No,81〜No100




    ウォルター・ローリーの波乱万丈の生涯
         ―生活と文化をめぐる随想(83)― 


 大韓航空機事件が発生した1983年の夏には、私たち家族4人は、1973年以来、二度目のアメリカ生活を送っていた。ノース・カロライナ州の首都ローリーに住んでいたが、このローリーという名前は、イギリスの軍人、海洋探検家、廷臣、文人という多彩な顔を持っていたウォルター・ローリー(Walter Raleigh) からとったものである。彼は、エリザベス一世の寵愛をえて、1584年にはナイト爵の称号を与えられていた。ぬかるみに高価なマントを広げて女王を通したという伝説は有名である。

 その前年、1982年の夏からは、私と娘はアリゾナ州ツーソンに住むようになっていた。その町のアリゾナ大学に娘は留学生として、私はフルブライト客員教授として所属していた。米政府のフルブライト基金で世界中から選ばれた研究員、客員教授はアメリカ各地の大学に分散していたが、年に一回、全員が一箇所に集まって、研究集会に参加することになっている。その年度の研究集会は、翌年の1983年春、ノース・カロライナ州の首都ローリーのノース・カロライナ大学に、百数十人が集まって行なわれた。私はツーソンから空路3時間を飛んでローリーに着いたが、これが、私がローリーに足を踏み入れた最初である。

 3日間の研究集会に出席している間に、私は、ローリーのホテルで、東北大学から来ていたS教授と一晩語り合ったことがあった。今でも忘れられないのは、その時、S教授から、その数年前に、中学生であった長男をガンで亡くした話を聞いたことである。余命いくばくもないことを知っていたS教授の長男は、時折、病室で声を殺して泣いていたという。生き続けていれば、その時の私の長男とほぼ同じ年頃になるはずであった。私は話を聞きながら、S教授の悲しい思いに深く同情したが、その数か月後には、私自身がほかならぬこのローリーに住むようになって、その結果、長男だけではなく妻をも亡くすことになろうとは、想像さえできなかった。

 この町の名前のもとになったウォルター・ローリーは、エリザベス女王の勅許を得て、イギリスではもっとも早く、1584年から新大陸へ向かっての探検隊を送り込んでいる。翌年の1585年には、初めての移住民団をイギリスから出発させた。彼らは、大西洋の危険な荒海を乗り越えて、現在のノース・カロライナのロアノーク島に上陸したが、原住民のインディアンたちと折り合いが悪く、定住するには至らなかった。その後、1586年にも、87年にも移住が試みられたが、成功しなかった。結局定住には失敗して、移住民は全滅した。

 彼らがなぜ全滅してしまったのか詳しいことはわからない。残されていたのは立ち木に刻まれたインディアンの名前だけである。インディアンたちと共存していくことができずに殺されたのかもしれない。私は、1983年の事件の直前には、家族四人で、このロアノーク島の移住の現場を訪れているが、その跡地はいまも史跡として保存されている。彼らがもし生き続けていたら、アメリカ植民第一号の栄誉をになうことになり、ウォルター・ローリーの名声はますます高まっていたであろう。しかしその栄誉は、その後の1607年の、ジョン・スミス船長によるジェイムスタウンの植民に奪われることになった。

 ロアノーク島における最初の植民には失敗したが、彼は植民計画の強力な推進者であり続けた。後続の植民地への道筋を開いたその大きな功績が称えられて、ローリーの州議会議事堂の前には、ウォルター・ローリーの大きな銅像が建てられている。私は、家族連れで何度かこのあたりを歩いている。ローリーの銅像の前で撮った写真もどこかに残っているはずである。

 アメリカの殖民事業に失敗したあと、1591年に、ローリーは密かに女王付きの女官であったエリザベス・スロックモートンと結婚した。翌年になってこの無許可の結婚が発覚すると、激怒した女王はローリーをロンドン塔の牢に幽閉し、エリザベスを宮廷から解雇するように命じた。この時には間もなく、釈放されたのだが、1603年のジェームズ二世の時になって、今度は陰謀のかどで13年間もロンドン塔に幽閉されてしまった。冒険家である上に詩作や散文に長じた文人でもあった彼は、この獄中で大著『世界歴史』を書き上げた。

