太平洋を船で渡ってアメリカへ   (身辺雑記 98)
     = 生かされてきた私のいのち (28)=


 札幌南高校では 2月末ごろから 3月の初めにかけては、北海道全域の中学からの入学志願者への対応のほか、3年生の卒業予定者の大学入学試験などで教員室も慌しい雰囲気になる。大学入試では、当時、北海道大学への合格者が80名前後で北海道内では一番多く、その後に、小樽商科大学、北海道教育大学などの入学者が続いていた。数名の東京大学入学者を含めて、東京の私大に進学する生徒達も少なくはない。そのような生徒達の進学先が教員室の壁に一覧表となって貼りだされていた。

 昭和32年(1957年)の春まで私は2年生の担任であったから、3年生の担任のようにその年の入学試験の結果に一喜一憂することもなかったが、2年生ではあっても担任のクラスの生徒たちの進学先のことでは、よく相談を受けるようになっていた。私のクラスで一番成績のよかった繁田祥子は東京大学志望であったが、母親が心配して、「先生、大丈夫でしょうか」と相談に来た。娘を一人で東京へ出すことも心配だが、浪人だけはさせたくないのだという。私は多分合格は間違いないと思っていても、これだけは断定できるわけではない。もう一つの選択肢として「お茶の水女子大学」の名をあげ、「まだ時間はありますからゆっくり考えていきましょう」などと答えていた。翌年、彼女は、お茶の水女子大学を受験して合格したのだが、私はあの時、「お茶の水女子大学」の名を出したのがよかったのかどうかと、その後も、時折、考えさせられたりした。

 札幌の雪も少しずつ融け始めるようになった頃、学年末を迎えて、私の 2年6組の担任も終わろうとしていた。その頃には、私のアメリカ留学のことは生徒たちにも知れ渡っていたようである。終業式の日には、「2年6組一同」として熊の彫刻を施した木彫りの本立てとオルゴール入りの時計を贈られた。オルゴールの曲はポーランドの作曲家テクラ・バダジェフスカの「乙女の祈り」であった。おそらく女子生徒が選んだものであろう。私はその後、この曲を聴くたびに、きまってあの南高校の2年6組のクラスのことを思い出していた。

 その頃、南高校の私宛にニュージャージー州の聖公会本部から封書が届いた。開いてみると羽田からサンフランシスコまでの航空券が入っていた。パン・アメリカン航空のオープン・チケットで、半年間の有効期限内に予約さえすればいつでも羽田からサンフランシスコへ飛べるようになっている。当時はまだプロペラ機で航続距離も短い。途中アンカレッジで給油してサンフランシスコへ向かうのである。しかし、私はアメリカへは初めから船で行くつもりであったから、ちょっと慌てた。本や身の回り品などの荷物が多くて、飛行機では持っていけない。父の会社の関係する日本通運に頼んで、アメリカ行きの船を探してもらっていたところだったのである。

 私はそのことを苫小牧のハンセンさんにも知らせて、アメリカへ手紙を書き、その航空券を送り返した。聖公会本部からはまた手紙が来て、船便が決まり次第知らせてくれれば船賃を送るといってきた。このようなやり取りで、アメリカへ行くということが、ますます現実味を帯びてきた。私は札幌のアメリカ領事館へ出かけて、その当時はまだ珍しかったビザの申請もすませ、北海道庁で旅券発行の依頼手続きをした。その時に発行された菊の紋章のついた革表紙の旅券はいまも手元に残っている。

 その後、アメリカ行きの船も、7月28日横浜出港予定の飯野海運・隆邦丸に決まった。船賃も留学生だからというので安くしてくれて200ドルであった。隆邦丸は太平洋を2週間航海して8月11日にアメリカのロサンゼルス港に着くという。二、三日、ロサンゼルスに滞在の後、サンフランシスコへ北上して、オレゴン大学での新学期が始まるまでの約6週間、バークレーのカリフォルニア大学で留学生用の英語集中講義に出る予定も決まった。幅約75センチ、奥行きと深さ約45センチのジュラルミン製行李と大型の旅行鞄 2個も買い込んで、少しずつアメリカへ持っていく荷物を整理し始めた。

 札幌南高校での4月からの新学期では、私は 3年7組など主として 3年生の数クラスの英語を担当していた。希望者に対する放課後の補習授業なども引き受けていたので、留学に備えて自分の勉強をする時間はあまり持てなかった。札幌で同居していた針谷君も中学 3年生になっていたが、私がアメリカへ行くというのでちょっと淋しがっていたようである。素直な性格で、私によくなついていた。私も授業の下調べなどの間に、できるだけ英語の勉強をみてやるようにしていた。その針谷君との同居先からも、私は週末ごとに、荷物を少しずつ苫小牧へ運んでいた。

 新学年になってからの3か月ほどの時間は瞬く間に過ぎていった。7月の半ばになって、英語担当の同僚たちが、薄野で三次会まで続く派手な送別会を開いてくれた。南高校での一学期は7月23日の火曜日に終わり、翌日の7月24日が終業式であった。その日は、生徒たちの私に対する送別の日でもあった。体育館に集まった約1,500人の生徒たちを前にして私は別れのことばを述べた。最後に古田教頭の発声で、万歳が三唱された。生徒たちの「武本先生、万歳!」の声が響き渡るなかで、私はあやうく涙を落としそうになった。私は、その日のうちに苫小牧へ帰り、その翌日、7月25日に父と一緒に汽車で東京・荻窪の自宅へ向かった。

 東京で 2日間過ごして、7月28日、出発の日を迎えた。親戚の人が車を 2台用意してくれて、私たち家族とアメリカへ持っていく荷物を乗せて、朝 9時前に家を出た。船の出港は午後 4時半で 3時ごろには到着してほしいと伝えられていたが、私はできるだけ早く着きたかった。その頃の荻窪から横浜までは道路事情もよくなく、今よりははるかに遠い距離のように思われたからである。当時は、東京から横浜へ電話するのにも、電話局へ市外通話を申し込んでから2~3時間も待たされるのが普通であった。それでも何度か、飯野海運に電話して事務所や波止場の位置なども確認していたが、無事に着くまでは不安であった。幸いその日は、予想よりも早く、昼前には横浜につき、私たちは、レストランでゆっくり昼食をとる時間を持つことができた。

 飯野海運の事務所で聞けば、乗船予定の隆邦丸はアメリカへ石油を積みに行くタンカーで、横浜港の沖合に停泊しているという。当時のアメリカは石油輸出国で、輸入の石油を日本に運んでいたのである。私以外に同行の船客は二人の学生であることもわかった。一人はアメリカ国籍をもつ日系二世で、もう一人は、私と同じ留学生のようである。荷物を事務所に預けたあと、私たちは 3時半ごろには見送り人も一緒に波止場からランチ(小型の蒸気船)で隆邦丸まで行って乗り込み、4時には見送り人だけがランチで帰るという手はずになっていることを告げられた。出国手続きなどは出入国審査官が船に乗り込んできて船の中でするらしい。

 予定の 3時半になって、私たちは波止場からランチに乗り込んだ。やがて巨大な隆邦丸の船体が見え始め、15分ほどで着くと、ランチの前に降ろされたタラップを上って船室中央部の広いラウンジへ案内される。ほとんど落ち着く間もなく 4時になって出港前の銅鑼が鳴った。そこでいよいよお別れである。急に身も心も引き締まってくる感じになる。母が少しおろおろした声になって、体を大切にするようにと言った。父は黙って手を差し伸ばして私の手を固く握った。後に母に聞いたところでは、帰りのランチのなかでは、父ははらはらと涙をこぼしていたという。私は平気な顔を装って、タラップを降りていく家族を見送った。その日の日記には、こう私は書いている。

 1957年7月28日、日曜日
 風強く暑い日、とうとうアメリカに向かって出発した。出港午后4時半。4時にドラが鳴り、見送り人、ランチに降りる。父母、耕治、静子、次郎さん達の一行。きまりの悪いような、照れくさいような別離。最后にランチで遠ざかる父母の姿がふと涙で曇る。
 隆邦丸、飯野海運タンカー、1万6千トン強。旅客は僕を入れて3名、アメリカ国籍で日系二世の川口君とシアトル大学へ留学するという山手君が同行。
 一人部屋と二人部屋があり、公平に五日交替で一人部屋に入ることになった。くじを引いて、一番目はぼくがあたる。川口君の言によれば、一人部屋はアメリカ客船の一等中級並み。船賃にすれば、6~7百ドルはとられるような部屋だという。
 食事、かなりのもの。サラダ、スープにビフテキ、終って西瓜。パーサ-、なかなかやさしく話のわかる人。ボーイ長は善良そのもの。船の士官たち(オフィサー)を一人一人われわれに紹介してくれた。われわれも士官待遇。「ミオクリカンシャ。フネユカイ、ゲンキデイツテキマス」。午后7時、荻窪の家へ電報を打った。
 船室で入浴後、私の部屋の控えの間にボーイ長を招きわれわれ 3人の「ファーストナイト・パーティ」。大いにビールを飲んで眠くなり、11時過ぎ就寝。「今アメリカに向いつつあり」、もう一度この事実をかみ締め、改めて留守中の父母の健康を祈る。
 ローリング若干。波のくだける音がわずかに聞えてくるだけで、エンジンの音もこの部屋までは届かず、船内はしんと静まりかえっている・・・・・。

 こうして私は日本を離れた。それから 2週間、来る日も来る日も眼に入るものは周囲に広がる太平洋の大海原だけである。その上を隆邦丸が小さくぽつんと浮かんで、ゆらりゆらり左右に揺れながら前へ進んでいく。地球は丸いから、横浜からロサンゼルスまでの最短距離を線で結ぶと、その線は日本列島の沿岸を北上し、北海道沖を通ってアリューシャン列島の東側をかすめるようにしてカナダのバンクーバー沖に出る。その線はさらに北米大陸への距離を徐々に縮めながらアメリカ太平洋岸の沖合を南下するようにしてロサンゼルスに達することになる。しかし、もちろん、船の左舷からは、はるか遠くにあるはずの島影も陸の稜線も見ることはできない。何日かたってくると、まったく世界からは隔離されて、この船だけがひとつ取り残されてしまっているような奇妙な孤独感に囚われたりもする。

 その前年、札幌市から派遣されてロサンゼルスへ渡った中学英語教師の福島氏からの手紙で、「2週間の船旅は、退屈極まりなかったが忘れがたい」というように書かれていたのを私は思い出していた。私は退屈はしなかったが、「忘れがたい」思い出になる予感はあった。そのうちの一つが、この隆邦丸で受けた至れり尽くせりの食事のサービスである。まず朝7時、ボーイさんが部屋へ入ってきて「お目覚めのコーヒー」を届けてくれる。8時には、朝食。12時に、昼食。午後3時にはケーキと紅茶、果物。そして午後6時には夕食。これらの食事がすべて一流のレストランのように、手の込んだ贅沢なものであった。それが毎日続くのである。日本はまだまだ貧しいはずであったのに、食事に関しては、ここはまったく別世界のようであった。

 船室では、私は毎日、日課をたてて勉強をしていた。勉強に疲れると、広い甲板に出て体操をしたり、走ったり歩いたりした。ラウンジでオフィサーたちと将棋の勝抜き勝負に参加したりもする。この船のキャプテン(船長)はゴルフが好きで、船の後尾甲板に出てよくゴルフの練習をしていた。長い紐をつけたゴルフボールを甲板の上のマットにのせて、豪快に太平洋上に打ち上げるのである。ボールは大きく弧を描いて下に落ちる。それを拾い上げてまた打つのだが、時には紐が外れてゴルフボールが海に沈んでしまうこともある。しかしキャプテンは全く気にしない。また新しいボールを出してきて紐を巻き付け、打ち続ける。私もキャプテンに勧められて、見よう見真似で練習に励むようになった。

 同行の二人ともいろいろと話し合うようになった。特にアメリカで大学を卒業したばかりだという日系2世の川口君は、アメリカで育ってアメリカの生活習慣に詳しかったから、私の知らないこともたくさん教えてくれた。川口君は、「アメリカの学生は親切だから、困ることがあればなんでも助けてくれる」と繰り返し言った。これは全くその通りであることを私も後に知るようになる。彼らは見知らぬ人に対しても、よく、 May I help you? (何かお役にたつことがありますか)などと言って近づいてくる。キリスト教の影響であろうか、困っている人を見たら助けようとする気持ちは確かに強い。私も度々見知らぬ人々の親切に救われた。

 もう一人の山手君は、四日市の大きな石油会社社長の息子である。叔父は時の政府の労働大臣であった。三重大学英文科の出身で、ワシントン州のワシントン大学へ留学するとは聞いたが、どのような形での留学かは知らない。何となく軟弱で頼りない印象があった。恋人の写真を船室の壁に貼ってにやけているような感じもあって、私は少し敬遠していたような気がする。この山手君とは、その 1年 9か月後、私が大学院を終えて帰国する前にシアトルで再会するのだが、その時には、散々苦労したという彼が見違えるように逞しく、そして優しくなっているのを見てひどく驚くことになる。しかし、その時には、そのようなことは想像もできなかった。

 1967年8月10日 土曜日(日記より)
 いよいよアメリカに近づく。そのためか、船の食事も一段と腕を振ったものばかりのような気がする。こんなところに、ぼく達に対するささやか別離の感情が含まれているのかも知れない。
 船は12日の朝 9時、ロスアンゼルス入港の予定で、その入港時間に合わせるために昨日からスピードは、13マイル半から10マイル程度に落された。「一二九ドトオル、キワメテゲンキ、一二ヒアサ九ロスツク、ニホンノ一三ヒ一」、苫小牧に打電。
 昼間は快晴、太陽がさんさんと降りそそいであたたかい。海の深い藍色は見る者の心を吸い込んでしまいそうな魅惑を感じせしめる。『トルストイ日記抄』読了。『アメリカ史』100頁進む。
 夜は又すばらしい月夜。全く圧倒されるような夜の神の演出である。矢のように降りそそぐ満月の冷たい光に、太平洋の波が千々に砕けて、一面に銀のうろこを散りばめたよう。
 「美しいから愛するのではなくて、愛するから美しいのである。」

 このような自宅宛の電報は航海中に何度か送っている。父からも隆邦丸の私宛に、「ツツガナキコウカイヲイノル」、「キノウトマコマイヘキタ、マイニチハマニデテブジヲイノッテイル」などと打電してきていた。上の妹の秋江夫妻が父の会社を手伝うために苫小牧の自宅の離れで暮らしていたが、この航海中に女児が誕生したことも電報のやり取りで知った。電報に関する限り、日本の船は世界中どこにいても、日本の領土の延長のように考えられている。青森―函館間の青函連絡船から電報を打つのと同じで、陸上よりは少し高いが、世界中のどこから打電しても料金は変わらない。後に、私はオレゴンに着いてからも、港のあるポートランドへ出かけたような時、日本船が入港していれば、元気でいることを知らせるために自宅への打電を依頼したりしている。国際電話などは考えられない時代であったから、このような国内並みの料金で打てる電報は、私と日本の家族を結ぶ一つの大切な通信手段であった。

