二十五年の歳月 (身辺雑記 60)



 稚内・宗谷岬高台に立つ「祈りの塔」
 左側に犠牲者269名の氏名、右側に「碑文」、
 裏側には「事件概要」が刻み込まれている。
 筆者撮影 (2003年9月)


 世界史の転換点ともいわれてきた大韓航空機事件が発生して一年後、私は『妻と子の生きた証に』と題する追悼の書を出版したが、その本の「あとがき」を、つぎのように書き始めている。

 《一九八三年九月一日午前三時二十六分、ソ連戦闘機のミサイルによって、富子と潔典はKAL〇〇七便の機体とともにサハリン沖モネロン島附近の海上に落ちていったらしい。今もなお、昨年八月五日の早朝、アメリカへ向かった時のままの東京の家の部屋に姿をあらわさないところをみると、どうも、そのことは事実のようである。
 しかし、撃墜されてしまったためにこの二人がもう私のもとに帰ってくることはないというのは、いったいどういうことなのか。過去一年余の間、私は毎朝、目を覚ます度毎にこの問いを突きつけられながら、それに答えるのを、ひたすらに避けようとしてきた。そのために、目を覚ますのさえ恐れて、つい眠ってばかりいるようにもなった。私は今もその「事実」を真正面から全身で受けとめる気力はない。現実とは遊離した架空の世界を自ら作りあげ、その中に逃げこむことによって、辛うじて生きながらえてきたのである。》

 これは、いま思い返してみても、苦しく、悲しい体験であった。私は、このまま眠り続けて目が覚めなければ、少しは楽になれるかもしれないのに、と思ったりしたぐらいである。しかし、妻と長男のために、追悼の本だけは、どうしても書かねばならなかった。私は、この「あとがき」を次のように続けている。

 《そういう不安定な精神状態の中で、この本は「事実」を前提として作られていった。私にとってはほとんど耐えられぬ辛さで、これからも逃げ出したかったのだが、何しろ潔典は、今年の四月から、彼の好きであった東京外国語大学の四年生である。来年の春には卒業で、友人達とも離ればなれになってしまうから、作るのなら、そうなってからでは遅い。こういう時に本一冊作れず、架空の世界に身をおいたままでは、何が夫の甲斐性か、何が父親の愛情かというような声も頭の中をかすめたりする。私はもうこれ以上、富子と潔典に対して「罪」を重ねることは出来ないというような切羽詰った気持で、のろのろと作業を進めてきた。
 あの時、ローリー・ダーラムの空港で見送った富子が、好きな本を読みながらくつろげるわが家にいまだに帰ることができないでいるのは、夫としての私の責任である。まわりの誰からも好かれながら有望な言語学者として育っていくはずのあの潔典を夷狄の手で散らせてしまったのは、父親としての私の無能である。それはどう考えても取り返しのつかない私の一生の不覚であった。私は、夫として父親として、その責任遂行能力を富子と潔典から信頼されてきたと思うが故に、自分のこの不覚を許すことができない。このような「事実」をもたらせたすべての者を私は決して許さないが、それと同時に、私は自分自身をも決して許すことができないのである。
 「人間の命は全地球よりも重い」というようなことばは、おのれのためだけにとっておいて、国家とか軍とか防衛とかのしらじらしい名のもとに、他人の二百や三百のいのちなど、塵あくたのようにしか考えない不逞の輩が、ソ連にもアメリカにもいるということを、そしてKALのような粗暴な飛行機にはまかり間違っても乗せてはならないということを、私は何故今頃になってはじめてわかったように後悔していなければならないのか。「生きる」ということは、愛するもののいのちを守ることであり、「かくされた悪を注意深くこばむ」ことでもあったはずではなかったか。そのような思いが胸を去来する中でのこの本の編集は、私にとっては苦しくつらい一つの贖罪の行為であった。》

 私は、悲嘆のどん底から這い上がれぬままに、ほとんどうめきながらこの本をまとめていった。富子と潔典の友人、知人、恩師などから、多くの追悼文が寄せられ、旧知の谷川俊太郎氏からも富子と潔典のための追悼の詩が届いた。私は、事件の翌年、一九八四年の末には、なんとか三五〇ページあまりの本をまとめあげていた。しかし、それで深く傷ついたこころが休まったわけでは決してない。続けて私は書いた。

 《今この本をまとめ終え世に残すに当って、私の全身を突き抜けていくのは、すさまじいばかりの空しさである。いったい何がはじまり、何が終ったというのか。私の命にもかえがたいもの、私にとってのすべてが失われたあとでは、何ごとのはじまりもなく、終りもない。あるのは依然として広漠とした「無」の世界のひろがりだけである。私はこれからもまた、現実と架空の世界の中を行ったり来たりさまよいながら、惜しくもない余命を惰性的につないでいくことになるのであろうか・・・・・》

 こう書いてきて、このあとで私は、いま自分で考えてもちょっと思いがけないようなことをつけくわえている。次のようにである。

 《しかしそのような私に、富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする。無明の闇の中にいる私には、まだその声は、はっきりとは聞きとれないが、五濁悪世のしがらみから少しでも抜け出て、私たちが異なった世界に生きはじめていることの意味を理解するように、教えてくれようとしているのかもしれない。それは次元を越え時をも超越した永遠の生命と真理のための語りかけでもあるのであろうか。これからの私は、少しずつ、そのような富子と潔典からの声をきちんと受けとめていくことができるよう「対話」のための勉強をしていかねばならないであろう。
 それも私にとっては、おそらくもう一つの贖罪の行為であり、この世になお生き続けていくためには避けられない、ほとんど唯一の可能性の摸索でもあると考えている・・・・・》

 当時の私は、霊魂とか死後の世界などというものについては、浅はかな「大学教授の矜持」に惑わされ、少なくとも外面的には、まったく受けつけていないはずであった。その私が、ここではこのようなことを書き始めている。

 実は、この「あとがき」を書く少し前に、ふと思いついて、富子の友人のA女史を訪ねたことがあった。彼女は、札幌の北区でいまも運命鑑定などをしているすぐれた霊能者である。富子は、「私は運命鑑定など信用しないわよ」などと言ったりしながらも、時折彼女と会っては気のおけない話し合いを楽しんでいた。私が富子を車で彼女の家の前まで送っていったこともあるが、私自身はA女史とは初対面であった。私はそのときのことを、この追悼の書の翌年に出版した『疑惑の航跡』(潮出版社、1985、312-313頁)のなかで、こう触れている。

 《「もうそろそろ、お見えになる頃だと思っていました」
 と、私の顔を見るなりいきなり彼女は言った。
 その時の私は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境であったかもしれない。何でもいいから、こころの支えが必要であった。
 A女史はそういう私の状況もわかっていたらしい。
 ぽつりぽつりと語る私のことばに耳を傾けたあと、
 「まだこれから三年は苦しまれるでしょうね」
 と、私に同情を示した。
 彼女は事件のあと、富子と潔典のために二週間の供養をしてくれたのだという。そして、霊界の富子とも潔典とも話をしたということもつけ加えた。
 このことは私を驚かせた。
 彼女は静かに語りだした。
 「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現われたんです。私は最初それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると潔典さんでした……」
 私は内心の動揺を抑えながら黙って聞いている。
 (そんなことが本当にありうるのであろうか)
 まさか、と思う。その時の私は、霊の世界については全く無知であった。
 彼女は続けた。
 「潔典さんはですね、はじめに『ありがとう』っておっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなくて、今までの生活がすべてです』と答えられました」
 ここまで聞いて、私はこころの中で思わず「あっ」と叫んでいた。
 これも直観である。
 「ありがとう・・・・・楽しかった・・・・・今まので生活がすべて・・・・・」
 これは潔典のことばだ。父親の私にはわかるのである。私は涙をぽろぽろと落としてしまった。
 A女史の話はそれからもしばらく続いたのだが、聞いている私はもう上の空であった。
 あまりにも不思議な気がして、三日後にはまた彼女を訪れ、その潔典のことばをもう一度確認したりしている。
 その後何度か足を運んでいるうちに、富子からのことばもいろいろと聞いた。
 「どうか、いつまでも悲しまないで下さい― 由香利に夢を、いつも明るい希望を・・・・・」
 と、語りかけられたりした。》

 私が「追悼書」の「あとがき」に、「富子と潔典が語りかける声がかすかに聞こえてくるような気がする・・・・・・」と書いたのは、この体験があったからである。私は、少しずつ聖書や仏典などを読みはじめていたが、それからは、ケネス・リング、レイモンド・ムーディ、モーリス・ローリングスの近似死体験に基づく死後の世界に関する研究書や調査報告などをひもとくようになった。霊界について書かれた本も、高橋信次や大川隆法のものなども含めて次々に読んでいった。

 私にとって死後の生命は、信じるか信じないかの問題ではなくなっていた。私が生き続けていくためには信じなければならない絶対的条件になっていた。それに、もしかしたら、富子と潔典のこれらのことばは、私が少しずつ現世の「無知」から脱却していくための手がかりを与えてくれるかもしれない。そう思った私は、一九八五年の春に、長年勤めていた小樽商科大学を退職し、東京の私大に移ってからも、この「無知」からの脱却を試みる模索を続けた。

 しかし、私が札幌から東京へ移ったのは、できるだけそれまでの人目を避けたいという思いのほかに、事件の翌年に、国会議員、航空専門家、弁護士、著述家、市民運動家などを中心に東京で設立された「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事の一人として、事件の真相究明活動を続けるためでもあった。苦しかったが、ここでもやはり、ほとんど呻きながら、真相を訴えるために、新聞に書き、雑誌や本に書き、テレビにも出た。前記の『疑惑の航跡』も、一九八五年春、東京へ移ってからまもなく、潮出版社から薦められて書いた本である。このなかの「あとがき」に、私は真相究明活動の経過にふれたあと、こう続けた。

 《・・・・・一つだけ述べておきたいことがある。
 昨年秋、遺族会総会の日に、大韓航空機事件を追って精力的な仕事をしておられた柳田邦男氏は、私たち遺族を前にして新しく出たばかりの『撃墜』(下)の内容をまとめてお話し下さった。
 柳田氏が打ち出した仮説は『ナブ』切換えミスである。KAL〇〇七便は、出発時にINSのモード・セレクタースイッチをNAVモードにする前に機体を動かしてしまった。そのためにINSの現在地点のデータが狂い、結果的には五百キロ以上の航路逸脱を惹き起こした、というものであった。
 この氏の仮説については、その後、十二月十四日の『朝日ジャーナル』で、杉本茂樹氏が航空技術者の立場から、「その論拠の核心部分において、信じられないような初歩的ミスを犯している」と反論しているが、ここで述べたいのはそういうことではない。
 『ナブ』切換えミス説の解説が終わった時、私は、是非、柳田氏にも聞いておきたいと思っていた一つの質問をしたのである。「アメリカはこのようなKAL〇〇七便の大幅な航路逸脱を知っていたと思いますか」という質問であった。「知っていたと思いますね」と、ことも無げに柳田氏は答えられた。
 つまり、柳田氏の事件のとらえ方は、「KAL〇〇七便はたまたま人為ミスでソ連領空を侵犯してしまったのだが、アメリカはそれを知っていても警告しなかっただけだ」ということになる。
 しかし、それはそうではないであろう。
 本書では一部の根拠しか述べていないが(より具体的な根拠については、「真相を究明する会」会員諸氏の『世界』一九八五年五月号、『宝石』一九八五年六月号などの論文をご参照いただきたい)、あのKAL〇〇七便はおそらくアメリカに強制されて故意にソ連の重要軍事基地の上空に侵入したあと、ソ連戦闘機の警告を無視して逃げようとし、そして、予想に反して撃墜されてしまったのである。
 大韓航空機事件は、一般の航空機事故とは全く異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。
 真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そのことは、最近の防衛庁の資料で〇〇七便の意図的な領空侵犯が「証明」されてしまったいきさつからも、裏づけられているといえるであろう。
 もっとも、そういう風に考えるようになっても、まだ隠された部分が多く残っているし、それだけで私たち遺族の真相究明の「悲願」が達成されたわけではない。私自身はむしろ、アメリカが好きであった妻や子のためにも、アメリカ政府の犯罪を確信することに一層の苦しみと悩みを感ずるだけなのである。
 突飛な言い方になるかもしれないが、できればどなたか、確実な証拠と明快な論理で私たちの「確信」を突き崩していただけないものか。アメリカ政府は私たちの家族に対して決して犯罪を犯してはいなかった、ということを私たちに納得させて下されば、私たちもそれによって少しは救われるかもしれない。
 本書を書き終えたいま、アメリカ政府の犯罪に確信をもちながらも、私はまだ苦しまぎれに、そのような「期待」さえ捨てきれないでいる。》 (337-339頁)

 この真相究明活動は、何年も続いた。理不尽な事件であっただけに、犠牲者の遺族として、その真相を究明することは避けて通ることができない義務である。真相究明こそが、犠牲者に対する何よりの供養であると私は信じていた。多くの有能な会員の方々によって、頻繁に、そして熱心に続けられた「究明する会」の活動に参加する傍ら、個人としても、「真相を究明する遺族の会」をつくり、ほとんど毎週のように、「APPEAL」と題する広報紙を発行して「犠牲者のために真実のことばを」「人道と正義のために真相の究明を」と訴え続けた。

 「真相を究明する会」の発足後四年を経て、一九八八年に会員諸氏による『大韓航空機事件の研究』(武本昌三編)が三一書房から出版された。これは、五百頁を超える大著で、多くの類書のなかでは、おそらく、事件の真相に迫るもっとも信憑性の高い研究成果と自負してもいいかもしれない。私個人の、広報紙「APPEAL」も、一九九〇年一月まで、二百七十二回発行し続けた。そのあとで、私は、ロンドンに長期滞在することになる。私の真相究明活動についてのかかわりは、ここで、一時、中断される形になった。

 真相究明活動を続けている間、その一方で私は、霊的真実を学ぼうとして、霊界に関する本などをいろいろと読み進めていったほか、霊能者がいるといわれる複数の宗教団体にも度々足を運んでいた。霊界の妻や長男から、少しでも具体的で真実性の高いメッセージを受け取ることに執心していたからである。ロンドンへ行ってからも大英心霊協会で、それは続いた。かなり頻繁に大英心霊協会に足を運んでいるうちに、遂に、転機が訪れた。それが、一九九二年二月一一日の大英心霊協会でのアン・ターナーとの出会いである。(その時の模様はこのH.P.の「アン・ターナーと私」にも書いた。)

 いつまでも苦しみから抜けきれず、このうえは、東京に残していく娘にも、一人で生きていくことを教えておかねばならない、と悲痛な思いを抑えての渡英であったが、私はこの日、初めて、霊界の実在と、妻と長男の生存の事実を知ることができたのである。それは、ゆるぎのない確信であった。その後、帰国してからは、私は、自分の体験をもとに、霊界の真実について、書いたり、人前で話したりするようになった。そして、いま私は、事件後二十五回目の「九月一日」を迎えようとしている。