 その後彼は、奇跡的にロンドン塔から出獄を許され、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣される2度目の探険隊を指揮することになる。ところが探険の途中、ローリーの部下達が、スペインの入植地で略奪を行いスペイン人との戦闘になってしまった。憤慨したスペイン大使が、ジェームズ一世にローリーを死刑にするよう求めた。スペインとの関係悪化を恐れた国王は、その要求を認め、ローリーは1618年10月18日、遂に斬首刑に処せられた。ローリーは斬首を行う斧を見せられた時、「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」という最後のことばを残したという。

 彼の名をつけたアメリカの町にかつて住んでいた私としては、このような波瀾万丈の生涯を送ったローリーの最後の悲劇に、いささかの感情の動きを抑えることができない。後に私は、高名な霊能者のA師から、前世で1678年頃にイギリスに生まれ、この殖民計画の推進に積極的に携わっていた、と聞かされて因縁めいたものを感じることになる。1678年頃といえば、ジェイムスタウンは、すでに基礎が固まって拡大発展しつつあったはずである。一方、北部のマサチューセッツでも、1620年にメイフラワー号で到着した新教徒たちの一団がプリマスの街を築き始めて50年が経過している。イギリスの植民地も、この頃にはニューイングランドからカロライナに至るまで東海岸一帯に広がっていた。

 私は、その東海岸一帯を家族と一緒の最後の旅行で車で走りまわっている。マサチューセッツにも行ったし、ジェイムスタウンの遺跡もくまなく歩いた。それもローリーに住んでいたからであるが、しかし、はじめは、私はそのローリーに行きたくて行ったわけではなかった。アリゾナのツーソンにあるアリゾナ大学で一年を過ごした後、二年目にはサンフランシスコへ移って教職につきたいと思っていたのに、どういうわけか、不本意ながらローリーにいく破目になってしまったのである。いま考えると、抗し難い大きな力に曳きつけられていたような気がする。そして、私は、1983年のあの事件に巻き込まれることになった。

 前世での私が、霊能者のA師にに言われたように、仮に1600年代後半にイギリスに生まれていて、アメリカへの殖民計画を推進していたとすれば、私もこのウォルター・ローリーの殖民事業については十分に意識していて、そのあとを継ぐ者として彼に親しみを感じていたのかもしれない。そして、これもA師の話では、私もまたウォルター・ローリーのように、イギリス王室とはなんらかの関わりをもって生きていた。「ローリー」という名が、私が住んでいた町の名を通じて、私の生涯に大きな意味をもつことになっただけに、私にはウォルター・ローリーが、なんとなく遠い外国の、無縁の人物とは思えないのである。

  (2012.04.01)



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    人類史のなかの文明の発達と自然破壊
        ―生活と文化をめぐる随想 (82)―  


 トルコのエーゲのほとりにエフェソスという古代都市の遺跡があります。紀元前2世紀に、共和制ローマの支配下に入り、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となって栄えていた港湾都市でした。聖書にもエペソの名で出てきます。かつて、エジプトの女王・クレオパトラは、共和制ローマ末期の権力者であったマーク・アントニーと、この街に滞在していたことでも知られています。

 いまも、アルテミス神殿の遺跡をはじめ、アレキサンドリア、ベルガモの図書館と並んで当時の世界三大図書館の一つといわれていたセルシウス図書館の跡地や、5万人が収容できたという円形劇場も、ほぼその形を留めて残っています。むかし、私も二度ほど、クレオパトラが通ったはずの大理石の道を通り、これらの遺跡を見てまわったことがありました。遺跡の規模やその建造物の壮麗さからも、二千年前にすでにこのような都市があったとは、ちょっと信じられない思いでした。日本では、まだ、歴史に卑弥呼が登場する数百年も前のことです。

