「今日の言葉」 2005 (7月-12月)


 95.「摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます」 (12.29)

 私たちの本来の姿は霊であって肉体ではない。霊である私たちに、一種の機械としての物的身体が与えられているということである。私たちが心配や悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は霊からの生命力の補給路を失い、補給源とのつながりが断たれることになって病気になったりする。心配や悩みは健康の大敵なのである。だからシルバー・バーチはつぎのようにも言う。 「病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。」 (栞A17-c)

 私たちの日常生活には多かれ少なかれ心配や悩みがつきまとうものだが、それは、摂理から離れた生活をするからであろうか。しかし、心配するという状態はよほど大きな悪影響を肉体の健康にも及ぼしていくものであるらしい。これも摂理によって、そのように定められているのである。「心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。その障害を取り除くまでは生命力が流れ込みません」とシルバー・バーチはいい、さらに、「心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります」とさえ述べている。(栞A58-t)

 私たちは、自分の行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、私たち自身が責任を取っていかねばならない。そして、身体はその責任ある自己表現の媒体であるから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておくのも私たちの責任である。それが、摂理のなかで生きる人間のあるべき姿であろう。「自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます」と、シルバー・バーチはここでも繰り返している。(栞A58-t)

 それでは、私たちが摂理の範囲内で生活していればどのように恩恵を受けることが出来るのか。それに対するシルバー・バーチの答えはこうである。「神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。---法則は無限なる愛と叡智の働きによって完壁に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。(栞A58-t)





 94. 「あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません」 (12.26)

 シルバー・バーチは摂理の働きの完全性をしばしば強調する。摂理とは大霊であり神の意思である。それを、こう述べている。「神の計画が狂うということは絶対にありません。もし狂えば、ないしは狂うことも有りうるとしたら、神は神でなくなります。完全が間違いを犯すはずがないのです。もし犯せば完全が完全でなくなります。自然法則という形での神の定めは無窮の過去から常に存在し、一度たりともその定め通りに働かなかったことはありません」。そして、さらに続けた。「地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか。」(栞A68-p)

 本来は人間もその定められた神の計画にそって進まねばならないのである。それを選択する自由意志も与えられている。しかし、とシルバー・バーチはいう。「人間は愚かさと無知と利己心から誤った道へ外れる可能性もあるのです。美しい花を咲かせるべき庭園に雑草を生い茂らせることも有りうるということです。正しい生き方とは何であるかを、みずから学んで行かねばなりません。そうすることが人間としての神への貢献となるのです。潜在的には無限の霊的属性を秘めておりますが、それを駆使できるようになるには、それなりの努力をしなければならないということです。」(栞A68-p)

 私たちは、なぜ、「潜在的に無限の霊的属性を秘めている」ことになるのか。それは、私たちの一人一人が、シルバー・バーチのことばでは、「ミニチュアの大霊すなわち神」だからである。そして、その霊的属性は私たちの努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めている。「どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません」とシルバー・バーチは私たちに語りかけるのである。(栞A28-b)

 シルバー・バーチはこうも言った。「私にできることは永遠・不変の宇宙の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰一人として完全に究めることも説明することもできない永遠の摂理があります。」(栞A61-f) そのうえで、私たちが銘記すべき真実を次のようにも明かした。「必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。」(栞A28-b)





 93. 「私たちの世界へ来てからも葛藤はあります (12.22)

 葛藤や苦悩というのは、いつになっても絶えることはないようである。私たちはいつも私たちを支配しようとする二つの力の中で揺れ動く。一つは身体的進化に属する獣的性質である、もう一つは、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きである。その両者のどちらが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で私たちが選択する自由意志が決める。(栞A42-d) つまり、私たちは葛藤のなかで、自由意志の選択の仕方を学んでいることになる。

 社会には多くの邪悪がはびこっているが、それも存在理由が無いわけではない。人生はつねに暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であるから、進化の道程を人間の霊は絶え間なく向上していくことになる。「もし闘争もなく、困難もなければ、霊にとって征服すべきものが何もないことになります」(栞A42-b)とあるように、邪悪もこの人間の進化を促進するためのいわば触媒になるのであろう。

 しかし、邪悪を触媒として人間が向上していっても、改善の可能性はいつまでも続く。シルバー・バーチはそれを、こう述べている。「人間には神の無限の属性が宿されてはいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。その開発の過程は黄金の採取と同じです。粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。地上もいつかは邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。しかし、改善の可能性が無くなる段階は決して来ません。なぜなら人間は内的神性を自覚すればするほど昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです。」(栞A42-b)

 邪悪はともかくとして、霊界へ行っても葛藤や悩みはあるらしい。「私たちの世界へ来てからも葛藤はあります。それは低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精練と試練をへてようやく霊の純金が姿を現わします。私たちの世界にも悩みはあります。しかしそれは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表われであって、ほんの一時のことにすぎません。完成へ向けての長い行進の中での短い調整期間のようなものです」(栞A42-d) とシルバー・バーチは言っている。





 92. 「私は憎しみを抱くことはできません」 (12.19)

 邪悪な人間を憎むのは人の常である。しかしシルバー・バーチは、私は「憎しみを抱くことはできません」という。なぜそうなのか。シルバー・バーチはこう述べている。「摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、卑しくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私にはできません。」(栞A42-a)

 従って、殺人、傷害、強盗、詐欺などの罪業を犯した人間も、シルバー・バーチの眼から見れば、「神の衣をまとっている同胞」であって、憎む対象ではない。シルバー・バーチはさらに、こう続けている。「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。」(栞A42-a)

 だから、シルバー・バーチは、殺人犯に死刑を執行するような制度に対しても、霊的な立場から異議を唱える。それは、憎むことを教えるだけで、犯人は殺されたら地上へ戻ってきて他の人間に殺人行為を唆すだけだと、つぎのようにいう。「憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物ごとを判断してはなりません。これまで何度もくり返されてきたことです。殺人犯を処刑しても問題を解決したことにはなりません。地上へ戻ってきて他の人間を殺人行為へそそのかします。」(栞A42-k)

 では一体どうすれば問題の解決になるのか。処罰を矯正的な目的をもったものにすればいいというのである。「社会の一員としてふさわしい人間になってくれるように、言いかえれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人のためになるのです。それが ”人のため” の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです。」(栞A42-k)





 91. 「霊的成長を促すような生活をするほかはありません」 (12.15)

 シルバー・バーチは、大自然の法則の中でも私たちがまず理解すべきなのは、種まきと収穫の摂理だという。そして、こう続ける。「大地が"実り″を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みのすばらしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。」(栞A58-h) 

 この種まきと収穫の例え話は、明快で分かりやすい。「蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた種は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの実りをもたらします」と当たり前のように思われている事実を指摘しているだけである。そして、この自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまるのだと、こう教える。「利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。」(栞A58-h)

 ことわざにも「蒔かぬ種は生えぬ」といい、聖書にも、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6-7)とある。これも摂理の一端を述べているにすぎない。しかし、摂理は真理であるがゆえに不変である。シルバー・バーチは「この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません」と不変性を強調する。(栞A58-h) 私たちは、このような自然の摂理、または、自然の法則のなかで生きているのである。そして、その法則の枠外に出ることは出来ない。「あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてがその法則によって規制されている」からである。(栞A58-q)

 シルバー・バーチはさらに続けて「発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。 聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません」と言った。そして、「霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません」とも付け加えた。この霊的成長を促すものは何か。それは、「思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げること」だという。言いかえれば、私たちの内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのである。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、私たち自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされることになる。(栞A58-h)





 90. 「神は法則なのです」 (12.12)

 シルバー・バーチは神の摂理について繰り返し語っているが、こういう言い方もしている。「私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解できるのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画され運営されていることを得心するに十分です。私は自分にこう言い聞かせているのです---今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違ない。もしそうでなかったら宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう」と。(栞A58-o)

 そして、さらにつぎのような謙虚なことばを付け加えた。「ですから、もしも私の推理に何らかの間違いを見出されたならば、どうぞ遠慮なく指摘していただいて結構です。私はよろこんでそれに耳を傾けるつもりです。私だっていつどこで間違いを犯しているか分からないという反省が常にあるのです。無限なる宇宙のほんの僅かな側面しか見ていないこの私に絶対的な断言がどうしてできましょう。ましてや地上の言語を超越した側面の説明は皆目できません。こればかりは克服しようにも克服できない、宿命的な障壁です。そこで私は、基本的な真理から出発してまずそれを土台とし、それでは手の届かないことに関しては、それまでに手にした確実な知識に基づいた信仰をおもちなさい、と申し上げるのです。」(栞A58-o)

 真理を考えていくうえでの極めて示唆に富んだ言い方であるが、その真理である神の法則について、こうも述べた。「私がいつも念頭においているのは神の法則だけです。人間の法律は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則はけっしてその必要がありません。地上に苦労がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなたがた人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。(栞A58-l)

 この「神の法則」は「天の摂理」といってもよいであろう。そして、それが、私たちが神であると思っている存在の本質であることを、シルバー・バーチはつぎのように教えてくれている。「人間的存在としての神は人間がこしらえた観念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。(栞A58-k)





 89. 「われわれの目的は言わば宗教のリハビリテーションです」 (12.08)

 シルバー・バーチは、なぜわざわざ地上に降りてきたのか。それは、地上の私たちみんなが理解することができれば「地上が一変するはずの真理」を説くためである。「私からの御利益は何もありません。ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです」とシルバー・バーチは謙虚に述べている。(栞A46-f) しかし、それでも、「居睡りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました」と言われているように、多くの人々は、シルバー・バーチの教えには耳を傾けようとはしてこなかった。