 いま改めて、冒頭に引用した自分の文を読み返してみると、私は何故あれほどまでに苦しんだのだろうと思ったりもする。長年、大学で「真理の探究」に関わってきたはずの私は、最も大切な霊的真理については、あまりにも無知であった。「知らない」というのはどうしようもなく恐ろしいことである。いまは、しみじみとそう思う。しかし、そのような長い、無明の闇を通り抜けることも、やはり私にとっては、避けて通ることのできない試練であったのであろう。

 北海道の稚内市には、宗谷岬の、眼前に事件現場のサハリンを望む高台に、「祈りの塔」がある。犠牲者を悼んで遺族会と全国からの浄財をもとに一九八五年に建立された鎮魂の塔である。その石の壁には、269名の犠牲者の氏名のほか、英文と和文の事件概要と和文の碑文が刻み込まれている。いづれも遺族の一人として、私が書いたものである。ただ、碑文のほうは、さまざまな政治的配慮が干渉して、私の「愛と誓いを捧げる」の原文は不本意な修正を受けた。「ソ連」「アメリカ」の国名は削られ、真相究明の誓いも弱められたうえで、つぎのような「無難な」ものにされてしまった。(そのいきさつを私は、「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店『世界』1985年10月号で明きらかにした。)

  愛と誓いを捧げる

 あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは
 いま全世界の人々から糾弾されています
 事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう
 わたしたちはあなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません
 わたしたちは生命の尊さと武力のおろかさを
 ひろく世界の人々に訴えていくことを誓います
 愛しい人たちよ安らかにお眠りください
 
 この最後の「愛しい人たちよ、安らかにお眠りください」は、私の原文のとおりだが、私は、いまでは、これは間違いであろうと思っている。「愛しい人たち」は、元気に生きていて、決して眠ってなんかいないのである。せめて、「安らかにお過ごしください」と書いておくべきであった。

 事件のあと、まったく生きることに絶望していた私は、25年の歳月を経て、はしなくも、まだ生き続けている。九月一日には稚内へ行って、「祈りの塔」の前で行なわれる慰霊祭に参加する。私の妻や長男を含めて、269名の犠牲者 (本当は「犠牲者」ということばもふさわしくないのだが) のために祈りをささげるが、私のこころのなかには、もう、かつての悲しみや空しさはない。事件そのものも、大きな天の摂理のなかで見直すことができるようになった。私はただ、深く頭を垂れてこの事件で先に霊界へ還って行った乗客・乗員の安らかな生活を祈り、霊界からの多くの指導に導かれていまの自分があることへの感謝の気持ちも、こころを込めて伝えたいと思っている。

 この25年の歳月は、大きな悲嘆と苦しみを通して、私に深い魂の癒しをもたらし、明るく希望をもって生きることの意味を教えてくれた。

 (2008.09.01)







  母からの最後の贈りもの (身辺雑記 59)

 今春、身近な親戚の葬儀に出席して、菩提寺の「葬儀を縁にして」と書かれた文書を読み、『子供たちよ ありがとう』(宝蔵館、1990年)の著者、平野恵子さんのことを知った。平野さんは、1948年生まれで、飛騨高山市の浄土真宗・速入寺の坊守(住職の奥さん)であったが、39歳で腎臓ガンの告知を受け、病床生活2年の後、1989年、41歳の若さで他界している。

 平野さんには、三人の子供がいた。長男の素行ちゃんは、親の手に負えないほどの腕白な子で、二人目の長女、由紀乃ちゃんは、脳性小児麻痺による重度の障害児であった。はじめの頃の平野さんは、そんな子供を持ったことに深い絶望感を抱き、いっそのこと子供たちを殺して自分も死のうとまで思いつめたこともあったそうである。ところが、ある日のこと、いつものように元気に遊んで帰ってきた素行ちゃんが、身動き一つできない妹を抱きしめて、「お母さん、由紀乃ちゃんはきれいだね。顔も、手も、足も、お腹だって全部きれいだよ。由紀乃ちゃんはお家のみんなの宝だもんね」と、言ったのである。

 そのひと言が、平野さんの目を開かせた。「気づいてみれば、由紀乃ちゃんの人生は、何と満ち足りた安らぎに溢れていることでしょう。食べることも、歩くことも、何一つできない身体そのままに、絶対他力の掌中に抱き込まれ、一点の疑いなく任せきっている姿は美しく、まぶしいばかりでした」と、彼女は述べている。しかし、ガンに侵された彼女は、その由紀乃ちゃんとも別れなければならない。素行ちゃん、それに、もう一人、次男の素浄ちゃんにも、今生の別れを告げなければならなかった。それがどんなに辛いことか、察するに余りある。彼女は三人の子供たちにこう書いた。

 《お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。
 元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。》

 こう綴ってきて、彼女は、「そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです」と書いた。死が「最後の贈り物」だというのである。彼女はさらに、続ける。

 《人生には、無駄なことは、何ひとつありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
 たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。それがお母さんの心からの願いなのですから。》(18-19ページ)

 こう書いてきて、彼女は、この手紙を、「お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう」という感謝のことばの繰り返しで締めくくった。世の中には、私たちの知らないところで、壮絶に生き、壮絶に死んでいく人が、いくらもいるものであろう。もとより、どのような死であれ、それぞれに、意味のない死はない。しかし、子どもたちの一人ひとりを精一杯に抱きしめながら、最後のことばとして天の摂理を教え、美しい大輪の花が散っていくように、従容として摂理に従っていく見事な死にざまを目の前にすると、私たちはただ、ことばもなく、強く胸を打たれるだけである。彼女は、死を前にして、子どもたちに次のような手紙も書き送った。

 《由紀乃ちゃん、お浄土で待っております。あなたがその貴い人生を終えて、重い宿業の身体を脱ぎ捨てる時、お母さんとあなたは、共に風となり野山を駆け巡ることができるでしょう。梢を揺らして小鳥達と共に歌をうたうこともできるでしょう。》(36ページ)

 《お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡るのだろうと。緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。・・・・・・・
 “無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。そして、すべての生きものは、その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。お母さんの声が聞こえるはずです。「生きていてください、生きていてください」というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。》(37-38ページ)

  (2008.07.01)






  死ぬというのはどういうことか (身辺雑記 58)

 ロンドンの南東、電車で40分ばかりのところに、史跡の町として知られるロチェスターがある。この町の中心部には古城と大聖堂があって、チャールズ・ディケンズの小説にも度々登場してくる。ここの大聖堂の売店で、むかし私は、「智慧のことば」と銘打ったポスター状の書き物を手に入れたことがあった。B4版ほどのカラー印刷で、透明なプラスティックでパウチングされている。そこには、死について、つぎのように書かれている。

     *****

 死ぬというのはなんでもないことです。私が、いままでいた部屋から出て隣の部屋へ移っていっただけのようなものです。私はいままでの私と同じですし、あなたも私にとって、いままでのままのあなたです。私とあなたとの間柄は、かつてと同じで、私が死んでからも少しも変わってはいません。

 いままでのように、親しい呼び名で私を呼んでください。いつものあなたのように、気兼ねなく話しかけてください。私が死んだからといって、話しぶりまで変えることはありません。世間並みに深刻になったり、悲しみの気持ちを表したりもしないでください。私たちはお互いに、ちょっとした冗談にも面白がってよく笑ったものでしたが、あのように、これからも笑ってくれませんか。

 遊ぶ時には気兼ねなく遊んでください、微笑を忘れないようにしましょう。そして、私のことを思い出したら、どうか祈ってください。よく私の名前を呼んでくれたように、これからも呼んでください。畏まったりすることはありません。悲しみの影を落とさないように、普通に私の名を呼んでくれればいいのです。

 死んだからといって生活が変わるわけではありません。いままでと少しも違いはありません。こちらでも同じように生き続けているのです。だから、私が居なくなってしまったからといって、私のことを忘れてしまわないでください。ほんのちょっとの間のお別れで、どうせすぐまた会えるのですから。私はすぐその辺にいて、あなたと会える日を待っていますよ。悲しむことなんか何もないのです。

     *****

これを書き残したのは、Henry Scott Holland (1847-1918) で、彼はロンドンのセント・ポール大聖堂のCanon(大聖堂参事)であった。死とはどういうものか、という重い命題について、100年も前の聖職者が語っていることばとして興味深いものがある。原文はこうである。

     *****

  Death is nothing at all. I have only slipped away into the next room. I am I, and you are you. Whatever we were to each other, that we still are. Call me by my old familiar name, speak to me in the easy way which you always used. Put no difference in your tone, wear no forced air of solemnity or sorrow. Laugh as we always laughed at the little jokes we enjoyed together. Play, smile, think of me, pray for me. Let my name be ever the household word that it always was, let it be spoken without effect, without the trace of a shadow on it. Life means all that it ever meant. It is the same as it ever was; there is unbroken continuity. Why should I be out of mind because I am out of sight? I am waiting for you, for an interval, somewhere very near, just round the corner. All is well.

  (2008.05.01)







  土井晩翠と霊界通信 (身辺雑記 57)


 浅野和三郎の『小桜姫物語』は、日本における記念碑的な霊界通信としてよく知られている。この本が心霊科学研究会出版部により初めて世に出されたのは1937年2月のことであった。その後、本文復刻版『浅野和三郎著作集』の一冊として1985年7月に四六上製版の形で発行され、それが、さらに2003年になって、新装版として、潮文社から刊行された。この本には土井晩翠が序文を書いているが、そのなかで彼は、つぎのように述べている。

 《小桜姫物語は解説によれば鎌倉時代の一女性がT夫人の口を借り数年に亘って話したものを浅野和三郎先生が筆記したのである。 ・・・・・・・これを完成し終わった後、先生は二月一日突然発病し僅々三十五時間で逝いた。二十余年に亘り、斯学の為に心血を灌ぎ、あまりの奮闘に精力を蕩尽して斃れた先生は斯学に於ける最大の偉勲者であることはいう迄もない。》

 この復刻版の土井晩翠の序文には、日付がない。浅野和三郎が亡くなったのは昭和12年(1937年)で、この本の出版に寄せた令兄の浅野正恭中将の文にはその死去から間もない「昭和12年3月」とあるから、土井晩翠がこの序文を書いたのも、文面から見て多分これと同じ頃であったろう。T夫人というのは、浅野和三郎の妻・多慶子夫人のことで、夫人は優れた霊能者であった。小桜姫は、霊界通信のなかで、自分が多慶子夫人の守護霊であるといっていたらしい。

 土井晩翠は、このように、心のこもった文で浅野和三郎を日本における心霊研究の「最大の偉勲者」と讃えているが、この二人が共に学んだ東京帝国大学英文科では、浅野和三郎は土井晩翠の後輩であった。卒業後は、それぞれに英語教授として教職についていたが、土井晩翠もまた、浅野和三郎のように、自分の子供たちの病気や死をきっかけにして霊の世界へ入り込んでいったのである。そして、彼の妻、土井八枝も、審神者として霊界通信を仲介できるような霊能力を身につけていった。

 土井晩翠(本名・林吉)は、1871年(明治4年)12月5日に現在の仙台市青葉区に生まれ、1952年(昭和27年)10月19日に、急性肺炎で死去した。優れた英文学者であったが、島崎藤村と並び称される詩人としても有名であった。当時の第二高等学校教授のときに発表した「荒城の月」(滝廉太郎作曲)の作詞者としても広く世に知られるようになった。次女は、東京大学英文科教授として勤め、英文学者、評論家として著名になった中野好夫に嫁いだ。栄光に包まれた生涯を送ったあと、亡くなる2年前の1950年には、詩人として初めての文化勲章も受賞している。

 その文化勲章受賞のために、彼が上京していた頃、1950年11月11日に、東京の新宿区内藤町で、霊界の浅野和三郎との交霊会が催された。主宰したのは、和三郎の令兄、浅野正恭である。文化勲章を受賞したばかりの土井晩翠は、足を伸ばしてその交霊会に出席し、時空を隔てた浅野和三郎との「会話」に加わった。その記録は、「心霊と人生」23巻12月号(心霊科学研究会、1950年12月1日) に残されている。これは、その当時の知識人としては、というより、現在においてさえ、世間の風評などを気にしない、きわめて大胆な行動であったようにも思える。

 社会的には、心霊主義に対する無知、誤解や誹謗が少なくなかった時代にあって、土井晩翠は、このように、極めて熱心な心霊研究者であった。心霊科学に対するゆるぎない信念のもとに、1946年には、財団法人日本心霊科学協会の設立にも顧問として参画した。冒頭に掲げた『小桜姫物語』からの引用で、土井晩翠は、さらに次のように続けて、この序文を結んでいる。

 《・・・・・・日本でこの方面の研究は日がまだ浅い。この研究に従事した福来友吉博士が無知の束京帝大理学部の排斥により同大学を追われたのは二十余年前である。英国理学の大家、エレクトロン首先研究者、クルクス管の発明者、ローヤル・ソサイティ会長の故クルックス、ソルボン大学教授リシエ博士(ノーベル勲章受領者)、同じくローヤル・ソサイティ会長オリバ・ロッヂ卿……これら諸大家の足許にも及ばぬ者がかかる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず、先入が主となるので、井底の蛙の如き陋見から心霊現象を或は無視し或は冷笑するのは気の毒千番である。浅野先生が二十余年に亘る研完の結果の数種の著述心霊講座、神霊主義と共に本書は日本に於ける斯学にとりて重大の貢献である。》

      (文中、敬称略。一部の漢字、仮名遣いを修正)

  (2008年3月1日)






  神と共に歩む (身辺雑記 56)

 ある晩のことである。ある男が夢を見た。白い砂浜のうえを神といっしょに歩いている夢である。空には、その男の生涯の出来事が映像となって、次から次へと映し出されていた。その一つ一つの映像には、砂の上に残されている二人分の足跡があった。ひとつは彼のものであり、もうひとつは、一緒に歩いてくれている神のものである。

 空に彼の生涯の最後の映像が映し出されたとき、彼は、振り返って砂浜に残っている足跡を眺めてみた。すると、自分の生涯のうちで何度も、その足跡が一人分しかないことがあるのに気づいた。考えてみると、それらはいづれも、彼の生涯で最も苦しく悲嘆に暮れていた時だったのである。

 彼はたまりかねて神に聞いた。「神様、いつか私があなたに従っていくことをこころに決めたとき、あなたは私に、いつでも一緒について行ってくれると仰ったではありませんか。それなのに、私が自分の一生で一番困っていた時には、あのように足跡が一人になってしまっています。あなたの助けが一番必要な時に、どうしてあなたは、私のそばにいてくださらなかったのですか。」

 神は答えた。「大切な、大切な私の子よ。私はお前を愛しているし、お前を見捨てたりするようなことは決してしない。お前が悩み、苦しんでいた時、砂浜に一人分の足跡しかないのは、あれは、私がお前を背負って歩いていたからだよ。」

    * * * * *

 これは、欧米のクリスチャンの間ではよく知られている「Footprints」(足跡) という話である。作者は誰なのか、分かっていない。私は、アメリカでもイギリスでも、キリスト教会などの売店で、この「Footprints」が、カードやポスターの形で売られているのを見てきた。私の手許には、むかし、ロンドン南西部のソールズベリー平原のなかに4千年前の姿を留める巨石群ストーン・ヘンジを訪れた時、近くの古い教会で手に入れた「Footprints」のカードがいまも一枚残っている。その原文はこうである。


  Footprints

One night a man had a dream. He dreamed he was
walking along the beach with the LORD. Across the
sky flashed scenes from his life. For each scene,
he noticed two sets of footprints in the sand; one
belonged to him, and the other to the LORD.

