「今日の言葉」 2006 (1月- 6月)


 121. 「死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません」 (06.26)

 私たちにとって、愛する家族を亡くすということは耐え難くつらいことである。シルバー・バーチも勿論そのことはよく知っていた。あたたかい口調で、「地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れて行かれた時に平然としていることは、容易なことではありません。死という身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう」と述べている。しかしなお、そのうえでシルバー・バーチは言うのである。でも「それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを認識すべきです。」(栞A41-t)

 そのように言われても、私たちはやはり、死別の悲しみはなかなか抑えることは出来ない。そのような私たちに、シルバー・バーチはさらにこう続ける。「その死別という試練に直面した時に自分をどう慰めるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。しかし死は愛によって結ばれた者を引き裂くことはできません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力はけっして見捨てません。必ずや援助の手が差しのべられます。」(栞A41-t)

 この「霊の力」とは何か。亡くなった家族たちから、ほかならぬ自分に向けられている強力な愛のエネルギーである。愛する家族を亡くして悲しみにくれている場合、おそらく何よりも大切なことは、このような霊の力が霊界から守ってくれているのを知ることであろう。愛する家族はどこか遠くへ行ってしまって、家族の絆が切れてしまったわけではない。「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなたがたを動かしています」とシルバー・バーチは教えてくれている。(栞A47-h)

 肉体に閉じ込められている私たちの鈍重な感覚では、この愛のもつ強いエネルギーを理解することは容易ではない。しかし、見えないからといって愛する家族が傍にいないわけではなく、背後霊となって私たちを守ってくれていることにはかわりはない。それをシルバー・バーチはつぎのように言う。「私はいつも思うのですが、地上の人々、中でもとくに霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感をもって認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿を一目ご覧になることができれば、と思うのです。その影響力の大きさを知ることができたら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。」(栞A41-t)






 120. 「霊界でも容貌を具えた実在の個的存在です」 (06.19)

 私たちの肉体は死ぬと焼かれて灰になる。それでは霊界へ行った時の体はどうなっているのかというのは、誰もが抱きやすい疑問である。交霊会でもあるメンバーが、「霊界へ行っても地上と同じように何らかの形体を具えるのでしょうか」と、シルバー・バーチに訊いた。それに対して、シルバー・バーチはユーモラスにこう答えた。「幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。また他人を認識するための感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部そろっています。」(栞A46-zj)

 シルバー・バーチはさらに繰り返した。「ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能して行く上で必要な霊的器官を具えています。」 そして、こう付け加えた。「よく理解していただきたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり実感があり、霊というと何だが影のようで実体がないかに思えるのでしょうが、私たち霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。」(栞A46-zj)

 ただ、私たちが持っているようなことばをしゃべるための器官は、霊にはない。霊界では思念だけで十分に通じ合えるから、もともと不完全なことばではしゃべる必要がないからである。「お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることができるのです」とシルバー・バーチは述べている。(栞A46-zj) では、そのような思念だけで通じ合える霊界というのは、一体どこにあるのであろうか。

 この、人間が太古の昔から繰り返してきた極めて重要な問いに対して、霊界とは「要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです」とシルバー・バーチは端的に答えている。そして、つぎのように重大な真実を明かした。「死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しないかぎり、それが認識できないというにすぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。」(栞A24-p)






 119. 「長生きをすること自体は大切ではありません」 (06.12)

 ある時の交霊会で、「たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら150歳までは生きられるのではないかと思うのですが」とメンバーの一人が期待を籠めて訊いた。それに対してシルバー・バーチは答えた。「肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。」(栞A57-i)

 シルバー・バーチはさらにこう続けた。「肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。」(栞A57-i)

 「寿命というものは忘れることです」と言い、長生きをすること自体は大切ではない、とも言っているのは、生命の永遠性が理解できれば当然のこととして納得できる。「地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります」ということである。(栞A57-e)  つまり、この地上に生まれてきて、10歳や20歳で死のうが、100歳や150歳まで生きようが、いのちの本質からみれば、その差は、限りなくゼロに近い。どちらであろうと、ほとんど同じなのである。

 シルバー・バーチの教えでは、地上的存在には不滅はありえず、物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められている。大自然の摂理の一環として私たちの物的身体もそのパターンに従うことになる。しかし、生命は滅びることがない。「あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます」というのである。そして、こうも述べた。「そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです。」(栞A56-j)






 118. 「守護霊がいる事実を自覚している人が何人いるでしょうか」 (06.05)

 今この世に住んでいる私たち一人ひとりに、私たちの生きかたを指導し、生活を守ってくれる専任のカウンセラーのような人がついていて、教師、弁護士、医者、救急隊員のような役目をすべて果たしてくれるとすれば、どんなに心強いことであろう。しかし、そのような「専任のカウンセラー」は本当についてくれているのである。守護霊であり、指導霊である。ただ、眼には見えないだけに、私たちの多くは、そのことに気がついていないにすぎない。シルバー・バーチも、「各自に守護霊がいることは事実ですが、ではその事実を本当に自覚している人が何人いるでしょうか」と言っている。(栞A74-e)

 このように守護霊から守られているのに、その自覚がなければどうなるか。無意識の心霊能力をもち合わせていないかぎり、守護霊は援助のための霊力を発揮することができないのである。シルバー・バーチは続けて言う。「霊の地上への働きかけはそれに必要な条件を人間の方が用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡のとれる条件を用意してくれれば、身近かな関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かされる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の方から手を差しのべてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。」(栞A74-e)

