21. 霊界での再会

 21-a (霊界で必ず叶えられる愛する者との再会)

 私たちは老化も病気も霊の成長を妨げることはないこと、死によって物的身体がもたらしていた一切の痛みと苦労と障害から解放されると申し上げております。死はけっして愛する者との間を、永遠に引き裂くものでないこと、いつかは必ず再会の時が訪れること、それも、どこやら遠い遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられると申し上げているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.48-49


     *****


 21-b (愛し合う二人のうち一人が他界した場合、霊界で再会できるか)

 その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれは、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像もできない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 68


     *****


 21-c (霊界へ行った時かつての地上での仲間や親族と一緒になれるか)

 その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 102


     *****


 21-d [2-t ] (私たちが死んだら霊界へはどのようにして行くのか)

 死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の玉の緒″が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。
 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。
 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 103


     *****


 21-e (脳の障害で醜くなって死んだ妹を霊界で識別できるか)

   ---「私が他界した時にすぐに妹が分かるでしょぅか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四〇年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか」 という質問に対して---

  この種の問題はほんとうは個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片づくのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生をうけているいかなる人間も、代償の法則、ときには懲罰とも言うべきものから逃れることはできません。ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、貸し借り無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。
 不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。
 なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。なぜそうなったのか? もしかしたらカルマが働いていたのかも知れません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません。
 (妹さんの)識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 111-113


     *****


 21-f (霊界へ行った時、縁者に知らせる連絡組織があるのか)

 そういう人たちは常にあなたといっしょですから、そういう組織は必要ありません。あなたご自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人はけっして離ればなれにはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.113-114

     *****


 21-g (霊界で出迎えてくれるのは他界者と同じ霊格の者だけか)

 ― 人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか。

 そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、言わば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。
 地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかということですが、これはお答えしにくい問題です。と申しますのは、悟りというのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいという終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。
 それは事実上永遠に続く過程です。段階的に少しずつ理解が深まっていく過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれるという、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けていくのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.61-62

     *****


 21-h (一つの家族が霊界へ来ても自動的に合流するわけではない)

 =霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって悩んでいる熱心なスピリチュアリストの夫人に対して(23-j に続く) =

 一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性をもっている場合にのみ、それが有りえます。親和性がなければ再会はありません。意識のレベルが違うからです。
 夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません。
 霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。なかなかうまく説明できないかも知れませんが、とにかくすべてが不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神、創造主、どう呼ばれても結構です。
 首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助をうけておられます。きっと乗り切ることができます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験は結果的にはあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植えつけてくれることでしょう。
 私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害もない人生をお約束することは絶対にできません。私から言えることは、障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だということです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。
 地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体をたずさえて永遠に生きるということは、自然法則上、不可能なことです。無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 117-119











 22. 宇宙・地球

 22-a (宇宙創造の目的についてどう考えるか)

 目的はあります。永遠の時の中で成就すべき目的があります。生命は無窮の過去から存在し未来永却にわたって存在し続けます。しかしその生命のたどる道は、一つの頂上をきわめると次の頂上が見えてくるという、果てしない進化の道程です。一つの頂上をきわめるごとにあなたの霊的資質が向上して行くのです。
 鍛錬によって人間は内部の神性が目覚め、より広く、より豊かなものを表現してまいります。地上的なアカが落とされ、霊の純金が姿を現します。これは当然のことながら苦痛を伴わない過程ではあり得ません。が、それも宇宙的機構に仕組まれた一部---比較対照の中で真理に目覚めるように意図された機構の一部なのです。
 苦痛を知らずして健康の有難さを知ることはできません。日蔭を知らずして日向の有難さは分かりません。そうしたことのすべてが、リズムと調和の中で展開する創造活動の一大パノラマを演じているのです。
 人間は永遠の海を当てもなく波に翻弄されているコルクではありません。永遠の創造活動の中の不可欠の存在なのです。自分の努力、自分の行為、自分の生活がそうした永遠の創造過程になにがしかの貢献をしているのです。神の息吹きの一部であり、無限なる霊の一部であり、永遠なる宇宙の一部であり、それが自分を通して働き、雄大なる宇宙的機構に光輝を加えることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.96-97


     *****


 22-b (巨大な宇宙の中にあってほんの小さなシミほどの知識で)

 こう申しては失礼ですが、あなたは物事をガラス越しに薄ぼんやりとみつめておられます。真剣ではいらっしゃるかも知れませんが、きわめて小さなレンズで覗いて全体を判断しようとなさっています。あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです。しかし今、それよりは少しばかり多くの知識を私たちがお授けしているわけです。
 少しだけです。全知識をお授けしましょうとは申し上げません。それは私たちも持ち合わせていないのです。私たちはあなた方地上の人間より少しばかり多くの知識を手にしているだけです。あなた方より少しばかり永い生活体験があるからにすぎません。あなた方がこれから行かれる世界、私たちが本来の住処としている世界において、自然法則の仕組みと働きのいくつかを見てきているからです。
 その体験と、私たちよりさらに多くを知っておられる上層界の方々から教わったことを土台として私たちは宇宙人生の計画と目的について一段と明確な認識を得ております。そこに完璧な摂理の働きを見ております。自然の摂理です。手落ちということを知らない法則、絶対に誤ることのない法則、極大から極小にいたるまでの宇宙間の全存在の全側面を認知し、何一つ無視することのない法則、すべてを包括し、すべての活動に責任をもつ法則です。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.98-99


     *****


 22-c[25-f] (宇宙を支配する完璧な法則を信じるがゆえに)

 私たちはその法則の完璧さに驚嘆しております。絶対に誤ることがないのです。そして私たちは、これまでに明かしていただいたその完璧さゆえに、愛と叡智と慈悲によって育まれた完全な計画の存在を知り、現時点で理解し得ないこと、まだ明かしていただいていない側面もまた、同じく完璧な法則によって支配されているものと確信しております。そう確信するだけの資格があると信じるのです。
 その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為されております。
 私から申し上げられるのはそれだけです、私がこれまで送ってきた(三千年にわたる)生活において、”自分は神の法則によって不当に扱われている---不公平だ”と真剣に言える者を一人も知りません。私の知るすべての者が神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性において完全であることを認めております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.99

     *****


 22-d [51-d](霊が地球に宿り悠久の時を経て生命として顕現しはじめた)

 ― (旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。

 申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ! 創世紀その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうやって誕生したかという、その事実なのですから。

 ― その説がたくさんあるのです。どれが事実なのかが分からないのです。

 生意気を言うようですが、私はそうした説≠超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりもなく終わりもありません(※)。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります―アブラハムが生まれる前から私は存在している″と。(※これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球という惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている―と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生けるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている―訳者)
 霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数え切れないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現しはじめたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。
 その生命の誕生に大気圏外からの存在(※)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則にしたがって顕現し、発達し、進化してきたのです。(※天地創造についての質問に対する答えの冒頭でシルバーバーチは自分のことを大気圏外からきた生物″という冗談めいた表現をしているが、これはもちろん霊界からやってきた霊″の意味で言っている。ここで言っているのは他の惑星からのいわゆる宇宙人の参加はなかったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究にまたれる面白くかつ重大なテーマであろう―訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 177-179

     *****


 22-e [24-v] (地球は危機に瀕しているが一夜のうちに破滅することはない)