When the last scene of his life flashed before him, he
looked back at the footprints in the sand. He noticed
that many times along the path of his life there was
only one set of footprints. He also noticed that it
happened at the very lowest and saddest times in his
life.

This really bothered him and he questioned the
LORD about it. "LORD; you said that once I decided
to follow you, you'd walk with me all the way. But I
have noticed during the most troublesome times in my
life, there is only one set of footprints. I don't
understand why when I needed you most you would
leave me."

The LORD replied, "My precious, precious child, l
love you and I would never leave you. During  your
times of trial and suffering, when you see only one
set of footprints, it was then that I carried you."

 (2008年1月1日)






  内村鑑三の来世観 (身辺雑記 55)


 内村鑑三が著した『キリスト教問答』(講談社文庫、1981)のなかに、来世はあるのかないのかを論じたところがあります。内村は、噛んで含めるように、死後には来世があることを諄々と説くのですが、それに対して、質問者は「しかしながら人類全体が来世の存在を要求する理由は彼らの無学によるのではありませんか。いわゆる未来観念なるものは知識の増進とともに消滅するものではありませんか」と尋ねました。内村はこう答えます。

 「日本人にして少しく近世の教育を受けた者は、たいてい貴下の仰せられるようなことを申します。しかしながら私はそうは信じません。来世存在の希望は野蛮人のみの希望ではありません。しかのみならず、この観念もまた他の観念と同じく、知識の進歩と同時に進歩するものであります」

 これに対して、質問者はさらに次のように反論しました。「しかし、それは何人にも迷信の元素が多少のこっているからではありませんか。迷信の元素がまったく知識の光明によって取り去られた後に、初めて来世観を要求するの必要がなくなるのではありませんか」

 内村はちょっと皮肉交じりに答えます。「ずいぶん深いご観察であります。来世の希望を堅くいだいて死んだニュートンも、ファラデーも、ワーズワースも、グラッドストンも、彼らの心の中に存する迷信を脱却しえずして、来世を希望したとのご疑問であります。そうしてかかる希望をいだかれない貴下ご自身は、新知識の光明によって、かかる「迷信」を全然脱却されたのだと申さるるのでありましょう。それはずいぶん大胆なるご断定であります」

 知識や教養を身につけていけば、来世があるなどいう「迷信」などには囚われなくなるものだと考えがちな一般の根強い傾向は、いまもほとんど変っていないといえるでしょう。ここに名をあげられた4名は、いうまでもなく、いづれも深い教養をもった最高の知識人ですが、このうち、グラッドストンはヴィクトリア女王の下に、4回まで大英帝国の総理大臣を務めた大政治家でした。そのグラッドストンにとっても、来世の存在は、「インド帝国を保存しアフリカ大陸を経営するにまさるの大問題」であった、と内村は述べています。しかし、別にグラッドストンでなくとも、いまの私たちにとっても、「来世の存在」がもつ重大な意味に気がつけば、おそらく生涯最大の大問題というふうに考えるようになるのかもしれません。

 来世の存在を固く信じて死んでいったグラッドストンの臨終のことばは、Our Father (われらの父よ)であったそうです。大政治家として、60余年間、世界を震動せしめたグラッドストンのくちびるは、「天にいますわれらの父よ」と神の名を呼んで閉ざされました。「じつに偉大ではありませんか」と、内村は惜しみなく賞賛のことばを並べています。そして、そのあとで、内村は、自分自身の来世存在に対する信仰についての思い出を、次のように、続けています。

     * * * * *

 私はグラツドストンの死状(しにざま)を聞いて、私の先師、故シーリー先生のことを思い出さざるを得ません。

 ご承知かも知れませんが、彼は十余年間、米国アマスト大学の総長でありまして、日本人にして彼の薫陶にあずかった者は私のほかにも幾人もあります。私は目にグラッドストンを見たことはありませんが、しかしシーリー先生に接して、グラツドストンとはこういう質の人であろうと、たびたび思いました。学者で、実務家で、信仰家で、その円満なること、とうてい日本などにおいては見ることのできない人物であります。

 私は一夜、少しく先生に求むるところがありまして、突然先生の書斎に侵入いたしました。先生はその時あたかもある書を読んでおられましたが、いつになく喜んで私を迎えられ、その読みつつありし書を卓上に置かれ、金ぶちの眼鏡を取りはずして、そのちりを払われ、静かに私の言わんと欲するところを聞かれ、後は話頭を現世の事より神と来世の事とに転ぜられ、書斎の壁の上に掛けてありし一老婦人の絵画を指さされ、小児のような余念なき口調にて言われました。

 「内村君よ、あれは私の妻であります。彼女は二年前に私どもを逝りまして、今は天国にありて私どもを待っております」と。

 言い終わって先生の温顔を仰ぎ見ますれば、眼鏡の中なる先生の大なる眼球はいっぱいに涙をもってひたされたのを見ました。私はじつにその時ほど明白に来世の実在を証明されたことはありません。先生の大知識をもってして、かくもありありと、墓のかなたにうるわしき国のあるのを認められしのを見まして、私は自己の小なる頭脳をもって、たびたびその存在について疑いをいだいたことを深く心に恥じました。

 私は今日まで幾度となく来世存在の信仰をあざける人に出会いました。しかしながら、その人はみな人物からいっても、学識からいっても、シーリー先生に遠く及ばない人たちでありました。先生の言われしこととて、かならずしも一から十まで真理であるとはいえません。しかしながら、かかる人物がかかる確信をいだいておったことを思いまして、私の来世存在に関する信仰はひじょうに強められます。

     * * * * *

 これは、内村鑑三の「来世存在」信仰について述べた一部ですが、ひるがえって、いまの私たちは、来世の存在をどのように受け止めているでしょうか。本当に有難いことに、私たちは、素直に霊的真理に心を向けることさえすれば、熱心に、一生懸命に、何の代償も求めず、深く広い人類愛から私たちに語りかけてくれている霊界の高位霊からの「来世存在」の教えに、いくらでも接することができます。たとえば、シルバー・バーチの膨大な量の霊訓のなかのつぎの一言だけをとりあげてみても、そこには、私たちにとっては何よりも重大な「生涯最大の問題」が、極めて具体的に、かつ明確に、証言されているといえるのではないでしょうか。

 ・・・・・墓の向うにも生活があるのです。あなた方が “死んだ” と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。
 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすベてを残していったあとに一体なにが残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。(『霊訓(7)』pp.27-28)

  (2007年12月1日)






  長く生き過ぎた人びとの哀しみ (身辺雑記 54)


 晩年から死後にかけて「戦中派天才老人」などと呼ばれた作家の山田風太郎は、1922年1月4日に兵庫県で生まれた。この山田風太郎には、「人間臨終図巻(上・下)」などの多数の著作のほかに、かつて朝日新聞紙上に書き続けた「あと千回の晩飯」というエッセイがある。1994年11月10日には、このエッセイのなかで彼は、「生き過ぎて」と題して、つぎのように書いた。

 《長生きは一応おめでたいことになっているが、モノには限度ということがある。
 古今亭志ん生は八十一のとき、こんなことをいった。
 「やんなっちゃうね、どうしようかと思っちゃう。ほんとに。ここまでくると、どこまで生きりゃいいんだって、いいたくなっちゃう。ねえ、つまんないもう。いつもそう、なんかあると、ああ面倒くせえ、はやく参っちめいてえなって」
 志ん生は八十三歳で死んだ。
 志賀直哉はまだそれほど衰えないときに「不老長寿という。不老で長寿ならいいが、老醜をさらしての長生きはいやだね」といった。
 八十四のときこんなことをいった。
 「ここがわるい、ここが痛むというのでなしに、衰えて― このごろしみじみ老苦というものを味わわされているんだ」
 と嘆き、テレビドラマを指さして、見ていても筋なんかさっぱりわからない。
 「老いぼれて、気力が全くなくなって― そればかりでなく、アタマがおかしい、ヘンなんだよ」
 と、いった。
 志賀直哉はそれから八十八歳まで生きた。
 武者小路実篤は八十九のときこんな文章を書いた。
 「人間にはいろいろな人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間には立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆人間らしく立派に生きてもらいたい」
 一回転ごとに針がもとにもどるレコードのようなもので、果てしがない。
 こういう状態で、武者小路実篤は九十歳で死んだ。》

 1899年生まれの川端康成は、日本人として初めてのノーベル文学賞を1968年に受賞したが、その時彼は69歳であった。年齢的には「生き過ぎて」からはほど遠い若さである。しかし、その頃すでに、彼は死への逃避欲のようなものを強く持っていたのかもしれない。瀬戸内寂聴にであったか、「飛行機に乗るたびに落ちてくれないかといつも思うよ」などと語ったことが伝えられている。その川端康成は、1972年にガス自殺した。73歳であった。

 73歳といえば、山田風太郎がこのエッセイを書いたのが、73歳になろうとする直前のことである。彼は5歳の時に父を亡くし、母も彼が14歳の時に肺炎で亡くなっている。両親を早くして失った寂しさのあまり、中学時代には三度も停学処分を受けるような荒れた生活が続いた。このような彼の生い立ちが、彼の死生観に大きく影響したであろうことは想像に難くない。

 山田風太郎は、このエッセイを「あと千回の晩飯」としたが、その彼は、2001年7月28日に79歳で死んだ。生前に、自ら定めた戒名は「風々院風々風々居士」である。命日の7月28日は、奇しくも師の江戸川乱歩の命日でもあった。八王子市にある川上霊園の墓地には、「風の墓」とのみ刻まれた墓碑が建っているという。(文中敬称略)

  (2007年11月1日)





  開かれている極楽浄土への道 (身辺雑記 53)

 「佛説阿弥陀経」というのは、お釈迦様が大勢の弟子たちを前にして、西の方はるか彼方に、極楽という世界があることを教えているお経です。漢語で書かれたものを日本語読みしているわけですから分かりにくいのですが、浄土真宗のお葬式の席などで、このお経が唱えられているのを、何度も耳にされている方も多いのではないでしょうか。

 このお経の中では、「その極楽に住む者たちには、体の苦しみも心の悩みもなく、ただ幸せがあるだけだ。その世界には、七重の石垣、七重の並木があり、それらは、金、銀、水晶等の宝石で飾られている。また、宝石から出来ている池があり、池の底には一面の金の砂が敷き詰められている・・・・・」などと、光り輝く壮麗な極楽の描写が延々と続きます。

 そして、その後で、人は誰でも、阿弥陀仏の名号を唱えることによってその極楽に往生できる。そしてそのことは、東西南北上下の六法世界の数多くの諸仏によっても証言されているのだ、とも述べられています。さらには、「これは嘘ではない、本当のことなのだ」と何度もくり返して付け加えられてもいるのです。これを、私たちは、どう受け留めていけばいいのでしょうか。

 もし本当に、極楽浄土がそんなに素晴らしいところであるのなら、死ぬということは悲しみではなく大きな喜びになるはずです。それなら、なぜ私たちは、早く死んで、その極楽浄土へ行きたいとは思えないのでしょうか。

 たまたま、『歎異抄』第九段では、親鸞の弟子の唯円が、同じような疑問をもっていたことが記されています。いくら極楽浄土がすばらしいところであると聞かされても、早くそこへ行きたいとは思えないのは何故でしょうか、と親鸞に訊いたのです。

 それに対して親鸞は答えました。本当は手の舞い足のふむところも知らないほど喜ばなければならないのに、そうさせないのは煩悩のせいである。悩みや苦しみの多いこの世を去るのはいやがって、平安で幸せな極楽浄土を恋しいと思えないのは、よくよく煩悩が強いからに違いない、と。

 この親鸞の答え方はよくわかります。五濁悪世の煩悩の世界にどっぷりと浸かっていても、それも「住めば都」ということになるのでしょう。しかも、一般には、死ぬということが最大の不幸であると固く信じ込まれていますから、このような極楽浄土の素晴らしさを聞いても、やはり、俄かには信じがたいと思われるのも無理ではないのかもしれません。

 しかし、いまでは、極楽浄土の壮麗さを裏付けるすぐれた真理の書も、その気にさえなれば容易に手に入りますから、死後の世界の実状を理解するのも、そんなに難しいことではなくなりました。そのうちの一つが、『シルバー・バーチの霊訓』(潮文社刊十二巻)です。そこでは、例えばその第四巻に、次のように述べられているところがあります。

 《あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる・・・・・》

 これは、「仏説阿弥陀経」に描かれた極楽浄土の姿そのものですが、霊界から見ると、それでも「なお死を恐れる」私たちの無明ぶりが歯がゆくてならないようです。

 そのような私たちに、シルバー・バーチは、人間の本質は実は霊であって、「人間は死んではじめて真に生きることになるのです」と、つぎのようにも諭しています。

 《真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです・・・・・》

 しかしそれでも、このように聞かされても、私たちが自分のいのちについて、なかなか安心立命の境地に達することができないとすれば、それはやはり、親鸞が言うように、五濁悪世での私たちの「よくよく強い煩悩」のせいであるということになるのかもしれません。

 (2007年10月1日)






  宿命のノース・カロライナへの道 (身辺雑記 52)

 私が6年前に書いた『アメリカ・光と影の旅』の第5章「懐かしく哀しいアメリカ」のなかに、カリフォルニア州モントレーにあるアメリカ合衆国海軍外国語学校にふれたくだりがある。

 アメリカ合衆国海軍外国語学校というのは、語学の才能のあるアメリカ軍将校などを情報要員として全米から集め、世界各国語の特訓をしているところである。日本文学者のドナルド・キーン博士も、かつてはここの日本語科の学生であった。日本語のように難しいと思われている言語でも、ここでは、二年間で、読み・書き・話す・聞く、の四技能をほぼ完璧にマスターさせることで知られている。私はむかし、アメリカのアリゾナ州に住んでいたころ、その外国語学校の講師公募に応募したことがあった。そのいきさつを、私はこの本の中でつぎのように書いている。