 一人ひとりについてくれる守護霊は、血縁関係のある霊もいれば、地上的な縁故関係はまったくなくても、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感によって結ばれる場合もあるという。(栞A74-a) その働きは、「不思議な体験」、「奇跡的救出」などだけではない。「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです」とシルバー・バーチは述べている。(栞A74-i)

 それでは、そのような守護霊や指導霊に私たちが援助を求めるにはどうすればよいか。シルバー・バーチはこう教えている。「困難が生じたときは平静な受け身の心になるように努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から― まだ十分には開発されていなくても― 必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。」(栞A74-k)






 117. 「祈りとは神との繋がりをより緊密にすることです」 (05.29)

 祈りとは自分の利己的な要望を神に嘆願することではない。私たちが心の中に抱いている思念については、神は先刻ご存知なのである。要望は口に出される前にすでに知られているということである。それなのになぜ祈るのか。それは、祈りが私たちのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段であるからであるシルバー・バーチは言う。「利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、そのときの高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。」(栞A4-a)

 では、その祈りは誰に向けられるべきか。シルバー・バーチはこう教えている。「全ての祈り、全ての憧憬は神へ向けるべきです。ということは、いつも嘆願を並べ立てなさいという意味ではありません。」 そして、つぎのように続けた。「祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。そうすることが結果的に私たちの生活を高めることになるとの認識に基いてのことです。意識を高めるということは、それだけ価値判断の水準を高めることになり、かくして自動的にその結果があなた方の生活に表われます。」(栞A4-e)

 シルバー・バーチが繰り返し強調しているのは、人のために奉仕することの重要性であり、そのための祈りの効用である。いつか、交霊会のメンバーたちに対する挨拶のなかでも、こう述べたことがあった。「援助を求める祈りが聞かれないままで終るということはありません。人のために何か役立つことをしたいという願いが何の反応もなしに終ることはありません。霊界においては、自分より恵まれない人のために役立てる用意のある地上の人間を援助せんとして万全の態勢を整えております。ただ単に霊感や啓示を手にすることができるというだけではありません。霊力という具体的なエネルギーの働きかけによって、受け入れる用意のできた魂にふんだんに恩恵がもたらされるのです。」(栞A39-b)

 それでは、シルバー・バーチ自身の祈りはどうであったか。シルバー・バーチは、交霊会が開かれる度に神に祈りを捧げていた。しかもその祈りは、決して型にはまった決まり文句の繰り返しではなかった。格調の高いその祈りの言葉には一つとして同じものがない。その日の交霊会の挨拶のあとでも、シルバー・バーチは、神への祈りの最後にこう述べている。「私どもの仕事は、神の子等が内部にその可能性を宿している燦爛たる光輝を発揮させる崇高な知識を授けることです。これまでに私どもが授かった恩恵への感謝の表明として、私どもは今後ともその崇高な叡智と霊力の通路たるにふさわしい存在であり続け、恵まれない人々を救い他の人々に救いの手を差しのべ、生き甲斐ある人生の送り方を教える、その影響力の及ぶ範囲を強化し、そしてますます広げていく上で少しでもお役に立ちたいと祈る者です。」(栞A39-b)






 116. 「神の概念を完全にお伝えすることは不可能です」 (05.22)

  かつてナポレオンがエジプトへの航海中、ある星の降るような夜に、お供をしていた数名の無神論の学者に向かってこう尋ねたという。「しかし、諸君、あの星は一体だれが創ったのかね?」 無神論者は論外としても、神は在るのか、在るとすればどのような存在なのか、という極めて重要な問題に私たちが答えを見出すのは難しい。私たち地上の人間というのは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五つの感覚でしか物事を判断することができない不完全な存在である。不完全であるがゆえに、完全が理解できず、人間が個体性を具えた限りある存在である以上、個体性のない無限の存在を理解することはできないのである。(栞A44-n)

 シルバー・バーチは、「神の概念を完全にお伝えすることは不可能です。神は無限です。一方、言語や概念、心象といったものはどうしても限界があります。小なるものが大なるものを包みこむことは出来ません。が、宇宙をご覧になれば、ある程度まで神についての概念をつかむことが出来ます」と言う。そして次のように続けた。「この大宇宙は法則によって規制されているのです。千変万化の諸相を見せていながら、その一つ一つに必ず配剤がなされているのです。見えないほど小さいものであっても、途方もなく巨大なものであっても、動き、呼吸し、存在しているものはすべて自然法則によって支配されているのです。」 そして、このすべてを支配し、統制し、指揮している無限の愛と叡智の権化としての神の概念を、「私は“大霊”と呼んでいるのです」と述べている。(栞A44-s)

 その大霊の霊力について、シルバー・バーチは、「地上で知られているいかなる力よりも強大です。これまでその力が成就してきた数々の驚異をこの目で見てきている私は、その力に全幅の信頼を置いております」と語ったことがある。(栞A47-m) そして、「無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません」と教えている。(栞A10-h)

 シルバー・バーチは霊界で3千年を生きてきて、このように神の存在を身近に実感し、その摂理を体験し、その霊力を直接自分の目で見てきだだけに、そのことばには格段の重みがあると言わなければならない。別の機会には、次のようにも述べた。「私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊力に不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる愛の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。もしも地上人類が、その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることができれば、地上生活は一変することでしょう。」(栞A44-o)






 115. 「地上世界の特異性は対照性ないしは両極性にあります」 (05.15)