 地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧― 要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。
 それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。
 それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私たちが総力をあげて救済活動に乗りだしたのもそのためです。
 それで平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方のいう神、私のいう大霊であるという認識です。
 私たちは何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。ここにお集まりの皆さんをはじめとして、スピリチュアリズムの仕事にたずさわっておられる方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事で万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。
 霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。たとえ時間は掛かっても必ず勝利を収めます。真理を手にした者には悲観主義も絶望も入る余地はありません。神が人間の頭を身体の一番高いところに置かれたのは、見上げることができるようにということからです。見下ろすようにということであったら足もとに頭が付いていることでしょう。
 人類の霊的解放の仕事にたずさわる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外に方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってごらんになれば、苦しい体験ほど大切な意義をもっていたことを知って神に感謝なさることでしょう。
 遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。
 地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とをもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間にできないことがあるということです。自由意志が与えられていますが、それにも限界があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 188-191

     *****


 22-f (人間が地球を破壊する力を持つことはできない)

 ― 地球の将来はどうなるのか教えていただけませんか。

 たった一人の人間によっては無論のこと、何人の人がいっしょになっても、地球を破壊する力は持てませんから、地球はこれからも永遠に存在し続けます。地球にもたらす害にも、それを引き起こす手段にも、地球の存在自体に終止符を打たせるほどの規模にはならないように一定の限界というものが設けられています。
 怖がってはいけません。神の意志は必ず成就されるのです。将来への展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようなものは、いっさい棄て去ってください。私たちから要求するのはそれだけです。出来るかぎりのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。
 明日はどうなるかを案じてはいけません。明日は、潜在する神性を開発し、人生を物質的・精神的・霊的に存分に楽しみ、まわりに存在する素晴らしい霊的光輝をますます意識するようになる、その絶好の機会の到来を告げてくれるものなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 191-192

     *****


 22-g (宇宙はたった一つでその中に無数の生活の場がある)

 宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変らず同じこの宇宙で生き続けているのです。ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.32-33

     *****


 22-h (地球は進化しつつあり地震も雷も進化のしるしである)

 神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顧現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

  『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 109











  23. 輪廻転生・類魂


 23-a (再生の決定的な証拠を提供できないか)

 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などがありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になってはじめて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うにすぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしようがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.65


     *****


 23-b (再生した回数を知っている霊はいるか)

 います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は"説く″だけで十分なはずです。私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受けいれないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.70


     *****


 23-c (霊にはいくつかの側面がある)

 私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神God、私のいう大霊 Great Spiritの一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力life force、動力dynamic 、活力vitality、本質real essence、神性divinity、それが霊です。かりに私が"あなたほどなたですか″と尋ねたらどう答えますか。"私はOOと申す者です″などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目わかりません。個性があり、判断力をもち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人-----それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.75-76


     *****


 23-d (再生は本当にあるのか)

 再生は事実です。私はかつて地上へ再生したことのある霊に何人か会っております。特殊な使命を託された人、預けた質を取り戻したい人がみずからの意志で行うものです。
 ただし再生するのは個的存在の別の側面です。同じ人格がそっくり再生するのではありません。ここに一個の意識的存在があって、そのごく小さな一部がちょうど氷山のように地上に顔を出します。それが誕生です。残りの大きい部分は顕現しておりません。次の誕生つまり再生の時にはその水面下の別の一部分が顔を出します。二つの部分に分れても個的存在全体としては一つです。これが霊界において進化を重ねていくと、その潜在している部分全体が顕現した状態になります。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.204-205


     *****


 23-e (人は個霊として無限に再生を繰り返すのか)

 こうした存在の深奥に触れた問題をわずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか私は知りません。が私個人として言わせていただければ---絶対性を主張する資格はないからこういう言い方をするのですが---再生というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。どうしてもそうしなければならない目的があって生まれ変わるのです。あずけた質を取り戻しに行くのです。
 ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顛を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのはその海面上の部分だけです。死後再び生まれてきた時は別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となりますが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。霊界で向上進化を続けると、潜在的自我が常時発揮されるようになっていきます。再生問題を物質の目で理解しようとしたり判断しようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.95-96


     *****


 23-f (人は自分の前生を思い出すことができるか)

  =「人は自分の前生を思い出してそれと断定できるものか」という
    質問に対して=


 もしその人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることができれば、それは可能です。ですが、はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問です。その次元の意識は通常意識の次元からは遙かにかけ離れていますから、そこまで探りを入れるには大変な霊カが必要です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.182


     *****


  23-g [40-d] (再生は得心した人にとってのみ事実である)

 講演後(40-a)の質疑応答:再生について今ここで語っていただけませんか。

 実は私みずからが、みなさん方が体験しておられる難しさを味わっております。私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません(※)。自分の道具すら説得できないでいて、他の人を説得できるわけがないでしょう。(※これはシル・ハーバーチと・バーバネルとが別人であることの証拠としてよく話題にされたものであるが、晩年は、バーバネルも得心していた。なおこのコペンハーゲンでの交霊会がいつ行われたかは記されていないー訳者)

 事実か事実でないかだけでもおっしゃっていただけませんか。

 得心した人にとっては事実です。得心しない人にとっては事実ではありません。(真理の本質をついた名答というべきであるが、それにしてもなぜ要求にまともに応じなかったのか。私が思うに再生問題はスビリチュアリストの間でも異論の多い問題で、肯定派の中にさえさまざまな再生論があって、ここでシルバー・バーチが一方的に述べることはISFの内部に余計な波風を立てることになることを案じたのであろう---訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 162-163


     *****


 23-h[40-zg] (再生と類魂=生まれてくるのは全体に寄与する一つの側面)

 講演(40-zb)の質疑応答:― 身体の機能上の不平等はどうでしょうか。

 奇形もしくは脳に異状のある場合のことをおっしゃりたいのでしょうか。それは別に扱わねばならない複雑な問題でして、これには宿業(カルマ)の要素が入ってきます。

 ― カルマの要素があるということは再生もあるということでしょうか。

 再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生れ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。これでお分かりのように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして“私は前世ではだれそれで、次はまた別の人間に生れ変わります”などと言います。そういうものではありません。生れてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。
 かくして皆さんのおっしゃる類魂(グループソール)というものがあることになります。つまり霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰るわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 200-201


     *****


 23-i [40-zh] (類魂=永遠に消えることのない霊的親族関係が存在する)

 講演(40-zb)の質疑応答:― インディビジュアリティがパーソナリティのひとかけらなのですか、それともその反対ですか。

 パーソナリティがインディビジュアリティのひとかけらです。

 ― みんなグループソールに属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵をこうむると同時に、良くない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。

 その通りです。それが全体に寄与するのだと思えは、それも有難い体験です。

 ― ということは、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいではないわけですね?

