再びアメリカ留学を目指して        (身辺雑記97)
    = 生かされてきた私のいのち (26)=


 札幌市が公募したアメリカ留学生は、結局、私が辞退せざるを得なくなって、代わりに中学校英語教員の福島氏が選ばれた。たまたま福島氏の兄さんが南高校の社会科の教員であったので、私は時折りその兄さんから福島氏の動向を聞いていた。福島氏は9月の初めに船でロサンゼルスへ向かったという。2週間かけて太平洋を渡り、ロサンゼルスへ着いてからは、私にも一度、長い手紙を送ってくれたことがある。スポンサーの反町氏が用意してくれたアパートに住みながら、近くの短期大学へ通っているということであった。私はその手紙を何度も読み返しながら、潰えたアメリカへの夢をふくらませていた。

 札幌南高校では、夏休みが終わってからは、秋の修学旅行の準備で急に忙しくなっていた。修学旅行にでかけるのは2年生で、奈良、大阪、京都、伊勢、箱根、東京などを一週間かけてまわるスケジュールである。私は2年6組の担任であったから同行することになった。昭和31年(1956年)頃の高校では、これだけの修学旅行はまだ贅沢と思われていたが、南高校では、ほぼ全員が参加申込書を提出してきた。2年生10クラスで、約500名の生徒を引率していくのはなかなか大変である。生徒たちを1〜3組、4〜6組、7〜10組の三つのグループに分けて、第一のグループは、10月20日に出発した。それから5日遅れで、私のクラスを含む第二のグループが、10月25日の朝、札幌駅から貸し切り列車(車両)で函館へ向かった。

 函館から青函連絡船で青森に着き、夜行列車で日本海側を通って京都へ向かう。当時はまだ寝台列車というのはなかった。その年の3月に東京―大阪間の夜間急行に3等寝台が復旧していただけである。一晩を座席に座ったまま過して、それでも京都に着いてからは、生徒たちは元気に二日間の京都・奈良観光を楽しんだ。私はこの旅行の記録写真をその当時はまだ珍しかったカラースライドで撮り続けた。その後の授業などで活用するためである。金閣寺,苔寺、嵐山(渡月橋)、清水寺、平安神宮、京都御所、法隆寺、東大寺などを見てまわっている生徒たちの姿が色彩鮮やかな美しい写真になって残された。

 私は大阪生まれだし、子供の頃から京都や奈良は何度も訪れている。しかし生徒たちといっしょに見てまわる名所、旧跡は新鮮であった。移動はすべて貸し切りバスで、現地のガイドがついて歴史や文化についても説明してくれる。まだ写真が貴重な時代であったから、渡月橋、平安神宮、清水寺、法隆寺、大阪城など、要所要所でのプロカメラマンによる白黒の集合写真も撮られた。私のクラスの参加者は男子生徒が33名、女子生徒が13名の46名である。この46名が、宿泊先の旅館で、舞妓を中心にして撮った写真なども残っている。清水寺、平安神宮、法隆寺などでは、第二グループの三クラス全員百数十名がそれぞれ一枚の写真に納まっていて、ちょっと壮観でもある。

  
    2年6組の生徒たちと担任の私(左から3人目) 嵐山・渡月橋にて


 京都、奈良の観光を終えて、4日目の朝には大阪へ行った。大阪城や造幣局、大阪心斎橋、を見てまわった後、三重県の志摩半島へ向かった。その夜は伊勢の二見が浦の近くの大きく豪華な旅館に泊まった。当時はまだ「ホテル」という名は一般的ではなかった。京都で2泊した旅館も大きく立派なつくりであったが、この伊勢の旅館は特に立派で御殿のような感じがした。引率教員の最年長者で、団長格の庄司さんの話では、札幌南高校は北海道の「中心校」であるだけに、修学旅行のスケジュールなどでも、道内の多くの高校への影響が大きいのだそうである。旅行業者も受け入れ先の旅館なども、そのために、札幌南高校の修学旅行を特に大切にしてくれているのだという。

 夕食は3クラスの生徒たち全員が集まって大広間で取る。食事も各自のお膳に盛りだくさんの山海のご馳走が並べられていてかなり贅沢であった。アワビやサザエのほか、イセエビなどもつけられている。その数年前、私の高校時代では、日本はまだ貧しく修学旅行どころではなかった。食糧難からは脱却しつつあったが、修学旅行は実施されても近距離に限られていた。私自身も高校の修学旅行は生活苦で参加していない。このように豊かな一週間の修学旅行は私にとっても初めての経験であった。

 食事が終わると、生徒たちは割り当てられた自分たちの部屋へ引き揚げる。男子生徒は毎夜、各クラス毎に二部屋を割り当てられていたが、女子生徒は3クラス全部で約40名がまとまって大部屋を割り当てられることが多かった。これは防犯のためでもある。私たち引率教員は、担任の3名のほかに保健体育の教員が1名ついて4名であったが、4名が二人ずつ、ペアーを組んで、夜中に二、三度、各部屋を巡回してまわった。寝相が悪い生徒もいて、布団から飛び出していたりする。胸がはだけてあられもない姿の女子生徒などには布団をかけてやるのも私たち教員の仕事であった。日程の確認や打ち合わせなどもあって、私たちはたいてい午前2時頃まで起きていた。

 伊勢では、五十鈴川を渡って伊勢神宮の内宮を参拝し、二見が浦や御木本新吉の真珠島を訪れた。貸切の遊覧船による伊勢湾クルーズも楽しんで、箱根で一泊した後、6日目に鎌倉に立ち寄って東京へ向かった。東京に着いてからは、国会議事堂や皇居前でも集合写真を撮った。その後、第一生命ビル、浅草などを見て回って東京駅で自由解散し、夜に再集合してまた夜行の貸し切り列車で札幌への帰路に着いた。かなりのハードスケジュールだが、生徒たちはみんな元気で整然と行動し、事故もなく一週間の日程を無事に終えることが出来た。

 その頃の日本では、「もはや戦後ではない」、「三種の神器」、「太陽族」などのことばが世間の流行語になっていた。前年の1955年(昭和30年)の下期から景気が急速に上向き、朝鮮戦争の特需景気以来の好景気が到来していた。その流れを受けて経済企画庁は、その年(1956年)に発行した「経済白書」のなかで、「もはや戦後ではない」と宣言したのである。「三種の神器」というのは、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫のことだが、白黒テレビの太平洋岸全国縦断テレビ網もその年の9月には完成している。一般家庭にも広がり始めたテレビの影響について、評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と厳しく批判したのもその頃である。1956年は、映画全盛の頃でもあった。石原慎太郎氏の芥川賞受賞作「太陽の季節」が5月に映画化されるとすぐに「狂った果実」が続いた。奔放な若者の風俗が世間の話題となり、そのスタイルを真似た若者たちが「太陽族」と呼ばれたりした。

 札幌の街にも活気や騒音の余波が押し寄せてくるなかで、私は修学旅行から帰ってきてからも、南高校での授業に没頭していた。しかし、行けるはずであったアメリカへ行けなかったことが、心の奥深くにわだかまっていた。行けなかったことで余計に行きたいという思いが募っていたのかもしれない。3年間の教員経験があれば、前任の斉藤次郎氏のように、教員部門のフルブライト留学生試験を受けられるとは聞いていたが、私はまだ教員になって1年半である。それに3年待って受験しても難関の試験に合格できる保証は何もなかった。その頃は、公的な留学生採用試験はフルブライトしかなかった。私費留学は認められておらず、アメリカの大学に直接申請して、独自に給費留学生としての選考を受けるというようなことも、私には全く思い及ばなかった。

 修学旅行へ出かける前の夏休みに苫小牧へ帰ったとき、私はハンセンさんに札幌市教育委員会による留学生試験の経緯を話したことがある。ハンセンさんの教会は苫小牧の私の家からも近く、父とも親しかった。妹の秋江もよく教会に出入りしていた。話を聞いた彼は親身になって私に同情し、アメリカの大学には多くの奨学金制度があるから日本からも応募できるものがあるかもしれない、それを札幌のアメリカ文化センターで調べてみてはどうかとアドバイスしてくれた。それから、渡米の条件などを知るために必要なら、アメリカ領事館の副領事を紹介してくれるとも言った。副領事は、ハンセンさんのラトガー大学での同級生だというのである。

 札幌のアメリカ文化センターは南高校からもそう遠くはない。私は授業の合間に、二度、三度、足を運んでアメリカの大学のことを調べ始めた。10月の中旬、数多くの大学のうち、ミシガン大学とオレゴン大学を選んで、外国からの奨学生採用の制度があれば受験したい旨を伝え、照会の手紙を出した。夢のような話に思えたが、気持ちの整理をつけるためにも敢えて一歩を踏み出した。もし奨学生として留学できるのであれば、1957年の秋の新学期からになる。しかし、その場合は、遅くとも年内には、札幌南高校を退職することを伝えなければならない。私は、仮に留学できても留学が終わればまた南高校に復職したいという気持ちはあったが、その予算措置を北海道教育委員会にとってもらえないことはもうわかっていた。

 3週間後、二つの大学のうちオレゴン大学から学費免除の申請書類を送ってきて、応募するなら領事館で英語学力試験をうけるようにという指示があった。しかし、この審査に通って学費が全額免除されても、生活費は別のルートで確保されなければならない。オレゴン大学にも数十におよぶ奨学金支給団体があるが、それらはすべてアメリカ国内での申請に限られていた。当時の日本では留学目的でドルを買うことは出来なかったから、生活費もアメリカで保証される条件が必要であった。私はまた、苫小牧のハンセンさんと相談した。ハンセンさんは、私がもし学費免除の奨学生に選ばれたら、生活費のほうは自分が教会に働きかけてアメリカでの保証人になることを考えてみるといってくれた。

 前途多難で身がすくむ思いであったが、しかし、なによりもまず試験を受けて入学許可を受けなければことは進まない。私は心を決めて、札幌の領事館で指定された1時間半の英語学力試験を受けた。いま考えると、それは現在のTOEFL(米国留学のための英語学力検定テスト)のような形式であったが、その当時は、そのような試験の形式についても私は何も知らなかった。試験の結果についても私には伝えられなかった。試験成績は領事館から直接オレゴン大学へ知らされることになっていた。受験と同時に、私は東京外国語大学の卒業証明書、成績証明書などのほか、また主任教授の佐藤勇先生にお願いして書いてもらった推薦状をつけて、申請書類をオレゴン大学へ送った。

 ちょうどその頃、11月8日に、戦後初めての南極観測船「宗谷」が東京を出航するという一大国家事業があった。太平洋戦争の敗戦から10年を経て、庶民はまだ貧しいながらも世界に眼を向け始めていた。5月には日本の登山隊がヒマラヤの8000メートル級処女峰マナスル登頂に成功したことが大きなニュースになったばかりである。この「宗谷」の出航も国内マスメディアが一斉に大きく報道して、国民は熱狂して見送った。「宗谷」は海上保安庁の灯台補給船を改造した2,700トンの中古船であったが、南極海の厳しい氷海を分け入っていく姿に、敗戦から立ち直って国際社会へ漕ぎ出していく日本の姿が二重写しになっていたのかもしれない。またその頃には、オーストラリアで第16回メルボルン・オリンピック大会が11月22日から開かれていて、日本からも118人の選手団が参加し、体操の小野喬選手らが4種目に優勝している。そのようなニュースを追いながら、私は私で、遠いアメリカの未知の世界に熱い思いを馳せていた。

 12月に入ってまもなく、オレゴン大学から手紙が届いた。学費を全額免除して1957年9月の新学期から教育学部の大学院に入学を許可するという文面であった。条件としては、履修科目はA、B、C、Dで評価されるが C を二つ以上取ったら、その時点で学費免除は中止されるという。それがどのくらい厳しい条件なのか、よくわかっていなかったが、とにかくこれで、入学許可書だけは取れたのである。ついに来たという感慨があった。一度失われたアメリカ留学のチャンスがまた現実のものになろうとしている。私はそのことをハンセンさんに知らせた。

 その後、ハンセンさんは、またいろいろと奔走してくれて、ニュージャージー州の公証人役場で認証された保証人証書を用意してくれた。大変有難かったが、これにも私の生活費を保証するのは「1年間」という条件がついていた。1年間では、大学院の課程は修了できない。大学院を終えるためには、どうしてもアメリカでまた「生活費」に対する奨学金を貰えるようにしなければならないが、その可能性については、まだ何もわかっていなかった。わかっていたのは、オレゴン大学での成績が平均以上で、 C を二つ以上取らなければ、少なくとも1年間は在学できるということだけである。

 いま考えてみても、この留学計画は少し無鉄砲であったかもしれない。第一、私はアメリカの大学での勉強の厳しさを全く知らなかった。映画などでよく描かれているアメリカの大学生たちは、ガールフレンドと車で走り回り、派手なパーティなどで浮かれたりして遊んでばかりいるようにも見える。私は、英語のハンディキャップがあるにしても、彼らが遊んでいるうちに一生懸命に勉強すれば何とかなるのではないかと呑気に考えたりしていた。しかし、後になって痛いほど思い知らされることになるが、現実は決してそんなに甘くはなかった。アメリカ人学生は実によく勉強するのである。

