟橘姫の対話  (身辺雑記 29)


横須賀市走水の走水神社
背後の山は観音崎公園とし
て整備されている。

(2005.04.18) 筆者撮影


 4月の中旬に、IIS (International Institute for Spiritualism) の「三浦半島でスピリチュアル探索」という日帰りツアーがあって、それに参加させていただきました。ロンドンから来日中の IIS会長・金城寛さんも含めて、15人のグループで、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とお妃の弟橘姫(オトタチバナヒメ)を祀っている観音崎の走水神社や油壺付近の小桜姫神社などを拝観してまわりました。

 小桜姫神社の「小桜姫」というのは、浅野和三郎『小桜姫物語』(潮文社)でよく知られていますが、日本スピリチュアリズム史上最高ともいわれる霊界通信を送ってきた400年くらい前の実在人物です。足利時代の末期、この地方の相州三浦の荒井城主、三浦道寸の息子・荒次郎義光という武士の妻でした。生家は鎌倉にあって、代々鎌倉幕府に仕えていた大江廣信が父で、加納家から嫁いできた母親の袈裟代という名前もわかっています。

 三浦一族は、その頃、小田原の北条氏と争っていましたが、北条軍に城を包囲され3年の籠城の後に武運拙く、荒次郎をはじめ一族のほとんどが城を枕に討ち死にしてしまいました。小桜姫は、城を抜け出し、油壺南岸の濱磯に小さな家を見つけて、一人さびしく暮らすようになります。しかし、まもなく病にかかり、そこで亡くなってしまいました。そのあたりが、いまの小桜神社になっているということです。

 『小桜姫物語』の著者の浅野和三郎氏は、本邦初のシェイクスピァー完訳者として著名な英文学者でしたが、大正12年に「心霊科学研究会」を設立してからは、会長として、昭和12年に亡くなられるまで、日本における心霊研究の中心的役割を果たしてこられました。そして、この小桜姫の霊言を取り次いだのが、優れた霊能者の浅野多慶子夫人であったのです。実は、多慶子夫人自身が、17歳から33歳までをこの三浦半島で暮らし、小桜姫とは深い因縁があることがわかっていました。本のなかでは、小桜姫が多慶子夫人の守護霊でもあることが語られています。

 400年前にこの地で生きた小桜姫の話は、日本の心霊学研究資料の白眉といわれているだけあって、どれを読んでも興味は尽きません。明るく素直で親しみやすい小桜姫の人柄がそのまま滲みでているような語り口にも、こころが惹かれます。この地に縁の深い弟橘姫との初対面についての話もその一つです。弟橘姫を祀る走水神社が、小桜神社からもそう遠くない観音崎にあるように、弟橘姫は小桜姫との関係が深く、霊界から長い間見守ってくれていました。この地上時代では小桜姫よりも1000年以上も前に生きた人ですが、弟橘姫は小桜姫の守護霊であったのだそうです。小桜姫は、弟橘姫と会ったときの印象をつぎのように語っています。

 年の頃はやっと24〜5歳くらい、小柄で細面のたいへん美しい方でした。どことなく沈んだ印象もありましたが、きりりとした、ややつり気味の目元には、優れたご気性がうかがわれました。お召し物は、また、私たちの時代の服装とはよっぽど趣が違い、上着はやや広い筒袖で、色合いは紫がかっていました。下着は白地で、上着より 2,3寸はみ出し、それには袴のように襞がついていました。髪は頭のてっぺんで輪を作った形で、そんなところにも古代風の雰囲気が漂っていました。お履物は黒塗りの靴みたいなもので、木の皮かなんかで編んだものらしく、重そうには見えませんでした・・・・・

 このように、日本では史実としては認められず、神話の人物とされる弟橘姫や夫君の日本武尊について、時空を超えた霊界通信により、当事者から「直接」話を聞けるということは、実に有難いことのように思われます。例えば、「ヤマトタケルノミコト」も712年に書かれた『古事記』全3巻には「倭建命」として、720年の『日本書紀』全30巻には『日本武尊』と表記された記録が残されてはいますが、日本歴史のなかには登場してきませんから、その足跡も、神話の霧の中に消えていってしまうだけです。しかしその生涯は、小桜姫の霊界通信では、きわめて具体的に、まざまざと眼前に甦ってくるのです。

 その中には、弟橘姫との見合いや結婚にいたるまでのほほえましいような逸話もあります。また、日本武尊が相模から船に乗って房総半島へ向かったときに暴風に襲われ、弟橘姫が入水して海神を鎮めたあの有名な出来事の経緯もリアルに語られています。あのとき弟橘姫は、「これは海神の怒りだ。今日を限りに日本武尊の命をとる」という声を何度もはっきりと聞いたのだそうです。しかし、それを日本武尊に打ち明けても信じてもらえませんでした。それで遂に意を決した弟橘姫が、「夫の命はこの国にとってかけがえのないものです。どうぞ私の命を夫の命の代わりとなさってくださいませ」と必死に祈った後、荒れ狂う波間に飛び込んだと述べています。問題は、なぜ海神の怒りを招いたのか、ということですが、それについても、(41)「海神の怒り」のなかで、霊界の指導霊のことばとして、つぎのような極めて具体的な話も記録されていました。