 世の中には悪事を働く者が後を絶たない。詐欺、窃盗、横領、暴行、放火、殺人等々、次から次へと暗いニュースが毎日のように流れる。夜泣きがうるさくて眠れないからといって、若い父親と母親が共同で、生後八か月の幼女を風呂の水の中に入れて窒息死させてしまったという話なども聞かされると、何の罪もない赤ちゃんが哀れで、本当に、「神も仏もあるものか」などと思いたくもなる。しかし、シルバー・バーチは言う。「私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。」(栞A58-b)

 神は無限絶対の存在である。だから神は善だけではなく悪にも、存在の全てに宿るのである。そして、その善悪の共存がこの地上世界の特異性でもあるらしい。霊界では、各界が同じ性質の霊で構成されていて対照的なものが存在しないから、このような特異性はあり得ないのである。「地上世界の特異性は対照性、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです」とシルバー・バーチは述べている。そして、そこにこそ、私たちがこの世で修行する意味が込められているといってよい。「地上生活の目的は善悪さまざまな体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです」ということになる。(栞A10-n)

 「暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意志にかかわる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです」というのは、きわめて説得力のあることばであるといえよう。(栞A58-b)

 シルバー・バーチは続けて言う。「地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。」(栞A58-b)





 114. 「苦を味わわねばならないということです」 (05.08)

 私たちは欠点の多い人間である。というより、欠点が多いから人間であるというべきなのであろうか。シルバー・バーチは、人間というのは本来、欠点を持った不完全な存在であることを、自分のことをも含めて、次のように語っている。「われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。」(栞A56-i)

 私たちは欠点の多い不完全な人間だから、この世に生まれてきた。だから、人間として欠点が多く不完全であるのは当然のことなのである。そのことで、あまり劣等感のようなものを持つ必要はないのかもしれない。ただし、この世に生まれてきた以上、私たちは修行を積むために、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の厳しい浮き沈みというものに直面しないわけにはいかない。そして、「そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです」とシルバー・バーチは言う。(栞A56-i)

 欠点の多い人間として生まれ、人生の浮き沈みに翻弄されて「不幸のどん底」にまで落ちたら、普通は、よほど運が悪いのではないかと嘆き悲しんだりするものだが、それは心得違いというものであるらしい。シルバー・バーチは、地上に生を受ける意味を、こうも教えている。「苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。」(栞A56-k)

 人生が平穏無事で、カネやモノにも不自由せず何の苦労もないことを、人びとは「幸せ」と呼ぶ。しかしそれだけで終わってしまったら、それは実は、大変不幸なことなのであろう。折角、欠点の多い不完全な人間としてこの世に生まれてきた意味がなくなってしまうからである。「魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです」とシルバー・バーチは繰り返す。(栞A56-k) 「それ以外に方法はない」とまで言われているのを、私たちはしっかりと、肝に銘じていかねばならない。





 113. 「霊団をバックにすると自信をもって語ることができます」 (05.01)

 ある時の交霊会でシルバー・バーチは、レギュラーメンバーに対して、「こうした形で私にできる仕事の限界をもとより承知しておりますが、同時に自分の力強さと豊富さに自信をもっております」と切り出した。そして、そのように言う理由について、「自分が偉いと思っているというのではありません。というのは、私自身は私をこの地上に派遣した神界の高級霊の道具にすぎないからです。が、私はその援助のすべてを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです」と述べている。(栞A39-a)

 シルバー・バーチは、さらにこう続けた。「私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると自信をもって語ることができます。霊団が指図することを安心して語っていればよいのです。」 そして、その霊団とは、威力と威厳にあふれ、進化の道程をはるかに高く昇った光り輝くスピリットたちであるという。シルバー・バーチはそのような高級霊の組織を神庁と呼び、時折その会議にも出席するらしい。しかも、「その神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっている」というのだから、神界というのは確かに、私たちの想像をはるかに超えて、限りなく広く深く組織された光の世界なのであろう。(栞A39-a)

 このような神界の高級霊の存在が背景にあることを考えると、私たちも、シルバー・バーチの類まれな叡智のことばも私たちなりに納得できるような気がする。そして、つぎのような一読者のことばにもこころから共感を覚えるのである。「文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです。」(栞A38-a)

 そのシルバー・バーチはここでも威厳と愛をこめて私たちに告げる。「語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶なさるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています」と。最後にはしみじみと次のように付け加えた。「あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。」(栞A39-a)





 112. 「自殺しても苦しみが消えるわけではありません」 (04.24)

 ある日の交霊会で、大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書が読み上げられ、シルバー・バーチの意見が求められた。シルバー・バーチはこう語った。「地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。」(栞A78-e) この「障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられている」ということばには深く考えさせられる。

 シルバー・バーチは「物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます」(栞A78-f) と言って、さらにこう繰り返した。「苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです。」(栞A78-e)

 しかし、「神の公正」といわれても、自分のおかれた状況が不公正で神も仏もあるものかと思うからこそ、人は自殺を考えるのである。その様な発言を聞いて、シルバー・バーチは答えた。「分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます。・・・・無限の知識にくらべると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、そのわずかな知識しかもたない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません。」(栞A78-f) つまり、少しでも多く知った知識を有効に活用すれば、別の道が拓けるはずだというのである。

 別のところではこうも言った。「いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです。」(栞A78-h)





 111. 「唯物思想は撲滅しなければならない悪性の腫瘍です」04.17)