 隆邦丸のブリッジのレーダーには、その翌日の8月11日夜から、アメリカの陸地が映り始めた。午前零時半、またブリッジに上がってみたら、左舷前方に、遠く陸地の灯火がはっきり望見できる。アメリカの灯である。隆邦丸はアメリカへ近づきながら南下を続けて、8月12日午前9時、とうとうロサンゼルスに着いた。船はロサンゼルス港の入り口付近で停泊したが、その時に目に映ったのが水上スキーである。「ああ、アメリカだ」と私は思った。映画でしか見たことのない映像がいま目の前に展開されているのである。やがて入国審査官がボートに乗ってやってきて、私たち 3人は入国手続きをすませた。それからランチに乗せられて、サンペテロ埠頭に荷物と一緒に降ろされた。アメリカの大地を初めて足で踏み締めた瞬間であった。私たちを乗せてきたランチはすぐに引き返した。私たちのまわりには誰もいない。波止場から離れてランチがだんだん隆邦丸の方へ去っていくのを見たとき、私は不意に一瞬、孤島に置き去りにされたような、激しい寂寥感に襲われた。

 私たちはタクシーにみんなの荷物を積み込んで、まずダウンタウンのユニオン・ステーションに向かった。当然のことながら、もう日本語は通用しない。急にすべて英語に切り替えなければならなかった。駅に着いてみると、美しい美術館のような建物である。これが駅か、と思った。日本の鉄道駅などとは違って、雑踏や騒音とは無縁のむしろ静かな落ち着いた雰囲気である。広い構内を人々もゆったりと歩いている。そこで私たちは 3人それぞれの行く先へ荷物を発送して身軽になった。それからバスでハリウッドへ向かう。私はハリウッドで一泊し、翌日は街の周辺を見てまわって夕方には夜行列車でサンフランシスコへ行く予定であった。川口、山手両君も、翌日の夕方まで一緒に行動したいという。私たちはぶらぶらとハリウッドの街を歩きまわった。

 サンペテロ埠頭に降り立って以来、私は強力なカルチャーショックに見舞われていた。人間や言葉が同じでないだけではない。何もかも違うような気がした。特にハリウッドは、全くの別世界である。広い舗装道路には、見たこともない不死鳥のようなテールをした大型車がひっきりなしに行き交っている。日本では、その2年前から、トヨペット・クラウンが発売され、この年、1957年の4月には、初めての「完全国産車」といわれたプリンス・スカイラインが発売されたばかりである。それを新聞の写真で見た記憶はあるが、目の前を洪水のように流れているアメリカの綺麗な大型車の前では、ひどく貧弱で見劣りする。これは後で知ったことだが、その当時のトヨペット・クラウンは、まだアメリカのハイウエイを長距離で走り続ける性能は持っていなかった。

 二世の川口君は、アメリカへ帰ってきて、急に元気になったようであった。歩きまわりながら、私と山手君に、初めてのアメリカの感想はどうか、と何度も聞く。その口調には優越感の響きがあった。山手君は英語にはまだ自信が持てないらしく、川口君に離れられては大変とばかりに追従している。私はだんだん口数が少なくなった。きらびやかな街の豊かさに圧倒されるだけで、川口君に対しても軽口を挟む気持ちの余裕はなかった。棕櫚の並木の茂った歩道の両側には、美しく豪華な建物が軒を連ねている。土産物店に入っても、床には一面にカーペットが敷き詰められ、豊かさの香りが鼻をつく。歩きまわっているうちに緊張と興奮でくたくたに疲れた私は、その夜は川口君たちといっしょに町はずれの小さなホテルで一泊したが、私は気持ちが高ぶって、このアメリカでの最初の夜を、夜明け近くまで、ほとんど一睡もできないで過ごした。
     (文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)

  (2015.02. 01)


          **********





    ロサンゼルスからバークレーへ      (身辺雑記99)
      = 生かされてきた私のいのち (29)=


 1957年8月13日、ハリウッドの小さなホテルで一泊した私たちは、ホテルで朝食をとった後、観光バスの発着所へ向かった。グレイライン・ツアーというのがあって、11時発のハリウッドと周辺の街を見てまわる「5時間コース」というのに乗り込んだ。アジア系の私たち3人を除いては、あとはみな白人である。料金は一人4ドル30セントであった。ハリウッドではまずチャイニーズ・セアターで下車して、あの有名映画俳優たちの手形が刻み込まれてある道路の一角を歩きまわった。それから、高台のスカイラインを通って、郊外の俳優たちが多く住んでいる邸宅街のなかをゆっくりと走り抜けた。

 ドライバーは運転しながらマイクで家々の説明をする。有名俳優たちの名前が出てくると、乗客たちは盛んに歓声を上げた。車内は明るい話声でいつも賑やかであった。アメリカ各地からの「お上りさん」が多かったのかもしれない。中年のドライバーはユーモアたっぷりで、「あそこに赤い屋根の家が見えるでしょう」と乗客に語りかける。乗客は「イエース」と声をそろえて答える。つぎに「二本の煙突が見えるでしょう」と言われて、乗客はまた「イエース」と一斉に間延びして答える。「あの家は・・・・・」とドライバーは言いかけたので、今度はどのように有名な俳優の名前でも出てくるのかと期待していたら、彼はすまして「・・・・・私も知らない」。ここで、みんながどっと笑う。

 この時のドライバーの話で私に強く印象に残ったのは、このような邸宅に雇われているメイドの給料が月に200~300ドルであると聞かされたことである。その当時の日本では、円とドルの為替レートは表向きは1ドル360円であった。その当時の私の札幌南高校での月給はやっと1万円になったばかりであったから、これをドルに換算すると約28ドルである。しかし、民間のドル使用は厳しく制限されていたから、それでドルを買えるわけではない。私用でドルを手に入れようとすれば、一部の商社や海運会社などを通じていわゆる「闇ドル」を買うことはできたが、その場合は、1ドル400円~450円であった。それでは私の月給は23~25ドルにしかならない。アメリカのハウスメイドの月給のほうが、日本の公立高校教員の月給よりも、10倍も高かったのである。

 ツアーのバスは、その後ハリウッドの目抜き通りを左右に眺めながら「リパブリック」という映画会社の広い敷地に入り、そこのレストランで昼食をとった。レストラン内では、西部劇のカウボーイ姿の俳優たちが子供たちにサインを頼まれたりしている。構内のあちらこちらで撮影現場を見てまわった後、バスは世界一の野外音楽堂といわれていたハリウッド・ボールに着く。私は何もかも日本とは段違いの豊かさのなかで、次から次へとカルチャーショックを受け続けていた。時には、日本はついこの間まで、何故こんな国と戦争をしていたのか、と思ったりもした。

 前夜の不眠もあって、私はかなり疲れていた。ツアーが終ってからは、川口君たちとも別れ、ユニオン・ステーションへ戻る。午後6時発のサンフランシスコ行に乗り込んだ。鉄道駅とは思えないほどの静かな雰囲気である。時間になると、けたたましい発車ベルが鳴るわけでもなく、ラウドスピーカーの放送もなく、ことんと小さな震動があって列車は静かに動き出した。車内は広く、ゆったりとしていて乗客もまばらであった。食堂車で1ドル50セントの夕食を済ませて、私は柔らかな座席のクッシュンにぐったりと身を沈めた。

 午後9時ごろになると、車内も消灯になった。寝台車に近い感じになる。車掌さんから50セントで枕を借りて、座席の背もたれもいっぱいに倒して横になった。外はほとんど何も見えない。私は横になったまま、汽車の窓から星の瞬きを見続けていた。疲れているから眠れそうなのになかなか眠れない。「いまアメリカにいる」、「サンフランシスコへ向かっている」と何度も心の中で繰り返しながら、感慨にふけっていた。それでも、やがて、いつのまにか深い眠りに落ち込んでいったようである。

 列車は午前7時前にバークレー駅に着いた。ここは、カリフォルニア大学バークレー校の所在地である。前夜、寝る前に黒人の車掌が検札に来たとき、私のバークレー行の切符は持って行ってしまっていた。途中で返しに来るのかと思ったが来ない。朝になって、別の白人の車掌が来たときに、切符のことを話したら、「心配はいらない」とだけ言う。そう言われても、切符がなければ改札を通れないではないかと訊くと、切符はいらないのだという。どうもよくわからない。そのまま降りてみると、改札のようなものはなかった。人々は、プラットフォームから無人の改札口を通り、そのまま散っていくのである。これもこの鉄道のカリフォルニア流なのであろう。

 朝がまだ早かったせいか、バークレーはうすら寒かった。私は手荷物を持って、ポロシャツ姿のまましばらく駅前に立っていた。周辺にはタクシー乗り場のようなところもない。近くにいた学生風の若者に、カリフォルニア大学のインターナショナル・ハウスへはどのようにして行けばよいかと尋ねると、親切にも自分の車で乗せていってくれた。宿舎のインターナショナル・ハウスは、6階建ての堂々とした建物である。入り口のカウンターで入所手続きをすませて部屋の鍵を受け取ると、中年の職員が私の手荷物を持って部屋まで案内してくれた。割り当てられた5階の512号室に着いてドアをノックすると、ルームメイトの学生が全裸の姿で出てきた。それがUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)から夏季講座に来ていた学部3年生のフランツ・シモンであった。

 フランツはすぐに着替えて授業に出て行った。部屋は8畳くらいの広さの二人用で、中央の窓を挟んでそれぞれに机と椅子、ベッド、安楽椅子、書棚、整理たんすなどが備えつけられている。すべて、日本の大学寄宿舎などでは想像もできないほどの重厚で立派な造りである。私は朝食は抜かして、とりあえず、ベッドにもぐりこんだ。昼近くまで熟睡して、浴室で洋式の風呂に入り、やっと少しくつろいだ気分になって、昼食のために階下のカフェテリアへ向かった。

 カフェテリア方式の食事は、いまなら日本でもレストランのバイキングなどで馴染みだが、その当時は珍しかった。メインディッシュのステーキを牛、豚、チキンなどから一つを選ぶほかは、卵、ソーセージ、野菜とサラダ、マッシュポテト、パンなどが好きなだけいくらでも食べられる。飲み物も、コーヒー、紅茶、牛乳のほか、グレープフルーツ、オレンジ、アップルのジュース類など、飲み放題で、食後のデザートや果物も色とりどりに並べられていた。私にとっては、信じられないほどの豊かさであった。係員から一応の説明は受けていたものの、広々として清潔なカフェテリアのなかで、ちょっと圧倒されて足がすくんだ。

 このカフェテリアで、牛乳の容器からコックをひねって牛乳をグラスに流し込んでいた時、ふと思い出したことがある。敗戦後の大阪府立生野中学の時代、極端な食糧不足で、私も半年の間コメ粒一つにもありつけず、栄養失調で苦しんでいた。そんな折に、クラスの誰かが、アメリカでは水道の蛇口をひねるだけで牛乳がでるそうだ、と言ったのである。私たちはその時、いくらアメリカでもそれはないだろうと、一笑にふしたのだったが、考えてみると、あれはこの牛乳容器のことを言っていたに違いなかった。水道の蛇口ではないが、コックをひねれば牛乳が出てくる。いまは日本でも、グラスを乗せてレバーを押し付けるだけで牛乳やジュースが出てくるが、1950年代の日本では、コック式のものでも、まだそれは夢のような話で想像もつかなかった。

 その翌日から、私は留学生用の後期夏季講座に出席し始めた。15人ほどのスピーチクラスでは、日本から来ている二人の受講生に会った。一人は、東大病院内科の医学博士・池田氏、それに慶応大学出身で横浜の貿易会社社長の跡継ぎ息子だという宗川氏である。彼らはこの夏期講座に前期から出席していたので、日本からの留学生などの情報にも詳しかった。このキャンパス全体で十数名はいるらしい。ほかに東大、日大、建設省などからも学者、研究者たちが来ているという。そういう話を聞きながら、また日本語でおしゃべりすることができて気持ちが和んだ。この宗川氏は、アメリカへ来てすぐに、フォードの57年型新車を買ったのだという。これを2~3年乗り回して、帰国の時に自家用として持って帰れば、購入時の倍以上の高値で日本では売れるのだと言っていた。

 インターナショナル・ハウスでは、同室のフランツとはすぐに親しくなった。彼は猛烈な勉強家であった。がっちりした体格で、旺盛なエネルギーを一心に勉強に注ぎ込み、寸暇を惜しんで教科書に取り組んでいる。授業から帰ってきたら、三十分ほど運動して、それから勉強を始め、夕食後もすぐに机に向かって明け方の二時頃まで頑張っていた。睡眠も五時間くらいしかとっていなかったかもしれない。私はいつも先に寝ていた。彼は私がアメリカ人学生に対して抱いたイメージとは明らかに違っていた。おそらくアメリカ人学生としては数少ない、例外的な勉強家なのだろうと私は思ったりしていた。

  ある日、カフェテリアで夕食の後ちょっと雑談していた時に、フランツは、夏休み前半の一か月半はロサンゼルスで線路工夫のアルバイトをしたが、仕事がきつくて大変だったと言いながら、私に豆だらけの両手を見せてくれたことがある。私が、なぜ線路工夫などをやったのか、と聞くと、彼は当たり前ではないかというような顔をして、短く、"money" と答えた。鉄道の線路工夫というのは、重労働であるだけに賃金がほかのアルバイトより倍も高く、要するにお金がほしかったから線路工夫を選んだというのである。彼は、夏休み後半の一か月半を、私と同じようにバークレ-本校での夏期講座に出ているのだが、その授業料や寄宿費も、そのアルバイトで稼いだお金で払った、と言った。

  当時の日本では、まだアルバイトというのはどこか貧しく、暗い響きがあったから、私はフランツからそれを聞いたとき、自然に彼のことを貧しい苦学生なのだと思いこんだ。親が貧しくて、子供の授業料も払えないのだと勝手に想像してしまったのである。しかし、それはそうではなかったことを後で知ることになる。

 カリフォルニア大学での生活も10日ほどが経って、少しずつアメリカの生活様式に慣れ始めてきたころ、8月24日と25日の土、日を利用して、車でカリフォルニア州の中東部、シェラネバダ山脈に広がるヨセミテ国立公園へ行くことになった。宗川氏に誘われたのである。同行は、スピーチクラスで一緒の池田氏と建設省から派遣されてアメリカの道路建設を研究しているという竹下氏、日大助教授で理化学研究員の矢杉氏、それに私と宗川氏の5人である。私と宗川氏を除いてはみんなそれぞれに博士号をもっていた。車は宗川氏が買ったばかりというフォードの新車である。大型の車のなかは広々としていて、まだ新車特有の匂いが強く残っていた。

 バークレーで果物などを買い込んで午後一時すぎに私たちは出発した。ヨセミテまでは約250キロである。ハイウエイナンバーを辿りながら、宗川氏が時速60マイルくらいで飛ばしていく。ピクニック気分で楽しかった。ハイウエイが実に立派で、道路標識もよく整備されている。建設省の竹下氏がしきりに感心していた。日本にはまだハイウエイと呼べるものはなく、東京周辺でも砂利の上にアスファルトを撒いただけの簡易舗装道路が多かったが、そのような道路はもうアメリカでは見られない。ハイウエイのコンクリートの厚みは40センチもあるのだと竹下氏は話していた。

 途中でレストランに寄って食事をとったりして、ヨセミテに着いた時には少し暗くなりかけていた。この時期のヨセミテは観光客が多く、特に週末はホテルの部屋をとるのが楽ではない。宗川氏は慣れていて、部屋がとれないとわかると、少し車を走らせて、あまり観光客が近づかないような山のほとりのバンガローを見つけて、二つ借りた。料金は二つで13ドルである。二人と三人に分かれて、私たちはその夜を清潔でこじんまりしたそのバンガローで過ごした。