 それはこういうことだよ。すべてものごとには表と裏がある。日本武尊がこの国にとって較べるもののない大恩人であることは言うまでもないんだが、しかし殺された賊の身になってみると、彼ほど憎いものはないというわけなんだ。彼の手にかかって滅ぼされた賊徒の数は、何万人もいるのだからね。それらが一団の怨霊となって隙をうかがい、たまたま心がけのよくない海神の助けを借りて、あんなものすごい嵐を巻き起こしたんだ。あれは人霊のみでできる仕業ではなく、かといって海神だけであったらあれほどの悪戯はしなかっただろう。たまたまこうした二つの力が合致したからこそ、あのような災難が急に降ってわいたというわけなんだ。当時の弟橘姫に、そんな詳しい事情がわかるはずもないので、姫があれをただ海神の怒りとだけ感じたことが間違っていたのはいたしかたあるまい。でもあの時の姫の祈りには涙ぐましいほどの真剣さが宿っていた。そんな真心がなぜすぐに神々の胸に通じない事があるだろうか。結果としてその思いが通じたからこそ、日本武尊は無事にあの災難を切り抜ける事ができたんだ。

 この弟橘姫を祀っているのが、観音崎の走水神社ですが、入水した弟橘姫の着物の袖が流れ着いたといわれるのが、いまの袖ヶ浦(千葉県)で、それを納めて建立されたのが木更津市にある吾妻神社だそうです。弟橘姫に救われた日本武尊は、その場所に立って弟橘姫を偲び、いつまでも立ち去ろうとはしませんでした。その姿が、「君去らず、袖しが浦に立つ波のその面影を見るぞ悲しき」という歌に残され、「君去らず」が「きさらず」となり、いまの「木更津」の地名になったという話も伝わっています。

  (2005.05.01)





 三蔵法師玄奘の奇跡の足跡 (身辺雑記 28)


台湾台中市郊外の湖 「日月潭」のほ
とりに建つ玄奘寺の門 手前の本堂
3階から湖を背景にして筆者撮影。
 (2005.01.17)


 2001年春の中国の西安から敦煌への旅で、私は、西安市街の南部にある慈恩寺を訪れたことがあります。慈恩寺は、648年に、当時の唐の3代皇帝であった高宗が、母の文徳皇后を供養するために建てた仏教寺院です。この慈恩寺のなかに、あの三蔵法師玄奘で有名な大雁塔があります。4角7層で高さは64メートルもあって、この最上階に上がると、整然と区画された西安市内の美しい町並みをこころゆくまで眺めることができました。

 この大雁塔は、645年に玄奘がインドから持ち帰った大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために、652年に建立されたのだそうです。帰国してからの玄奘は、唐の2代皇帝・太宗の厚い保護のもとに、はじめは弘福寺で、大雁塔が建てられてからはここへ移って、664年に63歳で亡くなるまで、20年近くもの間、サンスクリット語経典の翻訳に没頭しました。彼が訳出した経典の総数は、75部、1235巻におよび、大般若波羅蜜多経600巻をも集大成したということです。日本人も親しんでいる般若心経なども玄奘の訳したもので、私は、語学の天才でもあったこの玄奘ゆかりの大雁塔に入ったときには、ちょっとした感動を覚えました。

 それにしても、玄奘は、あの時代に徒歩で、よくあれだけの旅ができたものだと思わずにはいられません。私は西安から敦煌までの約1,500キロを小型飛行機で3時間近くも飛んでいる間、延々と果てしなく続く荒地の広がりを眼下に見下ろしていました。あのようなところを歩いて行くなどいうのは、とても人間にできることとは思えませんでした。しかも、その距離でさえ、天竺と呼ばれていたインドまでの距離のごく一部に過ぎないのです。玄奘の場合も、生きて帰れる確率は、10分の1もなかったといわれていますから、やはり、霊界からの大きな保護を受けていたのでしょうか。

 玄奘が国禁を破って、西安(昔の長安)を出て西インドを目指したのは、28歳のときでしたが、どんなに苦しくとも決して引き返さない、足を東に向けない「不東の誓い」をたてます。文字通り命がけであることは、彼自身が一番よく知っていたことでしょう。途中で行き倒れの僧がいて、玄奘に一巻の経典を手渡します。それは「般若心経」でした。玄奘は、西へ西へとただひたすらに歩き続けながら、その般若心経の、「行く者よ、行く者よ、彼岸に行く者よ、悟りよ、幸あれ」などの文句を一生懸命に唱えていたのかもしれません。

 死の砂漠と怖れられていたタクラマカン砂漠を3分の1ほど来たときには、うっかり水の入った皮袋を砂の上に落として、水がこぼれてしまったこともあったようです。それでも玄奘は、飲まず食わずで歩き続けます。5日目に意識を失いかけた時に、どこからともなく現れたやせ馬に導かれてオアシスにたどり着き、九死に一生を得たこともありました。結局、3年もかかって、やっと現在のパキスタン北西部のガンダーラに足を踏み入れました。それから彼は、インドで最初の師に会うことになります。ナーランダのシーラバトラでした。シーラバトラは、玄奘が来る3年も前から「仏法を救う若い僧侶が東から現れる」という予言を受けていたということです。そのことを聞いた玄奘は、み仏が自分の長い奇跡の旅を導いてきてくれたことを、強く実感したことでしょう。