 ある時の交霊会に、ともに霊能者であるイギリス人の夫とアメリカ人の妻が招かれていた。夫妻はアメリカに住んでいて、いろいろと困難に立ち向かいながら心霊治療で奉仕一筋の生活を送っている。その夫妻にシルバー・バーチは言った。「お二人が住んでおられるアメリカでは、宇宙の大霊である神よりも富の神であるマモンの方が崇拝の対象として大いにもてはやされています。だからこそお二人にはいろいろとしなければならないことがあるわけです。どこで仕事をなさっても、必ずそこに霊の勢力が待機し、霊の光が輝いています。縁あってお二人のもとに連れてこられる魂の力となってあげることになります。」(栞A29-h)

 さらに、こうも言った。「あなた方は物質中心思想という悪性のガンと闘っている霊の大軍に所属しておられます。唯物思想は何としても撲滅しなければならない悪性の腫瘍です。これが人類を肉体的にも精神的にも霊的にも病的にしているのです。」(栞A29-h)モノ中心、カネ中心の考え方は、人間にいろいろな心の歪みをもたらせたきた。そして、その行過ぎた形が現代のアメリカ社会の荒廃に現れている。物質的には豊かであるかもしれないが、こころの豊かさが失われてきているのである。それは、アメリカの物質中心主義に追従してきた日本にもあてはまることではないか。

 アメリカはキリスト教が盛んで、それなりの善意に満ちた社会的貢献をしているのだが、やはり、この物質中心主義を撲滅する力はないようである。そこには霊力が存在しないからである。シルバー・バーチに言わせれば、既成宗教は、「一時的には勢力を伸ばすことはあっても、霊力というものを持ち合わせません。大霊からの遺産としての霊的資質がもつ影響力に欠けております」ということになる。つまり、この行過ぎた物質中心主義を正していくためには、人間は本来霊的な存在であるという原点に立ち返らなければならない。その原点へ導く霊的知識の普及が何よりも重要なのである。

 シルバー・バーチは、改めて、この霊能者の夫妻に言う。「地上には為さねばならないことが沢山あります。今の時代はとくにそうです。邪悪な勢力がのさばっています。利己主義が支配しています。既得権力が崩れ行くわが城を守ることに懸命です。こうした中であなた方がたった一つの魂でも真の自我に目覚める上で力になってあげれば、それは大へん価値のあることです。」(栞A29-g) そして、「幻影ばかりを追いかけている世界において、あなた方は真理の存在場所を教えてあげることが出来ます。口で説かれることを実地に証明してみせることが出来ます。それは誰にでもは出来ないことです。偉大な仕事です」と夫妻を励ました。(栞A29-h)





 110. 「いかに贔屓目に見ても敵対する人間の方が間違っております」04.10)

 シルバー・バーチは、自分がこの地上へ戻ってくるのは、人間の注意を霊的実在へと向けさせるためであると言う。そして、「ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上とのかかわりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。ですから私たちの尽力は全て自発的なものです。それは人類愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです」と続けた。(栞A59-a)

 また、この地上での任務は、「霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けること」であるとも言った。「ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります」と、誠意を披瀝している。(栞A59-a)

 問題は、そのような善意からの「最高の贈り物」が、拒絶されるだけではなく、しばしば悪意と中傷で報われることである。「私たちからお贈りできるものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分からないのです」とシルバー・バーチは嘆く。そして、「いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです」と断じた。(栞A59-a) この敵対する最大の勢力の一つがキリスト教である。

 シルバー・バーチは、たとえば、聖書のイエスの誕生にまつわる星と三人の賢者の話は、「どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です」と言っている。(栞A12-c) 「イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです」とも述べた。(栞A12-b)




 109. 「人間はパンのみで生きているのではありません」 (04.03)

 ある日の交霊会で、人類は原爆の恐怖にどう対処すればよいか、という質問が出された。シルバー・バーチは、つぎのように答えた。「問題のそもそもの根元は人間生活が霊的法則によって支配されずに、明日への不安と貪欲、妬みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながらお互いに扶け合い協調と平和の中に暮したいという願望は見られず、我が国家を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも我が階層を豊かにしようとする願望が支配しております。すべての制度が相も変わらず唯物主義の哲学を土台としております。」(栞A55-d)

 このことばは、さらにこう続く。「誰が何と言おうとこの世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだと考えています。そしてそれを土台としてすべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまりたった五つの感覚で得られるほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。」(栞A55-d)  これらのことばは、いまでもそのまま、現代の世界情勢の底流を流れる人間の考え方をよく映し出しており、私たちが、最近の日本社会の動向を考える上でも多くの示唆をあたえてくれる。

 シルバー・バーチは別のところではつぎのようにも述べた。「人類は物質的な面で大きく飛躍しました。大自然の仕組みについて多くの発見をしました。山頂を征服し海底を探査するようになりました。大陸と大洋を横断するようになりました。物質的な面では非常に高度なものを成就しました。驚異的な発達ぶりであったと言えましょう。しかし、同じ発達が精神面と霊的な面に見られないのです。人類は物質と精神と魂のうちの物質面だけが異常に成長してしまいました。他の二つの側面がそれについて行っていないのです。それが利己主義という、地上でもっとも厄介な罪を生むことになったのです」(栞A55-e)

 この物質文明への偏向と肥大した利己主義が、一方では、一部の人たちを極端に豊かにしている半面、他方では、多くの人々の貧困や飢餓を生み出し、そして、それが騒乱やテロを誘発する温床となっている。問題は原爆の恐怖だけではない。それらを少しでも正していくためにはどうすればよいのか。シルバー・バーチは「人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう」という。そして、「人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在以上のものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを測り知ることのできない巨大な宇宙の中での千変万化の生命現象の根元的要素である霊とまったく同じ不可欠の一部なのです」と付け加えた。(栞A55-d)





