戦災で荒廃した大阪の街へ帰る (身辺雑記82) = 生かされてきた私のいのち (12)= 翌朝、船は山口県の仙崎港に着いた。船の甲板から遠望した山々の早春の緑が美しかった。しばらくしてリュックを背負い上陸したが、それからはかなりの混雑が続いたように思う。まず何列かに並ばせられ、頭から足先まで、米軍兵士によって大量のDDTが散布された。その時に、私たちの二、三列横で、若い米兵に胸を掴まれて、きゃっきゃっと笑い転げていた若い女性がいた。叱りつけることも抗議もしないのである。ふと見ると、その女性は私も顔見知りの旭小学校の女教師であった。これが戦争に負けるということか、とその時に思った記憶がある。 その当時、引き揚げ港として知られていたのは、博多、佐世保、舞鶴、浦賀等であったが、仙崎はそれらに次ぐ5番目の引き揚げ港で、ここから上陸したのは、計413,961人になるらしい。この数のなかには、父と私も入っているはずである。私たちは、ここで手続きを終え、引き揚げ証明書をもらい、目的地・大阪までの無賃乗車券をもらって港湾施設から外へ出た。 父と私は、それから、仁川からの引き揚げでずっと一緒だった何人かの人々と汽車に乗って、美祢線で一時間ほど南下し、長門湯本温泉へ行った。久しぶりに温泉へ浸かって、湯船のなかでは会話が弾んだ。同行のグループは、仁川では比較的裕福な生活をしてきた人たちばかりである。その日の朝、仙崎で支給された握り飯が白米であったことから、「内地」の生活も思ったほどは悪くはないではないか、などと話し合った。そのうちの一人は、アメリカ人などは、コメのおいしさを知らないからパンばかり食べているが、日本にいるようになったら、これからは米ばかり食べるようになるのではないか、などとも言った。 温泉旅館の夕食に、白いご飯が出されたかどうかは記憶にない。多分、雑穀のようなものだったと思う。質素ではあったが、なんとか腹ごしらえができて、私は父と一緒にいるだけでこころが満ち足りていた。私は、何の苦労もなしに育ってきたし、これから行く大阪も、私の生まれ故郷で、なつかしい思い出がふんだんにある。多くの場所が戦災で焼けていることは聞いていても、私は悲観的になることはなかった。 翌朝、同行してきた人々とも旅館で別れて、父と私は汽車に乗り、美弥線で厚挟川に沿ってさらに南下を続けた。車窓からみる山間の景色は美しい。仁川中学の漢文で習った「国破れて山河あり」を思い出していた。ローカル線だから車内ものんびりしている。乗客の姿は貧しかったが、敗戦の厳しさを感じることはあまりなかった。車中が、殺伐な雰囲気に変わっていったのは、厚狭駅で山陽本線に乗り換え東へ向かってからである。 それから私は、かなり頻繁に目にすることになるのだが、白衣をまとった傷痍軍人が首から募金箱を下げ、杖をついたり片腕を包帯で吊り下げたりして、乗客に献金を要請していた。中には、戦争の犠牲になって、こころも荒んでいることを感じさせるような人もいる。私が徐々に日本の敗戦後の荒廃を意識させられるようになったのは、このような戦争犠牲者の姿からであったかもしれない。 私たちが乗った汽車は、山陽本線をのろのろと走り続けて、広島駅に近づいた頃には、外はすっかり暗くなっていた。汽車が広島駅を通過したときには私は緊張した。駅の周辺には、まだ原子爆弾の後遺症が色濃く残っているはずであったが、車窓からは何も見えなかった。都会の中を通り過ぎていくのだから、家々やビルなどの明かりが延々と続いているのが普通なのに、ところどころ裸電球のようなものが灯っているだけで、遠くまで真っ暗な闇が広がっているのが、不気味な印象を強く与えていた。 その夜は岡山まで行って、一泊したのだが、それがどこであったかは記憶にない。翌日、父は私を連れて、岡山から津山線で一時間ほどの、町の名前は忘れたが、久米郡に住んでいたT工業の親会社の重役であった人の家を訪ねた。多分、父を説き伏せて、仁川へ赴任させた人であったと思う。父は挨拶を兼ねて、仁川工場の状況を説明しておきたかったのであろう。その人は、明るい雰囲気で多言であった。たまたま、若い会社員らしい二人の青年が訪ねてきていて、彼ら二人は、少し離れたところで、流ちょうな英語で話し合っていた。その人は、「おい、おい、君たちはアメリカへ行って住めよ」などと言って笑っていたのを覚えている。 大阪へ帰ったのは、その翌日である。ここから家族全員で仁川へ行ったのは1941年の春であったから、5年ぶりである。大阪駅から省線で天王寺方面へ向かったのだが、森ノ宮から鶴橋あたりまでは、進行方向右側の工場地帯がほとんど壊滅状態のまま放置されていた。大阪城の天守閣だけが辛うじて残っていただけで、目も当てられないほどの惨状である。父も私も呆然として、ことばもなく車窓に流れる空襲の生々しい痕跡を見つめていた。私たちは、寺田町で降りて、そこからは歩いた。私がお世話になることになっていた米田君一家は、東住吉区の桑津町にある親戚の家の二階に住んでいた。寺田町の駅から歩いて20分ほどの距離である。幸いにも、その辺は空襲から免れていた。 数か月ぶりに会った米田君一家は、あたたかく迎えてくれた。