 バンガローのまわりには広い芝生が広がっていて、ドアの前は緩やかな傾斜地になっている。その先に小川が流れていた。空には満天の星がきらめいていた。文字通り、降るような星のひろがりである。カリフォルニアは年間降雨量が400ミリで、東京の四分の一しかない。特に夏は空には雲一つなく、雨はほとんど降らないから空気も乾燥している。周辺に人工的な明かりがなかったことも幸いであったかもしれない。星空もそのために際立って美しく見えるのである。私たちは芝生の上に寝転んで長い間、星空と向き合っていた。目の前に広がるのは圧倒的な大自然の饗宴である。ダイヤモンドを散りばめたような無数の星々が、手を伸ばせばすぐ届くように思われるような近さで、天空いっぱいに輝いていた。私はこれほどの絢爛とした星空をそれまで見たことはなかった。ただただ、ことばを失って感動していた。

 翌日は9時ごろから、広大な公園内を車で走りまわった。まず、何十キロか走って、Wawona Tunnel Tree という高さが世界一というセコイアの巨木を訪れた。この大木の幹の真ん中は、刳り貫かれたトンネルになっている。私たちは宗川氏の大型フォード車に乗ったまま、ゆっくりとこの大木の中心を潜りぬけた。今でもこんなことができるのかどうか知らないが、これは貴重な経験であった。

 このあと、ヨセミテ渓谷へ向かう。車窓のまわりには、2000m、3000m級の山々、1000mの絶壁、巨大な滝、裾野に広がる草原などが、つぎつぎに現れては消えていく。このヨセミテ渓谷からさらに何十キロかを走って、私たちはヨセミテ最高の景勝地といわれるグレーシャーポイントに着いた。この8千フィートの巨大な岩の上からの眺めは圧巻である。ハーフ・ドームを目の前に眺め、ヨセミテ滝、エル・キャピタン、テナヤ渓谷、バーナル滝、ネバダ滝等、多くの観光スポットが一望出来た。

 午後5時半にグレーシャーポイントを出発して私たちは帰路についた。車は時速60マイルから70マイルで快適に走り続ける。キロに直せば、100キロから110キロのスピードで、私は日本ではまだ、そんなスピードで走る車に乗ったことはなかった。車窓から眺めた途中の夕焼けが実に美しかった。遠くになだらかな曲線をみせて果てしなく広がっているような平原のすべてが壮大に燃え上っているように見える。その前夜のまるで魔法のような満天の星といい、この奇跡のような夕焼けといい、このヨセミテへの一泊旅行は、アメリカの大自然の段違いの大きさをつくづく感じさせられた思い出深い旅行になった。

 カリフォルニア大学での夏季講座では、私はスピーチクラスのほか、作文や発音などのクラスに出ていた。各クラスは10名から15名くらいで、フランスやスペイン、南米のペルーなどからの数名のほか、タイ、シンガポール、台湾、韓国などからの留学生が大半を占めていた。私にとっては、初めていろいろな国の文化やものの見方の違いなどにも触れることができて興味深かったが、授業そのものは、秋からの大学院の講義に備えてのオリエンテーションであったから、単位や成績にこだわる必要はない。私は、暇さえあればカリフォルニア大学の広大なキャンパスを歩きまわったり、週末などには、当時はまだ走っていたバークレーからの電車に乗って、オークランド・ベイブリッジの長い鉄橋を渡り、サンフランシスコへ出かけたりしていた。

 8月29日、木曜日、この日は、各国からの留学生40数名が、州都サクラメントで開かれているスティト・フェアー(州博覧会)へ招待された。招待主は、カリフォルニアの石油会社である。朝9時にインターナショナル・ハウス前を大型バスで出発してサクラメントへ向かった。サクラメントはサンフランシスコから北東約85マイルのところにある。私は、バスの一番前の席に座り、車窓からの風景をカメラに収めたりした。途中、カフェテリアに小休止して、コーヒーをのみドーナツを食べる。こういう費用も招待主の負担である。サクラメントでは州議事堂などの前を通って、郊外の広大なスティト・フェアーの会場には12時頃に着いた。ここで一人一人にサック・ランチが渡されて夕方まで自由行動になった。

 サック・ランチというのは、紙袋に入った昼食である。中には、サンドイッチのほか、牛乳、オレンジ・ジュースの小さな紙パック、果物、チョコレートなどが入っている。プラスチックのフォーク、ナイフに紙の皿、紙ナプキンも添えられていた。会場には沢山のレストランもあるが、広い敷地のあちらこちらには、テーブル付のベンチが置かれていて、休憩したりサック・ランチの食事をとったりすることができる。そういうところに座って食べ終われば、ナイフもフォークも、紙の皿や紙ナプキン、袋などもみんな近くの大きなビニール袋の屑かごに捨てればよかった。私はいま思えば浅はかであったが、その時は、なんと便利なことかと感心した。日本では、割り箸を捨てるようなことはあったが、食器や容器をすべてプラスティックや紙にして、食後は捨ててしまうような発想はまだなかった。効率一点張りの、資源を食いものにする使い捨て文化が浸透していなかったのは、当時はまだそれだけ日本の社会が健全であったといえるかもしれない。

 スティト・フェアーの会場には、巨大なジェットコースターや回転木馬やなどのさまざまな乗り物に人々が群がっているほか、ゲーム・センターや綿菓子、飲み物などの売店などが立ち並び、その間を賑やかなカーニバル風の行列が通って行ったりする。何を見ても珍しく、興味深く、楽しかった。一方の広場では、乗馬の競技や、カウボーイが荒く飛び跳ねる馬に乗り続けるというロデオも私は初めて眼にした。

 私たち留学生は、夕方に一度指定されていた場所に集合した。レストランで夕食を取った後は、会場の一部になっている競馬場の観覧席に団体で入場して、午後8時からのナイト・ショウを観覧した。賑やかな軍楽隊の行進に始まり、ダンスと音楽、曲芸、アコーディオン独奏などが続いて、午後10時、壮大な花火大会でその日のスケジュールは終わった。バスでインターナショナル・ハウスに着いたのは夜中の12時過ぎである。

 インターナショナル・ハウスには布施豊という社会学の博士課程の留学生がいた。もう在学が4年になるという布施氏は成績がずば抜けて優秀で、学費・生活費を全額支給されているほか、大学院のクラスでは教授のアシスタントとして学生たちを教えたりして、大学から給与も受けている。留学生仲間では、英語の達人としても知られていた。後に博士号をとって、カナダ大学の教授になった人である。

 その布施氏は、札幌南高校の出身であった。カリフォルニア大学での夏季講習も終わりに近くなってきて、彼は、母校の教員であった私を食事に招待してくれた。彼の車で向かった先は、サンフランシスコのチャイナタウンにある日本レストランのヤマトである。高級レストランで、その当時の私が自費で行けるようなところではなかった。ついこの間まで私が勤めていた札幌南高校の同僚の多くを、彼はまだよく覚えていた。彼の担任であったという数学の鈴木作美さんも、私は親しかった。ヤマトで久しぶりに贅沢な日本料理を堪能したあと、私たちは連名で、サンフランシスコの絵葉書を南高校の鈴木さん宛に送った。

 その翌日、8月31日の土曜日、今度はルーム・メイトのフランツから、彼の家での夕食に招待された。カリフォルニア大学の夏季講座が終れば彼もロサンゼルス分校のほうへ帰ることになる。その前に、サンフランシスコの自宅で夕食を共にしたいというのである。私は、その日の夕方、彼の運転する小さな古ぼけた車に乗って、サンフランシスコへ向かった。彼の父親はオランダ系アメリカ人で、母親はドイツ人だそうである。バークレーで後半の夏季講座へ出席する前には、一か月半、ロサンゼルスで手を豆だらけにして線路工夫のアルバイトをしていたことを聞いて以来、私はずっと、彼は授業料も親から払ってもらえない「貧しい移民の子」というイメージを抱き続けていた。どんな家に住んでいるのだろうという興味もあった。

   一時間近く走って、やがてフランツの家に着いた。場所がどの辺であったかは忘れたが、サン・フランシスコの郊外に小高い丘があって、その麓の一隅に鉄格子の門がある。そこを通り抜けて、アスファルトのアプローチを駆け上り、着いたところが堂々とした邸宅であった。最初は、私はそれがフランツの家であることに気が付かなかった。アメリカでは子供を自立させていくために、決して親に甘えさせない風習があることも私はまだ知らなかった。フランツの家は、その小高い丘全体が邸宅の敷地になっていて、英語でいう「マンション」である。フランツの父親はもともと外科医で、サンフランシスコにある大病院の院長であることも、その時はじめて耳にした。

   (文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)

    (2015.04. 01)





  バークレーからユジーンへ    (身辺雑記 No.100)
   = 生かされてきた私のいのち (30)=


 カリフォルニア大学での夏季講習が終わって、1週間ほど、バークレーやサンフランシスコの街を歩きまわった後、1957年9月8日の日曜日の夕方、インターナショナル・ハウスを出てバークレー駅へ行った。サザン・パシフィック鉄道の夜行列車で北上し、オレゴン州ユジーンへ向かう。バークレーからユジーンまでの距離は約700キロである。翌日の早朝にユジーン駅に着いた。バークレーに居たときに、ユジーンのオレゴン大学へ行ったことがあるという学生から、オレゴン大学は緑が多くてキャンパスが美しいということは聞いたことがあったが、ユジーン駅の周辺も高い街路樹の緑が目立って、乾燥したカリフォルニアの街とはちょっと雰囲気が違う。心が和む気がした。

 駅員に聞いてみると、オレゴン大学のキャンパスまでは、歩いても30分くらいらしい。時間がたっぷりあったので、私は、この初めての街を2時間近く歩きまわった後、オレゴン大学へ向かった。正門を入ると、広大な緑の芝生が道の左右に広がっている。明るい日差しの中で、あちらこちらでスプリンクラーが勢いよく水をまき散らしながら大きな輪を描いて回転している。なおも歩いていくと、やがて大学本部の前に出て、そこで留学生担当の事務局がある建物を教えてもらった。事務局で外国人留学生アドヴァイザーのゲント教授に会い、入寮や履修手続きのことなどをいろいろと教えてもらった。

 カレンダーや履修要項の冊子などをもらったが、オレゴン大学の秋学期は9月下旬から始まって12月下旬までの3か月で終わる。1月から3月末までは、冬学期である。4月からの3か月が春学期で、それが終わると、7月から9月までは3か月の夏休みに入る。しかし、この夏休みの間も、夏学期として一部の授業は行われているから、私がカリフォルニア大学の夏季講習に出たように、休みをとらないで授業に参加することもできる。つまり、12か月を4等分して、3か月の学期が、秋、冬、春、夏と四つあることになる。

 日本の大学では、春に始まった授業は前期と後期に分かれていても、翌年の春の期末試験で終わるのが普通だが、オレゴン大学では、その一年分を3か月に集中して行うような形になる。例えば社会学の授業を取ると、日本では、毎週1回、一年間受講するのだが、オレゴン大学では、毎週4回に集中して、3か月で終わる。だから毎学期履修できるのは、5科目から6科目くらいに限られる。授業が始まって、1か月半後には中間試験があり、3か月後には期末試験があってその学期が終わることになっているから、日本に比べると、かなり忙しい感じになる。

 私はいくつかある男子学生寮のなかで、ガンマ・ホールという上級生用の寮が割り当てられていた。4階建て煉瓦造りの重厚な感じの建物である。しかし、入寮できるのは秋学期が始まる直前の9月22日からだという。それまで2週間、事務局の紹介で、キャンパスからほど近い民間の学生用アパートで過ごすことになった。ヘイゼル・フリーディックソンという寡婦が自分の住家である3階建ての木造住宅の10室ほどを主として留学生に間借りさせているもので、食事は共用の台所で自炊である。ヘイゼルは、建物に隣接した離れに一人で住んでいた。名称だけは、ここもインターナショナル・ハウスといった。

 私はここで、日本にはまだなかったスーパー・マーケットで食料品を買い入れて、見よう見まねの自炊生活を2週間続けた。これはいい勉強になった。そのSafe Wayという名のスーパー・マーケットは歩いても30分くらいのところにあって、そこで売られている食料品や雑貨などを見てまわるのは実に興味深かった。例えば、Grapefruitを発見したのもここである。日本にはまだ「グレープフルーツ」はなく、それがどういうものか知られていなかった。高校の英語の教科書で、grapefruit が出てくると、"grape"からの連想で“ブドウの一種”と説明して済ませていたように思う。そのグレープフルーツも、トマト、リンゴ、オレンジなどとともに、冷たいジュースの紙パックでも売られていたが、これらも日本にはまだなかった。コカコーラやハンバーガーなども、私がアメリカへ来て初めて味わったものである。

 気ままな自炊生活を終えて、学生寮ガンマ・ホール4階の自室に入ったのは、9月22日である。3食の食事は決められた時間に階下のカフェテリアでとることになっている。これはカリフォルニア大学のインターナショナル・ハウスで慣れていたのでまごつくことはなかった。ルームメイトはデイヴィッド・ツネヒロという4年生であった。ハワイ大学から編入学してきた日系3世である。温和な性格で日系ということで親しみが持てたが、日本語はひと言も話せなかった。ハワイ育ちで英語にもハワイ訛りがあるようであった。時折、ハワイからの友人が訪ねてきたような時には、早口のハワイ英語で話し合っていたが、これはほとんど聞き取れない。私はちょっと心配になって、あとでデイヴィッドに、君たちがしゃべっていた英語がよくわからなかったのだが、と言ったら、彼は笑いながら、本土のアメリカ人はみんなそういうから、気にしなくてもよいと、妙な慰めかたをした。

 授業は9月30日の月曜日から始まった。私は大学院教育学コースの科目を二つ取ったほかは、作文、スピーチのクラスを取り、大学院の単位としても流用できるという上級生用の社会学を選んだ。作文とスピーチの2科目は、大学院の単位としては使えないが、英語の勉強のためには有用である。最初の学期だけは、英語に慣れることと授業についていけるようになることだけを優先した。私の留学期間は1年の予定であったから、この時点では、大学院を修了することは全く考えていなかった。「C」2つ以上とらずに、奨学金で勉強を続けることさえできればいいと思っていた。最初の履修5科目も、だからこのように、大学院と学部の科目が半々の、やや変則的なものになったのである。

 大学院の2科目は、担当教授と面談しながら指導を受け、小論文を作成していくような形式であったから、これは何とかやれそうな気がした。作文とスピーチは、カリフォルニア大学で経験済みだから、大体の見当はつく。社会学だけが私にとっては目新しかった。履修者は40名もいたが、担当のジョンソン教授は、最初の時間に、「このなかで『A』を取れる人は何パーセントで、『B』と『C』は何パーセントずつです」と言った。はじめから各評価の対象者の割合が決まっているようなのである。それから教授は、「『D』は15パーセントです」続けて言った。つまり、受講生40名のうちの6名は、単位がもらえないことになる。どんなに勉強しても最下位6名は機械的に排除されてしまうのである。

 これはもちろん、ジョンソン教授の社会学だけではない。どのクラスでも同じである。あとでわかったことだが、このようにして、学期ごとに在学生の数は振り落とされて減っていく。入学生は卒業までに約半数が落とされてしまうのである。あのカリフォルニア大学で、ルームメイトのフランツが猛勉強していたように、このオレゴン大学でも、学生たちはほとんど一人の例外もなく、猛烈に勉強することに私は気づかされていったが、その背景には、入り易くても出ることが難しい、このような大学の制度があった。