 108. 「重要なのは魂が目を覚ますということ、そのことです」(03.27)

 霊力とは神の力にほかならない。それを地上に根づかせることが霊団の地球人類を導くための努力の背後にある目的であるという。霊力には魂に感動をもたらし、その生命に目覚ませる力があるからである。地上にあって、物的惰眠から目覚める段階まできた魂は、霊能者の行動範囲に自らやってくるか、あるいは霊能者の方から訪れて、霊のタネが蒔かれる。「そのように導かれるのです」とシルバー・バーチは述べている。蒔かれたタネには神性が宿されている。やがて芽を出し、花を咲かせ、その魂は真の自我を発揮しはじめることになる。(栞A40-e)

 地上生活のそもそもの目的は「人間が身体的・精神的・霊的の全側面を活用して生活することであり、その三つの側面が機能するに至るまでは本当の意味で生きているとは言えない」。だからこそ、真に生きるためには霊的な目覚めがどうしても必要になる。シルバー・バーチは、「身体と精神のみで生きている間は影と幻を追い求め、実在に気づかずにおります。霊的自我が目覚めてはじめて、驚異的な霊的可能性と冒険への扉が開かれます。地上という物質の世界へ生まれて来たのは、その霊的自我を開発するためです」と教えてくれている。(栞A40-e)

 しかし、実は、魂が目覚めるというのは容易なことではない。シルバー・バーチも「その目覚めがどこで生じるかは重要ではありません。重要なのは魂が目を覚ますということ、そのことです」と言ったあと、「地上生活に悩みと苦しみが絶えないのはそのためです。悩み苦しみ抜いた末に、もはや物的なものでは救いにならないと観念した時に、霊的なものへ目を向ける用意ができたことになります」と続けている。(栞A40-e) 「霊的資質は永いあいだ潜在的状態を続け、魂が十分に培われた時点でようやく発現しはじめるものです。それが基本のパターンなのです。すなわち悲しみや病気、あるいは危機に遭遇し、この物質の世界には何一つ頼れるものはないと悟った時に、はじめて魂が目を覚ますのです」とも述べた。(栞A29-g)

 このように、魂が目を覚ますためには、それなりの用意ができていなければならないことをシルバー・バーチはしばしば強調する。国際スピリチュアリスト連盟総会での講演会では、評議員たちの前で、相手に用意がなければ魂の目覚めは期待できないことをこうも言った。「要は魂に訴えるために最善を尽くすことです。感動を与えるのです。悲しんでいる人を慰め悩んでいる人の心を癒すようなメッセージを届けて、魂を目覚めさせるのです。その魂に受け入れる用意があれば、きっと成果が出ます。受け入れる用意がなければ何の成果も出ません」。(栞A40-g)





 107. 「私たちの世界では思ったことがそのまま現実となるのです」 (03.20)

 死後、霊界へ行っても、いつまでも自分の身の上に何が起きたかが分からずにいる人もいるらしい。「私たちが手を焼くのは、多くの人が死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来ることです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外ではあり得ないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。私たちの世界は精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」とシルバー・バーチは言っている。(栞A24-f)

 ある時の交霊会で、最後の審判の日を待ちながら、何百年も暗い埋葬地で暮らしている霊 (地縛霊の一種) の話が出たことがあった。そのような霊が本当にいるのか、と訊かれたシルバー・バーチは、こう答えた。「そのような霊がいるのは本当の話です。それが私たちにとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。」(栞A46-i)

 この場合も、そう信じていることが現実の世界になっているわけだから、その思い込みが改められない限り、霊界ではそれが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けることになってしまう。シルバー・バーチは、続けて言った。「死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めないかぎり、私たちもどうしようもないのす。自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像がつかないでしょう。」(栞A46-i)

 私たちは、死んでからも実は生き続ける。というより、「人間は死んで初めて真に生きることになる」のである。(栞A2-b)  だから、そのことを知らず、地上だけでしか生きられないと固く信じ込んでいる人は、霊界の生活には容易には順応できない。シルバー・バーチは霊界に居て、そのような地上生活の落伍者ともいうべき人間が、霊的に無知のまま何の備えもなく次から次へと送り込まれて来るのを、目の前で見ているのである。「その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが」と、つい嘆きを洩らすのも無理ではないであろう。(栞A59-a)





 106. 「霊的教育はあなた方が地上でやるべき仕事です」 (03.13)

 私たちが死んで霊界へ行ったときにはどうなるのであろうか。未知の世界へ踏み込むようなもので、不安な人も多いかもしれない。しかし、案ずることはないようである。霊界では、受け入れ態勢が実によく出来ているらしい。「迎えに来てくれる人が一人もいないのではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います」と、シルバー・バーチは言ってくれている。(栞A46-d)

 シルバー・バーチはさらに、こう付け加えた。「誰一人見捨てられることはありません。誰一人見失われることはありません。誰一人忘れ去られることもありません。すばらしい法則がすべての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。地理上の問題は何の障害にもなりません。こちらには距離の問題がないのです。霊界全体が一つの意識となって、全てを知り尽くしております。地上と霊界との間の親和力の作用によって、今どこそこで誰が死の玄関を通り抜けたかが察知され、直ちに迎えの者が差し向けられます。」(栞A46-d)