一九八二年の秋、このモントレーの海軍外国語学校から、私がいたアリゾナ大学言語学部に、日本語講師公募の書類が送られてきた。私はここの外国語教育には関心があった。軍隊は嫌いだが、この学校独特の外国語教授法のノウハウだけは知りたいと思っていた。
 日本の「外国語としての英語」教育では、従来からよく、アメリカやヨーロッパでの語学教育が参考にされることがある。しかし、印欧系言語は互いに親戚関係にあって発音や構文も似通っているから、印欧系のなかでの外国語教育は、日本の英語教育にはあまり参考にならない。アルタイ系ともいわれたりするが世界で孤立している日本語と印欧系の英語は、互いに極めて異質である。だから、日本語から入る英語教育で参考になるとすれば、英語から入る日本語教育である。そのような観点から、私はいくつか論文も書いている。
 私は応募することにした。フルブライト客員教授としてのアリゾナ大学での最初の一年の任期が終われば、半年くらいなら海軍外国語学校で、教壇に立ってもいいと考えていた。「フルブライト」の肩書きは、アメリカの大学でもそれなりのプレスティージがある。応募すれば、割合簡単に決まるのではないかと思ったりもした。
 ところが、簡単ではなかった。フルブライトの肩書きには関係なく、経歴や業績、語学教育経験などのこまかい書類審査が続いたあと、日本語と英語の論文をそれぞれ送るようにといってきた。それをクリアすると、今度は、日本語と英語のスピーキングのテストである。「いま、あなたが居る自分の部屋の様子を、初めに日本語で、次には英語でそれぞれ詳しく、五分間ずつかけて説明して下さい」などというものであった。それをテープに吹き込んで送るのである。
 三段階の審査には、いつもかなりの時間がかかっているようであった。やがて、日本語の「A級インストラクター」の認定証書とともに、任用手続きにはしばらく時間がかかるという手紙が届いた。そのあとはなしのつぶてである。その状態でかなり長く、何週間も待たされているうちに、別に書類を出しておいたノース・カロライナ州立大学への赴任が決まってしまった。
 一九八三年七月一日の朝、私は、ノース・カロライナ州立大学への編入学生となった娘を伴い、車にいっぱいの荷物を積み込んで、アリゾナを離れた。ツーソンから三千五百キロ離れたノース・カロライナのローリーに向かって出発したのである・・・・・・・

 このモントレーの海軍外国語学校で、あの時、任用手続きになぜあれほど時間がかかってしまったのか、よくわからない。はじめはurgent need(緊急に必要)などと言っていたのに不思議であった。後日、海軍外国語学校の日本語科で教えている講師に、直接手紙を出して聞いてみたことがあったが、どうやら、予定されていた空席が生じなかったのが原因であったらしい。講師陣と事務局との意志の疎通も欠けていたようである。しかし、いま考えてみると、モントレーへの道は始めから私には閉ざされていた。私は、行くべくしてノース・カロライナへ行ったのである。

 当時のアメリカは、バブルで沸き返っていた日本とは違って大変な不況であった。大学の予算なども軒並みに大幅な削減を余儀なくされていた。だから、ノース・カロライナ州立大学での教職もすんなり決まったわけではない。期待していた海軍外国語学校からの任用通知は来ず、ノース・カロライナ州立大学からの通知も予想を超えて遅れていた段階で、私はこれ以上は待てないと判断した。日本の在籍大学に対する海外出張期間延長の申請期限が迫っていたのである。私は帰国を決意して、帰国のための手続き書類をフルブライト委員会へ宛てて送った。

 しかし、その書類をアパートの近くのポストに投函して帰宅すると、そのちょっとの留守の間に、ノース・カロライナ州立大学からの招聘状が速達で届いていた。私は呆然とした。しばらく考え込んだあと、結局、郵便局へ出向いて、投函したフルブライト委員会宛の書類を取り戻した。これも、いま考えると、私が小さな自分の意思で、ノース・カロライナへの道を自ら閉ざすことは許されなかったということであろうか。

 もともと私は、ノース・カロライナへ行くようなことは、念頭にはなかった。首都のローリーについてもよく知らなかった。その年の春に、たまたまローリーでフルブライト研究員の年次大会があって、私もアリゾナから参加したのがローリーとノース・カロライナ州立大学へ足を踏み入れた最初である。3日間の滞在を終えて、空路アリゾナのツーソンへ帰っていったときにも、数か月後にこのローリーに再びやってきて住むことになろうとは、まったく思ってもいなかった。それが、その年の夏には、私はローリーへ転居し、妻の富子と長男の潔典に渡米を促していたのである。

 [一九八三年八月一日の日記]
 朝九時(日本時間午後一〇時)過ぎに潔典に電話する。意外にも五日の航空券がまだとれていないという。三日になればわかるということで、もう一度、三日に電話することにしたが、ここでもまた、最後のきわどいところで待たされることになった。
 すべてが裏目に出ている感じだ。あまり無理をしてはいけないのかもしれない・・・・・

 急に予定をたてたので、どこの航空会社の航空券もなかなかとれず、やっとソウル経由で、しかも空席待ちの大韓航空のチケットで富子と潔典がニューヨークに着いたのは八月五日の午後九時過ぎであった。それからしばらくノース・カロライナ州ローリーの自宅で親子四人水入らずの生活を過ごし、再び、富子と潔典がこのニューヨークから日本への帰国の途についたのが、八月三〇日の夜である。しかし、二人を乗せた大韓航空007便は、遂に日本へ着くことはなかった。

 この富子と潔典が乗った大韓航空機は、アンカレッジを経由した後、ソウルへ向かったのだが、ロサンゼルス発でソウル行きの大韓航空機も同じようにアンカレッジを経由して、15分後に、007便の後を追うようにして飛んでいる。しかし、007便は、大きく航路を逸脱してソ連領内を侵犯して撃墜され、ロサンゼルス発の大韓航空機015便は、正規のルートを飛んで、無事にソウルに着陸した。

 潔典は、はじめから九月一日には日本へ帰る予定をたてていたようだから、もし仮に、私がノース・カロライナ州立大学へ行かず、カリフォルニアのモントレーの海軍外国語学校へ行っていたとすれば、そしてまた仮に、往復の航空機が同じように大韓航空機であったとすれば、富子と潔典は、ニューヨーク発の007便の代わりに、ロサンゼルス発の015便に乗っていた可能性もあり得たのかもしれない。

 しかし、いまではわかるような気がするのだが、おそらく、そういう風には天から定められてはいなかった。私は悲劇に巻き込まれなければならなかったのであろう。ノース・カロライナへの道へ進んだことは、決して単なる偶然ではなく、私の宿命であったに違いない。すでにそのことを潔典は、潜在意識では間違いなく感知していたように思われる。それを暗示するような潔典の常とは異なる気配があり、これから起こるべきことを示唆するようないくつものことばがあった。鈍感であった私がその時には気がつかなかっただけである。

 あれから二十四年経ったいまも、私は、そのことを考えるたびに、粛然として襟を正したい気持ちに駆られる。

  (2007年8月1日)





   山村幸夫さんの奇跡の足跡 (身辺雑記 51)

 山村幸夫さんには2冊の著書がある。『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』である。いずれも、山村幸夫「神からのギフト」出版会から発行された非売品で、いわば私家版である。しかし、「知る人ぞ知る」で、この2冊の本は、スピリチュアリズムの世界では、『シルバー・バーチの霊訓』の実践版として読む人々に深い感動と希望を与え、真理のことばが持つ清冽な光彩を放ち続けている。

 山村幸夫さんとはどういう人か。あるいは、どういう人であったか。これらの著書に記載されたプロフィールによれば、山村さんは1962年に宮崎県で生まれた。東海大学卒業後、1987年に渡米して1990年より心霊治療を中心とした霊的活動を始めている。アメリカのロサンゼルスを拠点にして、アメリカ各地のほか、諸外国、日本などでも心霊治療の奉仕活動を精力的に行い、多くの人々に霊的な真理を広めていった。その山村さんは、2001年の11月頃から体調を崩し、半年間の闘病生活の末、2002年5月28日、ロサンゼルスの治療院としていた自室で亡くなった。39歳の若さであった。

 これは痛恨の極みであるが、山村さんが何度も来日し、東京や横浜のほか日本各地で無料の公開治療や、勉強会をしていたのに私はそのことを知らなかった。私は、だから、生前の山村さんにはお会いしたこともない。ただ、いまは、上記の2冊の著書を通じて、山村さんが文字通り輝かしい「与え尽くしの愛」を実践して流星のように宇宙に消えていったその生涯を知り、深い敬意だけではなく、限りないなつかしさと親しみの気持ちをも抑えることができないでいる。

 私は、この4月で77歳になっているから、山村さんよりも年齢だけは30年以上も年上であるが、山村幸夫さんを私の慕わしい先生の一人と思っている。ここでも、こころをこめて「山村先生」と呼びたいところであるが、そうしないでいるのは、山村さんが「先生」と呼ばれることを好まないことを知っているからである。患者たちからも絶大な信頼と尊敬を受けていたようだが、けっして偉ぶることもなく、誰に対してもひたすらに奉仕に徹していた。訪れてくる患者には「どうなさいました?」と優しく問いかけ、「ニコッと満面に人懐っこい笑みをたたえ」ながら、その眼差しには、「大丈夫ですよ」という感じの深い慈愛があふれ出ていた、とこの本の中でもその人となりが紹介されている。

 心霊治療家としての山村さんは、末期がんの患者などを含めて、近代医学で見放された数々の難病患者を何百人、何千人と治していく奇跡を見せてきた。しかし、その治療費は一銭も取らなかった。治療は誰に対しても常に無料であった。この事実の持つ重い意味を私たちはけっして看過してはならないであろう。治療費を無料にしながら、それでいてあれだけ広範囲な奉仕活動ができたのは、すべて、患者たちからの感謝の気持ちがこもった善意の寄付による。真理を知り無償の愛の行為に献身する者には、霊界からの巨大な霊力が援護してくれることを身をもって証明して見せてくれたのが、山村幸夫さんであった。私は、『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』に示された山村さんの奇跡の足跡を辿りながら、いまさらの如く、宇宙の摂理と霊力の偉大さをまざまざと見せ付けられる思いがして、深く畏敬の念に打たれるのである。

 この2冊の本の出版は、山村さんの奇跡の足跡をひろく知ってもらうために、「神からのギフト」出版会を組織した黒木昭征氏の献身と努力に負っている。通常なら、これだけの大部の印刷・製本を内税・送料込みで1500円というような廉価にして希望者に配布するのは、採算的にみて困難なはずであるが、それを黒木氏が可能にしているのも単なる偶然ではないのかもしれない。真理は真理であるがゆえに、必然的に霊力を得て広がっていくものだからである。私は、先日、何部かをプレゼント用に注文した折に黒木氏にも手紙を出して、山村さんへの橋渡しをしてくださっていることに対する丁重なお礼を申しあげた。

 この黒木氏の、こころを打つことばが『与え尽くしの愛』の「編者あとがき」にもある。私はそのことばを辿りなおしていると、どういうわけか、いまも涙がひとりでにあふれ出てくる。つぎのようなことばである。

 ・・・・・最後に、山村幸夫さんのご両親へ心からの哀悼の意を表します。そして、彼の偉大なる魂を讃えて頂きたく、この『与え尽くしの愛』を謹んで捧げます。
 霊的な活動にはまったく縁のない親御さんから眺めたら、先立って行った親不孝な息子と感じるかも知れませんが、あなた様方の幸夫さんは、この本の中のように、神から授かった霊力と与え尽くしの愛で、悩める多くの人々を癒されました。ヒーラーとしての生涯を全うされました。その素晴らしい奮闘の人生を褒めて頂きたく存じます・・・・・。

  (2007年6月1日)


 *この『神からのギフト』と『与え尽くしの愛』は直接下記へ申し込めば入手できます。

  山村幸夫「神からのギフト」出版会
  〒223-0058 横浜市港北区新吉田東7-24-8
          TEL / FAX  045-546-1032






  生き神の住むクマリの館 (身辺雑記50)


「クマリの館」 この2階の中央の窓
が開かれて、あどけなさの残る少
女の生き神が
顔を見せた。
 筆者撮影 (2007.01.18)


  ネパールのカトマンドゥの見所の一つがダルバール広場である。ダルバールというのはネパール語で「宮廷」の意味だそうだが、旧王国時代には、ここは王宮前の広場としてカトマンドゥ王国の中心部であった。広場の中央には17世紀末に建てられたシバ寺院がひときわ高く聳え立ち、その周辺にはシバ・バールヴァティー寺院やカスタマンダフという古色蒼然とした寺院なども建ち並んで、辺り一体が中世の雰囲気を漂わせている。このダルバール広場の南側に、生き神が住んでいるという「クマリの館」がある。

 生き神「クマリ」とは、実はあどけない少女なのだが、ドウルガーや昔のネパール王国の守護神であるタレジュ女神の化身として、ヒンドゥー教徒が9割を占めるという国民全体から広く崇められている存在である。今年1月のヒマラヤ旅行でカトマンドゥを訪れた時に、この生き神を見ることが出来るかもしれないというので、ツアーの仲間たちと、クマリの館を訪れてみた。

 門をくぐって館に入ると、古いレンガ造りの3階建てが小さな中庭を囲んでコの字形に建てられている。中庭も百坪くらいであろうか、そんなに広くはない。2階、3階の窓枠には見事な木彫りが施されていて、なにか由緒ありげな雰囲気である。生き神クマリは、この2階の窓から顔を見せるということであった。ヨーロッパからの観光客らしい一団と一緒になって、4時の定時に窓が開かれるのではないかと待っていたが、その時は、結局、クマリは顔を見せなかった。

 クマリは、家柄の正しい幼女たちの中から選ばれるのだそうだが、その選考には、容姿や品性、知能だけではなく、神にふさわしい聖性があるかどうかが大切な基準になるという。選ばれたあとは、両親の元から引き離され、付き添いの老女や僧侶から神としての振舞い方を教え込まれる。それが、本人が初潮を迎えるまで続けられるのである。毎年9月に行われるインドラ・ジャトラの大祭には、クマリは3日間の山車巡行の主役となり、前方を見つめたまま身動き一つしない姿勢で人びとの前に現れる。国王でさえひざまずかせるクマリだが、年若い少女には神としての振る舞いを維持し続けるのもなかなか大変のように思われる。

 そのクマリを見ることが出来ずに、一旦はダルバール広場に出てしばらく自由時間となったのだが、それが終わって帰る途中、現地ガイドのリルさんは、もう一度、クマリの館へ行ってみようという。私たちがクマリを見ることが出来なかったことをすまなく思っていたらしい。今度は、中に入ったのは私たちのツアーの17名だけであった。中庭に立ったリルさんは、2階に向かってネパール語でなにか大声で呼びかけ始めた。やがて窓の一つが開き、長いひげの老人が顔を出した。クマリの付き添いの一人であろう。その老人にリルさんは、一生懸命に訴え続けた。

 中庭には、「クマリの写真撮影は厳禁する」と書かれた掲示があって、その側には、クマリに捧げる基金箱なども置かれている。どうやら、リルさんは、みんなで寄付をするから、クマリに出て来てもらいたい、というようなことを言っていたらしい。やがて、2階の中央の窓が開いて、ついにクマリが顔を見せた。少し厚化粧の感じで、唇は赤く、頭には冠をつけている。まだあどけなさの残るふっくらした顔つきの少女である。私たちは、ネパール風にうやうやしく礼拝して、一瞬の対面が終わると、それぞれが何がしかのお金を基金箱へ入れた。

 (2007.04.05)






 白く輝く神々の座 ヒマラヤ山脈 (身辺雑記49)


南西方向から見たエベレスト(8,850メートル)
小型機のコックピットから筆者撮影 [07.1.18]