 10月8日、火曜日の午後7時半から Student Union(学生会館)講堂で、新しく入学してきた外国人留学生のための歓迎パーティーがあった。大学関係者のほか大勢の市民も出席していた。45か国からの約200名の留学生たちが、壇上に上がり、留学生アドヴァイザーのゲンと教授から一人ひとり紹介される。日本からは、私のほかに東京都立大学講師で体育学専攻の中村氏、音楽部ピアノ科の三村さんの3人が新入学生で、すでに在学している慶応大学出身の黒瀬氏、神戸大学出身の沼田氏、東北大学出身で博士論文執筆中の岡林氏なども出席していた。オレゴン大学では、そのほかに、ガリオア奨学生として数年前から留学中のマックレイン陽子さんもいた。ついでながら、この人は夏目漱石の孫にあたる人で、後年、オレゴン大学教授として日本語や日本文学を教えた。私も後に、文部省在外研究員として家族で渡米し、オレゴン大学客員教授を務めて、陽子さん一家とは家族ぐるみの付き合いをすることになる。

 この留学生歓迎パーティーの席上で気が付いたのだが、新入学留学生には、一人一人に、Friendship Family という名の世話役の家族が割り当てられていた。壇上での紹介が終わって立食パーティーが始まると、やがて私の前に物静かで上品な中年の夫婦がやってきて、「私たちがあなたのFriendship Familyです」と言って自己紹介をした。それがバイアリー夫妻であった。バイアリーさんは内科医で郊外の広い敷地の住宅に3歳のボブと5歳のメアリーのお子さん二人と4人で住んでいた。敷地には小川が流れていて、お子さんのための仔馬も飼っている。自家用のビーチクラフト機も持っていて、一度、オレゴン州の上空を飛びながら、私にも操縦させてくれたことがある。オレゴン大学の上空では、私は左手に操縦かんを右手にカメラをもって機体を傾け旋回しながら美しいキャンパスの風景を何枚も写真に収めた。このバイアリーさんについては、私には忘れがたいこんな思い出もある。

 11月の下旬、感謝祭の休みに、私はバイアリーさんの友人の家での夕食に招待された。私はまずバイアリーさんの家へ行って、そこからバイアリーさん夫妻の車で一緒に出ようとした。三歳のボブは、その時に来てもらっていた女子高校生のベイビー・シッターと留守番である。女子高校生に抱かれて、見送りに玄関先まで出てきた。奥さんがボブの頬にキスをして、車に乗り込もうとすると、まだ幼いボブは心細くなったのであろうか、急に泣き出した。奥さんは一度引き返してボブをなだめたので泣くのを止めたが、母親が離れていこうとするとまた泣き出した。

 その時である。車から降りて、無言のままつかつかとボブに近寄っていったバイアリーさんが、いきなり泣いているボブに激しく平手打ちを食わせたのである。温厚なバイアリーさんにしては信じられないような一瞬の出来事であった。三歳のボブは、「ウッ」と息を詰まらせたまま、泣くのを止めてしまった。アメリカ人の父親のしつけの厳しさをまざまざと見せつけられて、私は深い感銘を受けた。カリフォルニア大学のインターナショナル・ハウスでルームメイトであったフランツの場合もそうであったが、アメリカでは親は子供を甘やかせることはしない。高校を卒業すると、もう親と同居しないのも普通であった。そういう身のまわりの見聞がいくつも重なって、それらが後に、私が比較文化論への傾斜を深めていくきっかけにもなった。

 学生寮ガンマ・ホールの生活にも少しずつ慣れてきたころ、ある日の明け方、寝室のベッドで何かしらなつかしいような物音で目を覚ました。雨の音であった。7月にロサンゼルスに着いて以来、まだ一度も雨には降られていない。アメリカで初めての雨であった。降雨量では、ロサンゼルスが年間350ミリで、バークレーあたりでもせいぜい500ミリである。しかし、北上してオレゴン州に入ると急に降雨量は増えてくる。緑が多いのもそのせいであろう。オレゴン州の西側の太平洋に面した海岸線は580キロもあるが、この海岸線付近では降雨量は5,000ミリにも達する。ユジーンの雨量もそれに近い。東京の降雨量が年間1,500ミリくらいだから3倍以上も多いことになる。しかも、日本とは違って、雨は夏よりも冬に降る。ユジーン付近でも、年間降水量の9割近くが10月~5月に集中するといわれていた。その時のユジーンは雨期を迎えようとしていたのである。

 それからは、毎日教室へ出かけるのにも、図書館へいくのにも、日本から持ってきた折りたたみ傘が手放せなくなった。雨が降り出せば、当たり前だが私は折りたたみ傘をさして歩く。ところが道路へ出て折り畳み傘を広げようとすると、まわりのアメリカ人学生たちはきまって驚いたような顔をするのである。日本でスプリング式の折りたたみ傘が発明されたのは1954年(昭和29年)だそうだが、アメリカにはまだ、折りたたみ傘はなかった。彼らにとっては、傘を折りたたむという発想自体が奇異であったのかもしれない。しかし、それだけではなかった。私もすぐに気が付いたのだが、オレゴンでは、男性は雨が降っても傘をさして歩かないのが普通なのである。女性は傘をさしても、男性は傘を差さない。平気で濡れて歩く。第一、男性用の傘などは、街の商店でも売っていないのである。

 時間が瞬く間に過ぎていって、12月中旬から秋学期の期末間試験を迎えた。アメリカ人学生たちは死に物狂いで勉強する。私がまだ日本にいるとき、映画などで見ていたアメリカ人学生たちのどんちゃん騒ぎは、彼らの週末の姿であった。月曜日から金曜日まで猛烈に勉強するから、金曜日の授業が終わった後は、息抜きに大騒ぎする。息抜きをしなければ頭と体がもたないのである。猛烈に勉強する彼らを相手に、私はさらに徹底した勉強を続けなければならなかった。一日24時間ではどうしても足りない。寝る時間が惜しかったが、これをあまり削ってしまっては体を壊してしまう。せめてあと2,3時間はほしいと何度も思った。

 期末試験は、通常一科目二時間ずつだが、日本の大学でよくみられるようなB4の答案用紙一枚に書くのではない。20ページほどもあるBlue Bookと呼ばれる青表紙のノートブックに答案を書いていくのである。私は、速読が必要な客観テストは苦手であったが、記述式や論文形式の試験は何とかなるとは思っていた。だから試験でBlue Bookに大量の回答文を綴っていくのは面倒であっても、嫌ではなかった。懸念していたのは社会学の試験であった。中間試験は客観式で成績は上位三分の一に食い込めなかった。もし期末試験でも客観テストになれば、私は苦境に立たされるかもしれない。下手をすれば、初めての「C」をとりかねないと思ったりもした。

 たまたま社会学の期末試験は記述式の問題3問で、時間はいくらかけてもよいと言われた。それでも、2時間くらいでほとんどの学生は書き上げて出ていく。ねばっていた学生も一人減り、二人減りして、最後にはとうとう私一人になってしまった。時間は午後5時をまわっていただろうか。その時に教授は、書き上げたら答案を研究室のドアの下の隙間から入れておくようにと言い残して、家へ帰ってしまったのである。これもあとで分かったことだが、オレゴン大学では上級クラスや大学院の試験では、試験監督なしで行われることが少なくないのである。しかし、私はまだ教員と学生とのそのような信頼関係に慣れていなかった。

  広い教室に一人残されて私は考え込んでしまった。中間試験の時の客観式テストの成績がよくなかっただけに、その記述試験では是が非でもいい成績を取らなければならなかった。切羽詰まった気持ちになっていた。幸いに時間だけはたっぷりある。部屋には誰もいないし、教科書やノートは、すぐ手の届くところにあった。私はほとんど呻きながら、生まれて初めて、カンニングの誘惑と闘い続けた。そのまま5分、10分と時間が過ぎていった。やっと気を取り直して、私は静かな心境で答案を書き続けた。3時間くらいで書き上げ、ゆっくりと読み返して、その答案冊子を教授に言われた通り研究室のドアの隙間から差し入れた。

 期末試験が終わって、大学は12月23日から2週間のクリスマス休暇に入った。その日に日本への手紙を送るために大学の郵便局へ行ってみたら、偶然に社会学のジョンソン教授に出会った。教授は私を見て優しい笑顔を浮かべた。そして、この間の期末試験では3問のうち2問で君の答案が一番よくできていたと言って褒めてくれた。私はしみじみとうれしかった。これで救われるかもしれないと思った。これは私にとっては何よりのクリスマス・プレゼントになった。

 後に届けられた成績表では、私の秋学期・期末試験の結果は、5科目のうち、スピーチの「B」を除いては、あとは社会学を含めて全部「A」になっていた。大学では、A=4、B=3、C=2 として、Grade Point Average(成績平均点)を算出する。私の場合は、GPAは3.80 になる。3.75 以上が Honor Student(優等生)で、オレゴン大学ではその氏名が学生部の事務局の掲示板や大学新聞などに公表され、学長から直接、両親へのお祝いの手紙が送られることになっていた。私の名前も掲示板や大学新聞に載った。

 これはかなりあとで知ったが、ウイルソン学長からのお祝いの手紙が、航空便ではるばると日本へ送られ苫小牧の父宛てにも届けられていた。父はその手紙をハンセンさんのところへ持って行って読んでもらったらしい。「オレゴン大学の学長から昌三が優等生になったことを手紙で知らせてきた。こんなに悦ばしいことがあるだろうか。心がうきうきして飛び上がる思いであった」と父は遺された日記にも書いていた。そのウイルソン学長のサインの入った手紙は、いまも手許に残っている。

 その年のクリスマスは、バイアリーさんに招待されて、ご家族といっしょに賑やかに過ごした。年末には、中村、岡林、黒瀬、沼田氏らと車でMt. Hoodへ一泊二日のスキー旅行にでかけた。この山はポートランドの東南東80キロに聳えるオレゴン州の最高峰で3,429メートルの高さである。富士山に似ているので日系人の間では「オレゴン富士」と呼ばれているらしい。帰途にはポートランドへ寄って、日系の食料品店で正月用品を仕入れた。この ”Anzen”という名の店は、ユジーンからは車で3時間ほどの距離だが、米、みそ、醤油、豆腐、梅干し等からうどんやそばに至るまで、日本食品のたいていのものは買うことができた。大晦日の夜は、留学生仲間みんなでユジーン郊外のドライビング・セアターへ出かけて、シアトルの日系2世 Miko Taka主演の"Sayonara"を観た。映画の筋書きよりも、時折スクリーンいっぱいに映し出される美しい日本の風景に涙が出るような思いをする。映画から帰ってからは年長者の中村氏の部屋で、お節料理を囲んで日本酒やビールを飲み、明け方まで賑やかに過ごした。思い出の多い私の1957年は、こうしてアメリカ・オレゴン州のユジーンで過ぎていった。

  *(「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」にこの当時のオレゴン大学の写真が含まれている)
  (文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名)
      (2015.06.01) 





  留学期間延長とニューヨークへの思い (身辺雑記No.101) 
    = 生かされてきた私のいのち (31)=


  1958年(昭和33年)の冬学期は1月7日から始まった。私はガンマホールを出て、大学に近い民間のインターナショナルハウスに住むようになった。大学の学生寮には、通常、大学院生は住まない。最初の学期だけは入れてもらったが、冬学期が始まる前に引っ越したのである。個人が経営する3階建ての学生向けの寮で部屋は質素だが、一人で二階の8畳ほどの部屋を占有できるのが有難かった。一階のリビングルームとキッチン、食堂が共用で、食事も自分で作って食べる。寮の仲間は台湾、フィリピン、パキスタンなどのアジア系学生が多く、アメリカ人とフランス人も一人ずついた。前年にガンマホールへ入る前に、ここで2週間ほど過ごした時からの友人もいたので、まごつくことはなかった。

 1月6日の午前中に「Reading & Conference」「Higher Education Survey」など大学院4科目12単位の履修登録をすませて、午後は隣町Coburgのメソディスト教会へ出かけた。教会婦人部の約35名の前で、2時間ほど「日本の社会と文化」と題してカラースライドを使いながら講演して質疑応答が続いたが、これはみんなに喜ばれたようである。牧師さんから謝礼金10ドルと2キロほどもある巨大な冷凍牛肉の塊をもらって帰った。その後も週末には、いろいろな団体から何度かこのような講演に招かれた。日本に関心があるという家庭から、すき焼きを作って欲しいと頼まれて出かけたこともある。

 当時のWinter Term(冬学期)のカレンダーをみると、1月7日から始まった授業は3月14日に終わり、3月17日(月)~21日(金)が期末試験である。この期末試験の日時、場所などは学期始めに配布される履修要項にすでに記載されていた。授業開始後5週間後に中間試験があり、10週間後にはもう期末試験というスケジュールだから、日本の学年制に比べるとかなり忙しい感じになる。アメリカ人学生が猛烈に勉強することはもう十分にわかっていたから、英語が母国語ではない留学生としては彼ら以上に勉強しなければならない。私は、週末には散歩や運動で気分転換を図っていたが、週日は、食事と睡眠時間を除いては、ほとんど新聞を読んだりテレビを見たりする時間も持てないほど勉強に追われていた。

 2月の半ばを過ぎたある日の夜、部屋で勉強していると留学生では古株の黒田氏がやってきて奨学資金の申請書を置いて行ってくれた。黒田氏は政治学教授の助手としてオレゴン大学から給与をうけながら、大学院博士課程に在学していた。私たち新入りの留学生の世話役でもあった。ニューヨークにあるロックフェラー財団の下部組織にJapan Society(日本協会)というのがあって、ジョンD・ロックフェラー3世が会長を務めている。そのJapan Society が日本からの留学生に奨学資金を出しているというのである。私の奨学金は1年で切れるから、それ以上留学を続けるためには、いずれにしても新しくどこかの奨学金を受けなければならない。私は、そのJapan Societyの奨学生募集に応募することにした。

 大学院の指導教官であるラメル教授のところへそのことで相談に行ったら、教授は目の前で、すぐに立派な推薦状を書いてくれた。教授が推薦状を口述してそれを秘書の女性がタイプする。それに教授がサインして推薦状ができあがるのに10分もかからなかったかもしれない。私はその卓越した事務処理能力に感銘をうけた。出身大学の主任教授であった佐藤勇先生も東京からあたたかい言葉を連ねた推薦状を送ってくださった。それにオレゴン大学の在学証明書や成績証明書などをつけて、3月に入ってまもなく申請書類を提出した。

 冬学期の期末試験が終わった翌週は一週間の春休みである。その間に、オレゴン大学では世界各国からの新学年度留学生のために3月24日から3泊4日のオレゴン州北部の周遊旅行を企画してくれた。参加費は無料で、宿泊は各地の訪問先でホームステイすることになっている。参加者の総数は約45名であった。出身国は、日本、韓国、台湾、シンガポール、フィリピン、ネパール、インド、パキスタンなどアジア系が半分くらいである。残りが、ドイツ、フランス、スペイン、イタリアなどのヨーロッパ系とメキシコ、ホンジュラス、ペルーなどの南米系で、オセアニアのオーストラリア、ニュージーランドからも一人ずつ参加していて、国籍は極めて多彩であった。

 出発の日、朝9時に大学を後にした大型バスは、まずオレゴン州の州都であるセイラム(Salem)に向かって90キロほど走った。セイラムでは州議事堂を見学した後、私たちはホームズ知事を表敬訪問した。ここで留学生は出身国への名誉大使に任命されるという行事があった。私は「オレゴン州から日本へ派遣される名誉大使」の称号の入った任命証書を知事から授けられた。その様子は新聞記者によって写真に撮られ、各国の新聞社へ、私の場合は日本の新聞社へ送られるといわれた。B4版で議事堂を背景にした綺麗な図柄のその大使任命証書は、ホームズ知事との写真といっしょにいまも私の手許にある。