 私は、後に渡米してからは、文字通り、死に物狂いで彼らと競争しなければならなかった。睡眠時間を除いては寸暇を惜しんで勉強に明け暮れし、その結果、アメリカで生活費に対する奨学金も新しく支給されて、なんとか1年9か月で大学院を修了したが、いまでも、よく無事に留学を終えられたものだと思い返したりする。ただ、その時は、そのような厳しさを予想することも出来ずに、ひたすらアメリカに憧れていた。その後まもなくハンセンさんと二人で、札幌のアメリカ領事館へ行き、彼の友人の副領事ランカスター氏にも会って、ビザの申請にも問題がないことを確認した。これで私のアメリカ留学は確実になった。

 冬休みに入る前に、私は山口校長に会い、アメリカ留学のことを伝えた。私は学年が切替わる3月末に退職するのが筋だと思っていたが、山口校長は、後任のことは心配しなくてもよいから1学期が終わる7月まで勤めるようにと言った。アメリカへ行くというのはまだ夢のように思われていた時代である。学校としても「名誉なことです」と、ここでもまた繰り返してくれた。確かに、南高校への就職希望者は多かったから後任を選ぶのにも不自由はなかったかもしれない。しかし、自分でも思いがけないような展開で、今度は着任後1年半で退職することになり、山口校長にも南高校にも申し訳ないような気持ちがしていた。年末には英語教員の忘年会があったが、親しくなった仲間たちと薄野繁華街で2次会、3次会と派手に飲んでも、アメリカ留学のことは、ついみんなの前では言いそびれてしまった。(文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)

  (2014.12.01)



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    実現する筈であった初めてのアメリカ留学     (身辺雑記96)
      = 生かされてきた私のいのち (25)=


 昭和30年(1955年)の暮れに苫小牧で日本聖公会のハンセンさんに会ったとき、彼が翌年の2月の中旬に、教会の会議か何かで金沢へ行くことを聞かされていた。青森から日本海側を通って長岡をも通過するというので、私はふと思いついて、長岡で一泊して栃尾まで足を運び、高校生たちにアメリカ人の生活や文化の話をしてもらうことは可能か、と訊いてみた。

 ハンセンさんはニュージャージー州出身で、名門のラトガー大学を卒業後、神学校に入り直して牧師になった人である。まだ30代の若さで明るい人柄であった。飯村校長の承諾を得なければならないが、校長はきっと賛成してくれると私は思っていた。この話が実現すれば、おそらく栃尾高校では初めてのアメリカ人による講演会になる。それよりも、まだテレビも普及していなかった頃で、この山奥の栃尾では、ほとんどの人々がまだアメリカ人を見たこともないはずであった。栃尾高校生もおそらくアメリカ人の英語をじかに聞いた者はひとりもいなかったであろう。ハンセンさんは、招待してくれればよろこんで講演は引き受けると言ってくれた。

 昭和31年1月の半ば、冬休みが終わって栃尾高校の授業が始まると、私は早速、飯村校長に会ってこのハンセンさんの話を伝えた。飯村校長は、一も二もなく賛成した。生徒たちには大きな刺激になるので是非その講演を実現してもらいたい、講演料も払うし、長岡での宿泊費も学校で負担すると言ってくれた。ハンセンさんに伝えたら、彼も喜んで、栃尾には2月10日の木曜日に来てくれることが決った。演題も「アメリカ社会の生活と文化」ということにして、私が通訳することになった。その後の職員会議では、この講演を全校行事として、その日の午後一時からは、生徒たち全員が体育館に集まって講演を聞くことが決められた。

 私は俄かに慌しいような気分になった。1月末の段階で、栃尾高校の退職後は札幌南高校へ転職することがすでに決っている。3月初めまでの残りの授業に全力で取り組んでいる最中であった。そのなかで、この講演会は、私の栃尾高校生に対する最後の置き土産になる。どうしても成功させて「有終の美」を飾らなければならなかった。この小さな田舎の街では、アメリカ人が来て高校で講演するらしいという噂も瞬く間に広がっていたらしい。栃尾高校だけではなく、街の人々にとってもこれは大きなニュースで、大変な出来事のように思われていたのかもしれない。

 ハンセンさんは、2月9日の夕方、長岡駅に着いた。私は、その日の授業を終えたあと長岡駅へ向かい、彼を駅で出迎えた。その日は駅前の小奇麗な旅館へ彼を案内していっしょに泊った。翌朝、長岡駅から栃尾電鉄で栃尾へ向かい、雪道をかき分けながら11時すぎに栃尾高校に着いた。飯村校長は感激しているようであった。新潟県人にしては珍しく、校長はクリスチャンであった。校長室で食事を取りながら、自分も毎日、聖書を読むのを日課にしている、というようなことを、私の通訳で、一生懸命にハンセンさんに伝えようとしていた。午後1時に会場の体育館にハンセンさんを連れて入った時には、生徒たちはいつになくシーンと静まり返って、全員が食い入るような眼差しをハンセンさんに向けていた。

 私はハンセンさんと並んで演壇に立った。ハンセンさんには、生徒たちにも少しはわかるように、ややゆっくりと、そしてなるべく短い切れ目を作って話してくれるように頼んでおいた。ハンセンさんが英語でちょっとしゃべると、私が通訳をする。またハンセンさんが英語を続けて、通訳が入る。生徒たちにとっては、ハンセンさんの英語も、私の通訳の内容も、たいへん新鮮で興味深かったに違いない。アメリカという国もアメリカ人も、当時はまだよく知られていなかった。

 アメリカの社会ではたいていの家には自動車があって、高校生でも自動車を運転して通学しているものがいると聞くと、生徒たちには驚きのざわめきがひろがった。家庭の主婦は自動車でスーパーへ行って、買ったものは押し車に乗せてレジで精算するという話などでは、スーパー、押し車、レジなどについて、わかりやすいように説明を繰り返してもらった。いまなら誰にでもわかるが、その当時の日本にはまだスーパーのようなものはなかった。コンピュータはアメリカでもまだ普及しておらず、レジは電算機での処理であったが、日本ではそれ以前のソロバンの時代である。

 
   講演会終了後校長の校宅で三年進学コースの生徒たちと共に
   (前列左から4人目が飯村校長、その右にハンセンさんと私)

 ハンセンさんの話は一つ一つが生徒たちにとっては物珍しく、講演会は大成功に終わった。生徒たちの割れるような拍手がそのことを示していた。私も本物の英語を生徒たちに聞いてもらえることができてうれしかった。ハンセンさんも満足して、その日の夕方、長岡から金沢へ向かった。栃尾での私の残り時間はだんだんと少なくなってきた。その頃には、公立高校間の公文書の引継ぎで、飯村校長も私の札幌南高校への転職を知り「祝福」してくれていた。茂木家へはその頃から札幌へ転職することを打ち明け、私は少しずつ、引越し準備を始めるようになった。

 私の栃尾高校での授業最後の日は2月の末日であった。午前中に商業コース二年生のクラスで、授業の終わりに、これが私の最後の授業で、退職して札幌の高校へ転職すると告げると、生徒たちが一斉にわっと泣き出して私は驚いた。大声で泣き続けるので、続けて言おうとした別れのことばも口に出せなかった。私も涙ぐみながら、生徒たちに深く一礼して、その教室を出た。午後には3年の進学コースの授業があった。これは、私が一番力を入れていたクラスである。それだけに別れのことばを述べるのが辛かった。しかし、黙っているわけにはいかない。午前中の商業コース二年生の泣き声を思い出したが、三年生ともなれば、ああいうこともないだろうと思った。ところが、私がこの授業が最後で転職することを言い終わるか終わらないうちに、わっと大声で、男子生徒も女子生徒も一斉に泣き出した。

 クラス一番の大男で、時々自説を押し通そうとして私につっかかっていた山井一男という生徒も、ふと見るとわーわーと声を上げて泣いている。私もつい涙を落とした。大学時代の教育実習で、東京学芸大学付属中学の2週間の授業を終えた時、生徒たちが私を廊下へ引っ張り出して胴上げをしてくれたことがあった。教育の現場では、しばしばこういう感動が伴うものだが、しかし、高校生たちにこのように泣かれるとは思ったことはなかった。やはり、栃尾の生徒たちには、都会の子供たちが見失いつつある純情さが残っていたからかもしれない。生徒たちは大声で泣いているので、その声は廊下に洩れ、隣の教室でも聞かれているはずであった。私はなにか悪いことでもしてしまったような気がして、その次の進学コース一年生のクラスでは、最後の授業であることはとうとう告げずに終えてしまった。

 終業式では、生徒全員が体育館に集まっているなかで、飯村校長は、私が退職して、札幌南高校へ転職すると生徒たちに告げた。札幌南高校というのは北海道の「中心校」ですと校長は付け加えて、私に対する謝辞を長々と述べた。いよいよ、栃尾を離れる日、茂木千枝子のお母さんが長岡駅まで見送りに行くと言い出した。私は固辞したが、付いて来てしまった。

 15分ほど歩いて、栃尾駅に来てみると、黒山のものすごい人だかりである。何があったのかと私は思った。よく見るとその人だかりは、栃尾高校生たちとその父兄たちのようであった。私を見送りに来てくれていることを私が理解するのに少し時間がかかった。茂木千枝子のお母さんも、「すごいですね、おそらく300人くらい、いやもっといますよ」と驚いている風であった。栃尾駅の駅長が出てきて、ふだんは入場券を買って入るところを、特別に無料で改札口を通してくれた。それでも、プラットフォームへは全員が出ることができず、半数くらいは、駅舎周辺の柵の外から手を振って私を見送ってくれた。「武本先生〜」と叫んでいる生徒たちの声があちらこちらから聞える。気動車が動き出した時、私はデッキに立って見送りの父兄や生徒たちに何度も深く頭を下げながら、あふれ出る涙を抑えることができなかった。

 長岡駅で見送りに付いてきた茂木千枝子のお母さんと別れて、私は東京の自宅へ戻った。一番下の弟がまだ都立荻窪高校に在学していたので、東京の家は母と弟で暮らしていた。5日ほどゆっくり休んだあとで、私は苫小牧へ向かった。苫小牧に着いてからは、4月1日からの札幌の生活をどうするか考えなければならなかった。苫小牧から札幌までは、距離にしては65キロくらいだが、当時、汽車で一時間半もかかっていた。札幌で南高校の近くに下宿するつもりで、二、三の下宿屋をあたってみたが、いいところが見つからないうちに、4月1日が迫ってきた。仕方なく、しばらくは札幌へは汽車通勤することになった。

 4月1日にはまだ授業は始まっていなかったが、私は苫小牧の自宅で朝5時前に起きて札幌へ向かった。札幌の駅に着くと丁度8時で、その時間に合わせて駅前のスピーカーから、北海道大学寮歌の「都ぞ弥生」が流れてきた。私はこのメロディーをいまでも時々思い出す。私はとうとう受験することをあきらめた北海道大学大学院への淡い郷愁のようなものを感じていた。札幌南高校は、駅前から電車で30分とはかからない。私は9時前には札幌南高校の事務室に着いて、山口校長に呼ばれるのを待っていた。その時、事務室に電話が入って、事務職員が一人の教員といっしょに戻ってきた。部屋に入ってきたその教員は、電話口でよどみなく早口の英語でしゃべり始めた。

 話の内容から、アメリカン・スクールの誰かと、バレーボールの親善試合の打ち合わせをしているようであった。そのまったく自然で流暢な英語の響きに私は感心した。その教員が、それから私がもっとも親しくなる北市陽一氏で、旧制の小樽高商(小樽商科大学の前身)から北大大学院まで進んで英文学を学んだ人である。太平洋戦争の敗戦後、まだ小樽高商の学生であった時に、彼はしばらくの間アルバイトでアメリカ進駐軍の通訳もしていたらしい。その日は、そのあと、山口校長に会って着任の挨拶をし、「北海道公立学校教員に任命する。北海道札幌南高等学校教諭に補する」と書かれた昭和31年4月1日付けの北海道教育委員会からの辞令をもらった。事務長から赴任に当たっての事務手続きの説明などを受けただけで、その日はそのまま苫小牧へ引き返した。

 その翌日の4月2日が始業式であった。朝の職員朝礼の時に教員全員に紹介され、職員室の机が割り当てられた。あの流暢な英語を話す北市氏の隣である。彼が2年7組の担任で、私も新任であったが、2年6組の担任になった。栃尾では担任を持っていなかったので、担任は初めての経験である。始業式が午前中に終わると、午後には入学式があった。生徒たち全員が体育館に集まって、私が新任教員として紹介された。1クラスは50名で、1学年10クラスもあったから、広い体育館も3学年、約1,600名の生徒たちで立錐の余地もないほどに埋め尽くされた。