 北米大陸のロッキー山脈やヨーロッパのアルプス山脈はいろいろな地点から何度か見てきました。しかし、ヒマラヤ山脈はまだ見たことがありません。そのなかの世界最高峰・エベレストはアメリカのボストン科学博物館の研究チームが1999年に行った測定により、いまは、8850メートルということになっていますが、私には、現地で一度その威容をこの目で見てみたいという願望がくすぶっていました。70歳代も後半に入るとだんだんと海外旅行も億劫になってきます。それでも、心残りのないようにと、一月の中旬、思い切ってH 交通社のツアーに参加することにしました。

 成田で一緒になったグループは添乗員を除いて17名でした。男性9名で女性は8名です。グループのうちの最高齢は男性のSさんで、82歳。80歳まで現役で歯科医をしていたそうですが、若い時には、陸軍士官学校で鍛えられたからということで、「お陰さまで至って健康です」と言っていました。やはり、一度、ヒマラヤを見たいという願望を持っていたようです。その願いを知っていた娘さん夫婦が、優しい顔つきの20歳くらいの長女と3人で、おじいちゃんを招待して同行することになったのだそうです。「三世代の家族で旅行できて幸せですね」と、私は、私自身の1歳8ヶ月になったばかりの双子の孫娘を思い出しながら、Sさんに語りかけたりしていました。

 成田を午後5時過ぎに離陸したタイ航空機は、約7時間でタイのバンコクに着きました。時差は2時間で、タイ時間の午後10時過ぎです。そこでホテルに一泊することになっていました。ホテルへのバスのなかで、現地ガイドが、「皆さん、バンコクは何度目ですか?」と聞き始めました。「初めての人は手を挙げてみてください?」と言われても、誰も手を挙げません。「2度目の人は?」でも、誰もいません。3度目から手が挙がり始めて、どうやら、大半の人が4回、5回と来ているようです。あとでわかったのですが、このグループの人たちは、ほとんどが海外旅行の「ベテラン」で、多い人で50数回100カ国以上、少ない人でも、10数回の海外旅行を経験しているようでした。

 翌朝、10時45分バンコク発のタイ航空機でネパールのカトマンズへ向かいました。飛行時間は3時間半くらいです。ちょっとややこしいのは、時差が1時間15分で、修正が1時間単位の世界時計では、自動修正はできません。こういう時差の設定もあることを私は初めて知りました。カトマンズ空港に着いたのは、現地時間で午後1時ごろです。入国手続きが終わってから、一時間半ほど、旧王宮のあるダルバール広場や二、三の寺院をまわったあと、悪路をバスに揺られて東へ約30キロのナガルコットへ向かいました。ナガルコットは、標高約2100メートルの丘にあって、ヒマラヤの展望台といわれているところです。泊まるところもホテルというより山小屋ふうで、道が狭くて、バスも近くまで行くことができません。バスを降りてから10分ほど歩いて夕闇が迫る「山小屋」にたどり着きました。

 このナガルコットの丘の上には、ホテルが30軒ほどありますが、みんな、ヒマラヤを見るために建てられたような造りで、ホテルに居ながらにして、壮大な山脈の景観が楽しめることになっています。東の方角にはエベレスト、正面には、ランタン・ジュガール、西には、マナスルからアンナプルナまで、はっきり見通せるはずでした。朝早く、日の出と共に、刻々と色を変え、輝きを増していくというヒマラヤの美しさを堪能するために、私たちも、翌朝は、6時に起きて、ホテルの屋上で日の出を待ったのです。

 しかし、期待は裏切られました。屋上へ上がったとたん、これは駄目だと思いました。濃い霧が一面に立ち込めているのです。何も見えませんでした。「昨日はよく見えていたのに」とホテルの従業員も残念そうに言います。大体、ネパールの冬(12月から2月)は乾季で、ヒマラヤを見るのにはこの時期が最もいいといわれているのですが、やはり運が悪かったのかもしれません。諦めて、私たちはしばらく霧の中を付近を散策したあと、再びバスでカトマンズへ戻り、そこから、小さなプロペラ機で、ポカラへ飛びました。湖とヒマラヤの展望で知られるポカラは、カトマンズから西へ200キロの場所にあります。飛行中に雲の上から、ほんのひと時ですが、初めて白く輝くマナスルの山容を、遠望することが出来ました。

 ポカラについて、簡易舗装の、それもかなり傷んだままの悪路を20分ほど走り、ノウダラの尾根と呼ばれるヒマラヤの展望台のような場所へ行きました。そこからは、マナスルやアンナプルナの荘厳な山並みが目の前に広がっているという触れ込みです。しかし、そこでも期待は裏切られました。霧が深く立ち込めていて何も見えません。尾根の上では、チベット人女性たちが、ヒマラヤの写真などのほか、手製の首飾りや数珠や革の財布などのみやげ物をしつこく売り込みにきます。片言の日本語を話し、なかには、かなり上手に英語を話す人もいます。「今日はヒマラヤは見えないけれど、明日の朝はホテルからでもきっとよく見える。私たちには分かるのだ」というようなことを言っていました。地元の人が言っているのだから、その通りかもしれない、と私はかすかに翌日に期待をつないでいました。

 翌朝は、早朝の5時半にホテルを出て、チョーレパタンへ向かいました。フェワ湖南側の丘陵で、標高1113メートルのその頂上には、“World Peace Pagoda”の名で知られる日本山妙法寺があります。その広い境内からのヒマラヤの景観が絶景だというのです。バスで約30分走り、道が狭くなってからはバスを降りて、懐中電灯で足元を照らしながら登り道を一時間近くも歩き続け、やっとその妙法寺にたどり着きました。そこで日の出を待ち、朝日に輝くヒマラヤの山々の威容を見ようとしていたのです。しかし、結局その日も駄目でした。ほとんど何も見えません。辛うじて、マチャプチャレ(6993メートル)とアンナプルナV(7555メートル)のかすかな稜線が目に入ったくらいです。不運続きで、さすがに帰りの足取りも重くなりました。

 その日は、ポカラの町の観光をしたあと、フェア湖でボートに乗ったりもしたのですが、湖に影を映す荘厳なヒマラヤの山並みはついに見ることが出来ませんでした。ポカラの同じホテルに連泊し、2日目も、早朝に起きだして、今度はもう一つのヒマラヤ観光の名所、標高1592メートルのサランコットの丘へ向かいました。交通社から渡された日程表には、「サランコット・ハイキング、霊峰マチャプチャレやアンナプルナの感動的な絶景をお楽しみください」などと書かれています。しかし、この最後の「感動的な絶景を楽しむ」チャンスも、霧で駄目になりました。私たちの今度のツアーは、珍しく、各地のどの展望台からも、ついに一度もヒマラヤの山々を見ることなく終わってしまったのです。ポカラからカトマンズへ帰る小型機も、霧で離着陸できないからということで、何時間も遅れて、カトマンズにたどり着きました。

 成田を出発して6日目、明日の帰国を前にして、私たちはその日の朝の「ヒマラヤ遊覧飛行」に最後の望みを賭けていました。ホテルのロビーに 6時に集合して空港へ向かうことになっていたのですが、現地ガイドのソルさんが空港へ電話してみたところ、視界が悪くて飛べる状態ではないという返事です。一旦部屋に帰って、霧が晴れるのを待ちました。10時ごろになって、少し霧が晴れてきたというので、期待しながら空港へ行ってみました。1500メートルの視界が必要なのに、まだ600メートルの視界なので、もう少し待ってくれるようにと、と言われ、結局、12時近くになって、やっと、遊覧飛行の小型機は私たちのグループを含めて20人の乗客で離陸したのです。

 小型機は北東へ向かって高度を上げていきます。すぐに雲の上に出て、15分も飛ぶと、左側の窓からは壮大なヒマラヤ山脈が白い雪を頂いて連綿と続いているのが目に入ってきました。7〜8000メートルの山々ですから、さすがに高さが違います。日本でも、飛行機から富士山の遠景を何度が見たことはありますが、ヒマラヤの山々は高さが3776メートルの富士山の二倍もありますから、山脈全体が雲の上にそっくり浮いているような感じです。ネパール人のスチュワデスが「あの左の方に見えるのがマナスル(8163メートル)です。正面に見えるのがランタン・リルン(7234メートル)です・・・・」と次々に山の名前を教えてくれました。山々の頂が白く輝いて荘厳な美しさです。近づいていくにつれて、乗客からは感嘆の声があがりはじめました。そして、まもなく8850メートルのエベレストの偉容も視界に入ってきました。

 ヒマラヤ山脈は、インド・チベット間に東西に連なる長さ2550キロ、幅220キロにおよぶ大山脈ですから、全体を一望することは出来ません。飛行機で一時間近く周辺を飛びまわっても、マナスルからエベレストあたりの中央部を見ることが出来るだけです。私は、小さな木の葉のような小型機に揺られながら、この白く輝く「神々の座」を吸い込まれるように眺めていました。1億年前には広い海であったのが、7000万年前にはインド亜大陸がアジア大陸にぶつかり、じりじりと大陸を押し上げていく。そして、2500万年前から1000万年前にかけて、かつての海の底が、このような大山脈になった―。まさに、「神の座」にふさわしい壮大なドラマの、今の一こまを見ているのだという感慨が沸き起こってくるのです。

 ヒマラヤ山脈に近づいてからは、乗客は一人ひとり交代でコックピットに招き入れられ、コックピットのなかから、目の前に広がる大パノラマを写真に収めることができました。雲の上を飛び続ける小型機のすぐ前には、白く、美しく、神々しく、ヒマラヤの高峻な山々が広がり、そのなかには、エベレストが磐石の重みと威厳を見せながら頭角をあらわしています。この一瞬の感動を味わうために参加したツアーが、これで報われたような気がしました。おそらく、ほかの同行者の皆さんも同じ思いであったことでしょう。ネパールに来てヒマラヤを見ることが出来ないというそれまでの不運続きににもかかわらず、6日目にやっと手にしたその幸運に感謝しながら、私たちは、何の不満もなく、翌日、帰国の途につきました。

   (2007.02.01)






  臨死体験と体外離脱による宇宙への旅 (身辺雑記48)

  立花隆氏は、日本では「知の巨人」といわれたりもしているが、むかしから臨死体験には深い関心を寄せてきた。その立花氏が、日本国内や海外の臨死体験者との幅広いインタビューを基にまとめた『臨死体験(上)』(文芸春秋社、1994年)のなかで、臨死体験の記録の信憑性を判断するには、臨死体験をした人自身の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などが考慮されなければならないという意味のことを述べている。

 数多くの体験例のなかには、にわかに信じられないような事例もないわけではないから、立花氏がそう述べているのも当然のことと言っていいであろう。そして、現実には、そのような能力を備えた人の臨死体験を知ることが出来る機会は、決して多くはない。そのなかで、立花氏は、C.G.ユングの臨死体験に触れて、次のように書いている。

 《しかし、ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。それは、ベッカーさんとの対話の中でも話に出た、精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。

 「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の頼戸際忙まで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた・・・・・」

 このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私(立花隆)は驚いた。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。これが現代の記述なら私も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181〜327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである・・・・・・》(pp.51-52)

 ユングの見た地球は、どれくらいの高度からであったか。それは、ユング自身が自伝のなかで、ほぼ、1500キロメートルであると言っている。「この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった」とも述べている。ガガーリンが人類史上初めて宇宙へ飛び出したのは、1961年のことであったから、ユングは、その15年も前に、ガガーリンよりも数倍も高いところから「青光に照らしだされている」地球の姿を見ているのである。しかも、その記述は、立花氏が述べているように、客観的な地球像とよく合っているのだから、これはやはり、ユングが実際に宇宙へ飛び出して、自分の目で地球を見てきたのだと考えるのが妥当であろう。

 この同じ本のなかには、立花氏がアメリカで、キュブラー・ロス博士に会ったときの話も出ている。彼女は、一昨年(2004年)8月24日に亡くなっているが、生存中には臨死体験の記録を二万例も集めて、死後の生を説き続けてきたことはよく知られている。彼女自身も臨死体験をしたことがあるのは、自身の著書の中で述べている通りである。立花氏が、このキュブラー・ロス博士にインタービューしている場面は、1991年3月17日の「NHKスペシャル」で放映された大型ドキュメンタリー番組 『臨死体験』のなかにも出てくるが、このとき、立花氏は彼女に、「・・・・ロスさんは、臨死体験以上に、体外離脱をしたという経験はありませんか」と訊いている。それに対して、彼女は答えた。

 「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるというわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何方人といるのです」

 立花氏が「体外離脱してどこに行くんですか」と重ねて訊くと、彼女の答えはこうであった。

 「いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、『地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある』といっていました。(pp.439-440)

 体外離脱して、「別の銀河まで行ってしまうこともある」というのは大変なことである。太陽を中心としてその周りを回転している地球、火星、木星、金星などの惑星やそれらに属する約50個の衛星、さらに約4千の小惑星や彗星などから成る太陽系が、私たちにとっては「身近な」宇宙なのだが、その太陽系を含めた約2千億の星々が銀河系を構成している。その直径は約15万光年といわれている。そしてさらに、宇宙には、そのような銀河系が1250億個もあるとされているのである。途方もない広さで、想像を絶するとしかいいようがない。

 光速とはいうまでもなく、一秒間に30万キロメートル走る光の速さを基準にしたものだが、これで、一年間に進む距離が1光年で、約9兆4千億キロ。時速270キロの新幹線「のぞみ」でなら400万年かかる計算になる。それをさらに15万回繰り返さなければ、私たちの銀河系の外へは出ることが出来ない。それを、キュブラー・ロス博士は、「体外離脱で行ってしまうことがある」というのである。

 「ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました」という発言も、ちょっとした海外旅行にでも行ってきたようにも聞こえる気軽さだが、「すばる」までの距離は410光年にもなるらしい。七夕星「ベガ」への26光年に比べても、格段の遠距離である。そこまで行って、「そこの人たち」に会ってきたという彼女の話を、私たちはどのように受け留めていけばよいのであろうか。

 もちろん、霊的な尺度では、時間も空間も超越しているから、「別の銀河」へ行くのも「プレヤデス星団」へ行くのも、大差はないのかもしれない。しかし、この壮大な「旅行談」にはただただ圧倒されるばかりである。しかも、これを語っているキュブラー・ロス博士も、おそらく、あの精神医学の巨人・ユングと同様、「言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などのすべての能力を充分に兼ね備えた原体験者であることを、私たちは忘れるわけにはいかないのである。

 (2006.12.01)





  アーミッシュの人たちの愛と赦し (身辺雑記47)

 去る10月2日、アメリカでは、また、学校銃撃事件が起こった。銃をもった32歳の男が学校に侵入して、少女ばかり3人を縛ったうえで射殺し、8人に怪我を負わせたのである。ペンシルバニア州ランカスター郡のアーミッシュの学校でのことであった。負傷した少女のうち二人は、頭部を撃たれるなどして重体だったが、運ばれた病院でいずれも死亡したので、死者は5人になった。容疑者の男性は、銃を乱射したあと自殺したと報じられている。ペンシルバニア州警察の発表では、この事件の背景には自殺した容疑者の女児に対する性的暴力願望があったというが、なぜアーミッシュの学校を選んだのかは明らかではない。(「朝日」06.10.07.など)