 シルバー・バーチは、「私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです」と言って嘆く。こうも言った。「私たちからお贈りできるものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。」(栞A59-a)

 この「敵対する」勢力のひとつは、欧米におけるキリスト教会であろう。事実、スピリチュアリズムは長い間、キリスト教会からの反感と偏見に曝されてきた。シルバー・バーチは言う。キリスト教会は「自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。」(栞A59-a)

 それゆえに、シルバー・バーチは「われわれの目的は言わば宗教のリハビリテーションです。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです」と訴えたりもするのである。(栞A59-b) 霊界には、いかなる無理解、反感、偏見があろうとも、真理の光を広めていこうとする遠大な計画がある。シルバー・バーチはそのための使命を託された「大勢の使者の一人に過ぎません」と言い、次のように続けている。「ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。(栞A59-a)





 88. 「現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません」 (12.05)

 シルバー・バーチがバーバネル氏を霊媒として、霊界からの教えを私たちに伝えてくれるようになるためには、バーバネル氏が生まれる前から周到な準備をしていたことが知られている。そのうえで、これらの教えを実際に地上のことばに置き換えるには、極めて巧妙で複雑な処理が必要であった。「私が皆さんに霊的真理をお伝えしようとすると、私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現するわけです」とシルバー・バーチは語っている。(栞A60-d)

 このように霊的真理を伝える場合は、高級霊のバイブレーションに反応できる回路を開けねばならないのである。そのためには、シルバー・バーチも、「高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを言語で表現しなくてはなりません。それは霊媒が.スピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。その時の私は、シルバー・バーチとして親しんで下さっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです」とその精妙なプロセスの一端を披瀝した。(栞A60-d)

 しかも、その表現する言語は、シルバー・バーチの場合、現代英語であった。「あなたがた西洋人の精神構造は、私たちインディアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質をもった人々の睡眠中をねらって、その霊体を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです」といい、さらに次のように続けた。「他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。」(栞A60-e)

 それは、たしかに容易なことではないであろう。さらに、霊界からの通信は、地上の霊媒を使う以上、その霊媒の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けなければならない。シルバー・バーチもバーバネル氏を通じて語り始めた初期の頃は、「一つの単語を使おうとすると、それとつながったほかの要らない単語までいっしょに出て来て困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません」と述懐している。(栞A60-d)





 87.「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです」(12.01)

 私たちがこの地上生活を終えて霊界へ赴くときの状況を、シルバー・バーチは「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません」と教えてくれている。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあるという。物的身体を脱出するのに何らかのトラブルがおこることもあるのだろうか。「それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の“玉の緒”が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します」とも教えている。(栞A21-d)

 この物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程では、意識の回復が問題になるらしい。この意識とは、自分が本来の霊的生命に立ち返ったという自覚であろう。霊的真理に暗い人の場合、つまり、死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいるような場合には、睡眠に似た休息の過程を経ることになるようである。「その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります」と述べられている。(栞A21-d)

 それに対して、霊的知識を持っている人の場合には問題はない。「物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです」ということになる。(栞A21-d)  しかし、現実には、「地上を去って霊界へ来る人のほとんどが」霊的知識に欠け、自分が霊的存在であることにも気がつかず、「霊的な実在とはどんなものなのかについて恐ろしいほど無知」のまま霊界へ来てしまうのであるらしい。(栞A2-m)

 つまり、この地上で、私たちの呼吸が止まった直後に起きる状況には二通りあるということである。シルバー・バーチは、それを魂に意識のある場合とない場合に分けて、つぎのように説明したこともある。「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所----病院なり休息所なり----に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。」(栞A2-g)




 86. 「霊が正常であれば肉体は健康です」(11.28)

 肉体が受けた影響は必ず魂にも及ぶことになり、反対に魂の状態は必ず肉体に表れる。この両者を切り離して考えることはできない。一体不離である。したがって、霊が正常であれば肉体は健康である。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえないことになる。(栞A5-b)

 シルバー・バーチは言う。「肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。」そして、つぎのようにも述べた。「神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。」(栞A17-b)

 霊が健全でなく精神も健全でないというのは、たとえば、利己主義、強欲、金銭欲などにとらわれている場合であろう。その不健全な霊的状態が物的身体との関係を乱し、それが病気となって現れるのである。シルバー・バーチはこう述べている。「怒りが脾臓を傷めることがあります。嫉妬心が肝臓を傷めることがあります。そうした悪感情が異常の原因となり、バランスが崩れ、調和が乱れます。病気が進行して、バランスが完全に崩れてしまうと霊的身体が脱出のやむなきに至ります。それが死です。」(栞A17-l)

 このような病気を考えるときに見逃すことが出来ないのは、いわゆる「カルマ的負債」がある場合である。私たち一人ひとりは、過去生からのなんらかのカルマを引き継いで今の世に生きている。そのカルマとの関わり方で、一人ひとりはその人なりの霊的成長段階にあるといってもよいであろう。つまり、それによって「人生という梯子の一つの段の上に立っている」わけである。それがどの段であるかが、その人に霊界から注がれる治癒力の分量を決めることになる。カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力よりも少ない場合は、病気が治り、逆に大きい場合は、肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいるということである。(栞A17-f)




 85. 「思念の投射を地上の一人の人間に向けて行います」 (11.24)

 私たちがいつもこころに留めておかねばならないことは、私たちの存在は頭の中で考えていることをも含めて、霊界からは丸見えであるということである。いつかの交霊会で、シルバー・バーチは出席者に向かって、出席者たちの心臓の鼓動と同じくらい霊界の指導者たちは身近な存在であり、さらに、「私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、いやそれ以上にあなた方の身近かな存在です」というふうにも表現していた。(栞A47-k)

 このことは、シルバー・バーチがこの地上へ降りてきて、ロンドンの交霊会で霊界からの教えを説くようになった状況のなかにもよく示されている。シルバー・バーチは、「地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした」と言い、なお、その次の段階では、探し出した霊媒の使用法をも練習しなければならなかった、と述べている。(栞A80-b) そして、そのようにして探し出された霊媒とは、モーリス・バーバネル氏であった。

 このモーリス・バーバネル氏を霊媒に仕立てあげるために選ぶとき、シルバー・バーチはその操作を、「意念の集中、思念の投射を地上の一人の人間に向けて行います。本人はそれを無意識で受け、自分の考えのつもりで交霊会の行われている場所へ足を運びます」と明かしている。事実バーバネル氏は、はじめは、あまり熱心ではない興味本位のジャーナリストとして交霊会が行われている場所へ足を運んだ、というより、運ばされていた。さらに驚くべきことには、シルバー・バーチは、このバーバネル氏が生まれる前から、生誕後、自分の霊媒として選ぶための準備を開始していた。(栞A60-c)

 交霊会に出席している人たちも例外ではない。それぞれに自分の意思で出席したつもりでいても、それは、「前もって計画されているさまざまな人たち」がその交霊界に呼び集められているのである。そのようなことを霊界から操作するのは、さほど難しいことではないらしい。「こう申し上げるのは、今日ここにお集まりの方々が、一人の例外もなく、霊力を受けやすいこの場に導かれて来ていることを知っていただきたいからです」と、シルバー・バーチは打ち明けている。(栞A60-c)





 84. 「愛があればこそ障害を克服して地上へ戻ってくるのです」(11.21)

 霊界にいる家族や縁者からの通信を受け取ろうと考える場合、それが安易にできるものではないことをまず認識しておく必要がある。「こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでも叶えられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです」とシルバー・バーチも言っている。(栞A60-b)

 霊の世界では、「実在を伝えるにはあまりにもお粗末な」言語(栞A60-h)は使用されないことだけを考えても、その通信の困難性は理解できるであろう。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に乗り移っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作が必要になる。シルバー・バーチの説明ではこうである。「これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの "糸" を操っているのです。そのうちの一本がいつ切れるともかぎりません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。」(栞A60-b)

 そのような困難を乗り越え、あえて大変な努力をしてまで地上世界へ戻ってこようとするのは、だから、よほど地上の家族に対する深い愛を抱いている霊に限られるという。その愛が険しく立ちはだかる異次元間の障壁をも突き破る。つぎのようにである。「愛念こそが自然に、そして気持よく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。地上を去り、まったく次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念があるかぎりは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。」(栞A60-a)

 このように愛の力は、「人間の想像を遙かに超えた実在」であるらしい。私たちが、固いとか永続性があるとか思っているものよりもずっと実感がある。(栞A60-h) シルバー・バーチは、このようにして地上へ戻ってくる他界した肉親の動機を、こう述べた。地上へ戻ってくるのは「戻りたいという一念からです。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界という不幸を通じて魂が目を覚まし霊的自我を見出します。」(栞A24-a)





 83.「単なる形式的な祈りは何の益もありません」 (11.17)

 聖書のマタイ伝(6・9-13)に、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように」で始まる“主の祈り”がある。それをシルバー・バーチは、「あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起原においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません」と言い切っている。(栞A4-i)

 「今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらいお判りになるでしょう。完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです」ということばには強い説得力がある。シルバー・バーチによれば、完璧な宇宙の姿こそが神の御業であり、神とは宇宙の全生命を創造した無限の心である。そして、自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、そのすべてが神の無限なる根源的摂理によって規制され支配されているのである。(栞A4-g)

 確かに、真の祈りには霊界を動かす力がある。しかし、ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もない。「テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴える力をもった波動を起こすことも出来ません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです」と、シルバー・バーチは心のこもらない祈りを批判する。(栞A4-i)

 それでは、真の祈りとはどうあるべきか。「あなた方を悩ます、全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と直正面から取りくんだ時---解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです」とシルバー・バーチは教えてくれている。(栞A4-i)





 82. 「うまく罪を免れる人は誰一人いません」 (11.14)