 私は毎日朝5時に起きて、苫小牧から札幌まで汽車で通勤するようになった。新任の教員は私一人であった。札幌南校での私の英語授業の担当は担任の2年6組のほか2年生が殆どであった。最初の授業は、4月4日の2年5組から始まった。このクラスのことはいまもよく覚えている。教壇のすぐ前に両手はだらりと両脇に下げたまま、椅子の背に寄りかかるようにして黒板を見上げている生徒がいた。赤岩賢二という。少しだらしない格好なのだが、この生徒は単語の意味についてもしきりに質問する。読ませても、発音はともかくよどみなく読む。また、教室の後ろの窓際にはいつも顔を上げてじっと私を見つめている生徒がいた。堀真琴といった。英語の授業では、顔をみれば英語ができるかどうかはだいたいわかるものだが、堀君は私からのたいていの質問には躊躇なく答えていた。この赤岩君と堀君に引っ張られるようにして、この2年5組の英語の授業は、活気にあふれる時間になった。

 私は、英語の授業というのは肉体労働だと思うことがある。教壇でおとなしくしゃべっているだけでは性に合わない。私は授業中はいつも生徒たちの間を歩きまわっていた。歩きながら読み、声を張り上げ、質問し、答えさせていた。生徒たちは実によく反応する。おそらく教師にとっては、こういうクラスは一番教え易い楽なクラスであるかもしれない。私は好きな授業を元気いっぱいに好きなようにやっているだけだが、生徒たちも遅れてはならないと一生懸命についてくる。北海道では一番の進学校であったから、英語に対する熱意も高い。私は楽しんで授業を進め、生徒たちもいつも真剣な眼差しで私を迎えてくれた。

 クラスにも個性のようなものがあって、私の担任の2年6組は、少しおっとりしている感じであった。私が英語を教えていて、一番よく出来たのは女子生徒で繁田祥子といった。彼女はほかの教科でもトップクラスであったから、私のクラスの男子生徒は彼女には頭が上がらない。私は自分のクラスでも、英語はかなりのハードスケジュールを課した。短かい文章を覚えさせ、それをしゃべり、英語で書かせる。頻繁に試験をする。この試験は試験のための試験ではない。試験によって間違ったところがわかる。間違いを直させてまた試験をする。ただ、これはまた、栃尾高校のときのように私を過労にさせていった。各クラスごとの試験問題の作成も時間がかかるが、採点はもっと時間がかかる。私は苫小牧と札幌の通勤車内ではたいてい採点したり、出題を考えたりしていたが、夜中の1時、2時まで仕事に追われたりしていると睡眠時間がとれない。早く札幌へ移らなくてはならないと思うようになった。

 赴任後一週間ほどして、英語科が私の歓迎会を開いてくれた。場所は札幌の繁華街で知られた薄野である。主任の伊藤薫さんのほか、私を含めて7名の専任教員が顔を揃えた。女性も一人、津田塾大学出身の須々木敏子さんがいた。そのほか職員室で私と机を並べている北市さん、温厚な人柄の広田さん、几帳面な性格の瀬戸さん、私の次に若い上野さんなどと、いまもその顔ぶれは懐かしく思い出される。私たちは大いに語り合い、豪快に飲んだ。栃尾と異なる都会的な雰囲気のなかで、一次会が終わると場所を変えて二次会に繰り出し、そこでも賑やかに飲み話が弾んで、私は危うく苫小牧行きの最終列車に乗り遅れるところであった。

 4月の半ばに、教頭の古田氏が私を呼んで、下宿の話をもちかけてきた。下宿といっても普通の下宿ではない。夕張の歯医者の中学生の息子が高校進学を目指して札幌にアパートを借りて住んでいて、そのアパートに中学生と一緒に住んでくれないか、というのである。一緒に住んでくれるだけで、下宿代は要らないという条件であった。アパートは2部屋あって、もう一つの部屋にはその中学生の叔母が住んでいる。その叔母が食事や掃除の世話をしてくれるというのである。教頭が、その叔母に逢ってみないかというので、とにかく一度逢って話を聞いてみることにした。

 その翌日の放課後、学校へやってきたその叔母に会った。住み込みの家庭教師ということではなく、中学生の話し相手や、たまに英語の質問などがあれば聞いてやるだけでいいという。私はそのアパートを見に行った。南高校からは徒歩で20分ほどのところである。針谷という名前の中学2年生にも会った。おとなしい好感の持てる生徒であった。私は学校の授業で忙しく、札幌の街で自分で歩き回って下宿探しをする余裕もあまりなかった。同居というのはちょっと窮屈だが、徒歩でも通勤できるのは魅力であった。私はその話を受け容れることにした。苫小牧から身のまわりの荷物を運び、私は4月15日の日曜日の夜から、針谷君と一緒に暮らすようになった。

 ちょうどその頃、南校の掲示板に、札幌市教育委員会からのアメリカ留学生募集の掲示が貼りだされた。札幌の昔の北海中学出身者で反町という人物がいて、戦前にアメリカへ渡り、ロサンゼルスで企業家として成功して放送局や新聞社を経営している。その反町氏が、出身地札幌の教育に貢献するために、一年間という期限付きで中学、高校の英語教員を一人、ロサンゼルスの大学への留学を支援するというのである。多くの人々には、当時はまだ、アメリカは夢のような憧れの国であったから、この留学生募集は英語教員仲間でも大きな話題になった。一年間留学の後、また札幌の本務校に帰って札幌の教育に尽くすという趣旨であったから、在勤の学校にもあまり遠慮しなくてもよさそうである。私はまだ札幌に来たばかりであったが、応募してみることにした。同僚の須々木さんも、応募するという。

 応募者は札幌市内の中学、高校から50名くらい集まった。5月に反町氏がアメリカからやってきて、審査員に加わった。土曜日の午後からの選考試験では、反町氏の講演を聞かされて、その論旨を書けというのがあった。それに簡単な英語の学力試験があって、それが一次試験で、それを通った者が、翌週土曜日の二次試験に呼び出される。私は一次試験は通って、二次試験に臨んだ。二次は、英語による口答試験であった。試験官は北海道学芸大学のW教授で、それに札幌市の教育委員会から2人がオブザーバーとして出席し、W教授と並んで座っていた。

 W教授は、あまり上手とはいえない英語で、はじめにこの留学生募集に応募した動機について質問した。それからアメリカの大学では何を学びたいかと訊いてきた。私は教育学を専攻して外国語教育の教授法を学びたいと淀みなく答えた。1年間の留学では大学院は無理にしても、北海道大学で学ぶつもりであった教育学をアメリカで学べるならそれに越したことはない。それに何よりも私はアメリカへの憧れが強かった。とにかくアメリカに住んでみたかった。自分の目でアメリカを見て、アメリカの街を歩いてみたかった。英語の教員としてアメリカを知るということは教員の義務でもあるとさえ思っていた。そんなことを、私は淡々としてしゃべり続けた。質問者のW教授のほうが、むしろ押され気味であったかもしれない。

 その2週間後、私は山口校長に呼ばれて校長室へ行った。アメリカ留学生選考の結果が学校へ届けられていた。私が一位で、一年間のアメリカ留学が認められることになったと告げられた。夢のまた夢と思っていたアメリカ留学が、いま正夢になろうとしていたのである。私は胸が熱くなる思いであった。山口校長も、「あなたが選ばれてよかった。本校の名誉です」と言ってくれた。

 ところがその後、学校側が事務手続きをしている間に全く予期しなかった問題が起こった。私の一年間の留学中は、非常勤講師を雇用して授業を埋めていかねばならないのだが、北海道教育委員会はその非常勤講師の予算を認められないと言ってきたのである。それでは現職のまま留学することは出来ない。だからといって辞職して渡米となると、札幌市の教育に貢献するという条件が満たされない。一度辞職してしまえば、復職は決して容易ではなかったからである。

 公文書で通達を出して高校教員を応募させておきながら、一体どうしてこういうことになってしまったのか。札幌市の教育委員会では了解されていたことでも、北海道教育委員会は北海道全体の教育行政をみているのであって、札幌市の教育だけに貢献するという趣旨は受け入れられないということであったらしい。この件では、予め札幌市教育委員会が北海道教育委員会と十分に話し合っていなかったからこういう結果になってしまったのだが、その時の私のアメリカ留学の夢は、ついに糠喜びで終わってしまった。(文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)

  (2014.10.01)



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    札幌の公立高校への転職を決意する  (身辺雑記95)
      = 生かされてきた私のいのち (24)=


  昭和30年(1955年)8月27日、北海道の苫小牧から私は帰京の途についた。栃尾高校の夏休みは9月3日の土曜日までである。授業が始まる前の1週間を、私は途中下車しながら、十和田湖、松島、日光などを見ておきたいと思っていた。私は旅行が好きであったが、学生時代はお金もなくアルバイトに追われていたから、旅行どころではなかった。就職して汽車賃も自分で出せるようになると、私はこんな場合にも、できるだけ「寄り道」をして帰りたかったのである。

 その日の朝に乗った苫小牧から函館までの急行列車「洞爺」は予想外に混んでいて、空席は一つもなかった。私は函館に着くまでの約5時間、立ちっ放しであった。函館では午後1時ごろから市内観光をして午後11時50分の連絡船で青森へ向かう予定をたてていたのだが、その連絡船も非常に混んでいて乗れそうもないという。その代わりに午後8時30分に臨時便の羊蹄丸に乗ることにしたので、函館滞在の時間は7時間ほどになってしまった。私はまずバスに乗って、函館山に登った。そこから見下ろす夜景は東洋一といわれていたが、昼間の市街地の風景もなかなかの絶景であった。五稜郭を見てトラピスチヌ修道院を訪れた。湯の川温泉にも行ってちょっと温泉に浸かる。函館駅前では、夜の女に付きまとわれて困惑した。

 函館を午後8時半に出航した羊蹄丸が青森に着いたのは午前2時半である。この時間では身動きがとれない。私は駅のベンチに横になって明け方まで眠った。シーズンで観光客が多いからであろうか、十和田湖行きの観光バスは5時半からもう運行している。八甲田から奥入瀬を通って十和田湖へ5時間でまわるバスガイドつきの観光バスに乗った。あこがれていた奥入瀬の渓流は心を吸い込まれるような美しさであった。本当に来てよかったと思った。私は、その後も、何度かこの渓流を訪れているが、この奥入瀬の清らか水の流れは、何度見ても飽きることがない。

 十和田湖では、焼山から休屋までの1時間20分を遊覧ボートで渡る。湖畔に立つ高村光太郎の「裸像」も写真に収めた。空模様が崩れてきた中を、バスで毛馬内へ出て、そこから好摩を経て盛岡へ向かう。ここで途中下車した時には、午後8時になっていた。駅前の食堂で食事を取り、小奇麗な街を歩きまわったり、町外れの銭湯に入ったりして、午後11時近くの上野行き普通列車で仙台へ向かった。

 その普通列車は、真夜中のことでもあり、がらがらに空いていた。仙台に午前5時に着くまでの6時間ほどを、座席に横になってぐっすりと眠ることが出来た。仙台では、駅に荷物を預けて、松島へ向かった。松島はその2、3年前に訪れているのでそれが2度目である。小学校5年生の時に担任の先生が、松島を訪れた芭蕉の話をしてくれて、その風景のあまりの美しさに、「ああ、松島や、松島や」とつぶやいて絶句したと言っていたことを私はよく覚えていた。

 後に知ったことであるが、これは芭蕉のことばではなく、実際は、江戸時代後期に相模国の狂歌師・田原坊が残したことばであるらしい。松島の美しさは、しかし、やはり二度目では少し色褪せて見えたような気がする。私は遊覧船に1時間ほど乗って塩釜まで行き、塩釜神社に詣でたあとは、また遊覧船で松島へ帰った。それから仙台へ出て、市内遊覧バスで青葉城などを見てまわる。仙台からは上野行きの列車に乗って、午後10時過ぎに宇都宮に着いた。

 宇都宮駅では、東京外大ロシア学科で同級であった萩原君が出迎えてくれた。彼は宇都宮に家があって、学生の時も宇都宮から片道3時間近くもかけて外大へ通っていた。その年に卒業してからは、栃木県立鹿沼農商高校で英語の教師になっていた。前にも書いたが、その年の就職事情は極端に悪かった。東京都内の公立高校の公募はゼロで、その年の都内の公立高校では新任の英語教師は一人もいなかったはずである。東京外大の同期で地方の高校教諭になったのは彼と私だけである。新米教師同士で、私もいろいろと彼に聞きたいことがあった。その夜は彼の家に泊めてもらったが、私たちは夜遅くまで話し込んだ。

 翌日は萩原君と一緒に彼の高校へ行った。校舎は木造で栃尾高校と同じくらいの規模だが、図書室や家事室などはなかなか立派であった。「農商高校」という名前からも、この学校は栃尾高校と似ていたかもしれない。栃尾高校も、もともと実業学校であったから、進学を希望する生徒の数も多くはない。そういう学校で英語を教えるのは、通常、なかなか大変なのである。荻原君も、生徒の英語学力が低くて教えにくい、とこぼしていた。「なんでこんな英語をやらねばならないんですか」と不平を言う生徒もいるという。荻原君は、できればまともな学校へ転職したい、と少しもてあまし気味のようであった。