  しかし、そのエフェソスも、二世紀頃からは、繁栄の基盤であった港湾が徐々に縮小されていくようになります。エフェソスの街の背後にあった二つの山から流れ出した土砂が港湾に堆積し始めたからでした。その原因は、森林の伐採にあります。エフェソスの街が拡大していくにつれて、周辺の森林は次々に伐採されていきました。雨が降るたびに保水力を失った大地が、最後には表土さえ押し流して、遂には港が土砂で埋め尽くされ、住民の生活を支える農作物の生産もできなくなったのです。七世紀に入ると、人々は住めなくなり、急速に街は衰退して、遂には、廃墟になってしまいました。

  このエフェソスの衰退は、古代ギリシア、ローマ文明の衰退のあり方をも示しています。つまり、文明の発達は、常に、森林の破壊という代償を伴っていました。森林の破壊を周辺に拡散させていくことによってのみ、文明はその発展を維持できたのです。破壊しつくして森林がなくなった時点で、人々はその生活基盤を失い、新たな森林を求めて移動せざるをえませんでした。このようにして、アテネ、スパルタ、カルタゴ、ローマ等、地中海の諸都市が衰退したあとは、人々は、今度は、アルプス山脈を越えて、広大なヨーロッパの大森林を目指すことになります。これが、ヨーロッパの大開墾時代の始まりでした。

  ヨーロッパでは、例えばパリは、八百年前に、セーヌ河畔にノートルダム寺院を建て、そのまわりに人々が小さな村を作って住むようになったのが街の始まりです。まず、森林を伐採して教会を建て、そのまわりに人々が住む村を作り、さらに村の周辺の森林を伐採して、農作物を育てるための畑を作ります。人口が増えてくると、森林伐採の範囲はさらに、大きく広がっていきます。このようにして、都市周辺の森林伐採は果てしなく広がっていきました。これが、ロンドンやベルリンなど、ヨーロッパの諸都市ができあがっていった原型といってよいでしょう。

 テムズ河畔のセント・ポール寺院から広がったロンドンなどは、ヨーロッパでも最も森林破壊が進んだ街で、いまでは森林面積はわずかに九パーセントに過ぎないといわれています。ベルリンなどは、十八世紀に殆どの森林が切り払われて、その反省から、植林を始めたのがいまの森林です。ヨーロッパ文明もまた、森林の破壊の上に築かれた文明でした。その森林の破壊が、都市の膨張で徹底的に進められる前に、ヨーロッパを救ったのが、十五〜十六世紀の大航海時代を経て、十七世紀から本格化するアメリカ大陸への進出です。

 十二世紀頃までヨーロッパでは、牛や馬などによる畜力のほかは、水車と風車による自然エネルギーの利用は広く行なわれていました。それが、十四〜十五世紀になると、水を汲み上げたり製粉に利用したりするほかに、ビールの醸造、製油、製紙、製革、製材、製鉄などの他方面の産業をささえる動力として応用され、社会の生産活動の拡大をもたらします。その流れは、十八世紀後半に、蒸気機関が発明されるまで続きました。そして、石炭、石油などの化石燃料の時代に入ります。森林資源を基盤にしてきた人類の文明が、今度は、化石燃料を基盤にして加速的に大きく発達することになりました。

 自動車の発達ぶりは、その典型的な一例です。一八八〇〜九〇年代には自動車の開発が著しく進み、一九〇八年には、アメリカでヘンリー・フォードがT型フォードの大量生産を始めました。このT型は、二十七年までに千五百万台も作られ、一九二〇年代なかばのニューヨークでは、もう街角に車があふれています。太平洋戦争で負けた日本では、一九四〇年代後半に入っても、車どころではありませんでしたが、五十年代後半になって、ようやくトヨタの車が時折り、信号もあまりなかった道路に姿を見せるようになりました。

 その頃、一九五七年から五九年にかけて、私は留学生としてアメリカにいました。日本ではまだ、東京の郊外でも道路は舗装されていなかったのに、最初に見たロサンゼルスの街には、分厚いコンクリートの高速道路が縦横に走り、巨大な高架ハイウエイが大きく渦を巻いている様子などが美しい絵葉書になっていました。不死鳥の羽のようにテールを伸ばした大型車が走り回り、ガソリンも自給できて安く、大学では学生用の広い駐車場があることでも驚かされました。アメリカではもう森林に依存することよりも、化石燃料と電気によって、文明の発達はさらにどこまでも続いていくように思われました。