米田君のお父さんは、まだ上海から帰っていなかったので、お母さんと、兄の幸太郎さん、弟の卓志君の4人家族にその日から私が加わることになった。米田君一家は、仁川では家族ぐるみの付き合いであったし、その家のある桑津町は、私がかつて通っていた生野小学校や私が住んでいた家などへも歩いて行ける距離であった。なんとなく自分の故郷へ帰ってきたようなもので、あまり違和感はなかった。 その翌日、早速私は、仁川中学校の在学証明書と成績証明書をもって、府立生野中学校へ行った。まわりにはところどころに焼け跡が残っていたが、校舎は空襲を免れていた。すでに同じ仁川中学の米田君と加茂君が、仁川中学では2年生の授業はほとんど受けていないという理由で、一年生に編入させられている。私は覚悟しいていた。私は成績はよかったが、彼らよりもさらに数か月も引き上げが遅れていたから、私だけが2年生に編入させてもらえるはずもなかった。私は、ここでまた、一年遅れることになったのである。生野小学校で、精神障害をもっていたS担任のもとで同級生であった徳永君と井上君の二人がここで3年生になっていた。二人とも、私がクラスの餓鬼大将であったころの弟分である。どこで知ったのか、教室にまで会いに来てくれたのはうれしかったが、少しばつの悪い思いをした。 編入手続きが済むと、父は私を連れて、あちらこちらにバラックや焼け跡の残る大阪の街を歩きまわり、親戚や知人・友人の何軒かの家を訪ねた。何かあった時に、私が頼れるように配慮したのであろう。そのうちの一軒では、厳しい食糧難の頃なのに、真っ白いご飯が山盛りで食卓に出された。たまたま見せてくれたその家の押入れは、食糧庫に改造されていて、そこには白米が山のように積まれていた。私は父の前では黙っていたが、こんな家にはどんなに困っても、来たくないと思った。父は、私のための銀行預金通帳も作ってくれて、必要な金は好きなだけ使ってよいと言った。父が何らかの手段で手配した船で、仁川へ戻ったのはそれから2、3日後のことである。 生野中学に編入学したのが2月下旬で、間もなく春休みに入ったあと、4月から2年生になった。生野中学はかなり大きな学校で、一学年で三百名ほどの生徒が七クラスに分けられていた。私は2年6組で、米田君や加茂君ともクラスは別々である。担任は平木四三二(よさじ)というお名前の温厚な人格者で、国文の先生であった。平木先生のもとで、私はほとんど毎学期、選挙で選ばれて級長を務めた。 その当時は、期末試験の成績には、すべて学年全体の序列がつけられて、上位30人くらいの名前が掲示板に発表されていた。私は約三百人の中で、常に3番以内くらいには入っていたが、もう二年も遅れているという意識があって、誇りに思う気持ちはなかった。しかし、平木先生は、いつも発表のたびに私をみんなの前でほめてくれた。親元から離れて一人でいる私をいつも気遣ってくれてもいた。私は何度も、天王寺駅近くの先生の家を訪れている。その後、私が大学に入ってからも、アメリカ留学から帰って、大学で教えるようになってからも、私をいつもあたたかく見守ってくださった忘れられない恩師である。 2年6組にいたころ、生野中学では、授業はまだ午前中だけであった。食糧不足で、教員も生徒も昼弁当を持ってくることができなかったからである。中には田舎から通学している生徒で、弁当を食べて元気に野球などしていた者もいたが、それは少数派である。午前中に授業が終わると、みんな元気なく帰って行った。掃除当番にあたった者は、掃除を済まして帰るのだが、私は級長だからいつも最後まで残って掃除の手伝いをして帰った。空腹で力がなく、箒を動かすのがかなり辛かった記憶がある。 学校からふらふら歩いて帰ってきたら、米田君も私も、ごろんと横になって、夕食の時間を待つ。勉強も横になってした。夕食といっても、黒ずんだメリケン粉を団子にして、たっぷりの汁のなかでわずかばかりの野菜と煮込んだものを、食べるというより、飲み込むのである。それが、何か月か続くと、やはり、体が衰弱してきた。米田君のお母さんは、辛かっただろうと思う。自分の子供たちさえ十分に食べさせてやることができないのに、私まで抱えていたからである。しかし、米田君のお母さんは、自分の子供たちと私とを決して差別しなかった。 私はいつも空腹であったが、生野中学の英語の授業が物足りなく、一時間近くも電車に乗って、大阪外国語学校の夜間の英語講座に週二回ほど通うようになった。若い英語の先生が、英語がよくできる人であることが私にはよくわかっていて、私は熱心にこの講座に通った。ここで習ったシェイクスピアの「マーク・アントニーの演説」の一部を、私は六十数年を経たいまでも、すらすらと暗唱することができる。 この英語講座に出席した日は、どうしても帰りが遅く9時ごろになる。それから、米田君のお母さんが残しておいてくれた夕食を一人で食べるのだが、メリケン粉の団子がいつも、普段より一つ二つ多いような気がしていた。一つでも二つでも余裕があれば、飢えている自分の子供たちに食べさせたかったはずなのに、私にその一つ二つをとっておくというのは、どれほど大変なことか私にはよくわかっていた。私には米田君のお母さんの、他人の私を思いやる気持ちが身に染みて有難かった。