 その日は、鹿沼農商高校のなかなか能弁の教頭にも会った。田舎の高校での「教育論」のようなものを長々と聞かされ、昼食もご馳走になる。午後も萩原君といっしょに宇都宮の街を見てまわって、夕方には二人で、映画館で初めてシネマスコープの映画「愛欲と戦場」を見た。翌日も萩原君は付き合ってくれて、いっしょに日光へ行った。華厳の滝を見て、中禅寺湖で一時間ほど遊覧ボートに乗り、東照宮を見てまわった。陽明門の豪華絢爛さに圧倒され、一度見てみたいと思っていた左甚五郎の「眠り猫」も見ることが出来て満足した。夕方、宇都宮へ引き返し、そこで荻原君とは別れて、上野へ着き、夜遅く、荻窪の自宅へ戻った。その後、栃尾高校の寄宿舎に落ち着いたのは、授業が始まる2日前の9月3日である。

 9月5日の月曜日から夏休み後の最初の授業が始まった。3年生の進学コースでは、リンカーンのゲッティスバーグでの演説の一部を取り上げた。これはかつて私が豊多摩高校の3年生の時に教師から指名されて演説を再現し、同級生たちから割れるような拍手をうけた思い出の文章である。私はこの文を、70年近くを経たいまでも楽に暗誦することが出来る。私は、一部でもいいから、英語とはこういうものだ、その英語を自分は話しているのだという感覚を生徒たちに植え付けたかった。4月から続けてきた私の徹底したヒアリングとスピーキングの訓練に、生徒たちはようやく少しずつ慣れてきていた。私は全力をあげて授業に取り組み、生徒たちも必死になってついてくるようになった。私は英語を教えることが好きであったし、何よりも、生徒たちが可愛かった。私はほとんど寝食を忘れて授業と生徒たちへの対応に没頭していた。

 しかし、やがてまた、過労の徴候が現われはじめた。朝はなかなか起き上がれず、頭髪の脱毛も激しくなってきた。寄宿舎の粗食による栄養不足もあったかもしれない。必死に、体力を振り絞って授業を続けているうちに、疲労が甚だしく食事も喉を通らなくなって、とうとう授業を休む羽目になった。寄宿舎の自室で寝ていると、心配して飯村校長や小野塚主任も見舞いに来てくれた。あとで校医が来て注射を打ってくれたが、やはり過労だろうという。念のためにということで、市の病院で大判のレントゲン写真を撮ってみたが、胸に異常はなかった。食欲増進のための消化剤をもらって帰り、3日ほど横になっていた。

 その頃、親しくしていた同僚の鈴木さんから私の下宿の話が持ち上がった。学校から歩いて10分ほどの元地主の家だという。栃尾高校の教員は、その町ではそれなりに信用があって下宿先を探すのは困難ではなかった。三食付で4,500円というのが相場で、同僚の何人かも鈴木さんを含めて下宿している。しかし、私に話があったのは、そのような下宿屋ではなかった。元地主の家というのは進学コース3年生の茂木千枝子の家である。鈴木さんがなぜそのような所へ下宿する話を持ち込んできたのかはよくわからない。茂木家は栃尾では古くから続いていた旧家で、地元の人々はその当時でも茂木様と「様」をつけて呼んでいた。教え子の一人の家というのが気に懸かったが、私は鈴木さんに急かされてとにかく一度茂木家へ行ってみることにした。

 週末の夕方、茂木家を訪ねてみると、茂木千枝子のお母さんだけがいて、しばらくすると、宴会に出ていたのだというお父さんも赤ら顔で帰ってきた。茂木千枝子の両親は、おそらく60歳代で、二人ともまだ農作業に出ているらしく健康である。いきさつは知らないが、戦前は旧満州に住んだこともあるらしい。戦後引き揚げてきて、農地改革で多くの土地を失ったのだという。それでも地主の名残は大きな旧家にも残っていて、まわりの農家からは「一段上の人たち」と思われているようであった。

 茂木家は4人家族であった。茂木千枝子は次女で、長女は他家に嫁いで東京に住んでいるのだという。そのためにいずれは茂木千枝子が養子を迎えてこの家を継がねばならない立場にあった。そんなことも茂木千枝子のお母さんは初対面の私に話をする。お父さんも真剣な顔で相槌を打っていた。それでもお父さんのほうとは話が合って、その時は2時間ほども話し込んでしまった。お母さんのほうは、虚栄心の強いことがことばの端々に顕れていた。下宿も、鈴木さんと話しが通じているはずなのに、私に対しては「お困りでしたらお引き受けいたします」というような言い方をする。私は茂木家へ下宿するのは考え直してみようと、思ったりもした。

 私の場合は、翌年の春には退職するはずであったから、下宿するにしても半年間である。しかし、栃尾高校に一年間勤務するというのは、飯村校長と私だけが知っていることで、生徒たちにも洩らすことは出来なかった。鈴木さんも知らなかったであろう。「半年間だけ下宿させてください」とは言いにくい立場で、私は、いまさら、ほかの下宿屋に当たってみることが億劫に思われた。

 結局、私は茂木家へ下宿することになった。私は仲介役の鈴木さんにまた茂木家へ行ってもらって、下宿代の6千円を申し出たが、茂木家は「5千円にしてください」と返事してきた。9月17日の土曜日、放課後に進学コース3年生の男子生徒6名がやってきて、学校の大きなリヤカーで2回、寄宿舎と茂木家を往復して私の荷物を運んでくれた。引越しが終わって、空になった寄宿舎の自室で、私は引越しを手伝ってくれた生徒たちに出前の中華そばを振舞った。その夜は、寄宿舎の舎監室に泊り、茂木家へ移ったのは翌日の夜である。

 茂木家の古い住宅は、今なら重要文化財にでも指定されそうな昔ながらの大きな民家で150坪位はあったかもしれない。玄関を入ると広い板の間の一隅に仕切られた囲炉裏などもあって、鉄瓶などで湯を沸かす自在鍵も天井から吊るされている。私の部屋は、その囲炉裏の奥の階段を上った二階にあった。二階には広々とした空間が広がっていて、ほとんど物置くらいにしか使われていなかったが、その片隅に私のための8畳くらいの部屋があった。窓からは周辺の田畑の緑が遠くまで見渡せた。

 食事は、階下の囲炉裏の奥の部屋でとる。農家の習慣らしく、夕食はいつも8時過ぎで遅かったが、寮にいた時のように栄養のことを心配する必要はなくなった。舎監の雑務からも解放されたし少しは体力も回復してきたような気がして、私はまた毎日、深夜まで自室にこもって仕事に没頭するようになった。茂木家の家族と顔を合わせるのは食事の時くらいであったが、この古い大きな家での茂木千枝子と彼女の両親との共同生活は、私にとってはやはり新鮮であった。いい面も悪い面も含めて、農家の地主的な人となりや考え方や生活がどういうものか、私はじかに触れることができていろいろと勉強になった。

 食事の時にはいろいろな話がでる。茂木千枝子のお母さんは饒舌であった。東京に嫁いでいる茂木千枝子の姉は、ミス新潟のコンクールに出場して準ミス新潟に選ばれたのだそうである。「東京のドレメを出ましてね」と千枝子のお母さんはそれが自慢のようであった。「ドレメ」とはドレスメーカー学院のことらしいが、私は関心がなかった。結婚した相手は東大の出身であるという。戦前に満州に住んでいた時、千枝子のお父さんは公務員であったが、旧制中学卒業の学歴であったので要職につけなかった。大学卒業者でも東大出身者でなければ出世できない。身のまわりで見てきてそんな風に考えるようになった千枝子の姉は、自分は相手が東大卒でないと結婚しないと言い続けていたのだという。私はそんな話を聞くのは苦手であった。母親のように虚栄心の強い姉が他家へ嫁いだので茂木千枝子が養子を迎えて家を継がねばならない。私は目の前で母親の話を黙って聞いている茂木千枝子が少し可哀そうに思えた

 引越しをして二週間ほどあとには、高校の運動会が開かれることになっていた。授業は午前中で打ち切られて、午後は、運動会の合同練習などが何回か行なわれた。私も昼休みなどには、グラウンドに出て男子生徒たちといっしょにランニングの練習を繰り返した。私は子供のころから走るのも、跳ぶのも、泳ぐのも運動は得意で、運動会では何をやらされても勝つという思い込みがあった。その当時でも、少しは過労などで体力が落ちていたとはいえ、生徒たちと走っても負けないと考えていたかもしれない。

 ランニングの練習の時にふと気がついてみると、昼休みにグラウンドへ出ているのは男子生徒たちだけで女子生徒は一人もいない。女子生徒たちはみんな廊下の一箇所に固まって、始業の鐘が鳴るのを待っているのだという。体操パンツの姿では恥ずかしいからなるべく人目に触れないようにしているのだと、同僚の大平さんは言った。彼は新潟県小千谷の出身でこの辺の土地の風習にも詳しい。そういえば、この新潟の山奥の町では、まだ「男尊女卑」の風習の名残のようなものがかなり色濃く残っていた。私がクラス全員を引率して城山へ登りに行ったような時にも、男子生徒の一団に少し距離をおいて女子生徒たちが固まって続く。私は苦笑しながら、いっしょに歩くように促すのだが、これはなかなか実行されなかった。

 運動会の当日の10月1日、土曜日は、生憎の空模様であった。その前夜に台風22号が通過して、早朝にはまだ小雨が降ったり止んだりしていた。職員朝礼会でも、運動会を実施するかしないかで意見が分かれたが、晴れそうだという希望的観測のもとに実施が決った。運動会は一時間遅れで始まった。男子生徒も女子生徒も青春のエネルギーをいっぱいに発散して、その躍動する姿を私は美しいと思った。運動会では私は放送係で、入念に準備した行進曲などのメロディーのボリュームを高めて雰囲気を盛り上げた。曇天で、一時は雨で中断したりしたが、それでもなんとか予定通りのプログラムを終了することができた。

 ちょうどこの日に、あの新潟大火が起こっていた。新潟市の新潟県庁舎の屋根裏の漏電から午前3時ごろ火事になったのである。火は台風のあとの西からの強風に煽られ、瞬く間に東方向の新潟市街地へ広がっていった。市内の中心部はまだ木造家屋が多く、ほとんどの建物は焼失して、市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。幸い死者は出なかったが、焼失戸数は972戸に及び、焼失面積は78,000坪にもなった。午前11時頃にやっと消火し、残り火も含めて完全鎮火したのは午後7時であったというから、私たちが運動会で動きまわっていたときには、新潟市内では大混乱の状態がまだ続いていたことになる。

 10月の半ばに、ある日の職員朝礼会で、飯村校長から、今学年度で退職を希望する者は月末までに申し出るように、と全員に言い渡された。飯村校長は私が退職することは知っていたから、これは私のことをいっているのではなかった。校長の職務上、ほかにも何らかの事情で退職者がでるのであれば、いまからその後任を捜しておく必要があったからであろう。教員の就職難は続いていたから、栃尾高校では退職希望者は一人も出そうもなかった。しかし、私はその翌週、赴任時の約束に従って、正式に退職を申し出た。身が引き締まる思いであった。

 4月以降、無我夢中で英語の授業に没頭しているうちに、もう退職が現実味を帯びてきた。いよいよ退職するとなると、当然その後のことも考えなければならない。北海道大学の大学院の入試を受けるのであれば、合格してもその結果がわかるのは翌年の3月である。しかし、それまで待って、もし大学院に入れなかったらどうするか。私はまたいろいろと考えて、念のために、北海道の苫小牧にある2校と札幌の3校を選んで、転職希望の書類を送ることにした。

 若気の至りで、私はやはり考え方が甘かったと思い起こすことがいくつかある。その一つが大阪から上京して都立第一高校(現・日比谷高校)の編入学試験を受けた時である。受験生は全国から集まっていて、7倍の競争率であったから決して合格は楽ではなかった。幸いに入れたからよかったものの、もし落ちていれば高校さえ中退になってしまうところであった。私立高校へ行くお金はなかったし、行くつもりもはじめからなかった。都立第一高校へ入ってからも厳しい生活苦は続いていたから、高校だけは卒業しておきたいと思って、私は一年飛び級して、在学2年で卒業したくらいである。都立第一高校の編入試験で、なぜあの時、不合格の場合のことを考えなかったのだろう。