 一九七三年から一九七五年にかけて、私は文部省在外研究員として、二度目で十四年ぶりのアメリカ生活を体験しました。その頃、高度成長期の日本のみならず、殆んどの欧米諸国は、オイルショックに激しく揺れていました。アメリカへ向かう直前の十月六日の第四次中東戦争の勃発をきっかけに、アラブ諸国は石油を戦略的武器として、石油供給の削減計画を展開し始めたのです。日本でもトイレットペーパーを買うのにさえ、長い行列を作ったりしました。

 かつての石油輸出国であったアメリカは、すでに輸入国になっていて、ガソリンスタンドでは、もう自由にガソリンが買える状態ではなくなっていました。ロサンゼルスの街では、すでに交通渋滞が始まり、増え続ける一方の車の交通量を緩和するための道路の拡張工事がいたるところで行なわれていました。文明発達の象徴のようであったあの美しかった高速道路の高架ループを、人々はもう渋滞を予想して、うんざりした表情で見るようになっていました。雑然として落ち着きをなくした街の雰囲気のなかで、いまでは日本でも当たり前になりましたが、住民たちは飲料水さえ買って飲むようになっていることにひどく驚ろかされました。

 その当時、アメリカでは、女流作家のレーチェル・カーソンが一九六二年に『沈黙の春』でアメリカ中に広がる農薬汚染の実態を告発して以来、環境汚染が社会的な大問題になっていました。それまで、ところかまわず撒かれていたDDTなどの有機塩素系農薬や毒性の強い有機りん剤が、現実には、小鳥や益虫を殺しているばかりでなく、人の命まで脅かされていることを知らされて、人々は愕然としたのです。広大にひろがるアメリカの大地が、いたるところで、汚染と破壊に曝されている実態が、史上初めて、アメリカ国民の前に明かされていきました。

 南部のミシシッピ川でも、汚染による水中酸素欠乏のため魚が数百万匹単位で死んでいったり、核実験による死の灰やサリドマイド児の問題が発覚して大問題になっていました。文明の発達は、一九六九年に人類を初めて月面に立たせるまでになりましたが、その一方では、森林の伐採のみならず、自然破壊と人心の荒廃が、広範囲にしかも着実に進んでいたのです。日本でも、一九五三年頃から発生した水俣病などの公害病が深刻な影響を与え続けて、農薬汚染や水の汚染など、何年か遅れて、アメリカの後を追うように社会問題になっていきました。

 その間に、厖大な量の化石燃料の消費は、深刻な大気汚染を惹き起こし、二酸化炭素の増大による地球の温暖化が世界規模での大問題になってきました。二十一世紀の半ばには、地球の平均気温が三度上昇して、北米大陸の中心部や、中国、ロシアの穀倉地帯の水分が30〜50パーセント蒸発し、これらの地域だけでも、食糧生産が20パーセントも激減するという科学者の予想もありました。そして出てきたのが、原子力発電であったのです。原子力発電は原子爆弾と同じで、人類が手を染めてはいけない「パンドラの函」でした。しかし、原子力の「平和利用」という甘いキャッチフレーズに迷わされて、人々はそれを受け容れてきました。そして、私たちは、いま、昨年3月の福島の原発事故を体験しています。

  自動車の話に戻りますと、その原発事故を含めた昨年の大震災や、タイの洪水などの影響で、昨年度の日本の国内新車販売台数は前年度より15.1パーセント減の421万220台だったそうです。一方、アメリカの新車販売台数は、前年度より10パーセント増の約1、280万台になりました。これに対して、最近台頭が著しい中国は、昨年の1〜11月だけで、すでに1、681万台で、中国が三年連続で世界一の自動車市場ということになっています。(「朝日」2012.01.05-06) これは、驚くべき自動車の生産台数の増加ぶりですが、これを私たちは、文明発達の成果として手放しで賞賛してもいいのでしょうか。