 玄奘は、前述のように、インドからの帰国後は、生涯を捧げて経典の翻訳に取り組み、664年(663年ともいわれます)2月5日に亡くなりました。ところが、その後千二百数十年を経て、日中戦争の最中の南京で大発見があります。その玄奘の石棺が、全くの偶然から日本軍の高森部隊によって発掘されたのです。昭和17年(1942年)12月、日本軍が中華門外に稲荷神社を建立しようとして丘を整地していた時のことでした。玄奘は、数多くの玄奘訳の経典により、「日本仏教の母」ともいわれている人ですから、戦時中でも丁重に扱われました。その石棺には「大唐三蔵大遍覚法師玄奘の頂骨は長安より伝えて此を葬る」と書かれていたそうです。

 この遺骨は、その後一部が日本に渡り、奈良の薬師寺に安置されました。そしてさらに、その遺骨は、戦後、台湾へ返還されて、いまは台中市郊外の美しい湖「日月潭」のほとりにある玄奘寺に安置されています。私は、今年の1月、この玄奘寺で、その遺骨の一部を自分の目で確かめて、感慨を新たにしました。小さな金の舎利塔の前面の一部がガラス張りになっていて、中の遺骨は光り輝いているように見えました。外へ出ると、玄奘寺の塀には、玄奘が西安からインドまで出かけて帰国するまでの広大な地域に残された足跡が、大きな地図の上に描かれています。その奇跡の足跡は、いまも、この寺を訪れる多くの人々に、大きな感動を与え続けているようです。

  (2005.04.01)





  壱岐から対馬へ (身辺雑記 27)


対馬の最北端にある韓国展望所
晴れた日には、ここから50キロ先
の水平線上に釜山が遠望できる。
 2005.02.11(筆者撮影)


 九州の佐賀県北西部には東松浦半島がありますが、その北端から北北西約20キロの海上に壱岐の島が浮かんでいます。海岸線の砂が雪のように白く、島の形も雪の結晶に似ていることから、古来、由岐とか雪州とも呼ばれてきました。面積は周辺の小さな島々を含めても140平方キロくらいで、1時間もあれば、車で一回りできますから、可愛らしい緑の島といった感じです。この島に住んでいる人々も、3万3千人くらいしかいません。私は2月の上旬、福岡へ飛んで、博多港からフェリーでその壱岐の島の芦辺港に着きました。

 博多からですと芦辺までの距離は60キロぐらいで、フェリーでは2時間10分かかりました。いまは、快速船ジェットフォイルも運行されていますから、これに乗ると、1時間です。着いてから夕方までにはまだ時間がありましたので早速観光を始めました。まず何よりも、芦辺港の周辺には、13世紀後半に二度にわたって日本を襲った元寇のあとが今も残されています。

 元軍の最初の来襲は、文永11年(1274年)10月でした。900隻に分乗した元の大軍が小茂田浜へ押し寄せてきたとき、防戦の指揮をとったのは守護代の宗助国でした。しかし、十数万の元軍に対して、日本軍は助国以下わずかに80騎だったといいますから、ひとたまりもなかったのでしょう。全員が討ち死にしてしまいました。その古戦場の近くには小茂田浜神社があって、助国たち戦死者の霊をお祀りしています。

 2度目の来襲は、弘安4年(1281年)の5月から7月にかけてです。この時の元軍は、九州の太宰府を攻め落とすには最も便利で、良港であった瀬戸浦に襲いかかってきました。壱岐の守りについていたのは瀬戸の領主であった少弐(しょうに)氏です。そのときまだ19歳であった少弐資時は総大将として勇敢に戦ったのですが、この時も、圧倒的な元軍の前には為すすべもなく、全滅してしまいました。その古戦場のあたりは、いまは少弐公園となっていて、少弐資時の銅像が建てられていました。

 芦辺港から南東に少し下ると、八幡半島の先端に玄界灘に面して切り立ったダイナミックな海蝕崖の連なりが見えてきます。海中から、奇岩が突き出ているのもあります。左京鼻と呼ばれている自然の造形美で、その名前には、つぎのようないわれがありました。

 この島は、平地が開けて農業で自給自足できるほどでしたが、江戸時代の初め頃、大旱魃に襲われ、田畑の作物はすべて枯れてしまいそうになったことがあったそうです。島の人々にとっては死活問題で、島にいた陰陽師の後藤左京と龍蔵寺五世の日峰和尚の二人に雨乞いの祈祷を頼みました。二人はそれを受諾し、身命を賭して一心不乱に天に祈り続けたといいます。しかし、相変わらずの晴天続きで雨は降らず、ついに満願の日が来てしまいました。

 祈祷の誓いにしたがって、座禅をしている和尚の周りに積まれた干杷の麦藁に火が点じられ、紅蓮の炎がその姿を包みこもうとします。一方、後藤左京のほうは、岬の断崖に立ち、身を投げだそうとしました。その時、突然、空がかき曇って、車軸を流すような豪雨が降り出したのだそうです。山野は生気を取り戻して人々は救われました。左京鼻の名は、この雨乞いをした後藤左京の名から来ているということです。