 人間は向上もすれば堕落もする。神のごとき人間になることもできれば動物的人間に成り下がることもできる。自由意志を破壊的なことに使用することもできるし、建設的なことに使用することもできる。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っている事実は変えられない。(栞A2-h) まず、その事実を認識することが、神の摂理にかなった生き方をしていく第一歩であろう。

 シルバー・バーチは言う。「人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも“風を蒔いてつむじ風を刈る”と言います。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになるのです。」(栞A76-za)

 私たち地上の人間は、宿命的に数十年というほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることが難しい状況にある。物欲や名誉欲にかられて悪事を働いても、それらを権勢欲で塗りつぶしたりもする。しかし、シルバー・バーチはこう教える。「うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である完全なる公正を失います。」(栞A50-g)

 だから、世の中で不公平に見えることがあっても、実は不公平ではない。ある時の交霊会で、出席者の一人が世の中の不公平を訴えたときにも、シルバー・バーチはつぎのように諭した。「地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでいる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。」(栞A58-l)





 81. 「この地球もそれなりの役割があります」 (11.10)

  霊界の美しさについては、「地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう」(栞A2-c) などと表現されてきた。その霊界はまた、「経済問題の生じない世界、お金が何の値値もない世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、内在する霊的能力がそれまでいかに居睡りをしていても存分に発揮されるようになる」世界である。(栞A46-f) 

 それに対して、地上の世界はどうか。地上の世界は、あまり魅力ある世界とはいえないようである。地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られず、腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めている。そして、人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られているらしい。一度、霊界に住んでみると、「地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います」とシルバー・バーチは言っている。(栞A46-f)

 それでは、私たちはなぜ、その地上に生まれてくるのか。それは、腐敗と堕落の雰囲気の中で、さまざまな地上的闘争を潜り抜けなければならないこと自体が魂の修行の場としては有利であるからである。シルバー・バーチの教えはこうである。「宇宙の生命の大機構の中にあって、この地球もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです。」(栞A24-c)

 この霊界と地上との大きな落差の中で、私たちが地上を去って霊界へ行くと、みな、思いも寄らなかった大きな自己意識の激発、自己開発の意識のほとばしりに当惑するものであるらしい。肉体を脱ぎ棄て、精神が牢から解放されると、そうした自己意識のために地上での過ちを必要以上に後悔し、逆に功徳は必要以上に小さく評価しがちになるという。「そういうわけで、霊が真の自我に目覚めると、しばらくの間は正しい自己評価ができないものです。こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、せっかくの絶好のチャンスを無駄にしたという意識に嘖まれるものです」(栞A24-b)という霊界からの教えを、私たちは深く心に留めておきたい。





 80. 「私が関心をもっているのは “真理” だけです」 (11.07)

 「あらゆる地上の問題を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです」とシルバー・バーチは言う。そのたった一つの事実とは何であろうか。それは、「人間は本来が霊的存在であり、神からの遺産を受け継いでいるが故に、生まれながらにして幾つかの権利を有しているということ」なのである。シルバー・バーチは続ける。「その権利は、次の生活の場に備えるために、地上生活においてその属性を十分に発揮させるためのものです。その妨げとなるものはいかなるものでも排除する---それだけのことです。それをどう呼ばれようと構いません。私はラベルや党派には関心はありません。私が関心をもっているのは “真理” だけです。」(栞A61-l)

 人間とは、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊である。あくまでも霊が主体であって、肉体が主体なのではない。このことは、何度もシルバー・バーチが念を押して説いている。それは、私たちが、自分が誰であるかを理解するうえで、もっとも重要な真理といえるかもしれない。シルバー・バーチは、それが「霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理」であることを、こう述べた。「物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大宝、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。(栞A61-a)

 それでは、いったん私たちが、自分たちの本性が霊であることを悟るとどうなるか。シルバー・バーチの教えはこうである。「この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。」(栞A61-a)

 しかし、現実は人間の霊性を理解している人は決して多くとはいえない。霊界から見ると、「人類の大半を占める人たちがまだ霊的なものを求める段階まで達していません。言いかえれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです」ということになる。(栞A24-e) それでも、人間が霊的存在であることに変わりはない。もし、私たちが、霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念などはすべて消滅し、霊は安心立命の境地において本来の力を発揮するものであることを、しっかりと頭の中に叩き込んでおきたい。(栞A24-e)





 79. 「愛の繋がりのある人はいつも傍にいてくれているのです」 (11.03)

 ある時の交霊会で、一人の心霊ジャーナリストが、「いまここに霊界に居る私の友人の誰かが来ていますか」と尋ねた。それに対してシルバー・バーチは答えた。「人間というのは面白いですね。よくそういう質問をなさいますが、愛のつながりのある人はいつもそばにいてくれているのです。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。みなさんは肉体という牢に閉じ込められているからそれに気づかないだけです。」(栞A47-i)

 地上の感覚では分かりにくいが、霊の世界には時間もないし、距離もない。そして、思ったとおりのことが実現する。だから、霊界にいる誰かが地上の愛する家族に会おうと思えば、意識の焦点を合わせさえすればいいのであるらしい。霊界に居る人々は、「今なお実在の人物であり、地上にいたときと同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません」とシルバー・バーチは言っている。(栞A47-g) そして、今なお地上にいる私たちを愛し、以前よりさらに身近な実体のある存在である、と次のように続けた。

 「彼らはもはや言葉で話しかけることはできませんし、あなた方もその声を聞くことはできませんが、あなた方のすぐ身のまわりにいて何かと援助してくれております。自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らにはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。けっして薄ぼんやりとした、影のような、靄のような存在ではありません。」(栞A47-g)

 このように、愛の絆で結ばれている者は「死」によっても決して引き裂かれることがないというのは、私たちにとって大きな福音である。シルバー・バーチは、さらに、つぎのようにも確言している。「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなたがたが恐怖感や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、やすらかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。」(栞A47-h)





 78. 「見かけの結果だけで物事を判断してはいけません」 (10.31)

 霊的な真実を掴んでいくためには私たちのものの見方を大きく変えていかねばならない。シルバー・バーチは言う。「見かけの結果だけで物事を判断してはいけません。あなた方は “物” の目でしか見てないのです。”霊”の 目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。そしていつもこう思うのです---もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。」 (栞A61-i)

 私たちの祈りは、つい利己的な頼み事になってしまいやすい。しかし、利己的な頼み事や願いは、本来の祈りではない。そのような祈りがもし叶えられるとしたら、むしろ、それは、私たちのためにはならないのである。ご利益信心から「ああしてほしい、こうしてほしい。カネがほしい、家がほしい---こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとってなんのプラスにもならないからです」(栞A4-b) ということになる。

 シルバー・バーチは「私たちはあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、いやそれ以上にあなた方の身近な存在です」(栞A47-k)と述べているが、私たちのことはすべて、こころの中の思いまで含めて、霊界からは丸見えであるらしい。地上にいる間は、物質的な欲望に引きずられて、つい現状への不平や不満を口にしたりもする。しかし、「地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問してみることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人は一人もいません」(栞A61-i) というシルバー・バーチの「証言」は、常に銘記しておくべきであろう。

 やはり、真に幸せな生き方を掴んでいくためには、物的な欲望から離れていくことが大切なようである。「物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです」(栞A61-f) ということばは、心に重く響いてくる。





 77. 「真理は真理であるがゆえに真理であり続けます」 (10.27)

 ある日の交霊会でシルバー・バーチはこう言った。「世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて "死″の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、"処女懐胎″だの"エデンの園″だの"使徒信条″だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。」(栞A61-b)

 では、そういう「闇夜に救いを求める人」を本当に救えるものは何か。それは霊的真理である。それしかない。「今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理---墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみにまで神の愛の温もりをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできるかけがえのない財産なのです」 といわれていることばを理解することである。(栞A61-e)

 シルバー・バーチは、折に触れて、この霊的真理の重要性を何度も繰り返し強調してきた。このようにである。「霊的真理こそ永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理です。けっして知性を欺きません。単純・明快で、誰にでも理解できます。聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。これには法王も大主教も司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私どもはこれを捏ねまわして神学体系を作ろうなどとも思いません。ただこうして説くだけです。」(栞A61-d)

 そして、さらにつぎのようにも述べている。「私の説く真理をきわめて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受けとめる方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなたがたから野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。」(栞A2-h) このいくつかの反応を示す人々のうち、私たちは、いづれのグループにに入ることになるのであろうか。





 76. 「精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです」 (10.24)

 「あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します」とシルバー・バーチは言っている。(栞A17-a)

 また、「悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります」とも言った。しかし、自我のコントロールが出来るようになって、悩みや恐怖心を克服するのはなかなか容易ではない。そして、実はそれも、神の無限の愛と叡智から出た法則であるという。その悩みに費やされる大きなエネルギーをプラス思考に切りかえることができれば、決して病いは生じることがない。(栞A17-a)

 私たちは、本来、宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって、健康が保たれるように意図されているらしい。だから、肉体に何らかの異常が生じるということは、利己主義、強欲、金銭欲などに捉われることによって生ずる悩みや恐怖心により、精神も霊も人間本来の姿になっていないからということになるようである。「もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです」とは、シルバー・バーチの教えである。(栞A17-b)

 ただ、問題になるのは、病気というのが精神と肉体と魂との調和が乱れていることに起因するものとしても、カルマ的負債の方がその病人に注がれる治癒力よりも大きい場合である。患者はそれぞれに、その人なりの霊的成長段階にある。それがどの段階であるかというカルマが、その人に注がれる治癒力の分量を決定するという。そのカルマによる負債があまりに大きい場合には、肉体を犠牲にする以外に返済の方法がない人もいるというのである。(栞A17-f)