ほとんど噛むこともなく、ただ飲み込むだけのような乏しい食事で、空腹が満たされることは決してなかったが、私が少しもさもしい思いをすることなく、耐えていくことができたのは、米田君のお母さんのお人柄のお陰である。 その頃、1946年5月3日には、東京市ヶ谷の旧陸軍省本館大講堂で、「勝者が裁く」といわれた極東国際軍事法廷が開廷された。東条英樹、広田弘毅ら、戦前・戦中に大日本帝国の中枢にいた軍人・政治家など28人が、連合国最高司令官マッカーサーの命令で、A級戦犯として裁かれることになった。55項目にわたった訴因は、大別すると、「平和に対する罪」「殺人罪および殺人共同謀議の罪」「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」の三つである。 審理の過程では、被告人全員が無罪を主張したが、裁判は1948年11月まで続けられて、東条ら7人に絞首刑、16人に終身禁固の判決が下された。そのほか、捕虜虐待・非人道的行為に直接関与した人々は、B・C級戦犯として、横浜や、戦場であった国々でそれぞれ裁かれ、984人が死刑、475人が無期禁固刑に処せられている。この裁判では、勝者側の戦争犯罪は審理の対象外とされ、日本の最高責任者である天皇も、米英政府の政治的判断から訴追を免れるなど、多くの問題を残したといわれている。 食糧事情の深刻さは、少しも改善されることなく続いていた。米穀通帳によって配給される食糧のカロリーは、一日の必要量を満たすには程遠い状態なのに、それさえも、遅配、欠配が続くようになって、日本人は1千万人が餓死するのではないかといわれたりした。たまりかねて、5月12日には、東京の世田谷区で、労働組合、引き揚げ・戦災者ら約千人による、「米よこせ区民大会」が開催された。その後、皇居までデモ行進して、一部の人たちは皇居内に入り、宮廷保有米の放出などの決議文を宮内庁に提出している。 これを機に、全国各地で、米よこせ運動が発生し、5月19日には、ついに25万人にふくれ上がったデモ隊が、皇居前広場を埋め尽くした。まだ、テレビはない時代であったから、ラジオを聞きながら、私たちはその成り行きを見守った。その時のプラカードの一つに、「朕はタラフク食ッテルゾ、ナンジ人民飢エテ死ネ」と天皇を批判したのがあって、これが名誉棄損に当たるとして、当局の判断で有罪にされたことが新聞にも載ったりした。 これは結局、東京高裁で、免訴となり、最高裁まで行って、上訴棄却になったが、私たちは、そんなことよりも、ただ、このようなデモで食糧事情が少しでも良くなることに一縷の望みをかけていた。記録によれば、6月25日の東京での主食配給の遅配は、ついに30日に及んだが、大阪でも、その事情は同様で、変わらなかった。このままでは、米田君の家族も誰かが倒れることになるかもしれない。私も、風邪などを引いたら、もう回復することなく、そのまま起き上がれなくなるかもしれない。それでは、仁川で心配しながら見守ってくれているはずの両親に申し訳ないことになる。米田君のお母さんにもさらに心痛と負担をかけることになるだろう。私は、真剣に、この危機から抜け出す方策を考えるようになった。 (2012.05.01) 敗戦後の虚脱状況のなかで (身辺雑記81) = 生かされてきた私のいのち (11)= 8月15日の無条件降伏で、当時、仁川中学校二年生であった私は茫然自失した。高射砲陣地での塹壕掘りは中止になり、私たちは久しぶりに校舎へ帰ったが、授業が行なわれる状況ではなかった。その後しばらくは、自宅待機が続いたように記憶する。私はまだ、敗戦という時代の流れの激変になかなか適応できなかった。ただ、夜は灯火管制がなくなって、明かりをいっぱいに取り戻せたのが有り難かった。 街の中心部では、翌16日頃から太極旗を掲げて朝鮮独立万歳を叫ぶ朝鮮人民のデモが繰り広げられたというが、私は見ていない。それまで威張って歩き回っていた軍人たちは姿を消し、デモなどがあれば、すぐ出てくるはずの特高警察なども影を潜めていたようである。町外れの私の家の近くでは、何事も起こらなかったかのように静かで平安な毎日が流れた。特に治安が悪くなるということもなかった。米軍が仁川沖に姿を見せたのは、それから1週間ほど経ってからである。どこから見たのかは記憶にないが、仁川沖は数百隻の艦船で埋め尽くされていた。私はそのような圧倒的な光景をそれまで見たことはなかった。 仁川は、干潮満潮の差が10メートルもあって、接岸用のドックには多くの船は入れない。ほとんどの艦船はそのまま沖合いに停泊していた。その間に、米軍の戦闘機が轟音をとどろかせて何機も、超低空で仁川市の上を飛び回るという威圧行動が何日か続いた。話には聞いていたアメリカの軍事力の豊かさを、まざまざと見せつけられる思いであった。実際に仁川に上陸してきたのは、ホッジ中将が率いる米軍第24軍団の第一陣で、9月8日のことである。9月9日には、朝鮮総督府が降伏文書に調印した。それからは、仁川市内でも、ジープに乗った米兵があちらこちらで見られるようになった。 これは後でわかったことであるが、東京では、敗戦直後の8月18日に、内務省警保局長から進駐軍特殊慰安施設を設置する指示が出て、警視庁が都下の貸し座敷・遊里関係者に協力を要請している。