 見知らぬ土地へ行きますと、何を見ても聞いても、興味がそそられますが、この壱岐への旅で強く印象に残ったのは、島の南部にある「岳の辻展望台」から眺めた光景でした。標高は213メートルですが、この場所が島の最高峰で、まわりには視界を遮るものが何もありません。ですから、天候にさえ恵まれれば、壱岐全土や周辺の渡良三島といわれる原島、大島、長島等はもちろんのこと、南の九州から北北西の対馬まで、そこから見渡すことができるのです。私がこの展望台に立ったその日は、風が強くて寒い日でしたが、雨上がりの晴天で、絶好のコンディションでした。50キロ離れている対馬の島の輪郭が肉眼でもよく見えました。

 次の日、その岳の辻展望台から車で十数分の郷ノ浦港から、対馬へ向かいました。対馬の南端に近い厳原(いづはら)までは、60キロくらいですから、博多から壱岐の芦辺港までとほぼ同じ距離です。今度は快速のジェットフォイルで、1時間で着きました。対馬は、面積も700平方キロ近くありますから、壱岐よりも5倍も大きい島です。壱岐と違って、島全体がほとんど山で、農業には頼れません。林業、漁業が主ですが、生活環境は厳しく、壱岐が農耕文化的な色合いをもっているとすると、対馬は、漁猟文化的といっていいかも知れません。この二つの住民たちは生活習慣も異なり、お互いにあまり仲がよくないという話も聞きました。

 この対馬の厳原から博多までの距離は約120キロで、厳原から韓国の釜山までは約110キロです。対馬は南北に長く延びていますから、対馬北端から釜山までの距離を測りますと、50キロしかありません。日本本土を離れてここまで来ると、もう日本本土よりは朝鮮半島の方が近いのです。それだけに、たとえば朝鮮通信使のように、朝鮮半島との交流の歴史もこの島には、色濃く刻み込まれています。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略は、日本と朝鮮との友好関係に大きな傷痕を残しましたが、徳川家康が政権を握ってからは、家康が対馬の宗氏を通じて国交回復に努めるようになりました。家康は、朝鮮侵略軍には参加していませんでしたし、朝鮮側からすると、家康は侵略者の秀吉を滅ぼした人物ですから、いわば、仇を討ってくれたようなものです。国交回復の話もやりやすかったかもしれません。1605年には日韓和約が結ばれ、その後、1607年から1811年まで、12回にわたって使節が来日しました。

 この朝鮮通信使の来日は、徳川幕府の国際的地位を高めるためにも重要視されていました。初めの頃は、総勢400名にもなっていた大使節団を、沿道の大名たちも丁重にもてなしたようです。通信使の来日は、国境の海が平和であることの証でもありました。そしてそれは、通信使との連絡交渉の窓口になった対馬藩にとっても、有利で確実な貿易が保証されたことを意味しました。対馬藩が日本と朝鮮との友好関係を維持することに終始熱心であったのもそのためです。そして、その政策の中心的役割を担った一人が雨森芳洲です。異文化理解の重要性を説いたこの国際交流の先駆者のすぐれた思想と学問については、私は、いつかまた、稿を改めることができたら、と考えています。

 対馬でも、観光地はいろいろとありますが、私が行ってみたかったのは、対馬の最北端にある上対馬町でした。そこから、韓国の釜山まではすでに述べたように50キロしかありません。この町の観光名所が、丘の上にある韓国展望所です。この日も、空はよく晴れていて、空気は乾いていました。韓国展望所からは、北西の方角の水平線にひろがった陸地が肉眼でもはっきり見えます。私の小さな双眼鏡でのぞくと、釜山の建物群の輪郭のようなものまで見えてきます。私はちょっと感動しました。韓国というのはこんなに近いのだということを、しみじみと実感させられたのです。

 翌日の昼、博多港までのフェリーに乗るために、また厳原港に行ったとき、乗り場の待合室には韓国人の旅行者たちも大勢目につきました。彼らにしてみれば、フェリーで1時間もすればここへ来れるわけですから、日本でもこの辺は韓国の一部であるかのような感覚なのかもしれません。対馬の人々も、韓国には特別の親近感を持っているようです。対馬で日常的に使われている韓国語の単語も、チング(友だち)、タル(耕す)など、いくつかあると聞きました。

 待合室の片隅の案内所には、日本語だけではなく、韓国語の案内も併記されていて、ハングルのパンフレットなども置いてあります。そこに座っていた案内係の中年の女性に、あなたは韓国語も話されるのですか、と訊きますと、「少しは話しますけれど、たいてい韓国の方々が日本語で話されます」と、答えが返ってきました。釜山では日本のテレビも見えるといいますし、ここに来る韓国の旅行者たちに日本語を話す人が多いのも、日本がそれだけ近い国ということなのかもしれません。

  (2005.03.01)





  与えられている者の与える責任  (身辺雑記 26)


 ビル・ゲイツ氏 (William Henry Gates V) といえば、世界一位の市場占有率をもつマイクロソフト・ウィンドウズを開発したマイクロソフト社の会長で、個人資産では、世界一の金持ちといわれています。アメリカの雑誌「フォーブス」の2004年長者番付によると、資産総額は推定で480億ドルといいますから、日本円ではざっと5兆400億円くらいでしょうか。ちょっと、想像もつかないような大金持ちです。