 75. 「霊界では魂の成長に応じた界に住むようになります」 (10.20)

 私たちは、地上にいる時から死後の環境に少しずつ慣れるように配慮されているらしい。「毎夜眠りに落ちて肉体が休息し、まわりの生活環境が静寂を取り戻すと、その肉体から霊体が脱け出て本来味わうべきよろこびの体験をします。しかしその体験は、肉体に戻った時は大半の人間が忘れております。一段と高いすばらしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過したことがまったく脳の意識に感応しません」とシルバー・バーチは言っている。(栞A46-d)

 しかし肉体の死を体験すると、私たちの霊体は、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた霊界でのそれぞれの環境へ赴くことになるようである。そして、そこではじめて、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出すことになる。その体験は、最初はゆっくりと甦ってくる。そうなるまでの期間は永い人もいれば短い人もいて、一人ひとりが同じではない。各自の霊的意識の発達程度によって違ってくるという。

 正しい認識をもち、すでに地上時代から死後の世界を当然のことと考えていた人は死後、あたかも手袋に手を入れるように、すんなりと新しい環境に馴染んでいく。しかし、霊的知識に乏しく死後に何が待ちかまえているかを知らずに来た者、あるいは死後の生活について間違った固定観念に固執していた者は、改めて霊界で指導霊によって再教育を受けなければならない。(栞A46-d) その際、霊界で住む界層も親和力によって自ずから異なってくる。つまり、死ぬことによって物質でできている肉体が無くなれば、霊界では魂のレベルに似合ったレベルの界層で住むことになるのである。

 シルバー・バーチの教えはこうである。「こちらでは魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうどよく調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。」(栞A24-h)





 74. 「真理は心を固く閉ざした人の中には入れません」 (10.17) 

 ある日の交霊会に、両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動をしている若い女性が出席していた。その女性を歓迎して、シルバー・バーチはこう言った。「私の教えを新聞や雑誌で世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は、私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけです。それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。」(栞A7-c)

 シルバー・バーチの謙虚な人柄がにじみ出ているようなことばであるが、シルバー・バーチは、しばしばこのように、真理は受け入れる用意が必要であることを述べている。そして、つぎのようにも強調した。「そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。」(栞A7-c)

 この真理を受け入れる用意を阻むものは、無知、迷妄、偏見の類いのほかに、社会的には霊的真理を離れた宗教的教説などが広まったしまったことなどがあげられるであろう。シルバー・バーチは嘆いて言う。「なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。単純素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃の中で暮したがるのでしょう。」(栞A59-d)

 それでは、地上で真理が受け入れられず、真理に目覚めることがないままに霊界へ移って行った魂はどうなるか。霊界の消息に精通しているシルバー・バーチはこう伝えている。「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。・・・・・自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります。」(栞A24-l)





 73. 「あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります」 (10.13)

 ある時の交霊会で、メンバーの一人が、「私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません」とシルバー・バーチに言った。「知られているというのは、誰にですか」とシルバー・バーチは尋ねた。「おそらく生まれてくる本人、あるいはそちらの霊界に残していく仲間の霊かと思います」とメンバーは答えた。シルバー・バーチは言った。

 「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。」(栞A57-e) 別のところでは、シルバー・バーチはさらに分かりやすく、次のようにも言っている。

 「あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません。大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです。」(栞A57-c)

 厚生労働省の発表によると、日本人の平均寿命は、2003年の時点で、男性78.36年、女性85.33年で、世界一だそうである。50年ほど前、私が大学を出た頃は、男性が50.06年、女性が53.96年であったから、全体で30年くらいは寿命が延びていることになる。これが2050年になると、平均寿命は90年を越えるという予想もある。世間では、長生きが幸せで早死は不幸であるというような確信みたいなものがあるが、少しでも長生きすることが本当に幸せなのだろうか。シルバー・バーチの言うように、永遠の生命という分母に比べれば、分子の数十年の差は、限りなくゼロに近い。大切なのは、長さではなくて、あくまでも質であろう。この世では、その質を霊的にいかに高めていくか、が問われているのである。





 72. 「物質が固いと思うのは錯覚なのです」 (10.10)

 生命科学者の柳沢桂子さんは『生きて死ぬ智慧』のなかで、「般若心経」の「是諸法空相」に対応する解釈として、「あなたも宇宙のなかで粒子でできています。宇宙のなかのほかの粒子と一つづきです。ですから宇宙も空です。あなたの実体はないのです。あなたと宇宙は一つです」と書いています。そして、この本の「あとがき」には、「私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界がなりたっているのです・・・・・あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです」とも述べている。

 このように、私たちの肉体が原子からできている、というのは科学的真理である。それでは霊体はどうなのか。ある日の交霊会で、メンバーの一人が、「死んでからまとう身体も物質であって、原子の回転速度が一段と速いというだけか」と訊いた。シルバー・バーチは、その答えのなかで、物的身体≠ニいうのは確かに原子で出来ているとしても、原子はさらに細かく分析できる。そして、そのうち計量器では分析できない段階に至る。するとその原動力は物的なもの、形あるものではないことになる。つまり物質が形あるものというのはそう見えるというだけのことで、「固いと思うのは錯覚なのです」と教えてくれている。(栞A46-zb)

 私たちは、肉体を一元的な原子の世界から見ることをしないから「錯覚を起こしている」という肉体についての科学的真理のさらにその奥に、原子はさらに細かく分析されて、物質が「固いと思うのは錯覚なのです」という霊的真理があることを指摘されて興味深いが、要するに、肉体から幽体へ移行する生命の真実は科学的真理では解明できない次元の問題ということになるようである。「人間にはいろいろな身体があって、それぞれ発達程度が異なります。その肉体から脱け出ると、それとそっくりの幽質の身体をまといますが、それは地上時代からずっと使用し自我を表現していたものです。バイブレーションが地上生活にふさわしい高さだからです。その幽体は地上で肉体が実感があったように、他界直後の生活においては立派に実感があります」とシルバー・バーチは述べた。(栞A46-zb)

 この「立派に実感がある霊体」は捉えにくいが、すべては意識している場″の問題であると、シルバー・バーチは次のように言う。「船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。夢だった″と思うのは目が覚めた時です。そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。」そして、「もしかしたら、ここにいる人たちといっしょに同じ夢を見ているのかも知れないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で地上生活という夢を見つづけている人間が無数にいるからです」とも付け加えた。(栞A46-zb)





71. 「霊的卓越に近道はありません」(10.06)

 霊的真理というのは、それを正しく理解すれば、間違いなく人の一生を左右するほどの大きな影響を与えうると思われるが、その霊的真理をまだ気づかない人たちに説明するのは容易なことではない。ある時の交霊会で、メンバーの一人が、「われわれが真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広くー般に証明してみせるために、何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期でないということでしょうか」と質問した。それに対して、シルバー・バーチはこう答えている。

「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反撥させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。」(栞A59-k)

 このように、霊的真理は相手の理性に訴え、知性に反するものであってはならないとは、ことあるごとにシルバー・バーチが強調していることである。特に若者に対しては、霊的真理を納得させるのには、単なる死後生存の事実の証明だけでは不十分であると次のように言う。「若者は一般的に言って人生体験、とくに身近な人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。」(栞A72-d)

 そして、ここでも繰り返されるのが、真理を受け入れる側の受け入れ準備の重要性である。しかも、その受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整わないのだという。真理によって救われるための特効薬はないといいうことであろう。それを、シルバー・バーチはつぎのように言った。「霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。」(栞A59-k)




 70. 「死は生命を滅ぼすことはできません」 (10.03)

 「あなたはまさに一個の巨大な原子---無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです」とシルバー・バーチは教えてくれている。そして、その「より相応しい身体」を持ち、「無限の可能性を表現し始めることを、私たちは「死」と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんでいると、述べている。(栞A2-j)  これは、シルバー・バーチが皮肉を言っているのでは決してない。ただ、それが皮肉に聞こえてしまうほど、私たちのものを見る目が曇っているのであろう。

 シルバー・バーチは続けて言う。「死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの甦った霊をご覧になることができるでしょう。」(栞A2-j)

 だから、霊界から見れば、私たちが死を悲しむのは間違いなのである。むしろ、喜ぶべきことだと、次のように諭す。「その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの烏が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。」(栞A2-j) これは、私たちにはなかなか納得しがたい真実であるが、深く胸に畳み込んでおきたい言葉である。シルバー・バーチはさらに、このようにも言った。

 「人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知--死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。」(栞A2-f)





 69. 「いずれは霊界で一緒になることを知ってください」 (09.29)

 愛する家族との別れはいつの場合も辛い。まして、一時的な別れではなく、永遠の別れと思い込んでいる死別となると、それは、ほとんど耐え難い苦しみになる。しかし、その「永遠の別れ」も、そう思うのが無知から来る錯覚であって、ほんとうは、それも一時的な別れであるに過ぎないことを知ることができるのは、なんという大きな救いであろうか。シルバー・バーチのつぎのことばを私たちは、なんどもかみしめて、胸の中に畳み込んでおきたい。

 「死はけっして愛する者との間を、永遠に引き裂くものでないこと、いつかは必ず再会の時が訪れること、それも、どこやら遠い遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられると申し上げているのです。」(栞A21-a) このように、私たちは、愛する家族とは霊界でも必ず会える。身体に障害があった妹との霊界での再会を心配している人にも、シルバー・バーチは次のように再会を確言している。

 「他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません。」(栞A21-e)

 私たちは、物質世界の感覚でものを見ることに慣れてしまっているから、何よりも強い愛のエネルギーに気がつきにくいのかもしれない。愛は死の壁をも越えるのである。「宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人は決して離ればなれにはなりません」とシルバー・バーチは言う。(栞A21-f) また、次のようにも語った。「地上というのはほんの一時的な生活の場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像もできない、より大きな光明と美と驚異の世界で一緒に生活することになることを知ってください。」(栞A21-b)