 アーミッシュ(Amish)というのは、メノー派からでたプロテスタントの一派で、少数キリスト教派である。スイス人のメノー派監督ヤコブ・アマンが17世紀末に創始した宗派で、アーミッシュという名称は彼の名に由来する。スイスを中心にドイツ語圏にひろがっていったが、弾圧をうけ、18世紀にアメリカのペンシルバニアに移住した。時を経て、そこからさらにオハイオなどの中西部や、カナダに移り住んだ。しかし現在はアーミッシュの存在は米国に限られ、ペンシルバニア州やオハイオ州に住む彼らの子孫は、十数万人といわれている。アメリカ英語でPennsylvania Dutchというのは、おそらく正確にはPennsylvania Deutschで、これは、彼らが使う英語交じりのドイツ語方言のことである。

 彼らは、一般市民と離れて集団で自給自足の生活をいとなみ、閉鎖的な社会を形成してきた。特有の厳格な聖書解釈にもとづき、現代的な暮らしや暴力を否定する。だから今でも、アメリカに入植した18世紀のままの生活様式を守り、テレビや自動車などを含めて、電気や近代的機械などのいっさいの文明機器を使用しない。服装も黒が中心で、男性は幅広の帽子をかぶって長いひげを生やし、女性は頭髪を隠して黒い靴を履くのが基本になっている。投票や徴兵など、アメリカ国民の権利や義務も拒否して、子どもたちへの教育も、自分たちで行っている。この事件のあったアーミッシュの学校もそのような彼ら独自の学校の一つであった。

 アーミッシュそのものの存在や聖書に沿う敬虔な暮らしぶりについては、もう50年もむかし、留学生としてアメリカにいたときから私は知っていた。しかし、今度の事件で明らかになった犠牲者の少女や遺族たちの深い愛と赦しの姿には、あらためて強い感銘を覚える。事件を知らせる新聞にも、「アーミッシュ流にメディア驚嘆」というヘッドラインを付けたりしていた。まず、犠牲者のなかで最年長であった13歳のマリアン・フィッシャーさんである。教室に残された10人の女児を容疑者が撃つつもりと分かった時、彼女は「私を撃ってほかの子は解放してください」と言って進み出た。それをマリアンさんの妹で、病院で意識を回復した11歳のバービーさんが話している。そのバービーさんも、「その次は私を」と言った。マリアンさんは撃たれて死亡し、バービーさんは肩に重傷を負った。亡くなった中には、マリアンさんのほか、12歳、8歳と2人の7歳の女児も含まれていた。

 容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、同じ地域に住んでいるらしい。それだけに、これだけの大きな殺傷事件を引き起こした容疑者の家族たちは、身の置き所もない思いであったろう。ところが、アーミッシュの人たちは、この家族を事件の夜から訪ねて赦しを表明し、手をさしのべたというのである。遺族の一部は容疑者の家族を子どもの葬儀に招いたとさえ伝えられている。アメリカはキリスト教の盛んな国であるが、このようなキリスト教徒の姿は、決して一般的ではない。悲嘆にくれる中にも暴力を愛と赦しで包み込むアーミッシュの人びとの生き方に、アメリカのメディアは「慈悲の深さは理解を超える」「女の子の驚くべき勇気」などとして報道しているという。(「朝日」06.10.07) これは、キリスト教社会のなかの信仰のあり方にも、大きな落差を示すことにもなった。

 アーミッシュの人たちが物質至上主義の現代的な暮らしを退けるのは、キリスト教徒として、モノよりもこころを重んじるからであろう。誰も「神と富とに兼ね仕えることはできない」からである。銃の横行に象徴されるような「力」を信奉するアメリカ社会のなかで、一切の暴力を排する生き方を貫こうとするのは、忠実に聖書の愛の教えを守ろうとするからであろう。「だれかが右の頬を打つなら、ほかの頬をもむけよ」とイエスは教えた。そして、彼らが、死後の世界への強い信仰をもっているのも、イエスの教えを正しく理解すれば、当然の帰結であるといえる。本来のイエスの教えとは、人間が霊的存在であり、霊であるからこそ永遠であるという真理を中心に据えたものではなかったであろうか。問題は、むしろ、同じキリスト教徒でありながら、或いは、キリスト教徒でなくても、仏教徒などをも含めて、「慈悲の深さは理解を超える」と驚いている側にあるのかもかもしれない。

 少数キリスト教派のアーミッシュの人たちがこの事件で見せた態度と行為は、それが現在の社会では極めて稀な愛と赦しの実践であるが故に、私たちは改めて、真の宗教とは何か、ということについても考えさせられる。イエスの教えが2千年の歴史のなかで、時の権力者や聖職者、神学者たちによって歪められ、弱められてきた、という指摘を思い起こしたりもする。ほかの宗教も、多かれ少なかれ、おそらく例外ではない。そのなかで、やはり、私たちのこころに強く響いてくるのは、シルバー・バーチのつぎのようなことばである。

 《地上人類は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく― 言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それ故に人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時はじめて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。》 (『シルバー・バーチの霊訓 (11)』 p.54)

  (2006.11.01)







  完璧で美しいシルバー・バーチのことば  (身辺雑記46)

  近藤千雄氏が訳した『シルバー・バーチの霊訓』は総集編の1冊を含めて12冊ある。このほかにも同氏による『古代霊は語る』があり、桑原啓善氏が訳した『シルバー・バーチ霊言集』もある。2003年には、Silver Birch Speaks 『シルバー・バーチは語る』というCD版も出て、私たちはシルバー・バーチの肉声がそのまま録音されているのを直接聞くことができるようにもなった。私たちは、2000年前のイエスのことばを聞くことはできない。2500年前の釈迦のことばを聞くこともできない。しかし、3000年前のシルバー・バーチのことばは、霊媒のモーリス・バーバネルを通してではあるが、こうして聞くことができるのである。私は、シルバー・バーチのことばの一部を講演会の会場に流して、聴衆の方々に聞いていただいたこともあった。これは、誇張でなしに、世紀の奇跡と言ってもいいのではないか。

 シルバー・バーチのことばについては、数多くの人びとがその完璧さと美しさを限りなく賞賛している。「霊言集」の一読者は次のように言った。「文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです。」(『霊訓(9)』 pp.26-27) 霊媒を務めたモーリス・バーバネルも、彼自身が有能な著作家、編集者として知られていただけに、シルバー・バーチのことばの美しさについては誰よりもよく理解していた。彼は、シルバー・バーチのことばを「霊の錬金術」として、つぎのように激賞している。

 《年中ものを書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ自体が、すでに超人的であることを示している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事が出来上がる。ところがこの「死者」は一度もことばに窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせるのである。》(『霊訓(1)』 p.12)

 しかし、そのシルバー・バーチですら、このように、稀代のことばの達人として霊界から語りかけるのには、霊界での長い準備と勉強が必要であった。霊の世界ではことばは使わないから、地上へ降りてきて霊能者に乗り移った霊は、意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変える必要がある。だから彼は、心霊知識の理解へ向けて指導するという使命を帯びて地上に降りるとき、いろいろな周到な準備のほか、英語の勉強もしたことを、自らつぎのように述べている。

 《あなた方の世界は、私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなければなりません。地上の同士を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなければなりません。それから私の代弁者となるべき霊能者を養成し、さらにその霊能者を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなければなりません。それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。》(『古代霊は語る』 p.14)

 1920年代にこの霊能者として選ばれたのがモーリス・バーバネル氏であるが、シルバー・バーチは、氏が生まれる前から調べ上げて彼を選び、その受胎の日を待っていたといわれている。また、ここで同士というのは、当時、反骨のジャーナリストとして名を馳せ、「英国新聞界の法王」とまでいわれたハンネン・スワッハー氏であった。氏は、シルバー・バーチのための交霊会を、はじめは私的なホーム・サークルという形で開いたのであるが、それが延々と半世紀も続いて、シルバー・バーチの教えは、人類の膨大な知的遺産として残ることになった。その恩恵を私たちもいま受けていることになる。

 「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反発を感じ理性が納得しないときは、かまわず拒絶なさるがよろしい」 とくり返していたシルバー・バーチが、一旦口を開くと、「何ともいえない、堂々として威厳に満ちた、近づきがたい雰囲気が漂い始め」て、交霊会の出席者たちは、思わず感涙にむせぶこともあったという。活字になってしまうと、そのような雰囲気は伝わりにくいのだが、ここでは、シルバー・バーチの教えのほんの一部を、再現してみよう。

 交霊会では、話が終わったあと、シルバー・バーチはどんな質問にも、明快的確に即答していたが、ある日、「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話されますか」という質問が出たのである。すかさず、彼はこう答えた。

 《私はまず私が地上の人たちから「死者」と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明いたします。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請いたします。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを全うして、一たんべールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

 私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反発させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを訊いてみます。私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

 人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている・・・・・・ 黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです・・・・・・》

 ここで、これらがシルバー・バーチのことばであると聞かされても、テレビに映って話していると仮定されているのは、モーリス・バーバネル氏のはずだから、バーバネル氏の口からシルバー・バーチのことばが出てくることに一種の違和感を持つ人もいるかもしれない。霊能者の意識と発声器官を占有していることが理解できても、霊能者の潜在意識が影響を与えるということはないのか、と考えたりもする。一般的には、霊の意識が霊能者を通じて百パーセント正確に伝えられることは非常に難しい、ともいわる。しかし、この場合は違うようである。シルバー・バーチは、バーバネル氏を生まれる前から選び、霊界からの操作で、生まれてからもさまざまな霊能者になるための経験を積ませ、その結果、氏の潜在意識を完全に支配して、自分の考えを百パーセント述べることが出来ると言っているのである。(『古代霊は語る』 p.18)

 「金銭目当てで言っているのではない、聞くも聞かぬもあなた方の自由」というのも説得力がある。世の中には、いわゆる霊感商法とか、悪霊除去とかで法外なカネをとる悪質業者が後を絶たないが、本来、真理を伝えるのにカネを要求することはないはずである。逆に言えば、法外なカネを要求するような教えや霊的治療は、真理とはかけ離れたものといえるであろう。

 一方、いくら無償の愛のこころで真理を伝えようとしても、「聞く耳をもたない」人も少なくはない。いのちの真理を知らず、知ろうともせず、「死んだ」家族に取りすがってただ泣いてばかりしているとすれば、その人こそ本当の意味での死者である、というのもよく理解できる。現に「死者」であるシルバー・バーチが言っているわけだから、これほど確かな「証人」はいないのである。シルバー・バーチのことばは、さらに、こう続く。

 《・・・・・・見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。その愛と叡智をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。

 そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧噪を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃として存在する霊的生命の幽かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。・・・・・・以上の如く私は述べるつもりです。》(『霊訓(3)』 pp.76-78)

 「霊界についてテレビで講演することになったとすれば、どういうことを話すか」と言われて、シルバー・バーチは即座に、こう答えた。少しの淀みもなく、すらすらと、このように答えているのである。私たちは普通、原稿を書いている場合はもちろんのこと、講演内容を文章にする場合も、こまかい修正を加えたり、加筆したり、削ったりの作業を常にしていかなければならない。講演で話されたことがそのまま一字一句活字に置き換えられるというようなことは、まずない。それが、シルバー・バーチの場合は、違うのである。話の高遠な内容もさることながら、このようにしてシルバー・バーチのことばが、そのまま、活字になり本にされている「神業」に深い感銘を覚えずにはいられないのは、私だけであろうか。

  (2006.10.01)





  一筋の光をよりどころに  (身辺雑記45)


 今年も「9月1日」がやってきた。あの大韓航空機撃墜事件のあった日で、私の妻・富子と長男・潔典の命日にあたる。事件当時は、悲嘆のどん底にあって、ほとんど寝たきりのような状態であったが、あの頃から、もう23年が経過した。大切な家族を失って、前途に何の希望ももてず、早く死んだ方が楽になるというようなことさえ考えたりしていたのに、私は23年も生きながらえてきたことになる。この日の感慨は、ひとしお深い。

 18年前の今頃、事件後5年を経て、私はやっと、いくらか霊界のことを理解し始めるようになっていた。私は長年、地方の国立大学で教鞭をとってきたが、一般的にいって大学教授の知性というものは霊的知識とは隔絶されたところにある。その牢固とした大学教授の常識から抜け出していくためには、私にはことさらに長い時間が必要であった。霊的には人一倍、頑迷固陋であったというほかはない。

 その頃、かつて長男の潔典が家庭教師をしていた高校生と中学生の兄弟の、母親Yさんに宛てた手紙がある。Yさんは熱心なクリスチャンであった。事件後もなかなか立ち直れないでいる私のために、キリスト教の死生観といったものを教えてくれようとしたこともあった。そのYさんに、私はつぎのように書いている。

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 九月六日付けのお手紙、拝受いたしました。『大韓航空機事件の研究』への寄金もご同封いただきまして、たいへん恐縮に存じております。

 八月二十七日には、わざわざご家族全員で宗谷岬まで行かれて、祈りの塔の前で潔典へ語りかけて下さいました由、まことに有り難うございました。いまでは大学院生、大学三年生と立派に成長されたお子様たちとも久し振りにお会いすることができて、潔典もさぞなつかしがっていたことでしょう。理不尽な事件のために勉強のお相手を不意に中断しなければならなくなったことをお詑びしながら、いとおしいお二人へのあふれるような思いを、懸命に伝えようとしていたことと思います。その潔典に代わりまして、そしてその時潔典と一緒に、深く頭を下げてご挨拶をお返ししていたにちがいない妻のためにも、こころから厚くお礼申し上げます。

 あの忌まわしい日から五年が過ぎて、私はいま、やっと少しずつ、潔典が母親とともに「生きている」ということがわかりかけてまいりました。絶望の淵に沈みながら、藁にもすがる思いで仏典を求め聖書をひもとき、なお理解できずに苦しみ悩む。そういう数十か月の坤吟の闇のなかにかすかに射し込みはじめた一筋の細い光が感じ取られます。おそらく、これからの私は、この一筋の光をよりどころにして、生きていくことになるでしょう。

 いつか、お手紙のなかで、内村鑑三についてお教えいただいたことがありましたが、岩波文庫『基督信徒のなぐさめ』の中の「愛するものの失せし時」に、「万を得て一つを失わず」と述べられているくだりがあります。私は、内村鑑三が愛児を失った悲しみの果てにたどり着いたこの境地を、あり得る一つの可能性として、折にふれては反すうしてきました。私のような凡俗にはまだはるかに程遠い境地で、これから先歩んでいかなければならない長く険しい道のりと、いくばくも残されていないであろういのちの短さを考えますと、一抹の不安が無いわけではありません。しかし、このような境地が厳として存在していた事実は、目の前の活字の文字と同様に、否定しようにも否定のしようがなく、私はそのことにむしろ希望を繋いでいきたいと思っています。しかも内村鑑三のこのことばは、さらにつぎのように続けられているのです。