 そう認識なさることで安らぎをお感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。
 叡智というものは受け入れる用意ができた時にのみ与えられるものです。それが摂理なのです。私は使命を要請され、それを受諾しました。本日皆さんがこの私を招待してくださったということは、高級界のマウスピースとして、その叡智を取り次ぐという仕事において幾らかでも成功していることを意味していると受け取らせていただきます。
 肉体的血族関係が終わっても、永遠に消えることのない霊的親族関係というものが存在します。それは永遠に続きます。結びつける絆は物質ではなく霊です。物質は儚い存在ですが、霊は永遠です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 201-202


     *****


 23-j(息子に再生をどのように教えていけばよいか =1= )

 (霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって悩んでいる熱心なスピリチュアリストの夫人から =7-fに続く= ) ― 息子は再生というものを信じているらしいのです。しかし今自分の父親が死にかかっているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになったあと、父親がどこかに再生してしまえば、はたしてうまく再会できるかどうかが心配だと言うのです。

 そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに“橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない”(余計な取り越し苦労をするな)というのがあります。
 再生はたしかにあるのですが、これにはいろんな要素がからんでおります。そのために、それが理解できない人に説明することは容易でありません。
 私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、すべての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性というのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って、一段と光沢と輝きを増すことになるということです。
 それは、支払うべき霊的借金とでもいうべき宿業をもった人が因果律の働きで戻って来る場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する使命をもって降誕する場合もあります。その霊のもつ資質と才能とがその地域の人たちに必要だからです。
 これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティというのがあり、それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりもはるかに大きなものであるということが理解できるようでなければ、この問題は扱えません。
 そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多いようです。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上にたくさんのパーソナリティをもつことができます。インディビジュアリティの物的表現、ないしは顕現です。数はたくさんですが、同じインディビジュアリティから出ているのです。
 パーソナリティというのは仮面を意味するラテソ語のパーソナから来た言葉で、物的身体にまつわるものを意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部にすぎません。
 パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我にくらべると実にお粗末なものしか表現しておりません。
 このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはイソディビジュアリティによって投影された影にすぎません。そのインディビジュアリティが、肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的可能性を少しずつ発揮していきます。地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分―多くの側面―がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むという目的も兼ねているのです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、pp. 114-117

     *****


 23-k (息子に再生をどのように教えていけばよいか =2= )

 二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人といっしょになれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが、こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。
 一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生をうけます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 117

     *****


 23-l [36-p] (前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生するのではない)

 ― 次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)ではなくて、その奥の霊または魂なのですね。

 その通りです。前回の地上生活の時と同じ人物がそっくり再生してくることは有りえません。人物像は肉体の死とともに消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現にすぎません。

 ― 私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識をもっていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。

 あなたは今歩んでおられる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないからです。
 その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 120-121

     *****


 23-m (霊界から地上へ誕生しようとするのは何のためか)

 ― 地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それとも、より多くの知識を得るためでしょうか。

 (両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。

 ― 私にとっては霊的知識こそ神からの授かりものです。

 無限なる叡智をもつ神があなたに授けられたのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 121-122

     *****


 23-n (地上への再生はどのようにして行われるか)

 ― ある書物に、われわれは同時に二つの場所に生まれ出ることができると書いてありました。事実でしょうか。

 私は、真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それがさまざまな体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティのすべてを宿すことは不可能だからです。
 パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティというのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティというのは魂の全体像です。その全体像を地上での七〇年や八〇年、あるいは九〇年の間に発揮することは到底不可能です。
 “われわれ”とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することは有り得ることです。が、すべては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは余計な心配はなさらぬことです。
 もう一度生まれ変りたいという顧望をもつようになる人がいます。奉仕的活動をしたいという場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な“借金”が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。二度、三度とくり返すこともあります。が、いずれの場合も再生してくるのは其の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。
 再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰うつな世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 122-123

     *****


 23-o  (地上での用事がすべて終わったら再生してくることはない)

 ― なぜ再生してこない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。

 支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったということです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での向上進化に専念することができます。

 ― もう下層界へ下りることがないわけですね。ひたすら上へ向けて進歩し、下降することがないのですね。

 進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状に同じことをくり返しているようで、実際には着実に向上しています。
 そこには因果律という自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。
 ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生というものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持から信じている場合が多いということです。人間世界でいうところの“劣等感”です。現在の自分の身の上がいくらみじめでも、かつての前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。
 しかし再生とはそういうものではありません(前世では○○という人物だったというのはナンセンスです、と別のところ述べている―訳者)。自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとはかぎりませんが、その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 123-125

     *****


 23-p [50-k] (霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるか)

 ― 霊界へ行ってからでもカルマを清算することができるのでしょうか。

 むろんです。それが普通です。

 ― ではなぜ地上へ戻って来るのでしょうか。

 地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危急存亡の時に当たって何かの貢献をしたいという自発的な願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。すべてに計画性があるのです。

 ― 私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!

 選択の自由は与えられています。が、忘れないでいただきたいのは、その自由意志も相対的なものであることです。やりたくてもできないことがあり、また、どうしても選べないコースというのがあります。最終的にはあなたがそれまでに到達した霊的進化の程度が、次に取るべき手段を決定づけるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 125-126

     *****


 23-q (地上へ再生するまでに霊界で何年くらい待つのか)

 ― 地上へ再生するまでに霊界で何年くらい、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。一〇六〇年という説があり、男性だった者は女性に生まれ変わるというのですが、本当でしょうか。

 その数字はどなたが計算されたのでしょうか。

 ― ある大学での講演で聞きました。

 地上に戻ってくる人がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数が決められているわけではなく、あくまでも一つの計画に基づいてそうなるのです。
 カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に地上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私たちの世界には性差別防止条例はありませんので!
 霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。
 また、男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体ができあがるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いがアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。

 ― 戻ってくることもあり戻ってこないこともあるということですね。

 為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。すべては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 126-128

      *****


 23-r[53-a] (催眠術で前世を思い出すことにより教訓は得られるか)

 ― 前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。

 学べることが皆無というわけではありません。が、そうした体験には、たんに現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の表われであることがあります。
 別のケースとして、それにカルマがからんでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世に呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。これは好い結果をもたらす例です。が、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。
 もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊のしわざである場合もあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 128-129


     *****


 23-s [53-b] (催眠術での遡及によって過去世の証拠が得られるものか)

 ― 催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配にすぎないのでしょうか。

 いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。それというのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることはできないからです。創造力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。
 こうした要素をすべて考慮に入れなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体脱離)が起きて、その間の一連の記憶が印象づけられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることにはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 130

     *****


 23-t [53-c] (催眠術による前世への遡及は用心してかからねばならない)

 ― 生まれ変る時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けるということを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。

 地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生します。が、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けします。私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。

 ― その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかが無かったかを聞いております。

 施術者の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛からないといけません。催眠術の基本は“暗示性”にあります。したがって施術者が述べていることは控え目に受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示どおりに反応しているとはかぎらないからです。

     『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 130-131

     *****


 23-u [39-t] (シルバー・バーチはもう生まれ変わることはない)

 ― あなたがもう一度肉体をまとって誕生なさる可能性はありますか。

 ありません。私はもう二度と再生はしません。私にとって地上の年季奉公はもう終わっています。こうして戻ってきたのは皆さんを始め地上の人々の力となり、絶対に裏切ることのない霊的摂理と真理とをお教えするためです。人間が地上を仮の宿とした霊的存在であることをお教えして元気づけてあげたいと思っているのです。その真理の啓示を受けられた皆さんは幸せ者です。その啓示によって人生の視野が一変したことを感謝しなくてはいけません。
 私も幸せ者です。お届けする高級界からの教えを受け入れてくださる方をこれほど多く見出すことができたのですから。その教えの中には貴重な真理がぎっしりと詰まっているのですが、問題はその価値を知るにはそれだけの受け入れ準備ができていなければならないということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 19