 州議事堂を出た後は、いくつかのグループに分かれて、セイラム付近の教育施設を見学する。私は数名の留学生たちと、3歳くらいから老年までの知恵おくれの人たちのための特殊学校を訪れた。緑に囲まれた広い敷地のなかに建てられた校舎は絵のように美しく、校舎のなかは廊下も教室も食堂なども隅々まで明るく清潔であった。知恵おくれの人びとは、みんな穏やかな顔つきで幸せにみえる。こんなところにもアメリカ社会の豊かさが感じられた。昼食時になって、食堂の片隅で私たちも校長といっしょに食事をとったあと、私たちのバスは知事公舎へ向かった。今度はホームズ知事夫人のお茶の会への招待である。1時間ほど和やかな時間を過ごして、私たちのバス北東50キロのオレゴンシティ(Oregon City)まで走った。

 オレゴンシティは、ウイラメッと川のほとりに開けた小さな林業の町で、当時は人口も8000人足らずであったように思う。ここで製材工場や製紙工場を見学して、夕方近く、私たちはそれぞれに割り当てられた最初のホームステイ先へ向かった。私が車で連れて行かれたのは北欧ノルウエー系のアメリカ人で、オスターグレン家(Ostergren)であった。ご主人は町の葬儀社の社員で、奥さんは病院の看護師として働いている。長女はパトリシアという名前で高校3年生、長男がゲイリーで中学1年生、その下に小学校1年生で6歳の妹リンがいて5人家族であった。私は家族みんなからあたたかく歓迎された。人の縁とは不思議なもので、私はこの時以来、この家族とは数十年の長い間、親しく付き合っていくことになる。

 田舎の小さな町で、外国からの留学生を迎えるというのは珍しいことであったかもしれない。すばらしいご馳走で夕食の歓待をしてくれたあとは、夜8時半ごろから、近所の人びとが集まってきた。中学校の校長、警察署長、小学校の教員、病院の職員などのほか、パトリシアの親友のエリザベスなどを含めて10人ほどに囲まれ、次から次へと日本についての質問を受ける。私が高校の教員をしていたことを知って、高校教員の給料はいくらぐらいかと聞かれた時には、初任給でドルに換算すると25~30ドルと答えるのがちょっと苦しかった。賑やかな歓談は11時すぎまで続いて、その夜私が寝たのは午前1時であった。

 翌朝は7時に起きる。その日の私の午前中の予定は、リンの通う小学校、Gladstone Grammar School への訪問であった。朝食をすませたあと、パトリシアがリンと私を乗せて車で小学校へ送ってくれた。児童総数300人くらいの小さな学校である。児童全員が体育館に集められて、校長のクラウスバーカー先生が子供たちに私を紹介した。授業が始まってからは、校長先生みずから案内してくれて、リンのいる一年生の教室のほか、2年生、3年生のいくつかの授業風景を見てまわった。

 上級生のクラスでは、3クラスくらいの児童たちが大きめの教室に詰め込まれて、私が簡単に日本紹介の話をしたあと、質問に答えるという形で子供たちとの賑やかな対話が続いた。日本の字を書いてみてほしいといわれて黒板に大きく漢字やひらがなを書いた。日本の歌を歌ってみてほしいといった子もいた。私は「ふるさと」を歌った。子供たちは底抜けに明るく、楽しい時間であった。驚いたのは、その授業が終わったあと、子供たちがわっと私のところへ押し寄せてきて、サイン攻めにあったことである。昼食も子供たちといっしょに食堂でとったが、その間も子供たちからサインを頼まれたりした。その後、校長先生の車で送られてバスの発着場へ戻ったが、午後1時半の集合時間に危うく遅れるところであった。

 その日は小雨が降り続いた。オレゴンシティから北上すると、30キロほどで東西に流れるアメリカ第二の大河コロンビア川に突き当たる。この川がオレゴン州とワシントン州との州境である。私たちを乗せたバスは、コロンビア川の南岸を東に向かって進み、巨大なボンネビル・ダムや鮭の孵化場を1時間ほど見学したあと、夕方にはフッドリバーに着いた。この町は、規模としてはオレゴンシティとほぼ同じくらいであったろうか。林業、木材産業のほか、果樹園の経営などが主要産業のようであった。

 この町では、ロータリークラブが主催して、大きなレストランで歓迎の晩さん会を開いてくれた。留学生からのデモンストレイション・プログラムも予め割り当てられていて、ネパール、パキスタン、韓国などの留学生によるお国自慢のスピーチや余興、スライド写真の上映などがあった。終わったのは10時近くで、その夜はかつて製紙工場を経営していたというBowning氏夫妻の大きな家に連れて行かれた。ご夫妻は70代ですでに隠居の身であった。子供は3人いるそうだがみんな成人して家を離れているので広い家ががらんとして寂しく感じられた。私は広い寝室に案内されてキングベッドで眠った。

 翌日はフッドリバーの町周辺を観光して郊外の製材所などを訪れた。その後、広野のなかにぽつんと建っているような真新しい高校を訪問する。Wy East High Schoolといった。 そこで私たちの接待係をしている「ヤスダ」という苗字の日系3世の女生徒に会った。明るい性格の美人で、顔つきは日本人だが日本語はできない。ことばも態度もすっかりアメリカ人である。彼女らに案内されて体育館へ行き、全校生徒の前で私たちが自己紹介をしたあと、その日割り当てられていた留学生数名によるそれぞれの出身国ニュージーランド、シンガポール、台湾、インドなどの紹介プログラムが進んだ。

 その高校の食堂で昼食をとって、つぎに向かったのがダレス(The Dalles)である。フッドリバーからコロンビア川の流れに沿って東約30キロまでの間、立派なハイウエイを走りながら、車窓のまわりに広がる美しい風景に魅せられていた。ダレスでも、高校(Dalles High School)を訪問した。ここでは私も1時間の予定でデモンストレーションをすることになっていた。体育館に集まった全校生徒を前にして、2年前の札幌南高校の修学旅行で撮った京都、奈良、箱根、東京などのカラースライド写真数十枚をスクリーンに映して、日本の紹介をした。日本はまだ貧しかったが、写真の風景は美しかった。生徒達も熱心に見てくれて、活発な質問が続いた。

 その日の夕方迎えられた3日目のホームステイ先は、小学校の女性教員 Mrs Youngの家であった。子供は3人で、中学校2年生の長女Joslyn、小学4年生の長男Bob、小学校1年生の次女Domelaである。それにMrs Youngの70歳代の母親も同居していた。アメリカの平均的な中流家庭といえるかもしれない。 Mrs Youngには夫君はいない。何年か前に離婚したのだという。「離婚した家庭でもどんなに幸せなものか見てもらいたい」と彼女は言った。長女のJoslynも、「私たちはみんな幸せですよ」と相槌をうった。Joslynは社交的で、ちょっとエリザベス・テイラーに似た感じのなかなかの美人であった。学校の成績もいいのだと母親は自慢した。「将来の希望は?」と私が聞いたら、「いい母親になること」と即座に、打てば響くようにJoslynは答えた。

 夕食が終った頃、Joslynのクラスメイトが3人やってきた。リビングルームで歓談しながら、家族や彼らからいろいろと質問を受けた。おばあさんからは、「日本の教員の給料はいくらか」と、また同じことをここでも聞かれた。私の苦手な質問である。目の前のMrs Young の給料に比べたら、私が受けていた公立高校教員の給料は、ドルに換算すれば、その当時でおそらく15分の1くらいにしかならなかったであろう。そういう答え方をするとその時のおばあさんもそうであったが、それを聞いているアメリカ人たちはいつも、いかにも満足したような顔つきになる。いまでは考えられないことだが、アメリカと日本では給料の差は桁違いで貧富の差がひどかった。Joslynのクラスメイトたちからは、「日本にはテレビはあるか」と聞かれた。「洗濯機はあるか」とも聞いた生徒もいた。「女も学校へ行くか」と聞かれた時には、一瞬、その意味を図りかねた。

 その当時のアメリカ人には、このような中学生のみならず、日本のことを後進国で野蛮であると思っていた者も少なくなかった。ひとつは戦時中の反日宣伝の影響もあったであろう。日本では盛んに「鬼畜米英」といっていたように、アメリカでも戦時中は「野蛮な日本人」が喧伝されていた。日本は戦争に負けたあと、一夜にして人々の態度が豹変し、アメリカ人を「民主主義の守り神」であるかのように歓迎したが、戦争に勝ったアメリカでは、その頃もまだ時折、戦時中の「野蛮な日本人」の映像がテレビに流れたりしていた。私は幼稚な彼ら中学生の質問にも和やかに答えながら、ささやかな「国際親善」に尽くした。生徒たちは無邪気で、歓談は楽しく10時すぎまで続いたが、私は少し疲れた。

 翌日は旅行の最終日である。朝起きてみると天気がよかったので、朝食前に30分ほど家のまわりを散歩した。どこの家の敷地にも塀はなく、広々とした前庭があって芝生の緑が美しかった。そして、どこの家にも車庫があった。2台分の車庫も珍しくはない。日本にいる時に、「アメリカでは高校生でも車で通学する」などと聞いて半信半疑であったが、それもあながち誇張ではなかった。当時の日本は高度成長に入る前で、まだ貧しく、一般家庭で自家用車を持つなどということは夢のまた夢であった。前にもちょっと触れたが、自動車の生産でも、完全国産化されたプリンス・スカイラインが発売されたのが1957年4月である。それからまだ1年しか経っていなかった。このような車庫つき住宅そのものが、その時の私には、アメリカの豊かさの象徴のように映っていた。

 その日の朝は、私たちは午前9時にダレス高校前に集合することになっていた。朝食を終えたあと、私はMrs Youngの車で送られて集合場所まで戻った。バスが最初に向かったのはコロンビア川のダレス・ダム(The Dalles Dam)であった。雄大なコロンビア川を挟んで展開する緑豊かな周辺の景色は絵のように美しい。ただそれは、日本のような小さな島国の繊細な優しい美しさではない。スケールの大きな大陸の粗削りな、いわば壮大な美しさで、日本画のフレームでは構図もはみ出てしまうのではないかと思われた。私たちのバスはダムを見下ろす展望台に着いた。コロンビア川を堰き止めて築き上げられた巨大なダムの高さは79メートルにもなる。ダムを渡りワシントン州側の発電所も中に入って見学した。稼働中の22基の巨大な水力タービンには圧倒された。

 その後私たちは、ダムの下から500トンくらいの油送船に乗せられて大きな水路に入り、ダムの上に出る体験をした。船の前後を堰き止めて巨大なプールに浮かんだ状態で水が注入され、船が徐々に上がっていく。ダムの上の水面に達したところで、堰の片方が開いて船は進む。コロンビア川上流の船がダムの上から下へ降りて、下流へ航行する場合にはこの逆になる。こうして船ごと80メートルの水位を上下する情景は壮観であった。フッドリバーへ着く前に見たボンネビル・ダムでもそうであったが、ここでも、鮭の遡上を助けるための階段式の長い水路がダムの端に設けられていて、これも初めて見る私には興味深かった。

 ダムを後にしてからは、ダレスのレストランで、社会奉仕団体キワニス・クラブ主催の歓迎会に臨んだ。昼食をとりながら、ここでもペルー、フランス、ドイツなどの留学生たちによるスピーチや余興があって、オレゴン州北部の周遊旅行の予定はほぼ終わった。私たちは近くのPetroglyph Museum(岩石線画博物館)に20分ほど立ち寄って、コロンビア川対岸の岩石に先史時代に掘られたという蛇、亀、梟、バッファロー、馬に乗った人などの線画を見学した後、帰路についた。280キロほど走って、ユジーンに帰り着いたのは午後8時すぎである。

 4月1日からは春学期が始まった。この学期の授業は6月6日に終わり、6月9日の月曜日からは期末試験である。すでに述べたように、試験の科目別の日時や場所も初めから決まっていた。この試験時間割は、特にSpring Term(春学期)の場合には学生たちにとって重要であった。夏休み中のアルバイトのためである。普通、夏休み3か月の間に、多くの学生は秋学期から次の春学期の終わりまでの9か月の生活費や授業料を稼がなければならない。そのために1日でも1時間でも早く試験が終わるような履修科目の選び方をする。試験が終わったら、すぐに車に飛び乗り北上してオレゴン州北部やワシントン州を目指すか、南下してカリフォルニア州へ向かう。果樹園などのほか、漁港や農場の缶詰工場などの多くが、この時期に合わせて、先着順に季節労働者を受け入れていたからである。

 私は4月の終わりごろまで、まだ春学期終了後の予定がたてられないでいた。奨学資金のためである。奨学資金がもらえなければ、日本に帰る準備をしなければならない。これもすでに触れたが、当時は日本からの私費留学は認められておらず、送金してもらうこともできなかった。もし奨学資金をもらえれば、大学院修了を目指して勉強が続けられるが、その場合には、夏休み中に是非ニューヨークへ行ってみたいと思っていた。大陸を横断する大旅行になるが、しばらくニューヨークに滞在するためにはアルバイトをするつもりであった。その頃は、日本へ帰ってしまえばもう二度とアメリカへ行くような機会はないような気がしていた。アメリカに居る間にニューヨークへ行くというのは私の悲願のようになっていた。

 5月6日、ニューヨークの Japan Societyから、心待ちにしていた奨学金決定の通知が届いた。オレゴン大学の学費免除の奨学金は、成績が悪くならなければ維持されることになっていたから、その額345ドルを差し引いて、Japan Societyからは900ドルもらえることになった。普通、学生たちの生活費は、1学年を夏休み3か月を除いた9か月で計算するが、部屋代、食事代等を含めて700ドルといわれていた。だから授業料は奨学金や親に頼るにしても、生活費の700ドルは夏休み中に自分で稼がなければならない。それに失敗すれば大学へは戻ってこれないのである。カリフォルニア大学バークレー校で一緒だったフランツがそうであったように、親が富裕であっても、大半の大学生は自立して生活費は自分で工面するのが当たり前になっていた。オレゴン大学では勉強も厳しかったが、私は、「甘え」のない、このような学生たちの生活態度からも、多くを学ばされていたように思う。

 私は、留学期間を延長して大学院修了を目指すことになった。6月15日から始まる3か月の夏休みには、念願のニューヨーク行きも決めた。苫小牧のハンセンさんにそのことを知らせたら、2週間ほどで返事がきた。たまたまハンセンさんも、7月初めから8月の半ばまで休暇をとって、ニュージャージーの自宅へ帰るということであった。夏休みにニューヨークでアルバイト先を見つけるのは、多くの周辺の大学生たちも一斉にアルバイト探しをするので決して楽ではないが、一応ニューヨークにいる友人たちにも聞いてみてまた返事をくれるという。ハンセンさんの厚意が有難かった。私はニューヨークでは、自分で極力アルバイト探しをして、それでも働き口が見つけられなければ、そのまま旅行を続けてオレゴンへ帰るつもりでいた。留学期間延長とニューヨーク行きで夢をふくらませながら、私は寸暇を惜しんで残りの春学期の勉強に打ち込んでいた。

  *(文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名にしてあります)
    (2015.08.01)  