 東京外国語大学の入学試験だけは、何の問題もなかった。家の生活苦で、はじめから昼間の進学は諦めて中央大学の夜間部へ通いながら就職することにしていたのに、父に叱られて仕方なく、受験にはまだ間に合う東京外国語大学を受験した。むしろ落ちればいいのにと半ば自虐的になりながら、鼻歌交じりの気楽さで受験を終えたが、私はその時の面接担当の石山正三教授によれば、トップに近い成績で合格している。この石山教授は、入学後も私に期待している風があった。まだ私が休学する前のロシヤ語作文の試験で、一番の成績の者に新しく出版された自分の著書を進呈する、と言われたことがある。私はその本をすでに持っていたが、それをすぐ級友の一人にプレゼントした。「君は要らないのか」と訊かれて、「僕は石山先生からもらう」と答えた。そして試験の後、その本をもらった。私がだんだん学校へ行かなくなったのは、その頃からである。一年目の休学を含めて、結局、5年間在学したが、その間に通学した日数は、おそらく、四分の一にも満たなかったであろう。無事に卒業はしたが、成績はかなり下がっていたはずである。その私が、今度の北海道大学大学院の入試でも、また、問題もなく通過できる保障は何もなかった。

 念のためにと考えて送った転職希望の書類に対して、苫小牧の2校と札幌の3校のうちの2校からは、何の返事もなかった。やはりどこにも欠員はなく公募はないのであろうと諦めかけていたころ、思いがけなく11月中旬に、札幌の3校のうちの残りの1校、札幌南高校からの手紙が届いた。校長の山口末一氏からのもので、英語教員を一人採用する予定だから、すでに提出済みの書類のほかに推薦書も送ってもらいたいという文面であった。私は応募者の一人として選考されることになったようである。栃尾高校の飯村校長は、私の仕事ぶりを高く評価してくれているようであったが、大学院進学のための退職と言っていた手前、転職のための推薦書を書いてもらうのをお願いするのは気が引けた。それで、東京外大ロシア学科の佐藤勇主任教授に手紙を出して、推薦書を書いてもらい札幌南高校へ送った。

 栃尾高校では、11月のはじめにマラソン大会があり、男子生徒全員が往復15キロの田舎道を走った。女子生徒は3キロほど離れた景勝「吊り橋」のほうへ競歩レースにでかけた。私は学校で用意してくれた自転車で男子マラソンの伴走をしたが、走りながら緑の山々に囲まれた田舎道の素朴な美しさにこころを打たれていた。当時はまだ、自動車はほとんど走っておらず、道路も舗装されていなかったが、私は大阪で過ごした子供の頃のそのような道を思い出してなつかしかった。ペダルをふみながら、私は自然に鼻歌を歌っていた。本来、「ふるさと」というのは、こういう山々や川や田圃があって、稲の穂が黄金色に輝き、野菜の緑が陽射しの中で映え、様々な木々や草花の色取りがまわりに広がっているものであろう。私は久しぶりに心も体も癒されているような気持ちになって、「ふるさと」ということばのあたたかい響きをしみじみと胸に受けとめていた。

 それからしばらくして、日曜日に、全日制、定時制合同の第一回音楽発表会も開催された。栃尾高校が開催する初めての音楽会で、どういうことになるのだろうと少し気がかりであったが、近くの小学校や栃尾中学校の賛助出演もあって、なかなか盛会であった。小学校の小さい子供たちが一生懸命に合唱している姿が愛らしかった。進学コースの生徒で、私に恋愛の悩みの相談にきたこともある金内文子の「平城山」(ならやま)の独唱もあった。内気な彼女の、どこにそんな力があったのかと思わせるような、腹の底から搾り出すような哀切の強い響きは、会場の全員に、魂をゆさぶられるような感動を与えた。

 11月下旬に、札幌南高校の山口校長から、また手紙が届いた。12月になって冬休みに入ったら、面接のために一度札幌へ来てもらいたいという文面であった。少なくとも書類審査は通ったということであったろうか。私は大学院の入試日程などを調べるために北海道大学へ行く用事もあったし、はじめから冬休みには北海道へ行くつもりであった。私は栃尾高校の日程を確認して、12月26日に苫小牧に着く予定をたてた。山口校長には、あらかじめ電話でご都合をお伺いした上で12月27日には札幌南高校へお伺いします、と返事を出した。札幌南高校というのは、昔の札幌一中で、おそらく北海道では一番の名門校である。それはわかっていたが、その札幌南高校だけが英語の教師を公募するに至った理由などは、もちろん、何もわからなかった。

 これは、後になって知ったことだが、札幌南高校の英語専任教員7名のうちの一人、斉藤次郎氏が高校教員の部のフルブライト留学生に選ばれ、その年の9月に渡米していたので、急遽、その後任を補充しなければならなかった。フルブライト留学生というのは、おそらく当時の、そして少し知名度は落ちたが多分いまでも、学者、研究者の最高の登竜門の一つで、高校教員も3年務めれば受験資格があるとされていた。その難関のフルブライト留学生の試験に斉藤氏は合格したのである。高校教員でフルブライト留学生を出したというのは、高校としても名誉なことであった。そして、ここで私にとって幸運であったのは、その斉藤次郎氏が、東京外国語大学のフランス語学科出身であったことである。斉藤氏は後には東京外国語大学教授になった人で、札幌南高校でも「英語の達人」として同僚からも一目置かれていたらしい。

 幸運はまだあった。山口末一校長が京都大学出身で、北海道大学出身ではなかったことである。北海道の公立高校の英語教員は、北海道大学、小樽商科大学、北海道教育大学、東京教育大学などのほか、早稲田、青山、津田などの私学出身者が多い。学閥のようなものは表面的にはないが、採用人事は校長の専権事項である。もし山口校長が、北海道大学出身であったなら、私のような者は、おそらくはじめから選考の対象にはならなかったにちがいない。12月27日の午後、私が札幌南高校の校長室を訪れたとき、山口校長のデスクの上には、うず高く履歴書が積まれていた。ほとんどが北海道大学の卒業生や卒業予定者のもので、山口校長の話では50名を超えていた。その履歴書の山を指差しながら、「北大の大学院修了予定者も5人ほどいますよ」と古武士のような風貌の山口校長は、謹厳な顔つきで言った。

 この山口校長の最後のことばは私に強く響いた。大学院で教育学を学ぶというのはいいにしても、大学院を修了しても高校教員の口にもありつけないかもしれない厳しい現実があることを、私は改めて認識せざるを得なかったのである。山口校長との面接は和やかに進んで30分ほどで終わったが、私は少し元気をなくして札幌南高校の古い木造校舎を後にした。現在の教職を一年でやめて大学院へ進み、そのあとでまた教員を続けるというのは、やはり、いかにも甘い考えのように思われはじめた。しかし、札幌南高校でも、私はまだ採用されることが決ったわけではない。大学院の進学準備だけは続けながら、札幌南高校からの結果を待った上で、またどうするか考えてみることにしようと思った。私は苫小牧の家で一週間ほど過した。日本聖公会牧師のハンセンさんにも会って、英語のおしゃべりを楽しんだ。正月を父と共に過した後、東京を経て、一月中旬に雪に埋もれている栃尾へ帰った。

 英語の授業では、進学コースの3年生の大学受験生十数名を対象に、私はまた放課後の補修授業なども引き受けて、多忙な毎日を過すようになった。商業コースのクラスも、その頃には、生徒たちもよくついてくるようになっていた。そのような生徒たちを相手に、栃尾高校で教えるのも、あと1か月半ほどである。私は一日一日を惜しむような気持ちになっていた。できることなら、あと一年くらいはここにいて教え続けたいと思ったりもした。そんな折、1月も終わろうとする頃、札幌南高校から手紙が届いた。山口校長からの公文書で、採用決定書が同封されていた。

 私はしばらくその書類を見つめ続けた。来るものが来たという感じであった。50人以上の応募者から選ばれても、特にうれしいという気持ちは起こらなかった。やはり、大学院はあきらめなければならないようであった。このまま3月に北海道大学の大学院を受験して、仮に合格したからといって、急に札幌南高校への転職を辞退するというようなことは信義上できない。私は一晩またよく考えた上で、札幌南高校へ転職することを決め、翌日、山口校長へ手紙を書いて、4月1日に赴任することを伝えた。(文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)

  (2014.08.01)




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   高校の英語教師として赴任してから (身辺雑記94)
    = 生かされてきた私のいのち (23)=


  昭和30年(1955年)3月、私は東京外国語大学のロシア学科を卒業した。3月16日の日付で「文学士と称することを認める」と書かれた卒業証書と、3月31日に東京都教育委員会が発行した中学校教諭1級普通免許状と高等学校教諭2級普通免許状が残っている。免許状の教科はどちらも「社会」と「外国語」(英語)となっているが、これは社会科関連の単位も取得していたからであった。しかし、高校では社会科の教諭になるつもりはなかった。卒業式には欠席して、私は苫小牧の父の所にいた。その間に、札幌へ出かけて北海道大学の大学院進学関係の書類をもらったりしていた。

 いよいよ新潟県立栃尾高校に赴任することになって、昭和30年3月30日に、友人、知人たちへ挨拶状を送った。当時5円であった小さめの官製はがきに、「来る4月3日、大学院進学までの1年間という了解のもとに新潟県立栃尾高等学校へ英語科教諭として赴任することになりました。かねてより教育学専攻の希望を持っていましたので、そのための実習と準備を兼ねて着任後は鋭意勉学に努めたいと思っております・・・・・」などと書いている。大学院へ入れるかどうかもわからないのに、1年間で退職するなどと条件をつけたりして、随分甘い見方をしていたと思うが、当時は本気でそう考えていた。

 栃尾高校は、当時は長岡市から栃尾電鉄に乗って北東へ30分ほどの、栃尾市にあった。明治44年(1911年)から栃尾町という名前であったが、私が赴任する前年の昭和29年(1954年)に古志郡下塩谷村、上塩谷村、東谷村、荷頃村を編入して栃尾市となっていた。それから、ずっと後になってからだが、平成18年(2006年)には長岡市に編入されて、いまでは栃尾市という名前は消滅してしまっている。道路が発達して車の往来が容易になり、栃尾電鉄もいまはない。栃尾高校の所在地も、いまでは新潟県長岡市金沢一丁目ということになっている。

 栃尾高校に着任してからは、学校の寄宿舎の一室に住むようになった。寄宿舎は古い木造の2階建てで、学校から遠い山間の生徒たち十数人が寄宿生となっていた。食事は、朝、昼、夕の3食を寄宿舎の食堂で生徒たちと一緒にとった。その年に新任教諭として着任したのは、私のほかに3名もいた。みんな新潟大学の卒業生で、数学の鈴木氏、生物の大平氏、それに職業の五十嵐氏である。栃尾高校には付属の定時制(夜間)もあって、そこでも新任教員二人が着任していた。寄宿舎に居住するようになったのは、私と生物の大平氏、である。舎監という名目で、寄宿生たちの相談役になり、二人で交代して寄宿舎日誌をつけていた。

 私の卒業した年は、大学卒業生にとっては大変な就職難で、特に教員志望者にとっては事態は深刻であった。東京では、公立の中学、高校での教員採用は、中学で一人のほかは、高校ではゼロであった。それを、栃尾高校では私を含めて3人も採用されたのは、この学校がその前年4月1日に、新潟県立栃尾高等学校と改称されたばかりであったことと関係があったのかもしれない。それまでは、新潟県古志郡立実業補修学校といわれていた。1908年の創立以来、45年以上も、この学校は織物や農業の実習教育で地域の産業を支えてきたのである。

 しかし、実はこの頃、私が後にした東京や日本の大都会では、かつてない好景気が沸き起こり始めていた。1950年から1953年にかけての朝鮮戦争の特需が一部の業者が潤していたことは知られていたが、それが日本経済を大幅に拡大させ、ここへ来て爆発的な好景気を生み出す契機になったのである。急に人手不足になった都会の企業や商店では、中卒の若年労働者を必死になってかき集めようとしていた。その結果、この年の3月には、15の春を迎えたばかりの少年少女たちを満載した集団就職列車の第一号が、初めて岩手県の盛岡から東京へ向かって出発したことがニュースになった。私は逆に、喧騒の度を増し始めた東京を離れて、都会から田舎へ移り住んだことになる。

 栃尾市の人口は、私が赴任した当時で2万2千人くらいであったろうか。刈谷田川を挟んで開けた山あいの街は、昔ながらの古い佇まいを見せていた。豪雪のときにも歩けるようにどの家の軒下にも張り出されている小屋根の下の道を歩いていると、よく機織りの音が聞えてきた。周辺には、あちらこちらに畑や田圃が広がっている。人々は道ですれ違うと、見知らぬ私にもお辞儀をする。それまでは山からは遠く離れて住んでいたが、ここでは、まわりにはどこも青い山がある。高いのも低いのもあって、私にも登れるようになるかもしれない。都会育ちの私は田舎にあこがれていた。一度田舎に住んでみたいという思いが叶えられて、私は心が和むような気がしていた。