  24. 霊界と地上


  24-a (他界した肉親が地上へ戻ってくる動機)

 戻りたいという一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートという形で終ることになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.118-119


     *****


 24-b (地上を去って霊界へ来たばかりの人の当惑)

 地上を去って私たちの世界へ来られた人はみな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものです。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちなものです。
 そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に嘖まれるものです。実際にはその人なりに徳を積み、善行や無私の行為を施しているものなのですが、その自覚に到達するには相当な期間が必要です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.157-158

     *****


 24-c(魂の修行場としてはいろんな面で有利である地上)
 
(地上の方が有利であるのは)おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生まれてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地球もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.166


     *****


 24-d (霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎる)

 私たちの霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大へんな使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐつた信者は魔法のように突如として言葉では尽くせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。
 死んで霊界へ来た人は---初期の段階においては---地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた---ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格はまったくいっしょです。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人はあい変わらず利己的です。貪欲な人はあい変わらず貪欲です。無知な人はあい変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人はあい変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。
 こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在についてある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで私のような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受けとられ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊を説くということです。そのためには何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解、無知、偏見、虚偽、欺瞞、迷信---要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.24-25


     *****


 24-e (人が本来の霊的能力を発揮できれば不安は消滅する)

 人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達していません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。
 そこで私たちの方から言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くをしばらくのあいだ置き去りにしなければなりません。
 本当ならば人間側にも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。
 しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念などはすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものです。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.30


     *****


 24-f (死後どれくらいで地上へ連絡できるようになるのか)

 それは個々の事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに自分の身の上に何が起きたかが分からずにいる人もいます・・・・ 一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう人は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるか否かといった条件によって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。
 私たちが手を焼くのは、多くの人が死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来ることです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではあり得ないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。私たちの世界は精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.31-32


     *****


 24-g (いつも霊界から見つめられている地上の世界)

 いつものことながら、いよいよ物質の世界に戻ることになった時の気持はあまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大へんさばかりが心にあります。しかし皆さん方の愛による援助をうけて、ささやかながら私の援助を必要としている人たち、そしてそれを受けとめてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。
 これまでのしばしの間、私は本来の住処において私の僚友とともに過してまいりましたが、どうやら私たちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての僚友たちの評価は、私が確かめたかぎりにおいては満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえ失わなければ、ますます発展していく神の計画の推進に挫折が生じる気遣いは毛頭ありません。
 その原動力である霊の力がはたしてどこまで広がり行くのか、その際限を推し量ることは私にもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果がはたして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。私たちの力がどこまで役立っただろうか---多くの人が救われているだろうか、それとも僅かしかいなかっただろうか---そんな思いを抱きながらも私たちはひたすら努力を重ねるだけなのです。しかし上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えています。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通じてキャッチして、計画の進捗ぐあいを査定し評価を下しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.35-36


     *****


 24-h (死後の霊界での階層は何によって決まるか)
       ―交霊会に出席したある少年の質問に対してー

 成長の度合が違うのです。しかしその違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もし私がポール君に愚かな人と賢い人、あるいは欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね?
 しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうどよく調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。
 地上はその点が違います。物質界という同じレベルで生活しているからといって、みんな精神的に、あるいは霊的に、同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのもので出来ていますが、その身体つまり物質でできた肉体が無くなれば、魂のレベルに似合ったレベルの界へ行くことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.130


     *****


 24-i (死後の幽体にも寿命のようなものがあるのか)

 それは地上の年数でかぞえるわけにはいきません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまでに到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊格にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 104


     *****


 24-j (霊界へ行ってからでも自分を役立てる機会はあるか)

 ありますとも! 地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊---病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。なぜこんな厄介なことになるのか---それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 109


     *****


 24-k (霊界から見える私たちは霊体か人体か、それとも両方か)

 それは一言にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力---地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席の皆さんの霊体だけが見えております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p.113


     *****


 24-l (地上で目覚めなかった魂は霊界ではどうなるのか)

 これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学はずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです。
 ・・・・・・自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります。

 ---「親しい知人が援助してくれるのでしょう?」という質問に対して---

 出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.168-169

     *****


 24-m [10-n] (生きがいある人生を送るには=7=  霊界と地上の違い)

 地上世界の特異性は対照性、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。
 地上生活の目的は善悪さまざまな体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。
 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的につながっているのです。

 (※必ずしも≠ニ言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それが取りもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体について言えると考えてよい―訳者)

 それが無限につながっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。
 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれにふさわしい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 33-34

     *****


 24-n[9-g] (地上の物的財産が無くなれば霊界では貪欲も無くなるか)

 いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前とまったく同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。
 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。
 こちらの世界では思念がすべてのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。貪欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での“成仏する”ということ― 訳者)
 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へしばりつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.71-72

     *****


 24-o (権力欲や強欲は霊界へやって来た霊を地上へ縛りつける)

 ― と言うことは、地上近くをうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。

 その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(※)。何の用意も身支度もできていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいるかぎり、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。
 それで私たちが地上人類の啓発のためにこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしいガンの発生を防ぐためです。

 (※ 同じく“霊界”という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である― 訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.72-73

     *****


 24-p (霊界は地球を取り巻くように存在しているのか)

― 霊界はこの地球からの他界者で占められているとおっしゃいましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界もたくさんあるのでしょうか。

  神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個のマメ粒のような存在でしかありません。

― 地球のような世界がたくさんあって、それぞれに霊界があるということですね?

 霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児ではありません。

― となると“死後の世界”はどこにあるのかという問いにはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが……

 死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認識できないというにすぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。

― その見えない世界の存在を認識するために霊的感覚を養成することも、地上に生活しているわれわれの義務と言ってよいでしょうか。

 おっしゃる通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識してはじめて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気づかないかぎり、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、pp.73-75

     *****


 24-q (地上が陰欝に感じられるのであれば別の世界から来たことになるのでは)

 =「死んでから霊界へ行くのではなくて、今いる場所に霊界がある」(24p) と言われて=

 ― 霊界から地上へ戻ってくると地上が陰欝に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやって来ることになりますが……

 自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチするために高いオクターブの振動に属する要素を霊界にあずけてこなければなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、p.75

     *****


 24-r (霊界と地上界の二つではなく何故霊界一つだけではいけないのか)

 ― なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。

 それに対する答えは“なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか”という問いに対する答えと同じです。学校を出たあとの生活で直面するさまざまな情況に備えて、勉強させるためです。
 物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去ったあとに訪れる生活に備えさせるために、地上生活がさまざまな体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備えるための学習の一課程です。
 物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方のいう神、私が大霊と呼んでいる絶対的エネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。
 大霊の意志の表現である自然法則の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、あるいはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。
 人間界の法律は予期せぬ事情が生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規則されているのです。
 私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはそのためです。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現できません。
 皆さんのどなたよりも永いあいだ顕幽にまたがる生命の旅を続けている私は、今なお、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完ぺきさに驚くことの連続です。
 そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何らかの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的徳性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることにほかならないからです。
 あなたは有限の知性でもって無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、pp.75-77