 68. 原因は数学的正確さをもって結果を生み出します (09.26)

 「蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた種は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの実りをもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります」とシルバー・バーチは言う。だから、利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばならない。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばならない。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばならないのである。(栞A58-h)

 シルバー・バーチはさらに言う。「発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません」と。(栞A58-h)したがって、世の中には、私たちの考える「不公平」なるものは、実は、存在しないことになる。地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあって、自分の天秤を手にしてバランスを調節する日がやってくる。罪が軽くて済んでいる者がいるようにみえたとしたら、それは、私たちに魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるだけだという。(栞A58-l)

 人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、私たちには、それをごまかすことも、それから逃れることも出来ない。「たとえ豪華な法衣をまとっていても、あるいは高貴な “上級聖職階” を授かっていても、神とあなたとの間の仲介役のできる人は一人もいないのです」とシルバー・バーチは強調する。つぎのようにも言った。「苦しみを味わった者にはそれ相当の償いがあり、しくじった者には何度でも更生のチャンスが与えられるのです。神から授かった才能が永遠に使用されることなく放置されることはありません。いつかはそれを存分に発揮できる環境が与えられます。」(栞A58-p)

 私たちがその神の摂理の枠外に出ることが出来ない以上、私たちの思念、言葉、行為、つまり私たちの生活全体をいかにしてその摂理に順応させていくかを考えていかねばならない。それが私たちの霊的成長を促す道でもある。そして、その霊的成長は「思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます」とシルバー・バーチは確言する。また、つぎのようにも付け加えた。「邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。」(栞A58-h)





 67. 「苦しみは無くてはならない大切なものなのです」 (09.22)

  シルバー・バーチは、しばしば、苦しみや悲しみの意味を説いてきた。ときには、積極的にその重要性を強調することもある。つぎのようにである。「苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな触媒となっています。」(栞A17-w)

 しかし、私たちは、なかなかそのような考え方には馴染めず、苦しみや悲しみについては、否定的な捉え方しかできないことが多い。苦しみや悲しみは不幸そのものであって、人の性格までも暗くし、いじけさせてしまうことも珍しくはないと考えてしまうからである。そこで、ある日の交霊会で、メンバーの一人が、「苦難が人間性を磨くことにならない場合もあるのではないか」と質問した。それに対して、シルバー・バーチは次のように言った。きわめて説得力のある、実に胸のすくような答えかたである。

 「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれは雨天の日もあり、嵐の日もあれは穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せであることがどういうことであるかが分からないからです。」(栞A18-p)

  シルバー・バーチは、さらにことばをついで、「苦しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります」と言った。そして、苦難に遭うと不幸だと思い卑屈になっていく人が多いのは、「その人の人生に確固とした土台がないから」であって、「人生観、宗教観、それにものの観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです」と付け加えている。(栞A18-q)





 66. 「求める者には必ず救助と援助と指導とが与えられます(09.19)

 私たちは、常に霊界から見守られており、必要な場合にはいつでも、霊界からの援助を受けることが出来ることを知っておく必要がある。シルバー・バーチも、「援助を必要とする時は精神を統一して私の名を唱えて下さるだけでよろしい。その瞬間に私はその方の側に来ております」と言ったことがある。「いかなる困難も、解決できないほど大きいものは決してありません。取り除けないほど大きい障害物もありません。私たち霊界の者からの援助があるからです」とも言って、つぎのように続けた。

 「困難に遭遇しないようにしてあげるわけにはまいりません。躓かないようにと、石ころを全部取り除いてあげるわけにはいきません。ただ、たとえ躓いても、転ばないように手を取って支えてあげることはできます。肩の荷をいっしょに担いであげることによって苦しみを和らげてあげることはできます。同時に喜びもともに味わって一層大きくしてあげることも出来ます。」(栞A47-d)

 シルバー・バーチはこうも言っている。「霊界には、いついかなる時も、インスピレーションによる指導と鼓舞の手段を用意した霊の大軍が控えております。真剣に求めてしかも何一つ手にすることが出来ないということは絶対にありません。求める者には必ず救助と援助と指導とが与えられます。」 ただし、その援助はいくらでも無条件で与えられるわけではない。霊界との波長がうまく調和しさえすれば、各自がもつ受容能力に似合った分だけの援助が授けられるのである。シルバー・バーチはこれを、「何とすばらしい真理でしょう。それなのになお地上にはそれを否定する人がいます」と言って嘆いている。(栞A74-l)

 このように、問題は霊界にあるのではなくて地上側にある。「私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます」という。やはり、冷静で受容的な心を保つことが何より大切なことのようである。「取越苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。それらが靄をこしらえて、私たちを近づけなくするのです」とも述べられている。(栞A47-h)





 65. 「霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます」 (09.15)

 霊界から見ると、地上の霊的知識のレベルはよほど低いものであるらしい。「地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです」 とシルバー・バーチは嘆いている。そして、「地上の宗教家は、死の関門をくぐつた信者は魔法のように突如として言葉では尽くせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です」とも述べている。(栞A24-d)

 それでは、霊界へ行ったときの実際の状況はどうなのか。「死んで霊界へ来た人は、初期の段階においては、地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた---ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格はまったくいっしょです。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。利己的な人はあい変わらず利己的です。貪欲な人はあい変わらず貪欲です。無知な人はあい変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人はあい変わらず悩んでいます。少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです」ということらしい。(栞A24-d)

 やがて、霊が真の自我に目覚めると、地上の生活で、こうすればよかった、ああすべきだったと後悔し、地上で霊性の開発に努めるというせっかくのチャンスを無駄にしたという意識に嘖まれることが多いという。そういう意味では、私たちのこの地上の生活は、霊的無知のなかだからこそ、あるいは霊的無知であるがゆえに、そこから必然的に起こってくるさまざまな悩みや苦しみが教材として提示される絶好の試練の場ということになるのかもしれない。シルバー・バーチも、魂の修行の場としては、むしろ、地上の方が有利であることを認めたうえで、次のように言った。

 「(もし地上の方が有利でなかったら)地上へ生まれてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地球もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。潜在している才能が最初に目を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです。」(栞A24-c)





 64. 「霊界は実にうまく組織された世界です」 (09.12)

 私たちには各自が持って生まれた独自の才能がある。しかし、その才能は、地上では未開発のままで終わることが多いという。私たちは霊界へ行ってはじめて、自分たちの持っている独自の才能が、自然な発達の過程を経て成熟し、それによって、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになるらしい。「霊界は実にうまく組織された世界です」とシルバー・バーチは言っている。(栞A46-d) 

 私たちが霊界へ行った時の霊界での受け容れ態勢についても、まず、受け入れを担当する男女の霊が大勢待機している。この地上の各地から、地上での役目を終えた人々が次から次へと霊界へ赴いていくわけだが、霊界での「迎え方はその人間の種類によってさまざまです。死後のことについて知っている人の場合、知らない人の場合、知っているといっても程度の差があり、間違っている場合もあります。そうした事情に応じてそれなりの扱い方を心得た者が応対します」ということになる。(栞A46-d)

 実は、私たちはこの地上にいる時から死後の環境に少しずつ慣れるように、眠っている間に霊界での体験を重ねているといわれている。その霊界体験についてのシルバー・バーチの教えは、こうである。「その体験は、肉体に戻った時は大半の人間が忘れております。一段と高いすばらしい世界で、愛する人、愛してくれている人とともに過したことがまったく脳の意識に感応しません。しかし死という大きな変化を経て新らしい世界へ来ると、親和力の働きによって、そういう形で地上時代から馴染んでいた環境へ赴き、霊的本性に印象づけられていた体験を思い出しはじめます。」(栞A46-d)

 つまり、私たちは、朝になって思い出すことがないにしても、霊界に居る愛する家族とも毎夜のように会っていることになる。ただし、死後の世界での結びつきは、結ばれていたいという願望や愛の気持ちが大切な絆となるということを忘れてはならない。地上では死後あっさりと消滅してしまうような絆によって結ばれている家族もないわけではない。家族といえども、霊的な結びつきが大切で、そうでない場合は、「死が決定的な断絶を提供することに」なってしまうこともあるようである。(栞A46-e)





 63. 「私たちは大勢の霊が地上へ戻ってくるのを見ております」 (09.08)

 「みなさんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像してみられたことがあるでしょうか。大勢の人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、はじめて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持を察したことがおありでしょうか」と、シルバー・バーチは私たちに問いかけている。(栞A60-f)

 ところが、そんなこととは知らない地上の有縁の人々は、一向に反応を示そうとはしない。多くの人間は、この粗末な五感が存在のすべてであり、その五感に感得できないものは何も存在するはずがないと思い込んでいるから、聞く耳をもたず、見る目ももたないのである。シルバー・バーチは、3千年もの間、霊界に居て、霊界の事情に精通しているいわば生き証人であるが、そのシルバー・バーチが次のように言っているのである。

 「私たちは大勢の霊が地上へ戻ってくるのを見ております。彼らはなんとかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、あとに残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変わります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛にあふれた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、まことに気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります---こうした霊的交流の場へお連れしないかぎりそうした努力は無駄ですよと。」(栞A60-f)

 しかも、その霊的交流というのも、実は、容易ではない。シルバー・バーチでさえ、「私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思つてはいけません。こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの "糸" を操っているのです。そのうちの一本がいつ切れるともかぎりません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです」と言っている。しかし、「交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なもの」となるらしい。(栞A60-b)





 62. 「宇宙で愛ほど強力な引力はありません」 (09.05)