 そのビル・ゲイツ氏が、新年早々の1月8日の「朝日新聞」に、ロックバンド「U2」のボーカリストであるボノ氏との連名で、今年の2005年が世界の「貧困問題解決へ強い意志示す時」であるとして、世界の先進国すべての指導者たちに、つぎの4つの提言を行っていました。

1. 迅速に供出できる効果的な対外援助の額を倍増する。同じ趣旨での英仏主導の計画が動き出そうとしており、それは子供の予防接種を増やすことで500万人の命を救えるかもしれない。

2. 貧困国の債務を終わらせる。彼らに必要なものは軽減以上のもの, 完全な債務帳消しである。

3. 不公正な貿易ルールを変え、貧困国が自立できる道をつくること。

4. HIV (エイズウイルス) ワクチンの開発を協力して推進する組織への資金提供。

 そして、こうした行動によって、先進国の政府は歴史を作ることができる。もし世界中から、貧困や疾病によって理不尽に生命が失うことをなくすことができれば、2005年はそのような歴史の「瞬間」になるだろう、と訴えています。

 このうちの(1)だけをとってみても、日本を含めた先進国の政府が対外援助の額を倍増するというのは、容易ではないように思われがちですが、そのような援助をしないことによって生じるコストと比較してみれば、結局、安上がりになる、といいます。たとえば、現在すでにアフリカでは、親たちが抗エイズ薬を手に入れることができなかったために 1千万人の孤児が生まれ、その世話が大きな問題になっています。それが、2010年までには、このままでは、さらに 2千万人が増えることになるかもしれません。エイズの炎が燃えさかってから消し止めようとするのであれば、はじめから火がつくのを防ぐよりも、はるかに巨額の援助資金が必要になってしまうのです。

 まことに理に適った提言ですが、これは、これから先進国の指導者たちに、どのように受け止められていくのでしょうか。この提言の最後は、「緯度と経度の線はどんな鉄のカーテンよりも強く、我々をアパルトヘイト以上に分断している。世界はこの状況を変える資源と技術を持つ。2005年に回答を出すべき問いは、我々が強い意志を示せるかどうかということだ」と、締めくくられています。

 この提言が、世界一の大金持ちであるゲイツ氏と著名なロックスターのボノ氏という社会的にも影響力の大きい二人のものであるだけに、読む人には興味がそそられます。金持ちであれ、著名人であれ、その程度を問わず、与えられた資産や才能を人一倍多く持つ者は、それなりに、その人一倍多く与えられたものを、人一倍多く、社会に還元していかなければならない義務と責任があると思いますが、そういうことを、金持ちや著名人がすべて理解しているわけではないようです。しかし、ゲイツ氏は、奥さんのミリンダさんとともに 「ビル・アンド・ミリンダ・ゲイツ財団」を設立して、世界の貧困対策や途上国支援に積極的に取り組んできましたし、ボノ氏も、「債務、エイズ、貿易、アフリカ」の英語の頭文字をとった「DATA] の共同設立者となり、同じように、世界の貧困問題の解決に関わってきました。

 スイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムの年次大会(ダボス会議)では、1月27日に、ゲイツ氏とボノ氏は、イギリスのブレア首相を加えた3人で記者会見をして、アフリカの貧困と疾病の救援を訴えた、と伝えられています(「朝日新聞」01.28)。 この会議に合わせて、ゲイツ氏は、アフリカなどの子供に予防接種を広める組織への 7億5千万ドル(約770億円)の寄付を表明しました。そういうゲイツ氏たちの主張や活動が会議にも影響を与えたのかもしれません。ダボス会議では、1月26日、700人の参加者が討議の末、世界が直面する最も深刻な問題として「貧困」を選び、その対策を考えることになりました。

 この会議では、ちょっとしたハプニングもあったようです。1月28日の夕方、「貧困との闘いの財源をどう確保するか」を討議するシンポジウムの会場でのことでした。ムカバ・タンザニア大統領が、債務の返済に追われ、教育や感染症対策に資金をまわせない窮状を説明したのです。その時、会場にいた女優のシャロン・ストーンさんが素早く反応しました。

 その大統領のことばにこころを動かされて、「1万ドルを差し上げますので、今日、マラリア防止の蚊帳を買ってください。どなたか仲間になる方はいませんか」と呼びかけ、「今日も子供たちが死んでいるのです。いま助けが必要です」と訴えますと、出席者たちは涙を浮かべながら、「5万ドル出そう」「私も」と、つぎつぎに寄付を申し出て、その総額はざっと 100万ドル(約1億円)にもなったということです(「朝日新聞」01.30)。

 世界保健機構 (WHO) によると、アフリカでは毎日3千人の子供がマラリアで死亡しているということで、そのためにマラリアやエイズ対策を進める国際基金では、蚊帳 1億張りを提供する計画をたてていました。ストーンさんの呼びかけで集まった1億円のお金は、この国際基金を通じて、殺虫剤を練り込んだ特殊な蚊帳の購入に充てられることになります。蚊帳は1張り500円程度で、約20万個買えることになったそうです。

   (2005.02.01)