     *****


 24-s (霊界の高い界層では心と心との直接的な意志の伝達になる)

 ― 「あなたはその“大霊”と交信なさるのですか」という質問に対して―

 あなた方の理解しておられる“交信”の意味では“ノー”という答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なものを表現することはできません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。
 霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私たちは直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p.78

     *****


  24-t[11-i] (地上の人間より霊界の霊の方が大霊と密接な関係があるのか)

 ― あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。

 あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。
 それとも、“密接”とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば “イエス”です。なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.78-79


 24-u [18-x] (地上生活は霊界の生活と違って両極性から成っている)

 ― 時おり味わう精神的な苦悩は外部から来るのではなく内部から湧いてくるのでしょうか。

 どちらからでもあります。よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。
 言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活での必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。
 たびたび申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいということがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのはさまざまな体験の中においてこそです。それは鋼(はがね)を鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨き出す工程と同じです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 187-188

     *****


 24-v [22-e](地球は危機に瀕しているが一夜のうちに破滅することはない)

 地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧― 要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。
 それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。
 それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私たちが総力をあげて救済活動に乗りだしたのもそのためです。
 それで平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方のいう神、私のいう大霊であるという認識です。
 私たちは何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。ここにお集まりの皆さんをはじめとして、スピリチュアリズムの仕事にたずさわっておられる方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事で万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。
 霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。たとえ時間は掛かっても必ず勝利を収めます。真理を手にした者には悲観主義も絶望も入る余地はありません。神が人間の頭を身体の一番高いところに置かれたのは、見上げることができるようにということからです。見下ろすようにということであったら足もとに頭が付いていることでしょう。
 人類の霊的解放の仕事にたずさわる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外に方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってごらんになれば、苦しい体験ほど大切な意義をもっていたことを知って神に感謝なさることでしょう。
 遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今われわれのたずさわっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。
 地球が一夜のうちに破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智とをもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間にできないことがあるということです。自由意志が与えられていますが、それにも限界があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 188-191

     *****


 24-w (霊界の病める霊が地上の人間を悪へ誘わないようにはできないか)

 ― そうした魂の病める霊をなぜそちらの方で看視して、地上の人間を同じ道へ誘わないようにしていただけないのでしょうか。

 そう簡単にはいかないのです。未熟な霊が次から次へと地上から送り込まれてまいります。それは霊界にとって迷惑なことです。そこで地上の人間が地上にいる間に霊界の生活に備えてもらおうと、今、霊的真理の普及に全力をあげているわけです。
 ひとことで言えば、私たちが地上へ戻って来た目的はイエスが説いた“愛”の福音を説くことにあります。人間は互いに愛し合うべきであり、憎み合ったり報復し合ったりしてはいけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 193

     *****


 24-x [28-e] (霊界で復讐心に燃えている霊たちを説得できないか)

 ― (刑事をしている人が初めてサークルに出席して質問した) 職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊たちを説得していただけないものでしょうか。

 残念ながらそういう人たちはみな地縛霊となっており、みずからこしらえた牢獄に光が射し込むまでには大へんな時間を要します。これは大へん難しい問題でして、時間さえあればいろいろと敷衍してお話できるのですが、結論だけ申し上げれば、彼らへの対処の仕方は報復ではなく矯正を目的としたもの、つまり、精神的リハビリテーションでなくてはならないということです。やられたらやり返すのが公正ではありません。

 ― 私は阻止することこそ公正であると考えておりました。

 しかし現実には報復が優先されているのがほとんどです。旧約聖書では “目には目を、歯には歯を”でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけでなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。何ごとも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、すべてがうまく収まります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 193-195

     *****


 24-y (霊の目から見える憎悪と凶暴性に満ちた地上の大気)

 身体の健康状態とは別に、皆さんを取り巻いている雰囲気と地上全体を取り巻いている大気が憎悪と凶暴性に満ちていて、私たちが突き抜けるのに苦心惨憺することがあります。霊の目には見るも恐ろしい様相を呈しております。私たち霊団はそうした病める地上世界 ―貪欲をむき出しに、利己主義が支配し、本来の霊的属性を発揮している人がホンのひと握りしかいない世界を何とかして改めたいと望んでいるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.25

     *****


 24-z (地上の人間は現実界と霊界との繋がりを理解していない)

 地上の人間は現実界と霊界とのつながりについての理解ができておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることができると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.52









 25. 裁き (賞罰・埋合わせ)

 
25-a (人はみな大自然の摂理によって裁かれる)

 いかなる問題においても、私たちは決して地上的観点から物ごとを見ないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている近視眼的無分別に振り回されることはないということを忘れないでください。
 さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における神の摂理の働きを体験してきた私たちは、地上の人間を悩ませる問題を人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野で捉えていないということを知ってください。
 以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりもまず第一に考慮すべきことは “動機” です。自分は正しいことをしているのだと真剣に思い込んでいる人は、魂に罪過を負わせることにはなりません。いけないことと知りつつなおも固執する人間は明らかに罪過を犯していることになります。なぜなら道義心を踏みにじり魂の進化を阻害していることになるからです。私たちの目には国家の別はありません。全体が霊的存在で構成された一つの民族であり、一人一人が国家の法律でなく大自然の摂理によって裁かれるのです。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.59-60

     *****


 25-b (霊界へ移るとき自家作用によって自分で自分を裁く)
       −息子を亡くしたある新聞編集者に対してー

 地上の人々が霊的な摂理を理解し、内部に具わっている霊的資質が自然に発揮されるような自然な生活を送れば、(霊界と地上の)二つの世界の間にかかっているベールが突き破られ、すべての障害が撤去されることでしょう。その障害はことごとく人間の無知と迷信と偏見とによってこしらえられたものばかりなのです。言うなれば闇の勢力です。ぜひとも打ち破って、愛と力と導きと光明がふんだんに地上へ届けられるようにしなければなりません。
 私がいつも知識の普及を口にするのはそのためです。霊的知識こそが、みずからを閉じ込めている牢獄から魂を解放する大きな力となるのです。自由という名の陽光の中で生きるべきでありながら暗い魂の牢獄の中で暮らしている人が多すぎます。
 あなたもその仕事に参加できます。知識を伝達する機関(新聞社)にお勤めだからです。地上生活の総決算をする時がきたとき、つまり地上に別れを告げて霊の世界へと移られると、誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁くことになります。そのときの判決の基準は地上で何を考えたかでもなく、何を信じたかでもありません。世の中のためにどれだけ自分を役立てたかということです。
 私が説いているのは “人のために” という福音です。人のために惜しみなく自分を役立てなさいと言っているのです。そうするとあなたがこの世に存在したことによって世の中が豊かになるわけです。簡単なことなのです。改めて説くのもおかしいくらい当たり前のことなのです。ですが、やはり真実です。地上世界は単純さという本通りから外れて、ややこしい複雑な脇道に迷い込んでいます。あまりに複雑なものに惑わされて単純な真理が受け入れられなくなっている精神構造の人が大勢います。ですが、単純な真理は単純であるがゆえにこそ強いのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.86-88

     *****


 25-c (行為の一つ一つに例外なく働く埋め合わせと懲罰の法則)

 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。
 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
 難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても“生きている”ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 83-84