 現在、日本やアメリカを含めて、世界の主要国は、例外なく、自動車台数の過剰による交通渋滞や、大気汚染を惹き起こしています。それがさらに中国の大地にも広がっていくことになります。インドや東南アジア諸国でも、森林が次々に伐採されていく一方で、自動車の生産と輸入は急速に増え続けています。問題は、このような自動車の例だけをとってみても、私たちが自然環境の再生ペースをはるかに上回る速度で、自然を破壊し続けていることです。今後、途上国の人々の生活水準が上がっていけば、問題はさらに深刻になっていきます。70億人の世界人口が、すべて先進国並みの生活をするようになれば、もう地球を取り巻く自然環境の負荷能力が、それに耐え切れなくなるのは誰の眼から見ても明らかです。

 自然破壊と大気汚染、それに原発事故による後遺症の問題。日本に住む私たちの前には、東日本の再生のほかに、いま、これらの二つの大きな問題が立ちはだかっています。これをどう捉えていけばよいのでしょうか。チェルノブイリやスリーマイル島の事故の時は、まだ対岸の火事でしたが、今度は日本の福島です。事故が起こったばかりで、深刻な被害はまだ収束しそうもありません。安全神話が覆ったことから、原発廃止の世論が俄かに高まりをみせ、例によってマスコミも、それに追従するようになりました。開けてしまったパンドラの函は、なんとしてでもまた閉じなければなりません。これはその通りです。

 しかし、それだけでは地球は救われないでしょう。原発を廃止してそれを火力発電で補えば、化石燃料を燃やし続けることによる大気汚染がさらに拡大することも考えなければなりません。しかも、地域に限定されている原発の被害よりも、地球規模で広がっている大気汚染の被害のほうがむしろ深刻で、甚大であることを忘れてはならないのです。ここまで来て、急に、風力や太陽光などの自然エネルギーの利用が促進されるようになりましたが、自然破壊のスピードを落とすには、まだまだ程遠い現状です。地球環境の危機的な状況は、まだ回避される方向には向かっていないのです。

 地球が誕生してから46億年、700万年前にチンパンジーと枝分かれして、猿人、原人、旧人を経て現在の人類の祖先がアフリカに出現したのが20万年前、そのアフリカを出て全世界へ拡散し始めたのが6万年前、そして、その時は氷河期の真っ最中で、2万人くらいいた私たちの祖先は、食糧難で数千人にまで減少していたといわれています。その時の祖先たちの飢餓を救ったのが骨の棒を加工して作った投擲具で、それによって投槍を遠くまで飛ばせるようになり、走り回る小動物を捕らえて食べられるようになりました。おそらく、これが人類の最初の文明の利器であったでしょう。その人類が、地球の歴史からみればほんの一瞬のうちに、あっという間に、いまは70億に増えて、制御の困難な文明の脅威に曝されていることになります。

 私たちは、この文明の急速な発達により、モノにあふれた飽食の生活を享受しながら、いつのまにか、人間が、地球上の200万種の生物のいのちと共存し、自然のなかで生かされている存在であることを忘れてしまっているのかもしれません。現代の先進諸国の人間は、千年前の人間が1年間で使うエネルギーを、たった一日で消費し続けているといわれます。しかし、それほどの唯我独尊的な浪費を続けながら、どれだけの人々が、こころ穏やかな、幸せで満ち足りた生活を送っているでしょうか。日本だけでも、なぜ、毎年3万人を超える自殺者が出ているのでしょうか。私たちは、いま、一人ひとりが、人間としての生き方そのものを鋭く問われているような気がしてなりません。

   (2012.02.01)



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       長生きすることについて考える
        ― 生活と文化をめぐる随想 (81) ―