 「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなたがたを動かしています」と、シルバー・バーチは言っている。(栞A47-h) これは、私たちに大きなこころの安らぎと明るい希望を与えてくれることばである。

 つぎのようなことばもある。「愛のつながりのある人はいつもそばにいてくれているのです。決して遠くへ行ってしまうのではありません。みなさんは肉体という牢に閉じ込められているからそれに気づかないだけです。霊の世界には時間もありませんし距離もありません。意識の焦点を合わせさえすればいいのです。私はこれから遠くへ参りますが、あい変らずここにいると言ってもいいのです。(栞A47-i)

 ことばや祈りにはエネルギーがこめられているが、こういうことは、この地上の世界ではなかなか気がつきにくい。そして、そのなかでも、もっとも強いエネルギーを持っているのが愛である。シルバー・バーチは、「宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人は決して離ればなれにはなりません」とも言っている。(栞A21-f) 私たちの愛する家族が霊界にいる場合でも、彼らはいつも私たちと一緒だから、たとえば、私たちが死ぬ場合にも、彼らはずっと前から、その時期を察していて、そばに来て待機してくれていることになる。(栞A21-f)

 人間は死んだら灰になってしまって、すべてが終わると思い込んでいるのと、実は、死んでからが真に生きることになるのであり、霊界では、まず、愛する家族との再会が待っているというのとでは、なんという大きな違いであろうか。その死後の再会についてのシルバー・バーチの教えはこうである。「死は決して愛する者との間を、永遠に引き裂くものでないこと、いつかは必ず再会の時が訪れること、それも、どこやら遠い遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられると申し上げているのです。」(栞A21-a)





 61. 「死後存続の証拠はもう十分に提供されているのです」 (09.01) 

 私たちの愛する家族は、死んでも霊界で立派に生き続けている。つくづく思うのだが、この真実を理解できている人は幸せである。しかし、世間の多くの人々は、その真実からは遠いようである。「霊界で立派に生きている」と聞かされても、なかなか信じられず、その証拠はあるのか、と聞き返したりもする。これについてシルバー・バーチは、単純明快に、「あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます」と言った。(栞A2-k) そのチャンスはどのようにして与えられるのか。それは、然るべき通路を用意すること、すなわち、優れた霊媒によってである。

 この死後存続の証拠については、シルバー・バーチは、さらに次のように強調している。「これは空想の産物ではありません。何千回も何万回もくり返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。」(栞A2-k) この、「何千回も何万回もくり返し証明されてきている事実」というのは、決して誇張ではないであろう。しかし、それでも、「見ようとはしない人」は多いし、「見ても認めようとはしない人」も、同じように多い。

 シルバー・バーチはさらに繰り返す。「墓の向うにも生活があるのです。あなた方が “死んだ” と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。」(栞A2-l)

 生きているのに死んでいると思われているのであれば、「死んだ」家族も辛いであろう。「死んだ」ことにされてしまっては、いくら多くの線香が焚かれ立派な供物が供えられても、「死んだ」家族は当惑するばかりに違いない。大切なことは、次のような真実のことばに心を開いて、「生きている」のを知ることである。「その方たちは今なお実在の人物であり、地上にいたときと同じようにあなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らは、あなた方のすぐ身のまわりにいて何かと援助してくれております。自覚なさることがあるはずですが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らにはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求、願望、希望、そして心配なさっていることまで全部読み取っております。そしてあなた方の魂の成長にとって必要なものを地上的体験から摂取するように導いてくれております。けっして薄ぼんやりとした、影のような、靄のような存在ではありません。今なおあなた方を愛し、以前よりさらに身近となっている、実体のある男性であり女性なのです。」(栞A47-g)





 60. 「私が何よりも差しあげたいと思うのは霊的視力です」 (08.29)

 「もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私がなによりも差しあげたいと思うのは "霊的視力" です」と、シルバー・バーチは述べている。そして、つぎのように続けた。「この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。あなた方は身のまわりの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいものかをご存知ない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つ無いことを自覚されるはずです。」(栞A47-c)

 その輝きを一目見たら、この世の悩みなどすべて消えてなくなってしまうほどの美しさというのは、私たちには想像もつかないが、シルバー・バーチは、それを、こう述べたことがあった。「地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。」(栞A2-c)

 霊界の壮大な美しさについては仏教でも「仏説阿弥陀経」などに長々と詳しく述べられている。そして、「これは嘘ではない」と繰り返されてもいる。だから、よほど美しいところなのであろう。しかも、美しいばかりではなく、非常に楽しいところでもあるらしい。その楽しさについてのシルバー・バーチの説明はこうである。「あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。」(栞A2-b)

 だからこそ、シルバー・バーチは、「私がなによりも差しあげたいと思うのは "霊的視力" です」と、いうのであろう。私たちが霊の目で見ることが出来ないのは、私たちの思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されているからである。そのために、「あなた方が実在と思っておられることは私たちにとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません」ということになる。(栞A47-k) このように見てくると、私たちの死の恐怖というのも、この霊的視力を持たないために生み出された幻影にすぎないということになるのであろうか。つぎのことばを胸の中でしっかりと噛み締めておきたい。「肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。」(栞A2-b)





 59. 「人間は死んで初めて真に生きることになるのです」 (08.25)

 人間は何よりも死を恐れる。しかし、人間にとって、おそらく、死よりもっと恐ろしいものがあるのではないか。それは無知である。人間の無知は、生きている人間をさえ死人にしてしまうからである。そんなことをしみじみと考えさせられるのが、シルバー・バーチのつぎのようなことばである。「"死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。」そして、「あなた方が "死んだ" といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております」と断じているのである。(栞A2-b)

 シルバー・バーチはさらに言う。「死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。」(栞A2-c)

 死ぬということが実は生きるということ。この逆説的に響く言い方の真実が理解できれば、死は確かに悲劇ではない。だから、死を悲しむのは間違っていると、シルバー・バーチは繰り返し説いてきた。このようにである。「人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも、死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。」(栞A2-f) 

 死を悲しむのが間違いであるならば、死人に対してどうあるべきなのか。シルバー・バーチは、悲しむのではなくて祝福してあげることだという。つぎのように。「皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。」(栞A2-f) このようなことばには、私たちは、ただうなだれてしまうだけである。うなだれながら、肝に銘じていくほかはない。





 58. 「自覚がなければ守護霊は働きかけることはできません」 (08.22)

 「母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当る霊が付きます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします」とシルバー・バーチは言っている。その守護霊は決まって一人だけだが、その援助にあたる霊も何人かついているらしい。(栞A47-b) そして、その守護霊は、血縁関係のある霊もいれば、地上的な縁故関係はまったくなくても、霊的親近感によって結ばれる場合もあるという。(栞A47-a)

 大切なことはこの守護霊の存在を私たちが常に自覚することである。これは、地上の人間関係でも同じであろう。私たちが守護霊の存在を自覚していれば、それだけ、私たちを援助する守護霊の仕事もやりやすくなるという。(栞A47-b) しかし、「その事実を本当に自覚している人が何人いるでしょうか。自覚がなければ、無意識の心霊能力をもち合わせていないかぎり守護霊は働きかけることはできません」(栞A47-e) とシルバー・バーチは述べて、つぎの様に続けた。

 「霊の地上への働きかけはそれに必要な条件を人間の方が用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡のとれる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かされる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の方から手を差しのべてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。」(栞A74-e) それでは、私たちが守護霊に援助を要請するためにはどうすればよいか。それについてのシルバー・バーチの教えはこうである。

 「困難が生じたときは平静な受け身の心になるように努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から---まだ十分には開発されていなくても---必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。」(栞A74-k)





 57. 「ある程度は"信じる″ということがどうしても必要です」 (08.18)

 臨死体験をした多くの人に共通するひとつの興味深い事実がある。死後の世界を垣間見て、霊界の存在を確信するようになることである。その結果、死ぬのも「怖くはない」と言ったりする。また、臨死体験がなくても、優れた霊能者ならば、霊界との交流で、霊界の生活にも通じているから、霊界の存在は当然のこととして、死を怖れることもない。私は、そのような「死を怖れない」人たちを、身の回りに何人も見てきた。しかし、一般的には、まだまだ霊界の存在さえ信じきれないという人々のほうが、圧倒的に多いといっていいのかもしれない。

 私たちが一人の例外もなく行くことになる霊界の様子については、求めようとしさえすれば、数多くの情報が容易に手に入る。シルバー・バーチも、度々霊界のすばらしい生活について言及していて、「その壮大さ、その無限の様相は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」と言ったりしている。(栞A46-o) しかし同時に、その霊界の生活の無限の豊かさを地上の私たちに伝えるのは非常に困難であることについて、つぎのように述べていることを銘記したい。

 「ある程度は"信じる″ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することはできないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することはできないのです。しかし、ある程度はできます。それを表現する能力を具えた道具(霊媒・霊覚者)が揃った分だけはできます。それを基盤として、他の部分は自分で合理的と判断したものを受け入れて行けばよいわけです。」(栞A47-e)

 シルバー・バーチは、ここでも、「もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい」(栞A47-e) と繰り返している。このことばに改めて耳を傾けた上で、つぎの教えを、胸の奥深くにたたみ込んでおきたい。「単なる信仰、盲目的信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。いまだ証を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にしてそれをもとに宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人はその三倍も幸せです。」(栞A47-a)





 56.「心配の念が霊界との連絡の通路を塞いでしまうのです」 (08.15)

 「私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています」とシルバー・バーチは言っている。だから、霊的な成長が低く、霊的なものに一切反応しない人間とは、霊界から接触することができないことになる。冷静で、穏やかで、明るい心を保つことが大切で、「それが霊界の愛する人々、先祖霊、高級霊からの援助を得る唯一の道です。恐れ、悩み、心配、こうした念がいちばんいけません」ともいう。(栞A1-a)