  アメリカ大陸を横断してニューヨークへ   (身辺雑記No.102)
    = 生かされてきた私のいのち (32)=


 1958年(昭和33年)6月9日(月)に始まった春学期の期末試験は、私の場合は、6月12日に終わった。「とうとう期末試験が終わった。何か深い悲しみに似たような、静かな、そして虚脱した気持ちである。でも、遂に試験は終わった。いよいよ、これからニューヨークだ。ここで気分転換を図らなければ、精神的にも参ってしまうような気がする・・・・・」と、その日の日記にはある。私はベッドに横になって一休みした後、ダウンタウンへ出かけて散髪をすませ、旅行中に使うカラーフイルムなどを買って帰った。夜は、部屋の片づけをした。スーツケースをひろげて、旅行の支度もした。苫小牧と東京の自宅や札幌の教え子たちへの手紙を何通か書いた後、午前一時過ぎに眠った。

 ニューヨークでのアルバイトについては、苫小牧のハンセンさんが、いろいろと心配してくれていた。コロンビア大学図書館の蔵書整理、ニュージャージーの聖公会本部の事務などが可能性として浮かび上がっては消えていった。私も大学の学生部と相談しながら、個人的にニューヨークのアルバイト先を探してみたが、なかなかうまくいかなかった。結局、ハンセンさんのお世話で最終的に決まったのが、ニュージャージーのホテルのbusboy(食堂テーブル片づけ係)である。ハンセンさん出身のラトガーズ大学の同窓の一人が、ニュージャージーでは一流のバークレイ・カートレット・ホテルの管理職をしていて、その同窓の友人から確約を得たということであった。その手紙が届いたのは、期末試験直前の6月7日である。

 私は、いずれにせよ、ニューヨークへは行くつもりであったから、どのようにして行くかは考えていた。ユジーンからニューヨークまでは、直線距離にしても約4,000キロである。これだけの距離を旅行するには飛行機を利用するのが普通で、航空運賃はその当時は105ドルくらいであった。まだプロペラ機の時代で、途中、給油のためにデンバーやシカゴなどを経由しても、10時間ほどで着く。汽車で行けば、3日ほどで行けるが、汽車賃は約130ドルである。食事代もかかるし、途中で下車して1泊、2泊したりすると、ホテル代も嵩むから、汽車は飛行機よりは高くつく。

 交通手段としてアメリカでもっとも普通に利用されているのが全米を網羅して走っているグレイハウンド・バスであった。運賃も安く、ニューヨークまで乗り継いでいったとしても約60ドルですむ。しかし、バスで大陸を横断するのには一週間くらいもかかるから、途中の食事代や、たまには下車して宿泊したりすることを考えると、これも飛行機代よりははるかに高くつく。やはり一番安く、時間もかからないのが空路であった。しかし、私は飛行機を選ぶつもりはなかった。折角アメリカ大陸を横断するのに、空を飛んでいては、地表の様子を細かく見ていくことができない。

 オレゴン大学の学生たちの中には、アルバイトを含めて何らかの事情でアメリカ東部へ夏休み中に出かける者が少なくはない。自分の車でドライブして行こうとしている者が、ガソリン代を分担してもらう同乗者を募って、大学の学生新聞などによく広告を載せていた。私の居たインターナショナル・ハウスのシンガポール出身のリンさんもその一人であった。私はそのリンさんの車にガソリン代50ドルを分担するということでニューヨークまで同乗させてもらうことにした。私にとっては初対面の、韓国からの留学生キムさんと中国本土からの留学生2人が加わって、6月13日の金曜日、午後2時30分に車はユジーンを出発した。出発が遅い時間になったのは、中国留学生の二人が期末試験をその日の午前中に受けていたからである。

 車は一般道126号線を東へ向かって走り始めた。ポンティアックの中古車だが調子はいいようであった。アメリカの大型車だから5人乗っても窮屈な感じはしない。リンさんが運転して、私はその横に座らせてもらった。数十キロ走ったところで、カスケード山脈にぶつかって山の中を走っているような感じになる。ウィラメッテ森林公園の中を通り抜け、ワシントン山(2,380メートル)の手前で北上して、State Highway(州道)20号に乗った。別名Oregon Central Highway で、オレゴンから東部へ向かう大動脈である。いまでは全米に総延長65,000キロに及ぶ無料の州間高速道路が縦横に張り巡らされ、このあたりにもInter-State Highway 84号などが通っているが、それらが完成したのは、ずっと後の1991年になってからであった。

 ユジーンを出て400キロほど走ったところで、Burns(バーンズ)という小さな町に着いた。カスケード山脈を越えてからは暗くなった周辺にはヘッドライトに照らされた荒れ地が続いているだけであった。すれ違う車もほとんどなく、暗闇の大平原を車一台だけが走っているのはちょっと心細い感じで、前方はるかに街の灯りが見えてくるとほっとする。もう夜の9時半になっていた。道路際のレストランに入って、ここで遅い夕食をとった。同行の中国留学生のテイさんとシューさんは物静かで英語もあまり流暢ではなかった。どういう資格で留学しているのかよくわからなかったが、二人ともニューヨークに親戚がいるのだという。韓国のキムさんは政府から派遣された留学生で、大学院で機械工学を専攻している。5人のなかでは一番の年長の32歳であった。明るい性格でよく冗談を言っては私たちを笑わせた。私たちは、バーンズのレストランには30分ほどいただけで、また東へ向かって走り始めた。徹夜で走り続けて、運転はリンさんとキムさんが数時間ごとに交代した。

 6月14日、State Highway 20号の道路が明るくなってくると、周辺にはアイダホ州の荒れ地が壮大に広がっていた。ロッキー山脈の窪地を縫うようにして通り抜けて、ワイオミング州に入り、出発以来1,300キロほど走ったところで、イエローストーン国立公園まで来た。この広大な公園は、ワイオミング州北西部を中心として8,980平方キロも広がっている。国立公園としては世界最古で、様々な間欠泉や温泉、地熱によるその他の見所が散在している。アメリカの代表的な観光地の一つとして、夏の間は特に、全米各地からの観光客が多い。車で公園内を走っていると、アメリカバイソンや大きな熊がのそりのそりと道路を横切っていたりした。1500もあるという垂れ流しの温泉が道路の左右に頻出して、濃いブルー、空色、黄色、オレンジ色などが混在する多種多彩な温泉や石灰棚の不思議な造形美などに心を奪われる。Old Faithful という名で有名な間欠泉を観たりした後、私たちの車はやっと公園を抜け出し、Cody(コディー)というこれも小さな町のモテルで泊まった。アメリカ西部開拓時代のガンマンとしてBuffalo Bill(バッファロー・ビル)はよく知られているが、この町は彼がその礎を築いたらしい。町の名前は、彼の本名William Cody(ウィリアム・コディー)に因んでつけられたものである。

 翌日、6月15日、近くのレストランで簡単な朝食をすませてコディーを出たのは10時頃であった。ここから東へ100キロほど走ると、広大なBighorn National Forest が前面に立ちはだかる。南に迂回してまた一路東へ向かって走り続けた。どこまで行っても周辺には家もなく、緑の農場らしいものも見当たらず、人工の気配が全く感じられない灰色の荒れ地である。それが延々と続く。私たちは、車のラジオでクラシック音楽を聴きながら、その単調さに耐えていた。平坦な道路は地平線にまで伸びて、すれ違う車もほとんどない。1時間、2時間と走っているうちに、周りに農場の緑がぽつん、ぽつんと現れてくると、やがて前方に小さな町が見えてくる。そこを通り抜けると、また延々と、灰色の荒れ地が続くのであった。それを何度も繰り返して、私たちの車は夕方にはネブラスカ州に入り、午後8時すぎにChadron(シャドロン)の町で夕食をとった。

 シャドロンは、当時は5000人足らずの人口であったが、レンガ造りの2、3階建ての区画があったりして、このあたりではかなり大きな街のようであった。もともと、Cheyenne(シャイアン)やSioux(スー)族のような原住民が住んでいたところで、毛皮や家畜の交易が行なわれている。夕食に入ったレストランには、あまり客はいなかった。農家の若者ふうの3人組と奥の方に老夫婦らしい2人が座っていただけである。私たちが窓際のテーブルについて間もなく、たまたま、急に雷鳴が轟いて雹のようなものが激しく降ってきた。それを見た3人の若者はさっと立ち上がって、外に停めてあったピックアップトラックに飛び乗ると、猛スピードで走りだした。雹は農作物や家畜に被害を及ぼすから、そのためであったろうか。その間髪を入れぬ鮮やかな動きが印象に残った。

 私たちは、レストランには30分ほどいただけで、降り出した雨の中を、また東に向けて走り出した。その日も夜通しのドライブである。シャドロンから300キロほど走って、午前3時、Ainsworth (アインズワース)で軽食をとりながら小休止をした。このあたりが、ユジーンとニューヨーク間の直線距離ほぼ4,000キロの中間地点である。実走距離では出発以来、すでに約2,200キロを走っていた。AinsworthからまたState Highway 20号を東に向かって走り続けた。さらに300キロほど走るとアイオワ州に入り、Sioux City(スーシティ)を通過する。山も湖もない大平原の中を走っている道路だから、このあたりの道路はほとんど真東に何百キロも一直線に伸びている。Early(アーリイ)のあたりで、State Highway 20号から東南に下ってState Highway 30号に入った。このまま進むと、やがてミシガン湖にぶつかってしまうからである。

 荒涼とした自然の大平原が続くだけであった周辺の光景も、この辺りからは、少しずつ農地や樹木の緑が目に入ってくるようになり、人家も現れてくる。よく見ていると、建物も東へ進めば進むほど、レンガ造りが多くなり、街の印象も全体が黒ずんできて、古さを感じさせるようであった。運転はリンさんとキムさんに任せながら、私は車窓からの眺めを時折カメラに収めていた。車はそれまで順調に走り続けたが、昼過ぎに思わぬ車の故障があった。路肩に車を止めて小休止している時に車が油漏れしていることに気がついたのである。次の町まではほど遠い荒れ地の真ん中でちょっと心配したが、ジャッキで車体を持ち上げ、キムさんが一時間ほどで直してくれた。キムさんは車のメカにも精通していて、修理などもお手のもののようであった。オレゴンで、学生たちが大陸を横断したり南北にロサンゼルスやシアトルへの長距離をドライブする場合、ガソリン代を分担して、ホテルにはほとんど泊まらず昼夜走り続けるというのは聞いていたが、同乗者のなかにはキムさんのようにメカに強い人を加えることも、必要なのかもしれない。

 State Highway 30号に入って、Ames(エイムズ)、Colo(コロ)、Marshalltown (マーシャルタウン)、Toledo(トリード)などの町を通過する。このあたりからも30号線はアイオワの大平原のなかを一直線に東に伸びて、やがて Cedar Rapids(シーダーラピッズ)に着いた。久しぶりに見るかなり大きな都会である。広くなった道路の両側には重厚なレンガ造りのビルが建ち並び、車の往来も頻繁である。それまでは殆ど信号もない道をノン・ストップで走ってきたが、ここではスピードも落とさなければならない。見物できそうな場所もいろいろとあるようであったが、私たちは先を急いで、そのまま通り抜けた。ユジーンを出てから、すでに3,000キロを走ってきて、あと1000キロのドライブであった。しばらくはまたイリノイの大平原が続いた。しかし、周辺には徐々に広大な緑の農場や牧場が広がっているのが目立ってくる。その日は、夜の10時すぎまで走り続けて、シカゴの南方40キロのChicago Heights(シカゴハイツ)で泊まった。道路際のモテルの部屋二つを借りて部屋代は22ドル。それを5人で等分に分けて支払った。

 翌日6月17日、私たちは近くのマクドナルドで朝食をとって、Chicago Heights を9時に出た。少し走ったところでイリノイ州はインディアナ州に変わる。200キロほど走って、Kendaville(ケンダビル)を過ぎてからはオハイオ州に入った。ミシガン湖の下を一路東へ進む。Napoleon(ナポーリアン)、Fremont(フリーモント)、Oberlin(オバーリン)などを通り抜けて、オハイオ州最大の商工業都市Cleveland(クリーブランド)に着いた頃には午後7時を過ぎていた。車の往来も多く、広い道路の両側にはネオンサインが溢れていた。ここで夕食をとった後、私たちはさらに車を北東へ走らせる。そのあたりのオハイオ州の東西の幅は400キロほどであるが、私たちはその400キロを横断して次のペンシルベニア州に入り、午後10時過ぎに、Erie(エリー)辿りついたところで、モテルに泊まることにした。その日一日の走行距離は680キロで、それを食事や小休憩の時間を除くと、約12時間で走ったことになる。平均時速にすると、55キロぐらいにしかならないが、その日の道路は、交通量も増えてきて、もう都会の郊外並みであったからかもしれない。

 ここまで来ると、ニューヨークまでは直線距離で550キロである。一日で行ける距離で、すでに3,500キロを走って来た後では、ニューヨークはもう遠い感じではなかった。しかし、翌朝、Erieを出発した私たちは、北東に進路をとってBuffallo(バッファロー)へ向かった。少し寄り道になるが、どうしてもナイアガラの滝を見ておきたかった。リンさんたち4人も同調してくれた。Buffalloの市街地を通ると、道路を挟んで林立している5, 6階のレンガ建ての建物が軒並みに煤がかかったように黒ずんでいて、いかにも古い街という感じがした。ここはもうニューヨーク州で、西海岸の諸都市では見られない古色蒼然とした風景である。ナイアガラの滝は、そこから30キロほどだから、一時間とはかからない。間もなく私たちは、ナイアガラの滝の縁に立った。この滝は、エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にあり、カナダのオンタリオ州とアメリカのニューヨーク州とを分ける国境になっている。カナダ滝 (落差53m、幅670m)とアメリカ滝 (落差32m、幅260m)の二つに分かれていて、あの巨大な水塊が壮大に流れ落ちる風景を飽かずに眺めた。

 2時間近くナイアガラの滝で過ごして、私たちはまたBaffalloへ戻り、そこから、午後2時、いよいよニューヨークへ向けて東南に下りはじめた。一時間ほど走ると、ペンシルバニア州に入った。車窓から沿線の風景には、ワイオミングやネブラスカで見られたような灰色の荒野はもうどこにもない。アイオワ、イリノイあたりからだんだん緑が濃くなってきて、ペンシルバニアまで来ると、もう一面の緑である。高い樹木に囲まれた住宅街もめだってきた。やがて、その緑も夕闇に消えて、Baffalloから500キロ近く走ったところで、ニュージャージー州のElizabeth(エリザベス)に着いた。時間は午後12時になっていた。

 ここが私にとってはこの車での終着点である。ニューヨークのマンハッタンは、ここから20キロしか離れていない。ハンセンさんの自宅のあるCranford(クランフォード)はこの隣町で、私がアルバイトをする予定のAsbury Parkも、電車で一時間の距離にある。私たちはここでモテルに泊まって横断旅行最後の夜を過ごした。モテルに泊まるのは、出発以来、これで4度目である。6月13日の午後3時にユジーンを出てからの5日間と9時間の大陸横断のドライブは、4,400キロほど走って、こうして終わった。

 翌日の朝、私はハンセンさんの自宅へ電話をかけた。苫小牧のハンセンさんからは、ニュージャージーに着いたら、自宅へ電話してくれるようにと手紙をもらっていた。Cranfordには、ハンセンさんのお母さんが一人で住んでいるらしい。お父さんは何年か前に亡くなったと聞いていた。電話をかけると、お母さんらしい人が出てきて、今日はこちらへ来て泊まれという。私は到着だけを知らせて、Asbury Parkへいくつもりであったが、先にCranfordへ行くことにした。10時過ぎ、同行の4人とは、ここで別れた。リンさんは、キムさんと中国人留学生のテイサン、シュウさんを乗せて、ニューヨークへ向かった。私は昼過ぎまでモテルで休んで、午後2時ごろ、タクシーでハンセンさんの家へ行った。