     *****


 25-d [48-d] (埋め合わせや懲罰・報償を裁定するのは誰か)

 − 埋め合わせと懲罰があるということは、たとえば立派な行いには褒賞があるということになりますが、そういうことを裁定する神様はどこにいるのでしょうか。

 もしも埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあってよいでしょうか。もちろん、よいはずはありません。いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。
 良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのは、あなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 84-85

     *****


 25-e [76-zn] (動物を虐待した者は霊的代償を払わねばならなくなる)

 ― 動物保護運動がなかなか思うにまかせません。むしろ悪化の一途をたどっているように思えます。

 それは人間に自由意志が与えられていることから生じる当然の結果です。もしも何一つ問題がなく闘争もなく犠牲が強いられることもなく困難も生じなかったら、人間は進歩しません。進歩は困難に遭遇した時に得られるのであって、気楽な生活の中では得られません。それぞれの魂が内在する力を引き出すための努力をするように何らかの試練の時に遭遇するというのが、進化における不可欠の過程の一つなのです。
 進歩の速い面もあれば遅い面もあります。とにかく同じ地球を共有する他のすべての存在と仲良くするということが人間の責務です。が、どっちへ転んだところで自然の摂理による埋め合わせがあります。動物が動物なりの進化のコースをたどるように配慮するのは人間の責務です。それを怠れば、人間はそれなりの代償を払わねばなりません。動物に残酷な仕打ちをしている者は、いずれその行為の一つ一つに霊的代償を払わねばなりません。
 悲しいかな、苦しめられるのはいつも罪のない側です。が、自然の摂理は曲げられません。殺人を犯せば殺した方はその償いをしなければなりませんし、殺された方にはその犠牲の埋め合わせがあります。埋め合わせの原理は間違いなく働きます。神は一人一人の人間にきちんと賞罰が計算されるように公正の原理を定めておられます。

     『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 203-204

     *****


 25-f [22-c] (宇宙を支配する完璧な法則を信じるがゆえに)

 私たちはその法則の完璧さに驚嘆しております。絶対に誤ることがないのです。そして私たちは、これまでに明かしていただいたその完璧さゆえに、愛と叡智と慈悲によって育まれた完全な計画の存在を知り、現時点で理解し得ないこと、まだ明かしていただいていない側面もまた、同じく完璧な法則によって支配されているものと確信しております。そう確信するだけの資格があると信じるのです。
 その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為されております。
 私から申し上げられるのはそれだけです、私がこれまで送ってきた(三千年にわたる)生活において、”自分は神の法則によって不当に扱われている---不公平だ”と真剣に言える者を一人も知りません。私の知るすべての者が神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性において完全であることを認めております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.99

     *****


 25-g (簡単に手に入る褒賞は手にするほどの価値はない)

 霊の褒賞がもし簡単に手にできるものであれば、それは手にするほどの価値はないことになります。成就、達成、こうしたものには犠牲がつきものです。ですが、その犠牲には必ず償いがあります。物的に失ったものは、それよりはるかに価値のあるものによって埋め合わせがあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 70











  26. 道徳・道義心


 26-a (善と悪の判定装置は霊的自我に内蔵されている)

 (善と悪の基準は)一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置が組み込まれているのです。これまでに何度となくこの問題を持ち出されましたが、私には一貫して主張している見解があり、それをみじんも変更する必要を認めません。これまでに獲得した霊的知識を総合的に検討した結果として私はこう申し上げております。すなわち、正常な人間であるかぎり、言いかえれば精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。
 それを人間は、時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片づけようとします。が、真の自我はちゃんと分かっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.60-61


     *****


 26-b (現代社会ほど不道徳な時代はないという意見に対して)

 不道徳とはいったい何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考えていらっしゃることが私たちから見るとたいへん非道徳的である場合もあります。そこにものの見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。
 もとよりそれは人の心を傷つけたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。
 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第で違ってきます。本質において、ある面では経済的ならびに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というのは一直線に進むものではないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 127-128


     *****


 26-c [20-e] (偏見や欲望によって歪められる良心)

 地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば “良心” が進むべき道について適確な指示を与えるる、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。
 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面が出しゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかによい解決法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを “正当化” してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986p.161


     *****


 26-d [20-f] (自分の良心の持ち方は背後霊の影響を受けているのか)

 あなたがた人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)---フリークェンシー(周波数)が適切でしょう---があるように、人間にもそれぞれのフリークェンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。
 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.38-39

     *****


 26-e (人間には絶対に誤ることのない善悪の判定装置が組み込まれている)

 ―善悪の基準について問われて

 それは一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれているのです。正常な人間であるかぎり、言い変えれば精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇することなく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。それを人間は時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片づけようとします。しかし真の自我はちゃんと分かっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988p. 94

     *****


 26-f [19-d] (あなた方の道徳は私たちの非道徳である場合がある)

 あなた方が道徳的だと考えていることが私たちからみると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようということであり、人の心を思いやることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 95


 26-g[42-v](霊的原理は倫理・道徳とは一体不離の関係にある)

 地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 100










  27. 無知・迷妄

 27-a (無知は未知なるものへの恐怖心を生む)

 知識こそすべての者が所有すべき宝です。無知は未知なるものへの恐怖心を生みます。この恐怖心こそ人間の最大の敵なのです。判断力を曇らせ、理性を奪い、いい加減な出来心で行動する人間にしてしまいます。これでは人生からよろこびと美しさと豊かさを見出すことはできません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、p.50


     *****


 27-b [59-d] (なぜ無知のままでいたいのか)

 なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義をご生大事にするのでしょう。単純素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃の中で暮らしたがるのでしょう。
 外せるはずの足枷を外そうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかもその自ら選んだ暗闇の中で無益な模索を続けている魂がいるのです。思うにそういう人はあまりに永いあいだ鎖につながれてきたために、それを外すことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、はたして飛べるかどうか不安に思うものです。
 足枷を外すまではいいのです。が外したあとに自ら歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うまま放置されるようなことになってはいけません。私たちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。
 永いあいだ束縛の中で生きていると、やっと自由を得たときに、もう何の指図も受けたくないという気持を抱きます。そしてこう言います---“もう指図を受けるのはご免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り捨てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません″と。
 足枷から解放されて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります(たとえば神仏の化身として崇めていた教祖がただの人間にすぎなかったことを知って−訳者)。そこで私は、私という一個人、ただのメッセンジャー(使いの者)にすぎない者に過度の関心を寄せられるのを好まないのです。私はメッセージそのものにすべてを賭けております。地上の人間はあまり永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れてきました。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp..108-110


     *****


 27-c [59-t] (地上の無知、迷信などが天国の到来を妨げている)

 私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒および出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信をもっております。
 神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。
 物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして受け入れる用意のある人にいきわたらせるか、その手段を求めて私たちは一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.26-27

     *****


 27-d (理性が拒否するものはいかにいわれのある教えでも棄てよ)

 地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えにこだわりすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることができて初めて魂は自由になれるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 77








  28. 暴力・犯罪・死刑制度

 28-a(死刑制度は正しいと考えるか)