 五木寛之氏は、直木賞作家として著名ですが、『親鸞』、『蓮如』などの著作があるほか、NHKの「21世紀仏教への旅」に出演するなど、仏教についても深い関心を示しています。最近、氏の『他力』(講談社、1998年)という本を読んでいますと、そのなかに「延命ははたして意味のあることなのか」というタイトルの一文があり、そこにはつぎのように書かれていました。

 《日本の男性の平均寿命は七十七歳ぐらいでしょうか。これは世界に冠たる長寿国日本の平均寿命ですから、世界全体をひっくるめて考えると、六十年以上生きるというのは、不自然かつ人工的に人生を延ばしている、なにか自然の摂理というものとズレているのではないか、という気がします。》

 この本が出されてからもう13年経っていますから、この日本人男性の平均寿命77歳というのは、修正して考える必要があります。今年(2011年)のWHO(世界保健機構)のデータでは、日本人の平均寿命は、男性が80歳、女性が86歳です。男女平均では83歳で、これは世界一のようです。ついでに調べてみますと、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳、男女平均が68歳で、このうち、最も平均寿命が短いのはマラウイの47歳で、日本と36歳も差がついています。

 五木氏は1932年生まれですから、私より2歳年少です。これを書いたのは逆算して数えますと、おそらく66歳前後で、すでにその頃から氏は、60年以上生きるというのは「不自然」で、「自然の摂理というものとズレているのではないか」と考えていたことになります。この本では、氏はさらに、このようにも述べています。

 《「知足」という言葉があります。足ることを知る―。
 必ずしも私はそれを自分の生活で体現しているとは思いませんが、年を経るごとに歯とか目とか、その他もろもろの器官が衰えてゆき、人間はこの辺で仕事を終えて去っていいんだよ、という呼びかけがあるはずです。それが昔でいう人生五十年で、現代人の場合はそれに十プラスして六十というのが、いいところではないでしょうか。
 それ以上生きようとするのは、意味がないと言いますか、非常に不自然で、かつ無駄なことをしているような気がします。》

 これは随分思い切った言い方で、現代人としても60歳以上生きようとするのは「非常に不自然で、かつ無駄なこと」とあるのには、ちょっと考え込まされてしまいます。五木氏はいま79歳のはずで、私は81歳です。いまの五木氏は、「無駄なことをしている」思いをさらに強めているのでしょうか。私の場合は、「60歳以上生きようとした」というよりも、生かされてきたという思いですが、それでもいつの間にか随分長生きしたことになってしまって、少なくともこれは、「自然ではない」と受け取らねばならないのかもしれません。それにしても五木氏は、なぜこのような見方をするのでしょうか。氏がこのように考えるのには、つぎのような認識があるようです。

 《人間は、地球上の熱帯雨林を片っぱしから切り倒して、ブロイラーの鶏を大量生産し、その挙げ句、最近では羊を牛の餌にすることまでやっている。そうやって、他の生物の命をものすごく縮小させている。それでいて、人間だけがそれまでの平均寿命をはるかに上回って延命している。こんなことが許されるだろうか、と真剣に考えてしまうのです。
 人間の延命ということが、はたして意味のあることなのか、正しいことなのかという疑問がずっとあります。》

 これは、全くその通りで、私も、この氏の認識に異を唱えるつもりはありません。現在まで人間は地球規模で自然を破壊し続けてきましたが、それは、人間以外の動植物の無数のいのちを奪い去ることでもありました。そして、その一方では、ブロイラーの鶏のみならず、農産物や魚介類に至るまで、大量のいのちを人工的に増やすことに躍起となっています。人間が人間以外のいのちを徹底的に犠牲にし、そして利用して、その上で人間の延命が謀られているとしたら、やはり、自然の摂理からみても、それは行き過ぎであるというほかはありません。

 五木氏の延命を疑問視する考え方には、氏の個人的な体験も背景にあるようです。「私の家族は、母親が亡くなったのが四十二歳、父親が五十六歳で、弟は片方が幼いころに亡くなって、もう一人の弟は四十二歳。だから自分だけが六十歳をはるかに過ぎて生きていること自体が不思議」であったと、氏は書いています。私も母は77歳まで生きましたが、父は59歳で亡くなりました。それに、事件で亡くなったのは妻が47歳で長男が21歳の時ですから、いまの私は、60歳どころか、母親の77歳をも超えてしまったことになります。私はかつては絶望の淵に深く沈んで、生きていく意欲さえほとんど失っていたことがありましたから、それだけに、五木氏と同じように、いま生きていること自体が、不思議に思えることもないではありません。