  ガンジーの自発的貧困  (身辺雑記 25)


 マハトマ・ガンジーは、1931年9月23日にロンドンの Guild Houseで、「自発的貧困」と題する講演を行いました。その全文がガンジーの著作集(The Essential Writings of Mahatma Ghandhi: Raghavan Iyer; ed.; published by Oxford Universir Press)に収録されていますが、その一部を片山佳代子さんの訳で、ご紹介したいと思います。片山さんは、インドで暮らした体験をもとにガンジーの思想に共鳴して、現在、日本で「半農」生活を送りながらガンジー思想の紹介・普及に努めておられる方です。
 
 全文はかなり長くなりますので、はじめの部分と、終わりの部分を省略して、全体の3分の2ほどにまとめてみました。

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 ・・・・・・自ら富を捨てるという行為、行いの一部始終をここで再現するつもりはありません。味深いことではありますし、私にとっては神聖な行いではありますが、私に言えるのは、それは最初のうちは困難な問題と格闘することであると言うことだけです。妻との格闘であり、また生き生きと思い出せるのですが、子ども達との格闘でもありました。それはそうとしても、私が命を捧げた人々、その人たちの困難な状況が毎日目に入ってくるその彼らのために尽くすのが使命であるならば、私はすべての富、所有物を手放さねばならないという確固とした結論に達しました。

 この信念を私が持った時に、私はすべてのものを直ちに手放したと真実を持って語ることはできません。最初のうちはとてもゆっくりでしかなかったということを告白せざるを得ません。そして今、その当時の奮闘ぶりを思い出しておりますが、最初のうちは困難を伴ったものでした。しかし、日が経つにつれて、私は自分のものと考えていた他の多くの物も放棄せねばならないということが分かってきました。そして、それらのものを放棄するのが積極的な意味での喜びとなっていきました。そして、次から次へとほとんど加速度的に物が私の手を放れていきました。そして、この経験を振り返って見て私は言えるのですが、その結果私は肩から重荷を下ろすことができました。ゆったりとした気持ちで散歩もできますし、仲間に奉仕する仕事も楽にしかも大いなる喜びをもって成すことができます。そうなりますと、何であれ物を所有するということは、厄介なこと、重荷となってきます。

 そのような喜びの源は何であるかと考えていきますと、もし、私が何かを自分だけの物として所有すれば、それを取られないように世界中を相手に守らねばならなくなるということに思い当たりました。そして、またその物を欲しがっていながらも、手に入れることができないでいる者が多数いることにも気づきました。そのような状態でもし私が一人でいるところを空腹の飢饉におそわれた人々に見られ、彼らが私から施しを受けようとするのでなく、物を奪い取ろうとした場合、私は警察の保護を求めねばならないのです。そこで私は自分に言い聞かせることにしているのですが、もし彼らがそれを欲しがり取るのであれば、彼らが私に危害を加えたくてやっているのではなく、彼らのほうが私よりもそれを必要とする度合いが高いからなのです。

 さらに、私はこう思います。物を所有するということは私にとっては犯罪に思われます。同じようなものを欲しがっている他の人々もその物を所有することができるときのみ、私はその物を所有することができるのです。経験から言って誰にも分かることですが、そのような物は存在しません。ですから、すべての人が持つことができるのは、非所有です。何であろうと物を一切持たないということです。つまり、自発的放棄です。

 そこで皆さんはこのように言うことでしょう。でも、多くの物を身に付けているではありませんか。たった今自発的貧困だの、一切のものを所有しないだのと言っていたところだというのにと。私がたった今言ったことの意味を表面的に解釈するならそのような批判も正しいことでしょう。しかし、私が言いたいのはその背後にある精神的なことです。身体がある限り、何らかの身にまとうものを所有しないわけにはいきません。しかし、その際手に入れられるだけいくらでも身にまとうために所有してよいというわけではありません。そうではなく、もっとも少なく、何とか賄えるだけの最低限の数だけを所有するようにすべきです。自分が住まうためにも、大邸宅をいくつも所有するのではなく、何とかやって行ける最低限の屋根を確保するようにすべきです。食物、その他のものについても同様のことが言えます。

 これについては毎日のように意見の衝突があります。今日我々が文明として理解しているものと、至福の状態、もっとも望ましい状態と私が思い描いて見せる状態との間に隔たりがあるのです。一方では、文化、文明の基礎はあらゆる欲望を拡大していくことと理解されています。部屋を1つ所有すれば、もう1部屋欲しくなり、さらにもう1部屋と多ければ多いほど楽しいということになります。同様に、家に入るだけのより多くの家具が欲しくなります。そしてこのようなことは際限なく続いていきます。そして、所有物が多ければ多いほど、文化が豊かなことを示しているなどと考えられているのです。そのような文明を良しとする者はもっとうまく説明することでしょうが、私は自分が理解しているところに従って説明しています。

 そして、他方では、所有物を減らせば減らすほど、欲求も減り、人格者となっていけるのです。何のための人格者かと言えば、この世でおもしろおかしく暮らすためではなく、仲間のために個人的に奉仕することを喜ぶためです。身体も心も魂も含めて自分自身を捧げる奉仕のためです。