 いえ、私は正しいとは思いません。これは “二つの悪いことの酷くない方” とは言えないからです。死刑制度は合法的殺人を許していることでしかありません。個人が人を殺せば罪になり国が人を処刑するのは正当という理屈になりますが、これは不合理です。
 ・・・・・・それにもう一つ強調しておきたいのは、いつまでも死刑制度を続けているということは、その社会がまだまだ進歩した社会とは言えないということです。なぜなら、死刑では問題の解決になっていないことを悟る段階に至っていないからです。それはもう一つの殺人を犯していることにほかならないのであり、これは社会全体の責任です。それは処罰にはなっておりません。ただ単に別の世界へ突き落としたただけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.146-147


     *****


 28-b (死刑で死亡した人による憑依現象)

 それは確かに事実なのです。霊界の指導者が地上の死刑制度に反対する理由の一つにそれがあります。死刑では問題を解決したことになりません。さらに、犯罪を減らす方策---これが方策と言えるかどうか疑問ですが---としても実にお粗末です。そのつもりで執行しながら、それが少しもその目的のために役立っておりません。残虐行為に対して残虐行為を、憎しみに対して憎しみをもって対処してはなりません。常に慈悲心と寛恕と援助の精神をもって対処すべきです。それが進化した魂、進化した社会であることの証明です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.150-151


     *****


 28-c (霊的な視点から問題となっている死刑制度について)

 霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一かけらも進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、目には目を、歯には歯を″の激情に巻き込みます。
 われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。
 生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。生命は神性を帯びているのです。ですから、生命および各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.151-152

    *****


 28-d (凶暴な犯罪は死刑制度によって解決できるか)

 そうした報復的手段では何一つ解決できないでしょう。愛は摂理を成就することであると言います。いかなる手段にせよ、それによってその魂が救われることになるように工夫すべきであって、復讐心を抱かせてはなりません。
 人を殺した奴だから殺してよいという理屈は許されません。国家による法的殺人では問題の解決にはなりません。暴力に暴力で対処することは善性・慈愛・優しい心を生み出すことになりません。
 処罰は矯正と救済を目的としたものであらねばなりません。魂に本当の自分を悟らせてあげることを目的としなければなりません。何の用意もできていない魂を霊界へ送り込むことは問題を大きくするばかりです。地上においても霊界においても犯罪を減らすことにはなりません。それに、人間はとかく過ちを犯しがちなものであることも考慮してやらないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 192-193

     *****


 28-e [24-x] (霊界で復讐心に燃えている霊たちを説得できないか)

 ― (刑事をしている人が初めてサークルに出席して質問した) 職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊たちを説得していただけないものでしょうか。

 残念ながらそういう人たちはみな地縛霊となっており、みずからこしらえた牢獄に光が射し込むまでには大へんな時間を要します。これは大へん難しい問題でして、時間さえあればいろいろと敷衍してお話できるのですが、結論だけ申し上げれば、彼らへの対処の仕方は報復ではなく矯正を目的としたもの、つまり、精神的リハビリテーションでなくてはならないということです。やられたらやり返すのが公正ではありません。

 ― 私は阻止することこそ公正であると考えておりました。

 しかし現実には報復が優先されているのがほとんどです。旧約聖書では “目には目を、歯には歯を”でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけでなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。何ごとも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、すべてがうまく収まります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 193-195

     *****


 28-f (暴漢に襲われたりしたときには身を守るためにやり返すべきか)

 ―暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るのにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。

 悪を大目に見たり暴力を助長することになってもよいということは絶対にありません。剣を取る者は剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を表現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務です。が、そのことに限らず、地上生活に関わることはすべて自分の理性によって判断しなくてはなりません。
 ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守ってよいことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことを可哀そうに思う心も忘れてはなりません。それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。
 もとより私たちには暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力という形では表現されません。霊力は常に冷静・平穏・安らぎ・落着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和をかもし出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。
 それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙げ句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質偏重思想の副産物です。
 暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的とされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追求に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。無明の中で、他人の幸福にまったく無とん着に、ますます暴力的になってまいります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪もない動物にも向けられています。
 それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り換えられているにすぎないという考えは、大変な見当違いです。全体としての調和ということを考えないといけません。他の存在への慈善の心を発揮するには貧乏人の存在が必要だという意見がありますが、そういうものではありません。仁愛の心があってはじめて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈悲の心が生まれないというものではありません。
 若者がその持てる強烈なエネルギーを社会のために活用する分野はたくさんあります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのです。が、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機づけから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。
 皆さんは暴力やテロ行為が生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって導きの光を放ってあげてください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 170-173









  29. 霊能者霊媒

 29-a (霊媒の多くは信用できないか)

 本物の支配霊ーー支配霊としての仕事を完うできる才能を具えた霊にはその批判は当てはまりません。霊媒の背後霊は慎重な検討をへて選ばれ、またその適性は実際に霊媒との仕事を始める前に実証ずみだからです。
 そうした本物の支配霊に関するかぎり今の批判は当りませんが、残念なことに、本物の霊カを発揮するには今一つの修行を要する未熟な霊媒が多いことは事実です。
 そういう霊媒ーーつまり開発途上にある霊媒による交霊会では、何かと良からぬ評判がささやかれ、それがみな支配霊のせいにされてしまいます。実際には支配霊がいけないのではなく、その支配霊を補佐する指導霊や通信霊が未熟なためであることがあり、時には霊媒そのものが未熱であるために、その霊媒自身の潜在意識の中の考えだけが出ているにすぎないことがあります。
 ですから支配霊はデタラメばかり言うというのは言い過ぎです。少なくとも私が連絡を取り合っている幾つかの霊団の支配霊に関するかぎり、そういう言いがかりは不当であると思います。


  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1985, pp.167-168

     *****


 29-b (霊媒のことばをすべて鵜呑みにしてはいけない)

 霊媒の口をついて出るものをぜんぶ鵜呑みにしてはいけません。あなたの理性が反撥するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。
 私たちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろと障害があります。霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、かたくなに固執している観念などが伝達を妨げることもあります。その上に、私たちスピリット自身も誤りを犯す存在だということを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少しだけ先が見えるようになるだけです。そこであなた方より多くを知った分だけをこうしてお授けしたいと思うわけです。私たちも知らないことが沢山あります。が、少しでも多く知ろうと努力を続けております。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.206-207


     *****


 29-c (真理を伝えようとする霊能者が偏見と迫害を受けるとき)

 私が会得した叡智の一つは、全体像を把握するということです。私は “俗世にあって俗人となるなかれ” という訓えのとおりの立場にあります。あなた方のように目先の出来事に動かされることがありません。あなた方は物質界に身を置いている以上、その日その日の出来ごとに右往左往させられても無理のないことです。が、私の住処は霊界にあり、あなた方のご存知ない別の次元の摂理の働きを体験しております。その私の目に巨大な霊力が地球へ押し寄せているのが見えます。それで勝利は間違いないと確信しているのです。
 苦しい思いをさせられる人もいることでしょう。しかしそれは先駆者として払わねばならない当然の犠牲なのです。どんなことがあっても自分の持ち場を死守し、そこから逃げ出すことがあってはなりません。自分にあずけられた真理の宝石を死守するのです。真理を知った者の勇気ある生き方の手本を示すのです。かりそめにもごらんなさい。霊的真理を吹聴していた人間がこのざまですよ″などと言われるようなことのないように心掛けてください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.106-107