占領軍上陸コースを中心に、一般公募で慰安婦を1360人確保し、米軍が上陸してくる前に、「世界最大の売春トラスト」といわれた組織が作り上げられていた。その一方で、横浜地区では、米軍進駐に脅えた女性や子供たちの疎開が盛んに行なわれたという。9月4日には、神奈川県が、女学校の休校を指示している。 連合軍最高司令官のマッカーサーは、8月30日に、厚木飛行場に到着していた。米軍が東京にジープで進駐を開始したのは、9月8日である。帝国ホテル、第一生命ビル、三信ビル、郵船ビル、伊勢丹等、官民あわせて600箇所あまりが米軍用に接収された。東京では、隣組の緊急回覧板で、「婦人は進駐軍に笑顔をみせるな」と警告を発していたらしい。文部省は、この頃、全国の小学校や中学校などに戦時教科書の不適当と思われる箇所の削除を指示した。墨を使って、指示された場所を黒々と塗りつぶす作業がしばらく続いて、その翌年には、私も大阪で、その塗りつぶし作業を体験することになる。 9月27日になって、ちょっとした出来事があった。昭和天皇が自ら出向いて、マッカーサーを訪問したのである。各新聞が天皇とマッカーサーが並んで立っている写真を掲載したのだが、堂々とした体格のマッカーサーが両腕を腰の後ろに組んで傲然と構えているのに対して、並んで立つ天皇はかなり小さく見劣りのする体型で、蟹股の少し湾曲した両足に手をだらりと垂らしている。誰の目にも、そのコントラストは強く印象づけられた。 日本政府の情報局は、ただちに、これを天皇に対する不敬として発禁処分にした。しかし、マッカーサーの総司令部(GHQ)は、すぐ、その発禁処分の撤回を命じた。そして、日本政府に対し、GHQの命令以外の新聞・映画・通信その他一切の意思表示の自由を制限する法令を撤廃させる指令を出した。日本が米軍によって占領されているという事実を如実に叩き込まれた一事である。これによって、日本人にも、はじめて言論の自由が認められることになった。これは、大きな変化である。その時のことを、作家の高見順は『敗戦日記』(文春文庫)の9月30日のところで、つぎのように書いている。 《昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞ならびに言論の自由に対する新措置の指令を下した。 これでもう何でも自由に書けるのである! これでもう何でも自由に出版できるのである! 生まれて初めての自由! 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、――省みて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由が保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、――ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。》 敗戦に至るまで、「鬼畜米英」とさんざん教え込まれていて、その「鬼畜」の米軍が現実に上陸してくると、そのイメージは、簡単に覆ってしまった。教育の現場で、昨日まで、声高に叫んでいた教員たちのことばや態度が、一夜にして、がらりと変わってしまうというのは、一体どういうことなのであろうか。政府や軍部が嘘をつくことは子どもにも分かっていた。政治家や役人も嘘をつくであろう。しかし、教員の言っていることが間違っていたというのは、子どもにとっては許されることではない。中学二年生で、そのような大人の嘘と価値観の激変を体験したことは、それからの私のものの考え方にも、大きな影響を与えることになった。 その頃、少なくとも仁川では、米軍進駐後も、治安は維持され、平穏な生活が続いていた。しかし、一方では、8月12日に朝鮮北東の羅津、清津に上陸していたソ連軍が、8月29日にはすでに、北緯38度以北を掌握していたのである。私たちは、ソ連軍が来てからの北朝鮮のことは、その当時は何もわからなかった。しかし、これは悲劇的な事態であった。38度線は、いまでも朝鮮半島を北と南に厳しく分断しているが、当時の朝鮮在住の日本人をも、その運命をこの線の北と南で大きく左右させたのである。 京城(いまのソウル)や仁川を含めて、南朝鮮在住の日本人は、いわば、米軍の施政によって守られていた。家や財産を置いて引揚なければならなかったとしても、生命を脅かされたり、危害を加えられることはほとんどなかったといっていいだろう。食べものにも困ったわけではない。しかし、38度線以北の場合は、ソ連兵そのものが治安にあたるどころか、至るところで日本人を襲い、略奪し、婦女子を凌辱している。 38度線の東端から百数十キロ北上したところにある咸興(ハムフン)での記録では、家を追われた日本人たちが餓死、凍死、発疹チフスなどで、敗戦からわずか5ヶ月の間に、約2万6千人が亡くなったという。『海外引揚者が語り継ぐ労苦』(平和祈念事業特別基金発行、2002年)のなかでは、38度線の北約100キロの元山付近に住んでいた梶山緑さんが次のように書いている。 《ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地域にやってきて家中を物色し、ありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。そのうちのめぼしい物がなくなってくると、今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた・・・・そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難を開始していた開拓団員の人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江を何とか渡ってここにもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。》 このように述べた後で、彼女は、「北朝鮮からの日本人の正式な引揚というものは、全く行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は、全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安員のすきをみて突破、脱出してきたのである」と断じている。このことばは痛切で、重い。そして、「それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原あたりでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まって送り返されたりしてしまった」とも述べている。 いまでは私たちは、このような悲惨な記録を、ソ連占領下の北朝鮮や満州からの引揚者のなかにいくらでもみることができる。しかし、そのような悲惨な目にあったのは、ソ連軍が侵攻してきた樺太でも同様であった。それから十数年後には、私は札幌に住むようになるが、北海道の稚内市の稚内公園のなかには、「九人の乙女の碑」が建てられていて、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」という、交換手たちが自決の前に残した最後のことばが表面に大きく刻み込まれている。 これは、1945年8月20日、当時はまだ、日本領であった樺太南西部の真岡(現在のホルムスク)に、ソ連軍が艦砲射撃を加えて侵攻してきた際、真岡郵便局の電話交換手12名のうち、9名が自決したのを悼んだものである。敗戦までは、アメリカもイギリスも「鬼畜米英」であった。もし日本本土に敵が攻め込んでくるようになったら、男は奴隷にされ、婦女子は陵辱される、というのは、日本では普通に信じ込まされていたことである。日ソ中立条約を破ったうえ、八月十五日以降にも侵攻を続けたソ連軍も、当時、樺太にいた日本人にとっては、「鬼畜」そのものであったに違いない。 ソ連軍は、樺太からの引揚船に対してさえ、理不尽な攻撃を加えた。1945年8月22日早朝、樺太の大泊(現在のコルサコフ)から引揚者を満載して、小笠原丸、泰東丸、第二新興丸の3隻がそれぞれ、北海道の留萌と小樽に向かっていた。これらの引揚船が留萌付近の小平(こびら)、増毛の海岸数キロにまで来たところで、ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けたのである。小笠原丸と泰東丸は瞬時にして沈没し、第二新興丸だけは大破したが、辛うじて留萌にたどりついた。死者、不明者は3隻で計1708人に上っている。 この攻撃は、日本がポッダム宣言を受諾し敗戦したあとであったのに、ソ連は、北海道の北半分を占領しようとして、そのためにとった一部の作戦行動であったと考えられている。日本が全面降伏をした翌日、8月16日に、スターリンは、ソ連による北海道北部の占領を公式に提案していた。それは、アメリカのトルーマンによって拒否されていたが、まだソ連は、作戦行動を収めていなかったのである。一般に、民間人の外地からの引揚げは、朝鮮半島の北緯38度線以南や東南アジア、中国、台湾からは比較的スムーズに行なわれたようであるが、ソ連軍占領下の地域では、どこでも、このように悲惨さが付きまとっていた。 しかし、その当時、南朝鮮の仁川にいた私たちには、そのような悲惨さは、想像もできないでいた。「鬼畜」であったはずの米軍は、進駐後はすぐに守護神のような存在に変わってしまっていた。はじめのうちは、銃を肩にかけていた米兵も、平穏に慣れてくると、やがて丸腰で市内を歩きまわるようになった。私の家にも二度ほど、中年のおとなしい感じの米兵が遊びにやってきて、日本酒を飲んで帰っていったことがある。私は、仁川中学校の一年生の時に習ったわずかばかりの単語を並べて、生まれて初めての片言の英語を使った。 文部省は、9月の中旬までに、すべての学校の授業再開を指示していたが、もちろん、それは外地の学校に適用できるはずもなかった。仁川中学校も閉校が伝えられ、私たちは、封筒に密閉された在学証明書と成績証明書をもらって、もう通学することもなくなった。一部の上級生は、米軍の通訳として働きはじめていた。英語の安東先生も、通訳としてであろう、米軍のジープに乗って走っているのを見たことがある。