 《余の得し所これに止まらず、余は天国と緑を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何日かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眼に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽しみによく戦い終えのち心嬉しく逝かんのみ。》

 かつては教養書として目を通していただけで、その次元を越えた深い認識と透徹した思考内容にも、特に深い感動を覚えることもなくほとんど忘れてしまっていた本でした。しかし、この「愛するものの失せし時」が現実に自分のことになってしまってからは、悲しみに耐えかねてページを開き、苦しみと迷いの中で読み返してみて、これらのことばが、私には新しい「発見」になっていきました。いまではその深い意味合いも少しは理解できるようになり、私なりの生きる道への模索で、ひとつの大切な指針になっているような気がいたします。

 あの日から五年を経た現在、折にふれてはあたたかくお心をかけて下さいましたご温情に対し、改めてこころからの感謝をこめて、近況の一端を書き綴ってみました。ご主人やお子様たちにも、どうぞよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。

 同封して、潔典のかつてのリポート「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」のコピーを一部お送りさせていただきます。潔典が東京外国語大学二年生の学年末試験終了後に書いたもので、今年の春、私が補注をつけて五年ぶりに雑誌に載せました。この頃の潔典は、言語学者への道を目指して若々しい情熱を燃やしながら、お子様たちとの勉強にも、楽しく没頭していたようで、私もアメリカにいて、百合が丘のお宅での団欒のことなどよく聞かされていました。あの頃の勉強の思い出にお子様たちにもご一読していただくことができれば、たいへん有り難く存じます。(1988.9.10)

         ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 潔典は大学一年の秋頃から家庭教師をしていた。この手紙のYさんの長男と次男で当時は高校二年生と中学三年生であった。ふたりとも成績優秀で、気のやさしい生徒であったという。私はその頃アメリカにいて、潔典が受験生を二人も引き受けていたことがちょっと気懸かりでもあった。自立心を養うためにアルバイトはいいとしても、潔典自身の勉強に負担にならないだろうかと思ったのである。しかし潔典は、むしろ楽しみながら毎週二回、小田急線百合が丘のYさんのお宅へ元気に通っていたようである。

 このリポートを書いていた頃の潔典と私は何度も国際電話で話をしている。春休みにアメリカへ行けなくなったということで、アリゾナで待っていた私も辛い思いをしていた。このリポートに補注をつけたあと、私はつぎのような「あとがき」を書いた。

 [追 記]

 私事にわたるが、ここで若干の「あとがき」をつけ加えることをお許しいただきたい。

 本文は、私の長男、武本潔典の遺稿である。これが書かれたのは一九八三年の、多分二月下旬、潔典が東京外国語大学英米語学科二年生の学年末試験終了後であったと思われる。言語学担当の宮岡伯人教授に出されたもので、同教授は、かつて小樽商科大学で私の同僚であった。このレポートが出されたいきさつについては、後に同教授から、追悼の本の出版の際に寄せられた「潔典君を偲ぶ」という一文の中で、次のように述べられている。

 《・・・・・・つたない言語学概論の授業に出てきた潔典君は、わたしの関西弁の講義はまどろしかったのでしょう。ノートをとりながら、「ニューズ・ウイーク」か(どうか大教室の教壇からは然とは判らぬものの)なにか週刊誌を開いて、回転の早い頭の片側で英語を勉強しておられたようです。 最終試験はたしか、ご祖母さまのご不幸があって受けられぬということで、代わりにレポートを求めました。提出されたのは「歴史・比較言語学における英語のいくつかの現象」というタイトルの、幅広くかつ正鵠をえた理解にもとずく、手際よく縛められた好編(四百字詰め一四枚)でした。》

 この文中の「ご祖母さまのご不幸があって」とあるのは、当時、荻窪に住んでいた母方の祖母、山本雪香の死亡である。二月九日のことで、胃癌であった。私はその前年の夏から、フルブライト客員教授としてアリゾナ大学にいた。はじめ同行するはずであった妻は、母親の看病のために東京に残っていたが、悲しみと過労のために、葬儀のあと寝込んでしまった。

 制度の違いで、アリゾナ大学では三月中も授業は行なわれている。私は言語学者を目指していた潔典が、東京での春休み中に、アリゾナ大学での言語学講義を受講出来るよう手筈を整えて待っていたのだが、この祖母の死亡で、彼は三月の受講を締め、母親とともに訪米を夏休みに延ばした。そして、短い夏のアメリカを家族水入らずで過ごしたあと、帰国の途中、あのKAL〇〇七便に乗ってしまったのである。

 私は、あとを追うようにしてアメリカを離れた。それはレクイエムの旅のはじまりであった。多摩の丘の上の緑のなかに潔典のために買ったアパートがある。無明の闇をさまよいながら、二か月目にやっとなかへ入った。その、富士が見える潔典の勉強部屋には、東京外国語大学入学以来彼が買い集めた約二百冊の言語学を中心とする和洋の蔵書と、のめりこむように愛読していた雑誌「言語」(大修館)、英文雑誌「TIME」が揃って残されていた ―。あれからすでに四年余の歳月が経つ。

 おそらく、いまの彼なら、この間違いなく彼のものであった二年間の学問的基盤の上に、さらに四年の蓄積を重ねて、このようなささやかなリポートの代わりに、言語学の世界を闊歩する楽しみを、きちんとした学術論文で表現していることであろう。しかし、それを確かめるすべは、父親の私にも最早ない。ただ私に出来るのは、この本文の理解を助けるための若干の補注を付け加えることで、これを書いていた二〇歳の時の潔典と小さな、たましいの対話をこころみることだけである。そしてそれとともに、彼の足跡を一つ、ここにこうして留めさせていただくことにもなった。(『アメリカ・光と影の旅』文芸社、所収。 リポートとも)

  (2006.09.01)






 役の行者の足跡  (身辺雑記44)


役の行者を開祖とする吉野山・金峯
山寺
蔵王堂(国宝)。役の行者が
感得して桜の木に刻んだという蔵王
権現が本尊として祀られている。

. 筆者撮影(2006.07.20)


 奈良の生駒山山腹に不動明王坐像を本尊とした宝山寺というお寺があります。「生駒聖天さん」と呼ばれて関西ではひろく親しまれている名刹です。私は、小学校に入る前から、毎年父に連れられて、この宝山寺へ初詣に出かけるのが慣わしになっていました。昭和10年代の初めの頃、毎年元旦の朝は、当時住んでいた大阪市大正区の新千歳町から、2時か3時ごろだったでしょうか、まだ暗いうちに家を出て、初詣用の市電で「上六」と呼ばれていた上本町6丁目まで行きます。そこから、近鉄奈良線に乗って生駒で降り、あとは果てしなく続くように思われた石段をひたすらに上っていくのです。石段はお寺の境内まで辿りつくのに30分くらいはかかっていたかもしれません。

 私は知りませんでしたが、当時すでに生駒の鳥居前から宝山寺までは、日本では最初といわれるケーブルカーが走っていたようです。延長距離948メートル、高低差146メートルの宝山寺線で、大正7年の8月29日から運行が始まっています。しかし、元旦はものすごい数の人出ですから、ケーブルカーに乗ろうと思えば、何時間も待たされたのかもしれません。私は、ケーブルカーのことは知らず、西も東もわからず、人ごみにもまれながら、父に必死にしがみついて歩いていましたが、この初詣は、父の転勤で私の小学校5年生の時に一家で大阪を離れるまで続きました。私の子供の頃の懐かしい思い出の一つです。

 宝山寺の境内に入りますと、本堂のうしろに般若窟という切り立った巌山がそそり立っているのが見えてきます。「般若窟」の名は、役の行者(えんのぎょうじゃ)として知られている役君小角(えのきみおづぬ)が、この場所に般若経を納めたところから名付けられました。いまはこの般若窟を背景に、いかにも仙人らしい雰囲気を漂わせている役の行者の等身大の像が境内を見下ろしています。役の行者は、『続日本紀』にも記録が残されている実在の人物で、卓越した超能力者であり呪術者であったといわれています。舒明6年(634年)1月に、大和国葛城山麓の茅原の里(現在の御所市)で産声をあげたといいますから、もう1300年以上も前の人物です。

 役の行者は、若い頃より金剛葛城の山々で修練を積み、そのあと大峰山系、箕面、生駒山系などでも修行して、最高の法力である孔雀明王の術を会得したといわれています。「孔雀明王の術」といってもそれがどういうものか、ちょっと想像もできませんが、日本書記には、中大兄皇子の母皇極天皇が、斉明天皇として再び即位された年(655年)の記録に、「大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ」とあるそうですから、空を自由に飛ぶことも出来たのでしょう。事実、空を飛んだ話は、いろいろな形で言い伝えられてきました。後には、光格天皇より「神変大菩薩」の称号も受けています。全く人間離れをした能力の持ち主でしたが、役の行者は、そのような法力によって多くの庶民の悩みや苦しみを救ってきたともいわれています。そのことが、いまも多くの人々から、親しまれ敬われている所以なのかもしれません。

 この役の行者が、宝山寺の般若窟で修行したという故事によって、宝山寺の開祖とされています。その後もここは修験道の聖地として、数多くの修験者を惹きつけてきました。寛保元年(1741年)に寺社奉行に提出された「記録写し」には、唐へ渡る前の弘法大師(774〜835)も、ここで修行したことがあると記されているのだそうです。もちろん、この宝山寺へ初詣を続けていた頃の幼い私には、そういうことは何も分かっていませんでした。ただ、この初詣は、幼い私にとっては「待ちに待った正月」を迎えたことを意味していましたから、そのことだけがうれしく、よそ行きの服を着て、普段は履かない革靴で、父にしがみつくようにしてあの長い石の階段を上り下りしていただけです。いまではそれも、もう遠い昔のことになってしまいました。

 この間、久しぶりに奈良を訪れ、法隆寺や飛鳥寺、長谷寺などをまわった後、「女人高野」として知られる室生寺や吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)へも足をのばしました。室生寺は、奈良県宇陀郡室生村にある真言宗室生寺派の大本山です。そして、金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗の総本山で、いまでは世界遺産の一部になっています。実は、それぞれに有名なこの二つの名刹も、宝山寺と同じように、役の行者が創設したといわれているお寺です。

 室生寺は、役の行者が修験道場の基礎を創り上げたあと、奈良時代に入って、室生寺と呼ばれるようになりました。現在の室生寺の「略縁起」には、その創設がつぎのように記されています。

 ・・・・・やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢憬など五人の高徳な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務に当たったのは、賢憬の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧であった。以来室生寺は、山林修行の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈願も度々行われて来た。

 室生寺の門前を流れる「清冽な渓流」は、私が訪れた時には生憎の雨で、泥を含んだ濁流になっていましたが、あまり人出のない広大な境内を、傘をさしてゆっくり歩いていくのもいいものだと思いました。国宝の金堂と本堂を通り、平安時代の初期に建てられたこれも国宝の五重塔の横から、急な斜面の石段を二百段ほども上りきると奥の院・御影堂の前に出ます。弘法大師42歳の像を安置した方三間の建物で、厚板段葺きの屋根の頂上に石造りの露盤が置かれているのは、他に例をみない様式のようです。たまたまその日は、お堂の扉が開けられていましたので、私は、弘法大師像の前で、ひとり静かなひとときを過ごしました。

 吉野の金峯山寺の蔵王堂は正面7間、側面8間の大建築で、国宝にも指定されています。このなかに祀られているのが、本尊の蔵王権現三体です。これは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩の三尊が過去、現在、未来の三世にわたって衆生を救うために仮の姿になり、悪魔降伏の憤怒の相で出現したとされているものですが、それが、役の行者が金峯山を道場として修行のおりに感得した姿だと伝えられています。役の行者は、その蔵王権現のお像をこの山の桜の木に刻みました。そのことから、この地では、桜が保護され献木が続けられて、いまではあのような桜の名所として知られるようになったわけです。私は、その桜の季節にもここへ来たことがありますが、毎年4月11日と12日には、ご本尊の蔵王権現に対し、ご神木である山桜の満開を報告し、お供えをする花供懺法会も開かれているようです。

 役の行者の足跡は、私の小さな旅のなかでも大きな位置を占めていますが、もちろんその足跡は、宝山寺や室生寺、金峯山寺に限られたものではありません。修験道の祖として崇められているだけに、それに自由に空を飛んでいたといわれるくらいの人でしたから、日本各地の山岳仏教のある山々には、いまもひろく役の行者の伝説が残されているようです。役の行者は、確かに遠い昔に実在した類まれな超能力者でしたが、私がいま理解しはじめている霊能力の偉大さを、この世で自在に発揮していた人であることを考えますと、私の幼少の頃からの初詣の思い出もあるからでしょうか、畏敬の念と共に、なんとなく親しみの感情も沸き起こってくるように思えてなりません。

  (2006.08.01)





  霊界からの二つのメッセージ (身辺雑記43)

 霊界からのメッセージを受け取るのは、宇宙のはるか彼方からの微弱な電波を地上の受信機で受信するのに似ているように思われる。電波が出ていても、受信機が不調であれば、通信の内容は掴めない。逆に、受信機がいくら精巧で最上のものであっても、電波そのものが微弱すぎることもあるであろう。また、電波と受信機の双方に問題がなくても、地上に届くまでに通過する電離層の状態に通信内容が大きく左右されることも当然ありうる。それに、霊界からのメッセージの場合には、受信機役の霊能者の霊能力のみならず、霊能者を通じてメッセージを受け取ろうとしている「受信者」の霊的状況も、おそらく、影響してくるに違いない。

 私の手許に二つのテープがある。大英心霊協会所属の霊能者・Hさんによる霊界からのメッセージを記録したものである。一つは、2001年の6月30日、ロンドンの大英心霊協会で、もう一つは、2003年12月17日、Hさんがロンドンから来日された時に、東京の国際文化会館で録音された。Hさんの前に座っていた「受信者」は私であるが、最初に大英心霊協会で会った時も、自己紹介のようなことはしなかったから、2度目に東京で、Hさんの前に私が座っても、Hさんは当然のことながら私のことを全くなにも覚えていなかった。

 ロンドンの大英心霊協会には、数十人の霊能者がいるが、霊界からのメッセージを伝える手法は、霊能者によっていろいろと違う。霊能者がはじめから終わりまで、ほとんど一人で一方的にメッセージを伝えることもあれば、目の前に座っている人物に質問したりしながら霊能者がメッセージの内容を確認していくタイプもある。もちろん、前者の場合でも、話の途中で質問でもすれば答えてくれる。しかし、こちらが黙っていれば、聞くだけで終わってしまうであろう。私がいまでも親しくしているアン・ターナーは、このタイプである。一方、Hさんの場合は、後者であった。たとえば、2001年の大英心霊協会でのテープの一部は、通常の霊界通信にもしばしばみられるようなぎこちない部分も敢えて直訳すると、つぎのようになる。