 ただ、問題は、死とは何であるかを知らず、霊界についても無知のまま大勢の人々が霊界へ押しかけていくことである。「こちらの世界はそちらからやってくる人たちによって構成されております。そちらから未発達霊を送り込んでこなければ何一つ問題は起きないのですが、現実には何の準備もできていない、適合性に欠ける無知な霊を次々と送り込んでおります。小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、なかなか難しいものです」とシルバー・バーチは述べている。(栞A13-l)

 私たちは、やがて一人の例外もなく訪れることになる霊界について、本来なら、少なくとも小学校レベルのオリエンテーションぐらいは、みんなが受けておくべきものであろう。しかし、実際はそうではない。「自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です。つまり肉体の死後にかならず訪れる次の生活に備えさせるように指導することです」ということばを、私たちは謙虚に受け止めていく必要がある。(栞A13-l)





 105. 「彼らは霊的実相については死んだ人間も同然です」 (03.06)

 「地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか」とシルバー・バーチは、神の計画は絶対に狂わないことを強調する。そして、次のように続ける。「本来は人間もその定められた計画にそって進まねばならないのです。正しい生き方とは何であるかを、みずから学んで行かねばなりません。そうすることが人間としての神への貢献となるのです。」(栞A68-p)

 私たちは、正しい生き方とは何であるかを学び、同時に、神の大事業に誰でも何らかの貢献をすることができる。霊的知識の普及において、苦しんでいる者、悲しんでいる者の荷を軽くしてあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力を示すことにおいて、である。「われわれは大いなる神の計画の中に組みこまれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは断じてないこと」をシルバー・バーチは確言している。(栞A68-n)

 私たちが、この世に肉体を持って生まれてきた目的は何であろうか。「居眠りしている魂がその存在の実相に目覚めること」であるとシルバー・バーチは言う。地上世界では、毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯の状態であり、「彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です」というのである。だから、そういう人たちの中のたった一人でもよい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為はない、と人間としての神への貢献の道を示唆している。(栞A68-c)

 同じことを、別のところでは、つぎのようにも述べた。「地上に肉体をたずさえて生まれて来るそもそもの目的は、魂が真の自我を見出すこと、言いかえれば、宿された神性に点火し、燃え上がらせ、輝かしい炎とすることです。残念ながら必ずしもそういう具合に行かないのが実情です。迷信と無知の暗闇、疑念と恐怖と困惑の泥沼の中で過ごす人が多すぎるのです。そうした中で一人でも真理に目覚めさせてあげることができれば、それだけであなたの存在価値があったことになります。たった一人でいいのです。それで十分なのです。」(栞A68-o)





 104. 「イエスの誕生には何のミステリーもありません」 (02.27)

 シルバー・バーチは、イエスをよく知り、霊界では今でもじかに会える立場にある。それだけに、イエスについて述べられている次のようなことばには重みがある。「地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来事も、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。」(栞A12-b)

 イエスは、全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではない。「いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“大霊”とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜こばれません」とも述べている。(栞A12-u)

 イエスは神ではなく人間であった。だから、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することになる。イエスは、物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者であり、今日でいう精神的心霊現象にも精通していたのである。そして、イエスの使命とは、「当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせること」であった。(栞A12-b)

 「イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変らぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました」とシルバー・バーチは言う。(栞A12-u) そしてイエスは、「人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則---愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました」と、その比類なく高い人間性と業績を称えている。(栞A12-b)





 103. 「人間と動物との共存共栄こそが摂理なのです」 (02.20)

 シルバー・バーチは人間が動物を虐待することの罪深さを強く警告している。ある日の交霊会では、次のように述べた。「貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです。(栞A76-q)

 当然、動物実験に対しても、シルバー・バーチの目は厳しい。「動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです」と言う。そして、こう続けた。「人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。」(栞A76-r)

 日本にも、動物実験をめぐる文部科学省の基本指針がある。動物実験の国際理念である「3R」(苦痛の軽減、代替法の活用、使用数の減少)が2005年の動物愛護管理法の改正で初めて盛り込まれたが、動物実験そのものは、「必要であり、やむを得ない手段」と位置づけられている。(2006.1.31「朝日」) しかし、これもシルバー・バーチによれば、「人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております」ということになる。(栞A76-r)

 シルバー・バーチの教えはこうである。人間と動物との「共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。」(栞A76-r)





 102. 「愛はその対象から切り離して存在することはできません」 (02.13)

 私たちが霊界へ行った時、この地上で別れた愛する家族との再会が待っているというのは、何よりもこころ暖まる霊界の真実である。シルバー・バーチは、その愛する者との再会を、「どこやら遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられる」と証言してくれている。(栞A21-a)

 しかし、同じ家族でも、お互いに愛の絆によって結ばれていない場合は、霊界での再会はむつかしいようである。これは恋人同士の場合も同じである。「愛し合っている二人のうち、片方が先に他界した場合、残された方が後に他界した時に、間違いなく霊界で待ってくれくれているか」という質問に対して、シルバー・バーチは、「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません」と答えている。(栞A21-b)

 霊界での再会のためには、もう一つの条件が考慮されなければならない。再会するもの同士の霊的な発達レベルである。ある時の交霊会で、私たちが霊界へ行った時、かつての地上での仲間や親族と一緒になれるかという質問が出されたとき、シルバー・バーチは、「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます」と答えた。これは、逆にいえば、私たちが、その人たちと同じ霊的発達段階に至っていなければ、再会は難しいということになる。(栞A21-c) いずれにせよ、霊界での再会は、誰にでも無条件に保証されているものではないようである。