 ですから、五木氏が、「痔でもなければ胃潰瘍でもない感じの下血」がしばらく続いても、病院へ行って検査を受けようとはせず、「これが大腸ガンであったり、悪性ポリープであっても、それはそれで構わない・・・・・もしここで死ぬようなことがあっても、それはそれで仕方がないと覚悟したのです」という風に書いているのは、私にも抵抗なく受け止められます。ただ、その後で、五木氏が、「生まれてくることについては、選択できずに生まれてくるわけですから、死ぬときぐらいは、自分で選択したい。そこでじたばたするのも選択だし、なりゆき任せもひとつの選択です。私自身は、あまり大騒ぎして死にたくないと思っています」と書いているところでは、またちょっと考えさせられました。

 大騒ぎしないで死んでいくのも、確かに一つの選択ですから、これは分かります。しかし、このなかの、「選択できずに生まれてくるわけですから」には、やはり疑問符をつけざるをえません。私は、というより私たちは、自分が生まれる環境を十分に「選択して」この世に生を受けることを学んで知っているからです。逆に、死ぬときには、空海やスェーデンボルグのような高い霊能力者は別として、通常は、何時死ぬのか、どのように死ぬのかは分かりませんから、本当の意味での選択はできないのではないかとも思われます。

 例えば、メーテルリンクの『青い鳥』の中で、未来の国へ行ったチルチルとミチルが、その翌年、チルチルとミチルの弟として生まれてくることになっている「一人の子」に会う場面があります。これはもちろん、おとぎ話に過ぎませんが、霊界のコナン・ドイルによれば、この状況は「大変な真実」を示唆しているのだそうです。(「随想集」65参照)

 その子は、チルチルとミチルの弟になることを「選択して」いるのですが、この世へ行くときには、「しようこう熱」と「百日咳」と「はしか」の三つの病気をもって生まれることになります。そして、その子は、生まれた後その三つの病気を患って幼くして死ぬことも知っています。しかし、これは霊界にいる間のことで、一旦、生まれて物資の世界に入ってしまいますと、この選択の事実は魂の奥深くにしまいこまれてしまって、その子が死ぬときには、なぜこんな病気で幼いまま死んでいくのか、多分思い出せないでしょう。

 こういう理解のもとで、改めて人の死ぬ時機を考えてみますと、本当は、五木氏のように、病院へ行こうが行くまいが、それは本質的なことではないような気がしますし、幼児のときに死んでも、60歳を超えてまだ生きていても、それは、自分がこの世に生まれてくる前に「選択した」霊性向上のためのスケジュールに組み込まれているのかもしれません。はたして真実はどうなのでしょうか。

 このようないのちの真実に最も迫れるのは、やはり霊界からの高度の情報ですが、かつてロンドンの交霊会で参加者の一人が、シルバー・バーチに「完全な生活条件が整ったら人間は150歳までは生きられるのではありませんか」と質問したことがあります。それに対して、シルバー・バーチはこう答えていました。

 《肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。
 肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。》 (「学びの栞A」57-i)

 繰り返しになりますが、もちろん、五木氏のいう「大騒ぎをしないで死ぬ」選択はできるでしょう。しかし、どのような病気で、何時死ぬということについては、チルチルとミチルの弟のように、この物質世界に居る間はかつて選択したことを思い出せないのが普通で、これは、神仏の判断にお任せするほかはありません。五木氏の書いたこの本のタイトルは『他力』ですが、他力とは、要するに、神仏の力だろうと思います。生きている間は精一杯誠実に生きて、その後のことは安心して神仏にすべてを委ねるという「他力」的発想で、「長生き」も気楽に捉えていけばいいのではないでしょうか。

    (2011.12.01)



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