 (4月10日の日記から)着任して丁度一週間経った。栃尾という町にも、この学校にも親しみが持てるような気がする。やはり教師になってよかった。
 今日、三年生、関西、関東方面への修学旅行に出発。午前11時、栃尾駅まで見送りに行った。ぽかぽかと暖かい陽射しで暑いほどだ。みんな流石に嬉しそうな様子で、いそいそとしている。交通不便なこの山奥に閉じ込められて育った彼らにとっては、この修学旅行は異常なほどの興味を惹くものに違いない。この田舎の高校生たちに幸あれ!
 午後、フォスターのレコードをかけてみたり、英会話や発音のレコードを聞いてみたりしてのんびり過す。明日の1年生の授業は、小野塚先生が修学旅行で留守なので、二組一度に引き受けねばならないが、レコードをかけて英語の歌でも教えてみることにする。彼らの学力は低いかもしれないが、英語を嫌いにさせてしまってはおしまいだ。楽しい授業、実のある授業、彼らの頭の中に何時までも残る思い出の授業を続けていきたい。

 栃尾高校の英語の専任教員は私を含めて3名であった。明治学院大学出身の小野塚氏が主任格でその下に中年のおとなしい感じの今井氏がいた。立正大学出身で、英語の専攻ではなかったが、「お前は大学出だから英語ぐらいできるだろう」といわれて英語を教え始めて十数年になるのだという。私を含めた3人の教員間のまとまりはなく、それぞれに好きな方法で授業に取り組むことが出来たのは、私にとってはかえってよかったかもしれない。

 生徒たちは、進学コース、商業コース、農業コースに分かれていて、私が受け持ったのは進学コースと商業コースであったが、英語学力の低さは想像以上であった。商業コースの生徒のなかには、アルファベットもろくに書けない者もいた。英語が好きか、嫌いかと聞くと、ほとんどが嫌いと答える。進学コースの生徒でも英語は好きだと答えたものはごくわずかであった。これは大きな問題である。英語が嫌いになってしまっている生徒たちに英語を教えるのには、2倍、3倍の努力がいる。

 私は所定の教科書には頼らず、各クラスに向けた易しい教材を自分で選んだり作ったりして授業を進めることにした。例えば、進学コースの2年生に対しても、ラフカディオ・ハーンの「Kwaidan」のような易しい英語をプリントして教材にした。易しい教材を何度も読ませ、暗記させ、しゃべらせ、そして書かせるのである。はじめは、短い3ページ足らずの「Oshidori」一つをマスターするのに3か月を要した。単語を覚え、英語でしゃべらせて発音を正し、文法を理解させ、そして英文を書かせる。書かせては直し、また書かせるという小テストを毎時間繰り返した。英語をたどたどしく日本語に訳すだけという英語の授業には、私は批判的であった。あれでは英語の本当の力はつかない。しゃべれなければ英語ではない、書けなければ英語を理解していることにはならない、という姿勢を貫いた。

 4月16日は、初めての給料日であった。事務室で給料袋を受け取り、寄宿舎の部屋に帰って開けてみたら、本俸9,600円に所得税その他を差し引かれて、受け取ったのは8,420円であった。寄宿舎での食費などは、翌月から差し引かれるということで、そうすると手取りは約6,000円になるようである。初めての給料なので、私はその中から5,000円を「感謝の印」として東京の母へ送金した。新潟県の財政は豊かでなかったので、公立高校教員の給料は、東京の公立高校の教員よりは、いくらか低かったようである。東京などでは、神武景気などといって浮かれた雰囲気が盛り上がっていたのに、地方ではまだ戦後の貧困の余波が残っているような感じであった。その後、東北のいくつかの県で、財政難で公務員の給料が支給できずに給料の遅配という事態まで起こったが、それは新潟県でも例外ではなかった。

 私は授業に没頭していた。授業時間がどうしても足りずに、新潟大学や東京の私大の受験を考えている生徒たちには、放課後に補講クラスを開設したりした。しかし、それを何か月か続けているうちに、過労の兆しが見え始めた。体がだるくなって、朝になってもなかなか起き上がれないのである。私はその一つの原因は、寄宿舎の食事にあると考えた。実際、寄宿舎の食事は、極めて質素であった。朝は、麦ご飯と味噌汁、それに「煮菜」(にな)という塩辛い漬物が少し付くだけである。昼も同様で、夕食でも、せいぜい佃煮などの小皿が一つ加えられるだけであった。魚や肉類はほとんど出されたことはなかった。田舎なのに卵が出されることもない。

 ある時、私は寄宿舎の賄いを担当している星さんという中年の女性に、「せめて卵を一つ朝御飯にでも出すようにしたらどうですか」と言ったことがある。育ち盛りの生徒たちにはどう見ても栄養が十分とは思えなかったからである。しかし星さんは、「先生、何をおっしゃいますか。あの子たちには、これでも贅沢なのですよ」と答えた。田舎だから、卵の一つぐらいと思っていたのは、浅はかであったようである。都会育ちの私にはわからなかったが、この辺の農家の子供たちは、普通は白米のご飯も食べていないのだという。昔ながらの貧困のなかで生きてきて、発育も十分ではなく、子供たちの体つきも、年の割には小さく見える。

 私は寄宿舎で生徒たちと起居を共にしている以上、自分だけ生徒たちとは違った食べ物をとることはできなかった。時々、寄宿舎の生徒たちの何人かと、休みの日などに、近くの城山という小高い山に登り、帰りには食堂に立ち寄って、うどんやそばを食べさせたりした。そういうときの生徒たちは外食の習慣があまりないだけに、無邪気でとても喜ぶのである。そんな折に、ある時一人の生徒が、自分の家の近くの子供から、「蒲鉾というのは、あんな木をくっつけてどうして泳げるの?」と訊かれた話しを披露した。みんなは笑い出したが、小さい子供ならあり得る話である。山奥のその町では、魚をほとんど食べることはない。祝い事かなにかでたまに魚を食べたりすると、その魚の頭を串に刺して玄関の上に飾っておく習慣も一部にはあった。また魚が食べられますようにという、まじないのようなものである。

 ある日の午後、私は授業を終えて職員室へ戻ってくると、香ばしい匂いがする。職員室の隅には1メートル四方くらいの火鉢があって、お湯をわかす薬缶が乗っている。その火鉢を囲んで同僚の教員三人が何やら串に刺したものを焼いて食べているのである。「先生も食べませんか」と同僚の一人が私に言った。何を食べているんですかと私が訊くと、「マムシです」と答えが返ってきた。農業コースの生徒が学校の農場での畑作業で見つけて捕まえてきたのだという。マムシというのは蛇のことではないか。私はたじたじとなって、「蛇は食べられません」と答えた。すると、「これは蛇ではなくマムシです、蛇なら自分たちも食べません」と言われてしまった。高価な牛肉にはありつけず、魚もあまり口にできないこの田舎では、マムシは無料で食べられる貴重な蛋白源であった。「マムシは蛇ではない」と思い込むことも、ここでは生活の智慧の一つであったのかもしれない。

 私は熱心に仕事に取り組んでいたが、授業とその準備による過労と睡眠不足、それに栄養の問題もあったからであろうか、6月頃から、ひどく髪の毛が抜けるようになった。保健室からもいわれて、6月下旬のある日、休みをとって、早朝、長岡へ向かい、長岡中央病院で脱毛の症状を診てもらった。過労は指摘されたが、特に有効な治療法はないと言われた。その後もなんとか頑張って授業を続けて、7月に入った。栃尾の夏は暑い。文字通りうだるような暑さがこたえた。しかし、生徒たちはその暑さがあまり気にならないようであった。農家にとっては、うだるような暑さは恵みである。米もよく育つから、「うだれ、うだれ」と暑さを願う。そのような環境に小さいうちから慣れ親しんできたから、生徒たちも酷暑を嫌がるようなことはない。

 私は夏休みが待ち遠しかった。7月20日に終業式が終わると、その日の夜行で東京へ帰り、3日ほど休んで北海道へ向かった。苫小牧の父の家に着いたのは7月24日の夜である。苫小牧には、妹の秋江と静子も来ていた。東京に残っていた母と弟も、一週間後に苫小牧へやって来て、私たちは久しぶりに一家が揃って家族水入らずでひと夏を過した。苫小牧の家は太平洋が目の前に広がる海岸の近くで海風が涼しかった。私は十分に眠り、新鮮な魚も好きなだけ食べ、体を休めた。家族で一緒に支笏湖を訪れ、洞爺湖の温泉に遊んだ。

 苫小牧の家のすぐ近くには、日本聖公会の教会があって、ハンセンさんという若いアメリカ人男性牧師が一人で住んでいた。私は苫小牧滞在中に何度かこの教会を訪れている。礼拝ではなく雑談をするためである。ある日の夜、ハンセンさんのところへ行ってみると、苫小牧の高校で英語を教えているという楢橋氏に会った。楢橋氏はかなり流暢な英語でハンセンさんと話し合っていた。ハンセンさんが、「あなたはどこで英語を学んだのか」と訊くと、楢橋氏は「小樽商科大学です」と答えた。この大学は、昔から「北海道の外国語大学」といわれて外国語教育に熱心であった。私もその名前だけは、受験雑誌などによく出ていて知っていたが、その卒業生に会ったのは、その時が初めてであった。後に私は、その小樽商科大学の教授になるのだが、その頃はもちろん、そんなことは知る由もなかった。(文中の名前は仮名です)

  (2014.06.05)



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   新潟の県立高校への赴任が決まる頃まで (身辺雑記93)
      = 生かされてきた私のいのち (22)=


 1954年(昭和29年)になってからは、父はよく北海道へ出掛けるようになった。何度か長期の出張を繰り返して、春には、苫小牧市の海岸に近い旭町に小さなアルミニューム再生工場を建てた。250坪ほどの借地に、工場と並んで事務所兼住居の建物があり、それに30坪ほどの資材倉庫がついていた。アルミニューム再生工場というのは、アルミニュームのスクラップを溶解して純度別のアルミニューム塊(インゴット)に精製していく工場である。いまでは北海道に、札幌、苫小牧、千歳、帯広などに何箇所も同様の工場が建てられているが、父の建てたこの苫小牧の工場が、北海道では最初のアルミニューム再生工場である。はじめのうちしばらくは、この苫小牧の工場と住宅で、父の単身赴任のような状態が続いた。

 この年の3月1日に、アメリカはマーシャル諸島ビキニ環礁で何度目かの水爆実験を行なった。この日の水爆は、広島原爆の約1千倍ともいわれたほどの威力であったらしい。たまたまビキニ環礁の北東160キロで操業中であった静岡のマグロ漁船第5福竜丸が、指定されていた危険海域外であったにもかかわらず、実験3時間後に降ってきた強力な放射能を含む死の灰によって乗組員全員23名が被爆した。2週間後に焼津港に帰港して病院で検査を受けたが、全員が原爆症と診断され、そのうちの一人、久保山愛吉さんは放射能症のために死亡した。これは大きなニュースとなって世界に大きな衝撃を与え、その後に続く原水爆禁止運動の原点になった。

 社会には明るいニュースが乏しく、人々も貧しい生活の中で希望の持てない日々を過ごしていた。そのような社会風潮の反動であろうか、その頃、プロレスの力道山が異様なほどの人気を博していた。2月19日に、東京で日本初のプロレス国際試合が行なわれて以来、プロレスは度々テレビで中継されたが、庶民にはテレビはまだ行き渡っていなかった。新宿や池袋などの盛り場に設置された街頭テレビの前に、数百人もの人々が押しかけて見ていた。街頭テレビの観客は、初めて見る試合の迫力に圧倒され、生活の不安などを一時忘れて、熱狂し興奮していたようにみえる。私はどういうものか、ボクシングやプロレスなどは好きになれなかった。街頭テレビの前にも立ち止まらなかった。ただ、群集のその異常な興奮振りが強く記憶に残っている。

 その頃、ベトナムでディエンビエンフーを占領していたフランス軍が、ベトミン軍と56日間の激戦の末、5月7日には、ディエンビエンフー要塞が陥落するという大きな事件があった。アイゼンハウアー米大統領も、インドシナを失えば「東南アジア一帯がドミノ倒しのように」共産化すると訴えて、懸命にフランス軍を支援していたが、及ばなかったのである。これによりフランスは休戦を余儀なくされ、フランス兵9万5千と、ベトナム人130万の人命を奪った8年越しの戦争は、一応の終結を迎えた。7月にジュネーブで休戦協定が結ばれ、北緯17度線を暫定軍事境界線として、北をホー・チ・ミン、南をフランスの支援する旧皇帝バオダイが統治することが合意された。だが、これでベトナムに平和が訪れたわけではなく、やがて、対アメリカのベトナム戦争へと引き継がれていくことになる。

 日本の社会も、まだ貧困の蔭が残るなかで、新たな政界スキャンダルで揺れることになった。朝鮮戦争の特需が終わって不況に喘ぐ海運業界を救済するための法案をめぐって、2月にいわゆる造船疑獄が明るみに出たのである。4月中旬までに、業界幹部、代議士、官僚など74人が贈収賄で逮捕されるという異様な事態になった。庶民は怒り、私もうんざりしながら、この事件の経緯を追っていた。しかし、事件の頂点とみなされていた自由党幹事長の佐藤栄作にも捜査の手が及ぶ段階になると、時の法務大臣、犬飼健はこのままでは内閣がつぶれると判断して、「指揮権」を発動した。これにより、佐藤栄作は逮捕を免れ、事件は核心に迫ることなく闇に葬られてしまった。轟々たる国民の非難を浴びて、犬飼法相は、指揮権発動の翌日、辞職した。