 だから、一緒に死亡した家族であっても、霊界では必ずしも一緒であるとは限らない。死後の世界では、結ばれたいという願望が大切な絆となって結ばれるのであって、そうでなければ、その家族は、霊界ではあっさりと消滅してしまう。たとえば、夫婦関係でも、結婚というしきたりだけで結ばれている夫婦の場合は、霊的には結ばれていないということになる。シルバー・バーチは、「こうした夫婦の場合は死が決定的な断絶を提供することになります。が反対に霊的次元において結ばれている場合は、死がより一層その絆を強くします」と述べている。(栞A46-e)





 101. 「動物を殺さないと生きていけないというものではありません」 (02.06)

 ある時の交霊会で、人間が生きていくためには、「動物の卵や乳を横取りし、もっと酷いこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強引な泥棒的生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを“愛の造物主”の概念とどう結びつけたらよいのでしょうか」という質問が出された。これに対して、シルバー・バーチは次のように答えた。

 「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きていけないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。」(栞A76-p)

 古来、ヨーロッパでは、風土的制約から農業生産性は低く、肉食に頼らねば人間は生きていけなかったから、動物を殺すというのは生活の一部になっていた。そのような背景も考慮されたのであろうか、シルバー・バーチは、さらに付け加えて、こう述べている。「人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。(栞A76-p)

 しかし、近年の、動物に投与している抗生物質などが人間の体内へも入ってきている事実については、「それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません」と厳しい指摘をしている。(栞A76-q) だから、“殺害”の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいという。霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければならないからである。(栞A76-p)





 100. 「進化した霊は贅沢への願望は持ち合わせないものです」 (01.30)

 人のため世のために奉仕の道一筋に生きている人は、必ず霊界からの援助を受けることができるといわれている。ある日の交霊会に、中央アフリカおよびインドを中心に治療活動を続けている二人の治療家が招かれた。二人は奉仕的精神から治療費をいっさい取らないので、時には生活費が底をつき、食べるものにも事欠くことがあったりもしたらしい。しかし、「神はその分霊の物質界での顕現の手段として創造された身体にどんなものが必要かはちゃんとご存知」 なのである。(栞A16-n) 二人の場合も、必要なものだけは、お願いしなくても必ず届けられてきたという。その二人にシルバー・バーチは言った。

 「あなた方は豊かな恩寵に浴していらっしゃいます。奉仕活動に手を染め、すべてを天命にまかせる覚悟をされて以来、お二人は一度たりとも見落されたり忘れられたり無視されたり、あるいはやりたいように放ったらかされたことはありません。」 そして、次のように付け加えた。「物的な必需品はかならず授かるものだということをお二人は体験によってご存知です。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにもなりません。身を包み保護するだけの衣類はかならず手に入ります。ぜいたくなほどにはならないでしょう。が、進化した霊はぜいたくへの願望は持ち合わせないものです。」(栞A16-n)

 奉仕の道一筋に生きるということは自分の霊性を高めることでもある。しかし、それは決して安易な道ではない。シルバー・バーチは別のところで、アメリカから来たある霊能者夫妻にこう言っている。「何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。」そして、「お二人が歩まれた道もラクではありませんでした。しかし、だからこそ良かったのです」と続けた。(栞A29-g)

 奉仕の道を歩みながらいろいろと試練に遭い、それでも「だからこそよかった」と考えるのは容易ではない。しかし、それが自分の魂を磨くということになるのであろう。シルバー・バーチは繰り返し、その苦難の意味を私たちに教えている。「苦難は進化を促し、魂を調整するための不可欠の要素なのです。魂がその自我に目覚めるのは苦難の中にあってこそです。人生のうわベだけを生きている人間には、魂が自己開発する機会がありません。地上的方策が尽き果て、八方塞がりの状態となったかに思える時こそ、魂が目覚めるものなのです。」(栞A16-n)





 99.「霊的法則は完全で絶対に片手落ちということがありません」 (01.23)

 思念には力がある。たとえば、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5-28)というイエスのことばも、そのことを示しているのであろう。もしかしたら、このイエスのことばが頭のなかにあったのかもしれない。ある時の交霊会で、メンバーの一人が、誰かを憎んで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかという質問をした。それに対してシルバー・バーチはつぎのように答えた。

 「もちろんそれは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそういうことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。」 ただ、ここで私たちが肝に銘じておかねばならないことは、そのあとのことばである。「しかしそれを精神的次元で捉らえた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみといった邪念は身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為にいたらせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。」(栞A42-h)

 それでは、家族を殺されるというような理不尽な被害を受けた者が加害者に対して恨みを抱き、報復を考えるようなことも許されないのであろうか。シルバー・バーチは復讐心と憎しみによって世の中を良くすることはできないと、こう教える。「心配なさるには及びません。神の摂理は完全です。一人ひとりが過不足のない賞罰を受けます。無限の叡智をもってこの全大宇宙を計画し不変の法則によって支配している神は、そこに生活している者のすべてのために摂理を用意しており、誰一人としてその働きから逃れることはできません。懲罰と報復とを混同してはいけません。」(栞A42-j)

 シルバー・バーチはこうも言った。「地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。」(栞A10-g) つまり、恨みを晴らすための報復も私たちのするべきことではない。神のみ業として片手落ちなく公正に行われるのである。聖書にも、「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。私自身が報復する』と書いてあるからである」ということばがある。(ローマ12-19)





 98. 「取り返しのつかない過ちというものはありません」 (01.16)

 一人一人の人間は、自分の行為に自分で責任を取らなければならない。それが自然の摂理なのである。「いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする---霊的法則がそうなっているのです」(栞A10-g) とシルバー・バーチは教えている。