 ただしこれには偽善、偽りが入り込む余地が十分にあることに気づくでしょう。人というものはたやすく自分自身を、また隣人をも騙してしまうことのできるものだからです。「心の中では私は所有するものをすべて放棄しているのですよ。ご覧の通りこれらのものは私の持ち物ですが、私の行いを見て判断しないでください。私の意図していることから判断してください。この私の意図においてのみ、私はただ一人の証人であり続けるのです」などという時がそれです。これは罠です。それも死へと至る罠です。長さ2〜4ヤ−ド、幅1ヤ−ド程の布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。何らかの方法で身体を覆うためにそれだけの布切れを所有することであっても、どのようにして正当化できるでしょうか。

 もしその布切れを置いたままにしておけば、そのような物であっても誰かが取って行くだろう事を知っている場合、ここでも危害を加えるためではなく、たったそれっぽっちの布切れであっても彼は持っていないのでそれが欲しくて持ち去るわけですが、そのようなことが分かっていてどうしてその布を持つことを正当化できるでしょうか。私は見てきました。この目で見てきたのですが、何百万もの人々がたったそれだけの布すら持っていないのです。何も所有すまいという意図がありながら、これを所有するという行為をではどうして正当化するのでしょうか。

 さて、人生におけるこのジレンマ、この困難、この矛盾を解決する方法はあります。これらのものを所有せねばならないとしたら、それを欲しがる者が自由にできるようにすべきです。つまりこうするのです。誰かがやってきてその布切れを欲しがれば、それを彼に渡さないようにするのではありません。ドアを閉めたり、これらの物を持っていられるように警察を呼んで助けてもらったりなどしてはなりません。

 この世が与えてくれるものだけで満足すべきです。この世があなたにその布切れを与えることもあれば、与えないこともあるでしょう。と言うのも、もし何も所有しないのであれば、当然のこととして、衣類や食糧を買うお金も所有しないということになるからです。そこで、この世の施しにのみ頼って生きることとなります。そしてたとえ心有る人が何かを施してくれても、それはあなたの所有物とはなりません。それを欲しがる者がいれば誰にでも与えるというつもりで、それだけを予定して預かっているだけなのです。もし誰かがやってきて、力で無理やり物を取り上げたとしても、警察署に行きそこにいた警官に襲撃を受けたと報告してはなりません。襲われるということはないのですから。

 さて、これが私の言う自発的貧困ということです。理想的な状態をお話しました。((この講演会の司会の)ロイデン博士 は私が自発的貧困を示す世界で1番良い例だと言ってくださっています。私は、謙遜して申し上げますが、そのような言われ方に全く値しないものです。このことはただ単に自分を卑下するためだけに言っていることではなく、本当のことであると心から思って言っています。私が考える自発的貧困のほんの一部分を述べたにすぎませんが、その理想を完全に達成したとはとても言えないのが今の私の状態です。この理想を完全に達成するためには、私の心に確固とした意図、確信がなければなりません。地球上にある何物も自分の所有物とはしたくない、してはいけないという確信です。この身体さえもそうです。というのもこの身体も所有物だからです。

 もし、私と同じ信仰を持っていてくださるならば、教会に行く方でしたら、つまり神の存在を信じる方でしたら、身体と魂は1つの同じものではなく、身体は魂、霊が一時的に宿るための宮に過ぎないということを信じていらっしゃることでしょう。もし、そのことを信じていらっしゃるならば、信じていらっしゃると私は理解しているのですが、そのことから、身体でさえも私達の物ではないと言うことができます。一時的な所有物として与えられているに過ぎません。それを与えてくださった神様が、またそれを取り去ることもできるのです。

 ですから、私の中に断固として信念がありますので、次のようなことが私のいつも心に抱いている願望です。この身体もまた神の意思に屈するものである以上、私が自由に使える間は、愚かなことをしたり、勝手気まま、快楽を追求するためではなく、ただ奉仕のためだけに使うべきと心得ます。身体が起きている間はすべて奉仕をすることにこの身体を用いたいと思っています。もし、このことが身体に関して真理であるならば、衣類その他私達が用いる多くの物についてもさらにもっと真理であるに違いありません。

 このような確信に至り、この確信を何年間も持ち続けていながら、私に不利となる証拠として自分をここにさらしています。自発的貧困の完全な状態に私はまだ至っていません。私は貧しい者です。理想に到達するために格闘するという意味での貧しさです。私達が日ごろ貧しいという意味で使っている意味での貧しさではありません。

 実際、私はある人から論戦を挑まれたことがありますが、その時私は隣人、さらには世界中の人々に対して自分は世界一豊かな人間のようだと主張することができました。というのも世界一豊かな人とは何も所有していないのに、すべてのものを自由にすることができる人のことを言うからです。

 可能な限り完全にこの自発的貧困の誓いに従った行動を実際にとる者は、(全く完璧な状態に至ることは不可能ですから、人ができる最高限度ということになりますが)そのような意味での理想的な状態に到達できた者は、その証言するところによれば、所有する物すべてを手放すと、世界中の貴重な物すべてが本当に自分の物となります。別の言葉で言えば、実際に必要とする物はすべて本当に手に入れられます。もし食物が必要ならば、食物が届けられます。