 言われてみれば納得できるような気もするが、しかし、私たちのこころのなかから、恐れ、悩み、心配を完全に駆逐するのはなかなか容易ではない。人生には悩みはつきものである。心配しなければならない時もあるのでは、とつい思ったりする。あるときの交霊会でも、メンバーのひとりが、「心配するのもやむを得ないこともあるのではないでしょうか。それとも、心配することは絶対にいけませんか」と疑問が出された。それに対して、シルバー・バーチは次のように答えた。

 「いいとかいけないとかの問題ではありません。その念が連絡の通路を塞いでしまうのです。治癒エネルギーの流れを妨げ、近づけなくしてしまうのです。心配の念を抱くとそれが大気に響いて、その人のまわりにわれわれの進入を妨げる雰囲気をこしらえてしまいます。冷静で受容的雰囲気でいてくれれば容易に接近できます。確信を抱いている時、完全な信頼心を抱いてくれている時は接触が容易です。信念が完全に近づけば近づくほど、自信が深まれば深まるほど、それだけわれわれとの接触が緊密になります」。(栞A17-j)

 霊界との連絡の通路が塞がれてしまったら、肝心の、苦難を乗り越える知恵とエネルギーも霊界から受け取れなくなってしまう。だからこそ、シルバー・バーチは私たちに強く訴えるのである。「あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。 (栞A1-b)





 55.「私も人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります」(08.11)

 「地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名のもとに誤った教えを聞かされている事実を前にして、私どもが安閑としておれると思われますか。光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目のあたりにして、私どもが平気な顔をしていられると思われますか。私どもがじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです」と、シルバー・バーチはある日の交霊会で切り出した。(栞A47-f)

 霊界からは、この地上が丸見えであるらしい。その霊界の存在にも気がつかず、神の愛も知らず、自然の摂理にも暗い人間が、本来、霊的存在として受けるべき恩恵も受けられずに苦しんでいる姿をみれば、シルバー・バーチのみならず、霊界のこころある人々は、「じっとしてはいられなくなる」のであろう。「他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられないはず」だからである。

 しかし、それでいて、霊性の発達はあくまでも個人の問題でなければならない。各自がそれぞれに抱える問題をどう処理していくかという取り組み方に霊的発達の如何がかかっているがゆえに、安易には救いの手が差し伸べられないのである。「私たちが地上の人間を指導するに当たっていちばん辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです」とシルバー・バーチはいう。そして、つぎのように続けた。

 「私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。そのときの辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人みずからの力で解決すべき問題を私が代って解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです」。(栞A47-f)





 54. 「心清き人は心清き霊のみを引き寄せます」 (08.08)

 私たちがこの世に生まれ、いま生きていることの目的はきわめて単純で明快である。それは、私たちが、この世での生涯を終えて霊界へ行ったときのために、本来の自分である霊の霊性を高めておくことである。その霊性を高めるためには、「良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることが」霊性の成長の糧となることを知らねばならない。(栞A13-f)

 ところが、現実には、そのような生きることの意味に気づかず、霊界で暮らすための何の準備も出来ていない「適合性に欠ける無知な霊」が次々と霊界へ送り込まれているらしい。「自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です」とシルバー・バーチも苦言を呈している。(栞A13-l)

 霊界へ行ってから初めて気がついて、あるいは、霊界へ行ってからもしばらくは気がつかず、本来、小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、霊界でもなかなか難しいもののようである。いつまでたっても物分かりの悪い霊がいるその結果として、私たちは、霊界では、最低から最高にいたる、ありとあらゆる霊的影響力にさらされることになる。その際に、自然の摂理として、「実際に引寄せるのは自分と同じ霊格をもった霊だけです。邪悪な人間は邪悪な霊を引き寄せ、心清き人は心清き霊のみを引き寄せます」ということになる。(栞A13-l)

 私たちにも「類を以って集まる」ということわざがある。明るさは明るさを招き、暗さは暗さを引き寄せる。これは霊界でも自分の住む世界がおのずから決まっていく場合の厳然たる法則である。そして、霊界での自分の位置、つまり、霊の成長レベルを決定づけるのは私たち自身であり、他の誰にも代ってもらうことはできない。この世でも霊界でも、「魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです」とシルバー・バーチは教えている。(栞A13-e)





 53. 「悲しみも苦しみも神性の開発のためにこそあるのです」 (08.04)

 人間にとって神性を開発するために必要な条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇である。「何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです」とシルバー・バーチは言う。(栞A18-d) 別のところでは、こうも言った。「解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです」(栞A1-b)

 このように、悲しみや苦しみの持つ意味をシルバー・バーチは、折に触れて何度も繰り返しているが、それでも、私たち凡夫には、これがなかなか素直には受け入れられない。悲しみや苦しみにはできるだけ無縁でありたいとどうしても考えてしまう。シルバー・バーチ自身は、いま、悲しみや苦しみのない霊界の高い界層にいるから、この地上の私たちの苦難も、身近なものとして感じ取りにくいのではないかと、つい思ったりもする。しかし、シルバー・バーチは続けてこう言っている。

 「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ---こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然とわかるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。」(栞A1-b)

 この「私は実際にそれを体験してきたのです」ということばは、私たちの胸に重く響く。このように、シルバー・バーチは、この悲しみや苦しみの意味を、自分自身の何百年、何千年の実体験を通じて熟知しているがゆえに、それらの霊的重要性を私たちに訴えようとしているのである。「そこで私のような古い先輩---すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ちうけている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです」と言い、「あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません」と確言している。(栞A1-h)





 52. 「思念は物質よりはるかに実感があります」 (08.01)

 戦後まもなく、私がまだ中学生であった頃、学校の図書館でたまたま読んでいた「リーダーズ・ダイジェスト」日本語版のなかに、次のような記事があった。アメリカ南部のどこかの店先で、黒人男性が白人女性をじろじろと見て、その視線が体にまつわりついたというのである。その黒人は訴えられ、婦女陵辱罪で有罪判決を受けた。私は、ただじろじろ見ただけで有罪にするなんて、なんとひどい人種差別かと、子供心にも、怒りを感じたことを覚えている。

 その後何年も経って、聖書のマタイ伝に、「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなた方に言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(5:27-28)とあるのを見て、あの時の黒人に対する有罪判決は、この聖書のことばが根拠になっているのだろうか、と思った。しかし、仮にそうであったとしても、じろじろ見たのが白人であれば、訴えられることもなかったであろう。黒人だから蔑視され、有罪にされたのであって、人種差別であったことは間違いない。

 さらに時がたって、いまの私は、思念は、実は、実在そのもので、強い力をもっていることを教えられている。「思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります」とシルバー・バーチはいう。(栞A9-a) 普段、私たちは、ものごとをことばで考え、そして、ただ頭の中で考えただけだ、というふうに言い逃れをしたりするが、霊的観点からは、「もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません」(栞A9-c)となる。

 そしてシルバー・バーチはこれを、つぎのようにも言っている。「あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります」。(栞A9-d)  私たちも本来、霊的存在であるから、こころに思うこと、考えることには力があることを知らねばならない。人知れぬ善意がおのずから広まっていくのも、ひそかな悪意が、まわりまわって結局は自分に向けられてくるのも、思念には力があるからである。祈りにこめられた思いも例外ではないであろう。思念とはエネルギーをもった実在であることは、霊界だけではなく、この地上世界でも通用する重要な真理なのである。





 51. 「魂の成長はあくまで個人的問題なのです」 (07.28)

 「霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです」(栞A13-h) とシルバー・バーチは教えている。一人ひとりが「別の世界に住んでいる」というのは、深く納得させられることばである。

 シルバー・バーチはさらに、「みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません」という。そして、「魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです」(栞A13-a) と個人的問題であることを強調している。

 その、魂の成長と開発と発達をうながすものが、苦しみや悲しみである。シルバー・バーチはここでも、艱難辛苦の意義を述べてこう続けた。「苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなたみずから苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じてはじめて進化が得られるのです」(栞A13-d) 

 このような教えをどう受け止めるか。それが私たち一人ひとりに与えられた課題なのであろう。これも、あくまでも個人的問題として、シルバー・バーチのつぎのことばに真摯に耳を傾けてみたい。「私の申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持は毛頭ありません。私は私の知り得たものを精いっぱい謙虚に、精いっぱい真摯に、精いっぱい敬虔な気持で披瀝するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです。これは受け取れませんとおっしゃれば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません」(栞A13-g)





 50.「睡眠中は肉体を離れて一時的に“死ぬ” わけです」 (07.25)

 霊界の壮麗さを私たちはいろいろと聞かされているが、その実情を地上世界の狭い視点で捉えることはむつかしいようである。シルバー・バーチも、「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」(栞A46-o )と言っている。

 その壮麗な霊界にいづれ私たちは行くことになるが、しかし、いきなり行ったのでは、生活環境のあまりに大きな違いに戸惑って、順応していくまでに長い時間がかかってしまうらしい。そこで、私たちは、その霊界理解のための準備を睡眠中に行うのだとシルバー・バーチはつぎのように言う。「睡眠中は肉体を離れて一時的に“死ぬ” わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります」。(栞A46-x)

 私たちが、睡眠中に霊界を訪れていることが意識にないのは、私たちの脳が霊界を理解するためにはあまりにも狭すぎるからであるらしい。シルバー・バーチによれば、「脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなもの」である。だから、睡眠中は私たちは脳からも離れて、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ることになる。その時点ではちゃんと意識して行動していても、朝肉体に戻ってくると、私たちはまた、狭い脳の制約を受けることになって、もうその体験は潜在意識のなかに沈んでしまうというのである。(栞A66-b)