 シルバー・バーチは続けて言う。「あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。」(栞A10-g)

 「過ちを犯すために地上へ来たようなもの」ということばには考えさせられるが、それは、もちろん、私たちが不完全な存在であるからである。私たちは霊的には常に不完全な状態であるからこそ完全を目指して歩み続ける。だから、「転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます」(栞A10-g) ということばには力づけられる思いがする。

 シルバー・バーチは、奉仕一筋に生きているある霊能者夫妻に対しても、つぎのようにこれを繰り返して言った。「これからも失敗はあるでしょう。何度もしくじることでしょう。だからこそ地上に生まれてきたのです。もしも学ぶことがなければ、この地上にはいらっしゃらないでしょう。地上は子供が勉強に来る学校なのです。完全な霊だったら物質に宿る必要はないでしょう。」(栞A29-h)





 97. 「真理を理解した人間は恐れるということがありません」 (01.09)

 親にとって愛するわが子を亡くすということほど辛く悲しいことはない。まして、二人の子供を亡くしたときの悲しみとなると、想像を絶するというほかはないであろう。ある時の交霊会で、シルバー・バーチは、その、二人の子供を亡くしたある夫妻に、つぎの様に話した。「魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです。」(栞A41-r)

 この夫妻は、二人の子を失うという極限の悲しみのなかから、霊的真理を掴み始め、それが自分たちの人生に衝撃的な影響を及ぼしていくことになる。それをシルバー・バーチは、「お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした。それはまさしく試金石でした。途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、其の自分を見出させてくれることになった触媒でした」と述べている。(栞A41-r)

 つまり、この夫妻は、二人のわが子を失うという極限の悲しみを触媒として、はじめて霊的真理に到達することができたのである。その極限の悲しみがなかったら、霊的覚醒が訪れることもなかった。それを、シルバー・バーチはこう教える。「何一つ煩わしいことがなく、空は明るく静かに晴れ上がり、すべてがスムーズにそして穏やかに運んでいるような生活の中では、真の自我は見出せません。すばらしい霊的覚醒が訪れるのは、嵐が吹きまくり、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雨が容赦なく叩きつけている時です。」(栞A29-g)

 極限の悲しみを乗り越えて霊的真理を掴み取った夫妻は、今度は、夫妻のもとに訪れてくる人々に霊的真理を伝えはじめた。その真理の種は見事な花を咲かせ始めている。それを見て、霊界の二人の子供たちは非常に喜んでいるという。人々に霊的真理を伝えていくことも決して楽ではないが、シルバー・バーチはこう言って夫妻を励ました。「真理を理解した人間は沈着、冷静、覚悟が身についております。恐れるということがありません。自分に生命を与えてくれた力、宇宙を支配している力、呼吸し活動するところのものに必需品を供給する力は絶対に裏切らないとの信念があるからです。」(栞A41-r)





 96. 「物質的には離れてしまいましたが霊的にはいつも一緒です」 (01.02)

 ある時の交霊会で、家族を失った2組の人たちが出席していた。そのうちの一組は、ジャーナリストとして有名だったロレンス・イースターブルック氏の奥さんと息子さんである。同氏が亡くなったあと、交霊会に息子さんといっしょに出席した奥さんに対して、シルバー・バーチは「今ここにご主人が来ておられますよ。あなたと息子さんのことをとても誇りに思っていらっしゃいます。試練の時を立派に乗り切られたからです。こうして蔭から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます」と述べている。(栞A41-s)

 これは、こころ温まる話である。奥さんと息子さんの前にいまは亡き夫であり父親であるイースターブルック氏が立っている。奥さんと息子さんに霊視能力があれば、そのイースターブルック氏の姿は見えたであろう。しかし、その姿が見えなかったとしても、シルバー・バーチのことばを信じて、氏の存在を認識したに違いない。だから、「こうして蔭から守り導くことができることをご主人が証明してみせたからには、これからもずっと見守っているものと確信してほしいと希望しておられます」とシルバー・バーチも言ったのである。

 招待されていたもう一組は、お子さんを二人亡くしたある夫婦である。イースターブルック氏が地上に残っている奥さんと息子さんを非常に誇りに思っているのと同様、霊界のこの二人のお子さんも、両親の人生に衝激的な影響を及ぼした霊的真理を自然に受け入れて行かれるのを霊界から見ていて、とてもよろこんでいる。(栞A41-r) 「お二人はその大きな真理を我が子の死という大きな悲しみを通して見出さねばなりませんでした」とシルバー・バーチが言っているように、二人のお子さんの死は、まさしく試金石で、「途方に暮れて、力になってくれるものが誰一人、何一つないかに思えた時に、その自分を見出させてくれることになった触媒」であった。

 「魂というものは、その奥底まで揺さぶられ、しかも物的なものでは一縷の望みさえつなげない状態下においてのみ目覚めるものであるというのが、基本的な霊的真理なのです。つまり物質界には頼れるものは何一つないとの悟りで芽生えた時に魂が甦り、顕現しはじめるのです」というシルバー・バーチのことばは、重い意味をもつ。(栞A41-r) そして、目覚めた魂は、愛する家族が、地上と霊界に別れて暮らすようになっても、決して離れることはないことを十分に理解するのである。そのことを教えるつぎのことばは温かく胸に響く。「物質的には離れてしまいましたが、霊的にはいつもいっしょです。霊的につながっている者はけっして別れることはありません。」(栞A41-s)