私は、近くに住んでいた米田君と一緒に、よく郊外の高さ300メートルほどの文鶴山に登ったり、港のほうまで出かけて、ハゼ釣りをした。ハゼは面白いほどよく釣れた。たくさん釣って帰って、家ではてんぷらにしてもらって食べる。なかなか美味であった。 子供たちは遊びまわっておればよかったのだが、大人たちはみんな、引き揚げの準備で大変のようであった。何しろ、土地も家も家具も資産も、持っているものはほとんどすべてを残していくのである。会社や工場も、日本人の経営者は、経営権を放棄しなければならない。それが、全市で一斉に行なわれるのだから、たいへんな作業である。私の父も大変であった。父のT工業は仁川ではお最も大きな鉄鋼会社の一つで、軍需工場であったから、米軍が進駐してきて間もなく、米軍に接収された。 日本人幹部や授業員がすべて引き揚げた後でも、米軍の監督下で、工場を引き続き操業していくためには、朝鮮人幹部と授業員に技術を引き継いでいかねばならない。米軍の指導で、その役割は、工場長で圧延機械の技術者であった父に与えられることになった。T工業はその主力の圧延工場を父が設計して稼動させた経緯があったから、父にもその自負と責任感のようなものがあったかもしれない。その時の父の予想では、日本人が帰国した後の欠員を補充し、その技術引継ぎがすべて終わるまでには、少なくとも一年はかかるであろうということであった。つまり、父の場合、引き揚げがそれだけ遅れるということである。 引き揚げは、仁川から釜山まで貨車で運ばれ、釜山から船に乗ることになっていた。米軍の指導で、会社ごとに貨車が割り当てられることもあったが、引き揚げ世話人会ができていて、だいたい地域ごとに貨車に乗り込む日と人数が割り当てられていた。なかには何らかの手段を講じて単独で引き揚げて行った人もいたようである。父の上司で、常務のY氏は、高額の報酬を払って船を借り上げ、自分の家族だけで大阪へ帰って行った。敗戦後の混乱期で、人だけではなくお金や物も運ぶ、いわゆるヤミ船での往来も、かなり頻繁に行なわれていたらしい。 家の近くで家族ぐるみの付き合いであった米田君のお父さんは、仁川化学工業の工場長であったが、たまたま、敗戦の前に中国の上海に出張していて、敗戦の混乱で帰れなくなっていた。手紙が届いて、先に大阪へ帰るようにといわれ、米田君は、お母さんと兄と弟との四人で、その年の11月ごろに、引き揚げていった。落ち着き先は、大阪の住吉区の親戚の家である。そこから仁川の私の所へ手紙がきて、米田君が大阪府立生野中学校の一年生に編入したことが伝えられた。 生野中学校はよく知っていた。私は、仁川へ行く前までは生野小学校へ通っていたのだから、生野中学校にはその時の友達もいるかもしれない。それにしても、仁川中学校の二年生なのに、生野中学校ではなぜ一年生なのか。米田君の手紙では、その少し前に東住吉区へ引き揚げていた仁川中学では同級の加茂祐三君が、これも偶然に生野中学に編入していて、やはり一年生なのだという。外地では、学校が敗戦後は閉鎖されたこともあって、二年生としての授業はまともに受けていないというような理由だそうだが、私はいやな感じがした。 父は、T工業操業継続のための引継ぎ業務でしばらくは残らなければならないので、私一人だけでも、学校のことを考えて、先に帰そうとしていた。その父が頼りにしていたのが、米田君の家族であった。米田君のお母さんは、よくできた人で、私のことも家族の一員のように思ってくれていたから、一年くらいの同居は、引き揚げる前から承諾してくれていたらしい。翌年2月、父は、米軍から往復のための特別の許可証を作ってもらった上で、私一人を連れて、仁川から釜山へ向けての数百人の引揚者の群れに加わった。 仁川から乗り込んだのは、引揚者用の貨車だが、米軍の監視員も乗っているということで、釜山まで順調に走り続けた。一度だけ、途中で30分ほど停車し、その間に素性のわからない男が一人乗り込んできて、みんなの荷物を検査すると言い出した。持って帰れるのはリュック一つと現金千円だけということになっていたから、余分の現金を持っている場合は、没収する魂胆のようであった。当時はまだ、1万円や5千円の高額紙幣はなかった。父は千円札束をいくつか重ねて、弁当箱のように風呂敷に包んだものを私に持たせていた。貨車の一方の端から順に持ち物を調べてきて、その男が私の前に来る前に、私は男の隙をみて、すでに調べが終わって別の隅にいた父に、さっとその包みを投げた。結局、その男は誰からも何も手に入れることができずに、貨車から出て行った。 釜山に着いたのは、その日の夕方である。釜山駅は、引揚者でごった返していた。長蛇の列を作って並び、乗船手続きをしてするのに、4, 5時間はかかっていたかもしれない。あまり腹をすかした記憶はないから、船に乗る前に、どこかで食事もしたはずだが、それは記憶にない。私たちの乗った船は、その5年前に、下関から釜山へ渡った時に乗った関釜連絡船・金剛丸よりはかなり小さく、貨物船のような感じでもあった。船の名前は覚えていない。父と私は、あてがわれた3段ベッドの二つにそれぞれもぐりこんで、ゆっくり足を伸ばして休んだ。 (2012.03.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 私の初めての病気と神秘体験 (身辺雑記80) = 生かされてきた私のいのち (10)= 1944年(昭和19年)の秋、戦局が日増しに緊迫の度合いを深めていく中で、私は10人ほどの級友たちといっしょに、当時の京城(現在のソウル)へ出かけて、陸軍幼年学校の入学試験を受けていた。卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、上級生は陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験していたが、当時の中学1,2年生にとってのエリートコースが、陸軍幼年学校であった。 翌年の二月、合格内定の通知が届いて、私の名前が他の、和気、大平、浜田君ら3名の内定者の名前と共に、仁川中学の講堂入口の掲示板に大きく貼りだされた。憧れの「陸幼」に入れそうになって、私はうれしかった。しかし、その直後に私は生まれてはじめて病気になった。ある朝、急に四〇度を超える熱を出し、急速に、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまったのである。 病院に運ばれるまでには、家の近くの医者の往診を受けて、三日くらいは家で寝ていた。高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の柔和な姿があり、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。 み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿が燦然と光を放っていた。私は何度も何度も見直した。間違いなくそれは実像であった。 高熱にうなされながらも、少しは正気に返る時があるものであろうか。工場長をしていた鉄鋼会社も休み、片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は確かに言ったはずである。「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と。 み仏なのになぜ神棚と言ったのかわからない。神棚は奥の部屋にあったがそれを忘れていたわけでもなかった。いま思うと、神の姿を知らず、見慣れた仏像からの連想でみ仏と思ったのかもしれないが、それでも私は、何度見直しても、み仏の姿がその場所にはっきり見えたので、その場所を指差しながら、傍らにいた父にそう言ったのである。 父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのかもしれない。私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時たしかに思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、燦然と輝き続けた。 入院したのはかなり大きな仁川総合病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。 私は病院でも高熱を出し続けたまま、意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれていったのはかすかに記憶はあるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。 温顔で人望の厚かった病院長は、このままでは、希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という熱冷ましの注射薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。 院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく---それはとうの昔になくなっているはずだから---万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」そのことを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。 その当時の仁川市は人口三〇万くらいであったろうか。薬局も全市で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。 そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながら、旭国民学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、二〇年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。 