 私は、私は東京外国語大学の4年生になっていた。一年生の時に一年休学していたから、5年目で最終学年である。折角苦心して、高校在学を1年短縮したのに、大学の在学を1年増やしてしまって、結局、在学期間は、高校2年、大学5年ということになってしまったようである。しかし、父の努力のお蔭でもうあまり家の生活苦のことは心配せず、大学を卒業できそうなことが有り難かった。アルバイトは、西荻窪のK 子さんの家庭教師を週に2回つづけていただけで、大学入学以来ほとんど初めて、あまり休むこともなく学校へ通うようになった。

 家を出ると、広いアスファルト道路から横に逸れて、近くの広い野菜畑のなかの細い道を5分ほど歩く。バスに乗るのでなければ、それが駅までの近道であった。それからまた、広いアスファルト道路に出て荻窪駅に向かう。いまは府中市に移っているが、その当時の東京外国語大学は北区の西ヶ原にあった。荻窪から新宿へ出て、そこで山手線に乗り換え、巣鴨で降りてから歩いて20分程のところである。家を出て学校に着くまでは、一時間半ほどかかった。

 その家から出て荻窪へ向かう途中の細い野菜畑の道で、一度、富子とすれ違ったことがある。その頃の富子はまだ、共立女子高校の生徒であった。私の家から100メートルほどの所に住んでいたから、成城大学の学生であった彼女の兄とは面識があり、母親などとも会えば挨拶を交わしたりしていたが、富子と会ったのはそのときが初めてである。私はまだ彼女の名前も知らなかった。彼女は伏目がちに近づいてきて、すれ違う時には軽く会釈したようであった。「袖すりあうも他生の縁」で、私は何か親しみのようなものを感じたかもしれない。しかし、ことばは交わさなかった。それから数年後に、私たちが結婚することになろうとは、その時の私には知る由もなかった。

 私は、専攻のロシア語のほか、英文科の英語の授業などにも、よく出ていた。他科の科目は卒業単位には算入されなくても、履修は認められていたのである。社会学や教育学にも興味を持つようになっていた。生活の心配をしなくても学校へ行けるようになってくると、それまでの不勉強を取り戻すためにも、大学院で教育学の勉強をしたいと思い始めた。大学卒業後は一年くらい高校の英語の教師を勤めて、教育現場の経験を積んだ後で改めて教育学を学ぶのがいいのではないかと、勝手に考えたりもしていた。何度もそんなことを考えているうちに、それが私にとっては既定の進路であるようにも思えてきた。当時はまだ、極めて深刻な就職難が続いていたのに、そんな考えは甘かったかもしれない。

 夏休みの間の1か月ほどは、北海道へ行って苫小牧の家で父と共に過した。後には結婚した上の妹が夫婦で苫小牧へ出かけて父と一緒に住むようになったが、そのころはまだ、父の「単身赴任」は続いていた。家事はお手伝いさんに頼み、数人の従業員だけの小企業であったが、経営は何とか軌道に乗りつつあった。私は父の事業を心配することなく、はじめての北海道旅行を楽しんだ。苫小牧の街を歩きまわり、支笏湖や洞爺湖を訪れ、登別温泉にも行った。第一滝本館の500人は入れるという大浴場は、その頃はまだ男女混浴であった。その奥のカルルス温泉は、まだ鄙びた温泉旅館が4,5軒あるだけであった。

 札幌へは、汽車で一時間半かかったが、真っ先に北海道大学を見て回った。父が苫小牧で事業をはじめているし、私も、北海道大学の大学院で教育学を専攻することを考えていたからである。私がまだ、大阪の小学生であった頃に、雑誌か何かで、北海道大学のキャンパスの広大な芝生の上で若い母親が幼児を遊ばせている写真を見たことがある。大阪からみると東京は遠く、札幌は、さらにもっともっと遠い北の果ての町であった。その札幌の北海道大学の広大な緑の芝生のイメージが子供の時の私の頭に焼き付けられていて、北海道大学はなんとなく懐かしかった。後年、私は北海道大学でも学生を教えるようになるのだが、そんなことも、その当時は予想もできなかった。

 9月の20日ごろ、私は東京へ帰った。苫小牧からは室蘭本線で函館へ行き、そこから青函連絡船に乗る。私は船旅が好きで青森までの4時間ほどの航海を楽しんだ。青森から東北本線の上野行き急行に乗るときには、連絡船の桟橋から駅のプラットフォームへみんなが一斉に走り出す。遅れたら座席に座れず、上野までの十数時間を立ちっ放しになるからである。このような長距離の汽車旅行も私にとっては新鮮であった。ところが、私が東京へ帰ったまもなく、9月26日には、津軽海峡を襲った台風で、あの青函連絡船の洞爺丸(4337トン)が転覆して、同時に転覆した貨物船4隻と合わせて、死者、不明者1155人の大惨事になったのである。私は青函連絡船の、洞爺丸、羊諦丸、摩周丸、大雪丸などの名前を覚えていたが、その時の北海道旅行で往復2回乗った船が、どれであったかは記憶にない。あるいは、往復のどちらかは、洞爺丸であったかもしれない。

 当時、時速110キロで日本海を北上していた台風15号の影響で、津軽海峡には平均風速20メートルを越える強風が吹き荒れていた。函館港では、連絡線は次々に欠航となり、洞爺丸も出航を見合わせていたらしい。ところが夕方になって急に風が衰えてきたので、洞爺丸は天候回復と判断して青森港に向けて出航してしまった。しかし、風は再び猛威を振るい始めた。出航直後の洞爺丸は、瞬間最大風速55メートルの暴風に襲われて、エンジンも故障し、航行不能に陥った。そして、函館湾北部の七重浜付近まで漂流したあと、座礁して横転転覆したと伝えられている。私の友人の兄で、北海道大学助教授であった人が、学会へ出張の途中でこの洞爺丸に乗り遭難したことも、私は後に知ることになる。

 夏休みが終わってからは、いよいよ就職を考え始める時期になった。私は外国語(英語)と社会科の高校教諭の免許状を取得できることになっていたが、もとより社会科の教諭になるつもりはなく、英語の教諭の求人情報に注目していた。しかし、東京都や周辺の都市での高校英語教諭の求人は、1件もなかった。私が入学した昭和25年ごろは敗戦の後遺症がまだ深く残っていて、極端な就職難であったが、入学した時の就職難は卒業時には就職難が解消されていることが多いなどと言われたりしていた。しかし、私たちの場合は、卒業時も極端な就職難は少しも解消されなかった。40名の入学定員のなかで卒業できたのは約半数であったが、大学院へ進んで大学教授になった者が多かったのも、この就職難が一つの原因であったかもしれない。

 私は、東京で就職できないのであれば、札幌や苫小牧周辺でもと思って調べてみたが、空席があって求人しているような高校はどこにもなかった。大学へ求人が来ていたのは、北海道の公立高校では網走の留辺蕊高校と根室の斜里高校だけである。東京から比較的近いのは新潟県立栃尾高校くらいであった。栃尾高校というのは長岡から栃尾電鉄で30分ほど奥に入った栃尾市にある高校である。私はその新潟県立栃尾高校に応募することにした。主任教授の佐藤勇先生が推薦状を書いてくださった。一年間勤めて大学院へ進むのであれば、新潟でもいいと考えたりした。秋の一日、とにかく一度、栃尾高校を見ておきたいと思って、私は出かけてみることにした。

 長岡から牧歌的な栃尾鉄道に乗ってたどり着いた栃尾は、山奥の田舎町のような感じであった。その辺は昔から養蚕が盛んで栃尾織でも知られていた。町の中央部に刈谷田川が流れていて、その堤防に沿って栃尾高校の敷地が広がっている。私が行くと、飯村修兵校長があたたかく迎えてくれた。校長みずから学校の隅々まで案内してくれて、そのあとは二人で町へ出た。川のほとりの料亭で飲食を共にして、その夜は情緒が漂う昔ながらの古い旅館に泊めてくれた。翌朝、私が支払いをしようとすると、もう校長から受け取っているという。学校へ挨拶に行ったら、飯村校長は、東京までの汽車賃まで「学校で負担させていただきます」と言って、出してくれた。

 私は割合軽い気持ちで、栃尾まで出掛けたのだが、そのために、飯村校長には、勤務しても一年間で辞めさせてもらって大学院へ進みたいのだとはつい言いそびれてしまった。予想以上に歓待してくれて、宿泊代や旅費までも出してくれたので、余計に言いにくくなってしまったこともあったかもしれない。これもいま考えれば、あの就職難の時代に一年だけというのは随分身勝手な申し出であるが、しかし、それは黙っていていいことでないことはわかっていた。東京へ帰ってから、しばらく考えた末、私は飯村校長に手紙を書いた。採用されても一年で辞めるというのは、やはり自分本位で無責任のような気がするから、就職を辞退したいと伝えた。そして、出してもらった宿泊代、旅費に相当する額も現金封筒で返送した。

 主任教授の佐藤先生にも、栃尾高校への就職を辞退したことを伝えた。大学院へ進学して教育学を専攻したい希望を持っているが、そのために教員生活を一年経験しておきたいというのは、やはり考え方が甘い気がする。就職はしないで、大学院の受験だけを考えますと言うと、佐藤先生も了解してくださった。ところが、その数日後、栃尾高校の飯村校長がいきなり上京してきて、大学に佐藤先生を訪ねてきたのである。佐藤先生から呼び出されて知ったのだが、飯村校長は私を気にいってくれたらしい。一年という条件でよいから是非来て欲しいというのである。大学院への進学に気持ちを切り替え始めていたとはいえ、私には、飯村校長の厚意をいまさら断る理由がなかった。私はその翌年、昭和30年4月から、卒業と同時に、新潟県立栃尾高校英語教諭として赴任することを受け容れた。

  (2014.04.01)




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   開けてきた大学卒業への道 (身辺雑記92)
     = 生かされてきた私のいのち (21)=


 1953年(昭和28年)1月2日、昼過ぎに家の門の脇の立ち木の下で、塀の反対側に遠くまで広がる野菜畑をぼんやりと見ていた。いまではそのあたりは、すき間もなく家が立ち並んでいるが、昔は一面の畑で、数百メートル四方にわたって家はほとんど見られなかった。突然、はるか彼方で一発の銃声が轟いた。その方角に目を向けると、やがて空低く浮かんだ小さな黒点がみるみる大きくなってきて、一羽の大型の鳥が真っ直ぐに私のほうへ飛んでくる。大きな羽を広げたまま羽ばたくこともなく、徐々に高度を下げてきた。どうやら猟銃で撃たれた鷹のようであった。

 その鷹は、おそらく300メートルほども飛び続けた後、身動きしないで見つめている私の目の前にザザザーと着地して、足元1メートルのところでピタリと止まった。私を見上げていたような小さな丸い目が二つ、静かに閉じられて鷹は息を引き取った。私は呆然とした。正月早々、どうしてこういうことが起こるのだろうと思った。しばらくすると、遠くから野菜畑を踏み散らしながら、男が二人こちらへ向かってくるのが見えた。その姿が浅ましく、見たくもない気持ちで、私は鷹の上にあたりの枯れ落ち葉をふりかけて、門の中に入った。「鷹はとうとう見つけられて、連れて行かれてしまった。この二人のハンターたちを憎む」と私は、その日の日記に書いている。

 2月に入ると、大きな出来事があった。NHKが東京地区で初めてのテレビ放送を開始したのである。それまでの音声だけの放送に、初めて映像が加わることになって、これは衝撃的な社会現象であった。もっとも、放映時間は当初は一日4時間だけであったし、大学卒の初任給が8千円前後の時代に、テレビ受像機は17インチが15万円、20インチが20万円くらいで、庶民には高嶺の花であった。受信契約数も9百件に満たなかった。街の商店などが、客寄せのために受像機を店頭に置くようになったくらいである。その後、相撲やプロレスなどがテレビで放映されるようになると、街頭テレビの前には黒山の人だかりができるようになったりした。その人だかりのなかに混じって、私も、なんと便利なものか、と感嘆したことを覚えている。

 その頃、政局では吉田茂首相のいわゆる「バカヤロー解散」があった。これは新聞にも大きく取り上げられて、その記事がいまも残っている。2月28日の予算委員会で、社会党の西村栄一氏が吉田首相に、「首相は国際情勢を極めて楽観しているようだが、いかなる根拠に基づくか」と質問したのが発端であった。吉田氏は、「アイゼンハウアー米大統領、チャーチル英首相をはじめ、そのような見解を語っている」と答えた。西村氏は「私は欧米政治家の見解をきいているのではない。日本国首相として答弁されたい」と食い下がった。