 ハンセンさんのお母さんは、70歳前後と思われたが、小柄で元気な若々しい感じであった。私のことはハンセンさんからよく聞いていたらしく、あたたかい笑顔で私を歓迎してくれた。Asbury Parkでのアルバイト先への紹介状もHarry(ハンセンさん)から送ってきて預かっているという。ハンセンさんの細かい心遣いが有難かった。そのハンセンさんは、不思議なタイミングで、まもなく日本からここへ帰ってくる。7月はじめから6週間ほどの休暇で、3年前に日本で結婚したカナダ人の奥さんFredaも一緒に来るらしい。お母さんは、2人が来るのをとても楽しみにしていると言った。しばらくおしゃべりが弾んだ後、私は、ハンセンさんが使っていた部屋へ案内され、風呂にも入ってゆっくりとくつろいだ。夕食には、私のためを思ってくれたのであろうか、わざわざご飯も炊いてくれて、新鮮なサラダと大きなビフテキをご馳走になった。

 翌日の6月20日は金曜日であった。朝9時過ぎ、私はハンセンさんからの紹介状を持って、カメラバッグ一つだけの身軽さで、バスで一時間ほどのAsbury Parkへ向かった。Asbury Parkは大西洋の海岸に面した保養地でニューヨークでもよく知られているらしい。週末には多くの人々がニューヨークや周辺の町からも訪れて賑やかになるという。きれいな街で多くのホテルが海岸沿いに並んでいるが、私のアルバイト先のホテルBerkeley Cartlet は、そのなかでも一流といわれていることを、ここでも聞いた。海岸は白い砂浜が続く海水浴場になっていて、その道路際には、ボードウオークと呼ばれる木造の幅広い遊歩道が1キロほども続いている。その北端に近い所にホテルはあった。

 私はAsbury Parkに着いてからは、軽率にもホテルの玄関へタクシーで乗り付けたのだが、ドアを開けて丁重に迎えてくれたホテルのベルボーイに私がアルバイトの打ち合わせに来たのだと言うと、ボーイはさっと態度を変えて冷たい目つきになった。その豹変ぶりにちょっと驚いたが、中に入ってもまた驚かされることになる。広いホテルの中を歩いて何とか事務室を探し当て、入り口のところで机に向かっている若い女性事務員に声をかけたのだが、その女性は顔を上げようともせず、返事もしなかった。2度、3度声をかけても全く無視するのである。私は一瞬、血が凍るような思いがした。どうやら人種的偏見のようであったが、私にとってはこれはアメリカに来て以来初めての苦い経験である。やがて、見かねたのか、奥の方から中年の女性が出てきた。私が来意を告げて管理職を務めているはずのハンセンさんの友人の名前を言うと、やっと電話で連絡してくれて、その友人、Mr. Robertsonの部屋へ連れて行ってくれた。

 Mr. Robertsonはにこやかに迎えてくれた。それだけで、その時の私は、ちょっと大袈裟にいえば「地獄で仏」といった心境になっていたかもしれない。ハンセンさんからの紹介状を渡して、しばらく和やかに雑談を交わした後は、就業のための書類を作ってくれて、アルバイトの手続きは終わった。食堂の busboyの仕事は、最盛期に入る7月になってからで、それまではcabanaboy(プールサイドの世話係)として働くことになった。仕事は6月25日の水曜日から始めることも決まった。はからずも、4日間の余裕がもてたのが有難かった。その間に、Asbury Parkでの部屋探しもできるし、念願であったニューヨークへも行くことができる。

 私はその日の午後から、早速、ホテルの近くを散歩しながら、部屋探しを始めた。保養地だから、夏の間だけ部屋を貸しているような家も多く、勤め人のためのアパートもあちらこちらで「貸部屋」の張り紙を出していた。ホテルから歩いて数分のところに、小公園の前のアパートの家具付きの一室を契約して、思ったより簡単に住む場所も確保できた。次の日の朝、Cranfordのハンセンさんの家から、スーツケースを運んで、6月21日(土)からは私もAsbury Parkの住民になった。

 6月23日の月曜日、私は7時半ごろのバスでAsbury Parkを出発してニューヨークへ向かった。ジャージィーシティを通って、ハドソン川のリンカーントンネルに差しかかる前からマンハッタンの摩天楼が見え始めた。私は一心に目を凝らしたが、天気が曇っていたせいか、全体がぼやけていやに薄汚く見える。あこがれていたニューヨークであったのに、これはちょっと意外であった。マンハッタンに入り込むと、まわり一面の高層建築の森の中に迷い込んだような感じである。当時はまだ、日本では耐震構造が確立されておらず、その6年後の1964年になってやっと、東京の千代田区にホテル・ニューオータニ本館が日本一高い建物として、17階、高さ73メートルで建てられたくらいであった。写真ではみていたが、実際に摩天楼が聳え立つマンハッタンの街を歩くのは、ごたごたした深い迷路の底を這っている感じで、やはり異様な体験であったかもしれない。

 マンハッタンの真ん中から6ドル95セント払って6時間半コースの観光バスに乗ってみた。ウォール街、グリニッジビレッジ、中華街、ブルックリンブリッジ、バッテリパークなど、一通り見てまわったが、印象に残ったのは、ボートで自由の女神を見に行って、女神像の王冠部分の展望台まで螺旋階段で登ってみたことと国際連合ビルに入って総会議場や安全保障理事会議場内部の写真を撮ったことぐらいである。タイムズ・スクエァーやブロードウエイで自由行動の時間があったが、種々雑多な人々が早足で忙しくせかせか歩いている姿ばかりが目について、街の雰囲気には親しみがもてなかった。観光コースの中にはエンパイアステートビルの見物は含まれていなかったので、遠くからでもその建物を見ておこうと思った。道端の老人に、エンパイアステートビルどの辺かと尋ねたら、なんでそんなことを訊くのかと怒鳴り返されてしまった。これにもちょっと驚ろかされた。憧れであったニューヨークは、最初の一日だけで、どうも幻滅を感じ始めたような気がする。

 観光バスのツアーが終わって、私は、ロックフェラーセンターへ行った。ここで一番大きいGEビルディングは、高さ259m、70階建てである。ロックフェラーという名前は、私が新たに奨学資金をもらうことになったJapan Societyの会長がJohn D. Rockefeller 3rdで、私にとっては無関係ではない。私はこの奨学金により大学院修了を目指して2年目も勉強を続けられることになった。一年前には、夢にまでみたアメリカ留学が実現することになり、太平洋を渡ってアメリカに来てからは無我夢中で勉強してきて、そして今は、アメリカ大陸の反対側のニューヨークにいる。私は、ロックフェラーセンターの中心にある半地下のプラザの前のベンチに座って、しばらくの間は、やはり何がしかの感慨を覚えざるを得なかった。

 その後、私はプラザの前を離れて、携帯ラジオを買うために近くの電気店に入った。いろいろと並べられているのだが、しかし、どうも手頃の大きさで気にいったものがない。もっと小さくて、いいものはないかと店主に尋ねると、実は輸入品で高性能のものがあるという。奥から出してきたのはソニーのトランジスタラジオであった。店主はそれを、日本製(made in Japan)とは言わずに外国製(foreign made)だと言った。一般のアメリカ人の間では、その当時はまだ、戦争に負けた日本は野蛮国であるというイメージがかなり強く残っていて、日本製というだけで粗悪品と思われていたのである。ソニーのトランジスタラジオも、開発されてからあまり間がなく、日本でもポケットに入るようなものは販売されていなかった。しかし、アメリカ製の携帯ラジオは、まだそれ以前の、小型真空管を使っているものだけであった。私は、逆に、日本から見ると時代遅れのそのようなアメリカ製の真空管式小型ラジオを、当時の記念品にするつもりで購入し、Asbury Parkへ持って帰った。

  *(「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」にこの旅行の写真が含まれている)
  (文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名)
     (2015.10.01)





    ニューヨークを去るまでの日々 (身辺雑記No.103)
    = 生かされてきた私のいのち (33)=


 1958年(昭和33年)6月25日から、私はアズベリパークのバークレイ・カートレットホテルで働き始めた。はじめの5日間は、キャバナボーイ(cabana boy)でプールサイドの客の世話をする仕事であった。プールサイドを掃除し、デッキチェアーをきちんと並べたり、水着でチェアーにくつろいでいる宿泊客の世話をして、タオルを持って行ったり、飲み物を運んだりもする。収入の大半は、客からのチップであった。ところがその年の夏の前半は異常な冷夏で、プールサイドへやってくる客が極端に少なかった。一緒に働いていたダニィ―は、その前年も夏休みにここで働いていたが、彼の話では、チップだけでも一日で20ドルほどになったという。しかし、その年は、5ドルにもならない日が続いた。

 ダニィ―はテキサス大学の学生であった。彼はG.I.(アメリカ陸軍兵士)として日本にもいたことがあるという。G.I.は任期を終えて帰国すれば、国費で大学進学の機会が与えられる。彼は、その制度を利用してテキサス大学の学生になったのである。彼は私とほぼ同年であったが、戦後の日本での何年かの生活は楽しかったらしい。日本人の目からみれば、当時のアメリカ軍の兵士たちはみんな大変な高給取りであった。下士官でも既婚者であれば家族を呼び寄せ、日本人のハウスメイドを雇って大きい家に住んでいるというような話がよく聞かれたが、彼らの給与も、同年代の日本人公務員などに比べれば、おそらく十数倍は高かったであろう。

 たまたまwar bride(戦争花嫁、G.I.と結婚した日本人女性をそう呼んでいた)として渡米してきた一人とプールサイドで逢ったことがある。懐かしそうに寄ってきた彼女と私は、束の間の日本語の会話を楽しんだ。彼女はニューヨークの銀行では1ドルを400円以上で交換してくれると言っていた。これは前年のハリウッド観光のところでも触れたが、私が日本でもらっていた月給は、この換算では25ドル以下ということになる。ダニーが前年にここで稼いでいた賃金の1日分にしかならなかった。だから逆に、ドルを使って日本で住むというのは、格段に楽であったはずである。ダニ―もまだ独身であったが、できればまた日本へ行ってみたいと日本を懐かしんでいた。日本に良い印象をもっていたせいか、彼は私に対しても優しかった。仕事が終わってからも、彼の立派なテキサス・ナンバーの新車で、街のあちらこちらを案内してくれたりした。

 6月30日から、私はバスボーイ(bus boy)の仕事に移った。ホテルには、大、中、小のレストランとコーヒーショップがあり、バーがあって、それぞれにバスボーイが配置されている。私の仕事場はコーヒーショップであった。コーヒー、コーラ、ジュースなどの飲み物のほか、サンドウイッチ、ハンバーガー、スパゲッティ等の軽食も客に提供する。コーヒーショップには40席くらいのテーブルが並べられていて、バスボーイ4名とウェイトレス4名が、それぞれに割り当てられたテーブルの客の世話をする。注文を聞いて飲み物や食事を運ぶまではウェイトレスの役目である。バスボーイは、食事の後片付けとテーブルの周辺や床の清潔を心がける。客のいない時を見計らって、入り口のドア―や窓ガラスを磨くこともする。主任のトムは神経質な男で、「Keep state!」(威儀を正せ)と私たちに向かってよく繰り返した。私たちがちょっと気を抜いておしゃべりをすると、がみがみと叱りつけたりもした。私にはそれがこたえた。

 バスボーイ4名のうち、ボスのように振る舞っていた年長のRedを除いては、私を含めてみんな学生アルバイトであった。ビル(Bill)がコドウェル大学で、アルバート(Albert)がジョージアン・コート大学に通っていた。いずれも地元の大学である。ウェイトレス4名のうちジーン(Jean)とリンダ(Linda)は二卵性双生児で、セント・エリザベス女子大学の学生である。スー(Sue)もブルームフィールド大学の学生で、これらの大学もニュージャージー州にあった。メアリー(Mary)だけがホテルの社員で、高校卒業後ここに勤めて3年になるといっていた。彼女はなかなかの美人で、私と親しくなった温厚な人柄のビルが、何時の間にか彼女に好意を寄せるようになった。ビルは私に、彼女はユダヤ人だと洩らしたことがある。彼は熱心なクリスチャンであったが、彼女のユダヤ教との折り合いを気にしているようであった。

 私たちバスボーイは、それぞれウェイトレスとペアーを組んで、忙しく働いた。勤務開始時間は朝7時からであったり、8時からであったりする。9時10時から、あるいは午後から働き始めて夕食をはさみ夜勤をすることもある。8時間、時には10時間の勤務で、週一回交代で休みを取ることになっていた。主任のトムが勤務スケジュールを組んでいた。私のアルバイト仲間たちは、毎年夏休みには働いていて、このような仕事にも慣れているようであった。時々トムに叱られることがあっても馬耳東風で気にすることはなく、彼らはみんな陽気さを失わなかった。しかし私は、バスボーイの仕事にはなかなか徹しきれなかった。時々腕時計を見ては休憩時間になるのが待ち遠しかった。怠けてはいなくても、心をこめて働くということまでは出来ていなかったかもしれない。そんな私に、主任のトムは余計に、何かにつけて口うるさく小言を言い続けた。アメリカで生きていくには、特に賃金を得るためにアメリカ人と張り合って働く時には、ちょっと叱られたぐらいで委縮してしまうようなか細い神経ではもたない。針金のような強靭な神経が必要である。しかし、私はまだ、そんなことがわかっていなかった。日本的な甘えから抜け切れないでいたかもしれない。

 私はトムに小言を言われながら働くのが、だんだん耐えられなくなってきた。我慢して働いていると、それだけでもひどく疲れる。「エリート留学生」のはずの私が、こんな仕事で小言をいわれながら働いていることを親が知ったら何と言うだろう、と思ったりもした。オレゴンでは、夏休みに高校の校長が生徒と一緒に製材工場でアルバイトをしていたという話を聞いたことがあった。このホテルでも、名門ラトガーズ大学の哲学の助教授がレストランで、私と同じバスボーイのアルバイトをしていた。アメリカでは珍しいことではないが、私はまだそういう風潮にはなじめなかった。私は三週間ばかりで、とうとうその仕事を途中で投げ出してオレゴンに帰り、夏休み後半の夏期講義に出ることを考え始めた。

 そう決心して、明日はトムにそのことを告げようと考えていた日の夕方、たまたま、別のところでアルバイトをしていたエール大学大学院の韓国人留学生パクさんに会った。品のよい物静かな彼の人柄に惹かれながら、私はつい、彼の前でも、仕事の話をして弱音を吐いてしまった。トムのような男にぐずぐず言われながら働くのは嫌だと打ち明けた。パクさんは、アメリカ生活も3年目で夏休みのアルバイトにも慣れていた。その彼は私の悩みには同情しなかった。黙って私の話を聞き終わったあと、ひとこと静かに、「でも、あなたは殺されるわけではないのでしょう?」と言った。私はそのひとことにはっとして、一瞬、全身に電流が流れたような衝撃を受けた。