 あなたが最後に奥さんに「さよなら」を言われた時、奥さんはすぐそばに居られました。奥さんは、「さよなら」とは言いませんでした。「またお会いしましょう、あなた。神のご加護がありますように」と言ったのです。彼女は、この地上に帰ってきていたのです。その存在が強く感じられます。彼女は、「私はかなり長い間あなたと一緒にいましたよ」、と言っています。旅行の話をしています。たくさん旅行したといっています。誰が旅行したのですか。彼女がたくさん旅行したのですか。
 ― ええ、まあ、たくさん旅行したほうです。
 あなたはどうですか。
 ― 私も旅行はしたほうです。妻と一緒です。
 アメリカを旅行したことはありますか。
 ― ええ、あります。妻と一緒でした。
 それに、カナダのことも浮かんできます。カナダへも行きましたか。カナダの思い出はありませんか。
 ― カナダにはありません。
 アメリカと何らかのつながりがあるのですか、家族の誰かがいるのですか。
 ― 親戚はいますが。
 親戚ですか。わかりました。その親戚がカナダと何らかのつながりを持っていると思われるのですが。奥さんは家族のことを話しています。息子さんはいますか。
 ― はい。
 二人ですか。
 ― 一人だけです。
 一人は霊界ですか。
 ― ええ、そうです。
 もう一人は地上ですか。
 ― いいえ、息子は一人で霊界にいますが、もう一人は娘です。
 ああ、それで。お子さんは二人ですね。
 ― そうです。
 奥さんは、息子さんのことを話しています。息子さんは若くして亡くなられたのですか。
 ― はい。
 非常に若い時に?
 ― はい。
 奥さんは、息子さんは霊界で成長していると言っています。奥さんが霊界へ行った時には、息子さんはもう霊界にいたのですか。
 ― いいえ。霊界へ行ったのは、二人が同時です。
 ああ、二人が一緒に霊界へ行かれたのですか。
 ― そうです。
 なるほど。奥さんは霊界へ行かれたのは、もうずいぶん前のことになりますか。
 ― ええ、1983年のことです。
 ああ、それで。大分昔ですね。彼女は霊界ではもう長くなると言ったのです。息子も私のすぐそばに居ると言っています。それに、なんか奥さんが赤い色の車のことを言っているのですが、何故ですかね。赤い車でなにか思い当たることはありますか。
 ― ええ、あります。私たちがアメリカに居た時、赤い車に乗っていました・・・・・・

 取りとめのないような会話がこのように続いてきて、ここで、「赤い車」が出てきた。これは非常に思い出の多い車である。私たち4人家族が最初のアメリカ生活をしていた時、乗っていた車が61年型のシボレーで「赤い車」であった。1974年の夏、この車で8週間をかけて2万キロ近く走り、アメリカをざっとひとまわりしたことがある。ここで「奥さんが赤い色の車のことを言っている」と言われたのは、間違いなく妻のことばであるといっていいであろう。

 もう少し「対話」を拾ってみよう。

 奥さんは、あなたのお父さんに会ったことを話しています。お父さんはいま霊界ですか。
 ― そうです。
 お母さんも霊界ですか。
 ― はい。
 というのは、お二人ともいまここに来られて、あなたに挨拶のことばを述べているのです。愛情をこめて語りかけています。彼らは、なにか英語のような名前を言っているのですが、「トム」というのは誰ですか。
 ― 「トム」というような名前の者は家族にはいません。
 なにか、非常に親しい感情をともなって「トム」という名前が浮かび上がってくるのですが・・・・・
 ― いいえ、やはり、いません。
 そうですか。どうも、「トム」という感じの名前なんですが。
 ― もしかしたら、それは私の妻の名前のことでしょうか。
 よくわかりません。わかりません。
 ― 私の妻の名前は、「トミコ」です。「トム」ではないのですが。
 ああそうですか、それかもしれません。非常に近い発音ですね。私にこの名前を伝えようとしているのですが、それでなんとか意味がとれますね。それから、「スージー」、」「ソージー」という名前はどうですか。誰の名前かわかりますか。「スージー」とか聞こえる名前です。
 ― 分かりません。そういう名前は、日本語にはないのです。

 ここで私がそう言ってしまったので、この名前の問題はこれで終わってしまったが、もしかしたら、これは、私の名前の「ショーゾー」のことかもしれない。英米人にとって日本人の名前が聞き取りにくいことはよくわかるから、「トミコ」を「トム」のようにしか聞き取れない耳では、「ショーゾー」が「ソージー」となっても、そんなにおかしくはない。家族からの呼びかけに私が鈍感であっては申し訳ないから、心情的にはこれは「トミコ」と「ショーゾー」であると認めたいところであるが、しかし、やはり、これで、妻と私の名前が出た、と断定するのはむつかしい。

 このあと、「対話」は次のように続く。

 そうですか、では次に進みましょう。あなたのお父さんが経営者のことを言っていますが、経営者とは誰のことですか、あなたですか。立派な経営者なのですが。
 ― いいえ、私ではありません。私の弟が経営者でしたが、もう亡くなりました。立派な経営者とはいえませんが。
 あなたの姉妹のことも話していますが、姉妹はいますか。
 ― 姉が二人いましたが、霊界にいます。妹二人はまだ健在です。
 東京という地名はあなたとかかわりがありますか。
 ― 私はいま東京に住んでいます。
 ああ、そうですか。妹さんも東京ですか。
 ― はい、妹の一人は東京です。
 あなたの家族で、海軍に関係していた人はいませんか。昔の親戚かもしれませんが。
 ― いないと思います。
 どこかの海岸に、あなたの叔父さんがいるのが浮かんでくるのです。口ひげを生やした叔父さんのことは分かりませんか。口ひげを生やした人があらわれて、あなたの叔父だと言っています。海に関係のあるところで生きてきたらしいのです。海とのつながりがはっきりしているのですが。
 ― よく、わかりません。

 私が子どもの頃、親戚の誰かが船員になっていて、海難事故で亡くなったというような話を聞いた記憶があるが、それが、ここでいう「叔父」であったかどうかはわからない。話はまたしばらく続いて、飼っていた犬の話や、妻の母親の田舎の家のことなどが出てくるのだが、いまひとつ、はっきりしない。私にはやはり、よくわからなかった。そのあと「趣味」に話題が移る。

 花の大きな写真を撮りましたか。
 ― ええ。
 奥さんがその花の写真を飾っていると言っています。
 ― それは、どこの部屋にですか。
 あなたの寝室です。

 私はわざと訊いたのだが、これは「正解」であった。娘が私の誕生日に贈ってくれたバラの花束を、写真に撮り、大きく引き伸ばして寝室に飾ってある。

 このほか、長男・潔典については、誕生日が6月であること、音楽が好きで、いまも霊界で生命や宇宙について学びながら音楽の勉強も続けていること、妻については、「霊界へ来た子どもたちに強い関心を持っていて、子どもの保育の仕事をしている」、「霊界へ来る赤ん坊の世話などもしている」というようなことを言われたが、それは、それまでにも、何人かの霊能者から聞かされていたことと一致する。この、ロンドンの大英心霊協会でのHさんとの「対話」は、最後には、「あなたが霊界へ行ったとき、妻、長男、両親たち、みんながあなたを出迎えてくれるだろう」というようなメッセージで終わった。

 これに対して、2年半後のHさんとの東京での「対話」のなかに出てくる情報の「正確度」は、同じ程度であるといえばよいのであろうか。この時も、やはり、妻と長男が出てきて、「アメリカの楽しい思い出のことを話している」と言われた。

 家族4人でのアメリカ生活は、2度ある。初めは1973年の暮れから1974年の初めにかけてで、次は、1982年の4月からである。この2度目のアメリカ生活では、1983年の夏に私は長女と二人で、アリゾナ州のツーソンから、ノース・カロライナ州の首都 Raleigh(ローリー)へ移っていた。そこへ、夏休みを利用して、東京から妻と長男が来ていたのである。H さんの口から、急にこの「ローリー」が出てきた。

 「ローリーとは何ですか。何を意味するのですかね。この言葉が頭に浮かんでくるのですが、ローリー・・・・・」

 この「ローリー」は、私たち家族にとって大きな意味を持っているが、家族以外の他人にはそれが分かるはずがない。これは、間違いなく霊界から伝えられてきた名前であるといっていいであろう。しかし、このときは「ローリー」はそれだけで、話題は変わった。最初のアメリカ生活の3か月の夏休みに、アメリカ一周旅行を終えたあと、家族4人でヨーロッパへ行ったときの思い出ばなしが出てきた。

 彼らはロンドンへあなたと一緒に行きましたか。
 ― 行きました。
 奥さんが、バッキンガム宮殿のことを話しています。すばらしい思い出になったようです。彼女は創造的な女性で、美術にも関心があります。パリのルーブル美術館へも行きましたね。彼女は、モナリザの絵が多くの画家に影響を与えたのを知っている、と言っています。彼女は、いまもあなたと一緒に旅行している、と言っています。今年はどこかへ行きましたか。
 ― スイスへ行きました。
 彼女は、その時も一緒にいたと言っています。
 息子さんが壊れた時計の話をしています。何か思い当たることがありますか。
 ― 実は、彼が霊界へ行ってから、毎日決まった時間にメロディを鳴らし続けた小さな時計がありましたが、それが、13年も続いて、停まりました。いまもその時計があります。
 彼も、スイスへ行ったことがあるのですか。
 ― あります。家族でアメリカからスイスへ行ったとき、彼は自分の小遣いを貯めていたお金で腕時計を買いました。

 ここで妻が、「バッキンガム宮殿のことがすばらしい思い出になった」と言っているのは、思い当たるふしがある。しかし一般的には、はるばるとロンドンまで行ってバッキンガム宮殿を訪れれば、誰でもそれなりの思い出を持つことになるだろうから、これだけで、これが妻からのことばだと言い切ることは出来ない。「美術にも関心がある」というのも、そういう人は少なくないから、これも、これだけではわかりにくい。しかし、ほかの霊能者からも、このことについては、妻についての情報として、一再ならず伝えられたことがあることは、考慮しなければならないであろう。妻が「私といっしょに旅行している」という情報についても、同様である。

 さらに、ここに出てくる「壊れた時計」については、私にとっても極めて大切な情報で、思い出も深い。私だけしか知らないことなのに、Hさん以外のほかの霊能者からも伝えられたことがあるので、やはり、長男からの話だと受け取っていいのであろう。彼の音楽の趣味については、前回は、「楽器が見える」、「楽器の演奏が上手であった」、「いまも音楽の勉強をしている」などのことばがあったが、今回は、「彼は音楽との関係が深いですね。音楽がいまも彼の生活の一部になっています」ということばがあった。彼は、音楽に深く傾倒していて、子どもの頃は言語学者になるのでなければ音楽家になりたいと友人に洩らしていたこともあったらしい。東京での学生時代、ギターはかなりの名手といわれたりしていたし、彼の音楽との深い関係は、ほかの霊能者たちからも度々指摘されてきたから、このHさんのことばも、単なる偶然の一致ではなかったであろう。

 東京でのHさんとの「対話」では、このほかに、ここには書きにくいような、かなり私的な話もいくつか出てきた。結婚後長い間子どもに恵まれなかった長女のこともその一つだが、その長女のことを、母親である霊界の妻は「あまり心配はしていません」とHさんは言っていた。霊界に居て、「長い視野でものごとを見ることができるようになっているから」だとも付け加えた。結果的には、そのときにいろいろと聞かされた話が、後に極めて正確に実現するのだが、当時は、あいまいな話のようで、言われたこともよくわかっていなかった。

 ロンドンと東京での、これらの二つのテープをいま聴きなおしてみて、その中に含まれるいくつかの情報は、間違いなく妻や長男からのものであることを確信することができる。しかし、それでもなお、それ以外の多くの内容については、私の受け手としての未熟さから、正確な情報であると言い切ることはできない。ただ、私は、いままで長年の間、数十人の霊能者から霊界からのメッセージを受け取ろうと試みてきて、一つでも二つでも、これは、間違いなく妻や長男からである、と確信できることばを掴み取ることができたときには、こころから有り難く思ってきた。その「一つでも二つでも」が長年の間に積もり積もって、いまでは、霊界に居る妻と長男の元気な生活ぶりを、かなり鮮やかなイメージとして思い浮かべることができる。

 かつて1992年に、大英心霊協会で、アン・ターナーから疑うにも疑い得ないような正確そのものの霊界からのメッセージを受け取ったことがあった。あの頃はまだ私は、無明の闇のなかから抜け出すことができずにもがき苦しんでいた。あの時の一連の重大なメッセージは、そんな私に与えられた霊界からの特別の配慮であったのかも知れない。あの通信を成功させるために、霊界では長男が大分苦労したらしいことも、後に知らされたことがある。

 それ以来いまに至るまで、このHさんなどを含めて、数多くの霊能者に会い、霊界からのメッセージを受け取ってきた。そのなかには、正確度の極めて高いと思われるものも少なからずあり、曖昧でよくわからなかったのもいくつもある。しかし、曖昧でよくわからないことがあっても、私はそれを霊能者だけのせいにすることはできない。時空を超えた霊界からの情報を地球次元での狭い常識と理解力で受け取ろうとするには、いろいろと困難が伴うであろうことは容易に推察できる。私にとっては、いままで受けてきた様々な霊能者からの助力が、すべて、それぞれに有り難く、大きなこころの支えになってきたのである。

    (2006.07.01)






 「千の風になって」 (身辺雑記42)

 私のホームページの「メール交歓」欄に、「ロンドンからの詩 “私は死んでなんかいません”」(2004.11.25) がある。ロンドン在住の N.K さんから送られてきたもので、つぎのような詩である。

  A THOUSAND WINDS

 Do not stand at my grave and weep,
 I am not there, I do not sleep.

 I am a thousand winds that blow
 I am the diamond glints on snow,
 I am the sunlight on ripened grain.
 I am the gentle autumn's rain.

 When you awake in the morning hush,
 I am the swift uplifting rush
 Of quiet in circled flight.
 I am the soft star that shines at night.

 Do not stand at my grave and cry.
 I am not there; I did not die.

 この詩のことを、朝日新聞コラムニストの小池民男氏が「時の墓碑銘」 というタイトルで紹介していた(2006.3.6)。それによると、この英語の詩は、いつ、だれが作ったのかわかっていないらしい。しかし、ひとつのエピソードがある。かつて、この詩を、アイルランド共和国 (IRA) のテロで死んだ青年が、遺書のように両親に託していたのである。それをBBCが放送して、この詩がひろく知られるようになった。アメリカでの 9・11テロの翌年の追悼集会では、この詩は11歳の少女によって朗読されたし、映画監督H・ホークスの葬儀では、俳優のJ ・ウエインも、この詩を朗読したという。

 この A THOUSAND WINDS は日本でも翻訳され、一部では知られていた。それを、作家で作詞作曲家でもある新井満氏が、新たに原詩を基につぎのような訳詞にした。

 私のお墓の前で
 泣かないでください
 そこに私はいません
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る

 私のお墓の前で
 泣かないでください
 そこに私はいません
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 この訳詞はどのようにして生まれたか。そのいきさつについては、新井氏自身がホームページのなかでつぎのように書いている。

 《私のふるさとは新潟市です。この町で弁護士をしている川上耕君は、私のおさななじみです。彼の家には奥さんの桂子さんと三人の子供たちが