父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」 しかし父は、そのことばにもすがりつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。 二月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。 突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、最後のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・。 父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」 私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。命の瀬戸際に立ったのは、5歳の時に大阪の尻無川で溺れかかって以来、これが2度目であったが、私は、ここでも死ななかった。生きるべくして生きた。昔は、あの最後の瞬間に父の脳裏にひらめかせたものは何であったのか、とよく考えたりもしたが、いまでは、この点でも疑問に思うことはない。 陸軍幼年学校は、結局、不合格になった。私は、3月、4月と休んで体力を快復させ、5月頃から、2年生として、また学校へ通い始めた。しかし、もうその頃には、学校で勉強することはほとんどなくなっていた。2年生も勤労動員に駆り出されて、町外れの丘の上にある高射砲陣地へ毎日出かけては、塹壕堀などをやらされていた。時には、仁川高等女学校へ毎晩4名ずつぐらい交替で出かけて、不寝番をするという中学生としてはスリリングな経験もさせられていた。一年生だけは登校して授業を受けていたが、それでも、放課後は、居住地の交番に連絡要員として配置されていた。戦況の緊迫化とともに、治安や社会秩序の維持も緊急になっていたのである。 すでに、その年の2月19日には、米軍が硫黄島に上陸し、3月17日には、2万3千人の戦死者をだして守備隊が全滅していた。3月9日から10日にかけては、米軍のB29による東京大空襲があり、死傷者は12万人を数えた。特に江東地区は全滅状態であったらしい。後に私の妻となる富子の生家は、九段の靖国神社の近くであったが、その家も焼夷弾の直撃を受けて全焼している。富子はその頃小学校の三年生で、新潟県の赤倉にあった別荘に疎開していて難を逃れたが、父親は留守を守っていて体の一部に火傷を負った。 3月18日からは、九州各地が、米軍の猛爆に曝されるようになった。日本軍はもう反撃する力も失われていたようである。艦船や戦闘機の大半を失ってしまって、苦肉の策で風船爆弾なるものを作り出したりしている。風船に爆弾を吊り下げて、偏西風にのせてアメリカ本土まで飛ばすという幼稚な作戦であった。このうちの一つは、なんとかアメリカ太平洋岸のオレゴン州に辿りついて、5月5日に、木に引っかかったのを下ろそうとしていた6人を即死させている。後に私は留学生としてオレゴン州に住むようになった時、その話を何度もアメリカ人住民から皮肉交じりで聞かされることになる。 あとで振り返ってみると、私が病気から快復して2年生として学校へ通いだした頃、5月8日には、すでにアメリカ大統領トルーマンが、日本に無条件降伏を勧告していた。しかし、不利な戦況についての徹底的な事実隠蔽と強力な言論統制によって、まだ私たちは、日本が負けるなどということはひと言も口に出せなかった。6月8日の、政府の最高戦争指導会議では、天皇の臨席のもとに本土決戦の方針を採択している。そして、6月23日には、沖縄守備隊も全滅して9万人もの戦死者を出し、沖縄県民も10万人以上が犠牲になった。 これは容易ならざる事態である。仁川でも、隠しようのないその深刻な状況は、私たち中学生にも伝わっていた。沖縄が取られたのだから、あとは九州あたりに上陸してくるのは時間の問題である。高射砲陣地で、慣れない土木作業に従事しながら、いよいよ本土決戦ということになったら、私たちはどうなるのだろうという不安を隠すことはできなかった。 その頃、朝鮮半島では、まだどの都市も米軍の空襲は受けていなかった。8月近くになって、仁川でも一度だけ、私たちが勤労動員させられていた高射砲陣地のはるか上空を、B29が一機、白い雲の航跡を引きながら飛来したことがあったが、それに対して、迎撃の戦闘機は飛ばず、高射砲から砲弾が一発発射されただけである。その砲弾は、米機には半分の高さほども届かず、B29は悠々と去って行った。それを見て私は、これでは仁川もやがて大変なことになると、密かに怖れた。 そして、8月6日、米軍のB29が広島に原子爆弾を投下した。8月9日には、その原子爆弾が長崎にも投下された。厚生省は両市の原子爆弾被爆による死没者は、計29万5956人と発表した。8月12日には、ソ連軍が参戦して朝鮮の羅津、清津に上陸するという事態も起きている。8月15日、日本は遂に無条件降伏をした。雑音まじりのラジオ放送で敗戦を伝える天皇の言葉を聞いて、私たちにはその後しばらく、虚脱状況が続いた。 (2012.01.01) |
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