 その当時のアメリカ留学というのは、勉強も生活も背水の陣の厳しさで、ちょっと大げさに言えば、間違いなく命がけであった。しかし、殺されるわけではない。私のアルバイトにしても、考えてみれば日本のアルバイトより時給でおそらく十数倍は高く、しかもホテルの従業員として出される無料の食事も、ミルク、ジュース、卵、パンなどから、鶏、豚、牛の肉類に至るまでほとんど飲み放題食べ放題である。当時の貧しかった日本では想像もできないほどの豊かさであった。仕事も朝、昼、夕の食事時間前後などは確かに忙しいが、それでも疲労困憊して倒れてしまうようなものでは決してない。考え直してみれば、結構楽なのである。

 私は、決心を翻して、アルバイトを最後まで続けることにした。仕事の合間の小休憩の時間も惜しみ、コーヒーショップの隅々まで、テーブルの位置を整え、床を拭いたり窓ガラスもピカピカに磨いたりして、くるくると独楽ネズミのように動き続けた。何時の間にか仕事は嫌ではなくなっていた。不思議なことに、ほとんど疲れも感じなかった。一生懸命に働いて、終わったらシャワーを浴びて海岸に出る。大西洋の風が実に爽やかであった。

 鬼のように思っていたトムは、急に小言を言わなくなった。私は週一回の休みの日には、ニューヨークへ出て、当時世界一の高さ(373メートル)のエンパイアスティトビルの頂上102階まで上がったり、セントラルパークや近代美術館を覘いたりした。日本から一時帰国してきたハンセンさんにも会って、いっしょにアズベリパークの遊歩道ボードウォークを歩いた。その後の休日には、ニューヨークへも一緒に行って、国連の内部を歩きまわって写真を撮ったり、ハンセンさんが学んだコロンビア大学を訪れたりした。私はオレゴン大学の大学院修士課程を翌年の春までに終了する予定をたてていることを伝えた。ハンセンさんとは、半年後にまた苫小牧で逢いましょう、といって別れた。

 バークレイ・カートレットホテルのアルバイトは、8月27日まで元気に続けた。その翌日の午後、私は雨の中を背広姿でお別れの挨拶に行った。事務所へ行って、ハンセンさんの友人のロバートスンさんにお礼を述べたあと、コーヒーショップへ行った。2か月の間いっしょに働いたコーヒーショップの仲間たちと別れるのはやはり名残惜しかった。キッチンでよく私にハンバーガーなどをくれた料理人のフェリックスに彼の好物の煙草を1カートン贈り、別れの握手をした時には危うく涙を落としそうになった。主任のトムも和やかに私を迎えてくれた。給料の小切手を私に手渡しながら、「ショーゾー、君はよくやった」と、笑顔を見せながら初めて私をほめた。

 ホテルからアパートへ帰って、私は郵便局へでかけた。「ニューヨーク・タイムズ」の日曜版がおびただしい広告で三百数十ページに膨らんでいたのを、そのまま一部荷造りして苫小牧の自宅へ送った。日本の新聞では考えられないボリュームで、私の帰国後は、アメリカの消費文化の教材として使うつもりであった。絵葉書や手紙の何通かも日本へ送って、帰ろうとしていると、中年のアメリカ人紳士が珍しく日本語で話しかけてきた。穏やかな物腰で、何年か東京に住んでいたが、2か月前に帰国したばかりだという。奥さんは日本人であるらしい。

 しばらく立ち話をしているうちに、彼は自分の家はここから近いからちょっと寄ってくれないかと言い出した。一緒に行ってみるとかなり大きく立派な家であった。広い前庭があって、2台分の車庫もついていた。その紳士は、東京ではアメリカン・スクールの教師であったと自己紹介した。奥さんはしとやかな感じで、「アメリカ生活にはまだ慣れていません」と言って微笑んだ。久しぶりに日本語の会話が弾んで、奥さんもうれしかったようである。話はつきず、私もつい3時間ほども長居してしまった。日本食の夕食までご馳走になって、アパートへ帰ったのは夜の8時である。オレゴンへ帰るための旅の支度などを点検して、10時半にベッドにもぐりこんだ。アズベリパークでの最後の夜はこのようにして更けていった。

 アズベリパークからオレゴン州ユジーンまでの帰路は、グレイハウンドバスを利用することにしていた。アズベリパークからは先ずニューヨークへ行って、そこからワシントンD.C、アトランタ、ニューオリーンズ、セントルイス、デンバー、ソールトレイク・シティー、リノを経てユジーンという経路である。直線距離の合計は6,000キロを超える。はじめは、ニューオリーンズからテキサスを通るルートを考えたのだが、テキサス大学学生のダニィーが、「テキサスは広いばかりで何もない」と言うので、ニューオリーンズからは北上することにした。この経路を繫ぎ合わせた切符をあらかじめ買っておいたのだが、その長さは60センチになった。切符代は108ドル13セントであった。

 8月29日朝、ダニィーが私のアパートへやってきて、彼の車に私の荷物を積み込み、アズベリパークのバスターミナルへ送ってくれた。大きな荷物2個をユジーンまで直送する手続きをすませて、私は小さなリュックサックとカメラバッグだけの身軽さで午前9時発のニューヨーク行きに乗り込んだ。バスが動き出し、私に向かって手を振っているダニィーの姿が小さく霞んでいく。ホテルのプールサイドの仕事で一緒になって以来、孤独になりがちな私に最後まで寄り添い、あたたかく接してくれたダニィーの親切が思い出されて、しみじみと有難かった。

 ニューヨークの街はもう何度も歩きまわって少しは慣れていた。雑踏のなかを足早に通り過ぎていく種々雑多な人々の顔つきや薄汚れたような街のたたずまいも、私は幾らか距離をおいて冷静に見ることができるようになっていた。二か月前、初めてニューヨークの街を歩いた時、道端の老人に道を聞いて怒鳴られ、嫌な思いをしたことがあったが、そのことを春休みのオレゴン旅行で世話になったオレゴンシティーのオスターグレン家への手紙に書いたら、長女のパトリシアから、彼らもみんな親切なのだが忙しすぎて親切を示す余裕がないのだろう、という文面の返事が届いた。私は高校生の彼女から教えられたような気がした。なるほど、そう言われればそうかもしれなかった。ハーレムやサウスブロンクスのスラム街に住んでいる黒人たちにしても、まわりから差別され虐げられることがなければ、犯罪に走るようなこともなく、もっと人々に親切を示す余裕が出てくるはずであった。当時のアメリカは、日本からみれば桁違いに豊かな国であったが、その豊かさを象徴するように林立するニューヨークの摩天楼の姿とは裏腹に、生活に追われて困窮し、荒んでいく人々の姿がどこにも見られたのである。

 少し脇道に逸れるが、この高層ビルが建ち並ぶマンハッタン島には、もともとインディアンしか住んでいなかった。この島は、この地に植民してきたオランダ人が、1621年にインディアンから60ギルダーで買い取ったものである。オランダでは、当時、道路舗装用の小さな四角の石ひとつの値段が1ギルダーであったから、その敷石60個分の値段である。アメリカ史上最大の掘出しものといわれたりするが、土地を私有するという考え方がなかったインディアンからいわば搾取したようなもので、罪深い話である。その「搾取」は、1620年のメイフラワー号によるピルグリムファザーズの移民の頃から、アメリカ東部の広範囲な地域で大っぴらに始まるようになった。原住民のインディアンたちは、全米各地でだんだんと僻地に追いやられ、遂には、インディアン居住区という「檻」の中に押し込められようになっていく。

 19世紀後半になると、イギリス、アイルランド、ドイツなどの北・西ヨーロッパからの大量の移民が大西洋を渡ってこの地に続々と流入してきた。1840年代から80年代までの時期の移民の総数はおよそ3300万人に上ったといわれる。中でも多かったのがアイルランド人である。アイルランド島のじゃがいもの大凶作で生きていけなくなったアイルランド人が、このマンハッタン島へやって来て都市の最下層の住民になった。その彼らは、今度は同じ最下層の黒人を目の敵にして、血なまぐさいテロを加え続けた。やがてアイルランド人の多くは警察官になった。いまでもニューヨーク市警には多くのアイルランド系の警官がいる。その後、大統領になったジョン・F・ケネディやロナルド・レーガンは、アイルランド系には珍しい、例外的な出世頭である。

 アジア系移民では、中国人やインド人が、その当時、すでに比較的生活が安定した社会層にいたが、彼らもやはり、アメリカでは最下層から出発したのである。中国人の場合は、アメリカへの移民が1840年代から始まっているが、これはアメリカでの黒人奴隷制廃止にともない、アメリカ政府がそれに代わる安価な労働力として受け入れたからであった。1860代に入ると、中国人移民は急増したが、彼らはアメリカの大陸横断鉄道建設のための労働力として、奴隷並みの最低賃金で酷使されていた。そのような過酷な歴史を背景にして、サンフランシスコのチャイナタウンがそうであったように、このニューヨークのチャイナタウンの繁栄も築き上げられてきたのである。

 日本人の場合は、19世紀末から20世紀前半にかけて大量にアメリカへ移住していたが、1920年代にはアメリカ政府が日本人移民の受け入れを制限したので流入が大きく減った。その後、第二次世界大戦が始まると、アメリカ政府の日系人強制収容政策により、ロサンゼルスやサンフランシスコなど、アメリカ各地の日本人町はほぼ消滅状態に陥った。戦後、排日移民法の事実上の撤廃となる修正移民法が可決され、日本生まれの一世に初めてアメリカ国籍取得の道が開かれるようになったが1952年である。私がニューヨークにいた時には、それからまだ 6年しか経っていなかった。その前年、アメリカに着いたばかりでバークレーに居た時に、サンフランシスコの旧日本人街の前を車で通ったことがあったが、人影もなく寂れていて、ゴーストタウンのような印象を受けた記憶がある。ニューヨークでも、日本人がまとまり始めて日本人クラブを結成し、全日制日本人学校の開設に向けて動き始めたのが、それから十数年も経った1973年になってからである。その年1958年の夏、私は、日系人に対する差別と偏見がまだ根強く残っているなかで、ニュージャージーで働き、ニューヨークを歩きまわったことになるが、その頃の私が知る限りでは、太平洋岸のロサンゼルスやサンフランシスコでも、このニューヨークでも、日系人はまだ肩身を狭くしてアメリカ社会に生きていたように思われる。

 ニューヨークには、また、ユダヤ人が多かった。大量のイタリア人、ポーランド人などの移民と共に、東欧におけるユダヤ人迫害の風潮が高まった1880年代からユダヤ人の移民は急激に増え始め、19世紀後半からだけでも、その数は200万人を超えたといわれる。その多くがニューヨーク周辺に住むようになり、その当時でもニューヨークのユダヤ人人口はおそらく百数十万人になっていた。高学歴の人たちが多く、全米のドクターの70パーセントがユダヤ人といわれたりするが、ニューヨークの医者もユダヤ系が多い。ニューヨークの有名レストランのオーナーの多くはイタリア系で、有名ホテルのオーナーは大抵ユダヤ系だとも聞いていた。私が働いていたバークレイ・カートレットホテルも、おそらくオーナーはユダヤ人である。そして、最初にホテルへ行った日、事務室で偏見の塊のようになって私を無視し口を開こうともしなかった女子事務員を含めて、事務系の人びとは大半がユダヤ人であった。アメリカは人種の坩堝とよくいわれていたが、そのような人種の多様性も、人種間の確執も、私はニューヨークへ来て自分の目で確かめることができた。そして、その時の私は、2か月間の、いくばくかの人間と社会に関する体験と見聞を加えて、そのニューヨークから去ろうとしていた。

 ニューヨークのバスターミナルに着いてからは、特に歩きまわるほどのこともないと思い、ハイドパークとウェストポイントをめぐる観光バスに乗り替えた。ハイドパークは、ハドソン川東岸で、ニューヨークの北約 120kmのところにある。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの生地で,また彼ら夫妻の葬られた土地でもある。大統領夫人のエレノア・ルーズベルトは1962年に78歳で亡くなったのだが、当時はまだ生存中であった。私はその年、1958年の春、オレゴン大学へ来た彼女の講演を聞いている。ルーズベルト大統領は太平洋戦争中、日本の敵の首領であった男であったから、当時まだ子供であった私たちの頭にも、その名前は強く畳み込まれていた。彼の邸宅は一般に公開されていて、私はすみずみまで興味深く見てまわった。広壮な邸宅は小高い丘の上に建っていて、邸内からも眼下にはハドソン川が雄大に流れているのが見えた。

 次の訪問地ウェストポイント は、ニューヨーク州オレンジ郡にある小さな町である。この町の一角、ハドソン川に突き出て隔離されたような場所にアメリカ合衆国陸軍士官学校があり、West Pointというのは士官学校の通称になっている。アメリカでは、この学校は憧れのエリート校であった。おそらく今もそうであろう。卒業後、戦場へ赴くリスクがあっても、アメリカ人の親は優秀な息子がいればウェストポイントへ行かせたがる。ウェストポイントには、ハーバード、エール、プリンストンなどの名門大学と同じように、あるいはそれ以上の社会的ステータスがあるといえるかもしれない。授業料がいらず給与ももらえて、しかも卒業後は、陸軍士官の栄光の道が約束されているからであるが、おそらく、そればかりではないであろう。

 アメリカの大学は勉強が厳しいが、なかには名門大学へ入っても、開放感に浮かれ、生活が乱れて親に心配をかける学生たちがいないわけではない。しかし、ウェストポイントならその心配はなかった。遊興にふける余裕は全くなく、心身ともに徹底的に鍛えられて、質実剛健な人格を身につけていくからである。そういう話をガイドを兼ねているドライバーから聞きながら、私たちはウェストポイントで一時間近くを過ごした。ゴシック様式の重厚な石造りの校舎の内部に入ることは出来なかったが、構内は隅々まで清潔で、張り詰めたような雰囲気が感じられた。手渡されたパンフレットの集合写真などを見ても、ウェストポイントの学生たちの顔つきはきりっと引き締まっていて、どこか違う。校舎の外回りを一巡して広いグラウンドに出ると、真っ白い体操服に身を固めた学生たちが、フットボールの練習で激しくぶつかり合っていた。こういう練習風景は、観光客の若い女性には見学が許されなかったが、これも、学生たちが気を逸らさず、質実剛健に徹していくための配慮の一環であったのかもしれない。

 ハイドパークとウェストポイントを観てニューヨークのバスターミナルに帰ってきたのは正午過ぎである。私はブロードウェイのカフェテリアで昼食をとって、少し周辺を散歩した後、ワシントンD.C行きのグレイハウンドバスに乗り込んだ。バスの中は座席もゆったりとしていてトイレもついている。因みに、グレイハウンドバスの「グレイハウンド」はドッグレースで最も速いといわれる犬種のグレイハウンドに由来する。アメリカ全土を網の目のようにめぐらした路線を走る高速バスで、アメリカの長距離旅行では最も一般的な交通手段であるといってよい。いまはどうなっているか知らないが、当時は、切符さえもっていれば、どこのターミナルでも予約なしに乗り降りができた。もし満席になって一人でも乗れなかったら、その時点ですぐに別のバスが増発されるとも聞いていた。予定も定かでなく、広範囲に寄り道しながらオレゴンへ帰るつもりの私の旅には好都合である。午後2時、私の乗ったグレイハウンドバスは三分の一ほどの空席を残したまま、とうとうニューヨークを後にして走り出した。これでニューヨークともいよいよお別れである。かつて夢にまで見たあのマンハッタンの摩天楼が、灰色の空の下で少しずつ遠ざかって行った。

  *(「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」にこの夏の写真も含まれている)
  (文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名)
  (2015.12.01)












過去の身辺雑記
 2014年
 2013年
 2012年
 2011年
 2010年
 2009年
 2008年
 2007年
 2006年
 2005年
 2004年