 このあたりで、吉田氏は、憤激して語尾を震わせながら「私は日本国の総理大臣として答弁したのである」と突き放そうとした。これに対して、西村氏がたしなめるように「首相は興奮せずに答弁されたい」言うと、吉田氏は「無礼ではないか」と怒りを顕わにした。西村氏も向きになって「質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか」と言い返した。ここで自制を失った吉田氏が「バカヤロー」と怒鳴ったのである。このあと、吉田首相は、「ただいま私が言った言葉は明らかに不穏当だと思うからはっきりと取り消す」と言ったが、これはそれだけでは収まらず、結局、衆議院で内閣不信任案が提出されてそれが可決され、政府は衆議院を解散して総選挙となった。

 その選挙運動期間中に、私はたまたま中央線の荻窪駅前で、羽仁五郎氏が選挙の応援演説をしているのを聞いている。氏は、『ミケランジェロ』や『日本人民の歴史』等数多くの著作で著名な歴史学者で、『都市の論理』は、後の学生運動などにも大きな影響を与えた。当時の羽仁五郎氏は参議院議員で、意中の衆議院議員候補を応援していたのである。私は氏がドイツのハイデルベルグ大学に留学していたことを知っていた。「ハイデルベルグ」というのは、ゲーテの作品などにも出てくる「なつかしい」名前であった。それから30年も経って私自身がハイデルベルグ大学を訪れた時にも、私は氏のことを思い出すことになる。その時の荻窪駅前で見た羽仁氏は演説が巧みであった。大勢の聴衆が熱心に聞き入っていた。私も感動して家に帰り、その後の選挙結果に注目していたが、羽仁氏の推していた候補者は当選しなかった。

 東京外国語大学では、2月中旬から学年末試験が始まり、2月26日には3時間の専攻語学ロシア語の試験を受けた。あまり授業には出席していなかった私にとっては苦しい試験であった。それをどうにか無事に終えて、春休みに入った。3月が過ぎ、4月1日に進級者発表があった。東京外国語大学では、専攻語学に関して毎年、学年末までに一定の単位を取らなければ上の学年に進級できない仕組みになっていたのである。その年は、進級出来なかった者が多く、その割合はクラスの3割ほどにもなったが、私は何とか東京外国語大学の3年生になった。

 父はアルミニューム工場の経営で苦労していたが、どうにか軌道に乗って相応の利益をあげていたようだし、大学を中退して働くことはもう考えなくてもいいように思われた。この頃になってやっと私は、夜間の中央大学法学部学生としての資格を放棄して、学生証は東京外国語大学のものだけになった。高校の英語教師になることに的をしぼって、大学では、専攻のロシア語のほか、英文科の英語の授業にも出来るだけ出席するようにした。その当時から英語教育の分野では著名であった岩崎民平、小川芳男、梶木隆一などの諸先生や、詩人としても知られていた安藤一郎先生の授業を、私は数多く受けている。

 この頃、国際情勢では重要な変化があった。ソ連の首相スターリンが脳内出血の発作を起こして、3月5日に亡くなったのである。29年の間、独裁者として君臨したスターリンは、ドイツとの戦争で勝利をもたらし、国内の工業化にも成果をあげたが、同時に、大粛清や強制的な集団農場化などの元凶であることが日本でも知られ始めていた。敗戦後の日本兵をシベリアへ送って強制労働に駆り立てたのもスターリンである。おそらく、この彼の死と無関係ではなかったであろう。この年の12月1日には、ソ連からの抑留者第一次帰還船の興安丸が、舞鶴港に入港した。

 1950年6月以来3年間、宣戦布告もないまま戦われてきた朝鮮戦争も、やっと、この年の7月になって終息した。東西両陣営が招いたこの戦争では、韓国は民間人106万余を合わせて約150万人、米軍5万4千人、それ以外の国連軍3千人、北朝鮮・中国軍側200万人など、死者の数は総計400万人にものぼるとみられている。和平交渉そのものは、1951年7月からすでに始まっていたが、停戦ラインの位置や戦時捕虜の扱いなどで交渉は難航していた。それが、この年の7月27日になって、ようやく休戦協定の調印にこぎつけたのである。朝鮮戦争はこれで終わったが、南北を分断する38度線が、固定されてしまうことになった。

 その頃の私は、洋服の月賦販売会社のアルバイトは辞めて、春から夏休みが終わる頃までは、英書の翻訳のアルバイトに打ち込んでいた。慶応の学生であった加茂君が、どういう伝手であったか、ある上智大学・外国人教師の A Catholic History in Japan (日本カトリック教会史)という本の原稿を持ち込んできて、その翻訳の下訳を引き受けたのである。私は、英書の翻訳くらいは出来ると高をくくっていた。しかし、これは私の誤算であった。キリスト教に疎く、カトリック教会関係の特殊の用語を私は知らなかった。それらを日本語にどう翻訳するのか、私はさんざん苦しむことになる。

 聖書の日本語版を参考にしたりしながらも、適当な日本語の訳語を見つけるのが楽ではなかった。そのために、訳文の日本語そのものも満足できるようなものにはならなかった。下訳であったから、おそらく、カトリック教会の専門家が後で見てくれるであろうことを期待して、私は辛うじて翻訳を終えた。これは、それから2年後くらいに出版されて、たまたま四谷駅前のエンデルレ書房の窓に飾られていたのを見たことがある。しかし、どういうわけか、翻訳者の名前はつけられていなかった。

 この年の夏休み頃から、私は週に2回、家庭教師を引き受けるようになった。仁川中学で同級であった曲田君が、当時東京で、東洋醸造という会社に勤めながら、夜間は中央大学商学部に通っていたが、その曲田君からの依頼であった。荻窪に住んでいた彼の親戚という日本女子大学付属高校2年生のK子さんに、英語を教えることになったのである。K子さんの家は、お父さんが大手建設会社の幹部で裕福であった。お母さんも、大手建設会社支店長の娘であった人だと、曲田君は言っていた。私は毎週2回、夕方の決められた時間に20分ほど自転車に乗ってK子さんの家へ行き、一回2時間で英語を教え始めた。

 この時に使った副読本の一冊がいまも手許に残っている。夏目漱石の『こころ』を英訳したKOKORO (近藤いね子訳、研究社、1953)である。英語を学ぶということは英米文化を学ぶということでもあるが、これは学習者にとって大切なことではあってもそんなに楽ではない。逆に日本文化を背景にした英文であれば、日本文化の理解が英文の理解をも容易にする。そんな気持ちから、高校二年生の彼女にとってはやや難しいこの書を選んで、私はかなり厳しい指導を続けていった。素直で優しいK子さんはよくついてきてくれた。その本の「先生と遺書」の部分を英語で読ませていたとき、彼女は急に声を詰まらせてしまったことがある。十分に意味がわかっていたからであろう。こみ上げてきた感情を抑えきれずに、涙ぐんでいた。

 その年の秋には、英語教職課程の一環として、東京学芸大学付属小金井中学へ出掛けて、2週間ほど教育実習も行なっている。実際に教壇に立って英語の授業を行なうのである。担当の小川芳男先生や、小金井中学の先生が見ていることもあった。高校の英語教師になることが将来の志望であっただけに、これは楽しい毎日であった。私は熱心に新米の教師役を演じ、生徒たちも熱心に私の授業についてきてくれた。

 最後の授業が終わったとき、男子生徒たちが「先生、ちょっと外へ出てください」と言ってきた。「先生」とは私のことである。何のことかと思って外へ出たら、生徒たちがみんな大声で「有難うございました」と叫びながら私を胴上げしてくれた。その時に、生徒たちが寄せてくれた感想文に、「先生の英語を聞いているとうっとりします」というのがあった。教師の卵の私にとっては冥利に尽きることばである。私は、後に教員になってからは、「教育とは感動を与えることである」と思うようになったが、その原点は、このときの教育実習であったかもしれない。

 教育実習が終わって、9月19日の土曜日、私は大学へ出掛けて講義をうけたあと、午後3時に帰宅、その夜の東京駅発10時半の急行で、大阪へ向かった。「八尾のおばさん」が肺炎になったというので見舞いにでかけたのである。八尾のおばさんには、生野中学で飢えに苦しんでいたときに下宿させてもらい、救われた恩義があった。大阪には、午前9時半に着いている。いまから考えると、随分スピードの遅い急行だが、大阪へ行くのであればあまり苦にはならなかった。大阪駅から天王寺駅へ向かう電車の右側の窓からは、森の宮あたりの工場群の戦災のあとがまだ全く野放しの状態で、生々しく残されていた。朝鮮戦争の特需で、日本経済が一部で潤っていたとはいえ、こういう所にも、まだ戦後の貧困は尾を引いていた。

 天王寺駅へ着くと、平木先生の家へは歩いても15分くらいである。私は久しぶりにまた平木先生にお会いし、昼食をご馳走になったあとも長話を続けて、夕方に八尾のおばさんの家に着いた。おばさんの肺炎は軽くて、治りかけていたようである。念のために、翌日の朝、大阪大学付属病院へ出掛けて、診察を受けるのに付き添い、八尾へ引き返したのは夕方に近かった。おばさんと別れて、その夜は、友人の一人と道頓堀などを歩きまわった。杉山寿美子さんとは会わなかった。結婚話が持ち上がっていることを聞いていたので、連絡することがためらわれた。その日は少し遅くなって、天王寺駅前の近畿日本鉄道阿部野橋駅から3つ目の今川駅近くにある加茂君の家に泊めてもらった。加茂君は東京で、慶応大学の近くの下宿にいて留守であったが、彼のご両親からは、私はいつも家族のように扱われていた。

 翌日9月22日は、朝から忙しい一日であった。その日の日記には、加茂君の家から出た後のことを、こう書いている。

 8時7分天王寺駅発奈良行きに乗車。法隆寺見学。バスで筒井へ出て、筒井から八木を経て、近畿日本鉄道で松阪下車、本居宣長の旧居を訪れる。夕方、伊勢神宮外宮から内宮に詣で、二見が浦を一見。急いで取って返し、名古屋行き最終便にやっと間に合う。名古屋で、修学旅行団体列車の東京行き回送列車に乗せてもらう。一車両に数名のみ。ゆっくり横になって帰京。

 その日は、午前4時半に東京駅に着いている。臨時の回送列車であったから、小さな駅には停車せず急行並みのスピードであった。家で一休みしてから、伊勢皇大神宮のお札を近所の何軒かの家々に配ってまわった。この旅行では、まだ交通事情が悪く旅行が楽ではなかったあの頃に、歩いたりバスを乗り継いだりして、一日で大阪から、奈良、松阪、伊勢をまわって名古屋まで、移動している。よくこれだけ動けたものだと思うが、カネはなくとも体力と気力はあったのであろう。私は旅行が好きであった。旅行に出れば、いつも寸暇を惜しんでできるだけ広範囲に見てまわることにしていた。この傾向は、その後の長い生活のなかでも続いていたように思う。

 この年はテレビ元年であったが、もう一つ、大きな出来事があった。電気洗濯機の登場である。8月に三洋電機が角型噴流式第一号電気洗濯機の発売を始めたが、これは大きな話題になった。なにしろ、それまでの洗濯という作業は、洗濯桶に洗濯板を置いてその上でごしごし力をこめてこするというのであったから、それが機械まかせにできるのであれば、家庭の主婦などにとっても家事労働は大幅に楽になる。大学の「教職英語」の授業の時であったか、小川芳男先生が、この洗濯機の発売に触れて、これからの女性は家事労働をしなくなるのではないか。長女が近く結婚するので心配だなどと、冗談交じりで話していたことを覚えている。

 もっとも、テレビと同じで、洗濯機も一般庶民にとっては高嶺の花であった。電気冷蔵庫もまだ普及していなかった。富裕層が氷を使った保冷庫を冷蔵庫と呼んで使っていたくらいである。この電気洗濯機が、白黒テレビや電気冷蔵庫とともに「三種の神器」といわれて爆発的に売れ始めるのは、この数年後に日本が、やっと長いトンネルを抜け出るように高度成長期に入ってからである。しかし、この年にテレビと電気洗濯機が出現したことで、1953年(昭和28年)は日本の「電化元年」として記憶されることになった。

 その年の夏頃から、父は福島県喜多方の昭和電工喜多方工場へ時々出張するようになっていた。喜多方工場では、ボーキサイトから電解作業でアルミニュームを精錬していた。その過程で発生するアルミニューム灰を、どのような経緯であったかは知らないが、父が払い下げを受けるようになったのである。アルミニューム灰は、毎月のように喜多方から貨車で東京の田端の工場へ運ばれるようになった。アルミニューム灰には一定の割合で純度の高いアルミニュームが含まれている。それを機械で餅つきのようにして細かく砕き、電動の篩にかけて残ったアルミニューム粒を炉で溶解してアルミニュームを取り出すという装置を父が開発した。それはかなりの利益を生み出すようになったらしい。しかし、父はそれを置き土産にして、その年の暮れには、田端の工場経営から手を引くことを考え始めていた。父は、いわば、雇われ社長であったから、最初の約束のように、経営が軌道に乗ったところで事業の出資者に工場を返すことになったのである。

 (2014.02.01)




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