 睡眠中に霊界を訪れる理由について、シルバー・バーチはつぎのようにも言っている。「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの魅力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです」(栞A66-c)





 49. 「物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです」(07.21)

 神戸の大地震で自宅が全壊したうえに火災で炎上し、所有物のすべてを一挙になくしたある弁護士に会ったことがある。その人は、「自分で所有物を処理するのはなかなか大変ですが、地震ではあっという間でした」と言いながら、かえってさばさばしたような表情を見せていた。その体験の意味を探るために霊的な勉強を始めるようになったという。シルバー・バーチが、地上生活では、「明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです」(栞A18-o)と語っていたのを思い出す。

 シルバー・バーチはこうも言った。「物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。と言うことは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。」そして、「そのことこそ地上生活において学ぶべき教訓であり、そのことを学んだ人は真の自分を見出したという意味において賢明なる人間であり、自分を見出したということは神を見出したということになりましょう」(栞A45-c)と続けている。

 さらに、こういうことばもある。「世間でいう成功者″になるかならないかはどうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。」また、それさえできれば、「自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきて、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます」(栞A45-d)とも教えている。

 しかし、やはり、この地上世界での限られた人間の能力では、私たちが体験する一つ一つの事態の持つ意義を正しく判断するのは容易ではない。だから、シルバー・バーチは、「判断できないところは、それまでに得た知識を土台として「すべてはよきに計られている」天の摂理に対する信念で補うしかないのだという。結局は、自分の生き方は自分の責任であって、ほかの誰の責任でもない。自分の自由意志で、「自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされる」のである。「それが摂理であり、その作用は完璧です」とシルバー・バーチは強調している。(栞A19-b)






 48.「光り輝く存在に会う時は私本来の霊格に戻るというに過ぎません」(07.18)

 人間には霊的な程度の差があり、霊界へ行くと、それぞれ、その人の霊的発達段階にふさわしい界層に所属することになる。しかし、その界層は、一つ一つが画然と仕切られているわけではないらしい。「霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ溶け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです」(栞A46-f)と、シルバー・バーチは言っている。

 この場合、上の界層の者は下の界層の者と接触できるが、下の界層の者が上の界層の者と接触することはできない。霊的波長が異なるためにコミュニケーションが取れないのである。シルバー・バーチの説明では、「あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしかできません。自分より上のレベルの者とはできません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルのものが受け入れられないからです。自分より下のレベルまで下りることはできます。自分の方が霊的にすぐれているからです」(栞A46-p)ということになる。

 それならば、光り輝く神のような存在と直に会って話をしているというシルバー・バーチ自身の霊格はどうなのか。あるときの交霊会で、誰かがつい、シルバー・バーチに対して「霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が光り輝く存在″と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか」(栞A46-w)と訊いてしまった。これは失言といってよいだろう。しかし、シルバー・バーチは率直に答えた。「いいえ。決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません」と。つまり、シルバー・バーチは光り輝く存在と同じ界層の人なのである。

 シルバー・バーチは、霊界で、「この地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けにしなければなりませんでした」(栞A46-w)と述べている。また、別の機会に、顔なじみの二人の幼児に対しては、「私は間もなく地上を離れ、いくつもの界を通過して私の本当の住処のある境涯へ行き、そこで何千年ものあいだ知り合っている人たちとお会いします。それからみんなで揃って大集会に出席して、そこであなたたちがイエスさまと呼んでいる方とお会いします。するとイエスさまは美しさとやさしさと理解と同情にあふれたお言葉を掛けてくださいます」(栞A46-l)と語りかけている。






 47.「イエスは霊的法則に精通した大霊能者でした」(07.14)

 「地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来事も、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました」とシルバー・バーチは述べている。(栞A12-b)

 では、バイブルの記録はどの程度まで真実なのか。それに対してのシルバー・バーチの教えはこうである。「福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません」

 ほかならぬこの「霊的自然法則」を私たちの世界に教え広めることが、シルバー・バーチの使命でもあった。霊界では、高級霊のもとに大霊団が組織されていて、シルバー・バーチは、その最高指揮者の指揮、監督のもとに地上に派遣されて仕事をしてきたのである。そして、その最高指揮者というのが、イエスなのだという。交霊会に度々出席するようになっていた二人の子供たち、ルースとポールには、「私たちはイエスさまの使節団なのです。イエスさまのお考えを地上の人たちに伝え、地上の人たちの考えをイエスさまにお伝えするのです」と話している。(栞A12-f)

 また、「イエスは神ではなく、人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました」とシルバー・バーチはいう。そしてイエスの真実の使命とは、「当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせること」であったと明かしている。(栞A12-b) その使命は、2000年の時を経てもいまなお終わることがない。それは、このように、シルバー・バーチによっても引き継がれてきたのである。






 46. 「私は自然の摂理をこの目で確かめることができました」 (07.11)

 シルバー・バーチが3千年前の人物であることはよく知られている。自分でも、「私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に「死んだ」のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです」(栞A46-f) と言ったりしている。

 霊界というのは、一種の階層社会で、霊的な資質に応じて霊界のどの階層に所属するかが決まっている。そこで、霊的に向上進化すると、「それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ溶け込んで」いくのである。シルバー・バーチは、その3千年の間に、「少しばかり勉強」してきたと謙遜した言い方をしている。「霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩して」いく。それは、この地上の物質世界からだんだん遠く離れていく過程でもある。やがては、「腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めて」いる地上世界へは、二度と接触する気持が起きなくなる段階に至ることになるらしい。(栞A46-f)

 ところが、 3千年前に死んで、霊界で高位の階層にいるはずのシルバー・バーチが、この「腐敗と堕落」の地上世界に戻って来ている。その存在がよほど不思議に思えたのであろうか、あるとき、交霊会の出席者の一人が、シルバー・バーチに、「人間的な年齢でいうと何歳になるのか」ときわめて素朴な質問をした。それに対してのシルバー・バーチの答えは、私たち迷いの多い凡夫にとっては、実に重い意味を持っている。「私がお教えしようとしている叡智と同じ年季が入っているとお考えくださればよろしい」といったあと、つぎのように続けた。

 「有難いことに私はこうしてお教えしている自然の摂理の驚異的な働きをこの目で確かめることができました。つまり、あなたがこれから行かれる霊的世界において神の摂理がどう顕現しているかを見ております。その素晴らしさ、その大切さを知って私は、ぜひとも後戻りしてそれを地上の方にも知っていただこう---きっと地上にもそれを受け入れて本当の生き方、すなわち霊的なことを最優先し、物的なことをそれに従属させる生き方に目覚めてくれる人がいるはずだと思ったのです。」(栞A37-s)





 45. 「無理して祈ることはありません」 (07.07)

 あるときの交霊会で、女性の読者からの質問が読み上げられた。「汝が祈り求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん」というイエスのことばは、愛する者への祈りにはあてはまらないのではないかというのである。「愛する者への祈り」というのは、はっきりしないが、女性が誰かを愛して祈っても、その人は「すでに授かったのと同然」 にはならない、というようなことかもしれない。

 それに対してシルバー・バーチは言った。「この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。」(栞A4-r)

  聖書による「祈り求めるものはすでに授かりたるも同然と信ぜよ」という祈り方の例は、たとえば、ヨハネ11章(41-42) のイエスの祈りである。死んで4日も経っているラザロを生き返らせるときに、イエスは、祈りは必ず聞き届けられることを知っていて、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します」と、祈りが実現する前に、まず感謝のことばを述べている。それから、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と叫ぶのである。死んでいたラザロは生き返って、「手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま」洞穴の墓の中から出てきた。

 この祈りのもつ力について、シルバー・バーチは、「自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きます」と述べている。(栞A4-o) 要するに利己的でない真摯な祈りは必ず報いられるのであろう。私たちに対しては、つぎのようにも述べた。「あなた方を悩ます、全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と直正面から取りくんだ時---解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。(栞A4-i)




 44.「死ぬ時期は霊みずから選択しているのです」 (07.04)

 人間が生を受けてから死ぬまでの生物学的な命は、いくら引き伸ばしてみたところで、せいぜい100年である。たいていは70年、80年に至らぬままに終わる。この僅かばかりの時の流れの中で、仮に30年と80年とを比べてみるのであれば、その差は極めて大きく、その大きな差は、そのまま深い絶望的な悲しみの差となって跳ね返ってくることであろう。しかし、永遠のいのちからみれば、30年、50年の差は決して大差ではない。おそらく小差でさえないであろう。その差は限りなく零に近い。(論文集「信仰と救済」8章)

 世間では、長生きはめでたいことと思われるのが普通である。誰かが年若くして死ぬようなことがあれば、それはなによりも不幸なこととして同情され、残された家族は、その分まで長生きしてください、と言われたりもする。しかし、体力、気力、知力の衰えをあらわにしながらでも、たとえば、100歳まで生きることが本当に幸せなのだろうか。それが判断できるためにも、私たちが霊的には永遠の存在であることを知る必要がある。「あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません」とは、シルバー・バーチのことばである。(栞A2-r)

 シルバー・バーチがこのように繰り返し指摘しているのが、私たちのものの見方の地上的狭さである。「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます」(栞A2-r)といい、さらにつぎのようにさえ述べた。「死というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。」(栞A2-b)

 私たちがこの世に生を受けるときには、何も知らずに誕生してくるのではない。「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して」親と環境を選んで誕生してきたはずであった。(栞A36-a) そして私たちは、ここでもう一つの真実を明かされる。死ぬ時期も実はみずから選んでいるという真実である。「あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」。(栞A2-r) そして、これらの選択は、「実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけ」なのである。(栞A36-a)


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