 皆さんの多くは祈りの人でしょう。そして私は、大変多くのクリスチャンが祈りの応えとして食物が与えられ、すべてのものが祈りに応えて与えられたと言うのを聞いています。私はそのことを信じます。しかし、私とともにもう1歩踏み出していただきたいのです。地上のすべての物、肉体も含めたすべての物を自発的に捧げた者は、つまり、すべてを捧げる用意にある者は、(批判的に、断固とした態度で自らを顧み、いつも厳しい判断を自分自身に下すようにすべきですが)これらのことが徹底的にやれた者は、欠乏状態にあるということが決してありません。

 皆さんに告白しますが、神が自分に富を分け与え賜われたと考え、私が多くの物を所有していた時、今日ほどには、私は物を所有する手腕に長けてはいませんでした。当時は、私は奉仕のために必要とするお金などすべての物を取り扱う才能が今の百万分の一もありませんでした。

 私が法律業を営み、お金を稼ぎ幾ばくかのものを所有していた当時にあっても、奉仕の気持ちは持ってはいました。しかし、その当時は奉仕に必要なものを何でもかんでも手に入れてくる才能は確かにありませんでした。しかし、今日では、(私にとって良いことか悪いことかはわかりませんが、神のみがご存じでしょう)次のように証言することができます。私は1度として何かが足りなかったということがありません。

 自分の意思で本当に物を手放し、何かを自分のものにしたいという欲求がなくなり、私が持つすべての物を周囲の人々と共有しはじめるという段階を経て、(私は全世界の人々とすべての物を分かち合うことはできませんが、もし私が周囲の人々と分かち合えば、それは全世界の人と分かち合うことになります。私の周囲の人も同じことをするからです。もし私たちがそれを行えば、それこそ万能ではない人間にできる最大限のことです。)しかし、すぐに私はかなりの程度までそのような状態に達することができました。つまり、何かが足りなくて困ったなどということが1度もないのに気づきました。

 足りないということは、ここでもまた文字通りに解釈してはなりません。神は地上では出会ったことのないほど厳しい仕事割り当て人です。そして、神は何度も何度も試みに会わされます。そして、信仰がなくなりそうになったり、身体が挫けそうになったりして、沈み込んでいっていると、なんらかの方法で神は救いの手を差し伸べてくださいます。そして、信仰を失ってはならないことを証明してくださるのです。いつも神は招きに、神を呼ぶ声に応えてくださいます。しかし神には神のやり方があって、私たちのとは違うのです。そのようなことを私は発見しました。

 最後の最後になって神が私を見捨てたような出来事は、本当に1つも思い浮かびません。そして私はこのような名声を得るに至ったのです。今ここでもう1度申し上げましょう。インド最大の物乞いという名声です。そして、私を批判する者が言うように、私はある時1千万ルピ−もの額の募金を集めました。ポンドではいくらに相当するのかわかりませんが、とてつもない金額です。(約75万ポンド)しかし、その金額を集めるのに苦労はありませんでした。そして、その時以来、緊急の必要が生じるといつでも、どの案件においても、私の記憶のどこにも、奉仕に必要なものが何であろうと手に入れられなかったような例は1つとして思い浮かびません。

 しかし、これは祈りに対する応えだと言われることでしょう。祈りに対する応えというだけではありません。これは所有しないという誓い、自発的貧困の誓いがもたらす科学的結果です。どんな物でも所有しようという気がなくなります。そして生活を簡素化すればするほど、所有物を放棄すればするほど、自分のためにより良い結果をもたらします。すぐにそのような状態になり、何でも自分の自由にすることができるようになります。自惚れることもなくなります。

 ですから、私が今皆さんにすばらしいものとして約束したことは、奉仕のためならあらゆる資源を自由にすることができるということです。信じない者にとっては尊大な言い方に聞こえるかもしれません。しかし、私は信じているのですが、奉仕のためには地上のすべての物を自由に使えると言うのは尊大な言い方ではありません。もちろんそれは各自の奉仕する能力に応じてです。この世で完全な奉仕をしたいと思えば、イ−ストエンド(ロンドン東部の貧民街)のある家まで出かけて行って、そこに住む者の中から貧困に喘ぐ人々を見つけ、顔に向けて小銭を投げてやるだけでは足りません。そんなことのためには世界のあらゆる物を自由にすることなどできません。神はあなたの顔にも小銭を投げかけることでしょう。

 しかしもし、自らを、身体も魂も精神も投げ出し、この世のために捧げたならば、そうすれば私は次のように言うことができます。この世の宝があなたがたのもとにあります。皆さんが楽しむためではなく、そのような奉仕を楽しむためです。その奉仕をするためだけにあなたの物となったのです。

 私が皆さんにお話していることから導き出してもらいたい倫理観は、今の時代が本当に必要としているものです。この国の困難な状況に対して私は心から同情を寄せているという時に、どうか私は本心から言っていると信じてください。皆さんの財政的な問題について解決法を示すことは私にはできないことです。皆さんは立派な方々です。自分たちで解決法を見つけるだけの恵まれた資質も十分におありになります。しかし、今日の貧困と関連して、今私が述べたこの考えを自分の頭の中で思い巡らせてくださいということを皆さんにお願いしたいと思います・・・・・・・

  (2005.01.01)

                               
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