     *****


 29-d .(74-n) (支配霊は常に霊媒自身よりも霊格が高いのか)

 いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、支配霊≠ニいう用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携わる霊は協力態勢″で臨みます。一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを支配霊″と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じてしゃべります。時おり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上でのことです。しかし役割は一人ひとり違います。指導霊″という言い方をすることがあるのもそのためです。
 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合はかならずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.176-177


     *****


 29-e (霊言を伝える入神状態は霊媒の健康に害はないか)

 益こそあれ何ら害はありません。ただし、それは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればのことです。あまりひんぱんにしすぎると、たとえば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が、常識的な線を守って、きちんと期間を置いて行い、霊媒としての日ごろの修行を怠らなければ、必ず健康にプラスします。なぜかというと、霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力はすべて健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスとなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.178-179


     *****


 29-f (霊的な意味で裕福そのものであった模範的な霊能者)

 = 英国が生んだ大霊媒の一人で、シルバーバーチの古くからの馴染みでもあるへレン・ヒューズ女史が他界するわずか二、三か月前のことだった。永いあいだ女史と人生を共にし、そして今、他界を目前にしている女史を懸命に介護している女性が、その日の交霊会に招かれていた。その女性に向ってシルバーバーチがこう語りかけた。=

 ヒューズ女史は今ゆっくりと終焉に近づきつつある弱り切った肉体に閉じ込められた偉大なる霊です。もはや施す手だてはほとんどありません。肉体というのは、生長して本来の機能を発揮しはじめた時点から霊への拘束力を強めていくものです。が、女史はその生涯で見事に霊的自我を発揮されました。
 地上に生をうけた目的を立派に果たされました。数え切れないほどの人々の沈んだ心を奮い立たせ、親族を失った人々の涙を拭い、涙と悲しみと苦悩しか見られなかった顔に確信の笑みをもたらしてあげました。女史はいついかなる時も霊の力を裏切るようなことはしなかったという自信がありますから、これまで歩んできた永い奉仕の道を満足して見つめることがお出来になります。
 女史こそ霊の道具はかくあるべきという最高の模範です。言葉によっても、行為によっても、あるいは心に宿す思念によっても、託された聖なる信頼を裏切るようなことは何一つなさっておりません。人々に歩むべき道を教え、やれば到達できる水準を示されました。霊の力は、その地上への顕現に協力してくれる献身的で無欲な道具さえあれば、こういうことまで出来るのだということを見事に示されたのです。
 確かに女史は世俗的な意味では裕福ではないかも知れませんが、霊的な意味では裕福そのものであり、倦むことなく続けられた永い奉仕の人生で身につけられた輝かしい宝石類をたくさんお持ちです。それは永遠に輝きを失うことがありません。どうか私をはじめとして、女史の業績を尊敬し感謝している、本日ここにお集りの皆さんの気持ちをよろしくお伝え下さい。
 これまでに女史が美事に発揮し実証してきた霊の力は、これからも女史のもとを離れることはありません。休みなく輝き続けることでしょう。女史ご自身もそれを辺りに感じて、いつもその真っ只中にいることを自覚されることでしょう。女史のような方がもっともっと大勢いてくれれば、私たちの仕事もどんなにかラクになるのですが、残念ながらイエスが言った通り招かれる者は多し、されど選ばれる者は少なし=iマタイ)です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.68-70


     *****


 29-g (奉仕の道一筋に生きている人は霊力で導かれる =1=)

  =ヒューズ女史について述べた同じ日、ともに霊能者である夫妻が招かれていた。夫妻は英国人と米国人で、今は米国に住んでいる。その二人にシルバーバーチがこう語った。=

 霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみや病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです。
 何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。
 お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです。困難にグチをこぼしてはいけません。困難は霊の拍車です。霊的知識をたずさえてそれに立ち向かうことです。霊の力は物質の力に勝ります。問題に遭遇した時はいったん足を止め、霊的知識に照らして判断し、どんなことがあってもお二人が担って生まれてこられた目的から目をそらさないでください。
 お二人はこれまでずいぶん多くの人々のお役に立ってこられましたが、これからもまだまだお役に立たれます。まさに奉仕の道一筋に生きておられます。教会の高位高僧が---まじめな気持からではあっても---行っていることよりはるかに多くの仕事をなさっておられます。何も知らずに生きている人たちに霊の真理をもたらしておられます。地上に存在している目的を成就する上で力になってあげておられます。霊的本領を発揮する上で力になってあげておられます。霊的知識を普及しておられます。こうしたことはみな神聖な仕事です。そういう仕事を仰せつかったことを誇りに思うべきです。
 人生は難問だらけです。バラの花は少なく、トゲだらけです。しかし、あなた方を導いている力は宇宙を創造したのと同じ力です。無限の威力を秘めております。物わかりの悪い人を相手にしてはいけません。心ない中傷や嫉妬は無視なさることです。まったく下らぬことです。
 本来の責務を全うしていない霊能者のことは気の毒に思ってあげればよろしい。所詮それは当人の責任なのです。あなた方はあなた方なりに精いっぱい責任を果たしておればよろしい。力量以上のものは要求されません。力のかぎり大霊の道具としての自分を有効に役立てることです。少しでも多くの霊力があなたを通して地上に顕現し、それを必要としている人たちのために力と導きと愛をもたらしてあげられるように努力してください。
 地上には為さねばならないことが沢山あります。今の時代はとくにそうです。邪悪な勢力がのさばっています。利己主義が支配しています。既得権力が崩れ行くわが城を守ることに懸命です。こうした中であなた方がたった一つの魂でも真の自我に目覚める上で力になってあげれば、それは大へん価値のあることです。ひたすら前向きに進まれることです。
 われわれが手を取り合うことによって、援助を必要とする人々の力になってあげることができます。受け入れる用意のない人に押しつけてはなりません。みずから求めてわれわれの手の届く範囲にまで訪れた人々に気持よく手を差しのべましょう。その人たちなりの自我の覚醒を促す理解力を身につけてくれるように、われわれが力になってあげましょう。かくして霊の力が広がり続けることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.70-72


     *****


 29-h (奉仕の道一筋に生きている人は霊力で導かれる =2=)

 本日お二人が揃ってお出でくださったことを私の方こそ光栄に思っております。と申しますのは、お二人には大へん高級な背後霊団が控え、お二人を道具として使用しているからです。その威力はこれまでの成果で十分に証明されております。あなた方は霊力の働きの生きた手本です。お選びになられた道を着実に歩んでおられ、その結果として、縁あって訪れる大勢の人たちの力になってあげていらっしゃいます。
 私から改めて申し上げることは何もありません。お手にされた知識に私から付け加えるものはございません。私の世界でもきわめて霊格の高い、そして数々の霊的業績を積んで尊敬されている霊団から授かっておられます。が、こうして別の人間のロからお聞きになるのも、それなりの得心を与えてくれるものです。
 同志として、また協力者として、私がお二人に申し上げておきたいことは、お二人ほどの霊的才能をもってしてもなお、お二人を取り巻いている莫大な霊力の実在を感じ取ることはできないということです。その実体のすべてを把握することは不可能なのです。
 あなた方が実証しておられるのは全生命が基盤としている基本的実在です。人間がみずからを、そしてこの世を救うことのできる唯一の道を公開していらっし